両手の鳴る音は知る。
片手の鳴る音はいかに?
――禅の公案――
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小春日和の、温かく晴れた日だったように思う。祖父は庭の散歩に私を伴った。大小を脇に差した大きな背中を、年端もゆかぬ私は雛のように追いかけた。剣の道を仰いでから、まだ日も浅かった。
玉砂利を蹴散らしながら、私は祖父の背中越しに庭を見まわした。松の枝の上を浮遊する幽霊を見るともなしに眺めていたように思う。祖父が丹精をこめて日々整えた庭の、微妙繊細さを知るにはまだ私は幼すぎた。
祖父が立ち止まり、私の名を呼んだ。池のほとりだった。私は祖父の隣に並び、はい、師匠、と返事をした。深い年輪のようなしわを刻んだ横顔。祖父はあごを撫でながら横目を私に寄越し、足元を見よ、と言った。
私は言う通りにした。池の水面があった。
「何が見える」
白玉楼の戴く晴天と、祖父と、私が映っていた。私はそのように答えた。
「ならば、それは斬る事ができるか」
水の中から、私の顔をした者の、ふたつの
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幽々子様が姿見を買ってきた。
ハイカラでしょう、と仰って、たいそう嬉しげにされていた。鏡の前に立って、くるくると回ってみたり、私を前に立たせてみたり、ひと通りはしゃいで
酔狂。
いつものことだと思う。あるいは、雅の遊びこそ幽々子様なのである。
それで、私は目覚めると、すぐに姿見の中の自分を見るようになった。寝惚けた自分をまざまざと見せられるは少し憂鬱ではあるけれど、心は引き締まる。日のようやく昇りはじめた早朝、鏡の中の私はこちらをにらんで、布団を上げる。手鏡と違って、両手で身だしなみを整えられるのは確かにありがたい。とはいっても、このような大きな鏡は酔狂でしかないのだけれど。
姿見が白玉楼に運ばれてから、幾日か経った日のことだ。午後の
懐かしいものを見つけたの、と幽々子様は仰った。
こっちにおいで、と幽々子様は仰った。私は筆を置いて従った。姿見の前に座った私のうしろから、幽々子様は私の肩に手を置き、
それより、幽々子様が笑えば、私もうれしい。
幽々子様は、櫛笥の中から金粉で飾ったはまぐりを取り出し、開けた。中には紅が詰まっていた。幽々子様はそれを薬指でちょっと取った。私は緊張して、また声を上げそうになった。
動かないで。
幽々子様が優しく言った。私は縫いつけられた。
幽々子様の薬指が私のくちびるを撫でた。紅の引かれた私のくちびるは、他人のものみたいに、艶っぽく光った。
きれい、と幽々子様は仰った。
私はたぶん、赤面した。
そうして、幽々子様はご自室へ戻られた。
私はひとり、部屋の真ん中に取り残されたみたいに座っていた。姿見の中に、つやつやした紅ばかり目立った誰かがいた。
私はついおかしくなって笑った。
なぜか、祖父の事が思い出された。
私は白楼剣をつかむと、鞘を静かに払った。姿見に対して正眼に構えた。そうして、私は私と対峙した。
気合いの声は出なかった。ふッ、と息だけを吐き、上段から剣を振りおろした。
剣は姿見の表面の、きっかり一寸のところで寸止めされた。
私は満足だった。くちびるを自分の指でなでて、うきうきした。
そうして、そのはまぐりは、私の文机の引き出しに、納められたのだ。
こういうしっとりした雰囲気が冥界は似合いますねー。
妖夢の可愛らしさにもキュンときました。
ああ、初めての化粧は秘密の香りがします……。