【ひとつめ】
「こんにちは」
紅魔館大図書館の奥の奥、安楽椅子に身体を預けた魔女に声をかける。
ただひたすら文字だけを追いかける彼女は、アリスの声に一度だけ顔をあげる。けれど、アリスの姿を一瞥すると、ふん、と鼻を鳴らして、再び自分の世界へと戻っていく。
声を出して、挨拶を返してくることなどない。
いかにも興味がなさそうな。
あるいは、来訪者を邪魔に思っていることを表しているかのような。そんな態度。
「じゃあ、また見ていくから」
しかし、それもいつものこと。アリスになど興味がないのだ、と思う。
たとえば、魔理沙のように本を盗むこともなく、暴れることもしないアリスは、きっとパチュリーにとっては気にする必要もない。少なくともパチュリーよりは生きてきた年数で劣るアリスは、敬ったり利用したりする対象でもない。
最初に来た頃はそれでも、なんだかんだ声をかけてきたり、返事をしてくれたのだけれど。最近では、まったく無視されているも同然だ。
それはきっと、毒にも薬にもならない、そう判断が下されたため。
極論を言えば、敵でもない、味方でもない。たまたま入りこんできた蝶かなにかと変わらない。だからこそ、追い出されもしなければ、招かれもしない。
パチュリーにとって、アリスは、そんなとるに足らない存在なのだろう。
喜ぶべきことなのか、悲しむべきことなのか。
最初の頃はそういうふうに思われているであろうことを、気まずく思ったり、居心地の悪さを感じないこともなかったけれど、もうすっかり慣れてしまった。
だって、魔法使いにとっては、この大図書館は宝の山だ。ほんの少しの居心地の悪さなど気にならないほどに魅力的なのである。実際、この図書館を利用するようになってから、研究の進み具合はこれまでの比ではないのだから。
一応挨拶をするのはマナー。育ちの良いアリスとしてはそのあたりはきちんとしないと気が済まない。
返事が返ってこないのが分かっていても、しなやかにしたたかに。それが都会派のやり方だ。こころのはじっこが寂しいと思うのには気付かないふりをする。
「あ、アリスさん、こんにちは」
「こんにちは、小悪魔」
「いつもせいが出ますねぇ」
今日も同じか、と肩を竦めたアリスにかけられる、図書館の静けさに見合わない明るい声。
書架の陰から現れたのは、何冊もの分厚い本を腕に抱えた小悪魔だ。よいせ、とそれらをパチュリーの傍に置くと、アリスに向かってにこり、と微笑んだ。
主と対照的にやたらと明るくて友好的な小悪魔は、アリスのことも好意的に迎えてくれる。司書のような仕事をしている彼女に、本の場所について尋ねたことも一度や二度ではない。
「いつも悪いわね」
「いえいえ、ごゆっくりどうぞ」
アリスが微笑みかければ、どこかいたずらっぽく笑い返す。穏やかな挨拶と少しの世間話。最近、寒いですね、だとか、魔理沙の侵入の片づけが大変だとか。円滑なコミュニケーションはすばらしい。
その流れで、雨が多いとここまで来るのにも苦労する、とアリスは苦笑交じりに零す。
魔法を使えば大したことではないのだけれど、さまざまな手間を考えるとやっぱり雨は好ましくない。
「なんだったら、借りていってもいいんですよ? 毎日ここまで来るの、大変ですよね」
「ううん。ここは、貸出しはしてないんでしょう?」
「いえいえ、アリスさんだったら、安心ですよ。ちゃんと返してくれそうですし」
「決まりは守るわよ。どこかの泥棒とは違うもの」
ありがたい申し出ではあるのだけれど、アリスは首を横に振る。
気難しい図書館の主が、身内以外の利用者を疎むことは分かっている。それでも出ていけ来るなとも言われず、追い出されもしないなら、まだ利用していていいのだろう、と自分に都合よく解釈して、たびたび訪れているのだ。
少なくともそれを許容してもらっているのだから、それ以上甘えるわけにはいかない。
だから、アリスは、持ち出しはしない、とそう決めている。
もっとも、考えようによっては同じ場所で本を読んで一人の時間を邪魔するよりは、借りていって、すみやかに返した方がいいのではないか、とも思う。けれど、もしも、アリスならば目の届かない所に持っていかれる方が嫌だ、と思うだろうから。
「うるさい」
ふいに、聞こえたかすれ声。囁き声のようなその声の主は本から顔をあげたパチュリー。いつものじと目をほんの少し不機嫌そうにきつくして、アリスと小悪魔を睨みつけている。
どうやら、おしゃべりが過ぎたらしい、と慌てて謝る。
「ご、ごめんなさい」
「ふん」
じっとアリスへと視線を向けるパチュリーは、結局いつもと同じように鼻を鳴らして再び本へと視線を戻す。長い髪がはらりと落ちて、表情を窺い知ることもできなくなる。
ぴたりと動きを止めていた小悪魔は、肩を竦めて苦笑して。
息をつめていたアリスが頷き返すと、ぱたぱたと羽根を動かして仕事へと戻っていった。
けれど、立ち去り際に一度だけ。ちらり、とパチュリーに目をやった小悪魔はくすっと笑い声をたてた。叱られたばかりだというのにいかにも楽しげな様子の理由はこれいかに。
怪訝に思ったけれど、きっと何かいたずらでもしかけたのだろう、と考えて気にしないことにする。使い魔らしく、悪魔らしく、パチュリーを愛してやまない小悪魔のすることだ。第一、部外者であるアリスには関係がない。
やがて、書架と書架の間に消えていくその背中を見守って。アリスはふう、とため息をつく。
図書館では静かに。
そのことをもう一度心に刻んでおこう、とそう思う。
「ごめんね」
もう一度だけ謝罪の言葉を口にして。
アリスはパチュリーのはす向かいの椅子に腰を下ろす。年季が入ってはいるものの上等な椅子は柔らかい。
四角いテーブルを四つの椅子のひとつだ。本当のところを言えば、パチュリーとこんな至近距離で本を読むのは気まずいのだけれど。広さの割に本を読むスペースに欠けるこの図書館で本を読むのならば、ここしかないのだから仕方がない。
「あ」
訪ねているうちにすっかり定位置となったその場所のテーブルの上。二冊の本がきっちりと重ねられている。それを見たアリスは小さく頬を綻ばせた。
一冊は昨日アリスが読みかけていたもの、そして、もう一冊は、その本と関連があるであろうと思われるもの。きちんと昨日書架に戻したそれが、それから、見覚えのないそれが置いてある。
パチュリーが読んでいるというには、分野が違うそれらは、紛れもない。アリスのために用意された本だった。
いつからだっただろうか。アリスがこの図書館を訪れるようになってしばらくした頃から、こうして、この場所に本が用意されるようになっていた。もちろん、前日とは違う本に用があることもあるため、いつもいつも役に立つ、というわけではないのだけれど。
けれど、もう一冊は。アリスが予想もしなかったような本であったり、驚くような方面からのアプローチであったり、タイトルは分からないけれど読みたいと思っていた本だったりして、とても重宝している。
きっと小悪魔の仕業だろう。機会がなくて確認したことはないけれど。軽い調子でいるわりに、かなり有能な司書だから。なんせこの巨大な図書館の中の本の位置を細かに把握して、頼んだ本は適切に見つけてきてくれる。図書館のエキスパートなのだろう。
それが元々そういう性質を持った悪魔だからなのか、はたまたパチュリーの元で学んだ結果なのかは分からないけれど。
本当に気がきく。今度あらためて、お礼をしなければ、と思いながら、アリスはぱらぱらとページをめくる。昨日の続きを読むために。
「ふふ」
なんとなく、だけれど。
錯覚に決まっているのだけど。
こうして本が用意されていることがとても嬉しい。心の中にほんわりと陽がさしたような、そんな心地。
もちろん、研究が進む、ということもあるし、手間が省けるということもある。
けれど、それよりなにより、この図書館に居場所が出来たようで。
ここに来ることを許されているようで。
それはとても。
できれば、もう少しだけ、パチュリーと好意的な関係になれたらいいな、と思うのだけれど。
仲よしこよしなんて、べたべたした関係は勘弁だけれど、せめて挨拶を交わしあえるぐらいに。ちょっとした話し相手になるぐらいに。
研究はもちろん、調べ物と実験とその二つを支柱とするものであるけれど。同業者との対話もその多大なる手助けとなる。
できるなら手詰まり気味の研究について、パチュリーの見解を聞いてみたいという気持ちがないでもない。けれど、前に異変の原因を相談に行った時のにべもない対応を考えれば、それも難しいような気がしてならない。
というか、もっとシンプルに。数少ない魔法を使う同士として、交流してみたい。
それだけのことだ。魔法使いらしくないことは分かっているから、言いだせないけれど。
だから、結局変わらないのよね、と内心ため息をつきながら、やがてアリスもまた、本に没頭していく。難しい内容のその魔導書は集中しなければ、理解することもできやしないのだから。
ただただ文字を追うことに夢中になる。そうすれば、もう他のことは気にならなくなる、というか、意識の外側へと追いやってしまう。
当然、無愛想に本を読んでいたはずのパチュリーが、アリスの方へ視線を向けているのにも気が付かない。
「それは私じゃ、ありませんよ?」
アリスの言葉に、きょとん、と目を丸くした小悪魔は首を傾げた。きれいに切りそろえられた前髪が揺れて、形の良い眉があらわになる。
そんなの分かっていて当たり前だと思っていた、と言わんばかり。いかにも不思議そうなその表情に、アリスはすっかり面喰ってしまう。
これはいったいどういうことなのだろう。
あれからほんの少しの時間をかけて、読みかけの本を読み終えたアリスは次の一冊へととりかかった。
それは今日用意してもらっていた魔導書。とても役に立つ内容だったのだけれど、結論に至るまでの理論がえらくややこしい。一応、万能型であるアリスは精霊魔法もしっかりかじってはいたのだけれど、上級理論は流石にそうそう簡単に解読できるものではない。今の知識では太刀打ちできないそれを解読するために、別の本が必要だった。
だから、参考になりそうな本を探しにきたのだ。
その途中で、アリスは、天上の見えないこの図書館で、天井に届きそうなほど高い書架と書架の間に、鮮やかな緋色の髪を見つけた。
司書であり、本を用意した本人ならば、手がかりを知っているかもしれないとそう思い、声をかけたそのついでに。いつもありがとう、助かってるわ、だとか、まさかこの分野がこんなに役に立つなんて思わなかった、だとか、そういうようなお礼と感心の言葉を告げたのだけれど。
小悪魔の反応はまるで、アリスの予期していたものとは異なっていた。
知らないと、そう言うのだ。
あの本を準備していたのは自分ではない、と。
「だって、あなた司書でしょう?」
「いやあ、司書は司書ですけど、別にそこまで本に詳しいわけではありませんし」
「嘘」
「嘘じゃありませんってば。タイトルとか場所はかなり把握してますけど、論文と論文のつながりとか、分かりやすさとか、そんなどれもこれも知ってたりはしませんよ」
「そうなの?」
「だって、私、悪魔ですから。いくらなんでも専門家の魔法使いのアリスさんにお勧めできるほどには詳しくないですよー」
「じゃあ、一体誰が」
え、と自分で呟いた言葉に、戸惑ってしまう。
幸いなことに、というか、この場合にはどちらが望ましいのか分からないけれど。魔法使いとしては十分すぎるほどに、聡明で頭の回転の速いアリスはすぐに思い至ってしまう。
この図書館を利用しているのは、今、パチュリーと、アリス、そして小悪魔。それぐらいのものだ。魔導書に用がない咲夜やレミリア、それからはほとんど押し入り強盗の魔理沙は、この場合除外してもいいだろう。たまに利用しているというレミリアの妹ともほとんど面識がないため考えないことにする。
そして、小悪魔が準備をしていたのではない、というならば。
消去法で残るのはただひとり。確かに彼女ならば、それをするのはたやすいだろう。
知識と日陰の少女、動かない大図書館、百年本を読み続けている先輩魔女。
だけれど、彼女はいつも無愛想で、挨拶もまともに返してくれなくて。
ネズミが増えて厄介だとまで言われたこともあるのだから、好ましく思われているはずもなくて。
本をわざわざ用意してくれるなんてあるわけがないはずなのに。
つまり一体どういうこと?
予想もしなかった事実が明らかになりそうで、アリスは混乱する。
今、自分がどんな表情をしているかも分からないまま、すっかり固まってしまった。それほどまでに、それはアリスにとって意外な事実であったわけで。
そんなアリスを眺めていた小悪魔は楽しげに笑う。
「きっと考えていらっしゃるとおりだと思いますけど」
いたずらっぽく瞳を輝かせて、人差し指を立てて口元へと添えて。小悪魔はいかにも小悪魔らしく笑う。人の心のうごめきを、動揺を見て楽しむ人の悪い笑みだ。
そんな表情を見ていると、普段は忘れがちだけれど、彼女が悪魔だということを思い知らされる。
しかし、今はそれどころではない。
手にしていた本を胸にしっかりと抱き直したアリスは、踵を返して、急ぎ足。
ぎりぎり走っていない、早歩きで向かう場所はただ一つ。
「まったくもう」
くすくす、と声を立てた小悪魔は、瞳を閉じて。誰にも聞こえないほどのささやかな声でそう呟く。
「パチュリー」
小悪魔と別れて、テーブルと椅子のあるいつもの場所へ戻ってきて。長い紫色の髪を垂らした彼女は安楽椅子の上、いつものように本を読んでいる。
軽く息の上がったアリスは目の前にいる魔女を見下ろして、ただ勢いに任せて、その名前を呼ぶ。
この本、用意してくれたのはあなたなの?
そう聞きたいけれど、何といっていいか分からなくて、言葉に詰まる。
ただ、ぎゅう、と本を抱きしめて、形にならない言葉に惑うだけ。何度か口を開こうとしても、結局唇を湿らすだけで、再び閉じることを繰り返すばかりだ。
パチュリーは、そんなアリスのことをじっと見上げている。思っていたよりも丸くて子どもっぽい瞳は不思議な色を宿していて、その感情を窺い知ることはできない。
そうして、彼女はやがて笑みを浮かべる。にやり、と口元を歪めた魔女めいた笑み。
アリスよりも幼い容姿をした少女には似つかわしくないはずのその笑みは、やけにはまっていて違和感がない。
「遅い」
え?
唐突なその表情の変化にアリスはただ戸惑う。今まで見た中で一番色の濃い表情だったように思う。話の流れでの薄い笑顔ではなくて、意地悪なのに、どこか嬉しそうな笑み。
「今頃気付くなんて、まだまだね」
もっと早く気付くかと思ったのに、魔女ならもっと洞察力を磨きなさい。
やけに早口で、小声で。静かな図書館の雰囲気によく似合っているぼそぼそとしたかすれ声が畳みかけるように、言う。なぜか勝ち誇った様子で語るパチュリーはやけに楽しげな様子。
そんな姿を見ていると余計にアリスは混乱してしまう。
ちょっと待ってよ、あんなに無愛想だったのに、挨拶も返してくれなくて。アリスのことなんて邪魔とすら思っていないはずだったのに。
手助けなんかしてくれるほど生易しいひとではないと、思っていたのに。
けれど、わざわざ本を用意してくれていたということは、それなりに、いや、それなり以上にアリスに注意を払っていなければできない芸当だ。
読んでいた本、研究していたこと。ちゃんと知っていなければならない。
アリスが気付かないうちに、パチュリーはアリスのことを見ていた、とそういうことなのだろうけれど。それは、どうでもいい相手にするような行為ではないのに。
「たまには未熟者の面倒をみたっていいじゃない」
黙り込んだままのアリスをじっと眺めるパチュリー。いったい何を思っているのか分からないいつもの表情だ。
絶句して、黙りこんでいるアリスは、自分がどんな顔をしているかも分からない。きっと相当情けない顔か間抜けな顔をしているに違いない。
「私のことなんてどうでもいいんじゃ」
「そうね。大した興味はないわよ」
「じゃあ、何で」
「でも、まったく気にならないわけではないの。一応、同業者だし」
やっとのことで絞り出した言葉に、さも心外そうな反応が返ってきた。ぱらり、と本のページを開いたパチュリーは、もう横目で文字を追いはじめている。気のない素振りはいつもどおり。
そんなパチュリーにアリスは言葉にならないままに言い募る。
「だ、だって、ここのところは挨拶もしてくれなかったじゃないの」
「そうかしら」
「そうよ、だから私はずっと。そう、だから」
「……」
結局口ごもってしまう。ちらり、と視線を向けてくるだけのパチュリーもこれでは返事のしようがないことは分かっているのだけれど。
「……なんで?」
咎めるような視線をと共に送るのは、たった一言。
ぐるぐると渦巻いているすべての思いをこめて、そう問いかける。
「……」
「ねえ」
「……」
本に目を落としたままのパチュリーは、なかなか言葉を返してくれない。ただ、ちゃんと話は聞いているらしく、ページをめくる指先が止まる。
いくばくかの沈黙の後、本当に消え入りそうな声で、ためらいがちな答えが返ってくる。
「気付かないのが悪いのよ」
それだけ言って、パチュリーは本に顔を埋めてしまう。眼鏡をかけていないときにするような、あの読み方だ。わりとよく見る動作ではある。
その動作と言葉を考え合わせて、辿りついたのはとても簡潔で分かりやすい答え。
肩の力が、すーっと抜ける。
「もしかして……拗ねてた?」
「……違う」
「ええと、ごめんね……?」
「だから、違う」
「うん、そうね」
顔を押し付けているせいでパチュリーの声はくぐもっている。
嬉しいやら、戸惑うやら、ほっとしたやらで、アリスももういっぱいいっぱい。
もう今日は帰ろう、それがお互いのためだ。そう思ったのだけれど、ちゃんと言わなければいけないことがある。
「いつもありがとう、とても助かっているわ」
「……ふん」
「こんにちは、パチュリー」
翌日の翌日。アリスは再び大図書館へとやってきた。
丸一日開けて、心は大分落ち着いた。まだ、少し気まずいというか、どう接していいか分からないところがあるけれど、できるだけいつも通りを取り繕って挨拶の声をかける。
幸いポーカーフェースは得意なほう。
「なによ、また来たの?」
変わらず安楽椅子の上、分厚い本を読んでいたパチュリーは、顔をあげてアリスを一瞥する。面倒くさそうなじと目も変わらない。
「ええ、この間進めてもらった本も読みたいし。他にもいろいろね」
「図々しい」
「魔女だもの」
「魔女だものね」
視線を合わせて、ふっと二人で微笑みあう。
パチュリーの向かい側には二冊の本。
アリスの読みかけの本と、その参考になるであろう本。
「ありがとう」
「別に」
少しだけ近くなった距離。ふ、と吐息のような笑いを漏らす。
椅子に腰をおろしたアリスは、早速その表紙を開いたのだった。
【ふたつめ】
「きゃっ」
ぐらり、と。
足元が揺らぐ。地面が波打っているかのような、揺れ。
きしりきしりと、アリスの身長の何倍もの高さのある本棚が嫌な音を立てる。
地震だ。
見た目はともかく中身は子供ではないのだし、地震のひとつやふたつ今更怖がるようなものでもないのは分かっている。メカニズムも分かっているし、知り合いの中には地震を操る能力を持っている少女もいる。
そもそも、捨虫の術を使った身だ、地震の一つや二つでどうにかなるようなやわな身体はしていない。それに、この大図書館が、咲夜の空間操作とパチュリーの魔法とで厳重に保護されている、ある意味どこよりも安全な場所であることも分かっている。
けれど、突然、足元がおぼつかなくなるというのはやはり、驚いてしまう。
どきどきと音を立てる心臓を宥めながら、アリスは冷静に自分に言い聞かせる。
怯えるようなことじゃない。慌てるようなことじゃない。
私はクールな都会派魔法使い、こんなことで動揺したりなんかしない。
「ちょ、ア、アリス?」
「大丈夫よ、パチュリー」
らしくもなく大きく声をあげるパチュリー。
地震に動揺しているのだろう、と考えたアリスはできるだけ優しい声で囁く。
幻想郷のある日本はもともと地震が多い土地であるかもしれないけれど、アリスの生まれ育った場所はそうでもない。
ここに来たばかりの頃、はじめての地震を経験した時、うろたえてしまって、たまたま一緒にいた魔理沙に大笑いされたことを今も覚えている。未だにそれをからかわれるのが恥ずかしくて苛立たしい。
その悔しさゆえに、地震について色々書籍を読み漁った結果、今では地震については地学的な見地から、民間伝承の類まで、右に出るものがいないのではないかと言うほどに詳しくなってしまったのは秘密。
今では、地震をそうそう珍しいとは思わないけれど、そうそう慣れることはできない。
きっと外の世界にいた時は西洋のほうに住んでいたというパチュリーも、アリスと同じように、地震には慣れていないのだろう。
やけに慌てた顔をしているのはきっとそのせいだ。
ゆーら、ゆーら。
幸い、今日のそれは大した揺れではない。立っていられなくなるほどでもなく、あえてたとえるならば、穏やかな湖の上に浮かぶボートに乗っているような揺れ具合だ。ふわふわとめまいを起こした時のような感覚は気持ちが悪いけれど、我慢できないほどでもない。
それも長い間続くわけではなく。ほんの一分にも満たない時間。けれど、アリスにはずいぶん長いこと揺れていたように感じられた。
あたりをきょろきょろ見回して、揺れがおさまったことを確認すると、ほっと一息。
「アリス」
「あー、驚いたわね、パチュリー」
いつも通りの仏頂面のじと目で見上げてくるパチュリーに、アリスは興奮のままに語りかける。
ちょうど、いつもの読書スペースを離れて、共同研究に必要な本を物色している最中の出来事だった。二人並んで、あれもいい、これは少し違うなんて言いあっていたところだった。お茶会の時は気にならないけれど、ちょうど頭半分の身長差があるために、立って並ぶとどうしてもパチュリーがアリスを見上げることになるのは仕方がない。
「……まあ、それも驚いたと言えば驚いたのだけれど」
「パチュリー?」
「なんというか……」
よくよく見てみれば、普段雪のように白いパチュリーの頬は僅かに色づいていて。
じっとアリスを見上げているように見える紫色の瞳は、戸惑っているかのように不自然に揺らいでいる。
心なしか、言いづらそうに呟く声は力なくて、とてもとてもか細い。もともと声が大きい方ではないけれど、こんなに小さい声は初めてで。
まるで、見た目通りの少女のような。
いつも冷静で、動揺している様子を見せないパチュリーらしくない姿にアリスは首を傾げる。大人しそうな見た目に反して、パチュリーは遠慮なく物事をずけずけと言う。歯に衣着せぬ毒舌、それは魔法使いとして後輩であるアリスに対しては特に顕著だ。
そのパチュリーが口ごもっているとは。
「あ、もしかして具合悪い? 地震で酔った?」
「酔わないわよ。どれだけ弱々しいのよ、私は」
「いや、パチュリーならあるかなぁって」
「ないから」
はぁ、と呆れの混じった深いため息。あ、いつものパチュリーだ、とアリスは少しほっとする。こんなことで安心してしまうのもどうかと思うけれど。
「ねえ、アリス」
「パチュリー?」
「何かがおかしいとは思わない?」
「え?」
居心地の悪そうに視線をそらすパチュリーの方こそおかしいと思う。
そう言いたいのをこらえて、アリスは考える。言っても否定されるのが関の山であるし、仮にも年長者の言うことだ。アリスが気付いていないだけで、なにがしかの異変が起こっているのかもしれない。
これだけの動揺を露わにさせるほどのなにかが。
少しだけ真剣な気持ちになって、アリスは思考を巡らせる。
何かおかしいことがあるだろうか。
とりあえずあたりを見回してみる。けれど、目の前にいるパチュリー以上の異変は見受けられない。
いつも通りの図書館の風景だ。果てしなく遠い天井についてしまいそうなほど高い書架は整然と並び、地震のせいで本が落ちているということもない。魔法で灯されたランプも変わらず橙色に揺れているし、あの程度の地震ではありえないけれど、地面に亀裂が走っているというようなこともないし、壁にも異常はみられない。
施設的な問題でないとすれば、原因だろうか。
気というか魔力というか、そういった気配も感じられないため、今の地震はきっとただの自然現象だろう。少なくともここで分かる限りは異変ではないと判断してもよさそうだ。
いったい、七曜の魔女は何を感じ取ったのだろうか。
アリスは、真面目な顔で考え込む。そんな人形遣いを黙って見上げている魔女は、はあ、と心底疲れたようなため息をつく。いかにも呆れたような、困ったようなそんな表情。
そんな顔をするのならば、回りくどい言い方をしないで、はっきりと口で言ってほしいとアリスは思う。何事も口にしなければ伝わらないというのに。
けれど、そんなことをいえば、また未熟者だのなんだの言われるのは目に見えている。
もう少しだけ考えてみよう、と決める。まだ諦めるのには少し早い。
考え事をする時のくせで、いつものように口元へ手を添えようとしたのだけれど。
「あ、れ……」
動かした左手に感じるさらさらとした髪の毛の感触。
手首と肘の間に感じるのは、華奢な小さな肩。
見下ろした先にあるじと目はいつもよりずっと、ずっと近い場所にあって。
「え? ちょ、ちょっと。え?」
当然のように右腕も左腕と同じように、パチュリーの背中へと回されていて。
ようするに、アリスの両腕はパチュリーを抱いている。胸元に強く押しつけるようなそれではなくて、緩く、軽く。けれど確かに。
その事実に気がついたアリスは、口をぱくぱくと動かす。顔に熱が立ち上る。
まるで石化の呪文でもかけられたかのように固まってしまった。
「ようやく気付いたみたいね」
はあ、とため息をつくパチュリーもアリスの反応を見て、恥ずかしくなってくる。
こんなにもうろたえられると、どういう表情をすればいいのか分からなくなって、ただ目を伏せる。ある程度身動きはできるけれど、回された腕がほどけなければ、視線を反らすことなんて、下を見ることぐらいでしかできないのだ。
地震が起こった時。
地面の揺れを感じたパチュリーは、やれやれ、それを緩慢に受け入れていた。別にもうすっかり慣れてしまったし、揺れたところで、とっておきの魔法で守られている図書館がどうなるわけでもない。
それだけだったのだけれど。突然、アリスの腕が伸ばされてきて。背中へと回されてきて、とてもとても驚いた。
何事か、と顔を見上げてみても、本棚やなにかを眺めているアリスと視線は交わらなくて。密着しているわけではないけれど、身体に触れた部分がなんだかこそばゆくて仕方がなかった。匂いとか、あったかさとかその他もろもろ。
きっと、この反応を見る限り、まったく無意識でしたことなのだろうけれど。
「ご、ごめんなさいっ」
「別にいいけど」
「パ、パチュリーが転んだら大変だと思って、というか。驚いて思わずとっさにというか」
「誤魔化せてないわ、アリス」
「う、うう」
やっと声になった謝罪は、いつも明瞭な発音のアリスらしくもなく、ぼそぼそとしていて、まるで普段のパチュリーのよう。うろたえた言い訳はどうにも言い訳になっていない、というよりむしろ墓穴になっている。
そして、なぜだか、回された腕はそのまんま。
それを聞くパチュリーも、目を伏せたまま。どんな顔をすればいいのか分からないのだ。いつものように冷笑でも浮かべればいいのだけれど、取り繕いきれるか分からない。そんな雰囲気になってしまっている。
心とは裏腹に、なんで妙な雰囲気になってるのよ、と冷静な頭脳が呆れかえる。
「アリス?」
「だから、ええと」
どうにか修正を図ろうにも、どうしていいのか分からない。
消極的にこの状況を打開する方法を本で調べに行きたいのだけれど、そもそも身動きがとれないから、調べに行けないわけで。卵が先か鶏が先かみたいなことになりつつある。
手詰まりだった。
百年生きて、散々知識を蓄えて、こんなにも分からないことだらけなのはずいぶんと久しぶり。
「はあ……」
ため息をひとつ。
その拍子に下を向けば、おでこの上の部分がアリスの肩先にぽふりとおさまる。
なんだか、色々面倒臭くなってきたパチュリーはそのまま、自らの腕をアリスの背中へと回す。そっと添えるだけ動作だけれど、これで二人は抱き合っているという状態になった。
中途半端だから恥ずかしいのだ。このまま突き進んでしまえばその方がマシに違いない。
ハグなんて普通のことだ。レミリアとだって、フランドールとだってしたことはある。それとおなじこと。
ただ、相手がアリスだと、それだけのことだ。
「パ、パパ、パチュリー?」
「疲れたから」
「意味が分からないっ」
「ああもういいから、動かないでよ」
「ちょっ」
慌てるアリスの声を聞きながら、声の振動を感じながら、パチュリーは瞳を閉じる。まわした腕に少しだけ力を入れて、少しずつ体重をかけていく。
いろいろ吹っ切れてしまえば、もう焦ることはない。
動揺するアリスを見ているのも面白い。ふふふ、と思わず笑ってしまう。
「……なに笑ってるのよ」
「別に」
「あー、もう何なのよ」
ふるふると肩を震わせているパチュリーに、途方に暮れるアリスは、拗ねたように困ったように眉をよせる。けれど、それでも変わらない状態に、やがては落ち着きを取り戻す。
くすくす、と軽やかな笑い声が聞こえた。ぎゅ、と抱き寄せられる。
何だかこの状況がおかしくて、楽しくて。気がつけば二人はそれぞれに今を楽しんでいた。
(……どうやって、離れようかしら。これから)
(ていうか、どうしよう、これ。離れられない)
(ま……、いっか)
【みっつめ】
「最近、マンネリよね」
紅魔館の地下。夏だろうが、秋だろうが、いつでも同じ景色の図書館の読書スペース。
湯気をたてる紅茶のカップの乗ったテーブルを挟んで、向かい合わせに椅子に座っているのは七曜の魔女と七色の魔法使いだ。
いつものようにお気に入りの安楽椅子に腰掛けて、アリスがやってきたことを気にも留めずに本を読み続けていたパチュリーは、ふとそんなことを呟いた。
普段と変わらぬ早口の小さな声であったけれど、静かな図書館ではよく響く。
「は?」
きちんとそれを聞き届けたアリスは、読んでいた本から顔をあげて、怪訝そうに声をあげる。けれど、呆れ混じりのその表情には、少しの動揺も見られない。
ぱたり、と本を閉じて、テーブルに左肘をついて。何言ってるのよ、と言わんばかりの視線をパチュリーに向ける。
「だから、マンネリだって言ったのよ」
ふん、と鼻を鳴らしたパチュリーは、ぱらりと手もとのページをめくる。顔はあげないまま、先ほどよりも強い声で、けれどどこか気のない調子で言葉を返す。
そんな様子もいつも通り。膨大な知識量に対して、実践が圧倒的に不足しているパチュリーが突拍子もないことを言い出すのには慣れている。とんちんかん。
そんなところも別に嫌ではないし、面倒みてあげなくちゃ、とか、思っているのだけれど。どうにも放っておけないのだ、この先輩魔女は。
やれやれ、と心の中でため息をついて、アリスは彼女の気まぐれに付き合うことにする。
言い出したら聞かないこともよくよく分かっているわけだし。厄介だとも面倒くさいとも思ってはいるけれど。
実際のところ、振り回されるのも悪い気はしない。なんだかんだで楽しいとか思ってしまうあたり末期的かもしれない。
調子に乗られても困るから、絶対に口に出したりはしないのだけれど。
「だから、マンネリってどういう意味よ」
「一定の形式を反復慣用することによって、独創性と新鮮さが失われる傾向にあること。勉強が足りないわね、アリス」
「言葉の定義は聞いてないわよ。なんで私たちがマンネリなのかって話でしょう?」
どこか歌うような調子で小さく早口に言葉の定義を述べたパチュリーに、アリスはじと目を向ける。分かっていてはぐらかしているのは分かっている。
ついでに、中途半端にはぐらかして話が進まなくてむっとするアリスを見て、楽しんでいるということも分かっている。
「最近のアリスには初々しさが足りない」
「そう言われても……」
そろそろ、そんなパチュリーの戯れにも慣れてきて、冷静な反応を返すことができるようになったのだけれど。そうそういつまでもやられてばかりではいられない。
思うような反応が得られず、つまらなさそうにしているパチュリーにそう伝えた。
そうすれば、我が意を得たり、とばかりにアリスをじっとりと見つめてくる。
「ほら、マンネリじゃない」
「それはちょっと違うんじゃ……」
「つまらないわ。これは大問題」
「あのねえ」
そもそも、動揺している反応を楽しむなんて、思春期前の男の子が悪戯で好きな子の気を引こうとしているみたいな、愛情表現をどうにかすべきだと、アリスは思う。
最初の頃はわけが分からなくて嫌われてるんじゃないか、とか、そんな風に不安に思っていた。今では、半分素で、半分ちょっかいをかけたがってるだけだということが分かっているので、面倒くさいなあ、とか、可愛いなあ、と思うだけだ。
まったく深刻そうな様子を見せないアリスに、ほんの少しだけ眉を寄せていかにも不満そうなパチュリー。これだから未熟者は、だの、可愛げがないだの、好き勝手なことをぼそぼそと聞こえるか聞こえないかという小さな声でぼやき続ける。
未熟者とか今は関係ないんじゃ、と思うけれど、口には出さないでおく。
「というか、私ばかり振り回されるのは不公平」
「え?」
「というわけで、私は考えたのよ、色々なことを」
今、何か言われたような。
気になる言葉を聞きとめて、アリスは首を傾げる。けれど、それをかき消すようにパチュリーは少し音量を上げた声で言い募る。ほのかに慌てたような色が混じっているのは、きっと気のせいではないのだけれど。
「アリスが、もっと自覚をもってくれないと」
「自覚、と言われても」
なんの自覚よ。
どうにも意味が分からないアリスは困る。はっきりしない微笑みのまま、とりあえずテーブルへと手を伸ばす。籠の中に詰まったクッキーでも食べて、誤魔化してしまおうかな、なんて考えたわけなのだけれど。
そのアリスの手に、ばっと勢いよく伸ばされたパチュリーの手が触れる。
「パチュリー?」
「……」
無表情な中にも、どこか勝ち誇ったような色をにじませたパチュリーは、興味津々でアリスの反応を待っている。けれど、待たれる反応が分かっているだけに、それに素直に従う気にはならない。す、と手の位置をずらして、別のクッキーを手にとった。
「そうじゃないでしょう、アリス」
パチュリーはがっくりと肩を落とす。そして、俯き加減にじと目で睨んでくる。
少しだけ膨れているようにも見える頬がちょっとだけ可愛いとアリスは思う。
「こう手と手が触れあったら、どきどきして、嬉しくて、でも恥ずかしくて。思わず顔を背けるけど、ちらっと相手を見て、ちょっと気まずいままに微笑みあうみたいなそういう反応をするところでしょう」
「偶然ならともかく、あんなカルタ取りみたいに狙いすましてやられても。ハイタッチと変わらないわよ、これじゃ」
「この間読んだ小説ではそうしていたのに」
「もっと、こうふわふわした感じじゃないの?」
ああ、また本から変な影響を受けたのか、と納得。
ほら、これ、と見せられた本は、表紙を見る限り陳腐な恋愛小説かベタベタな少女小説。
別に嫌いではないけれど。というか、そういうことがしたいのだろうか。
「前提条件から間違ってるじゃないの」
それはおそらく恋する乙女とか、付き合い始めの恋人同士のする行動であって。
そもそも、パチュリーとアリスは、単なる友人、というにはより親密な間柄ではあるものの、恋だの愛だのそういうのがまとわりつくような関係ではない。じゃあ、どんな関係なんだ、と聞かれるとそれはそれで困ってしまうのだけれど。
まさか、パチュリーがそういう関係を望んでいるとも考えにくいし。
「そういうつもりでいたんじゃ、ないわよね」
一応確認。もしも、そうなのだとしたら、なんというか。
困るというか。別に困らないような気がしなくもないけれど、でもやっぱり困るというか。
「まさか」
「即答ね」
「……アリスはそのつもりだったの?」
「まさか」
「即答なのね」
一応お互いの意思を確認しあった上で、肩を竦めたパチュリーは言葉を重ねる。
「でも、似たようなものでしょう。人間関係ということには変わりないし」
「全然、違うわよ」
「アリスの初々しさが足りないという意味では、そう変わらない」
「違い過ぎる」
確かにはじめて来た頃は、とてもパチュリーに気を使っていたし、できるだけ邪魔にならないように、とかそういうことも考えていた。
少しだけ距離が近づいた頃は、話ができるのが楽しくて、嬉しくて。突拍子もない言動に戸惑ったり、髪を撫でるのにもどきどきして。
些細なことに一喜一憂してみたり。ここでは何とか取り繕えても、家に帰る道のりで、誰かに会いやしないかとひやひやしながら、火照る頬を冷ましたことも一度や二度ではない。
そう考えてみれば、図書館にやってきて本を読んで、おしゃべりをして。お茶を飲んだり、お菓子を食べたり。確かに、今の関係は以前よりも落ち着いたものになっている。
これを刺激が少ないと言い換えれば、マンネリ化というのもあながち間違いではない。
「でも」
「アリス?」
「それって、いけないことかしら」
確かに、初々しさはなくなったかもしれない。
特別だったことが、当たり前のことへ変わっていったのは、つまらないことなのかもしれない。
「私は、こんな風に過ごすのも好きだけど」
けれど、今の穏やかな関係も、アリスは好きなのだ。
同じ部屋の中で、全然違うことをしていても、それでも満たされている。
そういう感じがとても好きだ。
だから、これはマンネリ化ではなくて、新たな関係へと進化していっただけのこと。
こんな風であれることが、こんなにも穏やかであれることが嬉しい。
小さく微笑みながら、アリスはそういうようなことを語りかける。
む、と唸るパチュリーは、テーブルの上に肘をついて、何事か考えている。揺れる髪の毛ごしにちらり、と見えた耳元が赤くなっていたのは気のせいだろうか。
うん、と一度だけかすかに頷いたのもアリスは見た。不満げな仏頂面は、まあ、いつものことだ。
「パチュリーは嫌?」
「嫌じゃ、ないわよ」
「なら、マンネリ化。いいじゃない」
「なんか釈然としないけど……」
手を伸ばして、頬を撫でてみる。いつも嫌だ、やめろ、というけれど、そんな時表情がほのかに和らいでいることは自覚していないのだろうか。
そうして、今もまた。
はあ、と一度ため息をついたパチュリーは、結局いつものような冷静な調子に戻って、薄く笑う。それは、変なことを言い出す時のそれではなくて、理知的なそれ。
「まあ、それはそれでいいんだけど。ねえ、アリス」
「パチュリー?」
ふわ、と柔らかく微笑んだパチュリーの瞳に嫌な予感はしていたのだ。
けれど、それを防ぐ手立てなどなくて。
「初々しくなくても好きよ」
「……うん」
どんなに慣れたつもりでいても、慣れないことはやっぱり、あるのかもしれない。
やっぱり、マンネリ化なんかしていなかったのかもしれない。
だって、こんなにも頬が熱くて仕方がないのだから。
「いいわ、初々しいわ、アリス」
「……狙って言ってたわけ?」
「さあね」
穏やかな空気が素敵でした。
こんな時間なのにテンション上がりましたよ