「春ですよー! はぁーるでぇすよぉー!」
興奮しきる春告精は喧しく叫んで飛び回り、幻想郷は長い冬場を乗り越えて春の季節が到来した。彼女が飛んだ後には雪が溶け、その場所に春を代表する草花が花を芽吹き始めるのだ。
開花シーズンに伴って、幻想郷中は薄桃色や白色の桜を筆頭に、色とりどりの花が咲き乱れる。手近な山を登り、景色を一望すれば、そこから見える美しい光景はある種の桃源郷の様相だ。とはいえ、永く住み着いた幻想郷の住人からすれば見慣れたもので、人も妖怪も、花見をする合図程度でしかないのが残念な所である。
そして開花は、幻想郷の僻地に当たる無縁塚においても例外ではない。
無縁塚で咲く桜は、土地柄故か特殊な性質を持ち合わせており、なんと未練や悔恨といったものを吸い取って紫色の花弁を付けた桜として花開くのだ。
物好きの多い幻想郷の住人からすれば、良い酒の肴とも言えそうな紫桜だが、無銘の墓標が立ち並ぶ墓地に来る者などまず居ない。
そんな無縁塚の墓地で一人の少女が居た。癖っ毛のあるボブヘアー、ブラウスにケープを羽織って、一見すると十歳程の年端もいかない小柄な少女のような風貌だが、一目で人外の者であると判る大きな丸い耳と、細くしなやかな尻尾が生えている。その見た目通り彼女は人間ではない。
少女の名はナズーリン。鼠の妖怪だ。
墓地の一角に掘られた大きな穴に抱えていた包みをナズーリンはそっと入れた。穴には剥き出しの人骨が納められており、包みは死者を弔う為の副葬品である。
ナズーリンは無縁塚を活動拠点にして日々を過ごしている。しかしこの骨となった人間は何処からか迷い込み、獣か野良妖怪に襲われてしまったのだろう。残念ながら発見した時には手遅れであった。
副葬品として纏め、改めた所持品からも衣服と僅かな金銭のみで、身元が判明するものはなかった。服装から幻想郷の外、現代社会の人間であると判断出来る程度であった。世捨て人だったのかもしれない。
生きていれば元の世界へ返すことも可能であったが、死んでしまった上に身元も判らない。この無縁塚で弔うしかないのであった。
慣れた手付きで穴を埋めていく。無縁塚に住み着くようになってからこの様な出来事は一度や二度ではない。
黙々と土を移していく。暫くして、穴を埋めて墓石を置くことで埋葬を終えた。
春の陽気で暖かくなったとはいえ、まだまだ涼やかな風が吹いている時分だ。動かした身体にはとても心地良い。
「……ふぅ」
息を整え、身体を冷やす。一息吐くと、ナズーリンは被りを振って手を合わし、般若心経を唱え始める。
「摩訶般若波羅密多心経──…………」
白蓮に頼んで卒塔婆の用意と戒名を付けてもらわないとな、とナズーリンは経を唱えながらそう考えていた。
数年掛かりで、墓地として機能するように改善を行った。無縁塚を初めて来た時は荒れ果て、苔も雑草が伸び放題で初見時には墓地と気付かなかったくらいだった。適切に弔わないことで霊の成仏を妨げ、死人が外来人ということもあってか、中途半端に外の世界へ繋がり易くなってしまっていた。結果的に誰であろうと何が起こるか分からない超危険地帯へとなっていたのだ。
僻地な上に設備も十分に揃わず、環境も安全ではない場所だ。特殊な環境によって発覚した莫大なエネルギーを感知し、それに興味が惹かれたという下心があったものの、今では墓石と卒塔婆が建ち並ぶ墓地と判るまでに整え、環境も外来者らの成仏に伴い、部下の鼠たちが問題なく入り込める次元にまで落ち着くようになっている。
般若心経を唱え終え、一礼するとナズーリンは鼠を手招きした。
その合図を見た一匹の鼠が何処からともなく駆け寄り、差し出された手に乗った。
「良いかい? 今回もこの場所が荒らされないように見張るんだ。墓荒らしが来たらすぐに連絡するように」
環境が改善されたということは、墓荒らしが来る可能性も生まれたのだ。何が起こってもおかしくないのが幻想郷だ。下手すればこれまでの努力が水の泡になりかねない。
ナズーリンの指示を聞いた鼠は二、三度鼻を鳴らし、そして深々と頭を下げた。恭しい態度に微笑んで鼠の身体を指でそっと撫でてやる。
ひとしきり甘えるように指に身体を擦り付け、鼠は飛び降りて紫桜の森へと消えて行った。他の部下にも今の頼みは伝達されるだろう。
やるべき事を終え、ナズーリンは桜を見やる。墓地の中央に聳える一樹の桜の大木は見守るように枝葉を広げ、美しい紫の花弁を覗かせ始めている。
「満開までは一週間ってところかね。……さぁて、今日は卒塔婆を貰うとなると、他の買い出しもしよっかなぁーー」
墓守の仕事は終わった。踵を返し、指折り数えて買い出しの品を確認しつつ墓地をナズーリンは後にした。少し早めの花見をするのも悪くない。
無人となった墓地で、紫桜の大樹は静かに花を芽吹かせていた。
「…………おかしい。幾らなんでもおかしすぎる」
春の訪れから一月ばかりが経過した皐月の初旬である。幻想郷中の桜の殆どは花を散らし、梅雨へと向けて青々とした葉を蓄え始めている。僅かに残った葉桜がしがみついているのが現状であり、例年通りの流れと言える。
だが、例外が一樹だけ存在した。墓地に咲く紫桜の大樹である。
見立て通り桜は満開となり、紫桜に見慣れ始めたナズーリンでも感嘆の声を上げてしまう程に見事な満開っぷりであった。
そうして感心して見入っていたのもほんの数日で、それからはその異質な状態を懐疑的な目を向けざるを得なかった。周囲の紫桜が散り始め、葉桜へと成り始める頃でもその紫桜は満開のままだったのである。
それだけではない。普通、桜が散る理由は生え替わり以外にも雨や風等で散っていくものだ。周囲の紫桜は当然自然の摂理に従って花を散らし、葉を生やし始めている。
しかしながら、なんと大樹は一片たりとも葉も花弁も散らさなかったのである。雨が降ろうと、風が吹きつけようとさながら造花の如く満開のまま咲き誇っている。
「妖怪桜なんだっけ、これ。でも何も反応が無い……」
幻想郷の中でも超危険地帯となっていた過去の無縁塚だ。何が起こっても不思議ではない。
ダウジングを得意とするナズーリンは探知を仕掛ける。
しかし結果は空振りだった。垂らしたペンデュラムは何の反応も示さず、ただ風で微かに揺れるばかり、ダウジングロッドに至っては地下に潜む巨大エネルギーが邪魔をして精密に推し量る事が出来ないのであった。
ならばと、自慢の大きな耳を澄ませて聞き耳を立てる。妖怪となって発達した聴力は普通では聞こえない音まで拾う事も出来る。
「…………んん?」
結果は何とも言い難い。もしも意思を持つのであれば、何かしらの音の波長が現れるが、枝葉で揺れる騒めきの中にナズーリンの聴力でも聴き取れない程の小さなノイズが混じっていた。
それが意思による音なのかどうか判別が付かなかったのだ。
「さてどうするか……。異変といっても、ただ花が枯れないだけだが……。放っておいてもまだ問題は無いかも……。けど万が一となると私一人じゃ無理だな……」
探知の結果を鑑みて、腕を組んでぶつぶつと独り言を呟きながらナズーリンは思案する。
この一件は異変は桜が一樹だけが咲くのみとシンプルなものだ。探知では何かしらの反応はなく、音にだけ微かな異常を感じる。
それ以外が全く何も問題が無いという点がナズーリンにとっては不自然であった。
数分程思案し続け、突然ナズーリンは癖っ毛の髪をくしゃくしゃに掻き乱した。
「あーっ! もう、やめやめ! 考えたって時間の無駄よ無駄無駄。こいつは妖怪桜なんだからお祓いしてもらおう」
紫桜は無念や未練を吸い取ってしまうことで紫色の花を付ける。であれば、それらが原因で桜に異常をもたらしたと考えるのが自然だろう。
ナズーリンの独力ではどうにもならないし、その手の専門家は幻想郷であれば存在する。
ナズーリンのダウジング能力は、対象を知っていれば思い浮かべるだけで距離も方向も指し示す万能さを持つ。
実際に、さっきまではただ揺らめくだけであったペンデュラムを掲げれば、明確に探す対象に向かって浮き上がって指し示した。それだけに異変の原因すら探知出来ないという紫桜の異質さが際立つ。
「霊夢は……こっちの方角なら人里か。都合がいいな、色々」
妖怪退治の専門家、博麗の巫女の霊夢であれば何かしらの対処法は知っている可能性が高い。
加えて、今彼女が居る場所は人里だ。霊夢に断られた場合は命蓮寺の和尚、白蓮にも同様にこの件を相談をするつもりであったし、向かう手間も省けて一石二鳥である。
そうと決まれば善は急げだ。ナズーリンは偽装の為のキャスケット帽を被り、人里へ向かって飛ぶのであった。
「小鈴ちゃん、取り置きありがと。またアガサクリスQの本、どれでもいいから返本されたら教えてね。じゃ」
『鈴奈庵』と掲げられた建物から一人の少女が出て行った。艶やかなセミロングの黒髪を大きな赤いリボンでポニーテールに纏め、赤いノースリーブワンピースに広袖を留めた格好をしている。
少女は懐に紙袋を大事そうに抱きながら、上機嫌で鼻歌混じりに人里を歩く。大人気作家のアガサクリスQの小説の新刊を借りられたのだ。機嫌も良くなろうというものである。
「博麗の巫女ともあろう方が随分とご機嫌じゃないか」
「きゃあ!?」
既刊の内容を振り返り、新作の展開を想像することに没頭していた少女──博麗霊夢は唐突に話しかけられて思わず驚嘆の声を上げる。
「なっ、何よあんた! ……ってナズーリン!? 妖怪がこんな所で私に声をかけるなんて度胸あるじゃない」
声をかけた主は無論ナズーリンである。霊夢は慌てて袖から数枚の札を取り出した。戦闘用の破魔札だ。貼られれば強烈な痺れをもたらす霊夢の強力な武器である。威圧する様に札を構えるも、その間でも紙袋を手放すことはしなかった。余程大切にしているのだろう。
「落ち着きなよ。こうして変装はしているんだ、余計な真似はしないよ」
ナズーリンを両手を小さく挙げて敵意が無いことを示した。霊夢の臨戦態勢は至極尤もで、人里は混乱を生まないよう極一部を除いて妖怪は立ち入りを禁じられている。
だからナズーリンは大きな耳は寝かせてキャスケット帽に隠し、尻尾は腰に巻き付けてベルトのように見せかけている。
そう言われ、ジロジロと無遠慮に見定められてようやく得心がいったのか、霊夢は札を袖の中へと仕舞い込んだ。
「で、何の用よ。私これから大事な用事があるの」
「君への仕事の話。読書なら後にしてほしいね」
「う……うるさいわね」
小説を早く読みたいという逸る気持ちを見透かされて、霊夢の顔が羞恥で朱に染まる。
博麗の巫女とはいえ、霊夢は人間で思春期の年端もいかない少女なのだ。変に意固地になられても困るし、ナズーリンは半ば強引に話を進めることで、霊夢の羞恥心を流す。
「報酬は多めに払おう。私では対処出来ない問題なんだ。それと、仕事内容の話ついでに一部は前払いもしようか。どうかな?」
「前払い?」
巫女として祈祷をする時の玉串料の謝礼ならいざ知らず、妖怪退治の仕事で前払いなんて気前の良い話は初めてであった。
怪訝な顔をする霊夢に、ナズーリンが薄くほくそ笑む。
「そう。君とは大通りにあるカフェ、そこのメロンパフェでも食べながら話そうじゃないか」
「パッ、パパ、パフェえ!?」
パフェという単語を聞いて、霊夢を思わず目を剥いた。現代社会では最高級品でも大仰な値段はしないパフェだが、幻想郷という隔絶された世界では話が違う。
どうやって調達されたか分からないが、希少品のメロンやクリームをふんだんに使用された特大のメロンパフェが提供される。
当然、金額もべらぼうに高く、霊夢の収入では逆立ちしても食べることなど叶わない。裕福な家庭が祝い事で食べるのがせいぜいで、実質的に稗田家や長者が楽しむ為に用意された代物だというのが専らの噂だ。
「この前、羨ましそぉーうに見ていたもんね?」
「なんっ、で」
「鼠の情報網を舐めてもらっちゃ困るね。天狗とは訳が違うんだよ」
霊夢の瞳が揺らぎ、心中で小説とパフェの天秤が揺らいでいるのが明け透けに見てとれて、ナズーリンは思わず口角が釣り上がる。
悪い癖だと心の中で自戒しつつ、ナズーリンは駄目押しの一手を打つ。露骨に深いため息を吐きつつ残念そうな表情を浮かべながら、肩を落として、大仰に天を仰いで額を手で覆う。
「……嗚呼、残念だが博麗の巫女殿には重大な書物を読み解く仕事がお有りの様だ。はあぁ……いやはや残念、全くもって残念だがこの件は白蓮に相談するとしよう……」
「ちょっ……! まっ、待って。聞く、聞くわ。その、これは後でも大丈夫だし……」
わざとらしいナズーリンの演技にすら釣られてしまい、霊夢は振り返って立ち去ろうとするナズーリンの服を摘む。
しどろもどろに返事をするに、パフェの誘惑には勝てなかったようだ。
「いやぁ、引き受けてくれてありがとう!」
「あ、あんった……!」
「さぁさぁ、そうと決まれば早速行こうじゃないか!」
項垂れて肩を落とす態度から一変、ナズーリンはにこやかな笑顔を見せて振り返った。
ようやく騙されたと理解したが、応えてしまった以上引き下がる訳にはいかなかった。
見事に引っかかってしまい、顔を真っ赤にしながら二、三度口を震わせ、今度は霊夢が天を仰いで顔を手で覆うのであった。
人里の大通りに面した民家を改造して造られたカフェは、幻想郷で唯一外の世界の食文化が楽しめる店として人気を集めている。パフェ以外にもコーヒーや紅茶、パンやパスタが味わえる。
そのカフェの二階、テラス席にナズーリンと霊夢は案内された。
ナズーリンが躊躇いなく本当にメロンパフェを、それも二つも注文した時には、数々の異変を解決した霊夢も流石に肝を冷やした。
「私、無いからね。そんなお金……」
「大丈夫大丈夫」
「本当かしら……」
思わず食い逃げを選択肢に入れるくらいには不安がる霊夢であったが、ナズーリンは軽くあしらった。
まだパフェが来るまでには時間がある。仲良くデートをしに来た訳ではない。早速本題に入った。
「さてと、君に頼みたい仕事内容だが──」
ナズーリンは無縁塚の散らない桜の話を済ませたところで、丁度、パフェが配膳された。それまで眉根を寄せて真面目に話を聞いていた霊夢であったが、初めて見る本物のメロンパフェに目を爛々と光らせて小さく歓喜の声を上げた。
「わぁあ……! これがパフェ……!」
年相応の少女らしく歓喜する様に、固い話をする気にもなれず、食べるように促した。
「どうぞ。あんまりゆっくりしてるとクリームが溶けるからね」
「えっ、そうなの……? じゃあ……いただきます」
そう言われて、食い入る様にパフェを眺めていた霊夢は意を決したのか、恐る恐るクリームの乗ったメロンを口に入れた。
「んーーっ! 〜〜〜〜っ!」
幻想郷には存在しない甘く濃厚なメロンと、同じく存在しないクリームの新食感と甘味の洪水に、霊夢は声にならない程の歓喜の声を上げた。
日頃から質素な暮らしで、たまのご褒美で餡蜜がかかった団子を食べる生活であっただけに、パフェを衝撃的だったのだろう。
加えてパフェは幾重もの層の甘味で構成されて、スプーンで掬う度に味が変化する。
そこからは霊夢は夢中になって食べ始め、時折「美味しい……」と呟くのが聞こえた。
霊夢の新たな一面を見たナズーリンもパフェを口にする。
「美味し……」
と、此方も思わず感想が溢れてしまうのだった。その後、二人は無言でパフェを食べ続けた。
あっという間に完食した。霊夢はかなり名残惜しそうにしていて、しばらくの間食後のコーヒーには口を付けなかった。
「それで。なんだっけ、桜がまだ散らないんだっけ?」
「そう。君のお祓いならどうにかなるかなって」
可愛らしい女の子モードから仕事時の調子に戻った霊夢は、階下の大通りに目を落としていた。考える為というよりは何かを探しているかのようだった。
「……幽霊の仕業の線は?」
「そうだったらとっくに気付いてるはずだけど……そう思う理由は?」
「知らないだろうけど、あんたが来る一年前にあそこでそういう異変があったのよ。その時の犯人が幽霊が取り憑いてた」
「へぇ」
かつてあった異変に、幻想郷中の草木が季節を無視して一斉に咲くというものがあった。幻想郷に大量の幽霊が流れ着き、死神が処理しきれなかった結果、幽霊が草木に憑依したのが原因で、今回の件も同様であると言うのだ。
だが、ナズーリンの探知には引っ掛からなかったし、それであれば無縁塚中の他の桜や花も咲いているはずだ。一樹だけとなると幽霊という線は薄いだろう。
「幽霊じゃないかも、か。なら適任が来たわ。よーーーむーーーー!!」
霊夢が大声で呼び、ナズーリンも大通りを覗く。
通りを歩く他の人間らも霊夢の大声に驚くも、異変でも、自身が呼ばれたのではないと知って、元の生活へ戻っていく。
よーむ、と呼ばれた対象だけが、未だにおたおたと辺りを見回しているのが見えた。
おかっぱ頭の銀髪と木編みの巨大な籠を背負い、遠目からでも判る漂う霊魂が特徴的な小柄な少女だ。
「違うわよ! 上、上!」
再度呼ばれたことで、霊夢の場所に気付き、少女が二人の方へ飛んで来た。人が飛ぶのは幻想郷においては不思議なことでは無く、気に留める者は誰もいない。
「こんにちは、霊夢さんと……?」
「どうもー初めましてぇ、ナズーリンですぅ。……なんてね」
「ナズ……あっ、だからそんな帽子被ってたんですね」
おかっぱ頭の少女は魂魄妖夢。霊魂が側を漂わせる半人半霊だ。
キリッとした顔付きで真面目そうではあるが、どこか抜けている性格で、軽い変装をした程度で顔見知りのナズーリンに気付かないくらいである。
普段の妖夢は身の丈はある大太刀と小太刀を背負う二刀流の剣士であるが、流石に人里にまでは持ち込んではいないようだ。代わりに大きな手提げ袋を両手に抱え、大籠背負っている。
「幽々子への買い物?」
「ええ。明日紫様が遊びに来られるそうなので」
霊夢と浮遊する妖夢が世間話をしている間に、椅子を用意しておいた。いつまでも飛びっぱなしとはいかない。
霊夢が話の腰を折ってまで呼びつけたのだ。適任というのだから何かしらの情報を持っているのだろう。話を聞く価値はある。
「まぁ、とりあえず座りなよ」
ナズーリンに言われて、妖夢は浮遊している迷惑に気が付いた。促されるまま椅子に座る。
「霊夢。さっきの話の続きだけど、彼女が適任だという理由は何? 庭師だから?」
妖夢は白玉楼の主、西行寺幽々子の従者であり、同時に専属の庭師も務めている。白玉楼の桜の庭園は見事に剪定され、過去に訪れた際には余りの見事さと優美な光景にしばらく惚けてしまったくらいだ。
「あー、違う違う。この子ね、昔異変起こしてるのよ。春を奪って回ってたの」
「春を……奪う……?」
一瞬何を言っているのか理解出来なかった。季節は概念的な物であり、環境の変化が生まれなければそういったものは出来ないと思っていた。
しかし、ここは何でもありの幻想郷である。そういった事も可能であると、思い直す。現に無縁塚の桜は季節を無視した状態にあるのだ。
その春を奪った当の本人は、照れくさそうに出された紅茶に牛乳を入れて混ぜている。
「あれは幽々子様からの命令でしたし、あの後春はちゃんと返したじゃないですかー。今更そんな話をされるとは……。あ、これいただきます」
「どうぞ。春は自由に奪えるし返せると……? ちなみに、春を奪われるとどうなるの?」
「冬がずーーっと続いたわ。だいたい今くらいの時期まで雪が降ってたわね」
春を奪う行為は強制的に冬に留める効果があるらしい。
「幻想郷全土から回収したので結果的にそうなりましたが、一本だけ回収するとその樹は冬枯れしますが、周囲の自然が戻そうと働きかけて徐々に戻っていきます」
「じゃあちょっとずつ回収したら良かったのに」
「幽々子様が急ぎでって命令だったから仕方なかったんですよー」
霊夢の言葉を引き継いで妖夢が話す。ナズーリンは思案を巡らせながらコーヒーを飲む。苦味が口内へと広がるが嫌いではなかった。
正直、妖夢の春奪いはナズーリンの求めるものとは真逆であった。無縁塚の桜の場合は春を終わらせて夏へと向かわせたいからだ。
とはいえ、春の返却も出来ているし、先程の言を聞くにある程度の実験は行っていそうだ。春という概念に関しては一家言あると言えるだろう。
ナズーリンはコーヒーの残りを煽って一気に飲み干し、二人へと向き直った。
「二人とも。是非、無縁塚へ見に来てほしい。私よりもこの件に対する知見を持っていそうだし。それと妖夢。成功すれば君にも報酬を支払うと約束する」
頷く霊夢に対し、妖夢は困惑顔だ。断られてしまうのだろうと胸中で察していると、妖夢は口を開いた。
「ところであのー、さっきから何の話なんですか? これ」
「「あ」」
先走り、話に夢中になる余り、ナズーリンも霊夢も、肝心な無縁塚の桜の話をするのを忘れてしまっていたのであった。
ナズーリンと霊夢の二人は無縁塚へと向かった。妖夢については買い物を済ませてから刀を取りに行く必要があるからと、カフェで一旦別れる事となった。
「まさか本当にパフェ代払えるとは……」
「誰に仕えていると思ってるんだい。毘沙門天様だよ? あれくらいどうってこと──……っと見えてきた。あれが件の桜だ」
霊夢からすると卒倒しそうな金額のカフェ代の話をしつつ飛んでいると、無縁塚の紫桜が見えてきた。
一際大きい大樹な上にポツンと紫色が浮いていて、とてつもなく目立っている。後から来る妖夢へも無縁塚へ来れば分かる、と厳密な合流場所を指定しなかったくらいだ。
「本当に咲いてるわね。それも満開。いいんじゃないの」
「そりゃあ、私も初めの一週間くらいはそう思っていたさ」
相も変わらずの満開で幽玄な桜の姿だ。何一つ変わらない有り様をずっと見続けてきたナズーリンからすると最早、不気味に思えてくるのであった。
一方で能天気な感想の霊夢は興味深く見入っていたが、やがて桜の調査を始めた。
ぺたぺたと幹を触り、根本の雑草が茂る部分を弄る。特段反応がある訳もなく、霊夢は飛んで花の方へと浮き上がった。
触っても香りを嗅いでも特に何もなかったらしい。
「どう?何か判りそうかな」
「うーーん……。多分だけど、もしかしたら何かある、かも」
調査結果を聞くも、その反応は芳しくない。ただ、桜が散らない原因については薄々何かを勘づいているらしい。
進展が望めそうで、嬉々としてナズーリンは尋ねる。
「本当かい!? その理由は?」
「勘」
「勘……って、幾らなんでもそれはどうなんだ」
「だって分かんないんだもん」
「これだから人間は……」
余りにもあんまりな回答に頭からずっこけてしまいそうであった。勘なんて曖昧すぎる回答ではどうすればいいか分からない。
呆れてしまってナズーリンは思わず小声で毒突いた。
どうやら聞こえなかったようで、霊夢は地面に降りてナズーリンへ尋ねる。
「ナズーリン、ちょっといい? あんたこの樹の枝、折ったり齧ったりしたことある?」
「無い。少なくとも満開になってからは間違いなくしてないし、部下にも近寄らないように命令してある」
こういった質問をするということは手折って枝を取ってみるつもりなのだろう。それについては考えていたが、何が起こるか分からないが故に迂闊に触らないようにしていたのだ。
「妖精がくっ付いてるならもっと騒がしいし、場所柄を考えれば、恐らく幽霊が取り憑いてるわ。桜は恨みとか未練とか吸うっていうしね」
「それで刺激を与えて目覚めさせてやろうって腹積もりか」
ナズーリンも霊夢も、何かしらの異常が原因だとは気付いている。やってみる価値はあるだろう。
意図を汲み取ったナズーリンに対し、霊夢は頷く。
「そういうこと。やってみていいかしら」
既に霊夢の手には先端の細い枝が握られている。
ナズーリンが頷き、霊夢の手に力が入る。
「お待たせしましたーっ!」
と、そこへやって来たのは妖夢である。余程飛ばして来たのだろう、着地の際に靴底から凄まじい土煙を吹かしているくらいだ。
それだけ速く来たということで、遅れてソニックブームの轟音と、風の衝撃波が無縁塚に叩きつけられた。
「うわっ」
ナズーリンも霊夢も思わず腕で防ごうとする。
木々は突風に煽られて騒めき、千切れた木の葉がつむじを巻いて吹き上がった。
数秒もすればそれらは落ち着いて、ナズーリンは紫桜を見た。他の木々は反動でいくつかの葉は舞い散ったままである。そんな中、突風を受けても紫桜は一つも切り離すことはなかったのである。
「あら、早かったじゃない」
「急いだ方がいいかなーって思ったので」
「そんなことより見てよ。これがこの桜のおかしいところなんだ」
呑気な二人の会話を遮って、桜を見るように促す。
図らずも妖夢の手で確認出来る異常現象は、流石に二人とも勘付いたようだ。
「あー。やっぱりおかしいわね、この樹」
「たまたま飛ばなかっただけなんじゃないですかぁ?」
前言撤回。妖夢は未だに呑気なままである。
「まぁまぁ、お任せください。この樹に幽霊が憑依しているというのなら私が剪定も成仏もやってやりますよ。この白楼剣でね」
「いや、まだ幽霊とは確定してないんだけど……」
未だ概要だけしか知らない妖夢であるが、何故か自信たっぷりに背負う二刀のうちの短刀の方を抜く。白楼剣と呼ばれる魂魄家に伝わる家宝だ。
ナズーリンと霊夢は共に後ろに下がって様子を見守ることにした。本当に幽霊が取り憑いていた場合ならそれで成仏して解決へと向かうはず。斬らせてみる価値は十分にあった。
「ふぅー……」
白玉楼を上段に構え、妖夢は集中し、感覚を研ぎ澄ます。
剣術を操るだけあって、切っ先すら一切のブレが見えない。集中を増す妖夢を二人は固唾を呑んで見守る。
「キェェェエエエ!!!」
構えと妖夢の呼吸の波長が合った瞬間、白玉楼を袈裟斬りに振り下ろした。
刀と紫桜が触れた瞬間、ベキッという不穏な音がし、鈍い風切り音がした。
音の正体は刀だ。なんと白玉楼の目釘がへし折れ、留め具を失った刀身がすっぽ抜けたのだ。飛んでいった刀身は回転し、霊夢の足元へと突き立った。
「うわ、あっぶな!」
もう一歩前に居たら刀は霊夢に突き刺さっていただろう。
怒った霊夢は抗議の声を上げる。
「何やってんのよ! あんた剣の達人でしょ!?」
霊夢の声が聞こえていないのか、妖夢は白楼剣の柄を見て肩を震わせて茫然としている。
反応から察するに刀身が飛んだのは偶然の事故とは言い難そうだ。また、剣の達人である妖夢がよりにもよって刀に対して杜撰な管理をしている訳がない。
小さな声で何か呟いているのが、ナズーリンの耳に入ってきた。
「目釘が……有り得ない……お師匠様の白楼剣が……剣術が未熟だった……? 違う、私に斬れない物など…………」
ブツブツとうわごとの様に呟く妖夢は、震える手を伸ばし、ゆっくりと背中の身の丈以上の大太刀を握る。
不穏な様子の妖夢が次に何をするのか察したナズーリンは、大急ぎでスペルカードを構えた。霊夢に伝える余裕は無い。
「──あんまり無い!!」
「守符『ペンデュラムガード』!」
「夢符『二重結界』」
振り下ろされた大太刀──楼観剣は霊力を纏い、恐るべき威力であった。桜樹どころか岩をも容易く斬ってしまうだろう。
実際、ナズーリンが発動したペンデュラムを模した防護壁は妖夢と紫桜の間に発現させたが、見事に真っ二つに叩き斬られて霧散してしまった。
あわや紫桜は一刀両断かと思われたが、霊夢の結界術は容易くそれを受け止めていた。というより、太刀は届かず、宙空で留められている。
間違いなく、妖夢は全身全霊で楼観剣を振り下ろしている。しかし太刀はその意志に反するかの様に結界から押し出されている。
結界の不思議な性質により、やがて妖夢の手が止まった。
「このお馬鹿! 物に八つ当たりしないの!」
「あうっ、すみません……」
ようやく落ち着いた妖夢に霊夢は拳骨を食らわせていた。
叱られてしょげる妖夢を尻目に、地面に突き立った白楼剣の刀身を拾う。
土地は多少の手入れをしているとはいえ、剥き出しの石が転がる荒れた地面に刺さったのに、刀は刃こぼれ一つしていない。
素晴らしい名刀の価値に胸が高鳴るが、これは妖夢の刀である。欲に駆られそうな気持ちを自制し、持ち主へと返却する。
「軽く見た限りだが、損傷は無い筈だ。でも一応、刀は診てもらった方がいいね。命蓮寺の墓地に腕の良い鍛冶屋が居るよ」
「あー、小傘? 確かに良い腕してるわよ。私も針の面倒見てもらってるし」
命蓮寺の墓地で出没する唐傘お化けの小傘は意外にも鍛冶の腕に覚えがある。知る人ぞ知る妖怪鍛冶屋なのだ。ナズーリンも霊夢もその技量に頼った経験がある。
「はい、そうします……。お二人ともご迷惑をかけてすみませんでした……」
叱られたことで頭が冷え、自身の未熟で早計な行いに気付かされた妖夢は二人に深々と頭を下げる。
「お説教はもういいとして、どうだったの? 斬ってみて」
「……何か居ます。それが何を企んでいるのかまでは分かりませんが、桜そのものに力を与えています。それこそ接触前に目釘を折って弾き飛ばすくらいに」
『斬れば分かる』が信条であり、剣の達人でもある妖夢である。弾かれたとはいえ、桜の正体に誰よりも近付いていた。
ナズーリンが探知で感じた小さな違和感も、霊夢の勘も間違っていなかったのだ。
「何か、はもう少し具体的には? 例えばそれは幽霊である、みたいな」
「感じられたのは桜の中に強い悔恨が在ることだけです。形とかは何も……」
会話の最中も、妖夢はしきりに納刀した白楼剣を気にして目を向けていた。傍目では無傷だったとはいえ、やはり損傷については気になるだろう。
「ありがと、後は私らで探ってみるから、あんたは早く鍛冶屋に行ってきなさい」
「はい、では私はこれで……」
再び妖夢は深々と頭を下げ、空へと飛んでいった。来訪時と違い、白楼剣を大事に抱えて慎重に飛んで行く後姿を見届けた。
「ふぅむ、強い悔恨か……」
亡者らが遺した未練等を吸い上げすぎたことによる妖怪桜の暴走なのだろうか。ナズーリンがそう思案に耽るうちに、霊夢が桜の側にまで歩み寄る。
「ナズーリン、これはひょっとするとかなり厄介な問題かもしれないわよ……」
その声を聞いて顔を上げる。霊夢が手に持っていたのは妖怪退治に使われる札だ。
ナズーリンに見せつけるかのように霊夢は札を桜に貼り付けようとした。
しかし、その行為は未遂に終わってしまった。触れる直前に札が止まってしまうのだ。磁石が反発するように、霊夢が体重をかけて押し込んでも札は張り付くことはなかった。
「でも確か、さっき霊夢触れてたよね」
「そう、普通に触れる分には問題ないの」
そう言って札を仕舞い、空手となった右手近づければ問題無く触れることが出来ている。
「で、この状態で霊力を込めると……」
掌を樹に当てたまま、霊夢は霊力を込めていく。そうすると突然霊夢の手が弾かれた。
「っ霊夢!」
白楼剣の目釘をへし折り、刀身を弾き飛ばす威力だ。そんなものを素手で受けては無事なはずがない。ナズーリンは心配のあまり声を上げた。
「平気よ。怪我一つしてないわ」
不安げなナズーリンをよそに、霊夢は無事をアピールするように右手をぷらぷらと振ってみせた。ひとまず無事であったことにナズーリンは胸を撫で下ろす。
「とまぁ、敵対的な行動を向けると弾き返すみたい。防衛本能かしらね。とにかく、妖夢の刀も駄目、私の札も駄目。多分だけど、他の装備も駄目そうね」
霊夢の妖怪退治に用いられる道具は札だけではない。叩き潰す為のお祓い棒、刺す為の針、投げつける為の陰陽玉が霊夢の対妖怪用の装備だ。それらを用いても無理だと霊夢は言う。
「そうなると本格的に伐採は視野に入れた方がいいかもね……そうだ、祈祷での除霊はどうなの?」
自然の摂理に反し続け、以降はどんな変化を及ぼすか分からない以上、放置という選択肢はもう無い。
幽霊の未練を吸い取る存在として無縁塚の紫桜は希少価値があるが、この大樹に関しては伐採も仕方ないだろう。
それでも一縷の望みを賭けて、ナズーリンは祈祷という案を提案するが、途端に霊夢の様子がおかしくなった。焦りの表情を浮かべ、目が泳いでいる。
「あー…………、やば……。ま、まぁ私って神降ろし専門だし? 準備もあるから此処じゃちょーっと難しいかも、ね?」
「ボヤきはしっかり聞こえてるぞ。苦手なら苦手と言いなよ」
霊夢の面倒くさがりは有名で、今回の様に仕事として依頼しない限りは能動的に動こうとしないきらいがある。
度々、仙人から説教をされて渋々修行をさせられている姿をナズーリンも目撃している。
除霊の祈祷も修行をサボっていたツケが今ここで回ってきたのだった。
ナズーリンの耳には小声で呟くボヤきも当然拾い、じっとりとした目つきで霊夢を見つめた。
「う、うるさいわね。それに策がないわけじゃないのよ」
「うん? でももう私たちじゃ無理だろう? また妖夢に頼むのか?」
照れ隠しで赤らめた顔を隠すように霊夢は手を振るが、ナズーリンの興味は既に別へ向かっていた。霊夢の言う策とは一体何なのだろうか。
「同じことをやっても駄目でしょ。私たちじゃどうにもならない。なら頼んでみましょうよ、植物の専門家に」
「植物の専門……? っ!? 駄目! 駄目、駄目駄目!! 絶対、駄目!!」
呑気に挙げた案は更に助力を求めること。それ自体は良かったが、問題はその相手だ。それが誰か気付いた瞬間、ナズーリンは手を突き出して全力で首を振って拒絶した。
その植物の専門家は、ナズーリンが最も苦手とする相手だからだ。かつて見ただけで本能的に察した関わってはいけない相手。植物を操るだけという簡素な能力とはちぐはぐな幻想郷でも有数のパワーを持っている。
その植物の専門家の名は風見幽香。ナズーリンが最も苦手とする相手であった。
「あー? あ、あんた幽香が苦手なの? でも、もうこの桜は私たちの手には負えない」
「い、いや……」
霊夢の言う通り、桜は手に負えないのだがナズーリンは幽香と関わりたくはなかった。たじろぎ、じわりと後ろへ後ずさるナズーリンに霊夢は詰め寄った。
「覚悟を決めなさい。さぁ、幽香の居る場所は何処?」
勘が鋭い霊夢だが、流石にナズーリンの探知能力の方が優れていると判断したようだ。
幽香は春の間は幻想郷の方々で植物の様子を見て回っている。人も物も的確に探し出せるナズーリンはこういった時に適任なのだ。
風見幽香と関わるか、ここから逃げ出して霊夢から妖怪退治の対象にされるか。
「はあああぁぁ〜〜……」
苦渋の二者択一を迫られたナズーリンは、幽香に助力を求める方を選んだ。幽香と会うのは嫌だが、霊夢が味方でいるのは心強いからだ。
わざとらしく見せつけるように重苦しい深い溜め息を吐いて、渋々ながらロッドを構えてその場でゆっくりと旋回する。垂れた耳と尻尾と項垂れている様から、やる気が一瞬で霧散したのがありありと伺える。
北北西の方角へ向いた時にロッドの先が開いた。風見幽香はその先に居る。
それを見た霊夢が飛び上がり、上空から指し示された場所を見た。視線の先には湖と遠目からでも目立つ紅い建物があった。
「紅魔館ね……」
確認を終え、降り立った霊夢はそそくさと立ち去ろうとするナズーリンの肩を掴んだ。
「何処、行く、気?」
「え。い、いや、ダウジングもしたし、何処か分かるだろう? あ、後はお二人にお任せするよ。終わったら教えてくれたまえよ」
「この件の依頼主はあんたでしょ。説明は自分でしなさい」
「…………」
圧を掛けられながらのこれ以上無いくらいのど直球な正論に、早口で言い訳を捲し立てていたナズーリンは言葉に詰まる。
霊夢はナズーリンの手を掴んで、引き連れて飛び上がった。もう逃げられないと悟ったナズーリンは不承不承で霊夢の後へ続く。
「さ、行くわよ」
「…………こんなことになるならやらなきゃ良かった」
「なんか言った?」
「イイエ、ナニモ」
幸か不幸か、ナズーリンのボヤきは幸いにも霊夢には聞こえないのであった。
ナズーリンと霊夢の二人は紅魔館の門前へと降り立った。赤煉瓦造りのこの洋館は、日頃から見慣れた建物だというのにこの時ばかりはどことなく威圧的にナズーリンは感じられた。
「本当に幽香は此処に居るのね?」
霊夢にそう尋ねられたナズーリンは、そんなことをしなくてもこの重圧なら間違いないのに、と胸中でボヤきつつ、ロッドを構えて紅魔館へと向けた。ロッドは開かれ、反応的にも動いてはいない。
「居るよ。でもさ……これ多分客人か何かで招かれてるんじゃない? だから日を改めてでも──ってちょっと!」
鼻を鳴らして、未だに言い訳を並べ立てるナズーリンを無視して霊夢は紅魔館の分厚い鉄の門扉を押し開ける。
ズカズカと勝手知ったる様子で踏み入る霊夢に、慌ててナズーリンはついて行く。
普段であれば門番の紅美鈴が立ち、警護に当たるがその姿は見られない。中へ踏み入っても、侵入者撃退の攻撃すら飛んでこない。侵入するとすぐさま攻撃が仕掛けられるはずだ。
「変ね……」
「だから日を改めた方がいいって」
中庭を見渡し、日頃とは違う状況に訝しむ霊夢。
ナズーリンは耳をそば立てる。そうして事情を察して、どうにか帰るように促すが、霊夢は聞く耳を持たなかった。
短気な霊夢のことだ。このままでは強引に屋敷に突入しかねない。
ナズーリンは内心そう冷や冷やしていると、そこで屋敷の玄関から楽しげな談笑と共に二人の女性が姿を見せた。
一人は真紅の長髪をした大陸の民族服を着た長身の女性、紅魔館の門番、紅美鈴だ。
もう一人はショートボブのウェーブがかった緑髪、赤と白のチェック柄のロングスカートとベストが特徴的だ。ワンポイントとして向日葵の服飾が施されている。この女性こそ、花を操る妖怪、風見幽香である。
「あ、霊夢と……。タイミングが悪いなぁ……」
敷地に立ち入っているナズーリンと霊夢を視認して、美鈴は己の役職を全うすべく、二人の方へ歩み寄った。
「你好。すみません、席を外していました。ご用件は何でしょうか」
「そこに居る幽香に話があるの。通してくれる?」
断れば強引に押し通るという頑なな意思が言外からひしひしと感じられた。
それを聞いた美鈴は困ったような表情を浮かべながら、幽香の方へと振り向いた。
「構わないわ。その一人と一匹からは花の香りがするわね。季節外れの死の香りが」
「あー……えっと、では案内します。丁度ティーパーティーにするところでしたので」
日傘の下で柔かに微笑む幽香は二人が微かに纏う桜の香りだけで事情を察したようだった。
中庭の庭園にある洋式の東屋へと案内される。
霊夢と美鈴は気にしていないが、ナズーリンは心臓を掴まれた気持ちだった。表情こそ柔かだが、その目は冷淡で一切笑っていない。
薄らと見える真紅の瞳が暗にこう言っているのだ。また虐めてやろうか、と。
とはいえ、霊夢と美鈴含む紅魔館で野暮な真似はしないはず。案内に従い、席に着いた。
いつの間にやらテーブルには色とりどりの菓子が乗ったケーキスタンドが置かれ、湯気立った熱い紅茶が注がれている。
「この時期になるといつも此処に来ているの。薔薇、ポピー、カーネーション、チューリップ……。西洋の花々にはそれに適した土壌があるわ。良く手入れされていて明媚よね」
紅魔館の庭園はその豪華さを知らしめるように花々が植えられている。庭の手入れは美鈴が行い、その丁寧な仕事ぶりからちょっとした花の展示会である。専ら門番よりも庭師の方が向いていると評判だ。
褒められた美鈴は照れ臭そうに笑い、紅茶に口を付ける。
「えへへ……」
「紅一色というのがナンセンスではあるけどね」
「他の色も欲しいなとは思いますが、レミリアお嬢様の意向ですので……」
棘のある物言いだが、美鈴は気に留めていない。そういった程度で傷付く友好関係ではないようだ。
「はぁ……」
話を聞いていた霊夢は、興味なさげにスコーンを口に運ぶ。
「もうこっちの話していい? 有難いお花の説法を説かれに来た訳じゃないの」
「貴方たち人間は本当にせっかちよねぇ……。まぁ、いいわ。事情を聞いてあげる」
「なら、私は仕事へ戻りますので……。用がありましたら声をお掛けください」
霊夢の反応につまらなさそうな表情を浮かべつつも、幽香は美鈴との話を中断し、耳を傾けた。
仕事モードの真面目な霊夢を見て、美鈴はそそくさと門番の仕事へと戻って行った。針で刺されない賢明な判断だと思うと同時に、ムードメーカーが居なくなるのは困るともナズーリンは思っていた。
「……ほら、話しなさいよ」
「えっ、私!?」
肘で小突かれ、唐突に話を振られたナズーリンは驚きのあまり肩が跳ねた。完全に霊夢が話を切り出すと思って油断してしまっていたのだ。
「私じゃ無理な案件だもの。幽香に依頼のし直しならそっちから話すのが筋じゃない?」
「し、しかし──」
「くだらない漫才を聞いてやるつもりは無いわ。どっちでもいいから、話すのならとっととしなさい」
引き下がろうとするナズーリンに痺れを切らした幽香が苛立ちを含んだ声色で二人のやり取りを遮った。
柔和な微笑みは消え、無表情に冷徹な瞳がナズーリンを見下ろしていた。
洒落にならない幽香の様子にナズーリンは心底肝を冷やした。
「え、ええと……」
小さい身体を更に縮め、背筋から悪寒を感じる。冷や汗をびっしょりとかきながら、ナズーリンはこれまでの異変内容と経緯を話し始めるのであった。
「──十中八九、幽霊の仕業でしょうね」
一通り、話を聞き終わった幽香はキッパリとそう言った。
「そうなの? でも前の異変と違ってそんな気配はしなかったけど」
「うん。私も桜は例年見てきたがこんな事はなかった」
そう宣う幽香に霊夢は疑問を呈する。その意見に同調してナズーリンも頷いた。
霊夢は過去に発生した異変で幽香らと共に同様の体験をしていると聞く。ナズーリンは無縁塚に住んで毎年紫桜は見てきているのだ。
「実物を見ないことには断言出来ないけれど、恐らく桜と幽霊の魂が複雑に混ざりあって癒着しているのでしょう。気づけなかったのも同じ理由です。桜は未練を吸い上げて散らす。幽霊は強い未練を持って成仏したがらない。それらが長く膠着したことで幽霊は取り込まれ、花弁は散らないという事態になっているのです」
具体性のある内容だ。まるで実際に見たかのように、幽香の推理は既に原因まで見抜けている。フラワーマスターの異名は伊達ではない。
「霊力を込めると弾くようになるのは……」
「双方の生存本能から来る防衛機能です。未熟者の一撃とはいえ、魂魄家の刀をも防ぐのは想像以上ね」
敵意を示さなければ接触も可能であったことも辻褄が合う。だが、妖夢の白楼剣すらも弾いたことは幽香の想定すらも超えている。これ以上放置するのは危険だという証左であった。
「さて、私が言えるのはここまで。ここからはビジネスよ。貴方は何を求めて、何の対価を支払うのかしら」
空気が変わった。茶会ののんびりとした空気から一転、緊張感に満ちていく。幽香の真紅の瞳が細められて歪み、ナズーリンの方を見やる。一見、微笑んでいるように見える表情はその実、加虐心に満ちている。
ここまでのやり取りで花には誠実だから大丈夫だと安心してしまっていた。嫌な予感にナズーリンの身体が本能的に強張ってしまう。
「さ、桜は貴方の力でないと解決出来ないと思い、ます。成果を出してくれるのなら対価を支払うのは当然ですし……」
対等に話し、時には尊大な態度を取るナズーリンが、しどろもどろに下手に出てしまう。必死に幽香の機嫌を損ねない考えを出そうと思考を巡らせる。
「報酬については多分に支払うつもりです。それで──」
「ふぅん。たった、それだけなのね」
その発言に小さくなった身体を更に小さく丸める。肉体的な強さも舌戦も、ナズーリンでは敵わない相手。最早幽香の顔色も窺えず、緊張のあまり口の中の水分が失われて言葉に詰まる。
「ぶぶ、部下にも太陽の畑には金輪際近寄らないよう──」
「聞こえないわ。ビジネスパートナーともまともに話せないの貴方」
「…………」
報酬に然程興味はなく、ビジネスを名目に幽香は加虐心を満たしたいだけである、というのはナズーリンも頭では理解している。
しかし、かつて身に刻まれた力に恐怖してまともに言葉も発せなくなってしまう。
遂に言葉を失ったナズーリンを更に追い打ちをかけようと口角を歪め口を開く幽香だが、思わぬ助け舟があった。
「今、アンタを退治しないであげる。それが報酬よ」
霊夢が割って入ったのである。ナズーリンは心中で安堵すると同時に、助けてくれるとは思っていなかった為、驚いた。霊夢は他者へは基本的に無関心だという認識だからだ。
一方で、ナズーリンへの悪態を遮られた幽香は、表情こそ平静を保っているが、怒気を孕み始めているのが分かった。矛先が霊夢でなければ命乞いをしていたかもしれない。
「霊夢。貴方は口を挟まないでもらえるかしら。なんなら消えてもらっても結構よ」
「私はナズーリンから『妖怪』退治の依頼を受けてるの。引き受けないなら今のは依頼主への精神的攻撃と看做すわ。決めなさい。さっさと桜を診るか、この場で退治されるのか」
霊夢への依頼は桜の調査とお祓いだけだ。妖怪退治は含んでいない。見かねた霊夢がナズーリンを庇ってくれているのだ。
その姿勢を見抜いたのか、博麗の巫女である霊夢との敵対を避けたか。どちらにせよ、表情はそのままに凶悪な怒気もナズーリンへの加虐心もどこへやら、幽香の態度は軟化したように感じられた。
「……そうね、変調を起こした桜というのは興味があるし、診てあげるわ。ああ、それと」
幽香はナズーリンへ視線を移す。反射的にビクリと身体を震わせるが、咳払いして平静のふりをした。
「報酬なんだけど、人里で花の種を買ってくれればそれでいいわ」
「た、対価を支払うのは当然ですし、それでいいのなら……」
幽香は人里へ赴いて花を買っている姿は高い頻度で見られている。今更新たに買う理由もなく、更に言えば、種などナズーリンの資産からすれば無料同然である。
即ち、これは幽香なりの詫びなのだ。
ナズーリンが了承すると、幽香は席を立った。
「決まりね。美鈴とはまだ話す事があるから先に行っていて頂戴」
そう言って、門へ立つ美鈴の方へと歩き去って行くのであった。
「……私たちも行きましょっか」
「……そうだね」
本来の客人を置いてまで、この場に居残る理由は無い。
幽香と談話中の美鈴に一言声を掛けてから、二人は無縁塚へと飛び立ち、紅魔館を後にした。
「悪かったわね」
無縁塚へ向かう最中、霊夢がそう言った。幽香の事だ。
「……みっともないところを見せたね」
「前金まで貰って大したことも出来てないし、せめて手出しはさせないようにするわ。嫌だろうけど、我慢して」
依頼された身でありながら桜への対して手立てが無いこと、嫌がるナズーリンを幽香の前に出したことを霊夢なりに責任を感じて反省しているのだ。
気にしていないと諭すように首を振って見せ、ナズーリンは霊夢へ微笑んだ。
「ありがとう。そう言ってくれると心強いよ」
そうこうする内に無縁塚へと戻ってきた。数分ばかり桜の前で待っていると、二人の前へ幽香が降り立った。
「待たせたわね。成程、見立て通りではあるけれど……」
日傘を閉じ、幽香は桜を見上げる。発言を聞くに、紅魔館での想定通りではあるらしい。
「どう、ですか?」
とはいえ、反応から察するに少なからず想定外の要素がありそうだ。ナズーリンが不安を抱きつつ尋ねるも、幽香は泰然自若の構えだ。
「このまま放っておけば妖怪化して暴走していたでしょう。ですが、中に居る幽霊を切り離せば問題ありません。その程度なら容易いことよ」
そう言って、幽香は右手を桜へ向かって伸ばす。突き出した手が虚空で握り込むと、なんとこの一月の間、一切の反応の無かった紫桜が騒めいた。
「ついでに手入れもしておきましょうか」
原因の分離すらも簡単にやってのけ、その上で植物のケアも忘れない。
そうして幾ばくかの間、虚空に掲げた手を動かしては桜を弄り、やがてその手を止めた。
「はい、おしまい」
「……この幽霊が桜が散らない正体?」
紫桜自体は、見た目はこれまでと変わらない。心なしか花弁が艶めいて見える程度だ。
明確に違う点は、傍に立つ老婆の幽霊の存在だ。つい先程まで見られなかったが、今は強い未練を感じられた。
間違いなく桜が咲き続ける原因だった。
「あ、この幽霊……」
幽霊となって半透明となり色彩こそ失われたものの、確か白髪混じりの金髪で、ストレートのショートボブ、白黒ストライプ柄のトップスにハイウエストのジーンズという出立ちだ。
幻想郷の住人でこの様な格好をする者は居ない。外の世界から来た外来人だ。ナズーリンはこの幽霊に見覚えがあった。
無縁塚の桜がポツリポツリと少しずつ咲き始める頃に、ナズーリンはこの幽霊と出会っている。といっても亡骸の状態ではあったのだが。
部下の鼠からの報告を受けて現場へと向かうも、到着した時には既に事切れていた。身体の至る所を深く切り裂かれ、滲んだ血がどす黒く変色していた。どうやら幻想郷へ迷い込み、獣に襲われたらしい。手遅れだったのだ。
その後の処置は部下の鼠たちに亡骸を食べさせた。これは肉体を自然に還す獣葬という葬い方であり、それを行い、残った遺骨と遺留品はこの墓地に埋葬したのだ。
「何? 知ってる奴? アンタ適当に処理したんじゃないの?」
「そんな筈は無い! これまでも同じ葬い方をしたし、般若心経も唱えて供養した。間違いないよ」
反応を見て訝しむ霊夢に対し、ナズーリンは目一杯否定する。無縁塚の安定化の為だ。手を抜ける訳がない。
獣葬からの土葬という方法は、ナズーリンオリジナルの葬送方法だが、部下の食糧問題と土地柄故に生じた設備不足の為の苦肉の策だ。それでも幻想郷へやって来て数年、同じ方法で何人も葬い続けたが、こんな事態にはならなかった。澱のように未練や悔恨が少しづつ溜まり、この幽霊で発現したのだろうか。
ナズーリンは慌ててロッドを構えて老婆の幽霊へ向く。
思念が堆積されたのであれば、その分だけ数は感じられる筈だ。ダウジングに関しては絶対の自信があるのだ。
反応した数は一つ。やはり幽霊が単独で生み出した未練なのだ。
「ほら見ろ! この幽霊がやってるんだよ! 他はこうならなかったもの!」
「他を吸収したという線は?」
「うぐ……そ、れ……はそうかもだけど……」
鼻息荒く宣うナズーリンとは打って変わって、霊夢は冷静に指摘した。
図星であったナズーリンは返す言葉に窮した。狼狽えるナズーリンに、意外にも幽香が救いの手を差し伸べた。
「貴方、ダウジングで調べられるのよね。なら、未練の原因を調べられたりするのかしら」
「……! 調べてみます」
幽香の言う通りであれば、ダウジングで未練となった原因を探知することも可能である。実体化させられた今なら物であれば反応があるはずだ。
周囲をぐるりと回ると、西へ向いた際にごくごく微弱な反応があった。一度は手ブレによって開いたのだと勘違いしたくらいだ。違和感を感じて、気を引き締めてブレを無くしてようやく感じられた小さな反応であった。
「あ……。あった、ありました。西の何処かに反応があります」
「よろしい。それを早く探すことね」
「待った。幽霊を出せたのなら死神が出張ってくるはずよ。これ以上は出過ぎた仕事なんじゃないかしら」
霊夢の発言は一理あった。幽霊の自主的な成仏でなくとも、死神が魂を回収に来る場合もある。これまでは上手く隠れ仰せて見つからなかったとしても、視認出来る今なら死神に任せて良いと思えた。
霊夢の意見に同意して、ナズーリンも幽香を見る。
「無縁塚の彼岸桜は未練を吸い上げ、花となり、散らすことでそれを晴らす。私が今やったことは癒着したものを解きほぐして、元の流れに戻しただけよ。時が経てば、またこの幽霊は自然の流れに沿って彼岸桜へ吸収される。そうなっては同じことの繰り返しよ」
幽香の説明を鵜呑みにすると、猶予は余り無いと言える。放置すればこの幽霊は自然の法則に従って紫桜に吸われ、閉栓して再び枯れない紫桜へ引き籠ることになる。
何度も幽香に頼るのは何としても避けたい。事の重大さを理解したナズーリンがダメ元でダウジングで死神を探るも、反応は全くない。情報の無い存在を探し出すのは不可能なのだ。
「死神への連絡方法は──」
「無いわよ、向こうが勝手に来るんだから。それと忘れてるかもだけど、幽霊を成仏させるとやらの白楼剣は現在修理中」
「うーむ…………」
手っ取り早い解決策の二つは潰されてしまった。大人しく未練となった物を探し出して成仏させるのが良いだろう。
「これは探すしかないかな……」
そうなるとナズーリンの出番だ。ダウジングで得た微弱な反応を追い、原因となる物を探し当てて幽霊に供えて供養すれば無事解決だ。
「話は決まったようね。必要な分はしたし、私は帰るわ」
「幽香さん、ありがとうございました! お陰様で解決出来そうです。報酬については近日中に必ずお渡し致します」
立ち去ろうとする幽香に、ナズーリンは頭を下げた。苦手意識は取れないものの、最凶の妖怪が、力を、知恵を貸してくれた。それについては本心から感謝してたからこそ、ナズーリンは苦手な幽香でも頭を下げられたのだ。
「二度目は無いわよ。全身全霊で勤しみなさい」
そう言い残して、幽香は無縁塚から飛び去って行くのであった。
幽香が見えなくなるまで見届けた後、後が無くなったナズーリンは、ダウジング用のロッドを改めて構え直した。
「霊夢、依頼変更だ。私はダウジングに全力で集中するから護衛して欲しい。勿論、報酬は上乗せ」
決意に満ちた目をするナズーリンを見て、霊夢は軽く溜め息を吐いた。
「はぁ、アガサクリスQの新刊をようやく読めると思ったんだけどなぁ……。ま、でもいいわ。その心意気に免じて引き受けたげる。思いっきりやってみなさい」
霊夢からも許可が降り、ナズーリンは微かな反応だけを頼りに西へと進む。
性質の悪いことに、反応が時折消えてしまうことがあった。それは集中力が切れた証拠であり、途切れさせない為にその都度気力と集中力を込めなおす。
霊夢も、時折興味本位で邪魔をしに来る妖精を蹴散らし、ゴシップネタを探す天狗すらも力尽くで追い返してダウジングの邪魔をさせなかった。
効率を考えて、空を飛びながらダウジングしても反応の弱さに足を止めさせられて中々先へ進めない。
紅魔館で幽香に頼んだのは丁度日が高くなる頃合いだった。それから数刻が経った。日沈までナズーリンはダウジングし続け、やがてある地点で進行を止めた。
「ハアッ……! ハッ……! ハッ、ハッ……!」
長時間の集中で精も根も尽き果てた。ナズーリンはふらふらと地面へ降りて、へたり込んだ。
「一先ず、お疲れ様。……それで、貴方は此処が何処か分かってる?」
「ハァ……わ、分かってる……」
護衛に当たっていた霊夢は、手を引いて力尽きたナズーリンを助け起こした。
二人がいる場所は荒涼とした草原だ。目立ったものは何もなく、ただただ伸び放題の雑草が延々と続いている。
皐月となったとはいえ、暖かな昼間とは打って変わって日暮れになると空気が冷える。
妖怪の山から吹き下ろす冷たい風が、びゅうと風切り音を立てて駆け抜けていった。煽られた雑草が耳障りに騒めき、薄手の巫女服のままの霊夢が、寒さで大きく身震いした。
この草原に何も無いのには理由があった。この先には幻想郷を形成する為の結界、博麗大結界が存在している。半端者の妖怪では近付くだけで存在そのものが危ぶまれる危険地帯なのだ。
今、二人は幻想郷と外の世界の境目の近くに居た。
疲労から小刻みに震えるロッドをどうにか抑え込み、ナズーリンは西へロッドを向けた。幻想郷中を横断して、ようやく反応は少しだけ強くなっていた。目当ての物はこんな場所には無く、もっともっと先にある。
「霊夢……見ろ、反応はまだまだ先へ続いている。こうなりゃとことんやってやる。私は幻想郷を出て探しに行く」
幻想郷を出ると聞いて、僅かに霊夢の顔が険しくなる。
幻想郷は地続きでありながら、博麗大結界で隔絶された世界だ。それ故に外来人が迷い込み、一部の者は出入りすることも可能なのである。
しかし一部だけだ。人間は外へ出るまでの環境に耐えられず、妖怪は畏れを持たれない外へ出ると、存在を維持出来なくなってしまう。
「博麗神社から結界を開けれるだろう? 頼むよ」
このまま進んで強引に結界を抜けることも出来なくは無いが、壁に穴をこじ開けるようなものだ。霊夢を含めあらゆる人妖の迷惑になる。
幸いなことに、此処に博麗の巫女が居るのだ。
彼女は博麗大結界を任意で開けることが出来る。幸運にも無縁塚で生き残った外来人を保護し、送り返すまで見届けたこともあるからだ。
それを聞いて、眉間に皺を寄せて思案していた霊夢が口を開いた。
「アンタが幻想郷を抜けて無事である保証は? みすみす死なす為に開ける訳にはいかないわ」
霊夢はナズーリンを慮っていた。ナズーリンは鼠の妖怪だ。幻想郷においてはかなり力の弱い方であり、そんな妖怪が外へ出ても無事な訳がないと心配しているのだ。
「問題ないよ。私を含め、命蓮寺の連中は毘沙門天様に帰依している。その毘沙門天様の威光と信仰はどこであっても揺らぐ事はない」
「……」
それを聞いても霊夢は口に手を当て考え込み、未だナズーリンを見定めている。
それを見て不十分だと受け取ったナズーリンは、不本意ではあったが更に説明を続けた。
「それに、だ。私は鼠の妖怪で、外の連中は未だ黒死病の畏れを抱えている。ハッキリ言うよ。白蓮の復活がなければ此処に来る必要すら無かったんだ。……もういいだろう、仏教徒としての私でも、妖怪としての私でも外の影響は無いんだよ」
そこから更に霊夢は思案に耽り、少し経ってようやく口を開いた。
「……いいわ。外の世界へ出したげる。ただし、条件があるわ。ナズーリン。もしもアンタに何かあった時に聖たちに顔が立たない。外では菫子と一緒に行動しなさい」
「宇佐見くんか。ふぅむ、良いとも」
菫子は数少ない博麗大結界を無視して幻想郷を往来する女子高生超能力者だ。何かあった時の為の相方というよりも、ナズーリンが外の世界で暴れない為の目付役といったほうが正しいだろう。
とはいえ、結界開けを認めてくれた以上、霊夢の条件を否定する理由もない。ナズーリンは快くで了承した。
「お互いに準備があるだろうし、アンタはとにかく疲弊してる。明日の昼にでも来て頂戴」
「うん」
「それじゃ帰りましょ。くあぁ、お腹空いたぁ〜」
段取りも一区切り着いたところで背伸びをした霊夢から、可愛らしい腹の虫が鳴った。日も暮れて、夕餉としてはいい頃合いだ。
「この時間ならまだ鯢呑亭が開いてるよね。奢るよ」
「えっ、いいの?」
「追加報酬ってやつだね。あ、そうだ。その代わり酒は呑んじゃ駄目だからね」
「えぇ〜〜!? 美宵ちゃんとこの清酒と煮物組み合わせ最高なのよぉ。ねね、一杯だけならいいでしょっ。ねっ?」
「君、呑んだらいっつも潰れるまで呑んでるじゃん。明日に響くし駄目ったら駄目」
仕事をした日にする晩酌は最高だ、というのが霊夢の持論だ。どうしても酒が呑みたい霊夢はナズーリンに頼み込むが、にべもなく断られてしまう。
「ほんっとお願い、お猪口一杯でいいから! 一生のお願い! この通り! お願いします神様仏様ナズーリン様!」
人里へ向かう間も霊夢はナズーリンに拝み倒し続けるのであった。
翌朝、日もすっかり昇った頃に無縁塚にある簡素な小屋にナズーリンは居た。土間にまで出てしゃがみ込み、見送りに来た鼠を拾い上げる。
「それじゃあ、皆の面倒頼んだよ」
上方を見上げると、ナズーリンへと向けられる無数の目。数百匹は下らない部下の鼠たちが主であるナズーリンの言葉を待っているのだ。
「さて、私はしばらくの間留守にする。君たちはするべきことはこの無縁塚を守ること、そして万が一私の帰還が遅れたら彼の指示に従うことだ。いいね?」
耳を澄ませば、その命令を肯定の意を示す足音が鳴り響く。煩い程に鼠の足音が鳴り響くが、ナズーリン自慢の耳はその全てを聞き分けていた。
鳴らさぬ者を見やれば、その鼠は慌てて音を鳴らす。鼠からすればナズーリンは神にも等しい力を持つ者なのだ。逆らえるはずがない。
「結構。じゃ、行ってくるからね」
全ての鼠が賛同したことで、代表として選出された鼠を地面へとそっと降ろした。鼠は薄暗い小屋の中へと帰って群れの中へと紛れていった。
小屋を出て、墓地へ向かう。中央に聳える紫桜の大樹は変わらず見事に咲き誇っている。
老婆の幽霊は変わらず桜の傍に茫然と立ち続けていた。死神は未だに訪れる気配がなかった。
最早、未練の品を見つけるしか解決の道はない。
無縁塚の留守は鼠らに任せるとして、ナズーリンは墓地を後にし、単身博麗神社へと飛び始める。
今回、ナズーリンは鼠を外の世界へ連れて行かないと決めていた。
幻想郷へ来て早数年。連れてきた部下の鼠たちは全て二世代も世代交代し、外の世界は知らないものへと変わってしまった。未知の場所に連れていっても、少数では役に立てる場面は少ないだろう。
更に、ロッドも置いていくことにした。
一般的に知られる小振りなL字ロッドならともかく、ナズーリンのロッドは武器も兼ねる特注の代物だ。外の世界では巨大すぎて悪目立ちしてしまい使うことが出来ない。幻想郷中を探知範囲に出来る素晴らしい性能だが、この旅では置いていかざるを得ない。
アクセサリーとして誤魔化せるペンデュラムと、ある程度の旅費と肩掛け鞄、耳を隠す為のキャスケット帽という出立ちだ。
装備も部下も使えない状況に些かの不安を覚えつつも、ナズーリンは博麗神社に到着した。
しかしナズーリンは詣でる為に来たわけではない。拝殿で胡座をかいて本を読み耽る霊夢を見つけて、そこへ降り立った。
「こんにちは。約束通り来たよ」
「いらっしゃい。準備出来てるわよ」
霊夢が指を差す参道から少し外れた境内には、空中に札が貼り止められていた。こともなげに準備をしたと言っているが、それ自体が神業に等しい。
そんな札に霊夢が霊力を流せば、結界を超える境界が生まれるという訳だ。
「てっきり二日酔いで潰れてるのかと思った」
「まっさかぁ。やるべき事があるのに、私がそんな酷いことするもんですか」
「はは……」
ニヤリと霊夢は不敵に笑うが、昨晩は最後の最後まで酒が呑みたいと駄々を捏ね続けていた。それを延々と聞かされ続けたナズーリンは苦笑いするしかない。
幸いにも別れてからも飲酒をしていなかったようで、一抹の不安が解消されてナズーリンは胸を撫で下ろした。
「ちゃっちゃと済ませましょ。早く続き読みたいし」
「うん」
ナズーリンは札の前に立った。いざ、外の世界へ。
「成程、お前の仕業かい」
不意に声が何処からともなく聞こえ、周囲に霧が立ち込める。一瞬にして霧が晴れると、一人の少女がナズーリンの前で浮いていた。
身体から垂れ下がった複数本の鎖がジャラジャラと耳障りな音を立てて鳴り、威圧感を与える。小柄なナズーリンよりも更に小さい体躯でありながら、膝まで届く茶髪のロングヘアが獣を彷彿とさせた。
そして頭から生える二本の長く捻れた角。
白のノースリーブから出たひょろりとした細腕からは信じられない程の怪力を誇り、その力は海内無双。腕力だけならあの風見幽香以上である。
幻想郷に棲まう強種族である鬼、伊吹萃香がナズーリンの前に立ちはだかった。
「──っぷぁ。霊夢とは飲みの約束があったんだよ。なのに昨日欲を萃めても一滴も飲みやしない」
萃香が腰に付けた紫の瓢箪を取り、それを煽ると、酒臭さが辺りに広がる。ナズーリンはその強烈な匂いに鼻を摘みたくなるが、鬼を前に不躾な真似をしてはいけない。
昨晩、妙にやたらと霊夢が酒を呑みたがったのは萃香の能力の仕業だったようだ。
「しょうがないじゃないのよ。仕事なんだから」
「でも約束は約束だ。私は約束を守らん奴は嫌いだよ」
嫌な予感がする。鬼は好戦的な性格だと聞く。その上でやむを得ないとはいえ、霊夢が約束を反故したとなると戦闘は免れないかもしれない。
ただでさえ力の差は歴然だというのに、装備が欠けてしまっている。最低限の装備しかないナズーリンでは手も足も出せない。この場は霊夢に任せるしかなかった。
即座に札とお祓い棒を構えて、霊夢は臨戦態勢を取る。
「そりゃアンタが勝手に決めたことでしょうが。とにかく、やるならこの子を外に送ってからよ」
「外……?」
外と聞いた萃香はドロン、と文字通り霧散し、次の瞬間にはナズーリンの肩に首を回していた。
「なんだい、お前さん外へ行くのか」
「ちょっと萃香!」
その様子に憤然とする霊夢を無視し、萃香はナズーリンに話しかける。
肩に回された腕はとてつもない剛力で、身動きすることすら出来なくさせられる。
「ええ」
力の差による恐怖と、強烈な酒臭さで顔を歪めそうになるが、平静を装ってナズーリンは答える。せめてもの抵抗であった。
「ならさぁ、酒買ってきてよ。なんだっけ、ハッポー酒? だったか。ああいう感じので良いからさ」
外の酒は中々手に入らんからさー、と言いつつ萃香は更に瓢箪の酒を呑む。大量に呑み続けているが、瓢箪からは酒が無限に湧き続けると聞いたことがあった。
「そんなのマミゾウに頼めば良いでしょ!」
霊夢は武器を構えてはいるものの、手は出せなかった。依頼主であるナズーリンを傷付ける訳にはいかないからだ。それを見越して萃香もナズーリンを離さないのだろう。
「高いんだもん。だからさ、お前……えぇと」
「ナズーリン」
「そうナズーリン。お前が酒を買ってきてくれると約束するなら、この場は大人しく手を引こう。もし、ちゃんと酒を用意してくれれば、見返りとして助けになってやると私からも約束しよう。どうだい、破格の条件だろ?」
逃げ道を潰しておいてその言い草は不条理そのものだが、鬼からの助力を約束出来るのは確かに破格だ。
それにナズーリンが知る限り酒の入手は容易だ。酒屋へ行き、年相応の小娘のふりをして親のお使いだと言ってしまえば、飲まないよう釘を刺されつつも一応の購入は出来る。
「分かりました。種類や量まではご期待に添えるとは限りませんが……」
「いいって、流石に選り好みまではせんよ。此処では手に入らんやつにしてくれりゃそれでいい。例えば……ワインとかだな」
多少なりとも指定をしている上にさっき挙げていた発泡酒から変わっている。その時点で選り好みしているじゃないかと突っ込みそうになるが、反感を買いたくないナズーリンはグッと堪えて頷いた。
「あんがとよ、ナズーリン。それじゃ行ってきなー」
「うぉっ……と」
軽く背中を押されて、ナズーリンはたたらを踏む。
萃香とナズーリンが離れた瞬間、針の弾幕が萃香を襲うが、当たることなく萃香は霧となって消え失せた。
「チッ……」
「早く結界を開けてやりなよ。私の酒の為にもさ」
声だけが境内へ響き渡る。霧が晴れると萃香の気配は無くなっていた。
「次見かけたらボコボコにしてやる……」
「こっちがボコボコにされるかと思ったよ……」
酒の匂いも消えたことで、肩を落として緊張を解きほぐす。
「昨日といい、悪いわね」
「いいって。それより早く開けてよ。また絡まれたら敵わないし」
謝る霊夢を制止し、結界を開けるよう促した。
そう言われて霊夢は札の前へ歩み、札へ手を翳す。すると、札を起点として回廊が生み出された。大の大人がやっと通れる程度の大きさだ。
回廊の先は別の景色が広がっている。外の世界のはずだが、草木に覆われ、荒れ果てているのが見て取れる。
「余計なことするんじゃないわよ」
しないと分かっていてもそう釘を刺すのは、博麗の巫女としての役目なのだろう。
「分かってる。なるべく早く帰るよ」
ナズーリンは手をひらひらと振り、開けられた回廊へと歩みを進めた。
「気をつけてね」
聞こえないよう呟いた、優しく柔らかい、小さな小さな声がナズーリンの耳に届いた。強気な、刺々しい対応が目立つ霊夢だが、それは博麗の巫女としてなのだろう。
通り抜けた際に瞳にちらつく木漏れ日に目が眩む。眩みが治った後、振り返って見ると、回廊は閉じられて博麗神社の姿は消え失せ、荒れ果てた雑木林が広がっていた。
幻想郷では感じられない人間が発達した証である化学工業特有の臭いが鼻に付き、自然溢れる場所であるのに捨てられた空き缶が目立つ。こんな場所でも存在する人工物がナズーリンにようやく来たと実感させた。これが数年ぶりに帰る外の世界であった。
ようやくやって来た外の世界だが、ナズーリンがまずやるべきは兎にも角にもダウジングだ。
首に掛かったペンデュラムを外し、ダウジングを始める。垂れたペンデュラムが宙に浮き、ある一点を指し示した。
「こっちか」
ロッドに比べて精度は落ちるが、知っている者が相手ならペンデュラムでも方角くらいは楽に調べられる。宇佐見菫子は東の方角に居る。
一方で、問題の未練の品はペンデュラムダウジングでは反応が弱々しい。相も変わらず微かに揺れるのみだが、幻想郷ではペンデュラムは無反応であった。外の世界へ来て近付いた証拠である。
方角は更に西を指し示した。
「ヨーロッパとかじゃないだろうな、まさか……」
世界にまで足を運ぶとなると、かなりの時間を要することになる。
多少の余裕はあるとはいえ、路銀の補給もすべきだろう。
何はともあれ、まずは菫子と合流だ。効率を考えれば単独行動の方が良いが、来なかったと霊夢に報告されては困る。
「麓に降りるまでは飛んでも大丈夫かな……」
音を聞く限り、何処かの山中であることは間違いない。厳密な場所が分からないのは、鼠を置いてきた弊害である。
外の世界でやるべきことは、宇佐見菫子との合流。次に路銀となる資金の確保、そして未練の品の確保、最後に萃香への貢物となる酒の確保である。
整理してみると時間的猶予に対してやるべきことが盛り沢山だな、とナズーリンは胸中でそう独り言ちる。
誰にも見つからないように警戒して山間をギリギリで飛び、ナズーリンは菫子の居る東の方へと飛び立って行った。
神奈川県に東深見という街がある。県庁所在地の大都市横浜からは遠く外れ、郊外と表現するに相応しい、住宅街が大部分を占める何の変哲もない街だ。
東深見からの最寄り駅も、小さなバスロータリーがあるくらいで、その周囲でだけ飲食店がひしめいている。土地を余らせる程度ではなく、かといって人通りも多い訳ではない、至って平凡な街であった。
そんな駅の改札口でナズーリンは壁に寄りかかって待っていた。待ち合わせる相手は勿論、今こちらへ小走りに駆け寄る少女だ。
「お待たせ〜、ナズッチ」
「やあ、宇佐見くん。久しぶり」
そう言ってナズーリンに駆け寄った少女、宇佐見菫子はナズーリンの肩を叩いた。
菫子は幻想郷では女学生の制服にマントを羽織っていた。しかし、今は皐月の初旬。即ちゴールデンウィークである。
制服を着ていては逆に浮いてしまうということで、菫子は白い無地のトップスに青のチェックスカートという出立ちだ。共通しているのは白いリボンを付けた帽子とアンダーリムの赤い眼鏡くらいだ。
「いやー、外で幻想郷の知り合いと会うって違和感が凄いわね。しかも地元で」
「フフ、確かにね。さ、とりあえず行こう。あまり時間がないんだ」
「あーっと、ごめんナズッチちょっと待って。一旦さ、私ん家行こ?」
「はぁ? ……ああ!」
菫子は改札へ向かおうとするナズーリンの手を取って止めた。
止めたことを訝しむナズーリンであったが、菫子の家と聞いて合点がいく。
宇佐見菫子は超能力者である。サイコキネシスやテレキネシスはお手のもの、そしてテレポーテーションも使えるのだ。そんなオカルトな内容を公共の場で話す訳にもいかない。だから自宅へ誘ったのだ。
電車よりも飛行よりも更に速い移動手段だ。これを使わない手はない。
菫子に従って、駅からバスで十数分揺られたところで降りる。近くに平家型の倉庫があるくらいで、都市によくある一戸建てが整然と並び、その内の一つが菫子の実家であった。
「お邪魔します」
「おかあ……あー、親は仕事で出払ってるから。遠慮なくどうぞ」
「ふふっ……」
お母さんと言おうとするも、見栄を張って親と呼ぶ辺りに年相応らしさを感じて思わず小さく吹き出してしまう。幻想郷でよく見てきた自由奔放さとは大違いだ。
菫子へ着いていき、二階の一室へと案内される。部屋はオカルトに関する物で溢れかえっていた。
西洋のオカルトグッズまみれの部屋の隅で、どうやら幻想郷から持ち帰ったものが一部あり、歳に似合わない古めかしい茶器や櫛、それと霊夢がよく武器に使用する陰陽玉が飾られていた。
「ナズッチが何か探してるー、ってのはレイムッチから聞いてるけど、私はどうしたらいいの?」
菫子はナズーリンに同行する旨だけは聞かされている状態だ。
とはいえ事の仔細を話していては時間が掛かってしまうのは菫子も理解して、自身に求めることを尋ねてきた。
ナズーリンは出されたオレンジジュースを一気に飲み干して話す。
「宇佐見くんにはその超能力で助けてほしいんだ。探し物は正確な形も場所も分からないというのに、時間が無くてね」
「へぇー。でもでも、場所が分からないなら私にはどうすることも出来ないわよ」
それについてはナズーリンに作戦があった。
「何かしらの物であり、場所はとにかく西の何処かに存在する、っていうことは分かってるんだ。私がダウジングで探すから、都度テレポートで運んで欲しいんだけど……まずは路銀の確保だ。奈良の信貴山へ行きたい」
未練の品がどんな物品かは不明だ。最悪の場合は国宝や重要文化財である可能性もあるが、大抵の物金で解決することが出来る。
菫子はスマホを取り出して場所を調べる。
「ナラ、シギサン……と。此処に何があるの?」
「昔、資産を全てそこに隠したんだ。売れば一財産にはなるだろうね」
「あー……何か凄そう」
ナズーリンが暇潰しに金脈を探し当てて、金の雨を降らせていた事実を菫子は思い出していた。そんなとんでもない妖怪の言う資産となると億万長者にもなれる金品が隠されているかもしれない。
「オッケー。場所も分かったし、早速行きましょ。現実で宝探しなんてちょっと面白そう」
ナズーリンは差し出された手を取る。
「あ、目は閉じておいて。テレポート中って移動経路が圧縮されて映っちゃうから気分悪くなるかも」
注意を受けて、その指示通りにする。想像通りであれば引き伸ばされて光の束となった暴力的な景色が視覚に襲い掛かるのだろう。想像するだけでも気分が悪くなりそうであった。
「じゃ、行くよ。──はい、着いた」
嗅覚を研ぎ澄ませると、菫子の合図と同時に家の芳香剤の香りから若草の光風へと変わった。無風から柔らかな風が全身をくすぐる。
目を開ければ、そこは山中であった。一瞬にして移動したのは間違いなく、宇佐見菫子は本物の超能力者であった。
「わぁ……! 懐かしい……」
何百年も修練と布教で練り歩いた山だ。山肌は、尾根は見覚えがある。ナズーリンの指定通り、テレポート先は信貴山で合っていた。十数年経っても変わらない懐かしい場所に、胸いっぱいとなって思わず感嘆のため息を漏らす。
少しの間、景色を見ていた。菫子が察して黙っていてくれたのが安堵した。
「ごめん、行こうか」
「うん」
思い出に浸るのはここまでにして、ここからは隠し場所まで歩いて行くことになる。幸いにも隠し場所までは然程遠くない場所にテレポート出来たようだ。
四半刻程度歩き、二人がたどり着いた場所は荒れ果てた廃寺であった。信貴山には朝護孫子寺があり、大々的に山で構えているのに対し、この廃寺は山肌に隠れるように存在している。参道おろか獣道すら無い、完全に忘れ去られた寺だ。
山門以外で寺の敷地を表すものはなく、その山門は潰れて割れた瓦の欠片が飛び散り、最早原型は殆ど留めていない。本堂も石造りの土台部分は苔むして、切目縁の板は腐り落ちている。
寺を支える円柱の木も腐食が始まり、いつ潰れてもおかしくないのが素人の菫子からでも察せられた。
「こんな所に隠していたの?」
「そりゃ、昔住んでたからね。……ここだ。掘るよ」
「その必要はないよ、っと……」
ペンデュラムが強烈に反応を示す。隠された資産を掘り起こそうと、ナズーリンが腕捲りをするも、徐に地面を割って石の箱が浮き上がった。
菫子がサイコキネシスとレビテーションの合わせ技で、地中に埋められたそれを無理矢理引き抜いたのだ。
「おっ、お、おぅ……。そうか、超能力ってのは便利だなぁ……」
想像以上のパワーにナズーリンはただただ圧倒されていた。
石箱の中身は、ナズーリンが外の世界へ居た時にコツコツと集めてきた物品の宝庫だ。
蓋を開ければ、金銀財宝がぎっしりと詰まった中身が目に飛び込んできた。適当に一つ取っても相当の価値があるのだろうと、菫子にそう実感させるには十分であった。
「これらを適当に質に入れれば、当面の路銀は足りるだろう」
こんな時の為に集めといたんだ、と自信たっぷりに息巻くナズーリンだが、菫子は渋い顔でスマホを操作している。
「ナズッチ〜。それ無理っぽいかも……。質屋って身分証明が必要だけど、ナズッチ何か持ってる?」
「え!?」
眼前に突き出されたスマホの画面は、質屋のホームページだ。確かに身分証明が必須であると記載されていた。
予想外の返答に驚きを隠せない。ナズーリンが知る頃は、それなりの身なりをして金品さえ持っていけば、鑑定して金に変えられたはずだ。
「……持ってない…………」
身分証明をしなければならないが、生憎とそんな物は無い。ナズーリンは持っていないと絞りだすように言った。
ナズーリンはゆうに千歳を越える妖怪だ。例えば、戸籍を持てば年齢がとんでもないことになり、役場で大問題となるだろう。そう考えて身分の無い存在のままでいたのだ。
「な、ならそうだ、宇佐見くん。君が売り捌けば良い」
「学生が持っていったら、すこぶる怪しまれるよ」
「ぐ……」
苦し紛れの案を閃いたものの、にべもなく却下されてしまう。尤もな意見で、菫子は学生の身だ。そんな若人が宝石や年代物の貴金属を持ち込めば、盗んだと怪しまれて連絡されるに決まっている。
「……あ、駄目だ。高校生不可みたい」
「んんんんんんん…………あっ!!」
駄目押しの情報に頭を抱えて天を仰ぐ。こんな事なら多少時間をかけてでもマミゾウに頼んで偽の個人情報を用意してもらうべきだった。万事休すかと思われたが、その瞬間ナズーリンは思い出した。
こんなこともあろうかと通貨をある程度残していたことを。
石の箱の宝石の山を掻き分けて、片隅に放り込まれていたせんべい缶を拾い上げる。
錆びて歪んだ蓋を無理矢理こじ開けると、中には除湿剤とジップロックに詰められた紙幣が幾つも詰まっていた。
「うわすっご……」
「偉いぞ、昔の私! どうだ、これなら問題無いだろう!」
鼻高々に自画自賛するナズーリンに菫子は若干引きつつも、紙幣を手に取る。
「ナズッチぃ〜、これ旧札じゃん。諭吉はもう使えないよ」
再び使えない代物が出たと思い、菫子は顔を顰める。しかし、ナズーリンは今度こそ余裕があった。
「いや、これは流石に大丈夫だと思う。制度が変わっていなければ銀行に持っていけば現在の紙幣に交換してくれるはずさ」
再びスマホを叩く菫子。文明の利器に頼りっぱなしか、とも思えたが、寿命の短い人間でもまだまだ若い。仕方のないことなのだろう。
「ホントだ。へー」
「強いていうなら、ここにある分を丸ごと両替するのは止めた方がいいね。さっき言ってたように怪しまれるよ」
ナズーリンの埋蔵金は数百万円はあった。急激な物価高騰でもない限りは大金となる額である。菫子も同意見で頷く。
ナズーリンは適当に一つのジップロックを拾い、菫子に投げ渡すと石の箱も含めて全て密封した。
「じゃあ私は適当に両替してくるね。ちょっと待っててよ」
「万が一理由を聞かれたら『旅行の為に貯金箱を開けたら出てきた』とでも言えばいいよ」
「オッケーオッケー」
そう言って菫子は眩い光を放ち、消えた。一瞬、持ち逃げも考えたが、盗られたところで痛手ではないし、石の箱の財宝は最早誰であっても手に余る価値の代物だ。
一人残されたナズーリンは、箱に寄りかかりながらかつての古巣をぼんやりと眺めて待つ。
「…………」
遠い昔、白蓮を筆頭に命蓮寺の主要な面々は封印され、ナズーリンと主人であり本尊の寅丸星だけが残された。残った寺は二人で管理するも、妖怪寺だという噂は広まり、逃げるように檀家は大幅に減っていった。
檀家が減れば当然食い扶持も減る。見かねたナズーリンが当座の立て直し資金として用意したのが、この石の箱に入った金銀財宝であった。
星は持ち前の生真面目な性格から、この財宝に手をつけることはしなかった。その結果が永い年月をかけて腐敗し、原型を留めぬほどに廃れてしまった寺だ。
「その結果が今こうして活きているんだから分からないものだよなぁ……」
百年は昔だというのに、揉めに揉めたことは今でも鮮明に覚えている。星と全力で喧嘩した唯一の出来事だったからだ。
そうやって人間に紛れて暮らしていた頃に思いを馳せていると、菫子が戻ってきた。
「おかえり。どうだった?」
「問題無かったけど、記録には残ったからしばらくは両替出来そうにないわ」
じゃーんと自慢げに新一万円札を扇状に広げて見せびらかす菫子。
余程高価な物で無ければ購入出来るだろう。未練となる物が宝石やヴィンテージ物でないことを祈るばかりである。
「だろうね。軍資金の余りと旧札の残りはあげるよ。手間賃ってことで」
「うっそ、マジ!?」
ジップロックに包まれた残った旧札は未だに掴めるほどの厚みを持っている。旧札とはいえ数十万円は下らないそれが意図せず手に入ったことで、菫子は聞いたこともない素っ頓狂な声を上げた。
「とりあえずこれ元に戻してよ」
「あっ、は、はい分かりました。へへ……」
石の箱を叩き、片付けるように指示する。
露骨に態度を変えた菫子は、へこへこと腰の低い素振りを見せながら箱を超能力で埋め直した。
その態度にナズーリンは眉根に皺を寄せた。脳裏にチラつく毘沙門天神や星へ媚びへつらい、機嫌を伺う愚衆の姿。
今回の異変でナズーリンの金払いが良いのは、各々の能力に対し、支払える対価では金銭が最も有効だと判断したからだ。
「気持ち悪いからその変な態度は止めて。どうせすぐには使えない金だろ」
「ごめんなさい、冗談です。……ゴホン、それで? 次はどうすれば?」
明らかに機嫌を悪くするナズーリンを見て、菫子は素直に頭を下げた。
関係性に亀裂を入れるつもりもないし、菫子はすぐに謝った。気に留めていない、と平静をアピールして質問に答える。
「問題の物は未だ西にある。とりあえず主要都市辺りに飛んでもらって調べるって感じかな。九州まで行ってもまだ西なら……」
「フランスまでテレポートしたことあるから大丈夫! 世界の果てでも付き合うわ」
一体どんな理由でそんな所まで行ったのかは気になるが、これで世界の何処かにあっても探すことは出来る。
ペンデュラムの振れ幅は信貴山に来てから明らかに強くなっている。
「心強いよ。とりあえず行こうか。まずは大阪からだ」
菫子の手を取り、二人はテレポートした。
大阪、箕面の山へと飛ぶ。人の気配を探知出来るのか、菫子のテレポーテーションは上手く人の目が届かない所に飛んでいた。
「どうナズッチ? 何か手掛かりは掴めそうかしら?」
箕面の滝を眺めながら菫子は聞く。折角バレないようにテレポートしたのに意味が無いなと思ったが、菫子が見てみたいと言うのであれば優先せざるを得ない。
ゴールデンウィーク中ということもあり、観光客が多く来ている箕面の滝は、雄大に流れる滝と自然豊かな風景を気軽にアクセス出来て見れる所が魅力だ。
今は瑞々しい緑の森と滝を眺めるだけだが、夏になれば地元の人間が泳ぎ、秋になると紅葉が色付き、また違った優美な景色が見られる人気のパワースポットだ。
ナズーリンは観光客に気取られぬよう気を配りながらダウジングを済ませた。ペンデュラムは大きく西へ振れている。
「まだ西だね。気が済んだら次へ行こう」
「うん、じゃあ行こう」
菫子はあっさりと箕面の滝から離れる。
ただの観光か、パワースポットのエネルギーを何かしらに充填させると思っていただけに、ナズーリンは意外に思えた。
人気の無い場所へ移動する際、菫子はナズーリンに耳打ちした。
「ネットの写真が綺麗だから見に来たたんだけど、妖怪の山の滝に比べれば大したことなくない?」
「そ……れは、比較対象が悪い!」
妖怪の山は富士山に比肩する雄峰であり、天狗と河童が管理をする大自然の大滝だ。その威容は菫子の言う通り比べ物にならない。
箕面の滝自体は素晴らしい場所なのだ。比べる相手が悪すぎて、ナズーリンは思わずツッコんでしまうのだった。
神戸、高雄山。山から見る神戸の夜景は、何物にも変え難い美しい煌めきが満天の星々を思わせる。
しかし、ナズーリンと菫子が到着したのは真昼の頃合いである。快晴である為、照らされて輝く瀬戸内海を一望出来る。
「よく晴れた日だと淡路島が見えるんだって。……何処?」
菫子は海とスマホを交互に見て位置を照らし合わせて、どうにか淡路島を一目見ようと目を凝らしている。
「丁度、水平線上付近に橋の繋がった平たい島が見えるだろう? それが淡路島だよ」
「ええぇ……。橋も見えないんですけど……」
ダウジングしつつもチラリと目を海に移しただけで菫子の問いに答え、ペンデュラムに再び視線を戻す。
菫子は睨みつけて海を見続け、遂にはスマホカメラのズーム機能を使いだすも、それでも見えなかったようでとうとう諦めた。
「あーもう、無理無理! 見えません!」
「そうかな、私にはくっきり見えているが……あっ」
「ん? どしたのナズッチ」
匙を投げる菫子を尻目に、ダウジングの結果が示される。これまで一直線に西を指し示し続けたダウジングだが、南南西へと変化していた。つまり、接近したことで具体的な位置を知らせるようになったのだ。これは重要なヒントになる。
「方角が変わった。これでかなり場所も絞れるぞ。宇佐見くん、次からは南へ移動したい」
「いいよ、何処行きたいかはナズッチが決めてよ」
菫子はスマホを差し出した。地図のアプリが開かれている。
ナズーリンは現在地と示された方角を頼りに、地図と睨めっこして移動先を決めた。
「淡路島へ行こう。一気に飛んで交叉点を作り出す」
「了解。じゃあ飛ぶよ」
そうして二人は淡路島の山中へとテレポートした。
「悪いけど観光は無しだ。淡路島は玉ねぎが名産で美味しいから、いつか親にでも買ってやるといい」
「はーい。……でも野菜とお米は幻想郷産に勝てるかな」
幻想郷の野菜や穀物類、果物に関しては絶品である。なにせ豊穣を司る八百万の神が見守っているのだから。
「銘柄が不明な物を現代の人間が食べるとは思えないね。というか持ち出せないだろ、それ」
そう言いつつダウジングすると、ペンデュラムが指した方角は北東。読み通り、目的地を通り過ぎていることを表していた。
菫子の地図に書き込んだ、高雄山からの線と淡路島からの線。その交点に目当ての物が存在する。その場所とは──。
「元町」
神戸市元町。阪神地区の若者の街、三宮と貿易の街、神戸の間に位置する地域だ。
貿易が盛んな神戸の一帯にあることで、ブティック等のハイカラな商店街として栄えることになる。時代が進んだ現代においては昭和レトロな雰囲気を持つバッグや服飾を取り扱う雑貨店と港町らしく舶来品、古美術品が売られる独自の商業街道を形成している。
元町駅の駅前は南京町と呼ばれ、横浜・長崎の中華街と並ぶ三大中華街として、中国東南アジアの料理店や屋台が所狭しと通りに建ち並んでいる。
ナズーリンと菫子は南京町の通りを歩きながら天津包子に舌鼓を打っていた。
「ん〜〜! 美味しいー!」
「椎茸がいい味出してるんだよね」
一口サイズより少し大きめの肉まんで肉がぎっしりと詰まっているのが売りだ。椎茸がアクセントとなって旨味が増し、南京町人気の商品だ。行列は当たり前だが、二人が来た時は運良く殆ど待たずに購入出来た。
時間は夕暮れへと差し掛かろうと、空は朱く滲み始めている。夕食には早いが、南京町の旨そうな匂いに釣られてしまったのだ。
「それで。どうするの? 場所は分かったけど」
「んむ……」
そう言われて、ナズーリンは包子を食べる手を止めた。とはいえ、既に十個は軽く食べているので、菫子からは言葉に詰まったのか食べ飽きたのかは分からなかったりする。
元町に着いた二人はダウジングに従い、元町商店街から近い、ある小さな雑居ビルに辿り着いた。
目当ての物はすぐそこにある。そう思っていたが、最後の壁が立ち塞がる。
ペンデュラムが示す先はなんとレコードショップだったのである。
実質的に未練の品はレコード盤と判明したが、問題はその数である。数千、いや数万枚はあるであろうレコードから何の情報も無しにたった一枚を探し当てなければならないのである。
馬鹿正直に探しては時間が掛かりすぎるとして、作戦会議も兼ねて南京町で軽食を取りに来たのであった。
「んぐ……。部下を置いてきたのは失敗だったな。先行させて死角を探らせるべきだった」
無い物ねだりしても仕方がないが、こういった時には部下の鼠が大いに役に立つのである。
「じゃあ、現地の鼠に手伝わせるのはどう? こういったとこって、その、結構居そうだし」
「あー、ダメダメ。そういうやり方は確かにあるけど、野良の鼠は即物的でね。こういった飲食街があると途端に使えなくなるんだよ」
ナズーリンがチラリと目をやれば、屋台の隅、その陰に隠れるようにドブネズミが落ちた胡麻団子を咥えて駆け抜けていくのが見えた。
遥かに格上の鼠であるナズーリンの存在に気付かない辺りがその性質を如実に表していた。訓練されていない鼠は本能が強すぎるのだ。
続いて、ナズーリンが菫子に尋ねる。
「宇佐見くんはどうなの。こう……透視とか念写みたいなのって使えないの?」
包子を食べ終えて、タピオカミルクティーを飲む菫子は首を振る。恐らく、幻想郷で見せる超能力の数々が使える能力の全てなのだろう。
とはいえ、道中で協力してもらった超能力だけでもとんでもなく助かっているので、これ以上を望むのは野暮なだけである。
「そっか……。まぁ、案がない訳ではないから、とりあえず試してみよう」
ひとしきり休憩した後、二人はビルの前に居た。大通りから外れ、商業通りだが人通りは多くない。
夕暮れとなり、建物から射す灯りの方が目立ち始めてきた。相対的に街頭が点いてない通りは薄暗くなってきている。ダウジングをしてペンデュラムを浮かせても目立たないだろう。
ナズーリンはペンデュラムに意識を集中させて、ビルへ向けた。指し示した位置は一寸のズレもなく直線的に指したものだ。
「ラインは覚えた。行こう」
二人は雑居ビルのレコード店へと入る。
レコードというのは昭和の頃の時代に流行った音楽文化である。そういうイメージが強いが、昨今では再流行の兆しを見せており、CDよりも売り上げは好調であったりする。
流行によって若者への認知も増え、店内には菫子よりも一回り年上ぐらいの近い年代の客が数人居た。てっきり菫子の祖父母くらいの年代ばかりが客層だと思っていただけに、これは僥倖であった。店内に居ても存外不自然では無い。
作戦は至ってシンプルで、音楽に興味のあるふりをしてジャケットを眺めるなどをして菫子が壁になる。そこから生まれた死角を利用してナズーリンがダウジングして絞っていく。ただそれだけである。
ビルの外で行ったダウジングで、おおよその位置は絞っている。
アーティスト名が『は行』の棚に存在することは突き止められた。そして縦置きでぎっしりと詰められたレコードジャケットの塊を捲っていき、遂に目当ての品を探し当てた。
念の為、再度ダウジングを仕掛けるとペンデュラムはアルバムを指した。間違いなくこれが未練の品だ。
「えーっ!? これってルナッ──もがっ!?」
「バカ、声が大きい」
突如、驚愕の叫び声を菫子は上げる。ナズーリンは慌てて菫子の口を塞いだ。とにかく目立つ行動は避けたいのだ。
狭い店内での異変。何事かと一斉に視線が注がれるが、それが他愛のない黄色い声と分かり、ジロリと一瞥されるだけで終わり、一先ず安堵した。
ただ、菫子が声を上げる理由も分からなくもない。レコードのジャケットに書かれたアーティスト名はルナサ・プリズムリバー。幻想郷に住む騒霊少女の見知った名前がそこにあった。
「え? どういうこと? なんでこんなところに?」
「かなり古いレコードみたいだし、生前の作品とかなんじゃないかな」
諌められて声を顰めるも、菫子は未だ混乱の最中にあった。
発行年を見れば一九三〇年代に造られた物だと分かる。包装ビニールに包まれていなければ剥げてしまいそうなほどに、色褪せてボロボロのレコードジャケットだ。
ジャケットに映る金髪ショートヘアの初老の女性は、確かにどことなく幻想郷のルナサの面影があった。
古いレコードと騒霊少女となっているルナサ。ナズーリンの憶測に菫子も合点がいったようだ。
「なぁるほど。言われてみればそうなのかも……」
「全部解決したら当人に確認を取ってみてもいいかもね」
「そうと決まれば、早速買いましょう」
「うん。……あ、そうそう。それ、一品しかないプレミア物っぽいから扱いには気を付けてね」
軽々しく持ってレジに向かう菫子に、ナズーリンはそう釘を刺した。
ダウジングをしてもペンデュラムはピクリとも動かない。少なくとも国内には同一のレコードは存在しないことを意味していた。所謂プレミア品である。
発売された年代を鑑みれば、戦火に焼かれたか、約一世紀という永い年月が劣化を生み、廃棄させたのだろう。残っているだけでも奇跡である。
当然ながら菫子は知らないが、紫桜に憑いた幽霊の見た目は外国人の顔立ちであった。恐らくは、方々を探してルナサ老のレコードが日本にあると聞きつけて来たのだろうと推測していた。
一点物と聞いて、菫子の動きはピタリと止まり、片手で掴むでいたところを、恭しくレコードを懐に抱えてレジへと持っていくのであった。
「さて、無事にレコードは手に入ったことだし……後は帰るだけ?」
ビルの外へ出て鞄にレコードを仕舞い込む。菫子が超能力で保護しようとしたのは丁重に断っておく。
この後の処遇を聞かれて思い出してしまった。鬼へのご機嫌伺いである。
「後は……お酒を買って終わりだね。適当に酒屋で買ってくるから、その後何処かで食べるかい?」
旅費は菫子のテレポートで大幅に削減され、手持ちにかなりの余裕がある。元町から少し東には日本酒の名産地、灘五郷もあるし、そんな上等な酒なら萃香のお眼鏡にも叶うだろう。
こともなげに言うナズーリンに対し、菫子は肩を掴んだ。その表情は非常に切迫していた。
「ナズッチ、確か信貴山で身分証明になるもの無いって言ってたよね」
「そ、そうだね。法律があるのは知ってるよ。でも、そうはいってもそこまで──」
「甘いわね。時代は進んでるのよ、ナズッチ。昔はどうだったか知らないけど、今はもう身分証明しないと何処も買えないわ」
「へ……?」
気軽に考えていたが、実情を知らされ、間抜けな声が漏れてしまう。ナズーリンは血の気が引いたのを感じていた。悪い予感に背中の肌が粟立つ。
「コンビニは自動で年齢確認させられるし、自販機でも身分証明出来るものを読み取らせないとお金も入れられない。酒屋なんてもっての外よ」
最後の最後でとんでもないものが待っていた。萃香に頼まれた酒が入手出来そうにないのだ。
現在のナズーリンに身分証明する物はなく、菫子は未成年の高校生だ。二人とも、酒を購入出来ないのだ。
絶望感に眩暈がする。残された手は二つしかない。
犯罪に走って酒を盗み出すか、ノコノコと手ぶらで幻想郷に戻って萃香の不興を買うかである。
見張り役の菫子の前で犯罪に走る訳にもいかず、かといって鬼の萃香との約束を反故すれば、待っているのは確実な死だ。
詰みの状況を思い知らされて、打ちひしがれそうになる。
「ナズッチ、事情を教えて。何でわざわざ外の世界で酒なんか買う必要があるのか」
否定の材料を並べ立てるも、菫子はナズーリンの意図を汲んでくれた。
まだ協力してくれるつもりだ。藁にも縋る思いで、ナズーリンは菫子に酒を買う経緯を話すのであった。
「萃香さんに目を付けられたのね……。気の毒に……」
「約束しないと来られなかったんだ……なのにこんなことになるなんて……」
駅前の花壇の縁に座り込み、すっかり意気消沈してナズーリンは肩を落とした。萃香の野放図さは菫子も知るところであり、ナズーリンに同情した。
背中を丸め、蹲るナズーリンの背中を摩りつつ、菫子はスマホを開いて何か操作していた。まるで何かを確認するかのようだった。
「ふん、ふん……よし。ナズッチ! まだ何とかなるかもしれないわ」
「え……?」
菫子は立ち上がって、手を差し伸べる。
しかし、困惑するナズーリンに焦れて、菫子は手を取り引っ張った。
「時間が無いわ。移動するから捕まって」
「移動するって……何処に?」
「沖縄!」
那覇市国際通り。沖縄で観光や買い物といったら此処、と言わしめる人気のストリートだ。時期も合わさって人でごった返している。
街路樹がヤシの木であったり、ゴールデンウィークの頃合いながら既に本州の夏と変わらない程暑いところがまさに日本の南国、沖縄といったところだ。
そんな国際通りの一つの土産屋から一人の女学生が出てきた。女学生は大サイズの紙袋を両手に提げ、店舗の外で待っていた小さな老婆に声を掛けた。
「お待たせしました、ナズせーんせ。無事、買えました」
「何だその呼び方は。あ、荷物持つよ」
老婆の正体はナズーリンであった。花柄模様の水色のブラウスを着て、無地の茶色のロングスカートを履いている。耳を隠す用のチューリップハットを被っていて、銀髪は婦人服の格好と合わさって、側から見れば老齢のように見せかけていた。
「いいよいいよー。ナズせんせーは今おばあちゃんだから、持たせる訳にはいきません」
女学生は勿論菫子で、格好が幻想郷でよく見かける紫のチェック柄の制服へとなっていた。
「『学生でも土産の名目であれば酒の購入は出来る』か。よく閃いたね、こんな事」
「中学の修学旅行でクラスの連中が同じことやったの思い出したの。宅配のみだし、学生証の提示は必須だけど、これなら未成年の私でも買えるってこと」
菫子は、ゴールデンウィークの長期休暇を利用して部活動で遠征に来た学生という体裁だ。ナズーリンは顧問の先生として立ち、菫子の存在に不信感を持たせない為に変装している。
沖縄は修学旅行の定番であり、学生が沖縄名物の酒、泡盛を土産として買うのは何ら不自然ではない。そういった観点から菫子はこういう筋書きを描いたのだ。
実際に、レジに泡盛の一升瓶を持っていっても咎められることもなく会計を済ませる様子を見ていたので、ナズーリンはただただ感心していた。
「泡盛なら萃香さんも納得でしょ。速達にはしたけど、宅配なのでちょっと待ってもらうことになるからね。それと、これ」
菫子は紙袋をナズーリンに見せるように掲げる。
「ゴマ擦り用のおつまみ。これでご機嫌は取れるでしょ」
袋の中は多種多様のつまみとなりそうな物が詰め込まれていた。すぐに外の酒が飲みたいのに、飲めないと知った時の怒りを抑えるものだ。
そこまで見越した菫子の読みの深さと、甲斐甲斐しさに嬉しさがこみ上げる。
「本当にありがとう。なんてお礼したらいいか……」
「いいって。お金も貰ってるし、それに気心の知れる誰かと旅行するのは結構楽しかったわ」
ナズーリンは菫子に頭を下げる。人通りの多い国際通りでなければ嬉しすぎてハグでもしてやりたいくらいだ。
ナズーリンの礼に菫子は、照れくさそうに頬を掻いてはにかむのであった。
陽もとっぷりと暮れた頃に、外の世界から幻想郷へ戻ってきたナズーリンは泥のように眠りこけてしまった。テレポートでほとんど省略したとはいえ、日本の半分以上を縦断した旅だったのだから仕方がないことだ。
幽霊とルナサ老のレコードとの関係性、日数が経ったことによる紫桜の変化も気になるが、まずは萃香への献上を済ませなければならない。
陽はすっかり昇った清々しい朝だが、菫子が来るにはまだ早いらしい。その旨も含めて会って説明しようと小屋を出る。
小屋を出た瞬間、ナズーリンの身を纏わりつくように霧が漂い始めた。それが何か理解した瞬間、身体が強張る。
「おはようさん。よく寝れた?」
平然とした様子で萃香が挨拶をするが、霧のまま話しかけてきて恐怖を引き立てる。
取るに足らない鼠のナズーリンの小屋まで特定しているくらいだ。酒が手元に無いことも知っているはずだ。そう自身に言い聞かせて、ナズーリンも務めて平静を装って話す。
「おはようございます。お陰様で目的は果たせました。それで……その、お酒の件なのですが……」
「いいって、知ってるよ。泡盛だろ?」
買った酒の種類をピタリと言い当てられ、ナズーリンは目を丸くする。
霧が集まり、萃香が現れる。呑んだくれているのは当然だが、心なしか機嫌が良いように見える。
「くっ付いて見てたけど、外の世界も随分と窮屈になったもんだね。酒を買うのにあんなに手間取るなんてね」
そう言って萃香はぐびりと瓢箪を煽る。
「それでもナズーリンとウサミ……だっけ、あの人間。お前さんらは酒を用意する算段を付けたし、それに──」
「つまみも買いましたからね……」
ナズーリンが紙袋を見せると、萃香は喜色満面でニンマリと笑った。ふと、手元に違和感を感じ、萃香から紙袋に視線を戻すと紙袋が消えている。
「そうそう、そうなんだよ。これがあるから待ってられる。つまみながら酒を呑み、酒を待つのを肴に酒を呑む……最高じゃん?」
言っていることがとんでもない酒乱っぷりだが、それで許されるなら用意してもらった甲斐があったというものだ。
萃香は紙袋を漁り、土産物を漂う霧に乗せている。
「ん〜、いいねぇ! ミミガーのジャーキーがいっぱいあるじゃん! 私これ好きなんだよ。ちんすこうは定番だけど、こういう甘味が味変っていうの? 地味に効くんだよね〜」
「あの、確認しておきたいことがあるので、これで私は失礼します。泡盛はもう少しだけお待ちください」
渡す物は全部渡した。これ以上萃香相手にナズーリンが出来ることはない。断りを入れて無縁塚の墓地へと向かう。
夢中になっているのか、萃香は土産を広げて一人酒盛りをしていた。
墓地へ行けば、相も変わらず満開のままの紫桜があった。
桜に変化が無いとなると、嫌な予感がする。幽霊の状態を確認しに急いで向かう。
「そんな……」
傍に立つ幽霊の姿は無かった。慌ててロッドを構えて幽霊のダウジングをする。
ナズーリンの嫌な予感の通り、幽霊のエネルギー位置は紫桜の中であった。
自然の摂理故、幽霊が桜に取り込まれるのは当然だが、問題はその後、散らないことにある。
加えて、幽香が幽霊を分断する時に行った手入れの影響か、幽霊の暴走かは不明だが、紫桜から力強いエネルギーを感じ取った。
日を追う毎にエネルギーが増幅されている。今はまだ大したことは無いが、このまま際限なく膨れ上がり続けたら? これが未知の現象である以上、被害妄想とは言えない。早急に手を打たなくてはならない。
再び苦手な幽香の力を借りる必要がある、と若干憂鬱になりつつ考えていると、より一層へべれけになった萃香が、凄まじい酒の臭いとともに墓地に現れた。千鳥足で脚元が覚束ず、今にも転びそうだ。
「ちょっ……さっきの今でもうべろべろじゃないですか」
「らーいじょうぶ、らーいじょーぶ。こぅれが霊夢が言ってた桜ね。この時期に花見ってのも乙だあね。まぁ私、呑めれば何でもいいんだけどね。ナハハ」
能天気に酒を呑み続ける萃香。呂律も怪しくなってきている。この桜の悩みを伝えて手助けしてもらおうかとも思ったが、この様子では当てにならなさそうだ。
「んえー、何だっけ? えーと、桜のゆぅーれいを成仏させたいんだっけ? ホイよ」
べろべろに酔った萃香が震える指先を紫桜へ向けた。すると、桜に吸われた幽霊が何事も無かったかのように静かに立っていた。ナズーリンは思わず目を見張る。
幽香ですら少しは時間が掛かっていた。それを萃香はいとも簡単にやってのけた。鬼のでたらめなパワーにナズーリンは身震いした。
「まぁ、桜なんざ散ってこその花見よな。約束通り、助けてやった。必要な分だけな。後は頑張んな」
呑んだくれの酔っ払いから一変、萃香は冷酷無比の鬼の顔をしていた。
よくよく考えれば、ナズーリンと菫子の旅にこっそりとくっ付いて来ていたし、意図は分かるはずだ。だから困窮した現在、約束を守り、ナズーリンの助けたのだ。
激励を飛ばすと萃香はまた酔っ払いの顔に戻り、ヒラヒラも手を振って霧となり、風に乗って散り散りになっていくのだった。
「へーっ、萃香さん手伝ってくれたんだ」
「正直困ってたから助かった。泡盛はどうしたの?」
「こっちに来た瞬間にぶん取られました。事前に聞いてなかったら取り返しに襲いかかってたよー」
「あー……」
容易に想像がついて変な笑いが込み上げる。ナズーリンと会った時も、実際のところ、泡盛が楽しみで仕方がなかったのだろう。
ナズーリンと合流した菫子は、サイコキネシスである物を浮かべていた。
手回しハンドルの付いた箱の上に、朝顔の花の様な形の大きなラッパのホーンが付いている。レコードを再生する為の機械、蓄音機だ。
レコードが未練の品となると、やるべきことは勿論、音楽を流し、幽霊に聞かせることだ。
「それはそうとナズッチ、蓄音機忘れてたでしょ。だから霖之助さんにお願いして持ってきた」
「う……ん」
菫子は幻想郷に居る時は古道具屋、香霖堂でアルバイトをしている。菫子は店主である霖之助とは、互いに時代の異なる物に興味を持ち、ウィンウィンな関係を築けている。
一方で、ナズーリンと霖之助との友好関係は最悪だ。主人である星が紛失した宝塔を霖之助が拾い、香霖堂でとんでもないぼったくり価格を仕掛けてきた男である。
蓄音機は別の伝手で頼むつもりであった為に、ナズーリンの胸中では全力で拒否していた。
そんなナズーリンと霖之助の関係性など知る由もない菫子が、善意で用意してくれた蓄音機であるのは理解している。無碍にするのは失礼なので、ナズーリンはその厚意に甘えることにした。
「あ、りがとう。他に頼む手間が省けたよ」
「? ああ、年式が違うことを危惧してるのね。ちゃんと調べました。そのレコードはSPレコードで、針も合わせてきてるわよ!」
「エスピー……?」
ナズーリンの微妙な反応を見た菫子は、その原因が若さゆえの無知だと思っていた。適切なセッティングを済ませている旨を説明すると、今度はナズーリンが困惑するのであった。
レコードは年代によって使用される材質が異なり、対応する針が必要である。ルナサ老のレコードは一九三〇代のSPレコードと呼ばれる所謂初期型で、蓄音機もそれに対応する形式が必要とかなり手間のかかるレコードなのであった。
もし間違えれば針がレコード盤を傷付け、二度とまともに聞くことが出来なくなってしまう。
購入した際から菫子は気にかけていたのだろう。針の設定についてはナズーリンも知らないことで、浅学でレコード盤を破損させてしまうところであった。
「最近じゃ香霖堂で流す楽曲の担当も任されてるの。今度あのレコード屋で新作を探してみてもいいかもー」
想像以上に蓄音機とレコードについて知識を持つ菫子に頭が上がらない。
蓄音機を置き、レコード盤を落としてしまわないよう注意載せる。菫子は慣れた手付きで手回しハンドルを回してぜんまいを巻き、レコードの載るターンテーブルを回す。
細心の注意を払って針をそっと乗せると、ノイズの後にルナサ老の音楽が流れてきた。
だが、ヴァイオリンの演奏と何かを英語で歌っているのは分かるのだが、ノイズが酷く、途切れる音飛びも著しい。
ナズーリンは勿論、人間の菫子ですら顔を顰めるほどの劣化ぶりだ。
なにせ百年近くの古い物だ。レコード屋のメンテナンスが悪いわけではないだろう。仕入れるまでに海を渡る環境変化と経年劣化を起こし、とっくの昔に廃盤になっていてもおかしくはないのだ。音楽が聴けるだけ奇跡と言える。
「ごめん、無理!」
菫子がノイズの酷さに我慢出来ず、針を戻した。
途中で演奏を止めたからなのか、紫桜を見るも何ら変化は起こらなかった。
このままノイズだけの音楽を最後まで流しても、成仏する保証は無い。
「どうするナズッチ。レコードが古いからいつ壊れてもおかしくないよ。もう一回流す?」
「いつ壊れてもおかしくない、か……。ならさ、これを生演奏してもらうのはどうかな」
「……ははぁん。良いわね、それ。その案採用」
ナズーリンの魂胆を見抜き、菫子はニタリと笑う。
簡単な話だ。レコードが無理なら、当人に演奏して貰えばいい。レコードの主、ルナサ・プリズムリバーとその姉妹であるプリズムリバー三姉妹に。
そうと決まれば善は急げである。幽霊は三度桜に取り込まれるやもしれないのだ。
ナズーリンと菫子の二人は無縁塚を飛び出すのであった。
プリズムリバー三姉妹は、北西にある霧の湖から少し離れた森の中に建っている廃館に住んでいると言われている。
湖の畔に建つ立派な豪邸である紅魔館に比べ、かなりこじんまりとした大きさの木造の洋館で、健在であった頃は豊かな暮らしをしていたことが伺える。
手入れがされておらず、長年放置された結果、草木に館が侵食されていた。森と一体化する館、そこにナズーリンと菫子はやって来た。
二人が館に踏み入れば、積もった埃が舞い上がる。
「うわっ、すっごい埃!」
「蓄音機とレコードに埃が入ったら大変だぞ、気をつけて」
「それはサイコキネシスで保護してるから大丈夫、安心して」
共に古い道具であり、埃が命取りである。そう危惧していたが、菫子の超能力で保護されていると知り、ナズーリンは胸を撫で下ろす。
屋敷の壁には穴が空き、そこから木漏れ日が差し込んでいる。
何処かからか、微かに音楽が聞こえた。ヴァイオリンとトランペットと鍵盤だろうか。それら全てが調和した見事なクラシック音楽であるが、ナズーリンの聴力を持ってしても音の出処は分からなかった。
「楽団の演奏予約なら一月先までいっぱいよ」
気配が全くしなかった。二人が驚いて後ろを振り向けば、立っていたのは金髪のショートヘアに黒を基調とした服と黒いとんがり帽子、すぐそばにはヴァイオリンが空中を漂っている。
騒霊三姉妹の長女、ルナサだ。
「でも安心して! 落ち込んだら私の音楽で陽気にしてあげる! ほら、踊りましょ!」
ルナサににべもなく断られて絶望していると、背後から菫子に一人の少女が抱きついた。
空色の強い癖毛、ルナサとは対象的なピンク色の装いだ。ルナサ同様、トランペットが漂う。
騒霊三姉妹の次女、メルランである。
落ち込む菫子は強引に手を取られ、トランペットを吹き鳴らして、屋敷のホールでメルランと共に踊る。
「あははー。なんだかよく分からないけど、楽しいわー。死にそうなくらい落ち込んだり、テンション爆上げだったりで意味分かんなーい。あはっ、あはははははー」
メルランと踊る菫子は、見たことがないくらい陽気に笑いながらくるくると踊りを続けている。
菫子の不自然な様子は、噂に聞く、プリズムリバーの姉妹は躁鬱を誘うという現象だろう。となるとその解決となるのは──。
「姉さんたちやりすぎ。特にこの子は人間なんだからモロに影響受けちゃうでしょ。はい、止めた止めた」
ホールの奥から、そう言って出てきた小さな少女は、手をぱんぱんと叩き、同時に浮いたキーボードを鳴らす。
ルナサやメルラン同様に、赤を基調とした服ととんがり帽子を被っている騒霊三姉妹の三女のリリカである。
リリカが音を鳴らすと、徐々に菫子は落ち着いて、やがて平時の状態に戻った。
「なんで私あんなに踊りまくってたんだろ、そういう柄じゃないのに……」
リリカの音は二人の姉が与える精神的影響を戻すという特性があるようで、リリカが居てプリズムリバー楽団として音楽活動を行えるのだ。
「それで、話題の外来人さんと、ええと……鼠の……」
「ナズーリン。よろしくね」
「よろしく。さっきルナサ姉さんが言ったように、私らの予定は詰まってるの。一先ず、用件だけ聞くわ」
プリズムリバー楽団は音楽バンド、鳥獣戯楽に並ぶ、幻想郷でも屈指の人気を誇る音楽隊だ。
人気であるのは知っていたが、予定が詰まっていたのは想定外だった。それでも動いてもらうしかない。
ナズーリンは鞄からルナサ老のレコードジャケットを取り出して、事情を話す。
「外から来た幽霊が少しトラブルを起こしていてね。それの成仏の鍵がこれにあるんだ。でもレコードの音楽を流しても無駄だった。だから貴方に会いに来たんだ。ルナサさん」
老いた自身が映るジャケットを見たルナサは、近付いてそれを取った。
「悪いけど、少し協議する時間を頂戴」
「ええ、勿論」
ルナサは少しの間まじまじと眺め、姉妹の元へ戻る。
三姉妹が離れた場所でヒソヒソと話す内容を、ナズーリンは自慢の耳で盗み聞きしていた。少しでも成仏の手掛かりが欲しいからだ。
「これは私だけど、私じゃないわ」
「何それー。まーでも私たちってレイラから生まれたし、違うのは当然よねー」
「元の人間は大昔に離れ離れになったって言ってたし、人間の方のルナサ姉さんは音楽家になったのね」
「アルバムを出してるし、あの蓄音機で人間の私が作った音楽が聴けるかも……」
「いいわね〜、聴きたい」
「私も気になる」
内々の話である為、一部謎めいてはいるが、確実なのは幻想郷のルナサとレコードのルナサ老は同姓同名の別人であることだ。
しかし、ルナサ老はレイラという謎の人物の縁者ということで、三姉妹とも無関係ではなさそうだ。
話が決まったということで、ルナサがナズーリンと菫子の方へ寄る。
「ねぇ、この人の音楽が聴きたいわ。その蓄音機で流せないかしら……」
「その……流すのは構わないけど、なにぶん古いレコードでかなりノイズが酷いの。それでも良いなら……」
「問題無いわ」
菫子の返答はかなり歯切れが悪い。途中で中断する程酷い状態なのだ。
それでもルナサを筆頭に、三姉妹の意思は固かった。
菫子は折れて、蓄音機を三姉妹へ向けてセッティングし、音楽を流し始めた。
再び流れる高頻度のノイズと音飛び。突然の異音に廃館の外では鳥が騒めいている。とても鑑賞に耐えうる状態ではなく、ナズーリンと菫子は耳を塞ぐ。
そんな中でもナズーリンは見た。音楽が流れた瞬間からいつもは朗らかな雰囲気の三姉妹が皆一様に真剣に聴き入っているのを。ルナサの瞳から一筋の涙が流れているのを。
数分に渡るノイズの嵐が流れ終わった。
数十秒の沈黙の後、ルナサが口を開いた。
「ナズーリン……だったわね。貴方は私たちにどうして欲しいのかしら」
「可能な限り早く、今流した音楽を補完して、無縁塚の幽霊に聴かせてほしい。あの音楽では意味がなかった」
「そう……。分かったわ、一晩だけ頂戴。明朝、そっちに向かうわ」
予定をドタキャンしてまでする価値があるということだ。キャンセルされた相手には悪いが、ナズーリンにとっては喜ばしい限りだった。
「ありがとう。よろしくお願いします」
「よ、よろしくお願いします!」
プリズムリバー三姉妹が一縷の望みだ。後はもう信じるしかない。
蓄音機とレコードは一旦三姉妹に預け、二人は廃館を後にするのであった。
翌朝。
無縁塚の墓地にはナズーリンと菫子の姿があった。
ナズーリンは異変解決の為、菫子は三姉妹の音楽を聴きに来たのである。
そこへ降り立って来たのは霊夢と妖夢だ。
「おはよう。今日やるのよね」
「おはよう。その予定だよ。万が一、桜か幽霊が暴走したらその後は博麗の巫女としての仕事さ」
霊夢を呼んだ理由は音楽会の紹介などではない。博麗の巫女として、札も針もお祓い棒も持って完全武装をしてもらっている。
妖夢も同様である。背中に装備した二振りの刀を携えている。弾かれ、刀身のダメージを心配されていた白楼剣も無事だったようで、鞘に収まっている。
妖夢はナズーリンを勢いよく一礼して挨拶をする。
「おはようございます! 白楼剣は損傷なく、無事でした。小傘さんって凄かったんですね。見直しました」
「おはよう。無事で良かった。小傘にはこっちからも言っておくよ。もし良かったら宣伝でもしてやってくれ」
「はい、そうします!」
二人を呼んだのは万が一の為である。霊夢は妖怪退治はお手の物で、妖夢は白楼剣による強制成仏を行える。先走ってまた白楼剣で斬りかからなかったので、ナズーリンは心中で人心地を着いていた。
何も起きなければそれでいいのだ。
そのまま少し待つと、プリズムリバー三姉妹が墓地へと降り立った。
「おはよう。これが件の紫桜ね。その傍に居るのが……」
「そうだね。原因の幽霊さ」
他の姉妹が準備をする中、ルナサは老婆の幽霊をじっと見つめていた。
「姉さん、準備出来たわよ」
「ごめんなさい。すぐ用意するわ」
観客は四人と物言わぬ幽霊一人。寂れた墓地の真ん中で、音楽会は開かれた。
三姉妹はそれぞれの楽器を演奏し、ルナサはヴォーカルとして唄う。担当のヴァイオリンは、騒霊としての能力なのだろう。何もない空中でひとりでに演奏している。
音楽は当時の流行であるクラシック音楽をベースに、ルナサが物悲しく歌う。
ノリの良い音楽と三姉妹のパフォーマンスが売りのプリズムリバー三姉妹の演奏だが、それらは誰一人としてすることはなく、それぞれが真剣に演奏に集中している。
「あ、桜が……」
演奏が始まってすぐ、異変が生じた。これまで、何をしても散らなかった紫桜の花弁が散り始めたのだ。
それは未練が満たされた証拠である。演奏が進む毎に、一つ、また一つと花弁が散っていく。
「おお……!」
菫子が小声で感動の声を上げる。季節外れの、それも珍しい紫桜の花吹雪である。
その余りの荘厳さに、誰もが息を呑む。しかし物悲しい音楽のせいか、神秘的な光景故か、誰も騒ぐ気にはなれなかった。
演奏も終盤に入り、花弁は殆どが散り、風に乗って舞っている。
ルナサが最後の歌詞を歌い終えた時、ナズーリン幽霊へ目を移した。鼠としての視力があるものを捉えていた。
桜吹雪に紛れて、殆ど輪郭だけとなった幽霊の、これまで微動だにしなかった口が動いていた。
そして、言い終わったのだろう。口を閉ざすと同時に最後の花弁が散り、幽霊は消えていた。
演奏を終えた三姉妹には四人の拍手だけが鳴り響いていた。
ダウジングをしてもどこにも反応は見られない。花が散ったこととダウジングの反応から事態は解決したとして、各々が帰路へと就いていく。
そんな中、楽器を片付け終わったプリズムリバー三姉妹をナズーリンは呼び止めた。
「君たち三人にだけは伝えておきたいことがある。あの幽霊の遺言と正体だ」
「なになに〜?」
ナズーリンは最後に幽霊が伝えてきたことを三姉妹に教えた。妙に距離の近いメルランを引き離しつつ、ナズーリンは話を続ける。
「彼女は最後にこう言っていた。『素敵な歌をありがとう、お祖母様』と……」
「おばあさま、ねぇ……」
リリカが感心したように呟き、ルナサを見る。
ルナサに対してお祖母様と呼んでいた。つまり、これまで身元不明だった老婆の幽霊、その正体はルナサ老の子孫だったということになる。
幽霊は老婆であった。レコードの販売年と照らし合わせれば、ルナサ老が存命の時を知っていても不思議ではない。
恐らくは生涯の永い間、レコードを追い求めていたのだろう。そして、ようやく掴んだレコードの情報を得て、来日。レコードを探すうちに神隠しに遭い、幻想郷へと迷い込んで死亡といったところだと推測した。
紫桜が延々と咲き続けたのも、そういった未練の重さから来るものなのだろう。
「ナズーリン……。悪いのだけど、そのレコードを私たちに譲ってもらえないかしら。レイラ……その歌手の妹が眠る場所があるの。駄目かしら……?」
「勿論いいとも」
成仏した今、ナズーリンがレコードを保持する理由は無い。
更に、レイラと呼ばれていた人物はルナサ老の妹だったようだ。であるならば、渡す方が賢明だろう。
ナズーリンは快く、ルナサにレコードを手渡す。
「今度会った時でいいから、宇佐見くんにもお礼をしてやってくれ。彼女を活躍で手に入ったレコードなんだ」
外の世界では大活躍だった菫子である。礼を言われるのならば彼女であるべきだ。
「分かったわ。でも、ありがとうナズーリン。貴方が気にかけてくれたお陰で、私たちは子孫と人間の私に出会えたの。本当に、本当にありがとう」
深々と頭を下げるルナサに続いて、メルランとリリカも頭を下げる。
三姉妹はそうしてしばらくした後、顔を上げてゆっくりと浮かび上がる。
「今度、改めてお礼をさせてもらうわ。でも今はレイラにこれを……」
「うん。行ってきてあげな……よぅ……! ぅぷ……!」
「ありがとうねぇ! 今度、ハッピーになれるご機嫌な音楽を聴かせてあげるわ〜」
「またねー、ナズーリン!」
手を上げるナズーリンの隙を見逃さず、メルランが力いっぱい抱きしめた。
悶絶するナズーリンをよそに、リリカが手を大きく振る。
そうして、三姉妹は空の彼方へと飛び去っていくのであった。
それから一年。慌ただしく夏が来て、秋が訪れ、冬が過ぎ去っていく。
「春春春春! 春ですよー! はぁーるでぇすよぉー!」
昨年以上に春告精は大興奮で喧しく叫んで飛び回り、春の季節の到来を告げる。
幻想郷の僻地にある無縁塚においては、今年も紫色の花弁を付けた桜が至る所で花開いた。
無縁塚の墓地、その中心にある大樹の紫桜も花を付けて開かせている。
墓地の手入れをして、般若心経を詠み終えたナズーリンは紫桜を見上げた。
「まだ五分咲きってところだね。……ねぇ、今度はちゃんとしてくれよ」
また、未練の消化不良のせいで面倒をかけられたらたまったものではない。
ナズーリンが冗談混じりにそう話しかけると、桜から一枚の花弁がナズーリンの足元へと散ったのであった。
興奮しきる春告精は喧しく叫んで飛び回り、幻想郷は長い冬場を乗り越えて春の季節が到来した。彼女が飛んだ後には雪が溶け、その場所に春を代表する草花が花を芽吹き始めるのだ。
開花シーズンに伴って、幻想郷中は薄桃色や白色の桜を筆頭に、色とりどりの花が咲き乱れる。手近な山を登り、景色を一望すれば、そこから見える美しい光景はある種の桃源郷の様相だ。とはいえ、永く住み着いた幻想郷の住人からすれば見慣れたもので、人も妖怪も、花見をする合図程度でしかないのが残念な所である。
そして開花は、幻想郷の僻地に当たる無縁塚においても例外ではない。
無縁塚で咲く桜は、土地柄故か特殊な性質を持ち合わせており、なんと未練や悔恨といったものを吸い取って紫色の花弁を付けた桜として花開くのだ。
物好きの多い幻想郷の住人からすれば、良い酒の肴とも言えそうな紫桜だが、無銘の墓標が立ち並ぶ墓地に来る者などまず居ない。
そんな無縁塚の墓地で一人の少女が居た。癖っ毛のあるボブヘアー、ブラウスにケープを羽織って、一見すると十歳程の年端もいかない小柄な少女のような風貌だが、一目で人外の者であると判る大きな丸い耳と、細くしなやかな尻尾が生えている。その見た目通り彼女は人間ではない。
少女の名はナズーリン。鼠の妖怪だ。
墓地の一角に掘られた大きな穴に抱えていた包みをナズーリンはそっと入れた。穴には剥き出しの人骨が納められており、包みは死者を弔う為の副葬品である。
ナズーリンは無縁塚を活動拠点にして日々を過ごしている。しかしこの骨となった人間は何処からか迷い込み、獣か野良妖怪に襲われてしまったのだろう。残念ながら発見した時には手遅れであった。
副葬品として纏め、改めた所持品からも衣服と僅かな金銭のみで、身元が判明するものはなかった。服装から幻想郷の外、現代社会の人間であると判断出来る程度であった。世捨て人だったのかもしれない。
生きていれば元の世界へ返すことも可能であったが、死んでしまった上に身元も判らない。この無縁塚で弔うしかないのであった。
慣れた手付きで穴を埋めていく。無縁塚に住み着くようになってからこの様な出来事は一度や二度ではない。
黙々と土を移していく。暫くして、穴を埋めて墓石を置くことで埋葬を終えた。
春の陽気で暖かくなったとはいえ、まだまだ涼やかな風が吹いている時分だ。動かした身体にはとても心地良い。
「……ふぅ」
息を整え、身体を冷やす。一息吐くと、ナズーリンは被りを振って手を合わし、般若心経を唱え始める。
「摩訶般若波羅密多心経──…………」
白蓮に頼んで卒塔婆の用意と戒名を付けてもらわないとな、とナズーリンは経を唱えながらそう考えていた。
数年掛かりで、墓地として機能するように改善を行った。無縁塚を初めて来た時は荒れ果て、苔も雑草が伸び放題で初見時には墓地と気付かなかったくらいだった。適切に弔わないことで霊の成仏を妨げ、死人が外来人ということもあってか、中途半端に外の世界へ繋がり易くなってしまっていた。結果的に誰であろうと何が起こるか分からない超危険地帯へとなっていたのだ。
僻地な上に設備も十分に揃わず、環境も安全ではない場所だ。特殊な環境によって発覚した莫大なエネルギーを感知し、それに興味が惹かれたという下心があったものの、今では墓石と卒塔婆が建ち並ぶ墓地と判るまでに整え、環境も外来者らの成仏に伴い、部下の鼠たちが問題なく入り込める次元にまで落ち着くようになっている。
般若心経を唱え終え、一礼するとナズーリンは鼠を手招きした。
その合図を見た一匹の鼠が何処からともなく駆け寄り、差し出された手に乗った。
「良いかい? 今回もこの場所が荒らされないように見張るんだ。墓荒らしが来たらすぐに連絡するように」
環境が改善されたということは、墓荒らしが来る可能性も生まれたのだ。何が起こってもおかしくないのが幻想郷だ。下手すればこれまでの努力が水の泡になりかねない。
ナズーリンの指示を聞いた鼠は二、三度鼻を鳴らし、そして深々と頭を下げた。恭しい態度に微笑んで鼠の身体を指でそっと撫でてやる。
ひとしきり甘えるように指に身体を擦り付け、鼠は飛び降りて紫桜の森へと消えて行った。他の部下にも今の頼みは伝達されるだろう。
やるべき事を終え、ナズーリンは桜を見やる。墓地の中央に聳える一樹の桜の大木は見守るように枝葉を広げ、美しい紫の花弁を覗かせ始めている。
「満開までは一週間ってところかね。……さぁて、今日は卒塔婆を貰うとなると、他の買い出しもしよっかなぁーー」
墓守の仕事は終わった。踵を返し、指折り数えて買い出しの品を確認しつつ墓地をナズーリンは後にした。少し早めの花見をするのも悪くない。
無人となった墓地で、紫桜の大樹は静かに花を芽吹かせていた。
「…………おかしい。幾らなんでもおかしすぎる」
春の訪れから一月ばかりが経過した皐月の初旬である。幻想郷中の桜の殆どは花を散らし、梅雨へと向けて青々とした葉を蓄え始めている。僅かに残った葉桜がしがみついているのが現状であり、例年通りの流れと言える。
だが、例外が一樹だけ存在した。墓地に咲く紫桜の大樹である。
見立て通り桜は満開となり、紫桜に見慣れ始めたナズーリンでも感嘆の声を上げてしまう程に見事な満開っぷりであった。
そうして感心して見入っていたのもほんの数日で、それからはその異質な状態を懐疑的な目を向けざるを得なかった。周囲の紫桜が散り始め、葉桜へと成り始める頃でもその紫桜は満開のままだったのである。
それだけではない。普通、桜が散る理由は生え替わり以外にも雨や風等で散っていくものだ。周囲の紫桜は当然自然の摂理に従って花を散らし、葉を生やし始めている。
しかしながら、なんと大樹は一片たりとも葉も花弁も散らさなかったのである。雨が降ろうと、風が吹きつけようとさながら造花の如く満開のまま咲き誇っている。
「妖怪桜なんだっけ、これ。でも何も反応が無い……」
幻想郷の中でも超危険地帯となっていた過去の無縁塚だ。何が起こっても不思議ではない。
ダウジングを得意とするナズーリンは探知を仕掛ける。
しかし結果は空振りだった。垂らしたペンデュラムは何の反応も示さず、ただ風で微かに揺れるばかり、ダウジングロッドに至っては地下に潜む巨大エネルギーが邪魔をして精密に推し量る事が出来ないのであった。
ならばと、自慢の大きな耳を澄ませて聞き耳を立てる。妖怪となって発達した聴力は普通では聞こえない音まで拾う事も出来る。
「…………んん?」
結果は何とも言い難い。もしも意思を持つのであれば、何かしらの音の波長が現れるが、枝葉で揺れる騒めきの中にナズーリンの聴力でも聴き取れない程の小さなノイズが混じっていた。
それが意思による音なのかどうか判別が付かなかったのだ。
「さてどうするか……。異変といっても、ただ花が枯れないだけだが……。放っておいてもまだ問題は無いかも……。けど万が一となると私一人じゃ無理だな……」
探知の結果を鑑みて、腕を組んでぶつぶつと独り言を呟きながらナズーリンは思案する。
この一件は異変は桜が一樹だけが咲くのみとシンプルなものだ。探知では何かしらの反応はなく、音にだけ微かな異常を感じる。
それ以外が全く何も問題が無いという点がナズーリンにとっては不自然であった。
数分程思案し続け、突然ナズーリンは癖っ毛の髪をくしゃくしゃに掻き乱した。
「あーっ! もう、やめやめ! 考えたって時間の無駄よ無駄無駄。こいつは妖怪桜なんだからお祓いしてもらおう」
紫桜は無念や未練を吸い取ってしまうことで紫色の花を付ける。であれば、それらが原因で桜に異常をもたらしたと考えるのが自然だろう。
ナズーリンの独力ではどうにもならないし、その手の専門家は幻想郷であれば存在する。
ナズーリンのダウジング能力は、対象を知っていれば思い浮かべるだけで距離も方向も指し示す万能さを持つ。
実際に、さっきまではただ揺らめくだけであったペンデュラムを掲げれば、明確に探す対象に向かって浮き上がって指し示した。それだけに異変の原因すら探知出来ないという紫桜の異質さが際立つ。
「霊夢は……こっちの方角なら人里か。都合がいいな、色々」
妖怪退治の専門家、博麗の巫女の霊夢であれば何かしらの対処法は知っている可能性が高い。
加えて、今彼女が居る場所は人里だ。霊夢に断られた場合は命蓮寺の和尚、白蓮にも同様にこの件を相談をするつもりであったし、向かう手間も省けて一石二鳥である。
そうと決まれば善は急げだ。ナズーリンは偽装の為のキャスケット帽を被り、人里へ向かって飛ぶのであった。
「小鈴ちゃん、取り置きありがと。またアガサクリスQの本、どれでもいいから返本されたら教えてね。じゃ」
『鈴奈庵』と掲げられた建物から一人の少女が出て行った。艶やかなセミロングの黒髪を大きな赤いリボンでポニーテールに纏め、赤いノースリーブワンピースに広袖を留めた格好をしている。
少女は懐に紙袋を大事そうに抱きながら、上機嫌で鼻歌混じりに人里を歩く。大人気作家のアガサクリスQの小説の新刊を借りられたのだ。機嫌も良くなろうというものである。
「博麗の巫女ともあろう方が随分とご機嫌じゃないか」
「きゃあ!?」
既刊の内容を振り返り、新作の展開を想像することに没頭していた少女──博麗霊夢は唐突に話しかけられて思わず驚嘆の声を上げる。
「なっ、何よあんた! ……ってナズーリン!? 妖怪がこんな所で私に声をかけるなんて度胸あるじゃない」
声をかけた主は無論ナズーリンである。霊夢は慌てて袖から数枚の札を取り出した。戦闘用の破魔札だ。貼られれば強烈な痺れをもたらす霊夢の強力な武器である。威圧する様に札を構えるも、その間でも紙袋を手放すことはしなかった。余程大切にしているのだろう。
「落ち着きなよ。こうして変装はしているんだ、余計な真似はしないよ」
ナズーリンを両手を小さく挙げて敵意が無いことを示した。霊夢の臨戦態勢は至極尤もで、人里は混乱を生まないよう極一部を除いて妖怪は立ち入りを禁じられている。
だからナズーリンは大きな耳は寝かせてキャスケット帽に隠し、尻尾は腰に巻き付けてベルトのように見せかけている。
そう言われ、ジロジロと無遠慮に見定められてようやく得心がいったのか、霊夢は札を袖の中へと仕舞い込んだ。
「で、何の用よ。私これから大事な用事があるの」
「君への仕事の話。読書なら後にしてほしいね」
「う……うるさいわね」
小説を早く読みたいという逸る気持ちを見透かされて、霊夢の顔が羞恥で朱に染まる。
博麗の巫女とはいえ、霊夢は人間で思春期の年端もいかない少女なのだ。変に意固地になられても困るし、ナズーリンは半ば強引に話を進めることで、霊夢の羞恥心を流す。
「報酬は多めに払おう。私では対処出来ない問題なんだ。それと、仕事内容の話ついでに一部は前払いもしようか。どうかな?」
「前払い?」
巫女として祈祷をする時の玉串料の謝礼ならいざ知らず、妖怪退治の仕事で前払いなんて気前の良い話は初めてであった。
怪訝な顔をする霊夢に、ナズーリンが薄くほくそ笑む。
「そう。君とは大通りにあるカフェ、そこのメロンパフェでも食べながら話そうじゃないか」
「パッ、パパ、パフェえ!?」
パフェという単語を聞いて、霊夢を思わず目を剥いた。現代社会では最高級品でも大仰な値段はしないパフェだが、幻想郷という隔絶された世界では話が違う。
どうやって調達されたか分からないが、希少品のメロンやクリームをふんだんに使用された特大のメロンパフェが提供される。
当然、金額もべらぼうに高く、霊夢の収入では逆立ちしても食べることなど叶わない。裕福な家庭が祝い事で食べるのがせいぜいで、実質的に稗田家や長者が楽しむ為に用意された代物だというのが専らの噂だ。
「この前、羨ましそぉーうに見ていたもんね?」
「なんっ、で」
「鼠の情報網を舐めてもらっちゃ困るね。天狗とは訳が違うんだよ」
霊夢の瞳が揺らぎ、心中で小説とパフェの天秤が揺らいでいるのが明け透けに見てとれて、ナズーリンは思わず口角が釣り上がる。
悪い癖だと心の中で自戒しつつ、ナズーリンは駄目押しの一手を打つ。露骨に深いため息を吐きつつ残念そうな表情を浮かべながら、肩を落として、大仰に天を仰いで額を手で覆う。
「……嗚呼、残念だが博麗の巫女殿には重大な書物を読み解く仕事がお有りの様だ。はあぁ……いやはや残念、全くもって残念だがこの件は白蓮に相談するとしよう……」
「ちょっ……! まっ、待って。聞く、聞くわ。その、これは後でも大丈夫だし……」
わざとらしいナズーリンの演技にすら釣られてしまい、霊夢は振り返って立ち去ろうとするナズーリンの服を摘む。
しどろもどろに返事をするに、パフェの誘惑には勝てなかったようだ。
「いやぁ、引き受けてくれてありがとう!」
「あ、あんった……!」
「さぁさぁ、そうと決まれば早速行こうじゃないか!」
項垂れて肩を落とす態度から一変、ナズーリンはにこやかな笑顔を見せて振り返った。
ようやく騙されたと理解したが、応えてしまった以上引き下がる訳にはいかなかった。
見事に引っかかってしまい、顔を真っ赤にしながら二、三度口を震わせ、今度は霊夢が天を仰いで顔を手で覆うのであった。
人里の大通りに面した民家を改造して造られたカフェは、幻想郷で唯一外の世界の食文化が楽しめる店として人気を集めている。パフェ以外にもコーヒーや紅茶、パンやパスタが味わえる。
そのカフェの二階、テラス席にナズーリンと霊夢は案内された。
ナズーリンが躊躇いなく本当にメロンパフェを、それも二つも注文した時には、数々の異変を解決した霊夢も流石に肝を冷やした。
「私、無いからね。そんなお金……」
「大丈夫大丈夫」
「本当かしら……」
思わず食い逃げを選択肢に入れるくらいには不安がる霊夢であったが、ナズーリンは軽くあしらった。
まだパフェが来るまでには時間がある。仲良くデートをしに来た訳ではない。早速本題に入った。
「さてと、君に頼みたい仕事内容だが──」
ナズーリンは無縁塚の散らない桜の話を済ませたところで、丁度、パフェが配膳された。それまで眉根を寄せて真面目に話を聞いていた霊夢であったが、初めて見る本物のメロンパフェに目を爛々と光らせて小さく歓喜の声を上げた。
「わぁあ……! これがパフェ……!」
年相応の少女らしく歓喜する様に、固い話をする気にもなれず、食べるように促した。
「どうぞ。あんまりゆっくりしてるとクリームが溶けるからね」
「えっ、そうなの……? じゃあ……いただきます」
そう言われて、食い入る様にパフェを眺めていた霊夢は意を決したのか、恐る恐るクリームの乗ったメロンを口に入れた。
「んーーっ! 〜〜〜〜っ!」
幻想郷には存在しない甘く濃厚なメロンと、同じく存在しないクリームの新食感と甘味の洪水に、霊夢は声にならない程の歓喜の声を上げた。
日頃から質素な暮らしで、たまのご褒美で餡蜜がかかった団子を食べる生活であっただけに、パフェを衝撃的だったのだろう。
加えてパフェは幾重もの層の甘味で構成されて、スプーンで掬う度に味が変化する。
そこからは霊夢は夢中になって食べ始め、時折「美味しい……」と呟くのが聞こえた。
霊夢の新たな一面を見たナズーリンもパフェを口にする。
「美味し……」
と、此方も思わず感想が溢れてしまうのだった。その後、二人は無言でパフェを食べ続けた。
あっという間に完食した。霊夢はかなり名残惜しそうにしていて、しばらくの間食後のコーヒーには口を付けなかった。
「それで。なんだっけ、桜がまだ散らないんだっけ?」
「そう。君のお祓いならどうにかなるかなって」
可愛らしい女の子モードから仕事時の調子に戻った霊夢は、階下の大通りに目を落としていた。考える為というよりは何かを探しているかのようだった。
「……幽霊の仕業の線は?」
「そうだったらとっくに気付いてるはずだけど……そう思う理由は?」
「知らないだろうけど、あんたが来る一年前にあそこでそういう異変があったのよ。その時の犯人が幽霊が取り憑いてた」
「へぇ」
かつてあった異変に、幻想郷中の草木が季節を無視して一斉に咲くというものがあった。幻想郷に大量の幽霊が流れ着き、死神が処理しきれなかった結果、幽霊が草木に憑依したのが原因で、今回の件も同様であると言うのだ。
だが、ナズーリンの探知には引っ掛からなかったし、それであれば無縁塚中の他の桜や花も咲いているはずだ。一樹だけとなると幽霊という線は薄いだろう。
「幽霊じゃないかも、か。なら適任が来たわ。よーーーむーーーー!!」
霊夢が大声で呼び、ナズーリンも大通りを覗く。
通りを歩く他の人間らも霊夢の大声に驚くも、異変でも、自身が呼ばれたのではないと知って、元の生活へ戻っていく。
よーむ、と呼ばれた対象だけが、未だにおたおたと辺りを見回しているのが見えた。
おかっぱ頭の銀髪と木編みの巨大な籠を背負い、遠目からでも判る漂う霊魂が特徴的な小柄な少女だ。
「違うわよ! 上、上!」
再度呼ばれたことで、霊夢の場所に気付き、少女が二人の方へ飛んで来た。人が飛ぶのは幻想郷においては不思議なことでは無く、気に留める者は誰もいない。
「こんにちは、霊夢さんと……?」
「どうもー初めましてぇ、ナズーリンですぅ。……なんてね」
「ナズ……あっ、だからそんな帽子被ってたんですね」
おかっぱ頭の少女は魂魄妖夢。霊魂が側を漂わせる半人半霊だ。
キリッとした顔付きで真面目そうではあるが、どこか抜けている性格で、軽い変装をした程度で顔見知りのナズーリンに気付かないくらいである。
普段の妖夢は身の丈はある大太刀と小太刀を背負う二刀流の剣士であるが、流石に人里にまでは持ち込んではいないようだ。代わりに大きな手提げ袋を両手に抱え、大籠背負っている。
「幽々子への買い物?」
「ええ。明日紫様が遊びに来られるそうなので」
霊夢と浮遊する妖夢が世間話をしている間に、椅子を用意しておいた。いつまでも飛びっぱなしとはいかない。
霊夢が話の腰を折ってまで呼びつけたのだ。適任というのだから何かしらの情報を持っているのだろう。話を聞く価値はある。
「まぁ、とりあえず座りなよ」
ナズーリンに言われて、妖夢は浮遊している迷惑に気が付いた。促されるまま椅子に座る。
「霊夢。さっきの話の続きだけど、彼女が適任だという理由は何? 庭師だから?」
妖夢は白玉楼の主、西行寺幽々子の従者であり、同時に専属の庭師も務めている。白玉楼の桜の庭園は見事に剪定され、過去に訪れた際には余りの見事さと優美な光景にしばらく惚けてしまったくらいだ。
「あー、違う違う。この子ね、昔異変起こしてるのよ。春を奪って回ってたの」
「春を……奪う……?」
一瞬何を言っているのか理解出来なかった。季節は概念的な物であり、環境の変化が生まれなければそういったものは出来ないと思っていた。
しかし、ここは何でもありの幻想郷である。そういった事も可能であると、思い直す。現に無縁塚の桜は季節を無視した状態にあるのだ。
その春を奪った当の本人は、照れくさそうに出された紅茶に牛乳を入れて混ぜている。
「あれは幽々子様からの命令でしたし、あの後春はちゃんと返したじゃないですかー。今更そんな話をされるとは……。あ、これいただきます」
「どうぞ。春は自由に奪えるし返せると……? ちなみに、春を奪われるとどうなるの?」
「冬がずーーっと続いたわ。だいたい今くらいの時期まで雪が降ってたわね」
春を奪う行為は強制的に冬に留める効果があるらしい。
「幻想郷全土から回収したので結果的にそうなりましたが、一本だけ回収するとその樹は冬枯れしますが、周囲の自然が戻そうと働きかけて徐々に戻っていきます」
「じゃあちょっとずつ回収したら良かったのに」
「幽々子様が急ぎでって命令だったから仕方なかったんですよー」
霊夢の言葉を引き継いで妖夢が話す。ナズーリンは思案を巡らせながらコーヒーを飲む。苦味が口内へと広がるが嫌いではなかった。
正直、妖夢の春奪いはナズーリンの求めるものとは真逆であった。無縁塚の桜の場合は春を終わらせて夏へと向かわせたいからだ。
とはいえ、春の返却も出来ているし、先程の言を聞くにある程度の実験は行っていそうだ。春という概念に関しては一家言あると言えるだろう。
ナズーリンはコーヒーの残りを煽って一気に飲み干し、二人へと向き直った。
「二人とも。是非、無縁塚へ見に来てほしい。私よりもこの件に対する知見を持っていそうだし。それと妖夢。成功すれば君にも報酬を支払うと約束する」
頷く霊夢に対し、妖夢は困惑顔だ。断られてしまうのだろうと胸中で察していると、妖夢は口を開いた。
「ところであのー、さっきから何の話なんですか? これ」
「「あ」」
先走り、話に夢中になる余り、ナズーリンも霊夢も、肝心な無縁塚の桜の話をするのを忘れてしまっていたのであった。
ナズーリンと霊夢の二人は無縁塚へと向かった。妖夢については買い物を済ませてから刀を取りに行く必要があるからと、カフェで一旦別れる事となった。
「まさか本当にパフェ代払えるとは……」
「誰に仕えていると思ってるんだい。毘沙門天様だよ? あれくらいどうってこと──……っと見えてきた。あれが件の桜だ」
霊夢からすると卒倒しそうな金額のカフェ代の話をしつつ飛んでいると、無縁塚の紫桜が見えてきた。
一際大きい大樹な上にポツンと紫色が浮いていて、とてつもなく目立っている。後から来る妖夢へも無縁塚へ来れば分かる、と厳密な合流場所を指定しなかったくらいだ。
「本当に咲いてるわね。それも満開。いいんじゃないの」
「そりゃあ、私も初めの一週間くらいはそう思っていたさ」
相も変わらずの満開で幽玄な桜の姿だ。何一つ変わらない有り様をずっと見続けてきたナズーリンからすると最早、不気味に思えてくるのであった。
一方で能天気な感想の霊夢は興味深く見入っていたが、やがて桜の調査を始めた。
ぺたぺたと幹を触り、根本の雑草が茂る部分を弄る。特段反応がある訳もなく、霊夢は飛んで花の方へと浮き上がった。
触っても香りを嗅いでも特に何もなかったらしい。
「どう?何か判りそうかな」
「うーーん……。多分だけど、もしかしたら何かある、かも」
調査結果を聞くも、その反応は芳しくない。ただ、桜が散らない原因については薄々何かを勘づいているらしい。
進展が望めそうで、嬉々としてナズーリンは尋ねる。
「本当かい!? その理由は?」
「勘」
「勘……って、幾らなんでもそれはどうなんだ」
「だって分かんないんだもん」
「これだから人間は……」
余りにもあんまりな回答に頭からずっこけてしまいそうであった。勘なんて曖昧すぎる回答ではどうすればいいか分からない。
呆れてしまってナズーリンは思わず小声で毒突いた。
どうやら聞こえなかったようで、霊夢は地面に降りてナズーリンへ尋ねる。
「ナズーリン、ちょっといい? あんたこの樹の枝、折ったり齧ったりしたことある?」
「無い。少なくとも満開になってからは間違いなくしてないし、部下にも近寄らないように命令してある」
こういった質問をするということは手折って枝を取ってみるつもりなのだろう。それについては考えていたが、何が起こるか分からないが故に迂闊に触らないようにしていたのだ。
「妖精がくっ付いてるならもっと騒がしいし、場所柄を考えれば、恐らく幽霊が取り憑いてるわ。桜は恨みとか未練とか吸うっていうしね」
「それで刺激を与えて目覚めさせてやろうって腹積もりか」
ナズーリンも霊夢も、何かしらの異常が原因だとは気付いている。やってみる価値はあるだろう。
意図を汲み取ったナズーリンに対し、霊夢は頷く。
「そういうこと。やってみていいかしら」
既に霊夢の手には先端の細い枝が握られている。
ナズーリンが頷き、霊夢の手に力が入る。
「お待たせしましたーっ!」
と、そこへやって来たのは妖夢である。余程飛ばして来たのだろう、着地の際に靴底から凄まじい土煙を吹かしているくらいだ。
それだけ速く来たということで、遅れてソニックブームの轟音と、風の衝撃波が無縁塚に叩きつけられた。
「うわっ」
ナズーリンも霊夢も思わず腕で防ごうとする。
木々は突風に煽られて騒めき、千切れた木の葉がつむじを巻いて吹き上がった。
数秒もすればそれらは落ち着いて、ナズーリンは紫桜を見た。他の木々は反動でいくつかの葉は舞い散ったままである。そんな中、突風を受けても紫桜は一つも切り離すことはなかったのである。
「あら、早かったじゃない」
「急いだ方がいいかなーって思ったので」
「そんなことより見てよ。これがこの桜のおかしいところなんだ」
呑気な二人の会話を遮って、桜を見るように促す。
図らずも妖夢の手で確認出来る異常現象は、流石に二人とも勘付いたようだ。
「あー。やっぱりおかしいわね、この樹」
「たまたま飛ばなかっただけなんじゃないですかぁ?」
前言撤回。妖夢は未だに呑気なままである。
「まぁまぁ、お任せください。この樹に幽霊が憑依しているというのなら私が剪定も成仏もやってやりますよ。この白楼剣でね」
「いや、まだ幽霊とは確定してないんだけど……」
未だ概要だけしか知らない妖夢であるが、何故か自信たっぷりに背負う二刀のうちの短刀の方を抜く。白楼剣と呼ばれる魂魄家に伝わる家宝だ。
ナズーリンと霊夢は共に後ろに下がって様子を見守ることにした。本当に幽霊が取り憑いていた場合ならそれで成仏して解決へと向かうはず。斬らせてみる価値は十分にあった。
「ふぅー……」
白玉楼を上段に構え、妖夢は集中し、感覚を研ぎ澄ます。
剣術を操るだけあって、切っ先すら一切のブレが見えない。集中を増す妖夢を二人は固唾を呑んで見守る。
「キェェェエエエ!!!」
構えと妖夢の呼吸の波長が合った瞬間、白玉楼を袈裟斬りに振り下ろした。
刀と紫桜が触れた瞬間、ベキッという不穏な音がし、鈍い風切り音がした。
音の正体は刀だ。なんと白玉楼の目釘がへし折れ、留め具を失った刀身がすっぽ抜けたのだ。飛んでいった刀身は回転し、霊夢の足元へと突き立った。
「うわ、あっぶな!」
もう一歩前に居たら刀は霊夢に突き刺さっていただろう。
怒った霊夢は抗議の声を上げる。
「何やってんのよ! あんた剣の達人でしょ!?」
霊夢の声が聞こえていないのか、妖夢は白楼剣の柄を見て肩を震わせて茫然としている。
反応から察するに刀身が飛んだのは偶然の事故とは言い難そうだ。また、剣の達人である妖夢がよりにもよって刀に対して杜撰な管理をしている訳がない。
小さな声で何か呟いているのが、ナズーリンの耳に入ってきた。
「目釘が……有り得ない……お師匠様の白楼剣が……剣術が未熟だった……? 違う、私に斬れない物など…………」
ブツブツとうわごとの様に呟く妖夢は、震える手を伸ばし、ゆっくりと背中の身の丈以上の大太刀を握る。
不穏な様子の妖夢が次に何をするのか察したナズーリンは、大急ぎでスペルカードを構えた。霊夢に伝える余裕は無い。
「──あんまり無い!!」
「守符『ペンデュラムガード』!」
「夢符『二重結界』」
振り下ろされた大太刀──楼観剣は霊力を纏い、恐るべき威力であった。桜樹どころか岩をも容易く斬ってしまうだろう。
実際、ナズーリンが発動したペンデュラムを模した防護壁は妖夢と紫桜の間に発現させたが、見事に真っ二つに叩き斬られて霧散してしまった。
あわや紫桜は一刀両断かと思われたが、霊夢の結界術は容易くそれを受け止めていた。というより、太刀は届かず、宙空で留められている。
間違いなく、妖夢は全身全霊で楼観剣を振り下ろしている。しかし太刀はその意志に反するかの様に結界から押し出されている。
結界の不思議な性質により、やがて妖夢の手が止まった。
「このお馬鹿! 物に八つ当たりしないの!」
「あうっ、すみません……」
ようやく落ち着いた妖夢に霊夢は拳骨を食らわせていた。
叱られてしょげる妖夢を尻目に、地面に突き立った白楼剣の刀身を拾う。
土地は多少の手入れをしているとはいえ、剥き出しの石が転がる荒れた地面に刺さったのに、刀は刃こぼれ一つしていない。
素晴らしい名刀の価値に胸が高鳴るが、これは妖夢の刀である。欲に駆られそうな気持ちを自制し、持ち主へと返却する。
「軽く見た限りだが、損傷は無い筈だ。でも一応、刀は診てもらった方がいいね。命蓮寺の墓地に腕の良い鍛冶屋が居るよ」
「あー、小傘? 確かに良い腕してるわよ。私も針の面倒見てもらってるし」
命蓮寺の墓地で出没する唐傘お化けの小傘は意外にも鍛冶の腕に覚えがある。知る人ぞ知る妖怪鍛冶屋なのだ。ナズーリンも霊夢もその技量に頼った経験がある。
「はい、そうします……。お二人ともご迷惑をかけてすみませんでした……」
叱られたことで頭が冷え、自身の未熟で早計な行いに気付かされた妖夢は二人に深々と頭を下げる。
「お説教はもういいとして、どうだったの? 斬ってみて」
「……何か居ます。それが何を企んでいるのかまでは分かりませんが、桜そのものに力を与えています。それこそ接触前に目釘を折って弾き飛ばすくらいに」
『斬れば分かる』が信条であり、剣の達人でもある妖夢である。弾かれたとはいえ、桜の正体に誰よりも近付いていた。
ナズーリンが探知で感じた小さな違和感も、霊夢の勘も間違っていなかったのだ。
「何か、はもう少し具体的には? 例えばそれは幽霊である、みたいな」
「感じられたのは桜の中に強い悔恨が在ることだけです。形とかは何も……」
会話の最中も、妖夢はしきりに納刀した白楼剣を気にして目を向けていた。傍目では無傷だったとはいえ、やはり損傷については気になるだろう。
「ありがと、後は私らで探ってみるから、あんたは早く鍛冶屋に行ってきなさい」
「はい、では私はこれで……」
再び妖夢は深々と頭を下げ、空へと飛んでいった。来訪時と違い、白楼剣を大事に抱えて慎重に飛んで行く後姿を見届けた。
「ふぅむ、強い悔恨か……」
亡者らが遺した未練等を吸い上げすぎたことによる妖怪桜の暴走なのだろうか。ナズーリンがそう思案に耽るうちに、霊夢が桜の側にまで歩み寄る。
「ナズーリン、これはひょっとするとかなり厄介な問題かもしれないわよ……」
その声を聞いて顔を上げる。霊夢が手に持っていたのは妖怪退治に使われる札だ。
ナズーリンに見せつけるかのように霊夢は札を桜に貼り付けようとした。
しかし、その行為は未遂に終わってしまった。触れる直前に札が止まってしまうのだ。磁石が反発するように、霊夢が体重をかけて押し込んでも札は張り付くことはなかった。
「でも確か、さっき霊夢触れてたよね」
「そう、普通に触れる分には問題ないの」
そう言って札を仕舞い、空手となった右手近づければ問題無く触れることが出来ている。
「で、この状態で霊力を込めると……」
掌を樹に当てたまま、霊夢は霊力を込めていく。そうすると突然霊夢の手が弾かれた。
「っ霊夢!」
白楼剣の目釘をへし折り、刀身を弾き飛ばす威力だ。そんなものを素手で受けては無事なはずがない。ナズーリンは心配のあまり声を上げた。
「平気よ。怪我一つしてないわ」
不安げなナズーリンをよそに、霊夢は無事をアピールするように右手をぷらぷらと振ってみせた。ひとまず無事であったことにナズーリンは胸を撫で下ろす。
「とまぁ、敵対的な行動を向けると弾き返すみたい。防衛本能かしらね。とにかく、妖夢の刀も駄目、私の札も駄目。多分だけど、他の装備も駄目そうね」
霊夢の妖怪退治に用いられる道具は札だけではない。叩き潰す為のお祓い棒、刺す為の針、投げつける為の陰陽玉が霊夢の対妖怪用の装備だ。それらを用いても無理だと霊夢は言う。
「そうなると本格的に伐採は視野に入れた方がいいかもね……そうだ、祈祷での除霊はどうなの?」
自然の摂理に反し続け、以降はどんな変化を及ぼすか分からない以上、放置という選択肢はもう無い。
幽霊の未練を吸い取る存在として無縁塚の紫桜は希少価値があるが、この大樹に関しては伐採も仕方ないだろう。
それでも一縷の望みを賭けて、ナズーリンは祈祷という案を提案するが、途端に霊夢の様子がおかしくなった。焦りの表情を浮かべ、目が泳いでいる。
「あー…………、やば……。ま、まぁ私って神降ろし専門だし? 準備もあるから此処じゃちょーっと難しいかも、ね?」
「ボヤきはしっかり聞こえてるぞ。苦手なら苦手と言いなよ」
霊夢の面倒くさがりは有名で、今回の様に仕事として依頼しない限りは能動的に動こうとしないきらいがある。
度々、仙人から説教をされて渋々修行をさせられている姿をナズーリンも目撃している。
除霊の祈祷も修行をサボっていたツケが今ここで回ってきたのだった。
ナズーリンの耳には小声で呟くボヤきも当然拾い、じっとりとした目つきで霊夢を見つめた。
「う、うるさいわね。それに策がないわけじゃないのよ」
「うん? でももう私たちじゃ無理だろう? また妖夢に頼むのか?」
照れ隠しで赤らめた顔を隠すように霊夢は手を振るが、ナズーリンの興味は既に別へ向かっていた。霊夢の言う策とは一体何なのだろうか。
「同じことをやっても駄目でしょ。私たちじゃどうにもならない。なら頼んでみましょうよ、植物の専門家に」
「植物の専門……? っ!? 駄目! 駄目、駄目駄目!! 絶対、駄目!!」
呑気に挙げた案は更に助力を求めること。それ自体は良かったが、問題はその相手だ。それが誰か気付いた瞬間、ナズーリンは手を突き出して全力で首を振って拒絶した。
その植物の専門家は、ナズーリンが最も苦手とする相手だからだ。かつて見ただけで本能的に察した関わってはいけない相手。植物を操るだけという簡素な能力とはちぐはぐな幻想郷でも有数のパワーを持っている。
その植物の専門家の名は風見幽香。ナズーリンが最も苦手とする相手であった。
「あー? あ、あんた幽香が苦手なの? でも、もうこの桜は私たちの手には負えない」
「い、いや……」
霊夢の言う通り、桜は手に負えないのだがナズーリンは幽香と関わりたくはなかった。たじろぎ、じわりと後ろへ後ずさるナズーリンに霊夢は詰め寄った。
「覚悟を決めなさい。さぁ、幽香の居る場所は何処?」
勘が鋭い霊夢だが、流石にナズーリンの探知能力の方が優れていると判断したようだ。
幽香は春の間は幻想郷の方々で植物の様子を見て回っている。人も物も的確に探し出せるナズーリンはこういった時に適任なのだ。
風見幽香と関わるか、ここから逃げ出して霊夢から妖怪退治の対象にされるか。
「はあああぁぁ〜〜……」
苦渋の二者択一を迫られたナズーリンは、幽香に助力を求める方を選んだ。幽香と会うのは嫌だが、霊夢が味方でいるのは心強いからだ。
わざとらしく見せつけるように重苦しい深い溜め息を吐いて、渋々ながらロッドを構えてその場でゆっくりと旋回する。垂れた耳と尻尾と項垂れている様から、やる気が一瞬で霧散したのがありありと伺える。
北北西の方角へ向いた時にロッドの先が開いた。風見幽香はその先に居る。
それを見た霊夢が飛び上がり、上空から指し示された場所を見た。視線の先には湖と遠目からでも目立つ紅い建物があった。
「紅魔館ね……」
確認を終え、降り立った霊夢はそそくさと立ち去ろうとするナズーリンの肩を掴んだ。
「何処、行く、気?」
「え。い、いや、ダウジングもしたし、何処か分かるだろう? あ、後はお二人にお任せするよ。終わったら教えてくれたまえよ」
「この件の依頼主はあんたでしょ。説明は自分でしなさい」
「…………」
圧を掛けられながらのこれ以上無いくらいのど直球な正論に、早口で言い訳を捲し立てていたナズーリンは言葉に詰まる。
霊夢はナズーリンの手を掴んで、引き連れて飛び上がった。もう逃げられないと悟ったナズーリンは不承不承で霊夢の後へ続く。
「さ、行くわよ」
「…………こんなことになるならやらなきゃ良かった」
「なんか言った?」
「イイエ、ナニモ」
幸か不幸か、ナズーリンのボヤきは幸いにも霊夢には聞こえないのであった。
ナズーリンと霊夢の二人は紅魔館の門前へと降り立った。赤煉瓦造りのこの洋館は、日頃から見慣れた建物だというのにこの時ばかりはどことなく威圧的にナズーリンは感じられた。
「本当に幽香は此処に居るのね?」
霊夢にそう尋ねられたナズーリンは、そんなことをしなくてもこの重圧なら間違いないのに、と胸中でボヤきつつ、ロッドを構えて紅魔館へと向けた。ロッドは開かれ、反応的にも動いてはいない。
「居るよ。でもさ……これ多分客人か何かで招かれてるんじゃない? だから日を改めてでも──ってちょっと!」
鼻を鳴らして、未だに言い訳を並べ立てるナズーリンを無視して霊夢は紅魔館の分厚い鉄の門扉を押し開ける。
ズカズカと勝手知ったる様子で踏み入る霊夢に、慌ててナズーリンはついて行く。
普段であれば門番の紅美鈴が立ち、警護に当たるがその姿は見られない。中へ踏み入っても、侵入者撃退の攻撃すら飛んでこない。侵入するとすぐさま攻撃が仕掛けられるはずだ。
「変ね……」
「だから日を改めた方がいいって」
中庭を見渡し、日頃とは違う状況に訝しむ霊夢。
ナズーリンは耳をそば立てる。そうして事情を察して、どうにか帰るように促すが、霊夢は聞く耳を持たなかった。
短気な霊夢のことだ。このままでは強引に屋敷に突入しかねない。
ナズーリンは内心そう冷や冷やしていると、そこで屋敷の玄関から楽しげな談笑と共に二人の女性が姿を見せた。
一人は真紅の長髪をした大陸の民族服を着た長身の女性、紅魔館の門番、紅美鈴だ。
もう一人はショートボブのウェーブがかった緑髪、赤と白のチェック柄のロングスカートとベストが特徴的だ。ワンポイントとして向日葵の服飾が施されている。この女性こそ、花を操る妖怪、風見幽香である。
「あ、霊夢と……。タイミングが悪いなぁ……」
敷地に立ち入っているナズーリンと霊夢を視認して、美鈴は己の役職を全うすべく、二人の方へ歩み寄った。
「你好。すみません、席を外していました。ご用件は何でしょうか」
「そこに居る幽香に話があるの。通してくれる?」
断れば強引に押し通るという頑なな意思が言外からひしひしと感じられた。
それを聞いた美鈴は困ったような表情を浮かべながら、幽香の方へと振り向いた。
「構わないわ。その一人と一匹からは花の香りがするわね。季節外れの死の香りが」
「あー……えっと、では案内します。丁度ティーパーティーにするところでしたので」
日傘の下で柔かに微笑む幽香は二人が微かに纏う桜の香りだけで事情を察したようだった。
中庭の庭園にある洋式の東屋へと案内される。
霊夢と美鈴は気にしていないが、ナズーリンは心臓を掴まれた気持ちだった。表情こそ柔かだが、その目は冷淡で一切笑っていない。
薄らと見える真紅の瞳が暗にこう言っているのだ。また虐めてやろうか、と。
とはいえ、霊夢と美鈴含む紅魔館で野暮な真似はしないはず。案内に従い、席に着いた。
いつの間にやらテーブルには色とりどりの菓子が乗ったケーキスタンドが置かれ、湯気立った熱い紅茶が注がれている。
「この時期になるといつも此処に来ているの。薔薇、ポピー、カーネーション、チューリップ……。西洋の花々にはそれに適した土壌があるわ。良く手入れされていて明媚よね」
紅魔館の庭園はその豪華さを知らしめるように花々が植えられている。庭の手入れは美鈴が行い、その丁寧な仕事ぶりからちょっとした花の展示会である。専ら門番よりも庭師の方が向いていると評判だ。
褒められた美鈴は照れ臭そうに笑い、紅茶に口を付ける。
「えへへ……」
「紅一色というのがナンセンスではあるけどね」
「他の色も欲しいなとは思いますが、レミリアお嬢様の意向ですので……」
棘のある物言いだが、美鈴は気に留めていない。そういった程度で傷付く友好関係ではないようだ。
「はぁ……」
話を聞いていた霊夢は、興味なさげにスコーンを口に運ぶ。
「もうこっちの話していい? 有難いお花の説法を説かれに来た訳じゃないの」
「貴方たち人間は本当にせっかちよねぇ……。まぁ、いいわ。事情を聞いてあげる」
「なら、私は仕事へ戻りますので……。用がありましたら声をお掛けください」
霊夢の反応につまらなさそうな表情を浮かべつつも、幽香は美鈴との話を中断し、耳を傾けた。
仕事モードの真面目な霊夢を見て、美鈴はそそくさと門番の仕事へと戻って行った。針で刺されない賢明な判断だと思うと同時に、ムードメーカーが居なくなるのは困るともナズーリンは思っていた。
「……ほら、話しなさいよ」
「えっ、私!?」
肘で小突かれ、唐突に話を振られたナズーリンは驚きのあまり肩が跳ねた。完全に霊夢が話を切り出すと思って油断してしまっていたのだ。
「私じゃ無理な案件だもの。幽香に依頼のし直しならそっちから話すのが筋じゃない?」
「し、しかし──」
「くだらない漫才を聞いてやるつもりは無いわ。どっちでもいいから、話すのならとっととしなさい」
引き下がろうとするナズーリンに痺れを切らした幽香が苛立ちを含んだ声色で二人のやり取りを遮った。
柔和な微笑みは消え、無表情に冷徹な瞳がナズーリンを見下ろしていた。
洒落にならない幽香の様子にナズーリンは心底肝を冷やした。
「え、ええと……」
小さい身体を更に縮め、背筋から悪寒を感じる。冷や汗をびっしょりとかきながら、ナズーリンはこれまでの異変内容と経緯を話し始めるのであった。
「──十中八九、幽霊の仕業でしょうね」
一通り、話を聞き終わった幽香はキッパリとそう言った。
「そうなの? でも前の異変と違ってそんな気配はしなかったけど」
「うん。私も桜は例年見てきたがこんな事はなかった」
そう宣う幽香に霊夢は疑問を呈する。その意見に同調してナズーリンも頷いた。
霊夢は過去に発生した異変で幽香らと共に同様の体験をしていると聞く。ナズーリンは無縁塚に住んで毎年紫桜は見てきているのだ。
「実物を見ないことには断言出来ないけれど、恐らく桜と幽霊の魂が複雑に混ざりあって癒着しているのでしょう。気づけなかったのも同じ理由です。桜は未練を吸い上げて散らす。幽霊は強い未練を持って成仏したがらない。それらが長く膠着したことで幽霊は取り込まれ、花弁は散らないという事態になっているのです」
具体性のある内容だ。まるで実際に見たかのように、幽香の推理は既に原因まで見抜けている。フラワーマスターの異名は伊達ではない。
「霊力を込めると弾くようになるのは……」
「双方の生存本能から来る防衛機能です。未熟者の一撃とはいえ、魂魄家の刀をも防ぐのは想像以上ね」
敵意を示さなければ接触も可能であったことも辻褄が合う。だが、妖夢の白楼剣すらも弾いたことは幽香の想定すらも超えている。これ以上放置するのは危険だという証左であった。
「さて、私が言えるのはここまで。ここからはビジネスよ。貴方は何を求めて、何の対価を支払うのかしら」
空気が変わった。茶会ののんびりとした空気から一転、緊張感に満ちていく。幽香の真紅の瞳が細められて歪み、ナズーリンの方を見やる。一見、微笑んでいるように見える表情はその実、加虐心に満ちている。
ここまでのやり取りで花には誠実だから大丈夫だと安心してしまっていた。嫌な予感にナズーリンの身体が本能的に強張ってしまう。
「さ、桜は貴方の力でないと解決出来ないと思い、ます。成果を出してくれるのなら対価を支払うのは当然ですし……」
対等に話し、時には尊大な態度を取るナズーリンが、しどろもどろに下手に出てしまう。必死に幽香の機嫌を損ねない考えを出そうと思考を巡らせる。
「報酬については多分に支払うつもりです。それで──」
「ふぅん。たった、それだけなのね」
その発言に小さくなった身体を更に小さく丸める。肉体的な強さも舌戦も、ナズーリンでは敵わない相手。最早幽香の顔色も窺えず、緊張のあまり口の中の水分が失われて言葉に詰まる。
「ぶぶ、部下にも太陽の畑には金輪際近寄らないよう──」
「聞こえないわ。ビジネスパートナーともまともに話せないの貴方」
「…………」
報酬に然程興味はなく、ビジネスを名目に幽香は加虐心を満たしたいだけである、というのはナズーリンも頭では理解している。
しかし、かつて身に刻まれた力に恐怖してまともに言葉も発せなくなってしまう。
遂に言葉を失ったナズーリンを更に追い打ちをかけようと口角を歪め口を開く幽香だが、思わぬ助け舟があった。
「今、アンタを退治しないであげる。それが報酬よ」
霊夢が割って入ったのである。ナズーリンは心中で安堵すると同時に、助けてくれるとは思っていなかった為、驚いた。霊夢は他者へは基本的に無関心だという認識だからだ。
一方で、ナズーリンへの悪態を遮られた幽香は、表情こそ平静を保っているが、怒気を孕み始めているのが分かった。矛先が霊夢でなければ命乞いをしていたかもしれない。
「霊夢。貴方は口を挟まないでもらえるかしら。なんなら消えてもらっても結構よ」
「私はナズーリンから『妖怪』退治の依頼を受けてるの。引き受けないなら今のは依頼主への精神的攻撃と看做すわ。決めなさい。さっさと桜を診るか、この場で退治されるのか」
霊夢への依頼は桜の調査とお祓いだけだ。妖怪退治は含んでいない。見かねた霊夢がナズーリンを庇ってくれているのだ。
その姿勢を見抜いたのか、博麗の巫女である霊夢との敵対を避けたか。どちらにせよ、表情はそのままに凶悪な怒気もナズーリンへの加虐心もどこへやら、幽香の態度は軟化したように感じられた。
「……そうね、変調を起こした桜というのは興味があるし、診てあげるわ。ああ、それと」
幽香はナズーリンへ視線を移す。反射的にビクリと身体を震わせるが、咳払いして平静のふりをした。
「報酬なんだけど、人里で花の種を買ってくれればそれでいいわ」
「た、対価を支払うのは当然ですし、それでいいのなら……」
幽香は人里へ赴いて花を買っている姿は高い頻度で見られている。今更新たに買う理由もなく、更に言えば、種などナズーリンの資産からすれば無料同然である。
即ち、これは幽香なりの詫びなのだ。
ナズーリンが了承すると、幽香は席を立った。
「決まりね。美鈴とはまだ話す事があるから先に行っていて頂戴」
そう言って、門へ立つ美鈴の方へと歩き去って行くのであった。
「……私たちも行きましょっか」
「……そうだね」
本来の客人を置いてまで、この場に居残る理由は無い。
幽香と談話中の美鈴に一言声を掛けてから、二人は無縁塚へと飛び立ち、紅魔館を後にした。
「悪かったわね」
無縁塚へ向かう最中、霊夢がそう言った。幽香の事だ。
「……みっともないところを見せたね」
「前金まで貰って大したことも出来てないし、せめて手出しはさせないようにするわ。嫌だろうけど、我慢して」
依頼された身でありながら桜への対して手立てが無いこと、嫌がるナズーリンを幽香の前に出したことを霊夢なりに責任を感じて反省しているのだ。
気にしていないと諭すように首を振って見せ、ナズーリンは霊夢へ微笑んだ。
「ありがとう。そう言ってくれると心強いよ」
そうこうする内に無縁塚へと戻ってきた。数分ばかり桜の前で待っていると、二人の前へ幽香が降り立った。
「待たせたわね。成程、見立て通りではあるけれど……」
日傘を閉じ、幽香は桜を見上げる。発言を聞くに、紅魔館での想定通りではあるらしい。
「どう、ですか?」
とはいえ、反応から察するに少なからず想定外の要素がありそうだ。ナズーリンが不安を抱きつつ尋ねるも、幽香は泰然自若の構えだ。
「このまま放っておけば妖怪化して暴走していたでしょう。ですが、中に居る幽霊を切り離せば問題ありません。その程度なら容易いことよ」
そう言って、幽香は右手を桜へ向かって伸ばす。突き出した手が虚空で握り込むと、なんとこの一月の間、一切の反応の無かった紫桜が騒めいた。
「ついでに手入れもしておきましょうか」
原因の分離すらも簡単にやってのけ、その上で植物のケアも忘れない。
そうして幾ばくかの間、虚空に掲げた手を動かしては桜を弄り、やがてその手を止めた。
「はい、おしまい」
「……この幽霊が桜が散らない正体?」
紫桜自体は、見た目はこれまでと変わらない。心なしか花弁が艶めいて見える程度だ。
明確に違う点は、傍に立つ老婆の幽霊の存在だ。つい先程まで見られなかったが、今は強い未練を感じられた。
間違いなく桜が咲き続ける原因だった。
「あ、この幽霊……」
幽霊となって半透明となり色彩こそ失われたものの、確か白髪混じりの金髪で、ストレートのショートボブ、白黒ストライプ柄のトップスにハイウエストのジーンズという出立ちだ。
幻想郷の住人でこの様な格好をする者は居ない。外の世界から来た外来人だ。ナズーリンはこの幽霊に見覚えがあった。
無縁塚の桜がポツリポツリと少しずつ咲き始める頃に、ナズーリンはこの幽霊と出会っている。といっても亡骸の状態ではあったのだが。
部下の鼠からの報告を受けて現場へと向かうも、到着した時には既に事切れていた。身体の至る所を深く切り裂かれ、滲んだ血がどす黒く変色していた。どうやら幻想郷へ迷い込み、獣に襲われたらしい。手遅れだったのだ。
その後の処置は部下の鼠たちに亡骸を食べさせた。これは肉体を自然に還す獣葬という葬い方であり、それを行い、残った遺骨と遺留品はこの墓地に埋葬したのだ。
「何? 知ってる奴? アンタ適当に処理したんじゃないの?」
「そんな筈は無い! これまでも同じ葬い方をしたし、般若心経も唱えて供養した。間違いないよ」
反応を見て訝しむ霊夢に対し、ナズーリンは目一杯否定する。無縁塚の安定化の為だ。手を抜ける訳がない。
獣葬からの土葬という方法は、ナズーリンオリジナルの葬送方法だが、部下の食糧問題と土地柄故に生じた設備不足の為の苦肉の策だ。それでも幻想郷へやって来て数年、同じ方法で何人も葬い続けたが、こんな事態にはならなかった。澱のように未練や悔恨が少しづつ溜まり、この幽霊で発現したのだろうか。
ナズーリンは慌ててロッドを構えて老婆の幽霊へ向く。
思念が堆積されたのであれば、その分だけ数は感じられる筈だ。ダウジングに関しては絶対の自信があるのだ。
反応した数は一つ。やはり幽霊が単独で生み出した未練なのだ。
「ほら見ろ! この幽霊がやってるんだよ! 他はこうならなかったもの!」
「他を吸収したという線は?」
「うぐ……そ、れ……はそうかもだけど……」
鼻息荒く宣うナズーリンとは打って変わって、霊夢は冷静に指摘した。
図星であったナズーリンは返す言葉に窮した。狼狽えるナズーリンに、意外にも幽香が救いの手を差し伸べた。
「貴方、ダウジングで調べられるのよね。なら、未練の原因を調べられたりするのかしら」
「……! 調べてみます」
幽香の言う通りであれば、ダウジングで未練となった原因を探知することも可能である。実体化させられた今なら物であれば反応があるはずだ。
周囲をぐるりと回ると、西へ向いた際にごくごく微弱な反応があった。一度は手ブレによって開いたのだと勘違いしたくらいだ。違和感を感じて、気を引き締めてブレを無くしてようやく感じられた小さな反応であった。
「あ……。あった、ありました。西の何処かに反応があります」
「よろしい。それを早く探すことね」
「待った。幽霊を出せたのなら死神が出張ってくるはずよ。これ以上は出過ぎた仕事なんじゃないかしら」
霊夢の発言は一理あった。幽霊の自主的な成仏でなくとも、死神が魂を回収に来る場合もある。これまでは上手く隠れ仰せて見つからなかったとしても、視認出来る今なら死神に任せて良いと思えた。
霊夢の意見に同意して、ナズーリンも幽香を見る。
「無縁塚の彼岸桜は未練を吸い上げ、花となり、散らすことでそれを晴らす。私が今やったことは癒着したものを解きほぐして、元の流れに戻しただけよ。時が経てば、またこの幽霊は自然の流れに沿って彼岸桜へ吸収される。そうなっては同じことの繰り返しよ」
幽香の説明を鵜呑みにすると、猶予は余り無いと言える。放置すればこの幽霊は自然の法則に従って紫桜に吸われ、閉栓して再び枯れない紫桜へ引き籠ることになる。
何度も幽香に頼るのは何としても避けたい。事の重大さを理解したナズーリンがダメ元でダウジングで死神を探るも、反応は全くない。情報の無い存在を探し出すのは不可能なのだ。
「死神への連絡方法は──」
「無いわよ、向こうが勝手に来るんだから。それと忘れてるかもだけど、幽霊を成仏させるとやらの白楼剣は現在修理中」
「うーむ…………」
手っ取り早い解決策の二つは潰されてしまった。大人しく未練となった物を探し出して成仏させるのが良いだろう。
「これは探すしかないかな……」
そうなるとナズーリンの出番だ。ダウジングで得た微弱な反応を追い、原因となる物を探し当てて幽霊に供えて供養すれば無事解決だ。
「話は決まったようね。必要な分はしたし、私は帰るわ」
「幽香さん、ありがとうございました! お陰様で解決出来そうです。報酬については近日中に必ずお渡し致します」
立ち去ろうとする幽香に、ナズーリンは頭を下げた。苦手意識は取れないものの、最凶の妖怪が、力を、知恵を貸してくれた。それについては本心から感謝してたからこそ、ナズーリンは苦手な幽香でも頭を下げられたのだ。
「二度目は無いわよ。全身全霊で勤しみなさい」
そう言い残して、幽香は無縁塚から飛び去って行くのであった。
幽香が見えなくなるまで見届けた後、後が無くなったナズーリンは、ダウジング用のロッドを改めて構え直した。
「霊夢、依頼変更だ。私はダウジングに全力で集中するから護衛して欲しい。勿論、報酬は上乗せ」
決意に満ちた目をするナズーリンを見て、霊夢は軽く溜め息を吐いた。
「はぁ、アガサクリスQの新刊をようやく読めると思ったんだけどなぁ……。ま、でもいいわ。その心意気に免じて引き受けたげる。思いっきりやってみなさい」
霊夢からも許可が降り、ナズーリンは微かな反応だけを頼りに西へと進む。
性質の悪いことに、反応が時折消えてしまうことがあった。それは集中力が切れた証拠であり、途切れさせない為にその都度気力と集中力を込めなおす。
霊夢も、時折興味本位で邪魔をしに来る妖精を蹴散らし、ゴシップネタを探す天狗すらも力尽くで追い返してダウジングの邪魔をさせなかった。
効率を考えて、空を飛びながらダウジングしても反応の弱さに足を止めさせられて中々先へ進めない。
紅魔館で幽香に頼んだのは丁度日が高くなる頃合いだった。それから数刻が経った。日沈までナズーリンはダウジングし続け、やがてある地点で進行を止めた。
「ハアッ……! ハッ……! ハッ、ハッ……!」
長時間の集中で精も根も尽き果てた。ナズーリンはふらふらと地面へ降りて、へたり込んだ。
「一先ず、お疲れ様。……それで、貴方は此処が何処か分かってる?」
「ハァ……わ、分かってる……」
護衛に当たっていた霊夢は、手を引いて力尽きたナズーリンを助け起こした。
二人がいる場所は荒涼とした草原だ。目立ったものは何もなく、ただただ伸び放題の雑草が延々と続いている。
皐月となったとはいえ、暖かな昼間とは打って変わって日暮れになると空気が冷える。
妖怪の山から吹き下ろす冷たい風が、びゅうと風切り音を立てて駆け抜けていった。煽られた雑草が耳障りに騒めき、薄手の巫女服のままの霊夢が、寒さで大きく身震いした。
この草原に何も無いのには理由があった。この先には幻想郷を形成する為の結界、博麗大結界が存在している。半端者の妖怪では近付くだけで存在そのものが危ぶまれる危険地帯なのだ。
今、二人は幻想郷と外の世界の境目の近くに居た。
疲労から小刻みに震えるロッドをどうにか抑え込み、ナズーリンは西へロッドを向けた。幻想郷中を横断して、ようやく反応は少しだけ強くなっていた。目当ての物はこんな場所には無く、もっともっと先にある。
「霊夢……見ろ、反応はまだまだ先へ続いている。こうなりゃとことんやってやる。私は幻想郷を出て探しに行く」
幻想郷を出ると聞いて、僅かに霊夢の顔が険しくなる。
幻想郷は地続きでありながら、博麗大結界で隔絶された世界だ。それ故に外来人が迷い込み、一部の者は出入りすることも可能なのである。
しかし一部だけだ。人間は外へ出るまでの環境に耐えられず、妖怪は畏れを持たれない外へ出ると、存在を維持出来なくなってしまう。
「博麗神社から結界を開けれるだろう? 頼むよ」
このまま進んで強引に結界を抜けることも出来なくは無いが、壁に穴をこじ開けるようなものだ。霊夢を含めあらゆる人妖の迷惑になる。
幸いなことに、此処に博麗の巫女が居るのだ。
彼女は博麗大結界を任意で開けることが出来る。幸運にも無縁塚で生き残った外来人を保護し、送り返すまで見届けたこともあるからだ。
それを聞いて、眉間に皺を寄せて思案していた霊夢が口を開いた。
「アンタが幻想郷を抜けて無事である保証は? みすみす死なす為に開ける訳にはいかないわ」
霊夢はナズーリンを慮っていた。ナズーリンは鼠の妖怪だ。幻想郷においてはかなり力の弱い方であり、そんな妖怪が外へ出ても無事な訳がないと心配しているのだ。
「問題ないよ。私を含め、命蓮寺の連中は毘沙門天様に帰依している。その毘沙門天様の威光と信仰はどこであっても揺らぐ事はない」
「……」
それを聞いても霊夢は口に手を当て考え込み、未だナズーリンを見定めている。
それを見て不十分だと受け取ったナズーリンは、不本意ではあったが更に説明を続けた。
「それに、だ。私は鼠の妖怪で、外の連中は未だ黒死病の畏れを抱えている。ハッキリ言うよ。白蓮の復活がなければ此処に来る必要すら無かったんだ。……もういいだろう、仏教徒としての私でも、妖怪としての私でも外の影響は無いんだよ」
そこから更に霊夢は思案に耽り、少し経ってようやく口を開いた。
「……いいわ。外の世界へ出したげる。ただし、条件があるわ。ナズーリン。もしもアンタに何かあった時に聖たちに顔が立たない。外では菫子と一緒に行動しなさい」
「宇佐見くんか。ふぅむ、良いとも」
菫子は数少ない博麗大結界を無視して幻想郷を往来する女子高生超能力者だ。何かあった時の為の相方というよりも、ナズーリンが外の世界で暴れない為の目付役といったほうが正しいだろう。
とはいえ、結界開けを認めてくれた以上、霊夢の条件を否定する理由もない。ナズーリンは快くで了承した。
「お互いに準備があるだろうし、アンタはとにかく疲弊してる。明日の昼にでも来て頂戴」
「うん」
「それじゃ帰りましょ。くあぁ、お腹空いたぁ〜」
段取りも一区切り着いたところで背伸びをした霊夢から、可愛らしい腹の虫が鳴った。日も暮れて、夕餉としてはいい頃合いだ。
「この時間ならまだ鯢呑亭が開いてるよね。奢るよ」
「えっ、いいの?」
「追加報酬ってやつだね。あ、そうだ。その代わり酒は呑んじゃ駄目だからね」
「えぇ〜〜!? 美宵ちゃんとこの清酒と煮物組み合わせ最高なのよぉ。ねね、一杯だけならいいでしょっ。ねっ?」
「君、呑んだらいっつも潰れるまで呑んでるじゃん。明日に響くし駄目ったら駄目」
仕事をした日にする晩酌は最高だ、というのが霊夢の持論だ。どうしても酒が呑みたい霊夢はナズーリンに頼み込むが、にべもなく断られてしまう。
「ほんっとお願い、お猪口一杯でいいから! 一生のお願い! この通り! お願いします神様仏様ナズーリン様!」
人里へ向かう間も霊夢はナズーリンに拝み倒し続けるのであった。
翌朝、日もすっかり昇った頃に無縁塚にある簡素な小屋にナズーリンは居た。土間にまで出てしゃがみ込み、見送りに来た鼠を拾い上げる。
「それじゃあ、皆の面倒頼んだよ」
上方を見上げると、ナズーリンへと向けられる無数の目。数百匹は下らない部下の鼠たちが主であるナズーリンの言葉を待っているのだ。
「さて、私はしばらくの間留守にする。君たちはするべきことはこの無縁塚を守ること、そして万が一私の帰還が遅れたら彼の指示に従うことだ。いいね?」
耳を澄ませば、その命令を肯定の意を示す足音が鳴り響く。煩い程に鼠の足音が鳴り響くが、ナズーリン自慢の耳はその全てを聞き分けていた。
鳴らさぬ者を見やれば、その鼠は慌てて音を鳴らす。鼠からすればナズーリンは神にも等しい力を持つ者なのだ。逆らえるはずがない。
「結構。じゃ、行ってくるからね」
全ての鼠が賛同したことで、代表として選出された鼠を地面へとそっと降ろした。鼠は薄暗い小屋の中へと帰って群れの中へと紛れていった。
小屋を出て、墓地へ向かう。中央に聳える紫桜の大樹は変わらず見事に咲き誇っている。
老婆の幽霊は変わらず桜の傍に茫然と立ち続けていた。死神は未だに訪れる気配がなかった。
最早、未練の品を見つけるしか解決の道はない。
無縁塚の留守は鼠らに任せるとして、ナズーリンは墓地を後にし、単身博麗神社へと飛び始める。
今回、ナズーリンは鼠を外の世界へ連れて行かないと決めていた。
幻想郷へ来て早数年。連れてきた部下の鼠たちは全て二世代も世代交代し、外の世界は知らないものへと変わってしまった。未知の場所に連れていっても、少数では役に立てる場面は少ないだろう。
更に、ロッドも置いていくことにした。
一般的に知られる小振りなL字ロッドならともかく、ナズーリンのロッドは武器も兼ねる特注の代物だ。外の世界では巨大すぎて悪目立ちしてしまい使うことが出来ない。幻想郷中を探知範囲に出来る素晴らしい性能だが、この旅では置いていかざるを得ない。
アクセサリーとして誤魔化せるペンデュラムと、ある程度の旅費と肩掛け鞄、耳を隠す為のキャスケット帽という出立ちだ。
装備も部下も使えない状況に些かの不安を覚えつつも、ナズーリンは博麗神社に到着した。
しかしナズーリンは詣でる為に来たわけではない。拝殿で胡座をかいて本を読み耽る霊夢を見つけて、そこへ降り立った。
「こんにちは。約束通り来たよ」
「いらっしゃい。準備出来てるわよ」
霊夢が指を差す参道から少し外れた境内には、空中に札が貼り止められていた。こともなげに準備をしたと言っているが、それ自体が神業に等しい。
そんな札に霊夢が霊力を流せば、結界を超える境界が生まれるという訳だ。
「てっきり二日酔いで潰れてるのかと思った」
「まっさかぁ。やるべき事があるのに、私がそんな酷いことするもんですか」
「はは……」
ニヤリと霊夢は不敵に笑うが、昨晩は最後の最後まで酒が呑みたいと駄々を捏ね続けていた。それを延々と聞かされ続けたナズーリンは苦笑いするしかない。
幸いにも別れてからも飲酒をしていなかったようで、一抹の不安が解消されてナズーリンは胸を撫で下ろした。
「ちゃっちゃと済ませましょ。早く続き読みたいし」
「うん」
ナズーリンは札の前に立った。いざ、外の世界へ。
「成程、お前の仕業かい」
不意に声が何処からともなく聞こえ、周囲に霧が立ち込める。一瞬にして霧が晴れると、一人の少女がナズーリンの前で浮いていた。
身体から垂れ下がった複数本の鎖がジャラジャラと耳障りな音を立てて鳴り、威圧感を与える。小柄なナズーリンよりも更に小さい体躯でありながら、膝まで届く茶髪のロングヘアが獣を彷彿とさせた。
そして頭から生える二本の長く捻れた角。
白のノースリーブから出たひょろりとした細腕からは信じられない程の怪力を誇り、その力は海内無双。腕力だけならあの風見幽香以上である。
幻想郷に棲まう強種族である鬼、伊吹萃香がナズーリンの前に立ちはだかった。
「──っぷぁ。霊夢とは飲みの約束があったんだよ。なのに昨日欲を萃めても一滴も飲みやしない」
萃香が腰に付けた紫の瓢箪を取り、それを煽ると、酒臭さが辺りに広がる。ナズーリンはその強烈な匂いに鼻を摘みたくなるが、鬼を前に不躾な真似をしてはいけない。
昨晩、妙にやたらと霊夢が酒を呑みたがったのは萃香の能力の仕業だったようだ。
「しょうがないじゃないのよ。仕事なんだから」
「でも約束は約束だ。私は約束を守らん奴は嫌いだよ」
嫌な予感がする。鬼は好戦的な性格だと聞く。その上でやむを得ないとはいえ、霊夢が約束を反故したとなると戦闘は免れないかもしれない。
ただでさえ力の差は歴然だというのに、装備が欠けてしまっている。最低限の装備しかないナズーリンでは手も足も出せない。この場は霊夢に任せるしかなかった。
即座に札とお祓い棒を構えて、霊夢は臨戦態勢を取る。
「そりゃアンタが勝手に決めたことでしょうが。とにかく、やるならこの子を外に送ってからよ」
「外……?」
外と聞いた萃香はドロン、と文字通り霧散し、次の瞬間にはナズーリンの肩に首を回していた。
「なんだい、お前さん外へ行くのか」
「ちょっと萃香!」
その様子に憤然とする霊夢を無視し、萃香はナズーリンに話しかける。
肩に回された腕はとてつもない剛力で、身動きすることすら出来なくさせられる。
「ええ」
力の差による恐怖と、強烈な酒臭さで顔を歪めそうになるが、平静を装ってナズーリンは答える。せめてもの抵抗であった。
「ならさぁ、酒買ってきてよ。なんだっけ、ハッポー酒? だったか。ああいう感じので良いからさ」
外の酒は中々手に入らんからさー、と言いつつ萃香は更に瓢箪の酒を呑む。大量に呑み続けているが、瓢箪からは酒が無限に湧き続けると聞いたことがあった。
「そんなのマミゾウに頼めば良いでしょ!」
霊夢は武器を構えてはいるものの、手は出せなかった。依頼主であるナズーリンを傷付ける訳にはいかないからだ。それを見越して萃香もナズーリンを離さないのだろう。
「高いんだもん。だからさ、お前……えぇと」
「ナズーリン」
「そうナズーリン。お前が酒を買ってきてくれると約束するなら、この場は大人しく手を引こう。もし、ちゃんと酒を用意してくれれば、見返りとして助けになってやると私からも約束しよう。どうだい、破格の条件だろ?」
逃げ道を潰しておいてその言い草は不条理そのものだが、鬼からの助力を約束出来るのは確かに破格だ。
それにナズーリンが知る限り酒の入手は容易だ。酒屋へ行き、年相応の小娘のふりをして親のお使いだと言ってしまえば、飲まないよう釘を刺されつつも一応の購入は出来る。
「分かりました。種類や量まではご期待に添えるとは限りませんが……」
「いいって、流石に選り好みまではせんよ。此処では手に入らんやつにしてくれりゃそれでいい。例えば……ワインとかだな」
多少なりとも指定をしている上にさっき挙げていた発泡酒から変わっている。その時点で選り好みしているじゃないかと突っ込みそうになるが、反感を買いたくないナズーリンはグッと堪えて頷いた。
「あんがとよ、ナズーリン。それじゃ行ってきなー」
「うぉっ……と」
軽く背中を押されて、ナズーリンはたたらを踏む。
萃香とナズーリンが離れた瞬間、針の弾幕が萃香を襲うが、当たることなく萃香は霧となって消え失せた。
「チッ……」
「早く結界を開けてやりなよ。私の酒の為にもさ」
声だけが境内へ響き渡る。霧が晴れると萃香の気配は無くなっていた。
「次見かけたらボコボコにしてやる……」
「こっちがボコボコにされるかと思ったよ……」
酒の匂いも消えたことで、肩を落として緊張を解きほぐす。
「昨日といい、悪いわね」
「いいって。それより早く開けてよ。また絡まれたら敵わないし」
謝る霊夢を制止し、結界を開けるよう促した。
そう言われて霊夢は札の前へ歩み、札へ手を翳す。すると、札を起点として回廊が生み出された。大の大人がやっと通れる程度の大きさだ。
回廊の先は別の景色が広がっている。外の世界のはずだが、草木に覆われ、荒れ果てているのが見て取れる。
「余計なことするんじゃないわよ」
しないと分かっていてもそう釘を刺すのは、博麗の巫女としての役目なのだろう。
「分かってる。なるべく早く帰るよ」
ナズーリンは手をひらひらと振り、開けられた回廊へと歩みを進めた。
「気をつけてね」
聞こえないよう呟いた、優しく柔らかい、小さな小さな声がナズーリンの耳に届いた。強気な、刺々しい対応が目立つ霊夢だが、それは博麗の巫女としてなのだろう。
通り抜けた際に瞳にちらつく木漏れ日に目が眩む。眩みが治った後、振り返って見ると、回廊は閉じられて博麗神社の姿は消え失せ、荒れ果てた雑木林が広がっていた。
幻想郷では感じられない人間が発達した証である化学工業特有の臭いが鼻に付き、自然溢れる場所であるのに捨てられた空き缶が目立つ。こんな場所でも存在する人工物がナズーリンにようやく来たと実感させた。これが数年ぶりに帰る外の世界であった。
ようやくやって来た外の世界だが、ナズーリンがまずやるべきは兎にも角にもダウジングだ。
首に掛かったペンデュラムを外し、ダウジングを始める。垂れたペンデュラムが宙に浮き、ある一点を指し示した。
「こっちか」
ロッドに比べて精度は落ちるが、知っている者が相手ならペンデュラムでも方角くらいは楽に調べられる。宇佐見菫子は東の方角に居る。
一方で、問題の未練の品はペンデュラムダウジングでは反応が弱々しい。相も変わらず微かに揺れるのみだが、幻想郷ではペンデュラムは無反応であった。外の世界へ来て近付いた証拠である。
方角は更に西を指し示した。
「ヨーロッパとかじゃないだろうな、まさか……」
世界にまで足を運ぶとなると、かなりの時間を要することになる。
多少の余裕はあるとはいえ、路銀の補給もすべきだろう。
何はともあれ、まずは菫子と合流だ。効率を考えれば単独行動の方が良いが、来なかったと霊夢に報告されては困る。
「麓に降りるまでは飛んでも大丈夫かな……」
音を聞く限り、何処かの山中であることは間違いない。厳密な場所が分からないのは、鼠を置いてきた弊害である。
外の世界でやるべきことは、宇佐見菫子との合流。次に路銀となる資金の確保、そして未練の品の確保、最後に萃香への貢物となる酒の確保である。
整理してみると時間的猶予に対してやるべきことが盛り沢山だな、とナズーリンは胸中でそう独り言ちる。
誰にも見つからないように警戒して山間をギリギリで飛び、ナズーリンは菫子の居る東の方へと飛び立って行った。
神奈川県に東深見という街がある。県庁所在地の大都市横浜からは遠く外れ、郊外と表現するに相応しい、住宅街が大部分を占める何の変哲もない街だ。
東深見からの最寄り駅も、小さなバスロータリーがあるくらいで、その周囲でだけ飲食店がひしめいている。土地を余らせる程度ではなく、かといって人通りも多い訳ではない、至って平凡な街であった。
そんな駅の改札口でナズーリンは壁に寄りかかって待っていた。待ち合わせる相手は勿論、今こちらへ小走りに駆け寄る少女だ。
「お待たせ〜、ナズッチ」
「やあ、宇佐見くん。久しぶり」
そう言ってナズーリンに駆け寄った少女、宇佐見菫子はナズーリンの肩を叩いた。
菫子は幻想郷では女学生の制服にマントを羽織っていた。しかし、今は皐月の初旬。即ちゴールデンウィークである。
制服を着ていては逆に浮いてしまうということで、菫子は白い無地のトップスに青のチェックスカートという出立ちだ。共通しているのは白いリボンを付けた帽子とアンダーリムの赤い眼鏡くらいだ。
「いやー、外で幻想郷の知り合いと会うって違和感が凄いわね。しかも地元で」
「フフ、確かにね。さ、とりあえず行こう。あまり時間がないんだ」
「あーっと、ごめんナズッチちょっと待って。一旦さ、私ん家行こ?」
「はぁ? ……ああ!」
菫子は改札へ向かおうとするナズーリンの手を取って止めた。
止めたことを訝しむナズーリンであったが、菫子の家と聞いて合点がいく。
宇佐見菫子は超能力者である。サイコキネシスやテレキネシスはお手のもの、そしてテレポーテーションも使えるのだ。そんなオカルトな内容を公共の場で話す訳にもいかない。だから自宅へ誘ったのだ。
電車よりも飛行よりも更に速い移動手段だ。これを使わない手はない。
菫子に従って、駅からバスで十数分揺られたところで降りる。近くに平家型の倉庫があるくらいで、都市によくある一戸建てが整然と並び、その内の一つが菫子の実家であった。
「お邪魔します」
「おかあ……あー、親は仕事で出払ってるから。遠慮なくどうぞ」
「ふふっ……」
お母さんと言おうとするも、見栄を張って親と呼ぶ辺りに年相応らしさを感じて思わず小さく吹き出してしまう。幻想郷でよく見てきた自由奔放さとは大違いだ。
菫子へ着いていき、二階の一室へと案内される。部屋はオカルトに関する物で溢れかえっていた。
西洋のオカルトグッズまみれの部屋の隅で、どうやら幻想郷から持ち帰ったものが一部あり、歳に似合わない古めかしい茶器や櫛、それと霊夢がよく武器に使用する陰陽玉が飾られていた。
「ナズッチが何か探してるー、ってのはレイムッチから聞いてるけど、私はどうしたらいいの?」
菫子はナズーリンに同行する旨だけは聞かされている状態だ。
とはいえ事の仔細を話していては時間が掛かってしまうのは菫子も理解して、自身に求めることを尋ねてきた。
ナズーリンは出されたオレンジジュースを一気に飲み干して話す。
「宇佐見くんにはその超能力で助けてほしいんだ。探し物は正確な形も場所も分からないというのに、時間が無くてね」
「へぇー。でもでも、場所が分からないなら私にはどうすることも出来ないわよ」
それについてはナズーリンに作戦があった。
「何かしらの物であり、場所はとにかく西の何処かに存在する、っていうことは分かってるんだ。私がダウジングで探すから、都度テレポートで運んで欲しいんだけど……まずは路銀の確保だ。奈良の信貴山へ行きたい」
未練の品がどんな物品かは不明だ。最悪の場合は国宝や重要文化財である可能性もあるが、大抵の物金で解決することが出来る。
菫子はスマホを取り出して場所を調べる。
「ナラ、シギサン……と。此処に何があるの?」
「昔、資産を全てそこに隠したんだ。売れば一財産にはなるだろうね」
「あー……何か凄そう」
ナズーリンが暇潰しに金脈を探し当てて、金の雨を降らせていた事実を菫子は思い出していた。そんなとんでもない妖怪の言う資産となると億万長者にもなれる金品が隠されているかもしれない。
「オッケー。場所も分かったし、早速行きましょ。現実で宝探しなんてちょっと面白そう」
ナズーリンは差し出された手を取る。
「あ、目は閉じておいて。テレポート中って移動経路が圧縮されて映っちゃうから気分悪くなるかも」
注意を受けて、その指示通りにする。想像通りであれば引き伸ばされて光の束となった暴力的な景色が視覚に襲い掛かるのだろう。想像するだけでも気分が悪くなりそうであった。
「じゃ、行くよ。──はい、着いた」
嗅覚を研ぎ澄ませると、菫子の合図と同時に家の芳香剤の香りから若草の光風へと変わった。無風から柔らかな風が全身をくすぐる。
目を開ければ、そこは山中であった。一瞬にして移動したのは間違いなく、宇佐見菫子は本物の超能力者であった。
「わぁ……! 懐かしい……」
何百年も修練と布教で練り歩いた山だ。山肌は、尾根は見覚えがある。ナズーリンの指定通り、テレポート先は信貴山で合っていた。十数年経っても変わらない懐かしい場所に、胸いっぱいとなって思わず感嘆のため息を漏らす。
少しの間、景色を見ていた。菫子が察して黙っていてくれたのが安堵した。
「ごめん、行こうか」
「うん」
思い出に浸るのはここまでにして、ここからは隠し場所まで歩いて行くことになる。幸いにも隠し場所までは然程遠くない場所にテレポート出来たようだ。
四半刻程度歩き、二人がたどり着いた場所は荒れ果てた廃寺であった。信貴山には朝護孫子寺があり、大々的に山で構えているのに対し、この廃寺は山肌に隠れるように存在している。参道おろか獣道すら無い、完全に忘れ去られた寺だ。
山門以外で寺の敷地を表すものはなく、その山門は潰れて割れた瓦の欠片が飛び散り、最早原型は殆ど留めていない。本堂も石造りの土台部分は苔むして、切目縁の板は腐り落ちている。
寺を支える円柱の木も腐食が始まり、いつ潰れてもおかしくないのが素人の菫子からでも察せられた。
「こんな所に隠していたの?」
「そりゃ、昔住んでたからね。……ここだ。掘るよ」
「その必要はないよ、っと……」
ペンデュラムが強烈に反応を示す。隠された資産を掘り起こそうと、ナズーリンが腕捲りをするも、徐に地面を割って石の箱が浮き上がった。
菫子がサイコキネシスとレビテーションの合わせ技で、地中に埋められたそれを無理矢理引き抜いたのだ。
「おっ、お、おぅ……。そうか、超能力ってのは便利だなぁ……」
想像以上のパワーにナズーリンはただただ圧倒されていた。
石箱の中身は、ナズーリンが外の世界へ居た時にコツコツと集めてきた物品の宝庫だ。
蓋を開ければ、金銀財宝がぎっしりと詰まった中身が目に飛び込んできた。適当に一つ取っても相当の価値があるのだろうと、菫子にそう実感させるには十分であった。
「これらを適当に質に入れれば、当面の路銀は足りるだろう」
こんな時の為に集めといたんだ、と自信たっぷりに息巻くナズーリンだが、菫子は渋い顔でスマホを操作している。
「ナズッチ〜。それ無理っぽいかも……。質屋って身分証明が必要だけど、ナズッチ何か持ってる?」
「え!?」
眼前に突き出されたスマホの画面は、質屋のホームページだ。確かに身分証明が必須であると記載されていた。
予想外の返答に驚きを隠せない。ナズーリンが知る頃は、それなりの身なりをして金品さえ持っていけば、鑑定して金に変えられたはずだ。
「……持ってない…………」
身分証明をしなければならないが、生憎とそんな物は無い。ナズーリンは持っていないと絞りだすように言った。
ナズーリンはゆうに千歳を越える妖怪だ。例えば、戸籍を持てば年齢がとんでもないことになり、役場で大問題となるだろう。そう考えて身分の無い存在のままでいたのだ。
「な、ならそうだ、宇佐見くん。君が売り捌けば良い」
「学生が持っていったら、すこぶる怪しまれるよ」
「ぐ……」
苦し紛れの案を閃いたものの、にべもなく却下されてしまう。尤もな意見で、菫子は学生の身だ。そんな若人が宝石や年代物の貴金属を持ち込めば、盗んだと怪しまれて連絡されるに決まっている。
「……あ、駄目だ。高校生不可みたい」
「んんんんんんん…………あっ!!」
駄目押しの情報に頭を抱えて天を仰ぐ。こんな事なら多少時間をかけてでもマミゾウに頼んで偽の個人情報を用意してもらうべきだった。万事休すかと思われたが、その瞬間ナズーリンは思い出した。
こんなこともあろうかと通貨をある程度残していたことを。
石の箱の宝石の山を掻き分けて、片隅に放り込まれていたせんべい缶を拾い上げる。
錆びて歪んだ蓋を無理矢理こじ開けると、中には除湿剤とジップロックに詰められた紙幣が幾つも詰まっていた。
「うわすっご……」
「偉いぞ、昔の私! どうだ、これなら問題無いだろう!」
鼻高々に自画自賛するナズーリンに菫子は若干引きつつも、紙幣を手に取る。
「ナズッチぃ〜、これ旧札じゃん。諭吉はもう使えないよ」
再び使えない代物が出たと思い、菫子は顔を顰める。しかし、ナズーリンは今度こそ余裕があった。
「いや、これは流石に大丈夫だと思う。制度が変わっていなければ銀行に持っていけば現在の紙幣に交換してくれるはずさ」
再びスマホを叩く菫子。文明の利器に頼りっぱなしか、とも思えたが、寿命の短い人間でもまだまだ若い。仕方のないことなのだろう。
「ホントだ。へー」
「強いていうなら、ここにある分を丸ごと両替するのは止めた方がいいね。さっき言ってたように怪しまれるよ」
ナズーリンの埋蔵金は数百万円はあった。急激な物価高騰でもない限りは大金となる額である。菫子も同意見で頷く。
ナズーリンは適当に一つのジップロックを拾い、菫子に投げ渡すと石の箱も含めて全て密封した。
「じゃあ私は適当に両替してくるね。ちょっと待っててよ」
「万が一理由を聞かれたら『旅行の為に貯金箱を開けたら出てきた』とでも言えばいいよ」
「オッケーオッケー」
そう言って菫子は眩い光を放ち、消えた。一瞬、持ち逃げも考えたが、盗られたところで痛手ではないし、石の箱の財宝は最早誰であっても手に余る価値の代物だ。
一人残されたナズーリンは、箱に寄りかかりながらかつての古巣をぼんやりと眺めて待つ。
「…………」
遠い昔、白蓮を筆頭に命蓮寺の主要な面々は封印され、ナズーリンと主人であり本尊の寅丸星だけが残された。残った寺は二人で管理するも、妖怪寺だという噂は広まり、逃げるように檀家は大幅に減っていった。
檀家が減れば当然食い扶持も減る。見かねたナズーリンが当座の立て直し資金として用意したのが、この石の箱に入った金銀財宝であった。
星は持ち前の生真面目な性格から、この財宝に手をつけることはしなかった。その結果が永い年月をかけて腐敗し、原型を留めぬほどに廃れてしまった寺だ。
「その結果が今こうして活きているんだから分からないものだよなぁ……」
百年は昔だというのに、揉めに揉めたことは今でも鮮明に覚えている。星と全力で喧嘩した唯一の出来事だったからだ。
そうやって人間に紛れて暮らしていた頃に思いを馳せていると、菫子が戻ってきた。
「おかえり。どうだった?」
「問題無かったけど、記録には残ったからしばらくは両替出来そうにないわ」
じゃーんと自慢げに新一万円札を扇状に広げて見せびらかす菫子。
余程高価な物で無ければ購入出来るだろう。未練となる物が宝石やヴィンテージ物でないことを祈るばかりである。
「だろうね。軍資金の余りと旧札の残りはあげるよ。手間賃ってことで」
「うっそ、マジ!?」
ジップロックに包まれた残った旧札は未だに掴めるほどの厚みを持っている。旧札とはいえ数十万円は下らないそれが意図せず手に入ったことで、菫子は聞いたこともない素っ頓狂な声を上げた。
「とりあえずこれ元に戻してよ」
「あっ、は、はい分かりました。へへ……」
石の箱を叩き、片付けるように指示する。
露骨に態度を変えた菫子は、へこへこと腰の低い素振りを見せながら箱を超能力で埋め直した。
その態度にナズーリンは眉根に皺を寄せた。脳裏にチラつく毘沙門天神や星へ媚びへつらい、機嫌を伺う愚衆の姿。
今回の異変でナズーリンの金払いが良いのは、各々の能力に対し、支払える対価では金銭が最も有効だと判断したからだ。
「気持ち悪いからその変な態度は止めて。どうせすぐには使えない金だろ」
「ごめんなさい、冗談です。……ゴホン、それで? 次はどうすれば?」
明らかに機嫌を悪くするナズーリンを見て、菫子は素直に頭を下げた。
関係性に亀裂を入れるつもりもないし、菫子はすぐに謝った。気に留めていない、と平静をアピールして質問に答える。
「問題の物は未だ西にある。とりあえず主要都市辺りに飛んでもらって調べるって感じかな。九州まで行ってもまだ西なら……」
「フランスまでテレポートしたことあるから大丈夫! 世界の果てでも付き合うわ」
一体どんな理由でそんな所まで行ったのかは気になるが、これで世界の何処かにあっても探すことは出来る。
ペンデュラムの振れ幅は信貴山に来てから明らかに強くなっている。
「心強いよ。とりあえず行こうか。まずは大阪からだ」
菫子の手を取り、二人はテレポートした。
大阪、箕面の山へと飛ぶ。人の気配を探知出来るのか、菫子のテレポーテーションは上手く人の目が届かない所に飛んでいた。
「どうナズッチ? 何か手掛かりは掴めそうかしら?」
箕面の滝を眺めながら菫子は聞く。折角バレないようにテレポートしたのに意味が無いなと思ったが、菫子が見てみたいと言うのであれば優先せざるを得ない。
ゴールデンウィーク中ということもあり、観光客が多く来ている箕面の滝は、雄大に流れる滝と自然豊かな風景を気軽にアクセス出来て見れる所が魅力だ。
今は瑞々しい緑の森と滝を眺めるだけだが、夏になれば地元の人間が泳ぎ、秋になると紅葉が色付き、また違った優美な景色が見られる人気のパワースポットだ。
ナズーリンは観光客に気取られぬよう気を配りながらダウジングを済ませた。ペンデュラムは大きく西へ振れている。
「まだ西だね。気が済んだら次へ行こう」
「うん、じゃあ行こう」
菫子はあっさりと箕面の滝から離れる。
ただの観光か、パワースポットのエネルギーを何かしらに充填させると思っていただけに、ナズーリンは意外に思えた。
人気の無い場所へ移動する際、菫子はナズーリンに耳打ちした。
「ネットの写真が綺麗だから見に来たたんだけど、妖怪の山の滝に比べれば大したことなくない?」
「そ……れは、比較対象が悪い!」
妖怪の山は富士山に比肩する雄峰であり、天狗と河童が管理をする大自然の大滝だ。その威容は菫子の言う通り比べ物にならない。
箕面の滝自体は素晴らしい場所なのだ。比べる相手が悪すぎて、ナズーリンは思わずツッコんでしまうのだった。
神戸、高雄山。山から見る神戸の夜景は、何物にも変え難い美しい煌めきが満天の星々を思わせる。
しかし、ナズーリンと菫子が到着したのは真昼の頃合いである。快晴である為、照らされて輝く瀬戸内海を一望出来る。
「よく晴れた日だと淡路島が見えるんだって。……何処?」
菫子は海とスマホを交互に見て位置を照らし合わせて、どうにか淡路島を一目見ようと目を凝らしている。
「丁度、水平線上付近に橋の繋がった平たい島が見えるだろう? それが淡路島だよ」
「ええぇ……。橋も見えないんですけど……」
ダウジングしつつもチラリと目を海に移しただけで菫子の問いに答え、ペンデュラムに再び視線を戻す。
菫子は睨みつけて海を見続け、遂にはスマホカメラのズーム機能を使いだすも、それでも見えなかったようでとうとう諦めた。
「あーもう、無理無理! 見えません!」
「そうかな、私にはくっきり見えているが……あっ」
「ん? どしたのナズッチ」
匙を投げる菫子を尻目に、ダウジングの結果が示される。これまで一直線に西を指し示し続けたダウジングだが、南南西へと変化していた。つまり、接近したことで具体的な位置を知らせるようになったのだ。これは重要なヒントになる。
「方角が変わった。これでかなり場所も絞れるぞ。宇佐見くん、次からは南へ移動したい」
「いいよ、何処行きたいかはナズッチが決めてよ」
菫子はスマホを差し出した。地図のアプリが開かれている。
ナズーリンは現在地と示された方角を頼りに、地図と睨めっこして移動先を決めた。
「淡路島へ行こう。一気に飛んで交叉点を作り出す」
「了解。じゃあ飛ぶよ」
そうして二人は淡路島の山中へとテレポートした。
「悪いけど観光は無しだ。淡路島は玉ねぎが名産で美味しいから、いつか親にでも買ってやるといい」
「はーい。……でも野菜とお米は幻想郷産に勝てるかな」
幻想郷の野菜や穀物類、果物に関しては絶品である。なにせ豊穣を司る八百万の神が見守っているのだから。
「銘柄が不明な物を現代の人間が食べるとは思えないね。というか持ち出せないだろ、それ」
そう言いつつダウジングすると、ペンデュラムが指した方角は北東。読み通り、目的地を通り過ぎていることを表していた。
菫子の地図に書き込んだ、高雄山からの線と淡路島からの線。その交点に目当ての物が存在する。その場所とは──。
「元町」
神戸市元町。阪神地区の若者の街、三宮と貿易の街、神戸の間に位置する地域だ。
貿易が盛んな神戸の一帯にあることで、ブティック等のハイカラな商店街として栄えることになる。時代が進んだ現代においては昭和レトロな雰囲気を持つバッグや服飾を取り扱う雑貨店と港町らしく舶来品、古美術品が売られる独自の商業街道を形成している。
元町駅の駅前は南京町と呼ばれ、横浜・長崎の中華街と並ぶ三大中華街として、中国東南アジアの料理店や屋台が所狭しと通りに建ち並んでいる。
ナズーリンと菫子は南京町の通りを歩きながら天津包子に舌鼓を打っていた。
「ん〜〜! 美味しいー!」
「椎茸がいい味出してるんだよね」
一口サイズより少し大きめの肉まんで肉がぎっしりと詰まっているのが売りだ。椎茸がアクセントとなって旨味が増し、南京町人気の商品だ。行列は当たり前だが、二人が来た時は運良く殆ど待たずに購入出来た。
時間は夕暮れへと差し掛かろうと、空は朱く滲み始めている。夕食には早いが、南京町の旨そうな匂いに釣られてしまったのだ。
「それで。どうするの? 場所は分かったけど」
「んむ……」
そう言われて、ナズーリンは包子を食べる手を止めた。とはいえ、既に十個は軽く食べているので、菫子からは言葉に詰まったのか食べ飽きたのかは分からなかったりする。
元町に着いた二人はダウジングに従い、元町商店街から近い、ある小さな雑居ビルに辿り着いた。
目当ての物はすぐそこにある。そう思っていたが、最後の壁が立ち塞がる。
ペンデュラムが示す先はなんとレコードショップだったのである。
実質的に未練の品はレコード盤と判明したが、問題はその数である。数千、いや数万枚はあるであろうレコードから何の情報も無しにたった一枚を探し当てなければならないのである。
馬鹿正直に探しては時間が掛かりすぎるとして、作戦会議も兼ねて南京町で軽食を取りに来たのであった。
「んぐ……。部下を置いてきたのは失敗だったな。先行させて死角を探らせるべきだった」
無い物ねだりしても仕方がないが、こういった時には部下の鼠が大いに役に立つのである。
「じゃあ、現地の鼠に手伝わせるのはどう? こういったとこって、その、結構居そうだし」
「あー、ダメダメ。そういうやり方は確かにあるけど、野良の鼠は即物的でね。こういった飲食街があると途端に使えなくなるんだよ」
ナズーリンがチラリと目をやれば、屋台の隅、その陰に隠れるようにドブネズミが落ちた胡麻団子を咥えて駆け抜けていくのが見えた。
遥かに格上の鼠であるナズーリンの存在に気付かない辺りがその性質を如実に表していた。訓練されていない鼠は本能が強すぎるのだ。
続いて、ナズーリンが菫子に尋ねる。
「宇佐見くんはどうなの。こう……透視とか念写みたいなのって使えないの?」
包子を食べ終えて、タピオカミルクティーを飲む菫子は首を振る。恐らく、幻想郷で見せる超能力の数々が使える能力の全てなのだろう。
とはいえ、道中で協力してもらった超能力だけでもとんでもなく助かっているので、これ以上を望むのは野暮なだけである。
「そっか……。まぁ、案がない訳ではないから、とりあえず試してみよう」
ひとしきり休憩した後、二人はビルの前に居た。大通りから外れ、商業通りだが人通りは多くない。
夕暮れとなり、建物から射す灯りの方が目立ち始めてきた。相対的に街頭が点いてない通りは薄暗くなってきている。ダウジングをしてペンデュラムを浮かせても目立たないだろう。
ナズーリンはペンデュラムに意識を集中させて、ビルへ向けた。指し示した位置は一寸のズレもなく直線的に指したものだ。
「ラインは覚えた。行こう」
二人は雑居ビルのレコード店へと入る。
レコードというのは昭和の頃の時代に流行った音楽文化である。そういうイメージが強いが、昨今では再流行の兆しを見せており、CDよりも売り上げは好調であったりする。
流行によって若者への認知も増え、店内には菫子よりも一回り年上ぐらいの近い年代の客が数人居た。てっきり菫子の祖父母くらいの年代ばかりが客層だと思っていただけに、これは僥倖であった。店内に居ても存外不自然では無い。
作戦は至ってシンプルで、音楽に興味のあるふりをしてジャケットを眺めるなどをして菫子が壁になる。そこから生まれた死角を利用してナズーリンがダウジングして絞っていく。ただそれだけである。
ビルの外で行ったダウジングで、おおよその位置は絞っている。
アーティスト名が『は行』の棚に存在することは突き止められた。そして縦置きでぎっしりと詰められたレコードジャケットの塊を捲っていき、遂に目当ての品を探し当てた。
念の為、再度ダウジングを仕掛けるとペンデュラムはアルバムを指した。間違いなくこれが未練の品だ。
「えーっ!? これってルナッ──もがっ!?」
「バカ、声が大きい」
突如、驚愕の叫び声を菫子は上げる。ナズーリンは慌てて菫子の口を塞いだ。とにかく目立つ行動は避けたいのだ。
狭い店内での異変。何事かと一斉に視線が注がれるが、それが他愛のない黄色い声と分かり、ジロリと一瞥されるだけで終わり、一先ず安堵した。
ただ、菫子が声を上げる理由も分からなくもない。レコードのジャケットに書かれたアーティスト名はルナサ・プリズムリバー。幻想郷に住む騒霊少女の見知った名前がそこにあった。
「え? どういうこと? なんでこんなところに?」
「かなり古いレコードみたいだし、生前の作品とかなんじゃないかな」
諌められて声を顰めるも、菫子は未だ混乱の最中にあった。
発行年を見れば一九三〇年代に造られた物だと分かる。包装ビニールに包まれていなければ剥げてしまいそうなほどに、色褪せてボロボロのレコードジャケットだ。
ジャケットに映る金髪ショートヘアの初老の女性は、確かにどことなく幻想郷のルナサの面影があった。
古いレコードと騒霊少女となっているルナサ。ナズーリンの憶測に菫子も合点がいったようだ。
「なぁるほど。言われてみればそうなのかも……」
「全部解決したら当人に確認を取ってみてもいいかもね」
「そうと決まれば、早速買いましょう」
「うん。……あ、そうそう。それ、一品しかないプレミア物っぽいから扱いには気を付けてね」
軽々しく持ってレジに向かう菫子に、ナズーリンはそう釘を刺した。
ダウジングをしてもペンデュラムはピクリとも動かない。少なくとも国内には同一のレコードは存在しないことを意味していた。所謂プレミア品である。
発売された年代を鑑みれば、戦火に焼かれたか、約一世紀という永い年月が劣化を生み、廃棄させたのだろう。残っているだけでも奇跡である。
当然ながら菫子は知らないが、紫桜に憑いた幽霊の見た目は外国人の顔立ちであった。恐らくは、方々を探してルナサ老のレコードが日本にあると聞きつけて来たのだろうと推測していた。
一点物と聞いて、菫子の動きはピタリと止まり、片手で掴むでいたところを、恭しくレコードを懐に抱えてレジへと持っていくのであった。
「さて、無事にレコードは手に入ったことだし……後は帰るだけ?」
ビルの外へ出て鞄にレコードを仕舞い込む。菫子が超能力で保護しようとしたのは丁重に断っておく。
この後の処遇を聞かれて思い出してしまった。鬼へのご機嫌伺いである。
「後は……お酒を買って終わりだね。適当に酒屋で買ってくるから、その後何処かで食べるかい?」
旅費は菫子のテレポートで大幅に削減され、手持ちにかなりの余裕がある。元町から少し東には日本酒の名産地、灘五郷もあるし、そんな上等な酒なら萃香のお眼鏡にも叶うだろう。
こともなげに言うナズーリンに対し、菫子は肩を掴んだ。その表情は非常に切迫していた。
「ナズッチ、確か信貴山で身分証明になるもの無いって言ってたよね」
「そ、そうだね。法律があるのは知ってるよ。でも、そうはいってもそこまで──」
「甘いわね。時代は進んでるのよ、ナズッチ。昔はどうだったか知らないけど、今はもう身分証明しないと何処も買えないわ」
「へ……?」
気軽に考えていたが、実情を知らされ、間抜けな声が漏れてしまう。ナズーリンは血の気が引いたのを感じていた。悪い予感に背中の肌が粟立つ。
「コンビニは自動で年齢確認させられるし、自販機でも身分証明出来るものを読み取らせないとお金も入れられない。酒屋なんてもっての外よ」
最後の最後でとんでもないものが待っていた。萃香に頼まれた酒が入手出来そうにないのだ。
現在のナズーリンに身分証明する物はなく、菫子は未成年の高校生だ。二人とも、酒を購入出来ないのだ。
絶望感に眩暈がする。残された手は二つしかない。
犯罪に走って酒を盗み出すか、ノコノコと手ぶらで幻想郷に戻って萃香の不興を買うかである。
見張り役の菫子の前で犯罪に走る訳にもいかず、かといって鬼の萃香との約束を反故すれば、待っているのは確実な死だ。
詰みの状況を思い知らされて、打ちひしがれそうになる。
「ナズッチ、事情を教えて。何でわざわざ外の世界で酒なんか買う必要があるのか」
否定の材料を並べ立てるも、菫子はナズーリンの意図を汲んでくれた。
まだ協力してくれるつもりだ。藁にも縋る思いで、ナズーリンは菫子に酒を買う経緯を話すのであった。
「萃香さんに目を付けられたのね……。気の毒に……」
「約束しないと来られなかったんだ……なのにこんなことになるなんて……」
駅前の花壇の縁に座り込み、すっかり意気消沈してナズーリンは肩を落とした。萃香の野放図さは菫子も知るところであり、ナズーリンに同情した。
背中を丸め、蹲るナズーリンの背中を摩りつつ、菫子はスマホを開いて何か操作していた。まるで何かを確認するかのようだった。
「ふん、ふん……よし。ナズッチ! まだ何とかなるかもしれないわ」
「え……?」
菫子は立ち上がって、手を差し伸べる。
しかし、困惑するナズーリンに焦れて、菫子は手を取り引っ張った。
「時間が無いわ。移動するから捕まって」
「移動するって……何処に?」
「沖縄!」
那覇市国際通り。沖縄で観光や買い物といったら此処、と言わしめる人気のストリートだ。時期も合わさって人でごった返している。
街路樹がヤシの木であったり、ゴールデンウィークの頃合いながら既に本州の夏と変わらない程暑いところがまさに日本の南国、沖縄といったところだ。
そんな国際通りの一つの土産屋から一人の女学生が出てきた。女学生は大サイズの紙袋を両手に提げ、店舗の外で待っていた小さな老婆に声を掛けた。
「お待たせしました、ナズせーんせ。無事、買えました」
「何だその呼び方は。あ、荷物持つよ」
老婆の正体はナズーリンであった。花柄模様の水色のブラウスを着て、無地の茶色のロングスカートを履いている。耳を隠す用のチューリップハットを被っていて、銀髪は婦人服の格好と合わさって、側から見れば老齢のように見せかけていた。
「いいよいいよー。ナズせんせーは今おばあちゃんだから、持たせる訳にはいきません」
女学生は勿論菫子で、格好が幻想郷でよく見かける紫のチェック柄の制服へとなっていた。
「『学生でも土産の名目であれば酒の購入は出来る』か。よく閃いたね、こんな事」
「中学の修学旅行でクラスの連中が同じことやったの思い出したの。宅配のみだし、学生証の提示は必須だけど、これなら未成年の私でも買えるってこと」
菫子は、ゴールデンウィークの長期休暇を利用して部活動で遠征に来た学生という体裁だ。ナズーリンは顧問の先生として立ち、菫子の存在に不信感を持たせない為に変装している。
沖縄は修学旅行の定番であり、学生が沖縄名物の酒、泡盛を土産として買うのは何ら不自然ではない。そういった観点から菫子はこういう筋書きを描いたのだ。
実際に、レジに泡盛の一升瓶を持っていっても咎められることもなく会計を済ませる様子を見ていたので、ナズーリンはただただ感心していた。
「泡盛なら萃香さんも納得でしょ。速達にはしたけど、宅配なのでちょっと待ってもらうことになるからね。それと、これ」
菫子は紙袋をナズーリンに見せるように掲げる。
「ゴマ擦り用のおつまみ。これでご機嫌は取れるでしょ」
袋の中は多種多様のつまみとなりそうな物が詰め込まれていた。すぐに外の酒が飲みたいのに、飲めないと知った時の怒りを抑えるものだ。
そこまで見越した菫子の読みの深さと、甲斐甲斐しさに嬉しさがこみ上げる。
「本当にありがとう。なんてお礼したらいいか……」
「いいって。お金も貰ってるし、それに気心の知れる誰かと旅行するのは結構楽しかったわ」
ナズーリンは菫子に頭を下げる。人通りの多い国際通りでなければ嬉しすぎてハグでもしてやりたいくらいだ。
ナズーリンの礼に菫子は、照れくさそうに頬を掻いてはにかむのであった。
陽もとっぷりと暮れた頃に、外の世界から幻想郷へ戻ってきたナズーリンは泥のように眠りこけてしまった。テレポートでほとんど省略したとはいえ、日本の半分以上を縦断した旅だったのだから仕方がないことだ。
幽霊とルナサ老のレコードとの関係性、日数が経ったことによる紫桜の変化も気になるが、まずは萃香への献上を済ませなければならない。
陽はすっかり昇った清々しい朝だが、菫子が来るにはまだ早いらしい。その旨も含めて会って説明しようと小屋を出る。
小屋を出た瞬間、ナズーリンの身を纏わりつくように霧が漂い始めた。それが何か理解した瞬間、身体が強張る。
「おはようさん。よく寝れた?」
平然とした様子で萃香が挨拶をするが、霧のまま話しかけてきて恐怖を引き立てる。
取るに足らない鼠のナズーリンの小屋まで特定しているくらいだ。酒が手元に無いことも知っているはずだ。そう自身に言い聞かせて、ナズーリンも務めて平静を装って話す。
「おはようございます。お陰様で目的は果たせました。それで……その、お酒の件なのですが……」
「いいって、知ってるよ。泡盛だろ?」
買った酒の種類をピタリと言い当てられ、ナズーリンは目を丸くする。
霧が集まり、萃香が現れる。呑んだくれているのは当然だが、心なしか機嫌が良いように見える。
「くっ付いて見てたけど、外の世界も随分と窮屈になったもんだね。酒を買うのにあんなに手間取るなんてね」
そう言って萃香はぐびりと瓢箪を煽る。
「それでもナズーリンとウサミ……だっけ、あの人間。お前さんらは酒を用意する算段を付けたし、それに──」
「つまみも買いましたからね……」
ナズーリンが紙袋を見せると、萃香は喜色満面でニンマリと笑った。ふと、手元に違和感を感じ、萃香から紙袋に視線を戻すと紙袋が消えている。
「そうそう、そうなんだよ。これがあるから待ってられる。つまみながら酒を呑み、酒を待つのを肴に酒を呑む……最高じゃん?」
言っていることがとんでもない酒乱っぷりだが、それで許されるなら用意してもらった甲斐があったというものだ。
萃香は紙袋を漁り、土産物を漂う霧に乗せている。
「ん〜、いいねぇ! ミミガーのジャーキーがいっぱいあるじゃん! 私これ好きなんだよ。ちんすこうは定番だけど、こういう甘味が味変っていうの? 地味に効くんだよね〜」
「あの、確認しておきたいことがあるので、これで私は失礼します。泡盛はもう少しだけお待ちください」
渡す物は全部渡した。これ以上萃香相手にナズーリンが出来ることはない。断りを入れて無縁塚の墓地へと向かう。
夢中になっているのか、萃香は土産を広げて一人酒盛りをしていた。
墓地へ行けば、相も変わらず満開のままの紫桜があった。
桜に変化が無いとなると、嫌な予感がする。幽霊の状態を確認しに急いで向かう。
「そんな……」
傍に立つ幽霊の姿は無かった。慌ててロッドを構えて幽霊のダウジングをする。
ナズーリンの嫌な予感の通り、幽霊のエネルギー位置は紫桜の中であった。
自然の摂理故、幽霊が桜に取り込まれるのは当然だが、問題はその後、散らないことにある。
加えて、幽香が幽霊を分断する時に行った手入れの影響か、幽霊の暴走かは不明だが、紫桜から力強いエネルギーを感じ取った。
日を追う毎にエネルギーが増幅されている。今はまだ大したことは無いが、このまま際限なく膨れ上がり続けたら? これが未知の現象である以上、被害妄想とは言えない。早急に手を打たなくてはならない。
再び苦手な幽香の力を借りる必要がある、と若干憂鬱になりつつ考えていると、より一層へべれけになった萃香が、凄まじい酒の臭いとともに墓地に現れた。千鳥足で脚元が覚束ず、今にも転びそうだ。
「ちょっ……さっきの今でもうべろべろじゃないですか」
「らーいじょうぶ、らーいじょーぶ。こぅれが霊夢が言ってた桜ね。この時期に花見ってのも乙だあね。まぁ私、呑めれば何でもいいんだけどね。ナハハ」
能天気に酒を呑み続ける萃香。呂律も怪しくなってきている。この桜の悩みを伝えて手助けしてもらおうかとも思ったが、この様子では当てにならなさそうだ。
「んえー、何だっけ? えーと、桜のゆぅーれいを成仏させたいんだっけ? ホイよ」
べろべろに酔った萃香が震える指先を紫桜へ向けた。すると、桜に吸われた幽霊が何事も無かったかのように静かに立っていた。ナズーリンは思わず目を見張る。
幽香ですら少しは時間が掛かっていた。それを萃香はいとも簡単にやってのけた。鬼のでたらめなパワーにナズーリンは身震いした。
「まぁ、桜なんざ散ってこその花見よな。約束通り、助けてやった。必要な分だけな。後は頑張んな」
呑んだくれの酔っ払いから一変、萃香は冷酷無比の鬼の顔をしていた。
よくよく考えれば、ナズーリンと菫子の旅にこっそりとくっ付いて来ていたし、意図は分かるはずだ。だから困窮した現在、約束を守り、ナズーリンの助けたのだ。
激励を飛ばすと萃香はまた酔っ払いの顔に戻り、ヒラヒラも手を振って霧となり、風に乗って散り散りになっていくのだった。
「へーっ、萃香さん手伝ってくれたんだ」
「正直困ってたから助かった。泡盛はどうしたの?」
「こっちに来た瞬間にぶん取られました。事前に聞いてなかったら取り返しに襲いかかってたよー」
「あー……」
容易に想像がついて変な笑いが込み上げる。ナズーリンと会った時も、実際のところ、泡盛が楽しみで仕方がなかったのだろう。
ナズーリンと合流した菫子は、サイコキネシスである物を浮かべていた。
手回しハンドルの付いた箱の上に、朝顔の花の様な形の大きなラッパのホーンが付いている。レコードを再生する為の機械、蓄音機だ。
レコードが未練の品となると、やるべきことは勿論、音楽を流し、幽霊に聞かせることだ。
「それはそうとナズッチ、蓄音機忘れてたでしょ。だから霖之助さんにお願いして持ってきた」
「う……ん」
菫子は幻想郷に居る時は古道具屋、香霖堂でアルバイトをしている。菫子は店主である霖之助とは、互いに時代の異なる物に興味を持ち、ウィンウィンな関係を築けている。
一方で、ナズーリンと霖之助との友好関係は最悪だ。主人である星が紛失した宝塔を霖之助が拾い、香霖堂でとんでもないぼったくり価格を仕掛けてきた男である。
蓄音機は別の伝手で頼むつもりであった為に、ナズーリンの胸中では全力で拒否していた。
そんなナズーリンと霖之助の関係性など知る由もない菫子が、善意で用意してくれた蓄音機であるのは理解している。無碍にするのは失礼なので、ナズーリンはその厚意に甘えることにした。
「あ、りがとう。他に頼む手間が省けたよ」
「? ああ、年式が違うことを危惧してるのね。ちゃんと調べました。そのレコードはSPレコードで、針も合わせてきてるわよ!」
「エスピー……?」
ナズーリンの微妙な反応を見た菫子は、その原因が若さゆえの無知だと思っていた。適切なセッティングを済ませている旨を説明すると、今度はナズーリンが困惑するのであった。
レコードは年代によって使用される材質が異なり、対応する針が必要である。ルナサ老のレコードは一九三〇代のSPレコードと呼ばれる所謂初期型で、蓄音機もそれに対応する形式が必要とかなり手間のかかるレコードなのであった。
もし間違えれば針がレコード盤を傷付け、二度とまともに聞くことが出来なくなってしまう。
購入した際から菫子は気にかけていたのだろう。針の設定についてはナズーリンも知らないことで、浅学でレコード盤を破損させてしまうところであった。
「最近じゃ香霖堂で流す楽曲の担当も任されてるの。今度あのレコード屋で新作を探してみてもいいかもー」
想像以上に蓄音機とレコードについて知識を持つ菫子に頭が上がらない。
蓄音機を置き、レコード盤を落としてしまわないよう注意載せる。菫子は慣れた手付きで手回しハンドルを回してぜんまいを巻き、レコードの載るターンテーブルを回す。
細心の注意を払って針をそっと乗せると、ノイズの後にルナサ老の音楽が流れてきた。
だが、ヴァイオリンの演奏と何かを英語で歌っているのは分かるのだが、ノイズが酷く、途切れる音飛びも著しい。
ナズーリンは勿論、人間の菫子ですら顔を顰めるほどの劣化ぶりだ。
なにせ百年近くの古い物だ。レコード屋のメンテナンスが悪いわけではないだろう。仕入れるまでに海を渡る環境変化と経年劣化を起こし、とっくの昔に廃盤になっていてもおかしくはないのだ。音楽が聴けるだけ奇跡と言える。
「ごめん、無理!」
菫子がノイズの酷さに我慢出来ず、針を戻した。
途中で演奏を止めたからなのか、紫桜を見るも何ら変化は起こらなかった。
このままノイズだけの音楽を最後まで流しても、成仏する保証は無い。
「どうするナズッチ。レコードが古いからいつ壊れてもおかしくないよ。もう一回流す?」
「いつ壊れてもおかしくない、か……。ならさ、これを生演奏してもらうのはどうかな」
「……ははぁん。良いわね、それ。その案採用」
ナズーリンの魂胆を見抜き、菫子はニタリと笑う。
簡単な話だ。レコードが無理なら、当人に演奏して貰えばいい。レコードの主、ルナサ・プリズムリバーとその姉妹であるプリズムリバー三姉妹に。
そうと決まれば善は急げである。幽霊は三度桜に取り込まれるやもしれないのだ。
ナズーリンと菫子の二人は無縁塚を飛び出すのであった。
プリズムリバー三姉妹は、北西にある霧の湖から少し離れた森の中に建っている廃館に住んでいると言われている。
湖の畔に建つ立派な豪邸である紅魔館に比べ、かなりこじんまりとした大きさの木造の洋館で、健在であった頃は豊かな暮らしをしていたことが伺える。
手入れがされておらず、長年放置された結果、草木に館が侵食されていた。森と一体化する館、そこにナズーリンと菫子はやって来た。
二人が館に踏み入れば、積もった埃が舞い上がる。
「うわっ、すっごい埃!」
「蓄音機とレコードに埃が入ったら大変だぞ、気をつけて」
「それはサイコキネシスで保護してるから大丈夫、安心して」
共に古い道具であり、埃が命取りである。そう危惧していたが、菫子の超能力で保護されていると知り、ナズーリンは胸を撫で下ろす。
屋敷の壁には穴が空き、そこから木漏れ日が差し込んでいる。
何処かからか、微かに音楽が聞こえた。ヴァイオリンとトランペットと鍵盤だろうか。それら全てが調和した見事なクラシック音楽であるが、ナズーリンの聴力を持ってしても音の出処は分からなかった。
「楽団の演奏予約なら一月先までいっぱいよ」
気配が全くしなかった。二人が驚いて後ろを振り向けば、立っていたのは金髪のショートヘアに黒を基調とした服と黒いとんがり帽子、すぐそばにはヴァイオリンが空中を漂っている。
騒霊三姉妹の長女、ルナサだ。
「でも安心して! 落ち込んだら私の音楽で陽気にしてあげる! ほら、踊りましょ!」
ルナサににべもなく断られて絶望していると、背後から菫子に一人の少女が抱きついた。
空色の強い癖毛、ルナサとは対象的なピンク色の装いだ。ルナサ同様、トランペットが漂う。
騒霊三姉妹の次女、メルランである。
落ち込む菫子は強引に手を取られ、トランペットを吹き鳴らして、屋敷のホールでメルランと共に踊る。
「あははー。なんだかよく分からないけど、楽しいわー。死にそうなくらい落ち込んだり、テンション爆上げだったりで意味分かんなーい。あはっ、あはははははー」
メルランと踊る菫子は、見たことがないくらい陽気に笑いながらくるくると踊りを続けている。
菫子の不自然な様子は、噂に聞く、プリズムリバーの姉妹は躁鬱を誘うという現象だろう。となるとその解決となるのは──。
「姉さんたちやりすぎ。特にこの子は人間なんだからモロに影響受けちゃうでしょ。はい、止めた止めた」
ホールの奥から、そう言って出てきた小さな少女は、手をぱんぱんと叩き、同時に浮いたキーボードを鳴らす。
ルナサやメルラン同様に、赤を基調とした服ととんがり帽子を被っている騒霊三姉妹の三女のリリカである。
リリカが音を鳴らすと、徐々に菫子は落ち着いて、やがて平時の状態に戻った。
「なんで私あんなに踊りまくってたんだろ、そういう柄じゃないのに……」
リリカの音は二人の姉が与える精神的影響を戻すという特性があるようで、リリカが居てプリズムリバー楽団として音楽活動を行えるのだ。
「それで、話題の外来人さんと、ええと……鼠の……」
「ナズーリン。よろしくね」
「よろしく。さっきルナサ姉さんが言ったように、私らの予定は詰まってるの。一先ず、用件だけ聞くわ」
プリズムリバー楽団は音楽バンド、鳥獣戯楽に並ぶ、幻想郷でも屈指の人気を誇る音楽隊だ。
人気であるのは知っていたが、予定が詰まっていたのは想定外だった。それでも動いてもらうしかない。
ナズーリンは鞄からルナサ老のレコードジャケットを取り出して、事情を話す。
「外から来た幽霊が少しトラブルを起こしていてね。それの成仏の鍵がこれにあるんだ。でもレコードの音楽を流しても無駄だった。だから貴方に会いに来たんだ。ルナサさん」
老いた自身が映るジャケットを見たルナサは、近付いてそれを取った。
「悪いけど、少し協議する時間を頂戴」
「ええ、勿論」
ルナサは少しの間まじまじと眺め、姉妹の元へ戻る。
三姉妹が離れた場所でヒソヒソと話す内容を、ナズーリンは自慢の耳で盗み聞きしていた。少しでも成仏の手掛かりが欲しいからだ。
「これは私だけど、私じゃないわ」
「何それー。まーでも私たちってレイラから生まれたし、違うのは当然よねー」
「元の人間は大昔に離れ離れになったって言ってたし、人間の方のルナサ姉さんは音楽家になったのね」
「アルバムを出してるし、あの蓄音機で人間の私が作った音楽が聴けるかも……」
「いいわね〜、聴きたい」
「私も気になる」
内々の話である為、一部謎めいてはいるが、確実なのは幻想郷のルナサとレコードのルナサ老は同姓同名の別人であることだ。
しかし、ルナサ老はレイラという謎の人物の縁者ということで、三姉妹とも無関係ではなさそうだ。
話が決まったということで、ルナサがナズーリンと菫子の方へ寄る。
「ねぇ、この人の音楽が聴きたいわ。その蓄音機で流せないかしら……」
「その……流すのは構わないけど、なにぶん古いレコードでかなりノイズが酷いの。それでも良いなら……」
「問題無いわ」
菫子の返答はかなり歯切れが悪い。途中で中断する程酷い状態なのだ。
それでもルナサを筆頭に、三姉妹の意思は固かった。
菫子は折れて、蓄音機を三姉妹へ向けてセッティングし、音楽を流し始めた。
再び流れる高頻度のノイズと音飛び。突然の異音に廃館の外では鳥が騒めいている。とても鑑賞に耐えうる状態ではなく、ナズーリンと菫子は耳を塞ぐ。
そんな中でもナズーリンは見た。音楽が流れた瞬間からいつもは朗らかな雰囲気の三姉妹が皆一様に真剣に聴き入っているのを。ルナサの瞳から一筋の涙が流れているのを。
数分に渡るノイズの嵐が流れ終わった。
数十秒の沈黙の後、ルナサが口を開いた。
「ナズーリン……だったわね。貴方は私たちにどうして欲しいのかしら」
「可能な限り早く、今流した音楽を補完して、無縁塚の幽霊に聴かせてほしい。あの音楽では意味がなかった」
「そう……。分かったわ、一晩だけ頂戴。明朝、そっちに向かうわ」
予定をドタキャンしてまでする価値があるということだ。キャンセルされた相手には悪いが、ナズーリンにとっては喜ばしい限りだった。
「ありがとう。よろしくお願いします」
「よ、よろしくお願いします!」
プリズムリバー三姉妹が一縷の望みだ。後はもう信じるしかない。
蓄音機とレコードは一旦三姉妹に預け、二人は廃館を後にするのであった。
翌朝。
無縁塚の墓地にはナズーリンと菫子の姿があった。
ナズーリンは異変解決の為、菫子は三姉妹の音楽を聴きに来たのである。
そこへ降り立って来たのは霊夢と妖夢だ。
「おはよう。今日やるのよね」
「おはよう。その予定だよ。万が一、桜か幽霊が暴走したらその後は博麗の巫女としての仕事さ」
霊夢を呼んだ理由は音楽会の紹介などではない。博麗の巫女として、札も針もお祓い棒も持って完全武装をしてもらっている。
妖夢も同様である。背中に装備した二振りの刀を携えている。弾かれ、刀身のダメージを心配されていた白楼剣も無事だったようで、鞘に収まっている。
妖夢はナズーリンを勢いよく一礼して挨拶をする。
「おはようございます! 白楼剣は損傷なく、無事でした。小傘さんって凄かったんですね。見直しました」
「おはよう。無事で良かった。小傘にはこっちからも言っておくよ。もし良かったら宣伝でもしてやってくれ」
「はい、そうします!」
二人を呼んだのは万が一の為である。霊夢は妖怪退治はお手の物で、妖夢は白楼剣による強制成仏を行える。先走ってまた白楼剣で斬りかからなかったので、ナズーリンは心中で人心地を着いていた。
何も起きなければそれでいいのだ。
そのまま少し待つと、プリズムリバー三姉妹が墓地へと降り立った。
「おはよう。これが件の紫桜ね。その傍に居るのが……」
「そうだね。原因の幽霊さ」
他の姉妹が準備をする中、ルナサは老婆の幽霊をじっと見つめていた。
「姉さん、準備出来たわよ」
「ごめんなさい。すぐ用意するわ」
観客は四人と物言わぬ幽霊一人。寂れた墓地の真ん中で、音楽会は開かれた。
三姉妹はそれぞれの楽器を演奏し、ルナサはヴォーカルとして唄う。担当のヴァイオリンは、騒霊としての能力なのだろう。何もない空中でひとりでに演奏している。
音楽は当時の流行であるクラシック音楽をベースに、ルナサが物悲しく歌う。
ノリの良い音楽と三姉妹のパフォーマンスが売りのプリズムリバー三姉妹の演奏だが、それらは誰一人としてすることはなく、それぞれが真剣に演奏に集中している。
「あ、桜が……」
演奏が始まってすぐ、異変が生じた。これまで、何をしても散らなかった紫桜の花弁が散り始めたのだ。
それは未練が満たされた証拠である。演奏が進む毎に、一つ、また一つと花弁が散っていく。
「おお……!」
菫子が小声で感動の声を上げる。季節外れの、それも珍しい紫桜の花吹雪である。
その余りの荘厳さに、誰もが息を呑む。しかし物悲しい音楽のせいか、神秘的な光景故か、誰も騒ぐ気にはなれなかった。
演奏も終盤に入り、花弁は殆どが散り、風に乗って舞っている。
ルナサが最後の歌詞を歌い終えた時、ナズーリン幽霊へ目を移した。鼠としての視力があるものを捉えていた。
桜吹雪に紛れて、殆ど輪郭だけとなった幽霊の、これまで微動だにしなかった口が動いていた。
そして、言い終わったのだろう。口を閉ざすと同時に最後の花弁が散り、幽霊は消えていた。
演奏を終えた三姉妹には四人の拍手だけが鳴り響いていた。
ダウジングをしてもどこにも反応は見られない。花が散ったこととダウジングの反応から事態は解決したとして、各々が帰路へと就いていく。
そんな中、楽器を片付け終わったプリズムリバー三姉妹をナズーリンは呼び止めた。
「君たち三人にだけは伝えておきたいことがある。あの幽霊の遺言と正体だ」
「なになに〜?」
ナズーリンは最後に幽霊が伝えてきたことを三姉妹に教えた。妙に距離の近いメルランを引き離しつつ、ナズーリンは話を続ける。
「彼女は最後にこう言っていた。『素敵な歌をありがとう、お祖母様』と……」
「おばあさま、ねぇ……」
リリカが感心したように呟き、ルナサを見る。
ルナサに対してお祖母様と呼んでいた。つまり、これまで身元不明だった老婆の幽霊、その正体はルナサ老の子孫だったということになる。
幽霊は老婆であった。レコードの販売年と照らし合わせれば、ルナサ老が存命の時を知っていても不思議ではない。
恐らくは生涯の永い間、レコードを追い求めていたのだろう。そして、ようやく掴んだレコードの情報を得て、来日。レコードを探すうちに神隠しに遭い、幻想郷へと迷い込んで死亡といったところだと推測した。
紫桜が延々と咲き続けたのも、そういった未練の重さから来るものなのだろう。
「ナズーリン……。悪いのだけど、そのレコードを私たちに譲ってもらえないかしら。レイラ……その歌手の妹が眠る場所があるの。駄目かしら……?」
「勿論いいとも」
成仏した今、ナズーリンがレコードを保持する理由は無い。
更に、レイラと呼ばれていた人物はルナサ老の妹だったようだ。であるならば、渡す方が賢明だろう。
ナズーリンは快く、ルナサにレコードを手渡す。
「今度会った時でいいから、宇佐見くんにもお礼をしてやってくれ。彼女を活躍で手に入ったレコードなんだ」
外の世界では大活躍だった菫子である。礼を言われるのならば彼女であるべきだ。
「分かったわ。でも、ありがとうナズーリン。貴方が気にかけてくれたお陰で、私たちは子孫と人間の私に出会えたの。本当に、本当にありがとう」
深々と頭を下げるルナサに続いて、メルランとリリカも頭を下げる。
三姉妹はそうしてしばらくした後、顔を上げてゆっくりと浮かび上がる。
「今度、改めてお礼をさせてもらうわ。でも今はレイラにこれを……」
「うん。行ってきてあげな……よぅ……! ぅぷ……!」
「ありがとうねぇ! 今度、ハッピーになれるご機嫌な音楽を聴かせてあげるわ〜」
「またねー、ナズーリン!」
手を上げるナズーリンの隙を見逃さず、メルランが力いっぱい抱きしめた。
悶絶するナズーリンをよそに、リリカが手を大きく振る。
そうして、三姉妹は空の彼方へと飛び去っていくのであった。
それから一年。慌ただしく夏が来て、秋が訪れ、冬が過ぎ去っていく。
「春春春春! 春ですよー! はぁーるでぇすよぉー!」
昨年以上に春告精は大興奮で喧しく叫んで飛び回り、春の季節の到来を告げる。
幻想郷の僻地にある無縁塚においては、今年も紫色の花弁を付けた桜が至る所で花開いた。
無縁塚の墓地、その中心にある大樹の紫桜も花を付けて開かせている。
墓地の手入れをして、般若心経を詠み終えたナズーリンは紫桜を見上げた。
「まだ五分咲きってところだね。……ねぇ、今度はちゃんとしてくれよ」
また、未練の消化不良のせいで面倒をかけられたらたまったものではない。
ナズーリンが冗談混じりにそう話しかけると、桜から一枚の花弁がナズーリンの足元へと散ったのであった。
ナズーリン探してきます。
キャラクターの魅力も出ていて、凄く良かったです。楽しませてもらいました。
次から次へと舞い込んでくる問題とそれに対応していくナズーリンと協力者たちが最高に頼もしかったです
誰しもに役目と見せどころがあってとてもよかったです
ルナサのレコードが外の世界に現存しているという発想も素晴らしかったです
楽しませていただきました