魔法の森は日の光が届かないほどの木々が覆い茂っていて相変わらず不気味だ。
それに加えてここ一週間の間、小雨よりも細かい雨がしとしとと降り続いている。
水の粒子は蒸発する事もなく、霧となって森全体を真っ白に染め上げ、不気味さを倍増させていた。
湿気はいつもの三割り増しといったところだろうか。
こんな日は森の茸が良く育つし、研究材料が増えてくれるいい機会でもあるが外に出るにはあまり良い天気とは言いがたい。
防水対策をしなければ気付かない内に衣服が水分を吸収し、あっという間にびしょびしょに濡れてしまう。
なのでここ数日は部屋から出てはいないし出ようという気にもならない。
室内は静かだが無音と言うわけではなく、カリカリと何かを削る音が時折室内に響き渡る。
「雨、止まないわね」
「当分はこのままだろう」
「お陰で久々の外出が台無しよ」
「というかアリスが外出するなんて珍しいよな。お前が嬉々として外を歩いてる姿なんか想像できないぜ」
「ちょっと、人を引きこもり見たいに言わないでくれる?」
「違うのか?てっきり都会育ちの温室魔法使いは外に出たがらないものだと思っていたんだが」
「野生育ちの野良魔法使いと違って必要な時以外は外出しないだけよ」
それを一般的に引きこもりと言うんじゃないのかと思ったが口には出さないでおいた。
どうせ何を言ったところで言い返されて口喧嘩に発展するのは目に見えている。
仕方が無いから今の所は引いておいてやろう。私は優しくて空気の読める女だからな。
なにより今は身動きが取れないし、迂闊な事を言ってコイツの神経を逆撫でするような言動は避けたかった。
ある意味生死を握られているといってもいい。
「おい、まだ終わらないのか」
「そんなに早く済むわけないでしょ。削り始めたばかりなんだし、その後もいろいろ手順があるんだから」
「たかが爪磨きでそんな手間がかかるなんて面倒臭いぜ。爪なんて爪切り一本あれば手入れできるじゃないか」
「そんな事言ってるからアンタの手は荒れるのよ。興味があるっていうから実際にやってあげようとしてるんじゃない」
「誰も実践してくれとは言ってないんだが」
「口で説明するよりもそっちの方が分かりやすいからよ」
そう言うとアリスは再び爪やすりで私の爪を削り始める。どうやら最後まで拘束する気らしい。
とは言ってもどうせ外は外出できるような天候ではないし、時間潰しには丁度いいのかもしれない。
そもそも何故こんな事になったのかと聞かれると深い様で浅い事情があった訳で。
◆
一週間もの間ずっと雨が降っていたと最初に言ったが、今日はいつもと少し様子が違って午前中の間だけ何故か雨が止んでいたのだ。
どうせまた降り出すだろうと思って家から出ずに研究をしていると予想通り午後から再び森が白く覆われ始めたのを見て、やはり外に出なくて正解だったと軽く安堵した。
それからしとしとと雨の降り注ぐ音が心地よくなってきた頃に、玄関のドアを叩く音。
こんな日に珍しいと思いながらとりあえずドアを開けてやると、そこにはアリスの姿があった。
「雨が止むまででいいわ。雨宿りさせて頂戴」
「お前が家を訪ねるなんて珍しいな。言っておくが今日中にこの雨は止まないぜ。明日の朝に雨が止んでたら僥倖だな」
よく見るとアリスの髪や服はびしょ濡れで床に水滴を滴らせていた。
肩の辺りで浮いていた上海人形も同じくびしょ濡れで。どことなく不機嫌そうなアリスの表情を見つつ、家の中へ入るよう促す。
とりあえずコイツに合うサイズの着替えなど持ち合わせていない私は無理矢理アリスを風呂に入れ、その間に軽くアリスの服を洗って八卦炉で乾かす。
コイツの大人っぽい下着を乾かしている時は妙な気分になったりもしたが、女同士なんだからおかしいことは何もないと自身に言い聞かせながらなんとか乾燥を終わらせた。
乾燥させた服を脱衣所に持っていってやると、風呂から上がったアリスとかち合う。
「お、丁度良い。服が乾いたから持ってきてやったぜ」
「服がもう乾いているなんて、八卦炉って本当に便利ね」
そのまま服を手渡して風呂場を後にしたが、一糸纏わぬアリスの裸体に一瞬思考が停止しそうになったのは内緒だ。
別に羨ましいとか悔しいとか思ったりはしていない。
一切思ったりしてない。そんな事は断じて、無い。
「なんでこんな日に外出なんかしてたんだ。魔法の森は一週間くらいずっと雨が降っていただろう」
「…知らなかったのよ。ここの最近は研究の為に部屋にこもりきりだったから」
「久々に外に出たのがたまたま晴れてた今日の午前中だったと。そりゃあ災難な事だな」
「最初はただの霧だと思って甘く見てたわ。気付いたら服がびしょ濡れになってるんだもの」
「それで近いとこにあった私の家に避難してきたって訳か」
「香霖堂に行く用事は果たせたから良かったものの、いつ止むのか分からないなんて」
はぁと疲れたような溜息を吐くアリス。その手には香霖堂で手に入れたと思われる紙袋。あまり外出しないコイツが何を買ったのか気になった。
「それで、香霖の所で何を貰ってきたんだ?」
「魔理沙と一緒にしないで。ちゃんとお代は払ってるんだから」
「私は死ぬまで借りてるだけだぜ」
「言ってなさい。…これは、爪の手入れ道具よ」
紙袋の中にはよく分からん道具がいくつか入っていた。爪やすりは辛うじて分かったが、その他の道具の用途が全く分からない。爪の手入れのためだけにそんなに道具が必要なのかという疑問とどういう用途で使うのかといった好奇心が同時に沸き上がる。
「なぁ、これは何に使うんだ」
「それはオレンジウッドスティックっていって爪の甘皮を押し上げる為に使うの」
「じゃあ、こっちは何だ?」
「そっちはバッファー。爪の表面を磨くものよ。って、なんだかやけに興味津々なのね」
「ちょっとした好奇心ってやつだ。知らん道具ばかりだからそりゃあ興味も出るさ」
片手に手入れ道具を持ちながら、片方の手の爪を見る。道具の用途は分かったが実際に使うとなるとやはり相当な手間がかかるようだ。
しばらく道具と自分の手を交互に眺めていると横から白い手が伸びてきて私の手を掴んだ。
「魔理沙の指先、相当荒れてるじゃない。ささくれは多いし爪先は欠けてるし。どうせ研究中に薬品を零したとかそんなところでしょうけど」
「研究の時にそんな事をいちいち気にしてる余裕はないからな」
「アンタは魔法使いである前に人間で、女の子でしょ」
「確かに私は可愛い女の子だが、研究中は女の子である前に人間の魔法使いだぜ」
「減らず口だけは一人前よね。いいわ、私が魔理沙の爪を手入れしてあげる。アンタは手入れ道具に興味があるみたいだし、口で説明するよりも実践した方が分かりやすいでしょ」
そう言うが否や、共に連れてきた人形を動かして手早く準備を始めた。
お湯を沸かして小さなボウルに入れたり、研究用に置いてある脱脂綿を持ってきたりとやりたい放題。
私は入念な手洗いを命じられたのでとりあえず大人しく従っておく。
コイツは人様の家だと分かっているんだろうか。人の事は言えた義理でもないが。
まぁ折角アリスがやってくれると言っている訳だし、それに甘えることにする。
手先は器用なのは認めるし、完璧主義のコイツの事だから綺麗にしてくれる筈だ。
「準備は出来たわ。ほら、手出して」
「ふん、アリスのお手並み拝見といこうじゃないか」
そう言ってアリスに向かって手を差し出し――
そして今に至るという訳だ。
爪の手入れをしている間は動く事も出来ないので手持ち無沙汰になるのは必然的だ。
出来る事といえば爪の手入れの観察くらい。
先端、両側、爪の角と規則正しい動きで爪やすりを動かし、爪の形を整える。一本一本の指の爪を優しく丁寧に削り、丸すぎず尖りすぎないように調節。
一見簡単に見える作業だが、爪やすりで削る角度なんかは慣れていないと削りすぎたり爪の形をうまく整えられなさそうだ。
そんなちまちました作業は私だったらすぐに飽きると思う。
「…ふう」
「お、もう終わったのか?」
「まだ片方しか整え終わってないでしょうに」
「一息ついてるから終わったものだと思ったぜ」
「そんな訳無いでしょ。削り終えた方の指をここに浸けておいて。ふやけるまでそのまま待機ね」
テーブルの上には次の作業の為の道具が人形達によって準備されていた。
ぬるま湯が満たされた透明なボウルに指を浸けてみると熱くもなく冷たくもない温度だった。
ふやけるまでってことは五分以上は浸けてないといけないってことか。
「うえ。まだやることがあるのか」
「ええ。まだやることはあるのよ。むしろ序の口ね」
少しばかりげんなりしはじめた私を尻目にアリスは黙々ともう片方の手の爪を整えている。
カリカリと爪を削る音と雨の降る音だけが室内を支配する。
削られている自分の爪を見ているのに飽きてきたので、手入れをしているアリスの指へと視線を移す。
やはりこうやってじっくり見るとアリスの指は綺麗だ。
爪先はこまめに手入れしているだけあって全ての指が均等な形に整っているし、爪の表面もつるつるに磨かれている。
「片方の手も削り終わったからボウルに浸けといて。最初に浸けてた方はもうふやけてるだろうからボウルから出してタオルで軽く水気を取っておいて頂戴」
「ああ。指先がふやけてしわしわだぜ。老人の手みたいだ」
「アンタも将来はそうなるのよ。人間のまま一生を終えるのならね」
「ふん。年を取っても若さってのは保てるんだよ」
「はいはい。水気を取ったんなら手を出して。今度は甘皮の処理をするから」
「甘皮ってこの、爪の付け根のとこの皮の事だっけ」
「そ。専用のクリームを塗って馴染ませてからコットンを巻きつけたこの棒で甘皮を取るの」
「なんつったっけ、それ……みかん棒?」
「オレンジウッドスティック。何でわざわざ和訳するのよ。まぁいいわ、これで端の方から円を描きながら押し上げていくと、ほら」
「お、おお…!甘皮が綺麗さっぱり無くなったぜ。ただの棒にしか見えないくせになかなかやるじゃないか、みかん棒」
「だからオレンジウッドスティックだってば。まぁ、他の指も一気にやっちゃうから大人しくしておいてね」
「へいへい」
そう言うとアリスは再び作業に没頭する。
今話しかけたらもれなく確実に非難がましい視線としつこい嫌味がプレゼントされることは間違いないだろう。
そうなると自分に出来る事はアリスの指の観察を再開する事くらいだ。
さっきは爪の事を言っていたが、勿論綺麗なのはそこだけに留まらない。
細くて長い指にふっくらしていて柔らかい掌、白くて極め細やかな肌はまるで一つの芸術品みたいだ。しなやかで繊細で、それでいて存在感があって。
人形を動かしている時の指はまるでピアノの旋律を奏でるかのように優雅で。…って、よく考えたらなんでここまでアリスの指について語ってるんだ。
あくまでも私は指の観察をしているのであって別に褒めてるわけではなくてだな。
まぁ落ち着けよ自分。
覚り妖怪じゃない限り心の声は誰にも分からないのに一体誰に言い訳してるんだ。
ほら、深呼吸でもしてもう少し穏やかになろうぜ。
心の中の戸惑いをもう一人の自分に宥められたのでとりあえず軽く深呼吸。
すーはーすーはー。
…よし、なんとか落ち着いたか。
「両手の甘皮処理が終わったわよ」
「へぇ、これだけでも随分と綺麗に見えるもんだな。あとは表面を磨いて終わりか?」
「その前に爪の表面にオイルを塗ってからね。じゃないと乾燥してしまうのよ」
「そんなところまで気を遣って時間と手間をかけるのか」
「そんなところって言っても自分の一部でしょ。細部まで手入れして労らないと些細な事でガタがくるわよ」
「道具や人形の整備なんかと同じにされてもなぁ」
「一緒よ。意思や自覚の有無はあれどね。さ、右手出して。表面を磨くから」
アリスが手にしたそれはアイスの棒より一、二回り大きくて厚い緩衝材に見えたが、ネイルバッファ―と呼ばれる爪の表面を均一に磨くものだそうだ。
これも外の世界から流れ着いたもので、人里にも置いてないらしく香霖の所で買ったのも入荷の知らせを受けたからだとかなんとか。
最初に爪の形を整えていた時のように一本一本丁寧に扱われ、ネイルバッファーが皮膚になるべく当たらないよう上手く角度を調節しているようだった。
別に当たっても痛くはないし別に気にしないのだが、アリスのプライドがそれを許さないらしい。
全く、完璧主義ってのも考えものだよなぁ。
雨の音は継続して耳に入ってきていたから止んでいるとは思っていなかったが、気になってふと窓の方へと視線を向けると窓から見える景色は霧一色と呼べるほど真っ白だった。
この様子だと明日もこのままか、よくて霧が薄くなる程度か。
雨足が一定の強さと音程を保っていることから雨雲は当分の間魔法の森を拠点に居座る気なんだろう。
息を吐き出すように小さく笑う。
雨は嫌いじゃない。
だが今のような霧の雨なのか霧と雨なのか曖昧ではっきりとしないのは好きじゃない。
手が拘束されていなければ家を飛び出し八卦炉に目一杯魔力を流し込んでマスタースパークを雨雲に向かってぶち込んでやったのに。
よく分からないが腹のあたりがむかむかして、感情がぐるぐると渦巻いて気分が悪い。
一度気にすると自分では抜け出せなくなるからなるべく考えないようにしてたのに、しくじった。
雨は嫌いじゃないが、こんな天候は見ていて胸糞が悪い。ああもう、窓の景色なんて見なけりゃ良かった。
「…力、抜いて。磨きにくいわ」
「あ…?あ、ああ、すまん。ちょっと考え事をしてたもんでな」
「ずっと動けなくて疲れてるのは分かるけど。もう少しで終わるから辛抱して」
「おお、いつの間にか殆ど磨き終わってるじゃないか。仕事が早いな」
「魔理沙が珍しく大人しかったお陰でスムーズに作業が出来たからよ。あとは乾燥しないように爪にオイルを塗るから」
「うお、こそばゆい」
「ちょっと、動かないでよ。さっきまで大人しかったんだからこれぐらいどうってことないでしょ」
そう言われてもこそばゆいものはこそばゆい。
甘皮があった部分に染み込ませるようにして刷毛をこちょこちょと動かされ、アリスにそのつもりがなくてもくすぐったさを感じて反射的に身体が動いてしまう。
「手の方も手入れをして、それで仕上げにするわ」
「それは?」
「自作のハンドクリーム。ちなみにさっき塗ったオイルも同じよ。里に売ってる物も香霖堂にあったものも私には合わないから」
「爪に塗ってたオイルは確かに柑橘系の香りがするな。どっちも同じ材料から作ってるのか」
「ええ。基本的にはどちらも同じものよ。別々の材料から作ると手間だし、何より香りが混ざって喧嘩してしまうから」
「なるほどな」
「じゃ、塗っていくから手の甲を上にして開いて」
「おう」
アリスの指が優しく触れる。
そこから徐々に範囲を広げて指全体、掌、手の甲に薄く塗布し、馴染ませるように何度も撫でられ。
マッサージを兼ねているのか掌を揉むように指が往復したり、指の付け根に馴染ませる為に恋人繋ぎのように指を絡ませたりして正直少しだけ焦った。
アリスの方はというと特に気にしてる様子も無く、淡々と私の指を撫でてはクリームを塗っていた。
私だけが意識しているみたいで何となく悔しい気持ちになったが、それ以上にアリスの指に撫でられるのが気持ち良くて、私の些細な悔しさなんてあっという間に霧散してしまう。
アリスの手や指が動くたびに惹かれ、目を奪われて。
さっきまで捉われてた暗い思考も解されて、溶かされて。
何も、考えられなくなる。
「気持ち良い?」
「…ん」
「さっきより表情が柔らかいから。強張ってたものが解れたみたい」
「気付いてたのか」
「窓の外を睨みつけてたらそりゃあね。ま、今は大分落ち着いてるようだけど」
「まぁ、こんな天気が続いてたらどこにも出かけられないからな。あちこち散策も出来やしないわ弾幕ごっこが出来ないわでフラストレーションも溜まるってもんだ」
「確かにたかが雨でここまで行動が制限されるなんて思わなかったわ。はぁ、家に帰ったら湿気対策と防水対策を強化しないと」
アリスは何も聞かない。
他人に干渉しない、他人に無関心というスタンスから不用意に踏み込んでくることがないのでありがたい。まぁ、人の家で雨宿りしたり他人の爪の手入れなんかしてる時点で十分干渉している事になるのだが。
何度か異変解決の為に手を組んだりしたこともあってそれなりにこいつの事を見てきた。
普段はどこぞのメイドみたいに無駄なくそつなく物事をこなす癖にどこか抜けている部分があって、干渉しないと言いつつ異変解決に動くこともあれば、神社の宴会や紅魔館のパーティにだって顔を出したりもする。
妖怪の癖に行動がどこか人間臭い奴で。私はそんなアリスの事が嫌いじゃない。
いや、むしろ―
「爪先の手入れ、終わったわよ」
もう少しあのマッサージを受けていたかった。その時間が終わってしまう。
名残惜しくて咄嗟にアリスの手を掴んだ。
「一応トップコートは塗っておいたから……って何、どうかした?」
「あ…いや、すまん。掌が、まだ凝ってるみたいでな。もう少し、続けて欲しい」
片言でしかも途切れ途切れの不格好で情けない台詞。
自分の口から出た言葉はなんとも嘘臭くて挙動不審なものだった。噛まなかったのは不幸中の幸いか。
「別に凝ってなかったと思うけど…ま、いいわ。揉み返しがこない程度でならやってあげる」
「…サンキュ」
不自然だったであろうこちらの要求を受け入れ、再び私の手をマッサージしようとしてはたと止めた。
一瞬私の思惑がばれたのかと肝が冷えたがアリスの顔を見るとそうではないらしく、何かを思い出したような表情で、
「…ああ、忘れてたわ」
そう呟いたかと思うと、まるで王子様がお姫様の手をとるような持ち方で私の指先を持ち上げ、
「ん…」
「………ぁ?」
そのまま、指先に口付けた。
王子様がお姫様にキスするかの如く。
その衝撃的な光景に私は何をするでもなくただ唖然として見ているだけ。
あとは指先に感じる柔らかな感触を認識するのに精一杯だった。
「最後のお呪い、忘れてたわ」
「…おまじない?」
「母の受け売りでね。爪の手入れの仕上げに指先にキスをするのが習慣付いていたから」
お呪いと言われたらこっちもそうなのかと頷くしかなく、未ださっきの衝撃から抜けきれない頭でキスされた指先を見つめる。
指先にキスされた位でと思うかもしれないがこっちは完全に不意打ちだった。予想外だった。
そして妙に恥ずかしい。顔が熱くて溶けてしまいそうだ。
「じゃ、マッサージ続けるわね。痛かったら言って頂戴」
「…ああ」
アリスが手に優しく触れる度に、私は痛みを覚える。
物理的な痛みじゃなくて疼くような、こそばゆいようなそんな痛み。
心臓がばくばく動いて破裂しそうなくらい暴れまわって、痛くて痛くて、ある意味死にそうだ。
こんな拷問のような時間が過ぎてしまえばいいと思いつつも終わって欲しくはなく。
もっとアリスの手に触れていたくても、長いこと触れられると頭がどうにかなりそうで。
相反する思いが私をきりきりと締め付け、精神を蝕まれているようだった。
―この痛みは何なんだ、一体。
「なんか、脈がすごく速いけど。大丈夫?」
「マッサージのお陰で血行が良くなってるんだろ。問題無い」
「そう?ならいいけど。手の体温も上がってるし、マッサージはこれくらいにしましょう。これ以上やっても負担にしかならないから」
「あ…そう、か」
延長時間およそ十分のマッサージがようやく終了した。
自分から頼んでおいてなんだが、正直きつかった。これほどまでにしんどさを覚えるとは思っていなかった。
マッサージだけならこうはならなかったと思う。
あの、“お呪い”さえなければ心臓が破裂しそうになることも、精神が疲弊することもなかった。
何故ここまで自分が動揺しているのか、よく分からない。
理由もなければそんな感情もない筈、なのに。
ともかく、だ。
これで終わった。ようやく終わったんだ。あの苦痛…ではなく居心地の悪さから解放された。
どっと疲れが来たようで、少しだけ肩の力を抜いて椅子の背もたれに寄り掛かるとパキパキと節々の関節が鳴った。
「は、ぁ…」
「長い事同じ体勢でいたから疲れたでしょ」
「お前ほどじゃないけど流石長時間はきついな。まぁ、軽く屈伸でもすりゃあよくなるだろ」
「関節を鳴らすのは程々にね。なんにせよ、魔理沙もお疲れ様」
そう言って私の手を持ち上げ、
今度は掌に、口付けを一つ。
「“お呪い”。マッサージの仕上げを忘れるところだったわ」
「………ん、な…っ」
駄目押しの一手。不意打ちの追い打ち。
油断していたら綺麗にぶち込まれた痛恨の一撃。とどめなんてレベルじゃない。
少し前にアリスの事を嫌いじゃないと言ったが、取り消す。
前言撤回だ。
人が苦労してる横で何でもないって顔して大抵の事をなんなくこなす癖にたまにポカやらかすわ、関係ないとか言っておきながら世話は焼くわお節介は焼くわ、面倒くさいとか言っておきながら気付くと宴会に参加している変な奴で。
妖怪の癖に行動がどこか人間みたいに不規則なこともあるせいで今日は盛大な不意打ちを食らわせられて。
私はきっと、そんなアリスが気に食わないんだ。
いちいち私の気持ちを掻き乱して、混乱させて。
お前は一体、何がしたいんだ。
「魔理沙の手って柔らかくて温かいわね」
「―――っ!!」
柔らかいのはお前の手だろ。温かいのもお前の方だろ。
っていうか手を放せ、自分の頬に私の掌を押し付けるな擦り付けるな。だからといって今度は鼻を押しつけて匂いを嗅ぐな良い匂いとか言うな。それはお前が塗ったクリームの香りだろうが。太陽の匂いがするとかそんな訳分からん事言うんじゃない。指の腹をぷにぷにして遊ぶな。お前の掌と私の掌くっつけて大きさの比較とか結果が分かってるんだからやるなよ。私の方が小さいのは目に見えてるだろ分かるだろ?なのに笑顔で可愛いとか言ってそのまま恋人繋ぎで手を握られたらヤバいくらい顔が熱くなるわまた心臓破裂しそうになるわでいっそもう死にたいああもうこんちくしょう。
「…ほんとに、温かい。こうしてると同じ体温になれるのかしら」
限界だった。
このまま二人きりで居続けると確実に精神が崩壊すると判断した私は八卦炉を引っ掴んで外へ飛び出した。
後ろの方でアリスの声が聞こえるがそんなものは気にしない。
森の中を走りに走って、空がよく見える場所に行き、天に向かって八卦炉を突き出す。
「もとはと言えばこんな所に雨雲が留まるから…っ!!」
八つ当たり上等。
それでこの気持ちも天気も晴れるのならそれでいい。その他は知ったこっちゃない。
喉が枯れる程の咆哮をあげ、それと同時に魔力を絞り出す。
「っああああああああ!!!!!」
アリスへのよく分からん気持ちと魔力をありったけ八卦炉に送り込み、最大出力でスペルを唱えた。
「恋符・マスタースパァーク!!!!!」
小さな炉から放たれる、いつもより五割増しの太い光。気のせいか放出速度も倍以上で、七色の光を発してまるで虹の様だ。
視界がチカチカして身体のあちこちが悲鳴をあげるが関係ない。
極太の光線は天に向かって一直線に伸びる。空を覆う灰色の分厚い雲をぶち抜き、そして弾けた。
雲の合間から覗く久々の太陽。
虫食い状態ではあったが、森のあちこちに光が差し込んでいる。こういう光景を外の世界では天使の梯子というらしい。
「へへ…、ざまあ…みろ…!」
私が放った虹色の魔砲はそのまま架け橋になり空を彩る。
雲の壁を散り散りにしたことで魔法の森を覆っていた過剰な湿気は消し去り、何時もの湿度に戻るだろう。
そんな幻想的な光景を見ながら、私は静かに目を閉じた。
なんか身体中痛いわ重いわ物凄い脱力感はあるわでぼろぼろだが、すっきりした。
全力全開で放った魔砲はそりゃあもう清々しいくらいに色々な物を吹き飛ばしてくれたようだ 。
これでもやもやしたアイツへの気持ちも、少しはハッキリしたかもしれない。
目が覚めたら全部、ぶつけてやる。
そう心に決めて、眠りについた。
― 三日後。
「人が折角手入れした爪をもうボロボロにするとか何なの?いきなり雨の中突っ走ってしかも生命力削る程の魔力使ってスペル発動とか馬鹿なの?死ぬの?」
「むしゃくしゃしてやった。後悔はしていない」
「死ぬところだったんだから少しくらい後悔しなさいよ!あんなんで死なれたら私が後味悪いでしょ!?」
「煩いな。私は何にも悪くない。全部アリスが悪い」
「何でもかんでも人の所為にしないでよ、もう。ホントに心配、したんだから」
「そう思うなら少しは労れよ。私は病人なんだから優しくしてくれ」
「ったくアンタは…。なんか、目が覚めてからふてぶてしさが増したわね」
「ふん。色々吹っ切れただけだ。悩んでるのは性に合わないからな」
「あ、そ。それにしてもあの時、空に放ったスペルって魔理沙お得意の、あの魔砲よね?それにしては倍…いえ、それ以上の太さだったし、色が七色の虹みたいだったし…。あれはどういう事なの?」
「私にもよく分からん。アリスへの鬱憤と魔力をありったけ放出したらああなった。七色の称号も私のものだな」
「…鬱憤だけで言うなら魔理沙よりも私の方が確実に多い自信があるわ。それと人の二つ名まで勝手に盗らないで」
「あれは発動条件が特殊だからな。七色の称号を完全に手にするには実戦向きに改良する必要があるか…」
「だからあげるなんて言ってないし、アンタに譲渡する気も一切無いから」
「そう言っていられるのも今の内だ。称号もろともお前ごと手にしてやるからな」
「………は?」
「………あ?」
「……………」
「……………」
一悶着があった後、改良を加えずとも虹色の魔砲をバカスカ撃てるようになったのはまた別のお話。
それに加えてここ一週間の間、小雨よりも細かい雨がしとしとと降り続いている。
水の粒子は蒸発する事もなく、霧となって森全体を真っ白に染め上げ、不気味さを倍増させていた。
湿気はいつもの三割り増しといったところだろうか。
こんな日は森の茸が良く育つし、研究材料が増えてくれるいい機会でもあるが外に出るにはあまり良い天気とは言いがたい。
防水対策をしなければ気付かない内に衣服が水分を吸収し、あっという間にびしょびしょに濡れてしまう。
なのでここ数日は部屋から出てはいないし出ようという気にもならない。
室内は静かだが無音と言うわけではなく、カリカリと何かを削る音が時折室内に響き渡る。
「雨、止まないわね」
「当分はこのままだろう」
「お陰で久々の外出が台無しよ」
「というかアリスが外出するなんて珍しいよな。お前が嬉々として外を歩いてる姿なんか想像できないぜ」
「ちょっと、人を引きこもり見たいに言わないでくれる?」
「違うのか?てっきり都会育ちの温室魔法使いは外に出たがらないものだと思っていたんだが」
「野生育ちの野良魔法使いと違って必要な時以外は外出しないだけよ」
それを一般的に引きこもりと言うんじゃないのかと思ったが口には出さないでおいた。
どうせ何を言ったところで言い返されて口喧嘩に発展するのは目に見えている。
仕方が無いから今の所は引いておいてやろう。私は優しくて空気の読める女だからな。
なにより今は身動きが取れないし、迂闊な事を言ってコイツの神経を逆撫でするような言動は避けたかった。
ある意味生死を握られているといってもいい。
「おい、まだ終わらないのか」
「そんなに早く済むわけないでしょ。削り始めたばかりなんだし、その後もいろいろ手順があるんだから」
「たかが爪磨きでそんな手間がかかるなんて面倒臭いぜ。爪なんて爪切り一本あれば手入れできるじゃないか」
「そんな事言ってるからアンタの手は荒れるのよ。興味があるっていうから実際にやってあげようとしてるんじゃない」
「誰も実践してくれとは言ってないんだが」
「口で説明するよりもそっちの方が分かりやすいからよ」
そう言うとアリスは再び爪やすりで私の爪を削り始める。どうやら最後まで拘束する気らしい。
とは言ってもどうせ外は外出できるような天候ではないし、時間潰しには丁度いいのかもしれない。
そもそも何故こんな事になったのかと聞かれると深い様で浅い事情があった訳で。
◆
一週間もの間ずっと雨が降っていたと最初に言ったが、今日はいつもと少し様子が違って午前中の間だけ何故か雨が止んでいたのだ。
どうせまた降り出すだろうと思って家から出ずに研究をしていると予想通り午後から再び森が白く覆われ始めたのを見て、やはり外に出なくて正解だったと軽く安堵した。
それからしとしとと雨の降り注ぐ音が心地よくなってきた頃に、玄関のドアを叩く音。
こんな日に珍しいと思いながらとりあえずドアを開けてやると、そこにはアリスの姿があった。
「雨が止むまででいいわ。雨宿りさせて頂戴」
「お前が家を訪ねるなんて珍しいな。言っておくが今日中にこの雨は止まないぜ。明日の朝に雨が止んでたら僥倖だな」
よく見るとアリスの髪や服はびしょ濡れで床に水滴を滴らせていた。
肩の辺りで浮いていた上海人形も同じくびしょ濡れで。どことなく不機嫌そうなアリスの表情を見つつ、家の中へ入るよう促す。
とりあえずコイツに合うサイズの着替えなど持ち合わせていない私は無理矢理アリスを風呂に入れ、その間に軽くアリスの服を洗って八卦炉で乾かす。
コイツの大人っぽい下着を乾かしている時は妙な気分になったりもしたが、女同士なんだからおかしいことは何もないと自身に言い聞かせながらなんとか乾燥を終わらせた。
乾燥させた服を脱衣所に持っていってやると、風呂から上がったアリスとかち合う。
「お、丁度良い。服が乾いたから持ってきてやったぜ」
「服がもう乾いているなんて、八卦炉って本当に便利ね」
そのまま服を手渡して風呂場を後にしたが、一糸纏わぬアリスの裸体に一瞬思考が停止しそうになったのは内緒だ。
別に羨ましいとか悔しいとか思ったりはしていない。
一切思ったりしてない。そんな事は断じて、無い。
「なんでこんな日に外出なんかしてたんだ。魔法の森は一週間くらいずっと雨が降っていただろう」
「…知らなかったのよ。ここの最近は研究の為に部屋にこもりきりだったから」
「久々に外に出たのがたまたま晴れてた今日の午前中だったと。そりゃあ災難な事だな」
「最初はただの霧だと思って甘く見てたわ。気付いたら服がびしょ濡れになってるんだもの」
「それで近いとこにあった私の家に避難してきたって訳か」
「香霖堂に行く用事は果たせたから良かったものの、いつ止むのか分からないなんて」
はぁと疲れたような溜息を吐くアリス。その手には香霖堂で手に入れたと思われる紙袋。あまり外出しないコイツが何を買ったのか気になった。
「それで、香霖の所で何を貰ってきたんだ?」
「魔理沙と一緒にしないで。ちゃんとお代は払ってるんだから」
「私は死ぬまで借りてるだけだぜ」
「言ってなさい。…これは、爪の手入れ道具よ」
紙袋の中にはよく分からん道具がいくつか入っていた。爪やすりは辛うじて分かったが、その他の道具の用途が全く分からない。爪の手入れのためだけにそんなに道具が必要なのかという疑問とどういう用途で使うのかといった好奇心が同時に沸き上がる。
「なぁ、これは何に使うんだ」
「それはオレンジウッドスティックっていって爪の甘皮を押し上げる為に使うの」
「じゃあ、こっちは何だ?」
「そっちはバッファー。爪の表面を磨くものよ。って、なんだかやけに興味津々なのね」
「ちょっとした好奇心ってやつだ。知らん道具ばかりだからそりゃあ興味も出るさ」
片手に手入れ道具を持ちながら、片方の手の爪を見る。道具の用途は分かったが実際に使うとなるとやはり相当な手間がかかるようだ。
しばらく道具と自分の手を交互に眺めていると横から白い手が伸びてきて私の手を掴んだ。
「魔理沙の指先、相当荒れてるじゃない。ささくれは多いし爪先は欠けてるし。どうせ研究中に薬品を零したとかそんなところでしょうけど」
「研究の時にそんな事をいちいち気にしてる余裕はないからな」
「アンタは魔法使いである前に人間で、女の子でしょ」
「確かに私は可愛い女の子だが、研究中は女の子である前に人間の魔法使いだぜ」
「減らず口だけは一人前よね。いいわ、私が魔理沙の爪を手入れしてあげる。アンタは手入れ道具に興味があるみたいだし、口で説明するよりも実践した方が分かりやすいでしょ」
そう言うが否や、共に連れてきた人形を動かして手早く準備を始めた。
お湯を沸かして小さなボウルに入れたり、研究用に置いてある脱脂綿を持ってきたりとやりたい放題。
私は入念な手洗いを命じられたのでとりあえず大人しく従っておく。
コイツは人様の家だと分かっているんだろうか。人の事は言えた義理でもないが。
まぁ折角アリスがやってくれると言っている訳だし、それに甘えることにする。
手先は器用なのは認めるし、完璧主義のコイツの事だから綺麗にしてくれる筈だ。
「準備は出来たわ。ほら、手出して」
「ふん、アリスのお手並み拝見といこうじゃないか」
そう言ってアリスに向かって手を差し出し――
そして今に至るという訳だ。
爪の手入れをしている間は動く事も出来ないので手持ち無沙汰になるのは必然的だ。
出来る事といえば爪の手入れの観察くらい。
先端、両側、爪の角と規則正しい動きで爪やすりを動かし、爪の形を整える。一本一本の指の爪を優しく丁寧に削り、丸すぎず尖りすぎないように調節。
一見簡単に見える作業だが、爪やすりで削る角度なんかは慣れていないと削りすぎたり爪の形をうまく整えられなさそうだ。
そんなちまちました作業は私だったらすぐに飽きると思う。
「…ふう」
「お、もう終わったのか?」
「まだ片方しか整え終わってないでしょうに」
「一息ついてるから終わったものだと思ったぜ」
「そんな訳無いでしょ。削り終えた方の指をここに浸けておいて。ふやけるまでそのまま待機ね」
テーブルの上には次の作業の為の道具が人形達によって準備されていた。
ぬるま湯が満たされた透明なボウルに指を浸けてみると熱くもなく冷たくもない温度だった。
ふやけるまでってことは五分以上は浸けてないといけないってことか。
「うえ。まだやることがあるのか」
「ええ。まだやることはあるのよ。むしろ序の口ね」
少しばかりげんなりしはじめた私を尻目にアリスは黙々ともう片方の手の爪を整えている。
カリカリと爪を削る音と雨の降る音だけが室内を支配する。
削られている自分の爪を見ているのに飽きてきたので、手入れをしているアリスの指へと視線を移す。
やはりこうやってじっくり見るとアリスの指は綺麗だ。
爪先はこまめに手入れしているだけあって全ての指が均等な形に整っているし、爪の表面もつるつるに磨かれている。
「片方の手も削り終わったからボウルに浸けといて。最初に浸けてた方はもうふやけてるだろうからボウルから出してタオルで軽く水気を取っておいて頂戴」
「ああ。指先がふやけてしわしわだぜ。老人の手みたいだ」
「アンタも将来はそうなるのよ。人間のまま一生を終えるのならね」
「ふん。年を取っても若さってのは保てるんだよ」
「はいはい。水気を取ったんなら手を出して。今度は甘皮の処理をするから」
「甘皮ってこの、爪の付け根のとこの皮の事だっけ」
「そ。専用のクリームを塗って馴染ませてからコットンを巻きつけたこの棒で甘皮を取るの」
「なんつったっけ、それ……みかん棒?」
「オレンジウッドスティック。何でわざわざ和訳するのよ。まぁいいわ、これで端の方から円を描きながら押し上げていくと、ほら」
「お、おお…!甘皮が綺麗さっぱり無くなったぜ。ただの棒にしか見えないくせになかなかやるじゃないか、みかん棒」
「だからオレンジウッドスティックだってば。まぁ、他の指も一気にやっちゃうから大人しくしておいてね」
「へいへい」
そう言うとアリスは再び作業に没頭する。
今話しかけたらもれなく確実に非難がましい視線としつこい嫌味がプレゼントされることは間違いないだろう。
そうなると自分に出来る事はアリスの指の観察を再開する事くらいだ。
さっきは爪の事を言っていたが、勿論綺麗なのはそこだけに留まらない。
細くて長い指にふっくらしていて柔らかい掌、白くて極め細やかな肌はまるで一つの芸術品みたいだ。しなやかで繊細で、それでいて存在感があって。
人形を動かしている時の指はまるでピアノの旋律を奏でるかのように優雅で。…って、よく考えたらなんでここまでアリスの指について語ってるんだ。
あくまでも私は指の観察をしているのであって別に褒めてるわけではなくてだな。
まぁ落ち着けよ自分。
覚り妖怪じゃない限り心の声は誰にも分からないのに一体誰に言い訳してるんだ。
ほら、深呼吸でもしてもう少し穏やかになろうぜ。
心の中の戸惑いをもう一人の自分に宥められたのでとりあえず軽く深呼吸。
すーはーすーはー。
…よし、なんとか落ち着いたか。
「両手の甘皮処理が終わったわよ」
「へぇ、これだけでも随分と綺麗に見えるもんだな。あとは表面を磨いて終わりか?」
「その前に爪の表面にオイルを塗ってからね。じゃないと乾燥してしまうのよ」
「そんなところまで気を遣って時間と手間をかけるのか」
「そんなところって言っても自分の一部でしょ。細部まで手入れして労らないと些細な事でガタがくるわよ」
「道具や人形の整備なんかと同じにされてもなぁ」
「一緒よ。意思や自覚の有無はあれどね。さ、右手出して。表面を磨くから」
アリスが手にしたそれはアイスの棒より一、二回り大きくて厚い緩衝材に見えたが、ネイルバッファ―と呼ばれる爪の表面を均一に磨くものだそうだ。
これも外の世界から流れ着いたもので、人里にも置いてないらしく香霖の所で買ったのも入荷の知らせを受けたからだとかなんとか。
最初に爪の形を整えていた時のように一本一本丁寧に扱われ、ネイルバッファーが皮膚になるべく当たらないよう上手く角度を調節しているようだった。
別に当たっても痛くはないし別に気にしないのだが、アリスのプライドがそれを許さないらしい。
全く、完璧主義ってのも考えものだよなぁ。
雨の音は継続して耳に入ってきていたから止んでいるとは思っていなかったが、気になってふと窓の方へと視線を向けると窓から見える景色は霧一色と呼べるほど真っ白だった。
この様子だと明日もこのままか、よくて霧が薄くなる程度か。
雨足が一定の強さと音程を保っていることから雨雲は当分の間魔法の森を拠点に居座る気なんだろう。
息を吐き出すように小さく笑う。
雨は嫌いじゃない。
だが今のような霧の雨なのか霧と雨なのか曖昧ではっきりとしないのは好きじゃない。
手が拘束されていなければ家を飛び出し八卦炉に目一杯魔力を流し込んでマスタースパークを雨雲に向かってぶち込んでやったのに。
よく分からないが腹のあたりがむかむかして、感情がぐるぐると渦巻いて気分が悪い。
一度気にすると自分では抜け出せなくなるからなるべく考えないようにしてたのに、しくじった。
雨は嫌いじゃないが、こんな天候は見ていて胸糞が悪い。ああもう、窓の景色なんて見なけりゃ良かった。
「…力、抜いて。磨きにくいわ」
「あ…?あ、ああ、すまん。ちょっと考え事をしてたもんでな」
「ずっと動けなくて疲れてるのは分かるけど。もう少しで終わるから辛抱して」
「おお、いつの間にか殆ど磨き終わってるじゃないか。仕事が早いな」
「魔理沙が珍しく大人しかったお陰でスムーズに作業が出来たからよ。あとは乾燥しないように爪にオイルを塗るから」
「うお、こそばゆい」
「ちょっと、動かないでよ。さっきまで大人しかったんだからこれぐらいどうってことないでしょ」
そう言われてもこそばゆいものはこそばゆい。
甘皮があった部分に染み込ませるようにして刷毛をこちょこちょと動かされ、アリスにそのつもりがなくてもくすぐったさを感じて反射的に身体が動いてしまう。
「手の方も手入れをして、それで仕上げにするわ」
「それは?」
「自作のハンドクリーム。ちなみにさっき塗ったオイルも同じよ。里に売ってる物も香霖堂にあったものも私には合わないから」
「爪に塗ってたオイルは確かに柑橘系の香りがするな。どっちも同じ材料から作ってるのか」
「ええ。基本的にはどちらも同じものよ。別々の材料から作ると手間だし、何より香りが混ざって喧嘩してしまうから」
「なるほどな」
「じゃ、塗っていくから手の甲を上にして開いて」
「おう」
アリスの指が優しく触れる。
そこから徐々に範囲を広げて指全体、掌、手の甲に薄く塗布し、馴染ませるように何度も撫でられ。
マッサージを兼ねているのか掌を揉むように指が往復したり、指の付け根に馴染ませる為に恋人繋ぎのように指を絡ませたりして正直少しだけ焦った。
アリスの方はというと特に気にしてる様子も無く、淡々と私の指を撫でてはクリームを塗っていた。
私だけが意識しているみたいで何となく悔しい気持ちになったが、それ以上にアリスの指に撫でられるのが気持ち良くて、私の些細な悔しさなんてあっという間に霧散してしまう。
アリスの手や指が動くたびに惹かれ、目を奪われて。
さっきまで捉われてた暗い思考も解されて、溶かされて。
何も、考えられなくなる。
「気持ち良い?」
「…ん」
「さっきより表情が柔らかいから。強張ってたものが解れたみたい」
「気付いてたのか」
「窓の外を睨みつけてたらそりゃあね。ま、今は大分落ち着いてるようだけど」
「まぁ、こんな天気が続いてたらどこにも出かけられないからな。あちこち散策も出来やしないわ弾幕ごっこが出来ないわでフラストレーションも溜まるってもんだ」
「確かにたかが雨でここまで行動が制限されるなんて思わなかったわ。はぁ、家に帰ったら湿気対策と防水対策を強化しないと」
アリスは何も聞かない。
他人に干渉しない、他人に無関心というスタンスから不用意に踏み込んでくることがないのでありがたい。まぁ、人の家で雨宿りしたり他人の爪の手入れなんかしてる時点で十分干渉している事になるのだが。
何度か異変解決の為に手を組んだりしたこともあってそれなりにこいつの事を見てきた。
普段はどこぞのメイドみたいに無駄なくそつなく物事をこなす癖にどこか抜けている部分があって、干渉しないと言いつつ異変解決に動くこともあれば、神社の宴会や紅魔館のパーティにだって顔を出したりもする。
妖怪の癖に行動がどこか人間臭い奴で。私はそんなアリスの事が嫌いじゃない。
いや、むしろ―
「爪先の手入れ、終わったわよ」
もう少しあのマッサージを受けていたかった。その時間が終わってしまう。
名残惜しくて咄嗟にアリスの手を掴んだ。
「一応トップコートは塗っておいたから……って何、どうかした?」
「あ…いや、すまん。掌が、まだ凝ってるみたいでな。もう少し、続けて欲しい」
片言でしかも途切れ途切れの不格好で情けない台詞。
自分の口から出た言葉はなんとも嘘臭くて挙動不審なものだった。噛まなかったのは不幸中の幸いか。
「別に凝ってなかったと思うけど…ま、いいわ。揉み返しがこない程度でならやってあげる」
「…サンキュ」
不自然だったであろうこちらの要求を受け入れ、再び私の手をマッサージしようとしてはたと止めた。
一瞬私の思惑がばれたのかと肝が冷えたがアリスの顔を見るとそうではないらしく、何かを思い出したような表情で、
「…ああ、忘れてたわ」
そう呟いたかと思うと、まるで王子様がお姫様の手をとるような持ち方で私の指先を持ち上げ、
「ん…」
「………ぁ?」
そのまま、指先に口付けた。
王子様がお姫様にキスするかの如く。
その衝撃的な光景に私は何をするでもなくただ唖然として見ているだけ。
あとは指先に感じる柔らかな感触を認識するのに精一杯だった。
「最後のお呪い、忘れてたわ」
「…おまじない?」
「母の受け売りでね。爪の手入れの仕上げに指先にキスをするのが習慣付いていたから」
お呪いと言われたらこっちもそうなのかと頷くしかなく、未ださっきの衝撃から抜けきれない頭でキスされた指先を見つめる。
指先にキスされた位でと思うかもしれないがこっちは完全に不意打ちだった。予想外だった。
そして妙に恥ずかしい。顔が熱くて溶けてしまいそうだ。
「じゃ、マッサージ続けるわね。痛かったら言って頂戴」
「…ああ」
アリスが手に優しく触れる度に、私は痛みを覚える。
物理的な痛みじゃなくて疼くような、こそばゆいようなそんな痛み。
心臓がばくばく動いて破裂しそうなくらい暴れまわって、痛くて痛くて、ある意味死にそうだ。
こんな拷問のような時間が過ぎてしまえばいいと思いつつも終わって欲しくはなく。
もっとアリスの手に触れていたくても、長いこと触れられると頭がどうにかなりそうで。
相反する思いが私をきりきりと締め付け、精神を蝕まれているようだった。
―この痛みは何なんだ、一体。
「なんか、脈がすごく速いけど。大丈夫?」
「マッサージのお陰で血行が良くなってるんだろ。問題無い」
「そう?ならいいけど。手の体温も上がってるし、マッサージはこれくらいにしましょう。これ以上やっても負担にしかならないから」
「あ…そう、か」
延長時間およそ十分のマッサージがようやく終了した。
自分から頼んでおいてなんだが、正直きつかった。これほどまでにしんどさを覚えるとは思っていなかった。
マッサージだけならこうはならなかったと思う。
あの、“お呪い”さえなければ心臓が破裂しそうになることも、精神が疲弊することもなかった。
何故ここまで自分が動揺しているのか、よく分からない。
理由もなければそんな感情もない筈、なのに。
ともかく、だ。
これで終わった。ようやく終わったんだ。あの苦痛…ではなく居心地の悪さから解放された。
どっと疲れが来たようで、少しだけ肩の力を抜いて椅子の背もたれに寄り掛かるとパキパキと節々の関節が鳴った。
「は、ぁ…」
「長い事同じ体勢でいたから疲れたでしょ」
「お前ほどじゃないけど流石長時間はきついな。まぁ、軽く屈伸でもすりゃあよくなるだろ」
「関節を鳴らすのは程々にね。なんにせよ、魔理沙もお疲れ様」
そう言って私の手を持ち上げ、
今度は掌に、口付けを一つ。
「“お呪い”。マッサージの仕上げを忘れるところだったわ」
「………ん、な…っ」
駄目押しの一手。不意打ちの追い打ち。
油断していたら綺麗にぶち込まれた痛恨の一撃。とどめなんてレベルじゃない。
少し前にアリスの事を嫌いじゃないと言ったが、取り消す。
前言撤回だ。
人が苦労してる横で何でもないって顔して大抵の事をなんなくこなす癖にたまにポカやらかすわ、関係ないとか言っておきながら世話は焼くわお節介は焼くわ、面倒くさいとか言っておきながら気付くと宴会に参加している変な奴で。
妖怪の癖に行動がどこか人間みたいに不規則なこともあるせいで今日は盛大な不意打ちを食らわせられて。
私はきっと、そんなアリスが気に食わないんだ。
いちいち私の気持ちを掻き乱して、混乱させて。
お前は一体、何がしたいんだ。
「魔理沙の手って柔らかくて温かいわね」
「―――っ!!」
柔らかいのはお前の手だろ。温かいのもお前の方だろ。
っていうか手を放せ、自分の頬に私の掌を押し付けるな擦り付けるな。だからといって今度は鼻を押しつけて匂いを嗅ぐな良い匂いとか言うな。それはお前が塗ったクリームの香りだろうが。太陽の匂いがするとかそんな訳分からん事言うんじゃない。指の腹をぷにぷにして遊ぶな。お前の掌と私の掌くっつけて大きさの比較とか結果が分かってるんだからやるなよ。私の方が小さいのは目に見えてるだろ分かるだろ?なのに笑顔で可愛いとか言ってそのまま恋人繋ぎで手を握られたらヤバいくらい顔が熱くなるわまた心臓破裂しそうになるわでいっそもう死にたいああもうこんちくしょう。
「…ほんとに、温かい。こうしてると同じ体温になれるのかしら」
限界だった。
このまま二人きりで居続けると確実に精神が崩壊すると判断した私は八卦炉を引っ掴んで外へ飛び出した。
後ろの方でアリスの声が聞こえるがそんなものは気にしない。
森の中を走りに走って、空がよく見える場所に行き、天に向かって八卦炉を突き出す。
「もとはと言えばこんな所に雨雲が留まるから…っ!!」
八つ当たり上等。
それでこの気持ちも天気も晴れるのならそれでいい。その他は知ったこっちゃない。
喉が枯れる程の咆哮をあげ、それと同時に魔力を絞り出す。
「っああああああああ!!!!!」
アリスへのよく分からん気持ちと魔力をありったけ八卦炉に送り込み、最大出力でスペルを唱えた。
「恋符・マスタースパァーク!!!!!」
小さな炉から放たれる、いつもより五割増しの太い光。気のせいか放出速度も倍以上で、七色の光を発してまるで虹の様だ。
視界がチカチカして身体のあちこちが悲鳴をあげるが関係ない。
極太の光線は天に向かって一直線に伸びる。空を覆う灰色の分厚い雲をぶち抜き、そして弾けた。
雲の合間から覗く久々の太陽。
虫食い状態ではあったが、森のあちこちに光が差し込んでいる。こういう光景を外の世界では天使の梯子というらしい。
「へへ…、ざまあ…みろ…!」
私が放った虹色の魔砲はそのまま架け橋になり空を彩る。
雲の壁を散り散りにしたことで魔法の森を覆っていた過剰な湿気は消し去り、何時もの湿度に戻るだろう。
そんな幻想的な光景を見ながら、私は静かに目を閉じた。
なんか身体中痛いわ重いわ物凄い脱力感はあるわでぼろぼろだが、すっきりした。
全力全開で放った魔砲はそりゃあもう清々しいくらいに色々な物を吹き飛ばしてくれたようだ 。
これでもやもやしたアイツへの気持ちも、少しはハッキリしたかもしれない。
目が覚めたら全部、ぶつけてやる。
そう心に決めて、眠りについた。
― 三日後。
「人が折角手入れした爪をもうボロボロにするとか何なの?いきなり雨の中突っ走ってしかも生命力削る程の魔力使ってスペル発動とか馬鹿なの?死ぬの?」
「むしゃくしゃしてやった。後悔はしていない」
「死ぬところだったんだから少しくらい後悔しなさいよ!あんなんで死なれたら私が後味悪いでしょ!?」
「煩いな。私は何にも悪くない。全部アリスが悪い」
「何でもかんでも人の所為にしないでよ、もう。ホントに心配、したんだから」
「そう思うなら少しは労れよ。私は病人なんだから優しくしてくれ」
「ったくアンタは…。なんか、目が覚めてからふてぶてしさが増したわね」
「ふん。色々吹っ切れただけだ。悩んでるのは性に合わないからな」
「あ、そ。それにしてもあの時、空に放ったスペルって魔理沙お得意の、あの魔砲よね?それにしては倍…いえ、それ以上の太さだったし、色が七色の虹みたいだったし…。あれはどういう事なの?」
「私にもよく分からん。アリスへの鬱憤と魔力をありったけ放出したらああなった。七色の称号も私のものだな」
「…鬱憤だけで言うなら魔理沙よりも私の方が確実に多い自信があるわ。それと人の二つ名まで勝手に盗らないで」
「あれは発動条件が特殊だからな。七色の称号を完全に手にするには実戦向きに改良する必要があるか…」
「だからあげるなんて言ってないし、アンタに譲渡する気も一切無いから」
「そう言っていられるのも今の内だ。称号もろともお前ごと手にしてやるからな」
「………は?」
「………あ?」
「……………」
「……………」
一悶着があった後、改良を加えずとも虹色の魔砲をバカスカ撃てるようになったのはまた別のお話。
一悶着も見たかった(笑)
魔理沙の最後の大暴走に2828
作者さんはマリアリの才能ありますよー
良い。これは良いものだ。
静から動に変化する後半も好きですが、やっぱり私は前半に強く惹かれます。
文字通り、爪や髪を手入れされている時に感じるフワッとした気持ちで物語が読めました。
マリアリが俺のジャスティス!
七色マスタースパークとか愛の結晶でしょ?
こんなマッサージされたい