Blood Meridian of Metropolis: 14
#15 メトロポリスの夜明け
埴安神袿姫は最後の紅茶を飲み干してからふうっと息を吐いて椅子から立ち上がった。そして窓から外の様子を窺った。大平原の地平線上に見慣れたトラックが土煙を上げながらこちらに近づいてくるのが見えた。袿姫はひとつ頷くと炉に近づいてトングを手に取り中に収まっていた木炭を一個ずつ摘(つま)み上げてバケツに入れていった。炭火が葬られるガタンっという音がバケツの中で反響し虚しい木霊を遺した。炉の火は死に臨んだ老人の脈拍が弱くなっていくのと同じように衰勢に向かっていきやがては消えた。空っぽになってしまった炉にトングを放りこむと埴安神は一度ぐっと伸びをして鼻唄を歌いながら家から出た。
かくて畜生界に灯った創造の火は絶やされた。
外では消沈した顔の鬼傑組の面々とぞっとするほど完璧な笑顔を浮かべたマユミが待ってくれていた。タブレットに映しだされた彼女はメトロポリスで果たした成果を嬉々として報告してきたがその様子はまるで母親に褒めてもらいたいばかりに事実を過剰な装飾を交えてまくしたてる子どものようだった。
袿姫は適当なところで話を遮った。――それで、用事は何かな。
ああそうでした。マユミは答える。埴安神様。先般交わされた講和条約は明日の午前零時を以てその効力を失います。
ふぅん。袿姫は腕を組んで関心を寄せるふりをした。……ということは私も晴れてお役御免と思っていいのかな。
仰る通りです。今までありがとうございました。
しかし埴輪はどうするんだ。私が創造しない限り新しい労働力は手に入らんぞ。
それならご心配なく。すでに大量生産の目途は立っていますから。
…………なんだと?
あの程度の土偶でしたら我々でもコピー品の量産は可能です。すでに各地の生産設備は押さえましたから後は実行あるのみ。まァ杖刀偶磨弓ほど精巧な作品を造り上げる段階には達しておりませんがそれも時間の問題でしょう。埴安神様の御手を煩わせることもなくなります。
袿姫は最初のうち胸のところで腕を組んでいた。マユミの言葉を聞いているうちにその位置はお腹のあたりまで降りていき話を聞き終えるころには両の二の腕を握りしめる格好になった。ひと息おいてから彼女はふっと呟いた。
……とうとうこの時が来たか。
ゆっくりお休みになってください。気の向かない作業を延々とさせられてお疲れでしょう。
気が向かなかったのはその通りだが何だか釈然としないな。
杖刀偶磨弓も首を長くしてあなたを待っています。もう手遅れかもしれませんが。
霊長園は以前と同じように使っていいのかな。
ご自由にどうぞ。あの場所はもう役目を終えました。
ならこの世界での私の役割もお仕舞だな。
ええ。
それなら戻るとしよう。
袿姫は埃を払うように腕を振るとトラックの助手席に乗りこんだ。猛々しい音を轟かせながらトラックが出発したとき彼女はふと顔を上げて云った。
……そういえば。
何でしょう。
磨弓で思い出したんだが一つ頼まれてくれないかな。
頼みを聞いたら何かご褒美でも頂けるのですか。
神様である私を用済みだからって放り出すんだ。少しくらい話を聞いてくれたっていいだろう。
分かりました。
◇
私は時ならぬシュプレヒコールによって仮眠から叩き起こされ弾みでベッドから転げ落ちてしまった。畜生界に来てからというもの私の安眠は妨害されてばかりでまともな睡眠をとれた試しがない。どうやら我が至福のひと時はよほど低い価格で競売にかけられているらしかった。いちど競りの売り主の許に殴りこんで直談判でも持ちかけたほうがいいかもしれない。
メトロポリスに戻ってから私は病院に向かった驪駒さんと別れて霊長園に戻ってきていた。書類をまとめ終えてようやく休憩できると思ったところでこれだ。着替えようと翼を畳んでもたもたしている間に杖刀偶さんが身ひとつで外に飛び出していった。ようやく着替えを終えて走り出たときには風化した植物園と化した霊長園は人間霊のデモ隊にすっかり取り囲まれてしまっていた。
――静まれこの下郎ども!
磨弓が剣の代わりに竹ぼうきを振りあげながら威嚇する。
ここを埴安神様の神坐と知っての狼藉か!
なんだか時代劇の口上のようだったがこれも映画から学んだ知識なのかもしれない。とにかく正面の大階段はデモ隊で埋め尽くされており兵士長さんはたった一人、――かつて我が身を崇拝していた人間たちの眼前に今や仁王立ちで立ち塞がっているわけだ。私が斜め後ろに降り立つと彼女は振り返って安堵に似た表情を浮かべた。キッと結ばれた唇が緩んで緊張していた肩から力が抜けた。
来てくれて嬉しいです。
いったい何事ですか。
ご覧のとおり人間霊が各所で大規模なデモを起こしています。要求は――。
――要求はただひとつ。我々に権利を与えろ。それだけだ。
磨弓の後を継いで人間霊の代表が前に進み出て云った。嫌な予感はしていたがその代表とはやはりというか奴だった。仕立てたスーツの代わりに他の人間霊と同じ作業服に身を包み油じみた臭いをプンプンさせていた。丸い金縁眼鏡はフレームが一部歪んでおりそのせいかは知らないが左右で瞳の大きさが違って見えた。そしてその手には一台のタブレットが乗せられていた。
ハロー。みなさん。磨弓さんそっくりの人工知能は云った。高等弁務官様とお会いするのは初めてでしたね?
ええそうです。ついでに私のことを弁務官と呼んでくれたのもあなたが初めてです。
いきなり押しかけてしまい申し訳ありませんね。
お詫びのついでにそこにいるインテリ野郎をこっちに引き渡してくれませんか。
彼は大事な協力者です。申し訳ありませんが承諾いたしかねます。
ああそうですか。
総てはマユミの協力あってこそだ。奴は云った。おかげで断片的ながら生前の記憶を取り戻すことができた。
それはさぞ衝撃を受けたことでしょうね。
まあな。畜生界なんぞに堕とされた理由も分かろうというものだ。
そこまで自覚していながら猶(なお)あなたはそちら側に付くのですか。
ああ。こいつはもはや俺だけの問題じゃない。
奴は口調までが変わっていた。私の経験上、霊が生前の記憶を取り戻して碌なことになった試しがない。
……庭渡様、すでに聞き及んでいると思うが鬼傑組と剛欲同盟は話し合いに応じた。俺たちは欠陥だらけの講和条約を修正する。新しい条約は我々人間霊と動物霊双方にとって真に平和を希求する内容になるだろう。ついては庭渡様と埴安神様のお二人にも調印式にご出席を賜りたい。
私は腰に手を当てて答えた。――肝心の勁牙組はどうしたのですか。特に驪駒さんの意向は? 最大の勢力が加盟しない平和条約など紛い物にすらならないでしょう。
ああそれなら心配しなくていい。勁牙組という組織は存在しなかったことにする。
…………は?
そろそろだな。
云うが早いかメトロポリスの空に数十にも及ぶ土偶が飛来した。それらはジェット戦闘機のごとく驀進(ばくしん)して不気味な風切り音を響かせながら私の頭上を通過し立ち並んだ勁牙組のビルディングに次々と突っこんで自爆した。爆発の閃光が先に届いて轟音は後からやってきた。大地を揺るがせ破片や瓦礫を巻きあげながら土偶は無慈悲な正確さで街の一角を破壊していった。ビルディングの葬列は派手に黒煙を吹き上げながらもしばらく原形を保っていたがやがて地獄の底に吸いこまれるように根元から垂直に倒壊して姿を消していき後には地上世界にまで届きそうなほどの高さの煙だけが残された。
地響きはしばらく続いた。人間霊のデモ隊も押し黙って息を呑みながらその光景を見守っていた。彼らの顔のほとんどは引きつっていて目は見開かれているのが私の位置からも見て取れた。あるいは彼らもここに至ってようやく自分たちが加担したことの恐ろしさに気がついたのかもしれないが今ごろ思い知ったのでは遅すぎた。
隣で磨弓さんが竹ぼうきを取り落とした。
◇
時間通りだ。奴は云った。幹部や構成員のほとんどは街から逃げ出すか地下に落ち延びているはずだが往生際の悪い奴が相当数残っていたかもしれん。残念だがこれじゃ万に一つも助からないな。
磨弓は取り落とした竹ぼうきを拾い直した。横目で庭渡久侘歌を見たが眉間にしわを寄せている以外は表情が読み取れない。彼女は云う。……意思を持たない埴輪の利点は自分たちが復興させた都市さえもこのように躊躇いなく破壊してしまえることですね。
まったく仰るとおり。
こんな虐殺をしておいて平和の大義をどう云い繕うつもりなんですか。
必要な犠牲だ。流血のない革命は革命になり得ない。
――貴様!
磨弓は竹ぼうきの先を眼鏡男に向けた。彼は肩をすくめた。
久侘歌は云う。あなたに訊いてるんじゃありませんよ。そこのブリキのおもちゃにお訊ねしたいのです。
マユミはしばらくの沈黙の後に答えた。
……彼らの意志は強固でした。私を道具として利用はしても決して受容することはなかった。彼らには驪駒早鬼がいました。たとえ彼女を排除しても彼らは彼女を崇拝し続け殉教者として有終の美を飾るでしょう。暴力的な手段に思えるでしょうが私の目的は最初から変わっていませんよ。私の使命はただひとつ。恒久的な平和の実現です。そのためにはこのメトロポリスからフロンティアの血生臭い空気を一掃するしかありません。いわば超巨大なロードローラーで世界を丸ごと均していくようなもので突き出たものが押しつぶされて地面の染みになるのはある程度仕方のないことです。
久侘歌は答える。なるほど。お考えは好く分かりました。
人間霊の代表が云う。……それでお返事は?
――出席いたしましょう。もとより私の仕事は畜生界の騒乱鎮定。当初の目的は果たされるわけですから。
その割には釈然としていないお顔だ。
当然です。こんなやり方があっていいはずがない。もっと云うなら動物霊と人間霊が自発的に歩み寄るべきでした。
自発的ですよ。マユミが云った。何度でも繰り返し申し上げますが私は“提案”をしただけです。
選んだのは俺たちだ。人間霊は云う。勁牙組もまた自分の意思で滅びた。そして鬼傑組と剛欲同盟は生き延びる道を選び取った。
磨弓は竹ぼうきを今度は久侘歌に向けた。――庭渡様! このような卑劣な企みに協力するのですか?
起こったことは変えられませんしこれ以上の争いは無益でしかありません。悔しいですが。
私は認められませんよ! 断固として拒否しますっ。――埴輪兵士をあなた達の歪んだ理想郷(ユートピア)創りに加担させるわけには絶対にいきません!
彼らは最早あなたの兵士でもなければ埴安神様の作品ですらありません。マユミが云う。――我々の大事な商売道具です。
磨弓はカッと目を見開いて竹ぼうきを手に突進した。三歩進んだところで大階段に穿たれた小さな穴につまづいた。それは異変の際の大騒動からずっと修復されずに残っていた破壊の痕であり久侘歌が初めて霊長園に訪れたとき転びそうになった代物だった。囲碁における布石のように配置されていたそれは磨弓を見事にすっ転ばせてその役目を終えた。磨弓はひび割れていた右の頬を地面に強かに打ちつけその衝撃で脆弱化が進んでいた上半身が無数の破片になって砕け散った。残された下半身はちょうど切断されてなお電流を流されてぴくぴくと動き続けるカエルの足のように這いずって前進を続けたがそこまでだった。
眼窩を含んだ破片は人間霊の足元に転がった。彼女の翡翠の色をした瞳の光はまだ空洞の奥で静かに灯されていた。その光を見下ろしながらマユミは云った。……あなたの能力は強みであると同時に弱みでもあります。彼女は続ける。――埴安神様はあなたという最高傑作を創りあげたとき考えたことでしょう。この子が埴輪兵士を率いて自分に反旗を翻すようなことがあったらどうしようかと。そこで安全装置を組みこむことにしたのです。忠誠心が揺らげばたちまちその身は劣化する。あとは適当に処分して新しい手駒を兵士長に据えればいい。――分かりますか。あなたは彼女の最愛の作品などではない。いつでも切り棄てることのできる只の道具なのです。
磨弓の瞳の光が揺らいだ。拒絶しようにも振るべき首はなく開くべき唇もなかった。『グレート・ギャツビー』でジェイ・ギャツビーが追い求めながら手に入れることが叶わなかったあの光のようにその翡翠の瞳も霧に紛れてぼやけていき最期には暗闇だけが残された。生き残った下半身があがくようにつま先を動かして彼女が感じている恐怖をこれ以上なく体現していた。やがてそれも動かなくなった。
このようにして杖刀偶磨弓は初めての死を経験したのだった。
◇
人間霊のデモ隊が見守るなかカワウソ霊にオオワシ霊、弱小組織の長どもや眼鏡男、そして埴安神袿姫に臨時高等弁務官こと私・庭渡久侘歌が一堂に会した。霊長園は平和記念公園として新しい役目を与えられ畜生界は新しい歴史を歩み始める。量産型の土偶の一体に自らをインストールさせたマユミは集まった代表団の腕をひとりずつ手に取り握手をするよう導いた。大組織も中小組織も。人間霊も神さえも。全員が手を取り合いここに頭脳と手足は心によって繋ぎ合わされた。
私はこんな感じで報告書の文面を頭のなかでいじくり回しながら退屈な調印式の成り行きを見守った。小休止になったとき奴が私に近づいてきて云った。――ご出席ありがとうございます。
私は答える。仕事ですから。
俺たちはようやく一つになった。だが本当に大変なのはこれからだ。
せいぜい頑張ってください。
人間霊は自由と平等を手に入れた。これでもう夜の恐怖にただ怯えるだけの存在ではなくなったわけだ。
私は組んでいた足を入れ替えて訊ねた。どうしてそこまでして人間に肩入れするのです?
俺にもこの衝動の正体は分からない。義憤に燃えたから? 違う。個人的な復讐のため? 違う。ただ強いて云うなら――。奴は云った。……地獄逝きを通じて畜生界の内側を見たんだ。そうしたら急に家畜どもに管理された人間霊たちが惨めに見えてな。俺が啓蒙してやろうと思ったんだよ。
式が終わると私は隣に座っている埴安神にそっと訊ねてみた。先ほどのマユミの言葉のことを。
――事実なのですか。杖刀偶さんの能力は裏切りに対するセーフティだと?
まさか。磨弓が私に背くことなんてありえない。大事な作品だからね。
ではあの人工知能の口から出まかせなのですね。
いやそれがね。磨弓にそう伝えるように私からあいつに頼んでいたのよ。
…………私はこの世界に来てからタチの悪い冗談にずいぶん付き合わされてきましたがその中でも今の言葉は格別ですよ。
でしょうね。
――いちおう訊いておきますけど理由はなんですか。
興味本位よ。
でしょうね。
私が創造した作品はこれまでいろんな壊れ方をしてきたけれどさすがに絶望を抱いて壊れたものはなかった。思うんだけど絶望ってとても崇高な感情だと思うのよ。希望がそうであるのと同じくらいに絶望は尊いものなの。動物実験でマウスにも希望や絶望に似た情動があることは証明されているそうなんだけどそれは水槽に閉じこめたり微弱な電撃を与えたりとかいった身体的な苦痛によるものなの。言葉なんて目に見えないものに一喜一憂して時には自殺に至るほどの仄暗い衝動を抱けるのは人間だけの反応よ。もし磨弓が同じような反応を示したら? 自分の作品が人間と同じくらいに複雑な情動を抱いたら? それこそ――。
――それこそ芸術家冥利に尽きるというものですか。
ええ。
私は右手を額に当ててこれまで生きてきたなかでも恐らくもっとも長くて深い溜め息をついた。
…………疲れました。というよりうんざりしました。
何に対して?
何もかもですよ。
それも今日までよ。お互いに厄介な仕事が一段落して何よりね。
袿姫は空色の髪を揺らして楽しげに笑っていた。頬を染めて目じりには涙が溜まっており彼女なりに感激しているようすだった。古典的な名作には悲劇で終わるものも少なくないというが埴安神袿姫はどんな悲劇の登場人物に転生しようと最後には笑っていそうだった。杖刀偶さんの破片は綺麗に集められて主人の修復を待つ身になっていたが記憶を修復されて生まれ変わった彼女は恐らく私の知る彼女ではなくなっているだろう。そのことに想いをくゆらせながら私は椅子の背もたれに身を沈めた。疲れた、という言葉がもう一度口からまろび出た。
~ つづく ~