Blood Meridian of Metropolis 7
#08 都市と地下
肩を揺り動かされて目覚めると金縁眼鏡の奥のぎょろぎょろとした目玉が視界いっぱいに映りこんだ。すわ賊かと腹に蹴りを一発見舞ってやると奴は身体をくの字にして床を転げまわった。私は中空をさまよう虫を喰らおうと水面から飛び出す小魚のように飛び起きて枕元に置いていた支給品の拳銃を手に取ると震える手つきで撃鉄を起こした。引き金に指をかけたところでようやく闖入者が例のいけ好かない人間霊であることに気づいた。
――なんですかいきなり。
それはこっちの台詞です。奴は眼鏡をかけ直して云った。お手数ですが書斎に来てください。音を立てずにゆっくりと。兵士長さんが何かしています。
杖刀偶さんが?
ええ。
何かってなに?
分かりませんが音が聴こえます。というか音楽が。
音楽?
はい。あとドアの隙間から光が漏れています。テレビを点けて何かを観ているのでしょう。
あるいは外部と通信していたり?
可能性としては。
……また頭が痛くなる問題が増えた。
◇
私はパジャマにケープを羽織った姿のまま人間霊を連れて書斎の前に立った。確かに音質があまりよろしくないオーケストラの演奏がドアの向こうから染み出している。私は奴と顔を見合わせてからドアノブに手をかけて中に入ると杖刀偶磨弓は背筋をさっと伸ばした。彼女はソファにも座らずにテレビの前にお行儀よく正座して何かの映画を鑑賞していたのだった。
どうしたのですか。
私が訊ねると杖刀偶さんは一度眼をそらしてから思い直したのか再び真っ直ぐにこちらを見つめてきた。彼女は云う。……袿姫様が好んで観ておられた映画を鑑賞していました。無断入室、誠に申し訳ありません。
いえ我々はこの書斎をお借りしているだけですから出入りはご自由に。――ただ臨時とはいえ高等弁務官事務所。せめてひと言お声がけいただかないとあらぬ疑惑をあなたに抱かざるを得なくなります。こんな月明りも差さない夜半ならなおさらです。
磨弓は再び眼をそらしてうつむいた。……仰るとおりです。本当に、重ね重ね申し訳ありません。
私は彼女を見つめながら少し考えた。そして云った。
――せっかくです。私たちも御供いたしましょう。ちょっとした鑑賞会ですね。
えぇ……。奴がうめき声を上げる。妖怪と埴輪人形と人間霊で映画鑑賞とは奇怪な。
別にあなたは同席せずとも結構ですよ。
いえいえどうせ私も眠れない身だ。今まで活動写真の名前こそ知っていても観たことはありませんでした。お付き合いいたしましょう。
それでよろしいですか、杖刀偶さん。
ええ。兵士長は曖昧にうなずいた。まだ序盤です。最初から観直しましょうか。
ちなみになんて映画ですか。
フリッツ・ラングの「メトロポリス」です。
◇
物語はひとつの格言で幕を開ける。
曰く――、
頭脳と手の間の仲介者は心でなければならない。
( MITTLER ZWISCHEN HIRN UND HÄNDEN MUSS DAS HERZ SEIN! )
そのフレーズが無声映画特有の冷え切った鉄塊のように厳(おごそ)かな沈黙性を帯びた書体でノイズの走る画面に映し出された。私は枕を両手に抱いて眠たい眼をこすった。磨弓が横目でちらりとこちらを見た。
あの、……昔の映画ですので庭渡様にはつまらないかもしれません。無理にお付き合いなさらずとも――。
私もクラシックなものは好きですのでお気になさらず。こうした懐古趣味をいっしょに楽しめる相手は今の直庁にはほとんどいないのでむしろ好い機会ですよ。たまには仕事のことを忘れて夜更かしをひとつ楽しんだところで罰はあたらないでしょう。
磨弓は再び小さくうなずいた。
制作当時から百年後という時代設定の都市が舞台でありこの映画が人間の暦でいうところの1927年に封切られたことを考えるとその時間軸はすなわち現代の人間界あるいは畜生界に近しいことになる。人びとは都市の上層部に住まう富裕層と下層の労働者で分断されており労働者は死ぬまで酷使され続けることになる。
主人公は都市の支配者フレーダーセンの息子のフレーダーという青年で上層部に子どもたちを連れてやってきた下層階級のマリアに惹かれる。そしてマリアを追って下層の労働者に成りすましその過酷な労働を身をもって体験することで改革の意識に目覚める。だが父親は息子の言葉を聞き入れようとしない。冒頭の仲介者云々という警句はマリアが下層階級の人びとの秘密集会で語りかけた言葉だ。頭脳すなわち都市の支配者たち。そして手足となって働いている私たち労働者。この二つのあいだには仲介者となるべき心が欠けているのです、と。やがてフレーダーとマリアは惹かれ合う。そしてマリアは彼こそが待ち望んでいた仲介者だと直感する。
一方の父親・フレーダーセンは集会の様子を旧知の科学者・ロトワングと共に目撃し労働者にストライキの機運が高まりつつあることに危機感を抱く。そして一計を案じる。ロトワングの発明品である人造人間にマリアの姿を写し取らせて偽マリアとして下層に送りこみ労働者たちの結束を崩そうとしたのだ。だがロトワングの真の目的は違った。彼は偽マリアに民衆を扇動させてこのメトロポリスそのものを再起不能にしようとしていた。何故ならロトワングにとってフレーダーセンはかつての恋敵。愛するひとを奪われた男は心を喪ったマッド・サイエンティストとして憎き都市を破壊しようと試みる。
フレーダーとマリア、そしてメトロポリスの運命や如何に……?
◇
私はこの映画を翼と尾羽の手入れをしながら観ていたが磨弓はひと時たりとも画面から目を離さず真剣なようすだった。意外なことには人間霊の奴もあごに指の間接を当てながら前屈みになって鑑賞しており時折うなずきまで挟んでいた。映画のヴァージョンは近年発見されたそれまで散逸していたフィルムをも加えた完全版であり百年近く前のものとは思えないほどにその映像美は見劣りしない。私たちは二時間たっぷりとメトロポリスの世界を堪能し最後の対決のシーンではさすがの私も手に汗を握った。
感動の大団円ですな。エンドロールになって奴は云った。遂に心は頭脳と手を結びつけたわけだ。肝心の都市は壊滅状態ですがね。
……袿姫様はこの世界に来てからというものこの映画を繰り返し観ておられました。
杖刀偶さんは奴を無視して語った。
その意味するところは私にも分かりません。なのでこの映画をじっくり観返すことで袿姫様のお考えの一端を知ることができるのではないかと思ったのですが……。
私は云おうかどうか迷っていたことを口にした。――埴安神袿姫は映画で述べられていたところの"仲介者"になりたいと考えたのでは。あの神は人間霊の祈りによって呼び出されましたが可能ならば動物霊とも善い関係を築くことを望んでいたように見えました。
それは私も考えました。磨弓はうなずく。ですが結果だけを見るならば私たち埴輪は和解ではなく制圧のために動きました。袿姫様はご自身のことを神である以前にクリエイターだと常々仰っていました。動物霊も人間霊もすべては自分の創造力を培うための糧に過ぎないのだと。その意味では結局のところ神である私も動物霊である奴らも本質的には何ら違いはないのさ、とも。
…………それを見抜いたからこそ私は埴安神には帰依しなかったんですよ。奴が冷めた珈琲を飲みながら云った。彼女は仲介者ではないしそうなるつもりもない。それどころか我々人間霊の味方ですらない。唯一自分と自分の作品に対する味方なんだとね。
ですが経緯はどうあれ大多数の人間霊は袿姫様を信仰しましたよ。
いやそれは違う。奴は反論する。兵士長さんもご存知のはずだ。あいつらが信仰していたのは埴安神ではない。神が造りたもうた偶像つまりは貴方たちにすがるようになったのです。そして偶像が敗れ去った今、彼らは再び信仰なき徒に逆戻り。空っぽの埴輪に宿っていた力は永遠に喪われてしまった。――その頬のひび割れが何よりの証拠だ。
磨弓は右頬の亀裂に手を触れた。蜘蛛の巣のように広がった風化の兆しは必要以上に痛々しく見えた。
奴はエンドロールの映像をじっと見つめながら語った。……信仰は喪われ修繕を施してくれるはずの創造神も今はいない。このまま放っておけば古い偶像たちは朽ち果てる一方だ。だが心配はいらない。量産された新しい偶像がいくらでも仕事の穴埋めをしてくれる。――霊長園の放棄。偶像崇拝の禁止。そして労働力としての埴輪の提供。――こうなることを承知で埴安神は協定を結んだのだ。これがいったい何を意味すると思う?
…………。
奴はそこで初めて杖刀偶さんに視線を向けた。……あなたはご主人様に見捨てられたんですよ。
……馬鹿なことを。
磨弓はそう呟いた。私は黙っていた。彼女はこちらに顔を向けた。
庭渡様。あなたも同じ考えなのですか? 袿姫様は私を、――私たち兵士をもう必要としていらっしゃらないと?
私は眼を閉じてしばらく考えていた。息をゆっくりと吸ってから吐いた。そして彼女のすがるような視線を受け止めた。ひび割れがさらに広がっており右目の瞼にまで達していた。壊れかけの人形。見捨てられたヒトガタ。それらは人を不安な気持ちにさせる力がある。私は彼女から顔を背けないように努力しなければならなかった。
……一度、埴安神袿姫と話をしなければなりませんね。
◇
杖刀偶さんが退室するのを見届けると私は奴の向う脛を蹴っ飛ばした。奴はぎゃあっと呻いて転がった。
……あなたは私の仕事を増やすのが目的なのですか?
別にそういうつもりでは。事実を述べただけです。
それにしたって云い方ってものがあるでしょう。
心がないものに配慮する必要があるのですか。
私は書斎を歩きまわりながら云った。
とにかく、――夜が明けたらさっそく埴安神袿姫に会いにいきますよ。磨弓さんのことも勿論ですが頻発するテロについても何か情報が得られるかもしれません。あと復興作業で使われている杖刀偶さんそっくりの人工知能の話も聞きたい。今は少しでも情報を集めなければ。
ええそうですね。奴は冷淡に答えて「メトロポリス」のディスクを大切にパッケージにしまい込んだ。……この映画の興味深いところは虐げられている労働者たちを単純に善玉として描いていないところです。彼らは偽マリアに乗せられて心臓機械を破壊してしまい地下都市を水没させてしまう。自分の首を自分で締めているわけですな。
何が云いたいのですか?
要するに蒙(もう)を啓(ひら)かなければ大衆はいつまで経っても支配者たちの掌(てのひら)の上だということです。結局のところ神も偶像も仲介者にはなり得なかった。我々はただ利用されただけだ。ならばどうするか。我々自身が変わらなければなりません。それがこの映画を観てはっきりしました。
それは好かったですね。私も冷淡に返した。啓蒙思想に目覚めるのは結構ですが仕事のことも忘れないでくださいよ。
いつの世も革命に必要なのは大量の浪人つまりは無職者だ。奴は無視して続けた。偶像が量産されればそれだけ仕事にあぶれた人間霊も増える。このまま平穏に終わるはずがない。暴動が起こる前に誰かが彼らを啓蒙しなければ。
あなたは他の人間霊のことなどどうでも好かったのでは?
そんなことはひと言も云っていませんよ。呆れているだけで私はあくまでも人間です。同族に対する哀れみくらいはある。
その後も奴はぶつぶつと呟きながら何事か考えているようすだった。私は欠伸を漏らした。残り少ない睡眠時間を確保しなければならない。片づけを奴に任せて私は寝室に戻った。
◇
その翌朝には霊長園から奴の姿は消えていた。書き置きもなければ杖刀偶さんへの伝言もない。ただ彼が着用していた支給品のスーツだけが几帳面に畳まれてデスクの隅に置かれていた。あの野郎、と独り言を漏らして私は空っぽの書斎を見渡した。
報告書がまた一枚増えてしまった。
~ つづく ~