深夜。居間にて鼻歌を歌いつつ、こたつの上に煎餅と緑茶を用意した東風谷早苗は、座布団の上に腰を下ろしてテレビのチャンネルを手に取った。
神奈子が推進する技術革新によって、最近の守屋神社は大変便利な生活を手に入れていた。一々こたつを温めるのに豆炭を燃やす必要も無ければ、お茶を淹れるのにヤカンも必要ない。安定した電力の供給の目途が立った現在、外界より持ち込んだ電化製品の殆どが息を吹き返している。
そして現代っ子である早苗の趣味もまた、再開の日の目を見る事となった。
守屋の二柱は共に寝静まっている。二人が眠った後でないと、早苗は堂々と趣味を謳歌することが出来ないのだ。神奈子は「やめて、お願いだから、やめて」と懇願するし、諏訪子は数多くの群衆からの畏怖を我が物にしていた土着神としてのプライドがあってか、あーだこーだと一々難癖をつけてうるさい。
それにやはりホラー映画とは、真夜中に一人で見てこそ本領を発揮する物だ。
早苗はウキウキとテレビラックからDVDを取り出し、起動させたデッキの中に入れる。
外の世界で学生だった頃から、早苗はホラー映画に目が無かった。
ロメロのゾンビを始めとし、フレディvsジェイソンを見ては腹を抱えて笑いこけ、SAWシリーズのスプラッタシーンでは喝采の口笛を吹く。エクソシストにおける高名なエクストリーム階段下りのシーンは勿論真似したし、中学生だった頃、こっそり身体にマジックで666と書いて学校へと行ったのも良い思い出だ。
ホラー映画好き、と言うよりはスプラッタ映画好きなのかもしれない。ジャパニーズホラーも嫌いではない。着信アリは、テレビに出た主人公の友達が捻れるシーンが好きだったから、一時期携帯の着信音はそれに設定していた。一度授業中に鳴り響いて教室中がパニックに陥り、隣の席に座っていた女の子が泣きながら嘔吐したので止めてしまったが。
外の世界に居る時からDVDは相当量集めていたが、如何せん小遣いで賄いきれない分はTS○TAYAで大量に借りてから、幻想郷へとやって来た。まず間違いなく幻想郷ではホラー映画に出逢う事は出来ないだろうとの予想からだ。延滞金は天文学的な金額になってるだろうが、幸い請求は来ていない。
要はそれほどまでに、早苗はホラー映画が好きなのだ。確信犯的にTS○TAYAから借りパクを強行する程に。
ニコニコしながらDVDの最初に出てくる他の映画の宣伝を見ていると、不意に扉がノックされる音が聞こえて来た。
――こんな時間に、誰だろう。
居留守を決め込もうとして再度画面に目をやる早苗だが、ノックの音は止まない。その音で二柱が目を覚ましてしまっても面白くないので、早苗は溜め息を吐いて一時停止ボタンを押す。壁際で腰を抜かす女性に、顔の崩れた怪人が斧を振りかぶるシーンで画面が固定された。
「はいはい、今行きますよーっと」
ノックの止まない玄関へと向かいながら、早苗は至福の時間を邪魔された苛立ちを押えつつ声を掛ける。サンダルに足を通し、玄関の戸を開ける。しかし、そこには誰の姿も無かった。
「あれぇ……?」
と早苗が首を傾げた途端、「ばぁ!」との声が真横から聞こえて来て、清々しい青を基調とした妖怪の姿が躍り出てくる。
言うに及ばず、多々良小傘である。
「びっくりした!? びっくりした!?」
「………………何で居るんです?」
道端に転がるミミズの乾燥死体を見る様な表情で、早苗が小傘に問う。
「驚きと恐怖を求めている気配がしたの! 私を呼ぶ声がしたって奴? で、どう? 驚いた? 驚いた?」
天真爛漫といった面持ちで無邪気に問うてくる小傘に、早苗は頭を抱える。
「里の子供だって、もっとマシな脅かし方を知ってますよ。舐めてるんですか?」
「ベロならここにあるよ。大きいのが。舐める? 早苗ペロペロ?」
そう言って小傘は、自身の片割れである茄子みたいな色をした傘を早苗に向ける。
「そうじゃないです。この東風谷早苗を脅かすつもりなら、もっと手の込んだ手法を用意しろって言ってるんです。ファンシーな化け傘なんて、お粗末すぎてお呼びじゃないです」
「なんと何を申すか。人を脅かす事を食事の方便とするこのわちきよりも、恐ろしい物なぞあって堪るものか!」
「――ほぅ」
売り言葉に買い言葉ではあろうが、ホラーフリークを自負する早苗は、その挑戦的な小傘の台詞を捨て置く事が出来なかった。
彼女は矢庭に小傘の腕を掴む。小傘が狼狽の気配を見せた。
「な、なに?」
「ちょっと、いらっしゃい」
「え? なんで?」
「いいから」
そう言って早苗は有無を言わさず、小傘を家の中へと連れ込もうとする。
「ちょ、痛……ッ! なんで!? 怖い怖い怖い! 理由を言って!」
「何の事は無いですよ? 貴女に、私が欲する驚きと恐怖を見せてあげるだけです」
ニッコリと早苗は表情だけで笑う。しかし目は笑っていない。獲物を見つけた猛禽のそれである。小傘の顔から余裕が消える。
「え? え!? 何それ!? 嫌だよ!? 私、痛いのとか無理だよ!? 人の事を痛めつける趣味も無いし、痛めつけられる趣味も無いよ!?」
「違いますよ。一緒に怖い映画でも見ようと言ってるんです」
「――えいが? って、何?」
「ふむ……そうか、幻想郷には映画なんて概念は無いですもんね……まぁ、お話ですよ。怖い話です」
「あ、なーんだ。じゃ、良いよ」
早苗に暴行なり拷問なりをされるのでは、と危惧していた小傘はホッとした表情を浮かべる。小傘に向けられた早苗の表情には、そんなR18G的な行動をやりかねない危うさがあった。
「お、何やら乗り気ですねぇ」
どうやら逃げ出しはしないと悟った早苗は、小傘の腕から手を放す。
「ふふーん……だって、怖がる早苗を見れるんでしょ? 本当は私に対して驚いたり怖がったりして貰うのが一番だけど、怖がってる対象が近くに居るだけでも、空腹は満たされるもんねー」
そう言って小傘は邪魔にならない様に片割れの傘を閉じ、それを引っさげたまま玄関で靴を脱ぐ。早苗もサンダルを脱ぎ、廊下へと上がった。
「中々威勢が良いですね。その元気がどこまで続きますかねぇ?」
「馬鹿にしないでよ? 仮にも私は妖怪だよ? 恐怖や畏怖の対象だよ? そんな存在が、作り話なんかに遅れを取る訳ないでしょ?」
廊下へと上がった小傘が肩を竦める。
――まぁ確かに、小傘さんの言う事も一理ありますかね。
早苗は廊下を先導しつつ、そんな事を思った。
やり口はお粗末極まりないとは言え、一応小傘だって日々、人を脅かす事だけを考えて生きているのだ。ならば自分がしようとしている事は、猫に向かって虎を怖がれと言っている様な物なのかもしれない。実力差は歴然でも、同種は同種だ。
「さ、この部屋ですよ」
「えへへー、お邪魔しま――」
居間に足を踏み入れた小傘が、テレビの画面を目にして硬直した。壁際に追い詰められた白人女性が、今まさに怪人から斧で叩き割られようとしているシーンである。
「……小傘さん?」
テレビ画面と同様に一時停止をした小傘を見て、早苗は首を傾げる。
「――あ、そっか。まずテレビが判んないですよね……良いですか? 天狗の使う写真機ってのがあるじゃないですか。アレは風景を画像として保存してますよね? そんで、テレビって言うのは写真の映像版と言いますか、出来事や音声をそのまま保存する事の出来る――」
と、ここまで説明をした所で、早苗は小傘の肩が小刻みに震えていることに気付いた。
「――早苗」
「はい?」
「私、用事思い出した」
「は?」
「帰って良い?」
「何言ってるんです? ちゃらんぽらんな生活を送ってる貴女に用事なんてある訳無いじゃないですか」
「違うの……ほら私、命蓮寺でボランティアしてるから……お墓のゴミ拾いしなくちゃだから……」
震えているのは肩だけではなく、声までも小刻みに震えている。早苗はあくまで小傘の変調の理由に気付かない。
それもその筈。ホラー映画など見た事も無い存在にとっては、斧を持って迫り来る怪人の姿はそれだけで震え上がる程の恐怖の対象なのだ。恐怖心が麻痺している早苗には判らないのだが、小傘は静止画の怪人を見ただけで心底ブルってしまっている訳だ。お腹一杯も良い所なのである。
「――変なの」
首を傾げつつ早苗はリモコンを手繰り寄せ、一時停止を解除する。必然テレビの中の惨劇が再開される。重低音のBGM、女性の金切り声、グチャッ! という厭な音。宣伝映像なので、女性の頭の風通しが良くなった映像こそ出ない。
だが小傘は「ひぃいいいいいいいいいっ!!!」と悲鳴を上げる。純すぎる小傘の反応が余りにも予想外で、早苗が驚いて身をすくませた。
「え? え? 何です? 何です?」
「さ、早苗ぇ! 頭がぁ! お、お、女の人の頭が!」
「……はぁ?」
そこに至って漸く早苗の麻痺した思考が、小傘のリアクションの真意に辿り着いた。
「え? 小傘さん、もしかして……」
ガクガクと震え、右手は口元を覆い、目が潤み始めている小傘に、早苗は不敵かつ挑発的な微笑みを向ける。
「――怖いんですかぁ?」
「……はは、は、は? ハァアァァアアアッ!?」
明らかに膝が笑っている小傘ではあるが、しかし早苗の挑発に対してオーバーアクション気味に両肩を竦め、震える唇をギュッと噛み締めて必死の形相で吊り上げようと試みる。人はそれを強がりと呼ぶ。
「な、何を言ってるのかな? 早苗は。いやいや、意味判んないし。え? 怖い? え? 何言ってんの? はぁ? 怖い? 私が? 生ける怪異その物であるこの私が? は? たかが作り話に臆したように見えちゃった? は?」
「うわぁ、ウザッ……え、でもでもぉ? だって『女の人の頭がぁー』とかテンパってたじゃないですかー? 怖いんでしょー? 無理しなくても良いですよー?」
「は? 怖い? は? は? え? は? 何言っちゃってんの? は? ほら、アレだし。その、アレ……何て言うか……美味しそうだったから? うん、そう、美味しそうだったんだよ。女の人の頭。うわー、凄く美味しそうだったわー。思わず興奮しちゃったわー。涎出ちゃうわー。ひええええぇぇぇ。美味しそうだったわー」
「バレバレも良い所な言い訳を出して来ましたねぇ……」
内心で面倒臭いとは思いつつも、早苗は意地悪に顔を綻ばせ、テレビのメニュー画面を弄り、日本語音声にて映画の再生に掛かった。冷や汗を拭き拭き、小傘が早苗の隣に正座をする。これから始まるのは、アレクサンドル・アジャ監督の、『P2』という映画である。
――P2。
その映画はその名の通り、主人公の女性が勤める会社の地下二階で繰り広げられる物語である。クリスマス・イヴのその日、残業をしていた彼女は会社の中に閉じ込められてしまう。乗り込んだ車はエンジンが掛からず、オフィス入口の自動ドアもロックされる。
その災難の元凶は、警備員である一人の男。以前から主人公に目を付けていた男は、閉じ込めた彼女を監禁する。最初こそ紳士的な態度を取っていた男の異常性が、どんどん明らかになって行く……というストーリーである。
「このお話の何が怖いって、実際にこんな事件に遭遇する可能性が、十分にあるって所なんですよねぇ……」
「ふぅん」
オープニング。暗い駐車場に停まる一台の車へと、カメラがゆっくりと近づいて行く。
「幻想郷では馴染みの無いシチュエーションでしょうが、外の世界では至る所にこの『地下駐車場』ってのがあるんです。私は免許も取れない学生だったので、一人で駐車場に降りて行くなんて経験はありませんが、私も外の世界に居続けたらきっと、この主人公みたく自分一人で地下駐車場へ行く機会もあったと思うんですよ。そう考えると、怖さが生々しくって良いんですよねぇ」
「うーん、良く判んないや……」
小傘が目を細めつつ、画面に映る自動車のトランクを眺める。無音。ナンバープレートのアップが薄暗い画面に映っている。展開を知っている早苗は、ニヤニヤと小傘を横目で観察していた。彼女は全くもって油断している。
突然響き渡る女性の悲鳴。
同時にトランクから女性の手が突き出してくる。
良くあるびっくり系の手法だ。
『アアアアアアアアアアアアッ!!!』
「ひいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいッ!!!!」
身を竦ませた小傘が、早苗の思った通りに悲鳴を上げる。早苗が苦笑する。自分が上げた金切り声に引っ張られる様にして矢庭に立ち上がった小傘が、踵を返した。
「か、か、か、帰る! 帰る! 私、帰ります! ありがとう! 面白かった! じゃ!」
「っ! 逃がすかぁ!」
脱兎の如く逃げだそうとした小傘の襟首を、早苗は人の域を超越した動きで捕まえる。ルナシューターレベルである。それでも何とか小傘は逃げようともがくが、強引に居間の中へと引き戻された。
「帰るっ! 帰るぅうう!!」
早苗は暴れる小傘の肩をしっかりと抱き捕まえる。本来、妖怪の腕力に早苗が打ち勝てる筈はないのだが、目的を果たす為なら時に人は金剛をも圧倒する力を発揮するのである。
「このっ……暴れないでください! おや! こんな所に縄が! 縛った妖怪の妖力を封じる機能が付いた特製の縄が!」
「何その都合の良い道具!? 同人誌御用達!?」
「奇跡を司る風祝の力を舐めないで下さい! この程度の奇跡、朝飯前です!」
博麗の巫女特製のお札、魔理沙秘蔵のキノコ、永琳の薬に紫のスキマetc,etc……。そんな並行世界(※薄い本)の中では良くあるお約束的展開の例に漏れず、小傘はあっという間に守屋神社特製の縄によって、めでたくグルグル巻きにされた。
万物の流転する過程を人は『運命』という言葉で呼ぶ。何人もそこから逃れる事は叶わない。我々は皆、『運命』の眠れる奴隷なのだ。奇しくも幻想郷で常識に囚われてはならないと断言したのは、東風谷早苗その人である。『運命』の前では常識など通用しないと、彼女は無意識的に知っているのだ。
だからこそ本来非力な筈の村人だって妖怪から返り討ちにされないし、特製のお札が不発になる事も無いし、腐りやすいキノコも万全の状態で保管されている。パチュリー・ノーレッジは召喚魔法を失敗するし、朴念仁な筈の森近霖之助はモテるし、幻想入りした顔の無いお兄さんは誰かに気に入られる。『運命』は変える物、という使い古された格言は、変化もまた『運命』の範疇である可能性から目を背け続けているのだ。
当然小傘がその絶対的な流転から逃れる事など出来る筈も無く、縄に巻かれた彼女は畳の上に転がってメソメソ泣いている。
「……まぁまぁ安心してくださいよ小傘さん、この映画には怪物なんて出て来ませんから」
「――信用出来ないよぅ……」
「本当ですよ。この映画に出てくるのは、普通の女の人と、ちょっと普通じゃない男の人と後は、わんちゃん位です」
早苗はニッコリと、転がる小傘に向かって微笑んだ。その言葉に偽りは無い。少しテーブルを動かして、小傘にも画面が見える様な配置にする。時系列が戻り、画面は主人公の日常シーンを描いている。既にギュッと目を閉じている小傘ではあるが、早苗はそれに気付きつつ何の対処もしない。
耳を塞げない以上、映画の会話は嫌でも聞こえて来る。
状況が判ってしまうと、むしろ何も見えない方が想像力を掻き立てられて、怖さが増すという事を、彼女は経験的に知っていたからだった。その間も映画は淡々と続く。
「帰りたい、帰りたい、帰りたい、帰りたい、帰りたい、帰りたい、帰りたい……」
小傘がブツブツ呟いているのを無視しつつ、早苗は映画に没頭する事にした。
上司との意味ありげな会話。地下駐車場に降りた主人公と、警備員の会話。ここまではまだ、何とも無い。しかし、主人公の車は壊れているのか動かない。仕方なくタクシーを呼んでエントランスホールで待つも、入口が開かない。警備員が閉めてしまったのだ。
「帰りたい、帰りたい、帰りたい、帰りたい、帰りたい、帰りたい、帰りたい……」
開けて貰う為、再度彼女は地下へと降りる。警備員の姿が無い。探している内に、地下駐車場の電気が消えてしまう。暗闇の中、途方に暮れて携帯を開く主人公。
その背後に、警備員の姿。
主人公が薬を嗅がされて昏倒する。
「帰りたい、帰りたい、帰りたい、帰りたい、帰りたい、帰りたい、帰りたい……」
「ちょ、小傘さん、うるさいんですけど」
遂に早苗が文句を言う。画面の中では警備員と、彼の手によって着替えさせられた主人公とがクリスマス・ディナーの並ぶテーブル越しに会話をしていた。
「……私が帰ったら、早苗は静かに映画を見れるよ……?」
「言語道断です。黙って見てなさい。後もうちょっとで一番面白いシーンだから」
ぴしゃりと言い放つ早苗を見上げる小傘の目に、光は無い。
しかしながら、小傘は気付いて居ないのだ。
スプラッタ・ホリックである早苗が言う『一番面白いシーン』が、生半可な物である筈も無いと。
主人公が車に乗せられ、警備員と共に駐車場内をドライブするシーンになり、早苗の目が矢庭に輝き始める。
「ほら小傘さん! 目を開けて! 始まりますよ後もうちょっと!」
「帰りたい、帰りたい、帰りたい、帰りたい、帰りたい、帰りたい、帰りたい……」
最早小傘は壊れかけのレディオと大差ない存在になってしまっていた。
駐車場の最深部。道路の真ん中に、布の掛けられた『何か』がある。困惑する主人公。『君へのクリスマスプレゼントだよ』と微笑む警備員。彼が車を降りて『何か』の布を取り払う。
そこに居たのは、以前エレベーター内で主人公に悪質なセクハラを働いた上司の姿だった。よくオフィスに備えられている車輪付きの椅子に縛りつけられて、猿轡を噛まされた上司が苦悶の声を上げる。
「ほら! 小傘さん! ほら! ほら! 早く見て!」
「ふぇ……?」
新しい玩具を買って貰った子供の様にはしゃぐ早苗からバシバシ肩を叩かれた小傘が、恐る恐る、といった具合に目を開ける。
「……何あれ……おじさん?」
「そーですよーう? おじさんです。哀れなおじさんですよ。あははは」
煎餅をポリポリと齧る早苗が、お笑いでも見ているかの様にケラケラ笑っている。そんな早苗の様子には、恐れも怯えも無い。
……なら、見ても大丈夫かな。何か面白い事でも始まるのかな。
小傘がぼんやりと画面を注視し始める。
その判断は、余りにも短慮だと言わざるを得なかった。
セクハラを働いた上司を、警棒で痛めつけろと言い寄る警備員。当然主人公が、それに従う筈も無い。思い通りに主人公が動かず、イラつく警備員。彼が警棒を持って外に出る。展開は一気に狂気へと転げ落ちて行く。
……何だろう。何だろう。ちょっと、怖い。
でも、早苗は凄くニコニコしてる……。ドッキリとか、かな?
そんな小傘の純粋過ぎる反応は、警備員が上司の頭に警棒を振り抜くシーンで見事に裏切られた。
「ああああああああああああああああああッ!? え!? えぇ!? あああああ!!!」
「あっはっはっはっはっは……遠慮なしですねぇ……」
ボコボコに殴打される上司を見て、早苗が喝采の意を込めた口笛を吹く。息を飲み、顔面を蒼ざめさせてガチガチ奥歯を鳴らす小傘の視線が、早苗と画面を行ったり来たりする。
「早苗!? 早苗ぇ!? おじさん打たれてるよ!! おじさん死んじゃうよ!?」
「そうですねぇ……あっはっはっは……痛そうですねぇ……あはは……」
笑みを浮かべて画面を注視しつつ、悠長にも早苗は二枚目の煎餅に手を伸ばす。画面の中では血塗れの上司が虫の息の有様だった。主人公と小傘の絶叫がシンクロする。
「あああああああああああ!! なんで!? なんで早苗は爆笑してんの!? コレって笑う所なの!? 笑わなきゃ駄目なの!? 無理無理無理無理無理!! 痛いってば! アレ絶対痛いって!!」
「うんうんそうですねぇ……あはははは……あそこまで打たれたら、顔の骨なんてバッキバキでしょうねぇ……ぶふっ」
「頑なに笑ってるし!! 無理無理無理無理! もう私無理!! 見れない! イヤ! イヤ! 早苗何とかしてよ! 止めてよ映画!」
「あ、ほらほら、もう殴るの終わりましたよ。おじさんも死んでないですよ。警備員も車に戻ってますよ、ほら。助かりましたよ。おじさん」
画面を指差しながら、早苗が悪意に満ちた嘘を吐く。早苗は今後の展開を知っている。「あぅ……ほんと……?」と恐々小傘が目を向ける。確かに上司は死んでない。小傘が安堵の溜め息を吐く。
終わったんだ。怖いシーンはもう終わったんだ。おじさんはもうボコボコに殴られたりもしないんだ。
あぁ、怖かった――。
そんな小傘の気の緩みに付けこむように、警備員が車を急発進させる。
車の動線には椅子に縛りつけられた上司……。
「わああああああああああああああああああ!!!!! 何してんの何してんの何してんのこの人!! ちょ、ちょ、ちょ、早苗早苗早苗! 早苗さん! 早苗さま! なになになに!!!」
小傘がギュッと目を瞑る。自動車が何か判らない彼女でも、高速移動する車がぶつかればただでは済まないと判っていた。ブルブルと震える小傘の肩を、再度早苗が叩く。
「ほら、ほら、車止まりましたよ。寸止めですよ」
「……え?」
小傘が目を開けると、確かに上司のすぐ目の前で車は止まっていた。
何という性質の悪い冗談なのか。小傘が首をフルフル左右に振って溜め息を吐いた。
――しかし車は再度発進する。
「え?」
上司の乗せられた椅子を押し転がす様な形で、車は徐々にスピードを上げる。
「え? え? え? え?」
その先には、コンクリート製の壁。
「嘘、嘘、嘘でしょ……え? え? え? ちょっとちょっとちょっとおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!」
――グシャア。
「うわあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!! いやあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!」
「あっはっはっはっはっはっは! 何度見てもこのシーンは傑作ですね! あはははははははははは!」
手を叩きながら爆笑する早苗を余所に、小傘は悲鳴を上げ続けている。その悲鳴がどこどこまでも主人公のそれとシンクロしている。
違うのは、主人公が車から逃げ出したのに対して、小傘が泣き出してしまった所だった。
「……うっく、く、うぅ……ふぇえええええ……」
「あら、泣いちゃった」
小傘のオッドアイから、球の様な涙がポロポロ零れて畳に染みを作って行く。あちゃあ、ちょっとやり過ぎたかな、と少々反省した早苗が映画の再生を止めた。今後の展開はそんなに刺激的じゃないですしね、と計算している辺り、早苗はちゃっかりしている。
「よしよし、小傘さん。もう映画止めましたよ。泣かないで」
「ふええぇん……馬鹿ぁ……早苗の馬鹿ぁあああ……うわあああああああん……」
縛られている(犯人は早苗だが)小傘の頭を膝の上に乗せ、ポンポンと頭を撫でてやる。早苗の太ももに顔をギュウと押し付ける様にして、小傘はくぐもった泣き声を響かせていた。
……まったく、可愛らしい妖怪なんだから。
少々お姉さんぶった気持ちの湧いて来た早苗が、小傘の青い髪を撫でながら、ほぅと溜め息を吐く。巫女服に小傘の涙やら鼻水やらが染み込んでも、それが嫌とは感じられない程度のお姉さんスイッチ。罪悪感がチクチクと早苗の心中を苛んで……。
――いや、違うな。
泣いている小傘の後頭部を見下ろして、早苗は自身の抱く感情が、気まずい罪悪感とはまた少し違う物であると気付く。
なんだろう、この気持ち。
ぞくぞくする。
小傘さんが可愛らしい。
いつもはあんなにもウザい小傘さんが、こんなにも無防備に泣いてる姿が。
泣いているというその事実が、堪らなく愛おしい……。
カチリ。
何かのスイッチが早苗の脳内でオンになった。
ヤバい。可愛い。愛しい。そそる。もっと見たい。小傘さんの初心な反応をもっと見たい。もっと独り占めにしたい。今一度の絶叫を。今一度のリアクションを。もっともっと。
早苗の心に浮かんだのは罪悪感なんて高尚な気持ちでは無く、薄汚れた嗜虐心だった。
「――小傘ちゃん?」
「ふぇ……?」
ようやっと泣き止み始めていた小傘が、涙と鼻水でぐじゅぐじゅの顔を上げる。早苗の表情を目の当たりにして、心なしか赤みを増していた小傘のオッドアイが見開かれた。
早苗は微笑んでいた。
女神の様に微笑んでいた。
穢れを帯びすぎて逆に黒光りした、どこまでもキラキラ輝く微笑みだった。
小傘の顔から血の気が引いて行く。
「次は『SAW』シリーズを全部見ましょう」
「え?」
矢庭に立ち上がった早苗は、テレビラックからDVDをごっそり選別し、テーブルの上へと山積みにしていく。
「それが終わったら、『ハイテンション』を見ましょう。『ヒルズ・ハブ・アイズ』を見ましょう。『CUBE』も見ましょう。『テキサス・チェーンソー』も良いですね。『REC』も見ましょう。『リング』は好きですか? 『呪怨』は? 『ジョーズ』はパニック寄りですが、中々良いですよ。『ドーン・オブ・ザ・デッド』もこの際見ちゃいましょうか」
テーブルの上に、早苗は欲望のままホラー系・スプラッタ系のDVDをガンガン積み立てて行く。その淡々とした挙動を見て、小傘が震え出す。
「イヤ……」
「これから、二十四時間耐久映画鑑賞会を開催しましょう。明日は神社のお仕事も全部お休みします。家事もしません。お腹が空いたらお煎餅とおかきで飢えを凌ぎましょう。神奈子さまも諏訪子さまも、立ち入り禁止にします。邪魔は入りません」
「イヤ……イヤだよ……」
「あぁ待ちきれませんゾクゾクします。安心してください寝たら叩き起こします。絶対に縄も解きません。さあ夜はこれからだ! お楽しみはこれからだ! ハリー、ハリー、ハリー!」
「いやあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッ!!!!!」
これもまた、抗う事叶わぬ運命の流転。
一度言い出した早苗が宣言を撤回する筈も無く、二十四時間耐久映画鑑賞会は終始小傘の叫び声と早苗の笑い声で、居間に立ち入る事を禁止された守屋の二柱をも恐怖のどん底へと叩き落した。
◆◆◆
それから一週間が経った。
初夏の木漏れ日は薫風に揺られて次々に形を変え、徐々に盛夏のうだるような暑さの予兆を孕み始めている。青空には入道雲になり損ねた白雲が、山並みを思わせる隆々とした相貌で東へと滑る。
そんな心地のいい天候を頭上に掲げる守屋神社の境内を、一人の女性が闊歩している。
気紛れに参拝に訪れていた山の妖怪は、一人の例外も無くその女性に視線を奪われた。
青。どこまでも高い冬の晴天さえ恥じらう清々しい青の髪は腰まで伸び、彼女が歩を進める度に空気を含んで手招きの如くに跳ねる。
白。石畳を踏む足は古代ギリシャの彫刻然とした生命力を湛え、肌の色は生まれてこの方日の光など浴びた事が無いと言わんばかりに白い。
誰もが見惚れた。誰しもが、その女性に目を奪われずに居られなかった。男性も女性も、若輩も老輩も、ただ歩いているに過ぎないその女性を見るその間だけは、呼吸の仕方さえ忘れてしまっていた。
彼女は完璧だった。否、完璧という言葉でさえ、彼女を飾るには足りなかった。
雨など気配も無いのに、差されている濃い紫の傘。紫色は古代、高貴な身分を意味した。成程、その女性にはピッタリだと誰しもが思った。女性が纏っている空気は、凡百の輩には不可侵な聖域を思わせたからだ。さぞ高名な身分の女性なのだろう。しかし、幻想郷に貴族など居ただろうか。その疑問さえも雲散霧消していく。
その女性は迷う事無く、参道を箒で掃いていた守屋神社の巫女へと歩み寄って行く。東風谷早苗は、その接近にまだ気付いて居ない。
というのも、右目に眼帯を付けた彼女からすれば、女性の接近は死角での出来事だったからだ。
「……東風谷さん」
早苗のすぐ近くで立ち止まった女性は、ふ、と一つ小さく吐いた妖艶な呼気の後に早苗の名前を呼んだ。そこに来て早苗は掃除の手を漸う止めて、振り向く。
「――どちら様です?」
箒を手にしたまま、早苗が力の無い声で問う。よくよく見れば、早苗は傷だらけだった。
前述の眼帯は言わずもがな、両手には包帯がグルグル巻きにされ、頬には絆創膏が二つ三つ張られている。肌の出ている部分には、青痣も散見する。
そんな痛々しい様子の早苗を見て、女性は少々目を丸くした。
左眼窩はルビー。右眼窩はラピスラズリ。
そんな宝石を思わせる女性の両眼に、早苗がハッとした表情を浮かべる。
「……小傘、さん?」
「そうよ。東風谷さん。私は、多々良小傘。忘れちゃった?」
小傘と名乗った女性は余裕を感じさせる柔らかな口調で話し、小さく微笑んだ。驚愕の余り、早苗が箒を取り落とす。わなわなと身体を震わせる。無理も無い。今の彼女に、以前のちゃらんぽらんとした小傘の面影など皆無だった。
腰まで伸びた髪。
早苗よりも小柄だった筈なのに今、早苗は彼女を見上げている。身長は百七十後半~百八十前半はあろうか。
空色の洋服には金糸の見事な刺繍が縫い付けられ、胸囲は驚異の成長を見せている。重力を無視した小玉スイカでも詰め込んでるようだ。
悪趣味にしか思えなかった紫色の傘も、今は重厚な深みを備えている。
「え? え? え? え? 意味判んない。成長期ってレベルじゃ無いじゃないですか。何ですかその抜群のプロポーション。海外のモデルさんですか。どうしたんですか。高○クリニックで人体改造とかしたんですか。無敵になれるキノコでも取ったんですか」
「何言ってるの? 貴女のお蔭よ……東風谷早苗さん」
傘を手にしていない方の手で、小傘が口元を隠しながらおっとりとした笑みを漏らす。その様子が余りにも妖艶で魅力的で、早苗は一瞬抱きしめてキスをしたい劣情に囚われた。しかしそれを敢行した後には、余りの罪悪感に焼かれて死ぬんじゃないかと恐れた。二律背反の激情が、傷だらけな早苗の痛ましい身体に同居する。
「……私のお蔭?」
「そう。この身体も。この妖力も。この満たされた気持ちも。全部、貴女のお蔭」
するりと小傘が自分の腹部を撫でる。艶めかしくもあり、無垢でもある。形而上の矛盾をその動きは内包していた。アルファでもあり、オメガでもあったのだ。
「い、意味が判りませんが……」
「何を言ってるの? 生半な恐怖じゃ、人は驚いてくれない。恐れてなんてくれない。そう教えてくれたのは、貴女じゃないの……」
ス、と。小傘が包帯の巻かれた早苗の手を取って、手の甲に唇を寄せる。柔らかな唇の感触が、甘い痺れとなって早苗の身体中を廻る。気付けば早苗は耳まで赤くなっている。
「も、も、も、もしかして! もしかして先週の二十四時間耐久映画鑑賞会ですかぁ!?」
不意に聞こえて来たドキドキから意識を逸らそうと、早苗が無意味に大きな声で言う。やっと判ってくれた、とばかりに小傘が満面の笑みを浮かべる。綺麗過ぎる。女神か。美しすぎる付喪神。心なしか息を荒げる早苗は、どこか遠い思考でそんな事を考える。
「そうよ。東風谷早苗さん。私は、あの体験から学んだの。自分は、このままじゃいけない。人を怖がらせるという事には、相当な努力と準備が必要なんだ、って。だから私は、必死で怪談話を研究した。怖がらせるためのシチュエーション。絶妙な間。アプローチの方法。緩急の付け方……そうする事によって私は、今までとは比べられない程の恐怖を我が物にしたの。妖怪として、この上なく成長できた……今日はそのお礼を言おうと来たのだけれど――」
言い淀むように言葉を区切った小傘が、早苗の身体を注視する。傷だらけの、痛ましい身体。包帯や絆創膏、眼帯。そういった物で痛々しく装飾の為されている彼女を。
「貴女、どうしたの? その怪我は……。転んだ?」
「――小傘さんの言う事が本当なら、これは多分貴女のお蔭ですよ」
自嘲的に零した早苗が、クルリと踵を返して住居スペースへと戻ってしまう。はて、何を考えているのかしら、と小傘が首を傾げていると、早苗はすぐに戻って来た。その手には先ほどまで握っていた箒の代わりに、一枚の新聞が握られている。
「読んでください。やっと合点がいったんですが、これ、多分小傘さんの事ですよね?」
ぶっきらぼうに手渡された新聞を、目を細めた小傘が読んで行く。
内容は以下の通りだった。
◆◆◆
花果子念報
近頃、人里で妙な騒ぎが起こっているという。
そもそも人間の里は、妖怪と人間の間で結ばれた不可侵条約もあって、常日頃より平穏であり、幻想郷全土を巻き込むような異変があった所で、『どうせいつもの事』という我関せぬの態度を取り続けている。
しかしながらその妙な騒ぎという物は、どうやら里の住人が妖怪に襲われた事に端を発しているらしい。今回記者は、その襲われた人間の元へと自ら出向き、話を聞いてみる事とした。
恥ずかしながら人見知りである私は、インタビューその物に不慣れな事もあって取材は難航するだろうと思っていたが、私が伺ったとある男性(以下、甲氏と記す)の怯えようは尋常でなく、最初、甲氏は私が妖怪であることを知って酷く取り乱した。
一体何が、がっしりとした身体つきをしていた甲氏をそこまで怯えさせたのだろうか。
以下は、落ち着きを取り戻した甲氏が語ってくれた内容である。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
その日の俺は命蓮寺の裏にある墓場へ、提灯を手に親父の墓参りに行ったんです。
親父の三周忌の日だったんですけど、その日はどうも仕事に追われてしまって、墓場に着いた時にはもう、とっぷりと日が暮れていました。
鬱蒼と生い茂る桜の枝葉が空を覆い隠して、月や星の明かりも完全には届きません。
気味悪いなぁ、と思いつつも、親父の墓に花を供えました。
そして手を合わせていると、不意に雨が降って来たんです。
さっきまで雲一つ無かったのに、と思ってたら矢庭に雨は車軸を流すみたいな土砂降りになって、こりゃ堪らない、と近くの霊廟で雨宿りをする事にしました。
霊廟ってのは、位の高いお方のお墓でしょう? だから、不気味な墓場の中でも一番安全に雨宿りが出来る場所だと思ったんです。
……今思えばそれが、間違いの始まりでした。
どうして俺はあの足で家へと向かわなかったのだろう、と今でも後悔しています。
幸い蝋燭の火は消えてませんでしたが、霊廟は持って来ていたそれでは到底照らし出せない程に広く、薄暗く、激しい雨の音が扉の向こうから聞こえて来ました。
「勘弁してくれよ……」
――コン、コン。
不意に扉の向こうからのノックが聞こえて来ました。
……妖怪かも知れない。俺は息を殺して扉を抑えました。
しかし、押し入ってくる気配は無い。ノックは一度だけで連続することも無く、響く雨音のせいで扉の向こうに誰かが居るかどうか、俺には判りませんでした。
「……行ったか?」
――コン、コン。
まだ、居る……。
暗闇の中、扉の向こうを想像するのは恐ろしい物がありました。
もしかしたら、命蓮寺のあの優しい住職かも知れないし、やっぱり俺を取って食おうとしている妖怪かも知れない。
混乱と恐ろしさでどうにもならなくなって、判断力が弱まって、俺は恐る恐る、扉の向こう側へと聞いてみる事にしたのです。
「あんたは、妖怪か?」
――コン。
ノックが一度だけ聞こえました。
これはもしかしたら、返事なのかもしれないと思いました。
返事をする意志はあるのに、声を掛けては来ない。
命蓮寺の方なら、「大丈夫ですか?」と声を掛けて来ても良い様な物でしょう?
その事から矢張り、扉の外に居るのは妖怪なのだろうと思いました。
ならば一度だけのノックは『はい』で、二回のノックは『いいえ』を意味するのか……。
素直に自分が妖怪だと認めた扉の向こう側の存在が不気味で堪らなく、俺は生唾を飲んで暴れ出す心臓を宥めねばなりませんでした。
「俺を喰う……つもりか?」
――コン、コン。
「じ、じゃあ、何故ここに居る!? 俺に危害を加えるつもりだろう!?」
――コン。
「ば、馬鹿な! 無駄だ! 俺は里の人間だし、命蓮寺の住職に声を掛けて来たからな! 戻って来ない俺を不審に思って、すぐにでも来てくれるさ!」
それは嘘でした。夜も遅かったから迷惑になるかも知れないと思ったし、墓参りに許可も要らないだろうと思ったからです。
――コン、コン。
……俺の嘘は、どうやら見破られてしまった様でした。
外から淡々とノックだけをして来る妖怪は不気味極まりなく、恐ろしくて足が震えていましたし、ずっと扉に力を入れていたせいで腕も悲鳴を上げていました。
でも、力を抜いたその途端、外の妖怪が押し入って来るのではないかと思うと、扉から離れる事も出来ません。古めかしい扉は脆そうで余りにも頼りなくはありましたが、それでも俺を外の妖怪から守る、只一つの障壁なのです。それに縋るしかありませんでした。
心臓が煩い位に跳ねまわって、気付けば俺は額にぐっしょりと汗をかいてました。
「お前は、オスの妖怪か?」
気付けば俺は再度、外の妖怪に向かって問いかけていました。
外の雨音は霊廟の中の薄暗闇に低く響き、確かにいる筈の妖怪の気配は、その音に全く飲み込まれてしまうのです。
自分の身に降りかかっている驚異の存在を感知できないというのは、例えようのない程に恐ろしい物でした。自分が気付かない間に、どこか別の所から忍び寄って来ているのでは……という疑念に苛まれるからです。
それならまだ、確実に扉の向こうに居ると確認できた方が、安心できるという物です。
――コン、コン。
どうやら扉の向こうに居るのはメスの妖怪のようでした。
確かに、もしもオスの妖怪ならば、こんな回りくどい問答をせずとも、強引に押し入ってきそうな物だと思いました。
「見た目は年寄りか?」
――コン、コン。
質問を重ねる事によって扉の向こう側の存在が想像しやすくなり、訳が判らない事から来る恐怖が少し弱まったのが判りました。その時の俺は、嘘かもしれないなんて微塵も思いませんでした。
素直に、若い女の姿の妖怪を想像していたのです。
「俺に恨みでもあるのか?」
――コン、コン。
「じゃあ、なんでお前はここに居る?」
無音。
「仲間がいるのか?」
――コン、コン。
「俺を襲おうとしているのは、お前ひとりか?」
――コン、コン。
その返答の意図は、判りませんでした。
徒党を組んで俺を襲おうとしている訳では無いのに、俺を襲おうとしているのは外に居る妖怪だけじゃない……? 墓場には外の奴以外にもまだ妖怪が彷徨っていて、俺の事を探している……?
ゾッとしました。
今は、扉の外の妖怪が俺の存在を知っている。でもいつ他の妖怪が押し入って来るとも限らない。多数の妖怪に取り囲まれてしまった自分を想像して、生きた心地がしませんでした。
もう限界でした。
ガキの様に泣き喚きたい位に、俺は追い詰められていました。
朝までこうして、扉の向こうの妖怪に狙われたまま過ごすのか?
そもそも朝になったら、この妖怪が俺を諦める保証なんて無いじゃないか――。
「――このクソ妖怪が!」
扉を隔てた向こう側に居る妖怪に向けて、俺は半狂乱で怒鳴りました。
「お、お前なんか怖くねぇぞ! 他にどれだけ妖怪が居るかなんて知らんが、お前ら妖怪が霊廟に入って来れる訳もねぇだろう!? だ、だからお前はそうしてアホみてぇに扉の外から俺にお伺いをする事しか出来ねぇんだろ!? ざまあみろクソ妖怪め!」
うわん、うわん、と。
俺の叫び声は鳴動する雨音を飲み込み、霊廟のひんやりとした空間に響きました。
「――っふ……」
「……え?」
それまでノックでしか存在を主張しなかった扉の向こう側の存在が、初めて声を発しました。確かに、若い女の声。その声が、嗚咽を漏らすみたいにポツリと扉の隙間から染み込んできたのです。
「っふ……ふぅっ……ふふ、ふはは、あはははははははははははははははははははは!!!!!」
突然の哄笑。嘲笑。
それは確かに、俺に向けられた悪意の勝ち鬨でした。それを理解出来ず、俺は歯の根の合わないままに呆然と立ち尽くしていました。
「何勘違いしてんのぉ!? わちきが入って来れないって!? あっはははははははは! わちきが何でここに居るのか聞いたねぇ!? 聞いちゃったよねぇ!? やっと大声出してくれたわねぇ!! 教えたげるよ!!! わちきはねぇ、アンタを『出さない』為にここに居るんだよぉ!!!」
……え?
――トン。
俺の背後から、何かの物音が聞こえました。
――トン。
息を荒げて、俺はゆっくりと、背後の暗闇へと目をやりました。
――トン。
何か、質量の大きい何かが、地面にぶつかる様な、
――トン。
いや、違う、近づいて来ているような。
――トン。
まるで着地する様な音を出しながら。
――トン。
徐々に、こっちへ。
――トン。
俺の方へと。
――トン。
霊廟の奥
――トン。
から……。
「――だ、誰だ……」
「だれだ」
酒焼けした様なそんな低い女の声が『トン』俺の声をそっくり物真似しました『トン』俺は扉から離れ、傍らに『トン』置いておいた提灯を『トン』急いで拾い上げて『トン』背後に広がっていた『トン』暗闇へ向かって『トン』小走りで向かい『トン』真っ暗な『トン』奥の空間を『トン』照らそうとしたら『トン』奥から顔色の悪い『トン』少女みたいな『トン』妖怪が『トン』手を伸ばして『トン』一足飛びで『トン』俺を見つけると『トン』血に塗れ『トン』た唇『トン』をニヤリ『トン』と『トン』歪めて『トン』向かって『トン』来る『トン』勢い『トン』を早『トン』め『トン』て『トン』
……トン。
「――なんだ? おまえ、芳香のおやつか? あるじが持って来てくれたのか?」
両手をピンと伸ばした少女は俺の目の前に立ちはだかると生気の無い唇から涎を垂らしました元々何かの血で赤黒く汚れていたその妖怪は口を開けると大きな声で朗らかなくらいの口調でいただきますというと俺に向かって跳んで来ました蛇に睨まれた蛙のように立ち尽くして震えていた俺は我を忘れて提灯を取り落とし扉へと向かいましたでも扉は開かなくて外から誰かが抑えつけているみたいでゾンビの少女の動きは緩慢だけれどもすぐに追いつかれてしまうだろうと思って俺は半狂乱で扉を叩きました押したり引いたりしましたでも扉は固まってるみたいにピクリともしなくてあのゾンビの少女がどんどんどんどんどんどんどんどん近づいて来て喰われる喰われる喰われるこのままじゃ喰われる死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死んじまうと思って俺は涙を流して涎を垂らして助けてくれ助けてくれ開けてくれ開けてくれと叫びまくってゾンビの少女が俺のすぐ後ろまでガバリと大口を開けてやって来た所で扉が矢庭に開いて――。
その後、俺は気が狂ったように悲鳴を上げながら、墓場の中を走り抜けました。
あれほど降って居た筈の雨はもう小雨の気配すらなく、俺が思い描いた妖怪の姿は、影も形もありませんでした。
そうして命蓮寺に飛び込み、頭巾を被った尼さんに介抱して貰い、漸く自分が助かった事を知ったのです。
……これが、俺の体験してしまった話の全てです。
この記事を読んでいる皆さん。
一人では、墓地に行くな。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
以上が、甲氏の語った体験談である。
そもそも妖怪とは人間に恐れられてなんぼの存在ではあるが、甲氏以外にも数名、同様の体験をしてしまった人間が居るとの事で、里には怯えを基とした不穏な空気が流れている。これほどの畏怖を集める存在は今頃、強大な力を得ているのかもしれない。
里の人間は異口同音に博麗の巫女の出動を待望していると聞く。もしかしたら近々、命蓮寺に出没する妖怪は、異変として退治されるのだろうか。
畏怖から来るエネルギーの独占は、同じ妖怪である私からしても面白いものでは無い。
幻想郷という閉鎖空間に住まう我々だからこそ、何事も程々で済ませておくべきなのだ。
姫海棠はたて
◆◆◆
「――あぁ、私の事が書いてある……」
「でしょうね!」
苦々しげに鼻を鳴らした早苗が、包帯の巻かれる右手を擦った。
「突然。突然ですよ? やけに殺伐とした雰囲気の霊夢さんが私の所に尋ねて来て、『元凶はアンタね!?』って本気モードで断言して来て、そこから先は問答無用でボッコボコですよ。『え? 元凶? え? 何の事? え? え? 何かあったんですか?』。そんな質問も悉く無視されました。マジになった霊夢さんって、なんであんな人外染みて強いんですか。あの人本当に人間ですか? 我々が幻想郷に来た時とか、こいしちゃんが遊びに来てた時とかに戦ったのとは比べ物にならないくらい強かったんですけど。つまりアレ、全然本気じゃなかったって事ですか。なーんて、小傘さんに聞いても何にもならないんでしょうけどね。うふふふふふふふふ……」
半ば呆然としたような半笑いを浮かべた早苗が、壊れた笑い声を上げる。
げに恐ろしきは異変解決のエキスパートである博麗の巫女の勘。彼女は小傘が起こした騒ぎの根本的な理由を即座に突き止め、当人がそれと気付くよりも早く速攻で解決せしめたのだ。
お蔭で早苗には身体の傷のみならず、深い深いトラウマまでも刻まれていた。
理由も判らずに調伏されても平気の平左で居られるほど、早苗の心は強くは無かった。如何に重篤なスプラッタ・ホリックであっても、自分が痛い目に逢うのは嫌だった。
「そうなの……私のせいなの……御免なさいね。東風谷さん」
後ろめたそうな表情で呟いた小傘が、小さく首を垂れる。その所作によってフワリと舞った髪の毛から甘く清潔な香りが漂って、早苗の鼻腔を満たした。
早苗の抱く不条理に対する不満は、どうにも行き場を失ってしまう。これが普段の小傘相手だったら難癖をつけて苛々をぶつける事も出来ただろうに。そう思うと早苗は、何だか自分が酷く矮小な生き物になった様な気がした。
「――あぁ、そう言えば確かに来たわね。博麗さん」
突然小傘が思い出した様にポン、と手を叩きつつ、得心が行ったらしい朗らかな表情を浮かべる。
「え、来たんですか?」
「うん。三日前くらいかしら? やけに血相を変えて……」
「あぁ……やっぱり……」
苦笑いを浮かべながら、早苗が肩を竦める。
普段はボケッとしている様に見えて、やはり霊夢は異変解決のエキスパートだ。
早苗がボッコボコにされたのが一昨日の話。ならば霊夢はきちんと、何も知らない早苗をギッタギタにする前に、小傘の事も退治していたのだ。不条理に甚振られた事への苦いトラウマが、早苗の胸中で和らぐのを感じた。
「まぁ、勝ったけど……」
「は?」
何気なく呟かれた小傘の一言を理解出来ず、早苗が眼帯に隠されていない方の目を丸くした。
「聞き間違いですか? 小傘さんが霊夢さんに勝ったって、言った様に聞こえたんですが……」
「勝ったわよ?」
「どういう事です? 霊夢さん、小傘さんには手加減したって事ですか?」
「知らないけど、前に弾幕ごっこした時より弾幕の密度は濃かったのに、あんまり強くなかったと思ったわね。『弱くなったの?』って聞いたら、すごく歯軋りをしてたわ」
「え? え? え? 歯軋り? 霊夢さんが歯軋り? それって……」
本気で悔しがってたって事じゃないんですか? とは聞けなかった。
その質問の意味するところに、早苗は気付いてしまったからだ。
そして、納得のいかなかった霊夢の異様な殺意にも。
まさか。まさか。
早苗は自分の背筋に、やけに冷たい汗が流れる感覚を覚えた。
あの霊夢が。異変解決のエキスパートである先輩巫女の霊夢が……。
――小傘に勝てなかったから、元凶である自分を叩きに来た……?
途端に、早苗は全身の血液が引き潮の様に引いて行く感覚を覚える。奇妙な脱力感。そしてふと浮かぶ罪業妄想。もしかしたら自分は、とんでもない事をしてしまったんじゃないか、という思い。
「……何にせよ、全部東風谷さんのお蔭だわ」
にっこりと微笑みながら、小傘が再度早苗の手を取った。
「本物の恐怖を、どう構築すべきなのか。それを貴女が教えてくれたからこそ、今の私がある。私は、もっともっと勉強するわ。もっともっと人間の恐怖でお腹一杯になるの。そうして妖怪として、もっともっと成長するのよ」
――出来心とは言え、余りにも強力な存在を生み出してしまった。
――しかも他ならぬ神社の巫女である自分が。
はしゃぐ小傘を余所に、彼女に握られる早苗の手はガタガタと震えていた。
END
神奈子が推進する技術革新によって、最近の守屋神社は大変便利な生活を手に入れていた。一々こたつを温めるのに豆炭を燃やす必要も無ければ、お茶を淹れるのにヤカンも必要ない。安定した電力の供給の目途が立った現在、外界より持ち込んだ電化製品の殆どが息を吹き返している。
そして現代っ子である早苗の趣味もまた、再開の日の目を見る事となった。
守屋の二柱は共に寝静まっている。二人が眠った後でないと、早苗は堂々と趣味を謳歌することが出来ないのだ。神奈子は「やめて、お願いだから、やめて」と懇願するし、諏訪子は数多くの群衆からの畏怖を我が物にしていた土着神としてのプライドがあってか、あーだこーだと一々難癖をつけてうるさい。
それにやはりホラー映画とは、真夜中に一人で見てこそ本領を発揮する物だ。
早苗はウキウキとテレビラックからDVDを取り出し、起動させたデッキの中に入れる。
外の世界で学生だった頃から、早苗はホラー映画に目が無かった。
ロメロのゾンビを始めとし、フレディvsジェイソンを見ては腹を抱えて笑いこけ、SAWシリーズのスプラッタシーンでは喝采の口笛を吹く。エクソシストにおける高名なエクストリーム階段下りのシーンは勿論真似したし、中学生だった頃、こっそり身体にマジックで666と書いて学校へと行ったのも良い思い出だ。
ホラー映画好き、と言うよりはスプラッタ映画好きなのかもしれない。ジャパニーズホラーも嫌いではない。着信アリは、テレビに出た主人公の友達が捻れるシーンが好きだったから、一時期携帯の着信音はそれに設定していた。一度授業中に鳴り響いて教室中がパニックに陥り、隣の席に座っていた女の子が泣きながら嘔吐したので止めてしまったが。
外の世界に居る時からDVDは相当量集めていたが、如何せん小遣いで賄いきれない分はTS○TAYAで大量に借りてから、幻想郷へとやって来た。まず間違いなく幻想郷ではホラー映画に出逢う事は出来ないだろうとの予想からだ。延滞金は天文学的な金額になってるだろうが、幸い請求は来ていない。
要はそれほどまでに、早苗はホラー映画が好きなのだ。確信犯的にTS○TAYAから借りパクを強行する程に。
ニコニコしながらDVDの最初に出てくる他の映画の宣伝を見ていると、不意に扉がノックされる音が聞こえて来た。
――こんな時間に、誰だろう。
居留守を決め込もうとして再度画面に目をやる早苗だが、ノックの音は止まない。その音で二柱が目を覚ましてしまっても面白くないので、早苗は溜め息を吐いて一時停止ボタンを押す。壁際で腰を抜かす女性に、顔の崩れた怪人が斧を振りかぶるシーンで画面が固定された。
「はいはい、今行きますよーっと」
ノックの止まない玄関へと向かいながら、早苗は至福の時間を邪魔された苛立ちを押えつつ声を掛ける。サンダルに足を通し、玄関の戸を開ける。しかし、そこには誰の姿も無かった。
「あれぇ……?」
と早苗が首を傾げた途端、「ばぁ!」との声が真横から聞こえて来て、清々しい青を基調とした妖怪の姿が躍り出てくる。
言うに及ばず、多々良小傘である。
「びっくりした!? びっくりした!?」
「………………何で居るんです?」
道端に転がるミミズの乾燥死体を見る様な表情で、早苗が小傘に問う。
「驚きと恐怖を求めている気配がしたの! 私を呼ぶ声がしたって奴? で、どう? 驚いた? 驚いた?」
天真爛漫といった面持ちで無邪気に問うてくる小傘に、早苗は頭を抱える。
「里の子供だって、もっとマシな脅かし方を知ってますよ。舐めてるんですか?」
「ベロならここにあるよ。大きいのが。舐める? 早苗ペロペロ?」
そう言って小傘は、自身の片割れである茄子みたいな色をした傘を早苗に向ける。
「そうじゃないです。この東風谷早苗を脅かすつもりなら、もっと手の込んだ手法を用意しろって言ってるんです。ファンシーな化け傘なんて、お粗末すぎてお呼びじゃないです」
「なんと何を申すか。人を脅かす事を食事の方便とするこのわちきよりも、恐ろしい物なぞあって堪るものか!」
「――ほぅ」
売り言葉に買い言葉ではあろうが、ホラーフリークを自負する早苗は、その挑戦的な小傘の台詞を捨て置く事が出来なかった。
彼女は矢庭に小傘の腕を掴む。小傘が狼狽の気配を見せた。
「な、なに?」
「ちょっと、いらっしゃい」
「え? なんで?」
「いいから」
そう言って早苗は有無を言わさず、小傘を家の中へと連れ込もうとする。
「ちょ、痛……ッ! なんで!? 怖い怖い怖い! 理由を言って!」
「何の事は無いですよ? 貴女に、私が欲する驚きと恐怖を見せてあげるだけです」
ニッコリと早苗は表情だけで笑う。しかし目は笑っていない。獲物を見つけた猛禽のそれである。小傘の顔から余裕が消える。
「え? え!? 何それ!? 嫌だよ!? 私、痛いのとか無理だよ!? 人の事を痛めつける趣味も無いし、痛めつけられる趣味も無いよ!?」
「違いますよ。一緒に怖い映画でも見ようと言ってるんです」
「――えいが? って、何?」
「ふむ……そうか、幻想郷には映画なんて概念は無いですもんね……まぁ、お話ですよ。怖い話です」
「あ、なーんだ。じゃ、良いよ」
早苗に暴行なり拷問なりをされるのでは、と危惧していた小傘はホッとした表情を浮かべる。小傘に向けられた早苗の表情には、そんなR18G的な行動をやりかねない危うさがあった。
「お、何やら乗り気ですねぇ」
どうやら逃げ出しはしないと悟った早苗は、小傘の腕から手を放す。
「ふふーん……だって、怖がる早苗を見れるんでしょ? 本当は私に対して驚いたり怖がったりして貰うのが一番だけど、怖がってる対象が近くに居るだけでも、空腹は満たされるもんねー」
そう言って小傘は邪魔にならない様に片割れの傘を閉じ、それを引っさげたまま玄関で靴を脱ぐ。早苗もサンダルを脱ぎ、廊下へと上がった。
「中々威勢が良いですね。その元気がどこまで続きますかねぇ?」
「馬鹿にしないでよ? 仮にも私は妖怪だよ? 恐怖や畏怖の対象だよ? そんな存在が、作り話なんかに遅れを取る訳ないでしょ?」
廊下へと上がった小傘が肩を竦める。
――まぁ確かに、小傘さんの言う事も一理ありますかね。
早苗は廊下を先導しつつ、そんな事を思った。
やり口はお粗末極まりないとは言え、一応小傘だって日々、人を脅かす事だけを考えて生きているのだ。ならば自分がしようとしている事は、猫に向かって虎を怖がれと言っている様な物なのかもしれない。実力差は歴然でも、同種は同種だ。
「さ、この部屋ですよ」
「えへへー、お邪魔しま――」
居間に足を踏み入れた小傘が、テレビの画面を目にして硬直した。壁際に追い詰められた白人女性が、今まさに怪人から斧で叩き割られようとしているシーンである。
「……小傘さん?」
テレビ画面と同様に一時停止をした小傘を見て、早苗は首を傾げる。
「――あ、そっか。まずテレビが判んないですよね……良いですか? 天狗の使う写真機ってのがあるじゃないですか。アレは風景を画像として保存してますよね? そんで、テレビって言うのは写真の映像版と言いますか、出来事や音声をそのまま保存する事の出来る――」
と、ここまで説明をした所で、早苗は小傘の肩が小刻みに震えていることに気付いた。
「――早苗」
「はい?」
「私、用事思い出した」
「は?」
「帰って良い?」
「何言ってるんです? ちゃらんぽらんな生活を送ってる貴女に用事なんてある訳無いじゃないですか」
「違うの……ほら私、命蓮寺でボランティアしてるから……お墓のゴミ拾いしなくちゃだから……」
震えているのは肩だけではなく、声までも小刻みに震えている。早苗はあくまで小傘の変調の理由に気付かない。
それもその筈。ホラー映画など見た事も無い存在にとっては、斧を持って迫り来る怪人の姿はそれだけで震え上がる程の恐怖の対象なのだ。恐怖心が麻痺している早苗には判らないのだが、小傘は静止画の怪人を見ただけで心底ブルってしまっている訳だ。お腹一杯も良い所なのである。
「――変なの」
首を傾げつつ早苗はリモコンを手繰り寄せ、一時停止を解除する。必然テレビの中の惨劇が再開される。重低音のBGM、女性の金切り声、グチャッ! という厭な音。宣伝映像なので、女性の頭の風通しが良くなった映像こそ出ない。
だが小傘は「ひぃいいいいいいいいいっ!!!」と悲鳴を上げる。純すぎる小傘の反応が余りにも予想外で、早苗が驚いて身をすくませた。
「え? え? 何です? 何です?」
「さ、早苗ぇ! 頭がぁ! お、お、女の人の頭が!」
「……はぁ?」
そこに至って漸く早苗の麻痺した思考が、小傘のリアクションの真意に辿り着いた。
「え? 小傘さん、もしかして……」
ガクガクと震え、右手は口元を覆い、目が潤み始めている小傘に、早苗は不敵かつ挑発的な微笑みを向ける。
「――怖いんですかぁ?」
「……はは、は、は? ハァアァァアアアッ!?」
明らかに膝が笑っている小傘ではあるが、しかし早苗の挑発に対してオーバーアクション気味に両肩を竦め、震える唇をギュッと噛み締めて必死の形相で吊り上げようと試みる。人はそれを強がりと呼ぶ。
「な、何を言ってるのかな? 早苗は。いやいや、意味判んないし。え? 怖い? え? 何言ってんの? はぁ? 怖い? 私が? 生ける怪異その物であるこの私が? は? たかが作り話に臆したように見えちゃった? は?」
「うわぁ、ウザッ……え、でもでもぉ? だって『女の人の頭がぁー』とかテンパってたじゃないですかー? 怖いんでしょー? 無理しなくても良いですよー?」
「は? 怖い? は? は? え? は? 何言っちゃってんの? は? ほら、アレだし。その、アレ……何て言うか……美味しそうだったから? うん、そう、美味しそうだったんだよ。女の人の頭。うわー、凄く美味しそうだったわー。思わず興奮しちゃったわー。涎出ちゃうわー。ひええええぇぇぇ。美味しそうだったわー」
「バレバレも良い所な言い訳を出して来ましたねぇ……」
内心で面倒臭いとは思いつつも、早苗は意地悪に顔を綻ばせ、テレビのメニュー画面を弄り、日本語音声にて映画の再生に掛かった。冷や汗を拭き拭き、小傘が早苗の隣に正座をする。これから始まるのは、アレクサンドル・アジャ監督の、『P2』という映画である。
――P2。
その映画はその名の通り、主人公の女性が勤める会社の地下二階で繰り広げられる物語である。クリスマス・イヴのその日、残業をしていた彼女は会社の中に閉じ込められてしまう。乗り込んだ車はエンジンが掛からず、オフィス入口の自動ドアもロックされる。
その災難の元凶は、警備員である一人の男。以前から主人公に目を付けていた男は、閉じ込めた彼女を監禁する。最初こそ紳士的な態度を取っていた男の異常性が、どんどん明らかになって行く……というストーリーである。
「このお話の何が怖いって、実際にこんな事件に遭遇する可能性が、十分にあるって所なんですよねぇ……」
「ふぅん」
オープニング。暗い駐車場に停まる一台の車へと、カメラがゆっくりと近づいて行く。
「幻想郷では馴染みの無いシチュエーションでしょうが、外の世界では至る所にこの『地下駐車場』ってのがあるんです。私は免許も取れない学生だったので、一人で駐車場に降りて行くなんて経験はありませんが、私も外の世界に居続けたらきっと、この主人公みたく自分一人で地下駐車場へ行く機会もあったと思うんですよ。そう考えると、怖さが生々しくって良いんですよねぇ」
「うーん、良く判んないや……」
小傘が目を細めつつ、画面に映る自動車のトランクを眺める。無音。ナンバープレートのアップが薄暗い画面に映っている。展開を知っている早苗は、ニヤニヤと小傘を横目で観察していた。彼女は全くもって油断している。
突然響き渡る女性の悲鳴。
同時にトランクから女性の手が突き出してくる。
良くあるびっくり系の手法だ。
『アアアアアアアアアアアアッ!!!』
「ひいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいッ!!!!」
身を竦ませた小傘が、早苗の思った通りに悲鳴を上げる。早苗が苦笑する。自分が上げた金切り声に引っ張られる様にして矢庭に立ち上がった小傘が、踵を返した。
「か、か、か、帰る! 帰る! 私、帰ります! ありがとう! 面白かった! じゃ!」
「っ! 逃がすかぁ!」
脱兎の如く逃げだそうとした小傘の襟首を、早苗は人の域を超越した動きで捕まえる。ルナシューターレベルである。それでも何とか小傘は逃げようともがくが、強引に居間の中へと引き戻された。
「帰るっ! 帰るぅうう!!」
早苗は暴れる小傘の肩をしっかりと抱き捕まえる。本来、妖怪の腕力に早苗が打ち勝てる筈はないのだが、目的を果たす為なら時に人は金剛をも圧倒する力を発揮するのである。
「このっ……暴れないでください! おや! こんな所に縄が! 縛った妖怪の妖力を封じる機能が付いた特製の縄が!」
「何その都合の良い道具!? 同人誌御用達!?」
「奇跡を司る風祝の力を舐めないで下さい! この程度の奇跡、朝飯前です!」
博麗の巫女特製のお札、魔理沙秘蔵のキノコ、永琳の薬に紫のスキマetc,etc……。そんな並行世界(※薄い本)の中では良くあるお約束的展開の例に漏れず、小傘はあっという間に守屋神社特製の縄によって、めでたくグルグル巻きにされた。
万物の流転する過程を人は『運命』という言葉で呼ぶ。何人もそこから逃れる事は叶わない。我々は皆、『運命』の眠れる奴隷なのだ。奇しくも幻想郷で常識に囚われてはならないと断言したのは、東風谷早苗その人である。『運命』の前では常識など通用しないと、彼女は無意識的に知っているのだ。
だからこそ本来非力な筈の村人だって妖怪から返り討ちにされないし、特製のお札が不発になる事も無いし、腐りやすいキノコも万全の状態で保管されている。パチュリー・ノーレッジは召喚魔法を失敗するし、朴念仁な筈の森近霖之助はモテるし、幻想入りした顔の無いお兄さんは誰かに気に入られる。『運命』は変える物、という使い古された格言は、変化もまた『運命』の範疇である可能性から目を背け続けているのだ。
当然小傘がその絶対的な流転から逃れる事など出来る筈も無く、縄に巻かれた彼女は畳の上に転がってメソメソ泣いている。
「……まぁまぁ安心してくださいよ小傘さん、この映画には怪物なんて出て来ませんから」
「――信用出来ないよぅ……」
「本当ですよ。この映画に出てくるのは、普通の女の人と、ちょっと普通じゃない男の人と後は、わんちゃん位です」
早苗はニッコリと、転がる小傘に向かって微笑んだ。その言葉に偽りは無い。少しテーブルを動かして、小傘にも画面が見える様な配置にする。時系列が戻り、画面は主人公の日常シーンを描いている。既にギュッと目を閉じている小傘ではあるが、早苗はそれに気付きつつ何の対処もしない。
耳を塞げない以上、映画の会話は嫌でも聞こえて来る。
状況が判ってしまうと、むしろ何も見えない方が想像力を掻き立てられて、怖さが増すという事を、彼女は経験的に知っていたからだった。その間も映画は淡々と続く。
「帰りたい、帰りたい、帰りたい、帰りたい、帰りたい、帰りたい、帰りたい……」
小傘がブツブツ呟いているのを無視しつつ、早苗は映画に没頭する事にした。
上司との意味ありげな会話。地下駐車場に降りた主人公と、警備員の会話。ここまではまだ、何とも無い。しかし、主人公の車は壊れているのか動かない。仕方なくタクシーを呼んでエントランスホールで待つも、入口が開かない。警備員が閉めてしまったのだ。
「帰りたい、帰りたい、帰りたい、帰りたい、帰りたい、帰りたい、帰りたい……」
開けて貰う為、再度彼女は地下へと降りる。警備員の姿が無い。探している内に、地下駐車場の電気が消えてしまう。暗闇の中、途方に暮れて携帯を開く主人公。
その背後に、警備員の姿。
主人公が薬を嗅がされて昏倒する。
「帰りたい、帰りたい、帰りたい、帰りたい、帰りたい、帰りたい、帰りたい……」
「ちょ、小傘さん、うるさいんですけど」
遂に早苗が文句を言う。画面の中では警備員と、彼の手によって着替えさせられた主人公とがクリスマス・ディナーの並ぶテーブル越しに会話をしていた。
「……私が帰ったら、早苗は静かに映画を見れるよ……?」
「言語道断です。黙って見てなさい。後もうちょっとで一番面白いシーンだから」
ぴしゃりと言い放つ早苗を見上げる小傘の目に、光は無い。
しかしながら、小傘は気付いて居ないのだ。
スプラッタ・ホリックである早苗が言う『一番面白いシーン』が、生半可な物である筈も無いと。
主人公が車に乗せられ、警備員と共に駐車場内をドライブするシーンになり、早苗の目が矢庭に輝き始める。
「ほら小傘さん! 目を開けて! 始まりますよ後もうちょっと!」
「帰りたい、帰りたい、帰りたい、帰りたい、帰りたい、帰りたい、帰りたい……」
最早小傘は壊れかけのレディオと大差ない存在になってしまっていた。
駐車場の最深部。道路の真ん中に、布の掛けられた『何か』がある。困惑する主人公。『君へのクリスマスプレゼントだよ』と微笑む警備員。彼が車を降りて『何か』の布を取り払う。
そこに居たのは、以前エレベーター内で主人公に悪質なセクハラを働いた上司の姿だった。よくオフィスに備えられている車輪付きの椅子に縛りつけられて、猿轡を噛まされた上司が苦悶の声を上げる。
「ほら! 小傘さん! ほら! ほら! 早く見て!」
「ふぇ……?」
新しい玩具を買って貰った子供の様にはしゃぐ早苗からバシバシ肩を叩かれた小傘が、恐る恐る、といった具合に目を開ける。
「……何あれ……おじさん?」
「そーですよーう? おじさんです。哀れなおじさんですよ。あははは」
煎餅をポリポリと齧る早苗が、お笑いでも見ているかの様にケラケラ笑っている。そんな早苗の様子には、恐れも怯えも無い。
……なら、見ても大丈夫かな。何か面白い事でも始まるのかな。
小傘がぼんやりと画面を注視し始める。
その判断は、余りにも短慮だと言わざるを得なかった。
セクハラを働いた上司を、警棒で痛めつけろと言い寄る警備員。当然主人公が、それに従う筈も無い。思い通りに主人公が動かず、イラつく警備員。彼が警棒を持って外に出る。展開は一気に狂気へと転げ落ちて行く。
……何だろう。何だろう。ちょっと、怖い。
でも、早苗は凄くニコニコしてる……。ドッキリとか、かな?
そんな小傘の純粋過ぎる反応は、警備員が上司の頭に警棒を振り抜くシーンで見事に裏切られた。
「ああああああああああああああああああッ!? え!? えぇ!? あああああ!!!」
「あっはっはっはっはっは……遠慮なしですねぇ……」
ボコボコに殴打される上司を見て、早苗が喝采の意を込めた口笛を吹く。息を飲み、顔面を蒼ざめさせてガチガチ奥歯を鳴らす小傘の視線が、早苗と画面を行ったり来たりする。
「早苗!? 早苗ぇ!? おじさん打たれてるよ!! おじさん死んじゃうよ!?」
「そうですねぇ……あっはっはっは……痛そうですねぇ……あはは……」
笑みを浮かべて画面を注視しつつ、悠長にも早苗は二枚目の煎餅に手を伸ばす。画面の中では血塗れの上司が虫の息の有様だった。主人公と小傘の絶叫がシンクロする。
「あああああああああああ!! なんで!? なんで早苗は爆笑してんの!? コレって笑う所なの!? 笑わなきゃ駄目なの!? 無理無理無理無理無理!! 痛いってば! アレ絶対痛いって!!」
「うんうんそうですねぇ……あはははは……あそこまで打たれたら、顔の骨なんてバッキバキでしょうねぇ……ぶふっ」
「頑なに笑ってるし!! 無理無理無理無理! もう私無理!! 見れない! イヤ! イヤ! 早苗何とかしてよ! 止めてよ映画!」
「あ、ほらほら、もう殴るの終わりましたよ。おじさんも死んでないですよ。警備員も車に戻ってますよ、ほら。助かりましたよ。おじさん」
画面を指差しながら、早苗が悪意に満ちた嘘を吐く。早苗は今後の展開を知っている。「あぅ……ほんと……?」と恐々小傘が目を向ける。確かに上司は死んでない。小傘が安堵の溜め息を吐く。
終わったんだ。怖いシーンはもう終わったんだ。おじさんはもうボコボコに殴られたりもしないんだ。
あぁ、怖かった――。
そんな小傘の気の緩みに付けこむように、警備員が車を急発進させる。
車の動線には椅子に縛りつけられた上司……。
「わああああああああああああああああああ!!!!! 何してんの何してんの何してんのこの人!! ちょ、ちょ、ちょ、早苗早苗早苗! 早苗さん! 早苗さま! なになになに!!!」
小傘がギュッと目を瞑る。自動車が何か判らない彼女でも、高速移動する車がぶつかればただでは済まないと判っていた。ブルブルと震える小傘の肩を、再度早苗が叩く。
「ほら、ほら、車止まりましたよ。寸止めですよ」
「……え?」
小傘が目を開けると、確かに上司のすぐ目の前で車は止まっていた。
何という性質の悪い冗談なのか。小傘が首をフルフル左右に振って溜め息を吐いた。
――しかし車は再度発進する。
「え?」
上司の乗せられた椅子を押し転がす様な形で、車は徐々にスピードを上げる。
「え? え? え? え?」
その先には、コンクリート製の壁。
「嘘、嘘、嘘でしょ……え? え? え? ちょっとちょっとちょっとおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!」
――グシャア。
「うわあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!! いやあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!」
「あっはっはっはっはっはっは! 何度見てもこのシーンは傑作ですね! あはははははははははは!」
手を叩きながら爆笑する早苗を余所に、小傘は悲鳴を上げ続けている。その悲鳴がどこどこまでも主人公のそれとシンクロしている。
違うのは、主人公が車から逃げ出したのに対して、小傘が泣き出してしまった所だった。
「……うっく、く、うぅ……ふぇえええええ……」
「あら、泣いちゃった」
小傘のオッドアイから、球の様な涙がポロポロ零れて畳に染みを作って行く。あちゃあ、ちょっとやり過ぎたかな、と少々反省した早苗が映画の再生を止めた。今後の展開はそんなに刺激的じゃないですしね、と計算している辺り、早苗はちゃっかりしている。
「よしよし、小傘さん。もう映画止めましたよ。泣かないで」
「ふええぇん……馬鹿ぁ……早苗の馬鹿ぁあああ……うわあああああああん……」
縛られている(犯人は早苗だが)小傘の頭を膝の上に乗せ、ポンポンと頭を撫でてやる。早苗の太ももに顔をギュウと押し付ける様にして、小傘はくぐもった泣き声を響かせていた。
……まったく、可愛らしい妖怪なんだから。
少々お姉さんぶった気持ちの湧いて来た早苗が、小傘の青い髪を撫でながら、ほぅと溜め息を吐く。巫女服に小傘の涙やら鼻水やらが染み込んでも、それが嫌とは感じられない程度のお姉さんスイッチ。罪悪感がチクチクと早苗の心中を苛んで……。
――いや、違うな。
泣いている小傘の後頭部を見下ろして、早苗は自身の抱く感情が、気まずい罪悪感とはまた少し違う物であると気付く。
なんだろう、この気持ち。
ぞくぞくする。
小傘さんが可愛らしい。
いつもはあんなにもウザい小傘さんが、こんなにも無防備に泣いてる姿が。
泣いているというその事実が、堪らなく愛おしい……。
カチリ。
何かのスイッチが早苗の脳内でオンになった。
ヤバい。可愛い。愛しい。そそる。もっと見たい。小傘さんの初心な反応をもっと見たい。もっと独り占めにしたい。今一度の絶叫を。今一度のリアクションを。もっともっと。
早苗の心に浮かんだのは罪悪感なんて高尚な気持ちでは無く、薄汚れた嗜虐心だった。
「――小傘ちゃん?」
「ふぇ……?」
ようやっと泣き止み始めていた小傘が、涙と鼻水でぐじゅぐじゅの顔を上げる。早苗の表情を目の当たりにして、心なしか赤みを増していた小傘のオッドアイが見開かれた。
早苗は微笑んでいた。
女神の様に微笑んでいた。
穢れを帯びすぎて逆に黒光りした、どこまでもキラキラ輝く微笑みだった。
小傘の顔から血の気が引いて行く。
「次は『SAW』シリーズを全部見ましょう」
「え?」
矢庭に立ち上がった早苗は、テレビラックからDVDをごっそり選別し、テーブルの上へと山積みにしていく。
「それが終わったら、『ハイテンション』を見ましょう。『ヒルズ・ハブ・アイズ』を見ましょう。『CUBE』も見ましょう。『テキサス・チェーンソー』も良いですね。『REC』も見ましょう。『リング』は好きですか? 『呪怨』は? 『ジョーズ』はパニック寄りですが、中々良いですよ。『ドーン・オブ・ザ・デッド』もこの際見ちゃいましょうか」
テーブルの上に、早苗は欲望のままホラー系・スプラッタ系のDVDをガンガン積み立てて行く。その淡々とした挙動を見て、小傘が震え出す。
「イヤ……」
「これから、二十四時間耐久映画鑑賞会を開催しましょう。明日は神社のお仕事も全部お休みします。家事もしません。お腹が空いたらお煎餅とおかきで飢えを凌ぎましょう。神奈子さまも諏訪子さまも、立ち入り禁止にします。邪魔は入りません」
「イヤ……イヤだよ……」
「あぁ待ちきれませんゾクゾクします。安心してください寝たら叩き起こします。絶対に縄も解きません。さあ夜はこれからだ! お楽しみはこれからだ! ハリー、ハリー、ハリー!」
「いやあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッ!!!!!」
これもまた、抗う事叶わぬ運命の流転。
一度言い出した早苗が宣言を撤回する筈も無く、二十四時間耐久映画鑑賞会は終始小傘の叫び声と早苗の笑い声で、居間に立ち入る事を禁止された守屋の二柱をも恐怖のどん底へと叩き落した。
◆◆◆
それから一週間が経った。
初夏の木漏れ日は薫風に揺られて次々に形を変え、徐々に盛夏のうだるような暑さの予兆を孕み始めている。青空には入道雲になり損ねた白雲が、山並みを思わせる隆々とした相貌で東へと滑る。
そんな心地のいい天候を頭上に掲げる守屋神社の境内を、一人の女性が闊歩している。
気紛れに参拝に訪れていた山の妖怪は、一人の例外も無くその女性に視線を奪われた。
青。どこまでも高い冬の晴天さえ恥じらう清々しい青の髪は腰まで伸び、彼女が歩を進める度に空気を含んで手招きの如くに跳ねる。
白。石畳を踏む足は古代ギリシャの彫刻然とした生命力を湛え、肌の色は生まれてこの方日の光など浴びた事が無いと言わんばかりに白い。
誰もが見惚れた。誰しもが、その女性に目を奪われずに居られなかった。男性も女性も、若輩も老輩も、ただ歩いているに過ぎないその女性を見るその間だけは、呼吸の仕方さえ忘れてしまっていた。
彼女は完璧だった。否、完璧という言葉でさえ、彼女を飾るには足りなかった。
雨など気配も無いのに、差されている濃い紫の傘。紫色は古代、高貴な身分を意味した。成程、その女性にはピッタリだと誰しもが思った。女性が纏っている空気は、凡百の輩には不可侵な聖域を思わせたからだ。さぞ高名な身分の女性なのだろう。しかし、幻想郷に貴族など居ただろうか。その疑問さえも雲散霧消していく。
その女性は迷う事無く、参道を箒で掃いていた守屋神社の巫女へと歩み寄って行く。東風谷早苗は、その接近にまだ気付いて居ない。
というのも、右目に眼帯を付けた彼女からすれば、女性の接近は死角での出来事だったからだ。
「……東風谷さん」
早苗のすぐ近くで立ち止まった女性は、ふ、と一つ小さく吐いた妖艶な呼気の後に早苗の名前を呼んだ。そこに来て早苗は掃除の手を漸う止めて、振り向く。
「――どちら様です?」
箒を手にしたまま、早苗が力の無い声で問う。よくよく見れば、早苗は傷だらけだった。
前述の眼帯は言わずもがな、両手には包帯がグルグル巻きにされ、頬には絆創膏が二つ三つ張られている。肌の出ている部分には、青痣も散見する。
そんな痛々しい様子の早苗を見て、女性は少々目を丸くした。
左眼窩はルビー。右眼窩はラピスラズリ。
そんな宝石を思わせる女性の両眼に、早苗がハッとした表情を浮かべる。
「……小傘、さん?」
「そうよ。東風谷さん。私は、多々良小傘。忘れちゃった?」
小傘と名乗った女性は余裕を感じさせる柔らかな口調で話し、小さく微笑んだ。驚愕の余り、早苗が箒を取り落とす。わなわなと身体を震わせる。無理も無い。今の彼女に、以前のちゃらんぽらんとした小傘の面影など皆無だった。
腰まで伸びた髪。
早苗よりも小柄だった筈なのに今、早苗は彼女を見上げている。身長は百七十後半~百八十前半はあろうか。
空色の洋服には金糸の見事な刺繍が縫い付けられ、胸囲は驚異の成長を見せている。重力を無視した小玉スイカでも詰め込んでるようだ。
悪趣味にしか思えなかった紫色の傘も、今は重厚な深みを備えている。
「え? え? え? え? 意味判んない。成長期ってレベルじゃ無いじゃないですか。何ですかその抜群のプロポーション。海外のモデルさんですか。どうしたんですか。高○クリニックで人体改造とかしたんですか。無敵になれるキノコでも取ったんですか」
「何言ってるの? 貴女のお蔭よ……東風谷早苗さん」
傘を手にしていない方の手で、小傘が口元を隠しながらおっとりとした笑みを漏らす。その様子が余りにも妖艶で魅力的で、早苗は一瞬抱きしめてキスをしたい劣情に囚われた。しかしそれを敢行した後には、余りの罪悪感に焼かれて死ぬんじゃないかと恐れた。二律背反の激情が、傷だらけな早苗の痛ましい身体に同居する。
「……私のお蔭?」
「そう。この身体も。この妖力も。この満たされた気持ちも。全部、貴女のお蔭」
するりと小傘が自分の腹部を撫でる。艶めかしくもあり、無垢でもある。形而上の矛盾をその動きは内包していた。アルファでもあり、オメガでもあったのだ。
「い、意味が判りませんが……」
「何を言ってるの? 生半な恐怖じゃ、人は驚いてくれない。恐れてなんてくれない。そう教えてくれたのは、貴女じゃないの……」
ス、と。小傘が包帯の巻かれた早苗の手を取って、手の甲に唇を寄せる。柔らかな唇の感触が、甘い痺れとなって早苗の身体中を廻る。気付けば早苗は耳まで赤くなっている。
「も、も、も、もしかして! もしかして先週の二十四時間耐久映画鑑賞会ですかぁ!?」
不意に聞こえて来たドキドキから意識を逸らそうと、早苗が無意味に大きな声で言う。やっと判ってくれた、とばかりに小傘が満面の笑みを浮かべる。綺麗過ぎる。女神か。美しすぎる付喪神。心なしか息を荒げる早苗は、どこか遠い思考でそんな事を考える。
「そうよ。東風谷早苗さん。私は、あの体験から学んだの。自分は、このままじゃいけない。人を怖がらせるという事には、相当な努力と準備が必要なんだ、って。だから私は、必死で怪談話を研究した。怖がらせるためのシチュエーション。絶妙な間。アプローチの方法。緩急の付け方……そうする事によって私は、今までとは比べられない程の恐怖を我が物にしたの。妖怪として、この上なく成長できた……今日はそのお礼を言おうと来たのだけれど――」
言い淀むように言葉を区切った小傘が、早苗の身体を注視する。傷だらけの、痛ましい身体。包帯や絆創膏、眼帯。そういった物で痛々しく装飾の為されている彼女を。
「貴女、どうしたの? その怪我は……。転んだ?」
「――小傘さんの言う事が本当なら、これは多分貴女のお蔭ですよ」
自嘲的に零した早苗が、クルリと踵を返して住居スペースへと戻ってしまう。はて、何を考えているのかしら、と小傘が首を傾げていると、早苗はすぐに戻って来た。その手には先ほどまで握っていた箒の代わりに、一枚の新聞が握られている。
「読んでください。やっと合点がいったんですが、これ、多分小傘さんの事ですよね?」
ぶっきらぼうに手渡された新聞を、目を細めた小傘が読んで行く。
内容は以下の通りだった。
◆◆◆
花果子念報
近頃、人里で妙な騒ぎが起こっているという。
そもそも人間の里は、妖怪と人間の間で結ばれた不可侵条約もあって、常日頃より平穏であり、幻想郷全土を巻き込むような異変があった所で、『どうせいつもの事』という我関せぬの態度を取り続けている。
しかしながらその妙な騒ぎという物は、どうやら里の住人が妖怪に襲われた事に端を発しているらしい。今回記者は、その襲われた人間の元へと自ら出向き、話を聞いてみる事とした。
恥ずかしながら人見知りである私は、インタビューその物に不慣れな事もあって取材は難航するだろうと思っていたが、私が伺ったとある男性(以下、甲氏と記す)の怯えようは尋常でなく、最初、甲氏は私が妖怪であることを知って酷く取り乱した。
一体何が、がっしりとした身体つきをしていた甲氏をそこまで怯えさせたのだろうか。
以下は、落ち着きを取り戻した甲氏が語ってくれた内容である。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
その日の俺は命蓮寺の裏にある墓場へ、提灯を手に親父の墓参りに行ったんです。
親父の三周忌の日だったんですけど、その日はどうも仕事に追われてしまって、墓場に着いた時にはもう、とっぷりと日が暮れていました。
鬱蒼と生い茂る桜の枝葉が空を覆い隠して、月や星の明かりも完全には届きません。
気味悪いなぁ、と思いつつも、親父の墓に花を供えました。
そして手を合わせていると、不意に雨が降って来たんです。
さっきまで雲一つ無かったのに、と思ってたら矢庭に雨は車軸を流すみたいな土砂降りになって、こりゃ堪らない、と近くの霊廟で雨宿りをする事にしました。
霊廟ってのは、位の高いお方のお墓でしょう? だから、不気味な墓場の中でも一番安全に雨宿りが出来る場所だと思ったんです。
……今思えばそれが、間違いの始まりでした。
どうして俺はあの足で家へと向かわなかったのだろう、と今でも後悔しています。
幸い蝋燭の火は消えてませんでしたが、霊廟は持って来ていたそれでは到底照らし出せない程に広く、薄暗く、激しい雨の音が扉の向こうから聞こえて来ました。
「勘弁してくれよ……」
――コン、コン。
不意に扉の向こうからのノックが聞こえて来ました。
……妖怪かも知れない。俺は息を殺して扉を抑えました。
しかし、押し入ってくる気配は無い。ノックは一度だけで連続することも無く、響く雨音のせいで扉の向こうに誰かが居るかどうか、俺には判りませんでした。
「……行ったか?」
――コン、コン。
まだ、居る……。
暗闇の中、扉の向こうを想像するのは恐ろしい物がありました。
もしかしたら、命蓮寺のあの優しい住職かも知れないし、やっぱり俺を取って食おうとしている妖怪かも知れない。
混乱と恐ろしさでどうにもならなくなって、判断力が弱まって、俺は恐る恐る、扉の向こう側へと聞いてみる事にしたのです。
「あんたは、妖怪か?」
――コン。
ノックが一度だけ聞こえました。
これはもしかしたら、返事なのかもしれないと思いました。
返事をする意志はあるのに、声を掛けては来ない。
命蓮寺の方なら、「大丈夫ですか?」と声を掛けて来ても良い様な物でしょう?
その事から矢張り、扉の外に居るのは妖怪なのだろうと思いました。
ならば一度だけのノックは『はい』で、二回のノックは『いいえ』を意味するのか……。
素直に自分が妖怪だと認めた扉の向こう側の存在が不気味で堪らなく、俺は生唾を飲んで暴れ出す心臓を宥めねばなりませんでした。
「俺を喰う……つもりか?」
――コン、コン。
「じ、じゃあ、何故ここに居る!? 俺に危害を加えるつもりだろう!?」
――コン。
「ば、馬鹿な! 無駄だ! 俺は里の人間だし、命蓮寺の住職に声を掛けて来たからな! 戻って来ない俺を不審に思って、すぐにでも来てくれるさ!」
それは嘘でした。夜も遅かったから迷惑になるかも知れないと思ったし、墓参りに許可も要らないだろうと思ったからです。
――コン、コン。
……俺の嘘は、どうやら見破られてしまった様でした。
外から淡々とノックだけをして来る妖怪は不気味極まりなく、恐ろしくて足が震えていましたし、ずっと扉に力を入れていたせいで腕も悲鳴を上げていました。
でも、力を抜いたその途端、外の妖怪が押し入って来るのではないかと思うと、扉から離れる事も出来ません。古めかしい扉は脆そうで余りにも頼りなくはありましたが、それでも俺を外の妖怪から守る、只一つの障壁なのです。それに縋るしかありませんでした。
心臓が煩い位に跳ねまわって、気付けば俺は額にぐっしょりと汗をかいてました。
「お前は、オスの妖怪か?」
気付けば俺は再度、外の妖怪に向かって問いかけていました。
外の雨音は霊廟の中の薄暗闇に低く響き、確かにいる筈の妖怪の気配は、その音に全く飲み込まれてしまうのです。
自分の身に降りかかっている驚異の存在を感知できないというのは、例えようのない程に恐ろしい物でした。自分が気付かない間に、どこか別の所から忍び寄って来ているのでは……という疑念に苛まれるからです。
それならまだ、確実に扉の向こうに居ると確認できた方が、安心できるという物です。
――コン、コン。
どうやら扉の向こうに居るのはメスの妖怪のようでした。
確かに、もしもオスの妖怪ならば、こんな回りくどい問答をせずとも、強引に押し入ってきそうな物だと思いました。
「見た目は年寄りか?」
――コン、コン。
質問を重ねる事によって扉の向こう側の存在が想像しやすくなり、訳が判らない事から来る恐怖が少し弱まったのが判りました。その時の俺は、嘘かもしれないなんて微塵も思いませんでした。
素直に、若い女の姿の妖怪を想像していたのです。
「俺に恨みでもあるのか?」
――コン、コン。
「じゃあ、なんでお前はここに居る?」
無音。
「仲間がいるのか?」
――コン、コン。
「俺を襲おうとしているのは、お前ひとりか?」
――コン、コン。
その返答の意図は、判りませんでした。
徒党を組んで俺を襲おうとしている訳では無いのに、俺を襲おうとしているのは外に居る妖怪だけじゃない……? 墓場には外の奴以外にもまだ妖怪が彷徨っていて、俺の事を探している……?
ゾッとしました。
今は、扉の外の妖怪が俺の存在を知っている。でもいつ他の妖怪が押し入って来るとも限らない。多数の妖怪に取り囲まれてしまった自分を想像して、生きた心地がしませんでした。
もう限界でした。
ガキの様に泣き喚きたい位に、俺は追い詰められていました。
朝までこうして、扉の向こうの妖怪に狙われたまま過ごすのか?
そもそも朝になったら、この妖怪が俺を諦める保証なんて無いじゃないか――。
「――このクソ妖怪が!」
扉を隔てた向こう側に居る妖怪に向けて、俺は半狂乱で怒鳴りました。
「お、お前なんか怖くねぇぞ! 他にどれだけ妖怪が居るかなんて知らんが、お前ら妖怪が霊廟に入って来れる訳もねぇだろう!? だ、だからお前はそうしてアホみてぇに扉の外から俺にお伺いをする事しか出来ねぇんだろ!? ざまあみろクソ妖怪め!」
うわん、うわん、と。
俺の叫び声は鳴動する雨音を飲み込み、霊廟のひんやりとした空間に響きました。
「――っふ……」
「……え?」
それまでノックでしか存在を主張しなかった扉の向こう側の存在が、初めて声を発しました。確かに、若い女の声。その声が、嗚咽を漏らすみたいにポツリと扉の隙間から染み込んできたのです。
「っふ……ふぅっ……ふふ、ふはは、あはははははははははははははははははははは!!!!!」
突然の哄笑。嘲笑。
それは確かに、俺に向けられた悪意の勝ち鬨でした。それを理解出来ず、俺は歯の根の合わないままに呆然と立ち尽くしていました。
「何勘違いしてんのぉ!? わちきが入って来れないって!? あっはははははははは! わちきが何でここに居るのか聞いたねぇ!? 聞いちゃったよねぇ!? やっと大声出してくれたわねぇ!! 教えたげるよ!!! わちきはねぇ、アンタを『出さない』為にここに居るんだよぉ!!!」
……え?
――トン。
俺の背後から、何かの物音が聞こえました。
――トン。
息を荒げて、俺はゆっくりと、背後の暗闇へと目をやりました。
――トン。
何か、質量の大きい何かが、地面にぶつかる様な、
――トン。
いや、違う、近づいて来ているような。
――トン。
まるで着地する様な音を出しながら。
――トン。
徐々に、こっちへ。
――トン。
俺の方へと。
――トン。
霊廟の奥
――トン。
から……。
「――だ、誰だ……」
「だれだ」
酒焼けした様なそんな低い女の声が『トン』俺の声をそっくり物真似しました『トン』俺は扉から離れ、傍らに『トン』置いておいた提灯を『トン』急いで拾い上げて『トン』背後に広がっていた『トン』暗闇へ向かって『トン』小走りで向かい『トン』真っ暗な『トン』奥の空間を『トン』照らそうとしたら『トン』奥から顔色の悪い『トン』少女みたいな『トン』妖怪が『トン』手を伸ばして『トン』一足飛びで『トン』俺を見つけると『トン』血に塗れ『トン』た唇『トン』をニヤリ『トン』と『トン』歪めて『トン』向かって『トン』来る『トン』勢い『トン』を早『トン』め『トン』て『トン』
……トン。
「――なんだ? おまえ、芳香のおやつか? あるじが持って来てくれたのか?」
両手をピンと伸ばした少女は俺の目の前に立ちはだかると生気の無い唇から涎を垂らしました元々何かの血で赤黒く汚れていたその妖怪は口を開けると大きな声で朗らかなくらいの口調でいただきますというと俺に向かって跳んで来ました蛇に睨まれた蛙のように立ち尽くして震えていた俺は我を忘れて提灯を取り落とし扉へと向かいましたでも扉は開かなくて外から誰かが抑えつけているみたいでゾンビの少女の動きは緩慢だけれどもすぐに追いつかれてしまうだろうと思って俺は半狂乱で扉を叩きました押したり引いたりしましたでも扉は固まってるみたいにピクリともしなくてあのゾンビの少女がどんどんどんどんどんどんどんどん近づいて来て喰われる喰われる喰われるこのままじゃ喰われる死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死んじまうと思って俺は涙を流して涎を垂らして助けてくれ助けてくれ開けてくれ開けてくれと叫びまくってゾンビの少女が俺のすぐ後ろまでガバリと大口を開けてやって来た所で扉が矢庭に開いて――。
その後、俺は気が狂ったように悲鳴を上げながら、墓場の中を走り抜けました。
あれほど降って居た筈の雨はもう小雨の気配すらなく、俺が思い描いた妖怪の姿は、影も形もありませんでした。
そうして命蓮寺に飛び込み、頭巾を被った尼さんに介抱して貰い、漸く自分が助かった事を知ったのです。
……これが、俺の体験してしまった話の全てです。
この記事を読んでいる皆さん。
一人では、墓地に行くな。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
以上が、甲氏の語った体験談である。
そもそも妖怪とは人間に恐れられてなんぼの存在ではあるが、甲氏以外にも数名、同様の体験をしてしまった人間が居るとの事で、里には怯えを基とした不穏な空気が流れている。これほどの畏怖を集める存在は今頃、強大な力を得ているのかもしれない。
里の人間は異口同音に博麗の巫女の出動を待望していると聞く。もしかしたら近々、命蓮寺に出没する妖怪は、異変として退治されるのだろうか。
畏怖から来るエネルギーの独占は、同じ妖怪である私からしても面白いものでは無い。
幻想郷という閉鎖空間に住まう我々だからこそ、何事も程々で済ませておくべきなのだ。
姫海棠はたて
◆◆◆
「――あぁ、私の事が書いてある……」
「でしょうね!」
苦々しげに鼻を鳴らした早苗が、包帯の巻かれる右手を擦った。
「突然。突然ですよ? やけに殺伐とした雰囲気の霊夢さんが私の所に尋ねて来て、『元凶はアンタね!?』って本気モードで断言して来て、そこから先は問答無用でボッコボコですよ。『え? 元凶? え? 何の事? え? え? 何かあったんですか?』。そんな質問も悉く無視されました。マジになった霊夢さんって、なんであんな人外染みて強いんですか。あの人本当に人間ですか? 我々が幻想郷に来た時とか、こいしちゃんが遊びに来てた時とかに戦ったのとは比べ物にならないくらい強かったんですけど。つまりアレ、全然本気じゃなかったって事ですか。なーんて、小傘さんに聞いても何にもならないんでしょうけどね。うふふふふふふふふ……」
半ば呆然としたような半笑いを浮かべた早苗が、壊れた笑い声を上げる。
げに恐ろしきは異変解決のエキスパートである博麗の巫女の勘。彼女は小傘が起こした騒ぎの根本的な理由を即座に突き止め、当人がそれと気付くよりも早く速攻で解決せしめたのだ。
お蔭で早苗には身体の傷のみならず、深い深いトラウマまでも刻まれていた。
理由も判らずに調伏されても平気の平左で居られるほど、早苗の心は強くは無かった。如何に重篤なスプラッタ・ホリックであっても、自分が痛い目に逢うのは嫌だった。
「そうなの……私のせいなの……御免なさいね。東風谷さん」
後ろめたそうな表情で呟いた小傘が、小さく首を垂れる。その所作によってフワリと舞った髪の毛から甘く清潔な香りが漂って、早苗の鼻腔を満たした。
早苗の抱く不条理に対する不満は、どうにも行き場を失ってしまう。これが普段の小傘相手だったら難癖をつけて苛々をぶつける事も出来ただろうに。そう思うと早苗は、何だか自分が酷く矮小な生き物になった様な気がした。
「――あぁ、そう言えば確かに来たわね。博麗さん」
突然小傘が思い出した様にポン、と手を叩きつつ、得心が行ったらしい朗らかな表情を浮かべる。
「え、来たんですか?」
「うん。三日前くらいかしら? やけに血相を変えて……」
「あぁ……やっぱり……」
苦笑いを浮かべながら、早苗が肩を竦める。
普段はボケッとしている様に見えて、やはり霊夢は異変解決のエキスパートだ。
早苗がボッコボコにされたのが一昨日の話。ならば霊夢はきちんと、何も知らない早苗をギッタギタにする前に、小傘の事も退治していたのだ。不条理に甚振られた事への苦いトラウマが、早苗の胸中で和らぐのを感じた。
「まぁ、勝ったけど……」
「は?」
何気なく呟かれた小傘の一言を理解出来ず、早苗が眼帯に隠されていない方の目を丸くした。
「聞き間違いですか? 小傘さんが霊夢さんに勝ったって、言った様に聞こえたんですが……」
「勝ったわよ?」
「どういう事です? 霊夢さん、小傘さんには手加減したって事ですか?」
「知らないけど、前に弾幕ごっこした時より弾幕の密度は濃かったのに、あんまり強くなかったと思ったわね。『弱くなったの?』って聞いたら、すごく歯軋りをしてたわ」
「え? え? え? 歯軋り? 霊夢さんが歯軋り? それって……」
本気で悔しがってたって事じゃないんですか? とは聞けなかった。
その質問の意味するところに、早苗は気付いてしまったからだ。
そして、納得のいかなかった霊夢の異様な殺意にも。
まさか。まさか。
早苗は自分の背筋に、やけに冷たい汗が流れる感覚を覚えた。
あの霊夢が。異変解決のエキスパートである先輩巫女の霊夢が……。
――小傘に勝てなかったから、元凶である自分を叩きに来た……?
途端に、早苗は全身の血液が引き潮の様に引いて行く感覚を覚える。奇妙な脱力感。そしてふと浮かぶ罪業妄想。もしかしたら自分は、とんでもない事をしてしまったんじゃないか、という思い。
「……何にせよ、全部東風谷さんのお蔭だわ」
にっこりと微笑みながら、小傘が再度早苗の手を取った。
「本物の恐怖を、どう構築すべきなのか。それを貴女が教えてくれたからこそ、今の私がある。私は、もっともっと勉強するわ。もっともっと人間の恐怖でお腹一杯になるの。そうして妖怪として、もっともっと成長するのよ」
――出来心とは言え、余りにも強力な存在を生み出してしまった。
――しかも他ならぬ神社の巫女である自分が。
はしゃぐ小傘を余所に、彼女に握られる早苗の手はガタガタと震えていた。
END
面白かったです。
読んで良かった。
小傘の映画に対する態度がめちゃくちゃ笑えましたww
昔散々虐めてた相手が急に自分の前に現れた、って感じの
映画って本当にいいもんですねー
よくあるストーリーではあれど、まさかこういう方向の落ちになるとは。
きっと小傘もお腹いっぱいになったはず……ん、このくらいの驚きじゃこの小傘は満たせないか。
と考えてまた吹いた。面白かった。
早苗さんのスパルタ教育と小傘の成長っぷりはホラーだ……
スーパーサイヤ人3と化した小傘さん。まじぱねぇっす!
>着信アリは、テレビに出た主人公の友達が捻れるシーンが好きだったから
ちょw
あと高須クリニックwwwいやー、楽しめました。P2は知らなかったけど、そんな自分にも読みやすいSSでした。
よく配慮してくれてると思います。
早苗さんが小傘にただホラー映画見せてはい終わりだったらどうしようかと思いました。
因果応報ってそれ一番言われてるから