※『流れ星の消えない夜に』の後日談です。
前作を読んでいないと何がなんだか解らないと思いますので、前作から読んでいただければ幸いです。
暗く深い、魔法の森のずっと奥。
そこには人知れず、魔法使いが住んでいる。
◇ 1 ◇
たとえば、指の動かし方を教えられる者はいるだろうか。
あるいは立って歩く方法。「飲みこむ」という行為の仕方。呼吸の仕方でもいい。
おそらく、言葉で教えられる者は誰もいないだろう。
教えるという行為のためには、教える側が対象を体系的に理解していなければならない。あらゆる事象は因果の糸で結ばれ、結果には原因があり、意味があり意図がある。理解するということは、つまり「何故そうなるか」を論理的に説明できるようになる、ということだ。
「あ、い、う、え、お……おー」
私の膝の上に座って、紙の上に記した文字を一文字ずつ指で辿りながら、彼女は確かめるようにひとつひとつ口にしていく。普段操る言葉と、その文字を対応させて。
「次、こっちは?」
「えーと、か、き、く……く?」
「け」
「け、こ、だ」
私の顔を見上げて、彼女は笑った。私は微笑とともに、その金色の髪を撫でてやる。
「ちゃんと読めるじゃない」
「普通、だぜ」
少し照れくさそうに笑って、それから彼女はまた、次の文字列に指を這わせる。
「さ、し、……」
「す」
一文字、一文字。まずは、平仮名と片仮名からだ。ゆっくりとでいい、時間はたくさんある。少しずつこうして、彼女に文字の読み方を教えていけばいい。
せ、そ、と口にする彼女を見下ろしながら、私は息をつく。
――文字を読む、という行為。普段、あまりにも当たり前に行っているそれを、改めて誰かに教えるというのは、思ったほど簡単なことではなかった。もう少し上手い教え方はないものだろうか、と思いつつも、結局はこうして一文字ずつ覚えさせる方法しか思いつかない。
それは結局、私が《言葉》というものをきちんと理解していないからなのだろう。
言葉は世界の根幹だ。それを完全に理解しきるということは並大抵のことではないとしても、やはり魔法使いとしては、私もまだまだ未熟なのだ。
「アリス」
「なに?」
「な、に」
私の言葉を反芻するように、彼女は「な」と「に」を指差して笑う。
「次は?」
「えーと……ぬ、だぜ」
「正解よ」
「ね、の……は、ひ、ふ、へ、ほ、――ま」
ゆっくり文字を辿っていた彼女の言葉が、不意にその一文字で途切れた。
「どうしたの?」
彼女は黙って、指を紙の上に彷徨わせる。何か、文字を探そうとするように。
そしてその指が、一点で止まった。
「り」
口にして、指は《ら行》から離れていく。通り過ぎた文字まで戻って、また止まった。
「さ」
指差した三文字を繋げて、彼女はもう一度、小さな声で繰り返した。
――まりさ、と。
彼女がどんな表情をしているのか、私には解らず、言葉を続けられなくなる。
そんな私の顔を、彼女は不意に見上げて、にっと悪戯っぽく笑った。
「私の、名前だ」
彼女のその言葉に、私は何と答えていいのか解らなくて、ただ微笑とともに、その髪を撫でてやることしかできなかった。
赤いリボンの結ばれた、金色の髪を。
◇
それは、言葉にしてしまえばひどくありきたりな昔話。
魔法使いを自称する人間の少女と、人食い妖怪がかつて居て。
今は片方が居なくなってしまったという、それだけの話だ。
――それだけの話だった、はずなのだ。
◇
ベッドの上、静かに寝息を立てる彼女の寝顔を、私は傍らで見下ろしている。
その頬に触れると、むずがるように彼女は軽く寝返りを打った。
どんな夢を見ているのだろう、と思いながら、私は窓から射し込む月光に目を細めた。
――あの流星群の夜以来、彼女はこの家に暮らすようになった。
と言っても、今までもほとんどこの家に居座っていたようなものだから、あまり変わらないといえば変わらない。夜にどこかへ出ていくことが無くなって、私の部屋のベッドで眠るようになったという、それだけのことだ。
いや――きっとここは、彼女にとっては私の、アリスのベッドではないのだろう。
ここは彼女が、かつて《友達》と寄り添って眠った場所なのだ。
今はもういない、彼女の友達。
ここに暮らしていた、ひとりの人間と、一匹の妖怪。――霧雨魔理沙と、ルーミア。
金色の髪をした少女の寝顔を、私は見下ろしている。
「――――」
不意に彼女が、うわごとのように何かを口にした。寝言だったらしく、起きる気配はない。
けれど、彼女の口にした名前に、私はただ目を細めるしか出来なかった。
――まりさ、と。
霧雨魔理沙は、愛おしむように、そう呟いた。
いや、その言い方は正確ではない。
霧雨魔理沙と名乗っている、今ここに眠っている少女は、だ。
「ルーミア」
彼女の本当の名前を囁いて、私は大きく息を吐き出した。
幸せそうな寝顔。彼女はどんな夢を見ているのだろう。霧雨魔理沙と一緒に過ごした、幸せな時間の夢だろうか。だとしたらそれは、どれだけ残酷な夢だろう。
霧雨魔理沙はもういない。
そして、ルーミアと名乗っていた妖怪も、もういない。
ここにいるのは、霧雨魔理沙を名乗る、霧雨魔理沙ではない、妖怪の少女だ。
彼女は人間ではなく、魔法を使えないから、決して霧雨魔理沙にはなれない。
そんなことは、彼女自身だって解っているのだと思う。
それでも彼女は、出会ったときから、私が彼女の本当の名前を知った今も、霧雨魔理沙の遺した黒い服を着て、私のそばにいる。
「貴女は……それで、いいの?」
あのとき、ルーミアが私の前で魔理沙の名を騙ったのは、私に魔理沙の魔導書を見つけてもらうためだと思っていた。そのために魔理沙のふりをしていたのだ、と。
けれど、それは私の勘違いだと、今は解っている。
ルーミアはただ、魔理沙になりたがっていただけなのだ。
霧雨魔理沙のようになりたくて、魔理沙の服を着て、魔理沙の魔導書を求めた。
「……まりさ、ぁ」
ルーミアがまた、むずがるようにその名前を寝言で呟く。
――彼女と魔理沙の間に何があったのか、私には具体的なことは知るべくもない。けれど、およそ想像はつく。きっとそれは、人間と人食い妖怪の、ありきたりな結末だ。
魔法使いである私は、妖怪だが、人間を食料とはしない。個人的な嗜好で食事は摂るが、捨食の法を習得しているので、本来は食事自体を必要としないのだ。
だから私には、事実の想像はついても、そこに生じた絶望や悔恨や葛藤は、想像もつかない。
大切な友達を食らってしまった妖怪の少女。
自分が殺してしまった友達の名を名乗る、その裏側に抱えた彼女の苦しみなど。
私には、想像もつくはずがないから――こうして、寝顔を見下ろすことしか出来ないのだ。
これからルーミアは、ずっと魔理沙として生きていくのだろうか。
彼女は決して、霧雨魔理沙にはなれないのに。
永い時間を、自分自身を偽って生き続けることが、彼女の贖罪なのだろうか?
「ねえ、ルーミア。……どうして私を、友達って呼んだの?」
それはあの流星群の夜、私が彼女にかけた問いかけ。
その問いに、アリスが友達に似ていたから、とルーミアは答えた。
どこまでが彼女の本心なのかも、私には解らない。
己を偽り続け、自分の罪を名に背負い続ける時間の中で、彼女はどうして、アリス・マーガトロイドという存在を求めたのだろう。
私は、アリス・マーガトロイドという魔法使いは、彼女に対して、何が出来るだろう。
読み書きを教えること。魔理沙の残した、星の魔法を教えること。
――それだけで、いいのだろうか。
「そー、なのかー……」
口癖を寝言で呟いて、ルーミアは不意に、私の手をきゅっと握りしめた。
その手を握り返してあげることが、どうしてか私には出来ないままだった。
◆ 2 ◆
椅子に腰を下ろして、彼女が本を読んでいる。
私は彼女の膝の上に飛び乗って、彼女の読んでいる本を覗きこむ。
何が書いてあるのか、いつも自分にはちんぷんかんぷんだけど。
くしゃくしゃと髪を撫でてくれる彼女の手の感触が、大好きだから。
『――――』
彼女が、私の名前を呼ぶ。
『―――』
私も、彼女の名前を呼び返す。たったそれだけのことで、笑い合っていられる。
楽しかった。幸せだった。大好き、だった。
だった。――大好きだった。
今は? 今は、楽しい? 幸せ? 大好き?
今、今っていつだろう、私は、私は――。
『なあ、――――』
彼女がまた私の名前を呼ぶ。
私の名前。それは私の名前? 私、私の名前は、私は――。
『魔法、使えるようになりたいか?』
いつも、その言葉が耳の奥に反響して、目が覚める。
――ひどく甘い、幸せな悪夢から。
◆
そして、目を覚ませばいつも、現実だけがそこにある。
瞼を開ければ、視界は暗い闇の中。ゆっくりと身体を起こして、周囲を見回す。
そこはベッドの上。自分の傍らで、静かに寝息をたてる影がある。
柔らかな金色の髪に、彼女の面影が重なるけれど、それはやはり彼女ではない。
アリス・マーガトロイド。この家に住む、新しい魔法使い。
その寝顔を見下ろしていると、いつも得体の知れない感情に襲われて、私は呻く。
アリスは優しい。ずっと騙していた自分を許して、受け入れて、読み書きを教えてくれる。
――友達だと、自分を呼んでくれる。
そのことが、――苦しい。嬉しいけれど、胸の奥が軋むように痛い。
痛みを噛み殺しながら、私はアリスを起こさないようにベッドを抜け出す。
クローゼットを開ければ、いつもの服がそこに掛けてあった。
黒い上着、黒いスカート、黒い三角帽子。
とっくに着慣れたその服を身につけて、闇の中、自分の姿を鏡に映した。
闇に沈む黒い服。その茫漠とした姿なら、私は彼女に見えるのだろうか。
帽子を目深に被り直して、私は鏡から視線を逸らす。
ああ、解っている。解りきっている。
私は決して、普通の魔法使い、霧雨魔理沙ではない。
どれだけ、ありもしない自分の姿を繕っても――私は、霧雨魔理沙には決してなれない。
そんなことは、とっくの昔に解りきっているのだ。
ふらふらと扉を開けて、しんと静まりかえった廊下に出た。
光源の無い家の中。それがひどく寒々しくて、私は両腕を抱くように身を竦める。
今は、ひとりきりではない。部屋に戻れば、アリスが眠っている。
だけど今――自分は、ひとりだ。
この闇の中に、ひとりきりで取り残されたままだ。今も。
「…………り、さ」
彼女の名前を呟きかけて、ぐっと奥歯を噛み締めて堪えた。
私は魔理沙ではない。
それなら――私は、誰だろう。
ぺたぺたと足音をたてて、私はキッチンに足を踏み入れた。
彼女と一緒にいた頃は、キノコぐらいしか無かったこのキッチンにも、アリスが暮らすようになってからは、いろいろな食べ物が並ぶようになった。
戸棚を開けると、クッキーの袋が転がり落ちた。アリスの焼くクッキー。甘くて、美味しい。
震える手で、袋を開けて、ひとつを口に運んだ。さく、と口の中で砕けて溶ける甘味は心地よいけれど――だけど。
「……起きてたの?」
声。そして、キッチンを照らす燭台の灯り。私は振り向く。
アリスがネグリジェ姿のまま、瞼を擦りながらこちらに足を向けていた。
「こんな時間につまみ食い? お行儀が悪いわよ」
くしゃり、とクッキーの袋を握りしめて、私はゆるゆると首を振った。
アリスは小さくため息をついて、私の元に歩み寄る。
「お腹空いたの?」
その問いかけに、私ははっと息を飲んで、――首を、強く横に振った。
「すいて、ない」
「別に、怒ってるわけじゃないわよ」
「すいてない!」
思わず強い声が出て、アリスが驚いたように目を見開く。
私はぐっと奥歯を噛み締めて――疼くような空腹を、無理矢理意識の外に追いやった。
そうだ。お腹が空いてなんかいない。
アリスはいつも美味しいご飯を用意してくれるから、お腹が空くはずがない。
どれだけアリスのご飯を食べても、満たされない空腹なんて、あるはずがない。
だって私は、私は――。
私は、人間ではなく、魔法使いでもなく、――――。
「つまみ食いなんて、みっともないこと、しないぜ」
「……してたじゃない」
「してない」
「まあ、いいけど。眠れないの?」
アリスは呆れた様に息を吐いて、食卓に燭台を置くと椅子を引いて腰を下ろした。
手招きするアリスに、私は逡巡するけれど――クッキーの袋を戸棚に仕舞って、アリスの元に歩み寄った。手を引かれて、私はアリスの膝の上に抱かれる。
髪を撫でてくれるアリスの手は、いつだって優しい。
その首筋に顔を埋めて、私はぎゅっと目を閉じる。
どうしてだろう。どうしてアリスが優しいほどに、私は苦しくなるのだろう。
こんなにも、泣き叫びたくなるのだろう。
彼女の名前を。
もういない彼女の名前を、叫びたかった。
答えてくれることは、決してないと解っていても。
だけどそれすらも、喉の奥に木霊するだけで、言葉にならずに消える。
どれだけ奥歯を噛み締めても、込み上げてくる嗚咽は堪えきれず、私はアリスの胸元に顔を埋めた。アリスはただそれを受け入れて、背中をさすってくれる。
もう何度、こうしてアリスにすがりついて甘えたのだろう。
――アリスは、私を、何者として、こうして抱きしめてくれるのだろう。
解らないまま、私はただ、叫び出しそうになる名前を噛み殺すことしか出来なかった。
◇ 3 ◇
結局のところ、私は霧雨魔理沙という魔法使いのことを、ほとんど何も知らない。
四年前にいなくなった少女について知りうる術は、あまりにも限られている。少女がこの家に遺した無数の魔法具や多くの魔導書は、霧雨魔理沙が魔法使いを志す人間であったことしか教えてはくれない。
霧雨魔理沙という人間の少女が、何を思ってルーミアとの時間を過ごしていたのか。
人間と人食い妖怪という、あまりにもありきたりな、しかし必ず訪れるだろう宿命をいかに受け止めていたのか、それを知る術はあまりにも少なかった。
「……永遠が存在するなんて、信じていたわけでもないでしょう?」
たったひとつ、霧雨魔理沙という人間の遺した想いが刻まれたその本のページを捲りながら、私は呟く。今、私のそばにいるあの少女が求めた本。霧雨魔理沙の魔法研究の詳細な記録であり、ルーミアという妖怪との出会いを楽しげに綴った、悲しい日記。
その文面はあまりにも無邪気で、ただの人間の少女のように無垢で。
それほど無邪気に、彼女は信じていたのだろうか。
人間である自分と、人食いの妖怪であるルーミアがずっとそばにいられると。
この人と妖が近しい幻想郷であっても、そんなのはおとぎ話でしかないはずなのに――。
「魔法で作る流れ星は、ただの作り物なのにね……」
作り物の流れ星では、願いは叶わない。
たとえその光を敷き詰めて、天の川を作ったとしても。
それはただの、星屑の幻想でしかないのだ。
――魔理沙は、流れ星の魔法、教えてくれるって、言ったのに。
あの流星群の夜、ルーミアが呟いた消え入りそうな言葉。
この日記の中でも、ごく簡単にその原理がまとめられている。要はその見た目を星形に弄くっただけの、単純な光と熱の魔法だった。まあ人間の、魔法を学んで日の浅い少女の使う魔法としては、それでも充分上等な部類ではあるだろう。
それをルーミアに教えて、彼女はどうしたかったのだろうか。
日記の中に記された、四年前のルーミアの『つよくなりたい』という願い。
その願いを叶えるのだとしても、それで何を為そうというのか。
ルーミアが人食いの妖怪である以上、強くなったルーミアの力の向かう先は人間であり、つまりは霧雨魔理沙に向かうのだということが想像できないほど、彼女は愚かだったのか?
解らない。考えれば考えるほど、解らなくなる。
私はルーミアに、魔理沙の遺した星の魔法を教えてあげるべきなのだろうか。
それを教えてあげることで、ルーミアは何を得るというのだろうか。
「……私の問題じゃ、ないわよね」
ため息をついて、私は魔理沙の本を閉じる。
霧雨魔理沙の果たせなかったこと。ルーミアに読み書きを教えて、魔法を教える。
アリスが私の友達に似てたから、と彼女は言った。
私が彼女にとって、失った友達の代わりでしかないのだとしても、それは私がどうこう言えることではない。魔理沙とルーミアの絆を知らない私は――。
立ち上がり、私は煮込んでいる鍋の中を見やる。この魔法の森で採れるキノコを煮詰め、魔力を精製して魔理沙は魔法に利用していたらしい。
私自身は、乱暴な光と熱の魔法はあまり得手ではない。ルーミアに教えるにしても、霧雨魔理沙の使っていた魔法をきちんと再現できるかは、もうひとつ自信が無かった。
もう少しで鍋は煮詰まるところだった。魔理沙の日記から精製方法を参照しようと、私はもう一度その本を開き、
――ひらり、と一枚、挟まっていた紙切れが足元に舞い落ちた。
「あら?」
何か挟まっていたのか。私はその紙片を拾い上げ、
「アリス?」
部屋の扉を開けて、彼女が顔を出していた。私が振り向くと、彼女は小走りに駆け寄ってくる。にっと八重歯を見せて、私に笑いかける。
「何してたんだ?」
「本を、読んでたのよ」
彼女の視界から隠すように、魔理沙の日記を脇に寄せる。
そうなのか、と彼女は頷いて、それから鍋に興味を惹かれた様子で歩み寄った。
「キノコ、煮込んでるのか?」
「……ええ」
「魔法の材料、だな」
鍋の中を覗きこんだ彼女の表情は、私からはよく見えないけれど。
「私の、魔法の」
ひどく微かな声で、彼女はそう呟いた。
――流れ星の魔法は、彼女はまだ、使えないのに。
「ルー、ミア」
私は思わず、彼女の名前を呼んでいた。彼女の本当の名前。人食いの妖怪としての名前。
ぴくりと、彼女の肩が震えた。
霧雨魔理沙の服を着た少女は、ゆっくりと振り向いて、泣き出しそうな苦笑を浮かべた。
「何、言ってるんだ? アリス」
彼女の被っていた、黒い三角帽はもう無い。
あの流星群の夜に、風に飛ばされてどこかへ消えてしまったから――。
「ルーミアは、もう、いないんだぜ」
「――――――ッ」
その言葉に、私はたったひとつきりの事実を悟って、慄然と立ちすくんだ。
ルーミアが、魔理沙の姿をしてこの家に居た、その理由。
ずっと魔理沙の振りを続けていた、その本当の意味を。
四年前に死んだのは、霧雨魔理沙ではなく、ルーミアだと。
彼女は、そういうことにしてしまいたかったのだ。
自分自身が大切な人を食らってしまった、その現実の前に、彼女の心はずっと前から壊れていたのだ。砕け散ったまま、幻想の闇の中に眠り続けていたのだ。
それで、過去が、事実が変えられるはずもないのに。
彼女はただ、たったひとつの現実を、ずっと拒絶していたのだ――。
「もう、いないんだ」
確かめるようにもう一度、彼女はそう口にして。
踵を返して、私の傍らを通り過ぎた。
その名を何と呼ぶべきなのか、私には解らず。
魔理沙の名を騙って、魔理沙の姿をして。
けれど流星群の夜、彼女は自分が霧雨魔理沙で無いことを知っていた。
その上で、自分がルーミアであるということすら、拒絶するのなら。
今そこにいる少女は、いったい、何者なのだろう。
ドアが閉ざされる。彼女の姿が部屋の中から消える。
私は気がつかないうちに、手を強く握りしめていた。
その手の中で、拾い上げた紙片がくしゃりと潰れているのに私は気付く。
くしゃくしゃになった紙片を、もう一度広げた。
――そこには、あの日記と同じ文字で、短い走り書きのメモが記されていた。
「魔理、沙」
その文字を見た瞬間、私は雷に打たれたように、事実を悟る。
霧雨魔理沙という少女が、ルーミアのために何を為そうとしていたのか。
彼女の遺した魔導書の――霧雨魔理沙の魔法の、本当の意味を。
「ルーミア!」
私は彼女の名前を叫んで、ドアを開け放った。
既に外は陽も沈んで、暗い闇に沈んだ廊下に――もう、彼女の姿は見当たらなかった。
◆ 4 ◆
『魔理沙ー、なにしてるの?』
『ん? キノコを精製中だ。こいつが、私の魔法の原料になるのさ』
ぐつぐつと煮込む鍋を見やりながら、魔理沙はそう言って笑った。
『魔理沙の、まほう』
『そう、流れ星の魔法だぜ』
『どっかーん?』
『どっかーん、だな』
魔理沙が撒き散らす星屑の魔法。その光を見るのが、私は大好きだった。
お札やキノコがもったいないからと、滅多に見せてはもらえなかったけれど。
『なあ、ルーミア』
魔理沙の膝の上に乗っかると、髪を撫でながら不意に魔理沙は私の名前を呼んだ。
『魔法、使えるようになりたいか?』
『ふえ? うん』
頷くと、魔理沙は不意に歯を見せて笑う。
『そうだよな。よし、ちゃんとそのうち、魔法を教えてやる』
『ほんと?』
『ああ、ほんとだぜ』
わしわしと髪を掻き乱して、魔理沙は目を細めて言った。
『お前を、魔法使いにしてやるからな』
◆
だけど、私は魔法使いになれないままで。
魔理沙の約束は、叶えられないまま、私はひとりになった。
ふらふらと森の中を彷徨いながら、私はどうしてここにいるんだろう、と思う。
ずっと探していた、魔理沙の魔導書を見つけて。
魔理沙と見に行くはずだった、流星群を見て。
それで、全部おしまいだったはずなのに。
何も終わらずに、私は今もこうして、魔理沙のいたこの森にいて。
私は――。
「……おなか、すいて、ない」
疼くような空腹に、奥歯を噛み締めて、私は自分に言い聞かせる。
こんな空腹は、あるはずがないのだ。
私は、私は人食いの妖怪なんかじゃない。
ルーミアは、もういない。いなくなったのだ。四年前の、あのときに。
――じゃあ、私は誰?
魔理沙の服を着て、魔理沙の名前を名乗って、アリスのそばにいるけれど。
私が霧雨魔理沙でないことは、私自身が一番よくわかっている。
だって私は、魔理沙みたいに強くも、優しくもなれないから――。
「……あれ?」
鬱蒼とした森の中を、どう彷徨っていたのだろう。
気がつけば、私は森を抜けていた。繁る木々は途切れ、目の前に開けた空間が広がる。
それは、霧の立ちこめる、大きな湖だった。
私はぼんやり、頭上を見上げる。そして――息を飲んだ。
風が吹く。霧が流れ、木々の梢に隠されていた星空が、姿を現す。
流星群は、そこにはない。あるのは、動かない無数の光の瞬き。
敷き詰めたような星空が、まるで魔理沙の魔法のように眩く頭上に広がっていて、
「……まりさ」
気がつけば、私は堪えていたその名前を、また呟くように口にしていた。
「まりさ……魔理沙、魔理沙ぁ……っ」
手を伸ばすけれど、私の手は短すぎて、星屑には届かない。
それはもう、魔理沙がどこにもいないことの証のようで、
掴めない光に、それでも私は手を伸ばして――バランスを崩して、草の上に転んだ。
「あうっ」
膝をしたたかに打ちつけて、痛みに顔をしかめて、私は視線を上げる。
星に手を伸ばすうちに、私は湖のすぐほとりまで足を進めていた。
水面を覗きこむような格好で、私はそこに映るものを見下ろしていた。
さざ波すら無い張り詰めたような水面に、――霧雨魔理沙ではない少女の顔。
思わず顔を手で覆って、私はその場に蹲った。
水面に映る無数の星屑だけが、そんな私の姿を見つめていて、
「ルーミア」
声がした。誰かを呼ぶ声だった。
それは私じゃない。ルーミアはもう、ここにはいない。いてはいけない。
ここにいるのは、魔法も使えない、誰にもなれない――
「……ルーミア」
背中から、抱きしめてくれる腕があった。
私のことを、友達と呼んだ、魔法使いの腕。アリスの、両腕。
その声が、ひどく優しく囁いた。
いつか、魔理沙が訊ねたのと、同じ言葉を。
「魔法、使えるように、なりたい?」
◇ 5 ◇
魔法使いというものは、ひどく孤独な生き物だ。
己の魔法の研究の為、食事を捨て、睡眠を捨て、不老長寿を手に入れた者たち。
人からも妖からも距離を置き、ただ己の研究のためだけに生きる者たち。
その孤独を苦にしないからこそ、魔法使いは魔法使いなのかもしれない。
だとしたら、きっと私も、霧雨魔理沙も、やはり未熟な魔法使いだった。
けれど、今はそれでいいと、そう思う。
未熟だったから、魔理沙はルーミアと出会い、私もまたルーミアと出会った。
孤独な生き様の中で、どうしても誰かの温もりを求めずにはいられなかった。
それはきっと、ルーミアだって同じことで。
だからこそ私は今、こうしてルーミアを抱きしめている。
数ヶ月という、刹那のような温もりを知って。四年という、妖怪にとっては短すぎる時間が故に、その温もりの影に囚われたまま、癒されない痛みを抱えた少女。
彼女の孤独のために、私はここにいる。
――アリスが、私の友達に似てたから。
彼女のその言葉は、霧雨魔理沙に似ているという意味だと、そう思っていたけれど。
きっと、魔理沙もルーミアも、私自身も、ただの似たもの同士だったのだ。
孤独な森の奥深くで、触れあわずにいられなかった、寂しがり屋たちだったのだ。
「ルーミア」
もう一度、彼女の名前を囁いた。何度でも、彼女が振り向くまで呼びかけるつもりだった。
ここにいるのは、霧雨魔理沙ではない。私の友達の、ルーミアだ。
「ねえ、ルーミア。……魔理沙が貴女に望んだのは、きっと、貴女が霧雨魔理沙になることじゃないわ」
ルーミアは振り向かない。
私が、知りもしない霧雨魔理沙の遺志を代弁するのは、おこがましいことかもしれない。
それでも、伝えたかった。
魔理沙が何を思って――ルーミアに、星の魔法を伝えようとしたのかを。
「魔理沙は、貴女が魔法使いになることを、望んでいたの」
「……まほう、つかい?」
ルーミアが、オウム返しに呟いた。
「そう。魔法使いという種族。――食事も睡眠も捨てた、魔法のために生きる種族」
はっと、ルーミアが振り向いた。その赤い瞳を見つめて、私は微笑みかけた。
捨食の法。魔力を代替とすることで、食事を必要としなくなる魔法。
――魔理沙はいずれ、その魔法をルーミアに教えるつもりだったのだ。
あの本に挟まっていたメモ書きに遺されていた、魔理沙の呟き。
《ルーミアが人を食べる必要が無くなれば、私はルーミアのそばにいられる》
それだけが、ただ霧雨魔理沙の願ったことだった。
「……魔理沙は、ただ、貴女のそばにいたかったのよ。ずっと、ずっと。霧雨魔理沙として、大好きな、大切な友達の、ルーミアのそばに」
ルーミアの手が、身体が震えて。
私の背中に、ルーミアは腕を回して。胸元に顔を埋めて。
「まり、さ」
その名前を、一度だけ呼んで――あとは、ただ声を噛み殺して、震えていた。
涙はきっと、もう流し尽くしてしまったのだ。
魔理沙が望むのは、きっと、悲しみに暮れ続けるルーミアの姿ではなく。
彼女のそばで無邪気に笑っていた、ルーミアの姿なのだから。
私はその髪を撫でながら、霧の向こうに広がる天の川を見上げる。
――流れ星がひとつ、夜空を切り裂いて消えていく。
願いは掛けない。願うことなど、今は何もない。
魔理沙が望んだこと。ルーミアが望むこと。私が願うこと。
それはこれから、私がルーミアと一緒に、叶えていくことだから。
だから私は、その言葉を口にした。――きっと、それが私たちの出会った理由だったから。
「ルーミア。貴女を、魔法使いにしてあげる」
* * *
暗く深い、魔法の森のずっと奥。
そこには人知れず、魔法使いが住んでいる。
ひとりは七色。
ひとりは白黒。
星の見えない、深い森の奥の家。
ふたりの魔法使いは、今も仲睦まじく暮らしている。
劇中で魔理沙さんがルーミアに「魔法使えるようになりたいか?」と言っていたセリフにそういう意味があったんだなぁ~と感心しました。
素敵な七夕SSありがとうございます。
素敵な物語をありがとうございました
ルーミアの悲しみが伝わってきました。
このお話、凄く好きだったので嬉しい限りです!
星が見えないくらい深い森の中でも、いつか自分だけの星を創り出すことが出来たらいいなあ。
頑張れ、ルーミア。
ちょっと場違いかもしれないけど、「だぜだぜ」言うルーミアは、何か、可愛い。
だから、続きを読めてすごく幸せです!
最高の作品を本当にありがとうございました!
なんか「これぞ二次創作」って感じがするんですよね。ifにも程があるくせに、すんなりと入っていける、入ってこさせるだけの力もある作品。
とまぁヨイショばっかするのも変なのですぐ終りますがw
なるほど繋がりますね。捨食の法でしたか……てっきり「星屑(流星?)の魔法」の事だと思って深く考えてませんでしたがすとんと腑に落ちる(←誤り?)。
二人の『友達』ルーミアの生に幸あれ!!
アリスも魔理沙もルーミアもみんなすてきでした。
もうただ泣くことしかできない自分は無能だ…
ただ嬉し泣きをすることしか…
よかった…よかった…。
「魔法使いにしてやる」その言葉にそんな意味があったんだな、と思うと、涙が・・・。
辛いだろうとは思うけど、ルーミアにはまたルーミアとして笑って欲しいな、と思いました。
ifの発想とか、判明して目を見張るような事柄だとか
いろんな要素を入れながらもすっきり終わらせてるところに技量を感じます
同人誌版もあるんですね、いつか機会あったら読んでみたいです
交互に変わっていくキャラクター毎の視点が、知らぬ間に物語の中へと引き込まれていく魅力がありました。
ルーミアの食人衝動は自分と同じ考えがあり、それを表現してくれている作品に出会えて本当に良かったと思っています。
if設定についてですが、捨食について腑に落ちない点がひとつだけ。
たとえ捨食しようとも、幻想が幻想であるために、ルーミアがルーミアであるためには、やはり妖怪として人を食らわなければ存在が消えてしまうのでは?という点が。
まぁ、そこは二次創作ってことで割り切れば何とでもなr(ry
言われて初めて気付く、こういう解決法があったのか
宵闇の妖怪ならぬ宵闇の魔法使いって何だか格好良いですねぇ
なんかもう、色々言いたいんですがダメですね。言葉になりません。
とにかく、この物語が大好きです。
同人誌版が凄く欲しいんだけど、中々てにはいらないのが悲しい。
同人誌版が凄く欲しいんだけど、中々てにはいらないのが悲しい。
同人誌版が凄く欲しいんだけど、中々てにはいらないのが悲しい。