どうしても、あの感触が苦手なのです……と、阿求は後に回想したが、射命丸文の耳にはとてもそうは聞こえなかった。正直な感想だ。
どうしてもダメなんです……阿求は更にそう述懐したが、彼女が繰り返し口にした「ダメ」の二文字は、額面通りに受け取れない。
拒絶に見せかけた歓待。
苦悶に見せかけた喜悦。
快楽に包まれた、欣喜雀躍のその極致。
――人は本当にダメな時は「ダメ」と言う生き物である。
――「らめぇ」という日本語は、決して使わないものだ。
*
「そういえば阿求さんって、どうして鉛筆を使われないんですかー?」
他人の大切な仕事を邪魔しながら、その日射命丸文はぽつりと呟いた。
記事のネタを探す東奔西走の合間、文字通りの羽根休めを束の間求めて、「幻想郷きっての旧家」の縁側に降り立っていた日のことである。
問われた少女は自らのお仕事に鋭意精励している最中だった。刻限は昼の少し手前。涼やかな顔で筆をそれまで暢達に動かしていた少女が、文の放った単語に反応して、ぴたりと止まる。
「……逆に、どうして鉛筆でなければならないのですか」
「いえいえ。じゃなきゃならないって訳じゃないですが――でも筆ってほら、書き損じても消せないじゃありませんか? 今阿求さんがされてるのって下書きですよね? そういうのに墨と筆を使われてたら、結構不便じゃないかなーって」
想定外の剣呑な反応に若干面食らうも、商売道具の笑顔は崩さず、文は垢抜けた仕草で胸ポケットからもうひとつの商売道具――愛用の鉛筆を取り出した。
「ほら。便利ですよ?」
「……。そもそも、それは外界の代物じゃありませんか。さすが天狗様は面白い物をお持ちです」
「ところがどっこい。これ外界のものじゃなく、天狗が内製している鉛筆なんですよ。なかなか上手に出来ているでしょう? 天狗の中にもちゃんと技術者がいまして、ポディマハッタヤさんもびっくりのきちっとした鉛筆に仕上がっています」
「ポディ……?」
何はさておき。
幻想郷に鉛筆がもたらされたのは、そう昔のことではない。
凡そ外界から十把一絡げで流入してくるがらくたに混じったたった一本のHBにルーツを発した幻想郷の鉛筆は、研究熱心な河童の開発部門と組織立った山天狗の製造部門が手を繋いだことによって夜明けを迎えた。行きつ戻りつの試行錯誤で艱難辛苦の末に、今日の量産まで漕ぎ着けた喜びは計り知れない。
文が持っているのも、そうした汗の結晶の一本だ。いつしかトンボのマークは忘れられたものの、職人達の好意で天狗の記者にはそれぞれ無償で支給されている。尻の部分には字を消すためのゴムも括り付けられ、実用的で大変便利である一方、寸志に渡す記念品としても人間妖怪問わず喜んでもらえる一品だ。
「阿求さんもどうぞ。宜しかったら、一本差し上げますよ」
「え……」
暇つぶしに降りてきた人里にはお似合いの、毒にも薬にもならぬ話として振った筈だったのだが、阿求の瞳は泳いだ。仮にも文筆業の阿礼乙女が、興味を示すどころか、ただふるふると首を横に振るばかりである。
「……あいにく、私は鉛筆は使わぬことにしているのです」
「一度も使ったことがないのですか?」
逡巡したように少しの沈黙を挟み、小さく頷く。
「はい。私は生来、硯と筆しか使っておりません」
「はあ」
珍しい話だった。
鍬一本で身を立てる農家なら分かる。剣一本で西へ東への剣士であればいざ知らぬ。ただ平素文芸に勤しむ身空の彼女が、よもや鉛筆一本の普及を知らぬ道理はない。先の天狗の腐心により今は人郷にもそれなりに知られ、お求めやすいかどうかはともかく、馴染みは深い代物になった。奇天烈な舶来品として珍重されたのは過去の話である。
どことなく答えづらそうな阿求に多少訝しがりながらも、文は笑った。
「よーし。じゃせっかくですし、これを機に使ってみましょうか」
「……へ?」
「一本と言わず二本くらいは差し上げますから。えっと、新しい紙を一枚いただけますか?」
真新しい鉛筆をもう一本文机に置き、さらに文はポケットを探る。
相手の意向を介さないマイペースは職業病であり、マイペースを通り越した図々しさは職業病にかこつけた文個人の性格である。暇をつぶすとなったら、てきぱきと暇つぶしに勤しむ。さもなくば暇など潰れるものか。
日常の何気ない戯れから瓢箪を得て、そこからコラム記事という名の駒を生み出せることもある。図々しさも記者の資質のひとつだと、こと身内からの覚えは決して悪くなかった。
すなわち、取材対象に嫌がられるのも道理だ。
「……だ、ダメです! 鉛筆はなんて言うかその、私、苦手なんです……」
露骨に眉を顰めたところで文はびくともしない。些かの狼狽さえ見て取れる困り顔は、愛くるしさもともかくとして文に対すると逆効果である。
「ああなるほど、手が毛筆に馴染んでしまっているのですね。でも大丈夫です、私が持ち方や削り方をレクチャーして差し上げますから、ご安心ください」
「結構です! ほんと、ほんとに苦手なんです!」
「ふふふふ、筆に親しまれた方は、皆さん最初はそうおっしゃるんです。でも一度使われたら、これが便利で手放せなくなるんですよー」
「ほんとに大丈夫ですから! お、怒りますよ!?」
彼女が語気を強めるのを、初めて聞いた気がする。威勢とは裏腹に、その表情は何故か、これまた珍しいことに泣き出しそうだった。
そこまで苦手なのか。
赤らめた頬は固辞というよりも、哀願といった風情に近いもので、もはや不自然とさえ呼べる表情に文もようやく首を傾げる。
が、
(へんなの……)
簡単な準備を整え終えるまでの、刹那の訝しみに過ぎなかった。
「さ、阿求さん。持ってみてください」
「い、いやです……」
「さぁどうぞ。この六角に、こう指を添えまして」
――今思えば、この時点で止めておけば、何事も露見することなく平穏に納まっていたに違いない。
被害者の阿求にとって痛恨だったのは、射命丸文が暇を持て余していたこと。手に手を取られ、気づけば慣れ親しんだ筆の代わりに、深い緑色に鮮やかな鉛筆をその指に持たされていた。
むずかっても敵わぬ夢と知る。顔が露骨に慌て始めた。
「何を! やめてください、わ、私に何をさせたいんですか!」
「ふふふ、お習字ですよ。鉛筆の筆遣いに慣れ親しんでおかれたら、今後の執筆活動の大きな助けになることは間違いありません」
「ダメですっ! 結構ですっ!」
「そーんなに嫌がらなくても。常に一回り大きめのお世話を焼くのが記者の仕事でもあるんですからー」
……以前身内に話して、それはさすがにどうかと思う……と言われた曰く付きの言葉ではあるが。
「……わ、分かりました、何でも好きな文字を書けば良いんですね?」
「ん、まあ、はい」
阿求は強い視線を文に向けている。
「そしたら許していただけますね?」
「許す……?」
変なことを言う。
訝る文をよそに阿求は粗っぽく袖を払い、震える鉛筆で文字を紡いでいった。
「い、ろ、はに、ほへ、と」
「まぁ何て普通なんでしょう。もっとたおやかに、これが懸想文だと思って!」
「……こい、びと、へ」
「随分と直球投げますねえ」
不思議な五七調の半紙が出来上がり、文も思わず苦笑していたが――
事件はそんな折。
とうとう、乾いた音と共に阿求の元へと出来した。
……ぱきっ。
「……っ!」
「おっと」
一瞬の静寂。
凍りついた阿求の手許から運命の悪戯が転がり出す。時間の流れを緩めたかのように、ころころと、黒光りする塊が文机を散歩してゆく。
「あや。あやや」
文は機転がよく利く。鉛筆に馴染みのなかった阿求が、この事態に青ざめるのも無理はない。敢えてくすくす笑って見せる。
「阿求さん、御安心を」
「あわ、あわわ……」
人間の顔色は、ここまで蒼白になることが出来るのか。
「……いやま、びっくりしますよね最初は。これは単に芯が折れただけです」
「い……いやっ……」
転がっていた芯を拾い上げて掌に載せ、阿求に示してみせる。すぐに文机に捨て、相手の肩をぽんぽんと叩く。
文の表情から余裕が消える。
阿求の肩を遠慮なく強く揺さぶる。
「ちょ、ちょっと、阿求さん!」
「やだっ! ……いやだぁ!」
当初の楽観を裏切る形で、阿求は見事に言う事を聞かなかった。
人食い妖怪に差し出された、人身御供の表情さながらに怯えきっている。不意に肩に強い力が籠もって、文の手を強引に振り払う。
「阿求さん、ご安心ください」
宥め賺すように説明を加える。
「素人はよくやってしまうのです」
筆に比べて鉛筆の文字は細く、普段筆を使い慣れている人ほど、線を太くしようとしてつい筆先を強く押しつけてしまうこと。
「……そうだ、ちょうどいい機会ですから」
そしてこういう時のための道具が、ちゃんとあるのだということ。
「やってみませんか」
文は再びポケットをまさぐり――
長細い、箸置きほどの大きさの小物をひとつ取り出した。
「………………っ!!!!!!」
「じゃーん。はいこれがー、鉛筆削りという代物です! ここに鉛筆をつっこんで、回す。それだけで元通りになりますよ、さあ」
阿求が爆発する。
突き出されたその小道具に顔色を失い、身を捩って後ずさり勢い余って尻餅をつく。
「いや……っ、あ、あ、文さんがけ、削ってください! お願い!」
本格的な遁走であった。
激しく身を捩った表紙に文机の角と小さな膝がぶつかり、スカート越しとはいえど痛そうな音がした。不倶戴天の敵のように、鉛筆削りを睨む阿求の強烈な視線。文が混乱するほどの異常な剣幕。剣山に座らされた気分を味わう。
「……もう、一体どうしたんですか。阿求さん今日、変ですよ。これも経験ですからほーら」
「いやっ! やめ……!」
暴れ回る阿求を部屋の隅に追い込み、文はようやくその手を捕まえる。
どうあれ天狗の膂力には敵わない。右に鉛筆と、左に鉛筆削りを握らせる。
「いやあッ!」
「せーの」
極めて無邪気に。何の屈託もなく阿求の手を取り、文は鉛筆をぐりっと回した。阿求は顔を背ける。
削り機の刃に鉛筆が触れ合い、一枚の削りくずが生まれ出る。
阿求の喉が。
ほんの一声の鳴き声を、零した。
「んぁっ…………」
くずは一拍遅れて、畳にはらりと落ちた。
文の手が止まる。大人の静寂が生まれる。
「んっ……」
それは絞りだしたような、か細く抑えられた声。気づかなくても不思議ではない小さな声。
だが抑えられたが故に、射命丸文の持つ記者の耳をすり抜けることはなかった。
「おや? すみません。どこか傷みましたか阿求さん」
「……っ」
身体は小刻みに震えている。
また微塵も芯の現われていない鉛筆を、阿求の手ごと文は持ち上げた。肩越しに回りこませた腕で、奇妙に弛緩した白い手を、操り人形のように動かす。
「これねぇ、力もコツも要らないですよ。ただこの穴に鉛筆をつっこんで、そうです、こういうふうにぐりっと回――」
「はぁん……!」
「それを何回か繰り返します。そうすると外側の木が削れてゆきまして」
「んにゃあっ」
「……」
声をひとつ上げるたび、声は高くなり、抱いた身体からはますます力が抜けてゆく。
「阿求さん、大丈夫ですか? やっぱり、どこかお身体の具合でも悪いんですか?」
「…………はぁっ、はぁっ。い、いえ。別にそんな」
「お顔色も蒼い――と思ったら真っ赤ですね。熱でもあるんでしょうか」
「……」
「お瞳も潤んでおられますし」
「……!!」
阿求の身体が、跳躍。
「あた。あた、あいたただだ!」
阿求が無言のまま、唇をきゅっと結んで急にぽかぽか殴りかかってきたのだ。射命丸文はひとたまりもなくひっくり返り、阿求を腕に抱き留めて一緒になったまま畳を転がってゆく。
「あだだ! すみません阿求さん、お身体のことに気づかなかっただなんて! あだっ!」
息せき切らした阿求はそれでも無言でぽかぽかと続ける。不意に文の腕の中からするりと抜けると、そこで力尽き、へたり込むように畳に崩れ落ちた。
「はぁっ……はぁっ……」
息は熱っぽく乱れている。紅潮した頬をふるふると震わせ、涙に濡れそぼった睫毛を文に向ける。
暴れたせいでスカートの裾が腿まではだけていた。
文の視線に気づき、力なく指で直している。
「……苦手、なのですよ……」
うわごとのように、ぽつりと呟く。
「鉛筆削りの、感触がダメなんです……」
「ダメ、ってどういう意味ですか」
「どういう意味って……ですから……固い筆を穴につっこんでですね、ぐりぐりって回してるとですね、何か、その……おなかの中が、くすぐったくなって、熱くなって……それで、ふわーっとした気分になっちゃうっていうか」
「おっしゃっている意味がよく分かりません」
「ですから想像してしまうんです!」
「何をですか」
射殺すような視線が突き刺さる。
「ですから! その……え、鉛筆がですね! 鉛筆削りの中に入ってくる訳ですよ。きつい、穴の中に……そこで、こう無理矢理ぐりぐり動かされた時の鉛筆や、鉛筆削りが味わってる感触が、どんなのかなって思うと……私……私……!」
阿礼乙女は、あられもなくスカートを股間の辺りで抑えた。
文は無言で、時々頷いていた。それ以上の反応を求めるのは酷だ。
「なるほど……阿求さんの言ってることは分かりました。要するに」
「要さないでください」
押し黙る。
「絶対に、です」
「は、はい」
そう言われては、せっかく一言で要約できる適切な言葉も脳味噌から廃棄せざるを得まい。
両脚をきゅっとを固く閉じ、阿求は顔を背けて呟いた。
「……すみません。私はもう大丈夫ですから、文さんはどうぞお引き取りください」
そして、視線をまた畳の上に俯けるのだった。
たおやかに流れた髪が、ぞくりとするほど魅力的に映る。蚊の鳴くような声が蚊よりも甘く聞こえる。
服を払い、言われるがままに文は立ちあがって見せる。
「失礼を致しました。望まぬ目に遭わせてしまったようで」
未だ息を弾ませる、目の前の少女。
冬の短い太陽が慌ただしく空を翔る中、七輪の暖気も届かぬかのように少女はふるふると震えている。怯えさせた少女に文は静かに歩み寄り、細い肩に罪滅ぼしの手を置くと、阿求の掌から鉛筆と鉛筆削りを取り上げた。
阿求の顎に指を添え、伏した瞳をそっと持ち上げる。惚けたその表情は、長く見つめ合うには危険な魅力がある。
濡れそぼった瞳にしっかり分かるよう、菩薩の笑みを満面に浮かべて、阿求は誓いを立てた。
「――阿求さん、私のことはどうぞお気遣いなく。お教えする者の責任として、ここは勤めを果たさなければなりません。阿求さんに鉛筆削りを完全に習得していただき、それから私は帰ることにします」
「……は?」
紅い頬がひくつく。
「時間はこの際、いくらかかっても構いません! 元より記者の始業終業など、あってないようなものですし」
「いや……文さん。あのですね」
戻る絶望。蘇った恐怖。
「大丈夫です! 今日はいつまででも付きあいます!」
屈託のない笑顔が、儚い希望を一秒で袖にした。
「や……絶対にやめ……!」
文はもちろん誠実である。況んやこれは嗜虐ではなく、文が、文なりの使命感を感じた結果の行動なのだ。
記者はすべからく冷静に、公平な事実のみを的確に抽出する真実の番人であるべきだ。取材対象者に無用の苦しみを与えたのは遺憾である。新聞身悶えして感覚の奔流に呑み込まれていた阿求の痛々しい姿を思い返すと我もまた身悶えに襲われる。罪悪感は海よりも深い。
このまま帰ってはいけない――文の生まれ持った、清らかで誠実な心が叫ぶのだ。
「償いが必要なのです。かくなる上は優しく丁寧にお教えし、そして阿求さんに……最後まで徹底的に鉛筆削りをマスターしてほしい」
「結構です遠慮します大きなお世話です!! 今すぐ帰ってください!」
「ふふふふふふ。遠慮なさらず」
後ずさりする阿求に追い縋って歩み寄り、その手に鉛筆を握らせる文。
「やめなさい! やめ……ひ、ひゃぅううん……」
取っ手を一回し、射命丸文はひとつ頷いた。
「これは、特訓しがいがありそうです」
「ふ、ふぁあん……」
「そうですねえ。お力の籠め方がまだちょっと慣れておられません。お力を入れすぎても、入れなさすぎても上手くいきません。穴の中に鉛筆が当たるべき場所がありますので、感覚としてはこう、穴の壁に擦りつけてですね」
「にゃあぁ……ふぁあ、当たってるのぉ……」
文字通り手取り足取り。
「そう。内の襞に、こすりつけるように。そう……それからゆっくりと動かして」
「やぁっ……う、動いちゃ……ら、らめぇ……」
「ほらほら、鉛筆削りは敏感ですからねー。痛くないように、痛くないように」
「んふぁっ、にゃっ、あ、あ、らめぇ……鉛筆、お、おおきいのぉ……ん、あふうっ……」
必死の抗いは自らの情動に掠奪され、快楽の波濤に主役の座を禅譲する。抵抗が失脚すれば後は独裁者の為すがままだ。
独裁者が取っ手を回し、無辜の少女の口許からは一筋の涎が零れている。彼女にのみ分かる彼女の快感に制圧され、解放されたのは少女の喘ぎ声だけだ。阿礼乙女だから人よりも敏感――という理屈が成り立つのかどうかはさておき、乱れ始めた呂律をお供に阿求は陶酔の世界へ旅をする。
青息吐息。
更に心音も高く、輪郭のふやけた口調でそれでも意識を保つのは、怜悧な阿礼乙女の最後の牙城――なのだろうか。
「はぁっ、あにゃあああ……にゃああん……あ、あや……さん……結構れす、結構れしゅよぅ……」
「おお、結構なご気分ですか。まあその顔を見たら分かります、実に何より」
振り絞った理性の雫、未だ形ある言葉に結びつかない。
「そ、そうじゃなく……ふあぁぁぁああ、んあっ、あんっ、にゃああ…………」
文は聞かないふりを続けていた。己が使命感だけで彼女は彼女なりに奮闘する。意に介さず削りくずを払って、鉛筆の状態を確かめる。
もう少し。
ついでに阿求の状態も確かめる。
こちらも、もう少し。
「も、もう……やめ……てぇ……」
「ふふふ。そうおっしゃいましても、身体は正直ですよ……うん。だいぶ芯が出てきましたし」
「う、うう……固い、固いのぉ……」
「きちんと尖るまで削ると今までで一番、気持ちよくなるんですから」
「え……い、いちばんは、ダ……ダメえぇ……っ」
どっかで鹿威しが鳴いている。
「うふふふふふ、阿求さんは本っ当に可愛いですねえ。でも大丈夫、鉛筆を削って気持ちよくなるのは、何も阿求さんだけじゃありません。私もそうですよ」
「……え……?」
一応嘘ではない。
取材が煮詰まった時、記事の書き方に悩んだ時など、文もしばしば鉛筆を削る。
禿びていた鉛筆をすらっと尖らせると、気持ちそのものが研ぎ澄まされる。
鋭敏さを取り戻した爽快な書き味がまた、清々しい執筆意欲を連れてきてくれる。毛筆を洗うよりも区切りになり、硯に墨を注ぐよりも目に見えて効果が現われる。鉛筆ならではの気分転換は、数多の文人墨客を執筆中の鬱屈から救い出す頓服でもあったのだ。
「という訳なんですから」
「聞いてないのぉ……誰も聞いてないのぉ……」
それどころではない、か。
「うーん。鉛筆削りの気持ちよさ、もっともっと味わってもらいのは山々なんですが」
「んあふぅ……もっ、もういいのれす……」
「これは小さい携帯用なんですよ。だから、そうきちんと尖らせることが出来ないのです。もっと別の鉛筆削り機があれば尚良いのですが……」
文は呻吟した。
目の前の少女に是が非でも、鉛筆削りの本当の気持ちよさを知ってもらいたい思いがある。阿求は既に気持ち良いようだが文の塒に持っている一品と箸置き大の携行品を比べれば、やはり見劣りは避けられない。
阿求は肩で息をしている。
本格的な鉛筆削りが無いものか。
さりげなく逃げようとした対象の袖をつまみながら、文があくまでマイペースに他人の部屋を探していると――不意に襖がとんとんと、上品な感じで叩かれた。
「はい?」
「あらあら、騒がしいと思ったらやはり、お客様がおいででしたか」
音と同じく、上品な感じの年増が覗いた。
聞くまでもなく家人であろう。
「あ……お鶴さん、お助けをむぐぅぅっ――」
「どうもお邪魔してますー」
袖をつまんでいた手を少し顔の方にずらしつつ、安売りし慣れた営業用の笑顔を顔に貼り付ける。
「阿求さんにはいつもいつも、今日もお世話になっております」
「とんでもない、こちらこそお世話になっております」
阿求が目で必死に訴えているが、遅かりし。楚々とした仕草の細い手に、女中さんはお持て成しのお盆を持って来ていた。
「さぁどうぞ。粗茶ですが、よろしければ手回し式の鉛筆削り機とご一緒にどうぞ」
「手回し式!!」
美味しそうな焙じ茶が、無視に対する抗議の声を上げる暇もない。
お茶請けに出された小皿の方に、射命丸文は目を輝かせた。感謝感激、もっけの幸い。
その一台こそは――正真正銘の鉛筆削りに他ならなかった。箸置きとは明らかに格が違う、ちょっとしたお弁当箱ほどの大きさがあり、そして取っ手が一本突き出している。
まず、壁面に空いている穴に鉛筆をつっこむ、その点では今までの鉛筆削りと同様である。ただ、その反対側に取っ手がついている点でこの器械は大きく異なっていた。
鉛筆そのものを回さず、この取っ手をぐりぐり回すことで、鉛筆が削れてゆくのだ。
はからずも探していた一品が焙じ茶と共に出てくるという風雲急を告げた事態、よもやの名品との遭遇に文は感激する。大層貴重な品の筈だが、こんなものがお茶請けに出てくるとはさすが人郷きっての名家は違う。
一般家庭であれば、客人のお茶請けにこんな高価な物は出せないだろう。
「阿求さん、お待たせ致しました。お手を拝借」
「……お鶴さん首にする……今度何か盛って、それから首にする……」
「ふふふふふ。ここからが本番ですね」
阿求に鉛筆を握らせる。
思ったほどの抵抗は受けなかった。当人は疲れ果てており、ただ嫌々と首を横に振ることしかできていない。
「阿求様は、こうやって持っていらっしゃるだけでいいです」
「や……は、はい……?」
朦朧と霞んでいるその思考能力で、阿求は言われるがままに鉛筆を握りしめてしまった。
千載一遇の好機を逃さない。
――廻轉。
「ひ…………ひぃっ!」
華奢な身体が、大きく跳ねた。
文が身体をぶつけるように組み伏せ、その肢体を抑え込む。
削り機の駆動部が、文の手回しによって回る。しっかりと鉛筆に密着した刃は芯の在所を探求し、徐にその身をこすりつけて然るべき行為に耽溺する。
「ん……んっはあ、んはあぁぁんん…………」
その直接的な感触は鉛筆、並びに握り締めた指を伝い、一番敏感な少女の身体に甘い電流を叩き込んだ。
「い……いやぁああああっ……や、ちょっ、何――んにゃあぁぁあああ…………」
身体がごろごろと蠢く。噤んだ唇を破った甘い嬌声が、文をますます意気込ませた。。
ようやく落ち着き始めていた身体に本格的な快感が襲い掛かった阿求、声を堪えよ身体鎮めよと言えば余りにも酷だ。か弱き人間の少女は、自らの一番弱い刺激によって弄ばれる。
「ん! かはぁ……くはあああぁ……ふ、ふにゃああああ……」
為す術もなく為されるがまま。
阿求はさながら猫のような声を零す。
その手が決して離れぬよう、上から握る掌に文は力を籠めた。阿求はごろごろと部屋を暴れる。その身に押し寄せる莫大な快感が、激しくその身を捩らせる。
身体ごとぶつけて抑えた。
油断ならない。文は廻す手を加速させる。
「阿求さん、きゃはっ、頑張って」
「や、あやあっ…………んひゃあ、う……動いちゃ、らめえ、らめぇ――らめなのおおぉぉ――」
「ふふふふ。お気持ちはいかがですか阿求さん。あだっ! 禿びたり折れたりした鉛筆を削ると、気分が澄みわたってくる感じがするでしょう? ふふふ。いただだ!」
阿礼乙女がこんなに武闘派だったとは初耳である。
痛い。
その喘ぎ声は次第に高く、そして甘く切なく立ち上り、くねらす身体に秘められた力は神秘的なほどに底知れず、いつまでも阿求は快楽に溺れ続けて文は振り回される。身体は壁と言わず文机と言わず、あちこちぶつかる挟まれる。結構に痛い。
振り回す腕に殴られ、跳ね回る足に蹴られても、それでも文は決して挫けない。
自分の頑張りなどささやかなものだ。
目の前の阿求は、もっと頑張っているのだから。
「君がっ、鳴くまでっ、廻すのを、止めないっ!」
「はあぁぁぁ……にゃんっ、にゃああああ…………きもち、きもちいいのお……」
その喉が、ごろごろと鳴っている。頑張っている。
神様は時に、残酷なことをする。
少女の意識はもう間もなく――ただ真っ白に、染め上げられようとしていた。
なのに神様と来たら、教えに邁進する射命丸文に、教えられに悶絶する阿求に、更なる試練を与えたりもする。
……がきっ。
「ありゃ」
「んひゃああああううぅぅーー!?」
阿求が弓なりに背を反らした。反則級の強烈な刺激には矢も楯もたまらず貫かれ、阿求は一際高く悶絶した。取っ手を回す文の手が、つんのめったように止まる。
喘ぎ声は最早抑える気もないらしい、が。
「……失礼、噛みました」
文がそっと、鉛筆を引き抜く。
「あ……ああ……あ……あ?」
「いやだって、阿求さんがあまり暴れ回るから……」
折れていた。
もう間もなく尖る……そう思われた間際の鉛筆の芯だったが、引き抜いたその切っ先は、悲しくも見事にぱっきり折れていた。すらりと滑らかに削られた木目から馨しい木の香りが漂うのに、肝心の芯は元の木阿弥。希望の切っ先が、木片の先端に見当たらない。
阿求が跳ね回りすぎたため、鉛筆削り自身も聞いてない場所に鉛筆が当たってしまったらしい。
想定外としか言い様がなかった。
「あやややややや……詰まっちゃいましたねこりゃ。取っ手が回らなくなっちゃいました」
「あ……こ、壊れちゃっ、たん、です、かぁ……」
とろりと開いたその唇から、阿求が甘ったるい声を零す。
「ええ……」
振り向いた瞬間に目が合う。文の表情も引きつる。
その愛らしさ。
その色香。
文の嬲りいたぶりから救われたことを安堵するか……そう思いきや、阿求が見せた反応は逆。無上の絶望である。
指を銜え、今までと打って変わって物欲しげな視線を文に向けている。潤んだ目が、上目遣いに文を眺めている。今なら罪を犯しても許されるのだろう。一線を越えても良いのだろう。
赤面して慌てて目を逸らす。
見つめ合いすぎたら最後、この心とカラダは野獣になってしまいそうだ。
手回し式の鉛筆削りが壊れてしまったのだ。
この阿求を、最後まで喜ばせてあげるには一体、どうしたら……
「どうもこんにちはー東風谷ですー。阿求さーん、回覧板と電動鉛筆削り持ってきましたので置いておきますねー」
「でででで電動鉛筆削りー!!??」
文は跳ねるように立ちあがり、襖を開けて一目散に現場へと駆け寄った。その表情には喜色が漲っている。声の震源地は玄関である。
家人を押し退け、土間で目を丸くした早苗からそれをひったくり、説明を求められる前に両手で突き飛ばして扉を閉める。鍵を掛ける。
初めて目の当たりにする赤い一台――矯めつ眇めつ眺めると、文の胸の内はただ歓喜に沸き返った。最早高鳴りを憚ることが出来ないそれは、正しく幻の一品。
「阿求さん! お待たせしました」
「ふぁ……」
電動。
裾野の広い鉛筆削り界――その力強さや利便性を鑑みる時、『電動鉛筆削り』をおいて右に出ることの出来る者は決していまい。携帯型であれば鉛筆そのものを回す動作、手回し式で言えば取っ手を回す動作を、電動鉛筆削りは電気という魔力制御によって全自動でやってくれてしまう。邪智暴虐の王も平伏す傑作だ。
使用者の力に左右されない、また生半可なものではない――問答無用にすべてを攫ってゆくような力強い膂力が最大の売りである。掛け値なしの優れ物は河童の書籍、天狗同士の噂話に聞くのみで、実物を手にするのは文もこれが初めてだった。
それはそれはもう際立って貴重な品の筈だが、こんなものが回覧板と一緒に回ってくるとは、さすが彼女の家は大神社だけのことはある。
「さぁ阿求さん。みたびお手を拝借」
「……い、いや……東風谷こんど刺す……ぜったい憑き刺す……」
「もう。ここまで来て何怖がってるんですか、阿求さん」
「い……いや……もういや……」
ふるふると、首を横に振る阿求。
文はにやりと笑い、口笛を鳴らした。
「ははあ、嫌ですか。左様ですかそれではここで、中止としますか」
「あ……ぅ……」
冷厳と宣告する。
阿求の後ずさりがぴたりと止まり、その表情が忽ち落胆に満ち溢れた。
もじもじと身を捩らせながら、物欲しげな顔にはしかし自分ではっと気づいて、潤んだ瞳を慌てて俯ける。
「ぁぅ……あ、あやさん……」
「ふふふふふ、意地悪をすみません! 大丈夫ですよ阿求さん、鉛筆削りマスターはまだ遠き道。さぁ芯がまた折れて、もう一回最初っからになってしまいました。ここから頑張りましょう」
「い、いや……」
「なにを今更カマトトぶ! ……っととと。さぁ阿求さん、ここまで来たからにはもう少しですから、さあ」
「……らめぇ……」
文はもう、聞く耳を持たない。阿求と見つめ合って最後の腹を決めた。据え膳喰うなと言われてもこちらは腹ペコだ。野獣になりたい。
人は本当にダメな時は、「ダメ」と言う生き物であって。
らめぇ、という日本語は、決して使わないものだ。
「さっ、ちゃんと自分で言えますか。阿求さん」
文が拾い上げた阿求の力ない右手に、抵抗の膂力が籠められることはなかった。
力が入らないのではなく、力を入れていない。以心伝心の言葉が、阿求の胸から射命丸文の胸に直接流れ込んでくる。
暗示的な行動は、つまりそれが証。手回し式の一幕による激しい消耗以上に、大きな欲望が彼女を突き動かしている証左だった。
「……ください」
「ん? 聞こえません」
古今東西、女の子は身体に嘘なんてつけない。
望みだしたら、もう止まらない。
「わ……わたしに……その鉛筆……ぐりぐりって、……させ、てぇ……」
掠れた声が、あまりにも健気で美しかった。
彼女は精一杯、鉛筆削りをマスターしようと頑張っている。
ならば熱血教師たる者、それに応えてやらねばなるまい。少女だというのに紅葉のように可愛らしいその手に鉛筆を握らせ、文はそのままゆっくり、鉛筆を穴につっこんでいった。
阿求が固く目を瞑る。
来たる快感に、悦楽の瞬間に、緊張と歓喜でその身を固くする。
「んお?」
さて……
射命丸文も知らなかったことだが、この電動鉛筆削りにはセンサーがついており、鉛筆を自動的に感知する機構がついている。
スイッチを探していた文すらも予想していないタイミング。
……ヴィイ~ンと威勢の良い機械音を発し、電動鉛筆削りはその本領を極めて唐突に発揮した。
「んぁっ……んんんぁぁんんんんああぁぁああういいいいいい…………!!??」
芸術が爆発した。
打ち震えるような歓呼が谺した。
動き出した運命は止まらない。ひとたびの脈動で、電動鉛筆削りは最早火のついた花火と同じである。
女の子の身体と同様だ。
電動鉛筆削りはその身に託された使命を完遂するまで、女の子は花火を上げるまで互いに競い合って燃え盛る。
鮮烈で健全な全自動の震動を止めることなく、生真面目な電動鉛筆削りが一瞬でトップスピードを手にする。やや遅れて阿礼乙女もトップスピード。
「ふぁあ……ひゃふう! にゃああぁああああ……やあっ、ああ、はげし、ああぁ……らめ、んああぁ、らめ、んにゃあああぁぁ…………ん」
入ってきた鉛筆の芯が折れていると見るや電動は張り切った。躊躇いのないバイブレーションをお供に削り機が唸る。遊ばれる少女の唇は締まりを失い、汗が散り涎は光る糸を引き、緩みきった頬が快楽の海を歌い上げる。
「にゃ、にゃああああああああ…………!」
阿礼乙女の神経が、焼き切れんばかりの莫大な電流を脳髄に叩き込む。あまりの快楽に頭頂部からネコミミを生じ、ひくひくと器用にそれを動かす。
「くっ、阿求さん、もうちょっとです。がんばって!」
「ふひゃああああああ……ひぃっ、んにゃあああ……らら、らめぇえええ…………おかしく、おかしくなっちゃうのおおおお……くしゅぐったいのぉおおお…………」
その身体を抑えている新聞記者も、油断すれば弾き飛ばされそうになる。
「らめぇええっ、えんぴつ、なかにいい……ごり、ごりいいって当たってるのぉ…………ごりごりって、ぐりぐりってぇえええ、あなのなかにぃいい……」
涙を流して阿求は叫ぶ。
「ふにゃぁああぁぁああーー……きもちいいぃのぉ…………」
幸せなのだろう。
それに付き合わされている電動鉛筆削りは、といえば。
外界の痴態など知る訳もなくあくまで役務に忠実に、硬骨の働きを間もなく全うせんとしていた。根が真面目な機械なのだ。モーターが一回りするたびに阿求は嬌声を上げ、その身が跳ねるたびに当たるところが変わる。一秒ずつ違う快楽。深く結びついていった鉛筆削りと稗田阿求。
「にゃああ……、奥まで、あたってるのおぉおお…………」
その本当の終わりが近いことを、文は感じていた。
甲高い声音に寄り添って、電動鉛筆削りのモーター音が高くなってゆく。つっこんだ先が削られ、その先端がしっかり尖ってきた証拠だ。
「あっ、んぁああああ…… んんんんん……にゃああああ」
悲痛なほどの悶絶は、恐らくもう長くはもつまい。ネコミミもぴんと立ったり、くしゃりと寝たりで忙しい。
固唾を呑むのは、戴冠の行く末。
――どちらが先に、一番高い声音まで達するか、だ。
「阿求さん頑張って! もうちょっとです! 」
文も最早汗だくである。快楽のままに暴れ回る身体は、うら若い少女とは思えない迫力があった。
文机やら壁やら障子やら、あちこちぶつかって文も身体中が痛い。取材も命がけなのだ。最早射命丸文ではない。射命丸痣だ。
「んはああ……ふぁ、もう、らめぇにゃあああんん…………」
「くっ、阿求さん、最後に一個、お聞きして、いいですかっっ!!」
「ひゃううっ、また、あたってるううう……」
「そんなに気持ちいいのですかー!!」
「ひゃああああん。きも、きもちいいの、れしゅうううあああああ……」
「良かったです! 喜んでいただいて! あだッ! いだだ!」
「んふぁああああ……悔しいっ、でも、幹事長……にゃあん」
発する言葉が脈絡を失っている。理性では最早意味が分からないが、間違いなく感情でも分かるまい。
概ね真面目で沈着冷静な少女だ。それが、これほどまで乱れる風情の名状しがたい魅力は百間の巻物に綴りしたためても尚足ることを知るまい。
見つめ続けた文の背筋に、ぞくりとした昂奮が駆け抜けた。
「ふぁ――ふぁあぁぁあああああぁぁ…………」
「…………よし」
果たしてどちらが、より高いところまで上り詰めたのか。
文が鉛筆を、そっと引き抜く。
「ご覧下さい阿求さん。貴方が折ってしまった鉛筆、ご覧の通りあっという間に元通りに――あれ?」
瞳の前まで鉛筆をかざして見せても、対象の少女からは何の反応もない。
稗田阿求は、飛んでいってしまったのだ。弾む息のまま、ネコミミを寝かせて、一撃で、夢の世界へと。
「……気絶してしまわれましたか。ちょっと、無理をさせすぎてしまいましたかね」
文は薄く笑い、立ちあがる。
勝敗の行方は、正直なところ分からなかった。
座椅子に置かれていた阿求の膝掛けを見つけ、横たわる身体に柔らかく載せた心憎き優しさ。決して誰かが見ていた訳でもない。
そして胸ポケットから手帖を取り出すと、新聞記者は削り立ての鉛筆を阿求の手から拾い上げ、新しいページにメモを書き込んでいった。
阿求が削り上げたその鉛筆は、じっとりと彼女の汗に湿っていた。
「――今しばらく、ごゆっくりお休み下さい。たいそうお疲れになったでしょう」
感謝を込めて、長い長いメモを書き込んでいく。
間もなく手帖を閉じた文は、そっと部屋を出た。
唇に薄い笑みを浮かべて、午睡の少女を起こさぬよう足音を殺し切る。
未だ荒い吐息が静寂の中に満ちている。
さよならも言わずに文は、青い昼下がりの空へと飛立っていった。
*
*
薄く瞳を開けると、漆黒に支配された天井が目に入った。
寝覚めの割に瞼の重みを感じない。枕の上で首を動かし左右をうかがうが、どろっとした一面の暗闇が目に入るばかりで、光など一条も存在していなかった。
冷え切った行灯。その向こうに墨染めの障子戸がある。薄い障子紙から透けて見える空の色には未だ青みの欠片もなく、ただ黒一色であった。
月も見えぬ深更。
その中で目だけが、奇妙に冴えている。
稗田阿求は苛立ちに負けて、ゆっくりと、重い身体を起こした。
今夜だけで何度目の覚醒か分からない。疲れ果てていた身体で、床についたのも早かった筈なのに、一騒動が終わった後に微睡んでいたことが逆に祟ったか、夜半に一度目が覚めた後はどうしても寝つけなかった。
軋むように全身が痛い。
「悔しい……」
阿求は今宵何度目かの、歯軋りを零した。
天地神明にかけて誓い立てておくが、鉛筆削りに対して「えっち」な想像を抱いているのではないのだ。それだけは譲れなかった。先祖累代に発し子々孫々へ連なる阿礼乙女の脈々たる名誉にかけて、偽りのない心を明らかにしておきたい。
ただ、棒状のものを穴のなかにつっこみ、その内部で内襞を擦りながら回転するという様子――鉛筆削りを使うとき、目に見えない内部のそんな様子をどうしても想像してしまい――すると何故か身体の中が熱くなってくる。
くすぐったい。それはまるで、自分自身が鉛筆に、いいように嬲られているような――。
繰り返すがえっちな想像ではない。絶対にない。少なくとも阿求自身はそう信じている。
この衝動を抑えきれないと悟って以来、阿求は鉛筆を使わなくなった。あまりにも莫大な刺激に、不本意なる喘ぎを抑えることができず、故に忌々しい誤解を他者に与えてしまう。謂れのない中傷を受け、取り残された部屋で一人しとどに枕を濡らしたこともあった。
「えっちじゃないのに……」
行灯に火を入れると、房内が茫洋とした灯りに包まれる。本でも読みながら朝を待とうと思ったが、すぐ足許にあった新聞紙にどうしても目が行って、胃の腑からまたしても苛立ちがこみ上げる。
顔を顰めた。
『稗田の阿求は変熊姉貴』
「悔しいっ……でも、漢字違(かんじちゃ)う……」
記者の学力に依るところであろう。
憤慨してみたところで当の新聞記者は気づいた時、既に影も形もなく、そして光の速さで刷り上がった夕刊紙が間もなく阿求に直接届けられた。天狗謹製の便利道具「赤ペン」で、それがどこに掲載されているか御丁寧に○印まで施してあったから見落とす筈もない。
冷静で居ろという方が無理な話だ。
憤懣やるかたない気持ちに整理もつかぬまま、阿求は疼く身体に鞭打って家を飛び出すしかなかった。まず真っ先に庭の郵便受けから回収し、あろうことか邸内でこっそり個人購読していた大年増の部屋に押し入り、向こう三軒両隣を襲撃し、今まさに読もうとしていた紅白の巫女を吹き矢で仕留めもした。
それでも、人の口に戸は立てられぬ。
七十五日は表も歩けぬと思えば、気が塞ぐばかりだった。
「……」
置き土産のように部屋に残されていた、手回し式の鉛筆削りを阿求は眺める。記者の最後の情けか詰まっていた芯は取り除かれて、今や取っ手は軽やかに回るようになっていた。
そっと持ち上げる。指から伝うように、昂奮の残り香が細糸となって身体を抜けていった。
「悔しい……でも……」
何度も克服に挑んだ。それでも無理だったのだ。ささやかなはずの忍耐が、どうしても習得出来なかった。
阿求は鉛筆を擱いた。そして選ぶべくして、毛筆に親しむ道に進んでいったのだ。
「感じ…………」
文机の筆立てで埃を被っていた古い鉛筆を、阿求自らの意志で久々に手に取る。
つり込まれるように、鉛筆削りの穴へと近づけていった。
ばか。
ダメよ。
こんなこと。
今夜寝付けないのは、ずっと封印していた鉛筆削りの感覚に、脳があまりにも敏感に反応しすぎてしまったこともある。
慣れない刺激に冴え返った意識。すべてが終わったこの夜も、脳が、身体が、まだひりひりと疼いて解放されていなかった。
「んっ……」
……つっこんだ瞬間、足の付け根あたりをくすぐられたような感触が走って、そのまま辛抱ならず、くたりと阿求は畳の上に崩れ落ちた。
「あはっ……んふうっ」
ばか。
やめて。
何しているの。
「んふっ……ふうっ、にゃあああああああ……」
自分を必死で諫めるが、一度火の点いてしまった衝動にはもう自制が効かないし、生えてしまったネコミミが収まる訳でもない。恥じ入る記事を書き立てられて尚、身体に嘘をつけない自分が腹立たしく、もどかしく、その夜はとてもとても長く感じた。
かりかりと、鉛筆が削られてゆく。別のものが社会的に削られてゆく。
左手で鉛筆をしっかり抑えて、右手で取っ手を回し続ける。
一つ、大きな深呼吸をする。
「んっ、にゃああああんん………………ふぁ……」
あっという間に削り終えてしまい、阿求は鉛筆を引き抜く。
しっかりと尖った書き味の良さそうな芯に目を細めてから、削り機の屑受けをそっと引き出した。
「ふふっ……いっぱい出たね……」
高い空から鴉が教えた痴情の星。
誰に見守られることもなく。
Fin.
文章に80点、斬新な内容に30点、阿求が喘ぎ過ぎてちょっとくどかったので-20点で。
最強のあっきゅんかもしれぬw
本当にありがとうございました
ナイフを使えばいいのでは?
終わりよければ全てよし、を証明する文の去り方に爽やかさが胸を駆け抜ける。
電動が最良ではアンタァ…と納得のいかない寂しさが残るところを、
最後の最後に迸る生命力と乙女の他者を思いやる心を感じさせるセンスに
スタンディングオベーションを送っていた。
ブラボー……
おお…… ブラボー
ふぅ……、か、勘違いしないでよね!
こ、これは阿求ちゃんが鉛筆削りを命があるかのように大事にあつかってる、って意味なんだから。
スケベェ…じゃないんだからね!
早苗さん△
夜と……えっ?
「幹事長」と「漢字違う」が不意打ちのクリーンヒットでした。
電動鉛筆削りでガリガリブルブルやるのは、ありゃあ確かに愉しいw
でも私は昔ながらの肥後守派
あとあっきゅんかわいいよあっきゅん
とりあえず懐かしすぎてやばいwww
無垢な鉛筆達が何本も何本もその身を削り、
木屑のように捨てられていくんです……。
と感じ、貴方の過去作を拾い拾い読み返し噴飯した。
堕落を知った。
その歓喜を知った。
あれ、と言うかヒョっとしてこのひと……けっこう昔から?
ふう、どうやら私の杞憂だったようだ。
あと、貴方はもっと恥ずかしがって下さい。羞恥プレイお好きでしょ?
ある意味では天才と言えるのではないだろうか。