小高い丘には魔女が住む。
どこから来たのか誰も知らない。
何をしているのか誰も知らない。
人付き合いの悪い魔女の元へ訪れる者など、誰もいなかった。
だから誰も魔女の名前を知らない。
境内の方からは二次会の喧噪が聞こえてくる。新婦の霊夢を祝福する声もあれば、新郎の彼をからかう声も混じっていた。森近霖之助という人物を私はあまりよく知らず、香霖堂という店の店長なのだと霊夢から教えて貰ったほどだ。
見たままを言うのであれば鈍感そうな顔をしており、酷く気難しそう。もっとも人は見た目によらないという格言もあるし、第一印象がどこまで正しいのかは分からない。内面が外見に現れるという説もあるが、それはこの際置いておこう。
私が喧噪が離れたのは顔の火照りを鎮める為というよりも、あの騒がしさから距離を置きたかったからだ。宴会は苦手というわけでもないけれど、好んで参加したいほどでもないという中途半端な印象を持っている。静かにお酒の味を愉しむ会などあれば、喜んで参加したい。
幻想郷の連中は人も妖怪も幽霊に至るまで騒がしく、こと祝いの行事ともなれば賑やかすぎて異変が起こりそうなくらいだ。静かな魔法の森に慣れ親しんでいる私にとって、あの喧噪は頭痛の種でしかない。
少し離れた本殿の裏側にまで達してくるのだから、その騒がしさたるや想像に難くないだろう。
「ふぅ……」
昼から続いた宴会は、夜の帳が下りても留まることを知らなかった。星々は私達を呆れるように見下ろしている。おまけに月が出ているものだから、吸血鬼や兎共の興奮も最高潮だ。
月明かりが照らす地面には、ほんの僅かな雑草しか生えていなかった。ずぼらな巫女に見えて、あれで意外とマメだから人間というのは面白い。こんな人が訪れるはずもない場所にまで手を加えているだなんて。
霊夢の意外な一面を覗いたような気がして、改めて結婚というイベントについて考えてみたくなった。あの、霊夢が結婚。それ自体が何かの異変のようにも思えてくる。
初めて話を聞いた時は、誰かの冗談だと疑っていた。そんな馬鹿な話、信じられるわけがないでしょう、と。何物にも縛られないはずの博麗の巫女が、よりにもよって結婚というこの世でもっとも重い鎖を嵌めるだなんて。霊夢だって望んではいないはずだなどと、勝手な価値観を押し付けたりしたものだ。
そんなもの、花嫁の微笑みを見てすぐに、杞憂なのだと分かってしまった。
ああ、あれが世に言う恋が人を変えてしまったというヤツなのか。それとも元々、霊夢がああいう子だったのかしら。いずれにせよ、ドラマでありがちな政略結婚というわけでもなし、望んで結ばれたのだから心の底から素直に祝福の言葉を贈る事が出来る。
ウェディングドレスは無理でも、せめて白無垢ぐらいは見たかったのだけれど。どうせ妖怪も交えて宴会をするからと、全員が普段の衣装を身に纏っていた。なんとも巫山戯た話だが、とても霊夢の結婚式らしいとは思う。
だから見つけた彼女の衣装も、普段通りの白黒だった。黒色が夜に溶け込んで保護色みたいになっており、月と星が照らす顔には何の感情も浮かんでいなかった。
「魔理沙?」
思わず名前を呼んでしまったのは、本当に魔理沙なのかと疑ってしまったから。なにせ境内は妖怪天国だ。狸や狐に化かされていたとしても下手人は腐るほどいる。何が目的かは知らないけれど、悪戯の二文字で全ては説明がつく。
だけどこちらを向いた顔は、やっぱり魔理沙以外の何者にも見えなかった。夜の黒を跳ね返すように輝く金色の髪の毛が、朝顔の蔓のように本殿の柱にまとわりついている。気が付かなかったけど、相当長い間ここに居たのだろう。
「なんだ、アリスか」
太陽のように明るく、時には鬱陶しく思えるほど溌剌とした声を期待していた私は、枯れたような声を聞いて心の底から驚いていた。自殺志願者という連中を見たことはないが、何となく今の魔理沙のようなものではないかと想像がつくほどに儚く脆い。
澄み切った琥珀色の瞳も濁り、宝石ならば鑑定士がそっぽを向きそうだ。いっそ偽物だと言ってくれれば心が楽になるのだけれど、悪戯っ子のような笑みを浮かべた兎や妖精が現れる気配は微塵も無かった。いい加減認めよう、目の前で蹲っているのは霧雨魔理沙なのだと。
「なんだとはご挨拶ね。あなたは一体、ここで何をしているのかしら?」
「別に何もしてないぜ。ただちょっと、静かな所で飲みたくなったんだよ」
「そのわりに、お酒もジュースも見えないんだけど?」
「全部飲んだ」
「あっそ」
無論、これが詭弁であることは見抜くまでもない。妖怪じゃあるまいし、瓶まで飲む人間がどこにいるというのだ。
言い訳するという事は、何か心にやましいものがあるから。さとり妖怪じゃないけれど、それが何なのか、私はとても気になった。
「意外ね。結婚式なんだからって、あなたは率先して騒ぐタイプだと思っていたのに」
「私だって立派な乙女だぜ。たまには大人ぶってみたくなるのさ」
「パワーを売りにしている魔理沙の台詞とは思えないわ」
「結婚は人を変えるんだよ。当人達も、周りの人間も」
夜空を見上げた拍子に、トレードマークの帽子が地面に転がり落ちた。普段ならばすぐ拾うのに、今日はいつまで経ってもそのままだ。幼い時から大切にしている思い出の品だという癖に、随分と扱いがぞんざいではないか。これも変わったという証拠なのかしら。
魔理沙の代わりに拾い上げ、元の位置に戻してやる。お礼も文句も一言もとして無かった。
「霊夢が結婚して寂しいのかしら?」
「ん? ああ、確かに寂しいな。さすがにあいつも妻になったら、今までみたいに弾幕ごっこもしてくれないだろうし。まだ一回も勝ってないんだぜ、私」
苦笑いの表情を見るかぎり、どうやらこちらではなさそうだ。まぁ、本来ならば真っ先にそちらを挙げるべきなのだろうけど。
「香霖堂の店長さん」
「………………」
「あなた、随分と彼に懐いていたそうね」
直接お目に掛かったことはないけれど、風の噂では何度か聞いたことがある。魔理沙が足繁く通っていたのも知っているし、ミニ八卦炉を作ったのも彼だという話だ。
白馬の王子とは言い過ぎだとしても、年頃の乙女ならば多少の好意を抱いていてもおかしくはない。
私にとっては、どうにも気に入らない相手だけど。一切合切の感情を無視して見れば、それほど悪くない男性に見える。
「香霖が私に懐いてたんだ」
軽口というよりも意地のように聞こえる。こういう部分は本当に乙女なのだから、接している私としても色々と困ってしまう。逆に魔理沙が私の立場だったら、気にせずからかっていたんだろう。
「別にどちらでも良いけれど。あなたにとって彼はお兄さんみたいなものだったのかしら」
「敢えて言うなら近所のお兄さんだな。どうにもよそよそしくて、兄という感じじゃない」
家族意識も無いとくれば、恋心が加熱するには充分な要素を満たしている。踏み込めば魔理沙は怒るかもしれないけれど、今日の彼女はどうにも放っておくことができなかった。風ではためく赤いリボンを押さえながら話しかける。
「彼の事が好きだったのかしら?」
顔を真っ赤にして、怒ったように否定するのかと思っていた。直情的な魔理沙ならばそんな反応をするだろうと予想していてだけに、何も言わず考え込まれた時はこちらが驚いたくらいだ。
境内からは微かな喧噪が届き、ここの時間の流れが緩やかなことを強調していた。一秒が一分に感じられ、魔理沙が口を開くまで長い長い時間が過ぎ去っていったような錯覚を覚える。
「どう、なんだろうな……」
手の中にはいつのまにか小さな八卦炉が現れ、パズルでも扱うように転がしている。そのアイテムに誰を投影しているのか、それが分からぬほど私も馬鹿ではない。
「家族と言われれば家族だと答えるし、親友だと言われれば親友だと答える。だけど、恋人なのかって訊かれたら私は首を降るだろうな」
「左右に?」
「その質問に対しては上下だ」
魔理沙は苦笑しながら言葉を続けた。
「あいつが夫になるってのはイメージが出来ないし、相手が霊夢だからって対抗意識が芽生えるわけでもない。なんだろうな、この感じ。強いて言うなら、大切だった玩具が無くなったようなもんだ」
玩具扱いは彼に失礼な気もしたけれど、大切なという言葉で免除してくれるだろう。彼だって魔理沙を邪険には思っていないはずだ。ただそれが愛情ではなく親愛のようなものだっただけで。
普段ならば自分の事は必要でも喋らないくせに、今日はどういうわけだが妙に饒舌だ。風邪をひいた時は心細くなるように、誰かへ心情を吐露したかったのだろうか。
「男の子はいつまで経っても玩具を手放せないから子供だって言うけれど、女も変わらないわよ。いくつになってもお人形遊びが止められないんですもの」
「アリスが言うと説得力があるな」
「賞賛の言葉をありがとう」
私に言わせてみれば、恋愛なんてものはお人形遊びやおままごとの延長戦でしかない。ただ相手が物言わぬ人形や仮初めの夫から本物の人間に変わっただけで、そこで行われているのに大した変化などあるはずもなかった。
もっとも私は恋愛の方へは進まずに、紆余曲折を経てお人形の道へと走ってしまったわけだけれど。後悔はしてない。
「お人形も人間も似たようなもの。失ってから初めて、その価値に気付く。ただ前者の場合は失っても卒業することができるけど、後者の場合はどうなのかしら。そこで諦めがつくのなら、それは本当に大切なものじゃないのかもしれない」
「………………」
「あなたにとって彼は、どれだけ大切だったのかしら?」
魔理沙からの反応はない。
「一緒にいると楽しかった?」
「ああ」
「彼に何かしてあげたかった?」
「まあな」
「彼に褒められたかった?」
「……ああ」
そして私は、一呼吸おいてから最も大事な台詞を吐いたのだった。
「彼とキスしている自分を想像したことは?」
「なっ!?」
暗闇にあっても明確に分かるほど、魔理沙の表情は目まぐるしく変わっていた。怒りなのか驚きなのか羞恥なのか、いずれにせよ真っ赤なのは確かだ。プランクトンを食べる魚のように口をパクパクと動かし、こちらを指さしながらも何も言葉を出せずにいる。
態度は言葉よりも雄弁に語る。なるほど、確かにそうだ。
「彼と一緒に寝ている自分を想像したことは? 彼と手を繋いでいる光景に自分を置いてみたことは?」
「お、おまえっ、それは!」
「彼の恋人になった自分を想像してみたことはあるのかしら?」
決定的な問いかけは、魔理沙から完全に言葉を奪い取る。
恋人と親友の最大の差を挙げるとすれば、それは肉体関係が有るのか無いのかという点であるのだが。いかんせん魔理沙は自称しているように乙女。そんなことを言っても恥ずかしがるだけだと思ったから、敢えて他の視点から責めてみた。
いずれにせよ出される結論は同じなのだが、如何にして相手に認めさせるのかが難しい。この手の感情は鬱積させておくよりも吐き出した方が楽だという自分なりの解釈から、半ば強引な形になったけれど非難を受ける覚悟ならあった。
私としても、いつもまでも落ち込んだ魔理沙を見るのは辛いものがある。出来ればこいつには、いつまでも明るく乙女のままで居て貰いたいのだ。それが馬鹿な願望だと分かっていても、腐れ縁の関係としては願わずにはいられない。
「あるのだとしたら、どれだけ大切に思っているのかは説明しなくても分かるでしょ。親友にそんな想像はしない。したとすれば、あなたはその友情を愛情に変えたいと思っている」
「………………」
「まぁ、まともな恋愛なんてしたことない私が偉そうに語るのも烏滸がましいとは思うけれど。馬鹿らしいと思ったら、遠慮なく鼻で笑って貰っても結構よ」
だが時として、感情の絡む問題は第三者の方が的確なアドバイスをするものだ。人は冷静さを失えば失うほど問題の本質から遠ざかっていく。こと恋愛ともなれば、それは顕著だ。
「彼のことが好きだったの?」
再び訪れた長い長い沈黙の果てに、魔理沙は頷く。
今度は上下に。
「そう」
これ以上の追求はただの尋問だ。今までも大概ではあったが、さすがに此処より先は魔理沙の許可なくして踏み入ることなんてできない。
私は魔理沙の隣に腰を降ろした。年がら年中影があたっているらしく、本殿の裏は地面までもが冷たい。藍色のスカート越しに拒絶するような冷たさが伝わってくる。ハンカチぐらい敷けば良かったと、今更ながらに後悔をした。
ああ、それとお酒ぐらい持ってくれば良かった。百薬の長と呼ばれるだけのことはあり、あれは悩みも全て吹き飛ばしてくれる。単なる先送りや現実逃避でしか無いけれど、こういう時は酔いに任せて感情を爆発させた方がいい。それにはお酒が打って付けだった。
今からでも取ってこようかしら。鬼や天狗が底なしとはいえ、さすがにまだまだ余りはあるだろう。ついでに幾つか料理も持ってこようかと思ったところで、いきなり頭の上に何かが降ってくる。
見上げても何もなく、触ってからようやく分かった。魔理沙の帽子だ。
「魔理沙?」
隣を見れば、金色の髪の毛が月明かりにも負けないぐらい輝いている。惜しげもなく広がったそれを見て、絵描きならば筆を動かさずにはいられないだろう。生憎と私は人形使い。絵の心得はないけれど、それでも息を飲むには充分だった。
魔理沙は無表情のまま、私の上へ居座っている帽子に手をかける。そのまま力をこめて引き下げ、あっという間に夜が深くなった。一切の光りは途絶され、ただ帽子の内側だけが見える。
「ちょっ、ちょっと!」
帽子を引きはがそうとした腕を掴まれた。魔理沙の腕は震えている。抵抗する力があっという間に消えてなくなった。
「頼む。頼むから、今から一時間ほど起こったことの全てを忘れてくれ」
腕だけでなく声も震えていた。
彼女が何を求めているのか、自ずと分かる。
「いいわよ」
「悪いな」
変な目隠しなどしなくとも、じろじろ見るつもりなんてないのに。そこを恥ずかしがるあたりは、やっぱり乙女なのだと私は思う。
胸のあたりに温かい感触がしたかと思えば、本殿の裏に魔理沙の泣き声が響き渡った。
境内は宴会の真っ最中。この声を耳にする者など、せいぜいが私ぐらいのものだろう。
子供のように泣きじゃくる魔理沙の頭を撫でながら、私もゆっくりと目を閉じた。
一人の乙女の、恋が終わる音を聞きながら。
頭痛の表現にぐわんぐわんという擬音がある。頭の中で鐘が鳴っている様子を表しているのだろう。今の私にはピッタリな表現だ。
泣くだけ泣いた魔理沙は烏のように全てを忘れ、いつもの笑顔で宴会の海へと突入していった。これまでの鬱憤を晴らすように騒ぎ、何故か私もそれに付きあわされる羽目になったのだ。
幻想郷には酒豪が少ない。だがウワバミやザルは山のようにいる。真正面から付きあえば、こうなるのは目に見えていた。
水瓶から水差しに移すのも面倒になり、コップで直接すくって飲み干した。褒められた行為じゃないけど、足取りはもうふらふらだ。歩くのも面倒なぐらいで、これぐらいの所行は大目に見て貰いたい。もっとも、それを審査するのは明日の自分なんだろうけど。
喉の渇きを癒し、空になったコップを適当な所に置いた。人形にやらせてもいい事だが、今の私ではマトモな操作などできるはずもない。自分でやった方が遙かに早いだろう。
安楽椅子に座り、帽子を脱ぎ捨てた。赤いカチューシャを隠していたのは、紛れもなく魔理沙の帽子。さっきまで彼女が被っていたものが、何故か私の頭の上に暢気な顔をして居座っていたのだ。
まるで元から私の物だったように、その帽子はピッタリをはまっていた。
勿論、彼女が忘れたわけではない
「それはやるよ」
「……大事なものなんでしょ?」
どういう経緯があるのかは知らないけれど、大切に扱っていたのは覚えている。だけど魔理沙は気にした風もなく、アルコール臭い息を吹きかけながら答えたのだ。
「その代わり、今度から私の相談に色々のってくれよ。帽子を被るような相談は、もうしないだろうけどな」
だったら返した方が良いのではないかと思うのだけれど、ここで変に強情を張るのも馬鹿らしい。魔理沙のことだ。酔いが醒めて惜しくなったら、どうせ弾幕ごっこにかこつけて取り返しにくるだろう。それまで預かっていると思えばいい。
彼女と戦うのはそれほど嫌いではないし、むしろ楽しい部類に入る。我ながら好戦的な性格だとは思うけれど、これはもう趣味みたいなもの。挑まれたのなら拒むことはできない。
「天敵ではあるけどまぁ、嫌いではないのよねえ」
嫌いだったら胸を貸さないし、嫌いだったら帽子を渡さないだろう。
親友というよりは、やはりライバルという表現が正しいのか。それとも関係性にわざわざ名前を付けようとしている自分が間違っているのか。
いずれにせよ、明日には忘れているだろう。アルコールの魔力というのは、並の魔法よりも遙かに強力で恐ろしいのだ。
「結婚、ねえ……」
だから、これもアルコールのせい。
ウェディングドレスを着た自分の隣に、同じ衣装の魔理沙の姿が思い浮かんだなんて。正気でなければ何だと言うのだ。
『彼の恋人になった自分を想像してみたことはあるのかしら?』
そんな台詞を誰かが言っていた。馬鹿らしい。これではまるで、私が魔理沙の事を愛しているみたいで。
滑稽だと、笑いが零れる。
「もう二度と、あんな過ちは犯さないわよ」
だからきっと、これは一夜限りの幻。
明日になれば、こんな感情は忘れている。
ちょっと頼られたぐらいで傾くだなんて、ああ何と弱い魔法使いだろう。
着の身着のまま、私はベッドへと倒れ込んだ。
寝よう。そして忘れよう。
こんな錯覚、邪魔でしかないのだから。
飲みすぎた次の日は、決まって頭が痛い。
物理的にも、精神的にも。
アルコールは人の背中を思った以上に突き飛ばし、普段では絶対にしないような事までさせてしまうのだ。だから私はいつだって、飲んだ次の日は頭を押さえるところから一日が始まる。
シャワーを浴びなかったせいか、どうにも身体がむず痒い。体臭も気になる。外出する予定はないけれど、やはり仕事の前にシャワーぐらい浴びておくべきだろう。リボンを解き、ケープを放り投げ、人形がそれを受け取る。
こういう時に人形というのは非常に便利である。シャワーを浴びている間に着替えを用意してくれるし、良いタイミングでタオルも運んでくれる。自分が操作しているのだから当たり前といえば当たり前だが、こんな芸当は紅魔館のメイドぐらいにしか出来ないだろう。
脱衣場へと入り、鏡の前を通り過ぎようとしたところで立ち止まる。すれ違うように見えた自分の顔は酷く、髪の毛だってロクな手入れがされていなかった。寝癖も自由気ままで、直すには手間が掛かりそうだ。
遠慮も無しに自分の顔を見つめ、やがて私は大きな溜息をついた。
「ああ、駄目。何で気付いちゃったのかしら」
夜が明けたところで、気持ちは全く変わっていない。あれは幻でも何でもなく、今も自分の心で燻り続けている。
鏡のアリスが私に問いかけてきた。
あなたは彼女が好きなのかしら?
首は振らない。代わりに答える。
「自分勝手だし、横暴だし、我が儘だし、無鉄砲だし、おおよそ友人としては最悪の部類に入るんだけど……」
それでも揺らいだ気持ちは変わらない。
「好きになっちゃったのよねえ……」
なにも泣きつかれて好意を覚えたわけではなく、それ以前から気付いていなかっただけで好きではあったのだろう。さすがの私だって、そこまで惚れやすい女ではないと信じたい。
そもそも好きだったからこそ、ああやって相談にのったのだ。それがただ、友人としての好意ではなく恋人としての好意だっただけで。
「ああもう、何で気付くかなあ。私」
不毛な恋だ。結婚した男に恋をするよりも、遙かにずっと。
同性同士の恋愛だなんて、幻想郷でもメジャーではなかった。間違いなく、誰かに言えば軽蔑の視線で見られるだろう。
常識とは縁遠い魔法使いの世界においても、それは異端でしかなかった。まぁ、そもそも魔法使いの世界では恋愛自体がタブーみたいなものだけれど。恋をすれば心が揺らぎ、魔法にも影響するからしてはいけないのだと大概の魔法使いは忠告している。そんな忠告に耳を貸す輩は幻想郷に一人も居ないが。
「もう二度と恋なんかしないって誓ったのに、弱いわね……」
思い出される苦い過去は、私の気分もより一層重くした。頭痛も心なしか酷くなったような気がする。
「頭冷やそう」
勿論、シャワーを浴びても恋心が消えることはなかった。
髪を乾かしながら人形達を動かしているうちに、段々と普段のアリス・マーガトロイドが私の中へと戻ってきた。魔理沙のことを思えば溜息が出るけれど、少なくとも冷静にはなれたようだ。
そして考えれば考えるほど、これが有り得ない恋愛なのだと分かる。決して口にしてはいけず、魔理沙に告白など言語道断だ。墓の下まで持っていく類の秘密である。
ならばこそ、困るのは私自身の対応。冷静な振りをしていても、自分を誤魔化すことはできない。果たして、魔理沙を前にして普段通りの対応が出来るだろうか。
酷く取り乱すことはないにせよ、欠片のボロも出せないのだ。万全を期する必要があり、せめてあと三日は魔理沙と会わない方がいい。それで想いが募るほど、私も乙女ではないはずだ。多分。
そうと決まれば、気持ちも引き締まる。とりあえずは引きこもれるように里へ買い出しに行き、家も台風が来るかのようにしておかないと。
決意も新たに立ち上がったところで、不意に扉の開く音がした。
嫌な予感しかしない。大抵の訪問客はノックの一つでもして、挨拶の一つや二つでもしてくるはずだ。それを無視して勝手に上がり込んでくる奴なんて、幻想郷には泥棒と彼女しかいない。まぁ、大抵それらの二人はイコールで繋がれるのだけど。
玄関からやってきた見覚えのある人物に、今だけは頭痛を覚えた。二日酔いのせいだけではないだろう。
「よお、アリス。元気にしてるか」
「この表情で察しなさいよ」
だけど、突然すぎた事が功を奏した。何の準備も出来なかっただけに、対応はいつもと変わらない。至極冷静で、皆が思っているようなアリス・マーガトロイドを演じていられる。
「元気一杯ってところか」
「泥棒を見つけて呆れてる顔に見えないかしら」
「おお、そろそろアリスにも眼鏡が必要な時期だな。それとも必要なのは鏡か?」
「どちらも間に合ってるわ」
大概の魔法使いは視力が衰え、眼鏡を手放せない。紅魔館の魔女もごくたまに、眼鏡をかけて読書をしている姿を見かけた。
寿命という呪縛から解き放たれても、老いを完璧に克服する為にはまた修行が必要なのだ。
「それで何の用? やっぱり帽子が惜しくなったのかしら」
「言ったろ、それはお前にあげたんだ。今更未練がましく取り返しになんて来ない」
友人へのプレゼントなのだから、さして特別なことではない。だから鎮まれ、胸の高まりよ。鼓動が魔理沙に聞こえたらどうする。
「それとは別の用事で来たぜ。こうも言ったはずだ、私の相談にのってくれよってな」
「え、ええ、確かに言ってたわね」
まさか昨日の今日で相談にやってくるとは思いもしなかったけど。
ちょっと軽はずみだったかしら。
「まぁ相談と言っても、ちょっとした頼み事だ。私のスペルカードにマスタースパークがあるだろ」
魔理沙の代名詞と呼んでいいくらい、ばかすかと撃ちまくってくるスペルカードだ。知らないはずがない。そこらの妖精だって首を縦に振るだろう。
「それがどういうわけか、昨日から威力が落ちてるんだよ。このままじゃ、山一つだって吹き飛ばせないぜ」
吹き飛ばす用事でもあるのかと問いかけたくなるが、今はぐっと堪える。それよりもマスタースパークだ。
「勿論、いつもと変わらない状況で撃ったんでしょうね?」
「当たり前だ。むしろ、いつもより清々しいくらいだぜ」
魔法のみならず、スペルカードも精神と体力に影響される。疲れている時は威力も落ちるし、範囲だって狭くなる。逆に絶好調であれば思いも寄らないほど威力が上がったりするのだ。
ならばこそ体調を気にするのは当然なのだけど、どうやらそれも違うようだ。
「そこで私は考えたんだ。これはひょっとして、恋符だから威力が落ちたんじゃないかと」
「は?」
「だからマスタースパークは恋符なんだよ。ほら、あれだ、昨日は恋が失われたわけだろ。だからさ、威力が落ちたんだと思うんだよ」
どことなく歯切れが悪いのは、まだ気持ちの整理が完全には付いていない証拠。それとも、単に恥ずかしいだけか。いずれにせよ説得力はあった。
恋符なのだから失恋すれば威力は落ちる。先述した通り、スペルカードと精神は直結しているのだ。恋が原動力になっているスペルカードならば、失恋でエネルギーを失われたところで不思議ではない。
「なによ、原因なら分かってるじゃない」
「だから言っただろ。相談というよりお願いごとだと」
雲行きが妖しくなってきた。外は快晴だというのに。
人形達に耳栓でも持ってこさせようかと企んだところで、魔理沙の言葉の方が遙かに早い。
「恋符の威力を高める為には、また新しい恋をする必要があると思うんだ。だからアリス、私と付きあってくれ」
………………。
紅魔館のメイド長が過ぎ去ったのかと思った。そうでなければ、どうやって時間を止めたというのか。
ああ、そうか。魔理沙が止めたのだ。
私と付きあってくれなんて言うから、そりゃあ時間だって止まる。
「えっと、正気?」
「ばっ、馬鹿! 勿論、あくまで振りだぜ!」
やっぱり、そんなところだろうとは思っていた。天の神様は都合の良さを嫌う。上手い話などそうそう転がってくるはずもない。
長年の経験に基づいた鼓動が、ぬか喜びという地獄からアリスを救ったのだった。
「でも何で私なのよ。恋愛だったら、他の男を見つけたいいじゃない」
自分で言っておきながら胸が痛む。難儀なことだ。
「あー、正直香霖以外の男ってあんまり知らないんだよなぁ。里の方には知り合いがいても、実家の息がかかってるから会い辛いし。妖怪共は論外だし。かと言って霊夢に頼むのは嫌だし、それ以外の奴も癖が多すぎるし」
「……つまり消去法で私が選ばれたと?」
「まぁ、平たく言えばそういうことだな」
特別扱いされたわけでもない。心のどこかでは、密かに自分を選んでくれたことを喜んでいたというのに。ぬか喜びという悪魔は、虎視眈々と牙を尖らせていたようだ。まんまと胸を貫かれる結果となった。
「私が引き受けるとでも思ったのかしら?」
「だから言ってるだろ。帽子のお礼だって」
「高い貰い物だったわね」
「よく言うじゃないか。タダほど高い物はない」
魔理沙に諭される日が来るとは思わなかった。今度は、もっと気を付けるようにしよう。
教訓を得たところで、現状は変わらない。
さて、どうしたものか。
魔理沙と仮初めとはいえ付き合えるのなら、断る道理はないように思える。好きな相手から振りでもいいので付き合ってくれと言われたら、ついつい何かに期待して引き受けてしまうのが惚れた側。ひょっとしたらこれを機に本当の恋人になれるかもと、淡い期待を抱いてしまうのだ。
だが、私達に限ればそれはない。むしろ歯止めが効かなくなり、最悪の結末を招く恐れすらあるのだ。
出来れば断りたいが、口約束というのは恐ろしいものだ。
「それで、付きあうってのは具体的に何をすればいいんだ?」
魔理沙の中では既に、私が答えを出しているらしい。それもかなり好意的な方向で。
こうなると彼女を止めることは容易ではなかった。異変が起きた時のように、猪突猛進になってしまう。
諦めるしかないか。
「とりあえず、手でも繋いでみたら?」
「そうだな」
行動的な魔理沙は、言われるがままに私の手を握りしめる。温水で温もっていたはずの手が、不思議な温かみに包まれた。摩擦の二文字を忘れさせてくれるほど肌はきめ細やかで、これが乱雑な魔理沙のものだとはとても思えない。
そのギャップがまた愛おしく、私の好意は跳ね上がるのだった。
「なんか、ちょっと気恥ずかしいな」
はにかんだように笑う魔理沙。
ああ、やっぱり危険だ。
女性を好きになったのは、これが初めてというわけではない。魔理沙と出会うよりもずっと前。あれはまだ、私が人間だった頃のこと。魔法の森よりも前に住んでいた、こことよく似た森でのお話。
私は魔法使いを目指していた。理由ははっきり言ってくだらない。昔から人形遊びが大好きだった私は、いつしか自分一人で動きだす人形に憧れを抱いていた。
さして友達もいなかったから、それがあればきっと良い友達になってくれるだろうという、その程度の動機。
それでも人を突き動かすには充分だったようで、私はめきめきと師匠の元で魔法使いへと近づいていった。
彼女は師匠の娘で、名をマリーと言った。絵本の魔女をそのまま抜き出してきたような師匠とは違い、マリーはお伽噺のお姫様のように美しい女の子だった。気が付けば、私は彼女に一目惚れをしていた。
マリーの方もあまり人とは接したことがないらしく、私達はすぐに仲が良くなった。友達が出来たのに魔法使いの修行を怠らなかったのも、ひとえにマリーが側にいたからだろう。真面目な彼女は私が修行をサボると酷く怒るのだ。
たまに怒った顔が見たくてわざとサボることもあったけれど、私達は毎日のように修行に明け暮れた。その結果、とうとう二人揃って魔法使いになることができたのだ。
私もマリーも子供から少女へと変わり、精神もそれに合わせて成長していた。それなのに、私の恋愛感情だけは成長することができなかったのだろう。
はっきり言って自惚れていた。
私はマリーをこんなにも愛しているのだから、きっとマリーも私を愛してくれているのだろうと錯覚していた。彼女は単に、初めて出来た友達が嬉しくて少し過剰なスキンシップをしていただけなのに。それを愛情だと誤解していたのだ。
今にして思えば恥ずかしい、これもまた墓の下まで持っていくべき秘密。
師匠から卒業を言い渡され、後は自分たちで研究を続ければいいと太鼓判を押された日の夜。忘れもしない、月だけが輝いていたあの夜だ。
私はマリーを呼び出して、希望だけに彩られた未来を夢見つつ、それが本当の夢であると知らされた。
「私、マリーのことを愛しているわ」
彼女は驚いた。当然だ。
だけど私はそれを、突然の告白に戸惑っているだけだと解釈した。間違っても、同性の友達から告白されてショックを受けているだなんて思うはずもなかった。
半ば成功を確信していた私の説明は、さぞや不快感を与えたのだろう。マリーの顔色は曇り、会心の作だったアップルパイをネズミに食べられた時よりも顔をしかめていた。どうして彼女がそんな顔をするのか分からず、私は首を傾げたものだ。
そんな私に対して、マリーが言った言葉はたったの一言。
「気持ち悪い」
今でもたまに夢を見る。
あの時、彼女が私に向けていた表情。あの月。そして放った言葉。
鮮明な夢として、何十年経った今もなお私を苦しめていた。
傷ついて、傷ついて、ようやく自分の過ちに気付いた私は誓ったのだ。
もう二度と、恋なんてしないのだと。
例え相手が男だろうと、あんなものは傷つくだけだ。やる意味など全くない。
そう言い聞かせて、私は今日まで生きてきた。
そして分かっている。これがいつもの夢なのだと。
悪夢を見せるだけ見せておきながら、解決策は全く示さない。夢とはかくも無責任なものだ。
そう毒づいた私に対し、何か反抗心でも芽生えたのだろうか。
夢は最後の最後に、いつもと少しだけ違うものを私に見せた。
それはあの夜、私に泣きついていた魔理沙の表情。
帽子越しで見えるはずもなかったものを見せつけられ、私は当然のごとく動揺するのだった。
そして目を覚ます。ベッドから転がり落ちていたことは言うまでもない。
「手を繋いでも駄目だったんだ。次はキスするか」
紅茶の葉が床に広がった。掃除をするわけでない。単に手からこぼれ落ちたのだ。
慌てて拾い集め、魔理沙を睨み付ける。
「冗談だよ」
「分かってるから腹立たしいのよ」
私をからかうという目的が達成され、魔理沙の顔はとても満足げだった。一瞬でも身体を張りつめた自分が馬鹿らしくなって、思わずティーカップを放り投げたくなる。そんな勿体ない真似、勿論できるはずもないのだけれど。
安楽椅子を揺らしながら、魔理沙は紅茶ができるのを待っていた。そのまま大人しくしていれば、深窓の令嬢と評されてもおかしくないのに。口を開くたびに、そのイメージが間違いなのだと周囲にお知らせしているようなものだ。
まったく惜しい。けれど、その矛盾がまた私の心をくすぐる。まこと恋愛というものは難しい。
「だけど、効果が無かったのは事実だしな。何か新しい対策でも考えないと」
「諦めたら? 別にスペルカードはあれだけじゃないでしょ」
恋と直結しているのはマスタースパークぐらいのもの。他のもので補えば、充分に戦闘は出来ると思うのだが。魔理沙の考えは違うらしい。
「あれは私の代名詞だからな。マスタースパークを撃てない私なんて、人形を操れないアリスみたいなもんだぜ」
「なるほど、役立たずと」
「鋭い自己分析ありがとう」
軽口を叩きながらも、小さな口はしっかりとクッキーに齧りついている。どこから見つけてきたのだろう。子供よりも鼻の効く奴だ。
「なあ、アリス」
「何よ」
「恋人って何やってるんだろうな」
片思いしている相手に訊くとは、これで私の気持ちに気付いているなら性格が悪いとしか言いようがない。もっともそこまで魔理沙が敏感だったら、さほどの苦労もせずに今頃は友情すらも崩壊している頃だろう。
ある意味では鈍感さに感謝しつつも、素っ気なく答えた。
「さあね。霊夢にでも訊いてみたら」
「酷い奴だな。私が訊けるわけもないだろ」
お前が言うな、と心の中でツッコミを入れておく。
催促でもしているのか、それとも考え事をしている時の癖なのか。魔理沙は安楽椅子を木馬の玩具のように揺らしていた。
「どうするかなあ。やっぱり男が相手じゃないと駄目なのか」
「……まぁ、普通はそうでしょうね」
「だけどなあ、それだけの為に男を作るってのも面倒だろ。それに、恋愛ってのはもっとちゃんとしたものだと私は思うんだ」
椅子を安楽させていない腹いせとして、ちょっとばかり皮肉めいた口調でからかう。
「へえ、意外に純情なのね」
「乙女だからな」
妙な説得力があった。あの帽子がないと魔法使いらしさが半減し、少女らしさが倍増する。人形の髪の毛に使いたいほどきめ細かな髪の毛には嫉妬すら覚え、羅生門の鬼婆の気持ちも分かるというものだ。いや、あれは生計の為に盗っていたのか。日本文学は精通していないので記憶が曖昧だ。
ようやく紅茶を差し出せば、待っていましたとばかりにティーカップへ口をつける。味と香りを楽しむものなのだから、もっと飲む前に色々と見るべきところがあるだろうに。不満はあるが、どうせ言っても聞きはしない。
自由奔放な魔理沙にとって、喉が渇いた時の紅茶はただの水と大差ないのだ。ちゃんと楽しもうとする時は香りにも注意しているようだし、まぁ今日だけは大目に見よう。私だって喉が渇いた。
魔理沙が変な事を言ったせいである。まったく、乙女ならば軽はずみにキスなどと言わないで欲しい。心臓が破裂するかと思った。
「うむ、アリスの紅茶はなかなかだが、咲夜には負けるな」
「たまにはお世辞ぐらい言ったらどうかしら。人の家に押しかけておいて、二番目扱いは酷いと思うんだけど」
「正直者なだけだぜ。それに、アリスと咲夜には切磋琢磨して欲しいのさ。もっと美味しい紅茶が飲めるからな」
「友達甲斐のない奴ね」
私は紅茶を作る機械ではないのだ。それだけに期待していると言われたら、傷つくようにちゃんと出来ている。
ふと、魔理沙は難しい顔で何やら考え込み始めた。紅茶はまだ少しだけ残っている。失敗でもしたのだろうか。
香りは申し分ないし、自画自賛になるが味だってメイドがいれたものと大差ないと思っている。残すような要素はないはずだけれど、一体どうしたのだろう。
訝しげな顔で覗き込もうとした瞬間、狐にでも憑かれたように魔理沙はいきなり立ち上がった。
思わず背をそらし、目を丸くする。
「ど、どうしたのよ」
「それだ!」
「え? え?」
なにが、どれだ?
魔理沙の言っている事が分からない。
だが一人で納得している魔理沙は、いきなり私の手を掴むと感謝の念をこめてぶんぶんと上下に振り回した。見ようによっては握手の強化版なのだが、何の予告もなしに手を掴まれて私はすっかり舞い上がってしまった。
弾幕はブレインだけど、ブレインは一度壊れると脆いのだ。
「それだよ、アリス! 友達だ!」
「な、何が?」
「恋符が駄目なら、友符でいけばいいんだ! 友情だって愛情に負けないぐらい強力だろ?」
つまり間接的にお前とは友達でいたいのだと言われたようなものだが、私にとってはどうでも良かった。手の先から感じられる魔理沙の体温が、思いの外私の思考を破壊しているようだ。
オウムのように決まった言葉を繰り返すだけ。せめてもっと気の利いた事は言えなかったのかと、後々になって後悔する。
「それだったらアリスにピッタリだしな。ライバルでもあるが、一応は親友っぽいものでもあるわけだし」
「う、うん」
「そうと決まったら、早速実験してくるぜ。霊夢との決闘まで時間もないからな」
瓦礫のようになっていた私の脳みそだったが、さすがに聞き逃せない単語を漏らすほどザルではなかったようだ。
「霊夢との決闘って何?」
「ん、ああ大したことじゃない。けじめというか、区切りみたいなもんだ。今度、霊夢と弾幕ごっこをすることになったんだよ」
ただの弾幕ごっこにしては、魔理沙の言葉も固い。決闘などという表現を使っているあたりからも、それは如実にうかがえる。
「霊夢もさすがに結婚すれば、いつまで弾幕ごっこに付きあってくれるか分からないしな。ここらで決着をつけて、後腐れなくしようって二人で話し合ったんだ。色々、な」
人間の気持ちというは単純ではない。割り切れと言われたところで、何か切っ掛けがあったところで、そうそう簡単に切り替えることなどできないのだ。この決闘が終わったところで、二人の心にはしこりが残り続けるだろう。
それでも、たまには派手に戦いたい時があるのだ。幻想郷の乙女なら、特に。
なるほど、いきなりマスタースパークの話を持ち込んでくるわけだ。あれが無ければ、確かに霊夢との決闘は厳しいものになるだろう。
「それで、友符ね」
「私とアリスの友情パワーで霊夢から白星を奪ってやるよ」
「恥ずかしげもなく、よくもまぁそんな台詞が言えるわね」
子供のようにはにかんだ笑顔を見せて、魔理沙は立てかけてあった箒に手を伸ばす。
「勘違いするなよ、私だって恥ずかしいんだ。だけど、これも全ては霊夢に勝つ為だよ」
「期待しないで待っておくわ」
霊夢と魔理沙の地力の差を考えれば、例えマスタースパークが万全だったとしても勝てる望みは限りなく薄い。ましてや、相手も今回ばかりは負けるわけにはいかないのだから。これまで以上に厳しい戦いが強いられるのは想像に難くない。
現実として、翌日も魔理沙は私の家を訪れたのだった。
曰く、この威力では霊夢に勝つことができない。何かもっと、威力を高める術があるはずなのだと。家に突然押しかけてきた魔理沙は力強くそう語った。
元から前触れもなく家に訪れていた奴が、連日のようにやってくるのだ。さすがにもうノックも無しに入ってきただけでは驚かなくなった。
「友情が足りないのかもしれない」
「それこそどうするのよ。夕日の河原で殴り合う? 私は御免よ」
「なんだそりゃ」
「さあ? 外の世界ではそうやって友情を深めているらしいわ」
「物騒だな」
魔理沙は頭を悩ませていたが、私には何となく原因が分かっていた。魔法というのは関連性も大事で、例えば召喚術にしたって相手を無理矢理呼び出すのと、相手の任意を得て呼び出すのでは振るえる力が全然違う。
ならばこそ、この手の魔法も似たようなものだ。恋を原動力にしているのならば、相手からも愛されていなければならない。恐ろしい話だが、あのマスタースパークは未完成だったようだ。なにせ、意中の店主は巫女の方を選んだのだから。
私の場合は少し違う。私の感情は魔理沙に向いていた。ただ、向けているものの種類が圧倒的に異なるのだ。
魔理沙は私を友達だといい友情を向け、私は恋人になりたいからと愛情を向ける。どちらとも一方通行な思いなのだから、魔法として未完成なのは仕方ない。私が愛を諦めるか、魔理沙が恋に目覚めるのか。どちらにせよ絵に描いた餅を食べるように途方もないお伽噺だ。
「愛情もそうだが、友情も深める方法は謎だな。こういうのは大抵、勝手に深まっていくもんだろ?」
何も知らない魔理沙は、ただ純粋に私との友情を深めようと頑張っている。それがどれだけ、私の心を傷つけているのかも知らずに。
だからついつい、ネガティブな言葉が口から出てしまうのだ。
「諦めたらどう? あなたがどれだけ努力したところで、天才の霊夢には勝てないかもしれないのよ?」
辛辣な言葉に対し、魔理沙が浮かべた表情は不敵な笑みだった。
「おいおい、アリスともあろうものが忘れたのか? 私は最高に諦めが悪いんだよ」
「……そうだったわね」
「だから霧雨魔理沙って言うんだ」
そして私は、そうやって膝を屈さないあなたを愛してしまった。
心の中で何かが叫んでいる。どうやれば、この状況を解決できるのか。
ああ、分かっている。あるのだ、一か八かの大博打が。
それが成功したならば、私の恋は叶い、マスタースパークも完成するだろう。
だが失敗すれば私の恋は完全に破れ、マスタースパークも未完成に終わる。
まさしく天国と地獄。これを選ぶには、些か躊躇いを覚える。
ただ、告白すればいいだけなのに。
過去の記憶が私を縛り付けていた。
魔理沙との関係は悪くない。むしろ良いものだと言ってもいい。だからといって、どこかに恋人になれるような要素があっただろうか。むしろ魔理沙は私を友達だと何度も連呼し、こうやって友符まで作り上げている。
ここまでされて尚、実は魔理沙も私をなんて楽観視するほど子供でもなかった。いま告白したところで、玉砕するのは目に見えている。
魔理沙には悪いが、現状維持が一番だろう。マスタースパークは完成しないだろうけど、何かしたところでどうせ未完成のまま終わるのだ。だったら何もしない方がいい。
それとなく告げたところで、魔理沙は諦めることを選ばなかった。選ぶはずもない。
だって、彼女は霧雨魔理沙なのだから。
この世で最も諦めるという言葉が似合わない乙女。彼女に膝を折らせたのは、あの店主が最初で最後だろう。
妬ましい話ではあるのだけれど。
決闘の当日。あれだけ頑張った魔理沙だけれど、当然のようにマスタースパークは未完成のままだった。芳しくない結果が表情を曇らせ、緊張とは違った意味で顔が強ばっていた。
この調子だと、敗北はほぼ確実だろう。弾幕ごっこでは体力が防御力であり、精神力が攻撃力になる。落ち込んでいたり緊張していると、当然のように弾幕にも陰りが生じてしまうのだ。そんな精神状態で戦えるのは一部の騒霊ぐらいのもの。
弾幕はパワーだぜと豪語する魔理沙にとって、この状況は限りなく絶望的だった。せめて気持ちだけでも張り切ろうと勤めても、そう簡単に人は立ち直れる生き物ではない。むしろ、どんどん泥沼にはまっていくのが道理だ。
箒を握りしめる手も震えている。武者震いでもあるまいし、らしくない。
だが彼女を責めることなど、私には出来るはずもなかった。なにせ未完成だった原因は私にもあり、しかもそれに気付きながら何も言わず、何もしてこなかった。そんな魔法使いが、どんな言葉で彼女を責められる。
励ますことが、今の私の精一杯だった。
「まぁ、威力は今までのと変わらないんだし。上手く立ち回れば勝てる可能性だってゼロではないわ」
「お前みたいに頭を使うんならな。だけど私は力押しが信条だ。その力が不足してるってんなら、厳しい戦いになることは間違いないだろうな」
ハリボテの笑顔が、今はただ空しい。
どうして、そこまで決闘に拘るのだろう。区切りという意味でなら、もっと他に相応しい方法もあるのではないか。今更に沸き上がってきた疑問はしかし、魔理沙の怒りを買うだけだろう。
なにしろ直情型だ。口よりも先に弾幕の出るタイプ。そんな彼女が区切りをつけようとしたら、どうしたって決闘じみた事になるのだろう。
「せめて日付をずらして貰ったらどうかしら。霊夢だって万全のあなたと戦いたいでしょうし」
「それは駄目だ。今日だって言ったんだから、今日じゃないと不公平になる」
「律儀ね」
「それが決闘だぜ、アリス」
私には理解できない世界である。もう、そういうものだと割り切るしかない。
魔理沙の震えは治まらず、時間だけが無情に過ぎていく。無駄に数の多い時計は、まるで魔理沙を責め立てているようだ。外しておけば良かったと、今更ながらに後悔している。
「紅茶でもいれようか?」
「いい。それよりアリス、帽子は持ってるか?」
「ええ、大切に保管してあるけど何? 被っていくの?」
魔理沙は首を左右に振った。
「あの時みたいに、それを被ってくれないか」
「…………え?」
「恥ずかしいから二度も言わせるなよ。だから、あの時にみたいに帽子を思いっきり深く被ってくれって言ってるんだよ!」
半ば怒鳴るような口調は、きっと彼女の照れ隠しなんだろう。それもそうだ。こんなことを素面で言うだなんて、ちょっとした罰ゲームでしかない。普通の人にとってはただの命令でも、私達にとってそれがどういう意味を持っているのか。
私は恐る恐る帽子を戸棚から取り出し、魔理沙の前まで持っていった。被れとジェスチャーしているし、やはり従わないと駄目なんだろう。
仕方なく、私はあの時を再現するように今度は自分から帽子を深く被る。昼だというのに、室内は真っ暗になった。帽子の裏側が私の視界の遮り、魔理沙がどういう表情をしているのか覆い隠している。
「いいか、絶対に動くなよ。あと、これから起こることも忘れてくれ」
私は無言で頷いた。頷くしかなかった。
何も見えないのだから当たり前と言えば当たり前だが。
身を固くする私の身体を、優しく包み込む誰かの手。震える小さな腕が、私の身体を抱きしめていた。
この家には二人しかいない。
それが魔理沙であることなど、帽子をとらなくても容易に分かる。
「悪いな。ちょっとだけ、ちょっとだけこうさせてくれ」
お気に入りのぬいぐるみを抱きしめたり、あるいは母親にすがり付いたり。そういう類のものなのだろう。不安になると人間は誰かを頼りたくなるものだ。風邪をひいた時ほど、それが顕著に表れる。
だからこれも、言ってしまえば病気なようなもの。不安な心が、魔理沙を少しだけ大胆な行動に走らせたのだ。
あの時と一緒。マリーもまた、こうやって私を抱きしめてくることが度々あった。
勘違いをしてはいけない、アリス・マーガトロイド。お前はまた同じ過ちを繰り返すのか。
心の中の自分に答える。
どうやら、私はまだまだ成長していなったみたいね。
乙女よりも未熟な少女は、魔理沙を優しく抱き返した。抵抗はない。慰めてくれている、そう思っているのだろう。
全ては帽子を外すまで。それまでの間、この温もりを感じていたい。
再び抱きしめることができるのか、それとも二度と触れることすらできなくなるのか。後者の可能性が高かったとしても、今日だけは霧雨魔理沙を見習おう。
弾幕はブレインだ。だけど恋愛はパワーなのだ。
しばらく抱き合っていた私達は、風が窓を叩く音を皮切りにして離れていく。そして帽子をとった私は躊躇うことなく、苦笑いしていた魔理沙に向かって告げたのだ。
「ねえ、魔理沙」
「ん、何だ?」
マリーの時の光景が被る。だけど、もう止まることはできない。
アリス・マーガトロイドは霧雨魔理沙よりも猪突猛進だったのだ。
「私、あなたのことを愛しているわ」
全てを終わらせる一言は、魔理沙の表情を驚きに変えた。
いきなりの告白だ、無理もない。
私だって、何度も何度も魔理沙のからかいに戸惑ってきたではないか。
だからこそ、次の反応も予想していた。
「び、びっくりさせるなよ……人が悪いぜ。緊張をほぐすにしても、もっと面白い冗談を言えよな」
「冗談じゃないわよ」
ゆっくりと、諭すように言葉を続ける。
「友符『マスタースパーク』。完成するわけないでしょ。あなたが私に向けたのは友情なのに、私があなたに向けているのは愛情なんだから。思いが違えば、威力だって弱まる」
「………………」
真剣な語り口は、魔理沙の表情を強ばらせるのに時間はかからなかった。
友符のこともあるのだろう。説得力は充分だ。
「あなたを驚かしたいわけでもないし、冗談を言ってるつもりもない。心の底から魔理沙を愛しているのよ。友達ではなく、恋人になりたくて」
「あ……う……」
みるみるうちに魔理沙の顔は歪んでいった。これから何を言うのかで、私の未来も決定するのだと思えば心臓の鼓動が早くなるのも無理はない。
もしもまた気持ち悪いと言われたら、きっと私は立ち直れないだろう。今度こそ恋はしないなどと誓う余裕すらない。
それこそ自分が人形であるかのように、精神が壊れてしまうのかもしれない。
だけどそれでも、言ってしまった事を取り消すつもりなんてない。ここで引き下がるようなら、いずれにせよ私の恋はもう終わっているのだ。
「う、ううっ……」
唸り続ける魔理沙は、顔を俯かせていた。
彼女が何を言うのか。固唾を呑んで見守っていた私にとって、魔理沙の選んだ行動はあまりにも予想外だった。
「っ!」
床に落ちていた箒を掴み、乱暴に扉を開けて魔理沙は出て行った。
何も言葉をかけずに、こちらを見ることもなく。
嬉しくてやった行動でもあるまい。
ああ、なるほど。
安楽椅子に座る気力すら起きず、そのまま床に腰を下ろした。
「また、ふられたのね」
一度目は軽蔑されて、二度目は拒絶された。
普通の恋愛ですら難しいのに、どうして同性同士が結ばれようものか。
乾いた笑いを浮かべながらも、私は帽子は深く被る。誰もいなかったとしても、泣き顔を見せるのだけは嫌だった。
恋は魔法使いの天敵。なるほど、今ならばその言葉にも頷ける。
魔法の森は魔法使いにとって最高の環境であった。材料には事欠かないし、人もあまり訪れない。研究や実験をするには、これほど適した環境もないだろう。
その地を捨てようというのだから、普通の魔法使いならば気でも狂ったのではないかと正気を疑う。
だが生憎と、私はそこまで神経が図太くない。あれだけこっぴどく拒絶されてなお、まだ此処で居を構えるほど剛胆でもなかった。幻想郷にはもう居られない。外の世界に出て、どこか自分に適した環境をまた一から探すしかないのだ。
あちらの世界は魔法使いに厳しく、研究だって十分の一も進まないだろう。だけど、それでも此処に居座るよりかは遙かにマシだ。
あちらの世界には、魔理沙が居ないのだから。
いくらでも物が入る特殊な袋へ、家中の物を詰めていく。これがあるおかげで引っ越しには困らず、その気になればすぐにでも家を捨てることができるのだ。勿論、そのことに抵抗はある。
人間の一生涯とはいかないものの、結構な年数をこの家と共に過ごしてきた。思い出だってあるし、捨てるのは正直惜しい。だけどそれでも、どうしても此処へ住み続けるわけにはいかないのだ。
「あっ……」
手にしたのは魔理沙の帽子。この家にある、唯一魔理沙を感じさせるもの。
これを持っていくことは、まだ未練があるように思える。だけど捨てることなんて、出来るはずもなかった。
置いていくのが一番良いのかも知れない。これを持っていくようでは、あちらの世界でも魔理沙を頻繁に思い出すだろう。そんな真似、出来ればしたくなかった。
本来なら持ち主に返してあげたいところだが、当然のごとくそれは不可能。仕方なく、部屋の中央に置いておく。魔理沙のことだ、きっともう一度ぐらいなら此処に来るだろう。それでこの帽子を見つけてくれれば、間違いなく持って帰る。
間接的ではあるが、それで良しとするしかない。直接渡すなど、言語道断なのだから。
「これで良いわね」
準備をしている間は何もかも忘れることが出来るから、ついつい作業が捗ってしまった。あれだけ物で満たされていた空間から何もかもが無くなると、妙な寂しさが胸にこみ上げてくる。
ああ、駄目だ。枯れたと思っていたものが、また再び湧き出そうとしている。
目を擦り、鼻をかんだ。
その時だ。山の向こうが明るく光り、何もない部屋の中を照らしたのは。
窓に駆け寄り、光がした方を見遣る。幻だったのだろうか、もう山が光ることはなかった。
「あっちは博麗神社の方角……」
自ずと、あの光の正体も察せる。律儀な奴だ。こんな状況にあっても、ちゃんと決闘には応じるだなんて。
だけど、それを言えばすぐさま引っ越しの準備を始めた自分も自分である。やはり魔理沙も、何かをして忘れたかったのだろうか。
そういう意味では弾幕ごっこは打って付けだ。もっとも、八つ当たりじみた戦い方では絶対に勝てないのだけれど。
「まぁ、関係ないわね」
どうせ決着を知ることもなく、私は居なくなるのだ。いまさら薄情な話だが、魔理沙が勝とうと負けようとどちらでも良かった。
人形達も袋の中に仕舞い込み、最後に部屋の中を見渡す。何もなくなった部屋はまるで私の心を表しているかのようで、どこか自嘲的な笑みが零れてくる。だけど後悔だけはしていなかった。
あのまま黙っていたとしても、どうせいつかは告白していた。ただそれが早いか遅いかの違いがあるだけで、冷静になってみれば受け入れられるはずもないのだ。
「それじゃ、さようなら」
誰に対しての言葉なのか。愛着のあった家に対してだと、今はそう思っておこう。
扉を開き、外の空気が流れ込んでくる。それに混じって、微かに焦げ臭い匂いも漂ってきた。
驚きを通り越して、笑いが漏れてくる。
どれだけ急げば、神社から此処までやってこられるのか。全力を尽くして戦ったはずなのに、どこにそんな力が残っていたのかと。
「よお、アリス。どこかへお出かけか?」
服もボロボロ、髪もボサボサの霧雨魔理沙が私を待ちかまえていた。
やはり、どうしても最後には立ちはだかるのがこの少女なのだろう。大人しくしているなど、それこそ魔理沙らしくもない。例え決闘の後だとしても、見過ごすはずもなかった。
「ちょっと傷心旅行へね。悪いけれど、そこをどいて貰えないかしら?」
「旅行にしては随分と大荷物だな」
「袋一つよ」
「ただの袋ならな」
これを手に入れた時は嬉しくて、何度も魔理沙に自慢していた事を思い出す。余計なことをしなければ、あるいは気付かれなかったかもしれないのに。まぁ、その時はその時で何かしらの理由を付けて引き留めるのだろう。
魔理沙はそういう子だった。彼女の鼻は、最後の最後を見逃すようには出来ていない。
「私はまだ、答えを言っていないぜ」
「態度が如実に語っていたと思うけど?」
「あれはまぁ、ちょっと驚いて頭がごちゃごちゃになってたからだ。その事については謝る。悪かったな」
「別に謝って欲しいわけではないわよ」
私だって、あんな風に告白されたら逃げ出していたかもしれない。一概に魔理沙を責めることは出来なかった。
「そして更に悪い話だが、生憎と私はお前と付きあうつもりはない」
「……性格が悪いわね。わざわざ、そんな事を言いに来たの?」
「そんなわけないだろ。お前を引き留めに来たんだ」
「それこそ性格が悪いわね」
振っておきながら、友達ではいようなどと都合の良い話は御免だ。生殺しにも程がある。近くにいたらどうしても、私を愛して欲しくなるのだ。友達でなんていられない。
苛立ちは視線に混じり、睨み付けるように鋭くなっても魔理沙の表情は変わらない。相変わらずの不敵な笑みだ。
「私からの要求は分かってるんだろ。親友として、ずっと側にいて欲しい」
「私の答えも分かってるんでしょう。そんな地獄はお断り」
「いや、違うな。お前は返事はそんな消極的なものじゃない」
「え?」
箒の先が私の顔を指し示す。
「いつか絶対に、霧雨魔理沙を惚れさせてみせる。アリス・マーガトロイドがすべき答えはこれ一つだけだろう」
ああ、なんと強引で自分本位な要求。
他人の答えまで勝手に決めつけるなんて、幻想郷広しと言えども魔理沙と後は霊夢ぐらいなものだ。
「振られたのに、まだアピールを続けろってこと? 冗談じゃないわ」
「今は付きあうつもりはない。当然、この先も付き合うつもりなんてない。だがお前が本気を出してくるなら、私だって勝てる自信は無いんだぜ」
「本気は出さない」
「だったらこの勝負、私の勝ちだ」
勝ち負けという問題ではないのだが、それでも魔理沙は話を続ける。
「そしてもう一つの勝負でも、このまま行けば私の勝ちだな」
「もう一つの勝負?」
右手に箒を、そして左手にはミニ八卦炉を。
それぞれ私に向かって突き出す。
「ここを通りたくば、私を倒してからにするんだな」
呆れた溜息しか出ない。だけど魔理沙が言い出してしまったのなら、これはもう回避不可能だろう。
霊夢との決闘で疲れているのにだとか、そんな事をする意味を問うたところで彼女は揺るがない。
「傍若無人ね」
「霧雨魔理沙だからな」
「便利な言葉。でもいいわ、お望み通りあなたを倒して私は出て行く。そうするしか、道は無いようだし」
袋の中から人形を取りだし、スペルカードもありったけ持ち出した。どうせ、外の世界では使い道などないのだ。この機会に全部使ってしまおう。
これまでに製作した人形を全て投入し、さながら一個の軍団が後ろに控えているような錯覚を覚える。私が負ける要素など、万に一つも有りはしなかった。
それなのに魔理沙は笑ったまま、誇らしげに胸を張る。
「ちなみに、私は霊夢に勝ったぜ」
こちらを動揺させる嘘なのかと疑いもしたが、それはないだろう。こうやって誇らしげにしている時の魔理沙は、絶対に嘘をつかない。ただ純粋にやったことを褒めて貰いたいという思いが、彼女の顔からは溢れ出ていた。
「よくもまぁ、未完成のスペルカードで勝てたものね」
「それだけ、私とアリスの友情が強かったということだ」
「否定はしないわよ、友情もあったことはあった。だけど、私が向けて欲しいのは愛情」
「勝ち取れよ、欲しいなら」
「お断り。逃亡者はただ逃げるだけですわ」
「ああ腹が立つな! でも、それでこそアリス・マーガトロイドだ!」
「ありがとう。それでこそ、霧雨魔理沙よ」
互いの傲慢がぶつかり合うだけの決闘は、そうして幕を開けたのだった。
新しく移住してきた街は、お世辞にも良いところとは言えなかった。住人達はこぞって私に冷たいし、材料集めにも四苦八苦している。人が寄りつけないのは研究が捗って有り難いのだけれど、売る物も売ってくれないのは正直厳しい。
私のことを知らない行商人くらいか、笑顔で接してくれるのは。そんな彼らも一度この家に訪れたのなら、もう二度と立ち寄ってはくれなくなるのだけれど。
ただ立地は気に入っている。小高い丘の上は風通しもよく、窓を開ければ草の匂いが部屋の中を通り過ぎていく。
夏になれば向日葵畑も近くに見えるし、冬ともなれば雪化粧をした山々が窓から顔を覗かせる。
魔法の森ほど住みやすくはないけれど、それでもわりと今の家が気に入っていた。
「さてと」
紅茶の時間はお終い。そろそろ研究を再開しよう。
こちらの世界では科学による自立人形の研究が盛んであったが、私に言わしてみればあれはただの木偶人形だ。確かに動きは人間に近づいているけれど、肝心の魂がまったく籠もっていない。
あれではせいぜい、自律が精一杯だろう。やはり自分は自分の道を極めていくしかない。
「あら」
先程の作業でどこかに引っかけてしまったのか、腰のリボンが傷んでいた。別に誰かに見られるわけではないけれど、どうにも気になってしまうのだから仕方ない。痛んだリボンをほどき、代わりのものをクローゼットの引き出しから探す。
赤いリボンの海をかきわけ、奥の奥からそれを見つけた。
明らかに戦いの中で傷ついたと思われるリボン。所々は焦げており、見るも無惨な姿になっている。
捨てよう捨てようと思っているのだけれど、結局捨てることができずに今も持っているものだ。何故こんな姿になったのか、今でも鮮明に思い出すことができる。
魔理沙との決闘は、当然のごとく私が勝利した。霊夢との戦いで全力を出し、更に私の家まで限界以上のスピードで飛んできた後だ。本来ならば倒れてもおかしくはないのに、それで弾幕ごっこをしようとしていた。負けるのは当然の話である。
ただ、決して圧勝ではなかった。どちらかといえば辛勝だ。
あれだけボロボロになりながらも、魔理沙は最後の最後まで諦めず、本気以上の本気を出して私に立ち向かってきた。絶対に本気を出すまいと誓っていた私だが、はてさてあの時にどれぐらいまで力を出したのか。今となっては覚えていない。
最後に立っていたのが私だっただけの話で。
「本当、無茶する奴だったわね」
今にして思う。果たして、あの時に魔理沙のマスタースパークが完成していたら自分は勝者となっていただろうか。あれだけの接戦だったのだ。勝てていたと言い切るのは難しい。
だけど、未完成だったからこそ起こった決闘なのだ。どちらかが向ける感情を変えていれば、私が家を捨てる必要なんて無かった。そういった意味では未完成だったゆえに助かり、未完成だったゆえにこうして暮らしているのだと言える。
何とも皮肉な話だが。
いずれにせよ、全ては終わった過去のこと。思い出しても栓のない、忘れ去るべき昔の話だ。
リボンを付け替え、今度こそと仕事机に向き直る。
そこでふと、窓の外に人影を発見した。そういえば、今日は月に一度の行商人がやってくる日だった。ちょうど紅茶も切れているし、塩も足りない。本来なら魔法使いに食事は必要ないのだけれど、まだまだ未熟な私のこと。
それに食事は唯一の楽しみでもあった。この機会を逃すのは勿体ない。
お金の詰まった財布を握りしめ、玄関へと向かう。最近は行商人の間でも悪い噂が広まっているのか、ノックを数回したら逃げるように去っていく人が多い。そんなに怖いなら近寄らなければいいのにと思うけれど、彼らも彼らで複雑なのだろう。
ノックの音を待っていた私は、いきなり扉が開いたことに驚き、そこに立っている人物にまた驚いた。
「よお、アリス」
いつぞやのように、あの時のように。重そうなリュックを背負った霧雨魔理沙が、私の目の前で不敵な笑みを浮かべている。唖然として固まる私に対し、魔理沙は遠慮無く言葉を続けた。
「そうそう、言い忘れてたがあの決闘は三回勝負だったんだ。だから、あと二回ほど勝負が残っているぜ」
そんな話は欠片も聞いたことがない。今日日、小学生だってもうちょっとマシな言い訳をする。乙女と自称するような奴が言うべき台詞ではなかったけれど、それはとても魔理沙らしい言い分だった。
綺麗な肌はすっかり荒れて、どこかいっぱしの商人のようにも見える。血筋なのだろうかと言えば、きっと彼女は怒るだろう。
「……呆れて物も言えないとはこの事ね」
「言ってるじゃないか」
「どうやって……はまぁいいわ。それよりも、何で此処に来たのよ」
「さっきも言っただろ。決闘はまだ終わってないんだ。勝手に勝ち逃げされちゃ困るな」
ああ、悔しい。あれほど忘れるようとしたのに、強引な論理で押しかけられているのに。
どこか嬉しい私がいる。
また出会えたことに、喜びを感じている私がいるのだ。
「馬鹿ね、本当馬鹿」
「知らなかったのか。私は諦めが悪いんだよ」
新しく結んだ赤いリボン。これもまた、代える必要があるのだろうか。
今はまだ分からない。
「知ってるわよ」
ただ一つだけ確かなことは、目の前に魔理沙が立っているという現実だけ。
これから何が起こるのかだなんて、もう誰にも分からない。
「そんな所も含めて、あなたが大好きなんだから」
友符を恋符にする為に、私はちょっとだけ本気を出そうかと思った。
小高い丘には魔法使いが住む。
どこから来たのか誰も知らない。
何をしているのか誰も知らない。
人付き合いの悪い魔法使いの元へ訪れる者など、誰もいなかったのはずなのに。
一人の商人がこう言った
あれは私の親友だぜ、と。
淡々とした語りがアリスらしいと思いながらも、どこか物足りなくも感じました。
そして今抱えている想いを上手く言葉に出来ないのがもどかしい。とても面白かった。それだけは、確かです。
すみません上手い感想が言えなくて……。これからもがんばってください、すばらしい作品をありがとうございました。
いろいろな視点を持っていて切り込み方が上手ですね。
今回の話も良かったです。
アリスの思考が好きです。
マリアリは不滅!!
何回も読み返させてもらいます。
途中までアリスが救われなさそうと思っていましたが、納得できる展開からハッピーエンドになって、とても気持ちの良い読後感でした。
この魔理沙にはアリスが惚れるのも納得。
アリスの心情がしっかり描かれていて良かった
それでも一緒にいたい二人に幸いがありますように。
それらに説得力を持つよう、決闘する事になった魔理沙、霊夢視点での描写も必要だったのでは?
魔理沙がラストの方で何を思っているのかが凄い気になりました。
良い意味でもやもや感が残ったのでこの点数を。
何より切なくも淡々としたアリスの独白が素晴らしい。初見では文句なく100点だと思いました。
そう、素晴らしかったのです。そのため何回か読み返して見るうちに「あれ?」と思いました。
まず目に着いたのは、マリーとの初恋のくだりで、そのオリ設定ではなく、アリスがまだ人間だったという所です。
おそらく求聞史紀の阿求の推察の方を採用したのでしょうが、わざわざそうした理由が分かりません。
また、ラストシーンでは舞台が幻想郷の外の世界に移っていますが、二人は博麗大結界をどうやって越えたのでしょう。
魔界の実家に帰ったとするなり、幻想郷内の他の場所に移り住むなり、原作と不自然にならない展開はいくらでもできた筈です。
東方に限らず二次創作において原作を無視した設定はできるだけ忌避される物です。それにワケがあるならともかく、理由も何もないならなお尚更です。
創想話でいくつも作品を輩出している八重結界氏ならばそんな初歩的なミスは犯さない。そう考えていたため、何かのオチに繋がるのではと勘繰っていましたが、最後まで何もなく拍子抜けしてしまいました。
特に冒頭で霊夢と霖之助がいきなり結婚した訳が、魔理沙に失恋させてアリスとくっつける事、霊夢と対決させることでその関係を深めさせようというという至極都合のいい理由によるものに過ぎなかったのにがっかりです。
結局、アリスの心情描写は良く練られている代わりに周りの構成などががかなりいい加減にされていると感じました。
そのため、読めば読むほど本来の意味でもやもやとしたものが残ってしまいました。
氏にしては残念な作品だと思います。
アリスに焦点を絞って、他の部分がぼかされているところが、二人の関係を表しているようでよかったです。
霊夢と霖之助についても、かませ犬でもなく、都合のいい理由でもなく、極自然にそういう流れもあるという風に思えましたし。
だから、そういう流れできたからこそ、簡単に魔理沙がアリスのことを好きにならないお話で終わったからよかったです。
まあとりあえず、マリーは殴りたいと思った。
単純な愛と友情のデジタルなすれ違いで終わるのではなく、魔理沙とアリスのエゴの張り合いによって二つの感情が交じり合って長い人生を織り成してゆく構成が見事だと思いました。
ちなみに上の方が言っている「原作設定」については、ZUN氏自体が答えが一つに定まらないようにすることで様々な物語をファンの間に作り出す余地を残していると思うので、東方に関してはそれこそデジタルな態度ではなく適当で済ます方がずっと面白い作品を作れることと思います。
そして切ないままじゃなく綺麗にまとめたのも好印象。
傲慢で傍若無人、だからこその霧雨魔理沙!
面白かったです。
友情と愛情には実はそんな大した差は無く、大まかに言えばどちらも「大好き」ということなんですよね。
本筋のアリスと魔理沙に関しては文句なしです。
けれど気になったので一点。物語の序盤にて。
> だから、これもアルコールのせい。
> ウェディングドレスを着た自分の隣に、同じ衣装の魔理沙の姿が思い浮かんだなんて。正気でなければ何だと言うのだ。
この時点でこの考えが「正気」だと、駄目だと思うのです。誤字かしらん。
それゆえの苦悩も出てて、苦味が作品の旨味を引き出していますね。
何の為の長い空白だと思っている。自分で考えるも良し、これからどうなると思うのもよし。
要はアリスと魔理沙の関係が大事なんだよ。
最後の親友だぜって言葉がいいですね。
いい終わりかただと思います。