博麗神社の巫女、霊夢さんはそわそわしながら、手に持った箒でもって、境内の砂を右から左に掃いていました。
もうそろそろ山の向こうに日が沈み、夜になろうかという時間です。
掃除をしているように見えるかも知れませんが、実は掃除をするフリをしているだけです。
そして、それには理由がありました。一言で言ってしまえば、ある参拝客に対する見栄です。
「今日は遅いわね。何やってるのよ」
霊夢さんの周りには薄茶色の結界らしきものが出来上がっていますが、ただの砂埃です。
ここ数日霊夢さんは、「とある妖怪の女性」が参拝してくるのを楽しみにしていました。
それは霊夢さんがよく知るすきま妖怪や吸血鬼、天狗に河童といった濃い面々ではなく、種族も分からなければ名前も知らない、単なる妖怪です。
特徴と呼べるほどのものはなく、強いて言えば人間そっくりなところが特徴でしたが、界隈では全然珍しいことではないので、やはり「単なる妖怪の女性」です。
霊夢さんは楽園の素敵な巫女、空飛ぶ無敵の女の子です。
彼女のお仕事はお茶を飲むこと、掃除するフリをすること、昼寝といったところが有名ですが、その真の姿は妖怪退治の専門家であることもまた、周知の事実です。その霊夢さんが、どうして「単なる妖怪の女性」を、そわそわしながら、わざわざ境内に出て待っているのでしょうか?
その理由は……話せば長くなってしまうのですが、簡単に言えばお金です。
お金です。
「単なる妖怪の女性」――とりあえず高橋さんと仮名をつけて話を進めましょう。
高橋さんはここ一ヶ月近く、夕暮れ時になると毎日のように博麗神社に参拝をしにやってきています。
賽銭箱にお金を入れて、何やら熱心に神頼みをしていくのです。
霊夢さんにとって妖怪とは、退治するべきものです。
名のある妖怪たちは霊夢さんと仲良くしておいて怒らせないようにするという知恵を働かせますし、力のない妖怪たちはそもそも霊夢さんに関わろうとしません。
はっきり言って、高橋さんはとても弱い妖怪です。それなのに霊夢さんの本拠地である博麗神社に、毎日お参りしに来ているのです。
高橋さんが一ヶ月も無事でいられたのは、運が良かったのでしょうか、それとも彼女が賽銭を忘れずに入れていたからでしょうか。
とにかく最近の霊夢さんは、高橋さんが賽銭箱に入れていくお賽銭で日々を食いつないでいたのです。
霊夢さんは割と質素な暮らしをしているので、いつも通りに過ごせば博麗神社の財政に危機が訪れるはずもありませんでしたが、最近幻想郷の少女たちの間ではスイーツが流行っていて、カフェやケーキ屋さんに集まり、甘いお菓子をいただくのがある種のステータスのようになっていたのです。
周囲の知り合いたちがスイーツ談義に花を咲かせる中、霊夢さんは興味を示さずマイペースを貫こうとしましたが、別の神社の巫女さんに、
「霊夢さんっていつも焼き芋ばっかりですよね。まさにスイーツ」
と言われ、バカにされたと感じて逆上し、高級ケーキやシュークリームに手を出し、そのとろける甘さにハマり、散財してしまったというわけなのでした。
貯蓄が尽きてから自分の単純さと愚かさに気付きましたが遅かったようです。
そういうわけで今の霊夢さんのふところはピンチです。ふともももピンチとなりつつあるようですが、それはむしろ良いことです。
栄養失調でやせ細った巫女さんよりも、ちょっとむっちりしたふくよかな巫女さんの方が魅力的に決まっています。
話が逸れました。高橋さんです。
今日に限って、日が暮れようという時間になっても高橋さんが現れません。
ずっと境内で待っていた霊夢さんでしたが、待ちきれなくなったのか箒をかなぐり捨て、ずんどこ鳥居の方へと歩き出しました。
「下等な妖怪の分際で私をこんなに待たせるなんて、いい度胸してるじゃないの」
霊夢さんは、ニコニコ顔で恐いことを言いながら階段を降りていったのですが、降りきったところですぐに立ち止まってしまいました。
「ちょ、ちょっとあなた! 何してんのこんなところで!」
霊夢さんはそう言って駆け出しました。
博麗神社のすぐ近く、人里へ続く静かな道に――高橋さんが倒れていたのです。
道の上に俯せで倒れている高橋さんを発見して、思わず駈け寄ってしまった霊夢さんでしたが、
傍まで来ると、高橋さんの妖力がとても弱まっていることに気付きました。
高橋さんの妖力は、普段から大したことはありません。しかし、今霊夢さんが感じられる高橋さんの現在の妖力はあまりにも小さく、死んでしまいそうなほどです。
「おーい、聞こえる? 返事しなさい」
霊夢さんが高橋さんの顔を間近に見たのは実はこれが初めてでしたが、高橋さんは、人間で言えば二十代半ばくらいの見た目でした。
ゆったりとした洋服に身を包んだ、黒髪に白い肌、線の細い日本人女性、という感じの妖怪です。
高橋さんはその額に、いくつもの玉のような汗をかいていました。
季節は初春。夜の冷え込みはまだ厳しく、暖炉や火鉢が欠かせない時期ですから、暑さによる汗ではないことは明らかです。
霊夢さんの呼びかけにはっきりとした返事はせず、高橋さんは、自分のお腹を抱え込むように押さえながら苦しそうに呻くばかりです。
(ケガでもしてるのかしら? 他の妖怪……それか人間に襲われた、とか)
霊夢さんはそう考えましたが、高橋さんは、どこからも血を流していないようです。
(となると病気? うーん、参ったわ)
高橋さんが倒れている場所は、博麗神社と人里を結ぶ道の上ですから、このまま放置しておくわけにもいきません。
万が一参拝者がきたとして、神社への道に妖怪の死体が転がっていたらきっと腰を抜かすでしょう。
博麗の巫女が殺したんだ、と噂されてしまうかもしれません。
冷酷無情な巫女が、助けを求めてやってきた妖怪を門前払いして死なせたのだ、と恐れられるかもしれません。
霊夢さんはこれからも神社でのんびり暮らしていきたいと思っています。
里の人々や、周辺の妖怪たちを不必要に恐がらせるようなことにはなって欲しくありませんでした。
このままではアテにしていた賽銭ももらえませんし、何より神社の前で死なれてしまっては、
それがたとえ妖怪といえども寝覚めが悪い、霊夢さんはそう考えて、高橋さんを神社に連れて帰って様子を見ることにしたのでした。
「霊夢! どこ行ってた、探したぞー」
高橋さんを背負ってふわふわと飛び、境内に降り立った霊夢さんに、幼い少女の声がそう呼びかけました。
本殿の屋根の上に座って足をぷらぷらさせていたその少女は、霊夢さんを見つけて飛び降り、ととと、と走り寄ってきました。
頭に二本の角を生やしたその小さな女の子は伊吹萃香という名前の鬼です。
高橋さんと同じ妖怪ですが、その妖力の大きさを比べればそれはまさに駿河の富士と一里塚、月と朱盆、提灯と釣り鐘といった具合で、
強さだけを見れば次元が違いすぎるほどの大妖怪、それが萃香さんなのでした。
「どいてよ、今ちょっと立て込んでるの。いつの間に来たのよ全く」
霊夢さんには恐れるものは何もないのでしょうか。ないのでしょう。
大妖怪に対しても全く怯む様子はありません。
「なんだよう、寒いし暇だし入れとくれよ」
本殿へ向かう霊夢さんと並んで、とことこ歩く萃香さん。霊夢さんは萃香さんを無視してすたすた歩きます。
「背中のはどこの誰だい? 見かけんやつだけど」
「病人よ。病妖かしら? そこ開けて、とりあえず床の間に寝かせるから」
「あいよ」
萃香さんは、霊夢さんの言葉に従い素直に障子を開けました。
彼女が恐ろしい鬼であることを忘れてしまいそうな瞬間です。
「よお、邪魔してるぜ」
「勝手にあがらせてもらってるわよ。しばらくね霊夢」
霊夢さんは露骨に嫌そうな顔をしました。
ああ、めんどくさいなぁ。そんな心の声が聞こえてきそうです。
居間に居座っていたのは霊夢さんの友人の、霧雨魔理沙さんとアリス・マーガトロイドさんでした。
二人とも魔法使いなのですが魔理沙さんは人間で……といった説明は省くことにしましょう。
「お前たちずるいぞー、私はちゃんと断って入ったもんね」
「私だってちゃんと言ったぜ、お邪魔しますとな」
「主が聞いてなきゃ意味ないでしょうが。何なのよ、忙しい時に限って訪ねてくるなんて」
「妙なものを背負ってるな、どこで捕まえた?」
「降りたところ。捕まえたんじゃないわよ、倒れてたから連れてきたの」
「霊夢らしからぬことね。信心に目覚めたのかしら」
「どうでもいいからそこ開けて、とりあえず寝かせなくちゃ」
床の間に通じる障子を開けてくれたのはアリスさんでした。
明かりをつけ、布団を敷き、そこに高橋さんを寝かせます。高橋さんはぐったりしていて、話せる状態ではないようです。
「どうしたもんかしら、うーん」
布団に寝かせたものの、それで具合が良くなるわけもなく、霊夢さんは困り果ててしまいました。
「こいつは妖怪か。妖力がひどく弱まってるが……ふむ」と萃香さん。
「そんなことは分かってるっての。病気かなあ、アリス、どう思う?」
「妖怪は、人間がかかる病気にはかからないわよ。滅多に」
「でも、苦しそうじゃないの」
「そのようね――あら?」
様子を見ていたアリスさんは何かに気付いたように、高橋さんの傍にかがみます。
「なあ霊夢、この前里を歩いてたら、まだ行ったことない饅頭屋を見つけたんだ。明日行ってみようぜ」
「あんた、それ言うためにわざわざ来たわけ?」
「ついでだよ。単に暇だからアリスを誘って来てみただけだ」
「お生憎さま、悪いけどスイーツ巡りはやめたの」
「ほう。あ、なるほど分かったぜ。お前最近ちょっとふと」
居間でごろごろ転がりながら話しかけていた魔理沙さんを黙らせるために、霊夢さんは床の間から障子を閉めました。
「霊夢」
アリスさんは少し真面目そうな顔で霊夢さんに向き直りました。
「この妖怪、産気づいてるわよ」
「……え?」
「もうすぐ、赤ん坊が産まれそうだということよ」
「え、ええーーーっ!」
霊夢さんは大声をあげて飛び上がりました。本当に飛んで、それから音もなく着地しましたが。
「た、確かに言われてみればお腹がちょっとふっくらしてる……」
「妖怪だから、人間と比べたら目立たないかもね」
「ど、どうしよう。ねえ、どうすんのよ」
妖怪退治が専門の霊夢さんにとってこれは不測の事態だったようです。
「何だ、どうした?」
霊夢さんの大声に釣られて魔理沙さんが障子を開け、床の間に入ってきました。
苦しそうに悶えている高橋さんの傍でオロオロしている霊夢さんの代わりに、アリスさんが魔理沙さんに事情を説明します。
「ふうん、医者に連れて行った方がいいんじゃないか?」
「そんな暇なさそうよ。あと半時ほどかしら……たぶん。ここで産ませるしかないわね」
「ちょちょちょ、ちょっと待ってよ、私、そんな、いきなり言われても」
近年まれに見る驚きようです。魔理沙さんは霊夢さんの肩に手を置いて言いました。
「落ち着け霊夢、深呼吸だ。吸ってー」
「すうーー」
「吐いてー」
「はあーー」
「どうだ」
「ダメ、やばい。どうしていいか分かんない」
「落ち着け霊夢、もう一回だ。吸ってー」
「すううーー!」
「吐いてー」
「はあああああああああ!」
というやり取りを何度か繰り返しましたが霊夢さんは普段の冷静さを取り戻せないでいたのでした。
「どうしよう。ねえ魔理沙、どうすればいいと思う?」
「無茶言うな。子供産んだことなんて、な、ないのぜ」
「なんでどもるのよ。ないのぜって何よ。アリスは? 何か名案ないの?」
「残念ながら。妖怪が子を身籠もるなんて滅多にないことだし」
「なんだそりゃ。どういうことだ?」
「妖怪は人間より遥かに長く生きるでしょう? だから子供はいらないってことよ」
「意味がわかんない。萃香あんたは……」
悠久の時を生き、知恵もある(はず)の種族である鬼に助言を求めようと霊夢さんが振り返ると、萃香さんの姿がありません。
霊夢さんは居間に戻って辺りを見渡しました。ちゃぶ台の上に白い紙が一枚置かれていて、そこには
「失礼仕り候」
と書かれていました。時代がかった文語体です。
さすがは鬼といったところでしょうか、とてつもない達筆です。
「ちょっとおおおお!」
「逃げやがったか萃香のヤツ! よし霊夢、私に任せろ。追いかけてくるぜ」
「待て! あんたも逃げるつもりじゃないでしょうね、行かないでお願い!」
箒にまたがろうとした魔理沙さんのスカートをむんずと掴んで霊夢さんは離しません。
「離せ、脱げるっ。分かった、分かったから」
「本当でしょうね、離した途端に飛んでったら後でしばくわよ」
「私を信じろ霊夢、今まで私が嘘を吐いたことあったか?」
「数え切れないくらいにね」
「そうだったな。ははは」
「はははじゃないわよ!」
あまりにも霊夢さんが必死ですがりつくので、魔理沙さんは逃亡を諦めたようです。
やれやれ、と魔理沙さんは再び居間に寝転がりました。
「私がいてもあんまり役に立たんと思うが。霊夢が面白いし、良しとするか」
霊夢さんは、アリスさんと共に床の間に戻って高橋さんを見守っています。
魔理沙さんは、少し開いた障子の隙間から、霊夢さんの横顔を伺いました。
「あの、霊夢がねぇ」
顔色一つ変えずに、妖怪を蹴散らし、封印する霊夢さん。
行く手を邪魔する者ならば人間だろうと一片の容赦もなく倒そうとする、霊夢さん。
そんな彼女を、魔理沙さんはよく知っています。
だから、「単なる妖怪」をわざわざ神社に連れ帰り、オロオロしながら看病している霊夢さんの姿は、魔理沙さんにとって、意外だったのです。
(ああ、そうか)
魔理沙さんの心に住む霊夢さんは、さわやかな春風のような、流れる清流のような存在でした。
全てを受け入れることができて、全てを捨てることができる天衣無縫の少女。人間的な穢れと無縁の存在。
それは「博麗の巫女」の姿であり、「博麗霊夢」という人間の少女とは、別なのかも知れない――。
魔理沙さんは、そんなことを考えていました。
それからしばらくして、高橋さんはうっすらと目をあけました。
心配そうに自分を見下ろす霊夢さんに気づき、申し訳ありません巫女様、どうかお許しを、と高橋さんは必死で謝りました。
自分がどこにいてどういう状況にあるのか、気付いたようです。
「そんなことはいいから。自分の心配してなさい」
高橋さんを刺激しないように、霊夢さんは声を抑えてそう言いました。
「とにかく、その、あれよね? もうすぐ産まれるんでしょ、赤ん坊が」
はい、と高橋さんは弱々しく頷きます。
霊夢さんが、必要なものはあるか、と問いますと、高橋さんはお湯や布が要るかもしれない、と答えました。
「待ってて、すぐ準備してくるから。アリス、ここお願い」
そう言って霊夢さんは居間に戻りました。
「魔理沙! 出番よ、お湯沸かして」
「持ってて良かったミニ八卦炉、だな」
「頼んだわよ。ちょっと納屋に行ってくるから」
霊夢さんは境内に飛び出しました。裏手の納屋には色々なものが詰め込まれています。
大きな和箪笥の引き出しを開けまくり、霊夢さんは布を探しました。
いつのものやら見当もつかない奉納品らしき手拭いが幸いにもたくさん見つかり、霊夢さんはそれを引っ張り出しつつホッとしたのでした。
そしてふと疑問に思ったのです、自分はどうして、こんなにも必死になっているのか、と。
高橋さんが入れてくれる賽銭のためでしょうか?
そうだった賽銭だ……と自分に言い聞かせるように呟いても、霊夢さんの心は晴れません。
参拝に来ない彼女を探しに出かけた目的は、確かに賽銭でした。
でも、今の今まで賽銭のことなどすっかり忘れていたのです。
では、何のためにドタバタしているのだろう。名も知らない妖怪一匹のために――博麗霊夢が。
床の間に戻り、部屋の中が暖まっていることに気付きましたが、疑問は氷解しませんでした。
「部屋の中の水を操ったわ。暖かい方がいいでしょう」
「布ってこんなのでいいのかな、ていうかこれしか無かったけど」
高橋さんは、かたじけのうございます、とただ恐縮するばかりです。
息は荒く、苦しみに耐えていることが、痛いほど伝わってきます。霊夢さんは唇を噛みしめました。
「もう少し猶予があるわ。少し、話しましょう霊夢」
アリスさんが立ち上がり、そう言いました。
「大丈夫かしら……」
ためらいがちにそう言い、霊夢さんはアリスさんに続きます。
霊夢さんたちが再び居間に戻ると、お盆に急須と湯飲みを載せたお盆を持って、魔理沙さんが戻ってきました。
「湯は風呂桶一杯分沸かしておいたぜ。ついでに、勝手に茶も淹れた。どんな様子だ?」
お盆をちゃぶ台に置いて、どっこらしょ、と魔理沙さんは座布団の上に座りました。霊夢さんとアリスさんもそれにならいます。
「産まれてくる子は、半妖ね」
とアリスさんが切り出しました。
「半妖――っていうと霖之助さんと同じね」
「父親が人間、ということらしいわ。里で暮らしていた男で、少し前に亡くなったそうだけど。病気で」
「……旦那が死んじまったのか。そりゃご愁傷様だ」
「さっきも言ったけれど、妖怪が身籠もるのはとても珍しいことなのよ。妖怪が人間と交わるケースは、例外みたいなものね」
妖怪は、そのほとんどが異常なまでの長寿であり、人間のように時間を気にして生きる必要がありません。
もちろん妖怪だって生き物ですから、自分たちが滅びることを良しとはしません。
人が短い年月の中で必死に同族を増やそうとする反面、妖怪は何百年かに一度、子を産むだけだというのが、人間との違いです。
「なぜだか分かる? 妖怪とは、人間を越える者。人間より弱い妖怪は本来存在しない」
「おい霊夢、今の言葉聞こえたか」
「何か言ったの?」
ずず、と霊夢さんは熱々のお茶をすすっています。
「あなたたちは特別すぎるのよ」
アリスさんの言う通り、鬼や神様とも渡り合える人間は、一握りしかいません。
「それで? 結局何が言いたいの」
「霊夢。人間は、どうやって子供をつくるのか知っているかしら」
唐突にアリスさんがそう言ったので霊夢さんは口に含んでいたお茶をぶーと吹き出しました。
お茶は魔理沙さんの顔面に直撃し、魔理沙さんは「うおあっちゃああ」と転げ回ります。
「いきなり何を言い出すのよ!」
耳まで真っ赤にして霊夢さんは叫びました。
「人間の男と女が、どういった行為を経て子供をつくるのかってことよ」
「た、たぶん知ってるけど……じゃなくて。やめてよ、突然!」
「子を産み、育てるのは、人間にとって神聖なことでしょう?」
とアリスさん。いたって真剣な表情です。
「そ、そりゃそう、だけど」
「そして、それは命がけの行為である。そうよね」
霊夢さんは頷きました。まだ、ちょっと頬が紅いままです。
「妖怪にとっては、そうではない。つまり、そういうことよ」
アリスさんは目を伏せ、静かに茶をすすりました。
何度目かの繰り返しになりますが高橋さんは、これといった特徴の無い単なる妖怪です。
けれども妖怪の本質は、スペルカードの強さや「××する程度の能力」、そういったものとは別のところにこそあります。
死ににくく、長く生きられる――人間のような壊れやすさ、脆さとは無縁の存在、それが妖怪です。
「だから人間の子を身籠もったとしても、妖怪ならば人間のような痛みや苦しみとは無縁……のはずなのだけど」
「苦しんでるじゃない、あの妖怪」
「そうね」
「ああもう、どういうことなのよ」
霊夢さんは頭を抱えてしまいました。
「彼女と話してきたらどうかしら。何か分かるかもしれないわよ」
「……そうする。なんかモヤモヤするし、それにそろそろ戻った方がいいでしょ」
そう言って霊夢さんは立ち上がりました。
「あなたに任せるわ霊夢。何かあったら呼んでちょうだい」
「私もここにいるぜ。湯を用意しといてやるよ」
霊夢さんは、うん、とだけ言って高橋さんが横たわる床の間に向かいました。
居間に残った魔理沙さんとアリスさんは顔を見合わせます。
「何を企んでる、アリス」
「あなたこそ。普段ならとっくに帰ってるでしょうに」
「私は霊夢に興味がある。特に、今日の霊夢にだ」
「そう、私もよ。なんだか今までの彼女と、雰囲気が違う気がしてね」
「人間ってのはコロコロ変わるもんだぜ。すぐ死ぬからな」
「……そうね」
「んで正直なとこ、どうなんだ? 無事にお産は済みそうなのか」
「分からないわよ、医者じゃないんだから。まあ大丈夫なんじゃない?」
「アバウトだな」
「ひょっとしたら霊夢次第、かもね」
「ほう?」
「何度も言うけど妖怪は簡単には死なないわ。妖力が弱ってて苦しんでるのは、精神的なことが原因じゃないかしら」
「ふうん、なるほどね。ま、私はもうしばらく成り行きを見てるよ。桶を取ってくるとしよう」
勝手知ったる博麗神社、魔理沙さんは台所へと消えていきます。
アリスさんは魔理沙さんの後ろ姿を見送り、その白く細い指で湯飲みを取りお茶を一口すすって、ふ――と溜息をついたのでした。
霊夢さんは高橋さんのそばに座り、無言で彼女を見守っています。
ご迷惑をおかけして、何とお詫びを申し上げれば良いか……と高橋さんは涙すら浮かべています。
「気にしなくていいって、あなたは参拝客なんだし。大丈夫? 辛そうだけど」
霊夢さんには、高橋さんの妖力がほとんど感じられません。
滅びかけている妖怪を目の当たりにしているような気持ちになって、霊夢さんは不安になってきました。
「何だったかな……妖怪は普通なら、子供を産むくらい楽にできる、ってさっき聞いたんだけど」
霊夢さんはそう問いました。
少しだけ微笑み、高橋さんは一言ずつ、ゆっくりと、彼女自身のことを話しました。
妖怪である高橋さんにとって、子を宿し、産むということは、アリスさんの言った通り、本来は辛いことではありません。
夫が人間で、産まれてくる子が半妖だということも、大きな問題ではないのです。
ただ、独りぼっちで夜を生きていた高橋さんにとって、夫との出会いと、共に生きたわずかな時間は、彼女の全てでした。
飾らない言い方をすれば、高橋さんは夫を愛していたのです。
ですから、高橋さんにとって夫の死は、身を焼くほどの辛い出来事でした。
心の痛みは、妖怪の力を大きく削ぎます。悲しみに明け暮れ、日に日に彼女の妖力は衰えました。
しかし彼女のお腹には夫の忘れ形見が宿っています。
何としてもこの子を無事に産み、育てていかなくては。
それは高橋さん自身の望みであり、また夫の願いでもありました。
決意を新たにした高橋さんでしたが、彼女は自らにもう一つの試練を課しました。
それは、妖怪であることに抗い、「産む苦しみと痛み」を、母として受け入れる……ということです。
妖怪の力は、夜の力。
それは妖怪であれば意識せずとも溢れてくる、本能のようなものです。
子を産む時にも、妖怪であることに逆らおうとしなければ苦しみや痛みを感じることはありません。
けれども高橋さんはそう望みませんでした。
人間が持つ、暖かく明るい力。妖怪と比べれば弱々しい、日の力。
その美しさに、高橋さんは恋したのです。
母親が、人としての苦痛を味わうことを避けて、どうして子供に人の血を受け継がせることができましょう?
妖怪の自分にも、暖かい心はあるのだと彼は言ってくれました。私はそれを信じたいのです――。
霊夢さんは、途切れ途切れに語る高橋さんの声に、じっと耳を傾けていました。
そしてその胸の内で、人と妖怪についての様々な思いを巡らせていたのです。
妖怪は、人間の宿敵であり、退治すべきものである。
霊夢さんはずっとそう信じて生きてきましたし、その考え方は簡単には変わらないでしょう。
しかし高橋さんだけではなく、萃香さんをはじめ、多くの妖怪を――人間と同じように喜び、怒り、悲しみ、笑う妖怪たちを、霊夢さんは知っています。
(妖怪を退治しなきゃいけないのは、どうしてだっけ)
(人間を襲うから……?)
霊夢さんは、いつか出会った僧侶の言葉を思い出しました。妖怪と人間は全て平等に生きるべきだ、と言うその僧侶は、
「あなたも本当は同じ考えを持っているのでは無いですか?」と霊夢さんに言ったのでした。
のんびりとした幻想郷を乱す異変が起こったら、「博麗の巫女」としてその根源をこらしめにいく霊夢さん。
彼女は、何度も不可思議な異変を解決してきました。
その中で様々な妖怪と知り合いましたが、その後も退治しようとせず付き合っています。
血肉を伴う生臭い犠牲を払わず、のほほんと、平和に、何事もなく、全ての人間と全ての妖怪が並んで酒を呑み、歌い、踊る。
それは、叶わないことなんだろうか。それとも実現できることなんだろうか。霊夢さんは今、そのことを考えています。
そしてその答えを、高橋さんの赤ちゃんが教えてくれるような……そんな気がして、霊夢さんは思わず口に出したのです。
「頑張って。私が、ここにいるから」
それから――。
霊夢さんにはとても長く感じられましたが、実際には数分後のことです。とっぷりと日が暮れ、空には星が輝いています。
博麗神社に赤ん坊の泣き声が響き渡りました。
妖怪にとって最も心地よい夜の中、その魅惑に打ち勝ち、高橋さんは無事にお産を終えたのです。
霊夢さんは半人半妖の赤ん坊(ちなみに女の子でした)を見て、胸がいっぱいになりました。
赤ん坊のおへそからは、へその緒がのびていて、全身は羊水まみれです。
霊夢さんは、手のひらに乗ってしまいそうなほど小さな身体で精一杯泣きわめくその子を見て、良かった……と、心から思ったのです。
「おーおー、元気に泣いてるじゃないか。めでたいね」
「霊夢、ぼおっとしてないで。手拭いで拭いてあげなさい」
「湯がいるんだっけな。持ってくるぜ」
霊夢さんは、頬がいつの間にか流した涙に濡れていたことに気付いて、アリスさんに気付かれないように拭き取りました。
それから、アリスさんにも手伝ってもらい、赤ん坊の濡れた体を手拭いでそっと拭いてあげたのでした。
アリスさんは懐から糸とハサミを取り出し、ハサミは高橋さんに渡しました。
「あなたが切るべきね」
赤ん坊のへそからのびているへその緒を、高橋さんはハサミで切り、そして嗚咽しました。
無事に産むことができた、という安堵からでしょうか。
赤子が自分の身体から放たれ、ひとつの命となったことが嬉しかったのかも知れません。
そして、同じくらい寂しかったのかも知れません。
アリスさんは手早く、切り口付近を糸で軽くしばりました。糸の扱いは手慣れたものです。
高橋さんは汗だくです。ありがとうございます、ありがとうございます、と何度も繰り返しました。
魔理沙さんが、暖かい湯の入った桶を抱えて戻ってきました。
霊夢さんたちは、ぐったりと疲労している高橋さんに代わり、赤ん坊に産湯をつかわせました。
高橋さんの妖力は、少しずつ回復しているようです。
湯の中で元気に泣き続ける赤ん坊からも、微かな妖気が放たれています。
そうして妖怪の母と半妖の赤子は、大きな山場を越えたのでした。
「ただいまーっと。お、産まれたかい。めでたいめでたい」
「こるぁ! あんたねえ、今頃何戻ってきてんのよ!」
霊夢さんは、お酒で満たされた瓢箪片手にふらふら戻ってきた萃香さんを見て、カンカンに怒りました。
「ごめんごめん。まあお前たちに任せておけば大丈夫だと思ってね、ほれ、こいつを取りに行っていたのさ」
そう言って萃香さんが自慢げに取り出したのは、古ぼけた太鼓でした。
柄や胴は漆塗り。革の膜が張られ、二つの小さな玉がくくりつけられています。
赤ん坊をあやす時に使う、でんでん太鼓でした。
「生誕の祝いものといったらこれだよ。この音色が、赤子を災いから遠ざける」
「よっと、ちょっと見せてもらうぜ」
と魔理沙さんが太鼓をひったくり、ジロジロと眺めました。
「ほう、確かに魔法の力を感じるな。お前が作ったのか」
「霊力と言え。旧い友人がこしらえた、もらいものさ」
ぽんぽん、ぽんぽん。
魔理沙さんが太鼓を鳴らしました。
可愛らしい音を立てるその太鼓からは、確かに魔除けの力が放たれています。
「まったく手癖が悪いったら。あんたのじゃないでしょ」
霊夢さんは魔理沙さんから太鼓を奪い返し、高橋さんにそっと手渡しました。
「鬼からの贈り物だ、ありがたく受け取るがよい」
高橋さんは目を白黒させ、萃香さんに平服しました。相手は鬼です。当然でしょう。
おかしいのは霊夢さんたちの方です。
「偉そうにしてんじゃないわよ、この酔っぱらい」
霊夢さんは萃香さんの頭を小突きました。うへへ、と笑う萃香さん。
だいぶ酒がまわっているようで、ふらふらと一回転しました。
それから萃香さんは霊夢さんの顔をまじまじと見つめ、
「霊夢、なんか少し変わったか?」
と言いました。
「変わったって……何が。顔近づけすぎ、酒臭い」
「うまく言えないけど。うん、いい感じだ」
「なあにそれ。ったく、飲み過ぎよ」
霊夢さんは笑います。
「何にしてもいい気分だよ。今日は月を見ながら呑むことにしよう」
またな霊夢ー、と萃香さんは、ふらふらと飛んでいってしまいました。
「さてと、一件落着ね。また来るわ」
「私も帰るぜ。乗ってけよアリス」
箒にまたがり、神社の境内に浮いた魔理沙さん。アリスさんは魔理沙さんの後ろに腰掛け、おやすみ、と手を振ります。
夜空に飛び去って行った魔理沙さんたちの姿はすぐに見えなくなりました。
「乗せてくれるなんて、珍しいじゃない。何が狙い?」
「お前こそどういうつもりだ、素直に乗ってくるなんてさ」
「今夜は、気分がいいからよ」
「そうか。私もだぜ」
そして神社には霊夢さんと高橋さん親子が残されました。
これ以上巫女様のお手を煩わせるわけには、と高橋さんは起き上がろうとしましたが、
「ダメよ、今日はそこで寝てなさい。一晩くらい大人しくしてた方がいいわ」
霊夢さんはそう言って、高橋さんたちを床の間に寝かせたのでした。
本当にご迷惑を、布団を汚してしまいましたし、と高橋さんは申し訳なさそうです。
「いいのよ。そんなことどうでも。それとね」
霊夢さんはそう言いました。
「私は、博麗霊夢。霊夢、と呼んでちょうだい。巫女様なんて、気恥ずかしいわよ」
にっこり笑った霊夢さん。その表情はとても晴れやかでした。
高橋さんと半妖の子が神社を後にしたのは翌朝のことです。
それから数日後、高橋さんは赤ん坊を抱いて、再び神社へやって来ました。
先日は本当にお世話になりました、と高橋さんは持っていた包みを霊夢さんに渡しました。
中身は、十個ほどの白く小さなお饅頭です。
高橋さんによれば、亡くなった夫は和菓子職人で、里に小さな店を構えていたそうです。
魔理沙さんが言っていた小さな饅頭屋というのは高橋さんの夫の店だったようです。
夫から和菓子の作り方を教わり、手伝っていたことは、これから先も幸せな思い出として彼女の心に残り続けるのでしょう。
妖怪の身ではあるものの、お店を継いで頑張ろうと思っている、とのことです。
最近質素な食事が続いて甘いものも食べていなかった霊夢さんは小躍りするほど喜びました。
高橋さんを縁側に座らせ、お茶を淹れ、霊夢さんも隣に座ります。
スイーツ巡りにおいては洋菓子ばかり食べあさっていた霊夢さんがお饅頭を口にしたのは久しぶりでしたが、
「美味しい。やっぱりこれよね」
と幸せそうに言ったのでした。日本茶に合うお菓子が、霊夢さんには合っているようです。
三つ目の饅頭をもぐもぐしながら、霊夢さんは気になっていたことを尋ねてみることにしました。
「そういえば、どうしてここにお参りに来てたの? 賽銭はありがたいけど」
私が言うのもアレだけど御利益なんてあるのか無いのか分からないわよ、と余計なことまで霊夢さんは付け加えます。
高橋さんは、神社の境内に吹くさわやかな春風を身に受け、微笑みました。
胸に眠る彼女の子を愛おしそうに撫で、高橋さんは言います。
「ここには、人間と妖怪が暮らすこの楽園を、守ってくださる方がいらっしゃいますから」
「私? まあ私しかいないわよね、ここには」
「我々妖怪の多くは博麗の名を畏怖します。関わるな、近づくなと申す者もいると聞きます」
「間違ってないんじゃないかな。妖怪退治、やってるし……」
「私は、そうは思いません。だって」
一度言葉を区切って、すやすやと寝息をたてる赤ん坊に目をやります。そして高橋さんは言いました。
だって、霊夢さん。
貴方は、こんなにも優しいじゃないですか――と。
そんな感じです。
霊夢は何か見つけられたのかな。
今回も素敵なお話をありがとうございました。
高橋さんとお子さんに、幸有らんことを。
文面から滲み出てくる独特の可笑しみとリズムが凄く心地良かったです。
霊夢は言わずもがな、なんでしょうが、高橋さん(仮)親子も間違いなく
楽園を守るひとに含まれると思いますよ。
>ちょっとむっちりしたふくよかな巫女さんの方が魅力的に決まっています。
……杯を交わそうぜ、作者様よ。下戸だけどな!
でも高橋さんの名前…名前……
可笑しくも優しくも、また哀しくもあり。楽園はそこに在る。
キャラがみんな生き生きしていて読んでいて嬉しくなりました。特に萃香さん。
素晴らしい。
高橋さんのお店が賑わうことを祈ってます
霊夢、なんつーか、良かったなぁ。
何かもう、地の文の語り口から既にしみじみとしますぜ……おめでとう。
彼女らのこの先も楽しみだ。
外の世界で失われつつある暖かさです。
紅茶に溶かした角砂糖のように、じんわり広がって。
でも高橋さんという名が見えるたびにどうしても吹いてしまうという
高橋さんSSとして私の心に深く刻まれました。ずっと覚えています。
高橋さんも赤ちゃんも、ともども末永く健やかでありますように。
そのとろける甘さにハマり、散在してしまったというわけなのでした。
→散財してしまったと
語り口調が優しくて、とてもほのぼのした、いい話でした。
人妖の違いを描くお話はありますが、切り口が新鮮だったのと、霊夢は、普段達観してるけどこういう場面になるとうろたえたりして、普通の少女の一面が見れて微笑ましいかったです。
妖怪の高橋さん(仮)の子が長じて慧音先生の寺子屋に入ったり、
チルノたちと遊んだりして、そういう風に広がっていく世界を幻視しました。
シリアスっぽんだけど、コミカルで飽きさせない文章の作り方で、冒頭から惹きこまれてすらすら最後まで読めちゃいました。
妖怪と人間の考察、その題材の作中での活かし方、どれも上手くて唸ってしまう。
好きですわあ、この話。
霊夢、魔理沙、アリスの距離感が心地よい、キャラがみんな愛おしい