昨晩の雨が嘘だったのかのような雲ひとつない夜空を憎々しげに見上げる。普段なら心地良い月の光も、今は嫌味としか感じられない。
テラスに置かれた机に頬杖をつき、苛立ちを隠そうともせずに紅茶を一気に飲み干した。
「妹様、お気持ちはわかりますが機嫌を直してください。折角の紅茶が不味くなってしまいますわ」
音もなく現れてカップにお代わりを注ぐ従者が困ったような笑顔を向けてきた。前まではお姉様に付きっきりだったが、最近は私に付き合ってくれることも多くなった。
「初めて魔理沙が誘ってくれた宴会だったから楽しみにしてたんだよ。それなのに!」
神社の宴会に参加したことは何度かあった。でも、招かれるのはいつもお姉様で、私はお姉様に付いていっただけ。
だから、今回魔理沙に誘われたときはすごく嬉しかった。お姉様の妹としてはなく、フランドール・スカーレットとして私を見てくれる彼女が私は大好きだ。そんな彼女に誘われたのだから気分が高揚してしまうのも仕方ないだろう。
それに今回は普通の宴会じゃなくて七夕のお祭りだった。七夕の夜に短冊という紙に願い事を書いて笹に吊るすと、その願い事が叶う。パチェにそう教えてもらった。それからは寝ても覚めても短冊に書く願い事のことばかり考えていた。お姉様と仲直り出来ますように……はもう叶ったんだった。ずっと健康でいられますように……はありきたりな気がする。それとも――
悩みに悩んだ末、これしかない! という願い事を一つ決めた。
私はすぐにその願い事を短冊に書くことにした。「まだ早いわよ」とお姉様は笑っていたけど、忘れないうちに書いておきたい、と言ったらすぐに短冊を用意してくれた。
書き終わったのは夜もだいぶ更けた頃だった。夜更かしして明日体調を崩したら元も子もない。短冊を大事にポケットに仕舞うと、お姉様におやすみとあいさつしてすぐにベッドに入った。
ポケットの中の短冊に触れるだけで、明日はどれだけ楽しいだろうと考えるだけで、幸せな気分になった。落ち着け、落ち着けと自分に言い聞かせてもなかなか眠れない。「遠足の前の日」ってこういう気分なのかな。明日はどんなに楽しいだろう、心に描きながら私は眠りについた。
それなのに――
「雨が降るなんて、酷いじゃない……」
そんなに強い雨ではなかったから、宴会は場所を博麗神社の建物内に移して開かれたらしい。もとより宴会に来るような連中のなかに多少の雨を気にするような人妖はほとんど居ない。
ただ2人の例外を除いて。
「お嬢様も妹様もお気の毒ですが、仕方ないですわ。吸血鬼にとって雨は天敵なのですから」
「そんなことわかってるわよ。分かってるけどさ……」
前日までの期待が大きかっただけに、宴会に行けないと分かった時の落胆は酷かった。気を利かせた美鈴が小さな笹を持ってきて飾りつけてくれたが、塞ぎこんだ気分は晴れなかった。
夜が明ける頃には雨は止み、今は雲ひとつない星空が広がっている。しかし、昨晩雨が降ったという事実に変わりはなく、庭のあちこちに出来た水たまりや、テラスの隅で無残にもびしょ濡れになった笹が目に入る。ポケットの中に入れっぱなしだった短冊を、くしゃりと握りつぶした。
「ねえ、咲夜」
「なんでしょうか、妹様」
「織姫は年に一度天の川を渡って彦星に逢いに行けるのよね」
「ええ、そうです」
「でもさ、雨が降ったらどうなってしまうの?」
「雨が降ったときは――」
天帝の怒りを買い、天の川の両岸に引き離されてしまった織姫と彦星。しかし、永遠に会えないのではさすがに可哀想と思った天帝は、年に一度だけ逢うことを許した。年に一度、七夕の日になるとどこからともなくカササギが集まってきて橋を渡し、二人は逢うことが出来る。
しかし、七夕の日に雨が降ると川の水かさが増し、織姫は渡ることが出来ず彦星に逢うことが出来ない。
「それじゃ、1年間待ち続けた織姫と彦星は、もう1年待たなきゃいけないの?」
「二人が逢うことを許されたのは7月7日その日だけ。ですから今年逢えなかった二人は来年まで引き離されたままですわ」
「……なんかさ、今の私みたいだね」
自嘲気味に笑って咲夜を見る。
「初めて魔理沙に誘ってもらったのに、雨のせいで会えずじまい。次に誘ってもらえるのはいつになるんだろうね」
そのまま机に突っ伏した。お行儀が悪いけど、とても真っ直ぐ座る気分にはなれなかった。今夜はこのまま寝てしまおうか。まだ寝る時間には早いけど、どうせ起きていたって何もやる気は起きないのだ。
「次に誘ってもらえるのがいつかは分かりませんが」
だから、話しかけてきた咲夜の言葉もほとんど聞き流すつもりでいた。
「会うだけならもうすぐ出来そうですよ?」
いたずらっぽく笑う咲夜の視線の先に、こちらへ向かってくる人影を見つけるまでは。
「魔理沙!?」
ガバっと跳ね起きた私の目の前、軽快な音を立てて着地した魔理沙は
「ああ、霧雨魔理沙だぜ。あ、私はストレートティーにしてくれ。砂糖は多めで」
と、いつものにかっとした笑顔を浮かべた。
「悪いなフラン。本当はもっと早く来たかったんだが、ちょうどいい大きさのがなかなか見つからなくてな」
ほら、と目の前に差し出された物を思わず受け取ると、それは1メートルぐらいの小さな笹だった。
なんで? という疑問を見て取ったのか、笑顔をそのままに説明してくれた。
「昨日雨降ったから、フランは昨日の七夕祭に参加できなかっただろ? せっかくの七夕なのに何もできないんじゃ可哀想だから、フランのために一日遅れでも七夕をやってやろうと思ってさ」
それに昨日は星が見えなかったからな、と振り返って空を見上げる魔理沙。さっきまで出ていた半月はいつの間にか山の影に沈み、天の川が一層はっきり見える。
「あー、でも私が出るまでもなかったみたいだな」
テラスの隅に置かれた笹に気づいたのか、残念そうに頬をかく魔理沙。
「そんなことない! 私は魔理沙と一緒に七夕やりたい!!」
飾り付けはほとんど美鈴がやったから、私はほとんど触ってない。
そう言うと、魔理沙は「それじゃ、こっちは私とフランの二人で飾ろうぜ」と、どこからかキラキラ光る飾りを取り出した。
「でもさ、織姫と彦星に嫉妬されちゃいそうだね」
飾り付けを終えて、二人並んで椅子に座り紅茶を飲む。笹はテラスの端に括りつけてある。空から一番見えやすい位置だ。
「織姫と彦星は1年待たなきゃいけないのに、私はすぐに魔理沙に会えたから」
「雨が降ると天の川が増水して渡れなくなる、って話か」
「うん。ひどい話だよね。もし来年の七夕に雨が降ったら、二人はまた1年待たなきゃいけなくなるのよね。いくらなんでも可哀想だよ」
魔理沙なら同意してくれるだろうと思って横を見る。でも、魔理沙は、んー、と唸って空を見上げていた。
「いや、私は違うと思うぜ」
考えが纏まったのか、紅茶を一口飲んでから彼女はそう切り出した。
「昨日は雨が降ったけど、織姫と彦星は逢えたと思うんだ」
「え? でも雨が降ったら二人は逢えないって咲夜が……」
「そう、伝承ではそう言われている」
でもな、伝承通りだとおかしいことがあるんだ。魔理沙は続けた
「催涙雨って知ってるか?」
「さいるいう?」
「そう、涙を催す雨と書いて催涙雨。七夕の日に降る雨をそう呼ぶんだ。昨日降った雨みたいに、な」
雨が降って天の川が増水すると、織姫は川を渡ることは出来ず、織姫と彦星は逢うことが出来ない。
悲しむ二人が流した涙が雨となって地上に降り注ぐんだと言われている。
「だけど、それっておかしいと思わないか?」
「おかしいって、何が?」
ちょっと考えればわかることなんだがな、と人差し指を立てて魔理沙が話し始める。
「まず、どうして織姫は泣いているんだっけ?」
「どうしてって……川が増水して渡れないからでしょ」
こんな当たり前のことを聞いて魔理沙は何が言いたいんだろう。
「じゃあ、川が増水したのはなんでだ?」
「雨が降ったからよ、昨日みたいに」
ますます訳がわからない。困惑した目で魔理沙を見たが、いつもの自信満々な顔で笑いかけてくるだけだった。
「じゃあこれが最後の質問だフラン、よく考えろよ。雨が降った原因は?」
「魔理沙が言ったんじゃない、川を渡れなかった織姫が涙を流したからだって……あっ」
織姫が泣いているのは川を渡れないから。
川を渡れないのは雨が降って川が溢れたから。
でも、雨が降ったのは――織姫が泣いたから。
「雨が降ったから織姫は川を渡れないのに、雨の原因は川を渡れなくて流した涙なんだ……」
「気づいたみたいだな」
優しい笑顔をした魔理沙が続ける。
「雨が降ったのは織姫が泣いたから、織姫が泣いたのは雨が降って川を渡れないから、でもその雨が降ったのは織姫が泣いたから。堂々巡りだな」
ティーカップをテーブルに置くと、魔理沙は立ち上がってテラスの端の方に歩いていく。
「七夕に降る雨は愛しい人に逢えない悲しみで流した涙だと考えるとおかしなことになっちまう。だから七夕に降る雨の理由は他にあるとk考えるのが自然だろ?」
星の光が降り注ぐ位置まで歩くと、くるっと半回転して振り向いた。視線がぴたりと合う。
「その雨はきっと、愛する人に逢えた嬉しさで流した涙だと思うぜ」
遠い遠い空の上。織姫と彦星は1年ぶりに再会した。
愛する人と離れ離れになったふたりにとって、1年という長さは何倍にも何十倍にも感じられただろう。
そんなふたりがようやく逢えたのだ。ふたりは抱きしめあい、喜びのあまり涙を流したかもしれない。
零れた涙はやがて地上まで落ちてきて雨を降らせる。空を覆う厚い雲は、ふたりの時間を誰にも邪魔されないように、という天帝からのプレゼント。
「私が勝手に思ってるだけなんだけどな」
照れくさそうに笑う魔理沙に、そんなことないわ、と私も立ち上がり、彼女の隣に並んだ。見上げると天の川がちょうど真上に見える。星が多すぎて私にはどれが織姫でどれが彦星なのかわからない。でも、それでいい気がした。見つけたら、ふたりきりの時間を邪魔してしまうかもしれないから。
不意に、ポケットに入れたままの短冊を思い出して、横に立つ魔理沙に聞いてみた。
「ねえ魔理沙。今から短冊吊るしても、間に合うかな?」
「間に合うさ。あいつらの涙のせいで1日我慢したんだ。叶わないと割に合わないぜ」
「そっか。そうだよね!」
クシャクシャになった短冊を取り出して、丁寧にしわを伸ばす。そして笹のてっぺん、空から一番見えやすい所に赤い糸でしっかりと吊り下げた。
「見たらダメだよ」
「わかってるよ。人の願い事なんて見るものじゃないぜ」
願い事は、心のなかにしまっておくものだからな。そう言って、くしゃりと髪を撫でられる。
心地良い感触に身を任せて目を閉じる。笹は、夜風に吹かれてサラサラと涼しげな音を奏でていた。
テラスに置かれた机に頬杖をつき、苛立ちを隠そうともせずに紅茶を一気に飲み干した。
「妹様、お気持ちはわかりますが機嫌を直してください。折角の紅茶が不味くなってしまいますわ」
音もなく現れてカップにお代わりを注ぐ従者が困ったような笑顔を向けてきた。前まではお姉様に付きっきりだったが、最近は私に付き合ってくれることも多くなった。
「初めて魔理沙が誘ってくれた宴会だったから楽しみにしてたんだよ。それなのに!」
神社の宴会に参加したことは何度かあった。でも、招かれるのはいつもお姉様で、私はお姉様に付いていっただけ。
だから、今回魔理沙に誘われたときはすごく嬉しかった。お姉様の妹としてはなく、フランドール・スカーレットとして私を見てくれる彼女が私は大好きだ。そんな彼女に誘われたのだから気分が高揚してしまうのも仕方ないだろう。
それに今回は普通の宴会じゃなくて七夕のお祭りだった。七夕の夜に短冊という紙に願い事を書いて笹に吊るすと、その願い事が叶う。パチェにそう教えてもらった。それからは寝ても覚めても短冊に書く願い事のことばかり考えていた。お姉様と仲直り出来ますように……はもう叶ったんだった。ずっと健康でいられますように……はありきたりな気がする。それとも――
悩みに悩んだ末、これしかない! という願い事を一つ決めた。
私はすぐにその願い事を短冊に書くことにした。「まだ早いわよ」とお姉様は笑っていたけど、忘れないうちに書いておきたい、と言ったらすぐに短冊を用意してくれた。
書き終わったのは夜もだいぶ更けた頃だった。夜更かしして明日体調を崩したら元も子もない。短冊を大事にポケットに仕舞うと、お姉様におやすみとあいさつしてすぐにベッドに入った。
ポケットの中の短冊に触れるだけで、明日はどれだけ楽しいだろうと考えるだけで、幸せな気分になった。落ち着け、落ち着けと自分に言い聞かせてもなかなか眠れない。「遠足の前の日」ってこういう気分なのかな。明日はどんなに楽しいだろう、心に描きながら私は眠りについた。
それなのに――
「雨が降るなんて、酷いじゃない……」
そんなに強い雨ではなかったから、宴会は場所を博麗神社の建物内に移して開かれたらしい。もとより宴会に来るような連中のなかに多少の雨を気にするような人妖はほとんど居ない。
ただ2人の例外を除いて。
「お嬢様も妹様もお気の毒ですが、仕方ないですわ。吸血鬼にとって雨は天敵なのですから」
「そんなことわかってるわよ。分かってるけどさ……」
前日までの期待が大きかっただけに、宴会に行けないと分かった時の落胆は酷かった。気を利かせた美鈴が小さな笹を持ってきて飾りつけてくれたが、塞ぎこんだ気分は晴れなかった。
夜が明ける頃には雨は止み、今は雲ひとつない星空が広がっている。しかし、昨晩雨が降ったという事実に変わりはなく、庭のあちこちに出来た水たまりや、テラスの隅で無残にもびしょ濡れになった笹が目に入る。ポケットの中に入れっぱなしだった短冊を、くしゃりと握りつぶした。
「ねえ、咲夜」
「なんでしょうか、妹様」
「織姫は年に一度天の川を渡って彦星に逢いに行けるのよね」
「ええ、そうです」
「でもさ、雨が降ったらどうなってしまうの?」
「雨が降ったときは――」
天帝の怒りを買い、天の川の両岸に引き離されてしまった織姫と彦星。しかし、永遠に会えないのではさすがに可哀想と思った天帝は、年に一度だけ逢うことを許した。年に一度、七夕の日になるとどこからともなくカササギが集まってきて橋を渡し、二人は逢うことが出来る。
しかし、七夕の日に雨が降ると川の水かさが増し、織姫は渡ることが出来ず彦星に逢うことが出来ない。
「それじゃ、1年間待ち続けた織姫と彦星は、もう1年待たなきゃいけないの?」
「二人が逢うことを許されたのは7月7日その日だけ。ですから今年逢えなかった二人は来年まで引き離されたままですわ」
「……なんかさ、今の私みたいだね」
自嘲気味に笑って咲夜を見る。
「初めて魔理沙に誘ってもらったのに、雨のせいで会えずじまい。次に誘ってもらえるのはいつになるんだろうね」
そのまま机に突っ伏した。お行儀が悪いけど、とても真っ直ぐ座る気分にはなれなかった。今夜はこのまま寝てしまおうか。まだ寝る時間には早いけど、どうせ起きていたって何もやる気は起きないのだ。
「次に誘ってもらえるのがいつかは分かりませんが」
だから、話しかけてきた咲夜の言葉もほとんど聞き流すつもりでいた。
「会うだけならもうすぐ出来そうですよ?」
いたずらっぽく笑う咲夜の視線の先に、こちらへ向かってくる人影を見つけるまでは。
「魔理沙!?」
ガバっと跳ね起きた私の目の前、軽快な音を立てて着地した魔理沙は
「ああ、霧雨魔理沙だぜ。あ、私はストレートティーにしてくれ。砂糖は多めで」
と、いつものにかっとした笑顔を浮かべた。
「悪いなフラン。本当はもっと早く来たかったんだが、ちょうどいい大きさのがなかなか見つからなくてな」
ほら、と目の前に差し出された物を思わず受け取ると、それは1メートルぐらいの小さな笹だった。
なんで? という疑問を見て取ったのか、笑顔をそのままに説明してくれた。
「昨日雨降ったから、フランは昨日の七夕祭に参加できなかっただろ? せっかくの七夕なのに何もできないんじゃ可哀想だから、フランのために一日遅れでも七夕をやってやろうと思ってさ」
それに昨日は星が見えなかったからな、と振り返って空を見上げる魔理沙。さっきまで出ていた半月はいつの間にか山の影に沈み、天の川が一層はっきり見える。
「あー、でも私が出るまでもなかったみたいだな」
テラスの隅に置かれた笹に気づいたのか、残念そうに頬をかく魔理沙。
「そんなことない! 私は魔理沙と一緒に七夕やりたい!!」
飾り付けはほとんど美鈴がやったから、私はほとんど触ってない。
そう言うと、魔理沙は「それじゃ、こっちは私とフランの二人で飾ろうぜ」と、どこからかキラキラ光る飾りを取り出した。
「でもさ、織姫と彦星に嫉妬されちゃいそうだね」
飾り付けを終えて、二人並んで椅子に座り紅茶を飲む。笹はテラスの端に括りつけてある。空から一番見えやすい位置だ。
「織姫と彦星は1年待たなきゃいけないのに、私はすぐに魔理沙に会えたから」
「雨が降ると天の川が増水して渡れなくなる、って話か」
「うん。ひどい話だよね。もし来年の七夕に雨が降ったら、二人はまた1年待たなきゃいけなくなるのよね。いくらなんでも可哀想だよ」
魔理沙なら同意してくれるだろうと思って横を見る。でも、魔理沙は、んー、と唸って空を見上げていた。
「いや、私は違うと思うぜ」
考えが纏まったのか、紅茶を一口飲んでから彼女はそう切り出した。
「昨日は雨が降ったけど、織姫と彦星は逢えたと思うんだ」
「え? でも雨が降ったら二人は逢えないって咲夜が……」
「そう、伝承ではそう言われている」
でもな、伝承通りだとおかしいことがあるんだ。魔理沙は続けた
「催涙雨って知ってるか?」
「さいるいう?」
「そう、涙を催す雨と書いて催涙雨。七夕の日に降る雨をそう呼ぶんだ。昨日降った雨みたいに、な」
雨が降って天の川が増水すると、織姫は川を渡ることは出来ず、織姫と彦星は逢うことが出来ない。
悲しむ二人が流した涙が雨となって地上に降り注ぐんだと言われている。
「だけど、それっておかしいと思わないか?」
「おかしいって、何が?」
ちょっと考えればわかることなんだがな、と人差し指を立てて魔理沙が話し始める。
「まず、どうして織姫は泣いているんだっけ?」
「どうしてって……川が増水して渡れないからでしょ」
こんな当たり前のことを聞いて魔理沙は何が言いたいんだろう。
「じゃあ、川が増水したのはなんでだ?」
「雨が降ったからよ、昨日みたいに」
ますます訳がわからない。困惑した目で魔理沙を見たが、いつもの自信満々な顔で笑いかけてくるだけだった。
「じゃあこれが最後の質問だフラン、よく考えろよ。雨が降った原因は?」
「魔理沙が言ったんじゃない、川を渡れなかった織姫が涙を流したからだって……あっ」
織姫が泣いているのは川を渡れないから。
川を渡れないのは雨が降って川が溢れたから。
でも、雨が降ったのは――織姫が泣いたから。
「雨が降ったから織姫は川を渡れないのに、雨の原因は川を渡れなくて流した涙なんだ……」
「気づいたみたいだな」
優しい笑顔をした魔理沙が続ける。
「雨が降ったのは織姫が泣いたから、織姫が泣いたのは雨が降って川を渡れないから、でもその雨が降ったのは織姫が泣いたから。堂々巡りだな」
ティーカップをテーブルに置くと、魔理沙は立ち上がってテラスの端の方に歩いていく。
「七夕に降る雨は愛しい人に逢えない悲しみで流した涙だと考えるとおかしなことになっちまう。だから七夕に降る雨の理由は他にあるとk考えるのが自然だろ?」
星の光が降り注ぐ位置まで歩くと、くるっと半回転して振り向いた。視線がぴたりと合う。
「その雨はきっと、愛する人に逢えた嬉しさで流した涙だと思うぜ」
遠い遠い空の上。織姫と彦星は1年ぶりに再会した。
愛する人と離れ離れになったふたりにとって、1年という長さは何倍にも何十倍にも感じられただろう。
そんなふたりがようやく逢えたのだ。ふたりは抱きしめあい、喜びのあまり涙を流したかもしれない。
零れた涙はやがて地上まで落ちてきて雨を降らせる。空を覆う厚い雲は、ふたりの時間を誰にも邪魔されないように、という天帝からのプレゼント。
「私が勝手に思ってるだけなんだけどな」
照れくさそうに笑う魔理沙に、そんなことないわ、と私も立ち上がり、彼女の隣に並んだ。見上げると天の川がちょうど真上に見える。星が多すぎて私にはどれが織姫でどれが彦星なのかわからない。でも、それでいい気がした。見つけたら、ふたりきりの時間を邪魔してしまうかもしれないから。
不意に、ポケットに入れたままの短冊を思い出して、横に立つ魔理沙に聞いてみた。
「ねえ魔理沙。今から短冊吊るしても、間に合うかな?」
「間に合うさ。あいつらの涙のせいで1日我慢したんだ。叶わないと割に合わないぜ」
「そっか。そうだよね!」
クシャクシャになった短冊を取り出して、丁寧にしわを伸ばす。そして笹のてっぺん、空から一番見えやすい所に赤い糸でしっかりと吊り下げた。
「見たらダメだよ」
「わかってるよ。人の願い事なんて見るものじゃないぜ」
願い事は、心のなかにしまっておくものだからな。そう言って、くしゃりと髪を撫でられる。
心地良い感触に身を任せて目を閉じる。笹は、夜風に吹かれてサラサラと涼しげな音を奏でていた。
程良い甘さです