「ん、んー」
机にペンを置き、右手首を左手でおさえ、真上に伸びをする。
作曲を終えた達成感からか、疲労感が僅かに形あるものとなって肩から抜けるような感覚が心地いい。
椅子から立ち上がり、窓の方向を見やると曲を書き始めた時にはまだ上り切っていなかった太陽から白い光が差し込んできている。
いつのまにか随分時間が経っていたが、作業に夢中になると時間を忘れて没頭してしまうのはいつものことだ。
完成した曲を一応机の一つだけ鍵がかかる引き出しにしまう。
付き合いの長い姉達のことはそれなりに分かってる、姉妹とはいえ勝手に人の部屋に入ってくるとは思っていない。
ただそれでも、今ここに完成した曲は間違いなく、時間をかけて完成させた私の「作品」であり、いわば大事な子供のようなものなのだ。
私は親ではないしもちろん子供もいないけど、子供の初めての晴れ舞台には立ち会いたいのが親心というものだと思う。
だから万に一つも、生みの親たる私が公開するより先に誰かに見られることがないよう、細心の注意を払っているのだ。
時計を見ると文字盤が示す時間はもうすぐ正午というところだった。
机の上を軽く片付けると、年季の入った姿見の前で身だしなみを整えて部屋の外に出る。
リビングに入ると一番上の姉、ルナサ・プリズムリバーがソファーに座って本を読んでいた。
ちなみに二番目の姉、メルラン・プリズムリバーは朝早くから出かけている。
本に夢中なのか私に気付いている様子はない。
テーブルには紅茶が半分ほど入ったカップが置かれうっすらと湯気を立てている。
どうやら昼食はまだのようだ。
尤も私の姉達はいつも昼食時になると一緒に食べるかどうか部屋まで聞きに来るのだが。
さて、今日は作曲の後何をするか全然決めていなかったけど、久しぶりのオフだし出かけようかな。
そうと決まれば。
「ねえねえルナ姉」
「あら、リリカもお昼にする?」
近づいた私が読んでいる本に薄い影を落としたところでようやく私に気が付いたのか顔を上げて応える。
私はそのまま続ける。
「うん、久しぶりに外に出かけない? ちょっと買い物もしたいんだよね」
すると読んでいた本に栞を挟み、それを持っていた手を頬に当てて少しだけ考える素振りを見せる。
もともと細目なのがさらに細くなる。
この一番上の姉はどちらかというと外よりも自宅での食事を好む。
外で食べると家で作って食べるよりお金がかかるからかとはじめは思っていたけど、以前に聞いたときには本人曰く、
「人の多いところはあんまり好きじゃないの」とのことだった。
今日もあんまり乗り気じゃないのだろうか。
「……奢ってくれと言われても、だめよ」
「分かってるって、そんなこと企んでないから!」
どうやら今の間は「妹と出かけるかどうか」ではなく「妹に集られたときの自分の財布の余裕」を計算していたらしい。
いや、確かにお小遣いが足りないときにおねだりしたことは数回、いや数十回……
なんでもいいや、あったかもしれないけど流石に奢ってもらう前提で食事に誘うなんてことはしない。
一度部屋に戻ってから服を空色のワンピースに着替え、お気に入りの白いショルダーバッグを持って玄関の三和土で靴を履く。
ルナ姉は既に用意を済ませ植え込み横の白いガーデンチェアに座っていた。
背もたれに所々薔薇の花の装飾が施されたそれは以前河童達から野外ライブのお礼にと贈ってもらった物だ。
最初は新しい物好きなメル姉が一番喜んでいたのだけど、
もともと一つの場所にじっとしているのが苦手なのが私達騒霊という種族。
庭で椅子に座ってゆったり過ごすなんて、とてもじゃないけど性に合わない。
春夏秋冬、朝から晩まで元気いっぱいで動くことが大好きなメル姉では余計にそうだ。
だからこの椅子もルナ姉が時々庭で本を読むときに使われるだけの物となってしまっている。
ただ、こうして背筋を伸ばして落ち着いた表情で私を待っている姿は絵になっており、
なんとなくこれがこの椅子のあるべき姿なのかな、なんて思ってしまう。
そんなことを考えながらいつもの外履きとは違う、余所行き用の紅葉色のストラップシューズを履くと玄関の扉に鍵をかける。
カチャンと錠の掛かる音が小気味よく庭に響く。
「おまたせー」
その音に気付いたルナ姉が椅子から立ち上がる。
その服装はいつもの楽師服と同じ黒のワンピース、胸元には楽師帽に付いている物と同じ三日月形のブローチを付けていた。
被っている麦わら帽子が降り注ぐ陽光から濃い金色の髪を守っている。
黒が似合う女性は美人が多い、と以前香霖堂にあった外の世界の雑誌で読んだことがある。
だから、というわけではないけど普段から黒がよく似合うこの姉は身内の贔屓目抜きにしてもその部類に入ると思う。
メル姉はルナ姉とは性格も服や食べ物の好みも正反対だけど、底抜けの笑顔とまるで玉を転がすようなよく通るソプラノボイスが
ライブに初めて来たお客さんもすぐに虜にする。
背も私達姉妹の中で一番高いし、スタイルもいいから私じゃとても着られないようなドレスでも、なんでも着こなしてしまう。
ルナ姉が「静」の美人ならメル姉は「動」の美人、と表現するのが適当かもしれない。
「ルナ姉は食べたいものとかある?」
「特にないから任せるわ、でもあんまり高いところはだめよ」
「分かってるって」
ルナ姉と横に並ぶ形で人里を目指して飛行しながら今後の行動の順序を考える。
ワンピースが風に吹かれて足にまとわりついてくる。
目線を下ろすと川に沿ってあちこちに点在している水田の上を、
黄金色の稲穂がまるで水面に波を立てるようにそよそよとそよいでいる。
最近はライブ続きで忙しかったせいか季節にもすっかり無頓着になってしまっていたけど、
この様子だとそろそろ秋の神様も大忙しと言ったところだろうか。
さて、とりあえず昼食は私とルナ姉だしあそこにするとして、あとは買い物。
今日使った分で大分少なくなってしまったから紙とインクを補充したい。
あとはルナ姉は多分本が見たいはずだから本屋にも寄ろうかな。
そんなことを考えていると前方に人里の影が見えてきた。
「こんにちはー」
表通りを少し外れた路地にある蕎麦屋の暖簾を潜りながら挨拶をする。
すると、私より少し低いぐらいの背格好をした人間の男の子が気持ちのいい笑顔を浮かべながら
大きな声で「いらっしゃいませ!」と出迎えてくれた。
店内は小ぢんまりして少し古ぼけた外観とは裏腹によく掃除が行き届いており、居心地の良さそうな雰囲気を醸し出している。
カウンターの奥では夫婦と思われる若い男女が厨房で調理をしている、おそらく家族で営んでいるお店なのだろう。
成程、初めて入ったお店だけど事前に聞いていた通り中々良さそうだ。
そう、このお店は最近仲良くなった琴の付喪神の子から教えてもらった、
本人曰く穴場的なお店でまだあまり知られていないらしい。
私もルナ姉もあんまり人が多いところは好きじゃないのでありがたかった。
私達は四人掛けのテーブル席に案内され、向かい合って座った。
昼食時を少し過ぎているせいか、店内に客はまばらで料理はすぐに運ばれてきた。
「いただきまーす」
「いただきます」
二人で一緒に笊蕎麦をすする。
席の窓側では風鈴が小気味のいい音をたてる。
暦の上では既に秋分が近付き、季節がはっきり移り変わろうとしているが、まだまだ肌に降り注ぐ陽射しは厳しいものがある。
こういう日に冷たい物が欲しくなるのは必然であり、箸が進むのも自然と早くなる。
「どう?八橋が教えてくれたお店なんだけど」
「いいお店ね、今度お礼言っておかなくちゃ」
ルナ姉も気に入ってくれたようでなによりだ。
正面を見やると既に食べ終わって冷水の入ったコップに軽く口をつけている。
「ご馳走さまでしたー」
勘定を済ませ、店に入った時と同じ男の子に手を振りながら店を出ようとしていたときだった。
「あ、あの!」
私とルナ姉がほぼ同時に後ろを振り返る。
するとその子の手には四角くて僅かに厚みのある型紙のようなものが二枚、握られていた。
縁の部分は鮮やかな山吹色で装飾されている。
ああ、なるほど。
「ルナサさんと、リリカさんですよね、僕プリズムリバー楽団の大ファンで、その……サインして頂けないでしょうか!」
一息に喋り終わると同時に深く頭を垂れるのを見て、私達は取り敢えず顔を上げさせる。
「いいよー、ありがとねー♪」
「生憎今日はメルランはいないんだけど……ごめんね?」
それぞれ受け取った色紙にサインをする。
久しぶりにした割には上手く書けた気がする、そんなことを思いながら彼に色紙を手渡した。
「ありがとうございます! えっと……応援していますので、これからも活動頑張って下さい!」
「……ありがとう、お蕎麦、美味しかったわ」
「今度来るときはメル姉も連れてきてあげるねー♪」
ルナ姉は麦わら帽子を脱いで微笑を浮かべながら、私は手をひらひらと振りながらお店を後にする。
お店を出てから民家が並ぶ路地を抜けて大通りに出ると、私はルナ姉がいつも通っている本屋の方角を指差す。
「ルナ姉この後本見るでしょ?」
「そうね、久しぶりに見ていこうかしら」
予想通りの返答。
本屋に行った後は私がいつも利用している文具屋で紙とインクを買って、そのまま人里を出よう。
この二軒は同じ通りに店を構えているから買い物の途中で引き返したりしなくて済むのだ。
私がその旨を説明するとすぐにルナ姉も賛同してくれた。
本屋に入ると、そこは空気が外よりもいくらかひんやりとしていた。
入口のカウンターに店主の姿はない。
ルナ姉は迷うことなく外の世界の小説が並べられた本棚の列に向かって歩いていく。
さて、私はルナ姉ほど本は読まないしとりあえず適当に見て回りながら休憩しようか。
そうしていると。
「あらリリカちゃん、久しぶりだねえ」
「あっおばちゃん、こんにちはー」
カウンターの奥から現れたのは足を運んでいるうちにすっかり顔見知りになったここの店主。
もう還暦も近いぐらいの年のお婆ちゃんだけど、足腰はまだまだ元気そうだし私が来るといつもにっこり笑って迎えてくれる。
「ごめんよ、ちょっと奥で調べ物をしとったんじゃ」
「ううん、それより一人だといろいろ大変なんじゃない?」
「なに、そんなに忙しくもないからね」
店主はそう言いつつカウンターにある木製の椅子に腰かける。
椅子の足が擦り減って水平になっていないのかギシっと鈍い音が店内に響いた。
そして私の姿をまじまじと見やると言った。
「今日は一段と可愛い恰好だねえ、男の子もほっとかないんじゃないかい?」
「も、もう、おばちゃんったら」
ちょっとびっくりしたけど、服装のことを褒めてもらえるのはやっぱり嬉しい。
楽師服以外の恰好で人里に来るのは久しぶりだから、おばちゃんには新鮮だったのかもしれない。
そうして少しの間雑談をしていると本棚の奥に向かった姉が戻ってきた。
手には本を三冊持っておりそのうちの一冊からは赤い栞紐が覗いている。
カウンターの前まで来ると、流れるような動作で麦わら帽子を下ろし軽い笑みを浮かべながら一礼する。
「こんにちは、お邪魔しています」
「ルナサちゃんもいらっしゃい、今日は一段と大人びて見えるねえ」
ルナ姉は表情を緩めながら「そんなことないですよ」と軽く手を振る。
メル姉であれば喜びを寸分も隠すことなく「ありがとー!」と返していただろう。
こういうところでも姉達の性格の違いがよく表れるのだ。
私がそんなことを考えていると。
「ルナサちゃんは黒い服が似合うねえ、里の男もすれ違ったらルナサちゃんに思わず振り向くんじゃないかと思うよ」
ルナ姉は相変わらず「もう」と今度は少し大袈裟に手を振って応えていた。
でも、私は知っている、ルナ姉は過去に楽団のファン以外の男の人から声をかけられたことがあった。
多分私とメル姉にしか話していないと思う。
その日ルナ姉は今日みたいな他所行きの恰好で人里内を流れる川の橋の欄干に一人で佇んでいた。
本人曰くそこにいた理由は特になく、「なんとなく橋の上から川を見ていたかったから」らしい。
ルナ姉がそうしていると恰好から農家の息子らしき青年が近付いてきて、
振り向き様に視線が合うと真剣そのものな眼差しで想いを告げられたのだと言う。
「以前に人里で見かけたときから一目惚れしました」、と。
本人も予想だにしなかったことなので流石に驚きを隠せなかったけど、
「気持ちは嬉しいけど私は人じゃないから、貴方と同じように、同じ時間を生きられない」こと、
「自分は恋愛よりも音楽に打ち込みたい」ことを出来るだけ相手を傷つけないように、丁寧に伝えた。
相手の青年もショックは大きかったらしいけど、その後近くの食事処で一度だけ一緒に食事をし、
彼の次の恋路を応援する旨を伝え相手を納得させて別れたらしい。
いかにも生真面目なルナ姉らしいと思った。
ルナ姉が会計を済ませ、二人で店主のおばちゃんに挨拶して店を出るとむわっとした熱気が肌に襲い掛かってくる。
気のせいか店に入る前よりも風が弱まったように感じる。
まだ日が沈むには早い時間帯、人通りも多い。
ぬるま湯をそのままの温度で気化させたようなじめっとした感覚がなんとも不快だけどしょうがない、後は文具屋だけだから早く買って帰ろう。
そう思うとつい足が早足になる。
ルナ姉も表情こそ変えていないけどこの暑さはやはり堪えるのかさっきから無言だ。
購入した本の入った紙袋を提げて黙々と歩を進める。
そういえば、ルナ姉だけじゃない。
メル姉も男の人に、正確にはライブの後控え室に戻ろうとしていたところを何度かファンから声をかけられたことがあったらしい。
意外とこういうことに関してはサバサバしてるメル姉はいつも「ごめんね、私は音楽が一番大事なの」とすぐに断っているけど。
過去に一度、人里近くで行ったライブが終わって会場から引き上げる時に、
メル姉だけが裏手に残っていることに気付いてつい聞き耳を立ててしまったのだ。
幸いバレていなかったようだし、後日夕食の時にルナ姉から引き上げが遅かった理由を聞かれても
本人は隠すことなくいつもの軽い調子でそのことを話していた。
私はというと、そういう風に異性から声を掛けられたことはない。
私よりずっと小さい、寺子屋に通ってるような年の子供やお爺ちゃんお婆ちゃんにはよく声を掛けられるけど。
私だって異性との付き合いよりも音楽が、もっと言えば今の姉さん達との生活が一番大切だし、
姉達に比べると見た目が子供っぽいのは認めるけど、こうして考えているとやっぱりちょっと悔しいって思うことはある。
こんな風に思ってしまうことがそもそも子供っぽいのかもしれないけど。
「リリカ、ここじゃないの?」
声のした方向を見るとルナ姉は歩き疲れたのかいつもよりほんの少しだけ荒く息をついている。
気付けば考え事をしているうちにいつもの文具店を通り過ぎそうになっていた。
そろそろ夕飯の支度を始める家庭もあるだろうか、人通りはさっきよりも少なくなっていた。
「あ、ごめん、ここで合ってる」
文具屋の向かいには駄菓子屋がある。
店の間口は三間ほどで両側に一つずつ簾が掛かっており、表には四、五人が腰かけらそうな床机もあった。
入り口ではおそらく店主であろう、頭に手拭いを巻いた若い男が空になったラムネの瓶を箱に片付けている。
それを見た私は言った。
「後は紙とインク買うだけだし、ルナ姉はそっちの駄菓子屋さんでなにか飲んでなよ」
この文具店には何回も来ているし毎回買う物も一緒なのだ、目当ての物さえあれば買い物は三分もかからないだろう。
「ううん、大丈夫」
「いいからいいから、私もすぐ戻るからさ」
「……本当にいいの? じゃあお言葉に甘えようかしら」
ルナ姉はそう言うと駄菓子屋の方にゆっくりと歩いて行った。
文具店での買い物自体はすぐに終わった。
店主のお婆ちゃんとはだいぶ前から顔見知りだし、今日も私が入口のカウンターで挨拶をすると
「おやリリカちゃん、今日もいつものかい?」とこの調子だ。
ルナ姉を待たせてるからすぐに出るつもりだったけど、お金を払おうとしたときに「いつもありがとう」と
お菓子をおまけしてくれたこともあって少しだけ立ち話に付き合った。
ここの店主はさっきの本屋のおばちゃん以上に年を取っているように見えたし、最近は目も悪くなってきているらしい。
それでもこうして訪ねた時はいつも元気そうに歓迎してくれるけど、去年夫を亡くして、子供もいないせいか時々ぽつりと私に言うのだ。
「リリカちゃんみたいな孫がいたらねえ、私も寂しくないんだけどねえ……」、と。
こんな時私は反応に困っていつも相槌と愛想笑いで場をつなぐのだけど、これが正しいのかどうかは分からない。
寿命がない騒霊だから、顔見知り以上の人間の死は初めてではないけど、慣れるものではないし、出来ればあんまり考えたくない。
店主に挨拶してお店を出ると、ルナ姉が向かいの駄菓子屋の床机に座っているのが見える。
私が近付くと、店主の若い男が私に気付き、ルナ姉に声を掛けていた。
「ごめんルナ姉、長引いちゃって」
私はルナ姉の右隣に腰かける、休憩して楽になったのか先ほどのように疲れた様子はない。
「ううん、はい」
短く答えると片手を私に向かって差し出してくる、何かを握っているようだ。
掌でその手を受け止めると、硬貨を二枚握らせてくれた。
「リリカも好きなもの飲みなさい、私はもう飲んだから」
「いいの? ありがとう!」
空になったラムネの瓶を傍らに置く。
喉が渇いていたせいもあってすぐに飲み干してしまった。
すると私がもらったお菓子の小箱に気付いたのかルナ姉が口を開く。
「そのお菓子、文具屋さんからもらったの?」
「うん、いつもありがとう、って」
「ふふ、リリカはよくいろんな物をもらってるわね」
「んー、まあね」
ちょっと気のない返事になってしまったことに気付く。
「どうしたの、なにかあったの?」
私の姉達は心配性だ、なにかちょっとでも私に変わったことがあったらそれを見逃さない。
とはいえ私だってルナ姉やメル姉に悩み事があったら力になりたいし、一人で抱え込まないで欲しいとは前に言ったことがある。
ここは素直に話そうか。
「別に大したことじゃないんだけどさ」
私が全て話し終えるまで、ルナ姉は黙って時折相槌代わりに頷くだけだった。
恥ずかしかったけど、一度口を開けばそこから流れ出る言葉を遮る物はなにもなかった。
いつも気にしているわけじゃないけど、姉が同年代以上の異性から声を掛けられることがあるのに対して
自分はいつも姉妹の中で子供扱いされているように感じること、自分を可愛がってくれる人里のお爺ちゃんお婆ちゃんとの、
いずれ来る別れの時を考えると胸が痛くなること、心の中にひっかかっていた物を全て言葉にした。
私の話を最後まで聞いたルナ姉は真っすぐに目を見つめながら口を開いた。
「リリカにもいつか素敵な人が現れるわ、貴女がその気なら私は応援するし」
「私のファン、お年寄りと小さい子ばっかりだし、あの蕎麦屋さんの男の子だってきっとルナ姉かメル姉のファンだよ」
私の少し拗ねたような物言いにルナ姉がちょっと困ったような顔をする。
こういう風に言っちゃうのが子供なんだろうなと思うと自分で自分が嫌になる。
「もう、そういうこと言わないの、それに」
ルナ姉が片手をゆっくり翳すと私の頭を軽く撫でる。
店主は裏で作業をしており駄菓子屋の席には私達しかいないとはいえ、外でいきなり
撫でられるとは思わず、驚きを隠せない私は動くことが出来ずされるがままになった。
頭を撫でる手が離れたところで、ようやく喋ることが出来た。
「も、もう、外でこんなことして、恥ずかしいじゃないっ」
しかし当の本人は私が動揺している理由が分からないとでも言いたげにきょとんとした表情を浮かべている。
そして躊躇うことなく言い放った。
「リリカは優しいいい子、私の自慢の妹よ、なにも恥ずかしくなんかないわ」
「ちょ、いや恥ずかしいってそういうことじゃ」
私に言い返す時間も与えず、続ける。
「優しいから、お店巡りの予定を決めて、混んでるお店は避けて、私がよく通ってる本屋に寄ってくれたんでしょう?
優しいから、疲れてると思ったら私を先に休ませようとしてくれたんでしょう?」
「別に…そんなの当たり前だし」
「そんな貴女だから、お爺ちゃんお婆ちゃんも、貴女が来るのが嬉しいのよ」
答えない私にさらに続ける。
「確かに、別れは悲しいことだわ、でも、だからこそ残された時間を、人は一生懸命楽しく、必死になって生きるのよ」
ずるい、この姉はずるい。
どうしてこういう真面目な話の時だけ鈍くないのか。
姉妹でゲームをやったらいつも私に騙されて負けちゃうくせに。
「これが当たり前だって言うなら、リリカはいいお嫁さんになれるわ」
「……から」
「え?」
もう、いい。
そっちがそんな恥ずかしいことを言うんだったら、私も言う。
「もしかっこいい人に声掛けられても、ずっと家にいる、お嫁さんになんかならないから」
「ふふ、それは嬉しいわね」
「……あのさルナ姉」
「なあに?」
「ありがと、聞いてくれて」
「こちらこそ、今日は楽しかったわ、ありがとうリリカ」
やっぱり、ルナ姉には勝てそうにないなと思う。
「ひっどーい、私がいない日に二人でデートなんて!」
「デートって……私達は姉妹じゃない、それにそんなに大したものじゃないわよ」
「ごめんねメル姉、ルナ姉のエスコートよかったから、つい遅くなっちゃってさ……」
「え、いや今日はリリカが」
我ながら完璧なアドリブで、家に帰って早々大騒ぎするメル姉をルナ姉に押し付けると私は自室に入る。
メル姉はちょっとしたことですぐに騒ぎ出すけどその分落ち着くのも早い、
後でお土産のお菓子を多めにあげるって言えば多分機嫌は直る。
ベッドに体を横たえ、今日一日の出来事を頭で反芻する。
少しの間うつ伏せに寝転んだ後、一つ思いついた私は立ち上がり、
作業机の鍵付きの引き出しを解錠すると朝作曲した譜面を開く。
この新曲、今度人里に行ったら本屋と文具屋のお婆ちゃん達に聴かせてあげよう。
この先のことなんて分からないけど、生きている限り、私は私に出来ることをするだけ。
「もー、姉さんのバカバカ!」
メル姉の怒った声がリビングからこの部屋の中まで聞こえてくる、そろそろお菓子片手に戻った方がよさそうだ。
普段は口五月蠅く思うこともあるけど、私の家は、ちょっと抜けてるけどいつも私達に優しいルナ姉、
騒がしいけどいつも笑顔が眩しくて一緒にいて楽しい気持ちになるメル姉のいるここだけなんだ。
机にペンを置き、右手首を左手でおさえ、真上に伸びをする。
作曲を終えた達成感からか、疲労感が僅かに形あるものとなって肩から抜けるような感覚が心地いい。
椅子から立ち上がり、窓の方向を見やると曲を書き始めた時にはまだ上り切っていなかった太陽から白い光が差し込んできている。
いつのまにか随分時間が経っていたが、作業に夢中になると時間を忘れて没頭してしまうのはいつものことだ。
完成した曲を一応机の一つだけ鍵がかかる引き出しにしまう。
付き合いの長い姉達のことはそれなりに分かってる、姉妹とはいえ勝手に人の部屋に入ってくるとは思っていない。
ただそれでも、今ここに完成した曲は間違いなく、時間をかけて完成させた私の「作品」であり、いわば大事な子供のようなものなのだ。
私は親ではないしもちろん子供もいないけど、子供の初めての晴れ舞台には立ち会いたいのが親心というものだと思う。
だから万に一つも、生みの親たる私が公開するより先に誰かに見られることがないよう、細心の注意を払っているのだ。
時計を見ると文字盤が示す時間はもうすぐ正午というところだった。
机の上を軽く片付けると、年季の入った姿見の前で身だしなみを整えて部屋の外に出る。
リビングに入ると一番上の姉、ルナサ・プリズムリバーがソファーに座って本を読んでいた。
ちなみに二番目の姉、メルラン・プリズムリバーは朝早くから出かけている。
本に夢中なのか私に気付いている様子はない。
テーブルには紅茶が半分ほど入ったカップが置かれうっすらと湯気を立てている。
どうやら昼食はまだのようだ。
尤も私の姉達はいつも昼食時になると一緒に食べるかどうか部屋まで聞きに来るのだが。
さて、今日は作曲の後何をするか全然決めていなかったけど、久しぶりのオフだし出かけようかな。
そうと決まれば。
「ねえねえルナ姉」
「あら、リリカもお昼にする?」
近づいた私が読んでいる本に薄い影を落としたところでようやく私に気が付いたのか顔を上げて応える。
私はそのまま続ける。
「うん、久しぶりに外に出かけない? ちょっと買い物もしたいんだよね」
すると読んでいた本に栞を挟み、それを持っていた手を頬に当てて少しだけ考える素振りを見せる。
もともと細目なのがさらに細くなる。
この一番上の姉はどちらかというと外よりも自宅での食事を好む。
外で食べると家で作って食べるよりお金がかかるからかとはじめは思っていたけど、以前に聞いたときには本人曰く、
「人の多いところはあんまり好きじゃないの」とのことだった。
今日もあんまり乗り気じゃないのだろうか。
「……奢ってくれと言われても、だめよ」
「分かってるって、そんなこと企んでないから!」
どうやら今の間は「妹と出かけるかどうか」ではなく「妹に集られたときの自分の財布の余裕」を計算していたらしい。
いや、確かにお小遣いが足りないときにおねだりしたことは数回、いや数十回……
なんでもいいや、あったかもしれないけど流石に奢ってもらう前提で食事に誘うなんてことはしない。
一度部屋に戻ってから服を空色のワンピースに着替え、お気に入りの白いショルダーバッグを持って玄関の三和土で靴を履く。
ルナ姉は既に用意を済ませ植え込み横の白いガーデンチェアに座っていた。
背もたれに所々薔薇の花の装飾が施されたそれは以前河童達から野外ライブのお礼にと贈ってもらった物だ。
最初は新しい物好きなメル姉が一番喜んでいたのだけど、
もともと一つの場所にじっとしているのが苦手なのが私達騒霊という種族。
庭で椅子に座ってゆったり過ごすなんて、とてもじゃないけど性に合わない。
春夏秋冬、朝から晩まで元気いっぱいで動くことが大好きなメル姉では余計にそうだ。
だからこの椅子もルナ姉が時々庭で本を読むときに使われるだけの物となってしまっている。
ただ、こうして背筋を伸ばして落ち着いた表情で私を待っている姿は絵になっており、
なんとなくこれがこの椅子のあるべき姿なのかな、なんて思ってしまう。
そんなことを考えながらいつもの外履きとは違う、余所行き用の紅葉色のストラップシューズを履くと玄関の扉に鍵をかける。
カチャンと錠の掛かる音が小気味よく庭に響く。
「おまたせー」
その音に気付いたルナ姉が椅子から立ち上がる。
その服装はいつもの楽師服と同じ黒のワンピース、胸元には楽師帽に付いている物と同じ三日月形のブローチを付けていた。
被っている麦わら帽子が降り注ぐ陽光から濃い金色の髪を守っている。
黒が似合う女性は美人が多い、と以前香霖堂にあった外の世界の雑誌で読んだことがある。
だから、というわけではないけど普段から黒がよく似合うこの姉は身内の贔屓目抜きにしてもその部類に入ると思う。
メル姉はルナ姉とは性格も服や食べ物の好みも正反対だけど、底抜けの笑顔とまるで玉を転がすようなよく通るソプラノボイスが
ライブに初めて来たお客さんもすぐに虜にする。
背も私達姉妹の中で一番高いし、スタイルもいいから私じゃとても着られないようなドレスでも、なんでも着こなしてしまう。
ルナ姉が「静」の美人ならメル姉は「動」の美人、と表現するのが適当かもしれない。
「ルナ姉は食べたいものとかある?」
「特にないから任せるわ、でもあんまり高いところはだめよ」
「分かってるって」
ルナ姉と横に並ぶ形で人里を目指して飛行しながら今後の行動の順序を考える。
ワンピースが風に吹かれて足にまとわりついてくる。
目線を下ろすと川に沿ってあちこちに点在している水田の上を、
黄金色の稲穂がまるで水面に波を立てるようにそよそよとそよいでいる。
最近はライブ続きで忙しかったせいか季節にもすっかり無頓着になってしまっていたけど、
この様子だとそろそろ秋の神様も大忙しと言ったところだろうか。
さて、とりあえず昼食は私とルナ姉だしあそこにするとして、あとは買い物。
今日使った分で大分少なくなってしまったから紙とインクを補充したい。
あとはルナ姉は多分本が見たいはずだから本屋にも寄ろうかな。
そんなことを考えていると前方に人里の影が見えてきた。
「こんにちはー」
表通りを少し外れた路地にある蕎麦屋の暖簾を潜りながら挨拶をする。
すると、私より少し低いぐらいの背格好をした人間の男の子が気持ちのいい笑顔を浮かべながら
大きな声で「いらっしゃいませ!」と出迎えてくれた。
店内は小ぢんまりして少し古ぼけた外観とは裏腹によく掃除が行き届いており、居心地の良さそうな雰囲気を醸し出している。
カウンターの奥では夫婦と思われる若い男女が厨房で調理をしている、おそらく家族で営んでいるお店なのだろう。
成程、初めて入ったお店だけど事前に聞いていた通り中々良さそうだ。
そう、このお店は最近仲良くなった琴の付喪神の子から教えてもらった、
本人曰く穴場的なお店でまだあまり知られていないらしい。
私もルナ姉もあんまり人が多いところは好きじゃないのでありがたかった。
私達は四人掛けのテーブル席に案内され、向かい合って座った。
昼食時を少し過ぎているせいか、店内に客はまばらで料理はすぐに運ばれてきた。
「いただきまーす」
「いただきます」
二人で一緒に笊蕎麦をすする。
席の窓側では風鈴が小気味のいい音をたてる。
暦の上では既に秋分が近付き、季節がはっきり移り変わろうとしているが、まだまだ肌に降り注ぐ陽射しは厳しいものがある。
こういう日に冷たい物が欲しくなるのは必然であり、箸が進むのも自然と早くなる。
「どう?八橋が教えてくれたお店なんだけど」
「いいお店ね、今度お礼言っておかなくちゃ」
ルナ姉も気に入ってくれたようでなによりだ。
正面を見やると既に食べ終わって冷水の入ったコップに軽く口をつけている。
「ご馳走さまでしたー」
勘定を済ませ、店に入った時と同じ男の子に手を振りながら店を出ようとしていたときだった。
「あ、あの!」
私とルナ姉がほぼ同時に後ろを振り返る。
するとその子の手には四角くて僅かに厚みのある型紙のようなものが二枚、握られていた。
縁の部分は鮮やかな山吹色で装飾されている。
ああ、なるほど。
「ルナサさんと、リリカさんですよね、僕プリズムリバー楽団の大ファンで、その……サインして頂けないでしょうか!」
一息に喋り終わると同時に深く頭を垂れるのを見て、私達は取り敢えず顔を上げさせる。
「いいよー、ありがとねー♪」
「生憎今日はメルランはいないんだけど……ごめんね?」
それぞれ受け取った色紙にサインをする。
久しぶりにした割には上手く書けた気がする、そんなことを思いながら彼に色紙を手渡した。
「ありがとうございます! えっと……応援していますので、これからも活動頑張って下さい!」
「……ありがとう、お蕎麦、美味しかったわ」
「今度来るときはメル姉も連れてきてあげるねー♪」
ルナ姉は麦わら帽子を脱いで微笑を浮かべながら、私は手をひらひらと振りながらお店を後にする。
お店を出てから民家が並ぶ路地を抜けて大通りに出ると、私はルナ姉がいつも通っている本屋の方角を指差す。
「ルナ姉この後本見るでしょ?」
「そうね、久しぶりに見ていこうかしら」
予想通りの返答。
本屋に行った後は私がいつも利用している文具屋で紙とインクを買って、そのまま人里を出よう。
この二軒は同じ通りに店を構えているから買い物の途中で引き返したりしなくて済むのだ。
私がその旨を説明するとすぐにルナ姉も賛同してくれた。
本屋に入ると、そこは空気が外よりもいくらかひんやりとしていた。
入口のカウンターに店主の姿はない。
ルナ姉は迷うことなく外の世界の小説が並べられた本棚の列に向かって歩いていく。
さて、私はルナ姉ほど本は読まないしとりあえず適当に見て回りながら休憩しようか。
そうしていると。
「あらリリカちゃん、久しぶりだねえ」
「あっおばちゃん、こんにちはー」
カウンターの奥から現れたのは足を運んでいるうちにすっかり顔見知りになったここの店主。
もう還暦も近いぐらいの年のお婆ちゃんだけど、足腰はまだまだ元気そうだし私が来るといつもにっこり笑って迎えてくれる。
「ごめんよ、ちょっと奥で調べ物をしとったんじゃ」
「ううん、それより一人だといろいろ大変なんじゃない?」
「なに、そんなに忙しくもないからね」
店主はそう言いつつカウンターにある木製の椅子に腰かける。
椅子の足が擦り減って水平になっていないのかギシっと鈍い音が店内に響いた。
そして私の姿をまじまじと見やると言った。
「今日は一段と可愛い恰好だねえ、男の子もほっとかないんじゃないかい?」
「も、もう、おばちゃんったら」
ちょっとびっくりしたけど、服装のことを褒めてもらえるのはやっぱり嬉しい。
楽師服以外の恰好で人里に来るのは久しぶりだから、おばちゃんには新鮮だったのかもしれない。
そうして少しの間雑談をしていると本棚の奥に向かった姉が戻ってきた。
手には本を三冊持っておりそのうちの一冊からは赤い栞紐が覗いている。
カウンターの前まで来ると、流れるような動作で麦わら帽子を下ろし軽い笑みを浮かべながら一礼する。
「こんにちは、お邪魔しています」
「ルナサちゃんもいらっしゃい、今日は一段と大人びて見えるねえ」
ルナ姉は表情を緩めながら「そんなことないですよ」と軽く手を振る。
メル姉であれば喜びを寸分も隠すことなく「ありがとー!」と返していただろう。
こういうところでも姉達の性格の違いがよく表れるのだ。
私がそんなことを考えていると。
「ルナサちゃんは黒い服が似合うねえ、里の男もすれ違ったらルナサちゃんに思わず振り向くんじゃないかと思うよ」
ルナ姉は相変わらず「もう」と今度は少し大袈裟に手を振って応えていた。
でも、私は知っている、ルナ姉は過去に楽団のファン以外の男の人から声をかけられたことがあった。
多分私とメル姉にしか話していないと思う。
その日ルナ姉は今日みたいな他所行きの恰好で人里内を流れる川の橋の欄干に一人で佇んでいた。
本人曰くそこにいた理由は特になく、「なんとなく橋の上から川を見ていたかったから」らしい。
ルナ姉がそうしていると恰好から農家の息子らしき青年が近付いてきて、
振り向き様に視線が合うと真剣そのものな眼差しで想いを告げられたのだと言う。
「以前に人里で見かけたときから一目惚れしました」、と。
本人も予想だにしなかったことなので流石に驚きを隠せなかったけど、
「気持ちは嬉しいけど私は人じゃないから、貴方と同じように、同じ時間を生きられない」こと、
「自分は恋愛よりも音楽に打ち込みたい」ことを出来るだけ相手を傷つけないように、丁寧に伝えた。
相手の青年もショックは大きかったらしいけど、その後近くの食事処で一度だけ一緒に食事をし、
彼の次の恋路を応援する旨を伝え相手を納得させて別れたらしい。
いかにも生真面目なルナ姉らしいと思った。
ルナ姉が会計を済ませ、二人で店主のおばちゃんに挨拶して店を出るとむわっとした熱気が肌に襲い掛かってくる。
気のせいか店に入る前よりも風が弱まったように感じる。
まだ日が沈むには早い時間帯、人通りも多い。
ぬるま湯をそのままの温度で気化させたようなじめっとした感覚がなんとも不快だけどしょうがない、後は文具屋だけだから早く買って帰ろう。
そう思うとつい足が早足になる。
ルナ姉も表情こそ変えていないけどこの暑さはやはり堪えるのかさっきから無言だ。
購入した本の入った紙袋を提げて黙々と歩を進める。
そういえば、ルナ姉だけじゃない。
メル姉も男の人に、正確にはライブの後控え室に戻ろうとしていたところを何度かファンから声をかけられたことがあったらしい。
意外とこういうことに関してはサバサバしてるメル姉はいつも「ごめんね、私は音楽が一番大事なの」とすぐに断っているけど。
過去に一度、人里近くで行ったライブが終わって会場から引き上げる時に、
メル姉だけが裏手に残っていることに気付いてつい聞き耳を立ててしまったのだ。
幸いバレていなかったようだし、後日夕食の時にルナ姉から引き上げが遅かった理由を聞かれても
本人は隠すことなくいつもの軽い調子でそのことを話していた。
私はというと、そういう風に異性から声を掛けられたことはない。
私よりずっと小さい、寺子屋に通ってるような年の子供やお爺ちゃんお婆ちゃんにはよく声を掛けられるけど。
私だって異性との付き合いよりも音楽が、もっと言えば今の姉さん達との生活が一番大切だし、
姉達に比べると見た目が子供っぽいのは認めるけど、こうして考えているとやっぱりちょっと悔しいって思うことはある。
こんな風に思ってしまうことがそもそも子供っぽいのかもしれないけど。
「リリカ、ここじゃないの?」
声のした方向を見るとルナ姉は歩き疲れたのかいつもよりほんの少しだけ荒く息をついている。
気付けば考え事をしているうちにいつもの文具店を通り過ぎそうになっていた。
そろそろ夕飯の支度を始める家庭もあるだろうか、人通りはさっきよりも少なくなっていた。
「あ、ごめん、ここで合ってる」
文具屋の向かいには駄菓子屋がある。
店の間口は三間ほどで両側に一つずつ簾が掛かっており、表には四、五人が腰かけらそうな床机もあった。
入り口ではおそらく店主であろう、頭に手拭いを巻いた若い男が空になったラムネの瓶を箱に片付けている。
それを見た私は言った。
「後は紙とインク買うだけだし、ルナ姉はそっちの駄菓子屋さんでなにか飲んでなよ」
この文具店には何回も来ているし毎回買う物も一緒なのだ、目当ての物さえあれば買い物は三分もかからないだろう。
「ううん、大丈夫」
「いいからいいから、私もすぐ戻るからさ」
「……本当にいいの? じゃあお言葉に甘えようかしら」
ルナ姉はそう言うと駄菓子屋の方にゆっくりと歩いて行った。
文具店での買い物自体はすぐに終わった。
店主のお婆ちゃんとはだいぶ前から顔見知りだし、今日も私が入口のカウンターで挨拶をすると
「おやリリカちゃん、今日もいつものかい?」とこの調子だ。
ルナ姉を待たせてるからすぐに出るつもりだったけど、お金を払おうとしたときに「いつもありがとう」と
お菓子をおまけしてくれたこともあって少しだけ立ち話に付き合った。
ここの店主はさっきの本屋のおばちゃん以上に年を取っているように見えたし、最近は目も悪くなってきているらしい。
それでもこうして訪ねた時はいつも元気そうに歓迎してくれるけど、去年夫を亡くして、子供もいないせいか時々ぽつりと私に言うのだ。
「リリカちゃんみたいな孫がいたらねえ、私も寂しくないんだけどねえ……」、と。
こんな時私は反応に困っていつも相槌と愛想笑いで場をつなぐのだけど、これが正しいのかどうかは分からない。
寿命がない騒霊だから、顔見知り以上の人間の死は初めてではないけど、慣れるものではないし、出来ればあんまり考えたくない。
店主に挨拶してお店を出ると、ルナ姉が向かいの駄菓子屋の床机に座っているのが見える。
私が近付くと、店主の若い男が私に気付き、ルナ姉に声を掛けていた。
「ごめんルナ姉、長引いちゃって」
私はルナ姉の右隣に腰かける、休憩して楽になったのか先ほどのように疲れた様子はない。
「ううん、はい」
短く答えると片手を私に向かって差し出してくる、何かを握っているようだ。
掌でその手を受け止めると、硬貨を二枚握らせてくれた。
「リリカも好きなもの飲みなさい、私はもう飲んだから」
「いいの? ありがとう!」
空になったラムネの瓶を傍らに置く。
喉が渇いていたせいもあってすぐに飲み干してしまった。
すると私がもらったお菓子の小箱に気付いたのかルナ姉が口を開く。
「そのお菓子、文具屋さんからもらったの?」
「うん、いつもありがとう、って」
「ふふ、リリカはよくいろんな物をもらってるわね」
「んー、まあね」
ちょっと気のない返事になってしまったことに気付く。
「どうしたの、なにかあったの?」
私の姉達は心配性だ、なにかちょっとでも私に変わったことがあったらそれを見逃さない。
とはいえ私だってルナ姉やメル姉に悩み事があったら力になりたいし、一人で抱え込まないで欲しいとは前に言ったことがある。
ここは素直に話そうか。
「別に大したことじゃないんだけどさ」
私が全て話し終えるまで、ルナ姉は黙って時折相槌代わりに頷くだけだった。
恥ずかしかったけど、一度口を開けばそこから流れ出る言葉を遮る物はなにもなかった。
いつも気にしているわけじゃないけど、姉が同年代以上の異性から声を掛けられることがあるのに対して
自分はいつも姉妹の中で子供扱いされているように感じること、自分を可愛がってくれる人里のお爺ちゃんお婆ちゃんとの、
いずれ来る別れの時を考えると胸が痛くなること、心の中にひっかかっていた物を全て言葉にした。
私の話を最後まで聞いたルナ姉は真っすぐに目を見つめながら口を開いた。
「リリカにもいつか素敵な人が現れるわ、貴女がその気なら私は応援するし」
「私のファン、お年寄りと小さい子ばっかりだし、あの蕎麦屋さんの男の子だってきっとルナ姉かメル姉のファンだよ」
私の少し拗ねたような物言いにルナ姉がちょっと困ったような顔をする。
こういう風に言っちゃうのが子供なんだろうなと思うと自分で自分が嫌になる。
「もう、そういうこと言わないの、それに」
ルナ姉が片手をゆっくり翳すと私の頭を軽く撫でる。
店主は裏で作業をしており駄菓子屋の席には私達しかいないとはいえ、外でいきなり
撫でられるとは思わず、驚きを隠せない私は動くことが出来ずされるがままになった。
頭を撫でる手が離れたところで、ようやく喋ることが出来た。
「も、もう、外でこんなことして、恥ずかしいじゃないっ」
しかし当の本人は私が動揺している理由が分からないとでも言いたげにきょとんとした表情を浮かべている。
そして躊躇うことなく言い放った。
「リリカは優しいいい子、私の自慢の妹よ、なにも恥ずかしくなんかないわ」
「ちょ、いや恥ずかしいってそういうことじゃ」
私に言い返す時間も与えず、続ける。
「優しいから、お店巡りの予定を決めて、混んでるお店は避けて、私がよく通ってる本屋に寄ってくれたんでしょう?
優しいから、疲れてると思ったら私を先に休ませようとしてくれたんでしょう?」
「別に…そんなの当たり前だし」
「そんな貴女だから、お爺ちゃんお婆ちゃんも、貴女が来るのが嬉しいのよ」
答えない私にさらに続ける。
「確かに、別れは悲しいことだわ、でも、だからこそ残された時間を、人は一生懸命楽しく、必死になって生きるのよ」
ずるい、この姉はずるい。
どうしてこういう真面目な話の時だけ鈍くないのか。
姉妹でゲームをやったらいつも私に騙されて負けちゃうくせに。
「これが当たり前だって言うなら、リリカはいいお嫁さんになれるわ」
「……から」
「え?」
もう、いい。
そっちがそんな恥ずかしいことを言うんだったら、私も言う。
「もしかっこいい人に声掛けられても、ずっと家にいる、お嫁さんになんかならないから」
「ふふ、それは嬉しいわね」
「……あのさルナ姉」
「なあに?」
「ありがと、聞いてくれて」
「こちらこそ、今日は楽しかったわ、ありがとうリリカ」
やっぱり、ルナ姉には勝てそうにないなと思う。
「ひっどーい、私がいない日に二人でデートなんて!」
「デートって……私達は姉妹じゃない、それにそんなに大したものじゃないわよ」
「ごめんねメル姉、ルナ姉のエスコートよかったから、つい遅くなっちゃってさ……」
「え、いや今日はリリカが」
我ながら完璧なアドリブで、家に帰って早々大騒ぎするメル姉をルナ姉に押し付けると私は自室に入る。
メル姉はちょっとしたことですぐに騒ぎ出すけどその分落ち着くのも早い、
後でお土産のお菓子を多めにあげるって言えば多分機嫌は直る。
ベッドに体を横たえ、今日一日の出来事を頭で反芻する。
少しの間うつ伏せに寝転んだ後、一つ思いついた私は立ち上がり、
作業机の鍵付きの引き出しを解錠すると朝作曲した譜面を開く。
この新曲、今度人里に行ったら本屋と文具屋のお婆ちゃん達に聴かせてあげよう。
この先のことなんて分からないけど、生きている限り、私は私に出来ることをするだけ。
「もー、姉さんのバカバカ!」
メル姉の怒った声がリビングからこの部屋の中まで聞こえてくる、そろそろお菓子片手に戻った方がよさそうだ。
普段は口五月蠅く思うこともあるけど、私の家は、ちょっと抜けてるけどいつも私達に優しいルナ姉、
騒がしいけどいつも笑顔が眩しくて一緒にいて楽しい気持ちになるメル姉のいるここだけなんだ。
かわいいにも美人や美しいといったものと可愛らしいという2種類あって
前者に憧れそれらを備えた姉たちにコンプレックスを抱えること
後者のかわいい故にファン層が年配の方が多く
そういう方との別れをふとした時に考えてしまったこと
一見難しい2つの話題をきれいに解決してあげたルナサがとてもいいお姉さんで良かったと思います
ルナサはリリカの優しいところを美点そして褒め
リリカはルナサの美しさに憧れる
互いにいいところを見つけてるいい姉妹関係
綺麗にまとめられていて心地よく読ませていただ来ました。
いつもコメントありがとうございます、
リリカ視点のお話も一度書いてみたいなということで書かせて頂きました、
楽しんで頂けたならとても嬉しいです!