「生きてゆくのは、とても寂しいことですね」 雫石サナ
(絶望同盟/十文字青)
ミ☆
「もし、魔法が使えなくなったらどうする?」
「死ぬかもしれないわ」
「そっか」
「そうよ」
パチュリーは小さく、嘆息した。
部屋の全ての窓にはカーテンがかかり、室内は昼間だというのに蝋燭の明かりのみで照らし出され、幾万を超える書籍が整然と並ぶ本棚の中で眠っている。その部屋の中心に据えられた丸テーブルに二人の姿はあった。
部屋に常に控えている小悪魔が怪訝そうな瞳を来客に向けるのと同じように、この大図書館の主、パチュリー・ノーレッジもまた重そうな瞼をさらに下げ、視線を細くする。
二人の視線の向かう先は一つだった。
魔理沙は平然とした表情で、来客の用のカップに入れられた紅茶を一口啜った。少しばかり渋かったのか、口から離して砂糖を一匙放り込む。
「それで? どういう風の吹き回しかしら」
カチリと小さな音を立てて、魔理沙はカップから手を離した。
「何のことだ?」
「日頃の自分の行いと、今日の行動を比べてみなさい」
「少しばかり、礼儀正しかったか?」
「少し、ね」
呆れたように会話を区切り、紅茶に口を付ける。
つい数分前のことだ。パチュリーが未解読のままにあった魔導書とにらめっこしていると、小悪魔が来客を連れて近づいてくることに気がついた。小悪魔の顔には酔っ払った時計のような不可解が浮かんでいて、パチュリーもまたその来客が魔理沙であることを認めると、その困惑に納得した。「次はしっかりと撃退してみせます!」と眉間に可愛らしい皺を寄せ、黒々とした翼をはためかせてパチュリーに誓った小悪魔からすれば、今回の魔理沙の様子は怪訝以上に拍子抜けだったのかもしれない。
日頃は箒にまたがり、客とは到底呼べない粗忽さを露わにして魔法障壁の張られた図書館の窓、あるいは壁をぶち破り進入してくる魔理沙が、しずしずと歩いてくるのだ。ここまで一切の騒ぎを感じなかったことを考えると、美鈴にも折り目正しい挨拶をし、咲夜(或いは近くにいた妖精メイド)に案内されて、ここまでやってきたのだろう。
普段の行動がどうであれ、まともな対応を見せる者にはこの館の主は寛大だ。吸血鬼にしては彼女がただ暢気なだけだとも言えるが、たぶん興味本位の暇つぶしにそうしているのだろうとパチュリーは想像している。巷では湖近くにある紅い館の門に近づくだけで、その罪を問われ、館に収容され、全身の血を抜かれる――などと噂されているらしい。実際にもし村人が暇つぶしに訪れてきたら、礼儀を欠かない限りは客間にでも通され、紅茶と菓子を振る舞われるだろう。
「紅茶とお菓子を求めてやってきたのかしら?」
「それでもいいかもしれないな」魔理沙は微かに笑ってみせた。「でもまあ、それだったらこんな陰気で埃っぽいところに足は向けないぜ」
「咲夜を侍らせてテラスで一杯やっていればよかったじゃない」
「今日はお前に会いたかった」
「……嘘ばっかり」
溜め息をつくのも億劫だった。なははと笑う魔理沙はしばらく笑い声を木霊させてから、静かに目を伏せた。
平素通りに侵入してこないことばかりに目がいったが、よく観察してみると、今日の魔理沙はそもそも箒を持ってきていないようだった。「ここまで歩いてきたの?」と尋ねると、「ああ、たまにはな、いいかと思って」と煮えきらない返事をよこした。
魔理沙が室内にいるとは思えないほどの、しんとした静寂。蝋燭の燃える音が聞こえてきそうなほどだ。パチュリーがカップに三回口を付け、スコーンを二口含んだ頃になってから、魔理沙は意を決したように口を開いた。
「……魔女になってから、何年経った?」
妙な風の吹き回しだと思ったら、「今度は藪から棒ね」
「いいから」
魔理沙は睨みつけるような上目遣いでパチュリーをみた。
「茶化さないでくれると、助かる」
「助かる?」
「助かる、かもしれない」
ふむ、と一息落ち着ける。右手を挙げて二度ほど振り、背後に控えているであろう小悪魔に席を外すよう促す。表情から察するに、込み入った話になってもおかしくはない。魔女(魔理沙はまだ『魔法使い』だが)の秘密は数多くあるが、多くの耳に聞かせるべきものではない。
「それで」パチュリーは言う。「私が私の経歴を語ることによって、あなたの何が助かるのかしら」
魔理沙はしばらく言い淀むようにしてから「わからん」と呟いた。はっきりとした溜め息をついたパチュリーに弁解するように、「すまん……その、何だ。強いて言えば、私の誇りが助かるのかもしれない」と、しどろもどろに言葉を紡いだ。
「誇り? そんなものを持っていたの」
「アイデンティティーとか、レゾンデートルだとか、そんなふうに言ってみてもいいぜ」
「何だっていいわ」そもそもそれぞれの意味も全然違う。「じゃあ、あなたは今どんな問題を抱えてここに来て、私の時間を無駄に消費させているわけ」
「それは言えない」
「何故」
「言いたくない……からだ」
「感情論なわけ? 人にものを頼みに来ているというのに?」
「すまん」
察してくれ、とでもいうような色を瞳に魔理沙は浮かべ、パチュリーを見た。知らない振りを決め込み、紅茶に手を伸ばす。その間も魔理沙は視線を動かさない。魔を冠する者としては良くも悪しくも純粋に過ぎる瞳が、一挙手一投足を追いかけてくる。
例えがまるで似合わないが、寒さに震える子猫のようだ。
正直、かなわない。
パチュリーは瞑目し、大きく吐息を吐いた。魔理沙にしっかりと聞こえるように。
「……おそらく、千年以上よ。レミィよりは長生きしているわ。未だに人間の檻に囚われているあなたにはわからないかもしれないけれど、時の経過はある程度からは数えるものではなくなるわ。だから、細かい年数はもうわからない」
「レミリアよりも長生きしてたのか」
「意外かしら」
「それはまあ、何となくだけどな。あいつの方が主人なわけだろ」
「私は咲夜や美鈴とは違うわ。いつだって、レミィの招いた客人よ。その意味を察しなさい」
並の魔女ならば、一回限りの遊び相手か、魔力と血液を気の済むまで吸われ皮だけになって打ち捨てられるのが落ちだろう。
「だてに七曜の賢者ではないわけか」
「もっとも、それでも私が主人ではなく客人であるあたりは、人と悪魔の埋められない種族差でしょうね」
賢者の石を幾つ用いたとしても、おそらくは滅ぼすには至らないだろう。弱点を的確かつ狡猾に突いた上で幸運に恵まれるか、或いは時の経過が彼女を滅ぼすまでこちらが生きながらえる以上の方法はない。
「話、脱線してないかしら?」
「いや、大丈夫だ」
何が大丈夫なのやらと、頭の中で呟く間に、魔理沙は次の質問を投げかけた。
「その千年以上の間で、魔法を使えなくなったことはあるか」
「……魔理沙、あなた魔法が使えなくなったの?」
そうじゃないんだ、と魔理沙はすぐに頭を横に振って否定し、どこからともなく八卦炉を取り出す。二、三度手元でお手玉するように投げてから、右手に落ち着かせる。
「ほら」と魔理沙は火花を散らせるように、小さな星を八卦炉の中心から噴出させた。
「相変わらず術式の甘い魔法ね」
自分の側に飛んできた星のかけらを指先で受け止め、指で弾いて魔理沙に投げ返す。「あう」魔理沙の額に見事命中していた。
「痛いぜ」
「痛くしたのよ」
「やり返していいか?」
「私、負け越すことはしな――」語りも途中に、パチュリーは盛大にせき込んだ。「大丈夫か?」「ごほ……ごほっ」「ごほごほしてるなら、水でも飲むか」「……げほっ」
落ち着くまでしばらくかかり、魔理沙はきまりの悪そうな表情を浮かべた。
「お前が喘息持ちなの、時々すっかり忘れるな」
「今のは、喘息とは、関係、ないわよ。単純に、むせた、だけ」さらに言えば喘息関係なしに虚弱体質なだけだ。
「無理に答えなくてもいいぜ」
それなら話しかけるな。
視線に言霊が乗ったのか、悪い悪いと魔理沙は後ろ頭をかきながら謝る。
「どうして」ごほん、と整える咳払いを一つ。「そんなことを聞くのかしら?」
魔法の力を失った、だから解決するために意見を聞きに来た、というのならばわかるが、そうではないらしい。事実、魔法は使えている。
「いや、私みたいな人間の魔法使いじゃなくて魔女のお前になら、そういう経験があるかと思って聞いてみたかったんだ」
聞いてみたかった、で済ますにはその視線は真剣すぎたことをパチュリーは言わない。その代わりに、ひとつの問いかけを魔理沙に返す。
「あなたは、どうして魔女にならないの?」
「……どうして、か」
難しいな、と魔理沙は苦笑いした。
「あなたがどういうつもりで『魔法が使えなくなる』なんてことを聞いたのかは知らないけれど、あなたが魔女に……いえ、人を捨てない限り、そう遠くない未来に歩くことも飛ぶこともできなくなるし、魔法はもちろん使えなくなるわ」
「それくらいのことは、わかっているさ」
「そう?」わかっているように見えないから言ったのだ。
「人であることに、何か執着があるの?」
「執着とかそういうの、私にあるように見えるか?」
「蒐集癖はあるでしょう」
「それはそれ……いや、うん、どうなんだろうな。私は何で、魔法使いなんだろうな」
「あなたのことを私に聞かれてもね」
「そう、だよな」
それでも、とパチュリーは呟いた。
「あなたは、人以外になれる」パチュリーは言う。「それはこの幻想郷においてだって普通ではないことよ。それを放棄して、人に甘んじて、いつかその身を時と共に滅ぼすのであれば、私にはそれはただの自殺であるとしか思えないわね」
「……自殺、か」
「繰り返すけれど、今のままならあなたはいつか魔法は使えなくなるし、歩けなくもなり、飛べなくもなる。それは人としては当たり前のことだけれど」
魔法使いとして「魔」を冠することを考えるのならば、それは当たり前のことではない。
それから再び、室内は静けさを取り戻した。中指と親指で音を鳴らし、小悪魔を呼び戻してティーセットを下げさせる。おそらく、これ以上話すことはないような気がした。
「……最後に、一ついいか」
「先を歩く魔女として、見習いからの質問には誠意を持って答えてあげるわ」
それはどうも、と魔理沙は席から立ち上がった。帽子の位置を両手を使って軽く直す。その仕草は妙に子供じみている。
「パチュリーにとって、魔法は全てだよな」
「そうね」
間髪なくパチュリーは頷き、あなただってそうでしょうと魔理沙を見返す。魔理沙はその視線を真っ直ぐに受けてから、にははと微苦笑を浮かべる。
「私には、魔法は私にとっての全てじゃないのかもしれない」
そう、言った。
「用事は済んだのかしら」
「ああ」と魔理沙は答えた。「終わったよ」
部屋の扉を閉めた同時に、待ちかまえていたように咲夜は現れた。「そう」と素っ気なく頷き「もう帰るのかしら、珍客様」と皮肉を投げつける。
「結構な頻度で来てるつもりだったんだけどな」
「いつもは進入者でこそ泥でしょう」
「それもそうだ」
「妹様の相手はしていかないのかしら?」
「今日はちょっときついな」
「あなたが来たというのに、自分に何にも無しだった――と妹様が知ったならば、それはそれは次が怖いと思いますわ」
「黙っておいてくれると助かる」
「言うつもりもないわよ」
ありがたい、と魔理沙は心底といった具合で言葉をこぼす。
魔理沙が来ていましたよ、などと告げたとして、最初は魔理沙に対する怒りが大きくとも、その内「何で教えなかったのか」とこちらに怒りの矛先が向いてくるのは容易に想像できる。そんなことは咲夜もごめんだった。
「ああそうだ」と、帰るついでのように魔理沙は聞いた。
「咲夜、お前ってどうやって飛んでるんだ?」
「どうやって?」おかしなことを聞くのね、と咲夜は小首を傾げる。カチューシャについたフリルがはためいた。
「飛べるから飛んでるだけよ。あなただって……って、そういえば、あなたは箒に乗っているのね」
「そういうこと、だぜ」
「今日はどうして箒を持ってきていないのかしら」
「運動不足解消に歩くのもいいと思ってな」
「嘘は相手を騙せるときだけ意味があるのよ。知っていたかしら」
「生憎、嘘をつくのは苦手でな」
大きな正面玄関にあたる扉を開け、外に出る。雲のない空から嫌というほどの光が降り注いでいた。
魔理沙は帽子を取って振り返った。
「どうも、飛び方を忘れちまったみたいでさ」
ミ☆ミ☆
「もし、飛べなくなったらどうする?」
「歩く!」
「そうかそうか」
「馬鹿にしてんのかこんにゃろ!」
夏の匂いを感じさせる青空を、湖面は静かに波打ちながら映し返している。桜の花は散って緑の葉が茂っているものの、どこかまだ夏本番というには心もとのない暑さ――それが最近の気候だったが、今日は一挙に真夏日に加速し、太陽がじりじりと地面を焼く音が聞こえるようだった。
その湖面をぐるりと囲むように道がある。湖の脇に広がる森から木が枝を伸ばし、道なりに日陰を作っている。チルノはその木陰に入りながら湖へも足を延ばし、可能な限りに全身を冷やしていた。
「あっつい……頭溶ける……」文字通りに。
夏はまだ先とはいえ、今日の気温はチルノからすれば十二分な暑さだった。
砂利を蹴飛ばすざくざくとした足音が近づいてきていることにチルノは気がついた。顔の上に覆い被せていた大きな葉っぱを除けて、木漏れ日を顔面にまばらに受ける。眩しかった。
「よっす」
「何よ」
「そんな突っぱねなくてもいいだろ」
にやにやとした表情を浮かべて、魔理沙はチルノの横に腰を下ろした。全身黒尽くめに近い魔理沙の格好は、太陽の熱を存分に吸い取っていて近くにいるだけでも暑かった。
「何してるんだ、こんなとこで」
「見てわかんないの? 馬鹿?」
「お前に馬鹿扱いされるのか、私は……」
「光栄でしょ」
「光栄の意味分かってないだろ」
「すごいことでしょ。すごいこと」
「あー、そうだな。うん、そうだそうだ」
投げやりな反応に納得はいかなかったが、追求するのも暑さで億劫だった。透明な羽も木陰の中でフニャフニャと延びている。冬が来て、また冬が来て、いつまでも冬で、明日も明後日も冬だったならば。そう思わずにはいられない。
「なかなか恐ろしいことを言うな」
「涼しい方が幸せでしょ」
「幸せ、ねえ」
「こんなに暑くちゃ、飛ぶ気も起きないもん」
太陽の真下に全身をさらす気はまだまだ起きない。これから夏までの間にじっくりと覚悟を作っていこう、そして夏を乗り切ろう、そう思う。
魔理沙は厳しい顔をして湖を見つめていた。何か珍しい生き物でも顔を出していたのかと思ったが、水面は星屑めいた光を反射しているばかりだった。
「どうしたの?」
我に返ったように、魔理沙は寝転ぶチルノを見下ろした。「いや、何でもないぜ」
「ムズカシー顔してなかった?」
「これでも魔法使いだからな。頭の中は難しいことで一杯だ」
「キノコばっかりのくせに」
「キノコを舐めちゃいけないな」
「キノコは食べるものでしょ。それぐらい知ってる」
そういうことじゃないんだがな、と魔理沙は苦笑しながら同じように寝転がった。魔理沙が倒れるのと一緒に静かな風が吹いて、チルノの短い髪を僅かにすくい上げた。くしゃりと、魔理沙の背中で背の低い雑草のつぶれる音がする。
「なあ、チルノ」
「なによ、魔理沙」
「お前、どうやって飛んでるんだ?」
「……飛ぶ? 魔理沙だって飛んでるじゃない」
それこそ、人間のくせに妖精や妖怪よりもよっぽど速い速度でだ。
「それはそうなんだけどな」
「じゃあ、一緒でしょ。飛べるから、飛んでるだけ」
「飛べなくなったことはあるか?」
魔理沙の妙な質問に疑問を抱きながら、チルノは答える。
「別に、そんなことはないけど。飛ばないときはあるけどね」
「飛ばないとき?」
「今もそう」チルノは言う。「あっついから、飛びたくない。だから飛ばない」
肌をなでる風は涼しいかもしれないが、太陽からの熱い視線よりも効果があるとは思えない。覚悟の決まるまで、涼しい場所を渡り歩いている方がきっといい。
「飛びたくないから、飛ばない、か」
「……魔理沙、飛べないの?」
ふと思いついたようなチルノの言葉に、少し答えを詰まらせてから魔理沙は口を開いた。
「いんや、私も飛びたくないだけなのかもな」
立ち上がった魔理沙の背中に、「一緒ね」とチルノは声をかける。後ろ姿を向けたまま魔理沙は右手を挙げて、それを返事に代えた。
魔理沙が歩き去っていくのを、チルノはぼんやりと見ていた。
ミ☆ミ☆ミ☆
「人のままでいたいの?」
「いや、そういうつもりでも、ないと思うんだ」
「曖昧なのね」
「曖昧なんだ」
アリスが右手人差し指を一曲げすると、人形たちが丁寧な動作でテーブルの上に紅茶を用意する。準備を終え、頭を寄せてきた人形の頭を一撫でしてから、アリスはカップを手に取り、小さな唇で口を付けた。流れるような仕草は深窓の令嬢と呼んでも差し支えなく洗練されている。
「お腹空いたぜ!」などという無粋極まりない侵入者に対して、当たり前のように無視を決め込む。「おーい」と目の前で手を振る魔理沙など眼中に入れず、代わりに人形たちが魔理沙に殺到する。
「ちょ、ちょっと待った、話を聞いてほしいだけなんだって!」
「話?」
「そう、話だ。アリスは少し野蛮すぎる」
「……上海」
「わー、待った待った!」
魔理沙はどうだか知らないが、アリスにはこれだけ馬鹿馬鹿しいやり取りは単純に疲れる。ため息をつき、魔理沙を外へと追い出そうとしていた人形を止め、もう一人分の紅茶を入れさせる。
「ふう」と帽子を取りながら、魔理沙は席に着いた。太陽を十分に浴びてきたのだろう。魔理沙の癖のある柔らかそうな髪からは、外の香りがしっとりと濡れるように漂っている。
「それで、用件は?」
「落ち着くのも大事だと思わないか?」
「私、暇なわけではないのよ」
「紅茶飲んで休憩してたふうに見える気がするのは?」
「一人で。静かに。休憩を、とろうとしていたのよ」
「それは失敬」
意味分かっているのかしら、と口に出すことはなく、アリスは額に手を当て首を横に振った。頭痛でも起きないことを祈るしかなかった。
「それで、話は?」
「お腹が空いて力が出ない、これは困った」
「生憎だけど」とアリスはすぐに答える。「私、最近は何も食べていないから。出せるものはないわ」
「……アリスは太ってないと思うから、気にしなくていいと思う?」
「心配されるまでもなく、そんなことじゃないわよ」
あのね、とアリスはまるで小さい子供に言い含めるように言葉にした。「あなたは種族としては人間で、私はもう種族としても魔法使いなの。今まで食事をとっていたのは、人だった頃の癖が抜けていなかったり、ただ退屈なときに作っていただけよ」
「今は退屈じゃないのか?」
「暇ではない、って言ったでしょう」
「そういえばそうだった」
「だから、さっさと話しなさいな」
たしなめられるような口調に魔理沙は少しむっとしてみせてから、一度紅茶に手を伸ばした。今日はすでに二度目だったが、紅魔館には紅魔館の、アリスの淹れる紅茶にはアリスの淹れる紅茶の美味しさがあった。
「実は、話というよりは相談なんだが……」
「わかってるわよ。だから、早く話しなさいって」
わかってるのかよ……と魔理沙は顔に出したが、そんな風にすぐに表情に出してしまうからわかるのだ――とはアリスは告げなかった。言ったところで直るとも思わないが、言わなければこちらが得できる。
「端的に言う。飛べなくなったんだけど、どういうことだと思う?」
「知らない」
「……泣いちゃうぜ?」
「笑っちゃうわよ?」
「即答しなくても、少しくらい考えてくれたっていいだろ」
「それじゃあ……魔法も使えないの?」
「いんや、魔法は使えるんだ」
ほら、と紅魔館でパチュリーにしてみせたのと同じように、魔理沙は八卦炉を取り出してささやかな魔力を解放する。
「ふうん。でも、飛べないの?」
「そうなんだよ」と魔理沙は両手をあげ、肩を竦めた。「困ったもんだ」
「最近、なんか困ったりでもした?」
「いや……そういうのは、別にないな。今まさに困ってるけど」
魔理沙が僅かに言い淀んだことを、アリスは追求しなかった。そう、と呟いて瞼をおろし、カップを手に取る。紅茶の柔らかな温かさが手のひらに染み込むようだった。
「アリスは、どうやって飛んでるんだ?」
「……こういうのも変だけれど、幻想郷で飛べることはおかしなことじゃないわ。むしろ不思議なくらい当たり前のことでしょう。私は、そうね。飛べるから飛んでる。強いて言うなら、魔法使いとして、魔力を使って飛んでいるわ。きっとね」
「魔法使いとして、なのか」
「魔理沙は、まだ……なる気はないの?」
同じようなことを、同じような流れで、パチュリーにも尋ねられていたな、と魔理沙は思う。アリスはパチュリーよりも幾分は口調が柔らかい。
「正直、わからん」
「もし魔理沙が何か、人であることを失うのを怖れているのだとしたら、きっと、大丈夫よ」
食べ物を食べる習慣や、いろいろな人としては必要でも魔として生きるには不必要な要素が、身の回りに泣きつくようにくるくると回ることはあるかもしれない。いや、実際訪れる出来事だろう。それでも、ここは幻想郷だ。人も魔も、そう差はありはしない世界だ。
「霊夢の所に行ったらどう?」
素直に霊夢に相談するのは何かしらの気後れがあるかもしれないけれど、と内心で続ける。
予想通り、魔理沙は渋面を浮かべた。アリスはくすりと小さく微笑んでから、皺の寄った魔理沙の小さな眉間を人差し指で小突いた。
「あなたが人で魔法使いなように、霊夢も人で巫女でしょう。きっと、尋ねた方がいいと思うわ」
むむー、と額をさすりながら、魔理沙はしばらく悩み、立ち上がった。カップを手に取り、残っていた紅茶を一気に胃袋の中へと流し込む。不作法にもほどのある飲み方だった。
「行ってみる」
「いい子ね」
「子供扱いされると、なんだかムカムカするぜ」
「はいはい」
魔理沙はまだ文句の垂れたりないような表情を浮かべたまま、玄関の扉を開け、外に出ていった。微かに軋んだ音を立てて扉が閉まり、魔理沙の後ろ姿が削られていく。その最後まで、アリスは見ていた。
ミ☆ミ☆ミ☆ミ☆
「私には、お前みたいな翼はないからな」
「ふむむ。今まで、飛べなくなることなんて考えたこともなかったですね」
「歩いての聞き込みも、必要だと思うぜ」
「鮮度が命なのですよ、新聞は」
円形にも似た黒い影を地面に落としながら、文は中空で足を組み、カメラを片手にペンを口で咥えていた。窓には結界に近い魔法障壁が張られていて中を覗うことは出来ない。仕方がなくこうして張り込みのように待機しているのだが、どうにもこうにも、待つことそのものが性にあってはいなかった。
いっそ暴風でも起こし、家の中のものを全部空に吹き飛ばせばはっきりするのでは――などと物騒なことを考えたところで、カクカクと先が折れた黒いとんがり帽子を頭に座らせた魔理沙が、家の中から外へと出てきた。魔理沙よりも背後、家の影と樹に隠れる文に気がついた様子はない。
さながら獲物を狩るように息を殺し、文は静かに魔理沙の後についた。情報で得た通りに魔理沙は歩いてどこかへと向かうようであり(方向的には博麗神社だろうか)、箒は持ち歩いていないらしい。
瞬間、息を吸い込み、一気に加速して魔理沙に近づく。風が過ぎるのと変わらないような
速度で魔理沙を飛び越え、そのついでに文の手の中には魔理沙の帽子が握られていた。
「おいこら盗っ人!」
「おやおやおやおや、魔理沙さん」大げさに文は肩を竦めた。「あなたに盗っ人呼ばわりされては堪りませんね」
「頭焦げちゃうだろ、返せって」
「いつから吸血鬼になられたんですか?」
「単純に今日は暑いだけだ」
「まあ、返すことには何の問題もないのですが……」
すっと、黒い帽子が前に突き出される。「どうぞ」
にこりと、文は笑って見せた。
文は魔理沙の頭上に浮遊したまま、魔理沙がぴょこぴょことジャンプしたところで手の届かないところで帽子を掲げている。魔理沙は明るさに目を細めるようにして、帽子を見つめていた。平たい胸を張り、睨みつけるようにして右手の手のひらを返す。「持って、来い」
「本当に飛べないんですか」
「……どこから聞きつけてくるんだ、お前は」
「天狗の耳は空のようなものですから。どこにでもあるのですよ」
確認が済めばそれだけで十分だ。魔理沙の方向へと一度ファインダーを向け、枠の中に彼女の姿を収める。シャッターを切り、そして目の前へと降り立った。
「どうぞ」
「ごめんなさい、の間違えだろう」
「ごめんなさい」しれっと頭を下げる。「謝ったついで、なんですが。どうしてまた飛べなくなったんですか?」
「そんなもん、私が知りたいくらいだぜ」
「原因は不明……と」
手元の手帳に筆を走らせる。「今までの悪行の報い、という感じですかね?」
「そんなことした覚えはないな」
「犯人に一切の反省の色はなし、と」むむむ、と唸る。「何だかいつも通りになってきました」
これでは魔理沙がどこぞの館に侵入するときの記事と変わらない。
「ネタ幅の狭い新聞だな。ゴシップ以外のことを考えたらどうなんだ?」
「ジャーナリストとしての意見を言えば、飛んでも飛ばなくてもあなたに変わりがない、ということだと思うんですけれどねぇ」
ぽりぽりと筆の後ろを使って頭を掻く。新鮮なネタを見つけたと思ったものの、どこまで記事を膨らませられるかわからなくなってきていた。幻想郷的にも、文々。新聞からしても、よくも悪しくもネタになりやすい彼女だ。多かれ少なかれ人気もある。それなりに大きな見出しにすれば話題にはなるだろうか。
「……ん、魔理沙さん、どうしました? 化かされたような顔をして」
「いや、さんきゅー、かな」
何のことだかわからないが、感謝されてしまった。つっこみたい気もするが、文をこれ以上相手にするつもりは魔理沙にはないらしい。再び帽子を取ろうにも、右手に八卦炉を持たれては下手なことはしたくない。
「一つ聞いていいか?」
「おや、なんでしょう」
「お前、飛べなくなったらどうする?」
「……あなたが魔法使いであるように、私は天狗ですから。天の狗として、それは有り得ないことですね」
「飛べなくなったら教えてくれ」
「その時は文々。新聞をお楽しみに」
呆れたように吐息を吐いた魔理沙に一礼。
速度が命、と呟いて、文は飛び上がる。
ミ☆ミ☆ミ☆ミ☆ミ☆
「饅頭を喉に詰まらせるんだぜ、きっと」
「あなたじゃあるまいし、そんな馬鹿なことにはならないわよ」
「ちなみに私は、やっぱり落っこちるのかな」
「さあ、ね。その時になってみないと」
縁側に座り脚を揺らしていると、そよいだ風が隣に置いたお茶と菓子の匂いを運んでくる。霊夢はぼんやりと目の前の空中に視線を留めたまま、右手を伸ばして菓子をつまむ。甘くほんわかとした饅頭の味わいを、嚥下したお茶の静かな渋みが締めた。
目を細めて、霊夢は境内を通りこちらに向かってくる人影に視線を送る。真夏日に近い暑さだというのに、日頃と変わらない真っ黒な出で立ちだった。どうやら天狗に聞いた通り、ここまで歩いてきたらしく、近づくいてくる魔理沙の額には汗の玉が浮かんでいた。
「すごい汗ね」
「今日は暑いからな。でもまあ汗よりも、正直なところ足が痛いぜ」
どっこらせ、などと少し年寄りめいたかけ声と共に、魔理沙は霊夢の隣に腰を下ろした。お盆からお茶を手に取り、飲む前に渋面を浮かべる。「こんなに暑いのに、よく飲めるな」
「あなたみたいに動き回ってなければ、少し暑いくらいのものよ」
「運動不足だな」
「お淑やかなだけよ」
そうかい、と魔理沙は頷き、覚悟するようにしてお茶を飲んだ。熱さ云々よりも先立って、喉の渇きの方が問題だったのだろう。饅頭を一瞥してそろりと伸ばした手は、霊夢の右手にたしなめられた。
「飛べなくなったんだって?」
ひらりひらりと、号外と銘打たれた新聞を手に取り、魔理沙に手渡す。あの天狗……と呻くように魔理沙は呟いた。
「……いきなり本題だな」
「私の所に来る前に、いろいろ前座は済ませてきたんでしょう?」
「そんなことまであいつ言ったのか」
魔女仲間を訪ね、妖精にまで頼ったのだから、魔理沙はかなり精神的にきつくあるのだろう。強く言及することはなく、「それで?」と更に魔理沙の発言を促す。
「実はさ、何となくだけど、飛べなくなった理由はわかるんだよ」
「あら、そうなの」
「私だって、ただの馬鹿じゃないからな」
大馬鹿ね、とは霊夢は言わない。へぇー、と頷くだけだった。
「私は魔法使いだけどさ、私にとっては魔法を使えることより、空を飛べることが自由だったんだよ。なんていうか、ほら、空って自由じゃないか」
「陳腐だけれど、わからないでもないわ」
実際、それは自分の身一つで空を自由に動き回った者にしかわからない感覚だろう。普段歩き回っているときでさえ、地面に捕らわれていることを痛感すらもする。ふわふわに裏打ちされた、放り出された感覚。
「でも――落っこちたら、死ぬだろ」
好き勝手な自由の一歩外に、そんなもんがあったよ。そう、魔理沙は呟く。
「まあ、そうね」
「でもそれは、私たちが人間だからだ。ここにいる連中で空を飛んでいるやつらはさ、落ちてもたぶん死なないんだよ。早苗とかは私たちに近いけど、でも、大半の連中は落ちたくらいじゃ何も失わない」せいぜい誇りくらいなもんか、と魔理沙は囁く。
「要するに」と霊夢は言う。「落ちるのが怖くなっちゃったのね」
「そう言われると、何だかなって感じはするな」
「でも、そういうことでしょう」
魔理沙は否定しなかった。困ったように辺りを見回し、腰掛けた縁側の床を指先でとんとんと叩いた。顔を隠すように黒いとんがり帽子を深く被り直す。
「何だかさ、嫌な感じがしないか」
「何が?」
「私たちが後どれだけ生きれるかわからないけどさ、私たちは年取れば死ぬだろ」
「それはそうね」
「でもさ、私たちと全く変わらんような格好のあいつらは、当たり前のようにきっと生きてる。不老不死なんて輩もいる」
「それもそうね」
「何か嫌じゃないか?」
「別に」そう言いかけて、霊夢は言葉を句切った。「……仮に、魔理沙が不死になったとしましょう。もうどんなことになっても絶対死なない。空から落ちても死なない、年を取っても死なない、不老でもいいわね、ともかく死なない。そんな状況を想像してみて。いい? 魔理沙、その時あなたは死ぬことが怖くないの?」
「それは……」
そこから先の言葉を、魔理沙は紡ぐことが出来なかった。たぶん、怖いのだ。死なないから怖くない、そんな単純な答えにたどり着くことは酷く難しそうな気がした。
「たぶん、そこら辺で妖怪捕まえてきて聞いてみても、同じ顔をすると思うわ」
それは死ぬのは怖いでしょ、だから退治は勘弁、ってね。そう霊夢は当たり前のように言う。
霊夢は黙り込んでしまった魔理沙の横顔を覗き込んだ。さっき言った中での一つ、老いに関しては、魔理沙はどうにかすることがきる。魔法使いとして、捨虫、捨食の法を身につければ、それで済んでしまうことなのだ。それは、人間で巫女の霊夢と、人間で魔法使いの魔理沙の違うところだった。
けれど、霊夢はそのことは口に出さない。
魔理沙が言わないからだ。おそらく、他の魔女二人にそのことは言われているだろう。それはきっと、魔理沙が答えを出すことだ。
意識まで自分の中に完全に潜り込んでしまっているのか、魔理沙はここにあってここにあらずといった感じに視線が動かない。霊夢が小さな饅頭を一つ、その右手に掴んだことにすら気がついていなかった。魔理沙、魔理沙、と霊夢は彼女に呼びかける。
「魔理沙」
「へ?」
不意を衝かれた魔理沙がぼんやりと口を開けていたところに、霊夢は手に持った饅頭をねじ込んだ。「あふぉ」と妙な言葉を発して、魔理沙はごほごほとむせる。咥えるようになっていた饅頭を何とか手で持ち直し、くつくつと笑っている霊夢に向けて、「何すんだ!」と魔理沙は吠えた。
「私が一つ、予言をしてあげましょうか」
「どうしたんだよ、急に」
「今日一晩、ひたすら悩みまくった挙げ句にぐっすり寝たら、たぶん明日にはあなたは空をまた飛んでいると思うわ」
何でそんなこと言える――という魔理沙の反論は、魔理沙の喉までで止まり、外に出てくることはなかった。霊夢は真っ直ぐに、けれどぼんやりと魔理沙を見つめていた。さらさらと音でもしそうなように、霊夢の黒髪と魔理沙の金髪が、静かに揺れている。柔らかな風が吹いていた。
「何の根拠もないけど、何だかありがたいな」
「巫女の言葉だもの、少しは信じてみなさいな」
さてどうするかな、などと言って魔理沙は霊夢を茶化してみせる。頬に小さく笑窪のできる笑みを、魔理沙は浮かべていた。
「ね、魔理沙」
「どうしたよ」
「何となくだけどね、私の最期はあなたが看取ってくれる気がするのよ。だから、よろしくね」
「なんだよ、そりゃ」
「私の勘、結構当たるのよ。だから、その時までは安心なさい」
「……そうかよ」
霊夢は一瞬、魔理沙を見ながらその遠くを捉えているような心地がした。
「なんだか、淋しいわね」
自分自身で、その言葉の軽さに驚いていた。意識のない、ささやかな言葉だった。
魔理沙は逡巡してから、右手に持った饅頭を一度軽くお手玉して、それをそのまま霊夢の口の中に押し込んだ。目を丸くする霊夢に向けて、さっきよりもまた深い笑窪のできた、大きな笑みを向けた。
「いんや、楽しいことだよ、きっと」
年を取り、手も顔も、皺くちゃになった自分たちを魔理沙は想像する。きっと、今とそう変わらないであろう自分たちが、不思議なほどに思い描けた。霊夢は縁側に座ってお茶を飲み、迷惑そうに魔理沙を出迎える。その時、きっと魔理沙は空を飛んで来ているだろう。「歳なんだから」などとお互いを揶揄するような言葉を投げ合うに違いない。そこにはもしかしたら妖怪もいて、彼らは変わらない容姿を保っているのかもしれない。でもきっと、自分たちも、そう変わってはいないだろう。
そんなことを、思うのだ。
「なあ、霊夢。宴会したいな」
「……お酒、ないわよ」
「私がひとっ飛びしてそこら中に声をかけて、全員にお酒とか食べ物持ってくるように言えばいいじゃないか」
呆れたように霊夢は溜め息をついた。「魔理沙、あなた今は箒を持っていないでしょう」
そういえば、そうだった。そう言わんばかりの表情を魔理沙は浮かべ、二人は静かに笑いあった。
そこら辺凄い違和感
不思議と前向きになれるような、そんな感じ。
自分で言っててよくわからない…こんなことしか言えなくて申し訳ないです。
魔理沙が人として生きて死ぬのか、それとも人をやめて遥かな時を生きるか。
出来ることなら人として精一杯生きて、そして死んでほしいと思います。
「あたし」で読んでみたかったかもと少し思わなくもないかも。