幻想郷の夕暮れ。
人間にも妖怪にも、同様に寂しげな感傷を覚えさせる景色。
そんな風景を背に、霧雨魔理沙はふらふらと空を飛んでいた。
「はあ……」
深いため息をつく。
いつも周囲のひんしゅくを買う、元気印の彼女の面影は、今はない。
落ち込んでいる理由そのものは単純だ。
霊夢に負けた。
もう、何度目になるか分からない敗戦だった。
いくら魔理沙でも、こうも負けを続ければ落ち込む。
それに今回はいつもと違い、勝つための秘策を彼女は持っていた。
三ヶ月かけて完成させた魔法。そのスペルカード。
絶好の場面で使ったと思った。でも避けられた。
「なんで、勝てないんだろう……」
一人ごちても、返答は誰からもない。
感傷的な静寂と、暗い思考が重なって、涙が出そうになる。
ただ、なんとか涙だけは流すまいと目を一度きつく閉じる。
すると瞼の裏に、霊夢の弾幕の冴えが映し出される。同時に自らの放った弾幕の軌跡が浮かぶ。
やっぱり弾幕の選択には間違いがなかったな、と思う。
こういう場合は直線。ああいう場合は機雷。そこでマスタースパーク。そしてまさにここで、新開発の魔法。
脳裏に浮かべた、先ほどの戦いのリプレイ。だがやはりミスはない。
ミスはないのになんで負けるんだ。
「才能……か、やっぱり……」
小手先のテクニックにミスはない。それなのに負けるというのは、単純に実力の差かな、と冷静に思った。
しかしすぐ、彼女は頭を振って、その考えを追い出す。
なぜなら、その考えを認めたら、永遠に魔理沙は霊夢に勝てない。
それだけは嫌だった。
しかし、そうやってなんとか思考を前向きにしようと思っても、折れた人間の心はそう簡単には直らない。
飛びながら、どうして勝てないのかと自問する、というより自分を責め続けるうち、魔理沙はすっかり気持ちが塞いだ。
その気持ちの中に、どういう理屈か、霊夢を責めるような心も見え隠れして、彼女はもう、自己嫌悪の渦から抜け出せなかった。
サイテーだ。
負けたうえ、霊夢を責め始めて、もうサイテーだ。
「……最低だぜ」
ぽたり。
堪えていた涙が、雫になって落ちる。
慌てて涙を拭って、彼女はまた目を閉じ、すぐに開いた。
眼下に広がる魔法の森、その外れに、魔理沙の家が見えていた。
なんとか何も考えないようにと努めて、魔理沙は箒を駆って自宅の前へ降りた。
家に入って、着替えもそこそこに寝台に倒れ込む。
すぐに心地良いまどろみと、自己嫌悪の波が訪れた。
思考は不毛な堂々巡りを続ける。
魔理沙は嫌なことがあれば、酒を飲み、騒いで、忘れることが出来る類の人間だと周囲からは思われている。彼女自身もそう思っていた。
しかし彼女には、自分の責任に関してはどうしても、不器用に生真面目に考えこんでしまう癖があった。
しかしその事を自覚するには、魔理沙はまだ幼く真面目すぎた。
そして、落ち込んでいる人間の思考は総じて極端だ。
魔理沙もそのご多分に漏れなかった。
「……なんか、もう」
枕に顔を押し付けて、小さな声で呟く。
魔理沙以外には聴こえない、小さな声だ。
誰も、魔理沙のこういう部分を知らない。
粗野で乱暴なお騒がせ少女、そういう一面しか知らない。
それは当然だ。だって、魔理沙はそういう自分を見せない。見せたがらない。
努力なんてしてません。何も深く考えてはいません。心は強くて折れません。
そんな女の子。
そう見られるように、魔理沙はやってきた。
強い少女。
そう見られるように。
「……あさが、こなければいいのに」
名家の娘として育てられるのがいやで、魔法使いというものに憧れ、家を捨てて、ここへ来た。
霧雨さんちの魔理沙ちゃんじゃない。
霧雨魔理沙という、ひとりの、強い少女として。
強がり。
ずっと張り続けた意地。
ただ心のどこかで、思い続けてもいた。怖くて、押し込めて隠していた、心の奥で思っていた。
必要なの?
同じ歳の少女に何も勝れない、追い続けるだけのあなたは、必要なの?
家族も誰も、あなたと繋がっていないのに?
誰に必要とされているの?
異変は彼女が処理してくれる、あなたはそこに首を突っ込むだけよ?
いるの?
あなたはいるの?
あなたはこの世界にいるの?
この魔理沙の思考は、ただの極論だ。
冷静に見れば、完全に破綻した論理だ。
でも魔理沙は、強くない。
自らの弱さに勝てるほど、強くない。
「……もう、このまま……」
滂沱と流れる涙は、枕へと染みて消えていく。
彼女の泣き声は、誰に聞き届けられることもない。
「……いやだよ……」
自分がいやなのか。
弱さがいやなのか。
霊夢がいやなのか。
世界がいやなのか。
なにがいやなのか。
答えはない。
冷たく、底なしのまどろみが、小さく弱い彼女を飲み込んでいく。
私、アリス・マーガトロイドは、朝日が昇ってまだ間もない頃、魔理沙の家へと向かっていた。
理由を問われたら、きっと答えられない。
いうなら、虫の知らせ。
昨日の夕暮れの頃から、なんとなく魔理沙が気になっていた。魔道書を読んでも人形を作っても、集中出来なかった。
顔を見たくなるなんて感情が妖怪に湧くのか、と自嘲気味に思う。
まるで恋する乙女のようだ。
だが残念ながらというべきか、そういった、浮き足立つような感覚は特にない。
ただ、不協和音のように不快な雑音が頭の中に響いている。
その雑音に顔をしかめ、目を閉じて眉間を押さえると、魔理沙の顔が脳裏に浮かぶのだ。
それも、とびきり悲しそうな。
何もかも失ったとでも言うような、壊れそうな表情で。
魔理沙のその表情を思い出し、私は一人苦笑する。
魔理沙はそういうタイプじゃない。
「馬鹿騒ぎして笑ってるほうが、よほどお似合いよ」
朝の冷たい空気に対して、ごちる。
そうだ。
霧雨魔理沙という少女は、時折私が羨んでしまうほど、行動力があって、社交性もあって、笑顔が似合う、そんな女の子だ。
今ここで家を訪ね、どうしたんだよこんな時間に、と彼女が迷惑そうに言う姿を見れれば十分だ。
脳裏に映るような、哀しい表情でなければなんでもいい。
この胸中の不安がなくなれば、杞憂だったと笑えれば、それでいい。
かくして、私は魔理沙の家に着いた。
どうせ、鍵などかけているまいと玄関を開けようとすると、開いた。予想していたとはいえ、無用心にもほどがある。
「魔理沙―、アリスだけど、起きてないわよね?」
玄関口から呼んでみる。返事はなかった。
当たり前だ。まだ朝も早いのに、起きているはずはない。
「寝てるなら、どうするかな……」
今度は呼びかけでなく、一人言だ。
少し迷ったが、寝顔だけ見て帰る事にした。
夜這いに来たかのように思われたらいやだなとも思ったが、せっかくここまで来たのだからいいだろう。
家に上がって、足元のがらくたを踏まないように気を付けながら、寝室へと向かう。
寝室の前でもう一度声をかけた。起きてくれるといいが。
「魔理沙、起きてる?」
すると数秒の間を置いて、ドアの向こうから、くぐもった声が聞こえてきた。
「……アリス……?」
魔理沙の声が聞こえたというだけで、内心で安堵している自分を不思議に思いながらも、まずアリスは用を伝えることにした。
「朝早くに悪いわね、顔を見たいのだけど、いいかしら?」
考えようによっては、というより字面を素直に受け取れば、かなり恥ずかしい台詞だ。
ただ、私は真剣な思いで言った。
しかし返って来たのは、予想外の返答。
「……だめ、帰って」
思わず、え、と声が出た。
まさかはっきり断られるとは。
狼狽しつつも平静を装って、もう一度告げる。
「いや、この時間に起こしてしまったのは謝るわ、ごめんなさい。でも、顔だけ見せてくれない?」
「帰れ!」
強烈な拒絶。
ドアの向こうから聞こえてくる魔理沙の声は、何だか神経質なものを含んでいた。
いつもの魔理沙からはかけ離れた、悲痛で、低い声。
「……ねえ、どうしたの?魔理沙」
「……早く、帰れ」
おかしい。
一体どうしたの、魔理沙?
「ねえ……気に触ることがあったなら謝るから」
返事はない。
内心の不安が増殖していく。
黒い雲が心を覆い、目の前のドアが遥か彼方にあるような錯覚を受ける。
焦燥を感じながら、私は何とかかけるべき言葉を探す。
「どうしたの、魔理沙……らしくないわ」
突然だった。
私がそう言ってすぐ、まるで弾かれたように。
「うるさい!うるさいうるさい!だから、もう帰れっ!」
ドアの向こうから聞こえたのは、憤りや哀しみ、そういった痛みの感情を全て詰め込んだような、そんな絶叫だった。
脳裏に、壊れそうな魔理沙の表情が浮かんだ。
背筋に氷が滑り落ちるような、不安の感覚。
とにかく、落ち着かせないと……。
すっかり動揺しきった頭で、何とかそれだけ考えた。
「落ち着いて、魔理沙、どうしたの?」
「……っ、もう、帰ってよ……」
先ほどの叫びで、何もかも吐き出してしまったのか、今度の声は消え入りそうな、小さく細い声だった。泣いているようでもあった。
魔理沙のこういう声は初めて聴いたな……。
と思い、そこで違和感。
弱々しい声なだけではない。何だか、声そのものがいつもと違う。
まさか。
「ねえ魔理沙、もしかして……風邪引いてない?」
返事がない代わりに、ドア越しの咳が聞こえてきた。パチュリーの咳と似た、苦しそうな咳。
返事はなくても、決定的だ。
風邪のせいで、少し精神が不安定だったのかなと思いつつ声をかける。
「ちょっと大丈夫?入るわよ?」
「やめっ……待ってっ、風邪なんか引いてないから……」
そうと分かって聞けば決定的だ。ドアを一枚隔ててはいても、明らかに声がいつもより低いし、出し辛そうだった。
「入るわよ?」
今度は、何も言わない。
肯定の意だろうと解釈して、扉を開ける。
そこは相変わらずの寝室だった。最低限の家具、ベッドと箪笥しか置かれておらず、寝れればいいという魔理沙の性格をよく表した部屋。自己主張をしているのは唯一、白地に銀で星座が描かれたカーテンぐらいなものだ。
しかしこの部屋を見て、魔理沙らしいと言う者はいないだろう。
青い顔をして、震えながら毛布に包まっている少女。
それが今の魔理沙だった。
私の顔を見ないようにかあるいは見られたくないからか、背を向ける形で魔理沙は寝返りをうつ。
「ちょっと……大丈夫?かなり具合悪そうだけど」
またごほごほと咳き込んでから、弱々しく魔理沙が答えた。
「大丈夫だぜ……だから早く」
「帰れって言うんでしょ。そうはいかないわよ」
ベッドの脇にしゃがんで、顔を逸らす魔理沙の額に手を置く。くすぐったいのか、魔理沙がびくりと動いた。
まず、間違いなく三十八度はあるなと手のひらで診断して、魔理沙の耳元で訊く。
「お医者、行く?」
「いや……ただの風邪だから、いい……」
「心当たりあるの?風邪引くような」
「……昨日、布団かけないで寝ちゃったから……」
もう春とはいえ、朝や夜は寒い。布団なしで寝れば風邪も引くだろう。
医者に連れて行くかと思ったが、昔人間だったころを思い返すと、風邪程度で医者にかかりたくないという気持ちは何となく分かる。それに、魔理沙は私に借りを作ったと思ってしまうだろう。
ふう、と溜息をついて、立ち上がる。
「私が看病してあげるから、寝てなさい」
「……ありがとう」
拒否されるだろうと思っていたので、少し驚いた。
そういえば自分が昔病気になった時、母に看病してもらったのは嬉しかったなと思い出しながら、風邪引きの少女に言う。
「それと、良くなったら、色々……話も聞いてあげるから」
きっと何かいやなこと、それも最悪なことがあって、毛布も何もなしで寝込んでしまったのだろう。多分、自分の性格に関することで。
だからさっき魔理沙は私の言葉に怒ったのだ。
なら、どれだけ力になれるかは分からないが話は聞いてあげよう。
そう思いながらの言葉だった。
その言葉に驚いたらしく、魔理沙はこちらを見つめる。
しかしすぐに視線は逸らされてしまった。
「……うん」
「素直でいいわね」
笑いながらそう言ってやると、魔理沙は布団を自分の顔を覆うほど引き上げてしまった。恥ずかしかったのだろう。
いつもと違う彼女の行動に、何となく嬉しさを感じながら、ひとまず私はキッチンに向かった。
魔理沙の額に濡れタオルを乗せた後で、おかゆを作った。
寝室へ持って行くと、魔理沙は濡れタオルが気持ちいいらしく、目を細めている。
顔を覗きながら訊ねると、若干だが、先ほどより顔色がいいように見えた。
「おかゆ食べれそう?」
「……ん、ありがとう、アリス」
少しだけ苦しそうではあったが、微笑みながら魔理沙は答えた。
そうやって常日頃から素直に振舞えば、可愛らしい女の子なのに。
内心で苦笑しつつ、彼女の身体を起こしてやると、汗でかなり濡れていた。
後で拭いてあげたほうがいいなと思いながら、匙で卵粥を一匙掬い、魔理沙の口元へ持っていく。
「はい、あーん」
「……え……」
信じられない、とでも言うように魔理沙は私を見つめた。
何よ?
とそこで思い当たった。粥というのは熱いものだ。
「あ、ごめん、冷まさなきゃ食べれないに決まってるわね」
「……え、あ……じゃなくて」
ふー、ふー、と匙の粥を冷まして、再び魔理沙の口元に運ぶ。
「ほら、あーん」
「じ……自分で食べれるってば」
「かも知れないけど、こっちのほうが楽でしょ」
「うー……」
魔理沙がおずおずと口を開いた。熱のせいか顔が赤いのを心配しつつ、私は匙をそっと口に入れてやる。
「どう?」
「ん……おいしい」
「よかったわ」
そんなやり取りをしつつ、粥を掬っては食べさせる動作を繰り返した。
最初はゆっくりと食べ進めていた魔理沙も、ご飯で少しだけ元気が出たらしい。気付くと、もう粥は無くなっていた。
ほう、と溜息をついて、魔理沙が笑った。
「美味しかった……ありがと、アリス」
「おそまつさまでした。どう?少しは元気出た?」
「……うん」
そう言いながらも、その返答には翳り。
「何か、あったんでしょ?」
「……」
魔理沙は答えない。
しかしその表情には、動揺の色がありありと見て取れた。
「自分の中に溜め込むと、良くないわよ」
「でも……」
でも、の続きは、消え入ってしまって聞こえなかった。
私は魔理沙の顔を見つめる。
不安そうな魔理沙の瞳は、落ち着かずさ迷っていた。
迷子の子供のような、孤独に怯える子猫のような、そんな表情で。
なんだか、その不安そうな表情がたまらなく愛しくて、私はもう一度、魔理沙を見つめたまま言った。
「私じゃ、力になれないかしら」
「そんなこと……ない、けど、でも……」
「でも?」
「こんなこと、言っ……たら」
その言葉の後半は、涙声だった。
涙を隠そうと、魔理沙は俯いてしまう。
それを制して、私は魔理沙の瞳から流れる涙を拭う。
「私は魔理沙のこと、勝手かもしれないけど、大切な友人だと思ってるわ。何を言われたって、平気よ?」
覆い被さるように、魔理沙を抱きしめる。
魔理沙ってこんな細いんだ。
「風邪の時くらい、強がらなくていいんだから」
「アリス……」
鼻を啜る音が止むのを待って、魔理沙から身体を離す。
魔理沙は涙を拭って、私のほうを見た。まだ、不安そうな色は残っている。
それでも、こう言ってくれた。
「……聞いてくれる……?」
「もちろん」
そう答えると、いくぶん安心したように魔理沙は笑った。泣き顔ではあったけれど、なんとなく、魔理沙らしい表情だった。
私は魔理沙のベッドに、魔理沙の顔が見えないように座った。
「顔見えると、話し辛いこともあるだろうし」
「うん……ありがと、アリス」
本当、そういう調子でいつもいれば、みんな魔理沙を見る目変わるのに。
内心でまた苦笑し、魔理沙に先を促す。
表情は見えない。が、きっと魔理沙は今、どう話し出すべきか迷っているのだろう。
すると、魔理沙は話し出した。
「んっと……アリスは、さ……変な質問するけどごめんな、一応、真剣な話……だから」
「分かってるわ。それで?」
魔理沙の声は真剣だった。震えながらも真剣な声。
「……自分を嫌いになることって、ないか?」
予想しなかった質問。
咄嗟に答えられず、聞き返してしまった。
「……というと、自己嫌悪ってこと?」
「うん……そんな感じ」
自己嫌悪。
まるで魔理沙に似合わない言葉だ。
しかしまずは質問に答えるほうが先か、と私は口を開く。
「人間だった頃は、たまにあったような気がするけど……幻想郷では、ほとんど無いわね」
「そっか……」
寂しげな声。
調子が狂ってしまうな、と思いつつ、訊ねるべきことを訊ねる。
「そういうふうになることが、あったの?」
「うん……」
「そう……それ、私に言える?」
私は何を話してもらっても構わないし、何でも喋ってもらいたいが、他人にはどうしても話し辛いことというのはあるものだ。強制はよくない。だから、訊いてみたのだった。
ところで変に気を遣って、表情が見えないように座ったのは失敗だったな、と私は早くも後悔し始めていた。顔が見えないと、やはり相手が何を考えているか分かり辛い。
そう思いながら魔理沙の言葉を待っていると、魔理沙が話し出す。
「なんかさ、上手く言えないけど……私って、必要なのかな、とか思ったり……してさ」
背中越しに聞こえる魔理沙の声。
寒さに震えるのにもよく似た、そんな震えを伴った声だった。
その声があまりに細く、ともすれば折れてしまいそうな繊細さを含んでいるものだから、また抱きしめてあげたい衝動に駆られた。
しかし、まだ大事なことを訊いていない。
それを訊いてからでなければ、どんな抱擁も所詮は偽善者のその場しのぎになってしまう。そう思われるのは嫌だ。
何とか、努めて冷静そうな声を紡ぐ。
「少なくとも私は、魔理沙のこと必要だと思ってるけど……なんで、そう思うの?」
「……実はさ、くだらないことだって、分かってるんだけど」
「そうやって卑下しないで。くだらなくなんかないわ」
「……なんかアリス、今日は優しいな」
魔理沙の口調に、いつもの調子が戻って来ていた。
安心しつつ、軽口で答える。
「私はいつだって優しいわよ」
「嘘つけ……だって、こんなに優しいのは初めてだぜ」
魔理沙の声は後半になるほど小さくなって、最後は鼻を啜る音で掻き消えてしまった。
「ゆっくりでいいわ。だから聞かせて」
「……うん、ありがとう……だぜ」
最後に、思い出したようにだぜと言うのを聞いて、思わず笑ってしまった。
「だぜ、って何よ。だぜ、って」
「う、うるさいな……なんか、私らしくないかと思って……」
「何言ってるの?可愛かったわよ」
「うぅ……やっぱり優しくない。意地悪だぜ」
小さく笑うと、魔理沙も小さく笑った。
どちらからともなく静かになって、訪れる静寂。
何か言うべきかと考えていたが、沈黙を破ったのは魔理沙の告白だった。
「……また、霊夢に負けちゃったんだ」
急に声のトーンが落ちた。
そうか、それで落ち込んでいたのかと私は一人で納得する。
表情は見えない。だがきっと魔理沙は、複雑な顔で俯いているのだろう。
しかし、と私は口を開く。
「ただ負けたにしては、落ち込みすぎじゃないかしら?」
「うん……一回挑んで一回負けたなら、こんなには落ち込まないぜ」
こう何度も負けるとさ、やっぱ落ち込むよ。
力なく、それでも表面だけ明るく繕われた魔理沙の言葉。
「それにさ……」
また、魔理沙の言葉が震え出す。
私は俯きがちに前方の虚空を見つめて、魔理沙の言葉を待っていた。
「なんか……霊夢はさ、何でも出来るじゃん」
涙声で喋る魔理沙の声が、耳から伝わって、心臓へと響いてくる。
泣き声というやつはなぜ心に届くのだろう、とぼんやり頭の隅で考えながら、私はその声にじっと聞き入っていた。
「私はさ、何も出来ないのに……なんか、ずるいよなあとか、思っちゃって……さ」
何もできないなどと。
こんなにも私に心配をかけているというのに。
まったくもう。
「私だって……がんばってるのにさ」
少女の独白が終わった。
単なる静寂でない不思議な静けさが満ちて、時折、魔理沙が鼻を啜る音が響く。
しかし魔理沙を背にして、不謹慎かな、と思いながらも私は微笑んでしまっていた。
魔理沙は強がりだ。私は知っている。
人間から魔法使いになる。
言葉にすればたったこれだけのことに、どれほどの努力が必要であるか。
魔理沙が新しい魔法を完成させるたび、すごいじゃないと控えめに言いながらも、私は内心でもっともっと、魔理沙に対して賞賛の意を抱いていた。
それに、弾幕勝負で妖怪を打ち負かしたと嬉しそうに語る彼女を見ながら、いったいこの少女は何を目指しているのかと末恐ろしく感じていた。
で、それは今、分かった。
なによ、魔理沙。
素直に言ってくれればいいのに。
「魔理沙、すごい」
「……え」
急な言葉だったからだろう。魔理沙が聞き返してくる。
しかし私は冗談めかした調子の言葉を続ける。
「すごいわ、魔理沙」
「え、なにが……」
「大好きよ」
振り返って、私は魔理沙に抱きついた。
抱擁というよりは、抱きつく、と言ったほうがしっくり来る飛びつき方だっただろう。
その証拠に、私は病身の魔理沙をベッドの上に押し倒していた。
私にのしかかられて、魔理沙が小さく呻いた。
「あ、アリス……?」
魔理沙の首に両手を絡めたまま、ごろんと横になった。二人で向かい合ってベッドに並ぶ形になった。
魔理沙の顔は、動揺と照れと恥ずかしさの入り混じった複雑な、簡単に言うと可愛い顔だった。
「な、なんだよ、アリス……」
真っ赤な顔をなんとか逸らしながら、魔理沙は抗議の言葉を零した。
しかしそこに本気の拒絶はなかった。
ふふふ、と私は唇の端から笑みを零した。
からかわれたと思ったか、またも私へ非難の声を上げようとする魔理沙の口を抱きしめて塞いだ。
「ねえ、魔理沙」
すぽっと胸に収まった魔理沙の頭をゆっくり撫でながら言う。魔理沙はなされるがままで、全く抵抗しない。
「心配しなくても、私はあなたのことを認めているわ」
びくり、と魔理沙の身体が震えた。
「霊夢と比べて劣っている、とかそういう風に考えてるみたいだけど、そんなことないわ。私は今、魔理沙だからこうやってあげてるのよ?」
魔理沙は何も言わない。ただ細い肩だけが小刻みに震えていた。
魔理沙はずっと、誰かに認められたかったのだろう。
家を捨て魔法使いになるという自分の選択を信じながらも、いつもどこかでそれを疑っていた。正しい道ではなかったのではないか、と。
それでももう引き返せず、ずっと、自分の技量と努力を信じてやってきた。
そこに、この間の紅霧異変があった。
彼女はここぞとばかりに異変解決に向かったが、あえなく、霊夢の後塵を拝すことになった。
同じ人間。
違うのは、霊夢は天才で博麗の巫女。自分は家を捨てた野良魔法使い。そのうえ、霊夢にはなんでも敵わない。
きっと魔理沙はそんな風に考えて、自分を責めてきたんだろう。心を磨り減らしてきたんだろう。
そして、幻想郷に春が訪れなかった異変の時も霊夢に先を越されて、かなり彼女は精神的に追い詰められたのだろう。
でも彼女は折れなかった。なんとか自分を前向きに保って、霊夢に弾幕勝負を何度も挑んだ。
それでもやはり霊夢に勝てず、どんな負け方だったのか分からないが、今回の敗戦で完全に自信を失ってしまった。
そろそろ、いいだろう。そう私は心中で呟いた。
こんなに魔理沙は頑張ってきたのだから。
誰かに甘えても、いいだろう。
「自分に価値がないなんて思わないで。私はあなたの頑張りを知ってるし、霊夢よりも誰よりも、あなたのこと一番好きよ」
「アリ、ス……ぇ、ふぇえ……ありす……」
魔理沙は泣きじゃくる声を聞かれまいとするように、私の胸に強く顔を埋めた。それでも泣き声は漏れて、私はもっと強く彼女を抱きしめた。
「よしよし……よく頑張ったね」
私は魔理沙の頭を、ゆっくり、何度も何度も撫でた。
その小さな、けれど強い女の子は、泣き疲れて、いつの間にか眠っていた。
「なんていうか……その、アリス、さっきはごめん」
「ふふ、なんで謝るの?可愛かったからいいわよ」
「……うう、恥ずかしい……」
結局、魔理沙はその後ずっと眠っていた。もうすでに陽は沈みかけているから、だいたい半日ほども眠っていた計算だ。風邪だったせいだろうが、もしも私に色々と話して安心して、ぐっすり眠れたのだとしたら嬉しい。
彼女が起きてから少し経った。彼女は顔色も良くなり、まあ恥ずかしそうではあるが、私の淹れたコーヒーを飲んでいる。
「……なんか、意外だった」
「なにが?」
「いや、アリスに相談なんてしたら、馬鹿じゃないのって笑われると思ったから……」
心外だ。私はそんな氷の女と思われているのか。
仕返しにからかってやる。
「魔理沙こそ、あんな風に泣くなんて意外だったわよ。可愛かったけどね」
「……うう、それは言わないで……恥ずかしいから」
顔を赤くして、彼女はまた俯いた。私はそれを、にやにやとしながら見ていた。
しばらくして魔理沙は顔を上げた。赤い顔で、視線をさまよわせながら言った。
「えっと……その……とりあえず」
「なに?」
「……ありがと、話……聞いてくれて」
彼女は、はにかんで笑いながら続けた。
「ずっと……誰にも言えなかった。これでも……辛かったん、だぜ」
彼女は、今まで私が見たどんな魔理沙よりも、自然な笑みを浮かべていた。
思わずどきりとしてしまい、私は照れ隠しに、早口でそれほどでも、といった。
彼女はやはり綺麗に笑って、手元のカップを覗き込んだ。そのままコーヒーの水面をじっと見つめて、言った。
「なんかさ」
「なに?」
「私ってもしかして、独りよがりだったのかなあ」
私は咄嗟に言葉を返せず、詰まってしまう。
彼女は続けた。
「ずっと一人で……一人でできることなんか限られてるのにな。なんか、自分が何でもできて当然、努力さえすれば……って思ってたのかも。違うよな、一人で家に閉じこもっていくら研究したってだめだよな」
私は彼女の言葉を、黙って聞いている。
「誰かにものを尋ねたりとか、そういうこと全然しなかったから……なんか、つまんないプライドだけ高くて、自分一人でなんでもできると思い込んでさ」
「……そう。じゃあ、今はどうなの?」
私がそう言うと、彼女はもう一度、はにかんで、とても綺麗に笑った。
「アリスのおかげで。……これからは、アリスに色々、頼ろうかな」
「お手柔らかに頼むわよ、くれぐれも」
魔理沙は笑った。私も笑っていた。
「ああ、なんだろ?こう、パーっと霧が晴れたっていうか、春がきて桜が咲いたみたいな、――永い夜が明けたみたいな気分。ほんと、ありがとな、アリス」
「そうストレートに感謝されると照れくさいわね」
「素直に感謝されてくれよ。私がこんな風に感謝するのは、世界中でアリスぐらいなもんだぜ」
「さいで」
わざと気の抜けた返事をして、私は照れた顔を見られないように立ち上がって魔理沙に背を向け、キッチンに向かう。
なんとか平静な声を装い、背中越しに、魔理沙に訊いた。
「おなか空いたでしょう?夕飯食べていく?」
「あ、うん、ありがとう。……でもここ、私のうちだぜ」
「気にしないの」
私たちは二人で夕食を食べ、笑いながらずっと、下らないことを喋り続けた。
奇しくも、この日が、あの永夜異変の夜だった。
魔理沙と私は、霊夢よりも、咲夜よりも、妖夢よりも早く――
――永い夜を、二人で、終わらせた。
内容は良かったですよ。こういう魔理沙は大賛成です。
こういうマリアリもいい!
違和感は永遠亭でしたか……医者と巫女は、「巫医」と並び称されていたらしいですが、
病によってはそれらよりも良い特効薬があるものなのですね。
カップリング的思考を抜きにしても、こう、ほっとするお話でした。
永夜のマリス砲はこうして出来たのか!
場面転換の空白が少し多く感じましたが、文章は全体的にリズムが良いと思います。
大好物です!
それのなんと難しい事か。しかも正面から受け止めてくれる友人なら、尚更ですね。
魔理沙は神(アホ毛でも可)に感謝すべきだよ。
しかし、アリスの姉力(あねぢから)には、限界というものは存在しないのか?
ご指摘があったところを修正しました。
しかし風邪引き魔理沙とお姉さんアリスの組み合わせはほんと画になる、いやむしろこのふたりの組み合わせ自体が神
素直に感情のまま動きもすれば、配慮をして「魔理沙らしさ」を押し付けたりもしない、
見ていて恥ずかしいくらいに献身的で、魔理沙が羨ましくなりますね。
無理やり最後に「だぜ」と付け加えるシーンでの意地悪は素晴らしい。
ただ、気になる部分はいくつかありました。
> 何もできないなどと。
> こんなにも私に心配をかけているというのに。
この部分は出来る/出来ないの話なのですから「役立っている事」を思い浮かべるべきだと思います。
――今日だって、私は魔理沙の顔を見られただけで安心できたというのに。……というように。
タイトルは永い夜を~なのに、アリスが朝になってから来たというのも少し気にかかりました。
結局、魔理沙は一人で永い夜を過ごしていたのかな、と。確かに彼女はずっと眠っていた。
それだけで、特に苦しんでいたわけでは無いと思うのですが、タイトルと内容の繋がりが薄いような……。
>「……あさが、こなければいいのに」
この台詞がその場所に配置されているのに違和感がありました。地の文と連結していないせいでしょうか。
リズムを考えればこの箇所にも一言が必要なのですが、まだ「朝が来なければいい」を使うには早いのではないかと。
眠りに落ちる前に呟く(答えはない。の後に続ける)方が自然だと思います。
紅魔郷、妖々夢、永夜抄を思わせる三連の台詞は自然に仕上がっているのですが、永夜抄よりも後の出来事という印象を受けてしまいました。
アリスの知らない場所での魔理沙の敗北を考えれば、まだそれ以前の内容だというのは分かるのですけどね。
前述したように作品名との関連が弱く、この台詞だけで結びつけるのはちょっと強引な気もします。
しかし、永夜異変の前日譚としては良い物でした。
地の底まで心が沈んで熱にも苦しめられていた魔理沙を、アリスという風が救って、永夜抄での二人の船出に繋がるわけですね。
>夕飯食べていく?
「作ろうか?」ではない所に気遣いが読み取れますね。
下手をすれば、お世話になってばかりだと悪く考えてしまいそうになる所ですが、こう言われてはお手上げです。
アリスに作業を任せきり――なんて考えは消えて、魔理沙は家主というだけで参加している気になれるでしょう。
実はこの作品を一読した段階では、魔理沙の心情を描写する必要はあったのかな……とも考えていました。
序盤を丸ごとカットして、アリス視点の文だけを読んでも話は通じるからです。
ですが、これが永夜抄で繋がる「二人」の物語であると気づいたときには、やっぱり要るのだと感じました。
>そう見られるように、魔理沙はやってきた。
彼女が涙を流してからここまで。テンポが良くて内容も好きです。
他人の目には強い少女として映ろうと花畑を飛び出し、けれど傍に咲く薔薇を羨んでしまう一輪の目立たない花。
そんな状態だった。しかし、極論という乾いた土壌で枯れそうになっていた魔理沙を、アリスは見事に救い出した。
もう魔理沙は仲間が傍にいても、それを弱さだと思ったりはしないでしょうね。
良い物語でした。
でも、人知れず落ち込んで悩んで迷う魔理沙は大好きです
もう一度、修正いたしました。申し訳ありません。
そして二人の心は1㍉の隙間もなく合わさるようです
めっちゃ好みです。