吐いた息が白かった。
毎年、秋も終わり頃になると朝はしんと冷えてきて、吐く息が白くなるものだ。
それで、わたしは今年の秋ももうすぐ終わるのだとわかった。
寒いのは苦手だ。
だいたい、妖精なんて適当なもので、季節の移り替わりと一緒に消えたり湧いたりするのはざらにいる。
やはり草花と同じように、冬の間は姿を消していて、春の雪解けと共に現れるようなのが多い。
数えたわけではないけど。多分、多い。
わたしは寒いのは苦手だけど、別に消えたりしない。
暑いのも苦手だけど、やっぱり消えずに幻想郷にずっといる。
その辺が、わたしがただの妖精じゃなくて、大妖精と呼ばれる所以なのかもしれない。
でも、関係ないかもしれない。
とりあえず、わたしも絶好調になるのは春だ。
春は、羽の先まで元気がみなぎる感じがする。
だから、わたしは白い息を吐きながら思う。
早く、春が来ないかなあ、と。
まだ、冬も来ていないのに。
まだ、冬も来ていないのに、春が来ないかなあ、とわたしは毎年思っている。
冬なんて、来なければいいのに。
そう、思っている。
自分の吐いた白い息を眺める朝がしばらく続くと、決まってふいにぎゅっと気温が下がる日が訪れる。
それが、冬がやって来る日。
それはまた、幻想郷にその年の初雪が降る日でもある。
そしてまた、チルノちゃんが神妙な顔で朝早くからわたしの所へ訪ねて来る日でもある。
チルノちゃんの神妙な顔は可笑しいけれど、笑ったことは無い。
何故か、妙にちぐはぐな感じがして、憂鬱な気分になるからだ。
「おはよう。大ちゃん。」
神妙な顔と神妙な声でチルノちゃんはわたしに挨拶をする。
「おはよう。チルノちゃん。」
平静な顔と平静な声でわたしも挨拶をする。努めてだ。
何故そうするのかは自分でも分からない。
でも、それがふさわしい感じがするから、そうする。
「今朝は寒いね。」
そんな風にもわたしは言うかも知れない。
我ながら白々しいと思うけど、その白々しさが無かったら、わたしはどんな顔をして立っていれば良いのか分からないから。
「あのね、大ちゃん。付き合って欲しい所があるんだけど。」
毎年の事だけど、チルノちゃんはそうやって改まって言う。
だから、わたしも結局毎年こう答える。
「いいよ、チルノちゃん。それで、どこへ行くの?」
そうして、チルノちゃんとわたしは連れ立って、とある峠を目指すことになる。
幻想郷の外れのその峠は、毎年必ず幻想郷で最初に雪が降る。
年によっては、その日、その峠にだけ雪が降る。
また年によっては、その日のうちに幻想郷全体に初雪が降る事もある。
でも、そんな年でも一番最初に降り始めるのはその峠だ。
そんな峠のてっぺんに、チルノちゃんは体育座りをして、じっと待っている。
わたしはお尻が冷たくて座っていられないから、チルノちゃんの側で立っている。
待っている時間も年によってまちまちだけど、いつでもわたしはそれが酷く長く感じられる。
チルノちゃんは石みたいにじっと動かず、何もしゃべらない。
みんなチルノちゃんを落ち着きが無い子のように思っているけれど、それは全くの間違いだという事がよくわかる。
チルノちゃんがとても我慢強くて根気がある事を、わたしは誰よりもよく知っている。
いい加減もう限界だ、とわたしが心の中でつぶやき出す頃、チルノちゃんが言う。
「あ。」
灰色の空からひらり、と雪片が落ちてきたのだ。
「降って来たね。」
わたしの言葉に、黙ってチルノちゃんがうなずく。
随分大人びて見えるチルノちゃんの横顔は、幾らか上気している。
それが、きりきりと肌を刺すような寒気によるものだけで無い事は確かだった。
こうやって、チルノちゃんとわたしは、毎年、幻想郷中で一番最初に雪を見る。
それを、素直に喜べないわたしの心は、やはりどこかが捻じくれてしまっているのだろうか。
降り出した雪は次第に勢いを増して、あたりは見る間に白く染まっていく。
目を凝らせば、やがて、そんな中を峠を登って来る影が幽かに見えてくる。
耳を澄ませば、次第に、厚みを増してゆく雪の絨毯を踏みしめる足音が聞こえてくる。
チルノちゃんは顔を伏せて、膝を抱えたまま身体を前後に揺らしている。
髪に、肩に、降り積もった雪を払い落とそうともせずにやって来る影は、最早その表情を視認できる程に近づいて来たのに。
それで、わたしは、黙って彼女と視線を絡ませ合う。
レティさんは、薄く微笑みながら、わずかにうなずいたようだった。
雪の中、ゆっくりとこちらへ歩み寄って来る雪女の姿は、しっくりと来る美しさだ。
そうして、目の前で立ち止まったレティさんに、膝小僧におでこをくっつけたまま、チルノちゃんは悪態をつく。
やれ「遅い。」だの、やれ「また太ったんじゃないの。」だのと。
レティさんは微笑んだまま、身をかがめて、なおも自分を詰るチルノちゃんの頭を、ぽんぽんと叩く。
「ただいま。チルノ。」
そうすると、もうチルノちゃんは我慢が出来なくなって、顔を上げるや否や、レティさんに飛び付くのだ。
「おかえりっ。レティ、おかえりっ。」
胸元にぐりぐりと顔を押し付けるチルノちゃんを、あやすように優しくレティさんは抱きしめる。
それは、そうあるべき、を体現した一枚の完成された絵画のように美しい光景だ。
本当に、過不足無く、完璧に美しい。
そしてわたしは、その絵の鑑賞者である。
一つの真理を私は悟っている。
作品とは、それを鑑賞する者があってはじめて作品足り得る。
それが為にわたしはチルノちゃんに連れられてこの場にいるのであり、従ってどこまでもわたしは鑑賞者でしかなかった。
どれほど作品の一部となりたいと焦がれようとも、作品と鑑賞者は厳然と分かたれている。
それはきっと、結界なのだろう。
チルノちゃんを馬鹿だという人は、馬鹿だ。
チルノちゃんは全く馬鹿ではない。
だってこうしてレティさんに抱きつきながら、レティさんがいない間にあんな事があった、こんな事があった、とずっと喋り続けている。
わたしだって覚えていないような、どんな小さな出来事だって、一つも漏らさずにだ。
堰を切って止まらない奔流のように、淀みなく喋り続けるチルノちゃんは、だから全然馬鹿なんかじゃない。
レティさんはその一つ一つに相槌を打ちながら、時折わたしの方に苦笑してみせる。
わたしはそれに、曖昧に笑みを作って応える。
「チルノ。私は当分逃げたりしないんだから。冬はこれから長いんだよ。」
そういってレティさんはまたチルノちゃんの頭をぽんぽんと叩く。
そうだ。冬は長い。
一年の四分の一しかないはずなのに、思いの外冬は長い。
わたしは絶え間無く白い欠片を振り撒く、灰色の空を仰いだ。
「大ちゃん。」
それを遮るように、レティさんの顔がにゅっと現れる。
「レティさん。」
わたしの目を覗き込むレティさんの瞳は、水晶のように澄んで綺麗だ。
目を逸らすのは癪で、わたしはじっと見つめ返しながら答える。
「私がいない間、ご苦労様。」
そう言って、いたずらっぽく笑いながらレティさんはチルノちゃんの方へちらりと視線を投げる。
「そんな。」
それだけ言って、わたしはうつむいてしまう。
そんな、そんな言い方はずるい。
わたしはそう言いたかった。
だって、そんな言い回しはあんまりにもずるいから。
それで、レティさんは、わたしに腕を回してきて、わたしをぎゅっと抱き締める。
雪女の抱擁は、意外にも暖かい。
レティさんの体からは、家自体が骨董品じみた、アンティークの家具と暖炉のある部屋みたいな匂いがした。
深く息を吸い込むと、いろんな、いろんな事が頭の中をぐるぐると回ってわけがわからなくなりそうだった。
わたしだって、チルノちゃんみたいに言いたい事がいっぱいあるんだ。
わたしが黙って腕の中でレティさんの顔を見上げると、水晶みたいな瞳は変わらずわたしを見下ろしていた。
それでわたしには、自分の言いたい事も、想っている事も、何もかも全部レティさんにはわかっているんだ、という事がわかる。
やっぱりレティさんはずるい。
結局、わたしは何も言えずに、水晶の瞳を見つめながら、一粒だけ涙をこぼしてしまう。
一粒だけしかこぼさない、それがせめてものささやかな、幼いわたしの矜持だった。
こぼれた一年分の一粒は、頬を伝って地面に落ちるまでに凍りついて、雪の絨毯に埋もれて見えなくなった。
「どーん。」
レティさんに抱き締められたわたしの背中に、チルノちゃんが飛びついてくる。
3人でぎゅうぎゅうと、おしくらまんじゅうをする。
容赦無く振り続ける雪の中で、ひとかたまりのわたしたちは、やがて雪だるまみたいになる。
そうやって、冬の間は、雪だるまになる。
春になれば、融けてしまうのだ。
吐いた息は白かった。
秋が終わる。
今朝はぎゅっと気温が下がって、肌を刺す寒気が、もうすぐチルノちゃんが迎えに来ることを告げていた。
今年も、冬が来るんだ。
わたしは慣れ親しんだいつものお下げをほどいて、反対側に結んでみた。
大して変わらなかった世界を眺めながら、わたしは呟いた。
冬なんて、来なければいいのに。
吹きすさぶ寒風に、お下げがいつもの反対側でざわりと揺れた。
とはやっぱり割り切れないよね、大ちゃん。
誰も悪くはないだけに、一層切なさが募りますね。
と、ここまで書いてきてふと気付いた。
大妖精の恋慕の対象が氷精ではなく雪女でも割と自然に物語が読めてしまうことに。
──とりあえず早く大人になれ、チルノちゃん。無理な注文かもしれんが。
結末がどうであれ、答えを見つけてスッキリしようぜ。
切ないお話ですね
もし大レティだとしたら、冬にしか来ないレティとの再会にもう少し嬉しさなんかが強調されるべきかなと思います。
よかったです。
割り切れない思いってのはどうしてもあるよね。それが、強い感情であればあるほど。