Coolier - 新生・東方創想話ジェネリック

ハイカラさんが通る 三つ目

2019/08/04 06:51:39
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   せいじゃとひる

正午。
上白沢慧音の切り盛りする寺子屋での色々な手伝いを更生の一環として課されていた鬼人正邪は、その手伝いを済ませ、里の離れにある自宅へと帰ろうと考えていた。
「いやぁ、子供の相手もすっかり板についてきたじゃないか」
「いえいえ……」と、正邪は曖昧に笑い、慧音の言葉を受け流していた。
正邪が自ら企てた計画を実行してから暫く経ち、ほとぼりも冷めて来た頃、正邪はすっかり幻想郷の生活に馴染んでいるのだった。
初めこそ、これでいいのか、といった様々な葛藤が正邪を苛んだが、今では正邪自身、大きな喜びも無ければ悲しみもない、緩やかな日常を享受しているようだった。
「初めこそ心配していたが、今ではすっかり頼らせて貰ってるよ。感謝してるぞ」
等々、慧音は正邪への感謝への言葉を連ねるが、一方の正邪は今日の夕飯のことなどを考えながら「はあ」「それはどうも」など、それらに類する言葉をあむあむと発するのみだった。
 慧音との別れ際の会話が済むと、正邪は帰路である人里をふらふらと歩いていた。
空には疎らに雲が浮かび、太陽は鈍く照っているが、暑くも無ければ寒くもない。どこか間の抜けた印象のする昼下がりだった。
 正邪がこのような平熱の日々を送るようになってから、下克上実行以前の正邪にあった覇気のようなものはどこかへ消え失せてしまい、それからの正邪の言動、行動、態度は、他者にどこか腑抜けた印象を与えていた。
しかし、特に誰もそれを気にするものはいなかったし、むしろそれを良しとしていた。
 正邪自身もそれをあまり気にはしていなかった。
 感慨など感じたことがありません。と、いった顔で、ぼーっと里を歩く正邪は、帰りしなに慧音から受け取った給与の使い途を思い浮かべていた。
どれ、針妙丸に土産でも買っていってやろうかな。うーん、しかし。
正邪の思考は纏まらず、あちらこちらに意識が泳いだ。
八百屋が珍しく魚を売っている。なんて魚だろう。おや、野菜も安いぞ。なんだ、向こうの方が騒がしい。ああ、人形劇をやっているのか。正邪はそれらを眺めながら、なんとはなしに給与の袋を開いた。すると、そこにはなんといつもの倍ほどの給与が入っているではないか。
いやあ、八百屋の魚といい、安い野菜といい、人形劇といい、何よりこの給与だ。慧音先生にありがとうなんて言われて、給与袋を手渡されてから、どうも珍しいことが起きる。 これは、この給与袋が物事の起こりを良くしてくれているに違いない。
 正邪はこれらの符号を吉兆と解し、針妙丸への土産のことなんて忘れて、或る場所へと向かうのだった。

「ぐあー。また負けたよー」
玄武の沢の河童達の寮、その一室では物好きな河童数名が集まり、不定期に賭場を開く。 正邪はそこで惨敗を喫していた。
「正邪はデカい手ばかり狙うからなあ。わかりやすいんだよ」
集まった河童の中でもリーダー格らしき黒髪の河童が、悪いね、といった調子で笑いながら話している。
正邪はその後も賭けに臨んだが、先程までの勝ちで調子付いた河童達を止めることはできず、そのままボロボロと転落していった。

正邪の給与袋が空になる頃、河童達はすっかり上機嫌になっていた。中でも黒髪の上機嫌振りは凄まじく、酒を飲まずとも酔どれの様相を呈していた。
「おうおう正邪、悪いねえ。今日も稼がせて貰っちゃってさあ。それにしても、お前は何をやっても分かりやすいなぁ。麻雀もトランプもオセロも将棋も、とても天邪鬼だとは思えないほどの弱さだ。手が素直すぎるんだよなあ。いやいやこう言っちゃあ失礼かな、私が強すぎるだけかもしらんからなあ」
黒髪河童の漫言放語に、正邪はそこまで腹を立てることはなかったが、ただなんとなく、言い返すのが自然な形だろうと考えた。
「うるさいな、わたしは金が嫌いなんだよ。ただ捨てるのも勿体無いから、毎月お前らに遣りにきてるんだろうが」
深く考えずに言い返した正邪だったが、それは半分本当だった。正邪は金というものがどうにも好きになれず、実入りがあってもすぐに手放すことがほとんどだった。
正邪の負け惜しみとも取れる発言に、さらに機嫌を良くした黒髪は「おい、アレをやろう」と、他の河童達に呼びかけた。他の河童達はそれを聞くと「そりゃあいい」といった調子でやいのやいのと騒ぎ始める。一人の河童が部屋のタンスを漁り、妙な黒い服を人数分取り出した。
この黒い服は「学生服」というものらしく、一人の河童が数着取り出すと、河童達は皆一様に学生服に着替え始めるのだった。
 きょとん、とした様子で河童達の着替えを眺める正邪に、黒髪が「なにしてる。お前も着替えるんだよ」と捲し立てた。
 正邪は言われるがまま着替え始めた。さんざ負けた後に服を脱ぐのがなんとなく嫌だった正邪は、身につけている服の上にそれを着ることにした。
 着替えている最中、釈然としない様子の正邪だったが、着替えが終わると或ることがわかった。
「おい、この服はみんな、男物なんじゃないか?だいぶ丈が長いように思えるんだが」
 黒髪がニヤニヤしながら答える。
「アレをするってときは、この服装でなきゃダメなんだよ。わかってないなぁ正邪は」
 正邪は何も分からなかったが、なんだか面白いことが始まりそうな予感に胸を躍らせていた。
「おい、肝心のアレはどうした」
 黒髪は先輩風を靡かせ「アレ」の所在を他の河童に尋ねた。その口調は、わざとらしいまでに“やから”の口調だった。
「アレなら、倉庫に閉まってありますぜ」
 靡く先輩風を気にもせず、むしろ後輩然として答える河童。むしろ“やから”然として。「倉庫か、面倒だな。おい正邪、お前倉庫の場所は分かるな」
 正邪は「アレ」を持ってくることを黒髪の河童に指示された。なんでも「アレ」とは銀色の一斗缶の中に入っているらしく、倉庫に行って山積みになっている一斗缶を一つ持って来いとのことだった。
 これはいよいよ面白いことが起こりそうだ
正邪はワクワクしながら倉庫に向かうべく外へ飛び出した。
 しかし、外は意外なほどに明るかった。空には依然、間の抜けた太陽が鎮座していた。
正邪はそんな陽光に、気分が萎えていくのを感じながら、倉庫に向かった。

 倉庫に着いた正邪は、山積みになっている一斗缶を見つけた。一斗缶にはラベルが貼ってあり、そこには大きく「トルエン」と表記されている。他に目ぼしい物は見当たらなかったので、河童達の言う「アレ」が指すのはこれで間違い無いだろう。
 しかし、倉庫に着くまでに高揚感を間抜けな陽光にすっかり削がれていた正邪は、これをこのまま河童達の元へ持ち帰る気が起こらなかった。
 正邪の頭には消えてしまった給与のことばかりが浮かんでいた。
 ああ、せっかくの給与を博打でスッたなんて知ったら、慧音先生は怒るだろうなあ。毎度のことながら、今回も内緒にしておこうと
 あぁ、しまった。そういえば家を出るとき針妙丸に土産を買ってくると言ってしまったんだった。どうしたもんかな。うーん。
 正邪は仕方ない、といった具合にトルエンの缶を担ぐと、河童達の元には戻らずに玄武の沢を去った。
 何に使うものかは知らないが、何か面白そうなものには間違いない。針妙丸への土産はこれで決まりだな。ははは。
 正邪は半ば無感情にそんなことを考えるながら、家路を急ぐのだった。
 しかし、帰りの道中、正邪は黒い髪の河童の話を思い返してハッとした。
 黒い髪の河童は、トルエンをやるときには学生服を着なくてはならない、と言っていた。家に帰ってトルエンをやるとしても、学生服がもう一着なくてはならない。それも小人用の物が。
 トルエンの用途も知らない正邪だったが、なんにせよ必要なものは揃えておこうという考えに至った。
 里で見た人形劇もとっくに終わっただろう。そう考え、正邪はアリスマーガトロイド宅へと向かうのだった。

 魔法の森の中、正邪は目的の家の前まで来ると、ちょうど同じタイミングで帰ってきたらしいアリスを見つけた。
 アリスは珍しい人物の来訪を不思議がっている様子だったが、正邪は挨拶を済ませ出し抜けに用件を述べた。
「あー、仕立てを頼みたいんです。この、黒い服なんですけどね。どうやら学生服というらしいんですが、わたしには丈が長すぎましてね。これの余った丈を少し切って、切ったもので小人用のものを一着誂えて欲しいのですが。出来そうですかね?」
 アリスは「ええ、いいわ」と快諾した。
 幻想郷には珍しい学生服を見て気持ちが高ぶったのか、むしろ「やらせてちょうだい」と言わんばかりの快諾具合だった。
 しかし、アリスは何か気になることがある様子で、正邪の手元を不思議そうに伺っている。トルエンが気になるのだろう。正邪はすぐにそれを察した。
「あぁ、これですか?これは河童から貰ってきたものなんですけど、どうにも、これをやるには学生服が必要らしくてですね。それで仕立てを頼んだんですよ」
 アリスは正邪がトルエンについての知識を十分に持ち合わせていないことを悟ったが、「飲んじゃダメよ」と、それ以上は何も言わなかった。
 学生服の仕立てはアリスの手腕により、正邪が想像していた何倍も早く終わり、ものの二○分ほどで完成した学生服が二着とも正邪に手渡される次第となった。
 帰り際、アリスに少量のトルエンを要求された正邪はそれを快諾した。すると、「お礼に」と、アリスは数匹のヒキガエルが入ったカゴを正邪に手渡すのだった。
 正邪が「これは」と尋ねると、アリスは「舐めるのよ」と、答えた。
正直アリスの言う意味のわからない正邪だったが、貰ったものを突っ返すのもなんだなと思い、渋々ヒキガエル入りのカゴを持ったままその場を離れるのだった。
 正邪は少し軽くなった一斗缶を脇に抱え、缶の蓋の上に学生服を大小合わせて二着被せ、片方の手にはヒキガエルが数匹入ったカゴを持ち、魔法の森を歩いていた。一斗缶からはトルエン特有の独特な匂いが放たれている。
 その匂いに引き付けられたのか、木陰から、正邪に一人の人間が近づいて、声をかけてきた。
「妙な匂いがすると思ったら、天邪鬼がいるぜ」
 声の主は霧雨魔理沙だった。彼女はこの辺りで魔法の実験に使う材料を集めいたらしく、手にはかごをぶら下げており、かごは奇妙な草やキノコで満たされていた。
 それを見て、どうということもなく正邪は言葉を返す。
「おお、魔理沙じゃないか。材料集めか、性が出るな」
 下剋上の直後は霧雨魔理沙を半ば敵視していた正邪だったが、時間の経過に伴い、正邪の霧雨魔理沙への評価は「話しやすいやつ」というものに推移した。
 正邪と魔理沙は、今ではすっかり、共に悪巧みをするほどの仲になっていた。
 ああ、そういえば、と、正邪は尋ねる。
「そうだ、お前。紅魔館から一辺に百冊の本を盗むってあれはどうなったんだよ」
 以前、二人で冗談を言い合っている最中に魔理沙の口から飛び出た無謀な計画について、正邪は冗談めかして尋ねたのだった。
「ああ、あれか。試してみたんだが駄目だったよ。あいつも相当警戒してるみたいでな」
「なんだ。そうだったのか、お前ならもしかすると本当にやれるんじゃないかと思っていたんだけどな」
 魔理沙は額に拳をあて、悩ましげに目を細めて言った。
「いやぁ、私も百冊ぐらい軽いもんだと思っていたが。あいつ、私が紅魔館に入るなり弾幕を放ってくるもんだから。手に入ったものと言えば、とっさに手にとった血糊のついたドレスぐらいなものだぜ」
 それはまた妙なものを、と正邪は疑問を呈した。魔理沙は「さぁ。ハロウィンかなにかで使うんじゃないか」と、曖昧に答えた。
 まず、ハロウィンとはなんぞや。正邪が尋ねたが、魔理沙も詳しいことは知らないらしく、二人の間には出鱈目な憶測が飛び交うのだった。
 ハロウィンに対しての互いの憶測が一通り出揃うと、魔理沙は思い出したように正邪の手荷物について尋ねた。
 正邪はその問いに対し「いやぁ、今日はどうも物をよく貰う日なんだ」と切り出し、トルエンと学生服は河童から貰い、ヒキガエルは人形遣いから貰った、と話した。
 魔理沙はその話をわざとらしくうんうんと頷きながら聞いていたが、聞き終わると、出し抜けに言った。
「そうか、お前は“ものもらい”の日なんだな。なら、私からはこれをやろう」
 そう言って、魔理沙は腕にぶら下げたかごから奇妙なきのこを数本取り出し、正邪に手渡した。
 この奇妙なきのこはどういうものか、正邪は尋ねた。“ものもらいの日”という魔理沙の言葉選びの奇妙さにも言及したかった正邪だが、それは我慢した。
「いや、私も詳しくは知らないんだ。元々はアリスに遣ろうと思って採ったものでな。それを遣るとアリスは機嫌が良くてな、礼までくれることもあるんだ。しかしまぁ、今日はお前にやるよ」
「それはどうも。ちなみに、あの人はこんな奇妙なきのこを何に使うんだ」
「うーむ。アリスは『味噌汁に入れるのよ』なんて言っていたかな。よく覚えていないが」
 それからとりとめのない話を二、三交わした後、二人は別れた。

 しばらくして、正邪は魔法の森のはずれにある道具屋、香霖堂に来ていた。
 正体不明の手荷物達の用途を店主に教えてもらうためだった。
 正邪は香霖堂の店主である森近霖之助がどうも苦手だった。以前霖之助は、正邪の下剋上が失敗に終わった後の逃亡生活の際に入手した道具を引き取りたいと正邪のもとに押しかけたことがある。尤も、本人は“押しかけた”なんて自覚はない。霖之助にしてみれば、ただ興味と欲求に突き動かされただけという、至極当たり前のことだった。
 その際、正邪はもちろん道具を手放す気は更々なかったが、霖之助のあまりの口数の多さに圧倒され、気付けば道具たちを手放していた。そういった経緯から、正邪は霖之助を「面倒なやつ」と認識していた。
 話すと長引くんだよな、こいつ。用途の“説明”が始まると殊に面倒だ。
 必要なことだけ聞いて、とっとと帰ってしまおう。正邪はそう思いつつ香霖堂の扉を開けた。
 扉を開けると、霖之助が妙な機械に耳を寄せているのが正邪の視界に映った。
 霖之助は正邪に気がついたようで、機械から耳を離し「いらっしゃい。珍しいじゃないか」と正邪に声をかけた。
 正邪は、どうも、と呟いてテーブル一枚を隔てて椅子に座っている霖之助に近づいた。
 その数歩の間、正邪はなんとはなしにその妙な機械に目をやっていた。
「ああ、これかい?」
 ああ、しまった。
 正邪は自分の軽率さを後悔したが、後悔先に立たず。霖之助の“説明”は既に始まろうとしていた。
「これはラジオといってね。ああ、名前くらいは君も聞いたことがあるかな。少し前に河城にとりが人里に売り出した機械さ。里では結構流行っているようだからね。そんなこの機械、ラジオの用途はずばり、外の世界の“ラジオ局”から発信される“番組”を聴ける、といものだ。番組では外の世界のいろいろな情報を発信してるんだ。外の世界の情報なんて聞いてなにが楽しいのかと思うだろう?僕も最初はそう思ったんだが、聞いてみると中々面白いんだ。中でも僕が気に入っているのは“交通情報”のコーナーかな。交通情報というのは“車”の道路の状況を伝えるものでね、“大和トンネル”は今日も混んでいるのか、なんて。聞いていると、僕自身も車の“ドライバー”になった気がしてね、中々楽しいんだよ。そうだ“天気予報”のコーナーもいいね。自分の知らない世界が晴れていたり、雨が降っていたり、なんだか不思議な気分になるだろう?そうそう、局によっては音楽を流すところもあってね、それが里で流行している大きな要因なんじゃないかな。あと、たまに入る“ノイズ”もいい。にとりはノイズが流れるのをどうにかしたがっていたが、僕はこのノイズがないとなんだか味気ない気がするんだよ。そうだ、実を言うと、このラジオの開発には僕も結構貢献しているんだよ。あれは去年の夏のことだったかな」……。……。
 延々と続く霖之助のラジオの“説明”の最中、正邪は自身の舌を噛み切ることについて考えていた。
「これで、ラジオのことはだいたいわかってもらえたかな?」
 正邪の舌に軽く血が滲んだ頃、霖之助の説明は終わった。舌に広がる血の味と痛みを恨めしく思いながら、正邪は皮肉交じりに言った。
「丁寧な説明をありがとう。ラジオのことはよくわかったよ」
 聞き慣れない単語と頻発する寄り道で、正直ラジオの概要を掴みきれていない正邪だったが、霖之助の説明を聞いていて一つだけ想像のつくことがあった。
 それは、霖之助が“車”の“ドライバー”だったら、間違いなく霖之助は渋滞の素となるだろうということだった。
 霖之助は正邪の発言に含まれる皮肉の意には全く気が付かない様子で返した。
「それはよかったよ。ああ、すまないね。香霖堂ではなく、僕個人になにか用事があるのだろう?一斗缶に、ヒキガエル。それにアオゾメヒカゲタケ。缶に被せてある黒い服はわからないが、缶の中身は、匂いからするとトルエンだろう。そんなものを売りに来るやつはいないからね。恐らく。それらの用途を知りたいんだろう?ずばり答えよう。服は当然着るものとして。トルエン、ヒキガエル、アオゾメヒカゲタケ。それらは全て“神に祈りを捧げる”為のものだよ。ヒキガエルの用途に関しては、僕の目には曖昧にしか映らないが、まあ、そのラインナップからして間違ったことは言っていない筈だよ」
 話は長いが、意外にも話しの早いやつで助かったな。正邪は不本意ながらも感心した。
「話が早くて助かるよ。用途はわかった。わかったといっても、神に祈りを捧げる為のもの、ねぇ。やっぱりよくわからないが、わたしはこれらの使い方が知りたいんだ」
 正邪が言うと、霖之助は嬉々として話し始めた。
「僕は物の名前と用途が分かるだけで、使い方まではわからない。と、普段なら言うところだが。まぁ、僕も中々永い間生きているものでね。そういったものは一通り経験してきてるんだ」
 霖之助の“長い”説明がまたしても始まりそうな感じのした正邪は、霖之助に釘を刺すように言った。
「使い方だけ教えてくれればいい。極力簡潔に頼むよ」
 正邪の言葉に、霖之助は「心得てるよ」と、説明を始めた。
「そうだな、まずトルエンだが。使い方としては、ビニール袋にトルエンを入れてそれを吸い込むんだ。当然、直に飲んではいけないよ。そんなことをしたら妖怪と言えども悪影響は免れないだろうからね。あくまで気化したものを吸引するんだ。トルエンについてはそんなところかな。ちなみに、外の世界ではこれを“アンパン”と呼ぶらしいね」
 悪影響が出るのか、なんだろう。そうか、トルエンとは、まぁ、酒のようなものなのだろうな。正邪は頭の中で情報を噛み砕いた。
「次に、ヒキガエルだが。まぁ、そうだな。舐めるのがいいんじゃないかな。妖怪の体なら多少の事は平気だろうしね。外の世界にはトード・リッキングという文化があるんだ。トードは蛙、リッキングは舐めるという意味だ。まぁ、ヒキガエルに関してはそれだけかな」
 やっぱり舐めるのか。嫌だな。まぁいい、ヒキガエルは針妙丸の寝床に放つ用に持ち帰ろう。正邪は家に帰るのが少し楽しみになってきた。
「次にアオゾメヒカゲタケ。これは、所謂マジックマッシュルームの一種だね。今まで説明した中では一番“神に祈りを捧げる”という用途がはっきりと僕の目に映っているよ。外の世界の“南米”の方では古くから、それらマジックマッシュルーム、別の呼び方をするとテオナナカトルだったかな。とにかく、それらを神聖なものとして扱っていたらしい。扱っていたと言っても、おおよそ経口摂取するだけなのだけれどね。まぁ、味噌汁の具にでもすると食べやすいんじゃないかな」
 やっぱり味噌汁の具にするのか。まぁ、きのこの味噌汁は好きだな。帰ったら針妙丸に作ってもらおうか。それにしても、これらは結局どういうものなのだろう。まぁ、いいか。正邪は一人で湧き上がる疑問に整理をつけ、確認も兼ねて霖之助に感謝を述べた。
「わかりやすい説明ありがとう。まぁ、トルエンもヒキガエルもきのこも、要するに酒みたいなものだよな」
 霖之助は「はっはっは」と笑って答えた。
「まぁ、妖怪にしてみればそんなようなところだろうね。まぁ、僕は半人半妖の身の上だから、やりすぎると割合すぐに“悪酔い”してしまうのだけど」
 そう言うと、霖之助はまた一つ「はっはっっは」と笑った。
 正邪の確認は、どうやら霖之助には少しずれた捉え方をされてしまったようだったが、正邪はそれを気にしなかった。念を入れて確認などすれば、また長い説明が始まってしまうのを恐れたのと、早く帰ってトルエンやそれらをやってみたいという気持ちになっていたのが理由である。
 逸る正邪の心とは裏腹に、霖之助がそのよく喋る口を開いた。
「それにしても、トルエンやらヒキガエルやらきのこやら、一体どこで手に入れたんだい?まさか、自分で全て集めたわけじゃないだろう。ああいや、少し気になって聞いただけで、他意はないよ」
 一から十までを説明するのを面倒に感じた正邪は、「全部貰い物だよ」と答えた。
「へぇ、奇特なやつもいるもんだなあ」
 「いるもんだよ」と答え、早々に香霖堂を去ろうとした正邪だったが、健闘むなしく、霖之助がそんな正邪を呼び止めた。
「ちょっと待ってくれ。僕からも一つプレゼントしよう。まぁ、プレゼントといえば聞こえは良いが、実際のところただの処分なので、気にせずに受け取ってくれると有り難いな。それじゃあものを取ってくるまで、少し待っててくれ」
 霖之助はそう言うと、店の奥に引っ込んでいき、少しすると戻ってきた。
 正邪は戻ってきた霖之助の手を一瞥し、言った。
「それは煙草か?煙草ならわたしも知ってるぞ。針妙丸にやめさせられたが」
 しまった。こいつに対して疑問符を使ってしまったぞ。正邪は自分の発言を後悔した。
「いや、これは件の“神に祈りを捧げる為のもの”その代表例だよ。ハシシといってね、元は麻を加工したものらしいが、僕が拾ったときにはこのように加工されて、紙に巻かれた状態だったものでね。詳しくはよく知らないが、用途は間違いなく“紙に祈りを捧げる”為のものだよ。僕の目にはどんなものより色濃くそう映っている。いやぁ、これが中々効くんだが、僕にはもう必要ないからね、貰ってほしいんだ」
 そういうことなら、と正邪はハシシを受け取った。
「これは、煙草と同じように火をつけて吸えばいいんだな」
 正邪は尋ねた。
「ああ、その通りだよ。いや、必要ないというのも、僕はこういった類の物をやると、生活がしばらくそれ一辺倒になってしまうんだ。しかし、最近の幻想郷は技術の発展も目覚ましいし、こればっかりってわけにもいかないからね。受け取ってくれてありがとう。正邪もあんまりのめり込んではいけないよ。それじゃあ」
 いやぁこちらこそ、それじゃあ。と返し、正邪は香霖堂を後にした。

 正邪は帰路である人里をふらふらと歩いていた。空はとっぷりと暮れ、夕日が煌々と照っている。
 トルエンの缶を脇に抱え、片方の手にはヒキガエルの入ったかごを下げ、きのこを入れた風呂敷代わりの学生服を首に巻きつけ、ハシシを口に咥えて歩く正邪の姿は、まさしく異様だった。里を歩く誰もが正邪を見つめた。
 正邪はハシシを咥えているが、火をつけて吸っているわけではない。本当はきのこと一緒に学生服へと包んでしまいたがったが、奇妙なきのことハシシを一緒にするのは少し危険な気がした正邪は、やむを得ずハシシを口に咥えることにしたのだった。火の付いていない煙草のような物を咥えるその姿は、その異様さに磨きをかけていた。おまけにトルエンの異臭付きである。今の正邪とすれ違って振り向かない人間は居ないだろう。
 無論、それは妖怪も然り。
 異臭を振りまき、異様な姿でふらふらと歩く正邪の姿を、上白沢慧音の瞳が捉えた。

 それからは大変だった。
 慧音は正邪の持ち物を、その場で全て没収した。その中には空になった給与袋も存在したが、慧音にとってそんな事は、こうなってしまってはもはや些細なことだった。
 慧音は正邪を問い質し、トルエン、ハシシ、それらの入手先、入手することになった経緯を全て聞き出すと、大慌てで博麗神社へと向かったのだった。
 河童たちは当面の間トルエンを使用する作業を禁じられた。もちろん、その後、作業をするにあたって監視のつく運びとなったのは言うまでもない。
 アリス・マーガトロイドは魔女であるという素性から、ヒキガエルやきのこの没収を逃れたが、博麗の巫女から大変なお咎めを受けた。もちろん、巫女はアリスが所持しているきのこの主な供給源が魔理沙であることも突き止めた。魔理沙もお咎めを受けたが、一度として摂取をしていないという魔理沙本人の頑なな主張が認められ、アリスの受けたそれよりは随分優しい措置で済んだようだ。
 香霖堂はというと、半年の営業停止を受けたが、客も来ない上に元々霖之助個人の収集癖が高じて成り立っている店なので、恐らく霖之助にしてみれば全く痛みのない措置だろう。
 肝心の鬼人正邪はというと、故意にそれらを集めていたわけではないことが各々の証言により判明したため、存外、厳重注意という形で事が済んだ。
 一方、少名針妙丸は菓子折りを持ち、方方に同居人の不祥事を謝りに回るのだった。

 騒動から三日が経ち、鬼人正邪は自宅の畳の上に仰向けに転がり、両掌を枕にして、膝を組み寝転がって窓から差し込む夕日を眺めていた。
 ふいに、玄関の扉ががちゃり、と音を立て開いた。
「ただいま、せーじゃ。なんだまだ寝てるのか」
 玄関の扉を開け、部屋に入ってきたのは正邪の同居人の、少名針妙丸だった。
 針妙丸は正邪の同居人と言うより、どちらかと言えば正邪のお目付け役の方が正しかった。
 正邪は針妙丸を気怠げに見やると、針妙丸の手に紙袋が下げてあることに気がついた。
「起きてるよ。それよりなんだ、買い物にでも行ってきたのか?紙袋なんか下げて」
 正邪の無神経な発言に、針妙丸は少し憤りを込めて返した。
「買い物なんかじゃないよ!こないだの件で謝りに行ってきたんだよ。博麗神社に!もう、緊張したんだから」
 へぇ、と正邪は窓の外を見やり、興味なさげに答えた。
「なんだよもー。本来はせーじゃがやるべきことなんだからな。それを肩代わりしてやってるんだから、少しぐらい感謝してくれてもいいんじゃないか」
 正邪は再度針妙丸の方を見やった。
 はて。買い物に行ったわけじゃないとすると、針妙丸の手に下げられた紙袋はなんだろう。
 紙袋の中身が気になり始めた正邪は、探るような気持ちで針妙丸に尋ねた。
「なぁ、じゃあその、巫女はどうだった?やっぱり、怒ってたか」
「なんだ急に。別に、怒ってはなかったよ。いや、私も恐れ多くてな、謝る順番を一番最後にしてしまったもんだからさ、それで何か言われるんじゃないかと思ってたけど、全然。気にしてないみたいだったなぁ。菓子折り持って謝りに行ったのに、菓子折りのお礼に、なんていって、こんなの貰ってきちゃったよ」
 そういって針妙丸は紙袋から一つ取り出し、包装紙を広げて正邪に見せた。それは、正邪の見慣れないものだった。
「えっと、それはなんだ。食べ物ってことはわかるが。まぁ、いいや。とりあえず一つ頂戴よ、たくさんありそうだし。腹が減ったよ」
「そりゃ、お腹も減るだろう。朝起こしても起きなければ、昼、出掛ける前に起こしても起きないんだから。昨日の夜から何も食べてなけりゃ、そりゃお腹も減るさ。はい」
 正邪は針妙丸から手渡された物を、畳の上に寝転んだまま頬張った。
「寝ながら物食べるなって、何回も言ってるじゃないか。全く、保護者みたいなこと何度も言わせないでくれよなー」
「お、甘い。美味しいなこれ、中にあんこが入ってる。あぁ、それにしても、保護者みたいなことを言いたくなければ、言わないように気をつけたらいいんじゃないか、針妙丸。わたしはそう思うけどなぁ」
 正邪の半ば暴力的な言い分に、針妙丸は一つため息を吐いた。
「そうだな。お前の言う通り、言わないように気をつけるとするよ」
「美味しいなこれ、私も貰いに行こうかな。なぁ、ところで、これはなんて食べ物なんだ」
「せーじゃ、お前、もう少し申し訳なさそうにできないもんかなぁ。あぁ、それはパンっていうらしいな。なんでも、紅魔館から大量に貰ったらしいんだけど、足が早いみたいで、一人では食べきれないと困ってたらしい。それでくれたんだよ」
「へぇ。それじゃ、もう一つ頂戴よ」
「それじゃって、脈絡のないやつだな。悪いけど同じものはないぞ。色んなのを一種類につき二つずつくれたんだ」
「パンにも色々種類があるのか。いや、待てよ。一種類二つずつ貰ったんなら、もう一つあるはずじゃないか」
「もう一つは私の分に決まってるだろ。それに、その種類は霊夢と話しながら食べてきちゃったし」
「えー、なんだよ。同じのが食べたいのに」
「我儘言うんじゃな……危ない危ない。また言ってしまうところだった。ほら、他のも美味しいから。はい」
「ありがとう。……うん。美味いな。でもこれはしょっぱいな。なんだっけこれ、そうだ。ベーコンだ。うーん、やっぱりわたしはさっきの甘いやつのほうが好きだな。なぁ、さっきパンの名前教えてくれよ。里で売ってたら買おうと思って」
「ああ、さっきのは“アンパン”って謂ったかな。確か」
「へぇ。アンパンか」

 後日、正邪は更生の一環である寺子屋の手伝いに赴いたが、騒動を知った児童にアンパンとはどんな味かと尋ねられ、それに対し正邪は甘くておいしかったと答えた。
 正邪は即日、慧音から謹慎処分を言い渡されたのだった。


   山の怪事件

 犬走椛は悩んでいた。妖怪の山、その山中にある寮の自室にて、上司に提出するための日報を前に、荒く研がれた鉛筆を構えては、うんうんと唸っている。というのも、三日前に山で起きた事件が、椛の悩みの種だった。
 事件の当日、非番だった椛はその翌日に、部隊の仲間から事件の概要を聞いた。その日の哨戒中にも、同じ事件が起きた。しかし、椛を始めとする白狼天狗達は、眼前の奇怪な事態を前にして、これといった対応を取ることはしなかった。上から「なにもするな」という指示が出ていた為である。部隊の隊長である犬走椛は、もちろんその日起きた事態をありのままに日報に記し提出した。しかし哨戒部隊直属の部署である〝校閲部〟は、椛の提出した日報を突っ返した。
 元来、一種の日和見主義的な穏和さを抱え生きてきた椛は、反発することもなく日報を書き直した。何度かリテイクを繰り返すうちにようやく受理された日報は、嘘こそ書かれていなかったものの、その報告に果たして意義があるのかと問いたくなるようなものと化していた。しかし、それから今日に至るまで、椛は真面目に日報を書いた。そうしてその度、日報は突っ返され、用紙の薄っぺらくなるまでリテイクを強要されるのだった。
 その際に校閲部の上司の放った、
「嫌がらせのつもりか」
 という言葉が、今日の椛を悩ませているのである。
 もちろん、椛は嫌がらせで〝真面目な〟日報を書いていたわけではない。その日起きた事を詳細に記録する、それが哨戒部隊の隊長に課せられた規則だった。今まで、椛はそんな規則を忠実にこなしてやってきた。それで問題はなかったのだ。しかし、今回はどうやら話が違うらしい、嫌がらせだなどと捉えられてしまっては心外だ。そう考えた椛は、日報を〝真面目に〟書くことを放棄しようと、努力をしていたわけなのだが。
 先日、先々日のリテイクの際は校閲部の上司が削るべき箇所をそれとなく教えてくれていたが、今回はそれが出来ない。そうなると、忽ち椛の握る鉛筆は途端に重みを増すのだった。
 椛は穏和で真面目ではあったが、そういった性質の元を辿れば〝荒く研がれた鉛筆〟に繋がった。椛は何より不器用だった。そんな不器用な椛に校閲部を納得させる薄っぺらい用紙をこさえるのは難しく、椛は自力での解決を早々に諦め、隣室の射命丸文の部屋に向かった。

「はあ、日報の書き方を教えて欲しい?日報の書き方なら、椛の方がよっぽど詳しいじゃないですか」
 射命丸文の部屋は多量のゴミ袋やらぐちゃぐちゃに丸まった原稿用紙やらで埋め尽くされていた。そんな乱雑な部屋の中、射命丸文は椛の話を自身の発行している〝文々。新聞〟の原稿に筆を走らせながら、若干面倒そうに相槌を打っている。
 文の部屋が荒れているのは大概、文が何かしらのストレスに追いかけられている場合だということを椛は承知していた。そのストレスは大抵、文の眼前に置かれている原稿が要因を担っているということも。何とは無しに文の心情を察していた椛だったが、文の部屋に入ってしまった手前、何も話さず帰るわけにはいかず、連日のリテイク問題について文に助言を求めた。
 話を聞き終えた文は、椛に向き直ることもなく、筆を走らせながら口を開いた。
「ああ、それなら、事件と関連のある出来事を書かなければいいんですよ。お仲間が阿修羅めいた怪物に見えたとか、木々が巨大な骨っこに見えたとか、そういうことを書かなければいいんです。ええ?それじゃあ日報の意味がない?うーん、それはそうなんですけどねぇ。〝検閲部〟のやつらも、今回の件が上にバレるのが怖いんですよ。それに、これを見てください」
 そう言って、文が椛に差し出したのは〝文々。新聞〟だった。新聞の日付は山で事件の起きるより前のものだった。見出しには、
『正体不明の怪事件!今度は人里にて発生』
 とある。てっきり事件は山でのみ起こったものだとばかり考えていた椛は、これはどういうことか、と困惑しながらも文に尋ねた。
「どういうこともなにも、こういうことですよ。これが中々反響がありましてね、よく売れるんです。山の看板としても、収入原としても新聞という媒体は優秀ですからね。校閲部が貴女方哨戒部隊にまで幅を利かせられているのはずばり、こういうわけなんですよ。昼間また里で事が起こりましてね、私はその傾向と対策を記事にしているというわけです。ああ、情けない情けない」
 原稿と対峙している際の文はいつもこんな調子だった。椛は今ひとつ文の返答を解さずにいたが、これはもう仕方がない、と更なる追求は諦めた。椛はとりわけ、人の顔色を見極めるのが得意な性質だった。こういう時の射命丸文にこれ以上何かを聞いても、自分には解せない、同じような返答が返って来ることを知っていたのだ。何より、あまりしつこくすると逆にしつこくされてしまう、椛はそれを避けるべく、文に礼を言い早々に文の自室を去ろうとした。
 そんな椛の思惑とは裏腹に、文が出し抜けに口を開いた。
「ああでも、上から〝なにもするな〟って言われてる以上、何もしない方がいいと思いますよ、私は。椛さんは隊長なんですから、なおさら気をつけないと。何より、白狼天狗程度じゃ太刀打ちできないでしょうからね。ああ、情けない。私もどっかのお嬢さまみたいに、好き勝手できればいいんですけどね」
 文は筆を走らせながら、情けない情けない、といつまでもぼやいていた。
 部屋を去る際、椛はなんとなく文の原稿に書かれた〝見出し〟が目についた。見出しには、
『またまた里で事件発生 傾向分析と対策』
 とあった。
 部屋に戻り、文の助言に沿い日報を仕上げている最中、椛は文の話を思い返していた。確かに、椛は上からの〝なにもするな〟という指示に疑問を抱いていた、しかし、部隊の隊長である自分が指示に逆らい勝手な行動をとっては、部隊の仲間にまでその皺寄せが行くのではないか。椛がそのことに気付いたのは、今さっき文の忠告を受けてからのことだった。それまで椛が哨戒中に〝なにもしなかった〟のは部隊の仲間達の、
「何もしなくていいなら、それでいいじゃないか」
 という半ば投げやりかつ享楽的な雰囲気に流されていた為である。文に言われるまで仲間への皺寄せについて思い至らなかった自分の浅慮を、椛は少しだけ恥じた。その日椛が書き上げた日報はリテイクをくらうこともなく受理され、椛は来たる哨戒任務に備え、早めに床についた。

 明くる日、椛は意気揚々と哨戒に当たった。椛は久しぶりに隊長という立場を利用し、先輩風を吹かせていた。隊長然として、
「何が見えてもなにもすることはないぞ」
 と揚々と語る椛に隊員達は引いていた。元々、椛が隊長というのも、他の隊員が椛の穏和さにつけ込んで押し付けた為だった。白狼天狗達は珍しく面倒な雰囲気を放つ椛をたしなめながらその日の哨戒を終えた。
 この日の日報を書き終えた椛は、寮の食堂にて、今日発刊された〝文々。新聞〟に目を通している。周りでは同じく哨戒を終えた白狼天狗達がやいのやいのと騒ぎ立てている。
「や、連日の任務は楽でいいな」
「酒はもうないのか」
「今日も里で事件があったらしいな」
「山でもあったよ。誰の仕業なのかしら」
「給与が少なすぎるんだよ。校閲部のやつらなんて、何もしてないくせにさ」
 哨戒を終えたあとの食堂はいつもこんな調子だった。椛はそんな中で黙々と新聞を読み進める。見出しは昨夜文の部屋で見た通り、
『またまた里で事件発生 傾向分析と対策』
 というものだった。
『連日里を賑わせている怪事件。見慣れた友人や仕事道具が正体不明の化け物や出所不明の珍奇な物に見えてくる、それがこの事件の大まかな概要である。筆者はこれを一種の集団催眠と考える。さて、ここで重要なのが、催眠にかかり、幻覚が見え始めたときの対処法である。見慣れた友人が化け物に映り、取り乱して礫を投げた結果、その後ちょっとした諍いが起きたという例をよく耳にする。はたまた自宅の家具に齧り付いてしまい歯が欠けた、なんていうのも耳にした。筆者の考えるそれらへの対処はずばり〝なにもしない〟ことである。もし目の前のものが異質な何かに姿を変えたとしても、落ち着いて、なにもしなければなんということはない。数刻経てばその催眠からは覚めることだろう』
 新聞には凡そこんな事が書き連ねられていた。椛にとって、事件が山だけではなく里でも連日発生しているという事実は意外だった。しかし、椛にとって最も意外に思えたのは、山で起きた事件については、一切なにも書かれていないということだった。椛は首を傾げながら何度か記事に目を通したが、やはり山の事件については如何なる記述も見つけられなかった。そんな椛を見つけた白狼天狗が聞こし召した調子で椛に絡んだ。
「あー!椛さんが新聞読んでる」
 その白狼天狗はなにが楽しいのか、笑いながら椛を指差した。その声を聞いた他の白狼天狗達も次々に口を開く。
「だめだめ、ダメですよ椛さん。なんか今日もやる気だったみたいですけど、校閲部の指示無視したら、面倒なことになるんですから」
「そうそう。やる気出して犯人捕まえようとしたって、あんなのどうしようもないんですから」
「別段敵意あっての攻撃とも思えませんしね」
「なにもしないことが今の私たちに出来る、出来る限りなんですよ」
「その通り!出来る限り頑張ってれば、いずれ給与も上がりますよ、きっと」
 当然、椛は新聞を読んで〝なにかしよう〟と考えたわけではなかった。しかし酔っ払った部隊の仲間達は、愚痴っぽく絡めれば何だっていいのだろう。白狼天狗達の酔宴は、全員が眠気にやられるまで続いた。椛も仲間達に呑まされ、気付けばそのまま食堂にて眠りに落ちた。

 それから数日後、椛はいつも通りに哨戒中の〝幻覚〟をやりすごし、日報を提出しようと校閲部に向かっていた。校閲部の前まで着くと、扉の向こうから何やら怒号が響いていた。どうやら校閲に引っかかった者がいるようで、その者と校閲部の天狗とが口論になっている様子だった。ああ、不味い時に来てしまった。椛が出直そうと考えた踵を返すと、背後の扉が勢いよく開かれた。振り返ると、そこには姫海棠はたてが憤懣遣る方無いといった具合に立っていた。
「ああ椛じゃない、聞いてた?」
 椛ははたての問いかけに、思わず、いえ、聞いてません。と答えた。椛の返答を聞いたはたては、そ。と短く答え、さっさと歩いていってしまった。ああ、咄嗟に嘘をついてしまったぞ。椛には先の口論の内容が微かながらに聞こえていたのだ。椛の不器用な穏和さが、椛に咄嗟の嘘をつかせた。そして、椛の真面目さが、椛にそれを後悔させた。謝りに行くべきだろうか、考え込んでいると、椛の耳に八つ当たりめいた怒号が響いた。
「犬走、日報を提出しに来たんだろう。早くしないか」
 椛は慌てて、校閲部の扉を潜るのだった。

 日報の提出を終えた椛は食堂でちょっとした食事を摂り、姫海棠はたての家の前まで来ていた。姫海棠はたては寮の離れの小ぢんまりとした家屋に住んでいた。通常、山に所属する天狗は寮での生活を強制されるのが規則だった。しかし、姫海棠はたてはその例から外れ、寮の離れに自室を持っていた。はたてが何故こうも特別な待遇なのか、椛は文やはたてと交流する最中に断片的ながらもその理由を察していた。戸の前に立ち、はたて宅を見上げる椛の脳裏には、先日、去り際に文の放った一言が浮かんだ。しかし、椛はすぐにそれをかき消して、はたて宅の戸を叩いた。
 戸の向こうから、はーい、と気怠そうな返事とともに、ドタドタとした音が響く。程なくして、戸が開いた。
「ああ椛じゃない。どしたの?」
 椛は先程校閲部の前で嘘をついてしまったことを白状し、それを謝罪した。大変申し訳なさそうに謝罪する椛に対して、はたては驚いたような呆れたような感を抱いた。
「別に、気にしないでいいのに。聞かれて困るものでもないしね。ああ、そうだ。椛も〝検閲部〟にだいぶいびられてるみたいじゃない。なんだっけ。そうだ、確か〝なにもするな〟とかなんとか。ま、いいわ。とりあえず上がっていったら?」
 椛は言われるがままに敷居を跨いだ。はたての部屋はこれまた汚かった。世のネタが増えると部屋を汚すのは天狗の記者の習性なのかもしれない。そんな部屋の中、椛が部屋に設置されたこれ見よがしな〝客人用の椅子〟に座らずそわそわしていると、はたては、
「座ったらいいじゃない」
 と、お茶と茶菓子をテーブルの上に用意して、椛をたしなめた。椛は照れたように笑いながらようやっと腰を下ろしたが、用意されたお茶が一人分しか存在しないことに気付き、また少しそわそわし始めた。はたてはそんな椛の様子には頓着せず、原稿に向かうのだった。
 恐らく、校閲に引っかかって書き直しを命じられたのだろう。そう考え、椛ははたてに同情を投げかけた。
「え?ああいやいや、今書いてるのは次の分よ。さっきのはそのまま印刷するわ」
 はたての返答は椛にとって意外なものだった。校閲に引っかかってないのなら、どうしてはたては校閲部の天狗と口論などしていたのだろう。椛ははたてに尋ねた。
「そりゃ、検閲には引っかかったわよ。でも、印刷の連中はそんなこと気にせず印刷してくれるのよ。知ってる?納品が遅れたときの連中の嫌な顔。ま、印刷部も印刷部で、今日の仕事を終えるために必死なのよね。それに、校閲部に持っていくのは〝規則〟だから、従ってやってるってわけ。目的は嫌がらせだけど」
 頻度で言えば稀だが、姫海棠はたての発刊する〝花果子念報〟は、過激と評される〝文々。新聞〟の〝それ〟より過激な記事を掲載することがあった。その都度山の中でちょっとした騒ぎになる。ともすれば、校閲部の前で聞いたあの怒号は、そういうことなのだろうな、と椛は思った。
「いやー今回も相当怒ってたわね、校閲部。この記事が上に読まれたらどうするんだ、なんて言ってさ。どうするもこうするもないわよ、ねえ?ああそうだ、良かったらさっきの原稿、読んでもいいわよ。あはは、椛達の悪口も書いてあるんだから」
 そう言って、はたては問題の原稿をテーブルの上に放り投げた。椛は恐る恐るその原稿を手に取り、見出しに目をやった。
『山の怪事件!哨戒部隊の醜態』
 見出しの通り、原稿の至る所に哨戒部隊の醜態を収めた写真が貼ってあった。木の幹にかじりつく白狼天狗、仲間に飛びかかる白狼天狗、仲間に追われ必死の形相で逃げる白狼天狗等々、椛は記事には目もくれず、そうした写真を見やっては、慌てて写真の出所を尋ねた。
「私が撮ったんじゃないってば。私はどっかの誰かが撮ったものを念写しただけ。それに、そもそも哨戒部隊が弛んでるのがいけないんでしょうが」
 椛はなにも言い返せなかった。椛は写真の白狼天狗達の慌てっぷりを鑑みて、写真は恐らく山で最初に事件が起きた日のものだろうと確信した。山で初めて事件が起きた日は非番だった椛だが、それでも哨戒部隊の弛みの原因は隊長である自分にあるような気がして、やはり何も言えなかった。何よりも、写真の中の白狼天狗達の無様なまでの慌てっぷりが、椛を閉口させたのだった。
「あはは、冗談よ。それに、椛はその日非番だったんでしょう?どの写真にも写ってなかったし。それより、大事なのは写真じゃなくて記事よ、記事」
 椛はやおら震えながら記事に目を落とした。しかし、白狼天狗達の〝オフショット〟の衝撃が抜けきらない椛の頭に、細かい文字がすっと入っていくことはなかった。一旦落ち着こうと、椛が茶の注がれた湯呑みに手を伸ばした、その時だった。
 震える椛の手が湯呑みを掴むことはなく、湯呑みは勢いよく原稿の上に倒れ込んだ。原稿へと、湯呑みから威勢良く茶が注がれていく。はたては卒倒した。はたての意識が薄らいでいくと同時に、原稿の上のインクも解けていった。程なくして、はたては意識を手放し、原稿はふやけた。湯呑みに伸ばした椛の手は、いつまでも震えていた。  

 それから数日経っても事件が収まることはなかった。哨戒部隊はもはや幻覚に慣れた様子で、仲間内で〝わたし、今日は何に見える?〟などと言い合っていた。椛もそれに参加しないでもなかったが、椛はなんとなく気が引けた様子で、哨戒の最中、いつもぼんやりと遠くを見つめていた。事件の収まることのないまま、とうとう椛に非番の日が回ってきた。休日、椛は大抵友人のところへ遊びに出かける。山で事件さえ起きていなければ今回もそのようにしただろう。しかし、事件を放っぽり出して悠々と遊びに出かけるのは如何なものか、という考えが、椛を小ざっぱりした何もない自室に縛り付けた。
 椛はなんとはなしに、自室を眺める。備え付けの机、備え付けの食卓、備え付けの布団。机の上には支給された筆記用具の類が整然と置かれている。椛が自身で用意したものといえば、シーツと枕くらいなものだった。窓の外を見やり、ふと考える。仕事のこと、哨戒部隊の仲間達のこと、事件のこと。里でも起こる連日の事件の犯人について、椛は心当たりがあった。誰か、というのは分からなかったが、何時に何処に現れて、集団催眠をかけるのか。その手法についてはさっぱり分からなかったが、出現するおおよその時刻と場所は既に持ち前の能力で把握出来ていた。やろうと思えば、先回りして、待ち伏せすることも出来るだろう。
 先日の食堂でのことを思い返す。哨戒部隊の仲間の放った言葉、なにもしないことが、今の私たちの出来る限り。果たして本当にそうなのだろうか。山で事件が起きて、校閲が厳しくなったとしても、あの人たちは、部屋の掃除も忘れて新聞を書いている。椛は再度、自室を見渡してみる。部屋はやはり、小ざっぱりとしていた。椛は悪戯に、机の中をひっくり返してみたり、布団をぐちゃぐちゃにしてみたりして、部屋を散らかした。それでも、部屋は依然として、小ざっぱりとしていたし、退屈から抜け出すこともできなかった。椛は、後ろ髪を引かれる思いもしたが、仕方なく、外に出て気晴らしすることにした。

「ええと。じゃあ、3二金打」
 椛は友人である河城にとりの工房にて、にとりと将棋を指していた。にとりから、やろう、と始まった将棋だったが、当のにとりは対局が始まるやいなや機械を弄り始めてしまった。それからはチラチラと盤面に振り返りながら、椛に口頭で手を伝える始末だった。尤も、椛はそれをあまり気にしていない。縁日を二ヶ月後に控えたこの時期、にとりはいつもこんな調子で、発明に熱中することを椛は承知していたのである。そんなにとりの部屋も、やはり用途不明の機械や工具や部品やらでごった返していた。椛はにとりに次の手を尋ねるも、なかなか反応がない。椛は一間置いて、何を造っているのかを訪ねた。機械いじりに熱中している際のにとりは、殊こういった質問を聞き逃さない。
「ああ、これかい?なに、簡単なおもちゃだよ。去年はいろいろとコストが嵩んでね、今年はそれを回収しようと思ってるんだ」
 確かに、にとりの作業机の上には、可愛らしい〝カッパのおもちゃ〟が幾つか並んでいた。
「これはね、音に反応して喋るおもちゃなんだ。なにを喋らせようかはまだ決まってないけどな。なかなか子供に人気が出そうだと思わないか?あはは。まあ、この形に落ち着くまでいろいろと試作してさ、その試作に大分コストをかけちゃったから、首尾よく捌けたとしても、結局とんとんなんだよねぇ。あーあ、これなら〝偽造通貨生産ロボ〟でも造ってたらよかったな」
 椛は相槌打ちつつ、にとりに次の手を尋ねた。
「ああ、ごめんごめん。そうだな……。じゃあ、2一銀打で」
 椛が盤面を睨んでいると、にとりが何か思い出したように口を開いた。
「そういえば聞いたよ。山も大変なんだってな。なんでも、犯人はあの鵺らしいじゃないか。そりゃ、白狼天狗にゃ荷が重いよなぁ」
 椛はにとりの口からするりと飛び出た言葉に驚いた。あれから毎日かかさず山の新聞には目を通していたが、山で事件が起きたことを記事にしてる新聞は存在しなかった。山での事件を知っている哨戒部隊と校閲部、それと一部の天狗ぐらいだらう。どうしてにとりがそれを知っているのか、なにより、椛は〝犯人の鵺〟が気になった。
「え?鵺って言ったらあの、命蓮寺のぬえだよ。ああ、こないだ文が取材に来て、私はその時に聞いたんだ。でも、他の河童達にももう知れ渡ってるみたいだよ。なんでも、里で命蓮寺の連中が封獣ぬえを探し回ってるとかなんとか。それより椛、それ、もう詰みじゃないかな」
 椛はいろいろと慌てながらも盤面を見やった。すると確かに、盤面はにとりが言う通り詰んでいて、それを理解した瞬間、椛はすっと、体が脱力するのを感じたのだった。
 それから暫くの間、椛はにとり部屋に敷きっぱなしにされた布団の上でごろごろしたり、外の景色を眺めたりしていた。にとりの工房には大きな窓が在った。それは縁側に繋がっており、縁側のすぐ先には川が流れていた。そんな川沿いを、緑々とした木々が取り囲む。椛はいつも、大きな窓からそんな景色を眺めては和やかな気持ちになっていた。にとりの工房は用途不明の機械やらに埋め尽くされていたが、椛にはそれが不思議と、周りにある自然と調和を織りなしているように思えるのだった。そうして、椛がぼんやりと景色を眺めている最中も、にとりは黙々と作業を続けている。静かな空間に、カチャカチャと、作業の音だけが浮かんでいた。
 椛は、そんな音を聞いているうちに、にとりに或る事を尋ねたくなった。それはまるっきりなんとなくの思いつきだったが、気付けば椛はにとりに問いかけていた。
「なんで機械を造るのか?うーん、そうだなぁ。まあ、やっぱり河童に生まれたからっていうのもあるけど、一番は、私にこれが出来るから、かな。そりゃもちろん、他のことだってやろうと思えば出来るんだろうけどさ、でも、それを始めちゃうと、今出来ることが出来なくなっちゃうだろ?ああ、うん。時間の問題もあるんだけど、そうじゃなくて。出来なくなっちゃいそう、というかだな。とにかく、それが嫌なんだよ。今出来ることが出来なくなるのは、嫌だな、やっぱり」
「じゃあさ、椛も教えてよ。椛はどうして哨戒やってるのさ」
 ……。
「ふうん、そっか。ま、いいんじゃないか」

 寮に帰ってきた椛は、外へ出る前に散らかした部屋を片付けた。忽ち部屋はより小ざっぱりとして、椛はそれを眺めて満足気に微笑んだ。帰途、里で件のぬえを探す命蓮寺の一行を見かけたことも、椛の満足気な微笑みに助力した。椛が食堂へと赴いた頃には、ちょうど今日の哨戒を終えた哨戒部隊がちらちら帰ってきてる様子で、食堂はいつも通りに騒がしかった。
「おい聞いたかよ。校閲部のやつら、今度は〝犯人を捕まえろ〟なんて言ってさ。何考えてんだか」
「聞いたところによれば犯人ってあの鵺だろう?あんな大妖怪、私達に捕まえられるはずないじゃないか」
「どうせ新聞の売れ行きが怪しくなってきたから、私達にネタ作らせようってんだろ」
「うちの隊長なんか、放っておけばいい物を、なんだか息巻いててさ」
「ああ、うちもうちも。犯人なんか一回も見たことすらないのに、捕まえるぞ!なんて言って」
「結局、下は上の意向に引っ掻き回されるのが世の常なんだなぁ。あーやだやだ」
「まあ、やると決まったからには、出来る限りやるけどさ」
 この日、椛は珍しく自分から酒を飲んだ。帰ってきた椛の部隊の仲間達がそれを見つけると、やいのやいのと一緒になってはしゃいだ。明日の意気込みなどを皆で喚き散らしては歌った。椛も柄に似合わず、アルコールに溺れながらも、明日はやるぞ、やってやるぞ、と息巻いていたが、そのうちみんな眠たくなって、そのまま、食堂で眠った。

 その翌々日、
『犯人は封獣ぬえ 哀れ山の哨戒部隊』
 という見出しの新聞が発刊されたが、売れ行きはさほど芳しくなかった。
 しかし、さらに翌日に発刊された、
『里の怪事件これにて終結!お手柄!博麗の巫女』
 という見出しの記事は、それは飛ぶように売れたという話だ。








   悪夢


 白狼天狗の寮備え付けの食堂は古びていた。白かったであろう壁はもう立派にヤニに覆われて、みすぼらしくなっている。カウンターも例外ではない。ヤニ焦げてところどころデコボコとした木目に触れれば、何かよくはわからないがペトペトとするし、各種調味料の入ったガラス瓶などはもっとひどくべたついた。お品書きも同様に黄ばんでいるから、毎日ここで昼食を摂っていると不衛生な環境下に累積されるストレスで、みな多かれ少なかれ寿命が縮んでしまうかもしれないな、と犬走椛は考えた。
 それでも、椛は毎日ラーメンの餃子セットを注文するし、他の白狼天狗だって、山の哨戒の合間に炒飯やなにやらを注文する。食堂は今日も盛況だった。椛は無愛想に中華鍋を振るおばちゃんを一瞥し、レンゲをすする。食べても食べても減らないラーメンの色は赤、いつもの激辛味噌二玉だった。醤油とラー油のひどい陰陽に浸した餃子を思い出したように頬張れば、耳につくのは食堂の角から聞こえるブラウン管の、お茶の間味の音だった。
『えー! じゃあ、正邪さんは家を建てられるんですか!』
『できますよ』
『え、でもボイラーの管理なんかもできるんですよね?』
『はい、できますね』
『いやほんと、すごいですねぇ! ……あっ! じゃあ危険物とかも取り扱えたりして!』
『……はい、それもできますね。それの証明書は持ってきてないんで、次来るときにもってきますね』
 椛はチャンネルを回したくなった。この時間なら堀川雷鼓の〝ビートも〟がやってるはずだったし、なにより友人の烏天狗をテレビ画面にまで見つけたくなかった。多少辟易としつつも、椛は野菜と麺を咀嚼する。
(でも、すごいなあ。鬼人正邪。ほんとに何でもできちゃいそうで)
 鬼人正邪は最近テレビでよくみる“なんでもできる”が売りタレントだった。正邪は本当になんでもできて、それを証明するだけの資格を数多に持っていた。さすがにこれはできないでしょう? という質問にもすまし顔で「いえ、できます」と対応し“次来るとき”には必ず証明書を持ってきた。椛はなんでもできるテレビタレントの正邪を浮かべ、苦い顔をする。
(うーん。見渡せど見渡せど、なんでもできるどころか、なにもしたくなさそうなのばっかりだなぁ)
 カウンター、隣を見ればボサボサの髪から飛び出した耳の同僚は、レンゲを曖昧に咀嚼しつつテレビを睨んでむにゃむにゃと唱えているし、後方埋まった四人席を見やれば、銘々四級の酒をやって朗らかに頭をわるくしていた。もはや魍魎の巣窟と形容するも過言ではない食堂だが、椛にとってほど辛辣だったのは乱痴気四人組の左方、ちんまりとした二人席のことだった。席を埋めるのは若い白狼天狗のアベックで、職場恋愛上等、金はないが愛はある、といった言動行動態度でよく知られる悪名高い二人組だった。二人は片手をつないで、もう片手を互いの耳に触れさせて、なにやら睦まじくやっている様子だ。「ねーわたしの耳、どんなかんじ?」一人が言うと一人が応える。「んー、プリンとか? よくわからん」
 よくわからないのはこっちの方である。椛は減ってきたラーメンと餃子を一気に片付けて、トレーと食器を返却口に追いやった。
(なんだかな。みんなやる気なさそうだし。私もちょっと、サボっちゃおっかな)
 食堂の戸を抜けると、食事に伴う談笑の声も、テレビの音も遠くなる。椛はひとつ息をついて、ふらふらと持ち場へ戻った。
 その夜。
 犬走椛は夢を見た。怠慢が生み出した罪悪感によってかよらずか、それは浅い睡眠で、長い夢だった。そして総毛立つが如く悪夢でもあった。夢の内容はこうだ。
 まず、博麗の巫女が職務を放棄する。理由は怠慢、良い言い方をすればストレスによる体調不良だ。巫女が休めどちょっとした異変は次々に起こる。やる気を出したのは白黒の魔法使いだった。しかし、魔法使いも次第に疲れ、何ゆえ自分ばかりがこうも頑張らなくてはならないのか疑問に感じ、解決を放棄した。次にメイド、庭師、山の巫女と続いたが、みな、同じ理由を持って潰れた。そうなると、これは異変解決や里の治安維持に褒賞を設定しない管理者サイドの問題なのではないかという声が上がる。そもそもすましたにやけ面で余裕そうな態度を取っているなら、ぜんぶじぶんがやったらどうなんだ。それがみなの主張だった。すると八雲紫は例の如く不敵に微笑み、すべての問題をひとり抱え込んだ。されど撃沈。維持装置がすべてダメになった里の人間たちは自衛に走った。自分たちの身は自分で守らねばならない。そう悟った者たちの中から数十人の“なかなかできるもの”が現れ、それがそのまま自警団と相成った。自警団は強かった。妖怪など物ともしないほど無双であった。となると次に腐るのは妖怪たちで、幻想郷で悠々と暮らしていた妖怪からすれば、なにが幻想郷だよ、という気持ちである。もはや誰も人間を襲おうなどと考える妖怪はいなくなった。しかし妖怪たちが腐ると、里もまた腐った。幾つかの功績を持った自警団が幅を利かせるようになってしまったのだ。過去の功績でその他のものから富を揺すっていると、そのうちに里は里として維持できなくなってしまう。すなわち幻想郷の実質的な破滅である。と、以上ここまでが、椛の夢想した最悪だった。
「お、おわーっ!」
椛はあまりの恐怖に跳ね起きた。両備え付けの布団は蹴飛ばされ、足元で卑屈に縮こまる。ハッと低い机を見やる。蛍光ピンクの時計盤の上、長針は数字の4から僅かに外れかかっていた。カーテンの外は朧々と青い。仕事まではまだまだ時間があったが、椛は勢いよく立ち上がり焦って身支度を始めた。
(ひ、ひとりがサボると……世界が滅ぶ!)
 それから、椛は山で一番の哨戒天狗と相成った。新緑の色増す頃、今日も椛は遮二無二働く。しかしその顔に焦りはない。目は爛々と輝き、笑顔は煌々と、まるで太陽のように照りつけた。一方木陰にて、山一番の頑張り者の椛をよそに、名も無き昆虫は無常の声を聞いた。
「ねえ、最近の椛ってばすごい張り切ってるよね。もうずっとあの調子じゃん」
「ねー。椛があんなに頑張ってるんなら、私達がちょっとぐらいサボったって、バレやしないかもしれないね」
 しかしてこれが悪夢の始まりと相成った。

   悪夢

 おどろけ! おどろけ! おどろけ、おどろけ!
 里の白昼、虚しく声を響かせるのはぐうたら者の唐傘妖怪、多々良小傘に間違いなかった。河城にとりの発明と妖怪の山の企業努力によりラジオ・テレビ類が普及した今となっても、小傘は旧態依然といないいないばあに猿楽っていた。
「うう、どうして誰も驚いてくれないのかなぁ。わちきの頑張りが足りないのかなぁ」
 語尾歩調雰囲気すべてを間延びさせながら小傘は歩く。カンカン照りの今日の里では日傘を差すものも多い。しかし茄子色のそれはやはりいろいろなものたちの目についた。顔見知りの八百屋の店主や寺子屋通いの学童風が小傘ちゃん、小傘ちゃんと呼びかける。けれど小傘はそのどれにも応じることをせず、傘の柄を両手で持って視線を落とし、ぶつぶつ、ぶつぶつと、ゆっくりじっくり時間を掛けて里を横断した。
「やっぱりわちきの、わちきの頑張りが……うぅ……」
 それほどまでに、小傘は追い詰められていたのだ。小傘は空腹だった。金がなかった。幻想郷では力なき妖怪は富を得ない。パワーイズマネー、或いはマネーイズパワーのそれだった。誰の声も届かないほど、小傘は困窮していたのである。そんな状態の小傘が里をほっつき回ったとて、誰も餌付けを為すものはおらず、せいぜい顔見知りの数名がきょとん顔の心配を気持ちばかり送るのみだった。
「ちょいと待ちな。……待ちな!」
「……え!」
 しかし、ここではそういうわけにもいかない。小傘は里を抜け、気付かぬ間に妖怪の山その山麓までやってきてしまっていた。
「あんた見たとこ妖怪だけど。困るな、勝手に入ってこられちゃあ。看板、見なかったの」
 河城にとりの発明と妖怪の山の企業努力によりラジオ・テレビ類が普及した今、妖怪の山は報道関係者ならびに職員以外の立ち入りは禁じられていた。小傘はおぼろげな記憶のなかに、道中みてきたものを思索する。思えば、ついさっきそんな看板を見たような気もする小傘だった。
「ご、ごめんなさい。わちき、その、ぼーっとしてて……」
「なんだい昼間っから。酒でも飲んでいたんじゃなかろうね。しょうがないねまったく。私だって最近じゃそんな飲み方……ああいやいや」
 おそらく下っ端と思われる哨戒天狗は言葉をぼかして小傘に引き返すよう促した。小傘はおずおずと申し訳なさそうに礼をして踵を返し、またはにかんで歩きはじめる。
「あっ。これがさっきの……」
 小傘の背後、下っ端哨戒天狗がゴマ粒になったころ、小傘は例の立て看板を発見した。立て看板には目立つ太字の毛筆体で、注意書きが綴られている。いわく、『報道関係者並びに職員以外の立ち入りを禁ず』。それは小傘のおぼろげな記憶の中の其れそのままの文面だった。林道とりわけて目立つ看板すらおぼろげな自身の記憶力に、小傘は思わず苦笑した。そしてそのまま、苦笑に連続する居た堪れなさで小傘は看板から目をそらす。するとそこには、そらした視線に都合の良い掲示板があった。
「あれ。……掲示板だ。こんなの、さっきあったかな」
 小傘はそのまま掲示板に貼られた紙面を注視した。それはどうやら哨戒天狗たちの間で発行されているものらしく、部外者である小傘にはなんのことやらわからない色々な事が綴られている。しかし、そのなかにひとつ、今の小傘には捨て置けぬ見出しが存在した。
「あっ、なにこれ! えーと、こんげつの、えむぶいぴぃ……もみじ、いぬばしり。やまいちばんの、がんばりもの……? こ、これは!」
 小傘は勢いよく踵を返した。瞳にギラギラと野心を称え、肩をいからせ、戻ってきた道をずんずんと歩く。間延びした独り言も、歩調も、雰囲気も消え去っていた。とんとん拍子で下っ端哨戒天狗に話をつけ、とんとん拍子に山中へ入った。下っ端天狗に教わった持ち場へ行くと、そこには天狗の寮があった。聞くところによると、最近椛はおばちゃんの仕事をも奪い去る勢いらしかった。平常の椛の業務も、またかのおばちゃんすら知らない小傘だったが、そんなことは気にもとめない。藁にも縋るようなそれとは違い、小傘の歩みには一種の確信があった。
(山で一番の頑張り者の話を聞けば、わちきだって……!)
 勇んで食堂に踏み入れば、小傘はすぐに長いコック帽を被った椛を見つけられた。かくかくしかじかを済ますと、犬走椛は中華鍋をごうごういわせつつ、目を爛々とさせて言ってのけた。
「簡単なことです。頑張ればいいんですよ!」
 中華鍋から翻ったなるとが額に張り付くと、その熱がそのまま伝播したかのように、小傘の瞳に炎が宿った。
(わちき、なんか頑張れそう!)
 しかし一方、カウンター角。二人のやりとりをよそに、テレビは相変わらずのお茶の間味を垂れ流している。ブラウン管は、語彙力の乏しい烏天狗と、なんでもできる鬼人正邪の色を映す。目をギラつかせたボサボサ頭の白狼天狗は、いつも以上に蓮華をあむあむと咀嚼しつつ、テレビを睨み、いつも以上に、むにゃむにゃと唱え続けている。
「頑張ればいいんです、頑張れば!」
 椛はもはや中華鍋を振り回した。鍋からもひとつなるとが飛ぶ。
『やばいですねえ、正邪さん。ほんとになんでもできちゃいそーです!』
 テレビは喋る。なるとが舞う。宙を舞う。
「はい! わちき、頑張れそうです!」
 小傘は拳を握って気合を入れる。なるとは翻り、ボサボサ頭の方へ飛ぶ。
『ええ、ええ。なんでもできます。できますとも』
 テレビは喋る。なるとは飛ぶ。飛んで、ぺたっと音がなる。

「ワウ!」

 額になるとを張り付けて、ボサボサ頭が吠えた。
「わちき、頑張りますから!」
「はい、是非とも、頑張ってください!」
 一寸の前を置いて、小傘の額からゆっくりと、なるとが剥がれ落ちた。床ではぺた、と音がしたが、それでも小傘はやれそうだった。
 それから小傘は安直ないないいないばあをやめ、聳動には綿密な計画が立てられるようになった。あらかじめあらかじめの準備を怠らず、ともすれば小傘の聳動はもはやドッキリの領土までをも侵した。小傘は百匹の蝉を集めた。小傘は富くじの当選者に五十人の親族をけしかけた。小傘はおどろけの四字のためにひと月を掛けた。騒ぎにならないはずもない。小傘は力を得たのだった。
「お疲れ様です! いやあ先生! 今日も最高でしたよお」
 演者たちが去ったスタジオでは、カメラも音響も一様に撤収を始めていた。小傘は額から剥がれ落ちる冷えピタを押さえつつ、機材やスタッフたちもまばらになってやや閑散とするスタジオに、饐えた工事現場の機械と埃の匂いを思った。
「で、先生! 次はどんなドッキリをお考えで?」
 ぐるぐるの丸眼鏡を掛けた白髪混じりの木っ端烏は揉み手をして小傘に尋ねる。
「えっ! つ、つぎ……? あっ、あー!」
 小傘は叫んだ。声色は絶望を称えていたが、揉み手をする白髪混じりに貼り付いた笑顔はピクリとも動かない。小傘の額に汗がにじむ。冷えピタはことさら剥がれてしまいそうになった。
「ご、ごめんなさい。実はわちき、まだ考えてなくて……」
「おねがいしますよ。我々も視聴者もみんな、あなたに期待してるんですから」
 白髪混じりは速やかに去っていく。小傘にはぐるぐる眼鏡の向こう側がわからない。小傘にとって、それがなによりこわかった。
 額を押さえながら小傘は帰途を辿る。町は橙に賑わっていたが、小傘の心は宵に青ざめていた。小傘は番組を持っている。里での噂が波及し、気付けば局に目をつけられた小傘は作家に祭り上げられていた。深夜枠で始まった『多々良小傘の驚かさナイト』は、今ではゴールデンタイムを担う重要な番組となっていた。小傘には、番組を構成する義務がある。しかし、小傘には次の用意がない。とぼとぼと歩けば顔見知りの八百屋の店主や寺子屋通いの学童風から、小傘ちゃん、小傘ちゃんと、声がかかる。以前の茶化すような声とは違って、それは期待の声だった。
『小傘ちゃん! 次はどんなのをやるの! 楽しみにしてるからね。頑張れ!』
『小傘ちゃん! 次も期待してるよ! 頑張ってね!』
 それらの声が、小傘には不思議なほど遠く聞こえた。のみならず、ラジオのように霞んで聞こえてくるものだから、小傘は自分が心配になった。家に帰り、小傘はじい、と鏡をみつめて押し黙った。
(……わかった。わちき、つらいんだ。こんなことほんとは、やりたくなかったんだ)
 小傘は鏡の中に涙を流す自分をみつけた。雨に気が付き、そして降り出すまでの時間はいつだって一瞬だった。傘をさす間も無く雨はどっと降り出してしまう。冷えピタを剥がれぬよう押さえつけながら顔を歪める自分が憐れで、里で聞いた期待の声が辛辣だった。小傘は以前までの生活を想い、ことさら泣いた。以前のように、店主に大根をおまけしてもらったり、学童風にパンの耳をもらったりする温かい生活に戻りたくなった。
「でも、もうわかんないよ。わちき、どうしたらいいの? う、うぅ……」
 小傘には番組を構成する義務があった。自身の名を冠する番組のみならず『雷鼓堀川アワー・叩いてビートも』のコーナ用にも一本を頼まれていた。期待の声と果たすべき義務が小傘を苛んだ。
「頑張れ、頑張れって言ったって、わちき、どうしたら……あっ」
 小傘は家を飛び出した。静かな夜の人里に小傘の足音が響いた。小傘はそのまま里を抜け、林を抜けた。妖怪の山にはすぐ着いた。山麓の入り口には一人の哨戒天狗がいた。額になるとを貼り付けたボサボサ頭の天狗だった。天狗はワウワウと息巻いて、小傘の侵入を妨害した。しかし、藁にも縋る思いでいるものを止められる者などいない。小傘は冷えピタを押さえた片手のまま、ボサボサ頭をあっさりと撃退し天狗の寮まで走った。小傘の去った山麓にはボサボサ頭の亡骸と、掲示板が取り残された。掲示板に貼り付けられた新聞にはこう綴られている。
 ――こんげつのMVPはモミジ・イヌバシリ。さんかげつれんぞく。やまいちばんのがんばりもの!
 しかし、重要なのは掲載内容ではなく、掲示板の裏側だった。掲示板の裏には二、三人、闇に紛れ潜む者があった。おい見たか。ああ、間違いない。多々良小傘だ。おれ、ちょっと増援呼んでくる。同じく闇に紛れる一匹の虫が、そのような声を耳にした。
「も、椛さん! 椛さんはいますか!」
 小傘は食堂の戸を勢いよく開け放ち、椛の名を呼んだ。食堂はがらんとして、不健康な色をした蛍光灯が人のいないテーブルを淡く照らしていた。小傘は落胆した。つらくなったときはどうすればいいのか、それを尋ねるべく椛を訪ねたのに、椛の姿が見えない。小傘の落胆は道理だった。
「はい! 椛ならここにいます!」
 小傘は歓喜した。キッチンにちょっと目をやれば、椛は普通に立っていたのだ。相変わらずコック帽を貼り付けて、思春期のテロリストのようなスピードで、流しに山になった食器を片付けていた。
「小傘さん、いったいどうしたんですか。こんな時間に」
「ああ、椛さん! わちき、わちき実は……」
 小傘はすべてを話した。頑張りすぎて、つらくなってしまったこと。みなの期待が重く、もう耐えきれないこと。どうにかして、以前のような生活に戻りたいこと。それらすべてが、今にも剥がれ落ちてしまいそうな冷えピタだった。椛は小傘の懊悩をにこやかに受け止めた。山のような食器はみるみるうちにかさを減らしていく。話しながら、小傘は安堵した。ああこのひとならきっと、冷えピタを押さえっぱなしの片手を降ろさせてくれる。そうに違いない。半ば確信を持って、小傘は尋ねた。
「椛さん。わちき、わちきどうしたらいいでしょう?」
「簡単なことです」
 椛は即答した。ますます、小傘は安堵する。爛々とした瞳に自信たっぷりと物を言わせる椛の言葉は、例のなんでもできる有名人の鬼人正邪を思わせた。小傘は自身の悩みを打ち砕いてくれるであろう椛の二の句をわくわくして待った。冷えピタを押さえる小傘の手のひらに熱がこもる。椛は食器の最後のひとつを手にとった。いよいよもって、椛が口を開く。
「簡単です。もっと頑張ればいいんですよ!」
「ひっ……」
 目を爛々とさせ言ってのける椛に、思わず小傘は悲鳴を漏らした。もう頑張りたくない自分に、これ以上なにを頑張れというのか。小傘にとって椛の回答は予想外だった。額を押さえっぱなしの小傘の手は、なおも硬直したままでいる。
「で、でも、冷えピタが……」
「小傘さんダメですよ。ひとりが頑張らなくなると、世界が滅んじゃうんです! もっと頑張ればいいんです。そしたらじき楽になりますよ! それに、小傘さんはできるひとなんですから! できるひとが、できるものをやればいいんです。だって小傘さんはできるでしょう? できないひとの分まで頑張りましょうよ!」
「わ、わ、あわわ……」
 小傘は恐怖した。椛は話している最中に食器を片し終え、冷蔵庫から大量の食材を取り出しては、明日の仕込みを始めている。まな板の上、山になった食材たちはみるみるうちにかさを減らした。
「そうだ! ……ほら、冷えピタならありますから! ふふ、つぶつぶ入りですよ」
「わ、わ、わちーっ!」
 小傘は食堂を飛び出した。椛が冷蔵庫から取り出したのは冷えピタなどではなく、何の変哲もないぐるぐるの、ただのなるとだったのだ。
(が、がんばりすぎると、おかしくなっちゃう!)
 小傘は脱兎のごとく走り、寮の玄関から転げ出た。
「……えっ?」
 しかし、時すでに遅し。寮の入り口は大量の天狗に取り囲まれていた。天狗たちは一様にカメラを構え、そのレンズはすべて小傘に向いた。レコーダーを持った天狗たちは押し寄せて、小傘の頬にマイクを押し付けた。
『小傘さん! 次のドッキリはどんなものをやるおつもりで!』
『小傘さん! 心臓病の少年が小傘さんのドッキリに驚くあまり心臓病が完治したとのことですが!』
『小傘さん! 今や世界中があなたに期待をしています! もちろん私も期待しています。これからもぜひ世界中を驚かせ続けてくださいね!』
『そうだそうだ!』『おどろかせ!』『そうだ、おどろかせ!』
 おどろかせ! おどろかせ! おどろかせ、おどろかせ!
 山の宵闇は大量のシャッターに塗りつぶされた。地面が割れんばかりのおどろかせコールは里に伝播し、程なくして、地底の果てからも歓声が轟く。眩い光と轟音の中、小傘は卒倒した。
 記者のひとりがそれに気づくと、世界は嘘のように静まり返る。カメラを構えた誰もが手を腹まで降ろして、ぶくぶくと泡を吹く小傘をぼんやりとみつめた。不意に、やさしい風が吹く。そうして横たわる小傘の額に貼られた冷えピタは、はらり、と地に落ちたのだった。

   悪夢

 痩せなければ。幽々子は思った。
 しかし、言い出せない。
 キッチンでにこやかに大鍋をこさえる妖夢には、とてもではないが言い出せなかった。
 しかし、毎食むずかしい顔をして飯を食らえば、魂魄妖夢も異変に気づく。
 テレビのチャンネルが気に入らないのかもしれない。
 そう考えてチャンネルを回す。話題沸騰のドッキリ番組、多々良小傘の驚かさナイトがやっていた。
 途端、幽々子の表情が険しくなる。幽々子にとり、ダメ妖怪から一躍変貌を遂げた小傘の存在は辛辣だったのだ。
 しかし、妖夢はその意図を解せない。妖夢は焦ってチャンネルを回す。
 比那名居天子のグルメ番組、ぐる名居がやっていた。
 幽々子の表情は厳しくなる。いまの幽々子にとり、食欲を煽るグルメ番組などご法度だった。
 しかし、妖夢は察せない。あろうことか思い違いをしてしまう。

 ああそうか。私の料理が不味いのだ。
 それで、幽々子さまはおこってらっしゃる。
 そうに違いない。

 その日から、妖夢は料理を作りまくった。
 作れば作るほど、幽々子の表情は危うくなった。
 主としての威厳は、ダイエットをしたい、の一言でさえも、無慈悲に封殺してしまう。
 妖夢はことさら料理を作った。泣きながら作った。
 幽々子の表情は深刻になる。事態自体が、深刻となっていく。

 わ、わたしのせいで、妖夢ちゃんが泣きながら料理をやっている。

 いまさら、実は最近腰回りが、などと、申告できるはずもなかった。
 幽々子はどんどん豊かになった。
 妖夢はどんどん陥った。

 わ、私の料理が不味いから。
 幽々子さまごめんなさい。
 料理を作ります。作りますから……お、おえーっ。

 ある日、妖夢は吐きながら料理をやった。幽々子は強かに後悔した。

 わ、わたしのせいで、妖夢ちゃんが吐きながら料理をやっている。

 幽々子はテレビも点けっぱなしに、妖夢を外に連れ出した。妖夢は外に連れて行かれた。
 たどり着いたのは病院だった。
 待合室に座る間、幽々子はずっと謝り通した。
 妖夢はずっと泣いていた。

 わ、私の料理が不味いから、私は病院にいれられてしまう。

 妖夢は両手で顔を覆い、待合室に連なる病人たちを、指の隙間から覗き見た。
 神経質に膝を揺すり続けるもの。
 うつむき組んだ腕にぶつぶつ唱え続けるもの。
 目を爛々とさせ、大気と会話をこなすもの。
 いずれも妖夢に絶望を与えたが、中でもとりわけて辛辣だった病人がいた。
 それは、額になるとを貼り付けたボサボサ頭の病人だった。病人はどうやら白狼天狗で、ボサボサからは例の耳が飛び出している。
 ボサボサ頭は体温計を加えた口のまま、なにかを睨みつけ、ワウワウとなにやら唸り続けていた。
 病人は、どうやら待合室角のブラウン管を睨んでいた。

 やばいですね。正邪さん。ほんとになんでもできるんですね。もうやばい。
 いやあできますよ。簡単ですよ。なんだってできちゃいますからね。ははは。

 テレビの中の正邪が笑うと病人がワンワン吠えだした。数人の看護婦に連れて行かれる病人をみて、妖夢は心の底から恐怖した。
 怯える妖夢をみると、幽々子の心は痛んだ。そんな折、西行寺さん、と声がかかる。受付には幽々子の性を記入したのであった。

 検診の結果、妖夢は数週間入院をすることになった。妖夢はやはり泣いたが、医者の言葉を聞くにつれ、徐々に落ち着きを取り戻し、自身の状態を鑑み、安静にすることを一番だと思えるようになった。
 幽々子も、妖夢の安心に一役買った。同時に簡単な検診を受け血圧の妙が発覚した幽々子も、妖夢と同室にて入院することとなったのだ。
 入院生活が始まった。窓の外、緑をつけた桜の木が穏やかな部屋だった。二人は当面、ここで療養することとなる。
 部屋にはベッドが四つあり、妖夢と幽々子のベッドは向かい合っていた。しばらくは、互いに足を向けて眠ることとなる。
 妖夢と幽々子は互いにすこし面映ゆくなって、落ち着かなさそうに寝返りをうった。すると互いに、隣のベッドの患者がこちらを向いていることに気がつく。
 妖夢の視線の先、犬走椛が言った。

 ああ、あなたも料理ですか。顔をみればわかります。あなたは料理で心をやった。

 幽々子の視線の先、多々良小傘が言った。

 いやあ、優柔不断はよくないですよ。言うべきことは早く言わなきゃ、ずっとおなじだけ求められてしまう。

 ピンクのカーテンが揺れ、病室に柔らかい風が香った。

 これで三つ目の話が終わりとなる。しかし、私が描写できるのは次が最後になるかもしれない。そろそろ限界が近い。

   悪夢

「おい針妙丸。次は乙四だ」

「えっ! また資格とるの! もう取らないでって言ったじゃん!」

「しょうがねえだろ。危険物取り扱えるって言っちまったんだよ」

「なんで、なんで言うこと聞いてくれないのさ! 言ってるじゃん、もう取らないでって!」

「うるせえな言っちまったんだよ! できるって言ったのにできなかったら、嘘つきになっちゃうだろ!」

「言わなきゃいいだろ!」

「そん、おま、知っ……あっ! うるせえうるせえ! うるせえなおまえは!」

「やめてよおー資格とるのやめてよお。う、うぅぅ……」

「チッ、こっちはもう勉強始めてんだからよ。静かにしてくれないと困るよ。ったく……」

「……うっ! ウゲーッ!」

「なんだよチャイムなったぐらいで叫ぶなよな。どうせまたユーキャンだろ。おまえ出てこいよ」

「そうだよ! 絶対ユーキャンだよ! いやなんだよお。ユーキャンこわいんだよお」

「えー、ジエチルエーテルの発火点は……。とりあえず穴覗いてみろよ。もしかするとユーキャンじゃないかもしれねえだろ」

「うん……。……ほらやっぱりユーキャンじゃん! こわいよお、やだよお」

「チッうるせえな殺しちまえよ。……えーと、軽油、灯油、ガソリン……」

「急に物騒だよお。こわいよお」

「トルエン、ベンゼン、メチルエチルケトン……わかった殺してやるよ殺してやるよわたしが殺してやるからよ」

「やめて! もういいよ、こわいけど諦めて話聞いてくるから、カッター置いてよ」

「重油、アニリン、グリセリン……。クレオソート油、ニトロベンゼン、エチレングリコール……。……ユーキャンのひとなんだって?」

「CMのオファーだった……。この前は脅迫だったのに、どういうつもりだろう。もういやだ、四方八方情緒不安定だよう」

「それで? 帰したのか?」

「うん。でないでしょ」

「うん、でないね。御苦労。……保安距離、保有空地……製造所、貯蔵所、区分……」

 そうして、正邪は資格を取った……。

 ……ああ限界だ! 視点を奪われる! う、ウグーッ!



 目がさめると冬だった。

 窓枠に立った猫がたかく、またながく鳴いて、頭の奥に固着した微睡みを剥離させる。知らない猫だった。窓の向こうには雪がしんしんと降っていたから、まるで、子供が平均台で遊んでいるようにもみえた。こたつで眠ると風邪をひく、などとは言うが、寒いまま眠るよりは数倍マシだ。ましてや布団を敷く労力を省けるなら、わたしは喜んでこたつで寝てやろうというものである。どれもこれもあいつが悪い。わたしは布団なんて敷きたくないし、どちらにせよ風邪をひくなら、より悪辣な方を選ぶに決まってる。わたしは冷えた体をこたつにねじ込んで、みしらぬ猫を手招きした。しかし、猫は入ってこない。普通なら猫はこたつで丸くなるもんなんじゃないのか、と疑問に思ったところで、黒い痩身は不可解に尻尾をくねらせて、わたしのジェスチャーにきょとん顔を送るのみでいる。猫は餌付けなきゃ後を去る。素知らぬ顔で欠伸をかく猫はわたしに、そんな結局のところを思い出させてくれた。
 針妙丸が出て行ってから二日が経った。発端は、さっきまでみていた夢と同じように、もはや曖昧になっている。
 どうにも居た堪れなくなって、畳の上のリモコンに手を伸ばす。ブラウン管がパチンと音を立てたなら、わたしひとりの空間に、使い古されたお茶の間味が即座に立ち込めた。それはたしか〝ビートも〟という番組で、堀川雷鼓は今日もお昼の顔を気取っている。普段ならこんな番組はみない。そもそもわたしはテレビをみない。茶の間の雰囲気が嫌いだった。けれど、こんなふうにひとり、窓の開いた空間で、寺子屋帰りの学童どもの声と混ざって垂れ流される音響は意外と悪くないかもしれない。図々しい猫がブラウン管の眼前を陣取った瞬間、わたしはテレビの電源を切った。
 猫は図々しくにゃあと鳴く。箪笥や冷蔵庫を爪でカリカリなぞる仕草をみるに、どうやらこの家をよく知っているらしかった。しかしそれらの中身は昨日の夜に食べ尽くされているわけだから、なんにせよ無駄なことだった。猫に与えるほどの餌すら、わたしは持ち合わせていない。
 とりわけて新鮮な昼の和室と食い物を強請る猫の鳴き声が陰鬱になって飛び出せば、外は馴染みの白昼だった。春も夏も秋も、もちろん冬だって、昼間の幻想郷などは見飽きていた。だいたいわたしは家に居たって落ち着かないし、最終的にはわけなく陰鬱になって、結局のところいられなくなるわけだから、今回だって、あいつがもう少し辛抱すればよかっただけの話なのだ。そうすれば、わたしがなけなしの小銭でもって八百屋に向かうこともなかった。あいつは猫のようなやつで、どこにいっても餌をもらうことだけは上手かった。わたしはそういうわけにはゆかない。思えば本当に、昔からなにも変わらない。下克上に失敗したあのときから、なにも変わっていやしない。
「あれ? 正邪さんじゃないですか。寒いですねえ。お買い物ですか?」
 けれど、馬鹿らしい狂騒の時代は終わった。節目となったのがいつだったのかは覚えていないが、ちょうどそのあたりに、わたしは職業訓練なんてものをさせられた。
「やっぱり、内職だけじゃ厳しいでしょう。うちならいつでも空いてますから。隊のみんなはああ言いますけど、私はいつでも歓迎しますからね。それじゃ」
 山の天狗が里まで出張ってくるようになったのもその頃だった。あいも変わらず哨戒部隊などと名乗っているが、やってることは散歩と変わらない。誰がやっても同じ仕事だ。よくもまあ、なんともない顔で続けられるものだ。もっとも、暑くても寒くてもなんともない顔でやっていたのは、あいつくらいだったかもしれないが。なんにせよ、わたしは違った。
 雪の降る里をひた歩けば、たくさんの人間とすれ違う。そのうちに、呉服屋八百屋、目抜き通りに辿り着く。河城にとりの発明と妖怪の山の企業努力によってラジオ・テレビ類が普及した今となっても、この通りはそう代わり映えしなかった。針妙丸に魚を釣らせてたあの頃なら、こんな通りは毛嫌いして歩きもしなかった。けれど、釣った魚のみで行う馬鹿らしい生活が非現実味を帯びてからというものは、この通りに妙な安心を覚えるようになっていた。
 なにからなにまで馬鹿らしくなる。当時馬鹿らしいながらに現実味のあった計画や滅茶苦茶な暮らしの数々までもが、最近では馬鹿らしいまでに夢のように思えてくる。現実味を帯びた数々の事柄が、不意に非現実にすり替わってしまったのだ。それは悪い夢から覚めたときの感覚に酷似しているから、ともすればあの狂騒の時代は、本当に夢だったのかもしれない。様々な店の連なりをいろいろな人間たちが泳ぐ。何故だか急に、わたしはそれが恐ろしくなった。
「あ、ああ! 正邪さん、久しぶりですね。……いやあ、恥ずかしいなあ。わちき、またお腹すいてるんですよぉ」
 浅ましくもそれらから逃げるように脇の路地へ駆け込むと、見覚えのある妖怪が蹲っていた。妖怪は照れ臭そうにはにかんで、わたしを見上げている。
「え、仕事ですか? ……いやあ。わちき、あれはもう、ちょっと……」
 空腹がどうとかなんだかんだと宣うが、こいつはやればなんでも器用にこなすやつだった。鉄を打つなんてのは最近では非現実的だとしても、また子供の世話でもみればいい。でも、こいつはやらない。やればなんでも器用にこなすが、そもそもの性分としては、どうもやれないやつだった。
「うらめしや! ですよ、やっぱり。妖怪たるもの、そうでなきゃあ……そう思うでしょ? ねえ、正邪さん」
 路地には結局、こいつにとってなんとかしなければならない問題が二、三転がっているだけに思えた。わたしは当初の目的を果たすべく、通りに戻った。
 風は徐々に厚みを増して、雪もだんだん重たくなった。急いで馴染みの八百屋に向かって、豆腐二丁と昆布を買った。もうすこし食い扶持のあるものにも手は届いたかもしれないが、起きてからずっと頭痛がするし、喉も痛む。なにより、それはわたしの好物だった。まだ穏やかな降雪は明確に迫る荒天を示している。そうなると、あの猫はまだ帰らないかもしれないが、関係ない。豆腐を食う猫などは聞いたことがないが、もしかすると食べるかもしれない。願わくば、帰ってくれていたらよかった。
「あーっ! あなたが買い出ししてるってことは、針妙丸さん出て行っちゃったんですね。もう、いけないんですよ。ちゃんとしなきゃ」
 図々しく話しかけてくるこいつについては知らないことの方が多い。こういったタイミングでたまたま会うことがよくあるだけで、名前だっておぼろげだった。印象的なのは大根やらネギやらが数本飛び出した大きい買い物袋で、こいつはいつも両手をそれで埋めていた。
「たまには料理でも作って喜ばせてあげるとか、いろいろ……あ。寝起きですか? ふふ、頭、ボサボサですよ」
 世話焼きの性分なのか知らないが、常にいらないことを宣った。頭にようわからんふにふにを乗せているやつに言われたくもない。余計なお世話だ。この降雪に風邪でもやって、病気になってしまえばいい。
 通りを抜ける頃には風はさらにしたたかに吹いて、雪は舞うなどと生ぬるいものではなく、もはや踊り狂っていた。次第に視界は白に飲まれてなにもみえなくなってくる。徐々に白く埋め尽くされる視界は心地よく、頬や雪に当たる冷たい感触は実に辛辣だった。激しさに飲まれると時間が経つのは一瞬で、すぐ家についてしまう。長屋の錆びた鉄階段はよく滑った。なんの期待も込めずにノブをひねれば、そこにはやはり猫がいた。猫はきっと人違いしていた。にゃあと鳴いてはわたしを見つめた。濡れた服から着替えている間、ずっと買い物袋を興味ありげに物色していた。猫は、わたしが湯豆腐をやっているうちに、わけてもらえないのを悟って消えた。強風吹きすさぶ雪の世界に飛び出してまで餌を得たいなら、好きにすればいいと思った。
 それから、すこし眠ると外は暗くなっていた。窓の外、雪はやんで、代わりに恐ろしく静かな夜があった。遠く、里の街灯が淡く滲んで、夜はどこまでも続いているように思える。
 わたしはきっと、昼間と同じ夢をみた。おぼろげな記憶の中にこれまたおぼろく覚えがあった。しかし昼間と違ってひとつ、明確にわかったことがある。わたしがみた夢は悪夢だった。些細なきっかけからいずれすべてが破綻して、おそらく、機械やなんかが人々を牛耳るようになってしまうような、そんな悪い夢だった。
「なあ、昼間ネコが来ただろう。黒いやつ。いや、来たね。間違いないよ」
 しかし現実は夢のように上手くは行かず、針妙丸は何食わぬ顔で帰ってきた。手にネギやらが飛び出した買い物袋を提げて、チャイムも押さずに入ってきていた。針妙丸の手によりわたしの取って置きの豆腐半丁は水炊きの具と化している。こたつの上、くつくつと煮立つ鍋から立ち込める湯気がまるで、夢の残滓のようにみえる。
「チャイム? 押すわけないだろ。鍵持ってんだから。それよりおまえ、ネコが豆腐食べると思って半丁取っておいたんだろ。水まで用意してさ。馬鹿だねおまえは。こんな不味いもんネコが食べやしないよ。ほら、豆腐はみんなおまえが食え」
 テレビではくだらない情報バラエティ番組がやっていて、なにか悪夢について話している。とにかくもう暫くは夢やらなにやらに足を取られたくないと感じたのだが、鍋なんてものはどんなときに食べても必然美味く、食べ終わるとわたしはまた、眠気にやられてしまったのだった。

 いわく、悪い夢は吉兆の予感とかなんとか。



  ろくろ首の夏、飛蚊症の夏。

 私の名前は赤蛮奇。妖怪。
 種族はろくろ首。
 友人にはばんきちゃん、なんて呼ばれてる。
 私を〝ばんきちゃん〟と呼ぶのは主に今泉影狼、わかさぎ姫の二人だ。というより、悲しいことに、私にはその二人の他に友人らしき人物はない。強いて挙げるならば、働き先の大衆食堂で働く少女ぐらいか。
 でも寂しがることはないよ。
 影狼はいい奴だ。
 まず可愛げがあるし、何より一緒に居ると面白い。
 姫……、わかさぎ姫は、そうだな。まあ、なんだ。
 自分で会って、話してみるといい。
 そうそう、人を食べてはいけないよ。私の働いてる食堂というのは、人里にあるんだ。
 私を〝おせきちゃん〟なんて呼ぶものがあれば、それは私の〝人間の知り合い〟だ。
 くれぐれも、人間の前では妖怪然とした態度は取らないように。
 なにより、博麗の巫女が怖いしな。
 日常生活を送る上での様々なことや、働き先での業務などについて心配することはない。
 必要なことは〝体〟が覚えている。〝体〟は、割合ポンコツに思えることもあるかもしれないが、まあ。信頼してもいい。
 ううむ。
 他に何かあったかな。

 ああ。
 お前の生きる季節は〝夏〟というらしい。
 影狼から聞いた話によると、夏は暑いだけで何も良いことがない、という話だ。ははは。
 まあ、精々楽しみにしておくことだな。

 ああそれと。

 これは、私の前のやつに聞いた話で、私はよく知らないが。
 もし、お前の視界の端に小さなミミズのような物が現れても、それを目で追ってはいけないよ。
 そんなことをすれば、お前は忽ち目を回してしまうに違いないのだから。



 私の前には首から上のない体が立っていて、そんな体が、私に向かって見知らぬ生首を差し出していた。
 数多の頭蓋骨が転がる部屋の中。その見知らぬ生首は、椅子に〝すわる〟私に向かって、そのような事を語るのだった。


 次に私が目を覚ますと、私は大きな鏡の前に立っていた。
 鏡を見やると、件の〝首から上のない体〟に、私の首がくっついていることが判った。不思議と、そこまでの驚きは感じなかった。〝首〟の辺りに広がるじんわりとした暖かさが、この体が自分の一部であることを俄かに確信させた。
 しかし、首から下の感覚は無い。
 私がどうにか首から下を動かそうとして、云々と念じていると、鏡に映った体が徐に慌て始めるのだった。
 その慌て方は、私に向けて、ちょっと待って、と言っているように見えた。
 体は、慌てた様子で私の頭を両の手で撫でたり、私の頬を両掌で軽く、ぺちぺち、と打ったりと、首から下を動かそうと急ぐ私を宥めるのに必死だった。
 そんな体の慌てぶりを鏡越しに見て、私は首から下を動かすのを暫しの間諦めてやることにした。
 すると、体は安心したようで、それを私に伝えるためかは分からないが、体は、わざとらしく胸をなでおろして見せるのだった。

 それから、体はおもむろにストレッチを始めた。
 両腕を上げ、背筋をぐんと伸ばしてみたり、軽く屈伸してみたり。軽くその場で跳ねてみせたりと、体は私に見せつけるようにストレッチを続ける。
 体が軽く跳ねるたびに、ギシ、ギシ、と木の板が張られた床が鳴る。木の板は、とっくの昔に傷んでいるようで、その悲鳴にも似た音は、私に一抹の心許なさを抱かせるのだった。
 ああ、或いはこの床は、ちょっとの拍子に抜けてしまうのではないか。私がヒヤヒヤしているうちに体のストレッチは終わった。
 ストレッチが終わると、体が一つ、気持ちよさそうに伸びをした。
 体の一連の奇妙な行動を鏡越しに眺めていた私は、その妙な時間から逃げ出す術はないかと踠いていた。
 今やっと、首から〝私〟が外れそうな、そんな手応えを感じたところなのだが。
 首から逃れようとする私の頭頂部を、ガシ、と両の掌が押さえた。その力は優しいものだったが、しかし確実に、私を首へと押し込んでいる。
 抵抗はしなかった。しかし疑問はあった。この体は、私に何をしろというのだろう。
 私の首がすわると、体はもう一度屈伸をしてみせた。
 屈伸が終わると、体は鏡の中の私を指差すのだった。
 やってみろ、ということだろうか。
 一間置くと、私と繋がっている首の部分に広がるじんわりとした暖かさが全身に広がった。体全体に広がる暖かさは、首の辺りの暖かさと比べれば微かなものだ。しかし、手の先、つま先までもが確かに暖かいのを、私は感じた。
 ああやはり、これは私の体で違いない。
 腕を動かしてみた。動く。
 指を動かしてみた。動く。
 つま先を丸めてみる。よし、つま先も動く。
 ストレッチか、よおし。

 まず、私は伸びをしてみることにした。
 両手の指を絡ませて、そのまま腕を上へと挙げる。首を両腕の間にくぐらせるように。私はぐんと、背筋を伸ばした。
 ぐ、ぐ、ぐ、と伸びをすると、とても気持ちが良かった。私の口から、思わず呻き声が洩れる。
 絡めた指を解き腕を下げると同時に、あぁ、と深く息を吐く。首、肩、背中、脇腹。暖かさが、じんわり広がる。
 よおし。次は屈伸といこう。
 私は膝に手をつき、ゆっくり、しかし確かに力強く屈み込む。が、屈みこもうとした、その時。
「あ、あれ?わ、わわ」
 衝撃に、ギシッ、と力強く床が鳴る。
 私は、床の上に尻餅をついてひっくり返っているのだった。
 鏡に映る私のその姿は無様なものだった。
「あいたたた」
 痛みに悶えていると、ふいに体の感覚が遠くなった。気分としては、体を動かす主導権を体に取られたような気分で、私は少し腹が立った。
 おい、なにするんだ。返せ。私が口を開こうとすると、私の腕がやおら動き始める。腕は下半身へと伸びていき、身に付けた〝スカート〟を押さえつけた。なんか腹立つな、こいつ。

 その日、私に主導権が戻ることはなかった。
 体は私を首から取り外し、抱きかかえたまま、腐りかけの床の上に敷かれっぱなしの布団に入った。
 布団の中で体は、体をうまく動かせなかった私を慰めるかのように頭をぽんぽん、と軽くたたいた。
 布団は煎餅のように固く、酷く黴臭かった。

 それからの数日間、体は同じように私にストレッチを強制した。上体を動かすことに苦は無かったが、下半身が思うように動かない。ストレッチは、主に下半身を動かすメニューに集中した。
 途中、どうにも退屈になった私は反抗を試みたのだが、私が勝手な行動を取ろうとすると、体は忽ち体を動かす主導権を、私から奪った。
 私があんまりに反抗すると、体はその日のストレッチを諦め、私を抱きかかえ、黴だらけの布団へと潜り込んでは、私の髪を、宥めるように撫でつけた。
 それから更に数日が経ち、私が足腰を自在に動かせるようになった頃、私の体が、末端まで〝馴染んだ〟ような気がした。
 その日のストレッチが終わっても、体が私から主導権を奪う気配がない。
 もう好きに動いてもいい、ということなのだろうか。
 私が恐る恐るボロボロの襖を開け、外へ向かうも、体はなんの反応も示さなかった。
 瞬間、私の心は昂揚した。私は勢い勇んで、外へと飛び出した。
 玄関の戸を開けるが早いか、私の視界は眩い光に包まれた。ギラギラと輝く陽光が、数日間薄暗い部屋の中にいた私の瞳を突き刺したのだ。私は思わずその目を細めた。
 程なくして、ひやりとした黴くさい部屋の中で過ごしていた体を、むわあ、とした熱気が包む。
 ああ、これが夏というものか。
 私は柳に囲まれた廃墟のような我が家を一瞥し、どこへ向かうともなく歩き始めた。

 しばらく歩いていると、里が見えてきた。ああ、あれが人里か。里の家々を眺めながら、私は里へと歩みを進める。
 里への道は、均された地面が歩くために程よい幅を為しており、道の両脇は草木に囲まれている。息を深く吸い込むと、澄んだ空気と微かな草木の香りが胸いっぱいに広がる。私は息を深く吐き、空を見上げた。
 空には恰幅の良い雲が疎らに浮かび、その青さはどこまでも澄んでいた。日差しは少々眩しすぎる気もしたが、そんな空模様は、私に、清々しい解放感を抱かさせるには十分だった。
 そんなとき、私は視界の中に不思議なものを見つけた。
「んん?」
 視界の端に、何やら小さい〝ミミズ〟のようなものを、私は見つけた。
 ――もし、お前の視界の端に小さなミミズのような物が現れても、それを目で追ってはいけないよ。
 私はそんな忠告を思い出すよりも早く、ミミズを目で追っていた。
 しかし、私がどれだけミミズを視界の中心に捉えようとしても、ミミズは視界の端へ端へと逃げていく。
 次第に、私の視界はぐるぐると、回転を始めるのだった。
 視界の端へとミミズが逃げる。
 路に建てられた立て看板が視界に映る。
 ミミズは更に逃げていく。
 立て看板を素通りし、視界に背後の道が映る。
 ミミズは更に逃げていく。
 視界は背後の道を素通りし、森へと続く岐路を映す。岐路に何やら人影を見つけたが、私は御構い無しにミミズを追い回す。
 ミミズが逃げる。立て看板を素通りし、ミミズが逃げる。背後の道を素通りし、ミミズが逃げる。森を背後に此方へ近づく人影を素通りし、ミミズが逃げる。
 そんな具合に、私は首から上をくるんくるんと回転させ、ミミズを追いかけた。
 立て看板、背後の道、森へと続く岐路、里の入り口。立て看板、背後の道、森へと続く岐路、里の入り口。逃げるミミズ。……。
 里の入り口、立て看板、背後の道、森への……ぎゃあ!
 私の回転を、ガシ、と両掌が押さえた。
 これが私の両の腕から伸びたものならさして驚くこともないのだが。視界の端のミミズを追い回す私の回転を止めたのは、見知らぬ人物の、その両掌だった。
「ばんきちゃん、また〝飛蚊症〟?こないだ治ったって言ってたのに」
 私の頭部を、ガシ、と押さえ、私の目を見てそう語る人物。この人物は恐らく――。
「今泉影狼、か?」
 私がそう口にすると、目の前の人物は怪訝そうに眉をひそめるのだった。
「ばんきちゃん、目、回ってるんでしょ」
 確かに、視界はぐらりぐらりと揺れていた。ああしまった、二分の一を外してしまったか。じゃあ、目の前のこの人物がわかさぎ姫か。
「私が影狼じゃなかったら、誰が今泉影狼なのよ、まったく」
 違った。やはり目の前の少女は今泉影狼で間違いないようだ。いやぁ、わかさぎ感が不足してるとおもってたんだ、私は(?)。
「あ、ああ影狼か。そりゃ、そうだよな。いや、視界の端に妙なミミズが現れてな、でも、もう大丈夫そうだ。だからその、そろそろ頭を離してくれないか」
 影狼は怪訝そうな面持ちのまま、私の頭から両掌を、ぱっ、と離した。
「……飛蚊症」
「え?」
「だから、〝飛蚊症〟でしょー?それ。ばんきちゃん、治ったって言ってたのに、またぐるぐる回ってるんだもん」
 ヒブンショウ、聞き覚えがあるような、無いような。
「まあ、ばんきちゃんが自分で『季節の変わり目に治ったり、罹ったりする』って言ってたから、昔。まあ、そういうことなんでしょうけど」
 とにかく、と影狼は続けた。
「人里の近くで首を三六◯度ぐるぐる回すなんて、そんな妖怪じみたことしちゃダメよ」
 おっしゃる通りである。でも、気になっちゃったんだもん。
「それに、ばんきちゃんは人里で働いてるんでしょうに。〝おせきちゃん〟なんて呼ばれて。余計に気をつけなきゃよ。そうでしょ?」
 いやぁその通りで。言いかけたそのとき、〝体〟が私から〝主導権〟を奪った。
 体は何やら慌てていて、暫し意味のない身振り手振りを経たのち、右の掌で私の後頭部を押しつけ、下を向かせた。そして、ピン、と伸ばした左手を、今泉影狼の前に突き出すのだった。
 それは、所謂〝御免!〟のポーズだった。影狼と私の間に、微妙な沈黙が流れる。
 あ、主導権を奪われてる時も喋るのは私なのか。
 しかし場に流れる居心地の悪い沈黙は、私に口を開くのをためらわせた。なにより、体の言わんとするところを、私はいまいち察せていなかった。
 そんな沈黙を、今泉影狼が打ち破った。
「こ、こわいわー。急にどうしたのよ。急用でも思い出したわけ?」
 ああ!急用か!
「ごめん!そうなんだ、ちょっと、急用を思い出して……」
 口に出してみると、私は私自身の発言に胡散の臭気を感じずにはいられなかった。
 急用を思い出した。それは、偶然会った友人と別れる際に使うには、どうにも頼もしさに欠ける言葉に思えた。
 急用、急用、急用。
 急用とは、果たして如何なる用なのか。私は思索を巡らせるのだが、それらしい用事が思い付かない。
「ああ、ばんきちゃん、仕事でしょ。人里で。もう、最近ばんきちゃん全然捕まらなくて、久々に会えたー、と思ったんだけどな」
 そうか!仕事か!
「そう、仕事なんだ。いやぁ、悪いな。折角久しぶりに会ったっていうのに」
 正直、私にとって今泉影狼は初対面他ならない。しかし。

 ――影狼はいい奴だ。まず可愛げがあるし、何より一緒に居ると面白い。

 それでも何故だか、初対面という気がしなかった。
 出会って数刻もしないはずなのに、私は今泉影狼に親しみを感じていて、そんな今泉影狼とこの場で別れるのを惜しく感じていた。
「仕事なら仕方ないわ。そうだ、ばんきちゃんの仕事が終わったら〝いつもの居酒屋〟に行きましょうよ。折角久しぶりに会えたんだから、いいでしょ?」
「それで、仕事は何時頃終わるの。ばんきちゃんの仕事が終わる頃、私、先にお店に入って待っていようと思うんだけど」
 すると、体はまた慌て始めた。
「え、ええと。何時頃だっけなあ」
 体はやはり意味のない身振り手振りを経て、漸く、ああ思い付いた、と言わんばかりに何か意味のある動作を始めた。
 まず体は右手の人差し指で空に浮かぶ太陽を指差した。次に、左の人差し指で何も無い西の空を指差す。
 ああ、これは分かりやすいぞ。
「そうそう、夕方頃に終わると思うよ。詳しい時刻は分からないけど」
 影狼はそれを聞くと、分かった。じゃあ、その頃に、と言って、里とは反対方向に歩いていくのだった。

 その後、私は人里に来ていた。正確に云えば、人里の、大衆食堂に居た。影狼と別れてから体は私に主導権を返す事は無かった。体の歩みに身を任せていると、この大衆食堂にたどり着いたというわけである。
 体が慌てた様子で食堂に入ると、怒号が飛んで来た。それはしわがれた声で、声の主は店主と思しき婆さんだ。
「困るんだよねえ、無断で何日も休まれたら。人の苦労が考えられないかい。最近の若いのは全く」
 ここで、この食堂が私の働き先であることを確信した。しかし、急に婆さんから叱責を浴びせられた私の口からは、いやそのええと、といった言葉が溢れるのみだった。
「何をごにょごにょ言ってるんだい。先ずは何か言うことがあるんじゃないのか」
 トレイを抱き抱えた少女が、台所の入り口付近に立ち、そんな光景を気まずそうに見つめていた。
 体が慌ててポーズを作った。それは例の〝御免!〟のポーズだった。
 例の如く、場に微妙な沈黙が流れる。ああどうしたものか、謝ると言う事は分かるが、どう謝ったらいいものか。悩んでいる間にも、微妙な沈黙、この場の雰囲気はどんどん妙な重みを帯びていく。
「その、すみません、でした」
 私の口から出た言葉は、それはシンプルなものだった。
「まあ、良しとするかね。……それで、今日は」
 婆さんが私に詰め寄るように問いかけた。
「今日は」
 体が、私の口元を左手でぽりぽりと掻く。何か喋れということだろう。
「ええと、今日は……」

「今日は空が青いですねえ」
 体が、ビシッと敬礼を決める。……うーん、多分間違えたな。互いに。
 場に、またしても微妙な沈黙が流れる。
 台所付近の少女は何やら驚いた様子で、抱き抱えたトレイで顔の下半分を覆っていた。
 婆さんも一瞬目を丸くして驚いていたが、すぐに口を結び、眉間にしわを寄せるのだった。
「〝今日は、働けるのかい〟って聞いてるんだよ」
 婆さんは顔をしかめたまま言った。
 漸く、婆さんの言う『今日は』の意味を解した私だったが、正直なところ、その問いにどう答えたものかと迷っていた。
 まず、私は妖怪である。妖怪である私が、どうしてこんな婆さんの下で働かなければならないのか。そもそも、妖怪が働くなんてナンセンスではないか。妖怪なんて日中眠って、夜毎ふらふらフラついていれば、それで十分だ。
 そして、百歩譲って人間の下で働くことを許容したとしても、それは私の意思でなく体が勝手にやろうとしていることだ。何故、私がそんなことに付き合わなければいけないのか。私には納得できなかった。
 今日は帰ります、というか、もう来ません。口に出そうとしたその時、体がその掌で私の両頬を強く叩いた。二度も!
「なんだ、やる気じゃないか。ならいいんだよ。その調子でバシバシ働いていっておくれ」
 体はまた、ビシッと敬礼を決めるのだった。
「それにしても相変わらずだねえ」
 婆さんが出し抜けに言う。
「相変わらず、格好と表情の決まらないやつだ。敬礼なんてするのなら、もう少しシャキッとした顔をしたらどうなんだい」
 婆さんの話はそれからしばらく続いた。
 私は婆さんの話を、はあ、それは、はい、等々、それらの言葉をあむあむと述べ、聞き流していた。
「そんなんじゃ人を疑われてしまうよ、全く」
 婆さんは私への小言をそう締めくくって、その矛先を今度はトレイを抱き抱えた少女へと向けるのだった。
「ほら!あんたも突っ立ってないでとっとと働く!皿洗いはいつになったら終わるんだい?ぼーっと見てる事ないだろうに。さ、動く動く」
「は、はい!」
 少女は慌てて返事をし、慌てて台所に向かい、皿洗いを始めた。
 婆さんはそれを一瞥すると、何やらボソボソとぼやきながら、店の奥へと引っ込んでしまった。
 食堂に客はいなかった。その代わりに、各テーブルには大量の食器類が積み重なっていた。
 少女は必死に皿洗いをしている。体は、そんな少女に徐に近づいては、またしても〝御免!〟のポーズを取る。そろそろ慣れて来た私は、言い澱むことなく口を動かした。
「あー、ごほん。ごめんごめん、勝手に休んだりして、悪かったね」
 私の口から発せられた言葉に私自身、多少大根の感を覚えたが、まあ、こんなものだろう。
 少女がハッとして皿洗いの手を止めた。
「ああ〝おせきちゃん〟!私なら大丈夫だよ。そりゃ、少しは大変だったけどね」
 えへへ、と笑って、少女は言葉を続けた。
「それより、おせきちゃんは大丈夫なの?また〝気象病〟?今度はどうしたの?〝片頭痛〟?それとも〝風邪〟?あ、〝関節痛〟だ?」
 少女は立て続けに私に疑問符を投げ掛けた。しかし、少女の口から発せられる聞き慣れない言葉の数々に、私の脳内は疑問符に埋め尽くされるのみだった。
 また、体が私の頰を掻く。
「まあ、そんなところ」
 少女は、仕方ないなぁ、と言わんばかりに、一つ息を吐き出した。
「おせきちゃんたら、季節の変わり目に絶対体調を崩す、って自分でも分かってるはずなのに、なんでかなあ。どうしても、体調崩しちゃうんだよねえ。抵抗力が弱いのかな?」
 少女はそんなことをボソボソと、誰に言うともなく呟いていた。
 少女はそれからしばらく、ボソボソと続けていた。〝呟き〟が一通り終わると、少女は何か納得したように、コク、コクコク、と小刻みに頷き、こちらに向き直るのだった。
「うん。私は大丈夫。気にしてないよ。そうだ、お婆ちゃんはあんな風に言うけど、あんまり気にしちゃダメだよ。お婆ちゃん、あれでもおせきちゃんが来ない間、なんだかんだでずっと心配してたんだから」
 体が、わざとらしく私の後頭部を右手で〝わしわし〟とした。
「いやぁ、そうか。心配かけてしまったようで、申し訳ないやら照れ臭いやら」
 少女はそんな私を見て、何故だか可笑しそうに微笑んだ。
「あはは。おせきちゃん、なんか変!」
 そのとき、店の奥から怒号が響いた。
「あんたら、もしや手を止めてくっちゃべってるわけじゃあないだろうね!」
 少女はギクリとして、私に小さな声で話しかけた。
「じゃあ、体調、もう大丈夫なんだ?」
「ああ、問題ないよ」
「そっか、よかった。じゃあ、私はお皿洗ってるから、おせきちゃんはテーブルの食器持って来ちゃってね」

 それから、体はテキパキと働いた。テーブルの食器を全て台所に運び終え、食器の載っていたテーブルを全て綺麗に布巾で拭いた。
 その間、私は暇で暇で仕方なく、テキパキと働く体をよそに、店の窓から見える景色などを眺めたりした。
 窓から見える空はとても青く、雲は白く。ああ、私はどうしてここにいるのだろう。そんなことを、私はぼんやりと考えていた。
 ぼんやりしていると、店の奥から婆さんのしわがれた声が響いた。
『こら、おせき。もし余所見なんてしながら仕事をしようものなら、首斬りにしてしまうよ』
 婆さんが、見てもいないのに私の余所見を看破するものだから、私は婆さんが少々恐ろしくなって、慌てて余所見を止めた。
 そんな私を見て、台所で皿を洗う少女は、くすくす、と笑うのだった。

 体が少女と並び、二つある流しの一つでコップ類を洗っている頃だ。
 私はやはりどうしても暇で、またも余所見をして、食堂にある窓の外の、空を眺めていた。
 窓は台所からでも見えた。
 窓から見える空はやはり青く。でっぷりと肥えた雲は白く。夏が始まってからずっとあの廃屋のような家で過ごして来た私は、どうしてもそんな空に焦がれずにはいられなかった。
 そういえば、仕事が終われば影狼と居酒屋に行くのだった。空を眺める内に、その事を思い出して、私の心は踊った。
 空を見ながら、この煩雑な仕事が終わる事を願っていた私の視界を、不意に何かが横切った。
 気がつけば、私の視界の端にはあの〝小さなミミズ〟が現れていた。私はぼんやりしながら、ミミズを目で追いかける。
 ミミズが逃げる。追いかける。
 首から上が、四十五度回転する。
 ミミズが逃げる。追いかけ、ぎゃっ。
 体が、私を泡だらけの両掌で押さえつけた。
 同時に、パリン、と、コップの割れる音がした。
「ああ!おせきちゃん、……やっちゃったね」
 隣で皿を洗っていた少女が、僅かの驚きに憫然を混ぜた視線をこちらに向けた。私が俄かに焦りを感じて下を向くと、私の足元には粉々になったコップの欠けらが散らばっていた。
 私はこのとき、計らずも〝しまった!〟のポーズをしていた。
 当然、音を聞いた婆さんは店の奥からやってきた。
 コップを見ると婆さんは、
「ああ!〝やった〟よこの子は。全く、大方余所見しながらぼんやりしてたんだろ。仕方ない子だね」
「まあ、割れちまったもんは仕方ないが、しっかりしておくれよ。全く」
 それから婆さんは、全く、全く、と、いつまでもぼやきながらまた奥へと引っ込んで行った。
「まあ、お婆ちゃんの言う通り。割っちゃったものは仕方ないよ。おせきちゃん、あんまり気にせずにね。まあ少しは気をつけないと、ダメかもだけど」
 少女はそう言って、えへへ、と笑って、流しに向き直しては皿洗いを再開した。
「あ、ああ。すまない、気をつけるとするよ」
 体はいつまでも私を責めるように、その泡だらけの両掌で、私を首へと押し付け続けるのだった。それはもう、ぐりぐりと。
 それから、少女と私、或いは少女と私の体が皿洗いを終えると、しばらく私は少女と共に暇を持て余していた。その間ずっと少女は私に語りかけては、他愛もない話を繰り広げるのだった。
 あまり話題の持ち合わせのない私は、少女の話に相槌を入れて頷くことしかできなかったが、それは意外な程に楽しい時間だった。
 日暮れ、そんな楽しい時間を打ち破るように、食堂に人が雪崩れ込んできた。客が雪崩れ込んでくると、婆さんは店先に出て『商い中』の看板を裏返した。少女から後で聞いた話だが、この食堂は基本、昼、夕の〝二回転〟からなるらしい。
 その客の多さに私は面食らったが、婆さんと少女はテキパキと注文をこなし、体もまたテキパキとそれを運んだ。
 そうして、空の橙色と紺色が程よい階調を為した頃、私の食堂での業務が終わった。影狼との約束があったので〝賄い〟は断った。
 店を出ると、体は私の頭頂部を、ぽんぽん、と二度叩き、私にその主導権を明け渡した。
 瞬間、私の内に解放感が駆け巡り、私は思わず伸びをする。
 ぐ、ぐ、ぐ、と体を伸ばすととても気持ちがよくて、私の口から、勝手に呻き声が洩れだす。
 頭上で絡めた指と指とを解き放ち、一つ大きく息をついた。
 紺と橙が織りなす空、西の方角で、沈みかけている太陽はギラギラと輝いていて、それはまるで、今日の労働の終わりを讃えているようだった。
「まあ、私、何にもしてないけどな」
 誰に言うともなく、私は独り言ちて、影狼の待つ〝いつもの居酒屋〟へと歩き始めた。
 胸中に湧き上がる借りてきた達成感と共に、地面を数歩踏みしめると、私は或ることに気がついた。
「いつもの居酒屋って、何処にあるんだ」
 私は仕方なく主導権を〝体〟へと明け渡した。すると体は私の頭を、ぽんぽん、と二度叩いて、私の知らない〝いつもの居酒屋〟へと歩き始めるのだった。
 体が私を居酒屋へと運ぶ間、私は夕空にうっすらと浮かぶ丸い月や、里の往来を眺めていた。岡持ちを気怠そうに担ぐ者、何やら小銭袋を遊ばせて鼻歌を歌う者、手を繋ぎ家路を辿る親子。そんな夕空に照らされた夏の景観は、私にどこか憧憬の念を抱かせた。
 しかし、私は直ぐに居酒屋に今泉影狼の待つことを思い出した。それを思えば、憧憬は情景へと変わり、その情景は一層美しく映えるのだった。
 ああ、居酒屋に着いたら、いよいよ私の夏が始まってしまうな。
 私は無自覚に微笑んでいた。
 不意に、体が足を止めた。能天気な想像を頭に浮かべている頃、体が急に主導権を寄越すものだから、私は少しふらついてしまった。
 少し蹴つまずきそうになりながら眼前の建物を見やった。
 私の目の前には、影狼の待つ〝いつもの居酒屋〟が待ち受けていたのだった。

 居酒屋に入ると、端の方の小さなテーブル席に影狼はいた。
 影狼は、こっちこっち、と言わんばかりに手をひらひらとさせている。
 私は早足になりそうな心を押さえつけながら席に向かった。
「ばんきちゃん、ちょっと遅かったんじゃなーい?」
 からかうように影狼が言った。店内の各所に括り付けられた電球が、影狼の少し赤らんだ顔を照らす。
「なんだ影狼、もう呑んでるな?」
「先に入って待ってる、って言ったでしょー」
 影狼のその口調は、当たり前じゃない、とでも言いたげなものに感じた。
「あ、ほらばんきちゃん、座って座って」
 私は席に着いた。腰を下ろすと、自然と大きく息をついてしまった。
「おつかれさま。忙しかったんだ?」
「まあね。それと少し慣れないことをしてさ、いやぁ疲れたよ。今日は」
 もちろん私は影狼とは今日会ったばかりということになるが、今となっては関係ない。どうせ私の友人には違いないのだ。それなら、話したいように話してしまえ。私はそう考えた。
 影狼は相槌を打つなりテーブルの上のジョッキに半分ほど残された麦酒を飲み干し、声を上げた。
「すいませーん。麦酒を二つ」
 はいよ、という声が響いて、それから間も無く席に麦酒が運ばれてくる。
「あ、麦酒でよかった?」
 私は運ばれてきた麦酒を見ると、脳が微かに〝うずく〟のを感じた。
「ああ、多分これでいい」
「多分ってなによ。まあいいや、とりあえず……」
 影狼は一瞬の間を作り、瞬間朗らかに口を開いた。
「改めましておつかれさま!それじゃ、カンパーイ!」
 私は慣れた手つきで影狼のジョッキに自分のジョッキをかち合わせた。
「乾杯!」
 私はたまらず麦酒を喉へと流し込む。瞬間、私の脳の皺一本一本に、冷えた麦酒が染み込んだ。脳の芯がじわあと冷えて、目の裏側が何とも言えない感覚に襲われる。
 夏の熱気と仕事の疲れで火照った体と顔が、なんとも気持ちいい。
 気づけば私は、ジョッキ一杯飲み干していた。くうー、といった声が、私の口から思わず洩れる。
 ああ、これだ。これは〝体〟が覚えている。麦酒、これは悪魔の発明に違いない。
「さっすが、仕事終わりの人は飲みっぷりが違うわ」
 ジョッキに半分ほど麦酒を残した影狼が上機嫌に言う。
「いやぁ、ははは」
 私は何か面白くなって、そう答える他できなかった。
 すいません、麦酒追加で。私の普段より大きな声が、店内の騒めきの一部を担った。

 それから私たちは麦酒をぐいぐい飲みながら、他愛もない話に花を咲かせた。話は麦酒の美味いことから始まり、夏の暑さ、じきに里で縁日のあること、幻想郷に海がないことの不満、影狼自身の、最近体重が増えてしまった、なんて悩みについての話と、話は転々と転がっていった。
 そんな中、それにしても、と影狼が出し抜けに言った。
「ばんきちゃん、最近なにしてたのよ。全然見つからなくて、心配だったんだから」
 どう答えたものか、と一瞬悩んだが、私はあえて正直に答えてみることにした。
「最近?最近は、そうだな。ストレッチをしてたよ、ずっと」
「ストレッチ?……あはは、ばんきちゃんらしいわね。こわいわー、ばんきちゃんこわい」
 影狼の返答に、私は固まりかけていた私自身の自画像にどこか不安を感じずにはいられなくなった。らしい、とはなんぞや。
 私の内に湧き上がる疑問を他所に、影狼は続けた。
「にしても、ばんきちゃんは時々そうよね。時々何処かに引っ込んじゃって、全然見つからなくなる。思えばよくあるわ」
 影狼は目を瞑り腕を組んで、何やら、ううむ、と考え込むような仕草をする。
「たしかこの間は冬の終わった頃だったっけ。そうだ!その前は秋が終わった頃……。思えばいつも、季節の変わり目ね……。季節の変わり目、季節の変わり目……わかった!」
 なにか合点のいった様子で、影狼が私の顔を指す。ギクリ。
「ばんきちゃん、ストレッチだなんて言って!隠すことないのに、もう」
「ばんきちゃん、風邪、引いてたんでしょう」
 私は自信満々の影狼をみて、どうもその自信満々な口調に〝影狼らしさ〟を感じずにはいられなかった。
「風邪か。まあ、そんなとこかな」
 影狼はジョッキを片手に持ち、テーブルにもう片手を置いて口を開く。
「まあ、季節の変わり目に風邪を引いたなんて、妖怪なら隠したがるのも分かるけどねー」
 私たちの仲じゃない、隠すことなんてないのに、と、影狼は続けた。私は影狼の放った「妖怪なら」という言葉に、影狼がなにか〝妖怪〟という言葉そのものに尊厳めいた感情を抱いているらしいことを感じた。影狼の放った言葉には、どうも〝人間なら或いは〟などという含意が在った。
「まあ、人間なら或いはね」
 影狼の思想を確かめるべく、私は心中に浮かぶ〝影狼の言わんとするところ〟をすっと呟いた。すると、私の心に俄かに仄暗い愉悦に似た感情が浮かぶのを感じた。ああ、ともすれば、妖怪とは本能的に人間を下に見る心があるのかもしれない。私は思った。
 それから私たちの会話は、その心に沿った内容へと推移していった。無論、影狼も私も本気で人間に対する害意を持つわけもなかった。所詮、それは所謂〝愚痴〟だった。
 まず影狼は、幻想郷の岡っ引き的存在である〝博麗の巫女〟をこき下ろした。夏が始まってから薄暗い廃屋同然の住居でストレッチしかしていなかった私は当然、博麗の巫女を知る由もない筈なのだが、どうやらそれも体が覚えていたようだ。
 博麗の巫女の溢れ出んばかりの強さは、私や影狼といった木っ端の三下妖怪風情には震えが出るほど恐ろしいものだった。
 せめて私たちに異変の起こせる力があれば、私たちはこんなところで博麗の巫女が取り締まる現体制にクダを巻くこともせずに、博麗の巫女に勇敢に勝負を挑んだことだろう。しかし私たちはどうしても、悲しい程に木っ端だった。そうして博麗の巫女についてクダを巻いていると、その自覚は急加速して、私たちの愚痴に熱を加えるのだった。

「だいたいさー、なんで人間よりも何倍強い私たちがさ、金なぞ支払わきゃならんのかなー。人里で働いて日当貰ってまでさー」
「わかるわー。ばんきちゃんなんて、人間たちにおせきちゃん、なんて馴れ馴れしい呼ばれ方されてるのよね。なーにがおせきちゃんですか、喰らうぞこらって感じよねー」
「まあ、ばんきちゃんもおせきちゃんも、呼び方としては大差ないと思うんだけどな。呼び方はともかくとしてさ、馴れ馴れしいんだよ、人間風情がさー。博麗さえいなければなー。そうしたら今頃、酒なぞ飲まなくても人喰って満足できてるだろうに」
「でも、ばんきちゃん。私ね、人間の作る麦酒だいすき。もはやこれがないと生きていけないわ。ある種私はもう既に、人間に支配されちゃってるのよ。こわいわー人間こわいわー」
「たしかに。人間の作る酒はやめられないな、私も。あーあ。妖怪に管理されてるはずの人間たちに管理されちゃってるんだなー、私たちって。あの紅白もなまら強いらしいし、なんか、情けなくなってきたなー自分が。これはもう、やっぱりあれだな」
「うんうん。呑むしかないよ、ばんきちゃん」
 そのように、私たちの夜は更けていくのだった。

 店を出る頃、私たちはふらふらだった。酒席を彩った妖怪の尊厳なんてどこへやら、千鳥足で満ちた月が照らす路傍の上をダンスした。

 程なくして、私は芒の生い茂る獣道を歩いていた。というのも、ふらふらになった影狼をその自宅まで送り届ける為である。
 その頃には、店を出て、いいからいいから、送っていくよ、なんて言っていた〝酔っ払い〟はやおら鳴りを潜め始めていて、私は妙に息遣いの荒い影狼に少量の不安を抱き始めていた。
「おい影狼、大丈夫か?」
「う、うん。大丈夫……」
 影狼はしおらしく答える。具合が悪いのか、と問いかけるも、どうやらそうではないという。
 様子の妙な影狼を心配しながら、しばし芒の中を歩いていると、私の腕に掴まりながら歩いていた影狼が不意にその歩みを止めた。
 真暗な夜を、大きな月が煌々と照らす。光は強く、視界は俄かに青白い。吹き抜ける風が、芒をざわざわと揺らした。
 ひんやりとした夏の静寂の中、影狼がおもむろに口を開いた。
「……ばんきちゃんはさ」
 影狼のどこか弱々しい口調に、私は辺りが一層静まり返った気がして、口を開くことができなかった。
「……ばんきちゃんは、隠し事って、ある?」
 髪で隠れて、影狼の表情が読めない。
「ど、どうしたんだよ、急に」
 私の腕を握る影狼の手に、ぎゅっ、と、力が込められるのがわかった。
「……私はね、あるの。隠し事」
 不意に、影狼が私の胸に飛び込んできた。
「お、おい」
「ばんきちゃんが、家まで送ってくれる、って言ったとき、不安だったの。大丈夫かな、……我慢できるかな、って。でもそのときは酔ってたから、大丈夫だろう、なんて思っちゃって……」
 影狼が、私の服をぎゅう、と掴む。それはまるで、何かに追いすがるような弱々しさだった。
「お、おいったら」
「私、ずっと我慢してたんだけど、もう無理なの。ごめんね、ごめんね」
 そう言って、今泉影狼は私にその全体重を預けてきた。別段重たいということはなかったが、私は驚いて、そのまま地面へ倒されてしまった。
 気がつけば、影狼は私に馬乗りになり、私の頭の両脇を、逃げ場を塞ぐように掌を地面につけている。
 青白い月明かりが、上気した影狼の顔を照らす。私はそんな影狼の顔を見て、息がつまるのを感じた。
「か、影狼、やめろったら」
「ごめんねばんきちゃん、ごめん、ごめん。……私、もう――」
 ああ!なにかされてしまう!私がそう思った次の瞬間――。

 アヲーーーン。
 アヲーーーーーーーン。

 満月の芒の原に、どこか聞こし召した様子の遠吠えが響いたのだった。
 後日、影狼に今日の事を聞くと「姫にはどうか言わないで」と、影狼はその両手を合わせて、私に必死で懇願するのだった。

 私の夏の幕開けは、まあ、そんな感じだった。


 それからの私はというと、昼は食堂で働き、夕暮れ、仕事が終われば影狼と呑む、そんな日々を送っていた。
 〝いつもの居酒屋〟は、妖怪だということがバレてを出入り禁止になったので、私と影狼は新たな行きつけを見つけるべく、夜毎店をハシゴしては呑んだくれていた。
 影狼との酒席での話題は専ら〝人間について〟、或いは〝妖怪の尊厳〟、それらに付随する話だった。それから、比較的よく話題に上がったのは〝姫〟の話だった。〝姫〟の話をする影狼の表情はいつもどこか〝うっとり〟としたものだった。私はそんな影狼の語る〝姫〟の話を聞いて、件の姫に一度会ってみたいと考えるようになった。
 しかし、その機会はなかなか得られずにいた。なんでも姫――わかさぎ姫は〝水棲〟の妖怪らしいのだ。その特性と一目見ただけで妖怪と判別のつく容姿から、人里に出るのは難しいようで、会うにはこちらから出向く他ないという。
 私は影狼に何度か会いに行く提案をしてみたが、影狼はその度にうやうやしく私の提案をはぐらかすのみだった。
 そんなわけで、影狼の案内なしではわかさぎ姫の住処に辿り着けない私は、影狼のうっとりとして語る〝姫〟には会えないままでいた。
 そんなことよりも、夏の日差しの照りつける日々の中、私にとっての〝切実な問題〟は働き先の食堂に在った。
 それは、また一段と暑い日のことだった。

 私は日中目が覚めて、いつも通りに食堂へ向かった。道中、逃げて行く水溜まりを追いかけていると人里へはすぐに着いた。
 食堂の前に来ると、いつもならそこで体へと主導権を渡すのだが、その日、私はそれをしなかった。おい、今日は私にやらせろよ、と、それは一種の悪戯めいた思いつきだった。
 結論、その日の昼の業務は散々だった。雪崩込む注文の山中にて、皿を二枚割った頃、私は体へと主導権を明け渡したのだが。体は、やると決めたらやり通してみろ、などと言わんばかりに、主導権を受け取ることはなかった。
 婆さんはそんな私をみて、料理を作る手を止めることなく、全く、全く、とぼやき続けた。それから更に二枚ほど皿を割ると、ついには少女までもが、なんでかなぁ、どうしてかなぁ、と、呟き始めた。それはちょっとした地獄のような時間だった。そんな地獄の中、軽率な思いつきで業務に当たってしまったことを、私は猛烈に後悔したのだった。
 しかし、昼間の客をなんとか捌ききり、テーブルの上も片付いた頃、私はそんな身を焦がすような後悔も忘れ、夕暮れあたりにもう一度起こる〝注文の土砂崩れ〟までの時間を持て余していた。素直にいえば、暇だった。暇で、ぼんやりしていたのである。
 それは少女も同じだったようで、その辺りの時間は婆さんが店の奥へと引っ込むのをいいことに、少女は私に楽しげに話しかけてくる。
 お皿、あんまり気にしちゃダメだよ、なんてのを口開けに、少女の話は続いた。
 これも、私にとって問題の一部だった。少女の快然たる表情や話口調は、連日の影狼との酒席での会話を私に想起させずにはいなかったのだ。
 話もほどほどに、それにしても、暇だねえ、暑いねえ、などの言葉が頻出し始める。私はそんな少女に対し、なんとはない罪悪感を抱きながら、ああ、暑いなあ、なんて相槌を打っていた。
 空が俄かに朱を帯びる頃、それは起こった。
 やることが見当たらず、そんな時間が昼からずっと続いていた私は、いよいよもってぼんやりとしていた。
 そんな普段にも増して〝ぼんやり〟な私の視界に、例の小さなミミズが現れたのである。気付けば私は〝ぼんやり〟と、視界の端のミミズを追いかけていた。体も〝ぼんやり〟していたのか、それを止めることはしなかった。
 逃げるミミズを追いかけて、首が、くるん、くるん、くるん、と三回転したころ、私はハッとした。私の眼前には、目を丸くした少女の顔があったのだ。
 少女は途端に腕を組み、なにやらぶつぶつと高速で呟き始めた。私はそれが、少女が何か自身を納得させる際の癖だということを承知していた。
 私は焦って、違うんだ、これはその、特技であって……などと頓珍漢な弁明を試みるも、少女の〝呟き〟が治まる気配はなかった。
 少女は時折首を傾げては、いやでもなぁ……、たしかに首が……、と呟き続けた。それから少しの間、少女のそれは続いたが、不意に少女は、コク、コクコク、と二、三頷き、その顔を上げるのだった。
 おせきちゃん、ちょっと。と、少女は私の手を引いて、店の裏口から、其処の路地まで私を導いた。
 路地の中、幅の狭い排水路の木蓋の上で、少女は私の方へと向き直しては、出し抜けに私に尋ねた。
「おせきちゃん、私の名前、覚えてる?」
 私は少女の問いに対して、沈黙する他出来なかった。私は少女の名前を知らない。夏が始まってから、聞く機会が無かったのだ。無論、気にならないわけでは無かったが、名前を忘れたので教えて下さい、などと、言えるはずもなかった。
 瞬間、私は、私が何か失敗する毎に励ましてくれたり、婆さんの永遠に続くような叱責から私をかばってくれた少女の姿を思い出し、少女に対して、とても申し訳ない気分になった。無論、連日の影狼との酒席での会話――人間いじりも、少女に対する罪悪感をより辛辣なものへと変えた。
 その、ごめんよ。と口を開こうとする私を、少女の声が遮った。
「やっぱりね。おせきちゃん、また、なんだ」
 また。また、〝また〟。
 その一言は、私を酷く当惑させた。
「まあ、今日はやけにお皿割るもんだから、怪しいなあとは思ってたけど」
 私は、少女の言わんとするところを今一つ解さないままでいた。
「おせきちゃん。私の前で首回すの、今回が初めてじゃないんだよ。覚えてないだろうけど」
「おせきちゃん、お皿割ったり、ぼーっとすることが多くなると、いつもそのうち首を回すの」
「そして、首を回すたびに、私の名前も忘れてる。あーあ、ショックだな、私」
 少女は、態とらしく私を責めるような口調で言ってのけた。
 その時、私はどんな表情をしていただろう。もしかすると、鳩が豆鉄砲喰らって忽ち禿げて、その代わりに筋骨隆々になったような顔をしていたかもしないし、街行く人が突然往来の筋骨隆々の鳩を捕らえて噛り付いたのを目撃した雀のような顔をしていたかもしれない。わからないが、一つ言えるのは、それほど間抜けな顔をしていだであろうということだけだ。
「じゃ、じゃあ、知ってたのか。私がその、人じゃないって」
「まあね」
 少女は、えへへ、と笑って、 言葉を続けた。
「最初に分かった時なんて、今日よりもっとショッキングなもの、見せられたんだから」
 少女の語るショッキングなもの。それは、在りし日の〝私〟が屈んだ際、首が、ぽろっ、と落ちて、転がる首を、首から上のない私の体が慌てて追いかけた、と、そういう話だった。
「でも、あの時のおせきちゃんの素っ頓狂な顔ときたら……」
 少女はまた、えへへ、と笑った。私の口からは、思わず乾いた笑いが二、三溢れた。
「じゃあ、婆さんは。婆さんも知ってるのか?」
「お婆ちゃん?気付いてないんじゃないかな。まあ、お婆ちゃんもあれで勘がいいから、気付いてるかもしれないけど」
「そ、そうか……」
 少女は、まあとにかく、と切り出して、
「そろそろ戻らなきゃ。もし混んでたら、お婆ちゃんカンカンだよ」
 あんまり気にしちゃダメだよ、少女はそう言い残して、足早に店へと戻って行った。
 気にしないなんてそんなこと、出来るわけないよなぁ。その時の私の心中に浮かんだのは、そんな言葉だった。
 私は一つ溜息を吐いて、視線を下に向けた。そこには大雑把に組み上げられた排水パイプから流れ出た水が、生温くなって溜まっていた。
 そんな水溜りを一瞥して、私は店に戻った。
 店に戻るなり、私を待ち構えていた婆さんは私に小言を浴びせた。
「サボりに日当与えてたら、首が回らなくなっちまうよ。全く」
 先に戻っていた少女に助けを求めるように視線を向けると、少女は私に向けて申し訳なさそうに、はたまた気まずそうに両手を合わせるのだった。
 その後私は、結局有耶無耶になってしまった少女の名前について尋ねてみたが、少女曰く、悔しいから教えてあげない、自分で思い出してよね。とのことだった。
 
 それからその夜、私はやはり影狼と酒を酌み交わしていた。影狼の話はいつも通り〝妖怪の尊厳〟に終始したが、私は日中の少女とのやり取りを思い出し、軽率にも、
「人間もそれほど悪くないかもな」
 なんて台詞を吐いてしまったのだった。それはやはり軽率だった。影狼はそんな台詞を吐く私を訝しげに見つめた。
 そうして暫くすると、影狼はわかった!と、出し抜けに切り出した。
「ばんきちゃん、食堂でなにかあったんでしょ?あーあ、妖怪ともあろうものが人間に絆されるなんて、情けないわー」
 影狼はそのように、私を白々しく嘲るのだった。
 私はそんな影狼に少し腹が立って、二、三反論を試みた。
 しかし私がどれだけ言葉を尽くせど、影狼はニヤニヤと笑いながら、ふうん?と相槌を打つのみだった。

 明くる日、幻想郷を夕立が襲った。それは、天蓋に穴が開いてしまったかのような土砂降りだった。
 その日、私は一応、と思い、狂ったような豪雨の中食堂へと出向いた。しかし、食堂に着くなり〝こんな日は休みに決まってるだろう〟と、婆さんに叱られてしまった。婆さんのみならず、少女までもが私を叱った。
 というより、少女の方が婆さんよりよっぽど怒っていた。
「こんな日に傘も差さないで、何考えてるのさ、おせきちゃんたら!ただでさえすぐに体調崩すくせに」
 少女の叱責は私の身を案じての優しいものだった。しかし私はそんな少女の叱責を受け、自分が情けなくならずにはいられなかった。
 そうして、今現在。
 家に辿り着いた私は、布団の中に潜り、私の身に起きた〝切実な問題〟を思い返していたわけである。
 布団の中、体は相変わらず私を抱きしめている。私が眠るとき、体はいつも私の体を抱きしめる。
 いつもなら、なんとなく柔らかくて心地が良い、なんてことを考えなくもないのだが、今の私にとって、私を抱きしめる体の柔らかさは、私を更に情けない気持ちに追い込むだけのものに思えた。
 しかし、体に抱きしめられながら、窓を打つ不規則な雨の音を聞いているうちに、次第に眠気が私を襲った。
 私は自身の情けなさや、食堂での問題に諦めをつけるように瞼を閉じた。
 目を瞑ると、私の意識はやがて、私を包む柔らかさへと解けていくのだった。

 夜中、目を覚ますと、雨は未だ窓を不規則に叩いていた。
 布団の中、私は寝惚けてはいたが、それでも何か妙な感覚を覚えた。それというのも、いつもなら私を抱きしめている筈の体の気配を、布団の中に感じなかったのである。
 私はこれを不思議に思い、布団の中から部屋を見渡し、体の姿を探した。
 部屋には一つ、古びた机が在ったのだが、体はその机に座り、机上でなにかしら作業をしているようだった。
 それを見た私は薄らと、部屋に用途の分からないボロの工具が何点か散らばっていたことを思い出した。
 ああ、ともすれば、この雨にこの廃れた家屋だ。体は何か修繕の作業をしているに違いない。私は寝惚けた頭でそんなことを想像したが、寝惚けていたことや視点が低いこともあり、体が実際なにをしているかを見定めることは叶わなかった。
 しばらく見つめていると、体は視線に気付いたようで、やおら立ち上がり布団に潜り込んでは、私を抱き寄せるのだった。

 朝、私は湿り気を帯びた夏の息差にやられて目を覚ました。体も同時に目を覚ましたようで、その上体をゆっくりと持ち上げる。
 汗だくの体はやおら私を気怠そうに持ち上げて、その首にすわらせた。そうして私が体の主導権を握ると、私に気怠い体の感覚が繋がった。
 どうやら外では蝉が鳴いているらしかった。恐らく昨日の雨で揺り起こされたに違いない。
 ああ、そういえば、雨の音が聞こえない。今日の天気はどんな塩梅だろう。私は外の様子を確かめてみることにした。
 木の板が乱雑に打ち付けられた窓を一瞥して、私は玄関へと向かった。
 戸を開け、空を見やると、空は昨日の雨が嘘のように晴れ渡っていた。ギラギラとした陽光が、私の瞳を嫌という程に突き刺す。
 土の均された路を見渡すと、路は泥濘んでいたが、そこかしこに出来た水溜りが、晴れやかな空を仰いでいた。
 けたたましい蝉の鳴き声の中、私は無表情に夏を感じたのだった。
 その後、私は例の食堂に居た。食堂へ入ると、私はやはり少女の表情を窺わずにはいられなかった。しかし少女は私に含みのある笑みを一度浮かべてからは、まさにいつも通りの態度を一貫するのみだった。そんな少女のいつも通りな態度に、私はどこか頼もしさを感じて、思わず胸をなでおろした。同時に、やはり情けなさも込み上げたのだが、それは昨夜のそれに比べると〝ちょっとしたもの〟だった。
 それから一度目の〝土砂降り〟のような注文をこなした後、私と少女は相も変わらず暇を持て余していた。一つ変わったことといえば、私と少女の、暇だねぇ、の応酬に、さんざめく蝉の鳴き声が加わったことくらいか。
 そんな折、不意に食堂の戸が揺れた。基本的に、食堂の客は決まった時間に纏めてやって来るもので、それ以外の時間には殆ど客は訪れない。私と少女は少し驚いて、思わず目を見合わせて首を傾げた。
「客かな」
「さあ」
 立て付けの悪い戸は尚もガタガタと揺れている。
「客だったら、面倒だな」
「そうだね」
 婆さんが奥に引っ込んでいるのをいい事に、私と少女はそんなことを言い合せた。暇だ、暇だ、とはいいつつも、客に来られると面倒がるのは、私も少女も同じだった。
 その内に、戸はガラガラと不健康そうな音を立てて開かれた。
「いらっしゃい」
 戸が開くなり少女が言う。私はいつも出遅れてしまうのだ。少女に続けて、私もその句を述べようとした、その時だった。
「開いてるかな?」
 そう言って、戸の前に立つ人物を見て、私は驚愕した。
「見ての通りがらがらです。どうぞ、お好きな席へ」
「すまないね、ありがとう」
 妙に気障ったらしい口調で席へと向かうその人物は、今泉影狼に他ならなかったのである。
「ええと、メニューは」
「品書きでしたら、あちらに」
 影狼はどういうわけか、その身に妙な変装を施していた。
 変装、とはいっても、身に付けた衣服はいつもの影狼然としたもので、なんら違和感はない。頭に被った大きめの鳥打帽――ああ、影狼曰く〝きゃすけっと〟だったか。それもまあ、わかる。
 しかしある一点が、私に妙と言わしめた。
 影狼はその顔上半分を、なにやら〝どでかい〟サングラスで覆っていたのである。
「うーん。なにか、肉が食べたいな」
「お肉でしたら、生姜焼き定食などがございますが」
 どでかい、は私の言い過ぎかもしれなかった。しかし、なにがどうして、そのサングラスはやたらに〝ハードボイルド〟だった。
「じゃあカレーで」
「カレーライスがお一つですね」
 そんな〝ハードボイルドなサングラス〟は、私に〝どでかい〟印象を与えるには十分すぎるほど、妙だった。しかしよく見ると、なかなかどうして、似合っているように見えてくるのが影狼らしさか。
 ああ、そんなことより、影狼は一体この食堂へなにをしに来たというのだろう。
 夏が始まって以来初めての出来事に、私はまた当惑した。
「あ。大盛りで頼むよ」
「はい、カレーライス大盛りですね」
 ……。
「カレーライス、お待ちどうさまです」
「ありがとう。いただきます」
 ……。
 黙々とカレーライスを食べ進める影狼を、私は強張った面持ちで見つめていた。流石の少女もあのサングラスには当惑した様子で、同じようにそれを見つめていた。
 がらがらの食堂は、ハードボイルドなサングラスを中心に、妙な空気を帯び始めている。間の抜けた蝉の鳴き声が、余計に〝妙な空気〟の輪郭を際立たせた。
「うん。中々美味しいよ」
「あ、ありがとうございます」
 サングラスといい妙に気障ったらしい話口調といい、影狼はどういうつもりなのか。婆さんがカレーライスを作ってる最中、私は先日の影狼とのやり取りを思い出し、影狼は概ね私を絆した人間の〝偵察〟に来たのであろうことを察したが、私にはまた一つ疑問とは違う懸念が生まれたのだった。
「テーブルの調味料は好きに使っていいのかい?」
「ど、どうぞ!」
 少女が多少緊張しながら答える。
 私の懸念とは、影狼が妖怪であることを少女と婆さんに露呈してしまうことだった。それでもし、影狼が私の友人であることを口を滑らせたりすれば、私が妖怪であることが、婆さんにまでバレてしまうではないか。もしそうなれば、その時私は首斬りにされてしまうかもしれない。
 いや、それよりも第一に。
「じゃあ、醤油を使わせてもらうよ」
「どうぞ、ご、ご自由に」
 友達だと、思われたくない。
 こんな妙なサングラスをかけて里を歩き回り、カレーライスに醤油をかけるようなやつが私の友人だとバレたら……ああ!
 それから影狼がカレーライスを食べ終わるまで、私は更に表情を強張らせて影狼を見張るかのように見つめていた。
 少女もまた、どこか緊張した様子で、カレーライスをパクつく影狼を見つめていた。
 婆さんも途中までそんな影狼を眺めていたが、暫くすると「なんだいあのサングラスは。スタローンかい」などと奇怪なことを呟きながら店の奥へと引っ込んでいった。

 程なくして、
「ごちそうさま、美味しかったよ」
 影狼はそう言って席を立ち、戸へと手をかけた。戸は意外にもすんなりと開き、それが意外だったのか、影狼は少しよろけていた。
 ああよかった、何事もなくて。私が一息つくべくと息を深く吸い込むと、出し抜けに少女が口を開いた。
「あ、あの!」
「ん?」
 少女は影狼に駆け寄り、その手に持ったトレイでうやうやしく顔半分を隠しつつ、影狼に尋ねた。
「あ、あの、お名前をお聞きしてもよろしいでしょうか」
 ん、なんだろう、この感じは。
「私の名前か?そうだな、今泉影狼、とでも名乗っておこうか」
 本名じゃないか、と口を開きそうになったが、すんでのところで堪えた。
「ありがとうございます!あの、それで、ま、また来てくれますか……?」
「また、か。いつになるかは分からないけど、きっと来るよ。そうだな。品書きに、君の名前が追加された頃に、きっとまた」
 あまりにもな台詞に、少女は押し黙ってしまった。そんな少女を他所に、影狼は、それじゃあ、と去っていった。
 暫くの沈黙の後、私はハッとして少女に駆け寄った。影狼について何か弁解なきゃいけないような、こき下ろしてやりたいような気持ちになった為である。
 しかし私の口から出たのは、当たり障りのない言葉だった。
「その、なんか変な客だったな」
 少女は尚もトレイを顔下半分に抱き抱えて押し黙っていた。
「な、なあ、大丈夫か?いやそれにしても、変なやつだったなあ」
「……カ…ロウさん」
「え?」
「カゲロウさん。かっこいい……」
「え?」
 そうして、蝉の声だけが、私の聴覚を揺らし続けた。

 その日の夜、私は影狼に、どういうつもりだ、あのサングラスはなんだ、と問い詰めた。
 影狼は、
「気になっちゃったんだもん」
 と、悪びれもせずに答えるのみだった。
 また、あの気障ったらしい話口調について私は、それを尋ねるのがとても恐ろしいことに感じて、終ぞ追求できぬままでいた。
 その夜にも蝉はやはり、けたたましく鳴いていた。


 そんな出来事があってからそう遠くない、ある日のことだった。

 どんどんどん、どんどんどん。
 と、何者かが戸を叩く音に私は目を覚ました。いつも暗い部屋からでは、現在が何時頃なのか判断がつかない。しかし、目が覚めてなお、睡魔が私を侵している。それは不十分な私の睡眠を指し示すには十分だった。
 判然としないまま戸口へ向かう私の耳に聞き慣れた声が響いた。
「ばんきちゃん?いないのー?」
 それはかの今泉影狼の声だった。溢れ出る能天気さの世話をしない影狼の朗らかな問い掛けに、私は慨嘆せざるを得なかった。影狼の常に一定した一種の間の抜けた感のする声は、起き抜けに聞くには辛いものがあったのだ。
 影狼は尚も戸を叩いては、ばんきちゃん、ばんきちゃん、と眠っているかもしれない私に呼びかけている。
「はいはい、今行きますよ」
 と、半ば諦観をもって戸を開けると、これまた妙な格好をした影狼の姿が私の視界に飛び込んできた。しかし、私が何より驚いたのは空のまだ黒いところだった。
「うわ、まだ真っ暗じゃないか。影狼、お前、今何時だと思ってんだよ」
「何時って、三時ぐらいでしょう?」
 私の言葉に理不尽な疑問符を付けて返答する影狼に、私は慨然と溜息を吐いた。
「お前、いつもこんな時間まで起きてるのか」
「そんなわけないじゃない!今日は早起きしたのよ」
 影狼の早起きの理由、それは影狼の奇妙な格好を見れば一目瞭然だった。影狼の纏う衣服はやはりいつも通りだったが、普段と違うのはその頭に麦わら帽を被っていること、その手に網を持ってること、その肩に何やらカゴをかけていること。そして何より、もう片手には恐らく私の分と思しきそれら一式が、器用に握り込まれていたのだ。ああ、いやだ!行きたくない!
「ばんきちゃん、虫取りに行きましょうよ。最近香霖堂がカブトやクワガタを高く買い取ってくれるらしいわ。はい、これ。ばんきちゃんの分ね」
 そう言って、影狼は私に虫取り網とカゴと麦わら帽を押し付けた。
 空が僅かに藍色めいた頃、私と影狼は妖怪の山の中腹にて、カブトやクワガタの姿を数多の木の幹に探し求めていた。
 夜露の降りた草木は強く新緑の香りを帯びていて、息を吸うとむせ返るほどに私の肺を満たす。
 影狼が熱心に虫を探している間、私はそれをせずに、眠気で薄ら靄がかった意識の中、一人考え事をしていた。
 というのも、私は影狼が私の住居の所在を知っていたことに驚いていたのである。
 夏が始まってから初めて影狼と会った時、影狼は、その時節私が全然捕まらず、久々に会えた、と云っていた。なので、私はてっきり影狼は私の住居の所在を知らないのだとばかり思っていたのだ。しかし影狼は今回、あっさりと遠慮もせずに私の家に訪れた。影狼のいう〝私が全然捕まらなかった〟時期に、影狼がそれをしなかったとは考えられない。
 そうすると、その時期の私――〝前のやつ〟はどこで何をしていたのだろう。
「なあ影狼。お前、私の家に押し掛けたのは今日が初めてか?」
 木の幹を睨みつけながら私の前方を歩く影狼は、訝しげに答えた。
「押し掛けたって、人聞きが悪いわね。夏らしい儲け話を持って来てあげたんでしょー?感謝して欲しいくらいだわ。それに、なによその素っ頓狂な質問は、そんなわけないじゃない」
「はは、それもそうだな」
 言いながら、私はまた或ることを思い出した。
 私と影狼は道中河辺に沿って妖怪の山に向かったのだが、その河辺で、影狼が頻りに石を拾ってはカゴに詰めていたのだ。そのとき私は自身の眠たさと立ち向かっていて、それを気にするどころではなかったのだが、思えば、影狼は何のために石なぞ拾い集めていたのだろう。
 私は草木を掻き分けて行く前方の影狼に、なんなはなしに尋ねてみた。
 影狼は、
「ああ、姫にあげようと思って」
 と答えた。
 ああ、そういえば、以前影狼から聞いたような気がする。姫、わかさぎ姫はどうやら綺麗な石が好きで、それを収集しているとかなんとか。
 この後行くのか?と、私が何とは無しに尋ねると、影狼は、
「こんな格好で、行けるわけないじゃない」
 と、それを否定するのだった。
 私はそれからも色々なことをとりとめもなく頭に浮かべた。虫取りが嫌だったというわけではない。もちろん、家を出る頃は嫌で仕方なかったのだが、妖怪の山の麓に着いた頃には、私はそんな気持ちも忘れて、やおら瞳を輝かせていた。
 しかし、そこから山の中腹まで登ると聞いたとき、私の瞳の輝きは僅かに、しかし確実に濁った。中腹に辿り着いても目的の虫が中々見つからない状況は、私を退屈させ、ぼんやりとした思考の世界へ誘うには十分だったのだ。
 それから暫くすると、影狼が出し抜けに、きゃー!と声を上げた。
「ど、どうしたんだよ急に。びっくりしたな」
「みて、みてばんきちゃん!いるわよ、カブト、クワガタ、わんさかいるわ!」
「ほんとか!」
 影狼の指差す大きな樹木には、確かにカブトやクワガタが〝わんさか〟在った。私は、
「穴場ね」
 とはしゃぐ影狼に引っ張られるように、私自身の心がはしゃぎ出すのを感じた。
 しかし一方で、私はそんな流されやすい自分の心を、少し情けなく感じるのだった。

 正午。山をおりた私達は人里の茶店でぐったりしていた。
「ああダメ。もう一歩も歩けないわ、わたし」
「いやほんと、疲れたな」
 里に入る際、もしかすると影狼が例のサングラスを懐から取り出すのではないかと警戒していた私は、余分な疲れを感じながらも影狼に相槌を打った。
「結局一匹も捕まえられなかったし。はあ、悔し」
「ほんと、一匹も捕まえられなかったな」
 影狼のいうとおり、私達のカゴに虫の存在は無かった。影狼のカゴには少量の石が在ったが、私のは空だ。
「奴ら、意外と素早いのね。もっと簡単だと思ってたんだけど」
「な。難しかったな」
 里には蝉の声が響いていた。以前よりその勢いは衰えたように思えるが、それでも、私には蝉の声が虫達からの嘲りのように感じて、嫌に耳につくのだった。
「はあ、なにがいけなかったのかしら」
「なにがいけなかったんだろうなぁ」
 原因は、私と影狼の両名が虫に触れられないことにあるように感じた。しかし、私はそれについて言及するのも、なんだか馬鹿らしく思えて仕方がなかったので黙っていた。何より、夜分中途半端に叩き起こされた睡魔の虫が、私の頭の中に巣を張っていたのだ。
「はあ、眠たいわ。慣れない早起きしたせいね」
「ああ、私も眠たいよ」
 お前のせいで、という語句が喉元まで差し掛かったのを感じたが、どうやらそれも馬鹿らしさの検閲を前にして、すごすごと引き返していったらしい。
「おじさん、お勘定」
「はいよ」
 影狼はもはやただの甘い汁と化した削り氷を飲み干して、痩けた財布から代金を支払った。
「でも、私、諦めきれないわ」
「おい影狼、そんなところに入っていくなよ」
 店を出るなり、影狼は店の路地へと入っていった。狭い排水路の上にはやはり木蓋が在った。どこか頼りない足取りで路地へと入っていく影狼を見て、私は仕方なく追従することにした。
「意外とこういう所にいたりするのよ、きっと」
「いたとしても、触れないじゃないか、私たち」
 路地の中程に至ると、影狼は立ち止まり、キョロキョロと店の外壁を見渡している。
「はあ、やっぱりいないわよね。あーあ、今日は諦めて、お開きにしましょうか」
「ああ、とっとと帰って眠るとしようじゃないか」
「そうね」
 去り際、私もなんとはなしに、影狼のするように路地を見渡してみた。
 木蓋の上には蝉の死骸やそれを運ぶ蟻の姿が見られたが、外壁にカブトやクワガタらしきものは見当たらなかった。
 そうして、私は帰路を辿った。
 しかしどうしてか、道中、私の眠たい頭には、排水路の木蓋の上を蟻に運ばれていく蝉の姿が反復して映し出された。それはまるで、酒場などで見た切れかけの電球のように、いつまでも焦ったく、点滅を繰り返すのだった。

 蝉の鳴き声が殊更その勢いを落とした頃、日中、私は少女の勧めで縁日に来ていた。
 最近、食堂での業務になかなか身が入らない私を見かねた少女が、今日の縁日の存在を教えてくれたというわけである。
 しかし少女は私に、縁日に行って見てはどうだろう、と言ったのちにわ私がいまいち身が入らないのは夏バテが原因なのではないか、と私の体調を憂慮している様子だった。婆さんはそんな私と少女のやり取りを聞きつけて、少女と一緒になって、
「また体調崩されたんじゃ、困るよ、全く」
 なんてボヤいていた。
 そのやり取りの中で、少女は縁日に行かないのか、と尋ねてみると、意外にも意外な答えが返って来たので驚いた。
 少女は私の問いに何か不敵な笑みを浮かべて、
「ふふん。私はね、なんとカゲロウさんと縁日をまわることになったの」
 と言ってのけたのだった。加えて、だからおせきちゃんとは一緒にまわれないや、ごめんね、なんて同情までされてしまった。
 私はその日の夜に、これはどういうことか、と影狼を問い詰めた。なんでも、里で見つかってしつこく付きまとわれた、という話だった。普段〝妖怪〟という言葉そのものに尊厳めいた感情を抱いては人間をこき下ろしてばかりいる影狼が少女の猛攻撃にたじたじになっている様を想像すると、私はそんな影狼に〝らしさ〟を感じずにはいられなかった。
 ちなみに、その際例のサングラスはかけていたのか、と尋ねると、影狼は然として、かけていた、と答えた。
 そんなわけで、私は白昼の中、一人寂しく縁日をまわっているわけなのである。
 縁日は人で賑わっていたが、あの〝虫取り〟以来、どうにも体が重たい私は、いまひとつ縁日を楽しめないままでいた。
 もしかすると、少女と影狼も今の時分に縁日に来ているかもしれなかったが、私はそれを探すでもなく歩き続けた。射的、型抜き、輪投げ、くじ引きと、様々な出店が立ち並んでいたが、私の食指が動くことはなく。
 傍ら、河童が何やら子供向けの新製品の展示販売をしていたが、どうやら展示品が電池切れを起こしたらしく、子供達からブーイングを受けていた。それを横目に通り過ぎると、金魚掬いの出店が私の目を引いた。大きな水槽の中でたくさんの金魚が泳ぐ様は、俄かに私の心を動かした。
 綺麗だな。
 そんな言葉を浮かべた途端、私の頭に例の蝉の死骸が点滅した。
 夏が終わるまでにすくわれなかった金魚達は、夏が終わればどこへ行ってしまうのだろう。そんな考えが私の中で鎌首をもたげた。私は途端に陰鬱とした気持ちになり、踵を返して家路を辿るのだった。
 屋台の連なりを抜ける前、戯れにアクリルで宝石を模したおもちゃなどを救ってみたが、私の気分が晴れることはなかった。少女曰く、夏の終わりにもう一度縁日があるという話だが、それに私が赴くことはないだろう。
 その日、家に帰っていつものように買い置きの酒を呷り、夜には眠りに就いた。
 夜中に目を覚ますと、布団の中から〝体〟が消えていた。
 以前、夜中に私が目を覚ますと、いつもなら私を抱きしめて眠っている筈の体が布団の中におらず、部屋の古びた机でなにやら作業をしていたことがあった。それから、同じようなことが何度もあったので、私は今日もそうなのだろうと考えて、部屋の古びた机に目をやってみたが、どうやら今日はそうではないらしい。トイレにでも行っているのだろうと考え、家の中をそれとなく探してみたが、終ぞ体を見つけることは叶わなかった。
 しかし、私はこれを好機と捉えた。というのも、私は黴だらけの敷布団の下にいつも〝ノート〟のような物の感触を感じていたのだ。いつもは体が私を抱きしめている手前、それを公然と確かめることが出来なかった私だが、今ならば或いは。いや、これを確かめるのは今しかない。私はそう考えた。
 布団をどうにか無い腕でめくると、そこには確かにノートがあった。これはもしかすると〝体〟の日記だろうか。悪戯心に胸が踊るのを感じつつ、私はノートを開くのだった。
 しかし瞬間、私の心を戦慄に似た不安が襲った。
 開いたページには、大きく『ひみつ』と書かれているのみだったが、私はなにか、私がこのノートを見るのを予見されていたような気がしたのだ。
 それでも私は、ノートの続きが見たい気が起こり、ページを捲ってしまったのだった。
 そこで、先の大きな『ひみつ』の文字が、私の覗きを予見してしたためられたものでは無い、ということがわかった。何故ならば、ページをいくら捲れども、ノートにはただひたすらに、同じ文字が綴られていたからである。
 『ひみつ』、『ひミツ』、『ヒみツ』、と、表記のブレはあったが、ノートに書かれているのはどこまでも『ひみつ』の文字だけだった。
 私が言い知れぬ不安を感じながら『ひみつ』の文字を眺めていると、不意に上り口の木戸がガタガタと音を立てた。体が帰ってきたのだ。
 私は慌ててノートを元の位置に戻し、敷布団を被せて狸寝入りをした。
 幸い、体は何一つ勘付くこともなく、布団に潜り込んではいつものように私を抱きしめ、私の頭頂部を優しく叩いた。
 体の柔らかさは、私をどこか不安にさせた。腕の中で、私の頭には何故か、昼間、縁日で見た金魚が浮かんでいた。金魚達が大きな水槽の中で、その小さな体を揺らしながら泳いでいる。赤いのや、黒く斑の入ったもの、また真っ黒の金魚。
 それらが、私の頭の中を泳ぎ回っていた。そんなとき、不意に外で蝉が鳴いた。瞬間、泳ぎまわる金魚の映像の中、例の蝉の死骸が点滅を始めた。
 そんな想像の傍ら、私はぼんやりと、言葉を浮かべていた。

 ああ、夏が終われば、あの金魚達はどこへ行ってしまうのだろう。

 蟻は、蝉を何処に運んでいくのだろう。
 
 体は夜毎、私が眠っている間、何をしているというのだろう。
 
 私の前のやつ。
 私の次のやつ。

 ああ、私は、夏が終われば。

 不安に似た曖昧な柔らかさの中で、思考は金魚のように、いつまでも、すくわれず泳いでいた。
 私にとって二度目の、満月の夜だった。
 
 
 それから私は、あまり外へ出ずに、家に引きこもるようになった。薄暗い部屋の中は落ち着いた。一応、暫く暇を貰うために食堂へと出向いたが、夏の穏やかな日差しは今の私にとってなんとなく辛辣に感じられた。
 夜はまだよかった。夜になると、時々影狼が私の家を訪ねた。そうして影狼と飲み歩いていると胸のすく気分だった。
 家にいる間も、私は極力体に主導権を与えなかった。体が私の意思とは別に動くのを見るのが、なんとなく嫌だったからだ。
 それでも体は、私があんまり長い間引き籠もっていると、私の握る主導権に時たま指をかけた。私も、どうしても仕方ないときは体に主導権を明け渡した。すると、体は私の気をひくように、鏡の前でストレッチなどを始めるのだが、私はいつも、それを見るともなく見つめていた。
 そうした日々の中、私は漠然と例の金魚達を思い浮かべていた。金魚達が大きな水槽で美しく泳ぐ様に夢中になっていると、いつもそのうちに無数の蟻が私の脳内に蝉の死骸を運んできた。そんなとき、私はいつも少し泣いた。
 そんなある日、廃屋のような我が家の戸を、コン、コン、と丁重に叩く者があった。私はとっさに影狼の顔を浮かべたが、すぐにそれをかき消した。影狼の戸を叩く音は、どんどんどん、と云ったもので、今回のそれとは大きく異なっていたからだ。
 しかし、戸を開けると、そこに居たのはやはり今泉影狼だったのである。
 私は影狼がそんな丁重なノックをしたことに驚いたのだが、真に驚くべきは影狼のその姿だった。
 先ず、身に付けた衣服が普段のそれとは大きく違った。その時の影狼の衣服には、普段の衣服にはない、慎ましいながらも瀟洒な装飾が施されていたのだった。影狼のその顔にも少なからず何か工夫が凝らされていたように思うが、そういったものに頓着のない私は詳しいことまでは判らなかった。
 とにかく、影狼は普段よりずっと〝よそ行き〟だった。
 そんな影狼を見て何とは無しに予想はついていたが、影狼はやはり〝姫〟に会いに行こうと、そう言った。
 比較的涼しい空の下、私は影狼に連れられて、霧の湖へ向かうのだった。
 山の麓、霧の湖までの道は意外なほど小綺麗に均されていて、それは歩きやすいものだった。影狼曰く、妖怪の山の神様が、最近観光客向けに道を整備したという話だった。私が妙に感心しながら小綺麗に均された道を歩いていると、程なくして霧の湖、その岸まで辿り着いた。
 そこは大きく空が開かれていて、水面は陽光をキラキラさせながら、その大きな空を快く仰いでいた。その光景を見て、否応なしに湧き上がる感動に、私は少し変な気持ちになった。
 岸辺には独特な形の石が二つ置かれていた。影狼はその石を一つ拾い上げると、水面にそれを放った。石はぽちゃん、という音を立てて、水底へと沈んでいった。どうやら、それがわかさぎ姫への合図になっているらしい。
 ともすれば、岸辺にも一つ残された石は私の分なのだろう。私はなんとなく察していたが、それを放ることはしなかった。
 不意に水面が揺らいだかと思うと、程なくして、水面は勢いよく飛沫をあげた。
 私は飛沫に驚いて、一瞬の間目を瞑った。瞬間、
「影狼ちゃん!来てくれたんだ」
 嬉しそうに影狼の名を呼ぶ声が響いた。
 瞼を開くと、そこにはわかさぎ姫の姿が在った。
「それにばんきちゃんまで!ああ、今日はなんて良い日なのかしら」
 陽光をキラキラと反射させる美しく澄んだ水面の中、嬉しそうに語るわかさぎ姫の姿は、その美しい景色そのものに思えた。
 それから、私は私が驚くぐらいに言葉を紡いだ。
 夏が始まって、影狼に襲われかけたこと、視界の端のミミズを追って目を回したこと、影狼のかけるどてかいサングラスのこと。それらをわかさぎ姫に面白可笑しく聞かせると、わかさぎ姫はその口に手を当てて美しく、しかし可愛らしく笑うのだった。
 私はそんなわかさぎ姫の姿が妙に嬉しくて、夏に起きた出来事を殆ど語り尽くしてしまったほどだ。しかし私の話はやはり今泉影狼の素っ頓狂な行動が主な割合を占めた。すると影狼は負けじと、私の人間に絆されたことや、私が酒席でミミズを追いかけて目を回して仕舞いに吐いてしまったことなどを、わかさぎ姫に面白可笑しく語るのだった。それでも、わかさぎ姫はその口に手を当てて、しとやかに、はたまた快活に微笑むのだった。わかさぎ姫の手は透き通るような白さで、その指はすんなりと長く、一本一本の関節にはうやうやしく薄い紅が差していた。私は気付けば、わかさぎ姫の一挙手一投足に注視するようになっていた。
 中でも私の目を引いたのは、わかさぎ姫を〝水棲の妖怪〟足らしめるその鱗だった。私にはその鱗の一枚一枚がキラキラと輝いて見えた。しかし、その鱗達が水面からチラリと覗く度、私は妙に恥ずかしいような気持ちになった。それはなにか、気安く見てはいけないものな気がしたのだ。
 それから、私と影狼の話は途切れることを知らなかった。私たちが何かを話すたび、わかさぎ姫はただただ楽しそうに微笑んだ。
 わかさぎ姫のしとやかで、はたまた可愛らしい澄んだ笑顔は、私の視界の中、どこまでも美しく輝いて映った。
 恐らくその時、私はわかさぎ姫に恋をしたのだろう。
 そんな楽しい時間は、日が落ちるまで続いた。
 そうして、その日を境に、私は外に出ることの一切を放棄した。

 
 今は何時頃だろうか。影狼が上り口の木戸を叩いているから、朝かもしれないし夜かもしれない。
 あれから、私は一切の夏を放棄していた。
 時たま戸を叩きにやってくる影狼には申し訳ないが、私はもうそれに応じる気が起きない。私はただ、日差しの差し込むことのない暗い部屋で、ただぼんやりと時をやり過ごしていた。
「ばんきちゃーん?いないの?姫のところにいきましょうよー」
 戸を叩きながら、影狼はいつも通りのどこか間の抜けた声をあげる。
 行けば、きっと楽しかった。しかし私にとって、その楽しさは、夏の景色の美しさは――わかさぎ姫の美しさは、痛いほど、辛辣なものだった。私はもう、綺麗な夏を見たくない。
「今日は絶対、アヲーンってしないからー。……ばんきちゃん居ないのかな」
 行けば、きっと楽しかった。でも、行って、笑って。それが一体何になるのだろう。
 どうせ私は、夏が終われば。
 ……。
 戸の揺れがおさまり、影狼が去った頃、私は或ることに気付いた。
 ああ、ともすれば〝前のやつ〟もこうしていたに違いない。だから影狼は――。
 ああ、ばんきちゃん、仕事でしょ。人里で。もう、最近ばんきちゃん全然捕まらなくて、久々に会えたー、と思ったんだけど。
 ――あんなことを言っていたのだろう。
 私は、私が〝前のやつ〟と同じように時を過ごしていことに気がつき、少し救われたような気になった。しかし、それは一瞬のことだった。私の前のやつ――。
 ああ。お前の生きる季節は〝夏〟というらしい。影狼から聞いた話によると、夏は暑いだけで何も良いことがない、という話だ。ははは。まあ精々、楽しみにしておくことだな。
 ――あの生首は、確かに笑っていた。それを思い返すと、私にはそれが羨ましくて、妬ましくて、たまらなくなった。
 それから、私は〝体〟がどれだけ私の握る主導権に指をかけようと、その主導権を明け渡すことはしなかった。
 体が夜な夜な私の眠っている間に行うあの〝作業〟が、私にはどうも怪しく思えて、仕方がなかったのだ。根拠はないが、あの〝作業〟をさせなければ、私にとっての〝次のやつ〟が現れることはないのではないかと考えたのだ。しかし、私は眠る。眠っている最中、体が動くことを止める術は私にはない。なので、私の頑なさは、幼稚な八つ当たりと表現することもできるだろう。
 暗い部屋の中、私は一つ、自嘲めいた笑いを溢した。
 それから、私がまたぼんやりとしていると、不意に、視界の端にあの忌々しいミミズが現れた。私にとってこのミミズは、今まで〝私の首〟が何度もすげ替わってきたことを明示する忌々しい証に他ならなかった。
「……お前さえ」
 私はミミズを追いかけた。
 ミミズが逃げる。追いかける。
「お前さえいなければ、私は!」
 回る視界に、用途不明の工具が映る。
 ミミズが逃げる。追いかける。
「私はずっと、影狼と笑っていられた筈なのに!」
 回る視界に、古びた机が映る。
「あの子の名前だって、覚えていられた筈なのに!」
 ミミズが逃げる。追いかける。
 回る視界に、木の板が打ち付けられた窓が映る。
「お前さえいなければ、私はもっと、姫と話せた筈なのに!」
 ミミズが逃げる。追いかける。
 回る視界に、床に転がる数多の頭蓋骨が映る。
「お前さえ、お前さえいなければ!私は春だって、秋だって、冬だって、好きになれた筈なのに!」
 私は尚も、ミミズを追い回し続けた。
 そのうちに、視界はぐちゃぐちゃになって、ミミズは見えなくなっていた。

 蝉の声はもう、聞こえなかった。私はとても悲しくなって、まだ鳴いてる蝉は居ないかと、外へ飛び出した。
 家の外は、とても静かな夜だった。ぼんやりとした青白い光が、辺りを照らしている。
 空には大きな月が浮かんでいた。
 月は、残酷に、優しく、柔らかく、とても綺麗に、丸まっていた。
 それが、私にとっての最後の満月で。
 そんな月を見て、私はやっぱり少し泣いた。
 泣き疲れた頃、私は一つ、心を決めたのだった。
 その後、私は久しぶりに、体に抱かれて眠りについた。




 目がさめて外に出ると、空はまだ明るかったが、最早薄らと少し欠けた月が浮かんでいるのだから私は驚いた。
 私は焦って駆け出したが、不意に体が私を引き止めたような気がしたので、足を止めた。
 体はどこか遠慮がちに私の握る主導権に指をかけている。急いでるから、少しだけだぞ。と念を押して、私は体に主導権を明け渡した。
 すると、体はおもむろに家の脇の茂みへ近付いて、その茂みをまさぐり始めた。
「あ、あんまり汚さないでくれよ。今日は大事な日なんだから」
 体は尚も茂みをガサガサとさせていたが、程なくして何かを掴んだようにその動きを止めた。
 体が茂みから勢いよく腕を引くと、茂みからはなんと手押し車があらわれたのだった。
 体は茂みから手押し車を完全に引っ張り出したところで、私に主導権を返した。
 私は茂みからこんな大きな物が飛び出してきた時点でかなり驚いたのだが、その手押し車は底が深く、何より御誂え向きに背もたれが取り付けられていたのだ。そんな手押し車は私の目に、ちょっとした車椅子のように映った。
 まさか茂みからこんな御誂え向きな手押し車が出てくるなんて。
「これ、お前が作ったのか?」
 私は思わず体に尋ねた。
 体は反応を示さなかったが、なんとなく、これは体の用意したものに思えて仕方なかった。
 途端に、昨日までの体への仕打ちが頭によぎった。
「その、ごめんな。昨日まで八つ当たりみたいなことしてさ」
 やはり体はなんの反応も示さなかったが、それでも私は、どこか胸が暖かくなるのを感じた。しかしその暖かさは、まるで体が私に応えて生じたものに思えて。私はどこか面映ゆい気持ちを感じながら、薄く浮かぶ月に急かされるように駆け出した。
 おおい、わかさぎ姫。おおい。
 霧の湖、岸辺に私の声が響く。麓の山道を手押し車を押して走るのはかなりキツかった。私は呼吸を乱して、石を放るのも忘れてわかさぎ姫に呼びかけた。空はまだ辛うじてその明るさを保っていたが、今にも緞帳が下りてしまいそうだ。
 そこで私は漸く石を放る合図を思い出して、足元に二つ転がる独特な形の石、その一方を掴み湖に放った。ぽちゃん、という音がして、石は水底へ沈んでいく。
 程なくして、水面が揺れた。そして、水面が飛沫を上げる。
「影狼ちゃ……あれ?ばんきちゃんじゃない。もう、ばんきちゃんの石はこっちでしょ」
 ふふ。と笑いながら、わかさぎ姫は岸辺に置かれたも一つの石を指した。
「あはは、間違えちゃったか」
 わかさぎ姫が笑ったのが嬉しくて、私は少し照れながら答えた。
「でも、来てくれて嬉しい。今日はどうしたの?あ、ばんきちゃん走って来たんでしょう。そんなに息切らして。もう、ばんきちゃん体弱いんだから、そんなに急いで来ることないのに」
 わかさぎ姫はやっぱり、ふふ。と笑って。でも、嬉しいな、と付け加えた。
「姫、行きたいところはないか。どこでもいい、私が連れて行くよ」
「うそ!本当に?」
「本当だとも。ほら」
 私は後ろに置いた手押し車を指差した。手押し車には並々と水が注がれている。注がれている、とはいえ、私が先ほど湖に沈めて持ち上げただけなので、厳密には注がれたわけではない。ちなみに、かなりキツかった。私の息切れの要因の一つである。
「ああ、その手押し車!」
 懐かしい、なんて言いながら、わかさぎ姫は驚いたように口を両手で覆っていた。
「姫、どこに行きたい。ほんとに、どこでも連れていくよ」
 わかさぎ姫は暫し逡巡して、じゃあ、と徐に口を開いた。
「私、縁日に行きたい」


 里に着く頃、空はもう夕暮れていた。紺色が、今にも橙色を押し潰してしまいそうだった。里では縁日が開かれていた。夏の終わりの縁日だった。ひしめく人々は、薄暗い紺と橙の空の下、屋台の灯に照らされている。私が見た夕景の中で、一番綺麗な夕暮れだった。
 ひしめき合う人々が通りを流れていくその様子は、緩徐として強かに流れる川を思わせた。
 そんな人の川の中を、私はわかさぎ姫の乗った手押し車を押しながら歩いている。手押し車にはわかさぎ姫の〝水棲〟を隠すために、私の外套がかけてある。外套をかける際、私はなんとなく裏地の青を表面にして水棲を覆った。
 何やら向こうの方で演し物をやっているらしく、祭囃子の笛の音や、太鼓の音が響いてくる。人々の喧騒に絆されて、私の顔は何だか火照っていた。
 わかさぎ姫は、
「賑やかね。綺麗ね」
 なんて言いながら、綿菓子を啄むように食べていた。そんなわかさぎ姫の仕草を、私は少し息が詰まるのを感じながら見つめていた。あんまり見ているとわかさぎ姫に悟られてしまうのではないかとひやひやしたが、でも、バレたらバレたで、それもいいや、と考えていた。
 すると、わかさぎ姫が何かを見つけたように、あ。と声を上げた。
「ねぇ、ばんきちゃん」
 わかさぎ姫が、あれ、と指差したのは型抜きの屋台だった。
 屋台に入って、私とわかさぎ姫は型抜きをした。わかさぎ姫は器用に槌の型をくり抜いていたが、傍らで、私の瓢箪は物の見事にバラバラになっていた。ばんきちゃんは意外に不器用よね、と、わかさぎ姫は笑っていた。
 どれ、という気持ちで体に主導権を渡してやると、体は嬉々として店主に小銭を渡し、型抜きを始めた。しかし数秒しないうちに、体は独楽に亀裂を走らせるのだった。
「全然ダメだなぁ」
 なんて私が言うと、体は照れたように私の後頭部を掻いた。
 それから、いろんな屋台をまわりながら歩いた。わかさぎ姫の射的の至妙さには驚かされた。わかさぎ姫の放った弾は、悪ふざけに設置された〝香車〟すら見事に撃ち抜いた。私自身射的の腕はそこまで悪くなかったが、やはりわかさぎ姫程ではなかった。しかし、輪投げは二人してダメだった。
 それから、並ぶ看板の中に『河童の新製品 手を鳴らすと反応するおもちゃ』という何だかその宣伝文に不器用さを感じるものを見つけた。物は試しと、屋台の前まで行くと、そこには何やら憎らしい顔をした〝カッパのおもちゃ〟があった。屋台の前には子供達が集っていて、各々懸命に手を叩くので、それはまるで称揚の拍手のような具合になっていた。
 子供達の拍手に反応し続ける〝カッパのおもちゃ〟は、延々と、『ウッサインジャイ ウッサインジャイ』と繰り返していた。
「なんか、憎たらしいおもちゃだったな」
「えー。可愛かったじゃない」
 それから、河童の展示販売の屋台を後にして、私はまた人の川の中を歩いていた。わかさぎ姫の乗った〝ちょっとした車椅子〟押して歩いていると、人混みに揉まれることなく、比較的するすると通りを歩けた。
「まさか見るだけで金取られるとはな」
「ほんと。でも、安くてよかったわね」
 わかさぎ姫はその手にりんご飴を握りしめている。屋台にりんご飴を見つけた、ばんきちゃんに似てる、なんて言うものだから、私はまた息の詰まるのを感じてしまった。
「でも、おもちゃ自体は滅茶苦茶に高かったな」
「ふふ。あれじゃあきっと、誰も買ってくれないでしょうね」
 そうして、私たちは暫く喧騒の中を曖昧に笑いながら、とりとめもなく話し続けた。私はそんなとりとめもない話が、嬉しくて、楽しくて、たまらなかった。
 ふいに、わかさぎ姫が、ああ!と嬉しそうな声を上げた。どうやらその感嘆の矛先は金魚すくいの屋台に向いているようだった。泳ぐ金魚達を、綺麗、なんて言ってはしゃぐわかさぎ姫は、綺麗なのに可愛くて、私は、ずるいな、と思った。
「みて、あの赤い金魚。くるくる回って、可愛い」
「ああ、ほんとだ」
「赤くて尻尾がリボンみたいで、くるくるしてて、ばんきちゃんみたい」
「私が回ってるところ、見たことないくせに」
「あるわよ、何回も」
 わかさぎ姫は口に手を添えて微笑んだ。私が財布を取り出して、やってみようか、と尋ねると、わかさぎ姫は、ううん、と答えて、少し憫れむような眼差しを、金魚達に向けるのだった。
 そうして、金魚すくいの屋台を通り越し歩いていると、わかさぎ姫が突然、いけない、隠れて!と声を上げた。私は思わず踵を返して人混みに紛れた。
「ね、ばんきちゃん。みて、あれ」
 何やら愉しそうに微笑むわかさぎ姫の指差す先には、影狼と食堂の少女が並んで歩いていた。影狼が例のサングラスかけているものだから、私は思わず吹き出しそうになった。それに、影狼のあのおどおどした表情ときたら。
「あれが、ばんきちゃんの言ってた子?」
「そうだよ」
「可愛い子じゃない!影狼ちゃん幸せ者ね」
「何だかおどおどしてるようだけどね」
「ほんと。影狼ちゃん面白い」
 あんまり見てたら悪いわね、とわかさぎ姫が言うので、私はそのまま影狼達を背後に歩き始めた。しかし、私もわかさぎ姫もやっぱり影狼達が気になって、いつまでも後方を見やっていた。
「金魚すくい、やるのかしら」
「そうみたいだな」
「ああ!影狼ちゃんたら、女の子にお金払ってもらってる。もう、情けないんだから」
「あいつ、金ないからなぁ」
「まあ、影狼ちゃんたら、下手っぴねぇ」
「ほんと。なんだ、あの情けない顔は」
 私とわかさぎ姫の視線の先には、破れた網を残念そうに掲げた影狼がいた。少女はその傍らで、器用に金魚をすくい続けている。影狼はそれを、情けないやら、感心するやらの表情で見つめていた。
 そんな光景を見た私の頭の中で、赤くて小さな金魚が、元気よく跳ねた。

 それから、私とわかさぎ姫は麦酒を飲みつつ縁日を彷徨っていた。今日はお酒を飲むつもりはなかったのだが、思いがけずわかさぎ姫が飲みたがったので、結局私はのんでしまっているというわけだ。わかさぎ姫が一口ずつ口を離してはちびちびとやるので、私もそれに合わせた。
 そろそろ殆どの屋台をまわってしまっていた私たちは何をやるとも無くウロついていた。祭囃子の笛や太鼓の音が止んでから、人々の数は減るどころか増えてきているように思える。喧騒に耳をすますと、人々は何かを待っている様子で、それが私たちを縁日に留めた理由だった。もちろん、私がこの時間が終わるのをを惜しんだことも、その理由の一つ他ならないが。
「なんだか、騒がしいはずなのに、静かに感じるわね」
「祭囃子が止んだからかな」
「それもあるんでしょうけど、なんでかしら」
 わかさぎ姫に言われると、俄然周りが静かに感じられた。そんな静けさは、私に夏の終わりを強く感じさせた。私は、少し寂しくなって。
「なあ、姫」
 瞬間、辺りがパッと明るくなって、直後空から爆音が響いた。私もわかさぎ姫も驚いて、思わず空を見上げると、限りなく黒に近い紺色をした夜空を、綺麗な火花が彩っていた。
「わ。花火よばんきちゃん!」
 わかさぎ姫はまた無邪気にはしゃいだ。その瞬間、散り散りになっていく火花の横に、一つ大きな火花が咲いた。続けざまに、一つ、また一つ、夜空に火花が咲いていく。爆ぜるたびに、パッと光って、花火に見惚れるわかさぎ姫の顔を照らす。
「綺麗……」
 そう呟くわかさぎ姫の傍らで、その時私は、果たして花火を見ていたのか、それとも姫を見ていたのか。判然としないまま、それを見つめていた。
 わかさぎ姫が麦酒にちびりと口をつけるので、私も同じようにした。そのように、私と姫はいつまでも、夜に咲く火花を眺め続けた。



「今日はほんとに楽しかった。ばんきちゃん、本当にありがとね」
「うん。こちらこそ」
 霧の湖の水面を、青白い月明かりが照らしていた。そこら中に蛍がゆらゆらと飛んでいて、黒々とした水面に映る少し欠けた月は、風に吹かれて揺れていた。
「また、連れていってくれる?」
「もちろん」
 体の感覚はもう無い。霧の湖にわかさぎ姫を送り届ける最中に、体の感覚は遠のいて、気がつくと、私の四肢は〝体〟が動かしていた。
「じゃあ、今日はそろそろ帰るとするよ」
 私がそう言うと、わかさぎ姫は一寸、寂しそうに俯いて。しかしまたその顔を上げる頃には、わかさぎ姫はいつものように微笑んでいた。
「うん。……じゃあ、ばんきちゃん。ちょっとだけ、こっちに来てくれる?」
 体が、湖の岸まで歩いていく。水面から、わかさぎ姫は私の顔を見上げていた。
「少し、耳を貸して欲しいの」
 体が徐に私を首から取り外し、わかさぎ姫の顔の前に〝私〟を差し出した。

「あのね」

 そう言って、わかさぎ姫は、一瞬、その唇を、私の頬へと押し当てたのだった。
「それじゃあ、またね」
 少し照れた表情でそう言い残して、わかさぎ姫は夜の湖に溶けていってしまった。

 帰り道、麓の山道にて、歩く体に小脇に抱えられながら、私は今までのことを思い返していた。
 初めての満月の晩に響いた、影狼の聞こし召した遠吠えのこと。
 食堂で、私に、暇だねぇ、と語りかける少女のこと。
 ぶつぶつと、ぼやき続ける婆さんのこと。
 影狼の、妙すぎるあのサングラスのこと。
 虫取りに行ったのに、二人して虫の触らなかったこと。
 わかさぎ姫の、綺麗で可愛い笑顔のこと。
夏の空の青いこと。
夕空の、切ないこと。
 水槽の中、泳ぎ続ける金魚のこと。
けたたましい、蝉の声。
 そんなことを思い返す最中、私の視界の端に例のミミズが浮かんだが、私はもう、それを追うことはしなかった。

 家に着くと、体が私を抱きしめてくれた。体はとても柔らかくて、私はやっぱり泣きそうになった。でも、それ以上に幸せな気持ちだったから、涙がこぼれることはなかった。
「もういいよ。ありがとう」
 私が言うと、体は私の頭頂部を、ぽんぽん、と優しく叩いた。
 でも最後に、一つ気になったことを体に尋ねてみることにした。
「なあ、もしかして、私とわかさぎ姫は、その……」
 そこまで言うと、体は布団の下からノートを取り出して、白紙のページに何やら大きく文字を書いて、私に差し出した。
 そのページには大きくて、拙い文字で『ひみつ』と綴られていた。
「そっか、ひみつか。あはは」
「よし。今度こそ、ほんとに、もういいよ。今までありがとな」
 体がない首で、ゆっくりと、頷いた気がした。

 家に着いたその時には、既に次のやつが椅子に〝すわって〟いて。そんな〝次のやつ〟の前に〝体〟が〝私〟を差し出すと、次のやつの瞼が、ゆっくりと開かれたのだった。







 そうだな、まずは――。
 



   まつりにひとり

私は川を流れていた。
夏の日差しは強く、水の冷たさが心地いい。
私はそのまま、流され続けた。

「おい、はやくしないと。食べ物はみんな売れちゃうぜ」
「そんなに急がなくても。食べ物がみんな売れちゃうなんて、あるかい、そんなこと」
「いいから、はやくはやく」

夕暮れ、人里近くの橋の下まで流れた頃、そんな会話が耳に飛び込んで来た。
人間の親子の会話だった。
どうやら、里で縁日かなにかやるらしい。
いつもなら、こんなかき入れ時に店を出さないなんてあり得ないのだが、今年はなんとなーく、気が乗らなかったので出店するのはやめにしたのだ。
自分に実入りのない縁日なんて、大して興味もなかったが、私はなんとなーく、人里へ向かったのだった。

人里に着く頃には、空はとっぷり暮れていた。藍色に乗っかられた橙が、今にも押し潰されそうな、そんな空の色だった。
人里では、予想通り縁日が開かれていた。

通りを行き交う人々は、まるで増水した川のようで、今にも溢れそうだった。
またしても、私は川を流れていた。
川の流れに従いながら、気づけば私の両手には、綿菓子やらりんご飴、それらがしっかりと握り込まれているのだった。

甘味を舌で遊ばせて、私は川を流れていった。

……。

「珍しいな、河童がいるぜ。河童の、河城にとりがいるぜ。まさか、縁日で客のお前が見られるとはな」
「それにしても、右手に綿菓子、左手にりんご飴。腕に袋までかけてると来た。袋の中身が気になるところだが、生憎、私は向こうから来たんでな」

……。

人の川に押し流されながら、その中で白黒の人間の声を聞いた気がしたが、川の流れは私をそのまま押し流すのだった。

ガヤガヤと、音を立てて流れてゆく人の川。どこか遠くで、祭囃子の笛の音が響く。

ぴーひゃらら ぴーひゃらら

……。

「あやや?河童の河城にとりさんじゃないですか。あなたがお客さんだなんて、珍しいこともあるんですねぇ」
「ところで、椛をみかけませんでしたか?一緒に来ていたはずなんですけどねぇ」

……。

ドーン、ドーン、と、太鼓の音が遠くで響く。川の流れのピークは迎えていた。
大量の足音と、太鼓の音と、喧騒が、ただなんとなく歩いているだけの私の心を震わせる。なんだか妙に、顔が熱い。

……。

「わ、にとりさん!びっくりしました?私です、椛ですよ。一人で歩いてるから驚かしてしまいました、ふふふ」
「そうだ、文さんを見ませんでしたか?今日は文さんと来ていたんですけど、ふいに見失ってしまいましてね。迷ったら演し物の場所に集合するよう決めたんです」
「にとりさんは、演し物みないんですか?」

……。

ドーン、ドーン、ドーン。
太鼓の音が、徐々に鳴り止む。
段々と、人通りが疎らになってきた。
あんなに溢れそうなほどの人々が、一体どこへ消えてしまうと言うのだろう。

団子の串や割り箸が、地面のあちこちに散らかっている。

……。

「おや、にとりじゃないか。まさか一人で来ていたとは。いや、少し前に魔理沙と会ってね。君が楽しそうに歩いてるのをみたぜ、なんて言ってたものだから、てっきり誰かときているのかと思い込んでいたのさ」
「ところで、頼んでいた修理は終わったかい?いや、急ぎじゃないんだ。ただ、あれを店に置くのが楽しみでね」

……。

「え?魔理沙かい?魔理沙なら演し物を見終わってすぐ、満足気に帰っていったよ。一人でまわる縁日も乙なもんだな、なんて、言ってたっけな」

……。

ジリジリ、ジリジリ。
蝉の鳴き声が夜に響く。
人の川は、もうすっかりどこかへきえてしまった。
夏特有のじんわりとした寂しい涼しさが、体に纏わり付いた祭りの熱気を攫っていく。
出店の主人たちが店じまいをする音。
川に取り残された僅かな人々の、かすかな話し声。

ジリジリ、ジリジリと、夜に響く、蝉の声。
そろそろ帰ってしまおうか。

私は人里近くの川辺にやって来た。
川辺が私の帰路だった。

道中、手持ちの花火を囲む四人組を見つけた。
線香花火を真剣な面持ちで握りしめるもの。
火花が噴出するような手持ち花火で、空に軌道を描くもの。
ただ眺めているだけのもの。
そんな風景をカメラで撮っているもの。
一瞬、見知った奴らかと思ったが、全員、全くの別人だった。

紺色の空の下、木々に囲まれた砂利道を、さーっと風が吹き抜ける。
川辺のひんやりとした気温は、祭りの後の寂しさに浸った私の心とよく似ていた。
それは、子供の頃に好きだった、絵本のような寂しさ。悲しみのない、きれいなだけの寂しさ。

そんな寂しさを抱えて歩く私の心の中には、ひとつ、淡い光が灯っていた。
それは暗闇の中、儚く光る火花のような光だった。私はその光を思うと、なんだか胸が締め付けられるような気がして、一人で照れ笑いを浮かべていた。

一人、川辺を歩きながらニヤついている自分を俯瞰すると、私はさらに決まりの悪い気分に陥った。
途端に、さっきまで感じていた寂しさも、今感じている面映ゆさも、全てがちゃちに思えてくる。

あーあ。と、私は小石を蹴りつけ、少し笑う。
すると私は、不意に、どこか遠くの方で、祭囃子の笛の音が響くのを聞くのだった。


   機械


   1


 外の世界勤務のやつらがどっかに飛んで、穴埋めの鉢があたいに回るのはよくあることで、そんな勤務の最中だった。
 あたいはどうも、全てがなにか陰鬱になってしまって、業務も何もほっぽりだして、何処かへ行ってしまおうと決めた。何度目の遁走になるかはわからないけれど、今回は決断までのうだうだ悩む時間が短かった。
 いつもならこうするより先にあらゆる事柄の有意義と無意義がいたちごっこを始めるのだが、今回は虚無が介入する余地もなく。あたいはさっさと逃げてしまおうと考えた。
 仕事を始めたばかりの頃は――といっても、生まれた瞬間から死神てなもんだから、生まれたばかりの頃、と言い換えても差し支えはない。――こういった遁走にあたって罪悪感や後先の叱責や罰に押しつぶされそうになっていたけれど、それももう、だいぶ薄れた。
 今回はごみごみとした街中での勤務だったから、あたいは早速洋服屋に入って、適当なジーンズとシャツを買ってそれに着替えた。元々着ていた辛気臭い服は更衣室に置き去りにしたし、髪留めだって解いてそこに置いてきた。
 髪留めに癖のついた髪をひんやりとした晴天の下で一つぶんぶんと振ってみると、それは清々しい気持ちがした。真新しくパリッとして肌に擦れるシャツの感触も、ジーンズのちょっとした締め付けだって、全てが寒空の空気めいて新鮮だった。
 あたいは電車って乗り物が割合好きで、こんなときはよく乗った。今回も、入場券だけ買って、宛てもなくどこまでも行ってしまおうとしている。
 ホームから僅かに覗く青い空が、ホームの柱に座り込んでいる故知らん青年と酷似しているような気がして、青年が何故座り込みぼんやりとしているかは知れないが、なんとなく、励ましてやりたいような心持ちになった。
 けれど、あたいはもう電車の中で、電車の扉も閉まっている。
 あたいはせめてもと思い、やおら動き始めた車窓から、青年に向かって緩く手を振ってみた。そんなあたいに気づくと、青年は少し驚いたような表情を浮かべた後、何か諦めるようにふと笑って、あたいに手を、振り返すのだった。
 電車が街を離れてからは、あたいは自然と、何も考えないようぼんやりとしていた。
 野山が増えて空が広くなった頃、周りの若者たちの会話を聞くともなく聞いているうちに、車内の人間はだんだんと減っていった。
 車内を刻んでいた晴天の日差しは、気付けば爆ぜた黄色とすり替わっていた。
 それは静かな夕暮れだった。ほんとうに、屋台が笛でも鳴らしていそうなほどに、穏やかな夕暮れだった。車内の揺れに伴う不規則な衝突味の雑音は、静寂の輪郭を一層際立たせている。
 あたいはそんな、記憶ごと黄色に焼かれてしまいそうな窓辺で、広い空を、広い世界を、なんだかとても身近なもののように感じた。
 そのようにぼんやりしていると、短い睡眠の予感を覚えた。それから間もなく、あたいは穏やかな眠りに、落ちていく。


 夢を見ない短い睡眠に思えたけれど、あたいは存外長いこと眠ってしまっていたようだった。目を覚ましたときにはもう、世界は漆黒の緞帳に包まれていた。
 とっぷりとして液体めいた闇の中に、ぽつりぽつりとしずくのように燈が灯っている。僅かでぼんやりとした灯りに目を凝らせば、草木が鬱蒼と蔦を巻いていた。ここはどうやら山中らしい。
 現在の木々と闇の間を小さな灯りが次々と流れていくその様は、あたいに妙な強迫的な焦燥を与えた。一瞬前の穏やかな夕暮れと現在との差異も、そんな焦燥感を助長させているように思えた。
 とにかくあたいは、電車の扉が開いた瞬間、車内から逃げるように転がり降りた。

 無人の改札を潜って駅から飛び出すと、空は星一つ灯らない完全な夜だった。あたいはそんな空がどうも恐ろしく、できるだけ空の見えない狭い道を探した。
 この場所は想像以上に閑散としており、先程見たような草木が何処にでも蔦を伸ばしている。
 殆ど駆けるような歩調で闇の中を這いずれば、いつしかやっと、空の狭い道を見つけられた。
 そこは住宅地だった。
 雑に舗装された路面や、響く自分の足音、冷たい夜風やカーテンの向こうの暗がりが、あたいの心を落ち着かせる。
 落ち着くと同時に、逃げ回ったツケがあたいに追いついた。ツケは空と同じ暗さで、電車の扉が閉まるのと同じ速度で、あたいの心を蝕んでいく。
 そのうちに、あたいの中で有意義と無意義のいたちごっこが始まった。そうすればいつしか虚無がやってきて、あたいをまたいつもどおりの日常へと回帰させるのだろう。
 耳を片手で塞ぎながらぼんやりと歩いていたら、自分の髪がくねくねと手の甲を滑った。
 緑色とは正反対にくせのついたあたいの髪は、あたいの日常に酷似していた。手で何度か櫛をかけても、くせのついた髪の毛が綺麗になることはなかった。
 何度も何度も繰り返したけれど、結果は同じで。
 そろそろ帰らなきゃ。なんてことを考えていると、曲がり角の向こうから鉄を鉄で打つような高い音が何度か響いた。あたいはこの音をよく知っていた。それは、電車の通過を告げる警報だった。
 角を曲がると、ちょうど列車が通過した。列車はあたいの目の前を霞むような速度で通過していく。目についたのは列車よりも、紅く点滅するライト。その光に照らされた少女だった。
 少女は規則的に点滅する紅い光を浴びながら、列車が通過していく様を羨むような、また怯えるような面持ちで睨みつけていた。
 その表情があんまりに悲痛なものだったから、列車が通過したあと、あたいは少女に話しかけてしまった。
 聞けば少女は死にたいらしく、死ねる列車をずっと待っていたという。語る少女の表情は、これまた絶望と希望が綯い交ぜになった、悲痛なものに思えた。
 冥福の前借りに飽きたと語るその少女は、次の列車が通る際、文字通りあたいに背中を押してほしいと言った。
 警報音が鳴り響く。
 どうも、少女が羨ましいような、悲しいような気がしたけれど。結局、どうも判然としない心持ちのまま、あたいは少女の背中を押した。
 少女の最期の言葉はありがとうで、続く言葉は、ほんとは死にたくなかった、だった。
「やぁ、あんた。さっきぶりだね。さぁ、いやいや言ってないでさっさと行くよ。あんたは死んだんだ。……いいじゃないか、死にたかったんだろう? 輪廻って冥福が欲しかったんだろう? 地獄だろうが天国だろうが、どちらにせよおんなじさ。そんなに責めないでおくれよ。そんな言い方しないでおくれ。それじゃあまるで――」
 救えないのは、あたいは舟に乗った死神を見たことがないってことと、あたい自身は、踏切を超えられないってこと。
「――あたいが悪いみたいじゃないか」


  0


 あたいの話が聞きたいって? わざわざあたいに休日なんて与えて、あんたも物好きだなぁ。まあ、聞きたきゃ聞かせてあげるよ。酒も奢ってくれるって話だしね。ただ、その目をやめておくれよ。嫌いなんだ、その目。
 そうだな。まずはあんたの知ってる話、何回か話したかもしれないが、まあ、やな顔せずに聞いておくれよ。あんたが聞きたいって言ったんだ。
 死神の、あたいの主な仕事ってのは引率。死んだ人間をあの世まで引率することだ。死亡現場付近をうろついてるやつ、所謂霊に死を自覚させて、三途の川まで連れて行く。三途の川に着きゃあ、向こう岸まで渡してやるんだ。これも結構キツい仕事でさ、あんたも知ってるとは思うが、カッチカチの規則ってやつがあったんだよ。
 まず原則として、必要以上の会話をしないこと。別にあたいが、死神が死者にどれだけ肩入れしようと裁判の判決が変わることはない。なのに、まあ、禁止されてたんだな。
 それから細かいところでいえば、川までの引率の際は必ず死者より先行すること。立ち止まらないこと、振り向かないこと。死者が小走りになるぐらいの歩調で歩くのさ。ほら、犬の散歩ってあるだろう? あれが近いね。
 んっんー。まあ、こんな感じにやるんだよ。
 ああ、貴女。私のことが見えるのですか。貴女以外は私のことが見えていない様子で、もしかすると、私は死んでしまったのでしょうか。
 そうだよ、あんたは死んだのさ。それで、あたいは死神。あたいはあんたを連れて行かなきゃいけないんだ。どこに連れて行かれるかは、分かるだろう?
 こんな具合で、歩き始める。奴らは大抵未練やなんやで、よたよたよたよた、トロいんだ。でも、あたいは振り向かないでさっさっと歩く。奴らは小走りになって着いてくる。なもんで、三途の川に着く。川の幅は乗せる奴によってまちまちだけど、大抵長くて、そして暇だ。だから奴ら、話しかけてくるんだな。こちとらそれを禁止されてるってのに。それも、やれ生前がどうだったとか。やれ残る家内が心配だとか、徹頭徹尾、よくある話でさ。あたいは相槌を打つんだ、そうかい、そうかい、って、全部に同じ相槌をさ。嫌になるよ。それでも奴ら、話終わると満足した様子で、暫くは黙って揺られてるんだけども、なんでかな。最終的には口を開いて、みんな同じことをあたいに聞くんだ。
 あの、私は、地獄に落ちるのでしょうか。ってさ。
 あんたなら分かるかもしれないが、そんなことはあたいが知るはずないだろう? だからあたいは言うんだよ。
 どうだろうね。って。
 何かどうも、奴らは死神ってもんを勘違いしているらしいんだよ。死神は生き死にに精通していて、達観していると思い込んでるんだ。いい迷惑だよ、まったく。死神なんて生き物に出せる解なんてありゃしないんだよ。死神ってのはそういう風に出来てるんだ。死神は、なんの解も出せない性質なんだよ。そんな生き物がさ、言えるかい? あんたはきっと天国だよ、あんたは地獄だよ。なんてさ。どうだろうね。それ以外、言えるわけがない。
 だって、死神は生まれた瞬間から死神なんだよ。河童や人間なんかは、よく自身の種族に課せられた生産って命題で悩んだりするらしいけどさ。死神よかよっぽどマシな種族だよ、あれは。河童だって人間だって、とどのつまり辞められるじゃないか。種族への迎合を捨てたらそりゃ生きていけないかもしれないが、自由に生きて、自由に死ねるならよっぽどマシさ。少なくとも、あたいはそう思うよ。
 それに、あたいは天国や地獄がどんな場所かよく分かってるんだ。冥府ってのはつまり、魂をリサイクルできるようになるまで漂白する場所なんだよ。
 なあ、閻魔様。あんた自我ってなんだか知ってるかい?
 自我ってのは要はそいつがそいつ足る明確な他との差。まあ、個性だな。じゃあ、個性ってのはなんだと思う? あたいはね、そいつが何を楽しいと感じて、何を苦しいと感じるか。そういった人それぞれの苦楽の基準。それが個性だと思うんだ。
 よし、仮に辛いことを快く感じる人間がいたとしよう。それから、そいつが天国に行ったとする。天国ってのは何はどうあれ楽しい場所だろう? だから、そいつは天国でつまらない思いをするだろうね。ほら、よくいるじゃないか。酒席で、端の方に座って黙ってるやつ。きっと、そんな感じになるんだろうね。だけどそれでも、天国ってのは絶対的に楽しい場所なんだ、そうじゃないといけない。だから、そいつは否が応でも楽しくさせられる。感情を楽しいに固定されるのさ。地獄に行ったとしても同じ。そいつがどれだけ苦痛を快く感じたところで、地獄って場所は絶対に苦痛を固定するんだ。そこに個人の苦楽の基準、個性は介在しない。どんな人間も楽しいだけ、または辛いだけにされて、魂を漂白されるってわけさ。人間達はそれを冥福、なんて呼んでいるらしいが、ははは。ああ、その目をやめておくれよ。嫌いだって言ってるじゃないか。
 え? 天国や地獄で、楽しいかったり悲しかったりするのは自我があるからじゃないか、って? あー閻魔様、言ったじゃないか。自我とは他者との差異、つまり個性で、個性とはそれぞれの持つ苦楽の基準だって。感情ってのは自分の所有物じゃないんだよ。それはきっと、どっかから供給されるものなんだよ。
 いや、こんなあたいにも、我を忘れるほど笑ったり、悲しんだりしたことはあるんだよ。楽しいときゃ、箸が転げるだけでどうにも楽しいし、悲しいときゃ何がどうして全てが悲しい。そうだろう? でもそれってようは、苦楽の基準を逸した状態だろう? つまり個性を逸した状態さ。感情が自分の所有物だってんなら、いつでも蛇口を捻るように感情をコントロールできるはずじゃないか。でも、喜びと悲しみってのは突然やって来る。それは交互に入れ替わったり、ずっとどちらかに偏ったりしてさ。それがつまるところ、感情が自分の所有物じゃないって証明になるだろう。そう思うとさ、楽しさとか悲しさに、意味を見出せなくならないかい? 少なくとも、あたいはそうだね。
 そうだ、それで思い出したが、たまに面白いやつもいるんだよ。どこで聞いたか、天国や地獄がどんな場所か分かってるやつがさ。そういうやつは渡し舟の上で、私は地獄に……なんて聞かないんだ。その代わりよく喋るね。天国と地獄、どちらにせよ自我が消えたらそれで終わり、その瞬間こそが本当の死だ、なんてさ。まあ、結局怖くてたまらないから、喋らずにはいられないんだと思うけどさ。そいつはたしか地獄に落ちて、そうだな、結構早く、まっさらになったって話だよ。流石、生前から冥福を前借りしていただけあるよな。
 いやいや閻魔様、人間ってのは割と合理的に生きるように出来てるんだ。こないだあんた、外の世界の死神との交流会を開いてくれたろう? ああ、あれは楽しかったなあ。ああ、ともかく、ともかくさ。そこで、向こうの死神から聞いた話なんだけどね。向こうの世界で、どうしても殺される運命の男がいたんだよ。運命って言っても、あれだよ、ヤクザに狙われたとか、死刑囚とかさ。それで、そいつを殺す側の男がそいつに尋ねるんだと。銃か毒か、好きな方を選べ。ただしお前が毒を選び、奇跡的に死ななかったとしても、その時は俺がお前を殺す。何がどうあれ絶対に殺す。助かることは万が一にも無い。さあ、銃か毒か、好きな方を選べ。なんてさ。そしたら殺される側の奴ってのは、大抵銃を選ぶらしいんだ。閻魔様、これってどうしてだと思う? あたいはね、早く次に行こうとしてるんじゃないか、って思うんだよ。さっさと死んで、さっさと冥福にあやかって、リサイクルされよう。って。そういう算段が、生まれた時から魂に刻み込まれているんじゃないかって思うんだ。向こうのその死神は統計を取っていたらしいんだけど、八割は銃を取るって話だよ。なんか、不思議だよなあ。ははは。
 え?
 いや、もちろんそりゃあそうだよ。天国や地獄かどういう場所かなんて、あたいに、一介の死神風情に解るわけがないじゃないか。言ったろう? 死神なんて生き物に出せる解は一つもないって。なんで、って。何を聞くんだい。それこそ分かりきったことじゃないか。死神を渡した死神はいない。あたいらが死んだら何処へ行くかなんて、誰も知らないんだから。
 ああネエちゃん、酒、お代わりね。
 まあさ、あんたが色々変えてくれるって話だけど。どうだろうね。

 あたいは結局、何も変わらない気がするんだけどね。



  †破滅†


 世界の破滅というものは、どうやら思いのほか穏やかにやってくるようだ。
 彗星接近。幻想郷滅亡の危機。そんな第一報はいつもと変わらぬお昼時に、お茶の間を彩るバラエティ番組の上部に、すっと、文字のみで現れた。それはどうやらテロップというらしい。そんな形で世界滅亡の危機を知ったものだから、私はどうも、ああ、滅ぶのか、世界。なんて、とりとめもなく受け入れてしまった。どれもこれも、河童の、企業努力の賜物というやつだ。
 そんなわけで、私は今も、長屋に備え付けの、ちゃちな木製のダイニングテーブルの上にスパゲッティなんかを置いて、テレビ画面を眺めている。どうやら赤い館のひとたちが迎撃ミサイルを発明したようで、世界滅亡の危機は免れた、という。
 いわく、我々の用意したミサイルは必ずや、あの月に似た彗星を粉砕する、とのことで、根拠としては、運命がそれを保証しているらしい。なんじゃそりゃ。
 だいたい、彗星なのに月に似てるというのは、いったいどういうことなのか。私は世界の存亡よりも、そっちのほうが気になった。しかし、テレビは今も赤い館の偉そうなひとを映し続けて、偉そうなひとは自信満々さをひたすらに表明し続ける。なんだかな。スパゲッティを食べ終わっても、結局、彗星のことは知れずじまいだった。
 そろそろ食器を片そうかなと思っていると、窓の向こうから、寺子屋帰りであろう子供達の声が響く。長屋は屋の並ぶ閑散とした通りに面しているから、二階とはいえ、そういった声はほぼ毎日耳にした。そのたびに、私はどうも、通りの静けさが余計に感じられて、部屋の広さに、ふわふわとした曖昧な、静けさに似た感慨を浮かべてしまう。
 浮かんだ感慨をかき消すこともなく、私はそのまま、一人分の食器をキッチンまで運ぶ。キッチンの床はビニルだか、樹脂だかで、少し弾力のある素材で、裸足で歩くと、ペタペタと音がなる。一面のくすんだクリーム色と、細やかに、また規則的に散りばめられた薔薇の模様は、どうしたって、私に四半世紀超えの年季を感じさせるのだ。
 しかし、私はこのキッチンの床が好きだった。聞けばクッションフロア、なんて呼び方をするらしいが、ともかくとして、私はその、クッションフロアの弾力が好きだった。ともすれば、歩くたびにペタペタとするこの音が、好きなのかもしれない。
 種族特有の背の低さに、皿を洗うのにも苦労をする。とはいえ、縮む時はもっと縮むけれど、平常ならば河童たちと同じ程度なものなので、せいぜいすこし大変、といったところだ。洗うお皿だって一人分だから、ほんとうに、そこまでの苦労はない。まあ、これがもし二人分の後始末に変わったのなら、私も背丈にものをいわせて、私が洗うのは大変だから、これは、お前がやるべきじゃないか、なんて八つ当たりも出来るのだろうけれど。
 あいつが居なくなってから、しばらくが過ぎていた。あいつは、なにか、私とそこそこに親密になったところで、初めて私を食事に誘った。そして、そのタイミングで慌てて長屋を飛び出して、そのまま帰らなくなった。
 ――あー、最近美味い定食屋が出来たらしいな。今度一緒に……。
 そこまで言って、あいつはなにかハッとして、口をあわあわさせては、そのまま、ちくしょう、と叫んで飛び出していってしまったわけだ。計画の失敗からもう随分経って、平熱の日々を享受してきたというのに、あいつはつくづく、天邪鬼をやめられなかったらしい。
 私もそこまで構ってやろうなんて気が起きなかったから、出ていったあいつを探すことなんて一切しない。どうせ放っておいたとしても、あいつはふらふらと、この狭い幻想郷のどこかをふらついているに違いないないから、それならそれで、いいと思った。
 ちょうど、キッチンの小窓の向こうの空に、青白い尾を引きずって、太陽より鈍く発光する球体がある。あれのどこが、月と似ているというのだろう。頭はやはりそんなことでいっぱいで、赤い館のミサイルとか、世界滅亡の危機とか、そんなのはぜんぜん、考えもしないでいた。
 洗い終わったお皿の水を切っていると、ふいに、玄関の戸が勢いよく開いた。私は声もあげずに驚いて、キッチンから直通の玄関を見やる。目は、たぶん、丸かったと思う。
 そこには、額に汗をかきながら、息を切らしたあいつが立っていて、よく見ると、涙ぐんでるようにもみえた。泣いているところを見るのは初めてだったから、私はきっと、丸くした目に加えて、眉を潜めたはずだ。けれど、こいつは私の前では泣かないというだけで、いろんなときに泣いていたことを私は知っていた。計画の実行が差し迫った頃なんて、夜毎隠れて泣いていたようだし、計画が失敗したときだって、わんわん泣いていたはずだ。だから、こいつの泣き顔をみたところで、そこまでの衝撃は受けなかった。しかし不可解だったのは、こいつの背負った、唐草模様の風呂敷だった。風呂敷からは、プラスチックめいた、おもちゃのような赤色の三角が飛び出していたのだ。先端の三角よりしたは、またおもちゃのような白色をしていて、それはどうも、先ほどテレビの下部四角形の中に見た、迎撃ミサイルと酷似していた。ちなみに、画面下部の四角形はワイプ、と呼ぶらしい。知ったことか。
 濡れたお皿を掴んだまま、言葉を選んでいると、正邪は玄関先に立ちっぱなしのまま、おもむろに口を開いた。
「ひ、ひ、姫。せ、せ、せ、世界が滅んでしまうよ。わ、わたしの、わたしのせいで!」
 その声は焦燥と僅かな歓喜の入り混じった、正邪らしいといえばらしいものだった。しかし、その声の震え方と、姫という呼称で、これは重大なことが起きたぞ、と私は悟った。
「とりあえず上がんなよ。スパゲッティを茹でてやろう」
 こくこくと頷いては、背負った風呂敷の結び目を両手で掴んだまま、正邪は玄関をくぐる。こいつがこうも素直だと、いよいよもって、こいつの背負ったおもちゃ的オブジェクトの信憑性が増してくる。
 正邪はそのままキッチンをペタペタと鳴らして、不如意に冷蔵庫の中身を認めた。喉でも渇いているのかしらん。
 そんな正邪を横目に、私はキッチンからリビングへの敷居に半身を逃して、テレビの様子を確かめた。テレビ画面上部にはなにか〝テロップ〟が出ていて、どうやら、河童の倉庫で保管していた迎撃ミサイルが盗難された、とかなんとか。しかし、画面に映る赤い館の偉そうなひとは、テロップに気がつくことはない。今なお偉そうに謹製のミサイルの長所を挙げ連ねているので、なんとも間抜けな光景である。
「ぎ、牛乳だ。の、飲んでいいよな」
「おまえは一気に全部飲んじゃうから、ダメ」
 正邪はしゅんとして、リビングのダイニングテーブルの一席に腰を落ち着けた。テーブルの上、風呂敷を広げて露わになったのは、どうしたって、例の迎撃ミサイルだった。しかし、どこからどうみたって、おもちゃのようにしか思えない。こんなもので、あの彗星を撃ち落とすことが可能なのだろうか。
「どうするの、これ」
「き、決まってるだろ。このまま、隠して見つからないようにするんだ。は、ははは! や、やつら泡吹いて探し回るに決まってら、でも、見つからない。そして世界は滅ぶんだ……わたしの、わたしの、ああ! わたしのせいで!」
 荷を解いても肩から重荷は下ろせなかったようだ。どうみたって、こいつはビビってる。けれど、ミサイルを隠匿し続けるだけで、こいつの念願成就が達せられる。そう考えると、私はこのまま世界が滅ぶのも、なんだかやぶさかではない気がした。
「ふうん、そうかい。まあ、いいんじゃないか。おまえがそうしたいならさ」
「そ、そんな。姫、いや、針妙丸。お前、いいのかよ! 世界が滅ぶんだぞ!」
「いいじゃないか。そもそも、世界をひっくり返すのが、おまえの念願だったはずだろ。こんな平和な世の中じゃ、ちょっとやそっとイタズラしたところで、なにも変わらない。世界を救う鍵を隠して、星が降って、世界が滅ぶ。私とおまえに、御誂え向きの結末じゃあないか」
「く、くるってる!」
 正邪はそう言って、慌ててミサイルに手を伸ばしたが、そうはさせない。
「だめだぞ。まさかこれを返しに行こうってのか。そんなの、おまえらしくもなんともない。下克上をしようよ。な。だから、世界が終わる瞬間まで、これは私が持っておいてやろう」
 ミサイルを抱えてみると、それなりの重さがあった。なるほどこれは、世界を救う重さに思える。
「ま、まさか! 返しに行こうだなんて考えていないさ。ただ、お前に持たせておいたら危なっかしいから、わたしが持っておこうと思っただけで! ま、まあ、どうせ隠しておくんなら、お前が持ってたとしても、わたしが持ってたとしても、どっちにしろ、変わらない。特別にお前がそれを保管することをゆるしてやる。そのかわり、世界の破滅まで絶対に隠し通すこと!」
 これはわたしの下克上なんだから、と威勢良くと付け加えて、正邪は腕を組み、そっぽを向いた。ああ、多少の迷いを感じるけれど、やっぱりこいつは、こうでなくちゃ。

 それから、私と正邪の、ミサイル隠匿の日々が始まった。とはいえ、世間に私の部屋を怪しむ者なんていないから、それはただ、久しぶりの二人暮らしというだけだ。ミサイル盗難のニュースが流れてから、里はお通夜のような静けさに支配されていたが、彗星直撃三日前ともなると、里は常世の、祭りの国と相成った。人間とは、よくできた生き物である。
 そんな中、正邪はやはり悩み続けていて、時折ぼんやりとしては不意に叫んで頭を抱えてみたり、ぼんやりとしたままに、ちくしょう、ちくしょう、なんて嘯き続ける次第だった。どうにも見ていてじれったいので、私はこいつを、連日大繁盛の居酒屋に連れて行ってやることした。
 その居酒屋は、以前私と正邪が出入り禁止になったのを皮切りに、妖怪と思しき者の入店が全面禁止となった店だったが、世界が終わるともなれば、店に人妖入り乱れたとしても、誰も気にする者はなく、店主にしても、それはおんなじだったようだ。
 酒にめっぽう弱い正邪に飲ませれば、ほんとのところを聞き出せる、そう考えたのだが、そう上手くはいかなかった。結局のところどうなのさ、という私の言葉に、逃げ出したり、反発して、誤魔化すようなことはなかったが、正邪はどうも、なにも聞こえていない様子で、一人でぶつぶつと、なにかを呟き続けた。
 まあ、これはこれで。と酒をやっていたら、不意に、ああ! と声を張り上げ、正邪は店のテーブルを手のひらで思い切り叩き、立ち上がっては、口を切った。
「よく聞け酔っ払いども! わたしはな、或るチャンスを手にしたんだ! そしてわたしは、そのチャンスをモノにしてやる! おいそこの、そこの狼女! なにが言いたいのかさっぱりって顔をしているおまえだよ。いいか、よく聞けよ。チャンスっていうのはそう何度も訪れるもんじゃない、それがいつ、最後のチャンスになるかなんて、誰にもわからない。わたしが手に入れたのは、そういう類の、またとないやつなんだ! つまりなにが言いたいかと言えばだな、その、欲しいものがあるならその手で摑み取れ、というか、手にした幸福は絶対に手放すな、というか、ええと……」
 ちくしょうと吐き捨てて、正邪はそのまま逃げるように居酒屋を後にした。急に訳のわからないことを叫び出したやつと同じ席についていた私に向かって、きっと、世界の終わりに気が立っているのだろう、店主が恐ろしい表情を浮かべて近付いてきた。あのわけのわからない女はあんたのツレか、とか、そんなことを聞いてきた。
 正直に答えればおそらく店を追い出されるだろうけれど、終末に嘘をついたところで意味もない。うん、と頷けば、店主はやにわに私を店の外へと放り出した。まさか、世界の終わりに出禁を食らうとは。

 そうして、何十時間か経った夜だ。あれから、正邪は長屋に戻らなかった。リビングの隅ではミサイルの赤い先端が、風呂敷から飛び出している。
 正邪の戻らない今となっては、ミサイルなんて、もうどうでもよかった。結局のところ、私は正邪がどんな選択をするかが見たかっただけで、世界の存亡なんて、はなからどうだってよかったのだ。ほんとをいえば少しだけ怖いけど、朝起きれば歯は磨くし、お昼にはスパゲッティを食べてお皿を洗うし、夜は洗濯やなんやをするから、なんだか、そこまでの不安は感じられないままでいた。
 一人分の布団を敷いてから、眠る前に、暗いリビングのテレビをつけると、接近する彗星の生中継をやっている様子だった。リポーターはどこぞの天狗で、目をぐるぐるさせながら接近する彗星の様子をてんやわんやと実況している。
『この月に似た彗星の落下地点が、こちらとなっております! ご覧ください、様々な屋台でひしめいて、そこかしこにブルーシートを張って宴会に勤しむ人々を! ああ、楽しそうですね。ちょっくら突撃取材といきましょうか。そこの赤、狼、魚のお三方! 明日の夜、ここに彗星が落下する気分はどうですか? え。きんぴら、くれるんですか。わー、ありがとうございます! どれさっそく……あっ! ……おいしいですねえ!』
 カメラクルーもカメラを投げ捨ててきんぴらに集ったらしく、画面には土と草の根のみが映し出される。みんな、ちょっとおかしいんじゃないか。私は布団に入って、眠ってしまうことにした。
 それにしても、あの彗星のどこが月に似ているというのだろう、やはり、わからない。

 夜中に目を覚ますと、背中が濡れていたので、私は口を動かしてやることにした。
「なあせーじゃ。泣くほどいやなんだったら、返して来いよ。あんなもの」
「……やだね。きっとこれが、最後のチャンスなんだ。こんな簡単に世界に泡吹かせてやれるチャンス、二度と巡ってこない」
「そうかい。それなら、私は止めないよ。私はなんだかんだ言って、正邪の共犯者だからね。……あのときだって、正邪がほんとは何を企んでるか、知ってたんだから」
「……じゃあさ、共犯者だって言うなら、姫。お前あれを、何処かに隠してくれよ。あれが視界に入ると、わたしは、どうにかなっちゃいそうなんだ」
「やだね。実行犯にはなりたかないんだ、私は。ほら、話は終わりだよ、布団から出て行け」
「……別に、いいだろ。最後の日ぐらい」
「おまえは私の布団全部取るから、ダメ」
 正邪はちくしょうと呟いて、私の隣に布団を敷いた。

 正邪も居酒屋の件から眠っていなかったようで、目が覚めたのは次の日の夜、即ち彗星落下まであと数刻という頃だった。正邪が寝ぼけた様子で布団からでないので、私はリビングに行って、あのミサイルを、隠してやることにした。とはいえ、完璧に見つからない場所に隠してしまうのは癪だから、風呂敷からはみ出した赤い先端を小槌で叩いてやるだけだ。小さくなったミサイルは風呂敷のなかにすっかり収まって、一見すると、部屋の隅にはしわくちゃの風呂敷があるだけに見える。
 こんなもんだろう。私は小槌を寝室の、やつの枕元に置いて、アパートを後にした。

 彗星の落下地点に着くと、そこはまさにこの世の終わりだった。ひしめく屋台からはどこもめちゃくちゃに煙があがり、チンドン屋がしっちゃかめっちゃかに何やらを鳴らしまくっている。至る所はげろまみれ、死んだように眠る遺体まみれで、焚き火なんかをしている連中もいた。笑い声ばかりが響いて、不思議なことに、泣き声はひとつも聞かなかった。 けれど、人混みの中立ち尽くし、空を見上げて、ぶつぶつと弱音を吐いている女ならいた。女は額のあたり、赤い髪を片手でぎゅうと掴んでは、仕事が増えるのはいやだ、仕事が増えるのはいやだ、と念仏のように繰り返している。世界の破滅に仕事の心配をするなんて、おかしな女もいたもんだ。それに、空に向かって念仏を唱え続けることに、何の意味があるというのか。一瞥して、そのまま女の横を通り過ぎた。
 そうして、ブルーシートの海を泳いでいると、そのうちに声をかけられる。
「あ、針妙丸じゃない。あんたもこっちにきて、呑みなさいな」
 紅白の言葉に従って、ブルーシートを跨ぎ座る。広いブルーシートの上にはもみくちゃになった吸血鬼の遺体があり、白黒のひとも、山の巫女も、庭師も、見知らぬ犬も、みな一様に、遺体に酒を強要している。遺体は微かに拒絶の意を示し、ぐったりとしたまま吐き気を堪えるそぶりを見せた。ああ、吸血鬼のゾンビだ。
「月見酒よ、月見酒」
 その言葉で、私はようやく夜空を仰いだ。そこには一面の青白い鈍光があって、目を凝らすと、随分遠くの方に彗星の正体がぼんやりとしていた。しかし私は、その正体を間近でみても、それが月に似ているとは、どうしても思えなかった。
「でも、霊夢。いいの、なにもしなくて」
「いいのよ。紫も寝てるのかなんなのか、何も言ってこないし。それで世界が滅んだとしても、私のせいじゃないわ」
 朗らかに笑って、紅白は酒をかっくらった。ほら、あんたも呑みなさい。あんたのせいなんだから、とゾンビに酒を強要する姿は、ほんとうに楽しそうだった。私も酒を少しもらって、ちびちびとそれをやる。夜空とあたりをチラチラと見れば、いろんなことに気がついた。
 向こうの方で、鬼たちが和やかに酒をやっていること。あっちでは、生中継で見た三人組が、みな酔いつぶれていること。そっちでは、これまた生中継で見た天狗が、おそらく終わりに備えて、書き終えたであろう原稿を地面に埋めようと、必死になって穴を掘っていること。正邪の姿が見当たらないこと。チンドン屋の中には、そこそこ有名なバンドや、楽団が紛れていること。青白い光の向こうに、いつもと変わらぬ星が出ていること。彗星が、さっきから全く動かないこと。
「ねえ霊夢。なんで動かないの、あの彗星。こっちに向かってるようにはみえるのに」
「さあ。きっと、誰かが頑張ってるんでしょ。知らないけど」
 それから、賑やかな時間がしばらく続いた。けど、白黒のひとが発した「あ、動いたぜ」の一声で、あたりは急にざわめいた。そのまま伝播するように、ざわめきがわっと広がって、この世の終わりの宴会場は、これまで以上の狂熱に包まれた。
 チンドン屋は楽器をがむしゃらに鳴らして、有象無象は手を打って、叫んで、笑って、楽しいままに吐き散らかした。鬼たちはいっそう和やかに呑んでは歌い、生中継で見た三人組はいっそういびきを大きくした。天狗は目を渦巻きにして、穴堀を急ぐ。
「あはは、みて。すっごい綺麗」
 隣では、紅白がそんなことを嘯いて、白黒のひとも、山の巫女も、庭師も、見知らぬ犬も、頷いては、お猪口にちびりと口をつける。
 しかし、不意に怒声があがった。それは、聞き覚えのある声で、言葉はきっと〝ちくしょう〟だった。驚いて立ち上がり、辺りを見回すと、少し遠くの方に、正邪の姿を見つけた。正邪の手には野球ボールほどの大きさになった迎撃ミサイルが握られていて、私がそれを確認するが早いか、正邪は駆け出して、声を上げた。
「世界の終わりだってのに、どいつもこいつも! ああ、くそお!」
 有象無象にぶつかりながら走る正邪は、どうやら彗星の落下地点の真下に、出来るだけ近付きたいらしかった。それに気がついたチンドン屋の誰かが大音声で叫んだ。それは、そのひと、彗星になにかしたいんじゃないかな、的憶測だったが、この世の終わりに出来るだけ楽しみたい有象無象は、そういうことなら、と喜んで道を空けた。殊勝というかなんというか、世界の終わりって、みんなこうなの?
「ちょいとそこの小人。なあ、たしかあれは、あんたの知り合いだろう。あいつが手に持ってるあれは、なんだ。花火か」
 不意に、一角の鬼が私に声をかけた。鬼は走る正邪を指差しながら、愉快そうに笑っている。
「さあ。でも多分、花火とか、そういうものだと思うよ。そうじゃなくても、いまから、どうせそうなっちゃうんだ」
「へえ。だってさ、萃香。よかったな、この世の終わりに、花火が見られるぞ」
「よっしゃ。そういうことなら、もっと近付いて見なきゃ損だね」
 鬼の二人組は笑い合って、そのまま正邪を追いかけに行った。なんで、私と正邪のことを知ってるんだろう。鬼も新聞、読んでるのかな。ざわめきの中、そんなことを、ぼんやりと考えていると、みんながわっと声を上げた。どうやら正邪が何かしたらしいが、人混みが邪魔で、何も見えない。
「ほれ針妙丸、私の肩に乗るといい。いやあ、霊夢がやってるのをみてな、前々から、一度乗っけてみたいと思ってたんだ」
 白黒のひとが胡座をかいたまま、私に言った。
「霊夢の肩に乗ったことなんて、あるかな。あるとしても、異変直後の、縮んでたときだと思うんだけどな」
 白黒のひとがいいから、と急かすので、私は仕方なく、その肩に跨った。白黒のひとは私を乗せたまま胡座を解いて立ち上がるので、私はどうしたってひっくり返りそうになってしまい、思わず白黒のひとの顔を掴んだ。
「いて、目はやめろよ」
「そ、そっちが無理な姿勢で立とうとするから……あっ」
 開けた視界には正邪を囲む有象無象と、地面に両膝と両肘をつけて、空を睨む正邪の姿があった。
「せーじゃ、投げたみたい! あの、手に持ってたやつ!」
「ほんとか。ああ、人が邪魔で私には見えないぜ。お前がみて、教えてくれ」
 夜空にミサイルを探すと、すぐに見つけることが出来た。大きさこそ、私が小槌を振ったままだが、ミサイルはミサイルらしく、彗星に直撃せんと火を噴いていた!
「あ、すごい! ほんとに花火みたいだよ。魔理沙、みててね。今に花火があがるから、正邪が投げたやつがさ!」
「だから、私は見えないんだよ。なあ、いい加減手をどけてくれ」
 白黒のひとが見えないのは、ほんとうは、私がその目を、手のひらで覆っていたからだ。私に目を覆われて、やおらそわそわし始める白黒のひとをみて、みんな、笑っていたけれど。ほんとは、みんなの目だって覆ってやりたかった。正邪の投げた賽の目を見るのは、私だけがよかった。けれど、仕方ない。誰もが夜空を仰いでミサイルの軌道を追ってるし、たまやとか、かぎやとか、そこらへんのことを叫びだしたくてたまらない人たちは、直撃へのカウントダウンまでしてる。こうなったらぜんぶ、白黒のひとにもちゃんと、教えてやることにしよう。
「あとね、もう少しで、彗星にあれがぶつかるよ! そしたらきっと、うんと大きい花火が上がるんだ」
「いいから、もう手をどけてくれよ。頼むから、私だってその、花火とやらを自分の目でみたいんだよ」
 紅白がいいのよ、そのままにしときなさい、と言うので、私は手をどけてやることをしなかった。白黒のひとはもはや私を振り払おうと体をよじったが、無駄だ。そんなことをしても、私の手のひらがその眼窩に食い込むだけなんだから。
「ほら、魔理沙。しっかりみててよ、もうすぐ、もうすぐあれが彗星に直撃する! ほら、さん、に、いち……あれっ」
 そのときだった。彗星に直撃寸前まで接近したミサイルはぴたりと動きを止めてしまった。瞬間、そこかしこから落胆の声をあがり、宴会場はどよめいた。
「……そんな、おかしいわ。あの迎撃ミサイルは彗星に直撃するまで絶対に動きを止めたりしないはず……。なにか、他の、なんらかの力が干渉しない限り……」
 うつ伏せで地面に這いつくばるゾンビのひとが有り難くも私の非を教えてくれた。ミサイルが動きを止めたのはどうも、私のせいらしかった。
 宙で動きを止めたミサイルは不意に巨大化した。というよりも、小槌の力が切れて、元の姿に戻ってしまったのだ。ミサイルはそのままゆっくりと下を向いて、落下を始める。
 宴会場は静まり返った。さっきまであんなに騒いでいたのに、どうしてだろう。やっぱりなんだかんだいって、みんな、世界の終わりは恐ろしいのかもしれない。ああ、私もようやく、なんだか恐ろしくなってきたぞ。
 落下するミサイルを尻目に、彗星は地上への接近を続ける。そのうち、あたりに地鳴りのような音が響きだした。しかし、誰も、なにも言葉を発さない。みんなただ呆然と、接近する彗星を見つめるのみでいる。
「あ、ああ! いやだ、いやだ! 仕事が増えるのはいやなんだよお!」
 瞬間、どこからか声が響いて、彗星の動きが止まった。止まったというよりも、前進しながら後退してるような、そんな感じなのだが、とにかく止まった!
 私だって、正邪のせっかくの選択が、中途半端で終わるのは嫌だ!
「せーじゃ!」
 私が叫ぶと、正邪は這いつくばったまま、片腕を地面に振り下ろした! すると、周囲がざわめく。ミサイルの落下はグンと止まり、またゆっくりと、上を向き始めている。
「……くしょう……ち……くしょう……ああ! ちくしょう!」
 あいつはもう一度、握りしめた片手を勢いよく地面へと振り下ろした。すると辺りはいっそうざわめいた。ミサイルはもう完全に上を向いて、彗星へと落下を始める。誰もあいつなぞ見ちゃいないが、宴会場の全員が、きっとそれを理解したに決まってる!
「くそ、くそ! ちくしょう! ああ! 畜生!」
 正邪は叫びながら何度も何度も地面を叩く。その度に、ミサイルは勢いを増して彗星に急接近するから、みんな、軽薄にも、カウントダウンなぞし始めて、正邪の声は聞こえなくなった。
『さん! にい! いち……』
 けれど、正邪が口を大きく開いて、血まみれの左手を強く振り上げた瞬間を、私の瞳は、確かに捉えてみせた。ああ、私はどうも、あいつに意地悪をしすぎてしまったかもしれない。
『……ぜろ!』
 瞬間、終末の宴会場は眩い光に包まれた。
「魔理沙、下ろして!」
「え。あ、ああ……」
 光の中、私は方向だけを頼りに正邪の元へと走る。人混みを抜けて、何度も抜けて、やっと、足元にそれらしい気配を感じた。
「おいせーじゃ。よくやったじゃないか。おい、聞いてるのか。おい、おいったら!」
 何度呼びかけても、何も、答えない。もしかすると周りの歓声で聞こえていないのかもしれないから、何度も呼びかける。しかし、満ちた光を夜が塗りつぶすまで、返事は帰ってこなかった。
「あ、あ、あんまり揺すんないでおくれよ。こちとら大仕事の後で、疲れてるんだ」
「ご、ごめんよ」
 それもそのはず、私が呼びかけていたのは先程の、名も知らない赤い髪の女だったのだ。他人の名前で呼びかけられて返事をするものはいない、当然である。
 辺りでは、彗星があんまりに綺麗サッパリと消えるものだから、味気なさに落胆の声をあげる者達がいたようだ。しかしそれでもおおよその割合を占めていたのは笑い声で、チンドン屋だって、再び楽器を鳴らし始めていた。
 祝杯を屋台に求める人々が動き出して、私はそれにもみくちゃになりながら、正邪を探す。だけど、すぐに見つけられた。和やかな喧騒の中で泣いてるやつなんて、あいつぐらいしかいないから。
 近づくと、正邪はまるで少女のように泣いていた。ぺたん座りとか、女の子座りとか呼ばれる例の座法で、掌底や手の甲で涙を拭っているものだから、私はおかしくて、つい笑ってしまった。
「おいせーじゃ。泣くほどいやだったんなら、あんなもの、探さなければよかったじゃないか。せっかく隠してやったのに」
「う、うるさい! あんな、元の場所から動かさずに、何が隠しただ! くそぉ、くそぉ……」
「あはは! いやいや、よくやったじゃないか、せーじゃ。おかげでほら、みんな楽しそうに笑ってる」
「だーもう、うるさいよ! こちとら、こちとら最後のチャンスだったんだぞ! この機を逃したら、もう二度と、下剋上なんて! お前の、お前のせいだ針妙丸、全部お前の!」
「まあまあ。願ったものが物が手に入らなくて傷付くなんて、私たちには慣れっこじゃないか。それに、最後のチャンスなんて、そんな世界の終わりみたいな言い方するなって。世界は救われたんだから、お前のおかげでさ」
「ちくしょう、ああ、ちくしょう!」
 正邪はわーっと泣き出すもんだから、私はどうしても面白くて、笑い転げてしまった。そのうちに正邪は走ってどこかへ行こうとするけど、そうはさせない。
「は、離せ!今はこれ以上皮肉を言われるのはごめんなんだよ!」
「離すよ、私が、話したらね。……その、おまえは今日、自分の心に従って、やりたくないことをやり遂げたわけだろう?だから、その、私も話したくなかったことを、ずっと、話したくなかったことを、話してやろうと思ってな」
 それはなんというか、私にとって恥ずかしい話ではあったから、話すのにはなかなかに勇気がいるのだけれど、いい機会だし、話してしまおうと、私はそう、思ったわけだ。
「いやだ!聞きたくない!」
しかしこいつはそう言って、掴んだ手を乱暴に振りほどいては、走って逃げていく。やっぱ、腹立つな、こいつ。
「じゃあいいよバーカ!死んでしまえ、二度と帰ってくるな!死ね!」
 死ねは言い過ぎかもしれないが、私は振り返ることもなくバカとかアホとかそんな返事を叫ぶあいつの背中に、思いつく限りの罵声を浴びせ続けた。だけど。
 ああ、やっぱりいいや。言わなくたって。

 りんご飴でも、買って帰ろう。



 滅亡を逃れてからしばらくの間、世界は連日お祭り騒ぎを繰り広げていたが、一ヶ月も経てばすっかり元の落ち着きを取り戻して、誰もが日常へと帰っていた。
 私にしたってそれは同じだ。ダイニングテーブルの上にはスパゲッティなんかが置かれて、寺子屋帰りの子供達の声が響き、長屋はテレビの音が混じって、とても静かな午後に揺られている。そういえば、私がスパゲッティと呼んでいるこの麺は、どうやら、ほんとうはパスタというらしい。そして、今食べている料理はナポリタンとか呼ぶらしいが、たぶん、嘘だと思う。スパゲッティはスパゲッティだし、何より、あいつの話が本当なわけがない。
 あいつは、やっぱり今も帰らない。
 けれど、代わりに今現在、私の視線の先、四角形の画面の中に映っている。なんでも世界を救ったヒーローとして、インタビューなぞを受けているようだ。
 口先では綺麗なことばかり宣っているが、その手はきっと薄汚れていた。だって両手に、何やらずっと、靄がかかっているから。靄はたしかモザイクといって、映してはいけないものを隠すためのものらしい。
 まあ、世界を滅亡の危機に追い込んだ手だ。モザイクをかけるのが、妥当だろう。
『いやあ、どうですか! 世界を救って、インタビューを受けるためにスタジオに来た気分は!……へえ、へえー。なるほどー! あっ、すいません、ちょっとその手をやめてもらっていいですかね。それモザイクかけなきゃいけないんですよ。なぜか私が編集をやらされるので……え? むかし溶接の仕事をやってたときの後遺症で? 手がその形から動かない、ですか。へえ、それはまた月に似――』
 アホか。何が溶接だ、まっとうに働いたこともないくせに。
 しかしまあ、テレビというものはつくづく、一方的なものだ。つけてればなんとなく寂しさが紛れるけど、どうも、腹が立ったときは電源を消して、こっちが泣き寝入りするほかない。ああ、そうか、あいつはテレビと似てるんだ。
 私はそんなことを考えながら、置き忘れた牛乳を取りにキッチンへと向かう。ああ、いかん。スリッパを履いていかなければ。じゃないともっと、腹が立つ。
 再び席について、スパゲッティを食べ進める。牛乳だって、ちびちび飲む。
 しかし、部屋があんまりに静かだから、私はどうしても、テレビの電源を入れてしまう。
『――きに似たこの世界を救うにあたって、なにか、支えとなった人物等はいらっしゃるんでしょうか。……へえ……へえ。通ってる定食屋のおっちゃんですか!なるほどぉ。それでは、カメラに向けて、そのおっちゃんに向けてなにか一言を!……あっ、すみません、その手をカメラの前に突き出すのはやめてもらえませんか。モザイクいっぱいじゃ、流石に使えなくなっちゃいますから――』

 はは、定食屋ね。



   革命前夜


私がそいつに会ったのは、逆さまの城の中だった。

城の最下層に位置する天守閣。
広くて狭い檻の中で、そいつは本を読んでいた。

そいつは牢の中から血まみれのわたしを見つけても、驚く様子もなく再度、視線を本へと落とした。

そいつの名前は少名針妙丸。
小槌の魔力に溺れた、忌まわしき小人族の末裔。無知で愚かな小人族の、唯一の生き残り。

わたしはそいつを姫と呼んだ。

牢の鍵を開けてやると、少名針妙丸は流石に驚いた様子でわたしの目的を訪ねてきた。

計画の「一部」を聞かせてやると、少名針妙丸は瞳を輝かせて言うのだった。

お前の計画に協力したい。

そうして、少名針妙丸は、わたしを「せーじゃ」と呼んだ。


「せーじゃ?せーじゃってば、聞いてんのかよー」
そう呼びかける小人の声で我に帰る。
「ああ姫、すみません。少し、姫と出会ったときのことを思い出していました」
針妙丸とわたしは森の隠れ家の中にいた。
素晴らしき革命を明日に控えた幻想郷の視察のためだ。
しかし、既に空は黒く染まり、そこには大きな丸い月と、小さい星の屑がチカチカと疎らに散らばっているのみだった。

ところで、わたしは天邪鬼だからって常に嘘しか言わないわけではない。そんなの、頭がこんがらがって仕方ないし、なにより嘘を相手に信じ込ませるには、程よく正直でいるのが一番だ。

「そうやって、またすぐ嘘ついて。天邪鬼ってみんなそーなの?」

しかし、先入観というのは恐ろしいもので、天邪鬼であるわたしの言葉を信じる者は少なかった。

木々の立ち並ぶ森の中、重なり合う枝葉の隙間から青白い月明かりが漏れ出して、微かな虫のざわめきが、穏やかな夜を縁取っている。

「せーじゃ、また壁の中から音がしたんだ。これはもう間違いないよ」

わたしたちの住まうそれは隠れ家とはいっても、森の中でとりわけ大きな木の「うろ」をみつけて、それを簡単に掃除をしただけの空間だった。針妙丸は初めこそ「虫が出る」などと言って嫌がっていたが、わたしがそこらへんから拾ってきた防虫剤を設置すると、信じられないものを見るような目でわたしを凝視したが、そのことについてそれ以降は何も言わなくなった。

「間違いない、とは?」
そんなの、虫に決まってるだろう。
「虫に決まってるだろ!やつら、やっぱり私が眠るのを待ってるんだよ。間違いないね。おいせーじゃ、このままじゃ計画実行を前にして、私は虫に食われてしまうよ」
針妙丸とわたしは輝針城を出て直ぐに幻想郷の視察を始めた。計画を実行するにあたって、使えそうな〝道具〟を探すためだった。
もちろん針妙丸には他の理由を用意した。
あれ?
あのとき、わたしはなんて説明したっけな。
どうにも思い出せないが、それは思い出せないほど下らない理由だからだろう。
兎も角、それから三ヶ月程の日々を視察に費やした。ちなみに、この隠れ家をみつけたのも、視察を始めてすぐのことだった。

そんな中で、少名針妙丸という小人が、案外冗談の通じることが分かった。
「差し上げた防虫剤が、あなたを絶対にお守りしますよ。だから今日くらいは針などは手離し、安心して眠ってください。姫には明日が控えてるんですから」
例えば、わたしが防虫剤を設置したにもかかわらず、針妙丸はこの隠れ家で眠る際、自らの武器である針を手放すことはなかった。
「お前が川で汲んできた水に、防虫の効果があるとは到底思えないんだなぁ。わたしには」
正直、気が合うと感じていた。
「何を仰いますか。姫さまがご存知ないのは仕方ないかもしれませんが、どうやらこの世界には〝ぷらせぼえふぇくと〟という法則が存在しているらしいんですよ。なんでも、たとえ、その水に防虫の作用が無かったとしてもですね、姫自身がその水の防虫の作用を信じていれば、その、なんの変哲も無い水は確かに防虫の効果を発揮すると、そういう話らしいですよ」
似た話で〝引き寄せの法則〟なるものがあるらしいが、わたしはどちらも信じていない。なぜなら、針妙丸が虫と戦うところをどうしても見たかったわたしは、この三ヶ月間眠る前には必ず、針妙丸の寝床に虫が現れることを願って眠ったのだが、結局今の今まで何も起きていないからである。
それは、この世界にそんな法則の存在を否定してること他ならなかった。

仮に法則が存在していたとするならば、小人族は虫も寄らないほどに忌み嫌われているという事になるだろう。
それは、天邪鬼にも同じことが云えるが。

そもそも、そんな〝願えば叶う〟ような法則が存在しているのなら、わたしは逆さ城から針妙丸を解放しようなどとは考えない。

「そんな法則が存在していたら、せーじゃとわたしの〝弱者が虐げられることのない平和な世界〟って目標はとっくに叶っているはずだろ?欲するだけで手に入るなんて、そんな都合の良い話あるわけないよ。欲しいものを手に入れるなら、対価を払わなきゃ」
小人族のように。と、続くかと思われたが、針妙丸の言葉がそれ以上続く様子はなかった。

針妙丸は、何時も一切の皮肉を口にする事はない。防虫剤の話にしたってそうだ。わたしが、防虫剤を半ばただの水であることを認めても、その嘘について言及することはなかった。嘘か本当かわからない言葉に対して懐疑的な姿勢を示すことはあれど、確実に嘘だとわかるものについては徹底的なまでに言及しなかった。
恐らく針妙丸は、そういった数々の言葉の裏を〝敢えて〟無視している。
自己防衛の一種か何かは知らないが、言葉の裏の意味に気づいた上で、針妙丸はそれを無視しているようだった。
何度か分かりやすい嘘を吐いて試してみたが、やはり絶対的な嘘に対して針妙丸の姿勢は頑なだった。

そういった針妙丸のある種一貫性のある態度は、わたしに或る事を確信させた。

少名針妙丸は、わたしの本当の目的に気付いている。

「対価ですか。いやあ、さすが。小人族らしいお言葉ですね」

「……どういう意味だよー!まったく!せーじゃはたまにズレた返し方するよなーほんと!」
ほら、やっぱり。
針妙丸の表情が一種曇るのを、わたしは見逃さなかった。

「ははは。ちょっとズレてましたか?やっぱりなー。わたしもズレてるかなーとは思ってはいたんですけどね。ははは」

かつて一人の小人が、小人族全体の繁栄を願った。小槌が一人の小人に求めた対価は、小人族全体の衰退だった。
ははは。

「あーもういいよ!やっぱりさ、今日は寝ないでさ、こないだ呑んだ人里の居酒屋に行こうよ。そうして朝まで飲み明かすんだ。前祝いだよ、前祝い。なー?行こうぜせーじゃー」

あー、そんなこともあったな。
「姫、それはなりません。何度も言うように、姫には明日大事な役目があるのです。それに、あの店にはもう出入りできないじゃありませんか。姫のせいで」


針妙丸が珍しく視察しておかなきゃならない場所があるなんて言うから、そのときは感心したんだが、わたしが連れて行かれたのは居酒屋だった。

針妙丸曰く、情報を集めるなら酒場が一番、とのことだったが、わたしは正直ピンとこないまま店に入った。

しかし、そこで思わぬ収穫があった。
店の中には妖怪が二体。人間に紛れ、愚痴を肴に酒を飲み交わしていたのである。
わたしはそいつらの会話に耳を澄ましてみた。
「だいたいさー、なんで人間よりも何倍強い私たちがさ、金なぞ支払わきゃならんのかなー。酒飲むために働いてまでさー」
「わかるわー。ばんきちゃんなんて、人間たちにおせきちゃん、なんて馴れ馴れしい呼ばれ方されてるのよね。なーにがおせきちゃんですか、喰らうぞこらって感じよねー」
「まあ、ばんきちゃんもおせきちゃんも、呼び方としては大差ないと思うんだけどな。呼び方はともかくとしてさ、馴れ馴れしいんだよ、人間風情がさー。博麗さえいなければなー。そうしたら今頃、酒なぞ飲まなくても人喰って満足できてるだろうに」
「でも、ばんきちゃん。私ね、人間の作る麦酒だいすき。もはやこれがないと生きていけないわ。ある種私はもう既に、人間に支配されちゃってるのよ。こわいわー人間こわいわー」
「たしかに。人間の作る酒はやめられないな、私も。あーあ。妖怪に管理されてるはずの人間たちに管理されちゃってるんだなー、私たちって。あの紅白もなまら強いらしいし、なんか、情けなくなってきたなー自分が。これはもう、やっぱりあれだな」
「うんうん。呑むしかないよ、ばんきちゃん」
なんだか情けないやつらだが、計画の駒としては十分な思想を持っていた。
「そういや外の看板みた?なにあれ〝妖怪と思しき方の飲み放題の注文は拒否させていただきます〟って、あまりにも差別が過ぎるよなー」
「あー、なんかここで蟒蛇って奴が飲み放題で元を取るほど飲み散らかしたって話よ」
「あー、あいつか。馬鹿だなーあいつ。ほんとあほ」
「ねー。しかもその蟒蛇ってやつ、妖怪だってことが店にばれた直後、博麗に割られたらしいわ」
「なんだよ割られたって。え、なんだろ、割る?わかんないけどおそろしーな。影狼、私たちも気をつけようなー」
「ほんと。おそろしーわ、人間。あーあ」

暮れも早々にして酒を飲みクダを巻く妖怪たちの会話を聞き飽きた頃、酒に顔を赤らめた針妙丸が私に訪ねてきた。
「なあせーじゃ、蟒蛇ってやつが悪いのに、なんで全ての妖怪から飲み放題注文の権利を奪う必要があるんだ?」
「妖怪ってのは基本大酒飲みですからね。それを見越しての対策なんじゃないですか?人間なりの」
「ふーん。じゃあ、せーじゃも結構呑めるってわけだ?」
針妙丸が何やら挑発的な表情をするので、わたしは少し、こいつをいじめてやりたい気分になった。
「もちろんですとも。わたしはこれでも鬼の端くれですからね。そんじょそこらの妖怪の呑む量の倍は軽いもんですよ。まして、体の小さな小人族なんて比にならないでしょうね」
針妙丸はカチンときた様子で喋り出す。
「言うじゃないか。これはもうアレだな、アレしかないよ」

「飲み比べをしようじゃないか」

単純なやつだな、と、わたしは思った。


「あれは私のせいじゃないだろ!お前が酔っ払って、店の中で演説を始めるからいけないんだ。そのせい関係ないあの妖怪たちまでまで出入り禁止になったんだから。反省しろよなー」
演説なんてしただろうか。記憶にない。
そもそも飲み比べを始めてから店を出るまでの記憶は曖昧だった。
店を追い出されたことは記憶にあるのだが。わかってはいたが、どうにも、わたしはあまり呑めないたちだった。

「酒は進めた方にも責任があるんですよ、姫。下戸にあんな量の酒を飲ませた姫がいけないんです。反省してくださいね。あ、でも帰り道の川で吐いたゲロの量はわたしの方が断然上でしたね」
針妙丸は驚愕、といった表情を浮かべて私を睨んだ。
わたしを睨むこの目が、例の〝信じられないものを見るような〟目である。
やっぱり面白いな、こいつ。
「当たり前だろ。せーじゃと私じゃ、飲める絶対量が違うんだから。しかも、飲み比べは呑める量を競うものであって、吐いた量は関係ないだろ。きたないよ、はなしが。だいたい、弱いなら弱いって、正直に言えよな。まったく「天邪鬼ですから」

声を被せてやると、またしても針妙丸が眉を潜め、わたしを睨む。
微妙な表情だ。
これがなかなか癖になる顔で、わたしはこれを見たいがために、必要以上に針妙丸をからかってしまうのだった。

「はぁ。お前と話してるとますます眠気が遠のいていく気がするよ。もう、あの店じゃなくてもいいから何処か行こうよ。そうだ、前に見た湖に行こう!あそこなら、ここからそんなに離れてないし。ね、そうしようよ」

えー、行きたくない。面倒だ。
それに明日はいよいよ満願成就の日だというのに、どんだけ眠りたくないんだこの小人は。

「あー、二日酔いの朝に姫に無理やり連れていかれた湖ですか。うーん、姫もあそこは微妙だって仰ってたじゃないですか。陽が反射して眩しいわ、いきなりどっかから氷の塊が飛んでくるわで、散々でしたし。それに、あそこってここからそんなに近くでしたっけ。わたしは相当歩いたような気がしますけど」

「近いよ近い!せーじゃは二日酔いで歩くのが辛かったからそう感じるだけだよ。それに、上に登れば、ここからだって見えるんだよ。付いてきてみてよ」

そうか、二日酔いのせいで距離を長く感じたのか。そういえば湖につくなり吐いたのを思い出せるな。
しかし、上に登ればとはどういうことだろう。わたしたちが隠れ家としているこの木のうろの中に、上へ登るための機構があるとは思えない。

針妙丸はうろの外へ出るが早いか、樹皮をつかみ、樹木の大きな根に足をかけるのだった。
あー、やっぱり、登るのか。
こういうとき、なんで飛ばないのかな、こいつ。
器用に樹木を登っていく針妙丸を眺めていると、針妙丸が振り向いてこちらを見やった。
「せーじゃ、なにしてる。はやく来いってば」
そう捲し立てる針妙丸の表情は、何やら充実感に満ちた爽やかな笑顔だった。
妖怪や人間の中には自分の筋肉に負荷をかけては喜ぶ輩がいるが、負荷をかけている最中、奴らはちょうどあんな感じの笑みを浮かべる。馬鹿のする表情だ。あれは。
なんで、こういうとき飛ばないのかな、あいつ。
再三再四同じような疑問が過ったが、針妙丸を姫と呼んでいる手前、わたしも同じように木登りせざるを得なかった。
なんで、飛ばないんだろ、こいつ。
わたしはとりわけ丈夫そうな樹皮に、手をかけた。

「ね?思ったより近くでしょ。ここからでも、よく見えるんだから」
針妙丸の言う通り、湖は思ったより近くに在った。というより、目の前だった。背丈の低い針妙丸はともかく、わたしの足なら五分もかからず到着するだろう。

木々に囲まれた広い湖は、月の光に照らされて、深い夜の闇の中に美しく浮かび上がっていた。黒く透き通る水面の上に、青白い小さな光が無数に踊っている。
「日中行った時はなんとも思わなかったけど、夜に見ると綺麗だね。なんだろ、あのキラキラしてる青白いのは」
必死になってやっと木を登り終えたわたしをよそに、針妙丸は樹木の枝に腰をかけ、涼しげな顔で湖を眺めている。
太い枝に腰をかけ、わたしはやっと、大きく一息をつくに至った。
「あれは姫の嫌いな虫ですよ、虫。おそらく蛍でしょうね」
わたしをさておいてスイスイと木を登っていきやがった針妙丸への報復に、少し意地の悪い返答の仕方をする。
「ふーん。ほたるか。本で読んだのより、ずっと綺麗だな。ねぇ、せーじゃはどう思う?」
針妙丸は目の前の景色に夢中になっているせいか、いつもより少ない数の言葉を訥々と述べる。
針妙丸に感想を求められたので、わたしは改めてまじまじと湖を眺めた。
「わたしは別に、景色なんて。眺めても、特別なにか、思うことは」
視界に映る湖は、悔しいけれど、綺麗だった。

森に吹く緩い風が、水面の月をゆらゆらと揺らす。

「ねえ、せーじゃ。私ね、思ったんだけどさ」
針妙丸は、湖を眺めながら口を開いた。
「私はね、虫が苦手なんだけど。いま、ほたるは綺麗だなーって、思ったの」
わたしも湖に見惚れながら、針妙丸の声に耳を傾ける。
「でもさ、あの湖には、ほたる以外にも、たくさんの虫がいると思うんだ。私はさ、多分、その虫たちを、綺麗だとは思わないんだろうな、って」
青白い小さな光は、よく見るとそれぞれ大きさが異なっていて、他より少しだけ大きな光や、他より少しだけ小さな光があった。その中でも、一際小さな光を中空の端の方に見つけ、わたしはその、一際小さな光をなんとなく眺めていた。
「ほたるのなかにもさ、大きいやつとか、小さいやつがいて、私達の目にはあんまり違わないけど、小さいやつは大きいやつに憧れたり、大きいやつは小さいやつに憧れたり、してるんだろうね。ねえ、せーじゃは今、どのあたりをみてるの?」
小さな光を追いながら答えた。
「あの、中空の左端の方ですよ。見えるかな、一際小さいやつがいましてね。特別強く光を放ってるわけでもないんですけど、群れから外れて一匹で飛んでるものだから、なんとなく気になって」
針妙丸はこちらをみるともなく答える。
「へえ。寂しくないのかな、そいつ」
「さあ、わかりませんが。でも、勇敢なやつですよ、どんどん、群れから一匹、離れていきます。あれは自分を他と比べること自体、していないのかもしれませんね」
「ふーん。自分と周りを比べることをしないなんて、大したやつだなあ。それじゃあきっと、欲しいものもなくてさ、自分さえいれば生きていけるやつなんだろうね」
「案外そうでもないかもしれませんよ。もしかしたらあいつ、みんなが付いてきてくれると思って飛んでるのかもしれません。そうして振り向くと、誰もいなくて、びっくりしたりして。それか、森の中で意中の相手と待ち合わせているのかも。なんにせよ、後悔しますよ、あとあと」

「あー、ほら。もう森の中に入っていって、見えなくなってしまいましたよ。うーん。じゃあ、姫は今どの辺りを見てるんですか?」
消えてしまった小さな光の代わりになるような箇所がないかと思い、針妙丸に尋ねた。
「私はね、一番でっかいやつ」
「というと、どの辺りですか?」
「えっとね、一番上の方かな」
わたしは、針妙丸の言う通りに蛍の群れの上の方、ちょうど月と湖の間あたりを探してみたが、特に際立って大きな光を放つ蛍は見当たらない。
「一番上の方って、どこらへんを……あぁ、あれのことですか」
「そう、あれのこと」
針妙丸は月を見ていた。
瞳に月を映した針妙丸の表情は、どこか遠くを見ているようだった。
まあ、月は遠いもんな、あたりまえだけど。
「私はね。小さい頃、蛍と違ってさ、自分と比べる相手がいなかったんだ。でも、人も妖怪もさ、相手にあって自分にないものだったり、自分の手が届かないものを欲しがるものでしょ。私にはそれがなかったんだ。檻の中のものは手を伸ばせば当然届いたし、檻の外にはなんにもないし。他人なんて、私を閉じ込めてる奴らしかいなかった。あんな奴らに憧れる要素なんてちっともなかったね。まぁ、三食くれたり、たまに本をくれたりしたことには感謝してるけどさ」
閉じ込めてる奴らか。
あいつらが、針妙丸に三食を与えたのは小槌を振らせるためだろう。
本をくれたのは、輝針城から出たことのない針妙丸に対する嫌がらせの一種だ。
全員、わたしが殺した。
「だからね、私の手が届かなくて、憧れられるものなんて、窓から見える月くらいしかなかったってわけ。丸くなったり、かけていったりしながらも、雲に隠れてたってそこにあるのが分かるくらいに、光ってて。そんな月を見ててさ、なんとなく思ったんだ。私が大人になったら、きっと、あれに手が届くくらい大きくなるんだ、って」
「でも、段々とさ、分かったんだ。自分は小人族で、大人になったって、月には手が届かないって。それからずっと、悔しかったよ。なんで自分は小人なんだろうって。なんで、欲しいものが手に入らないんだろうってさ」
夜空に浮かぶ薄い雲が、少し欠けた月を覆った。
「でもね、最近になって、ようやく気にならなくなってきたんだよね、あはは。ねぇ、せーじゃ、なんでだと思う?」
何も、思い浮かばない。
「さあ。大人になって、諦めでもついたんですか?」
針妙丸は、あはは、と笑った。
「私はまだまだ大人って年じゃないよー!まあ、小人族って大人になってもあんまり変わらないらしいから、他のやつらにはわかんないかもしれないけど。でも全然、私はまだまだ子供なんだよ。とにかくね。諦めたっていうよりさ、ようやく、受け入れられた、っていうのかな。小人族であること、月に手が届かないこと……他にも、いろいろ」
針妙丸はそういってまた少しだけ笑うと、今度は眉を潜めて俯いた。

緩やかな風の音が、静寂を縁取る。

「あのね、せーじゃ。私はね」
雲に覆われた月がまた、ゆっくりと顔を出す。青白い光は、針妙丸の顔を少しだけ照らした。
「ううん、やっぱりなんでもないや」
気がつくと、蛍が減っている。
「いよいよ明日だね、せーじゃ。眠れない、なんて言ってる場合じゃないや!明日に備えて、もうそろそろ眠らなきゃ」
蛍の光が、消灯時間を告げるように、一つまた一つと、消えていく。
「明日!私、頑張るからね。せーじゃも応援してよねー!……二人でさ、平等で優しい世界を作るんだもんね」
一つまた一つ、消えていく。
「せーじゃ、私は先に戻るね。じゃあ、おやすみ」

「……ああ、おやすみ。針妙丸」
蛍の光が途絶えた水面を、静かな月明かりだけが照らしていた。

なんか、変だったな。あいつ。
小人族であることを受け入れた、なんていってたけど、そんな風には見えなかったな。
笑ってたけど、なんか楽しくなさそうなんだよなあ。
まあ、そうだよな。
やられっぱなしのまんまじゃ、悔しくて、心の底から笑えるわけ、ないよな。
計画の準備は万端だ。
明日になれば全てが変わる。

わたしを虐げてきたやつらを殺して。
わたしを無視してきたやつらを殺して。
わたしを軽んじてきたやつらを殺して。
お前を虐げてきたやつらも殺して。
お前を無視してきたやつらも殺して。
お前を軽んじてきたやつらも殺して。
あいつも殺して、こいつも殺して。
どいつもこいつも殺してさ。
みんな、こわしてやるから。
力も無いくせに一丁前に権利を主張する人間どもも、人間を管理した気になってる妖怪どもも、その上に胡座かいてる神格どもも、みんなひっくり返してさ。
こんな世界、こわしてやるから。

そうすれば、わたしは楽しいよ。
そうすれば、わたしも笑えるよ。
お前だってそうだろ?針妙丸。

そうしたら一緒に、地面に這いつくばる奴らを指差して、笑ってやろうじゃないか。
ざまあみろってさ。

少しだけ欠けた夜空の月は、針妙丸の透明な笑顔によく似ていて。
ああ、わたしの願いが叶ったら、あいつはどんな対価を払うのかな。

延々と続く夜の闇は、次第に白んでいった。

「さあ、姫」
慄える針妙丸の手に、わたしは自分の手を添えた。
「うん」
そうして、わたしたちは世界に小槌を叩きつけたのだった。


……。

「いやぁ皆様方!少しだけ、わたしの話に耳を貸していただきたい。今からするのは、わたしと、そして皆様方ご自身のお話です。まずは自己紹介をさせていただきましょうか」
「わたしは鬼人正邪と申します。種族は天邪鬼。えー、こんな種族で生きてきたものですから、それはもう様々な辛酸を舐めてきました。酒席ですから、詳しい話は省きますが。あー、そうですね、一つ、そこまで暗くないもので印象に残っているのがあります」
「わたしはその日どうにも腹が痛みまして、どうにかならないものかと腹を押さえながら妖怪たちの集落のような場所をふらついていました。すると、なんの妖怪かまではわかりませんが、角を生やした妖怪の子が腹を押さえたわたしをみつけるなり指を指して云うんです『ああ、天邪鬼が腹を隠して歩いてら!わかりやすい天邪鬼もいたもんだ!腹なぞ隠さなくても、お前ら天邪鬼の腹の色は知れ渡ってるってのに!』なんて。わたしはそれを聞いて、腹痛はさておき。ああ、言われてみるとその通りだなぁと、妙に感心してしまいましてね。それから、なんとなく腹に手を添えるのが癖になって、それがどうも落ち着くようになってきたんです」
「今お話ししたのはほんの一例ですが、わたしはこのように、お前は天邪鬼だから〝こう〟なのだろう、といった偏見の眼差しを受けてきました。しかしながら、それは、皆様全員にも同じことが言えるでしょう。心当たりはありませんか?恐らく〝お前はこうだから、こうなのだろう〟そんな風に決め付けられて、思うように主張が、会話が、出来なくなってしまったことがあるでしょう。少なからず、そこにいる妖怪のお二方は身に覚えがあるかと存じます。えっ、盗み聞き?いやいやとんでもない、お二人の声が大きくて、自然に聞こえてきただけのことですよう。えっ、よくも妖怪だとバラしたな?これは失礼しました」
「さぁ、人間の皆さんはこのお二方が妖怪だと聞いて騒めき始めましたね。ほうほう、酒がまずくなる?こんなところには恐ろしくていられない?はい。わたしが言いたいのはまさにそれです。あなた方人間は、妖怪の存在を見つけると、逃げ出したり、罵声を浴びせたり、攻撃を始めたりします。それは一体なぜでしょう?妖怪が憎いから?恐ろしいから?そうではありません。それは、あなた方が人間だからです」
「人間は、この幻想郷に生まれた以上は被食者という、ヒエラルキーの下層に位置します。ヒエラルキーの頂点には、もちろん妖怪やら神格やらが位置しています。幻想郷に生まれた以上、それを知らずに生きていくのは不可能でしょうね。だからこそ、あなた方人間は、人ならざるものを見つけ次第に逃げ出したり、恐れたり、攻撃を仕掛けたりするのです。ときに、下を向いて歩いていると、わたしの足音に気付いた蟻達が一目散に逃げているのを見つけました。それが、ヒエラルキーの下層に位置するものの正常な行動なのです。しかし、わたしはそれが嘆かわしい!踏み潰される蟻の恐怖や憤りを考えると、とてもじゃないがまともではいられません」
「なので、わたしは人を食べたことは一度としてありません。えっ?あ、あぁ、少し腹が痛みましてね。こほん。しかしながら、わたしとて潔白ではいられないのです。人を食べずとも、管理された家畜たちの肉を食べています。道を歩けば、気付かぬうちに蟻も潰して歩いているでしょう。それは悲しいことではありますが、食べられる為だけに生まれる命も、気付かぬままに踏み躙られる虫達も、人一人が生きていくための仕方のない尊い犠牲というほかないでしょう」
「物言わぬ彼らについては、それで済ませる他ないのかもしれません。ですが、あなた方はそうではない!あなた方は、気付かれぬままに踏み潰される蟻ですか?あなた方は、食われるためだけに管理される家畜ですか?もちろん、違います。人間にも妖怪にも、同じように意思があります。ならば、人間と妖怪、どこに差があるというのでしょう。いくら能力に差があるとはいえ……同じ自由意志を持つ……あれ?」

「そういえば、皆様はどうしてわたしが天邪鬼と名乗った時、何事もないかのように振舞っていたんです?天邪鬼を知らないなんてこと、ないでしょうに」

「え?そんな小さい子供に飲み比べで負けるような妖怪は怖くない?いやいや、何を仰いますか、そもそもこいつも妖怪みたいなもので……いや、そのまえに、負けてませんから、飲み比べ。ほら、まったくをもって呂律も理路も整然としているじゃありませんか」

「ええ?結局なんの話か、と?……あれぇ、ええと、なんでしたっけね。ははは」

「いやぁすみません……。どうも今日は楽しくて……あはは。……いい店ですね、ここは」

……。

暮れ。
計画の実行から一週間が経ち、私は次々とやって来る追っ手から逃げ回る日々を送っていた。

計画は失敗した。
わたしの計画は半ば未遂で幕を閉じたが、結果、わたしは指名手配を受ける身となった。
たった今も、緑の髪をした巫女を撒いたばかりで、わたしは枯れた木の陰に隠れて、乱れた呼吸を整えている。

どいつもこいつも、楽しそうに人を追いかけやがって。どうやらやつら、誰がわたしを一番に捕らえられるかで賭けているようだ。

今は防戦一方だが、いずれは攻勢に打って出てやる。

そうして、木陰で気力を回復させていると、ふいに、空から声が響いた。

「おい!」

もう次の追っ手がきたか。
わたしは即座に木陰から逃げ出した。

「おい、待つんだ!」

背後からする声に脇目も振らず、一目散に駆ける。

「おいせーじゃ!もうやめにしよう!」
あぁ、誰かと思えば。

「これはこれは。誰かと思えば、姫じゃありませんか。こんなところで油を売っている暇があったら、あの紅白の人間に胡麻でも擂ってきたらいかがですか」

計画の主犯であるわたしに利用されていた針妙丸は、一応共犯者であることには相違ないとのことで、わたしが逃げ回っている間、その身は博麗の巫女の預かりになっていた。
その針妙丸が、いまさらわたしに何の用があるというのだろう。

「まだ私を姫だなんて!計画は終わったんだよ。せーじゃ、お前だってわかってるだろう。お前の願いは、ここでは叶わないよ」

わたしが、何をわかってるというのだろう。
針妙丸、計画が一度失敗しただけでそんな風に諦められるお前に、わたしの何がわかるというんだろうな。
お前のいうことの何一つ、わたしにはわからないね。

「何を仰いますか姫。計画が終わった?たかだか一つ失敗しただけではありませんか。尤も、小槌の力はもう使えませんが、わたしは至って健全ですよ。心に諦めのあの字も浮かばないほどにはね。見ていてください。あなたの協力を得られずとも、きっとこんな世界はひっくり返してみせますよ」

針妙丸の眉間が歪む。

「どうしてお前はそこまで計画に執着するんだ!」

どうして?何を、今更。
嘘つきめ。
お前だって復讐がしたかったんだ。
お前だって、わたしたちを種族という理由だけで虐げ、無視してきた奴らを。小槌欲しさに集ってくる現金な悪党どもを、殺したかったんだろう。それを今更、どうしてだって?
お前が小槌を振ったらどうなるか、何もかもわかっていながら協力しておいて、何を今更!

「どうしてって、楽しいからに決まってるじゃないですか。わたしはね、それをすると、楽しいんですよ。ははは」

「違う。せーじゃはそんな風に思ってない」
針妙丸の声は震えていた。それが怒りによるものなのかどうかは、わたしにはわからない。

「姫、あなたにわたしの何がわかるというんです」

「わかるよ。せーじゃは、私と同じだろう?」

そうだな。
「違いますね」

「お前は寂しかったんだ。自分を、天邪鬼だからという理由だけで虐げられて、無視されて、決め付けられて、寂しかったんだ。許せなかったんだ。それでもお前はお前を無視する世界に認められたかった。天邪鬼である自分を肯定して欲しかったんだ」

きっと、そうなんだろうな。
「違う」

「私だってそうだ!だから、お前が私を解放しにきてくれたとき、血にまみれたお前を見ても何も感じなかった!輝針城から出るとき、私を幽閉していた奴らの亡骸を見て心が踊ったさ!ざまあみろって!だから、私はお前に協力しようって決めたんだ。私を小人というだけで私を無視してきた、虐げてきた世界をめちゃくちゃに壊してやりたかったから!」

ああ、なんだろう。
なんだか腹が痛むなぁ。

「でも、お前といた三ヶ月間、楽しかったんだ。初めて見た広い空も、生い茂る木々も、でっかい木のうろも、虫も、賑やかな人里も、酒場でクダを巻く妖怪たちも、二人で川を汚したことも、夜の湖も、全部。全部、楽しかったんだ。お前が私をからかって笑ったり、怒ったり、たまに、嘘かもしれないけど、褒めてくれたり、嘘かもしれないけど、優しくしてくれたり」

チクチクと痛む腹に、わたしは手を添えた。

「楽しかったんだよ。だから、お前と一緒に過ごせるなら、わたしを無視してきたこんな世界も許せるんじゃないかって、思えてきてさ。そんな風に思えるなんて、夢みたいだったよ。ほんとは、計画なんて、その時にはもうどうでもよかったんだ」

なのにお前は、小槌を振ったじゃないか。
「それでも私は、小槌を振った。……不安だったんだ。そうしないと、お前は私を置いてどこかへ消えてしまうんじゃないか、って」

そんなこと
「それは尤もでしょうねぇ。小槌を振らない小人族に好んで付き合う者はいませんよ」

わたしの口は勝手に動く。
わたしはわたしに、不可逆的に復讐を課したがっている。引き返せないところまで、行きたがっている。
ああ、でもそんなことをしたら、また一人になってしまう。

針妙丸は、わたしの言葉を無視して続ける。
「それでも私はね、私やお前を無視してきた汚い世界が、めちゃくちゃになるように願って小槌を振ったんだ。でも、失敗した」

「私はね、やっぱりか。って思ったよ。汚い世界をめちゃくちゃに壊したい、なんて願い、叶うはずないよなって。だって、三ヶ月、お前と一緒に過ごした幻想郷は、涙が出るほど綺麗だったから」

「私はね、わかったよ。輝針城から出た時のように、自分から一歩踏み出せば、幻想郷は私たちを受け入れてくれる、って。ここが、この綺麗な幻想郷が、私たちの生きていく世界なんだ、って」

そう語る針妙丸は、わたしの嫌いな表情をしている。
わたしのことを無視してきたやつらと、同じ表情。真っ直ぐで、瞳は希望に満ちていて、わたしのことなんて視界に映してくれないあいつらと、同じ。

ああ、もう既に一人だったのか。わたしは。
お前に、そんな表情をさせた奴が憎い。
殺してやりたいよ。
そいつのせいでわたしはまた
「ねえせーじゃ、降伏してよ。せーじゃが逃げ回ってる間、せーじゃのことを許してくれるようにいっぱい謝ったんだ。けど、やっぱり本人にその意思がないとダメだって言われた。それって、本人が謝れば許してくれるってことだろう?今ならきっと、まだ間に合うよ」

ここを越えれば、わたしはもう
「お願い。私はこの綺麗な幻想郷に、お前と一緒にいたいんだよ」
「私も一緒に頭下げるからさ、ね?二人ならきっと楽しくやれるよ」
「だからさ、お願い。お前と一緒じゃなきゃ、つまんないんだよ。お願いだよ、せーじゃ。降伏、しようよ」

こんなこと言ったら、どうなるかな。

「わざわざそんなことを聞かせにきてくれるなんて、光栄ですよ。姫」

針妙丸は一瞬の間逡巡したが、意外なほどにあっさりと、口を開いた。
「……わかったよ。もう、お前のことは諦める」

ははは。
こうなるよな、やっぱり。

「ご理解いただけたようで何よりです、姫。それで、どうする針妙丸。わたしを捕まえるのか?尤も、小槌なしのお前にそれができるとは思えないが」

これでわたしは、ようやく引き返せないところまで。

「それも諦めるよ。悪いけど、お前はここに置いていく。あぁ、やっぱり、手に負えないな。私には」

でも、もしもう一度やり直せるなら。
今度は、上手くやるよ。
わたしたちを無視してきた奴らを殺して。
お前にそんな風に変えた奴も殺してさ。
上手くやるから。
その時はどうかまた
「逃してくれるってわけだ。そりゃありがたいねぇ針妙丸。ただ一つ、わたしがお前に置いて行かれる?違うね。わたしがお前を置いていくんだ。お前の顔なんて、二度と見たくないね。それじゃ、またな」

「……」

黙って俯いたままの針妙丸に背を向け、わたしは歩き始めた。

数歩歩くと、わたしはなんだか視界にチラチラと映る赤い前髪が気になって、それを指先で弄っていた。
すると、ふいに後頭部に強い衝撃が走るのを感じた。その直後、わたしは意識を手放したのだった。

……。

「またな、って、お前は次、いつどこで私と会うつもりだったんだよ」
枯れた木のそば、落ち葉が疎らに敷かれた地面の上、針妙丸が横たわる正邪に寄り添い、少し切なげな笑顔を浮かべている。
「痛かったろう。ごめんな、不意打ちなんて卑怯な真似して」
正邪の頭を優しく撫でながら、針妙丸は尚も正邪に語りかける。
「正面からやりあったって、お前に勝てないことなんて分かってたんだもん」
そこは少し冷たい風が吹いていたが、肌寒さを感じるほどではない気温だった。
「だからちょっと嘘ついたんだ。お前を置いて、一人でいけるわけないじゃないか」
空に浮かぶ雲は薄く、今にも消えてしまいそうだ。
「でもお前は、卑怯なことが好きな鬼だろう?まぁ、きっと、お前は正直者だから、許してはくれないんだろうけどさ」

沈みかけの太陽は鈍く橙色に輝いて、少し照れたような優しい笑顔を浮かべる針妙丸と、遊び疲れた子供のように眠る正邪を、煌々と照らし続けた。

三日後、暫しの眠りから目覚めた正邪を待ち受けていたのは、後頭部に刻まれた全治三ヶ月の傷と、包帯。そして、賑やかで緩やかな、更生の日々の始まりだった。
コメント



1.名前が無い程度の能力削除
文庫本に装丁してじっくり読みたい
2.名前が無い程度の能力削除
独特の正針が面白いです
悪夢のボサボサ頭の白狼天狗が、普通に精神をやっていて入院してるのも笑いました