アリスは悩んでいた。
「何を着ていけば良いんだろう…。」
多少なりとも服はある。ただそれも衣替えの為だ。それは寒さを凌ぐ為だったり、肌を日に晒さない為だったり。用途は色々ある。ただ、自分を魅せる為に服を選ぼうというのは考えた事が無かった。私もそれなりに人として生きてきた事があったが、私の柄じゃないと解っていたから、時間の大半を魔法の研究に回した。興味が無かったのかと聞かれれば、少しはあった。思い出の中を探してみれば同じくらいの女性の格好が、妙に気になってスタイルを見比べてみたりした事もある。でも私は興味の無い振りをする。そんな時間は無いと自己を押しつぶしていた。だからこそ、魔法使いになった今。普通の子が悩む事とは違う面で悩まなければならない。
「これは少し派手よね…」
白を基調としたワンピース。いつ着たのか覚えてすらいなかった。それどころか、クローゼットからいくつか服を引っ張り出した時、こんなものあった?と首をかしげる。純白の横には藍のボレロ。そのまた横には黒のブラウス。この3つ。本人すら覚えて無い、アリスの女としてのわずかな抵抗の痕。3つを交互に見た後に、順番に着てみることにした。
手始めにワンピース。
「…ちょっとキツイかな…?」
何処がキツイとは言わないけれど。別に着られないレベルでは無い。
ワンピースの上からボレロを羽織って鏡の前に立ってみる。そこに居たのは見慣れない自分自身だ。
「んー…」
悪くは…無いと思う。とアリスはニヤケそうになる自分を抑えながら考えた。
元々スタイルには多少自信はあったし、外見も並くらいはあるだろう。これなら私はいつでも何処のパーティにでもいける気がする。
「でも、パーティに行くわけでは無いのだし。」
我に返って派手すぎると判断した。可愛い服ではあったけど、場違いすぎるのはよろしく無い。
「じゃあこれはどうだろ……」
黒のブラウスに袖を通す。先程見た少女のような可憐さとは対照的に大人の色気を感じさせるようだ。(と言ってもこれは私個人の意見であって、他人が見たらどう思うかは解らない。)
でも…やはり違う。私らしさを感じない。
それはまるで初デートで着ていく服を考える乙女そのものだ。しかし決定的違うのは、乙女は”何を着ていくか”で悩むだろう。だがアリスは違う。”何を着ていけば良いのか解らない”から悩んでいるのだ。非常に近いこの二つだが。その距離は幻想卿と外の世界ほどの違いがある。経験や知識を元に何を着ていくか悩む前者に対して。後者にはその二つが解らない。経験があるからある程度予測がつくもので、それに最適な服を選ぶのだろう。知識があるから何に気を付けるのかが解るのだろう。だが後者は?何も無いのだ。
ならばとアリスは、開き直った。
――私が幻想卿で、普通の子が外の世界と例えるならば。私は常識に囚われない。
結局服はいつものにした。ただそれだけじゃ少し不安になるから。例えばアクセサリーを付けてみた。解らない程度の十字のネックレス。申し訳なさそうのブレスレット。何の味気のないピアスを付けて。今はこの3つが私を支えている。自信なんて無いけれど。アクセサリーとか服装とかで誤魔化すつもりは無いけれど。それでも不安を無くす為の努力をしてみる。
頭と胸元にはお気に入りのリボンを付けて。彼女の待つ場所へ行こう。時間はまだ早いけど。家で落ち着いて入れるわけでもないし、遅刻なんてしたら私は私を嫌になる。不安と期待を半々に、待ってみるのも悪くないかもしれない。
――◆
「あややや?アリスさんじゃないですか。どうしたんですか?お出かけですか?」
魔法の森を少し歩いた所で、この天狗に捕まった。正直今は一番面倒な奴に目を付けられてしまったかもしれない。
「えぇ、少し人と会う約束があってね。」
それじゃ、と手を挙げてその場を去ろうとする。だが相手はあの新聞屋だ。そう簡単に逃がしてくれるわけも無く。
「まぁまぁ急ぐ道でもないでしょう?どなたと会うんですか?」
頭を抱える。スキャンダルの匂いでも嗅ぎつけたのか、手帖を取り出して、ペンをくるくる回している。面倒だ。どうにか去ってもらうとしよう。
「悪いけど、知られたくは無い事なのよ。どうにか見逃してくれない?」
「そうなんですか?でも解っていますよね?タダで見逃す程甘くは無いですよ?」
つまりこれは脅しているのか。見逃してほしければ何かよこせと言った感じだろうか。
「タダとは思っていないけど。本当ならここで貴女をねじ伏せても良いけど本当に時間が無いのよ。だから何とかならないかしら。」
「そうですか。アリスさんとの弾幕ごっこも楽しそうではありますが。良いですよ。ではアリスさんの耳で光るそのピアスを頂けますか?」
これは変わった要求だな、とアリスは目を丸くした。そんなに使う機会も無い物だし。天狗がそれで見逃すというなら安いものだろう。だがどうして――。
「どうしてピアスなのかしら?」
聞くと天狗は少し目を泳がせてから、
「高く売れるかな、とか思いまして。」
とだけ言った。何というか、こうまで嘘なのだと解りやすいと天狗も可愛く見えるものだ。
「光りものに惹かれたのかしら、カラスさん。」
「これは手厳しい。それでは私は失礼しますね。アリスさん、頑張ってください。」
去り際に天狗は右手でピアスを遊ばせながら、慈しむようにそれを見ていた。そこに普段では見れないような横顔を残して天狗は去っていった。
「ん…”頑張って”……?」
大体察していたのだろうか。捏造でもされなければ良いが。とだけ考えてから、その考えを正す。少なくとも、彼女の残した横顔に嘘偽りは無かったろう。そこまで気にする事でも無いのかもしれないと上書きする。
魔法の森を真っ直ぐ進む。待ち合わせの場所まであと少し。
――◆
待ち合わせの大木に、本の虫がついていた。
「これはまた。昼に誰かに会うのは久しぶりだわ。」
紫の魔女が気配を察して、本から目を離す。かつては魔法について語り明かした事もある仲の彼女だ。普段なら世間話のひとつでもしようと言った所だが。生憎今日の私は他人に余り見られたくない。
「ごきげんようパチュリー。そう言えばここは貴女の”家”だったかしら。」
「あらアリス。貴女まで皮肉を言うのね。」
ちょっとムスっとしていたが、それもすぐに変わる。しっかり私の顔を見るようになったし(それでも一瞬覗くようにだが)表情が豊か(あくまで前と比べれば)になっているなと感じた。
「ねぇパチュリー。良い事でもあったの?」
「別に。何かあったかと言われれば引っ越しが決まった事くらいかしら。」
「本が多くて引っ越しが大変そうね。準備はもう良いのかしら?」
一瞬だけパチュリーの家のほうを見つめてからすぐに戻す。紫の魔女もまた、その一瞬を見落とす事無く立ち上がった。
「そうね…大体すんでは居るんだけど。最後にあの小さすぎる図書館に挨拶でもしてこようかしら。」
「あら、家じゃなくて?」
「家は此処なのでしょう?」
こういった所は相変わらずと言った所だろうか。人の揚げ足をとって楽しんでいる。それはとても優しいジョーク。昔のようなトゲは感じられない。
「そうだわ、餞別よ、受け取って頂戴。」
胸元からネックレスを外して、飛びかけた魔女に投げる。何て皮肉だろう。それはクロス。彼女の家の主の天敵だ。私も私なりの皮肉を返した。
何か面白い悪戯でも浮かんだのか。クス、と笑って本の虫は飛んでいく。大木に背を向け振りかえる事無く。何を残すわけでもなく去って行った。
――◆
静かになった。遠くで聞こえるのは雀の歌声。近くに聞こえるのは木々のざわめき。鼻には日の香りを。瞼には微かに強い日差し。口には透き通った空気の味を。肌には人のぬくもりを。
―――……
「――え?」
気付けば日は落ち、緑は朱色と混ざり間もなく黒がやってくる。そんな時間だった。
「起きたかアリス。」
とても優しく。落ち着いた声。
「――あ、私」
体を起こすと私は魔理沙に体を預けていたらしい事に気付く。なんて事だろう。
「あんまり気持ちよさそうに寝てるものだから、ついに起こせなかったんだぜ」
そういうことらしい。私は待ち合わせの場所に着たまでは良いが、余りに気持ちが良いものだから、寝てしまっていたのだ。何てマヌケ。
「魔理沙ぁ…」
つい弱々しく声を漏らしてしまった。だがもう止まらない。悔しいのか悲しいのか。瞼が熱くなってきた。
「お、おいどうしたんだよアリス。」
魔理沙の胸に飛び込んで、一言ごめんと呟いた。
「どうして謝るんだ?」
キョトンとした顔で、魔理沙は胸の中で謝って来たアリスをどうしたらいいか解らないと言った感じだった。
「だって、それは―――。」
「今日の事を気にするなら、別に良いんだぜ。中々楽しませてもらったし。寝言とか。」
みるみる顔が赤くなった。待ち合わせ場所で寝ているだけでは飽き足らず、寝言までぼやいていたのか私は。
「でももう日も暮れて…うう……」
「一体どうしたんだぜ?らしくもない。」
「だって……たとえば昨日から楽しみで寝れなかったとか。服選びに凄い時間がかかった事とか。精一杯のお洒落は気付けばブレスレットだけとか。色々私なり頑張ったのに……なのに寝ちゃって居た何て……」
地面を見つめてブツブツと、口調は呪いを吐くように淡々としていた。悔しさが口から溢れて、こんな事を魔理沙に向って言っても意味なんて無いのに、懺悔のように呟いた。
それでもその手は魔理沙の服から手を離さない。いっそ抱きついてしまえとか思った瞬間もありはしたが、自分の理性とプライドがそれを許さない。小さくパンプキン袖の端のほうを、チョコンと掴んだだけだが。
「あぁ、そのブレスレットってお洒落だったのか。まったく、何かの魔除けなのかと思ったんだぜ。」
そしてトドメの一撃が入る。これは綺麗に入ったものだ。もう起きれない。美しいまでの一撃が。
「あぁ…髪のクセも戻っている…。サラサラストレートにしてきた筈なのに…あうぅ…」
「だからか。にしてもその二つがあるだけで、うん大分印象違うよな。髪もまだちょっと不自然な感じだし。」
そういうと魔理沙は私の頭を急に揉みくちゃにしてきた。それでも決して乱暴な手つきでは無い。気のせいかもしれないけれど。
「ちょ、何よ…!急にぃー!いたた、痛いってばもう!」
「おー、大分元に戻ったぞ。後はそのブレスレットだな。なぁアリス、ちょっとそれ貸してくれよ。死ぬまで借りるけど。」
もうヤケだ。知った事じゃない。ブレスレットを投げるように魔理沙にぶつける。
「怒ってる?」
「知らないわよ!もう!」
私が怒って見せると、何を満足したのかウンウン頷いて
「やっといつものアリスだな」
と笑っていた。
一瞬胸が弾んだ。魔理沙は魔理沙なりに励ましてくれてたのかな。顔が紅潮するのが解る。身体が火照るのも解る。
しばしの無言。私は居心地悪そうにしているのに。魔理沙は何が嬉しいのか笑っている。
「ねぇ魔理沙。私ちょっと風に当たりたい。」
その様子がちょっと腹が立ったものだから。上から目線で言ってやった。
「そういうことなら喜んで。きっとこの時間ならアリスが見た事の無い風景が広がってるぜ。」
「そう、それは楽しみね。それじゃあよろしく」
彼女の箒にまたがって、ゆっくり空へ昇って行く。
「危ないから、しっかり捕まれよ。」
別に私は飛べるけど。とは言わない。これが私の精一杯の甘え。
「…うん。」
小さく頷いて身体は魔理沙に預けた。先程まで寝ていた時と同じぬくもりを、今度は
両手いっぱいに感じて。その背中に一言、ありがとうとだけ呟いた
――◆
黒と朱が混じる時間。その境界をなぞるように進む影二つ。影が動く、時に後ろの影が前を叩き、時に後ろと前の影が一つになる。
忙しそうな影一つ。夕日に当たって影の腕が光る。見ると腕にはブレスレットがしてあった。
――やっぱりそれ、魔除けになるかも知れないわ。変な虫が寄らないようなね。
「何を着ていけば良いんだろう…。」
多少なりとも服はある。ただそれも衣替えの為だ。それは寒さを凌ぐ為だったり、肌を日に晒さない為だったり。用途は色々ある。ただ、自分を魅せる為に服を選ぼうというのは考えた事が無かった。私もそれなりに人として生きてきた事があったが、私の柄じゃないと解っていたから、時間の大半を魔法の研究に回した。興味が無かったのかと聞かれれば、少しはあった。思い出の中を探してみれば同じくらいの女性の格好が、妙に気になってスタイルを見比べてみたりした事もある。でも私は興味の無い振りをする。そんな時間は無いと自己を押しつぶしていた。だからこそ、魔法使いになった今。普通の子が悩む事とは違う面で悩まなければならない。
「これは少し派手よね…」
白を基調としたワンピース。いつ着たのか覚えてすらいなかった。それどころか、クローゼットからいくつか服を引っ張り出した時、こんなものあった?と首をかしげる。純白の横には藍のボレロ。そのまた横には黒のブラウス。この3つ。本人すら覚えて無い、アリスの女としてのわずかな抵抗の痕。3つを交互に見た後に、順番に着てみることにした。
手始めにワンピース。
「…ちょっとキツイかな…?」
何処がキツイとは言わないけれど。別に着られないレベルでは無い。
ワンピースの上からボレロを羽織って鏡の前に立ってみる。そこに居たのは見慣れない自分自身だ。
「んー…」
悪くは…無いと思う。とアリスはニヤケそうになる自分を抑えながら考えた。
元々スタイルには多少自信はあったし、外見も並くらいはあるだろう。これなら私はいつでも何処のパーティにでもいける気がする。
「でも、パーティに行くわけでは無いのだし。」
我に返って派手すぎると判断した。可愛い服ではあったけど、場違いすぎるのはよろしく無い。
「じゃあこれはどうだろ……」
黒のブラウスに袖を通す。先程見た少女のような可憐さとは対照的に大人の色気を感じさせるようだ。(と言ってもこれは私個人の意見であって、他人が見たらどう思うかは解らない。)
でも…やはり違う。私らしさを感じない。
それはまるで初デートで着ていく服を考える乙女そのものだ。しかし決定的違うのは、乙女は”何を着ていくか”で悩むだろう。だがアリスは違う。”何を着ていけば良いのか解らない”から悩んでいるのだ。非常に近いこの二つだが。その距離は幻想卿と外の世界ほどの違いがある。経験や知識を元に何を着ていくか悩む前者に対して。後者にはその二つが解らない。経験があるからある程度予測がつくもので、それに最適な服を選ぶのだろう。知識があるから何に気を付けるのかが解るのだろう。だが後者は?何も無いのだ。
ならばとアリスは、開き直った。
――私が幻想卿で、普通の子が外の世界と例えるならば。私は常識に囚われない。
結局服はいつものにした。ただそれだけじゃ少し不安になるから。例えばアクセサリーを付けてみた。解らない程度の十字のネックレス。申し訳なさそうのブレスレット。何の味気のないピアスを付けて。今はこの3つが私を支えている。自信なんて無いけれど。アクセサリーとか服装とかで誤魔化すつもりは無いけれど。それでも不安を無くす為の努力をしてみる。
頭と胸元にはお気に入りのリボンを付けて。彼女の待つ場所へ行こう。時間はまだ早いけど。家で落ち着いて入れるわけでもないし、遅刻なんてしたら私は私を嫌になる。不安と期待を半々に、待ってみるのも悪くないかもしれない。
――◆
「あややや?アリスさんじゃないですか。どうしたんですか?お出かけですか?」
魔法の森を少し歩いた所で、この天狗に捕まった。正直今は一番面倒な奴に目を付けられてしまったかもしれない。
「えぇ、少し人と会う約束があってね。」
それじゃ、と手を挙げてその場を去ろうとする。だが相手はあの新聞屋だ。そう簡単に逃がしてくれるわけも無く。
「まぁまぁ急ぐ道でもないでしょう?どなたと会うんですか?」
頭を抱える。スキャンダルの匂いでも嗅ぎつけたのか、手帖を取り出して、ペンをくるくる回している。面倒だ。どうにか去ってもらうとしよう。
「悪いけど、知られたくは無い事なのよ。どうにか見逃してくれない?」
「そうなんですか?でも解っていますよね?タダで見逃す程甘くは無いですよ?」
つまりこれは脅しているのか。見逃してほしければ何かよこせと言った感じだろうか。
「タダとは思っていないけど。本当ならここで貴女をねじ伏せても良いけど本当に時間が無いのよ。だから何とかならないかしら。」
「そうですか。アリスさんとの弾幕ごっこも楽しそうではありますが。良いですよ。ではアリスさんの耳で光るそのピアスを頂けますか?」
これは変わった要求だな、とアリスは目を丸くした。そんなに使う機会も無い物だし。天狗がそれで見逃すというなら安いものだろう。だがどうして――。
「どうしてピアスなのかしら?」
聞くと天狗は少し目を泳がせてから、
「高く売れるかな、とか思いまして。」
とだけ言った。何というか、こうまで嘘なのだと解りやすいと天狗も可愛く見えるものだ。
「光りものに惹かれたのかしら、カラスさん。」
「これは手厳しい。それでは私は失礼しますね。アリスさん、頑張ってください。」
去り際に天狗は右手でピアスを遊ばせながら、慈しむようにそれを見ていた。そこに普段では見れないような横顔を残して天狗は去っていった。
「ん…”頑張って”……?」
大体察していたのだろうか。捏造でもされなければ良いが。とだけ考えてから、その考えを正す。少なくとも、彼女の残した横顔に嘘偽りは無かったろう。そこまで気にする事でも無いのかもしれないと上書きする。
魔法の森を真っ直ぐ進む。待ち合わせの場所まであと少し。
――◆
待ち合わせの大木に、本の虫がついていた。
「これはまた。昼に誰かに会うのは久しぶりだわ。」
紫の魔女が気配を察して、本から目を離す。かつては魔法について語り明かした事もある仲の彼女だ。普段なら世間話のひとつでもしようと言った所だが。生憎今日の私は他人に余り見られたくない。
「ごきげんようパチュリー。そう言えばここは貴女の”家”だったかしら。」
「あらアリス。貴女まで皮肉を言うのね。」
ちょっとムスっとしていたが、それもすぐに変わる。しっかり私の顔を見るようになったし(それでも一瞬覗くようにだが)表情が豊か(あくまで前と比べれば)になっているなと感じた。
「ねぇパチュリー。良い事でもあったの?」
「別に。何かあったかと言われれば引っ越しが決まった事くらいかしら。」
「本が多くて引っ越しが大変そうね。準備はもう良いのかしら?」
一瞬だけパチュリーの家のほうを見つめてからすぐに戻す。紫の魔女もまた、その一瞬を見落とす事無く立ち上がった。
「そうね…大体すんでは居るんだけど。最後にあの小さすぎる図書館に挨拶でもしてこようかしら。」
「あら、家じゃなくて?」
「家は此処なのでしょう?」
こういった所は相変わらずと言った所だろうか。人の揚げ足をとって楽しんでいる。それはとても優しいジョーク。昔のようなトゲは感じられない。
「そうだわ、餞別よ、受け取って頂戴。」
胸元からネックレスを外して、飛びかけた魔女に投げる。何て皮肉だろう。それはクロス。彼女の家の主の天敵だ。私も私なりの皮肉を返した。
何か面白い悪戯でも浮かんだのか。クス、と笑って本の虫は飛んでいく。大木に背を向け振りかえる事無く。何を残すわけでもなく去って行った。
――◆
静かになった。遠くで聞こえるのは雀の歌声。近くに聞こえるのは木々のざわめき。鼻には日の香りを。瞼には微かに強い日差し。口には透き通った空気の味を。肌には人のぬくもりを。
―――……
「――え?」
気付けば日は落ち、緑は朱色と混ざり間もなく黒がやってくる。そんな時間だった。
「起きたかアリス。」
とても優しく。落ち着いた声。
「――あ、私」
体を起こすと私は魔理沙に体を預けていたらしい事に気付く。なんて事だろう。
「あんまり気持ちよさそうに寝てるものだから、ついに起こせなかったんだぜ」
そういうことらしい。私は待ち合わせの場所に着たまでは良いが、余りに気持ちが良いものだから、寝てしまっていたのだ。何てマヌケ。
「魔理沙ぁ…」
つい弱々しく声を漏らしてしまった。だがもう止まらない。悔しいのか悲しいのか。瞼が熱くなってきた。
「お、おいどうしたんだよアリス。」
魔理沙の胸に飛び込んで、一言ごめんと呟いた。
「どうして謝るんだ?」
キョトンとした顔で、魔理沙は胸の中で謝って来たアリスをどうしたらいいか解らないと言った感じだった。
「だって、それは―――。」
「今日の事を気にするなら、別に良いんだぜ。中々楽しませてもらったし。寝言とか。」
みるみる顔が赤くなった。待ち合わせ場所で寝ているだけでは飽き足らず、寝言までぼやいていたのか私は。
「でももう日も暮れて…うう……」
「一体どうしたんだぜ?らしくもない。」
「だって……たとえば昨日から楽しみで寝れなかったとか。服選びに凄い時間がかかった事とか。精一杯のお洒落は気付けばブレスレットだけとか。色々私なり頑張ったのに……なのに寝ちゃって居た何て……」
地面を見つめてブツブツと、口調は呪いを吐くように淡々としていた。悔しさが口から溢れて、こんな事を魔理沙に向って言っても意味なんて無いのに、懺悔のように呟いた。
それでもその手は魔理沙の服から手を離さない。いっそ抱きついてしまえとか思った瞬間もありはしたが、自分の理性とプライドがそれを許さない。小さくパンプキン袖の端のほうを、チョコンと掴んだだけだが。
「あぁ、そのブレスレットってお洒落だったのか。まったく、何かの魔除けなのかと思ったんだぜ。」
そしてトドメの一撃が入る。これは綺麗に入ったものだ。もう起きれない。美しいまでの一撃が。
「あぁ…髪のクセも戻っている…。サラサラストレートにしてきた筈なのに…あうぅ…」
「だからか。にしてもその二つがあるだけで、うん大分印象違うよな。髪もまだちょっと不自然な感じだし。」
そういうと魔理沙は私の頭を急に揉みくちゃにしてきた。それでも決して乱暴な手つきでは無い。気のせいかもしれないけれど。
「ちょ、何よ…!急にぃー!いたた、痛いってばもう!」
「おー、大分元に戻ったぞ。後はそのブレスレットだな。なぁアリス、ちょっとそれ貸してくれよ。死ぬまで借りるけど。」
もうヤケだ。知った事じゃない。ブレスレットを投げるように魔理沙にぶつける。
「怒ってる?」
「知らないわよ!もう!」
私が怒って見せると、何を満足したのかウンウン頷いて
「やっといつものアリスだな」
と笑っていた。
一瞬胸が弾んだ。魔理沙は魔理沙なりに励ましてくれてたのかな。顔が紅潮するのが解る。身体が火照るのも解る。
しばしの無言。私は居心地悪そうにしているのに。魔理沙は何が嬉しいのか笑っている。
「ねぇ魔理沙。私ちょっと風に当たりたい。」
その様子がちょっと腹が立ったものだから。上から目線で言ってやった。
「そういうことなら喜んで。きっとこの時間ならアリスが見た事の無い風景が広がってるぜ。」
「そう、それは楽しみね。それじゃあよろしく」
彼女の箒にまたがって、ゆっくり空へ昇って行く。
「危ないから、しっかり捕まれよ。」
別に私は飛べるけど。とは言わない。これが私の精一杯の甘え。
「…うん。」
小さく頷いて身体は魔理沙に預けた。先程まで寝ていた時と同じぬくもりを、今度は
両手いっぱいに感じて。その背中に一言、ありがとうとだけ呟いた
――◆
黒と朱が混じる時間。その境界をなぞるように進む影二つ。影が動く、時に後ろの影が前を叩き、時に後ろと前の影が一つになる。
忙しそうな影一つ。夕日に当たって影の腕が光る。見ると腕にはブレスレットがしてあった。
――やっぱりそれ、魔除けになるかも知れないわ。変な虫が寄らないようなね。
野暮かもしれませんが幻想「郷」ですよ