初めての邂逅は、五分にも満たなかった。
外来者の私を一瞥すると、ただ黙したまま手元へと視線を戻す紫髪の女の人。
まだ幼さの残る顔から推測するに、年端もいかない少女に違いない。
手元にあったのは、一冊の分厚い茶色の本。
そして彼女と彼女の手元を照らす、僅かな光を灯したスタンドライト。
冷たく重い黒色をしたこの地下世界において、その光量はあまりにも心許ない。
こんなにも暗い中、読書なんてしていたら目が悪くなってしまうだろう。
だから私はつい、今日からこの館の使用人として働くことも忘れて発言をしてしまった。
「あの……目、悪くなりますよ?」
私の発言に、ゆっくりと面を上げる少女。
ぱたん、と本を閉じてこちらを向きなおすと、彼女は小さな声で言った。
「今日から貴女はここで働きなさい」
それが私とご主人様の、最初の出会い。
世間さえ熟知していない私が、世界中の知識を吸い続ける“魔法使い”と出会った、奇跡のような瞬間だった。
~~~LINE~~~
「お持ちしました」
紅魔館と呼ばれる洋館の地下に、私のご主人様はいる。
日光さえ入らない、暗く閉ざされた空間。
閉ざされてはいるけれど、別に狭いわけではなく、逆に一個人では広すぎるほどの面積を誇っている。
背面、側面、正面、そのどこにでも本が並んでいて、まるで本で出来た迷宮のよう。
ここは単に雑貨や使わない物を仕舞っておくために設けられた地下室とは訳が違う。
物置としてではなく、遍く書物たちの住処――つまり図書館なのである。
「ありがとう。そこに置いてくれるかしら」
「はい」
指示された通りに、咲夜さんに淹れてもらった紅茶をテーブルに置く。
カチャ、と小気味良い音を立てる洋陶磁器。
いかにも割れてしまいそうな、脆い音。
ここにメイドとして初めて来た時は、あまりにも高そうな食器の数々を目の当たりにしたせいで、よく手が震えていたのを思い出す。
今ではこの高貴な音を聞いても焦らなくはなったけれど、少しでも油断すると割れてしまいそうで、やはり少々怖さが残っている感は否めない。
それでもこうして自然に運べるようになっただけでも、相当な成長だと思いたい。
ご主人様を横目に、ソーサーの上にスプーンを置いて、退出のお辞儀をする。
「それでは」
私の主な仕事は、ご主人様であるパチュリー・ノーレッジ様の雑用だ。
この紅魔館には十六夜咲夜さんを筆頭に、妖精たちがメイドをしている。
妖精たちはあまり役に立っていないようだけれど、その点で言えば悲しいことに私も大差は無い。
けれど他の妖精メイドと私とでは、大きく異なっていることがある。
それが“ご主人様”の存在だ。
咲夜さんを含めメイドは基本、紅魔館の主であるお嬢様のレミリア・スカーレット様に雇われ、仕えている。
でも私はパチュリー・ノーレッジ様をご主人様と仰ぎ、専属のメイドとして仕えている。
当初は紅魔館のメイドとしてここに来たのだけれど、ご主人様が気に入ってくれたらしく、それ以来、ずっとご主人様のメイドをしているのだった。
そして、こうして頼まれていた紅茶を届け終え、退出しようと踵を返した私に、ご主人様が話しかけてきた。
「ねぇ、こぁ。ちょっと」
「はい?」
振り向き直る。
するとご主人様は、大きな机の引き出しの中から、一冊の本を取り出して机の上に乗せた。
なんだろうと首を傾げると、
「以前、魔法使いになりたいと言っていたのを覚えている?」
「え、ええ。まぁ」
それはつい最近のこと。
春に行われたお祭りのときに、人形遣いのアリスさんが魔法で人形劇を披露していたのを見て、ついつい口走ってしまった一言。
――私にも魔法が使えたらいいのに。
事実、私はご主人様のメイドとして働き始めてから、魔法使いという生き方にとても憧れを抱くようになっていた。
遍く万象を理解し、神秘を紡いで秘匿する。
頭の悪い私から見た、その……かっこいいと思える在り方だったのだ。
けれど無能な私に魔法なんて修められる訳も無く、頭の中で描いていただけの夢、だったのだけれど。
何故そんなことを聞いてくるのかと思っていたら、ご主人様がその本を私に差し出してきた。
「あげる。とりあえず、ここに書いてあることを暗記しなさい」
「――――え?」
「だから、あげるわよ。ほら」
ずい、と押し出される本。
「え、でも……」
「魔法、教えてあげる」
「え――――――ええぇぇぇええええ……っ!?」
思わず大絶叫してしまった。
え、でも、魔法を教えてくれるなんてそんなこと言われちゃうと、否応にも叫んじゃうっていうか。
ひゃっほー、と踊りだしたくなってしまうというか。
そんなの絶対無理ですよ、と表現してしまいたくなるというか。
……あれ、でも私には魔力なんて無い気がするんだけど、どうやって魔法使うのかな。
「――――こぁ」
「あ、はい! すす、すみません! つい嬉しくて……」
威圧感たっぷりな目線を送ってくるご主人様。
いつも大袈裟な態度を取ったり、大声を出したり、はしたない行動等をするなときつく言われているのにも関わらず、私ときたら舞い上がってしまうとすぐ地が出てしまうのだった。
どうも淑女とは縁が無いようで、かといってメイドとしては品格くらい保たねばならないと、かねがね思ってはいるのだけれど……。
「全く……騒々しいのはいつになっても変わらないわね」
「すみません……」
とても残念なことに、メイドの恥は全て主人の恥となってしまう。
優秀なメイドがついていると言う事は即ち、優秀な主人であると言う事。
逆もまた然りで、それが世の常識なのである。
何故ならメイドと言うのは、主人から見れば世間に対するステータスであり、メイドから見れば自負になるからだ。
お互いに優秀であるべきであり、双方に差がある場合、主人は力量不足と見られ、メイドは役立たずのレッテルを貼られることになる。
だから私が粗相を起こせば、困るのはご主人様。
メイド一人もまともに躾けられないのか、と言われるのがオチだ。
ご主人様がこうして呆れるのも当然で、私自身も理解しているだけに、最大限の努力はしているつもりなのだけれど、努力が実を結ぶのはまだまだ先のことのようで。
ご主人様もそこのところの事情を察してくれているので、今はこうしてため息一つで済ませてくれている……んだけど、そろそろ限界かもしれない。
この紅魔館においてメイドのクビは無いと言われているけれども、それはお嬢様に仕えるメイドのことであって、ご主人様専属のメイドである私に、そのような保険は無い。
つまり胴体と首が泣き別れても不思議は無いってことで、今時分も戦々恐々としていたりするのだった。
「まぁいいわ。それよりも魔法よ。こぁ、貴女に本当に学ぶ気があるのなら、教えてもいい」
「そ、それは嬉しい、ですけど」
あまりにも唐突な申し出に、正直困惑してしまう。
私は“悪魔”と呼ばれる、人間とは比較にならないほど強力な種族の血を汲んでいる。
けれど私にはそこまでの力は無く、だからこそ“小悪魔”と呼ばれている。
悪魔でありながら、腕力も無ければ魔力も皆無に等しい私を蔑む呼び名が小悪魔なのだ。
つまり、下手をすれば人間よりも劣っている私に、本当に魔法なんてモノが使えるかどうかが心配なのである。
教えてくれても、身につかなければ、ただの時間の浪費に他ならない。
ご主人様の貴重な読書時間を削ってまで行うことなのか、と逡巡してしまうのだ。
そんな私の葛藤が透けて見えたのか、ご主人様は小さく笑った。
「相変わらず自信が無いのね、こぁ」
「それはそうですよ。だって魔法なんて……」
あの魔法の森に住んでいると言う霧雨魔理沙さんでさえ、何年間も物凄い努力をして、ようやく今ほどの実力になったと聞いている。
メイドの仕事さえ何年かけてもまともに出来ないようなグズの私に、果たして魔法なんて大それたモノを修得出来るのかどうか。
そんな私に自信なんて、そもそもあるはずが無い。
でもご主人様はそうは思っていないようだった。
「大丈夫よ。やれるだけやってみなさい。それでうまく行けば、自信にも繋がるだろうし」
言って、ご主人様は席を立ち、私に本を手渡してくれた。
ずしりと重く、カバーは何の毛かはわからないけれど絢爛な作りで、手触りも凄く良い。
装丁からしてとてつもなく高そうな本。
表紙には魔法に馴染み深いのか、六芒星が描かれている。
「別にイヤならいいんだけど」
「あ、いえ! やります、やらせていただきます!」
自信が無いとは言え、魔法使いは憧れだ。
出来るものならなってみたい。
その欲求が私の胸の裡で渦巻き始めていた。
だから断るなんて勿体無い。
それにご主人様の言うように、もしうまくいけば、小悪魔なんかじゃなくて、ちゃんとした悪魔として認められるかもしれないし。
「よろしくお願いします!」
「元気だけは良いわね。――まぁ、私も期待しているから、ちゃんと頑張って」
ぽん、と肩を叩かれた。
それが無性に嬉しくって、
「がが、頑張ります!!」
私はまたも大きな声――それも図書館中響きそうな声量で――をあげてしまった。
また怒られる、と思っていたけれど、ご主人様の顔は笑顔のままだった。
/
早速自室に戻り、トレイを放って本を開いてみると、軽く眩暈がした。
「うわ……」
目の前に広がる文字の大洪水。
小さく規則正しく並んだ文体が、永遠に続いていっている。
ところどころ図のようなモノがあるけれど、それにしたって文字の絶対数の方が多くて、まだ一文字も読んでいないのに心が折れそうになった。
「これを暗記って……」
ご主人様も冗談を言うとは人が悪い。
こんなもの、どうやって暗記しろと言うのか!
読み解いていくのも一苦労っぽいのに、頭の中に叩き込めと言われても無理がある。
さっきは舞い上がっていたせいで頑張れそうな気がしたけれど、今ならわかる。
――私には無理だ、と。
「うぅ~」
それでも期待されたからには、兎にも角にも精一杯やってみよう。
結果は惨憺たるモノだろうけれど、やる前から諦めるのは私の信条にも反するし、何より教鞭をとると言ってくれたご主人様に大変申し訳ない。
ご主人様のレベルとは言わないけれど、せめて魔理沙さんくらいのレベルには辿り着かなくては。
「よし!」
気合いを入れて一ページ目を開く。
出だしに書いてあったのは、それこそ“魔法”についてだった。
「何々? 魔法と言うのは、端的に言って不可能を可能にすること。神々より模倣した“力”を再現するために生み出されたのが、魔法史の始まりである」
えっと……つまり?
魔法と言うのは最初、神様が使っていた何らかの力を、私たちも使えるようにならないか、ってことで生み出されたってこと?
この後も延々と魔法史について熱く語られているっぽいけれど、これも覚えなきゃいけないのかな。
ううぅ、ご主人様たち、よくこんな小難しい本を楽しそうに読んでるなぁ。
私なんてもう根をあげそうなのに。
「はぁ……」
盛大なため息が漏れてしまった。
今までご主人様の下で働いてきて、本の整理も沢山やってきたけれど、魔法の本がこんなにも難解なモノだとは思っていなかった。
いや、ちょっとは思っていたけれど、どうせ中身を見ても解らないからと、一度として開いたことが無かっただけで。
私の想像的には、もっと図とか絵とかが描いてあって解りやすく纏めてあると思っていたのだけれど、そんなことはこれっぽっちも無かった。
あぁ……やっぱり魔法使いなんて夢のまた夢。
これは最低でも五十年は勉強しないと、小さな炎一つ出せなさそうだ。
そもそも、この分厚い本を読みきるのに一年以上、暗記するのに十年以上はかかってしまいそうだし。
文字の群れを見つめていると目も頭も痛くなってくるので、ひとまず本は閉じることにした。
まだメイドとしての仕事が残っているし、読書するのは夜の静かな時間帯の方が捗りそうだ。
机の上に無造作に放られていた紙切れを、栞代わりに一ページ目に挟み込む。
まだ一ページ目なのだからそんなことはするだけ無駄なのはわかっているけれど、折角本を読み始めたのだから、本を読んでます的な気分だけでも味わいたい。
……なんて、いかにも仕事の出来なさそうな考えだから、いつまで経ってもグズのままなのかもしれない。
「――――」
そう考えるとスマートな方が何事もいい気がしてきた。
と言うわけで、紙切れは撤収。
周りから見たら「何してるんだ、お前」なんて言われてしまいそうだ。
この気分屋な思考回路は早々に直さねば、と常々思ってはいるのだけれど、もう何年も直っていない。
それが意味するところは――答えるまでも無いのであった。
「あー……」
自己険悪に陥りそうな一歩手前で踏ん張る。
凹むのは仕事を全部クリアしてからだ。
それに、今日からはもう、凹んでいる暇なんて無い。
自由時間は全て魔法の勉強に費やす気構えでいないと、ご主人様からも見切られてしまう。
「よし!」
私は気合いも新たに、放りっぱなしだったトレイを手にして自室から出て行った。
/
豪華絢爛と言っても謙遜無い、紅蓮の絨毯道。
ここ紅魔館のフロアや廊下は、真っ赤に染め抜かれた絨毯が全面に展開されている。
真っ赤と言ってもただ赤いだけでなく、両端には金の刺繍が施されており、五メートルほどの間隔で柄が刺繍されていて、そちらは銀色をしている。
何の柄かは、実は私も知らない。
ここへ来た当初、説明されたような気もするけれど、もう頭の中には入っていない。
かろうじて何かの鳥に見えると言うことだけで、それが何であったかは忘れてしまった。
そんな、本来なら一生通ることさえなかったであろう煌びやかな廊下を歩いていると、前方に見慣れた姿を発見した。
お嬢様だ。
「おや。こぁじゃないか」
「どうも、こんにちは」
深々とお辞儀をする。
レミリア様は会釈もせず、腕組をして語らい始めた。
「久々にまともな会話をするねぇ。同じ館にいるってのに」
「そう、ですね」
はは、と作り笑いをする。
お嬢様は見ての通り、いつでも誰にでもこの様に高圧的な態度をとっているので、口にはしていないけれど、私はこの人のことが苦手だ。
もっと温和な接し方をしてくれたらいいのに。
ご主人様とお嬢様は友人同士らしいけれど、いまだに納得できないでいる。
本の虫なご主人様と、貴族を前面に押し出したようなお嬢様――どう考えても交わる要素が無い二人が、どうして交友関係なんて結んでいるのか。
謎過ぎる。
それに同じ館にいるとしても、これだけ広い洋館だ。
顔を合わせない日だって珍しくは無い。
まぁ意図的に私がお嬢様を避けているのも一因なのだけれど。
「パチェは元気かい? 今日は図書館から出てきてないみたいなんだけど」
「あ、はい。先ほど紅茶を持っていきましたけど、体調は良さそうでした」
「それならいいや。私は寝直すから、起きたら会いに行くとするよ」
それじゃあね、と去っていく。
そういえば、まだ昼過ぎだった。
お嬢様は吸血鬼であり、夜行性なのだとか。
別に昼間も活動は出来るみたいだけれど、平時の昼は眠って夜に活動されている。
理由は良くわからないけれど、どうも吸血鬼と言うのは日光に弱いらしい。
私は小悪魔だけれど、そんな弱点のような特性は無く、人間とほぼ同じ生活パターンを送っている。
朝起きて昼に活発に動き、夜になれば眠る。
だから太陽もへっちゃらだ。
幻想郷の住人は大半が私と同じ生活パターンのはずだから、昼に活動出来るなら私たちと同じ時間帯で生活すればいいのに。
日光に弱いと言っても、活動出来るなら倒れるほどでも無いだろうし。
「変なの」
お嬢様が変なのは今に始まったことじゃないけれど、私は本人の姿が見えなくなったことを確認して、そう呟いた。
流石に本人の前でそんなことを言ってしまっては、私の立場が危うい。
流離の私を拾ってくれたのはお嬢様なのに、今ではちょっと敬遠してしまう存在なのだった。
理由は定かじゃないけれど。
「……あれ?」
そういえば、寝直すって言っていたけれど。
昼間はずっと寝ているはずのお嬢様が何で起きていたんだろう?
トイレかな。
「ま。いっか」
考えても答えなんて出てこない。
そんな暇があったら一秒でも早く仕事を終わらせて、ご主人様から頂いた本を読まなくちゃ。
私は振り返ることもせず、そのまま咲夜さんがいるであろう調理室へと向かった。
/
「おかしいねぇ」
たった今、廊下ですれ違った同居者の姿が見えなくなったのを確認し、レミリア・スカーレットは妙なことを口にした。
見つめる先は自身の双眸と同じ色をした紅の道。
天井には昼間だと言うのに煌々と光を灯す、ガラス細工で出来たシャンデリアが吊るされており、これまた優れた職工が細工したであろう木枠の窓からは、仄かな日光が差し込んでいる。
どこまでも続いていく奥行きは、けれど全く同じ風景。
左右等しく対称で、手前も奥も一点の違いも無い、ただ通行と言う機能が内在するだけの寂しげな路。
その、無味乾燥な廊下の果てには、今しがた別れた小悪魔の姿が、もう米粒ほどではあるが視認出来る。
はっきりとした姿は見えぬが、確かに小悪魔の後姿であろう。
そう断定しておきながら、レミリアの思考は小悪魔には向いていなかった。
「確かに“ズレ”た感じがしたんだが」
カリ、と親指の爪を噛む。
あたかもソレそのものが武器であると主張するように尖り、伸び切った爪。
吸血鬼の一族は皆そうなのか、彼女の爪が手入れされていないだけなのか。
「咲夜に変化は無かった。フランもメイドたちも変わりは無い。パチェは見てないけど、問題は無さそうだし。こぁは――まぁ、相変わらずだし。
おかしいねぇ……。感覚でも鈍ったかな」
そんなはずは無いのだけれど、と納得できない様子で虚空を見つめる女吸血鬼。
見た目は小さく幼子のようではあるが、これでも五百余年は生きる強靭な生命体である。
単にこれ以上、見た目として成長しないだけなのか、それともする必要も無いのか。
人間で言えば十前後の少女にしか見えぬその容貌。
だが侮ることなかれ、彼女の内に秘められた力は生半可なモノではない。
豊潤たる魔力に、背から生えるコウモリ状の翼、そして圧倒的な自己回復力。
それだけでもあらゆる種族の中でも最強位と言えよう。
しかしレミリア・スカーレットには、更にもう一つ、他生物とは一線を画す能力がある。
それが『運命を操る』能力である。
彼女の瞳は、ありとあらゆるモノに内包されている“運命”を視ることが出来、また感じることが出来る。
そしてその運命を弄り、改竄することが出来るのだ。
今の彼女のぼやきは、そんな能力を有するが故の独り言だった。
「まぁ夜になったら寄ってみるか。昨日も会ってないし」
欠伸を噛み殺しつつ、紅魔館の主たるレミリアは、寝室へと歩みを進めた。
自身が感じた運命の歪みを疑いながら。
/
楕円形をしたトレイを調理室へと持っていくとそこに、予想通り咲夜さんがいた。
「あら、おかえり」
「どうも」
「パチュリー様はまた読書?」
ふふ、と小さく笑う咲夜さん。
メイド長の貫禄が笑いにまで波及しているのがカッコイイ!
一挙手一投足その全てが上品で、まるでメイドに生まれてきたのが運命みたいな人だ。
仕事も出来るし容姿も良いし。
こうやって咲夜さんを見ていると、神様って不公平だなぁなんて思ってしまう。
私は悪魔だから神は敵だけれど。
「はい。きっと今日も出てこないかと」
「そう。じゃあお夜食もお作りしないと」
にっこりと微笑む。
実はメイドたちの間だけの秘密なのだけれど、メイドの中には咲夜さんのこのスマイルが見たいがために居残っている妖精もいるのだとか。
高嶺の花と言うか憧憬の的と言うか。
何においても完璧超人な咲夜さんの下で働けるだけでも感涙モノです、なんて妖精もいるみたいだし、それ故か、この紅魔館において咲夜さんの人気は館主のレミリア・スカーレット様より高いのだった。
もちろん、こんなことは口が裂けても口外なんて出来ない。
だからこそメイド間だけの秘密事なのである。
「あ、そうそう。そのトレイは洗うから、そこへ置いておいて頂戴」
「わかりました。……で、私はあと何をしたら?」
「そうねぇ。――あ、そうだ。さっきお嬢様が来て、今晩はうんとぐっすり眠れるワインが飲みたいと言っていたわね」
うんうん、と頷く咲夜さんの顔は真剣だ。
この人はいつだってレミリア様のことになると、真剣で最速で全力だ。
本当に一体、過去に何があったんだろう、と考えてしまう。
「あぁでも、酒蔵には私が取りに行かないと。貴方じゃわからないものね」
「うっ……」
遠まわしに「この役立たず」と言われてしまった気分だ。
でも残念ながら、あのヴィンテージ級だと言われるお酒の種種を、私は理解もしていなければ把握もしていない。
何を持って来いと言われてもわからないし、粗相があったらそれこそクビが危ないのでそっとしておく。
「ああ、そうだ。門番をしている美鈴を連れてきてくれるかしら。ちょっと料理を手伝って貰いたいから」
「はい。では連れてきますね」
軽く会釈をして調理室から出て行く。
何の料理の手伝いだろう、と不思議に思ったけれど、振り向きざまに長机に置かれていた食材を見て、なるほどと思った。
ここは紅魔館。
洋館であることに加えて、お嬢様たちが西洋の生まれであり育ちであることから、口にするのは殆どが洋食である。
けれど並んでいる食材は、多量の唐辛子や豆腐など、どれも東洋のモノ。
美鈴さんは中華料理とやらが作れる人だったのを思い出した。
「今日は辛そう……」
咲夜さんに聞こえないほど小さな声でそう呟き、私は外へと足を運んだ。
/
紅魔館には広大な敷地を囲うように塀があり、門はこの正門一つだけしかない。
だからこの門を通らないと中には、原則的には入れない。
空からの来客にとっては何の関係も無いけれど、一応出入り口はここだけで、美鈴――紅美鈴さんはここで働いている。
美鈴さんはここで怪しい人物をシャットアウトする、とっても強い門番なのだ。
中国拳法という、変な動きをする拳法は見ていて面白いのだけれど、この前その変な動きの後に何故かぴたりと止まって、止まったかと思ったらすぐ近くにあった木を幹の真ん中からへし折ったという現場をこの目で見てから、アレは怖いものだと悟った次第である。
幻想郷の要人と呼ばれる方々の多くは彼女を弱いと言っていたけれど、アレを見てしまった私としては、とてつもなく強い人にしか見えない。
見えないんだけれど……度々門を突破されているところを見ると、やはり弱いんじゃないかと疑念が湧いてくるのだった。
それでも私よりかは確実に強いことは確かで、そうなるとやはり、要人の方々が強すぎるんじゃないかと思う。
「美鈴さん」
「ん? ああ、こぁか」
門にもたれかかっていた美鈴さんに声をかけると、彼女は私の姿を見るなり嬉しそうな顔をしてくれた。
私も私で美鈴さんのことが好きなので、自然と頬が緩んでしまう。
どうしてお互いこんなにも好感を抱いているのかと言えば――まぁ平たく言って、同じような境遇だからである。
美鈴さんも私も、この館の中では立場が弱い。
弱者にしかわからない“哀愁”という共通点こそが、私たちの絆だった。
「どうした。今日はもう終わりか?」
「あ、いえ。咲夜さんに頼まれまして」
「咲夜さんに?」
「はい。ええと、料理を手伝って欲しいそうで、調理室に来てくれと」
咲夜さんの言伝を話す。
すると美鈴さんは笑いながら、
「了解。でも、門番が仕事を放り出して料理しにいくって言うのも、どうなんだろう」
「あはは……そ、それもそうですね」
「ま。誰も来なさそうだし、いいか」
その通りで、博麗神社がスペルカードルールを敷いてからというもの、物騒な押し入りとかも激減、もとい消滅し、遊び半分でスペルカードを使って勝負しにくる人くらいしかここへは来なくなっていた。
だから門番としての責務は全くと言っていいほどに無くなり、昔は四六時中監視のために立っていた美鈴さんも、今ではこうしてちょくちょく館の中へと戻っている。
警戒心が抜けてきたのはいいことだけれど、緊張感まで抜けてくるのはちょっと問題かもしれない。
そう思っている自分が、一番緊張感が欠けていると言うのは隠すべき恥部であるのだけれど。
「じゃあ戻りますか。――ああ、夕食は期待してて」
「はい」
本当は辛いのダメなんです――なんてことも言えず、私は社交辞令の笑顔を振りまいて、館の中へと入っていく美鈴さんの背中を目で追った。
動くたびに流れる赤く長い髪。
比較的長身な美鈴さんは、こうして後姿を見ていると、咲夜さんとはまた違ったかっこよさがある。
普段はあんまり目立たないから、みんな気が付いてないかもしれないけれど。
「かっこいいなぁ」
本人には気付かれないよう声量を絞りつつも思ったことを素直に言葉にして、私も紅魔館へと戻った。
声量を絞ったのは何故かって?
それはだって、こんなセリフ、聞かれたら恥かしいから。
流石に声を大にしては言えない。
魔理沙さんくらいの度量があれば言えるかもしれないけれど。
/
「うー……」
やっぱり美鈴さんの作る料理は辛かった。
今も口の中がヒリヒリしている。
真っ白な豆腐があれだけ辛くなるのは何故だろう。
その周りの赤い具たちのせいだとは思うけれど、そう言えば豆腐単体で食べたことが無い。
本当は、豆腐自体はそんなに辛く無いのではないだろうか。
またあの料理を食べる機会があれば挑戦してみようっと。
「さて、と」
今日の仕事もほぼ終了した。
ご主人様のお夜食は咲夜さんが直々に届けると言っていたから、私のすることは実質、もう無い。
きっと今頃ご主人様も読書に没頭しているだろうから、就寝の挨拶だけをしに行くのも気が引ける。
――と言うことで、私も読書タイムに入ろうと思う。
椅子に腰を下ろして、昼間ご主人様から頂いた本をめくる。
まだ一ページ目の半分も読んでいない。
今日はせめて十ページは読みたいところである。
本当ならもっといっぱい読まなきゃいけないんだろうけれど、暗記しないといけないので目標は十ページ。
まぁ……きっと半分も覚えられないだろうけれど。
「よし」
私は悪魔らしからぬ読書を始めた。
/
実に美味しそうな肉付きだ、と思った。
若く瑞々しい肉に、穢れの無い魔力路。
瞳はルビーのように綺麗な紅色で、本物の宝石のようだ。
背中から覗かせている醜悪な形をした羽根さえ無ければ、どんな手段を使っても保存してやったものを。
「く――――だ、黙れ……ッ!」
ぶん、と何も無い空虚を薙ぐ、細い一つの腕。
だが周りには誰もいない。
これと言った物も無く、ただ本が随所に散らばっているだけ。
だと言うのに、一体彼女――パチュリー・ノーレッジは何に対し、声を上げているのか。
「私はお前なんかに絶対負けない!」
怒髪天を衝くとは正にこのことだ。
鬼気迫る形相で拳を作り、大声を上げる稀代の魔法使い。
いつもは魔法使いらしく冷静沈着な態度を示している彼女が、これほどまでに変貌するとは一体誰が思おう。
乱れる呼吸もそのままに、バン、と両手を机に打ちつけた。
「そうだ……負けない。こんなヤツに、私は負けない――!」
その一言を紫の魔女が言い放った瞬間。
くすり、と。
彼女の脳内で、何かが嗤った。
嬉しい。
これほどの甘い魔力、極上の魔力路を、もう少しで得られるなんて。
そんな歓喜に、何故か自分の背がぞくりとした。
「――――く」
己が裡より響いてくる声。
自分の体でありながら自分ではない、ダレかの声に戦慄する。
……いや。
何も恐れ慄いているのは、声にだけではない。
どうしてかはパチュリー自身にもわからないが、自分の意識とは全く別の感情が神経を侵し、体現していることに恐怖した。
自分は怒り、幻影を振りほどこうとしているのに――――何故、愉悦を感じてしまっている……!?
「はなれ、ろ」
唇をきつく噛み締める。
見つめる先には、人影さえない。
だが彼女は、明確な敵意を目前のナニかにぶつけている。
一体、彼女の視界には何が映っていると言うのか。
またしても脳内に、あの声が響いてくる。
大丈夫。
ワタシはアナタよ。
うまくやっていける。
だから仲良くなりましょう?
ぞくん、ぞくんと背に何かが走っていく。
迸るは快楽、か。
まるでランナーズハイにでも毒されているような高揚感。
あまりの快感に脳まで痺れた。
そのせいか、鬼の面をつけていた魔女の顔には、いつの間にか笑みが浮かんでいた。
――近くに鏡が無かったのが幸いだった。
もし、今の自分の顔を鏡で見てしまったらきっと、彼女は壊れてしまうに違いない。
コントロール出来ない自分の感情、神経に絶望を感じながら、パチュリー・ノーレッジは椅子に身を放り投げた。
使い込まれた椅子が、ぎしぃ、と一際大きく軋む。
そんな悲鳴めいた音を聞いても、何の感情も湧いてはこない。
今はただ、瞳を固く閉じて後のことを考えるので精一杯だった。
「どうしてこんな……」
後悔にも似た独白が、更に喜びを引き出す。
自分ではどうしようも無い事態に、真理の追求者たる魔法使いは大きくため息を吐いた。
――ちょうどその時、古めかしい木扉が開かれる音がして、彼女はぎくりとした。
咄嗟に警戒の色を含んだ声を漏らす。
「誰?」
彼女の問いかけに、図書館の出入り口たる大扉を開いた人物が答えた。
「私だよ、パチェ」
「ああ……レミィか」
パチュリーから安堵の息が漏れる。
しかしそれを聞き逃すほど、レミリア・スカーレットの機能は鈍っていなかった。
ふん、と誰にも気付かれないよう鼻を鳴らす。
原因はやはりコイツか――――狩人の如き双眸を以って、紅い悪魔は親友であるはずのパチュリー・ノーレッジを睨んだ。
だが口調は明るく振舞う。
「今日も本の虫かい? 全く、少しは外に出てきたらどう?」
「あ……そ、そうね。たまには、ね」
会話に詰まり詰まりになるパチェリー。
目は完全に泳いでおり、心なしか血色も悪い。
しかし互いの距離は数十メートル以上も離れている。
上段から見下ろすレミリアにそれらの情報は伝わっていない。
それでも会話の詰まりだけで、異常の判定はついたようだった。
「咲夜がヴィンテージのワインをあけてくれたらしくてね。酒の友が欲しかったのさ」
「い、いま行くわ」
「ああ、いや。どうせならここで飲もう。久しぶりにゆっくりと話がしたいしね。それにもうすぐ咲夜がパチェのために作った夜食を持参するらしいから、ここで酌をしよう」
有無言わさぬ親友の言動に、異論を挟むことさえ叶わぬ魔女。
止めようと思っても、すでにレミリアが翼をはためかせて降りてきてしまった。
コウモリのような一対の羽根がばさり、と着地前に大きく音を立てる。
そうしてレミリアは、今度こそはっきりとお互いに見合える距離までやってくると、吸血鬼の持つ独特な犬歯を覗かせながら、ワインのボトルを机に乗せた。
ドン、と重量を感じさせる音。
黒塗りのボトルはまさに漆黒。
今から夜が始まるぞ、と主張しているようである。
「いやぁ、咲夜の“能力”は面白いし貴重だね。私にしちゃあこの上ないほど便利な“能力”だ」
わざとらしく能力の部分を強調して話をする夜の女王。
それに何の意味があるのか。
顔は笑っていても、彼女の目は笑っていない。
何かを確認するように会話を続ける。
「そうは思わないかい?」
「え、ええ……」
「ああそうだろうよ。パチェも恩恵に肖っているだろう? こんなにも美味しいヴィンテージワインを飲み放題なんだから」
「……そうね」
「ところで。今日はあの娘はいないのかい?」
「あの娘?」
「パチェの大事にしていた悪魔――じゃなかったか。小悪魔だ。昼間、廊下ですれ違ったんだが」
おかしなことを言う。
昼間、小悪魔のこぁに会った時、レミリアは彼女のことを何と呼んでいたか。
わざわざ小悪魔、と表現しなくとも名前を知っているはずなのに、何故遠まわしに悪魔だの小悪魔だのと口にするのか。
外部から見れば実に無意味な質問。
だがしかし、今この場には、無名の女吸血鬼と魔法使いの女の二人しかいない。
言葉が有効なのは当人たちだけ。
故にこの質問に意味があるとすれば、聞き手のみ。
レミリア・スカーレットの問いを聞くパチュリー・ノーレッジにのみ、言葉の矢が効くのである。
そしてレミリアの目論見通り、矢はパチュリーの心を貫いた。
びくっと震える肩口。
顔面は蒼白。
けれど、
「何がおかしいんだい、パチェ?」
その顔は、僅かに笑みを含んでいた。
「おかしい……?」
鸚鵡返しに問う。
何がおかしいのか、と。
本当にわからない様子で、パチェリーは親友の紅い目を覗き込んだ。
「……いや、なんでもないよ。――っと。どうやら肴が来たようだね」
レミリアの言葉に遅れること数秒後、ぎぃいい、と木の軋む音が図書館に響き渡った。
姿を現したのは、この紅魔館のメイド長である十六夜咲夜だ。
手にした長方形の大きなトレイには、ワイングラスが二つと、手の凝っていそうな料理を飾った皿が四、五枚載っている。
「おぉい咲夜。こっち、こっち」
大きく手を振り存在をアピールする紅魔館の主。
主人の居場所を把握した咲夜は、階段から降りてやってきた。
「お嬢様。グラスをお忘れになっていきましたわ」
「ああ、そういえばグラスが無かったね」
「お持ちしました。どうぞ」
「ありがとう」
咲夜から手渡された、幅のあるグラスにワインを注いでいく。
とぽとぽと小気味良い音を立てて、血のように真っ赤なワインが注がれていく。
その過程、その最中に、パチュリーは唾を飲み込んでいた。
彼女は自分の行為であるのにも関わらず、それに気がつかない。
パチュリーにとっては無意識下での行動だったが、ある事を確認していたレミリアは、十二分に気が付いた。
そして二人分のワインを注ぎ終えたレミリアが命を下す。
「咲夜。今夜はもういいから休みなさい。料理はそこのテーブルに置いておいて頂戴」
「わかりました。では」
従者である咲夜は、主人の言う通りに料理をテーブルに置き、深くお辞儀をしてトレイを手に戻っていく。
カツ、カツと硬い足音を撒きながら階段を上っていく姿を、レミリアはまるで気にしていない様子で、ワインの香りを一人楽しんでいる。
その真ん前でグラスを食い入るように見つめるパチュリー。
何故か彼女は、ソレに好奇の眼差しを向けていた。
ばたん、と扉が閉まる音で、まるで暗示が解けたように正気に戻る。
「……ぁ、あ。か……乾杯でも、する?」
「いいねぇ。でも、何に乾杯しようかね」
紫髪の魔女からの提案に頷き、思案を巡らせる若きヴァンパイア。
そうして至ったのが、
「それじゃあ。パチェと私の“運命”に乾杯だ」
「クスッ。相変わらず気障ね」
チン、とグラス同士を当てる。
レミリアの乾杯音頭に、どのような意味が込められていたのか。
パチュリーはそんなことを考えもせず、甘美なるヴィンテージワインを口へと運んだ。
/
酒盛りは二時間ほどで終わりを迎えた。
パチュリーはそのまま図書館に、彼女――レミリア・スカーレットは自室へと戻っていた。
手には少量のワインが残ったボトル。
グラスはもう必要無いと、図書館のテーブルに置いてきた。
飲食の始末はいつも翌朝になってから咲夜が行っている。
主人が自ら片付けようなどと思うことは無く、またその必要も無い。
そのためのメイドなのだから。
「――――」
蓋の開いたボトルをそのまま口につけ、ワインの残りを喉に通していく。
程よい甘味と苦味が混在し、喉越しはこの上なく滑らかだ。
癖になりそうなほどの美味である。
だが今宵は、素直にそんな感情に浸ってはいられなかった。
――昼間、嫌な感覚が我が身を襲い、それで目が覚めた。
世界に亀裂でも入ったかのような、得体の知れないズレた感覚。
飛び起きた彼女は、原因の特定のために館中を確認した。
もしかしたら妖精メイドの一人が引き起こしたのかもしれないと、その一人ひとりを確認していったが、結果は白。
誰の一人も漏れなくその運命に準じている。
ではメイドたちではなく、それ以外の住人か?
――答えはYES。
それも限りなく最悪の正解だった。
彼女が考える中で最も当てはまって欲しくなかった人物こそが、運命に異常をきたしていたのだから。
「パチェ……」
空になった漆黒のボトルを見つめながら、愛おしそうに名を口にする。
酒の飲みすぎか、目は蕩けていた。
半ば開かれた眼には何も映っていない。
ただ思念だけが脳内でぐるりぐるりと廻っている。
図書館でパチェを――いや、パチュリー・ノーレッジだったモノを見た瞬間、背筋が凍りついたかと思った。
アレのあまりの変容ぶりに思わず、親友であるにも関わらず睨み付けてしまった。
どうすればあんな状態になるのか、咄嗟に理解出来なかった。
レミリアの能力で見える運命と言うのは通常、一本の太い“線”だけ。
体に生えているように見えるソレに触れることで、その対象の未来を覗き見ることが出来るのである。
しかしこの度、パチュリーに生えていたのは二本……もとい、一本半か。
胎児を宿した母子以外に、二本以上の線を見るのは初めてのことだった。
それに妊娠している女性の場合も、胎児と母親のそれぞれ一本ずつ別れて線が見えていたのだが、今回の場合は一本の線の先が枝分かれしていると言う、奇怪極まりない現象であった。
運命と言うのは、読んで字の如く“命の運び様”のことである。
命は、一個体に一つと言うのが大原則だ。
一つしかないのだから、運命の線も一本のみ。
生に始まり死に終わる、一本のなめまかしい線こそが運命そのもの。
それがレミリアの能力で見えていたモノの正体だった。
生まれてしまった以上、死は常に隣にいると言うのが、生物である限り揺らがぬ根本原理。
それ故に人は死を恐れ、不死を願い、不老長寿を追い求めてきた。
だが、今まで一本しかなかったパチュリーに、突如二本目が生えてきたのは何の冗談か。
一本の線に絡み付くように現れた黒い線。
元の線に半分以上同化し、枝分かれしているように見える運命の蔦。
しかしてその線に触れることは、ついに出来なかった。
チャンスを窺いつつ、何度も訪れた好機を彼女は全てスルーした。
理由はとても単純なコト。
つまるところ、吸血鬼たる彼女は“恐怖”したのである。
いつも高潔で高圧な態度をしているレミリアも、親友である魔女の行く末を見るのは怖かったのだ。
だから今までも触れていなかったし、変貌を遂げた今では尚更接触する勇気が無い。
「全く……因果だねぇ……」
パチュリー・ノーレッジと出会った頃を思い出す。
初めて出来た友人に、彼女は確かに虞を抱いていた。
自分には運命が見える。
触れれば、確定されていないとは言え未来を覗ける。
一目しただけで寿命の長さまで推し量れてしまう。
終わりを初めに見るなんて、そんなの。
まるで小説を最後から読むようなモノだ。
そんなことをしてしまったら、最期を知ってしまったら、きっと。
心から笑いあうコトさえ出来なくなる――。
その日から、レミリア・スカーレットは、気に入った相手の運命線に抵触することは無くなった。
線そのものを見ることはしても、触れて未来読みをすることはしなくなった。
そのツケとも言える出来事が現在、この閉じた楽園の中で起こっている。
「――下種めが」
バキン、と握り潰された黒いワインボトルが四方に砕け散る。
次いで掌に滴る、血のように紅い液体。
それをチロリと舐めると、スカーレットデビルと呼ばれる女吸血鬼は、つまらなげに鼻を鳴らし、席を立った。
「さて。どうしたものか」
解決策を考えつつ、彼女は自室から姿を消した。
親友の命に喰らい付いた、正体不明の影をどう炙り出そうか。
残虐たる処遇を脳内に浮かべながら、しかし、その表情には一切の余裕が見て取れない。
幽かな息だけを吐いて、彼女は深夜の路を一人歩き出した。
/
バレたかと思った。
まぁバレたところで、何かが変わるわけじゃないけど。
「…………」
残されたグラスを見つめ続けるパチュリー・ノーレッジ。
いや――ワタシか。
徐々に彼女の肉体はワタシ寄りになっていっている。
この調子なら肉体も精神も共に奪取まで五日とかかるまい。
ただ危惧するとすれば、パチュリー・ノーレッジの体に馴染めば馴染むほど、ワタシが女性らしくなっていくと言う点か。
本来からして中性なワタシだが、思考まで女寄りになるのは些かよろしくない。
何せ女は感情に左右されやすいと聞く。
そんなの、ワタシらしくない。
ワタシは――いや、オレは五百の月日に耐え切った、誇り高きウィザードなのだから。
「……はぁ」
宿主が眉間を指で摘む。
どうやら相当疲れているらしい。
それともアルコールの摂取が過ぎたのだろうか。
どちらにせよ、ワタシ――いや、オレ……まぁどちらでも良いか――には何の関係も無い。
神経系も大分略奪してきたが、何分まだ主権はあちらが握っているのだから。
ワタシは都合のよい時に、綻びを利用して出て行けば良い。
全身を隈なく冒し切った時こそ、真にワタシがパチュリー・ノーレッジになる。
こうして脳や魔力路を魔力で守っているのも時間の問題だろうし。
“――――――ク”
笑うことさえ出来ぬ身ではあるが、想うことは出来る。
そうすることで歓喜がワタシを満たし震わせる。
無かったはずの魂が『嬉しい』とワタシの心を震わせるのだ。
刻限は近い。
抑え切れぬ衝動を堪えながら、ワタシは宿主の深部へと再び潜った。
☆★☆
深いまどろみから覚めると、早速現実に打ちのめされることになった。
「ああーーーーっ!」
思わず声を上げてしまう。
でも、それも仕方ないと思う。
だって……これはもう、メイドとして最低だろう。
「あ……あ……」
いつの間にか窓から差し込んでいる日光。
机の上には本と、自分の涎が少々。
壁掛け時計の針は十時を指している。
――何と、私ことこぁは、思いっきり寝坊していたのであった……!
「うう、ぅ……」
がくりと頭が垂れ下がってしまう。
今日はもう、問答無用でご主人様に怒られること請負である。
救いと言えば、涎で大事な本が濡れなかったことくらいか。
「何でこう、」
なるのかなぁ。
いそいそとハンドタオルを用意し、本をどけて涎を処理する。
本は三ページ目と四ページを開いていた。
つまり、十ページは進めようとしていた私は、見事に四ページほどしか読めていないことに。
しかも内容なんて丸で記憶に無い。
読んでいた、と言うよりも、眺めていた、と言うほうが正しいのだろう。
いくら慣れないこととはいえ、これはちょっと酷いと思う。
全く興味の無い本ならまだしも、憧れの魔法使いになる為の勉強、それもご主人様からのプレゼントなのに。
読むうちに爆睡だなんて、失礼にも程がある。
「はぁ……」
反省すればするほど罪悪感が募っていく。
それにプラスして、現在時刻が私の両肩にプレッシャーとして重くのしかかってくるのです。
あぁ……ご主人様、絶対怒るだろうなぁ。
でも、寝坊してしまったのは私自身のせいだ。
嫌だと思わず、ちゃんと事情を説明して謝るのが礼儀でしょう。
それでも溜め息が出てしまうのは、まぁ、生理的な何かだと諦めてみる。
私は身支度を整えつつ、ご主人様への言い訳を考えていた。
/
「――――――」
しーん。
なんて静かなんだろう。
それが真っ先に浮かんだ感想だった。
遅れながらも図書館へと来た私は、いつも通り本を読んでいるご主人様へと挨拶をした。
それなのにコレである。
「あ、あのう……ご主人様?」
恐る恐る近づいてみる。
でも私になんか気がつかない様子で本を読み続けるご主人様。
――はっきりと言って、凄く怖いです。
これならまだ、思い切って怒鳴り散らしてくれたほうが精神的によろしいかと。
「ご主人様?」
大きな机の真ん前まで来て、声をかけてみる。
……けれど全く反応無し。
これはもう、完璧にキレてしまっているようだ。
ああああああああ、どうしよう……。
「ええと、その……」
頬を掻きつつ、考えてきた言い訳を脳内で再生する。
その時、
「あら、こぁじゃないの。どうしたの? そんなところで」
目の前にいる、ご主人様から言葉をかけられた。
それも凄くナチュラルに。
本当に気がついていない様子で、本は手にしたままに。
「ええと、朝のご挨拶に」
「あ。もうそんな時間? 気がつかなかったわ」
「あ、えっと。その」
例のことを言おうとするも、ご主人様に憚れてしまった。
「昨日の食器とかは、今朝早くに咲夜が持っていったから。何でも寝付けなかったらしい」
「あれ、そうなんですか?」
「かくいう私も徹夜だけれどね」
苦笑いしつつ本を机に置く。
ご主人様が徹夜をすることなんて、それほど珍しいことじゃないけれど。
あの時間だけには正確無比な咲夜さんが、寝付けなくて朝早くから仕事をしているなんて、ちょっと意外だった。
「で? ちょっとは進んだの?」
「はい?」
「魔道書よ。解りやすかったでしょ」
「ええと、その……」
アレで解りやすいとか、一体どんな脳の構造をしているのだろう?
私にはただの文字の塊にしか見えなかったけれど……。
まぁ途中で寝てしまった私に、評論を下すだけの資格なんて無いわけで。
どう申し開きしようかと考えた矢先、ご主人様は静かに微笑んで言葉を口にした。
「まあ昨日の今日だしね。ゆっくりやればいい。こう言うのは時間じゃなくて内容が勝負だし」
「はぁ」
「継続は力なり。サボらないことね。それから、私はちょっと用事が出来たから出かけてくる。今日は帰りが遅くなるかもしれない」
「どこに行かれるんですか?」
「それは……内緒」
ぽそりと、何か申し訳無さそうにそんなことを言うご主人様。
何かあったのだろうか?
「あと、今日は暇をあげるから、魔法の勉強でもしていなさい」
「わ……わかりました!」
「ふふ。――それじゃあね」
椅子から立つと、そのまま振り返りもせず行ってしまった。
……変なの。
どこか様子がおかしいような気がしたけれど、違和感の正体がわからない。
わからないけれど、いつものご主人様らしくなかった、と言うか。
ご主人様の専属メイドだと言うのにこの体たらく。
これが咲夜さんなら、お嬢様の体調から何まで完璧に把握しているのだろうけれど。
「……はぁ」
寝坊したせいで焦りから引き締まっていた気が、何だか一気に緩んでしまった。
館内は相変わらず薄暗くて、誰もいないせいかひんやりとしている。
冷たく重い空気を肺に満たして、ゆっくりと吐き出していく。
いつも通り埃っぽい空気。
足元には多量の本たち。
「…………」
ご主人様はああ言っていたけれど、やはりメイドとしては何かしら仕事をしなくちゃ、と思うわけで。
折角なので、久々に拭き掃除などをしようと思う。
ご主人様の前ではなかなか水を使った掃除は出来ないし、何よりこの本の大群をどうにかしないと、そろそろ足場まで無くなってしまいそうだし。
「やりますか」
寝坊の分も取り戻すべく、私は両腕に力を込めて、まずは本の整理からはじめた。
「痛っ!」
本の整理を始めて三十分ほどが過ぎた頃。
棚へと本を仕舞おうとした私の頭上に、とてつもなく大きな本が落ちてきた。
原因は、ちょっと背の高いところへ入れようと伸びをした時、本を手にしていた腕の力が抜けてしまい、指から滑り落ちてってしまったためだ。
おかげで分厚く重い本が頭に直撃し、視界に火花が散ってくれたのだった……っ!
「いたた……」
久しぶりに味わった衝撃のおかげで涙が出てきた。
患部に手を当てると、半端じゃない痛みが広がってきた。
「~~~……っ」
これは、もしかしなくてもコブになるパターンではないだろうか。
イヤだなぁ……あとでちゃんと冷やしておかないと。
あっと、それよりも本、本だ。
大事な本に傷一つでも付けようものなら、ご主人様になんと責められるかわかったものではない。
ズキズキとする頭をそのままに、落としてしまった本を拾い上げようとして、私はつい眉を顰めてしまった。
「あれ?」
目の前に落ちている本は、確かに本のはずなのだけれど、開かれているページには文字も無ければ絵も無かった。
真っ白なだけの紙の束は、どう見ても本には見えない。
メモ帳なのかな、とも思ったけれど、こんなに大きなメモ帳なんて無いだろうし、そもそもメモしても簡単には千切れなさそうだ。
装丁は何の動物のかはわからないけれど、立派な黒の本皮で出来ていて、見た目も作りも本にしか見えない。
まさかコレがスケッチブックでもあるまいし。
でも、じゃあ、何で何も書いてないのだろう?
「うーん……」
――あ、そうだ。
これはもしかしたら日記帳なのかな。
まっさらな状態なのだから、自分から埋めていくモノだと考えると筋も通る。
きっとそうに違いない。
何だか難解な事件でも解決出来たかのような気分だ。
始まりのページにはきっと、日記帳とか何とか書いてあ――――
「Christian Rosenkreutz――――?」
クリスチャン・ローゼンクロイツって読むのかな?
日記とは全然これっぽっちも関係無さそうだけど。
と言うか、これって人の名前じゃ……?
しかも文字が真っ赤。
おどろおどろしいにも程がある。
人名を血のような赤い色で書くなんて。
でも、それだけだ。
本当に後は何も書かれていない。
最初から最後までパラパラとページを流していっても、その名前らしき文字以外は一文も書かれてはいなかった。
流し読みのせいで見つけられなかったのかとも思ったけれど、二度も見て何も無かったんだから、何も書かれてないのだろう。
「……何なの?」
呟いてみても、返事なんて返ってこない。
仕方なく私は本を閉じた。
気持ちの悪くなる赤色を見続けるくらいなら、掃除に取り掛かったほうがよほど生産的である。
ご主人様が帰ってきたら聞いてみよう。
気味の悪い本を机の上に置いて、私は掃除を再会した。
/
飛行と言う行為が、これほどまでに心地良いモノだとは思わなかった。
風を切る感覚、香り高い空気、眩しいほどの陽光。
これが飛行。
これが魔法。
これが生きると言うこと。
最高じゃないか!
「――――っ」
ワタシが喜ぶ度に、イヤそうな顔をする宿主。
どうでもいいけれど、ちょっとは明るくなって欲しいものだ。
まさかとは思うが、本当に本気で完璧に根暗なのだろうか?
それは勘弁して欲しい。
入れ替わったら、ワタシまで根暗になってしまいかねない。
宿主は南東へと飛んでいく。
その間、ワタシはせっせとジクジクあらゆる部分を冒していく。
魔力路は擬似神経のせいか、なかなか入り込めない。
……いや、擬似神経のせいと言うのは正しくないか。
この白光に近寄っていくだけでも、かなりしんどいのだ。
とてつもなく熱くて痛いから。
だから魔法を使えるようになれるのは、当分先のことになりそうである。
脳を喰ってしまえば手っ取り早いのだが、残念なことに、ずっと煌々しい魔力オーラで覆われているせいで、一ミリたりとも侵入出来ずにいる。
手先の細い魔力路ですらヒィヒィ言っているのだ、この分厚いクソったれな魔力を攻略するのは、それこそ命がけと言っても過言じゃない。
こんな七面倒なことになったのも、気付かれたタイミングが早すぎたせいだ。
流石は年季の入った魔法使い。
もうあと一日半もあれば、全身の隅々までコントロール出来たものを。
それでも感覚を司る部分の大半に潜り込むことに成功している。
脊髄や脳を抑えていないせいで制御こそは出来ないものの、共存状態には持ち越せているので、まぁ、気長にやっていこうと思っている。
何故寄生している側のワタシがこんなにも悠長でいられるのかって?
それは宿主であるパチュリー・ノーレッジの心臓を掴んでいるからだ。
ほぅら、こうして覆えば、
「ぐ……っ、、、は――――」
がくん、と視界が揺れる。
痛い! 痛いってちょっと、本気でこれは痛い!
痛覚まで取り入れていたことをすっかり忘れていた。
しかもちょっと墜落しそうで危なかった。
これからは飛行中には、悪ふざけはしないようにしなくては。
落ちたらもっと痛いだろうし。
――と、まぁ、こんな感じである。
潰そうと思えばいつでも心臓を潰すことが出来る。
たとえ魔力で守ろうと、それでワタシがかなりの熱い思いをしようと、圧迫すれば潰せる。
それを宿主にはちゃんと伝えてあるので、彼女が変なことをすることは無い。
いや、あるかもしれないが。
その時は――――命を諦めて貰うしか無いよね。
こちとら宿主が死んだら困るけれど。
元々ワタシは命無き者だったのだから、失敗したと思って割り切ればいい。
ここまで来たら割り切りたくは無いけれど、既にこの状態が奇跡に等しいのだから、もし霧散してしまう羽目になっても後悔は無い……と思う。
ってか、是非そう願いたいね。
潔いってカッコイイし。
「……ふぅ」
空の旅が終わってしまった。
その時間、実に五分!
この体を手に入れたら、即行で小一時間くらい飛んでやる。
不貞腐れるワタシなど眼中に無い様子で、紫色の魔女は着地した場所から歩き始めた。
まぁ眼中に無いってのも仕方ないか。
どうあっても、実態の無いワタシを視認することなんて出来ないのだし。
着地したのは、深い森の中だった。
空から見ていた限り、翡翠のような深緑をしたこの森は結構な広さを誇っていた。
人間など一切住んでいなそうな、原生林そのものの姿。
どこか懐かしさを感じる、その偉容。
ここは一体、何と呼ばれているのだろう?
原初の森とかか?
しかし考察はすぐに打ち切りとなってしまった。
――ふと宿主の足が止まる。
気が付けば、目の前に小さな洋館があった。
「――――」
ジメジメとしたこの場所で、何も感じないのか、パチュリー・ノーレッジは無言で洋館を見つめている。
こっちは、さっきまで凄いと思っていたこの森が恨めしく思い始めてきたっていうのに。
そう、理由はまさにこのジメジメ、ムシムシのせい。
森への尊敬も感動も一瞬のことで、地熱のせいか周りの木々のせいか、とてつもない不快感が湧き上がってくるのだ。
さっきはカッコイイ名前を考えたけれど、やはりこの森は“迷いの森”とか適当な名前が付いているに違いない。
まっとうな人間なら、こんな場所に長居はしまい。
繁茂なる木々のせいで方向感覚なんて無くなってしまうだろう。
だから迷う。
この暑さ、この不快指数では考えることさえ面倒になってくるはずだ。
しかし宿主はさして気にしていない模様。
ワタシがこれだけ不快な思いをしているのだから、多少なり嫌な気分になっているはずなんだが。
コンコン、とノックをする。
数秒の後に現れたのは、人形のような相を持った金髪の少女だった。
「珍しいわね。貴方がここに来るなんて」
「確かに久しぶりではあるわね」
「まぁ立ち話もなんだし、入って」
「……お邪魔するわ」
蒼い瞳に見つめられつつ、奥へと案内される。
一歩を踏み出し館の中へと入ると、異界が目の前に在った。
いや、冗談とかじゃなくて、本当に異界――異次元?
どちらでもいいけど、コレはそう呼んでも差し支えないと思う。
「相変わらず凄い数の人形ね……」
そら、宿主も同じ感想だ。
今のセリフが全てを物語っている。
眼前に広がるは人形の海。
ほつけてだらりと垂れ下がってるモノから、どう言う原理か空中をフライングしているモノまで。
ありとあらゆる――それこそ多種多様の――人形たちが、溢れんばかりに存在していた。
ワタシが言える立場ではないけれど、見れば見るほど不気味だ。
こんなところに良く住めてるなぁと感心する。
「人形師ですから」
さらりと言いのける家主。
そういえばコイツ、何者なんだろう。
パチュリー・ノーレッジとは情報共有出来ているわけでもないので、相手がどこの誰なのか全くわからない。
だが、恐らくは宿主と同じ魔法使い。
こちらは本、あちらは人形、その違いだけにしか思えない。
根暗そうだし、これで生粋の一般人だとしたら、ただの変態だ。
いや、まぁ、魔法使いも十二分に変態ではあるのだけれど。
「紅茶がいいかしら」
「それでお願い」
窓辺の一番光の当たる場所に腰を下ろして、暢気に紅茶をお願いする宿主。
どうでもいいけど、ちゃんと自覚してるのかな。
こうしている間にも自分の体が蝕まれているってことに。
死への恐怖が無いのか、それとも死なない自信があるのか。
どちらもワタシにとっては良くないことだが、こうやって暢気さを見せ付けられると少し腹ただしく思えてきてしまう。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
一体いつの間にお湯を沸かしたのか、目の前にはもう湯気を立てた紅茶が。
カップを手にし、香りを楽しむためか宿主が鼻元へと近づける。
「……ん」
鼻腔をくすぐるレモンの香り――これはレモンティーか。
宿主は音も立てず紅茶を口へと運ぶ。
……いや、これはこれは。
上品な味わい、とやらではないか。
「美味しいわ」
「お粗末様です」
にっこりと微笑んで自身も紅茶を口にする金髪。
いいからコイツの名前を教えてよ。
「それで? 今日は何の御用で?」
挑発するかのような声色だ。
宿主に敵対心でも持っているのだろうか?
ワタシの疑問を他所に、会話は続いていく。
「そのことなのだけれど。ちょっとお願いしたいことがあって」
「お願いしたいこと?」
「そう。レミィにはお願い出来ないことだから」
「大親友にもお願い出来ないことを、何で私に?」
その指摘は正しい。
パチュリー・ノーレッジにとってレミリア・スカーレットは、この世で唯一無二の親友ではなかったのか。
親友を差し置いて、こんな不気味な家屋に住む同業者に、一体何を頼むというのか。
「――この『本』を解くことが出来るのはきっと、貴方だけだと思うから」
言って、宿主はその掌から、手品のように本を出現させた。
ずるずると生えるように現れる、紫色の本。
四方には鉛色をした、止め具のようなモノが付いている。
それを十字に繋ぐ鉄の錠。
見た目はどう見たって本であるのに、どう見ても本には見えなかった。
「これは……?」
「見ての通りよ。詳しいことは話せないけれど、これを貴方に託したくて」
真実その本は重たいのだろう。
テーブルに置かれる際に発せられた音から察するに、通常の本の重みとは思えなかった。
もしかしたら見た目のように、中身も全て鉄で出来ているのかもしれない。
少なくとも宿主が本に力負けしているのだから、軽いはずは無い。
同化しているはずのワタシに何故重さがわからないかって?
そりゃあ、こう言う労働をする時は感覚から逃れているから。
興味のある感覚、感触を味わえそうな時にのみ、表面に出てくるのだ。
どうせ交代したらイヤでも苦痛共々味わなければならなくなるんだし、今くらい楽をしたい。
「――――本気なの?」
人形師を名乗った少女も目を見開くほどの代物。
ワタシにはさっぱりわからないが、どうやらこれは“大層なモノ”らしい。
本と宿主を交互に見て、怪訝そうな顔をする。
「ええ、本気よ」
ティーカップを唇に付けながら、優雅に返事をする。
だから説明欲しいんだけれど、色々と。
「魔理沙じゃ解読出来ないでしょうし、私と縁のある魔法使いは貴方しかいないし」
「でも、これは……」
「いいから何も聞かずに受け取って頂戴。それでお願いなのだけれど」
ソーサーが、かちゃりと音を立てる。
彼女は酷く消え入りそうな声で、
「――こぁに渡して欲しいの」
「こぁ? こぁって、いつも貴方の隣にいる悪魔のことだったかしら?」
「そうよ。今から言うことは、私の勝手なお願いだから聞かなくてもいいわ」
話が良く見えない。
聞いて欲しいからこその望みであるはずなのに、どうして聞かなくてもいいなどと言うのだろうか。
脳に侵入出来ないのがもどかしい。
「現段階では、こぁに解読出来るほどの力量は無い。かといって私には時間が無い。その本は貴方にあげたから好きにしてもいい。
好きにしてもいいけれど――――出来れば、解読せずにこぁに渡して欲しいの」
それは、祈るような口調だった。
瞳を閉じて紡がれた言葉が、言霊となって世界へと浸透していく。
金髪の少女も茫然自失の様相だ。
「コレは私自身と言っても差し支えの無いモノよ。だからこそ、信用ある人に渡したかった」
「ちょ、ちょっと待ってよ。それなら本人に渡せば、」
「それは出来ない。――理由は聞かないで」
話はここまでだ、と言わんばかりに席を立つ。
少女は焦ったように言葉を浴びせに来た。
「時間が無いってどういうこと? それにコレは魔法使いにとっては命よりも大切な――」
「理由は聞かないで、と言ったでしょう? 私にはこれ以上、何も言える事が無い」
そうか、コレは命よりも大切なモノだったのか。
そりゃあ驚くわな、普通。
ある日突然こんな物騒なモノを渡されたら、誰だって焦るわ。
「そう言うわけだから。……それじゃあ。紅茶、美味しかったわ」
「――――――」
最早何を言っても無駄だと悟ったのか、本を託された金髪少女は何か言いたそうな顔をしながらも、ぐっと堪えていた。
「じゃあね。アリス・マーガトロイド」
言葉を切って、ワタシと宿主は館から出て行った。
/
こりゃあ参ったな。
どうやらワタシは思い違いをしていたらしい。
彼女は死への恐怖が無いわけでもなく、死なない自信があるわけでもなく。
ただ静かに、起きている現実を受け入れていただけだった。
死期が迫っているのなら死への準備を。
身体が乗っ取られそうならその後への対策を。
……クソ。
宿先が選べないとは言え、なんて厄介な人物に潜り込んでしまったのか。
「ふぅ……ヒュン」
何だか変な音がすると思ったら、何だ、コイツ喘息持ちだったのか。
そう言えば今ほど酷くは無かったが、元の館にいる時も鳴っていたような。
不健康極まりない生活だとは思ったが、どうやら原因は生まれつきのものらしい。
むしろ本が友達なんて、運動好きで絶望を味わうこともなくて良かったじゃないか。
それにしても、行きは空を飛んでいったって言うのに、どうして帰りは徒歩なの?
まぁワタシが疲れるわけじゃないからいいけどさ。
先ほどの教訓を生かして熱感をカットしておいたから、ムシムシジメジメも感じないし。
鬱蒼と群れる翠。
空はこんなにも遠くて、日光はこんなにも近い。
誰もいないこの獣道を、宿主は一人歩いていく。
まるで巡礼者のように。
/
「あ、お帰りなさい」
汗ばんだ額を拭っていたパチュリー・ノーレッジに声をかけてきたのは、門でもたれかかっていた赤髪の女だった。
緑色の変わった帽子と服を着ている。
また変なのが現れたな、と思っていると、宿主が返事をした。
「美鈴。サボってると、またレミィに言われるわよ」
「たはは……」
的確に突っ込む。
何を隠そう、目の前のメイリンと呼ばれた女は、手に干し肉のようなモノを握っていたのだ。
きっと今の今まで食していたのだろう。
苦笑いを浮かべているのと、宿主のサボりという言葉から察するに、ここで仕事をしていたらしい。
門にもたれかかるのが仕事とは思えないし……ゲートキーパーか何かかな?
行きは飛んでいったせいで気が付かなかったけれど、ずっとここにいたのだろうか。
「まぁどうせ今日も客なんて来なかったでしょうけど」
「そうなんですよね。スペルカードルールが出来てからというもの、平和で平和で」
「それならレミィに言ってみれば? もう必要ないんじゃないか、って」
「ま、まさかそんなことは口が裂けても言えませんよ! 私、クビになっちゃうじゃないですか!」
「貴方ならいくらでも引き取り手あるでしょう」
「酷いことを言い、」
メイリンとやらが手に力を込めたのと同時に、第三者の声が会話を遮った。
「ご主人様!」
振り返ると、視線の先にあの小娘がいた。
目を輝かせて、忠犬のようにこちらへと駆けて来る。
「お――お帰りだったんですね」
「たった今、帰ってきたところよ」
息を切らせながら話しかけてくる姿に、どういうわけか――――苛立ちを。
「貴方は黙ってて」
誰にも聞かれないように、宿主が、そう囁いた。
何も言ってないだろうに、それは無いだろう。
そんなことを言われると、
「――――っ、ぁ……」
こう、握り潰したくなっちゃうじゃないですか。
「ご、ご主人様?」
「だ、大丈夫ですか!」
胸を掴みながら大袈裟によろめく魔女。
どいつもこいつも、大袈裟すぎるだろう。
ちょっと心臓を鷲掴みにしたくらいでそんな。
「血! 血が出てますよ!」
「顔も真っ青じゃないですか……!」
メイリンもこぁも慌てふためいている。
――あれ?
血が出てるって?
「だ、大丈夫よ……」
手で口を押さえる宿主。
開かれた手を見るとそこに、確かに血の跡があった。
……やばい、ちょっとやりすぎちゃったか。
周囲に異常を報せてしまうなんて、下策もいいところだ。
「わ、私、タオルとか持ってきます!」
「い……いいのよ、こぁ。ちょっと疲れただけだから」
「で、でも!」
「本当よ。久しぶりに歩き回ったから、それで、ね」
ごくりと喉を鳴らす。
途端に広がる血の味。
ああ――本当、やりすぎたよ。
これからワタシの体になるって言うのに、自分から傷をつけてどうする。
「ちょっと休むわ……」
「お、おぶりましょうか?」
「ふふっ。そこまで子供じゃないわよ。大丈夫、ちゃんと歩けるから」
「じゃあ肩を」
健気な小間使い兼弟子が宿主に肩入れする。
向こうの方がちょっと身長高めなので、担ぎにくそうだ。
ずるずると引き摺られるように、宿主の体は館の中へと連れて行かれた。
/
「下ろしますよ?」
「……ええ」
ご主人様をベッドまで担いで来たのはいいのだけれど、どう見ても顔色が悪い。
それでも大丈夫だと言い張るので、メイドたる私にはこれ以上どうしようもなかった。
「お水を頂戴」
「は、はい。ただいま」
急いで調理室へと向かう。
顔面蒼白で、しかも血を吐くって一体、なんの病気なんだろう?
「あ、咲夜さん」
「こぁ?」
夕食の準備中なのか、返事をするだけで振り向こうとはしない咲夜さん。
よく見たら、手元でジャガイモの皮を剥いていた。
「あの、ちょっとお聞きしたいんですけど」
「ん?」
手を止めてこちらを振り向いてくれた。
その顔はいつもの頼り甲斐のある咲夜さんで、少し安堵した。
もしここで咲夜さんまで死にそうな顔をしていたら、心細さで泣いてしまいそうだったから。
私は経緯を説明し、どうしたらいいか判断を仰ぐことに。
すると咲夜さんは意外な答えをくれた。
「パチュリー様が大丈夫と仰ったのなら、大丈夫なんじゃないかしら」
「――え?」
聞き間違いかと思った。
何でそんなことを言うのかわからない。
だって顔は真っ青で、血も吐いたっていうのに……!
「で、でも!」
「今日はお出かけになられたみたいだし、本当に疲れからかもしれないしね。それに魔法使いには、色々とあるみたいだし」
笑顔で私の心配を封殺する。
咲夜さんは完璧メイドだからそんなことが言えるんだ。
私みたく心の弱い、ダメダメなメイドの気持ちなんてわからないんだ、きっと。
……とは言っても他に相談出来る人もいないので、仕方なく頼まれた水だけをコップに注いで、ご主人様の部屋へと戻ることにした。
本当ならお薬もお出ししたかったのだけれど。
「ご主人様?」
コップを片手に戻ってくると、ご主人様はベッドの上で眠ってしまっていた。
ゆさゆさと体を揺らしてみるも起きる様子は無い。
あれから十分も経っていないと思うのだけれど……。
心配になって顔を覗き込んでみたら、すやすやと安らかな寝息が聞こえてきた。
「ご主人様……」
ちょっと安心した。
まだ顔の血色は良くなっていないけれど、病気とかそういうモノではないみたいだ。
咲夜さんの言うとおり、疲れが溜まっているだけなのかもしれない。
それでも心配なものは心配で、一応脈診くらいはしようかと思い立った。
手にしているコップを近くのテーブルに置いて、ご主人様の腕を捲くる。
ええと確か、左手首のつけねを……。
「――――」
どく、どくとリズムカルに手に血液が通っている感触がする。
脈診なんて、咲夜さんにちょっと教えてもらった程度の知識しかない。
だから詳細を頭の中に叩き込んで、後で咲夜さんに教えてもらおう、と言う作戦だ。
本当なら咲夜さんをここまで連れてきたいのだけれど、さっきの会話の上、忙しそうだったから、仕方がない。
目を瞑って集中する。
教えてもらったことを思い出しながら、慎重に脈を診る。
素人の私に、精度なんて求められてはいない。
ただどのような“感じ”かを告げられればそれでいい。
確か脈には陽と陰の経路があるとか何とか。
物凄い経験を積んだ人だけが、適切な診断を下せると言う。
それこそ十年は診ないとモノにはならないと言っていた。
だから私には、概要だけ説明出来る様にと、咲夜さんは教えてくれたのだ。
あくまで緊急用のサブとして。
――血管からの応答を覚え、ご主人様の腕を下ろす。
「ふぅ」
正確な脈診は出来ていないが、不整脈になっているわけでも無さそうだし、ひとまず安心と言ったところか。
だから私はせめて、ご主人様が安眠出来る様に、帽子を取って布団を掛けさせよう。
そのまま放っていたら風邪を引いてしまうかもしれないし。
リボン付きの帽子を剥ぎ、衣服を整えて――――って、あれ?
「なんだろう」
服の乱れを整えていると、胸の辺りに何かあるのに気が付いた。
不思議に思って服を捲ってみると、そこに。
信じ難いモノが、あった。
「――――――な」
ソレのせいで息をするのも忘れた。
左乳房の真横、ちょうど胸の膨らみ始めの部分から下腹部に掛けて、びっしりと不規則に夥しい量の真っ赤な文字が――――。
「ど、どういう、」
思わず身を引いてしまった。
見間違いかと思い、見直すと、
「……あれ?」
文字は綺麗さっぱり消えていた。
そもそも、そんなものは初めから無かったとでも言うように。
「消えた?」
目を擦って再チャレンジするも、結果は同じだった。
赤い文字なんてどこにもなくて、そこにはご主人様の綺麗な白い肌しか無い。
呼吸も正常っぽいし、本当に何事も無かったよう。
「んー……」
目の錯覚かな?
疲れているのはご主人様じゃなくて、私の方かもしれない。
でも……確かに見えたのだけれど。
あの、どこかで見たような、不吉な、血のように赤い文字が。
それでも、何度確認しても何も無いのだから、本当に何も無いのだろう。
私は頭を掻きつつ、ご主人様に布団を被せた。
寝顔はとても穏やかで、こちらの心配や疑念が杞憂なのだと思わされるほどだ。
――やっぱり、さっきのはただの錯覚だったのだ。
そう結論付けて、私は退室することにした。
ここにいてはご主人様の安眠を妨害しかねない。
「それでは、失礼します」
ドアを閉め、その足で咲夜さんの下へと向かった。
/
「それなら精神的な過労ね、きっと。直に触診してないから、なんとも言えないけれど」
咲夜さんが私の見立てと同じ回答をしてくれたおかげで、肩から力が抜けた。
「大体、脈動がそれだけ盛んなら、まず大病ではないわね。沈の気も無いなら問題は無いわ」
「そ、そうですか。良かった……」
はぁ、と盛大に溜め息。
目の前で血を吐かれた時はどうしようかと思ったけれど。
今こうして冷静に振り返ってみると、血を吐いた、と言うよりは血が滴ってきた、って感じだったな。
胸を掴んだと思ったら、口の端から、こう、つーっと一筋零れてきたのだ。
喀血してたわけでもなかったし、早とちりと言われても仕方ない。
「でも少量とは言え、血が出たのなら、やはり安静にはさせるべきね」
「今はベッドで横になってます」
「それならいいけど。それにしても珍しいわね。誰に告げることなく外へ出て行かれると言うのは」
「私には一言ありましたけど。でも、行き先は言ってませんでした」
「ふぅん、そう。また研究対象でも思い立ったかしら」
困ったことに、魔法使いなる人種は、魔法の研究こそが生きる目的なのだ。
より高みを、より深みを求めて彷徨い続ける、最早生物ではなく概念とも言える思念体。
それこそが魔法使いだと、ご主人様はよく言っていた。
だから知識も経験も、全ては新しい魔法のため。
自分の快楽や欲求のために時間を割くことは稀。
ああいや、研究こそが欲求の最たるものだから、この表現はおかしいか。
とにかく、ご主人様たち魔法使いは、命の限り魔法を研究し、作り続ける。
だから何かしらヒントでも浮かべば即行動、即記録する。
どこどこに言ってくる、と言う挨拶をする暇があったら、一分一秒でも早くソレをしにいくのである。
今回もその例に倣って、何かを探しに行ったのかもしれない。
「まぁ、安静にしていればそのうち回復されるでしょう。……それにしても、お嬢様もなんだか様子がおかしいし、妹様も不機嫌だし。
何かあったのかしら?」
「あれ? そうなんですか?」
「心配するほどでもないと思うけれどね。いつもよりちょっとだけ気が立ってるみたい」
それは、メイドとして仕えてきた咲夜さんならではの勘なのかもしれない。
顔色や仕草一つで主人の状況が推測出来る咲夜さんは、やはり並大抵のメイドではない気がする。
「そうそう、今日はカレーにしようと思っているのだけれど。昨日も辛いものだったじゃない? 大丈夫かしら」
「あ、私は平気ですよ」
なんて言ってみる。
昨日の麻婆豆腐とか言う豆腐は、目からも火が出るかと思いました、はい。
でも咲夜さんが作るカレーなら大丈夫……だと思う。
「それでさっきジャガイモ剥いていたんですね」
「そうよ。でもパチュリー様も寝てしまったらしいし、貴方も辛いの苦手そうだから、何なら他のものも作ろうかと思っていたのだけれど」
「いえいえ、お気になさらず。咲夜さんの料理なら何でも頂きます!」
「ふふ、了解。もう大体仕込みも終わったし、今日の貴方の仕事は終わりね」
「あ、そうですか」
それなら自室に戻って、昨日の遅れを取り戻そう。
「じゃあ、今日はこの後、自由時間頂きますね」
「ええ。勉強、頑張ってね」
いつの間にご主人様、咲夜さんに魔法の勉強のこと話したんだろう?
そう不思議がっていると、
「ちゃんと寝ずに、ね」
なんとも恥ずかしいことに、爆睡した姿を見られていただけだったなんて……!
「ううぅ、了解ですよ……」
咲夜さんにも激励貰ったし、ご主人様からも期待されてるんだし。
これは本気で頑張らないと!
☆★☆
最初は目にゴミが入ったのかと思った。
ヒトの首辺りから生えている一本の赤く太い糸。
いつか見た本に載っていた海草のようにフニャフニャとしている。
何度も目を擦り、何度も瞬きをしてみたけれど、糸は無くならない。
だから直接目を洗ってみた。
けれど何の効果も無く、糸は見え続ける。
瞼を閉じれば見えなくなったけれど、また開くと見えてしまう。
一体コレはなんなのか?
好奇心から、ソレ――丁度傷口みたいな部分――に指を突っ込んでみた。
瞬間、それがゴミではないことに気が付いた。
「うぁ、あ、あああぁぁあああああああああああああ……ッ!?」
――――観得る。
――――観得てしまう。
――――観得てしまった。
激流とも言える時間の流れ。
その人の一から八十二の年月まで。
死ぬ間際の断末魔までが、リアリティに富んだまま映し出された。
イヤだ、と叫んでも止まらず。
もういい、と嘆いても進み続けた。
そうして八十二の全てを観切った瞬間、現実に引き戻された。
「ダイジョウブデスカ?」
うまく音が聞き取れなかった。
全身から冷や汗が噴き出て、カタカタとした顎が治まらなかった。
後から聞いた話では、私は五秒ほど呆然としいたらしい。
たったの五秒。
八十二年と言う月日が、たったの五秒?
そんな馬鹿な、と思ったが、それは本当のことで。
誰の糸に触れても同じ結果になった。
ただ、それは六十八であったり百二十一であったりと、実に様々ではあったが。
糸は人によって生えている場所が違い、ある人はお腹、ある人は足だった。
長さもまちまちで、極端に短い人もいれば長い人もいた。
そして自分の異能に気が付いた私は、次いであることに気が付いた。
またしても好奇心から、その糸に触れるのではなく、その糸を外側、もしくは内側から広げてみたらどうかと。
思い付きはすぐに実行に移した。
慎重に両端を持って、一気に引き上げる。
外も内も関係なく糸は広だった。
――結果は、無残なモノだった。
七十五の年月を辿るはずだったその男は、何故か翌日に死んでしまった。
思い返してみると、糸を弄くった後、その長さが短くなっていたような気が、した。
検証のために、今度は若い女に犠牲になってもらった。
結果は――当然のように同じだった。
平凡な四十九の年月を、平凡な終わりで締めくくるはずだった女の未来が、荒唐無稽もいいところに変わっていたのだ。
引き伸ばされた年月は十七。
平凡さは一切無くなり、二度の震災と、子供を失うと言う不幸が追加されていた。
そこまでして、私は自分の異能が何であるかに気がついたのだった。
「運命を……変える力?」
言った自分が馬鹿らしく思えたが、つまるところ、コレはそう言うことではないか。
操作、とは違うが、運命を見て弄れるのだ、当たらずも遠からずであろう。
けれど弄ったあとはどんな運命になるか、自分でも予測不可能だった。
もとより予測など出来るはずも無い運命の中身だ、文句を言える輩はどこにもいない。
この異能は、種族として完成度の高い私に、天が寄越したプレゼントに違いない。
愚かにもそう思い込んで、この時の私は舞い上がってしまっていた。
未熟な精神と、強すぎる好奇心。
それらが不幸を招くと言うことさえ知らなかった私は、生涯で一番悔い入ることになる、 ある事件を引き起こしてしまうこととなった。
私は幼さ故に、■■■の糸に触れてしまったのだ。
――――そうして私は。
観得た未来に、絶望した――――
☆★☆
ゴーン、ゴーンと鐘の音が湖畔に響いて、静まり返った闇夜に溶けていく。
ここ紅魔館の屋根には、真夜中の十二時にだけ鳴る、大きな鐘付き時計がある。
現在の指針はもちろん十二時。
人間たちは寝静まりかえり、吸血鬼たる紅魔館の主が活動を開始する時間だ。
「――――っ」
ぎし、とベッドの軋む音で、彼女の意識は完全に覚醒した。
虚ろだった思考が明確になり、全身に熱が廻っていく。
続いてむくりと起き上がったかと思いきや、寝起きの開口一番は、短い舌打ちだった。
「チッ」
不愉快さを前面に曝け出しながら、彼女は頭を掻いた。
たった今しがた見た、夢であり記憶である映像が、脳内にこびり付いて離れない。
あれは私が何歳の時だったかな――最早思い出せぬほど遠い過去の記憶。
出来れば一生思い出したくは無かった過去だったのだが、夢と言う形で現れてしまっては仕方あるまい。
睡眠中であるなしに関わらず、いくら生命体の種族として強靭な吸血鬼も、実体の無い相手には抵抗すら出来ないからだ。
故に彼女は不快なのである。
どうしようもない、ということほど、彼女を苛つかせる要素は無い。
五百年の歳月を生き抜いておきながら、まるで子供のような精神を併せ持つのが彼女――――レミリア・スカーレットだった。
「あー、気分悪い」
そのままベッドから身を翻し、レミリアは飲み物を求めて歩き始めた。
寝起きのせいで喉が渇いていたのも理由の一つだったが、今は酒でも飲んでこの不快さを取っ払いたかった。
昼間よりも光量が少なくなり、全体的に薄暗いせいか、更に深みがかる紅蓮の絨毯。
そこをレミリア・スカーレットは音も無く歩いていく。
彼女の闊歩が無音なら、紅魔館の廊下もまた無音だった。
まるでこの館にいる全ての生物たちが、じっと息を潜めて隠れているよう。
耳が痛くなるほどの静謐の中、彼女は慣れた様子で突き進んでいく。
どれくらい歩いたか、程なくして辿り着いたのは調理室だった。
大きな扉に生えている、小さな茸状の金のドアノブを捻り、中へと入っていく。
まず彼女を出迎えたのは、眩しいほどの光の渦だった。
咄嗟に目を細めると、霞む視界の向こう側から声がした。
「お嬢様?」
聞き取った声は間違えようも無い、従順なるメイドのモノだった。
時間からしていないはずの彼女が、どうしてこんなところにいるのか。
「咲夜か。まだ起きていたのかい」
「はい。今から見回りに行こうと思っていたところですわ」
「今日は遅くまでかかっているね」
「それなのですけれど。昼間のことなのですが、パチュリー様が血を吐かれたようで」
「血を……?」
どくん、と心臓が脈打ったのが解った。
そのせいか、ようやく目が光についてきはじめた。
知らぬ間に拳を作り上げ、見え始めたばかりの双眸でじっと咲夜の方を見つめる。
「はい。吐くと言うほどのモノでもなかったみたいですけれど。一応、見回りの前に脈だけでも診てこようと思いまして。
暫定的にはこぁがしてくれたのですが、やはり脈診は経験がモノを言いますので」
「……そうだねぇ。そうしておくれ。私も後で見に行くよ」
「はい。では」
一礼して調理室から出て行く咲夜の後姿を凝視しながら、レミリアは腕を組み思案しはじめた。
――血を吐いた、だって?
それはどう考えても、昨日見えた黒い運命線のせいではないのか?
まるで宿主を食い殺す寄生虫のように、無作法で禍々しい黒の侵入者。
枝分かれしているように見えた運命線はその実、枝分かれなどではなく、彼女の意中通りの現象だった。
絡み付くように現れていた線。
元よりあった線に同化しているのなら――そう考えるのが妥当であろう。
運命は一つの命に一本限り。
ならば二つ命があれば、二つの命があるのが道理である。
いくら魔法使いで捨虫の法を修得しているパチュリー・ノーレッジであっても、命は二つと無い。
まさか魔法で命を増やすなどとはしないはずだ。
不死身では無いにしろ、不老である彼女には永遠にも等しい時間があるのだから、命のストックを作っておく必要は無く、またそんな魔法は聞いたことも無かった。
外法と呼ばれる類のモノにはあるのかもしれないが、レミリアの知る親友にそんな悪趣味な趣向は断じて無い。
遍く魔法使いの望みは“魔法を研究すること”に尽きる。
それが叶うのなら、悪魔にでも命を売り渡すのが魔法使いと言う人種だが、ことパチュリー・ノーレッジに於いてそれは有り得ない。
いや、有り得ないはず、だ。
レミリア・スカーレットの知る限り、どんな理不尽な出来事があっても、紫の魔女は道を外れることは無い。
王道こそが二人の進むべき道だと理解し合っているからこそ、過去から現在まで友人関係を保ててきたのだから。
「しかしそうなると……」
東洋の諺が、西洋の怪物の脳裏に浮かんできた。
――そう、これはまるで。
「獅子身中の虫ってヤツか」
外部からの侵食による、運命の追加。
そう考えると全て辻褄があった。
運命線が黒いのには何か意味があるのか、初めて目にする彼女には知り得ない。
だがはっきりしていることがある。
それは、今この瞬間にも親友の身は蝕まれ、血を吐くほどに衰弱してきていること。
親友にさえ相談してこないほど切羽詰った状況、もしくは言えない何かがあること。
運命がソレに喰われていること――この三点だ。
昨日、運命のズレを感じて以来、楽観視がどれほど危険なのか、心胆から思い知った。
レミリアの目に映ったパチュリーの寿命は遥か先のことだったが、喰われているのなら話は別だ。
元々、運命と言うのは非常に変わりやすいモノ。
それこそ命自体が予測していた未来など、そいつが一歩違う道に乗り出すだけで変わってしまうものなのだ。
そう――レミリア・スカーレットの能力は、この命自体が記録している過去と、予測している未来を、単純に覗くモノだった。
命が、その全ての機能を使って世界からの情報を計算処理し、記録として肉体の一部に保存しているのが、あの赤い線なのである。
では何故計算しているのか。
それは、あらかじめ未来を計算しておくことで、円滑な生命維持を行えるようにしているからだ。
そもそも全ての生命は大原則として、“生き残ること”を第一として活動している。
計算通りに人体が動けば、計算通りの結果が得られるはずで、一番効率的に存命出来る軌道を作り出しているのがこの機能なのである。
運命線とレミリアが言っているあの糸のようなモノは、だからこそ常に変化し続けている。
故に揺らめいて見えるのだろう。
生れ落ちた瞬間に、死までの計算を緻密に行うが、大きな計算はこの一度きり。
後は世界と人体の双方の情報を拾い続け、細かな修正をし続けるだけ。
そこには本人の感情や周囲の環境も含まれる。
だからこそ、計算による運命は狂いやすいのだが。
しかし残念なことに、未来を計算し保存する機能部の一部はとてつもなく繊細だ。
このような優れた機能も、外部から強い力が加わると、あえなく壊れてしまう。
もちろん、物理的な衝撃など一切関係無い。
だが、レミリアのような異能持ちが一度糸を弄るだけで、機能部の中の計算部は壊れ、情報は大きく改竄され、出鱈目に修正された情報が行動に顕れる。
過去の情報とは既に起こってしまった事であり、それを変えることは不可能なため、対象者には何ら支障が現れることは無い。
そも、この機能部の中に保存されている“過去の情報”は、修正されることも無ければ上書きされることも無い。
一度保存されれば、二度と変わることは無く手も付けられない情報群――ブラックボックスと言うべきか。
未来を計算予測している部分には、そのような機能はついていない。
いや、常に情報を収集し続け、運命と言う名の、未来への活動軌道曲線を変え続ける場所であるのに、情報源が変えられぬ、では話にすらならないだろう。
つまり現在や過去ではなく、これから起こるであろう未来の事象についてのみ打撃となる。
彼女が運命を操作出来ると思っているのも、計算処理した情報を乱されるからこそ、命はその乱れた結果に基づいて行動しようとするからなのである。
何せ今まで命は、基本はこの情報を元に活動していたのだ。
壊れてしまっても、使い続けるしか道を知らない。
――結果、運命線を弄られたヒトは、運命が激変したのだと認知する。
彼女にそこまでのことが理解出来ているかは疑問だが、運命は変わりやすいものだということは彼女も把握していた。
だからこそ、積極的に運命線に接触しないようにしてきたのだが――いつの間にか、ただの傍観者に成り下がってしまっていたらしい。
腕を解き、喉を潤すためにここへやってきたことも忘れたのか、彼女は再び廊下へと出て行く。
胸に、ある決心を秘めて。
燃え盛るような紅い二つの瞳が、薄暗い廊下の何れかを見ていた。
/
――まるで蛞蝓だ、と思った。
輝かしい焦熱の魔力路を、自身の魔力で溶かしていく。
なんて地味で、なんてみすぼらしい行為。
貴族であったはずのワタシがこんなことをしているなんて、まさにお笑い種である。
それでも生き返りを果たすためには、どんな犠牲も払わなければ。
ワタシはまた生きて結社を取りまとめなければならないのだから。
しかし、五日でこの四肢を攻略出来ると思っていただけに、ショックも大きい。
心臓も圧迫することで潰せるのだが、結局のところ手に入れた状態と言うには程遠い。
神経の略取以外は、本当に亀の歩行速度並みである。
全身を抑えようとすると、最低でもあと二日は必要だ。
こんなことになるんだったら、まだ弱族とは言え、あのこぁとか言う小娘の方がマシだった。
腐っても悪魔の身なれば、使い方次第では強力な肉体になれるはずだ。
……まぁ、結果として魔法使いの体に入ってしまったのだから、これも運命と言うべきか。
同じ職種として復活出来るのなら、それに越したことは無い。
今は苦痛でしかないが、乗っ取った後は、この膨大な魔力がそっくりそのまま手に入るのだし。
そんな風に考え事をしながらノロノロと侵蝕を進めていると、コンコンと乾いた音が聞こえて来た。
誰だ、と一瞬緊張が走ったが、そう言えばワタシの存在はまだ知られていないはずで。
別に警戒する必要も無いことに気が付いた。
どうせメイドかなんかだろうし、宿主も熟睡していることだし、成り行きを見守ろう。
そう思った矢先、予想外かつ厄介な人物が扉の奥から現れた。
「やっぱ寝てるか」
現れたのは、コウモリの羽根が特徴的なシルエットを持つ、レミィとか言う女だった。
いや、女と言うよりは少女か。
見た目の幼さから察するに、まだ子供だろう。
だが容姿などにワタシは惑わされない。
コイツは危険だ――そう、自分の勘がざわついている。
「……まぁ、こっちのが都合がいいか」
何の都合か、レミィがこちらへとやってくる。
この部屋は宿主が寝ているせいで真っ暗だ。
相手の表情一つ読み取れない。
その事実がより一層、ワタシの警戒心を高める。
こちらまで近寄ってくると、どこの部位かまではわかりかねるが、ゴキ、と骨を鳴らした。
一体何をする気なのか。
まさか、このまま宿主を殺そうなんて思っていないよな……?
「すまないね、パチェ。これもお前の為だ」
影が更に近寄ってくる。
伸びてきたのは腕か。
黒で塗り潰されている視界では、何もわからない。
わからないが、迎撃することも叶わない現状では、事を見守るしかない。
「――――――っ、ぁ」
首筋に温もりが感じられた。
伸ばしてきた手で触れているのだろうか。
だが、秒にも満たない時間の後、何故か相手から短く婀娜っぽい声が聞こえてきた。
こちらは何をされるかとビクビクしていたのに、別段触れられていると言う感触以外は何も無い。
喉を縊り切られると思っていたのだが、そんな衝撃も圧力も何も無かった。
ただ撫でるわけでも爪を立てるわけでもなく、静かに触れているだけだ。
一体何がしたいのか。
疑問を浮かべた直後、首筋の温もりが離れた。
「ふぅ……」
溜め息を吐くレミィ。
――――意味が、解らない。
体はどこも異常無く、傷一つ付けられていないようだ。
相手の顔も見えない状況故に推測しか出来ないのがもどかしい。
レミィはそれ以上何も語らず、行わず。
そのまま暗い部屋を出て行った。
――なんだったんだ、今の。
宿主は触れられた事に気が付きもしないで、スヤスヤと眠っている。
神経が太いのか、疲れが溜まっているのか。
いっそのこと、このまま殺してやろうかと思えるほどに安らかに眠っている。
こっちは怯えながら、せっせと蛞蝓業をしているというのに。
でもまぁ、何もされなかったし、善しとしよう。
早いこと肉体を奪取しなければならないし、あんな得体の知れない輩のために時間を割くのは甚だ勿体無い。
ワタシは“寝る”と言う欲求さえ持てないまま、ただ魔力を浸潤させていった。
/
「――――はぁ」
真夜中も三時を廻り、静寂だけが世界に蔓延する中、蝋燭だけが存在を主張し続けている現在。
レミリア・スカーレットは、もう何度吐いたかわからない溜め息を、またしても吐いた。
椅子の肘掛に右肘をつき、目の焦点を定めようとすらせず、ただ溜め息を繰り返すのみ。
思い耽る時間が長いと、こんなにも神経は磨り減ってしまうものなのか。
彼女が決心を固めてパチュリー・ノーレッジの寝室へと足を運んでから、実に二時間近くが経とうとしていた。
その間中、ずっとこうして考え事をしていた。
これほど思考の海に深く長く浸かるのは初めてかもしれない。
生命の種として肉体的には他族を圧倒する吸血鬼のレミリアは、力にモノを言わせて難題を乗り切るタイプだった。
ここまで頭を使って乗り越えたことなど、今の今まで、一度足りとて無かった。
大抵の事はそれでどうにか成ったし、成らなければ使えない玩具と同じで棄てるだけ。
それを苦だと思ったことなど無かったし、むしろ一番楽で愉しい解決方法だと思っていたのだ。
しかしここにきて、それでは解決出来ない難題の壁にぶつかることになった。
いつもの彼女なら、飽きたと適当な理由でも付けて放っていただろう。
だが事ここに至り、それでは済まされない事態と遭遇することになってしまったのだ。
理由は、先ほど見た運命線にあった。
決心を固めて、彼女は永遠に触れないでおこうと決めていた親友の、赤い運命線を凝視した。
右側の首筋に現れているソレは、海草のように揺らめいてはおらず、代わりにビチビチと蠢いていた。
今まで百を超える運命線を見てきたレミリアだったが、ここまで――まるでナニかの幼虫のように――動き回る線を見たのは初めてだった。
そして親友のソレに粘着する、一つの黒い影を見つめる。
ぞく、と背筋に冷たいモノが流れた。
だが後には退けない。
もし退いてしまったら、永遠にこの友人を失ってしまうかもしれない。
そんな危惧を抱きながら彼女は手を伸ばす。
なるべく赤い線には触れないよう、ゆっくりと慎重に、黒い線へと手を持っていく。
――――そして黒い線に触れた瞬間、世界が反転した。
黒い線の正体が明確に観得る。
貴族の出、修道院での日々、賢人との出会いによる魔術の修得により古の知に触れエルサレムを巡礼し膨大な知識を手中に収めた。
だが智慧者としての責務を果たそうとしたオレに待っていたのは失望と絶望に塗れた国家、いや国家の柱たる人物たち、ああいや柱ですらない穢れた私欲を肥やすためだけのブタだ。
同志を集めてのサンクティ・スピリトゥスも一代限りの活動でならぬように細心の注意を払い結社を打ちたて弟子たちも隠匿しだが活動は貧困即ち飢えと病にて朽ち行く最下層民も関係無く行い、百年の月日に耐え切ったオレももう駄目だと百六年の歳月にて死した。
しかしオレは死なない、何故ならオレは■■であり死ぬなんて有り得ない。
■■がある限りオレは不死身だ、何度でも蘇る。
だってオレは久遠に続くであろう秘密結社を興したChristian Rosenkreutzなのだから!
観得た運命に戦慄した。
ソイツの正体を知るや否や、レミリアは即座にその場から離脱した。
パチュリーは眠ったまま起きていない。
その事実と、親友の未来まで覗かなくて済んだことに安堵しつつ、寝室を後にした。
そうして今に至る。
「――――ふぅ」
何度思い返しても気味の悪い内容だった。
どうやらパチュリー・ノーレッジに憑いていたのは、クリスチャン・ローゼンクロイツなる人物らしい。
だが何故今更その怨霊が親友の体に寄生しているのか。
もう五百年も以前に終わったはずの運命が、どうしてここで再燃しているのか。
その疑念に対し、彼女なりに出した結論が、
「魔道書しかない、か」
溜め息ではない、明確な言霊を乗せてレミリアは言葉を搾り出した。
心当たりがあるとすれば、その一点のみ。
パチュリー・ノーレッジはありとあらゆる書物を読み漁っており、自身も魔道書の執筆を行っている。
レミリアも彼女から何度か聞いていた事柄があった。
『魔道書は、その書いた人の魔力が籠められているわ。それも人を殺しかねないほどの、ね。それを知らずに迂闊にその紐を解いてしまうと、張り巡らされた罠にやられてしまうの。
だから魔道書は慎重に取り扱わないと』
現時点で考えられるとしたら、魔法使いの、この説明が一番しっくりくる。
まさかこの紅魔館に死霊が彷徨っているなど考えられないし、本の愛読家たる彼女が陥る危機なんて、書物から何かが飛び出してきて寄生されたとしか考えられない。
寄生、と言う考え方も、パチュリーが何も言ってこないことに加え、運命線を見る限りそう判断せざるを得ないのである。
本当なら寄生ではなく、同化と考えるのが筋なのだろうが、あんなドス黒いモノが親友と同一など、考えたくも無かったのだ。
「仕方ないねぇ」
よっこらせ、と年寄りくさい台詞を口にしながら、レミリアは椅子から降りた。
原因は大体掴めた。
後はこの事態をどう収拾つけるかである。
魔道書には明るくないレミリアではあるが、直感だけなら子供並みに鋭い。
その直感が、脳内に解決策を告げている。
「しっかし、パチェも耄碌したかねぇ。魔道書如きにやられるなんて」
確かに、それはそうだった。
数多の魔道書を攻略し、書き記してきたパチュリー・ノーレッジが魔道書の罠にかかるとは。
些か信じがたい事ではある。
軽口を叩きながら、彼女はある場所へと向かい始めた。
顔には苦笑いをくっ付けながら。
/
「フラン、入るよ」
開け放たれる扉。
人間にとっては重厚なる木製の大扉も、吸血鬼のレミリアにとっては、重さなど無いに等しい。
彼女の感覚としては、例えるならベニヤ板である。
開けるのに力などまるで必要無い。
「あ、お姉様」
おどけた口調と可愛らしい声は、目の前にいる少女のものだ。
ベッドの上に乗っかり、なにやら本を広げている。
「どうしたの? 珍しいね?」
「ああ、珍しいね。ちょっとフラン、貴方に聞きたいことがあってね」
なあに、とそのレミリアと同じ赤い瞳をこちらに向ける少女。
フランと呼ばれた彼女は、レミリア・スカーレットの妹であるフランドール・スカーレットだ。
姉のレミリアと同じく吸血鬼で、宝石のような七色に光る翼を背に生やしている。
薄い黄色の短髪のせいか、背丈等は姉と同様であるのに、若干幼く見えてしまう。
だが、齢は五百年相当であり、決して幼いわけではない。
まぁそれも人間での視点から見た場合の話で、吸血鬼としてはまだ成熟には程遠いだけなのかもしれないが。
「おや、これはまた珍しいね。フランがこんなものを読むなんて」
妹の元へと近寄っていったレミリアが目にしたのは、キノコに関しての本だった。
誰が書いたものなのか、一つ一つ細かい説明を付けつつイラストを書いてある。
文体が主の本と言うよりは、図鑑に近いか。
どちらにせよ、長いこと幽閉まがいの生活を送っていた妹が、まさかキノコなどに興味を持つなど、レミリアは考えもしなかった。
「あのね、魔理沙がね、キノコは爆発するって言うから、わたしも爆発させたいなぁと思って」
「……相変わらず頭の中は春なわけだ、あの白黒め」
「どうしたの? そんな顔して」
「ああ、なんでもないよ。――っと、そんなことはどうでもいい。それよりフラン、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
レミリアがフランドールの隣に腰を下ろす。
きしりとベッドが小さく鳴いた。
フランドールは不思議そうな顔をしながら首を傾げる。
穢れを知らないようなその大きな瞳に、姉であるレミリアは酷く冷たい瞳を向けた。
そうして、
「まだ“力”は使えるね?」
小さな耳朶に響かせるように、か細くも力強く囁いた。
「――――――」
びたりと静止する吸血鬼の片割れ。
気高さを主張するような姉と、無邪気さを主張するような妹。
お互いの双眸を覗き合うように、見つめ合ったまま、動かない。
一体どれほどこの時間が続くのだろうか――そんな不安さを煽り立てるような張り詰めた空気が、ある。
しかし膠着状態は、それほど続かなかった。
先に肩の力を抜いたのはフランドールの方だった。
んー、と考えるような仕草をして、答えを口にする。
「最近は使ってないけど、たぶん大丈夫だと思う」
「……そう」
妹の返事に安堵の息を漏らしたレミリア。
一体何を目論んでそんな質問をしたのか。
「ならいい。もしかしたら、その力を使わせて欲しいとお願いするかもしれない」
「お願い?」
「そう。ちょいとばかり厄介なコトになってね。詳しいことはまた明日話すけど」
下ろしたばかりの腰を浮かせ、レミリアは自嘲気味な笑顔を浮かべた。
「――ま、たぶんお願いする羽目になるだろうから、心の準備だけはしておいて頂戴」
「でも、お姉様がこの力は使うなって……」
「特例だ。と言うよりは、フラン、お前じゃないと駄目なんだよ」
姉の言っている意味はわからなかったが、フランドールは“頼られている”と感じ、少し胸が温かくなった。
姉妹として生を受け、紅魔館で過ごした大半の日々は、フランドールの軟禁で終始していた。
フランドールはフランドールで外の世界には興味が無かったし、何より能力を危険視されて地下に閉じ込められたせいもあり、姉妹間の会話など久しく無かったに等しい。
レミリアが引き起こした異変を契機に、霧雨魔理沙や博麗霊夢と接触していけばいくほど、フランドールに情と言うモノが芽生え始めた。
最近は特に霧雨魔理沙に興味を持ったらしい。
おかげで変な知識ばかりがついていってしまうが、それでもギクシャクした姉妹でいるよりは、よっぽど良かった。
レミリアもフランドールも、お互いに自己の表現が下手なだけで、その中身は年頃の子女となんら変わりは無いのが実情だった。
「そういうわけで、私は戻るよ。あまり無理はするなよ?」
「う、うん。よくわかんないけど、お姉様も無理しないでね」
ああ、と短く返事をして、レミリアは妹と別れた。
姉の背を見つめるフランドールは結局のところ、姉が何を目論んでいるのか、微塵もわからないままだった。
☆★☆
魔力を全身に行き渡らせるコツは、呼吸方法とイメージにある。
大きく息を吸い込み、大気に満ちるマナを体内に取り入れる。
体内には血管と同じような管があるとイメージする。
取り入れたマナをその管に通していき、全てが満ちるまで何十と繰り返す。
そうして全てに行き渡ったと感じたら、今度はそのマナを体内の魔力――オドへと変換するために、自身の魔力と練り合わせるよう、イメージする。
あくまでこれらの作業は全てイメージだ。
故に多大な集中力が必要になってくる。
少しでもイメージがズレれば、それだけで無意味なただの呼吸へと成り下がってしまう。
即ち自己との戦い、マナをオドへと変換する修練こそ、基礎中の基礎にして、最初の難関の一つである。
魔力を全身に行き渡らせ、常に保持し続けることが出来るようになれば、ようやく魔法使いとしての素質を認められるだろう。
――幸い、私は悪魔と言う種族の関係で、人間よりは魔力の初期値が大きい。
人間の中には、ほぼゼロであるにも関わらず魔法使いとして大成した人物もいたのだとか。
まぁ何が言いたいのかといえば、初期の魔力の多さなんて関係無いってこと。
ただスタートがほんの少し早くなるだけ。
言い換えれば、スタートは人間よりも早いはずなんだから、こんなことくらいすぐに出来なきゃ駄目だよねってことだ。
しかし駄目メイドの称号は伊達ではない。
「うう……」
集中力はもとより、もう疲れてヘロヘロ。
ぱったりと背から倒れ込む。
全身は汗まみれで、ちょっと気持ち悪い。
「はぁ……」
もう時計を見る元気も無い。
何時間もこうして魔力を全身へと巡らせる作業をしていたからか、疲労はピークに達しているし、体中熱くて仕方が無い。
この本に書いてある通りのことをすると、何故だか体中がかっかとほてり続けてくれるのである。
もとより魔力と言うのはそういうモノなのかもしれない。
魔力は術者の生命力そのものだと書いてあったし、それなら熱くなるのも頷けるというもの。
生きてるから体温っていうのがあるんだしね。
私が未熟だからこんな事態に陥るのかもしれないけれど。
呼吸を整えて、腕で汗を拭う。
まるで真夏の炎天下にて長距離走でもやったかのようだ。
汗が滲んでくる、と言うより噴き出てくる。
……それでも。
着実と魔力が向上している手応えが感じられる。
これだけの達成感、充実感を感じるのは初めてかもしれない。
もっとも、ご主人様たち本物の魔法使いから見れば、私の魔力量なんて道端の石ころと同じようなモノなんだろうけど。
一体どんな世界なのかなぁ、あれだけの魔法を使えるって。
楽しいのかな?
「うーん」
倒れたまま伸びをしてみる。
この筋肉が伸びていく感じ……開放感と言うか、とにかくたまらない。
それにしても、疲れちゃったなぁ。
こうして天井を仰いでいると、体中の熱量がどんどんあそこへ吸われていっているみたいだ。
蒸気が出ているわけでもないけれど、ふとそんな詩人のような考えが頭を過ぎった。
どうやら本格的に疲れているらしい。
慣れない事をすると、いつもと違った自分に出会えるようだ。
「疲れたなぁ」
――ゆっくりと冷えていく体温と、重くなっていく四肢。
どれくらいこうして天井を見つめていただろうか。
次第に瞼も重くなってきてしまった。
疲れのせいか抵抗はとてつもなく困難である。
多分まだ夜中だろうから、このまま眠って――――
「何をやってるんだ、お前は」
「ひぃっ!?」
脊髄反射で飛び起きてしまった。
威厳を伴った、聞き慣れた声。
声をかけてきたのは、まさかのお嬢様だった。
「あ、えっと、あれ?」
「寝ぼけるのかい? もうじき夜明けだって言うのに」
「――――え」
それは意外だった。
まだ真夜中まっしぐらで、朝までは時間がたっぷりあると思っていたのに。
どうやら時間の感覚も全くと言っていいほど無くなっていたらしい。
今度から時計を目の前に用意してから修練を行うようにしよう。
ただでさえ私は本を読むのさえのめり込むタイプなのだし、時間管理は至上命題だ。
下手をしたら本職のメイド業に支障が出てしまう。
ご主人様にも魔法の勉強、頑張れと激励されたけど、だからと言って本業を疎かにして良いなんて一言も言っていない。
私は力の入らない足腰に鞭を入れて立ち上がった。
「す、すみません。全然気にしてなくて……」
「いや、別に睡眠時間は個人の自由だから私はとやかく言わないけどさ。眠くならないのかい?」
「えっと……まぁ、そんなところです」
本当は疲労困憊で今にも寝そうです。
でもそんなことは言わない。
口が裂けても言わない。
……だって怖いし。
「それで、何の御用でしたか?」
もうすぐでお嬢様の睡眠時間が訪れると言うのに、何でこんなところで油を売っているのか。
早く自室に帰っていただきたい気持ちでいっぱいになりながら、とりあえずお伺いを立ててみる。
すると意外な返事が返ってきてしまった。
「ストレートに聞くけれど。最近、パチェの周辺で変わった事は無かったかい?」
返事と言うよりは質問か。
質問を質問で返された形。
そしてその問いは、どこか私の心を揺さ振るモノだった。
「変わった、こと」
呟いて、ある事が脳裏に浮かんだ。
――――不吉な、血のように赤い文字。
記されていたダレかの名前。
でも、それがご主人様と何の関係があるのかはわからない。
ただの本だったし、名前以外何も書かれてなかった。
むしろ、そう言うオカルトらしき本は他にも沢山ある。
もっとおどろおどろしいものも多々あるし。
そう考えると、別にアレが“変わったこと”に括られるとは考えにくい。
そもそも本だから行動ですら無いし。
脈診の時、体に真っ赤な文字が浮かび上がっていたのも見間違いっぽかったし。
なので私は、
「特に無かったと思います。あ、でも――実は、ご主人様が血を吐いて、」
「ああ、それなら咲夜から聞いたよ。しかしそうなると、一体何が原因なのかわかりゃしないねぇ……」
深い溜め息がお嬢様の口から漏れた。
紅い瞳は憂いを帯びていて、どこか悲しげだ。
私に何かしら期待していたのか。
そんな顔をされると、一生懸命絞り出さなきゃいけないと思ってしまう。
でも、無いものは無い。
非常に残念ではあるのだけれど、ご主人様はいつも通りで、別段いつもと変わりようが無い。
血を吐いた時はびっくりしたけれど、他には何も無い。
無い――――はずだ。
「まぁそれならそれで、直球勝負だ。すまなかったね、変なことを聞いて」
「は、はい。でも、どうしてそんなことをお聞きに?」
「込み入った事情があってね。それじゃあ私はこれで失礼するよ。もう寝ないとね」
「あ、はい。お休みなさいませ、お嬢様」
返事も無く、とぼとぼと部屋から出て行くお嬢様。
あんなに疲れた様相をするお嬢様を見たのは初めてかもしれない。
突然ご主人様のことを聞いてくる辺り、何かあったのか。
聞いてみたかったけれど、もう扉は閉められてしまって、お嬢様の姿も見えない。
「何だったのかな……?」
釈然としないまま、私は取り残されたように立ち尽くすことしか出来なかった。
☆★☆
目が覚めると、目の前には天井があった。
「ん……?」
高すぎる天井、暖かな温もり。
周りを見渡すと、誰もいない上に、自分は寝かされていたと言う事実に気がついた。
どうやら私は自室まで連れてこられ、そのまま眠ってしまっていたらしい。
記憶が曖昧だけれど、ちゃんと帽子も脱がされ布団まで掛けられている。
確かこぁと何かしら話していた気がするのだが、霞がかって思い出せない。
ぼーっとする頭を抱えながら、とりあえず体を起こしてみた。
「う……ん……」
静かな部屋。
窓からは日光が射しこんで来ており、清々しさを感じさせてくれる。
鳥の鳴き声が聞こえないのが些か残念ではあるが、いつもは無音かつ深淵の闇しかない図書館で朝を迎えていたので、贅沢は言わない。
この淡い陽の光だけでも心が和む。
私は本が好きだけれど、だからと言って人並みに自然も愛しているのだ。
よく周りは私のことを淡白で温かみに欠ける魔法使いの女だと思っているけれど、きっとそんなことはないと思う。
それに精霊魔法を使っている時点でそうあるべきだ。
精霊とは自然界の生き写しである。
彼らと自然は同義語であり、彼らの力を借りるということは即ち、自然の力を借りていると言うことだ。
精霊魔法を使う人間が自然を蔑むなど、有ってはならないし有り得ない。
自然を蔑む輩に、自然が力を貸し与えることなど皆無である。
奪い取る、というなら話は別だが、その場合、魔法の威力は半分以下になるだろう。
それでも搾取し続ける人物もいるけれど、魔法使いにとって魔法とは完全でなければ意味が無い。
完成度の半減した魔法なぞ、玩具箱で眠る玩具以下である。
何の足しにも足りえない。
故に魔法使いたる人種が自然と反目する存在になるのは有り得ないことなのだ。
大気に満ちるマナだって元は自然界のものであるし。
マナが無ければ大魔法は組めない。
自身について考察していたら、すっかり頭が冴えていることに気がついた。
無駄なことを濛々と考えているくらいなら、さっさと起きて読書でもしている方がまだ生産的で良い。
ベッドから降りて上履きを履こうとした、まさにその時、
「おや、起きていたかい」
親友の声が耳に届いた。
「レミィ?」
「いかにも。もう出歩いて大丈夫なのかい?」
「――迷惑をかけたみたいね。もう大丈夫よ」
どうやらこぁが、私が血を吐いたことを話したようだ。
あの娘のことだ、きっと動転してあちこちに駆け回ったのだろう。
想像するだけで笑みが漏れてしまう。
「随分と血色も良くなったみたいだ」
「失礼ね、元々良いわよ」
「喘息持ちが良く言うよ」
クスクスと押し殺したような笑い方をするレミィ。
何故かドアノブに手をかけたまま、中へ入ってこようとしない。
どうしたのか、と声をかけると、彼女の後ろから意外な人物が姿を現した。
「フランドール……」
「こ、こんにちは」
これは驚いた。
まさかあのフランドールがここに来るなんて。
短めの金髪を揺らしながら、おずおずと前へと出てくる。
そうして私と目が合った。
「――――う」
咄嗟に口元を押さえるフランドール。
急に吐き気でも催したのか、顔色は真っ青だ。
「フラン、どうした」
「大丈夫?」
「う――うぅ……」
膝から崩れ落ちたフランを両手で支えるレミィ。
一体何事かと傍へ寄ろうとした時、彼女は目に力を込めつつこう言った。
「コイツは大丈夫だから、パチェ。そこから動かないでおくれ」
「――――え?」
それは予想外の台詞だった。
この状況自体が既に予想の範疇をとっくに飛び越えているのだが、その一言はまさに虚をつかれたと言っても過言ではない。
冷水を被せられたような、とはまさにこのことだ。
今までに感じたことの無い、言い表せないような感情が、私の背を奔っていった。
「ちょっとすまないね、席を外すよ。ほらフラン、立てるね?」
「……うん」
よし、と頬を緩ませながら部屋から出て行くレミィとフラン。
こうして背中の様子を見ていると、普段は全く異なって見える姉妹も、どこか似たような雰囲気を醸し出しているように見える。
閉じられる扉。
姿の見えなくなった二人。
私は得体の知れない気分になりつつも、溜め息をついて立ち上がった。
――――さぁ、今日も限りある時間を生きよう。
/
「大丈夫かい?」
延々と続く紅い廊下の最中、レミリアは一度足を止めて実妹の様子を窺った。
血の気の引いた青白い顔に微震する全身。
よほど怖い思いをしたのか――レミリアは苦々しく顔を歪める。
姉のそんな横顔を見て、フランドールは実姉の手に触れ、弱々しくもはっきりとした口調で言った。
「わたしは大丈夫だから……」
明らかにそんな状態には見えなかったが、本人が大丈夫と言うのに肩を貸すのもまた変か、とレミリアは体を離した。
代わりに優しい言葉を並べよう、と考えた。
フランドールには精神的に弱い部分があるのをレミリアは熟知している。
それはフランドールを地下へ閉じ込めていた理由の一端でもあった。
博麗霊夢と霧雨魔理沙の一件以来、病んでいた精神も健全へと向かい始めてはいるが、些細なきっかけで元に戻る恐れもある。
なるたけ刺激しないようにと考えを張り巡らせていると、妹が先に声を出した。
「あんなにたくさん見えたのは初めて……」
「たくさん?」
妹の台詞に引っかかりを覚えたレミリア。
フランドール・スカーレットには“ありとあらゆるものを破壊する”能力がある。
破壊する、と言っても腕力で解決するわけではない。
彼女の能力はもっと恐ろしいモノである。
いかなる物質にも、最も緊張している“目”と呼ばれる部分がある。
そしてその目に力を加えると、物質が破壊される――いや、崩壊すると言った方が正しいか。
フランドールにはこの“目”を見、移動させる事が出来た。
まことに恐ろしいことではあるが、レミリアはこの能力を活かして親友のパチュリー・ノーレッジを助けようとしていたのである。
だからこそ、フランドールの口から漏れた台詞に引っかかりを覚えたのだ。
レミリアの能力では対象の運命が見える。
言ってしまえば、その者の“未来”が見えるということだ。
対してフランドールの能力では対象の崩壊点が見える。
即ち物質の“死”が見えるということ。
能力は違えど、姉妹の能力の根本にあるモノ――それは“命”である。
どちらも“命”に係わり合いを持っている。
そして命と言うのは一つしかない。
その大前提から逆行すれば、レミリアの違和感が見えてくる。
フランドールはあんなにたくさん見えたのは初めて、と語った。
たくさん見える……つまり“死”が跋扈していたのだ。
一生命体に命は一つきり、一固体に器は一つだけだ。
死がそれだけ見えるということは、それだけの命があるということに他ならない。
それが引っかかりの正体だった。
「どういうことだ?」
「わかんない……。でも、確かに見えたんだよ? 本当だよ?」
「疑っているわけじゃないよ。ただ、わからないだけさ」
「わたしにもわかんないけど、でも、あんなにびっしりとあちこちに見えたのなんて、初めて……」
しきりに焦点を移しながら、フランドールは首を横に振る。
相当憔悴しているようだ。
姉のレミリアは、済まないことをした、と妹の肩を叩いて労いの言葉をかけた。
「すまなかったね、変なことを頼んで」
「ううん。でもなんでパチェ、あんなことになってるの? 何かあったんじゃ……」
「私にもまだわからない。――後のことは私に任せて、部屋に戻りなさい。今のことは他言無用だよ」
わかった、と頷いて、フランドールは小さな体躯を揺らしながら足早に去っていった。
/
「咲夜、お前はどう思う?」
レミリアは呟くように言うと、透明のグラスを持ち上げた。
中身は人間の血で創られたワインである。
吸血鬼たる彼女の好物の一つだった。
テーブルを挟んで向かい側に、銀髪の少女が座っている。
少女と言うには歳をとりすぎている感じがあるが、かと言って熟女と言うにはまだ早い。
西洋メイドの格好をし、表情を崩さない咲夜と呼ばれた少女が、その赤い瞳を主人に向けた。
「私からは何も。ですが確かに、奇妙ですね」
だろう、と同意を求めつつ、レミリアはワインを喉に流し込んだ。
味はいつも通り格別である。
咲夜――十六夜咲夜はレミリア・スカーレットに仕えるメイドだった。
一体いつ、どうして人間である彼女が吸血鬼などのメイドになったかは不明であるが、忠誠を誓う姿からは無理やりやらされている、という印象は受けない。
そしてこの十六夜咲夜にも、他人には無い異能を持っていた。
それが“時間を操る”能力である。
彼女の能力は対人に使われることは稀であり、日々の中で、特に酒造りに活かされている。
熟成の速度も時間も思いのままに出来る咲夜。
そんな彼女が作る酒が不味いわけもなく、レミリアが口にするのはいつも極上の酒なのだった。
「私に観得た運命線は一本だけ。それに正体も割れた。だと言うのに、一体何故フランドールには多量の“目”が見えたのか。さっぱりわからないよ」
言い切るともう一杯呷る。
いくら飲んでも酔いが回らないのか、もう何杯目になるか解らないワインを、ボトルを傾けグラスを満たしていく。
正面にて背を伸ばしたまま座っている咲夜は、眉を寄せ合い困った様相だった。
主人が酒ばかり口に運ぶことへの懸念か、その主人の親友に降りかかっている異変について思案しているのか。
どちらにせよ、小さな唇を固く結んだままじっとしている。
「そもそもクリスチャン・ローゼンクロイツなんて人物は存在しないはずじゃなかったのか……」
「クリスチャン・ローゼンクロイツ、ですか?」
咲夜が赤い瞳を大きく見開いた。
「おや、知ってるのかい?」
「それなりには。確か薔薇十字団の始祖、でしたよね?」
「ああ、そうだよ。“賞讃すべき薔薇十字友愛団の名声”と言う声明文書が、いつだったか出てきてね。ドイツ貴族の息子の話しなんだが、結局はヨハンとか言う輩の一人芝居だった、って言われてるねぇ」
「伝説の魔術師と窺っておりますわ」
「本当にただの伝説さ。それよりも、どうしてそんな輩とパチェが関係するかがわからない。おそらく何かしらの魔道書のせいだとは思うんだけど、何も出てこないんじゃお手上げさ」
はぁ、とわざとらしく大きな溜め息をつく主人に、咲夜は意味深な笑いを漏らした。
何がおかしいのか、とレミリアが問うと、
「魔道書のせいだと仰るのなら、私はピンと来るものがありましたわ」
「何?」
「だからパチュリー様の異変について、ですよ」
「どういうことだ? 魔道書とクリスチャン・ローゼンクロイツに何か関係があるのか?」
まるで食いつくように質問攻めをしてくる主人を、不謹慎にも可愛いと思ってしまう咲夜。
見た目だけなら親娘のような構図である。
咲夜が親ならば、娘のレミリアのことを可愛いと思っても可笑しくはあるまい。
そう脳内で見たてをして、咲夜はもう一度笑いを噛み殺した。
「お嬢様、物事というのは思いのほか単純に出来ているものですわ」
「だからどうだって? もったいぶっていないで話せ」
ぎろりと主人に睨まれては、従者はたまらない。
戯言はここまでか、と咲夜は少し残念そうに顔を歪めると、咳払いを一つして語り始めた。
「まずお嬢様の言うように、恐らくパチュリー様は何かしらの魔道書の厄介事に巻き込まれたと思われます。しかもお嬢様や他の者に他言出来ないような事態であり、それ故に誰にも相談出来ずにいるのでしょう。
こぁに魔法を教え始めたところから察するに、死期を感じさせます」
「こぁに魔法? それに死期だと?」
「左様ですわ。魔法使いと言うのは、秘密主義ではあるものの、身内にはとても強い絆を持っています。特に後継者に関しては徹底していると。
今まで魔法を教えようともしなかったパチュリー様がこぁに魔法を教え始めた。これはつまり、パチュリー様はこぁを後継者に、と考えておられるのではないでしょうか?」
咲夜の言い分に、それは有りえるな、と相槌を打つレミリア。
だが瞳は早く次を言えと促しているように鋭い。
主人の些細な変化も見逃さないメイドである咲夜は当然その視線に気がつき、一呼吸置いてすぐ続きを話し始めた。
「問題の魔道書ですが。お嬢様が見たのは“クリスチャン・ローゼンクロイツ”に関することでしたわね? それなら魔道書の中身はクリスチャン・ローゼンクロイツに関係のあるものだとは思いませんか」
「そりゃあそうだろう。じゃなかったら、どうやって――――」
「まさにそこですわ、お嬢様。恐らくパチュリー様は“賞讃すべき薔薇十字友愛団の名声”を手にしたんですわ」
「まさか……」
「“賞讃すべき薔薇十字友愛団の名声”自体が魔道書である可能性が無いわけでは無いのではないでしょうか?」
「……ふむ」
レミリアは咲夜の推測を前に、唸らずにはいられなかったようだ。
いつの間にか顎に指を立てて深く考え込んでしまっていた。
確かに、と何度も心の中で頷いた結果の表れだった。
これは彼女の癖の一つである。
納得や考察を深いレベルまで行う際に出る癖だ。
「もしかしたら“賞讃すべき薔薇十字友愛団の名声”は何の関係も無いかもしれませんが、それでもクリスチャン・ローゼンクロイツに関わる書物が魔道書だった、と言う推測に誤りは無いはずですわ」
「かもしれないね。じゃあ複数の死に関しては? まさか何冊も手にしたから、なんて言わないだろうね」
レミリアから質された咲夜は、唇を舐めた。
本当なら真剣な表情で応酬しなければならない立場ではあるが、レミリアの反応を見ていると、どうしても小悪魔な顔つきになってしまうのだった。
「お嬢様、そもそも本と言うのは何で出来ているモノでしょうか?」
「何って、それは、」
考える仕草をしかけて、レミリアははっとした。
ようやく解答に至れたらしい。
面を上げた吸血鬼の前には、満面の笑みを浮かべるメイドの顔があった。
/
この館は何かがおかしいと、ようやく理解した。
どうやらワタシは時間を掛けすぎてしまったらしい。
だからと言って諦めるなんてことはしないが。
「この状況が仇になったわね」
くすり、と勝ち誇った声が聞こえてきた。
この多量の本が散乱する図書館の中には現在、ワタシと宿主しかいない。
つまり宿主がワタシを嘲笑ったのだ。
寄生なんてしなければ良かったのに、と。
「貴方は私を殺せない。だって私が死んでしまったら貴方も死んでしまうから。いいえ、貴方ならどうにか出来るかもしれないけれど、そんな保障はどこにも無い。――でしょう?」
なんて苛つく声だ。
これが未来、ワタシの声になるだなんて。
今すぐにでも心臓を力一杯締め付けてやりたいが、この素体はどうやらあまり丈夫ではなさそうなので、ぐっと堪える。
残念ながら、今のワタシに出来ることはこれくらいだった。
宿主の言うとおり、ワタシには彼女を殺すことが出来ない。
命綱を握ってはいるものの、それはワタシの命ではなく、宿主のモノだ。
魔道書から解き放たれたのも初めてなら、こうして寄生するのも初めてである。
素体が死んでもワタシが生きて出られる保障は何一つ無く、逆にワタシも彼女の心臓が止まれば死ぬのではないか、と危惧している。
それを確認する方法も無ければ試すことも出来ない。
八方塞、とはこのことか。
この状況に於いて余裕が無いのは向こうも同じはずだが、どうやらそれはワタシの思い違いだったようだ。
ワタシと宿主の違い――――それは仲間の有無、だ。
「他の人物はどうして現れなかったのかしらね。三人寄れば文殊の智慧、って東洋では言うみたいだけれど。
――ああ、そうか。貴方は東洋人ではなく、西洋人だったわね」
どうでも良いことを大袈裟に取り上げ、わざとこちらの機嫌を損ねようとしているのか、わざとなんだろうな。
嘲りにも近い言葉尻で話しかけてくる。
これ以上無い鬱陶しさである。
宿主の体の中は、ご覧の通り虫食い状態だ。
無論ワタシがここまで侵蝕したからなのだが。
あれだけ眩しく輝いていた魔力路も、大部分が黒ずんでいる。
あと二割弱でこの身体はワタシのモノになる――はずだったのだけれど。
「残念ね、時間切れよ。それとも何、一緒に死んでみる?」
傍から見れば独り言をブツブツと言っている危ない女にしか見えないだろうが、ここは誰も通らない、秘境にも似た場所だ。
こうして会話(?)をしていても、指摘する人はおろか猫一匹いない。
隠れ潜むには絶好の場所と言えるだろう。
だから宿主は遠慮なんてせず、こうして堂々とワタシと出来るはずも無い“会話”をしている。
「私の方はいつでも構わない。こぁには指導書を渡したし、アリスには魔道書を渡した。私が死んでも意思の継続は行われる。私が果たせなかった魔法の探求は、どちらかがやり遂げてくれるでしょう。
最も、それを見届けることは叶わないでしょうけれど」
それはそうだ。
死ねばそこでお終い。
来世なんてモノは当然のように無くて、魂なんてモノも、例えあったとしても意思など持ってはいまい。
残した種火も、どうなっていくかは全く解らないし見えないのである。
それこそが死。
生無きワタシが得た、奇跡のような生の裏側。
「貴方が何もしてこないと言うのなら、私もいつも通りの生活をさせて貰う。残念だけど、私が何もしなくても、レミィたちが貴方をどうにかしようとするでしょうし」
――まさにその通りだった。
今日、フランドールとか言う少女がワタシのところへ来た。
変わった形の羽根を生やしており、見た目はレミィよりも更に幼く見えた。
問題はその後。
彼女の姉と同じ緋色をした瞳が、とてつもなく不穏なモノを映し出したようなのだ。
ワタシにはさっぱり解らなかったが、ワタシを見て蹲るほどだ。
宿主の姿は前々から見ていただろうから、あの態度はワタシに向けてされた、と考えるべきであろう。
どうやらあの少女は、ワタシの正体に気がついたらしい。
こちらの焦りが宿主にも伝わったのか、ここへと場所を移した後、思案の素振りを見せたかと思うと笑い始めた。
最初は何事かと思ったが、突然始まった“会話”のおかげで、彼女自身も何かを掴んだのだと悟った。
一体どんな特別な目をしているかはわからないが、宿主はフランドールとやらのおかげで吹っ切れたようだ。
先ほどパチュリー・ノーレッジがこう言っていたのを思い出す。
『敵を知り、己を知れば百戦危うからず、ってね』
つまりこれは、ワタシの正体がわかったのでどうとでもなる、と言いたいのだろう。
でなければこんなにも余裕めいていられるわけがない。
自分ではどうしようも無かったけれど、仲間に気付いて貰えたから後は安心だ――そう代弁しているに違いない。
一方のワタシには仲間なんていない。
むしろワタシがこうして一生命体として意識を持ち始めたこと自体が既に奇跡以外のなにものでもないのだ。
生きてきた者と生まれてきた者の差が、ここにある。
「さて、いつ仕掛けてくるかしらね」
どこか他人事のように、宿主はワタシに問いかけるように呟いた。
最早時間など無い。
あと二割を制することが出来れば、少なくともここから逃げることは出来よう。
あの姉妹はどこか危険だ、戦おうとしても返り討ちにあってしまうことが予想される。
身体を手に入れたら真っ先にここから脱出し、さっさと他の寄生先を見つけねば。
雲隠れさえしてしまえば、いくら吸血鬼と言えども判別はつくまい。
ワタシは最後の望みを託しながら、更に侵攻を速めた。
/
その日の夜遅く、珍しくも咲夜さんが私の部屋へと来た。
「たまには一緒にどうかと思って」
手に握られていたのは、あの黒塗りのボトルだった。
中身はいつも私がご主人様の為に用意している、極上のワインの入ったボトルだ。
私自身は数えるくらいしか飲んだことが無い。
「えっと」
問題はお酒の貴重さとかではなくて。
どうして咲夜さんがここに来たのか、と言うことであって。
二人きりで一緒に杯を交わそうだなんて、入館以来、初めてのことではないだろうか?
「そんなに畏まることないと思うけど。同じメイドなんだし」
「えっと……」
咲夜さんと同じメイド、と言われても。
確かに私も彼女もメイドではあるけれど、その……レベルが違うと言うか。
雲の上のお方と言うか。
少なくとも駄目メイドな私と比肩なんてしてはいけないのは確かだ。
「それとも私と飲むのはイヤかしら」
「い、いえ! 是非!」
メイドをしていれば、咲夜さんへの憧れは高まっても低くなることは無い。
アイドルにも等しい咲夜さんと一緒に高級ワインを飲む。
そんな夢のようなコト、許されるのでしょうか。
「また魔法の修行?」
細長いグラスへとワインを注ぎながら、咲夜さんが尋ねてくる。
私は頷きながら答えた。
「とは言っても、まだ全然駄目で。初歩の初歩の、そのまた初歩の段階です……」
始めて数えるくらいの日数では、マナの扱いさえ出来ていないに等しい。
マナどころかオドさえもまともに操作出来ていないのである。
きっと咲夜さんが魔法を本気で修得しようとし始めたら、どんどん上達していくんだろうけれど。
生憎と私の性能はポンコツで咲夜さんのようにはいかない。
私の応対がおかしかったのか、咲夜さんが小さく笑った。
「お、おかしいですか?」
「いいえ。おかしいというか、健気だと思っただけよ」
はい、とワインが半分ほど注がれたグラスを差し出してくる。
笑顔がとても眩しいです、咲夜さん。
「え、っと。それで、用件と言うのは?」
すぐにでもワインを飲んでみたかったけれど、まずは咲夜さんから話を聞くのが先だ。
彼女は静かに真っ赤なワインを一口飲み込むと、グラスをテーブルに置いて私の瞳を見つめてきた。
……凄く照れるんですけど、ってうわ、咲夜さんって睫毛綺麗に揃ってる。
どうやってお手入れしてるのかな――じゃなくて!
「咲夜さん?」
「ねぇこぁ。貴方、何で魔法を学ぼうと思ったの?」
それは、とてつもなく意味深な質問に聞こえた。
口元は綻んでいるけれど、目は射抜くような鋭さだ。
私は一瞬たじろいでしまったけれど、頬を掻いて照れ隠ししながら、理由を話した。
「この前のお祭りの時、ご主人様の手前でぽろっと口に出ちゃったことがきっかけでした。完全な悪魔にも成り切らないような私が、魔法を使いなんて馬鹿げてますよね。
でも、魔法はずっと憧れていたんです。ここに来る前はただ逃げ回るだけの生活で、魔法なんて考えもしなかったんですけど。初めてご主人様の魔法を披露された時、思っちゃったんですよ。
――ああ、私にも魔法が使えたらなぁ、なんて」
本当にお恥ずかしい話ではある。
悪魔とは本来、魔を操る者のことで、魔法と呼ばれる類のモノは得意分野に入っている。
かくいうお嬢様も、その膨大な魔力のおかげか、一声で多量の下級悪魔を召喚出来る魔法を得手としている。
私も一応悪魔として生まれているのだから、それくらいの芸当は出来て当たり前なのだけれど……。
「ちょっと遅いかもしれませんけれど、だからこうして頑張っている、ということなんですよ」
「――――そう」
私の話を聞き終えると、咲夜さんは一気にグラスの中身を飲み干した。
――静寂が私の心と耳を穿ってくる。
咲夜さんはそれから一言も発することなく、ちびちびとお酒を飲み続けた。
/
「こぁは抜きで行くしかないね」
それが、レミリア・スカーレットの答えだった。
主人の提案に、傍らで佇む十六夜咲夜も相槌を打つ。
「それが良いと思います。あの娘は見た目通り、心根の優しい娘ですから」
そうだねぇ、と感慨深く言葉を吐く。
目元には小さくもシワが寄り、哀愁を模っている。
テーブルの上に肘を立て、頬をつきながら、レミリアは大きく溜め息を吐いた。
「悪魔とは思えぬ純情ぶりだしね」
「だから外の世界でも苦労してきたのでしょう。私たちの館に来るまでは、ずっと迫害の手から逃げ回っていたと言いますし」
「外の世界は人間どもで溢れかえっているから、いかにも悪魔な身なりのこぁは、さぞ追い掛け回されただろうね。性格はあんなに良い娘なんだけど。人間たちは中身より外見の方が大事みたいだし」
「その通りですよ、お嬢様。人間なんて所詮そんなものです。評価するにも値しません」
自身は人間でありながら、援護するどころか批判をする咲夜に、レミリアは口元を歪めた。
「咲夜も随分と追い立てられたらしいけど、こぁとどちらが酷い扱いだったかな?」
「私はまだ外見が人間よりなので、こぁよりはマシだったかと」
「時間を操る能力――――便利だと思うんだけど。どうして人間ってのは、異能をうまく利用しないんだろうね。生まれながらに特別授かった力って、私らから見れば貴重そのものなんだけど」
彼女の言い分は正しい。
たとえその能力が人間離れしていたとしても、うまく使えば巨利を生み出す金の卵と成り得る。
それを自ら追放しようなど、吸血鬼であるレミリアには理解出来ない。
いや、もしかしたら人間以外の種族は悉くそう思っているかもしれない。
かく言う咲夜も、人間でありながらレミリアの意見を肯定した。
「人間の中にも、このような異能を貴重と捉えている人もいますよ。一般社会では、特異稀なる才能を持つ者は“ギフテッド”と呼ばれますし」
「ギフテッド?」
「はい。そのままの意味ですが、神より賜った資質を持つ者、と言う意味です」
「へぇ、神ね」
「本物の天才、と言いますか。努力ではなく、生まれつきにして秀でた能力を持った者だけをそう呼びます。様々な分野でギフテッドは発生しますが、大抵は学習能力が高いとかそんなものですわ」
「つまり咲夜はギフテッドとやらの中でも特別だと?」
「特別、と言うことでもありませんが、異能と呼ばれるくらいですので、少々違うモノかと」
ふーん、と鼻を鳴らすレミリア。
少し不貞腐れたような顔をする主人のフォローをすべく、間髪入れず咲夜は言葉を挟んだ。
「結局は“特別”と言う括りは変わらないので、白い目で見られるんですが」
「人間社会では、特別ってのはいけないことなのかい? ああ、私みたいに初めから身なりが怪しい輩は除いてね」
「いけないこともありませんが、やはり妬まれますね。人と言うのは往々にして弱い立場にある者が多いので、彼らから見れば許しがたいのでしょう」
「わかったような、わからないような。まぁ私は吸血鬼だし関係無いけどね。
しかしこぁは魔法使いの心得もわかってないままに魔法の修得へと手を付け始めたか」
「ですわね。それでもパチュリー様の御意思ですわ」
「そうなんだけどねぇ……」
頬杖を解き、椅子の背もたれへと身を預けたレミリアは、天井を見上げた。
絢爛なシャンデリアが光を灯し、煌びやかに輝いている。
眩しいと思いつつも、彼女は灯りから目を逸らさない。
何があるわけでも無いのに、ただじっと視線を固定している。
「どの道、こぁが立ち会ったとしても、結局は何の役にも立ちはしない、か」
「パチュリー様がもっと前から仕込んでいたなら、話は変わったでしょうけれど」
「こんな事態になるなんて考えもしなかったんだろうね。私でさえ最初は狼狽したんだ、今まで百以上の魔道書を解き明かしてきたパチェなら尚更衝撃は大きかったろうさ」
「こぁ以外に後継を考えている者でもいたんでしょうか?」
「いないから今回の一件を契機に指導しはじめたんだろ。何はともあれ、ぶっつけ本番以外道も無さそうだしね」
小さく溜め息を吐くと、視線を天井から切って、今度は咲夜の方へと向ける。
今までずっと灯りを凝視していたせいか、従者である咲夜の表情がうまく見えなかった。
それでも感覚だけで相手の顔を見つめ、力の篭った声を出した。
「助からないかも知れないが、方法はもうこれしかない。――咲夜、フランを呼んで来ておくれ」
「了解ですわ」
瀟洒なる薄い笑みを浮かべて、咲夜は主人の命を遂行するために部屋から出て行った。
/
――――可哀想だと、思った。
何年も渡って書き続けたモノは、ついには評価されずに終わってしまった。
確かに作品の元種はヨハンなる者が書いたのだろうけれど、これは二次創作として扱われることさえ無かったのだ。
自己解釈をし、世界観の拡大を図った■■■は、自身の作品が二次創作なのだと声を張り上げても受理されなかったのである。
相手はどこぞのお偉いだった。
彼曰く、著作への冒涜だ、と言う。
何を言う、一次への敬意と憧憬を以って書き上げたこの書のどこが冒涜なのか。
■■■は必死になって訴えた。
ところが政府の高官であった相手の権力により、その意見は全くの言い訳だと処理され、ついには拘束されてしまう羽目になった。
突如始まった独房での監禁生活。
無論家族はみな罪人扱いされ、■■■の妻は、その恥辱の末に自殺をはかった。
その事を看守から聞かされた時の感情を、どう説明したら良いのか。
喜怒哀楽を超えた何かが神経を蝕んでいった。
それからの日々は、真っ白な紙に血のペンで文字を書いていく生活へと変わった。
愉しかった言語の創作活動は全て棄てた。
ただ心の裡で渦巻いている感情を、機械のように書き綴っていく。
その行為も文字を生み出す事になんら変わりは無かったが、最早それは文学でも何でも無い。
■■■が愛していたはずのブンガクと言うモノは、所詮は金持ちの道楽だったのだ。
そう理解し、全てを捨て去った今、書き続けるのは“真”なる書。
世間に公開するものではなく、ただ己が裡のみを納得させるための血書。
目は血走り、失われていく自分の血液を顧みることもなく書き続けていく。
その果てに何かが報われるわけではないと知りながらも、もう■■■にはそれしかなかったのである。
破滅を厭わぬ暴走は、書の完成で終着した。
書の完成形は、一冊の分厚い本だった。
一体どれほどの神経と血液を失ったのか、本人はすっかり痩せて――やつれて、と言う表現の方が正しいか――抜け殻のようになっている。
一切の動向を観察し続けてきた看守が、本の完成を労った。
長い間ごくろうさん、と。
しかしその言葉は、相手には届かなかった。
そう。
もう■■■は事切れていたのである。
口を少しだけ開けて、虚ろな目で自分が書き上げた本を見つめているだけ。
呼吸も思考も停止し、生物としての死を受け入れていた。
以上が、ある男の人生。
クリスチャン・ローゼンクロイツという架空の人物を二次創作してしまったがために、人生の全てを狂わされた、可哀想としか形容出来ない人生を歩む羽目になった男の話。
彼は最後に、その復讐として自分自身がクリスチャン・ローゼンクロイツになることを夢想し、実際に到達した。
自分で書き上げた、自分だけのクリスチャン・ローゼンクロイツこそ、彼の――寄生虫の――正体であり、今は私の体を乗っ取ろうとする、非力な本の魔物の一匹だ。
しかし当然のことながら、私だってこの体を奪われるのは嫌だ。
でも私は彼のことを憐れんでいる。
最初こそ抵抗意識が強かったけれど、今ではその抵抗感すら薄い。
不敬な彼を許すことは出来ないけれど――どうやら私は、彼を助けたいらしい。
それが不可能なことだとは、頭では重々に理解してはいるが。
――ノックの音が聞こえてきた。
もう夢の時間は終わりらしい。
私は億劫だと聞かん坊になっている全神経に喝を入れ、ゆっくりと身体を起こした。
/
不意に飛び込んできたノックの音で、侵攻作業が止まった。
夜ももうじき明けるというこのタイミングで、まさか来客が現れるとは思いもしなかったが、宿主は律儀にもノックの音で目を覚まし、体を起こしたのである。
どれだけ浅い眠りをしているんだ、と突っ込みたくなる。
普通ノックの音くらいじゃ目なんて覚めないだろうに。
「おや、起きたのかい」
来客はレミィとか言う少女だった。
赤い瞳が印象的な、容姿は幼子なのに話し方はまるで年寄りな彼女は、こちらを一瞥するとにやりと口端を吊り上げた。
「ん……レミィ?」
「起こして悪かったね」
「別にいいけど……どうしたの?」
目を擦りながら呑気に会話をし始める宿主。
こちらはいつ狩られるかとビクビクしているのに、宿主には懼れのおの字も無い。
全く、どれだけ肝が据わって――――
「いやね。覚悟をしてもらおうと思ってね」
「――――そう」
――――今。
この娘は、何て言ったんだ?
覚悟?
いやいや、宿主も頷くなって。
何が、そう、だよ。
何も解っちゃいないくせに!
――いや、落ち着け、落ち着くんだ、ワタシ。
緩慢な動作でベッドから降りる宿主を目にしただけで、訳も無く怒りが込み上げてくる今の状態がベストな訳が無い。
ストレスを抱えたま敵に向かうなど、愚の骨頂だ。
冷静に事を見極めないと。
ただでさえワタシには退路と言うモノが無いのだから。
「お入り」
「う、うん……」
レミィに言われて扉の向こう側から顔を出したのは、確か宿主がフランドールとか言っていたヤツだ。
短い金の短髪に、レミィそっくりの赤い瞳が印象深く心に残っている。
宿主の顔を見た途端、口を押さえていた小娘が、一体何をしに来たと言うのか。
まさかとは思うが、先ほどの覚悟とやらと何か関係でもあるのか?
謎は深まるばかりだが、かと言ってワタシに出来ることは何も無い。
成り行きを見守るのみである。
「そうだよ。こぁと咲夜には外れてもらった。どうせ何も出来ないだろうし、何より――パチェ、お前は望まないだろう?」
「流石私の親友ね。正解よ。無様な姿は曝したくない」
ぐっと拳に力が入ったのが解った。
身体は万全ではないにしろ、九割以上は占拠した。
いつでもワタシと彼女を交換出来る用意がある。
後はワタシの意志一つ、と言うヤツだ。
会話の内容から察するに、来るべきモノが来た、ととるべきであろう。
つまりパチュリー・ノーレッジの親友であるレミリア・スカーレットがワタシの影に気がつき、成敗しようとしているのだ。
どうやってワタシの存在に気付いたのか、そのカラクリはわからないが。
どうやらここがワタシの正念場であるのには間違いないらしい。
実体の無い身ではあるが、宿主と同じく拳を想いだけで作り上げる。
あちらさんはどうやってワタシを追い出そうとしているのか。
全くの未知数ではあるが、放っておいてもすぐにわかることなので、深く考えるだけ無駄だと黙殺することにした。
そしてワタシには仲間さえいない。
孤立無援もいいところである。
それでも生き残るためには、やるしかない。
さぁ――――“生命”を賭けた戦いの始まりだ!
「良く言った。じゃあ、始めるとするかね」
少女たちの目が、尋常ではない目つきになった。
/
「良く言った。じゃあ、始めるとするかね」
威嚇を含む声色を以って、レミリア・スカーレットは開幕を宣言した。
自身の能力である運命の透視を全開にするため、大きく開眼する。
同じくして妹のフランドール・スカーレットも眼を大きく見開いた。
彼女の能力は、死そのものである緊張の“目”を視認し、その“目”を手元に移動させ、握り潰すことにより対象を破壊する、と言うモノである。
“目”が破壊されると言うことは、即ち死ぬと言うこと。
この度、レミリアがとった作戦は、まさしくフランドールの能力に頼るモノだった。
「フラン、手加減は良い。全て潰せ――――!」
「うん!!」
最初は困惑気味であったフランドールであったが、姉の叱咤激励ともとれる気合いの入った声のおかげか、奮い立ったようだ。
あるいは、忌み嫌われるだけでしかなかった自分の能力を、初めて役に立たせることが出来るのが嬉しかったのかもしれない。
フランドールは両手を拳に変え、姉の親友へと赤い眼を向ける。
見つめるは死の根本。
モノに納められた、終わりの因子。
対するパチュリー・ノーレッジは不動だった。
それどころか、まるで死を受け入れるように瞳を閉じて佇んでいる。
この世に未練も後悔も憂いも無いと、態度で雄弁に語る姿は、どこか僧侶のようでもある。
その無抵抗な身体に、赤い視線が絡みつく。
「観得た!」
フランドールが、幼さを象徴するかのような甘ったるい声で叫んだ。
彼女に観得た“目”の数は、百や千ではきかない。
二度目の現在だからこそ、彼女は吐き気こそ催さなかったが、今度は米神や後頭部に鈍い痛みを覚えた。
それも無理は無い。
何せフランドール・スカーレットが見ているのは死そのものだ。
脳への負担は生半可なモノではない。
今まで自身では感じることの無かった異能の反動だが、それは対象が一つだったからに過ぎない。
だが今回、彼女の瞳に映っている“目”の数は五十万。
オーバーワークも良いところなのである。
最早パチュリーの姿など見えてはいない。
彼女には真っ黒に塗り潰された、人形のような何かにしか見えていない。
「っ、づ――――は、」
さしものフランドールも、一度にこれほど多量の“目”を見たことは無く、潰したことも無い。
だからここからの作業は全て、彼女の勘と感覚で行わなければならない。
綱渡りもいいところだな――レミリアはフランドールの横で忌々しそうに奥歯を噛んだ。
今のところ、レミリアの瞳に映る運命線には、大した動きは無い。
相変わらずどす黒い線が赤いパチェリーの線を侵している。
フランドールは拳を解き、掌を胸の前に伸ばした。
開かれた掌の上は空の状態である。
だがそこには、他人の目には映らない、知覚することさえ叶わない“目”が在る。
一度に引き込めた“目”は、約二十個だった。
たったのこれだけなの、とその少なさに愕然とする。
相手は万を超えると言うのに、百にすら届かないとは。
それでも、もう後には引き返せなかった。
この作戦が功を奏さなければ、隣で静止している姉が始末するという。
それだけは勘弁願いたかった。
ようやく地下から外へと出る楽しみも出来て、少しずつではあるがみんなと平穏無事な日々を過ごせると想っていたのに。
眼前にいるパチュリーはレミリアの大の親友らしい。
その親友を亡くせば、またこの紅魔館は沈鬱な状態へと逆戻りになることになる。
下手をすれば、今度は姉が地下に閉じこもってしまうかもしれない。
だからこそ、フランドールは全身全霊で事にあたることにしたのだ。
頭痛も気味の悪さも全て押し殺して。
「えい!」
場にしては間の抜けた声を出しつつ、手元に引き寄せた二十の“目”を握り潰した。
まずは様子見。
片手で二十を潰せるのなら、両手では四十か。
五十万を潰すのにどれくらい時間がかかるのかな――そんなことを思い浮かべながらの圧殺に、パチュリーの肩がビクン、と跳ね上がった。
どうやらいま潰したのは肩口の部分だったらしい。
確かな手応えを感じたフランドールは、嬉しさも相まって素早く左手も突き出した。
そうして今と同じく、どこの部分かもわからない相手の“目”を手元に引き寄せ、これも二十ほど潰す。
要領さえ掴んでしまえば、後はただの作業である。
「――――――」
傍らで開眼し続けるレミリアは、そろそろ何か起きるのではないか、と臨戦態勢をとっていた。
この作戦は、全てレミリアが独断で決めたモノだ。
十六夜咲夜と論じた結果、相手の正体が掴めた。
だが対策は全て彼女だけで練ったのである。
パチュリー・ノーレッジの言うように、三人寄れば文殊の智慧、という諺があるように、案出しならば人数が多いに越したことは無いはずだ。
しかしそれをやらなかったのには、理由があった。
それは、遠い昔のこと。
親友同士の誓いとして、二人が契った約束のことだ。
『有事の際は、残った方が処理を決めること』
処理を決めるのは、残った片割れ。
他の誰でもない、どちらかが決めること、と誓った。
一緒に死ぬのが一番の理想だけれどね、と笑いあった。
レミリア・スカーレットは今、その時の約束を忠実に守っているのである。
だから作戦を立てたのも彼女なら、もし失敗すれば責任を取るのも彼女だ。
こぁも咲夜も連れて来なかったのは、その決意を秘めていたからでもあった。
「――――う、ぁ」
親友が身を強張らせる度に、自分の体にも力が入った。
パチュリー自身にはそれほどのダメージは無いだろうと踏んでいたが、やはり寄生されているだけあって辛そうに見える。
心の中で何度も詫びながら、レミリアはその赤い瞳を使って凝視し続ける。
一瞬たりとも気は抜けない。
相手の正体は大体掴めているとは言え、寄生した方法もわからなければ、寄生以外の脅威も何を持っているのか全く把握出来ていないのだ。
クリスチャン・ローゼンクロイツは優秀な魔法使いであったと云う。
ならば危険な魔法を使ってくるかもしれない。
その危機感がレミリアの神経を研ぎ澄ませていく。
「は、ぁっ……はっ、は――」
苦しそうな吐息を聞いて、レミリアは振り返った。
見ればフランドールが疲弊し始めていた。
額には汗をかき、口は開かれっぱなしである。
「大丈夫かい、フラン」
気遣っての発言だったが、どうやらフランドールの耳には届いていないらしい。
右手と左手を交互に突き出しては拳を作り、また解いて掌を突き出す。
“目”を見ることの出来ないレミリアには、一体どれだけの数を潰しているのかわからない。
だが潰さなければならない数は把握している。
彼女は、妹のフランドールに、今回の作戦についてこう語った。
『相手は恐らくクリスチャン・ローゼンクロイツを主体にした“本”だ。パチェはその本に手を出したせいで呪われたようでね、私や咲夜じゃどうすることも出来ない。
でもね、フラン。お前にならきっとやれるんだ。相手は本。そしてフランが観得たと言う“目”の数の多さからして、“文字”こそが本当の敵と言うことになる。魔力の通った文字自体が、パチェに寄生する輩の正体だと私は踏んでいる。
文字は物理的な攻撃じゃあ倒せないだろうし、何より外側から物理的な手段を使ってしまったら、パチェの体にダメージを与える事になってしまう。そこでフランの出番なんだよ。お前の能力は物質だけに限らず、ありとあらゆるモノを殺せるはずだ。例えそれが内側のものであっても、外側から殺せる。
“目”が観得たのなら、それは壊せるってことだろう?
吐き気がするほどキツイのは重々承知の上で頼みたい。私の推測通り、文字が敵の正体だとしたら“目”の数はおよそ五十万だ。それほどの量を潰せるかどうかはやってみなきゃわからない。けど、このままやらなければパチェの体は完全に乗っ取られてしまう。運命線もかなり冒されているんだ。
頼む、この通りだ。昔のことを水に流せとは言わないけれど、今回は私の言うことを聞いておくれ――――』
フランドールからすれば、あの誇り高く尊大だった姉がひたすら下手に出てくるのにも驚いたが、それ以上に驚いたのは、パチェリーに寄生している者の正体が“文字”だったと言うことである。
今まであまり本を読まず育ってきた彼女は、一冊の本の文字数がどれくらいあるのか皆目検討もつかなかったが、五十万と聞かされて目を剥いた。
道理であれだけの“目”が見えたのだと、フランドールは納得した。
そして姉の態度を見て、どれだけ逼迫した状況なのかも理解したフランドールは、レミリアの願いを受け入れることにしたのだ。
もう過去に縛られる理由も無くなったのだし、タイセツなモノを失いたくないと言う気持ちも薄々とわかり始めていたフランドールに、拒絶する理由などどこにも無かった。
「ふっ、は――っあ。は……っ」
強靭な肉体と、人間では考えられないような身体能力を持つと謳われる吸血鬼だが、それは異能の酷使とは話が別である。
本来、視認だけでも脳に高負荷なフランドールの異能は、容易に彼女の精神を擦り減らしていき、心臓も脳に血液を回そうと躍起になっている状態だ。
秒を重ねるごとにボロボロになっていく妹を、姉として何もすることが出来ないレミリアは、しかし唇を噛み締めたまま視線をパチュリーの方へと戻した。
今しなくてはならないのは、妹への気遣いではない。
敵はこちらの油断をついて何か仕掛けてくるかもしれない。
そうなった場合、真っ先にソレに対し処理しなければならないのがレミリアなのだから。
「――――――っ」
焦りがレミリアの神経を更に尖らせていく。
本人は気付いてすらいないが、いつの間にか唇から血が滲んでいる。
おそらく、吸血鬼特有の長く鋭い犬歯のせいだろう。
どうかこのまま終わってくれ、と言う願いと。
どうして反撃に出ないのか、と言う疑問が、彼女の胸中で交錯している。
「はっ、は――――ぁ」
一体フランドールが“目”を潰し始めてから、どれくらいの時間が経っただろうか。
明らかに彼女の圧殺速度が落ち始めてきていた。
息は上がり、汗が顎から滴り始めている。
手は震え、唇には完全に水気を失っている。
もう駄目だ、と今にも口にしてしまいそうな状態だ。
しかしレミリアはフランドールの様子を、その声でしか判断出来ない。
もう振り向くまいと決めていたからだ。
まるでそれを狙っていたかのように――――時の魔法使いが、目を覚ました。
/
まさか同族か、と目を見張った。
フランなる少女が宿主に触れもせず、ワタシを滅しに来たからだ。
最初に持っていかれたのは二十ほど。
大したダメージではなかったが、動揺が大きかった。
手を握ったり離したりするのが彼女なりの詠唱方法なのかとも思った。
しかし回を重ねられる程に、ソレが魔法では無いことに気がついた。
拳を作るだけで二十のワタシが死ぬ。
だと言うのに、大気にも彼女自身にも変化が無い。
魔法であるのなら、どちらかの魔力に変動があるはずである。
けれど彼女はただ不気味な眼をこちらに向けて凝視しているだけ。
あとは、あの意味不明なグーとパーの連続だけだ。
つまり魔法と言うよりは、何かしらの特異な能力、と考えた方が辻褄が合う。
正直、レミィがここへやってきた時はもう終わりかとも思ったが、神はまだワタシを見捨てては無かったようだ。
一握りで完全に死んだと思っていただけに僥倖である。
どうやらフランの力では、五十万ものワタシを一度に除去出来ないらしい。
一つでも残れば、最悪自分は保つことが出来る。
宿主の体を奪取することは叶わなくなるが、命あっての物種だ。
「――――――」
宿主は相変わらず沈黙を貫いている。
時折苦しそうな声を出しはするが、それはワタシが深部まで根を下ろしているせいなのだろう。
ワタシが一つ消える度にそこが元に戻る訳だし。
しかしそれもここまで。
確かにフランはワタシを殺せるエースだろう。
恐らく彼女は、一つの対象が相手なら無敵に近い能力と言える。
だがワタシは複数であり、それも五十万である。
一度に二十やそこらしか殺せないフランから見れば、無限にも見えるかもしれない。
だがそれでも無視出来る相手でも無いのも事実だ。
ワタシが一つ消える度に、折角侵蝕した場所が空きになってしまうのだ、それは不味い。
この数、この魔力だからこそパチュリー・ノーレッジと言う素体を侵すことが出来たのだ。
減ってしまうと言うことは、そのパワーバランスが崩れかねないと言うこと。
最早悠長なことを言っている場合ではない。
一つとは言え、ワタシを殺せると言う事は、ワタシの正体が“文字”であると看破されているに違いないのだから。
ともなれば、ワタシが取るべき道は一つ。
――――さぁ、宿主さん。
そろそろ交代の時間ですよ――――
/
それは、地の底から湧き出るような声だった。
「――――クッ」
彼女たちは一瞬、聞き間違いかと思った。
今はパチェリーの内部に巣食う寄生虫を一匹ずつ殺している最中だ。
まさか笑うなんてことが、あるはずが――――。
「――――ク、ククッ」
しかしそれは聞き間違いでもなんでもなく。
ただの事実だった。
現実として、現在パチュリー・ノーレッジは笑っている。
いや、笑っているのではなく、笑いを噛み殺している、と言った方が正しいか。
くぐもった笑いが、確かに彼女から聞こえてくる。
「パチェ……?」
乾いた声で、そう尋ねるはレミリア・スカーレットだった。
親友に声をかけている割には、声色が硬い。
赤い瞳も油断無く能力を発揮し続けている。
異常時だと判断してか、フランドールの手も止まった。
肩で息をしながら手の甲で額の汗を拭っている。
「何がおかしい?」
レミリアの問いに、俯き加減だった紫の魔女の面が上がる。
その眼は――――狂喜に満ちていた。
「――――!」
目が合った瞬間、レミリアはフランドールの手を引いて後方へと跳んでいた。
一体何事かとフランドールが心配そうに姉の顔を見つめる。
そこへ、
「逃げるなんて酷くないかしら?」
パチュリー・ノーレッジの声と身なりをした、何かが言葉を喋った。
「パチェ」
「ワタシ――じゃないか。今はもう私で良い。そうね、私はパチュリー・ノーレッジよ。ただし、生まれたばかりだけれど」
くすり、と人差し指を自分の唇に押し当て、女が妖美に嗤う。
最早それは、レミリアの良く知る親友のモノではなかった。
本好きで知識を渇望し、魔法使いとして王道を歩んでいた、あのパチュリー・ノーレッジでは断じて無い。
「貴様」
「そう怖い顔をしなくても。パチェは親友なのでしょう?」
「何を言う。貴様など親友でも何でもない」
「――――へぇ。じゃあ、これを見ても?」
好奇の炎が瞳に点る。
レミリアの親友だった者の口元を歪ませながら、ソイツはあろうことか、自身の左目に親指を突っ込んだ。
「き――きゃぁあああ……っ!?」
フランドールが悲鳴を上げる。
レミリアもまさかの展開に、心胆から凍えるのを感じた。
自分の目を潰すなど、正気の沙汰ではない……!
「ぐ、く――――」
ぽた、ぽた、と絨毯へと落ちていく血液。
苦悶の声を漏らしつつも、何がおかしいのかソイツの口元は歪んだままだった。
呆然とする吸血鬼姉妹。
静寂だけが残る中、パチュリー・ノーレッジの目を潰した張本人が口を開いた。
「痛い、ね。これは痛い」
「…………」
「――あは。痛い。痛いって、生きてるってことだよね」
目を潰した指には、真っ赤な血が張り付いている。
それを見て嬉しそうに嗤う。
まるで痛むことこそが生きている証だ、とでも言いたそうに。
そんな異色の気配を持つ相手を見据えつつも、レミリアには何一つかける言葉が見つからなかった。
一体何を話せば良いのかもわからない。
まともな相手では無い、とだけ、心が警鐘を打ち鳴らすのみである。
「私、生きてるんだ。これが本物の痛み……内側から見ているだけのモノじゃあ、無い」
歓喜極まると言った様子で自分の両手を見つめ続ける。
これが本物の肉体。
血が通い、五感が通い、温もりが通う、人間の身体と呼ばれるモノ。
久遠の時間をかけて到達した、奇跡の産物。
文字のみで現世に留まろうとした、ある男の怨念こそが、今のパチュリー・ノーレッジだった。
「この痛も、この温もりも、この匂いも全部――――全部本物だ!」
今にも踊りだしそうな勢いのまま、両手に拳を作って喜びを表現する。
見た目は――いや、身体はパチュリー・ノーレッジそのもの。
それが。
彼女には、何より赦せなかった。
「おい」
姉の、今まで聞いたことも無いような怖ろしく冷たい声に、フランドールは更に身を硬くした。
振り向くのもままならないほどの緊迫感が場を制圧している。
その中にあって、文字の悪鬼には何のプレッシャーも感じていないようだった。
まるで友人に話しかけるような気軽さで、何、と問い返す。
パチュリーの行動とは想像だに出来ぬそのふざけた態度が、何故か恐く感じる――。
「貴様は誰だ? パチェの中に潜り込んだクソ虫だってのは知ってるんだが、生憎ながら名前を知らなくてねぇ」
「名前? 名前は――――」
妙な間、だった。
レミリアの質問は容易く答えられるようなモノであり、返答に詰まるようなモノではない。
自分の名前を答えることが難題だと言う者はいまい。
名前とは自分自身を認識する為のもの。
自分自身、と言うよりは、対象の存在を認識する為に必要なものだ。
名前が無ければその対象の存在を認識出来ないのだから。
それなのに即答出来ないとはどういうことか。
訝るレミリアと、事の成り行きを見守っているフランドールと、左目からいまだに出血し続けている、唖然としたパチェリー。
三者三様の状況下、最初に言葉を出したのは、問い質したレミリアだった。
「自分の名前も知らないのか」
「い、いや……私は……」
私は、と幾度と無く繰り返すも、一向に名前が出てくる気配が無い。
彼女の、馬鹿な、と小さく呟いたのが聞こえた。
それを聞いたスカーレット姉妹は、眉を顰めて敵の姿を再確認した。
見れば見るほどパチュリー・ノーレッジ本人である。
紫色をした、大きな髪の房が左右に一つずつあり、背からも流れる長髪は床に届きそうな程に長い。
左目こそたった今潰れてしまったが、健在の右目は髪と同じく紫色をしている。
容姿だけで判断するのなら、目の前にいるのは間違い無くパチュリー・ノーレッジだと言い切れる。
だが敵は内部から寄生してパチュリーの肉体を奪取したと言う。
それを確認しようにも、あの変貌ぶり以外、決め手になるようなモノは無い。
フランドールの透視による“目”の数が決め手と言えば決め手ではあるが、相手の姿が見えるわけではないのだ。
見覚えのある人物であればレミリアたちも名前が自ずと出てくるだろうが、それすらも叶わない。
一体、このパチュリー・ノーレッジの中にいるのは誰なのか。
レミリアが一つの仮定を口にした。
「お前はクリスチャン・ローゼンクロイツじゃないのかい?」
そう、彼女が黒い運命線をなぞった時、確かにその名前があった。
だからレミリアはずっと、寄生しているのはクリスチャン・ローゼンクロイツだと思っていたのだ。
運命線に刻まれていた過去の映像も、寄生している者がクリスチャン・ローゼンクロイツだと示唆しているような内容だった。
だが、
「違う! 私はクリスチャン・ローゼンクロイツなんかでは断じて無い……っ!!」
まるで怨敵の名でも聞いたかのように、パチュリーの声帯を震わせ、ソイツが吼えた。
「違う?」
「そうだ。名は思い出せぬが、私は断じてクリスチャン・ローゼンクロイツではない。何故お前がその名を知っているのかは存じぬが、その名で私を呼ぶな……ッ!」
名が思い出せないと言うのも怪しいモノを感じるが、それにしても怒鳴るほどクリスチャン・ローゼンクロイツの名を嫌っているところを見ると、別人のようではある。
では一体何者なのか?
それすらもわからないのでは、寄生されたパチュリーはたまったものではない。
「吼えるなよ、底が知れるぞ」
「ぐっ」
目を細め、威圧的な態度をとるレミリアに臆したのか、パチュリーは一歩、後ずさった。
ばさり、と大きな蝙蝠羽が左右に広がる。
まさか飛行するわけではあるまいが、その姿は壮観である。
威容を増幅させるには十分効果はあるだろう。
「まぁこの際だ、名前なんてどうでもいい。――五分ほど猶予をやるよ。その間に決めろ」
「――――は?」
「貴様にやる選択肢は二つだ。一つは、その体をパチェに返して、黙ってここを去るか。
もう一つは、そのままその体にしがみついて、私たちと徹底抗戦するか。
さぁ選べ」
「何を、」
「ああ、言い忘れていたけれど。貴様に質問する権利は無い。もしどちらも嫌だと言うのなら、即刻パチェごと殺す」
ゴキ、とレミリアは自分の手の骨を鳴らした。
これは彼女が獲物を前にした時に行う癖である。
もしかしたら吸血鬼の本能なのかもしれないが。
鋭い爪が、お前を突き殺すことなぞ簡単なことだ、と主張しているように見え、パチュリーの体はまたも一歩、後ろへと下がった。
その爪にも畏怖を感じたが、それ以上にレミリアの危険めいた瞳を見て戦慄したのである。
あの目は本気だ――――下手なことをすれば、それこそ弾丸のような速度でこちらの命を絶ちに来るに違いない。
寄生の身から一転、ようやく生身の身体を手に入れた矢先だと言うのに、何故こんなことになったのか。
悔しがる暇さえ無かった。
「わ、わかった……わかったから、その手を引っ込めてくれ」
「それは構わないけど。別に引っ込めたからと言って、貴様なんて秒で仕留められるぞ?」
「いちいち脅さなくても解ってるって。こちとら腐っても魔法使いだ。ただその……心臓に悪いからやめて欲しいだけだ」
「肝の小さいヤツだねぇ。まぁいい。――これで良いかい?」
「……助かる」
手を引っ込めてそのまま腕組みをし、仁王立ちするレミリア。
安堵の息をついた寄生体だったが、問題が解決したわけではない。
折角手に入れた体を手放せなどとは、路上で野垂れ死ね、と言われているようなモノだ。
元々は魔力の通った文字こそが寄生体の正体なのだ、こうして意思を持って四肢を動かせるようになったのも、二度は無いであろう奇跡に等しい業なのである。
また同じ曲芸をやれ、と言われても、出来る保障も無ければやれる自信も無い。
外に放られるということはつまり、ただの魔力の塊として排出されるということ。
その後は霧散して大気のマナと溶け合い、意識も無くマナの一部として自然界に漂うだけ。
言ってしまえば“死”である。
レミリア・スカーレットは、寄生体に対し、自殺するか殺されるかを選べと言うのだ。
だからと言って、盗んだばかりのこの体であのレミリア・スカーレットとやりあえと?
そんなことをすれば、宿主諸共即座に殺されてしまうのは目に見えている。
何度考えても、どう考えても答えは出ない。
全ての回答が“死”にしか繋がらないのだ、正解など自分からは出せない。
どうする、どうする、どうする――――?!
「あと二分だ」
律儀に時間を計るレミリアを見据えながら、パチェリーの体を乗っ取った名前知れずの寄生体は脳をフル回転させ続ける。
しかし打開策は浮かばず、刻一刻と時間だけが過ぎていく。
彼にしてみれば、親友ごと殺しに来る、と言う事態そのものが予想外だった。
いや、予想自体は立てていたものの、まさか実行してくるとは思いもしなかったのである。
今も半信半疑ではある。
ああやってレミリアは言っているが、ただの強がりであって実行する気は無いのではないか。
そうだとすればまだこちらにも分がある。
だが、あの眼光。
何か強い決意を感じるあの眼を見ると、やはり強がりなどではない、と認識させられるのだった。
「あと一分」
不味い。
本当に不味い。
もう時間が無い。
あと六十の秒を経るだけで、今までの苦労が水の泡になってしまう。
宿主であるパチュリーもパチュリーで、覚悟が有りすぎだ。
寄生されたその時から、こうなることを予想して動いていたとしか思えない。
自分の口から寄生の事実を伝えれば内側から殺されてしまう、だから口外しなかっただけ。
殺されることに恐怖して、ではなく、殺されるからこそ、今のうちに出来ることを、と種蒔きをしていたのだ。
そして種は蒔き終わり、自分の役目は終わったと。
魔力で守っていたはずの心臓や脳までも、交代の瞬間は強い抵抗が無かった。
パチュリーは自ら、体を素直に明け渡し、あとは寄生体が慌てふためくだけ、と言う舞台を整えたのだ。
普通なら生き延びるために最善を尽くすだろう。
それが生物と言うモノだ。
だがそれを、覚悟と言う名の理性で覆した。
常人では考えられないほどの精神力。
寄生体自身も魔法使いを名乗っていながら、彼は最後まで魔法使いと言う人種のことを理解していなかった。
これはただ、それが裏目に出ただけのこと。
彼は初めから間違えていた。
魔法使いとは、既に死を観念した者の総称だ。
目的の為なら自身の命など紙くずのように掃き棄てる。
自身の願いを叶えるのなら、その他の全てを犠牲に出来るのが魔法使い。
一般人なら誰しもが持っているであろう良心や自己愛と言うモノが、魔法使いには無い。
彼もそうだったはずなのに、どうしてそれを忘れてしまったのだろうか。
「さぁ時間だ。答えろ。自分で死ぬか、私に殺されるか」
「…………わ、私は、」
掠れる声。
口の中はカラカラに乾ききり、呼吸も安定しない。
焦燥に駆られた精神が瞳をブレさせる。
退路は無い。
……いや、退路なんてモノは初めから無かった。
主人の怨嗟と血によって生まれ、長い年月をかけて意識を持った魔力の塊である彼に、この身体以外の行き場所などある筈が無い。
千載一遇の好機だったからこそ、書を手にしたパチュリー・ノーレッジに潜り込んだのだから。
こうなってしまっては、失敗だと諦めるより他に無い。
逃げ場は無く、立ち向かう相手はあの吸血鬼。
勝てる見込みなど、紙一枚分の厚さすら無い。
故に、
「私は……ッ!」
寄生体は、パチュリー・ノーレッジの力を解放することにした。
「っ!?」
それは、予期せぬ行動だった。
驚愕がレミリアとフランドールの顔に色濃く表れる。
あろうことか、彼は指揮下に置いたパチュリーの全魔力を解いたのである。
「馬鹿な――――暴走させる気か!?」
「その通りだ! 魔力なんて私の分が残っていればいい!」
人間は、肉体が脆弱であるが故に、脳が引き出せる力を制限している。
そうしなければ肉体が力に耐え切れず、壊れてしまうからだ。
魔法も同じくして、術者の肉体、精神が耐え切れるまでしか魔力は引き出せないようになっている。
過剰な魔力は術者を食い殺し、制御不能となった魔力はエネルギーが尽きるまで暴走し続ける。
だから魔法使いは、より強力な魔法を使うために、自身の魔力路の数を増やし、操れる魔力量を増やすための修行をしているのだ。
しかし寄生体に、そんな制限は関係が無い。
彼は肉体を拝借しているだけ。
自分と肉体と同化したとは言え、彼はいまだに“文字”としてパチュリーの体内で蠢いている。
言い換えれば、パチュリーの肉体が壊れたとしても、彼の魔力で補えば何の問題も無いのである。
痛みも神経と切り離せば感じることも無い。
脳が危険信号を出そうとも、受け付けなければ何の意味も果たさない。
だからこそ彼は心置きなく膨大なパチュリー・ノーレッジの魔力を解放出来るのである。
百年と言う歳月をかけて増やし続けた魔力路から導かれる魔力の量は、それこそこの紅魔館を吹き飛ばして有り余る。
単純な破壊力で言えば、妖怪の山さえも軽く消し炭にすることが出来よう。
それほどの魔力が脅威ではない筈が無く、仕留める気になればいつでも仕留めれると発言していたレミリアは、舌打ちせずにはいられなかった。
「フラン、お前は下がってろ」
「で、でも……」
「いいから退け! 後は私の問題だ!」
一喝され身を硬直させるも、フランドールは言う通りにした。
大きく頷き、急ぎ足でこの場から離脱する。
妹の姿が見えなくなったのを確認したレミリアは、ふっと不敵に笑って魔力を捻り出している敵へと視線を投げた。
「まさかそんな手で来るとはね。ちょっと予想外だったよ」
「それはどうも。私だって、こんなことになるとは思いもしなかった」
「……フン。借り物の魔力のくせに、大きいことを」
「借り物? 違うね。これはもう、私のモノだ。肉体も精神も同化したのだから、魔力だって私のモノよ」
バチバチっと蒼い稲妻がパチュリーの体に奔る。
大気のマナは拡散されるように流動し、まるで彼女の魔力に追い出されるように、逃げ場を求めていた。
不敵に笑うレミリアと、挑むように笑うパチュリー。
見つめ合う瞳は一つ欠けているとしても、お互いに良く知るモノだった。
飽きるほど見てきた友人の目。
しかし運命線はもう、真っ黒な線一本しかない。
だからこれはパチュリー・ノーレッジではない――自分にそう言い聞かせて、レミリアは口元を歪めた。
「そうだとしても、名前さえ思い出せないような輩に、私が倒せる訳無いだろう?」
「どうかな。元より、私にはもうコレしか無い。逃げ道など、どこにも無いのだから」
「何を言う。逃げ道ならあったじゃないか。お前は本から出てきた。なら――――本に還れば良かったんだよ」
「――――――」
思いもよらぬレミリアの発言に、寄生されたパチュリーが目を見開いた。
そんなこと、考えもしなかったと、態度が雄弁に物語っている。
「な、なにを馬鹿な。そんなことをすれば、書を燃やすに決まって、」
「器が小さいねぇ。私はともかく、パチェはそんなことはしないよ。貴様が謝れば、それで貴様は生き残れたのに」
「何を根拠にそんなことを言う」
「根拠? は、それこそ愚問だ。私たちは百年を超える交友があった。相手のことは自分以上に知っているつもりさ」
的確に返事を寄越すレミリアを前に、寄生体は閉口するしかなかった。
しかしもう引き返すことなど不可能だ。
パチュリーの口から歯軋りの音が漏れるのと同時に、彼女は吼えた。
「う、あ、ぁぁああああああっ……!」
両拳に、目に見えるほどの魔力が集中していく。
魔力のせいか黄金色に光り輝く拳。
眩むような光量を前にして、レミリアは静かに瞼を閉じた。
眩しさからではなく、ただ無念を飲み込むように。
「死ね――――!!」
大きくスイングをとり、まるで野球のボールを投げるように、その魔力の塊をレミリアに向かってブン投げた。
豪腕と称しても恥ずかしく無いほどの剛速球。
時速に換算すれば150km/hは軽く超えるであろう速度で打ち出された光弾が、一直線にレミリア目指して飛んでいく。
しかしレミリアは動かず。
瞳は閉じられたまま、ただ悠然と佇むのみ。
「は、ははは――――!」
勝利を確信した■■■が高らかに嘲笑した。
勝った、勝ったぞ、これで晴れて自由だ。
もう脅威はいない。
偉そうな態度だった割には弱いんじゃないか、ええ?
凝縮された魔力のボールがレミリアの顔面へと直撃し、
「――――は?」
彼は、信じられないモノを目にした。
「――――これで、本当にサヨナラだな」
血液が口へと逆流する。
堪らず、ごふ、と血塊を吐き出した。
彼が勝利の一撃を見た瞬間、腹部に鈍い衝撃があったのを感じた。
見てみると、いつの間にかレミリアがそこにいた。
何でだろう、と凝視してみると、それは。
「済まないねぇ、パチェ。結局はこうなってしまったよ」
ずずず、と引き抜かれていくソレ。
動かされる度に形容出来ないような痛みが走る。
腹部への衝撃の正体――――それは、レミリアの腕だった。
「ゴ、――――っ」
完全に腕が引き抜かれた瞬間、再び血塊を吐いていた。
赤ではない、どす黒い命の源が、ごっそりと抜け落ちてしまった。
どうしてこんなことに、と疑問の色を残したまま表情が凍った。
彼が勝利に酔った瞬間、レミリアは残像を発生させるほどの速さで彼の体に肉薄していた。
電撃的な速さは目には映らなかった。
痛みを認識した時、勝敗は決していたのだ。
彼はあまりに何も知らなさすぎた。
吸血鬼は、人間が思っている以上の肉体的アドバンテージがある。
彼女たちにとって、人間如きの目に止まらぬ速さで移動することなど、造作も無いことだったのだ。
レミリアはただ、高速で魔力の塊を避け、一撃を見舞っただけだった。
パチュリーの体が、ゆっくりと床へと転がる。
腹には、ぽっかりと孔が空いていた。
「お前も馬鹿だねぇ。あのまま魔力を集めずに四方八方に放散させていれば、勝つ目もあったろうに」
冷たい瞳で虫の息もいいところの、親友だった者を見下ろす。
レミリアの言葉に返事をする気力も無いのか、ただ小さな呼吸を繰り返すのみだ。
「生きたかったのなら、誰かに相談すれば良かったのに。幻想郷は懐が広いと言うのを知らなかったのか」
独白にも似たレミリアの言葉を、手に入れたばかりだった耳で聞き取りながら、彼の意識は深い闇へと落ちていった。
☆★☆
「あれからもう、一年が経つんですねぇ……」
私は今、お墓の前にいる。
今日は天気も良くて、爽やかな風もあって、絶好のお墓参り日和だったのだ。
そうじゃなくても今日は一回忌だったから、例え雨でもここへやってきただろうけれど。
「それにしても」
いつの間にか先客がいらっしゃったようだ。
結構早い時間に出てきたつもりだったのだけれど、熱心な人もいたものだ。
お墓に飾られた花はバラっぽいけれど、お墓にバラってどうなんだろう?
あんまり見かけないような気がするけれど。
とりあえず、置いてあったその赤いバラをどかして、お墓の拭き掃除をする。
石碑のように縦置きされたお墓には、十字架も何も無い。
お嬢様曰く、紅魔館が十字架なんて使うわけ無いだろう、だそうだ。
確かに言われてみれば、お嬢様は吸血鬼。
吸血鬼が十字架を立てるなんて、聞いたことが無い。
それで気になって調べてみた。
紅魔館は、建物自体は西洋風だけれど、なるほど、住人は吸血鬼だからか十字架をあしらった装飾は一つも無かった。
今まで何気なく暮らしていたせいで気がつかなかったけれど、ちゃんと建設する時に気を使ったようである。
マリア像みたいな物も無かったし、神聖なる物は一切無い。
かくいう私も小悪魔だから神聖さとは程遠い存在なので、その点で言えば恵まれた環境と言えるかもしれない。
「よいしょ、っと」
お墓を拭いた雑巾を、持ってきたバケツに入れて汚れを落とす。
雑巾を絞ると、途端に萎れてしまった。
実は私、この萎れた雑巾を見るのが結構好きだったりする。
理由は特に無いけれど、何だか安心すると言うかなんと言うか。
他人とズレているのは今に始まったことではないのでスルー。
「お」
絞り切った雑巾で残りの部分を拭こうと思ったら、お墓に鳥が舞い降りてきた。
ここは紅魔館を取り囲んでいる霧の湖と、森林豊かな魔法の森の狭間だからか、動物も寄って来やすいのかもしれない。
私は動物はおろか鳥も詳しくないので、残念ながら目の前の鳥が何と言うかはわからないけれど、見ているだけで心が落ち着く。
お腹の部分が白くて、目の部分が黒くて、後は全部茶色をしている。
泣き声はチチチ、と……後で図書館で調べてみよう。
調べ物は、最近の私の趣味だったりする。
これも全てご主人様のせいだ。
ご主人様が私を魔法使いの世界へと引きずり込んだから。
「ご主人様……」
お墓から鳥が逃げるように空へと飛んでいってしまった。
名残惜しく思いながらも、私は掃除を再開した。
「これでよし」
お墓の掃除も終わって、花もちゃんと活けたし、我ながら完璧だと思った。
前は駄目メイドとして日々を送っていたけれど、あの日を境に私は自分で言うのもアレだけれど、成長した。
魔法の修練も日々欠かさず行っているし、メイド業も咲夜さんにお願いして勉強させてもらっている。
知識をつけるために積極的に食指を動かしているし、調べ物も徹底的に行うようにした。
それが災いしてか、最近はお嬢様から「こぁがひねくれた」なんて言われ始めた。
そのつもりは無いのだけれど、やはり真理の探究者として活動をすると、他人からはそう見えるのかもしれない。
私もご主人様のことをそんな目で見ていた時期があったのを思い出す。
別にひねくれているわけじゃなくて、ただ真実が知りたいだけなのだけれど。
「もう掃除は終わったかしら?」
後ろから声を掛けられて振り向くと、いつの間にかアリスさんが立っていた。
掃除していたことを知っていると言うことは、結構前からいたのだろうか。
手には様々な種類の花が束ねられた包みが握られている。
「はい。もう終わりましたよ」
「そう。私も参らせてもらっていいかしら」
「あ、どうぞ」
そう答えると、アリスさんは花束をお墓の前に置いて、両手を合わせた。
神妙な顔つきである。
とっても美人なアリスさんがああいう顔をすると、凄く絵になるなぁ、なんて。
頭を下げた先のお墓には『パチュリー・ノーレッジ、ここに眠る』と書いてある。
「もう一年ね」
「……はい」
空を見上げる。
眩しい太陽、抜けるように明るい蒼い空。
雲はどこにもいなくて、実にすっきりとしている。
本当の本当に、今日は絶好の一周忌日和だ。
――一年前のあの日、私はご主人様の死に体を見た。
事を何も知らなかった私はいつも通り呑気に眠っていたのだが、そこに妹様がやってきて、
『どうしよう、お姉様とパチェが!』
泣きそうな顔でみんなを起こしまわっていたのだ。
流石に妖精たちは起こさなかったみたいだけれど、美鈴さんも起こされたし、私はもちろんのこと咲夜さんも起こされた。
……まあ、咲夜さんだけは全部把握していたみたいで、むしろ事態を飲み込めていなかった私と美鈴さんに説明をしてくれたのだった。
真相を聞いた私は慌てて聞きだした場所へと向かったのだけれど、そこで待っていたのは、血塗れの床に転がるご主人様の死体と、右腕を真っ赤にしたお嬢様の姿だった。
思わず絶叫してご主人様の体の元へと行こうとしたら、お嬢様に拒まれてしまった。
理由を尋ねると、何でも動かすな、の一点張り。
そんなの納得出来ないと喚き散らすと、今度は張り手が。
訳がわからなくて、その場で大泣きしてしまった。
それから二時間としないうちに、何故かアリスさんが紅魔館にやってきた。
朝焼けもまだと言う早朝に、どうしたのだろうと首を捻っていると、何とご主人様そっくりな人形を持ってきていたのだった。
「な、なんですか、これ?」
「何って。貴方の主人に依頼された品だけど? 全く、蝙蝠で起こしに来るなんて、何を考えているのやら」
凄く眠そうかつ不機嫌そうな顔つきのまま、私にその人形を預けてきた。
私は訳がわからないままその人形を受け取ると、
「言っておくけれど。この人形作るの大変だったんだからね? ずっと不眠不休だったんだから。ようやく眠れると思ったらこれだもんなぁ……」
と恨み言を言われてしまった。
顔を良く見ると、確かに目の下にはクマがあり、お肌もあまりよろしくない状態だった。
私自身も訳がわからなかったのだけれど、とりあえずお礼を言うと、彼女はフラフラの状態のまま帰ってしまった。
お代は後から請求するから、と言う一言を残して。
「――と言うわけなんですけど。何か知ってますか?」
ビンタされてから二時間も経たずのうちにお嬢様と顔を合わせるのは非常に辛かったけれど、アリスさんは蝙蝠がどうのこうのと言っていたので、蝙蝠を使う唯一の人物に聞くしかなく、泣く泣く声をかけたのだ。
そうしたらお嬢様はにやりと笑って、とんでも無いことを言ってくれた。
「ああ、これね。パチェの保険だよ」
「保険?」
「そうそう。こんなこともあろうかと、アリスに頼んでおいたらしくてね。だから私も心置きなく風穴開けちゃったんだけど」
お嬢様の証言によると、事の真相はこうだ。
魔道書の魔力に冒されたご主人様は、誰かにコンタクトを取ろうとしても、バレてしまっては命が無いのを知って、ずっと寄生体にバレないように行動していたらしい。
そのうちの一つが、アリスさんへ自分の魔道書を渡す際に手紙を挟んだ、と言うもの。
手紙の内容は『魔道書の罠にかかってピンチ。私とそっくりそのままの義体を作って』なるものだったとか。
アリスさんはそこから不眠不休で人形を作り続けた、と。
手紙を挟んだらそれがバレると思うのだけれど、どうやらそれを見越して“暗号”を用いたと言う。
魔法使いには優れた解読能力があり、ご主人様の手紙の暗号を解いたアリスさんは、その旨をお嬢様にも耳打ちした、と言う、側近とも呼べるべき私を差し置いて、色々と事が進んでいたのだった……!
おかげで私は終始なにも知らずで終わってしまった。
血を吐いた時でも気付けたはずなのに……私は本当に駄目なメイドである。
――と、そんな訳で。
「でもやっぱり、この墓標見たらみんな勘違いしますって」
「良いんじゃない? 死んだことには変わらないだろうし。それに相手が名無しじゃ、墓標も立てられないしね」
宝石みたいに小綺麗な青色の瞳をこちらに向けて、小さく笑うアリスさん。
どうやら同意を求められているらしい。
私はわざと困った表情を作って、それに応えた。
「それはそうですけど。でもご主人様の体を乗っ取った悪人ですよ?」
「確かにそうかもしれないけど。でもそれは彼女の未熟が招いたことよ。私だったら――」
「そんな稚拙な罠にはかからない、って?」
第三者の声に、私たちは二人して振り向いた。
――ご主人様だ。
「ご主人様!」
「まぁなんと言われても私の落ち度だから何も言えないけれどね」
「あら、潔いわね」
「魔法使いですから」
ふふ、と笑いあって、ご主人様がこちらへと寄って来た。
「それにしても、よく考えたわよね。あんなこと」
アリスさんがフォローするように言葉をかけてきた。
私もそれに便乗して相槌を打つ。
「脳が冒されなければ完全には死なないとは言え、人形に精神を移し変えるなんて」
「クスッ。構想自体は、もう大分昔からあったのよ。魂を魔力と織り交ぜて、器に注げば自分のコピーが出来るんじゃないかって」
「人形家業の私に、そんな大胆な発想は無かったけれど」
「魔力って生命力そのもの、ってよく聞くじゃない? そこでピンと来たの。怖くて実践なんて出来ないと思っていたけれど、そんなことも言っていられない事態に陥ったしね」
むしろ幸いだったわ、なんて呑気なことを言ってくれる。
もし失敗したらどうするつもりだったんだろう。
成功したから良いようなモノだけれど。
「とは言っても、まず魂を魔力化すること自体がとても難しいから。こぁはあと五十年もあれば身につけられるでしょうけど」
「ご、五十年ですか……」
「それでも早いほうよ。私が直に教えるからこそ、その早さで到達出来る。ありがたいと思いなさい」
「はい……」
相変わらずご主人様には頭が上がらない。
人形に自分の魔力を移すと聞いたときは、あの不気味なご主人様人形がカタカタと動くと思っていただけに、今までの生身と瓜二つの姿になったときは流石に唖然とした。
何でも、精神と言うのは肉体に大きく影響を与えるらしく、更に魔力でカバーしたので、ほぼ元の姿に戻ることが出来たとか何とか。
最早雲の上の話であんまり理解出来なかったけれど、ご主人様が死なずに済んだというだけで満足しよう、と妥協したのだった。
きっとそのうち、私の魔法使いレベルが上がれば理解出来るようになるだろうし。
「――――気持ちの良い風ね」
「ええ」
「はい」
少し強めの風が私たちの間を吹き抜けていった。
結局、今回の事変は紅魔館の中で内密に処理されることになった。
だから紅魔館以外の人は、誰も文字のお化けについても知らないし、ご主人様が殺されたことも知らない。
今日も今日とて幻想郷は平和に日常を廻している。
私も、大好きなご主人様の隣で、こうして――――。
/ Nameless Writer
どれだけの想いを込めたことだろう。
注射器で血を吸い上げ、朦朧とする意識の中で書き続けたこの一冊の本。
クリスチャン・ローゼンクロイツのせいで人生を壊されてしまったけれど、オレにはこれ以外の創作は出来ない。
どうせ書くなら無念が篭っていた方が良い。
いつかこの本が魔力を蓄えた頃、誰かが手に取ってくれれば、オレはまた戻ってこれる。
この時流の中では認められないかもしれないが、もっと言論の自由な時代が来るはずだ。
願わくば、その時代の人間に拾われんことを。
オレはただの名も無き――いや、罪人か――物書きとして一生を終える。
憧れた魔法使いは、遠いファンタジー世界だけのモノで、現世にはそんな者はいない。
いないからこそ創るのだ。
物質的に存在せずとも、心にあり続ける本を生み出す。
人々の心を捕らえて離さない、それこそクリスチャン・ローゼンクロイツを超えるほどの名作を。
そのためにはまず、肉体を手に入れなければ。
今のオレはもうすぐ死ぬ。
だから替えが必要だ。
そしてあわよくば、オレ自身がクリスチャン・ローゼンクロイツとなって世に君臨出来れば言うことは無い。
そのためにコレを執筆した。
二重の意味を持つ魔道書。
小説でありながら魔道書である、この本を。
さぁ、すぐそこに死への門が開いている。
もうここにはいられないと、門が口を開いて待っている。
だから行かなければ。
後は運に任せて、この本が焼かれず残りますように、と祈っておく。
ああ――――意識が遠くなっていく。
看守が何か言っているような気もするが、どうせ今のオレは罪人だ。
早くこの世からオサラバして楽になりたいんだ。
もうダメだ、眠い、ああでも、最後に一つだけ、祈らないと。
――――未来のオレに幸あれ。
FIN
なんという緻密さ
流石です
眠気も吹っ飛びました
今こそありがとうをいいたい!
こんなに長いのに、読んでて全くだれてこない、っていうのもすごい!
ただただ、あなたの文章力、構成力に感服するばかりです。
このような作品をありがとうございます!
何これ?
すっかり騙されながら読んでたw
凄い、久しぶりに小説ならではの世界観に浸れました。
いやぁ感服いたしました。
前作も楽しかったですが、これはまた作りこみが半端じゃない。
次回も期待しています。
ただ、何か物足りない部分も漠然と感じたのでこの点数で。
作中の出番を考えるとレミリア、オリキャラ、パチュリーだけで充分。
今回の内容はまた非常に良かったです。
オリキャラがすごく憎らしく、そしてとても悲しいキャラでした。
こういう界隈ではあまり好かれないのでしょうが、オリジナルを目指すあなたにとっては大成功といえるのでしょうね。
前作もそうでしたが、読み手によって意見が分かれるのも計算の内だと言ってましたね。
誰かの物語では無く、世界から見てこういう話があります。どうでしょうか?と言う作品だから尚更理解されがたいのかも知れないです。
それくらい小説家らしいあなたにとって、ここは少しやりにくいのかもしれないですね。
また次回以降どうなるかはわからないようですが楽しみにしています。
これからも良い作品を期待しています。
今回も例により細かい設定など、楽しむことが出来ました。
まさかの展開続きでわくわくしながら読めましたし、もうちょっと長くてもいいかなぁとも思えました。
次回作も頑張って下さい
序盤に小悪魔を打ち出してるのに対し、実質的に小悪魔が何をしたわけでもなく、薄く感じてしまいます。
できれば紅魔館のメンバーやアリスの工夫でパチュリーの肉体を維持して欲しかったと言うのが素直なところです。
人形に移せるからいいや的な結果はどうにもスッキリしないものを残り
あんなにあっさりぶち抜かれる相手に、パチュリーがあそこまであっさり乗っ取られるのかという失望を覚えました。
たいしたものだと思うけれど
パチュリー好きとしては絶対に納得はできない。
人形に移せばいいってのはなんか違うと感じた。
ただやはりここは二次創作をする場所なので、オリキャラを出すならタグに入れたほうがいいかと。
私が図書館組が好きだからかもしれませんが、最後のあたりで、小悪魔がなにかしら役目を果たして、パッチェさんが生き残るみたいな話だったらよかったのに、と思います。
ごめんなさい。
というかマイナスかな
無理にバッドエンドにしようとしたがびびってやめた感じ
敵役もガキそのもので全く魅力がない
長くてつまらないね