-おわりとはじまり、その途中であったとある幕間
死が、遠くて近い場所にある。
いざその場となって、初めて彼女はそのように思った。
なんで、頑張ってしまったのだろう。
自らの行動についても思考を巡らそうとしたが、うまい塩梅には働いてくれなかった。
頭どころか、身体も満足に動かない。
冬だからか。
何とか搾り出した思考の結末がこれだった。それなら、ちょっかいも出したくなると。それにしても上手くやれなかった、そういうこともちょっと彼女は思った。
空が雲の切れ間から、深い深い色を彼女の瞳に映している。白い雪は、ちらちら静かに降り注ぐばかり。
ほんとう、無鉄砲だこと。
笑おうとした。それを為せたかどうかを彼女は知らない。
雪が、身体に薄く積もっていく。
眠ろう。
今度は、なんの努力もなしに。意識を手放すだけで、その通りになった。
そうして、彼女は夢を見る。
――
何時の間にか春が来たと、誰もが口に出すようになる。
空気や時間の流れは、留まることを知らないから。
春は暖かい、その陽光は身体を温める。少し気の抜けた様子でいながら、彼女は春を噛み締めていた。
「何あんた、気分でも変えたの?」
「気分が変わるとどうだって?」
「や、なんでもない、そんな気がしただけよ。冬が終わったってのに、なんで元気なのかと」
「冬でなくてもあたいは元気だよ」
「ああ、それもそうか」
急かされるように、それでいてひっそりと佇むように、傍らにあるのが季節。
「それにしても、あったかいわねえ」
「ゆるみすぎ」
「あんたに言われると何だか腹が立つ」
そんな巡りの最中に起きた、ちょっとした出来事たち。
それらを全て把握しきることが出来るものは、多分、あんまり居なかったのだ。
雪は降らず、舞うは桜の花びら。
ざぁ、と。暖かさを帯びる風が一陣、吹きぬける。
何時の間にか春が来たと。
それを誰もが口にする前の、一瞬の幕間。
「平和、平和」
一時の、夢のようであれども。
そう一言漏らす少女は、其処に居た。
――
「まあ、そういう話なわけ」
幼い姿の彼女は、堂に入った威厳を保ちながら語った。
「異論は」
それはその場に居合わせた者に対し問いかけるようでいながら、その実それを認めない、という響きを存分に含ませている。
「わざわざ其処までする必要があるかしらね」
口を挟むことが出来たのは、館きっての知識人である。
「別な役が欲しかった?」
「いいえ、そういう訳でもない。本を読んでる方が楽だし」
獺魚を祭るを地で行こうかという彼女にとって、外の季節はあまり関係ない。もちろん、体調の良し悪しも。
ふむ、と。館の主は考える。考証とは、それを以て如何に己の行動を定めるのに役立つものであるが、本来運命を直に手掴みする行為ではない。それは眼に見える形ではないからだ。思考、または何らかの意志は、胸の裡に秘めたままでは、外的に作用をもたらさない。
それ故、姿幼き彼女にとっての「考える」は、今話をした知識人、もとい魔女、のそれと少し異なっている。
はたり、はたりと。魔女はタロットカードを繰っていた。
「何よそれ、運勢?」
「たまたまやってみたくなっただけ。貴女にはあんまり意味のないことだろうし」
紅茶に口をつけながら、魔女は言う。占いへ臨む姿勢としてはなんとも真剣とは言い難かったが、そもそも術を施すつもりでもなくお遊び程度だったため、特に気にしていない様子だった。
「で、どうだったの占い」
「さあ?」
「つれないわねえ」
「星でも落ちるんじゃないかしらね」
だったら素敵よね、そういう意味はないだろうけど。
そう言って、魔女はさっさと占い道具を片付ける。
雪が静かに降り注ぐ、時は夜。
而して夢は、眠りにつく夜に見られるものという。
古きも新しきも、等しく平等に。在ればこそ、夢を見る。
館の主はぽつりと呟いた。
「夜は我が時。目覚めながらにして夢見ることもあるのかしら?」
「白昼夢というものがあるそうよ」
「なあに、それ」
-L/R 1
冬とはどういう季節か。
今まさに雪は降り積もる。
雪は白いという印象がまず在って、その白はつめたさを帯びる。色も温度を持つのだと、彼女はぼんやりと考える。そしてその色は、穢れのない、何もない、そんな印象を抱かせるのに充分だった。
冬とは、つめたくさみしいもの。だから、冬を厭う。そう思う者は実際に多い。
ただその問いを、冬にしか生きない者に尋ねたらどうなるのだろう?
新たに生まれた、声に出すことのない問い。それは自身にしか尋られない類であることを、勿論彼女は知っていた。
今居る場所を訪れる前、彼女はそんなことを考えていた。それをまさに、つめたい紅茶を手にしたのを契機に、思い出し始めている。その様子は傍から見れば、単純に物思いに耽っているようにしか見えない。
「考えすぎると寿命が縮むんじゃないかしら」
「寿命、って何?」
「存在が続く時間のこと」
「考えすぎると存在が続く時間は縮むの?」
「比喩よ。たったひとりで行われる思索の中身なんて、それだけでは他に伝わらないでしょ」
「それがどうかしたの」
「伝えることをしない存在は、忘れ去られるものよ。この場所で忘れられてしまったとしたら、どうなるのかしらね。まあ兎に角。ぼんやりしてようが真剣だろうが、考える時間は、あっという間に過ぎるらしい。考えたことをかたちにしなかった分だけ、存在は薄くなるんだわ。何を残すでもなく、そんなことばかりを続けていれば」
「幻想の中で幻想になる? 笑えない」
「笑えないわね。ええ、それは本当に笑えないのよ。まあそれだから、今みたいに会話をすることの意味だって生まれるわ。これは相手の存在を確かめるための行為。
ああ、そうか。狭しとはいえ、端の曖昧なこの場所なら。考える者の心を読むことが出来る存在なんて居てもおかしくないか」
「心を読めるなんてねえ。どんな感じかしらね」
「それはきっと、誰かが忘れ去られて消えてしまわないように。そのために、居るのかも。それにしたって面倒くさがりよね、そういうのって。ああでも、なんでも明け透けに心が読めると知られてしまったら、今度はその存在が周りから距離が置かれてしまうのか、ねえどう思う?」
「読まれて困ることなんて考えてない。考えすぎると寿命が縮むんでしょ」
かちゃり、とティーカップの置かれる音が響いた。
「私はちゃんと言葉にしたわ。そして誰かが言葉を発したら、それを受け止めようと思う」
今まさに雪は降り積もる。
「じゃあそもそも、寿命なんてすぐになくなってしまうものかもしれないわね」
「割と儚いものよ。寿命じゃなくても、簡単な理由で死ぬことだってある。もっとも、それは私自身が死のうと思わない限りはしないことだし、誰にさせるものでもないわね」
「それが普通じゃない。死にたいと日々思うのも居るには居るだろうけど」
「普通、って何?」
「普通の意味、をきいてる?」
「問いを問いで返さないで欲しいんだけど」
本来「死のうとは思わないことが普通というのは何故か」を聞きたかった彼女は言う。
「けど、けど、そうね。貴女の思う普通の意味とは、一体何。その定義とは」
顎の辺りに人差し指を当てて、問いを受けた彼女は少しの間考える素振りを見せてから言った。
「生きてれば、ものを考える」
「そうね」
「死んでいるのも考えるかな」
「身体という器がからっぽになっても、中身はね。ぽやぽやするかせわしないかは、まちまち」
「貴女、冬はすき?」
「何よさっきから」
「まあ答えて」
「んん、冬は好きでも嫌いでもない」
「そう。じゃあそれ」
「じゃあって貴女」
「考える者が、それぞれに特別に思ってないものが普通のことなの。普通のことって、きっとそのまま其処にあるもの。何時まで続くかはわからないだろうけど、普通であることは、変わらないまま傍らにあること。
貴女にとっての冬はそうなのね。私にとってもそうよ、寒いと調子はいいけどね」
-冬にも雨を
姿がなくなることと、死を同義にすることは出来るのだろうか。
むしろ姿が消えてしまったら、死んだかどうかもわからないのか。
間もなく辿りついた森の中で、洩矢諏訪子は考えていた。
いつもはぴょんぴょんと跳ね回る元気さを保つ諏訪子だったが、自身の性質を以てか、冬ではその動きにも精細を欠く。
そもそもな処、屋内で大人しくしていれば良かったのだろう。けれど普段神と崇められていた筈の彼女は、それをしなかった。それを、出来なかった。
「なんだってあいつ、偉そうに」
心の底では、勿論繋がりがあると信じるものの。「信じて疑いない」という文言をあまり信じていないのが諏訪子の性格だった。
一度信じて済むならば、一度集まった信心が消えることなどないだろうにと。しかし実際は違う。信じていたとて、たまには疑うこともある。それが心の在り様。
神であろうと、この地上に実の身体を持っていたならば、実の心を持つ。表面上のやりとりで些細な、そして下らない口論をした程度でも、「繋がりを持っている」という事実そのものを、ほんのちょっとだが疑う。
神様同士の痴話喧嘩は、大方世界を生きる者にとっては直接目の当りに出来るものではない。ただ諏訪子が普段潜む神社ではそれが時々、むしろしょっちゅう起こり得ることだった。近頃では、特にそれも多くなっている。
「かえるかえる、五月蝿いったら。ええ、ええ、私はかえるですとも。何が悪いの。ならあいつは何。蛇か。蛇だって冬は眠る。偉そうな癖に、言うことはいつも突飛だ」
馬鹿にして。
うっすらと積もっている雪を、けんっ、と蹴飛ばしたあと、森の中にあった適当な切り株に腰を下ろして、諏訪子はぼんやりと呟く。
傍から見ればつまらない出来事なのかもしれないのだろう、けれど。
その「けれど」という譲歩を、常に諏訪子は吐き出す用意が出来ていた。神様とはいつだって、大まかに大事だと思う処で、寛容でなければならない存在だから。
「私が居なくなって、ちょっとはそのありがたみを知るといい。昔は泣きついてきた癖に」
口ではそう言う。表面ではそう言う。自分と一緒に住んでいるもう一人の神様が、実際泣きついた事実があるかという話はまた別。己が神であるという前提など、しょっちゅう気にはしていたけれど、「神様も口喧嘩くらいはするわよね」という認識程度しか諏訪子には持ち得ない。それを以て、普段住んでいた場所から、随分と遠い場所までやってきていた。
はぁ、と溜息をひとつついてみる。吐き出した息は白く、あたたかいものだということを改めて感じながら、諏訪子は両の手を合わせる。
熱を持つ白もある。しんしんと降り積もる雪を多少恨めしく思いながら、さて、と考える。先ほどから諏訪子の周りで、うろちょろと動き回っている相手をどうしようかと。
行動に移したのは、相手の方が先だった。
「かえる、お前かえるなのか」
「んー?」
出てきたのは、年柄年中元気で、冬だと更にそれが二割ほど増す塩梅になる氷精だった。
「あんたがかえるだってんなら、大人しくあたいに氷漬けにされてもらうよ!」
「氷精。そうかなるほど、あんたが噂のあいつか、なるほどなるほど。そういうのもあるってことか」
「何わけわかんないこと言ってるの!」
「あーうー、いい、いい。ちょっと考え事してるから後にして」
「な、何よ何よ! みんなしてあたいのこと、……そうか、あんたもか。はぁ」
もし氷精が激昂して向かってこようものならば、それこそ本気の対応を以て追い払おうかと諏訪子は思っていた。しかしそれとは裏腹に、氷精の調子は何だかおかしい。
少し気になった。こういうのはお人好しと言うのだろうか、神様でもそれは当てはまるのか?
「何、どうしたの。氷漬けにしたいってんなら、やってごらんよ。勝っても負けても恨みっこなしだ」
「ううん、いい。調子出ないし」
「調子が出ないんなら、最初から絡まなきゃいい」
「う」
やはりおかしいな、と諏訪子は思う。眼の前にいる氷精と話こそするのは初めてであった。しかしながらその噂はこの場所にやってきてからというものの、短い時間であれ、度々は耳にするものであったからだった。耳にする、の正確なところは、その辺りに居る妖精をとっ捕まえて、諏訪子が居る世界の事情を聞きだした際に得たものである。この辺りで目立った奴は誰だい、という質問とともに。割かし好意的に情報を提供された理由が、自分の外見の可愛らしさに起因していることを諏訪子自身は気付かない。
ともあれ、眼の前に居る氷精。
つめたい印象を抱かせる青い服に、大きなリボン。
向こう見ずの無鉄砲、最強を謳って憚らない、一言で表すと馬鹿。
概ねそのような評価で、存在は通っているらしい。
それを聞いていた諏訪子からすれば、やはりどこかおかしいと思わざるを得ないのだった。馬鹿には違いなかろう、とは少々考えたが。
向こう見ずの無鉄砲とは、後先を考えない存在であること。
まさにこれ、今こそこの場、我がやらねば誰がやると。そんな場面でもないというのに、いつもいつも無鉄砲をやらかすのは割かし愚かなことで、先を読む機微に疎く、鈍い者がすることである。
だから諏訪子にとって、「一言で表すと」のあとの言葉については、それと繋がらないものであると感じられていたものの、とりもあえず、聞き及んでいた風評と重ならない。
「何かあったのかい」
自分の気になったことを、この時点で素直に問いという形で表したのは、まさに諏訪子の気まぐれである。
「あんたも、って言ったね。私以外にも何かあったって言うの。みんなに愛想つかされて、無視でも喰らってるてか。助言というものでもないけど、そんなのは自分から願い下げ位の豪胆さを持つか、それが無理なら自分を省みるかのどっちかしかない」
「むずかしい言葉、使わないでよ。わかんない」
「ああ、ええとあれか。じゃあ言葉を学べってのはおいおい。そうだね、我侭。わがまま。これはわかるね? 我侭を通したいなら自分の力を、相手を負かす位の力をつける。それはちょっと無理だってので、少しばかりでも周りに合わせようと思うなら、その為の努力をしろって言ってるのよ」
かつてその力づくを通されて、己の住む場所を乗っ取られる事態を経験している諏訪子にとっては、自分で言っていて少々耳が痛くなるところもあった。
「わがまま、それ知ってる。自己中ってことでしょ」
「氷精も略語を使う世か」
「氷精」
「ん?」
「合ってるよ。あたいは氷精だもの。でもそれはあたいで、あたいのことじゃないかもしれない。それはなんか腹立つの。あたいチルノ。あんたの眼の前に居る、あたいはチルノって言うのよ。これも聞いたことある、あたいが名乗ったなら、あんたも名乗らなきゃって。そういうのが、『よのなかのれいぎ』って言うのよ。ほら、あんたは誰」
「はっ」
思わず笑ってしまったのは、やはり自分の考えは合っていたのかもしれないと、諏訪子は考えたからだった。きっと眼の前に居る存在は、自分が神であると知ったとて、その態度を崩すことはないだろう。
ただ。馬鹿であることと、愚かで鈍いことは、必ずしも一致しない。
「とんだ無礼だった、チルノさん。や、ここは馴れ馴れしくチルノと呼んだ方がいい?」
「さんづけきらい。チルノでいい」
「ありがと。じゃあチルノ、失礼したね。私は諏訪子、洩矢諏訪子。すわちゃんでもケロちゃんでもなんとでも呼んで」
「すわこね」
「完全に合ってるわ」
「すわこは、なんだってこんなとこに居るの」
「此処に居る理由?」
ふむ、答えは直ぐに出ると思いながらも、それでは芸がないと諏訪子は思う。
「雨」
「あめ?」
「そう、雨。こんなに雪が降ってるじゃない、だって冬だものね。けれど冬もたまには、雨が降ればいい。誰も喜ばないかもしれないけど。うんとつめたくて、それでいて静かに、そんな雨が降ればいい。それを期待して私は此処に居るのよ」
「すわこは冬に雨が降るのがいいの」
「や、正直つめたすぎるのは、あんまり」
「誰もよろこばないことを期待するのって、どうなのさ」
「どうかなあ。どうだろうねえ。けど、なんかしらの意味はあるものさ。どんなことにも」
さあ、次は何を話そうかと。その後のやりとりを諏訪子は想像する。
L/R 2
暖炉に囲まれる温もりは確かなものでありながら、その実まやかしに近い。
そんなことを彼女は思う。
雪はちっともやむ様子を見せず、その勢いを増している様相だった。
部屋の窓はがたがたと揺れていて、いよいよ風まで合わさり始めたことを、館に住まう者々に知らしめている。
「こんな暖かいところに居て平気なわけ」
館の当主はのたまう。
もうこれ以上は無いだろう、と言う程に己へ仕えてくれるメイドに淹れさせた紅茶は、温かいものとつめたいものが一個ずつ。どっちにしろ美味しいことには違いないだろうとは思えども、季節柄温かいほうが良いだろうにとまでは、口にしない。
「平気、か。平気とそうでないのが、半々くらいというところ」
「自分から訪ねて来た割には自信無さげじゃないの、冬の王」
思わぬ言葉を浴びせられ、つめたい紅茶を口にしていた彼女は眼をまるくした。
「王なんて。私はそんなんじゃない。私は冬に生きるだけ、それでいいの。それを言うなら、貴女こそ女の身でありながら、王。夜の王でしょう」
まさに館の主が、王、というものを語り始めるならば。それは己を省みなくても良い存在だった。王の姿は、周りに居る者達が捉え、眼前にある存在を王と呼んでこそ成り立つものである、と。
「そう、それは間違いの無いことよ。私が言うからには絶対なの、私は私の思う評価を覆すことをしない。貴女は冬の王なのよ。礼節は尽くさなければ」
「そう言う割に、言ってる言葉は割と軽い感じなのよね」
「そりゃあ、私の性質」
暖炉の火は赤々と燃えていた。身に保っている筈の熱は、他から与えられる温もりが無ければ簡単に失われてしまうものであることを、夜の王は知っている。消えてしまう時には儚い、そんなことも知っている。
「冬でない間、貴女はどうしてるの」
「涼しいとこで寝てるわ」
「起きていようとは思わない、か」
「ええ、そうね」
「それでこそ」
「なにが?」
ここで広がる他愛ないやりとりを色にしたら、何色になるのか。雪は白、己は血のような紅、それらが合わさって、淡い桜色か。その色はどちらに似合うかというと、結局どちらでもなく。
そんなことを思いながらも夜の王は、館を訪れた客人に対して穏やかならぬつめたさを感じていた。やはり彼女は、春からは遠いものであると。
「限られている、ということが前提としてある」
「どういうことかしら」
「王とは、限られた場所にある象徴のようなもの。ある集団で、または国で。そう呼ばれるに値するものが成る。私は夜に生き、いつしか夜の王と呼ばれるようになった。そんな私が貴女を、冬にのみ生きる貴女を、王と呼ぶのよ」
「貴女は自信に満ち溢れているのね」
「意識せずとも」
「なるほど」
室内の温度が、僅かに下がる。
暖炉にくべてあった炭が、ぱちん、と一際大きな音をたてながら爆ぜた。
「ならば、夜の王。貴女に聞いておきたいことがあるのだけど」
「なにかしら、冬の王」
「此処に遊びに来た氷精が居なかったかしら。冬の最中だというのに、湖の上でも見かけない」
「氷精」
「そう。適当に捕まえた妖精の話からすれば、氷精はこの紅の館に向かったきり、それ以降姿を見ていないと。それもごくごく近く、今日という日の夕暮れ時のこと」
雪のような白だと、問われた彼女は思った。その語に幾ら気を込めたとて、それは熱と呼ぶには程遠い。己とのどんなやりとりを以て尚、流れる空気はあたたかな桜色になるということはなし。
暖炉に囲まれた温もりなど、やはり所詮はまやかしである。容赦ない雪のつめたさが眼の前にあったとしたら、直ぐに消し飛んでしまう。
さて、どう返そうかと。次に言うべき己の言葉を、夜の王は考える。
-沢水こおりつめる
冬の水はつめたい。
多分、誰でもしっていること。
「ねえチルノ」
「んー?」
二人で座る分として、切り株ひとつでは足りなかった。腰掛に丁度良さげな樹を、別段苦にすることもなく諏訪子は打ち倒した。
それを目の当たりにした後。この位ならくしょーよね、などとのたまうチルノの言葉を、諏訪子はけらけら笑いながら聞いていた。
「ここはどう?」
「へ?」
「ああ、ええとね。この場所。幻想郷と呼ばれるこの場所は、貴女によって住み良い場所?」
問われた氷精は、うーん、とひとしきり悩んだ。
が、そんな時間も一瞬のこと。
「すみよい、って、すんでて気分いい、ってことであってるの」
「大まかには」
「それなら、うん。大体合ってる。強いやつが居て、あたいも勿論強いけど、なんてかさいきょーだけど」
ふふん、と鼻を高々とさせる氷精の様子を見て諏訪子はまた笑いを零しそうになる。
「うん、続けて」
「えっとね、なんだろ。強いやつがいても、あんまり関係ない」
「関係ない?」
「そ。こいつ倒したいって思ったら、ばしっと言い切ってたたかうの」
「闘う。闘って、どうする」
「たたかったら、どっちか勝って、どっちか負ける」
「そりゃ、強い奴が勝つんじゃないの」
「そうだよ。うん……あたいは、最近勝ってない。調子わるいの。最強って信じてても、だめなんだ」
自信ありげに話をしていたと思いきや、その言葉を口にした途端、急に氷精はしょんぼりとした様子を見せた。
「調子が悪ければ、負けることもあるじゃない。強くても」
「ううん。なんかもう、相手にされてない感じ」
ふむ、と零しながら、諏訪子は考える。
自分を強いと思うことに、特に悪いことなどない、が。それは結局の処自分勝手な都合であって、相手がそれに合わせてくれるとは限らない。勝負を挑めば出鼻を挫かれることだってある。
何処か妙だ、と諏訪子は考えた。
その考えが纏まる前に、チルノは口を開く。
「でもね、あたいもっとつよくなるんだ。つよくなって、つよいやつらをぶっ飛ばすの! あたいもっとつよくなれるって、言われてるんだから」
そう言い切る氷精の瞳は、やる気に燃えている。
確かにその根性は一級品なのだろうと、諏訪子は評価した。
「そりゃあ有望株だねえ」
「ゆうぼうかぶ?」
「あんたならやれるって、思ってるのが居るってこと」
「そっか……うん、そうだよ!」
その様子を見ながら、本当に、くるくると心の機微が変わる輩であるなと諏訪子は思う。
ただ不思議と、嫌な感じはしない。心変わりなどほとほと見飽きた上、もはや上っ面なものになるくらいなら、心など信じるものでもないと考える程であったにも関わらず。
「それでチルノは、強い奴に挑むんだね」
「うん、あたいほんとに、最強にならなきゃ」
「どうして? 強くなれるって、期待されてるから?」
「えーと」
矢継ぎ早の会話に慣れないチルノは、また一端頭を捻る。
「それもうれしいけど、やっぱ、そういうんじゃないかも。あたい、倒さなきゃいけないやつがいるの」
「何回くらい、勝負してるの?」
「うーん、うーん」
指折り数えて、それが十を越さないあたりから「わかんない」とチルノは答える。
ほう。感心した様子で諏訪子は返しながら、何処か妙だと感じられていた考えについて纏まりが出来始める。
「しかし、なんだってまた。そいつに余程の恨みでもあるのかい」
「こじんてきな恨みはない」
「ふむ?」
チルノは拳を強く握って、言う。
「時間をとめることが、できるっていうから」
さらさらと、水の流れる音が聴こえる。
近くに小川でも流れているのだろうか、と諏訪子は思う。
時間を止める? それは、己が聴く川の流れすら、止めてしまうもの?
冬の水はつめたい。
多分、誰でもしっていること。
流れの止まった冬の川に身を投じたら、どうなるのだろうか。
諏訪子はぼんやりと、考える。
-L/R 3
そして彼女は、嘘をつくことにした。
嘘、を言うのは、正直にものを言うことよりも難しいらしい。
なぜならそれは、真実を隠すための理由を必要とするため。
「言っていることが、よくわからないのだけど」
「言ってわからない方だとは思わないのだけど」
部屋の温度は、既に壁の外側となんら変わりはなかった。窓がかたかたと音をたて、ぴしりと亀裂を走らせる。
「冬は普通だけど、寒いのはあまりすきではないのよね」
「あら、私は大好きよ」
そりゃあ貴女はそうでしょうと。その言については館の主は返さない。
館の部屋の一室で、小さな異変が起きている。従者が部屋へやってこないのは、決してその変化の小ささが理由ではなかった。
ぱきん、と。ティーカップは最早割れてしまい、上等なテーブルクロスに紅茶の染みが広がっていく。館の主が好んで口にする、紅い紅い液体。
「貴女が何故今、怒っているように見えるのかがわからないわ」
「それをわからないと言う理由が、やっぱりよくわからないわ」
つめたさを発し続ける彼女の表情は、やはり何処までもつめたい。
その表情だけを見て何かを察しろと言う方が無理ではなかろうかと、館の主は考える。
「じゃあ、質問するわ。さっき話した氷精は、此処に来たのは確か?」
「ええ、来たわね」
「夜の王。あの娘は特にこの館へ、害為すものではない筈。こちらに引き渡して貰いたいのだけど」
「冬の王。貴女はあの氷精を、随分大事に想っているのということかしら?」
夜の王は、不敵な笑みを浮かべる。冬の王と呼ばれた彼女は、依然その表情を崩さない。
「別に、ただの知り合い。要求を質問で返されるのも何だか癪ね」
「ただ。ただの、と言うのね。ならば其処まで必死になる理由はない」
「関係ないわ。ただ、失礼なようだけど、此処は随分悪名高いようね?」
「悪魔が棲んでいるとか」
「ええ、そうそう」
「悪魔が棲む場所に、知り合いは置いておけぬということ。そう、なるほど」
最初からその位話が早ければ良い、と。冷徹な彼女がその言葉を発することが出来なかったのは。
ばさり。
悪魔が、悪魔の羽を広げる様。それを一瞬、うつくしいと思ってしまったから。
「知り合いがねえ。貴女はその知り合いの為に此処へやってきた。それを私は知っていたわよ? 此処に辿りつくことを」
「そう、貴女がそういう風に操っていたということなの?」
「どうかしら?」
わざとらしく、悪魔の羽を揺らしながら彼女は言う。
「ああ、いいわ。ただ、貴女が此処へ辿りつく際に、門番が居たわね? 貴女はそれを打ち倒し、この館へ足を踏み入れた」
「ええ、あの方には少々悪いことをしたかしら」
「悪い、悪いこと、か」
ふむ、と。この場に来て、館の主は考える。
「門番は、外敵を防ぐのが役目だから。それを押し通されるのは、あの娘の責。館にとっては悪いこと、そう言うなら当たっているかもしれないわ。けれど」
「けれど?」
「門番は、この館、この城を守る私の家臣。覚えておくといいわ、王はいつでも、身内を大事に想っているものよ。私は見ていたの、貴女が如何にして、あの娘を打ち倒したのかを。ただ、ただの家臣。ただの身内よ、ふ、ふふ、笑ってしまう」
その眼が、不気味に光る。
「あの娘を、ああやって討ち取った貴女をどうしてくれようかと、私は考えている」
地揺れ。
しかしそれは、彼女達が居る部屋から発されたものではない。
「あらあら。妹が遊んでいるようね」
「何ですって?」
「貴女の前に来たお客人はね、私がそのまま通させたわ。丁度遊び相手が欲しかったの、妹の。ああ、心配しないで? 今となってはあの娘の情緒不安定も少しは落ち着いてきたし、まあ。物を壊すのが得意なくらいか」
極めて冷静な様子で、館の主は語る。
どぉん、どぉん。
館の揺れは収まらず、今度こそ部屋の窓は割れる。
吹雪の様相を見せようかと思われていた景色は、意外なほど落ち着いていた。
建物の軋む以外の音は、何もしない。
部屋の灯りは途切れ、暖炉の火などとうに無い。
窓の外側、その上空には。雪を落とす雲の切れ間に、少しだけ欠けた月が、煌々と輝きを見せていた。深い深い空の色が、それを一層際立たせている。
ぎゅっ、と音が鳴り、つめたさを保ち続ける彼女は思わず両の耳を手で塞ぐ。
その瞬間、彼女達の居た部屋は、途方も無い広さへと広がっていた。
「うちのメイドは優秀なのよ。空間を弄るのが得意」
「そう。無理は押し通さないといけないか」
彼女たちは、嘘をつくことにした。
こんなにも冬の月が、白く静かに輝いているから。
「つめたい夜になりそうね」
「いいえ、熱い夜になるわ」
-蛙、はじめて鳴くには遠く
「時間を止める奴が居るってのには、確かに驚いた」
諏訪子は本心からそれを言う。
時の流れとは昔から絶対のものであり、それこそ不可侵。自ら携わろうとして簡単に為せるものではなかったから。
「よしんば、止めるとはいえ」
時という名前のついた流れとは、各々が考えるよりもずっと大きなものである。術として、一日のある幕間を止めるような類がないとも言えないが、それも完全ではない。己が両手で、流れ落ちる滝を堰き止めることが出来ないように。時もまた、いかな術を施したとして、少しずつ流れ往くもの。そうして、歴史は刻まれてきたのだから。
「あたい嘘ついてない!」
訝しげな様子を見て我慢がならなかったのか、チルノが叫ぶ。
慌てて諏訪子は、それをなだめにかかった。
「いやいや、チルノ。単純にあれね、凄いと思ったわけよ。時間を止めるなんて、そうそうできないじゃない」
「……うん。あたいも無理」
「私も無理だね」
「けどあいつは出来るんだ」
「誰から聞いたの? それとも、そいつが時間止めるとこ見たの?」
「見たかどうかはわかんない。そういう話を聞いたのは巫女から。『てじなしみたいよね』って」
ほお。今度は驚きではなく諏訪子は感心の声を上げた。此処には、何がしかの神を奉る巫女が存在するのかと。
「巫女、ね。ねえチルノ。この場所で、特別に奉られてる神様とか、そういうのっている?」
「よくわかんない」
この答えは想定通りだったので、特に落胆することもなかった。
「でも、あいつも強いよ。あたいこてんぱんにのされた。いつかやっつけないと」
「そうか、巫女が強いのか。そりゃここの神様も安心だ」
「巫女が強いと安心なの」
「んん? や、本当は力具合は関係ないのかもしれないけど。まあほら、弱いよりは強い方が色々都合つくじゃない」
「おお、確かに」
諏訪子は何となくぼやかして返した訳だが、チルノはそれである種の納得がいったようだったので、それで良しとした。
そして、今ひとつ自分なりの解釈を織り交ぜながらも、己が心の裡に対する納得を得られていない諏訪子である。
「時間を止められる奴が居るってのはわかった。けどそれが、チルノが勝負を挑む理由になるのは何故」
「わかんないんの。すわこは鈍いね」
「否定はしないよ」
そもそもヒントが少なすぎる、とは返さない。決して眼前に居る存在を軽んじ、己が立場を上にしているような考えを持っていた訳ではなかったけれど。なんとなくいちいち抗議するのも、口さがを立てるようで野暮ったいと思う諏訪子だ。
「時間が止められるんならさ。いつまでも冬のまんまだよ!」
「ああ、そういう?」
「そういう。そうすれば、レティは冬が終わって寝なくてもいいんだ」
レティ。新しい名前が出てきて、また考えを巡らせる必要があった。チルノの言葉に対して諏訪子が都度反応を示すのは、己が今居る場所に興味が沸いてきているため。
冬が終わって。終わったら、眠る。また冬が来たならば、きっと目覚める。冬に縁のある類のことをチルノは言っているという処まで、諏訪子が想像するには容易すぎた。
「あたいだって、冬が一番いいよ。つめたくて気持ちいいもん」
「それで時間を止めてもらって、いつまでも冬のまんまにしてもらおうと」
「そう! でも、やっぱり強いんだ。あいつ、武器とか使うからずるい」
「武器?」
「うん。気付いたら、ナイフが眼の前にある。よくわかんないけど、多分あれって時間とか止めてるのよ」
「んん」
人差し指をこめかみの辺りにやって、諏訪子はちょっと唸る。
「刺さるでしょ」
「ささる。けどあたい、超パワーで復活する」
妖精の類だから耐久力があるのか、と諏訪子は一瞬だけ思う。
「すごいじゃない。刃物で刺されてむっくり起き上がったら、相手もびっくりするでしょうに」
「……あんまりやられすぎると、気合入れなおすのに時間かかる。起き上がった頃にはもうあいつどっか行ってる。それにね、ちょっとずるいんだ」
「何が?」
先刻からずるいことばっかりだねぇなんて、やはり諏訪子は言わない。
「あたいの弾があたることだってあるよ。それでぶっとばせることだってあるんだもん。あいつらするするよけるけど、あたい痛恨の一撃!」
「その表現だとチルノがやられてるみたいに聴こえるなあ、まあいいか。とりもあえず、ぶっとばしたならチルノの勝ちでしょ」
「ううん。あいつら、すぐ起き上がってくる。起き上がった後のあいつらってば、もうあたいの弾ぜんぜんあたらない。それで気付いたら、あたいがやられちゃってる。あたい一勝くらいで、あいつら三回くらい勝つ」
あいつ『ら』。諏訪子は、チルノが現在語り始めている対象が、もう既に「時間を止める奴」に限られていないことを視野に入れることにした。
「チルノが目覚めた頃には、もう相手は居ない」
「うん」
「あいつらって何? 強い妖怪か何かなの」
「ううん? あいつら人間だよ」
やられてから起き出す、恐らく気合か何か、少なくともそういった命とは別の何かを持ち出して、勝負を続行させることが出来る。
あいつ『ら』とは、人間のことだとチルノは言う。多分、先達ての巫女というのも、それに含まれる。神を奉るのは人間の役割だから。それにしても、人間が、人間でない類と闘って、かつやられて、立ち上がり向かうことがあるのか。近頃はあまり聞かなくなったものの、人を喰う類など枚挙に暇がない程であると言うのに、それを以て尚。
諏訪子はいよいよ、己の考えに対する解答を見出し始める。
「よし、じゃあチルノ」
「うん?」
「遊びに行こう。その時間を止める奴ってのは、何処にいるの」
「こうまかん、とか言うとこだけど。遊びにいくって何さ」
「言葉通りだよ。時間を止める奴が、其処に居る。チルノは冬の時間を止めたい」
冬なんかさっさと終わって欲しいけど、と、諏訪子はやはり口に出さない。
「うん。レティはね、あたいが居ないとだめなんだー。『せけんしらず』ってやつ。冬じゃないと寝てるんだもん」
そっか、と。諏訪子はからから笑いながら応える。
「復讐だよ、復讐」
「ふくしゅう?」
「うん。チルノ、貴女は最強なんでしょ」
「さいきょーだよ!」
「最強を謳うならね、勝たないと。勝って自分の要求を突きつけて、実行させる。そういう目標が、あるんでしょ」
何事も目標があるのは良い事である。眼の前に居る氷精は、自らが敵わないと認識しているらしい、強い敵を主眼として置いている。そしてその気概を維持するには、その字面通り、本人の気持ちに芯が込められていなければならないのが、ひとつ。
そして更に、「倒さなきゃいけないやつ」の力の具合までは与り知れなかったものの、闘いを何度も繰り返し「続けるための外的な要因」が、ひとつ。
この世界には。力として弱い者が、強い者へ挑戦しても。命を奪われないルールが、厳然として在るのだろうか。
そんなことをぼんやりと思いながら、諏訪子は行動をとることにした。この世界に居るらしい「強いやつら」が、気になり始めていたから。
「さあ、善は急げだ」
真に善かどうかはとりあえず置いておくことにした。
「あ、待ってよ! そっちじゃない!」
先に飛びたった諏訪子を追い越し、チルノが案内を務める役目を負うことになる。
楽しみといえば楽しみ。そうだとも、そういう理由も含めてしまっていいのではないか。
少なくとも。諏訪子の思考の柔軟さ加減が何処からやってくるかは、彼女が神であるから、という理由ではないことは確かだった。
-L/R 4
「さあ、どうしましょうか」
悪魔の羽を大きく広げた彼女は言う。
「どうするったって、もうどうしようもないでしょうに。ああ、それとひとつ」
「何かしら?」
「冬の王、という言葉はやっぱり返上するわ。夜の王にそう言ってもらえるのは光栄だけど」
冬の王と呼ばれた彼女は笑みを浮かべる。それは、やはり熱を持たないもの。
「あら、どうして」
「王、というのは素敵な響きね。けどそれも曖昧。冬の王なんて呼ばれたら、それは私のことじゃないかもしれない」
「他に冬の王、と呼ばれる者が居たなら。それらを片端から打ち倒していけばいいじゃない」
受けて。そして捲くし立てる。
「限られた時間、私は冬のみに生きる。それって、私が存在できる時間が限られているということ。寿命よ、貴女言ってたでしょう。起きてる時間が少ないって言うのは、やっぱり寿命が短いことになるのかしら? まあいいわ、それはそれでいいもの。
ただ私はね、生憎自分の名を通すために、他をいちいち相手するのとか、そういうの面倒くさいのよ。貴女ならそれが出来るかもしれない、夜の王。気に入らない者を次々打ち倒すことを。それにしたって貴女、言わせて貰えば、自分以外の誰かにいきなり通り名みたいのを与えるのは傲慢。貴女は須らく王、それは私も認めるわ。それは飽くまで貴女のことであって、私には私の名前があるのよ。それを別名で覆う必要性を自分の中で感じない。貴女みたいなの、自己中っていうの。知ってたかしら?」
長々と語られた館の主はと言えば、それを以て尚、自らの余裕を崩す様相はなかった。
「折角私が与えた名を返されるとは、残念だわ。自己中ねえ。冬に生きる妖怪も略語を使う世か」
「冬に生きる、妖怪。それでもまだ、私のことを示していながら、私のことではないかもしれない。レティよ、私の名は、レティ・ホワイトロックというの。貴女はこの名を覚えておいて貰えるかしら」
「そうか、それは失礼をした、レティ・ホワイトロック。もうここまで話をした仲だしね、馴れ馴れしくレティと呼んでおく」
「ありがとう、さん付けで呼ばれるのは好まないし。構わないわ」
「礼を言われることの程かしら、レティ。それにしてもそうね、貴女が私の名を知らないとは思わないけど、名乗られたら名乗るのが世の中の礼儀というものらしいわ。レミリア、私はレミリア・スカーレット。この館、この城の主をしている。以後お見知りおきを、なんてことは生憎言わないわよ? 社交辞令はここでは野暮だものね」
「レミリア・スカーレット」
「レミィでいいわ」
レミリアは言う。その名の呼び方が、ごくごく親しいものからしか呼ばれないものであることを、レティは知る由もない。
「じゃあ、レミィ。私は、貴女に闘いを挑むわ。私が勝ったら、大人しく氷精を引き渡して貰うから」
レティは、身に纏う冷気を一層強くしながら言う。
「さっきも言ったけど、あの氷精がそんなに大事? いっちゃ悪いが、貴女が私に勝とうなんて、大分早いわよ。それこそ、私が夜の王、別な通り名として紅い悪魔、そう呼ばれてからの年月分くらいは。いくら貴女に力があるとはいえども」
大事、か。
その言葉を聞いてからも、やはりレティはそれほど氷精が大事か、という感情を抱いてはいないことを認識する。
「関係ないでしょう?」
「どういうこと?」
「そうねえ、確かに私には知り合いが少ない。春、夏、秋。みんなそれぞれに、其処に生きる者は居る。勿論冬だって居るけど、本当に少ないわ。冬こそ、みんな眠ってしまうの季節なのだから。あの子は冬が好きだわ、それは見ていてわかる」
手を胸に当てながら、レティは眼を閉じる。
「あの子はね、私にいちいち色々、教えてくれるの」
白銀の冬、それ以外の季節をレティは見ない。一年を通して、氷精は生きる。
ゆっくりと時間が流れて、ひとつの眠りが続いている間。
レティの眠りは、まどろんでいるようでありながら、ひたすらに深い。
陽の光が、全く当たらないような場所にいるから。途中目覚めたとしても、其処には闇しかない。
毎年毎年、春がやってくる間際、暗がりの中で深い眠りにつく。
眼ざめる時には、また次の冬。
冬があることは、彼女にとって普通だった。
レティの存在の意味は、冬にこそついてくるものだったから。
それは、レティの傍らにある。
眠っている間、世界には。
様々な変化があった。
様々な景色があった。
それらを氷精は見ていた。
そして氷精は、レティに教える。
「私が眠っている間に見たかもしれない夢を。それが私にとっての普通」
普通とは、特に何も考えなくたって、そうあることが続いていくこと。
レティは時間の流れを理解しているから、普通の冬が終わることに対して、抗いを見せるわけではない。
だからこそ。そんな普通なことが終わるときは、泰然にも似た穏やかなものであろうと信じている。終わりだって普通に違いない。そんな態度が普段、やる気がないなどと言われる所以でもあった。
冬が好きな氷精は、冬に生きるレティが思う、普通の存在。
糸が切れるように、ぷつりと終わるなんて普通じゃない。
だから、レティは取り戻したいと思った。
館の揺れが、一層激しくなる。
「目覚めながらに夢を見ることが出来るのね、貴女は」
ばさり、と、一際大きくレミリアは羽を震わせる。
「なるほど、なるほど。ならば存分に、貴女は私に勝負を挑むがいい。私も貴女に色々と教えたいことがあるから」
「何を教えてくれるのかしら」
「目覚めながらにして見る夢だって、良いものとは限らないかもしれない。白昼夢に似ているのかしら、貴女知ってる? やわらかいまやかしのように、其処にあるもの。貴重、とても得難い経験よね。今は貴女に、悪い夢を見せてあげましょう」
二人は示し合わせる訳でもなく、距離をとった。
紅い悪魔は、高らかに宣言する。
「魔符、全世界ナイトメア」
ざぁっ、という音を耳にしてから。
何を言い出すか、という言葉を、レティは返すことが出来なかった。
紅い楔は、まさに迫り来る。
その隙間。僅かに空いた空間を縫って、レティはレミリアの周りを旋回する。
「何、これ、は」
涼しげな声色ほど、レティに余裕はない。相手の姿を視認することも出来ず、移動を続ける。高速の楔、ゆっくりと迫る紅球。息を止める、どうして此処は、こんなにも焼けるように熱いのか。速度を落としたら危うい、眼の前の紅が己の身体を突き通ったならば一体、
ずっ。
紅き弾丸が、脇腹を掠める。
「どうしたの、どうしたの。これは悪い夢。それから目覚めるために貴女はどうするの」
レティの頭の中に声が響く。レミリアは、この悪夢の渦。その中央に居る。
場所は知れている、挑む相手は其処に。夜の王は、其処から動くことしない。
「楽しい、楽しいわね。ふふ、ふふ、そう、これはとても楽しいものなのよ、わかるかしら? さあさあ、貴女も」
レティが移動の速度を上げた刹那。紅の楔は急に回転の流れを止めた。
「な」
道だった。確かに、レミリアへ至る道はあった。しかしその道も元々にして細く、悪夢の渦に近付く程更に狭くなる。その上それを埋めるような紅球が迫り来る。
舐めてられているのか。わざわざ道を作り、誘うと?
試されているのか。この場になって、前へ踏み出すことが出来るかと?
「どうもこうも……!」
やってやる。
まさにこれ、今こそこの場、我がやらねば誰がやるのか!
じりじりと、纏う服は焦がされる。何時の間にか歯を食いしばっていたことに、レティは気付かない。
必死。死ぬのだろうか。レミリアは楽しい、と言った。私はどうなのだ、そうレティは考える。
ごうごうと耳鳴りが響く。熱い。この紅は焼けるように熱い。レティにとって縁遠いその色。ふたりの距離は近付いていく。
「……」
己を全く省みず、しかし考えることはやめない。
白に対為す色とは、果たして紅だったか?
己を貫かんとする紅は、確かな軌跡を以て向かってくる。
どう来る。次は。次に入り込める隙間は。角度は。
まるで時が止まっているかのよう。
けれど自身の身体を、恐ろしい速度で通り過ぎる紅が、そうではないとレティに教えている。
こんなものは、本当に悪い夢だった。
目覚めるために、ひたすら近付く。
そして。
今、眼前の王を見やる。
「そう、私は、寒気を操る妖怪」
レティは薄く笑う。
「さあ、どうする」
悪夢を撒き散らす悪魔は、不敵に笑う。
「こおりつきなさい」
ざくん。
右の手に纏った、氷の槍。それはそれは細く鋭く、つめたい槍を。
渦中、悪魔の胸に、深々と突き刺す。
-神遊び
「あー、此処? なんかものものしいね、こんな場所は」
「あああたい、こわくないよ」
チルノの肩が、僅かに震えている。氷精の類でも寒気を感じるのかと諏訪子は思う。
「別に肝試しってんでもないからね、気楽にいこうじゃないの」
高々と、二人の前には門がそびえ立つ。
その前には、紅く長い髪をした、印象的な姿が見える。
門の前に降り立ったあと。声を発したのは、その姿が先だった。
「ふたり……ああ、貴女達なの。そう」
「んー?」
門の前にわざわざ立っているのだから、門番の類であることはまず間違いなかろうけれど。それにしても、この門の向こうにある大仰な館を守るにしては、随分と普通の話しかけられ方をしたため、諏訪子は少し拍子抜けする。
「貴女に自己紹介した覚えはないんだけどねえ。逢うのも勿論、初めてだよね?」
「まあ、そうですけど。その辺はお嬢様、ええと、この館の主様にお話を聞いておりましたので」
「や、そのお嬢様とやらにも逢ったことはないな」
軽い感じのやりとりが続く最中、チルノは言葉を発しない。
「あはは、いいんですよ。お嬢様は、色々と見通しが利くんです。や、見通しっていっていいのかなあれ? まあ私だって貴女が誰かはわかりませんが、今日と言う日は、この館にお客人がやってくることになっていた」
「んん、やっぱりよくわかんないな」
予知の類か、何か。頭を働かせたところで得体は知れなかったものの。とりもあえず、門番が居たなら闘うことも避けられまいと考えていた諏訪子にとって、今の状況はそれほどまずいものでもなかった。
「では、こちらに」
館へと通される間の諏訪子は、この場所についてまた不思議な印象を抱いていた。
禍々しいというか、一言でいうと悪い気というか、そういうものがちらりちらりと姿を見せて、消えていくような。ただそれらも、自分たちを排除するために顕れている感じがしない。
さくりさくりと雪を踏みしめながら。門から暫く歩いて、これまた大きな扉に辿りつくまで、あと少し。
「あっ」
チルノが声を出した。
「ん?」
「咲夜さん」
「美鈴、ここまででいいわよ。もう貴女は門へ戻りなさい。あとは引き継ぐから」
「はい」
一礼を残し、門番は元居た場所へと走っていく。
「いやちょっと待って貴女、何時の間に此処にいたの?」
全然気配が無かったんだけど、と。言いかけてみたものの、そうかなるほど、と妙な得心が得られたのもほぼ同時だった。
「そうか、貴女ね。時間が止められるっていうのは。すごいじゃない、どうやってるの」
落ち着いた佇まいをする、メイド服に身を包んだ彼女は、ふ、と一瞬だけ息を漏らしてから言った。
「あら、まあ。手品はタネが見えないから素敵に驚けるものなのに。これでは張り合いがありませんわ」
タネのないことが、彼女の操る手品のタネだった。
「まあそう固いこと言わずにさ。ところで時間を止めて、動けるのはあなただけ?」
メイドの眼つきが、すっと細くなる。
「試してみたことは、ありませんわね。それをしようとも思いませんし」
「うん、気を悪くしたなら謝る。ちょっと気になったもんで。うーん、それにしてもチルノ。この塩梅だと貴女が言うみたいに、彼女に頼んでも、冬のまんまにしておくってのは難しいかなあ」
「へ……そうなの?」
その辺りについて、実の所諏訪子自身、半ば気付いていることではあった。眼の前に居る彼女が言う「時間を止める」ことは、極めて個人的な能力。勿論かなり異質なものであるし、無論目の当たりにするのも初めて。
だが、ひとつの冬、季節を止めるとなると、それとはまた違った力が必要になるだろう。天道の渡りにけちをつけて、かつ己の好きなように捻じ曲げてしまうような。
それは咲夜の持つ能力と、意味自体も違った。
ほんの少しの雨を降らせるだけでも、結構な苦労を伴う。まして季節を留めるとなれば、余程の物好きか、あるいは何かの呪いに囚われたような、そんな意志を持った者しかするまい。
「ま、眼の付け所は悪くなかったね」
「そっかぁ」
言葉少なだったチルノは、いよいよ以てしょんぼりした様子を見せる。
「あーうー、がっかりしないでよ」
チルノの望みはきっと叶えられないのだろう、という予想を持っていた諏訪子は、何だか悪いことをしてしまったように思った。
「あら、チルノ。そんなこと考えたのね……最近やけに絡まれると思ったら」
「ん、しょうがない。けどそれとそれとは話が別!」
「それ? どれとどれ?」
「あたい、いつかあんたをぶっ飛ばしてやるからね」
「はいはい、何時でも来なさいな。私がお買い物の帰りっぽいときは見逃してほしいわね、挑むなら行きのときにでも。荷物は少ない方がいいから」
「それだといつでもになんないじゃない!」
お、正しいことを言ってる。諏訪子は笑い、メイドのそれにはちょっと苦味が混ざる。「はあ。まあほんとに此処までくるとはね」
「ああ、私がけしかけた感じ、かな。うん。えっと、私は諏訪子っていうんだけれど」
「そうですか、失礼しました。十六夜咲夜です。この館のメイドですわ」
「んん? こっちの生まれ?」
「こっち? こっち……ああ。この名前を持ったのが私の生まれだというなら、『こっち』ではないのでしょうね」
この時点で、諏訪子と咲夜の会話の意味は若干の食い違いを見せていたが、ふたりとも特に気にしなかった。
「ふーん。諏訪子って字はね、こっちの土地に諏訪ってのがあるの、あれそのまんま。あとは子供の子」
「すわ。ああ、はい。諏訪子さん」
「諏訪子でいいよ。あ、さっきの門番に名前言うの忘れた」
「まあ、それは失礼致しました。お客様ですもの、名乗りを挙げないのは無礼でしたわ。あとできっちり言っておきましょう、全く舞い上がっちゃってあの娘は……こほん。ええと、私の字は、月の満ち欠け、十六夜の。花の咲く夜で、咲夜ですよ」
「へぇ、きれいなもんだねえ」
「恐縮ですわ」
紅魔館のメイド長、十六夜咲夜は、自身が十六夜咲夜たることに、誇りを持っている。
彼女が誰よりも瀟洒な振る舞いを見せ、かつそれを保ち続けられることには、彼女がその名を得るに至ったことが元となっているのかもしれなかった。
「とりもあえず、此処も寒いですし。中へ入りましょう。お嬢様がお待ちです」
「お嬢様か。さっきの門番も言ってたね、これは歓迎されてると見ていいのかしら?」
「ええ、それはもう。貴女と、色々遊びたいと仰って」
また、張り詰める感じがする。
「いずれ来る時のために」
これなのだ、先ほどから感じている不吉な空気は。何かあまり宜しくない、という気を諏訪子は拭えない。
「さくや、あたいはお呼びでないってこと?」
一人置いてけぼりをくらったような感じを受けたのか、チルノはぷぅと頬を膨らませながら言った。
あ、という表情を咲夜は浮かべる。
「いいえ、チルノ。御免なさいね、無視をしていた訳じゃないわ。今回は貴女が必要」
「ん、それならよし」
「じゃあ、こちらへ」
館は、外観も紅ければ内装もそれを裏切らない様相だった。
「ほええ、でっかい屋敷だねえ。そうかこれが洋風ってやつか」
諏訪子は思わず息を漏らした。チルノは館に入るのが初めてだったため、紅の通りに配置されている調度品なんかにきょろきょろ眼をやりながら、落ち着きがない。
窓から射し込む陽が、壁の紅を更に強めていた。
太陽がその身を隠す間際、ほんの少しだけ見せる曖昧な光。もうじき、夜になる。
「丁度良い頃合でしたわ。お嬢様は、夜にしか活動されませんから」
「お天道さまが嫌いなの?」
「ええ、まあ。そうです」
一体どれほどの部屋があるのか、と思いながら。
「わぷ」
急に進みを止めた咲夜の背中に、諏訪子は顔をおっつけてしまった。
ざわり、と、空気が震える。
陽は落ちた。館の紅は、何処までも暗く、深く。其処に居る全てのものを飲み込んでしまうような色をしている。
「ねえ咲夜、お客様?」
「……ええ、そうですわ妹様。レミリアお嬢様のお客様です」
「あいつの? またひとりだけで遊ぼうっていうことかしら。そういえば、こそこそ話してたみたいよね」
「そのように乱暴な言葉をお遣いにならぬよう、妹様。きちんと『お姉様』とお呼び下さい。咲夜は何度も教えましたよ」
「あーもう。じゃあお姉様、お姉様ね。これでいいでしょ? でも私が仲間はずれにされてるってのは変わらないよね」
「お聞き分け下さい、妹様。レミリアお嬢様のお考えです」
「お姉様はいつもそうね、自分だけが楽しめればそれでいいのよ」
「妹様、そんな言い方は」
そのやりとりを見つめる最中、諏訪子は、胆に力を込めた。
不吉の渦が、この場にもうひとつ、やってくる。
「フラン」
「……お姉様」
「この方たちは、私の客人なのよ。貴女はまたいずれ、遊ぶ機会がある。今は私と、『遊んでもらう』けれど」
「いやよ。今がいい」
姉はその口を引いて結ぶ。妹は僅かに微笑んでいる。
遊び。彼女たちが言っている、この遊びの意味は。
やおら、にっこりと笑った幼い少女は、言い放つ。
「お姉様、クイズよ」
「何ですって?」
「今ここで、こわれちゃうの、だーれだ」
「フラン!」
ずぅ、と。其処に現れるは歪み。
瞬間、轟音とともに大きく風が舞い上がる。
「……ずるい! 特に咲夜がずるい!」
「あ、あれ? あれ?」
その場にいた者のひとりにとっては、何が起きたかよくわからなかった。廊下の一部が、滅茶苦茶になっている。
「フランとやら。正解は『誰もいない』だね」
地に足をつけてから、諏訪子は答えた。
「ちめた。持ってられないよチルノ、ほら降りて。立てる?」
「え? え?」
チルノだけが、状況を把握していない。
爆発が巻き起こる刹那、咲夜はまず、自らが仕える主に対して心がいった。無論主、紅の悪魔がこの爆発でどうにかなる筈もなかったのだが、従者としての反応はほぼ反射的なものだった。
結果今ある現状は、咲夜がレミリアを、諏訪子がチルノを抱え、爆発を避けた有り様である。
「……咲夜。おろして」
はたはたと羽根を揺らしながら、抗議するようにレミリアは言う。
「失礼いたしました、お嬢様」
なんとも格好のつかない塩梅になってるレミリアにとって、もっと気まずいことが起きた。
「なによ、なによう、う、うう、だって、だって、いつも私ばっかり」
悪魔の妹が、ぽろぽろと涙を零す。
どうしたものかしらね、この我侭っ子は、と。自分のことはとりあえず棚に上げておきながら、居住まいを正しつつ姉は思う。
館の主、紅の悪魔、レミリア・スカーレットは吸血鬼である。
吸血鬼は流れる水が嫌い。
どんよりとした空からつめたい雨が落ちてくるなんてもっての他で、最早外に出る気にもならない。
なので。今眼の前に居る悪魔の妹の顔がどんどん曇って、大粒の雨を降らせる様など、大概にして見たくなかった。その雨の理由がどんなものであれ、だ。
こうやって泣かれるなんて、冗談じゃない。ここまで視えないったら。
頭に手をやりながら、レミリアは諏訪子と視線があう。
「お願いできるかしら? この通り、手のかかる娘なんだけど」
軽い感じで言ったものの、一応の思慮はレミリアも持ち合わせている。少なくとも此処へやってくる者達は、力はある筈なのだ。其処までは、確信を持って言える。そう簡単に壊されたりはしないし、あるいは、もっと。
いかな運命を操る力を持っていたとて。それは曲げられ得るものであることをレミリアは知っている。だから、己の関わらぬ地点においては。その場に居る者達の意志と力こそ、全て。
「んー、そうだねえ、そういうのもいいかもね。私は構わない。チルノは?」
「え、ああ、うん、どんとこい!」
よくわかんないけど、と言葉尻に付け加えたものの、この切り替えの早さが氷精の強みでもある。
「はい決定。仕方ないわねフラン、存分に『遊び』なさい」
「ほんとっ!?」
ぱっ、と。紅の服を纏う少女は、明るい顔を見せる。
「お嬢様、それでは」
後を続けようとする従者の唇を、レミリアはそっと人差し指で抑えた。
「野暮なことはいいっこ無しよ、咲夜。それにしても私は、脚本には向いてないわね」
あと、何かを信じて期待するというのも柄じゃない、滅法当たるとは言え。
そう苦笑いする館の主に、従者は同じ様な表情を浮かべるのだった。
「ふふん、ふん」
フランドールは鼻歌を歌いながら、ご機嫌な様子でチルノと諏訪子の先を行く。
先ほどまで歩いていた、豪勢な感じの廊下とはうって変わって、今は暗くて陰気な石壁の道を歩き続けている。
風が吹いているとる感じでもないというのに、ぽつぽつと感覚を持って並べられた燭台の蝋燭がゆらゆらと揺れる様。
たましいのようだ、と諏訪子はちょっと思う。
「随分楽しそうだねえ。先刻まで泣いてたじゃないの」
「あは。タイミング良かったでしょ?」
「何あんた、うそなきだったのあれ?」
チルノがちょっと驚いた様子で言う。
「なかなかこちらのお嬢様は、やり手のようだ。まあ、あのお姉様がそれに気付いてなかったとは思わないけどね」
「そうかしら、どうかしら。どっちでもいいわ、おかげで私は貴女達と遊べるんだもの」
「人間と遊べると思ったんだけどなあ、ちょっと予定外だ」
石の廊下はまだ続いている。
「そういえばさ、チルノ」
「ん?」
「貴女が言ってたレティってのともさ。冬には冬の楽しさがあるんだろうし、限られた時間の中で遊ぶってのも、いいものじゃない」
「んー、今年はまだレティとあってないのよね。ぜつみょうなタイミングでずらしてる」
「あらま、そうなの」
「うん、びっくりせたかったからさ。冬がおわらなくなりましたって言ったらすごいよ」
「やあ、そりゃ私にとっちゃ少々つらい」
「あたいはいいの! 冬のあたいってばさいきょーよ。レティはね、レティはあんまりやる気ないか。レティってば眠っている間のことは全然しらないくせに、あたいが何いってもあんまり驚かない。だから今回はとびきりにしようと思ったの」
「ははぁ、仲いいんだねえ」
「なか? うん?」
言を受けたチルノが眼をぱちくりとさせたので、おや、と諏訪子思う。
「や、仲良しなんじゃないかと」
「うーん? よくわかんないわね。ケンカもするし、氷どかどかぶつけられる。いくらさいきょーのあたいでも、あれ超いたい。レティいつもやる気ないけど、やる時はやる」
「氷どかどかかあ、氷は痛いよねえ、そりゃひどい。じゃあやっぱり、仲悪い?」
「よくわかんないけど、そうでもない。ふつーかな、だってレティは冬になれば居るんだもん」
「ふぅん?」
「あたいは冬が好きだけど、レティ言ってたから。春がくるのはしょうがないんだって。毎年毎年春は変わらずくるのよって。だからあたいもそう思う。あとねあとね、あたいがレティに色々話すると、レティちょっと笑う。今回はそれにびっくりとか混ぜたかった。しげきが大事なんだって、大ちゃん言ってたしまちがいない」
また新しい存在が明らかに。
それにしてもチルノと話をするのは暇しない、一つの会話でころころと話題が移り変わる。氷精の類はみんなお喋りが好きなのだろうか。頬をぽりぽり掻きながら、結局諏訪子はチルノに言葉を返さなかった。
そういうの、仲がいいって言うんじゃないかしら。
諏訪子は己のことと、神社に住んでいるもう一人の神様との関係について思いを巡らせてみる。
彼女は諏訪子のことを友人と言う。軽口も叩くし、たまに喧嘩もする。
諏訪子にとっての彼女はどうか。
友達だろうか。
どっちかっていうと敵じゃあないの、神社まで乗っ取られちゃってまあ。
でも。
でも。
居心地は、いいかもしれない。
諏訪子は思う。
心、というものが、しょっちゅう曖昧な形になるのは、何故なのか。
曖昧なものをかたちにしてしまうと、ひょっとしたら消えてしまうかもしれない、そう思うからか。
消えてしまうなら、あるいはまだ良い。もしそれが、粉々に砕けてしまったら?
そうやって、曖昧だったものが、確かな鋭さを持った、破片になってしまったならば。
それがそもそもの、人と異なるものの性質なのか。
あるいは人もそうなのか。
まあ、この娘たちの場合は、ちょっと違うか。
「おまたせ」
連れてこられたのは、館の地下室。
石造りの部屋は、予想しているよりたよりも広い空間を持っている。
壁に空いていた四角い空白は、窓ではなかった。
鉄格子の向こう側に、真冬の月が白く輝いている。
「ここはフランの部屋?」
「ううん、今は違う。けど、ずっと此処に居たわ。さあ遊ぼう? 弾幕ごっこだよ。此処は私の遊び場だから」
「弾幕ごっこ?」
「あ、そっか。それもレティに教えなきゃ。最近超おおはやり。今回はあたいが勝つ!」
先のチルノとの会話から、これが例の「ルール」であると諏訪子は思い当たる。「ごっこ」と言うならば、種を越えた、これは遊び。恐らく己の考えるところの、神遊びに近い何か。
けど。
「もう、そっちの準備はいいかしら? 私もう、まちきれないよ」
この、ざらりと纏わりつくような、禍々しい気配。
これは本当に、「遊び」か?
「ねえフラン。この遊びに、取り決めはあるのかな」
「取り決め? ルール? ないない、何でもあり。弾幕ごっこだもん、こわれちゃったらまけー」
「ぶっ飛ばしたほうが勝ちでしょ? あたい負けないよ」
意気揚々と言い放つチルノを余所に、諏訪子は思考する。
「なんでもあり」というフランの言葉が、そもそもの「弾幕ごっこ」のあるべき姿とは若干のずれを見せていたことに、諏訪子は気付ける筈もなかったものの。
圧倒的に強いものが、それより力の劣るものの命までは奪わないための。「弾幕ごっこ」とは、そういう性質を持っている筈であると。
この時点で諏訪子は、かなり「弾幕ごっこ」の本質を捉え始めている。
「ルール」を取り決めるのは、闘う当事者の意思か?
それとも、厳然たる「世界」の意志か?
どちらかはわからなかった。けれど、何となく理解する。
フランの怪しく光る眼が、そう言っている。
彼女にとってはただのお遊び、それだけは間違いのないことであると。
びりびりと肌に突き刺してくる、痛みにも似た感覚。
遊んでいて壊れてしまったら、はいあなたの責任ね。
そりゃあ、当たり所が悪ければ、命尽きることもあろう。
そうか、そこまで織り込み済みの。
壊れたお人形は、ぽい。フランは、次の遊び相手を探す。
「ふ、ふふ、あっはっは!」
諏訪子は笑った。本当に楽しそうに、笑った。
鬼だろうが、蛇だろうが。誰が相手で出ようともやることは一緒。命がけで神遊びを楽しもうじゃないか、と。
「何よいきなり笑って」
「はは、や、なんでもないの。ねえチルノ、ちょっと先に、私がいってもいいかなあ?」
「ええー?」
「やあやあ、大将は後から出るもんだって決まってるでしょ。どんと構えて、待っててよ。私がやられちゃったら、後が居ないと困るじゃない」
「んん、たいしょー、あたいたいしょーか! しょうがないわね!」
大将の名を冠されたチルノは、鼻高々で胸を張りながら、言う。
「あ、でもすわこ」
「んー?」
「あたいわかるもん、負けると思ったらまず負けちゃうんだから」
けーけんほうふだからね、と、自慢になりそうでならないような事をチルノは言う。でもそれは何処か言い得て妙なものであるな、という納得もいった。
「ああ、そうかも。そんなものかもねえ」
「やるからには、ひっしょーの心意気だってレティ言ってた。すわこ、やれるよ! 後はあたいがいるんだから、安心していい!」
ははっ。
諏訪子はまた、笑った。
この言葉が確かな力になると、諏訪子は信じた。
しゃらん。
諏訪子が取り出したるは、洩矢が神具、御身鋭き鉄の輪である。
「武器とか使う? 咲夜と一緒ね、いいよなんでも! じゃあ私はこれね!」
ずぁ、と。全てを薙ぎ払わんばかりの紅い災厄が姿を見せる。
「なんとまあ、見るからに禍々しいものを」
しかし諏訪子は同時に、ほぅ、と嘆息を漏らした。
あの紅は、槍か剣か。
突き刺されても、切られても、身体など掻き消されてしまうだろう。
神とて実体を掻き消されたならば、どうなるか。
それに対して、まさに今出た答えはと言えば。
きっとそれは、死と等しくなる、一歩前なのだということ。
姿がないのだから。
もう何処にも、居なくなるのだから。
長い時を経て、残された者が。
いずれもう帰ってこないことに気付いてしまって、死んだことになる。
ああ、でも。
眼が離せないようなあの美しさは、何なのか。
不吉な予感がしていた。
鉄の輪を宙にて勢い良く繰りながら、いつだってそれを叩きつける用意は出来た。
ただ諏訪子がその昔経た、かつての闘い。
己が神具を朽ちさせられた、あの闘い。
かの敗戦にも似た悪寒が、諏訪子の背筋を走る。
この鉄の武器が、あの禍に通じるか。
しかし。
「よしいけすわこ、ぶっ飛ばせ!」
「任された!」
唸るは轟音、部屋の石壁はひび割れる。
何処までやれる。何処まで遊べる。
眼の前に対する高揚が、己が予感に勝っていた。
はっきりとその口で、発する。
「さあ。洩矢諏訪子、いざ参らん」
―――
-L/R 5
確かな一撃を以て、確かに貫いたのだ。
そう、レティは思った。
「心の臓を一撃に、ふふ、ふ」
紅の暴渦は、なりを潜めた。別な場所から響く轟音だけが、耳に届く。
「単純ね。単純で迷いのない一撃だったわ。殺意、本当に久しぶり、これが」
にやりと笑みの形を作ったその口が、顔の端まで割けたのかと、
「相手が私でなければ、貴女が勝っていた」
ばさぁ、という音と共に風が突き抜け、レティは両の腕で顔を覆った。
ざざ、ざ、ざ。
先ほどより聞いていた羽音より小さなそれの鳴る方向へ、レティは視線をやる。
ぎゅっ、という音と共に、また部屋の大きさが戻る。
部屋の中はもう荒れに荒れ、元の姿など思い出すのも難しい有様。
割れてしまった大きな窓の外には、煌々と輝く白い月。
小さな蝙蝠が集まって、夜の王がまたその形を成す。
「愚直故の美しさ、というのもあるかもしれないわね。けど、それでも、まだいまいち華に欠けるのよ、冬の王」
「もうその名前は返したわ」
「ああ、そうだったわね。これは失礼、レティ。貴女の気概に敬意を払ったの」
夜の王は微笑む。対するレティは、もう笑わない。ただ冷たく、月明かりの影となった姿を、鋭く見つめている。
レティは落ち着かなければならなかった。纏った着衣の焦げた匂いが鼻につく。
確かに貫いた。しかし今、眼の前の存在は余裕綽々とばかりに言葉をつらつらと紡ぐ。
どれほどの時が経ったのか、いまいち把握出来ない。
時が凝縮されたような。そんな感覚に、レティは高揚に似た何かを覚え始める。
「今のが駄目なら次の一撃をあげるわ、レミィ。それが駄目なら、また次の。やれると思うのよ、今の私なら。早くあの子を連れて帰って、ゆっくりお話でもするわ。ふふ、びっくりするでしょうね、こんなの」
「あら、まあ。その自信は何処から沸いて来るのやら」
「やるからには必勝の心意気よ。それを信じないで、どうやって相手を打ち倒すの」
「は、相手を以ていちいち闘うのは面倒と言っていた者の台詞とは思えない」
「熱い夜になるって、柄にもなく私は言ったわ。貴女がつめたい夜になるだなんて、先に言うものだから」
ひゅん。
風を切る音と共に、レティは一気に目標への距離を詰める。身に纏うは、氷の弾丸。
「痛いわよ?」
「当たればね」
レミリアがその姿をまた蝙蝠へと変えなかったのは、余裕からか、それとも相手をする胆を決めたからか。いずれにせよ、レティにとっては関係ない。
ぱきん、と。右手にはまた、氷の槍。
「そうねえ、悪くない。ただ、さっきも言ったけど」
部屋の中だというのに、最早吹雪。荒れる冷気の中、レティはまさに己の背後から、その声を聴く。
凡そレティが判断出来ない速さで、レミリアは氷の軌跡を回り込み、避けていた。
「これでは直線、所詮は塊。それでは、私を詰むには足りないし」
ぎらりと、レミリアの両眼が輝く。
「何より華に欠けるってば」
ドォ、という音よりも、レティが感じた衝撃が早い。
防御の間に合う筈のない背中のど真ん中に、これでもかという程の素手の一撃を喰らって、レティは溜まらず距離をとる。
激しいながらぐずぐずとした感じの、たちの悪い痛みが走る。身体は、裂けてなどいない。レミリアを見据えながら、息を整える。
「近付くのは危ないわよ? 私、かなり力が強いから」
「はぁっ、そんな見た目、で、随分怖い、わね」
「見た目で判断すると痛い目に合うのよ」
「ふふ。近付きながらの闘いは、華に欠ける? 貴女の突きとか」
「言うわねえ。どうかしら。爪を立てないでいただけ、まだ優雅といって欲しいところ」
鋭き、両が手の先端。月の灯りに照らされて、その影が怪しく動いている。
もし今、あれを突き立てられていたならば。
レティはほんの僅かに頭を振り、その末路を思考から消し去ろうとする。必勝の心意気に、そのビジョンは邪魔だった。
「怯えか。貴女はまだ、この遊びの本質をわかっていない」
「遊びですって?」
「貴女は堂々と、私に闘いを申し込んだ。それは正しい選択だったわ。それ故、決闘と成り得たのだから。存外に良いものなのよ、貴女が勝てば、私は貴女の望みを叶えよう。約束は守る性質なの、禍根など残さない。そう、これは遊び。そういうルールを持った」
レミリアが発する声とともに、白い息が漏れては消えていく。しかしその声は、本当に温かなものだったのか。
「貴女は貴女の意志を以て、最後まで闘う必要がある。其処の一体何処に、怯えを混ぜる余地がある」
言葉は、止まらない。
「力を出し過ぎないようになんて、私は気に食わないわ。闘えば、死ぬこともあるでしょう。運が悪ければね。けど、そんなのはもう、問題じゃないのよ。これはただのおせっかい。頼まれた訳でもない。眠っていた貴女は知らないでしょう、レティ。闘いそのものに意味があるなんて、馬鹿馬鹿しいと思ってたわ。でも巫女がねえ、そう言ってたの。だから」
レミリアは、かつて敗れた。全力を以て臨んだ闘いに、更なる力を以て打ち倒された。
「だから私も思い切り、楽しむことにした。レティ、貴女もそう思ってくれるかしら」
部屋の空気が震える。鳴り響く激しい音、巻き上がる紅の熱に、もうレティが怯むことはなかった。
「それがレミィの望み? 勝つ前からそう思えだなんて、ちょっとずるいんじゃない」
舞い上がる雪のつめたさが、紅とぶつかり合う。
「まあまあ。それにしても、そうか。まだレティの手番は続いているわね。この闘いの最中、貴女はどんな華を見せてくれるのかしら」
レティとしては、未だこの状況を遊びとして割り切るには至らない。寒さを繰る彼女の望みは、果たされていないから。
レティはレティの思う、「普通」を取り戻したい。
今の意志を。この身体、全力を以て顕す。
それはどこかおかしいな、と、今更ながらにレティは思った。
けれどそれも、一瞬のこと。
狭い一室は、つめたい鏃に埋め尽くされる。
「弾幕とするには、まだ慣れないか。もっと練り込みなさい。私は知ったわ、ただ意志と呼ばれるものを、昇華させなければならないのよ。そうでなければあの巫女には敵わない」
勿論、私にも。
放たれた言葉が契機、氷の鏃は動き出す。
その瞬間、館は唸り声をあげて震えた。
近付くことは、もう考えていなかった。それ以前に、攻撃を仕掛けている筈のレティは、先達てレミリアへ接近した時のような動きをする余裕がない。
鏃の数は、先に纏った氷の弾丸など比べ物にならない程に夥しい。
あまりにも、あまりにも全力。気をしっかりと持たなければ倒れてしまいそうな程の寒さなど、レティは繰ったことがない。
「これで終わり? これで貴女の華は散ってしまうの」
最初から、ずっと変わっていないのは。レティを纏う空気は、ずっとつめたいということだけ。
「冗談じゃないわ」
動きの自由は奪った、あとは。
あの幼き胸のど真ん中へ、狙い済ました白い槍を、幾本も、幾本も放つ。
レミリアは避ける。
まるでこちらの一閃を、読んでいるかのように。
レティはその様に、半ば見惚れていた。
思った。
ああ、こんな風に、ついさっき。
さっきとは、どれ程前の時をあらわすのか、最早わからなかったが。
己が、紅の渦を避けていたとき。
同じ様な感情を、彼女も果たして、抱いていたのか。
眼前に迫るは夜の王、紅の悪魔。
「楽しかったわ。貴女はどうだった、レティ・ホワイトロック」
華、か。
その紅の輪は、大輪の華のようであった。
なんて熱く、なんて美しい。
それを思い、眼に焼き付けた直ぐあとのこと。レティの中で、色々なものが消えていく。
消えたものは、音だった。
視界だった。
感覚だった。
部屋の壁が打ち破られて、外へと身を投げ出されていることを、レティは認識しない。
ああ。私は、駄目だったか。
くらくなってしまった世界に、僅かな光が射し込む。
月。月に舞う、白い雪。見慣れた筈の、普通の光景。こんなにも、こんなにも、
「……」
幻だ。
どうして頑張ってしまったかは、杳として知れなかったけれど。
音もないこの世界で、氷精の声を聞いた気がした。
レティは思う。
夢は多分、こんな感じなのだろう、と。
感覚を失ってもまだ、感情は動く。
ねえ。
わたし、夢を見たのよ。貴女が居たの。
これって、貴女が話してくれるお話と、似てるかしら。びっくりした?
ああ、また無鉄砲やらかしたでしょう。
わたしはあなたのおもりじゃあ、ないのよ。
ないてるの。
くやしいの。
だいじょうぶ、
あなたのこころは、おれない。
だからつよくなれるわ。
ねえ、
ゆきがきれいね、
-霙
「すわこ!」
「あー、大丈夫大丈夫。当たんなきゃ壊れない」
おかしい。
嫌な予感は、当たってしまった。
どぉん、どぉん。
石壁を滅茶苦茶にしながら、紅が暴れまわる。
その余波は、後ろの方で闘いを見守るチルノにも及んでいた。
「わ、わ」
それを、ぎりぎりの軌跡で避ける。己に向かっている訳ではない禍の一閃を避け続ける。チルノが語っていた経験豊富が、この場に来て役に立っていた。
その最中、諏訪子は相手に向かって、幾重にも鉄の輪を叩き付ける。
当たらなければ壊れない、そう諏訪子は言った。だからこそ、当たってもちょっと弾かれるだけで、けろりとした様子を見せる相手に、ほんの僅か、焦りに似た何かを覚え始める。
「何の反則かなあ、フラン」
「それだって痛いわすわこ。面白い武器ねそれ? まあ痛いけど、死ぬかもって程じゃないのよ。それだけ」
吸血鬼を打ち倒すに有効な武器とは、銀が練りこまれたもの。例えば、館のメイドが持っているようなナイフ。鉄では、打倒するのに足りない。
勿論そんなことを、諏訪子が知る由もない。
「はぁ、遊びをするのも疲れるこった」
全力なのだから。さればこそ、楽しいのだけれど。
思いながら諏訪子は、攻めの一手を変える選択を迫られる。
「あたんないもんだねー。じゃあ次はこれっ」
虹だった。虹色の弾丸が降ってくる。
「虹の雨を降らせるか、真に雅だねえ!」
ぱぁん、ぱぁんと音が弾ける度に、虹色の大粒の雨は降ってくる。
「すわこ、上だよ上! 落ちてくる前に避けちゃえ! っとと」
その行動に限っては、経験よりもその天性の勘のようなものが働いていたのかもしれない。既にその行動を実践に移していたチルノが叫ぶ。
「流石は大将、抜かり無しだ」
が、今己の居る位置から雨の降る上にいくとなると、それなりに決死の覚悟が居る。
そして見上げれば、薄暗い石部屋には虹が輝く。
弾丸が帽子を掠める。この美しい虹に当たってしまえば、次に自分は立ち上がることができるだろうか。
無理かもしれない。ならば、己のするべきことは?
ひらりひらり、舞うように、間を縫いこむように、諏訪子はそれを避け続ける。
ああ、これは戦にあらず。
我が敗けたとて、国は滅びぬ。
朽ちるは、我独りなり。
さればとて。
我が大将に、禍は及ばせぬ。
敗ける想像など、今が最後。
勝負が一時。
胸の裡が、熱く焦がれる。
己と、相手の。一対一の、遊び。
どうして、どうしてこんなにも、楽しい。
思いながら、諏訪子はそして考えていた。
眼前の相手は舞う。
魅せるのか。遊び故に、繰り出す攻撃は、魅せるものでなければ。
私は、私は何を魅せる? 何をどうやって、どうやって!
鉄の輪にて、避けきれない虹を打ち落とす。当たる先から、鉄の輪は腐り落ちていった。かしゃんかしゃんと石床に落ちる音が、虹の弾ける音と相まって、それすら美しいと諏訪子は思う。
錆びた鉄の輪を見やり、床に足をとんと着けて、諏訪子は言う。
「手番の交代だよ、フラン」
「あっ、私のはおしまい?」
言葉とともに、虹の雨は止んだ。
「やあ、フランの虹はきれいだった、大層きれいだった。だけど、貴女のそれは、並々ならぬ不吉でいっぱいだ」
ぱんっ、と、諏訪子は己が両手を合わせる。
「まさに不吉の最中、我縁起を混ぜんとす」
音と熱が弾けた。諏訪子が想像したのは、かの不吉の極みを魅せた、富士が山の大噴火。それでは災厄、それのみでは。故に其処に混ぜたるは、紅の暴爆に、吉兆なる蛙の事。
「蛙は三匹くらい居てもいいねえ」
言い放つ諏訪子の身体は三つに分かれ、その身体からは紅い熱が弾け飛ぶ。
「すごい、すごいすごい! 私も出来るよ、私は四人!」
「あれ、あれあれ?」
部屋の端っこで闘いを見ていたチルノは、眼をごしごしと擦る。
眼の前には、いくつもの影が激しい光を放ちながら踊っていた。
それは、踊っていたのだ。
その顔はどれもこれも、どうしたって笑っていて。
どうしたって笑っていながら、
「すわこ、あぶなっ」
チルノは思わず眼を覆う。悪魔の妹が放つ弾丸が、三つの影が内、手を合わせたまま動かぬひとつ。その諏訪子の身体を突き抜ける様子。
音が鳴り止まない様子を見て、おそるおそる指の隙間からまた向こうを覗いて見れば、くるくると踊り続けるものと合わせて、残る影は七つ。
それは諏訪子の身体を、すり抜けていた。
チルノは、じぃっとそれらが踊る様子を見続ける。
「なんだって、なんだってこんなの」
両の掌を強く握りながら、かちかちと、チルノは奥歯を鳴らす。それをぎゅうと強く噛み締める。
だがそれは。この館へ足を踏み入れたときに感じていたような、恐怖に等しいものではない。息をするのも忘れていたことに気付いて、思い切り吸い込む。
紅の噴火に、四人居た筈のフランが、消し飛んでいく。
爆ぜて、ひとり。
「そらそら、どうしたの!」
ぐぃ、と顔を擦りながら、諏訪子は叫ぶ。口の端を無理矢理に吊り上げて叫ぶ。
「あはっ、どうして、どうして当たらないのっ!」
閃光と共に、影は踊り続ける。
熱と同じ色をした紅の霧が弾けて、ひとり。
糸の切れた人形のように、その手足と首がもげてまたひとり。
やがて。
「ああ、はぁ……壊されちゃう、壊されちゃうわ」
「終わりかい?」
「まだ。まだまだ。私、いつも思うわ」
気の触れた、そう評される悪魔の妹であった。
何故か?
それは悪魔の妹が、危険であったため。
本人が壊そうと思えば、手を握っただけで壊すことが出来る力を持っていたため。
姉は近頃、その認識を改めた。それを以て尚、妹は妹であると。それは何物にも変えられぬ、事実であると。
その存在を、認めようとする気になったのは。
「霊夢もね、魔理沙もね、すごいの。私もうこてんぱんで煙も出ないくらいになるのよ。すごかったの。それからね、また何回か遊んだけどね、それから私、いつも思うようになったの、
いつだって遊ぶときは、次のことを考えない。次はないかもしれないって」
気の触れた、そう評されていた彼女が。真に心が狂気に犯されていたかを、誰も知らない。
何故か?
それは、それを確かめる者が居なかったため。
そして彼女は。長い間閉じ込められている時間、続けていたことがあった。
「私、ずっと考えてたんだもん」
独りで。たった独りで、フランドールは考えていた。かたちになっては消えていく、己の思考。誰に伝えるでもなく。誰にも伝えられず。その思考を認識されなければ、存在としてなかったことになる。
七色の羽根が、大きく震えた。
笑いながら、涙を零していた。
今度は、寸分の嘘もない。
フランだけでなく。相手をしていた諏訪子も、またその場に居たチルノも。
もう影が部屋を踊っていた頃。もう影は笑いながら泣いていたし、見ていたチルノにとってはもう堪らなかった。
「いつもねっ? 次、はぁっ、つぎは、ないかもしれないって!」
「うん」
「だからかんがえた! これがわたし! 『わたし』なのっ!」
「うん、そうだ。そうだなあ」
ちょっと気になった。その程度の仕草で、諏訪子は帽子を深く被り直す。
「語ればいい。存分に語りなよ、私ももう、どうしようもないんだ。もう胸が熱くなってさあ。なんだろうねこれは。わからない、わからないけどっ」
やおら諏訪子は、またしても鉄の輪を繰り出す。
しかしそれの向く先は、己が相手ではない。
壊すのは、別のもの。
だが。
盛大な、崩壊音。
およそ物が壊れるときに、こういう音が響くものだと想像できるのにぴったりなそれと共に、鉄格子が嵌められた石壁が打ち破られる。
諏訪子の思惑よりも若干早く、それは為されることになった。
「あーもう! しめっぽいったら!」
ありったけの全力を出して氷弾を繰り出したチルノは、その勢いで仰向けになりながら、ぼふんと雪に突っ込んだ。
雪がしんしんと降り積もる。月は煌々と白く輝いている。
大好きな冬がまさに其処にあった。
「表に出ろってのよ! そんなの狭いとこでやるもんじゃないでしょ、すわこもフランも! あたいほっぽってそんなことしてさっ、もーあんたらまとめて後でぶっ飛ばしてやるから!」
「ははっ」
「あははっ!」
笑った。洩矢の神と悪魔の妹は、ふたりで笑った。
「ああそうだ、そうだとも。大将は流石だねえ!」
「チルノ、チルノはすわこの後だよ! いっぱい遊ぼう!」
言いながら、月明かりに照らされたふたつの影は、適当な距離をとる。
「今という時は、次があるって言いたいかい? でもねえ、私をぶっ飛ばさないことには、大将にはお目通り叶わないってもんだ」
諏訪子がそこで想像したのは、ただひたすらに圧倒するための攻撃。波のように迫り行く、やむこともなく、少しの乱れもなく。
己がかつて束ねていた神々。それを顕すならば、きっとこうなるに違いない。
「すぐ、その通りになるわ」
フランドールがそこで想像したのは、己が閉じ込められていた間、ずっと考えていたこと。
誰かに証明された、誰かに破られた、それは関係ない。
それは既に、自分で解を示していたものだから。それが、それこそが己であると、もう既に解は示されていたから。
それぞれが叫ぶは、まさに今。それはもう、声にならない声。
弾幕は、雪と共に舞い上がる。夜空に星の華が咲く。
既に、避けることを度外視していた。ふたりが同時にそれらを放った折、もう弾幕ごっこと呼ばれた遊びは、取り決めなどなくなっていた。
礫が手を、足を、身体を掠めて飛んでいき、時々まともにぶち当たり、それでもふたりは全く引かない。
「しぶとい、ねぇっ、」
「すわこも、ねっ」
確かに相手を貫いていく、己が弾丸。
あとは、どれだけ耐えられるか。
苦痛に顔を歪ませながら、それでもふたりは笑っている。
雪のようにきれいだ、と、仰向けになりながらチルノは考えている。もう、涙は流していなかった。
力の差を、まざまざと見せ付けられる。あのふたりは、本当につよい。
そう、思った矢先。
先に自分が壁を打ち破ったときと同じ音をきいて、びくんと震える。
「……レティ?」
見えたのは、一瞬だった。けれど、見間違えようにもない。その姿は、確かにレティのものであったと。
間近で暴れる弾丸を大きく避けて、今飛び出してきたレティの姿をチルノは追う。
「レティ、レティ!」
纏う服もぼろぼろになったレティは、薄眼で己を見ているような気もしたけれど、それも定かではない。
悪寒。ぞくりとした。レティが飛んできた方向、穴の開いた館の壁を見やる。
あくまだ。チルノは思った。あいつがやったんだ。
遠眼からもわかる。その悪魔は大きく羽根を広げ、今にもこちらへ飛び出してくるに違いない。
そして。
今まで感じていた、大好きな冬の雪とは、違う感触を覚える。
「え……雨?」
雪と共に降り来る、空の涙。はじめはぽつぽつと。そして次第に土砂降りに。冬に落ちるそれは、格段の冷たさを保っている。
「ひゃっ、何?」
フランが声を上げる。
「なんだなんだ、本当に雨が降るのか」
諏訪子は諏訪子で、驚きの声を出す。
かくして、命をかけた闘いは、そこで止まってしまった。お互いに繰り出した決死の技を止めてからは、雨を苦手とするフランが、建物の方にと飛んでいってしまった為である。
――
「はぁ。こういうの、役回りとしてはどうなのかしらねぇ」
おせっかいとしても、勝負は一端水入りね。
魔法を一通り詠唱しきった後、手元の本に眼をやりながら、魔女は溜息をついて言った。
「星の逆位置は、水難の相があると。ふぅん、本当かしら? 難と呼ぶかどうかは、状況次第だと思うけど。随分やなことばかり書かれてるわ」
それにしても、やりすぎ。館とか壊しすぎ。
それは直ぐに直せるとしても、雨で頭を冷やしなさい。
冷やすまでもなく、吸血鬼は雨が嫌いだ。
大方の者にとって、冬の雨は多分嫌いだ。
「さて」
この場において、真に可哀想なのは誰か。
私かしらね、と思いながら、魔女は苦笑を浮かべる。
館の主である魔女の友人に頼まれたのは、裏方役。
まあ。こうやって、とりもあえず役割はあった。
では、その問いに対する答えとは?
それは門の前で倒れながら、つめたい雨に打たれているであろう、門番である。
「かわいそうだから、拾っておこうかしらね」
はたり、はたり。
魔女が繰って現れたカードに描かれた絵。
裸婦は地に水を注ぎ、空には輝く星々が。
「星は夜空に輝くのがいいわ」
もうそろそろいいかしら。魔女は空の涙をやませる。
また、静かな夜が訪れる。雨と一緒に雪もやんで、窓の外をみやれば、雲も消えていく様子。
これが普通よね。まあ、星を降らせる魔法使いも居るか。
窓を開け放ち。冬の月と星が輝く空へ、魔女は飛び立つ。
-おわり、はじまり、そしてあなたの頭上には
「いや、だって、いきなり足元が氷漬けですよ、そしたら頭をごんって」
「修行不足」
「修行不足ですね」
「油断しすぎ」
「うう」
紅魔館の門番、紅美鈴は。主、メイド長、魔女にさくりさくりと言葉のナイフを浴びせられ、これ以上ないというくらいに肩を竦めてしまった。
「はい、すみません……」
しょんぼりとした様子を見て、これでちょっとは気合も入ってくれることだろうと思いつつも、レミリアはその実門番に対して低い評価を下しているわけではない。
「まさにこれ、いざ尋常に勝負となれば不意を討たれることもないでしょうけどね。いきなりの事態にちょっと弱いわ美鈴。それを克服出来れば、あの魔法使いが急に飛び込んできても対処できるでしょ。課題よ課題。がんばりなさい」
「は、はいっ!」
「あはっ、魔理沙が遊びにきてくれるんだったら私今のまんまでもいいなあ」
「あー、ええと、つまりどういうこと?」
水入りとなった遊びの後、館へ戻って会話を交わす面々。遊びとはいえ、命懸けだったのだ。急に入った邪魔に憤りをはじめ持ったものの、眼の前の和やかさを見るにつけて、諏訪子はなんだか毒気を抜かれたような気分になった。
「まあ、ねえ。ちょっとした劇作みたいなことよね」
「レミィは脚本に向いてないったら。大体ね、熱くなりすぎないように砦を用意しておくのよって分かり辛いのよ。ルールを教えようとするなら自分をまず律すればいいでしょ。あれじゃあ私、ただの野暮ったい魔女じゃない」
「ぐ」
自分でも思っていただけに、わざわざ他人から改めて指摘を受けると言葉に詰まってしまう。やっぱり、いい役どころじゃなかったことに不満あったんじゃないかしら、とレミリアは思った。
確かに、熱くなっていた。それは想像以上のもので、もう少しで我を忘れるところ。
しかし、この世界で制定されたルールとしては。一度打ち倒しきったものを、追い討ちで殺すことは禁じられている。
「弾幕ごっこのことなら、あたいが教えようと思ってたのに!」
いまだ眼を覚まさないレティの身体をぎゅっと抱きしめながら、チルノは抗議の声をあげる。
「ああ、貴女にはよい刺激になったんじゃないかしら?」
「なにをっ」
「ああほら、レティを離しちゃ駄目よ。ここ暖かいんだから」
言われて、チルノは慌てながらまた座り、レティを抱きしめる体勢に戻る。
「まあ、全ては予定通りってこと」
自信満々な友人の声に、パチュリーは思わず溜息をついた。
ああしかし、ああやって今笑っている彼女も、変わったのかもしれない。
彼女は知ったのだ。やる気のない巫女が制定した、あのルールとやらが。この遊びが。言葉の代わりに成り得るものだということに。
そして今日という日。図らずも、そのルールを知らない者がやってくることを「視た」。
全てが予定通りだと友人が言うならば。それをわざわざ、客人に教えようと言う、おせっかいな友人が言うならば。そんな感じにしてあげても悪くない。
そう思いながら、魔女は主に仕える従者を見る。
「私は、お嬢様の言ったことに従うのみですわ」
「さて、諏訪子」
レミリアが話の水を向ける。
「んー?」
「まあ結果として貴女は此処へやってきた。ようこそ幻想郷……そう言いたいところだけど」
「うん、そうだねえ。私はそろそろ帰ろうかなあ」
「ええっ!」
「うそ、すわこかえるの!」
諏訪子の言葉に声を上げたのは、つい先ほどまで死地の最中にあったふたり。
「やあやあ、ちょこっと興味があったからなんだけどね。こんな場所があるよって、話に聞いたから。馬鹿な奴なんだ、信仰がなくなった訳でもないってのに。本当、言うことが突飛すぎるんだ」
当初、ぶちぶちと文句を言いながら山を彷徨ってこの場所に辿り着いたのは、偶然だった。
「誰に?」
んー、と。鼻の頭を掻きながら、諏訪子は何だか照れたように言った。
「友達かな」
「友達、友達ね。ちょっとした気まぐれに巻き込まれたか、あいつ、冬は寝てる筈なんだけどなあ」
レミリアの頭に浮かんでいたのは、それはそれは胡散臭い、そう表現するなら此処でも随一と言わんばかりの大妖怪の姿だった。
「ここ、出るのは難しいわよ。入ってくるのは、割かしあることみたいだけど」
「え、嘘」
「普通なら。本当はね、結界なんかをいじるのが得意なスキマに依頼してみるのもいいと思うんだけど」
今年は、冬が長くなるのよ。
それを期待するのはちょっと時間がかかるわ、とレミリアは言った。
「多分、大丈夫でしょ。貴女は必要に迫られて、此処にやって来た訳でもない。貴女は向こう側に、強い思いを残してきてるだろうし。そんな貴女を思う友達がきっと居るのね。ほら」
「あれ?」
諏訪子の身体が、薄くなり始めている。
「すわこ、まだ遊びたりないよ! やっぱりもう次はないの、ないのっ?」
「こらすわこ! たいしょーのあたいを置いてくのか!」
騒ぐふたりを余所に、レミリアは続ける。
「いずれにせよ、いまだ忘れ去られぬ貴女は、幻想入りにまだ早いということ。いずれ此処にやってくる気があるのなら、この話をしてみればいい。それでなくても、気付かない内に連れてこられてるかも」
「はは、どうかなあ」
諏訪子は帽子を取り、髪留めをしていた紐を解いた。
「それあげるよ、フラン、チルノ。此処にまたやってくるのかどうかはわかんないけど」
近くに居た咲夜が、とりもあえずそれらを受け取る。家にいけば予備があるのよ、なんてからから笑う諏訪子を傍から見ながら、この帽子がいくつもあるのかという驚愕の思いを、瀟洒なメイドは決して顔に出さない。
「じゃあね」
「えっ、まって」
すわこ、
最後まで言い切ることは出来ず、諏訪子の姿は掻き消える。
――
目覚める。
其処から、陽光は消えようとしていた。ただ在るのは白く舞い散る雪。
夢を見ていたと思った。
実際、そうだったのだろうと、彼女は思う。
「レティ!」
「あら、チルノ。貴女もやられちゃった? 必勝の心意気も、なかなかうまくいかないものよねえ」
夜の王、紅の悪魔、レミリア・スカーレット。
彼女とあった時のことを、レティは思い出している。
レミリアと闘った折に繰り広げられた、それそのものに意味があるとか言う、闘い。
レティとしては、それを充分胸に落とし込んだ上での、闘いだと思った。
「巫女、強かったわ」
レミリアの言う通り、巫女には敵わなかったのだ。己がいくら氷弾を、氷の槍を繰り出したとて、ついにその一撃すら当てることが出来なかった。
その代わり喰らったのは、これでもかと言うほどの御札の山。流石に死ぬかもしれないと、割と本気で思ってしまったほどである。
本気で、ということについて、それが些か欠けていたかもしれないと、レティは思う。
今は冬。ただそれは、随分と春に食い込んだそれ。
そう、今は白銀の春。
毎年やってくる筈の普通の春がやってこない、異常なものだった。
「くっそー、悔しい! でもまたふくしゅーよ、ふくしゅー!」
地団太を踏みながらも、チルノはやる気に燃えている。その様子を、眼を細めながらレティは眺める。
「その心意気ね。折れないって、多分大事なことよ」
立ち上がる。幻想郷の夜は、これから。
しかし。
「ああ、チルノ」
「ん?」
「毎年毎年、春は来るの。冬が終わったらそうなるのよ」
「しってる。レティいっつも言ってるもん」
「そろそろ終わるわ」
今眼前に広がるのは、雪ではなく、夜桜吹雪。
何処からやってきた桜の花か、それが今や雪を溶かし、暖かな風と共に舞い上がる。
「えっ、え、なんで」
「巫女がやってくれたんでしょ。貴女私に教えてくれたじゃない。普通じゃないことは、巫女が解決してるんだって」
「うん、そうだけど、でも」
「また来年来るからね」
レティは、いつもそうしていた。春が来る際、自分が眠りにつく場所を、ただの一度も、チルノに教えたことはない。消えるように、何処へともなく居なくなる。
「ん、しゃーないなあ。また来年ね、レティ」
にっ、と笑うチルノの顔を見て、レティもまた微笑んだ。
ああ、この娘は、自分を忘れることなどないだろう。冬に逢うことを、普通に思っているこの娘ならば。
だからそれは、レティの気まぐれだった。
「これね、預かっておいて」
「ん?」
「これは話してなかったけど。私、夢を見たのよ。私、王様なんて呼ばれたんだわ。
だからそれは」
「……そうなんだ、すごい」
「でしょう? お願いね。ああ、それにしても」
雪のように、きれいね。
言葉を伝えて、レティの姿は消えた。
「わかった、じゃあね」
手渡されたそれを握り締めて。チルノは広がる桜の花びらを、見続けている。
―――
さむい。
足元は一面の白で覆われていたけれど、今は雪など降っていない様相だった。
諏訪子は上を見やる。山の樹々の隙間から、星が瞬いている。もうこれは、何度も見慣れた景色。
あー帰ってきたんだねぇ、と。諏訪子はぼんやりと考えつつ、なんだか夢のようだったとも思った。
すると背後より、草の根を掻き分ける音が響く。
「諏訪子さまっ!」
「おー? 早苗じゃない。元気?」
「げげ元気かって諏訪子さま! 何処行ってたんですかこんな、大変だったんですよ!」
「え、なにが」
「何がってもう八坂さまが、」
早苗が言い切る前に、耳をつんざく轟音が声を遮る。
どっかんどっかん降ってくる御柱に、なんだこれさっきの続きかといった感じで、割かし諏訪子はあっけらかんとしていた。
「す、諏訪子っ! なにそれどうしたの、誰にやられたのっ!」
「えええああああ、やめてかなこ離して揺らさないで」
言われて己の身体を見やれば、なるほど確かに服はぼろぼろ、あちこち怪我して痛いし、帽子も髪留めもあげちゃったし。本人はそれでも至ってけろりとしている訳だが、何処かで手痛い敗けを喫したように見えなくもない。
「何って、引き分けかなあ」
「引き分け?」
表向きの山の神の眼が鋭く、ぎらりと光る。
「ふふふふ、ふふふふふ」
「なに、なによ」
「弔い合戦、合戦よ! さあ早苗、今すぐ準備を」
また勢い良く御柱を立てようとする神奈子の頭に、とりあえず諏訪子は手刀を一撃喰らわせた。
「痛っ! 何よ諏訪子、私は諏訪子の仇を取ろうと」
「死んでない。あともうなんでもかんでも合戦合戦言わないの。物騒ったらない」
そもそも、かつて合戦で己を討ち取って置きながら、仇を取るなんて言葉すらおかしい。
「ええ……?」
ちょっと涙眼になって縮こまった神奈子を見て、ああほんとこいつ馬鹿だなあ、と思った。馬鹿は馬鹿でも、きっと愛すべきそれ。
「どうせなら、楽しんで遊ぶのが良いのよ」
そう言う諏訪子に、早苗がそっと耳打ちする。
「八坂様がですね。『すわこの気配がきえたー!』って言って大慌てでして。そこら中に結界張って山中探し回るし、大変だったんですよ」
「む、それは悪いとは思うけどさあ。何よ、早苗は心配してくれなかったの?」
「私だって心配しましたよ! ……でもまあ、諏訪子さまのことですから。お夕飯の頃になれば戻ってくるのではないかと」
うふふ、と笑う風祝の巫女を見て、ああこりゃ間違いなく私の血を引いてるなあと、実感してしまう諏訪子だ。
「ま、おなか空いたねー。さあ帰ろうか!」
踵を返して、いざ我が家へ向かわん。
という心意気も儚く、ずびしと手刀で頭を打たれ、今度は諏訪子が涙眼になった。
「こんなに心配かける奴は反省の余地があるわ! 早苗、今日の諏訪子はご飯抜きにして!」
「そうですねえ、うふふ。今日は寒いしお鍋を用意してますよ、八坂様。あったまりましょう」
「あーうー、そんなあ! ごめんよふたりとも、神奈子ごめんよう」
ぷんすか怒る山の神、最早平謝りの真なる神、それを見てころころ笑うは風祝。
空に輝くは、満天の星。
日の本の国、愉快な神様たちが幻想入りを果たすのは、もう少し後のお話になる。
――
薄暗い石造りの部屋に、闇に紛れたひとつの影。
「またここに来てたの、フラン」
すっかり直された石壁、鉄の格子から覗く向こう側には、あの日と同じ様に輝いた月の光が入り込み、ふたつの影を浮かび上がらせる。
直すのは壁だけで、他はそのままにしておいて欲しいと、悪魔の妹は完璧なメイドに頼み込んでいた。
だから、それはあの日のまま。
床に落ちた、鉄の輪。もうぼろぼろに朽ちたそれを手にとりながら、フランは言う。
「うん。ねえ、戻ってくるかなあ」
「どうかしら、そんな気もするし、しない気もするし」
「いつもお姉様はそうやって言葉を濁すんだわ」
「本当にわからないのよ。幻想郷の中の話じゃないしね、あの時こっち側に諏訪子がやって来たのは、それこそ偶然なわけで」
「うん、まあ……分かってるんだけど」
その偶然が生み出した結果は、レミリアが想像するものをやはり超えていた。
きっと、熱く焦がれるような遊びを、彼女達は繰り広げたに違いない。
石造りの部屋を出る。
戻ると、瀟洒なメイドが紅茶を用意してくれた。紅茶はやっぱり温かい方がいい、と口をつけながらレミリアは思う。
「まあでも、忘れないけどねっ。ほらこれ、似合う?」
フランは笑いながら、諏訪子が置いていった帽子を被る。
「ええ、お似合いですわ妹様」
メイドは恐らく心からそれを言っている。
なんというか奇抜なファッションよね、とレミリアは思う訳だが、あんまり妹が嬉しそうに被るものだから、野暮なことはいいっこ無しにしておいた。
なんというか、確かによくよく見ると、可愛らしくも思えてくるから不思議である。
「ほら、お姉様も!」
「ええ? いや、私そういうのはちょっと」
「お嬢様」
「な、なによ」
「是非、是非お召しになるのがよろしいかと。きっとお似合いですわ」
「え、ええ」
「さあ」
「さあさあ」
ずぃ、と帽子を差し出すは、満面の笑みを浮かべた妹。
その傍らで、メイドはやっぱりにこにこと笑っている。
「しょうがないわね……」
意を決し、自分の被っている帽子をとって、諏訪子のそれを頭に載せた。
すると。
ぴょん。
「ぶふっ」
メイドが噴出すのは異常な速度だった。
「え、何それお姉様、すごい!」
「な、な、何?」
帽子を取り外す。
特におかしい所は見受けられない。そもそも帽子についている目玉がこっちを見てるような気がしたが、それはそれ。
「何よ、全く」
もう一度被りなおす。
ぴょん。
「すごいそれ! どんな仕掛け? ねえ咲夜、あれ咲夜がやってるの?」
勘弁して下さい、という感じで口を押さえる瀟洒なメイド。
「癇に障るわね、なんか」
でもまあ、いいかと思った。妹も、何だか喜んでるみたいだし。
そう勝手に納得して、いかにも優雅な様子で、レミリアは紅茶に口をつける。
帽子の上で、ぴょんと飛び出した目玉が、ゆらゆらと揺れていた。
―――
「はあ、春爛漫ねえ」
「全くです」
「それでどう? 進み具合は」
「ええ、まずまずと言った所。本日はご協力、ありがとうございました」
縁側にて、のんびりと茶を啜るふたり。
その庭では相変わらず、先ほどから蝶を追い掛け回している氷精の姿。
よくもまあ飽きもせず、と。巫女は湯飲みを盆に置きつつ、思う。
「直接話を聞きたいなんてねえ。随分苦労するじゃない」
「まあ、憶測の部分も多いんですけどね。己の見聞も多くあった方がいいかと」
湯飲みに口をつけながら、稗田阿求は返す。
己が代にて幻想郷縁起を執筆するに当たって、阿求は博麗の巫女にちょっとした協力を求めた。
妖怪のことを語るには、妖怪と話をせねば。
しかし己はただの人間、襲われたら執筆を続けるどころの話ではない。
そこで博麗の巫女を供だって現地に赴こうと考えていたのだが、「だったら連れてくるわ、面倒だけど」という巫女の好意を受けて、この場が実現しているという次第である。
面倒という言葉通り、連れてくるのは返って手間なのではないかと阿求は思ったものの。話を大人しく聞かせるためには勝負をしなけりゃならない云々、その場に阿求が居るとちょっと危ない云々。おおよそそのような事情で、阿求はのんびりとお茶を飲んでいられることに相成った。
「で、話ってのはもう終わり?」
「ええ、ありがとうございます。これを元に、色々書かせていただきます、チルノさん」
「かっこよく書いてよね!」
「え、ええ、はあ。まあ」
話をして得られた印象といえば、彼女が大変いたずら好きで、それに対する注意喚起を促さねばならないということ。読まれたら怒られるだろうか、という気持ちで内心はらはらしている阿求だった。
「お、また居た。でっかいな!」
新たにチルノが見つけたのは、色鮮やかな揚羽蝶。
チルノは氷精なので、その周りはそこはかとなく冷たい。だから蝶もそれを嫌って、ひらひらと舞いながら逃げる。
「まてー!」
追いかけるチルノの髪には、普段は見ることのない、赤の紐。
「うーん、あれってやっぱり気分でも変えたのかなあ。あの帽子も見覚えあるし」
「そうなんですか?」
逢うのが始めてだった阿求にしてみれば、それが元々のチルノの姿であったとしか認識できない。
涼しげな髪を結わう赤紐は、それなりに映える。
頭には、冬を象徴するような白い帽子。
「ま、いいか」
「そうですねえ。世はおしなべて、事もなしと」
阿求も、また霊夢も知らなかった。
今氷精が髪を結わいで居るそれ、ひとつは神様のお土産。
そしてその頭上に被るは、冠。
この場所で起こった、些細な出来事の中で。
そう呼ばれるに相応しい、冬の冠であること。
そのことについて、ついに幻想郷縁起の中で記されることはない。
「あ、お茶のお代わり如何です?」
「ありがと、お願い」
そうして、今日も今日とて、幻想郷の陽は沈もうとしている。
今日の夜空は、良い星が輝きそう。
思いながら、阿求は茶の仕度にとりかかる。
-了-
レティとチルノの関係が、寒気と冷気という少し特殊な偏りがあるだけに、
淡々としているようでものすごく深いのが伝わってきて、二人が好きな自分としては燃える展開だったよ。
視点切り替えで混乱させられたこともあったけど、この話にはその空気が一番いいのかもと思って100点。
まあ実際『ルール』が無かったら、レティ然り妖怪達は結構なカリスマ持ち合わせている輩いるんでしょうね。
最後に・・・たいしょー、あんたがNo.1だ。
読んでいる間中得体の知れない歓喜というか興奮というかに満たされていました。
レティとチルノの仲と言った原作の料理しにくいところを上手く使ってますね
最初話が読みづらかった点を差し引いてもいい作品でした
いずれ地下三人が再会してまた遊べるといいなぁ