地下にある私の部屋で本を読んでいると、ノックの音が聞こえてきた。
丁寧な人の叩き方だ。けど、お姉様のノックの音とは違う。これまで何万回と聞いてきたから、お姉様のノックだけは聞き分けられる自信がある。
誰だろうか。
そう思いながら、本に栞を挟んで立ち上がる。
「こんにちは、フラン」
扉を開けるとその向こう側には、アリスが立っていた。後ろには上海と蓬莱が飛んでいて、紅色の傘を二人がかりで持っている。一人で持つには大きすぎたんだろう。
パチュリーの図書館で時々話をするアリスだけど、私の部屋に来るなんて珍しい。というか、初めてだ。何の用だろうか。
後ろにお姉様か、もしくは私の日傘がある所からして良い予感はしない。
「なんの、用?」
警戒しながら聞く。意識せず、足が半歩引いてしまっている。けど、窓も何もないこの部屋は、正面の扉しか逃げ道がない。
いざというときは、アリスをどうにかしないといけないけど、傷つけてしまう可能性のあるようなことはしたくない。いざというときが来ないことを祈るばかりだ。
「そんなに警戒しなくても大丈夫よ。ただ、フランに散歩のお誘いをね。今日は曇りだから、貴女にとっては散歩日和なんじゃないかしら?」
「やだ」
アリスの誘いを一切考えることなく断る。
だって、外になんて出たくない。何があるかわからないし、何が起こるかわからない。それに、私自身が拒絶されることもあるかもしれない。そんな怖く恐ろしい場所になんて行けるわけがない。
断るのは悪いけど、無理してまで行くようなものでもないと思う。後は、謝ってアリスには帰ってもらって、本の続きを読もう。
「予想通りの言葉ね。けど、私がその程度で引くと思ってるのかしら?」
けど、私が再び口を開く暇はなかった。
怪しげに笑うアリスの周辺に、何体もの人形が現れる。上海や蓬莱とは違って特徴のない人形たち。けど、変わりなくアリスの命令に忠実な人形たち。それらが私の視界を覆うように迫ってくる。
私は思わず、後ずさるように部屋の中に逃げてしまう。人形たちが迫ってくる様子に押されてしまったのだ。
部屋の奥に逃げたところで逃げ場はない。わかっていても、そのまま逃げずにはいられない。捕まればそのまま外まで連れ出されてしまうような気がするから。
「あはは、逃げられると思ってるのかしら? さあ、行きなさい! 人形たち!」
妙にテンションの高いアリスの声が聞こえてくる。けど、そんなものに構っている暇はない。私の方に向かってきているアリスの人形たちをどうにかしないといけない。
手段を問わないなら、逃げるのは簡単だ。目の前の人形たちを壊すか、無理矢理払い飛ばしてしまえばいい。だけど、たとえ人形とはいえ壊したり傷つけたりはしたくなかった。力の制御が出来るようになったとき、絶対に誰も何も傷つけないと決めたのだ。
だから、手も足も出せない。
そうするうちに、背後に壁が迫ってくる。振り返らずとも、自分の部屋だからなんとなくはわかる。
人形たちはすぐにでも私を捕まえられるはずなのにそうはしない。いたぶるように、じわじわと迫ってくる。
「止まって……って言って止まるはずがないよね」
あくまで人形たちはアリスに操られているのだ。たとえ、自ら考えて動いているように見えているのだとしても。
そして、そのアリスに説得が通じるとは思わない。見逃してくれるような様子は見られない。
「ええ、私が止まれと命じない限り止まることはないわ。じりじりと追い詰められていくのはどんな気持ちかしら?」
追いつめるのが楽しくて仕方がないという表情が人形たちの間から見える。簡単には屈しないという気持ちを込めて、人形たちの間から睨む。けど、当然のように効果はない。むしろ、私のこんな様子でさえ楽しんでるんじゃないんだろうかと思える。なんだか嬉しそうだし。
「……ぁ」
ついに、背中が壁に触れてしまう。背中に伝わる堅い感触が、絶望となって私の中に入り込んでくる。
時間稼ぎのための逃げ場さえもなくなってしまう。それでも、下がれやしないかと思って一歩下がろうとしてみる。けど、やっぱり絶望の具現に阻まれてしまう。
「ふふ、もうおしまいみたいね」
アリスがそう言った途端、人形たちが私にまとわりついてきた。腕、手首、足、背中とあらゆる場所を掴まれる。さほど力がない相手なら完全に身動きが取れなくなってしまってるだろう。けど、吸血鬼である私はそう簡単に人形の力には負けない。
けど、下手に力を入れて無理矢理人形たちの拘束から逃れようとしてしまえば、壊してしまうかもしれない。かといって、抵抗しないでいると、外に連れ出されてしまう。
だから、その場で踏ん張ってせめてその場から動かないようにする。力では問題なく勝てるけど、持久戦はどうなるかわからない。長い間動くことがないのだ。
それに、
「そう、わざわざ苦労する道を選ぶのね。でも、その選択は賢いとは思えない。だから、私がすぐに楽にしてあげるわ」
不吉な笑みを浮かべて、アリスが近寄ってくる。嫌な予感ばかりが集ってきて、本能と理性とが共に、この場から全力で逃げたがっている。だけど、今の状況がそうさせてくれない。
それでも、人形を壊さない程度に力を入れて、なんとか逃げだそうとしてみる。けど、私を追いつめるように近づいてくるアリスよりも、動きはゆっくりとしている。そもそも、どこに逃げればいいのかもわからない。
とりあえず、アリスから逃げるように、顔を逸らしてみた。けど、そんなことをしている間にアリスに隣を取られてしまう。
何をされるんだろうかと身構えてしまう。
「私の人形たちを傷つけずに逃げようとしてくれてるみたいだけど、手加減して逃げられるほど私の人形たちは弱くないわよ。さっさと身体の力を抜いて、楽になった方が賢明だと思うわよ」
「ひゃっ……」
不意に、首筋に何かが触れた。くすぐったさに負けて一気に身体の力が抜ける。そのまま、一気に扉の前まで引っ張られる。
「や、やだっ!」
なんとか身体に力を入れ直して、もう一度踏ん張る。部屋の外まで引っ張られることはなかった。けど、アリスが再び近づいてきていてどうしようもないということを悟る。それでも、諦めるつもりはない。
「そう。レミリアに似て意志は強いのね。……でも、そのままどうするつもりかしら?」
アリスが目の前で立ち止まる。相変わらず笑みを浮かべていて、その上、優位性を見せつけるように腕を組んでいる。今すぐ手を出さずとも好きなときに好きなように出来るのだと態度で訴えてくる。
アリスの意地の悪さが、前面に出てきている。
「……貴女たち、まだこんな所にいたのね」
不意に背後から、誰よりも聞き慣れた声が聞こえてきた。完全に追い詰められている私にとっては、救いの声のようだった。私の中の絶望が霧散していくのを感じる。
そして、早く助けてほしいと声に出そうとした。
「レミリア、いい所に来てくれたわね。フランの説得を手伝ってくれるかしら」
「説得、ねぇ。貴女がやってるのは人攫いにしか見えないけれど」
けど、何かがおかしい気がした。お姉様とアリスになんらかの繋がりがあるような、そんな気がする。
私は後ろへと振り返ってみる。お姉様の登場に合わせて、人形たちの拘束はなくなっていた。
開きっぱなしの扉の向こう側。そこにはお姉様が立っていた。その顔には呆れが浮かんでいる。
「説得は今からするのよ? 私だけだと無理そうだったから」
「私に丸投げする気まんまんじゃない」
お姉様がため息をつく。やっぱり、二人にはなんらかの繋がりがあるようだ。お姉様の救いの手が差し伸べられる可能性はなくなった。今は誰も私を拘束してはいないけど、何故だか身体は動かなかった。
「……お姉様? アリスに、何か頼んだの?」
意識が少しばかり遠退くのを感じながら尋ねる。不安定になった足場の上で心細くなっていくような感覚。
「ええ。ずっと館の中にいる貴女を外に連れ出してほしいとね。……頼む相手を間違えた気がしないでもないけど」
「今更やめるつもりなんてないわよ。面白そうだから」
心底楽しそうに言う。アリスは悪い性格じゃないと思うんだけど、悪ノリしているときは出来るだけ近づきたくない。そんなアリスに連れ出されるなんて、不安しか湧いてこない。
「お姉様じゃ、だめなの?」
けど、お姉様になら私が知っている誰よりも安心して付いていけるはずだ。何があっても、何が起こっても、誰にも受け入れられず拒絶されようともお姉様の隣であれば耐えられるはずだ。
絶対の存在とまでは言わないけど、それくらいお姉様は私にとって大きな存在なのだ。
「駄目。それじゃあ意味がないの」
お姉様が私に近づいてくる。抱きしめてもらえると思ったけど、そうはしてもらえなかった。
代わりに目の前で立ち止まって、紅い瞳で私を真っ直ぐに見つめる。お姉様の瞳に、私の顔が写っているのが見える。
「そろそろ貴女も姉離れをする必要があるんじゃないかって思ったのよ。貴女はいつまでも館の中に縛られていていい存在ではないわ」
「縛られてなんかない。私は自分で選んでここにいる」
両親がいて、お姉様が傍にいなかったずっと昔なら縛られていると思っていたかもしれない。けど、お姉様が私を守ってくれるようになってからは、一度もそんなことを思ったことはない。むしろ、こここそが世界で一番安全で落ち着くことのできる場所で、いつでもいつまでもここにいたいと思っている。
そう、私は自ら望んでここにいるのだ。縛られているように見えるのは、心外でしかない。
「そんなのただ単に選択肢がなかったと言うだけじゃない。……別にここを離れろと言ってるわけじゃないわ。フランには内だけでなくて、外も見てほしいと思っているの。けど、それが私の傍では意味がないと思うのよ」
「でも……」
お姉様が私のことを考えてくれているのはわかる。だけど、
「大丈夫よ。何をしでかすかわからないアリスに比べたら外の世界なんて怖くないわ。こっちは、向こうとは違うのよ」
「あら、それは心外ね」
アリスが茶化すように言うけど、お姉様も私も反応しない。お姉様は無視してるだけだと思うけど、私は反応するだけの余裕がないのだ。
お姉様の言葉は私を安心させるためのものだ。それは、理解している。
けど、怖いものは怖い。いくら言葉を積み重ねられようとも、実際に見てみなければ漠然としたものでしかない。そして、その漠然としたものが私は怖い。嫌なことが起こってしまうような気がするのだ。
それに、私はお姉様とは違って歪な存在なのだ。お姉様は受け入れられているのかもしれないけど、私はそうじゃないかもしれない。
ぐるぐると恐怖が私の中で巡り回って、外の世界はただただ怖いものだとしか思えなくなっている。
「はぁ……」
お姉様がため息をつく。もしかして、私の意気地のなさに呆れてしまったんだろうか。
それは、嫌だ。私の心の支えであり続けてくれているお姉様に拒絶されるなんて耐えられない。
引きこもる私が嫌なら、頑張って外に出る。だから、絶対に見捨てないでほしい。
「……本当は突き放してでも行かせるべきなんでしょうけど、私には出来ないわね。むしろ、このまま放せなくなってしまいそう」
決意を固めて言葉にしようとした。けど、それよりも早くお姉様に抱きしめられる。最初は柔らかく。けど、少しずつ力が込められて、ぎゅっとされていく。
ああ、別に意気地なしの私のことが嫌いになってしまったわけではないんだ。
そんなに放すのが嫌なら、ずっとこうしてくれればいいのに……。
「大丈夫よ。貴女が放せないなら私が引きはがしてあげるから」
「……そうね。このまま放せなくなったら貴女に頼もうかしら」
「了解」
少し楽しそうなアリスの返事を聞いて、お姉様の腕の力が少し抜ける。このまま放されてしまうかと思ったけど、私はまだ腕の中にいる。
そこに、お姉様の迷いを感じる。
「……お姉様は、どうして私を放したくないのに、放そうとするの?」
お姉様の中で何が相反して矛盾を引き起こしているのか理解ができない。
「誰よりも貴女の成長を願っているからよ」
そんな言葉と同時に、お姉様が離れてしまう。温もりが消え、いつの間にかお姉様に身体を預けていた私は、自立しなければいけなくなる。
離れてしまった代わりに、お姉様の笑顔が視界に映る。守る者と守られる者の違いが、そこにはあるんだろうか。
「そういうわけだから、行ってきてちょうだい。フランの持って帰ってくるお土産話を期待して待っているから」
お姉様がもう一歩私から離れてしまう。けど、その声の響きから、私のことを想ってくれているんだというのが、嫌というほど伝わってくる。
だけど、私にはまだ前に進むのが怖いという気持ちがある。だから、逃げ出しそうになってしまう。
けど、逃げたところで意味はないのだ。お姉様から逃げ続けるなんてこと、私にはできないのだから。
「……わかった」
逃げるくらいなら、お姉様の想いに応えたかった。どうしようもないくらいに、後ろ向きな決定の仕方だ。
「そう。なら、楽しみにしてるわね」
私の考えてることを知ってか知らずか、一つの曇りもない嬉しそうな笑顔を浮かべる。
ここで、少しくらい名残惜しそうな表情を浮かべてくれたなら、その隙につけ込んで、抱きついて前に進むことを拒もうとしたかもしれない。けど、そんな隙は一切なかった。
私はどうしても前に進まなければいけないようだ。
◆
霧の湖から伸びる比較的整備された道。外のことは、館の中から見える所までしか知らないから、湖の向こう側はすでに未知の地だ。
日傘を持って、アリスの後ろを歩く。アリスの言っていたとおり曇っているから傘は閉じたまま。
そもそも、傘を開くことができないくらいにアリスに密着している。日傘を握っているのも自分の不安を紛らわせるためという意味の方が強い。日傘を握ってない手はアリスの服の裾を握っている。何かを握っていないと不安で不安で仕方がないのだ。
「ねえ、どこかに行くの?」
散歩をするとは言っていたけど、それ以外は何も聞いていない。わざわざ歩いてるから、そこまで遠いところに行くつもりはないと思う。
「とりあえずは、人里に行ってみるつもり」
「え……?」
思わず服の裾を手放して、足を止めてしまう。アリスは気付かず進んでいく。
私は、このまま逃げ帰ろうとさえ思ってしまった。
「あら? どうかした?」
けど、私よりも三歩ほど進んだところで、アリスがこちらへと振り返る。言葉は疑問系だったけど、私が何を考えてるのかわかってるような表情を浮かべていた。アリスが鋭いのか、私が分かりやすいのか、もしくは両方なのか。なんにしろ、私の考えてることは大体アリスに筒抜けなのだ。お姉様に私の考えが筒抜けなのとは違って、不安ばかりが煽られる。
もしかしたら、わからない振りをしているからかもしれない。そういうことをされると、何かを企んでいるような気がして、どうしても身構えてしまうのだ。
「……人里ってことは、人間がいっぱいいるんだよね?」
だけど、今はアリスがする事に対して身構えている余裕はない。それ以上に、私は身構えなければならないことがある。
それが今、私が恐る恐る聞いたことだ。私が外にあるものでもっとも恐れているのは他人だ。
受け入れられない程度ならまだいい。けど、拒絶されてしまうことはきっと耐えられない。
図書館でアリスに話しかけられたときも、とても怖かったのだ。もしかしたらなんて考えてしまって。
けど、私の考えは杞憂でしかなかった。けどそれも、アリスが細かいことを気にしない性格だったからだと思う。今まで私のことを受け入れてくれた人たちは、総じてそういう性格だった。
けど、人里にいる人間たちがそうだとは思えない。そもそも、細かいことを気にしない性格の方が稀なのだから。
「人間だけじゃなくて、妖怪も偶にいるわね」
平然と答えてくれた。けど、私としては平然とはしていられないような答えだ。例え、想像通りであったとしても。
「やだ! そんな場所行きたくない!」
お姉様との約束があるから、飛んで逃げ出すなんていうことはしない。けど、自分の要望を伝えるくらいはいいだろう。やけに子供っぽい言い方なのは、それだけ必死なんだと思ってほしい。
「それは聞き入れられないわね。諦めて付いてきなさい。大人しく付いてきたら、甘い物食べさせてあげるから」
食べ物で釣ってこようとしてくる。けど、そこまで子供っぽくないし、食い意地も張ってない。
むしろ、その言葉のせいで余計に逃げ腰になってしまう。わざわざそんなことをしようということに、悪い予感ばかりが募ってしまうのだ。
気が付けば、一歩後ろに下がろうとしていた。
「逃げようとしても無駄よ」
けど、後ろに下がることはできなかった。背中を複数の何かに押されている。
首だけ動かして後ろを見てみると、人形の姿が少しだけ確認できた。全部でどれだけの人形が私の背後にいるのかはわからない。数が多いということだけはわかる。
人形を壊したくないから、無理矢理後ろに下がるなんて事は当然できない。後ろに下がるために上げていた足は、結局同じ場所へと下りてしまう。
「さてと、こんな所で無駄話してないで早く行きましょう? そんなに遠くないけど、ちんたらしてると日が暮れるわよ」
アリスが歩き始めると、人形たちが更に強い力で私の背中を押し始めた。突然のことに、転びそうになる。私を部屋から連れ出そうとしたときよりも力が強い気がする。
「え、あ、ちょっと待って! ちゃんと自分で歩くから!」
そう言った途端、背中に掛かる力はゆっくりと弱められて消えた。転ばないように配慮してくれたんだろうけど、もうちょっと別のことにも配慮してほしい。誰もいない場所に行くとか。
アリスを追いかける前に、振り返ってみる。そこには、逃げ道を塞ぐように無数の人形たちが待機していた。無機物の、けれどどこか愛嬌を感じさせる瞳で私をじっと見ている。
ここで、空に向かって飛んだとしてもまた新たな人形が現れて進路を塞がれてしまうだろう。それに、アリスから逃げることには何の意味もない。お姉様と約束をした時点でアリスに付いていくしかないのだ。アリスを説得できるだけの話術があればよかったんだけど、私にそんなものはない。
そんなことを考えながら、しぶしぶアリスの後に付いていくのだった。
◆
そんなこんなで、人里に辿り着いてしまった。
煉瓦作りの紅魔館とは違う、漆喰の壁の家がいくつか建っている。本の中でしか知らないものにしばしの間、注目する。写真で見るのとは一味違う気がする。周りの明るさのせいか、それとも年月による汚れのせいか、白というよりは灰色に見える。
けど、長くは観察していられない。
建物の間を歩く人間が、私の意識を奪うからだ。人間の姿が視界に映る度に警戒心を強めて、アリスの背後に隠れる。アリスの服の裾と日傘の柄をぎゅっと握る。
「ふむ、そろそろ慣れた頃かしら?」
「そんなことない! 全然ない!」
入り口に着いて、私は慣れるまで待ってほしいと頼んでいたのだ。かなりの時間が経ったけど一向に慣れる気配はない。相変わらず、視界に知らない人の姿が映る度に逃げ出したくなる。
「なら、いつまでもここにいたって無駄よ。さっさと入っちゃいましょう。見てて駄目なら、実際に感じて慣れろ、よ」
「あ……」
アリスが歩き出してしまう。服の裾を握っていたはずなのに、するりと抜け出してしまう。手を伸ばしたときにはすでにアリスは手の届かないところにいた。
背後から人形たちの力が加わることはなかった。そういえば、人形たちは私が逃げ出そうとするときにだけ現れていたような気がする。
ということは、アリスは私を試しているんだろうか。けど、私に試されるような物なんてない。この場で、一歩を踏み出そうという勇気を振り絞る気さえないのだ。
「フラン! そんなところに突っ立っててもレミリアに面白い話なんて出来やしないわよ!」
遠く離れたところでアリスがそう言った。
ああ、そうだ。私はお姉様にお土産話をしてあげるという約束をしてきたんだ。きっとお姉様は入り口でうじうじしてる私の話なんて聞きたがらない。
「待って! 置いてかないで!」
走ってアリスに追いつこうとする。自らの意志で里の中へと入る。
情けないことに、私を走らせているのはお姉様との約束だけではなかった。アリスが大きな声を出したことで、こちらに注目した人たちの視線に耐えられなかったのだ。
今の私の逃げ場所は、不本意なことにアリスの傍だけなのだ。
◆
アリスに連れてこられたのは一軒の茶屋だった。
お店の前の赤い布の掛けられた長椅子に、アリスと並んで腰掛けている。私たちの前にあるのは中央通りなのか、入り口の近くに比べると断然人通りが多い。常に歩いている人の足が見える気がする。
私は俯いて地面を見ていることしかできなかった。それでも、注目を浴びているようなそんな気がしてしまう。顔を上げれば、考え過ぎなのかそうでないのかというのはすぐにわかるはずだ。
けど、もし顔を上げたときに誰かと目が合ってしまったらどうしようかなんて思って、実行には踏み切れない。
無数の視線がこっちに向いているような気がして、とっても居心地が悪い。今の状態で拒絶の感情までぶつけられたら、立ち直れなくなるかもしれない。幸いなことに、まだそんな感情はぶつけられていない。
「おまちどおさま」
アリスから注文を取っていた女性の店員が現れる。ずっと俯いていたから顔はわからないけど、声は覚えている。お姉様とはまた違ったすっとよく通る声だ。
「ん、ありがとう」
「ところで、その子、誰? 妖怪にしては大人しそうね」
店員は私に興味を持ったようだ。さっきまでは漠然としていた他人の視線がはっきりとしたものになる。
話しかけられませんようにと心の中で祈る。日傘の柄を握っている手に力がこもる。
「気になるのなら自分で聞いてちょうだい」
けど、私の祈りはアリスの声によってどこにも届かなかったことを教えられる。そもそも、どこに届くというのだろうか。私に手を差し伸べる神様がいないことはとっくにわかっているのに。
「意地悪ね、アリスは」
「そういうつもりはないわよ。家の中にこもりっきりで、他人と付き合うのが苦手なこの子の為だと思ってちょうだい」
私のことをそんなふうに散々に言う。けど、そこには事実しかない。アリスの言葉が嘘なら、こうしてアリスに人里に連れてこられる事なんてなかっただろう。
「ふーん」
そして、店員がしゃがみ込んで私の顔をのぞき込んできた。目をそらしてしまうのも悪いかと思うけど、ずっと見ていることもできなくて視線が定まらない。
その店員は黒い瞳で私の顔をじっと見ている。私は、短い黒髪に視線を向けたり、瞳を見返したり、地面へと視線を逃がしたりと忙しない。
しばらくして、その店員は笑顔を浮かべた。そこに、私を拒絶しようとするような感情は見られない。
「はじめまして。あなたの名前、聞いてもいいかな?」
アリスと話していたときとは違う、距離は感じるけど柔らかいしゃべり方。子供扱いされてしまっているような気がする。だけど、それも仕方ないのかもしれない。
私の見た目で、こんなにもおどおどとしていたら見かけ相応の子供にしか見えないだろう。かといって、そう見られないように行動することはできない。
他人ばかりの空間が怖くて怖くて仕方がないのだ。たとえ、明確な拒絶がなくとも。
「……フランドール」
それだけを口にする。それ以外に何を言えばいいのかわからない。
「フランドール……。ふむふむ、なっがい名前ねぇ」
「それなら、フランでも、いいよ」
申し訳なさのようなものを感じる。
知らない人だからこそ、どのラインで怒り出すかがわからない。それに、怒ると同時に私のことを拒絶するかもしれない。そう思ってしまっているから、こんな些細なことでも私はびくびくとしてしまう。
「じゃあ、そう呼ばせてもらうわ」
けど、その店員に気にしている様子は一切なかった。
もしかして、考えすぎなんだろうか。そう思うけど、他人と関わる機会が圧倒的に少ない私はどうしても考えてしまうのだ。
「ととっ、フランにだけ名乗らせてたらダメね。私の名前は、氷雨。ここの自慢の看板娘よ」
自信満々にそう言う。冗談なんかではなく、心の底からそう言ってるみたいだった。
私とは全然違う。だけど、自分自身をそこまで信じられるのは、お姉様のようだった。
私にとって、自分に自信を持てる人というのは輝かしい存在だ。私にはないものを持っていいて、お姉様にあるものを持っているから。
だから、少し興味を引かれる。気が付けば、落ち着かなかった視線が氷雨を捉えていた。じっと見つめてはいられないから、まだまだ視線は少し泳いでいるけれど。
「相変わらずそんなこと言ってるのね」
「言うだけは自由でしょう? それに、お客さんたちからは実際に言われてるしね」
しゃがんだままアリスの方を見上げる。私に話しかけているときとは顔つきが異なっている。力が抜けているとかそういった感じだ。
「ま、そうね。そう言えば、店の仕事はいいのかしら?」
「いいのいいの。見ての通り、今はあなたたちしかお客さんがいなくて暇なくらいよ。というわけで、私の暇つぶしに付き合ってちょうだい」
氷雨が私の隣に座る。三人座って、長椅子はいっぱいとなる。
アリスが、私との間に何かを置いていたのは知っていたから寄ることは出来なかった。だから、氷雨の身体が私に触れている。他人の身体が触れていることに、どうしようもないくらい緊張してしまう。
そして、氷雨の動きを追っていたから、俯いていた顔は自然と上を向いていた。隣の氷雨を見上げる形になる。
氷雨は私よりも座高が頭一つ分くらい高い。アリスよりは、少し低いくらいだと思う。
「フランはどこに住んでるの?」
「えっと、霧の湖の中にある、紅魔館」
氷雨からの質問が始まった。事実を答えるだけでいいから、内容を考える必要はない。代わりに答え方を考えてしまう。あまり知らない相手の質問に答えるには、どう答えるのがいいんだろうって。
「もしかして、レミリアの関係者?」
「レミリアは、私のお姉様」
「へぇ、全然似てないのね」
「うん、そうかもしれない」
私にとってお姉様は憧れの存在だ。だから、似ているとは欠片も思えない。姉妹であるというそれだけでも、分不相応な気がしてしまうのだ。
「大好きなんだ? お姉ちゃんのこと」
「なんで、わかるの?」
「わかるわよ。声が全然違ったんだから」
知り合ったばかりの相手にもわかるほどに私の変化はわかりやすいんだろうか。私自身はそう思わないのだけれど。
「そうね、フランの感情の変化はかなり分かりやすいわよね」
今までずっと黙っていたアリスの声が割って入ってきた。
振り返ってみると、一人みたらし団子を食べていた。今は口の中に何もないみたいだけど、手にはお団子が一つだけ刺さった串を持っている。
視線を下げて、氷雨の持ってきた物が視界に入ってきた。お皿の上に乗っているみたらし団子はとっても美味しそうだった。四つのお団子が串に刺されていて、上からタレが掛けられている。
隣に置かれている湯呑みの中のお茶は眼中にない。私の中であれは飲み物ですらない。
「なに一人で食べてるのよ」
アリスの姿を見たらしい氷雨が、少し怒ったような声で言う。
「いいじゃない別に。私がお金を払ったものなんだから。それに、貴女が話しかけてるから、フランも食べられないんじゃない?」
そう言って、残っていた最後の一つを口に入れた。アリスの表情が少し幸せそうに緩んでいる。
私の口の中で、唾液が多めに出てきている。私もあのみたらし団子を食べてみたい。でも、今は氷雨と話をしているから我慢する。
「まあ、それも一理あるわね。フラン、後でまた話を聞かせてもらってもいいかしら?」
「えっと、うん、いいよ」
断ることはできなかった。でも、嫌だということはない。さっき少しの間話してみた限りでは、それなりに話しやすい気がする。たぶん、向こうから積極的に質問してきてくれるからかもしれない。商売をして、たくさんの人と話をしていると、どうすればいいのかがわかってきたりするのだろうか。
「ではでは、当店自慢のみたらし団子をどうぞ」
私の返事を聞いた氷雨は、一瞬だけ嬉しそうな表情を浮かべたかと思うと、身体を乗り出して、みたらし団子を一本取る。それから、笑みの種類を変えた。これが、営業スマイルというものだろうか。
「……うん、いただきます」
おっかなびっくり受け取る。よく知らない人から物を貰うとなると、どうしても引け腰になってしまうのだ。アリスから渡されたなら、もっと滞りなく受け取れるんだろう。けど、今のアリスが渡そうとしてくれるとは思わない。
たぶん、今は二本目のみたらし団子に手を出していると思う。
それはいいとして。
受け取ったみたらし団子を口へと運ぶ。一番上のタレのかかった白玉をくわえて、串を離す。お団子が一つだけ、口の中に残る。
タレの甘じょっぱさが口の中に広がる。その味が消えてしまう前に、お団子を噛む。
二度、三度と噛むことで塩辛さが薄まってくる。それと入れ替わるようにして、お団子の甘さが前面に出てくる。
タレほどの甘さがあるわけではない。だけど、噛むほどに甘さがにじみ出てくるようで、物足りないとは思わない。あの甘じょっぱいタレには、この控えめな甘さがちょうどいいのだ。
少しずつ変化していく味の虜となってしまう。けど、どんな食べ物にも終わりはある。噛めなくなった頃に、私は名残惜しさを感じながら、お団子を飲み込んだ。だけど、確かな満足感が口の中に残っている。
咲夜も時々こういったものを作ってくれるけど、どちらがいいとは決められない。どちらもそれぞれの良さがあるのだ。特にある一定の水準を超えたものは。
「どう? うちのみたらし団子。ずいぶんと味わってくれてたみたいだけど、満足いったかしら?」
「うん、美味しかったよっ」
私の声は思っていた以上に弾んでいたのだった。
やっぱり、私の感情の変化は分かりやすいのかもしれない。
◆
氷雨の所でみたらし団子を食べ終わった後、私たちはアリスを先頭にして人里の中を歩いていた。
氷雨と話している間に少しは慣れたのか、ぴったりと付いていなくても大丈夫になっていた。それでも、アリスの服の裾を握っていないと不安だ。日傘の柄も変わらずぎゅっと握っている。
「……アリス、誰か付いてきてるよ」
そして、先ほどから私たちの後を数人ほどが付いてきている。怖くて振り向けず、誰が付いてきているのかはわからない。
代わりに、不安が増すにつれてアリスとの距離を詰めていっている。今は拳一個分くらいの距離しかない。もうしばらくすれば、この距離は零になってしまうと思う。
「ええ、そうね」
アリスは気にせず歩を進めていく。私はアリスから離れないようにするため、後ろの気配から逃げるように足を動かす。
そうしているうちに、広場のような所へと出てきた。砂地の露出した、比較的に広い空間だ。隅の方には、野草が生えていたり、背の高い木が数本生えている。
「さてと、この辺りでいいかしらね」
不意にアリスが立ち止まった。私は速度を緩めることができず、そのままアリスにぶつかる。ほとんど密着状態だったから、衝撃はそれほどなかった。
けど、困惑が募ってくる。どうして広場のど真ん中で立ち止まるんだろうかと。
「みんな! 出ていらっしゃい!」
アリスが振り返って、大きな声でそう言う。驚いて、服の裾は離してしまう。
どうやら後ろにいるのは、アリスの知り合いのようだ。
恐る恐る振り返ってみる。そこには、お互いに顔を見合わせながらゆっくりとこちらへと向かってくる数人の子供がいた。見かけの年齢は大体私と同じくらい。
それを見た私は思わず、アリスの後ろに隠れてしまう。
「こらこら、フランが隠れてどうするのよ」
けど、アリスは私を隠れさせてはくれなかった。そうなると、広場のど真ん中では私の隠れられる場所はない。このことをあらかじめ考えていたのかもしれない。一番の理由は、他の人たちの邪魔にならないようにっていうのだと思うけど。
……そう思っておきたい。
せめてもの救いは、アリスが服の裾を掴ませてくれていること。この手さえも振り払われていたら、私はどういていいかわからなくなっていたかもしれない。
今も、どうしていいのかわからないことに変わりはない。それでも、ないよりはましなはずだ。
私には支えが必要なのだ。そして、それは日傘の柄だけでは全然足りない。
そんなことを考えている間に、子供たちは私たちの前に並ぶ。好奇心で瞳を輝かせているのがわかる。
身体が逃げ出したがっている。けど、お姉様との約束がある内は逃げられない。
「アリス、隣の妖怪はだれ?」
子供のうちの一人が、私を指差しながらアリスへとそう聞く。それをきっかけにしたように、他の子供たちも口々にだれ? と聞いている。
私はこれほどの大人数に注目されることに耐えられなくて、もう一度アリスの背後に隠れようとする。けど、私が何をするのか読んでいたのか、動こうとした途端に、人形で動きを封じられる。実際に視界に入ってきたわけじゃないけど、何度かそうされたせいで見なくてもわかるようになってしまった。
「私の知り合いの友達の妹よ。……というわけで、後は頑張りなさい」
「え? ええっ!」
直後、人形たちが私を一歩前へと押し出す。それにあわせて、アリスも私の背後に回り、アリスの服の裾から手が離れてしまう。私の最後の頼みの綱がなくなってしまう。
そして、私は子供たちの視線を一身で受け止めなければならなくなってしまった。きらきらと瞳が輝いているのが見える。
逃げられないのはわかっているから、覚悟を決めるしかないようだ。
「え、っと……」
たじろぎながらも、胸の内で大きく息を吸う。氷雨とああして話すことが出来たんだから大丈夫、誰も私を拒絶しようとしていないんだから大丈夫と言い聞かせる。
「私は、フランドール」
そう言うけど、反応がない。けど、私への興味を失ってしまったというわけではない。相変わらず、きらきらとした瞳で私の方を見ていて、それにたじろぎそうになる。視線に質量でもあるのではないだろうか。
どうして反応がないのだろうかと考える。氷雨と話したことを思い出してみる。
氷雨は、いくつか質問をしてきた。そして、最初に聞いてきたのは、私がどこに住んでいて、何者なのかということだったはずだ。なら、今回もそれを話せばいいはずだ。
「……私は、レミリア・スカーレットの妹で、紅魔館に、住んでるの」
直後に子供たちがざわめき始めた。今日実感したことだけど、紅魔館という名は、人里において大きな影響力を持っているようなのだ。
それをわかっていたから、私自身はそれほど動揺はしなかった。ただ、複数の人から見られているという状況に居心地の悪さを感じている。更に興味を持たれてしまったようで、余計にいづらい。
「ねえ、レミリアってフランドールに優しいの?」
ざわめきの中から、そんな質問が飛んできた。
そういえば、氷雨と話しているときは私のことばかり聞かれて、お姉様のことを聞かれることはなかった。
答えることに躊躇はなかった。むしろ、お姉様のことならいくらでも話したい。
「うん、とっても」
そう答えた途端、気持ちがとても軽くなった気がした。お姉様の話をするだけで、傍にお姉様がいてくれるようなそんな気がするのだ。
自分の意志で一歩だけ前に出る。
「それに、優しいだけじゃない。強くて、頼りがいがあって、格好いいんだ」
私の中のお姉様の像をほどいて、言葉に編み直す。私自身の話をするのとは違って何も苦には思わない。むしろ、こうしていられることが楽しくて、嬉しくて自然と言葉は編まれていく。
「私を護ってくれて、私の居場所を作ってくれて、私を認めてくれて、最高のお姉様なんだ」
でも、本当はいい所ばかりじゃない。弱さがあることを知ってる。私に比べたら全然ましだけど、臆病だっていうことを知っている。
そのことを私の口から言うことはできない。だって、お姉様はそれを隠そうとしていることも知っている。私みたいに立ち止まらずに、選択をする強さを持っていることも知っているから。
「それで――」
「フラン、そのくらいにしといた方がいいんじゃないかしら?」
「え?」
開こうとしていた口を閉じて、アリスの方へと振り向く。まさか、アリスに止められるとは思っていなかった。
「子供たちはレミリアのことよりも、フランのことに興味があるんじゃない?」
「そんなこと、ないんじゃないかな……?」
私のことに関して話すことなんてない。家に閉じこもりっきりで経験もなくてほとんど空っぽなのだ。住んでる場所、お姉様の妹であること。それらを話せば、私についてはほとんど話してしまったようなものだ。
けど、私にたくさんのものを与えてくれたお姉様のことなら、いくらでも話せる。今もまだ私の中では、お姉様のことを伝えるために言葉が編まれ続けている。
「ま、貴女はそう言うでしょうね。でも、みんなはどうなのかしらね?」
アリスの視線が、私から背後の方へと移る。私はそれに釣られて背後へと振り返る。再び子供たちを見る。
「レミリアのことよりも、フランのことを知りたい人!」
アリスがそう聞いた途端、子供たちが全員元気な声を出しながら、手を挙げていた。意外な反応に、私は驚いてしまう。
「貴女がどんなに自信を持っていなかろうと、初対面の相手には興味を持つものなのよ」
「でも、私、面白いことなんて話せないよ?」
それに、それは私が全てを話し尽くしてしまったら、興味を失われてしまうということなのではないだろうか。私としては、それでも別にいい。その瞬間に拒絶さえされなければ。
「そういうことは気にしなくていいわよ。思ったまま返せば。というわけで、今度はフランに聞いてみたいことがある人!」
誰も手を下げることはなかった。より一層、誰よりも高く手を挙げようとしている子までいる。
「じゃあ、貴女、どうぞ!」
アリスが指名したのは、一番近くに立っていた女の子だった。何度も飛び跳ねて、一番目立っていた。どんなことにも積極的な子なのだろう。私とは正反対だ。
「羽、触ってみてもいいっ?」
「えっと?」
質問というよりは、要望、お願いのような気がする。けど、その場にいる子供たちは誰も疑問に思っていないみたいだ。
それ以前に、そんなことを言われるとは思ってもいなかった。
「あたしもいいっ?」「ぼくも!」「私も触りたい!」
それだけではなく、他の子供たちも触りたがっているようだ。声には出していない子も、その表情を見れば触りたがっているんだってことがなんとなくわかる。
私の羽は、忌み嫌われるものだったのではないのだろうか?
「あんまり細かい事気にしちゃ駄目よ。子供なんてそんなものなんだから」
「……」
アリスの言う、そんなものというのがどういうものなのかはわからなかった。だけど、それを考えている暇はないようだ。
「だめ?」
女の子の表情に少し蔭が差す。他の子たちも、心なしか落ち込んでいるように見える。
私は、たったそれだけのことで取り乱してしまう。
「あ……。ちょっ、と、くらいなら、いいよ」
ほとんど何も考えずそう言ってしまう。私のせいで誰かを落ち込ませてしまうなんて嫌だ。
「ほんと?! やった!」「ありがとう!」「フラン、ありがとう!」
私のたったそれだけの言葉で、子供たちの顔には輝きが戻ってくる。私も私でそんなことに安心してしまう。私なんかが、誰かの輝きを奪ってはいけないのだ。
「その、触るのはいいけど、乱暴にはしないでね?」
それでも、注意はしておく。痛いのは嫌だから。
「わかった!」
子供たちは元気に頷いてくれた。不安が全部消えたわけではないけど、少しは大丈夫だと思うことができた。その頷き方が真っ直ぐだったからかもしれない。
私は、触りやすいように羽を少し下げる。それを近づいて良いという合図だと思ったのか、一番近くに立っていた女の子が、こっちに駆け寄ってきた。
少したじろいでしまうけど、後ろからアリスに支えられていたせいで下がることはできなかった。
「堅くて、ちょっと温かい。不思議ー」
女の子が一切怯えた様子もなく羽に触れる。普段触れられることない場所を触れられて、くすぐったさを感じる。
「ねえ、この宝石みたいなのも触って大丈夫なの?」
「いいけど……引っ張ったりはしないでね」
「うん!」
無邪気に羽に触れる子供たちに囲まれて、心にもくすぐったさを感じる。
私は、両親に忌み嫌われていた。この歪な羽と、すぐに暴走していた力のせいで。
だから、私の羽は、力は無条件に嫌われる物だと思っていた。今まで受け入れてくれた人たちが私を忌避しないのは、みんな細かいことを気にしないからだと思っていた。
けど、今わかった。そんなことはないんだって。今日は羽の方だけだけど、興味を持って近づいてきてくれる人たちもいた。
それが嬉しかったからこそ、私はくすぐったさを感じているのかもしれない。
――だから、私は少し泣きそうになっているのかもしれない。
◆
広場の隅の方にある木に身体を預けて座る。少し離れた場所では、アリスが子供たちに囲まれて、人形劇を行っている。私のいる場所にはアリスの声だけが届いてきて、人形たちが何をしているかは見えない。
ずっと質問攻めにあっていて疲れてしまったから、アリスに子供たちの相手を変わってもらったのだ。最初はみんなしぶしぶだったけど、アリスがいざ人形劇を始めるとそっちに移っていった。一人だけどこか名残惜しそうな雰囲気を出していたけれど。
「……はぁ」
ため息をつくように息を吐き出す。緊張や疲れがその息の中には混じっていた。だけど、今日のこの疲れにはどこか心地よさを感じる。このまま寝れば気持ちよく眠れるような気がする。とはいえ、こんなところでは眠れない。だから、身体の力を抜くだけにとどめておく。
今日子供たちと接してみて、知らない他人と関わるのは、それほど怖くないということがわかったような気がする。無条件に拒絶されてしまうことはないんだって実感できた気がする。
それでも、一人で知らない人と関われと言われたら、迷わず首を横に振るだろう。慣れないことをするのはまだまだ怖いことだから。
と、人形劇を見ていた女の子の一人がこっちに向かってくる。たしか、最後まで名残惜しそうにしていた子だ。他の子たちに比べて色素の薄い焦げ茶色に見える長い髪が特徴的だったから覚えている。
「ねえ、フラン。フランって本を読むのが好きなんだよね?」
鳶色の瞳でこちらを見つめてくる。パチュリーの瞳にも浮かぶ冷静で知的そうな色が見え隠れしているような気がする。
「うん、そうだけど……どうしたの?」
何をするのが好きなのかと聞かれたときにそう答えた。だけど、反応はいまいちだった。
基本的にはみんな身体を動かしたりする方が好きなんだろう。この子は、違うみたいだけど。
「私も本を読むのが好きなんだ。だから、一緒にお話したいなぁって」
そう言いながらその子は私の返事も待たず、隣に腰掛ける。みんなの前で自分の好きなようにする自分勝手さはないけど、押しの強さはあるようだ。もしくは、私が単に舐められてるだけかもしれない。
だとしたら、厄介かもしれない。けど、何故だか危機感はない。瞳の輝きがどこか知り合いに似ているからかもしれない。
「フランの住んでる場所って、いっっぱい本があるんだよね? どんな本があるの?」
「えっと、いろいろあるよ。小説とか専門書とか魔導書とか」
パチュリーの図書館には、種々雑多な本が収められている。特定の物しか読まないなんていうこだわりがなければ、まず読む物がないということは起きない。代わりに、数が多すぎて選ぶのに困るということはある。
「そういうのじゃなくて、どういうお話の本があるのかっていうの。魔導書もちょっと興味あるけど、私だとわかんないだろうし」
「あ、そっか。そうだよね。ごめんなさい」
「あやまんなくてもいいよ」
謝ったら、そんなことを言われてしまった。反射的にまた謝ろうとして何とか飲み込んだ。
「フランって妖怪なのに、あんまり妖怪らしくないよね」
女の子が、鳶色の瞳で私の顔をのぞき込んできた。突然のことに驚いて、少し仰け反ってしまう。
「そう、かな?」
でも、言われてみればそんな気がする。本なんかを読んでいても、私ほど臆病で情けない妖怪は見たことがない。
「うん」
女の子が頷く。けど、その子にとってどうでもいいことみたいで、
「それよりも、本の話しよ」
その子にとっては、私のことよりも本のことを話す方が大切みたいだった。
◆
周りが薄暗くなり始めた頃、私は小春とともにアリスの話を聞いていた。
小春というのは、私に話しかけてきた本を読むのが好きだという女の子の名前だ。話してる途中で教えてくれた。
アリスは人形劇を終えた後に、私たちの間に入ってきた。最初は人形劇を見ていた子供たちも一緒に聞いていたんだけど、話を聞いているのが嫌になったのか、みんな途中でいなくなっていた。
「――と、まあ、この話にはこういった意味が隠されてるのよ」
「へえ、そうだったんだ」
私の隣に座る小春が感嘆したような声を出す。私も、アリスの蘊蓄に感心していた。何気なく読んでいた童話にそんな意味が隠されていたなんて興味を持つこともなかった。今度からは、そういうことに興味を向けながら読んでみるのも面白いかもしれない。
「すごいね、アリス」
私の知らない知識を持っているアリスを本心から褒める。
「まあね。人形劇をするために読み込んでいたら色々とわかったりするのよ。それに、そういうことを解説する本も何冊かあるわよ? パチュリーの所から借りたんだけど、フランは読んだことない?」
「うん。アリスの話を聞くまでそういうのに興味なかったから、素通りしてたと思う」
色んな知識を得たいと思う時があるから、興味のない本を読むこともある。けど、それは偶然目に止まった場合だけだ。あの数十、もしくは数百万以上の本がある図書館内での本との出会いはなかなかに貴重な物なのだ。
けど、そんな図書館を整理してくれている存在がいるから、こういう物を読みたいと言えば、すぐに持ってきてくれる。こあには感謝しなければいけない。そして、今日も帰ったらこあに探してくれるように頼んでみよう。
「いいなぁ、二人ともたくさん本が読めて」
小春が羨ましそうに言う。そういえば、里にはあまり本がないんだったっけ。私には本の少ない環境は堪えられないと思う。ほとんどの時間を、読書で潰しているから。
「じゃあ、フランに頼めばいいじゃない。幻想郷一、もしかしたら世界一の図書館のある館に住んでるのがフランなのよ」
「あっ、そっか! ねえフラン、いい?」
小春が身体を乗り出して、鳶色の瞳で私を見る。間近にある瞳には、期待が浮かんでいる。
「先に言っておくけど、私は付いていかないわよ。一人で頑張りなさい」
私が口を開こうとしたら、先に封じられてしまった。
小春に本を貸すには、再び人里へとやってこなければいけない。小春に館まで来てもらうわけにはいかないだろうから。
だから、またアリスに付いてきてもらおうと思ったのだ。まだまだ、一人でここまで来るのは怖いから。
けど、アリスにだって都合はあるんだろうし、いつまでも甘えてはいられない。それがわかっていても、決心がつかない。
「フランは明日、里まで本を持ってくる。でも、雨が降ってたら無理しなくてもいいよ」
「でも……」
怖い。だけど、断りたくないという気持ちもあって、その先の言葉は紡ぐことが出来ない。恐怖が私を縛り付け、期待されているということが私を進ませようとする。
二つの感情の相反は、私をうじうじと悩ませて前へと進ませない。
「フラン、小指出して」
「え?」
突然、そんなことを言われて反射的に小指を出してしまう。意識が内に向いていたせいで、考えるということが出来なかった。
私の出した小指へと小春の小指が絡められる。そして、空いた方の手で、二人の手を柔らかく包み込む。
「指きりげんまん、嘘ついたら、針千本飲ーます」
少々過激な歌詞の歌を歌いながら、小指を絡めあった手を上下に振る。私はされるがままとなるだけ。
「ゆーび切ったっ」
歌い終わって、指は離された。けど、今日知ったばかりの他人の温度はまだ残っている。そこには約束が一緒に混じっている。
無意識に、右手を左手で包み込む。温度が、約束が逃げてしまわないように。
「約束、したからね。大丈夫、私はフランの為に入り口の前で待っててあげるから。あ、そうすると時間も決めとかないといけないね。お昼過ぎでどうかな?」
小春は一人でどんどんと決めてしまう。けど、それは私のためなんだ。うじうじと悩んで、前に進み出せない私のために勝手に決めて引っ張ろうとしてくれてるんだ。
「……うん、いいよ」
結局私は、外に出ても引っ張ってくれる存在が必要なようだ。家の中ではお姉様が必要で、外に出るためにはアリスが必要で、外では小春が必要だ。どこだろうと、私は引っ張られる側にいる。
お姉様がこのことを知ったらどう思うんだろうか。それとも、もうすでに気付いているんだろうか。
「よし! 今の言葉、聞いたよ!」
嬉しそうな笑顔を浮かべて、小春は立ち上がった。辺りはすでに真っ暗となっている。
「じゃあ、私は帰るね。アリス、フランのことよろしくね!」
「ええ、任せてちょうだい」
そう言って、小春は走って帰ってしまう。辺りは真っ暗だけれど、家から漏れてくる明かりで、小春の向かう先はそれほど暗くはない。
「さてと、私たちも帰りましょうか」
「うん」
私たちは、小春の向かった先とは真逆の方向へと進んでいく。
向こうもこちらもその場を離れるお別れというのは初めてだったから、不思議な感慨が胸の内に浮かんでいる。
それだけじゃない。今度は、私の方から会いに行かないといけないのだ。今までそんなことは一度としてなかった。
相変わらず私は怖いと想っている。
けど、約束がある限りは、なんとかなる。
右手の小指の温度を意識しながら、そう思った。
◆
「おかえりなさい、フラン」
「……ただいま、お姉様」
館まで戻ってくると、玄関の前にお姉様が立っていた。私が帰るのを待っててくれたんだろうか。
お姉様におかえりなさいと言われるのは初めてだった。だから当然、ただいまと返すのも初めてだった。少し考えてしまったのは、そのせいだ。
おかえりなさいと言ってくれる人がいて、ただいまと言える場所があるっていうのはこういう気持ちなんだ。ただ、この言葉を耳にし、口にするだけで安心感を得られる。
それに合わせて、今日一日でたまった緊張が一気に抜けていくのがわかる。思わずため息をついてしまったくらいだ。ついでに、身体の力まで抜けそうになる。
「お疲れ様、フラン」
お姉様が笑いかけてくれる。それだけで、少しだけだけど元気が充填される。まだ、一人でも立っていられそうだ。
「それと、アリスもありがとう」
「これくらいお安いご用よ。また、何かあったら頼んでちょうだい」
「まあ、考えておくわ」
出発前のアリスの発言を思い出しているのか、返事は前向きと言えるようなものではなかった。アリスはさほど気にしてるみたいではないけど。
「遠慮しなくてもいいのに。ま、今日の所は帰らせてもらうわ。じゃあ、フラン、明日は頑張るのよ」
そう言い残して、アリスは闇夜の中へと飛び去る。そういえば、玄関先でアリスをお見送りするのは初めてかもしれない。
「さてと、中に入りましょうか。夕食はすぐに準備させるわ」
「うん」
館の中に入ると、お姉様は咲夜を呼んで食事の用意をするように言う。そのとき、咲夜にもおかえりなさいと言われた。やっぱりそれだけで安心感を得られることができた。
「フラン、アリスと外に出てみてどうだったかしら?」
咲夜が消えて、お姉様がそんなことを聞いてくる。
今日は色々と感じることが出来た。けど、まだまだ私なりの整理は出来ていない。
それでも、お姉様には聞いてほしかった。
今日、頑張れたのはお姉様との約束があったおかげなのだから。
「うん、今日はね――」
Fin
約束の大切さが改めて分かったような気がします
しかし案ずるより生むが易しで、最後には人間と打ち解けてよかったと心が温かくなりました。
前より悪くなるんじゃないかとウジウジと悩まずに行動してみる大切さを教えて頂きました。
子供の成長のワンシーンを見れたようで。