湯に浮かぶ盆から盃をひょいと掴み、くぃとあおり喉を熱くする。
嚥下された液体はするりするりと落ちていき、体をより火照らせた。
積もる疲れやらコリやらもするりと抜けていけばいいのだが、そちらはこの湯――温泉に任せよう。
人里で鳴らさられているであろう、数日外れの鐘も此処には届かない。
当然と言えば当然な距離なのだが、鐘の音は寒空に殊更響く。
もしかしたら、博麗の巫女が付近一帯に防音の結界でも張っているのだろうか。
あり得るかもしれない下らない空想に、私はヒトリ微苦笑を零した。
そう、今、この湯に浸かっているのは私だけだ。
広々とした湯はある程度の数がいても十分に収まるだろう。
けれど、そう言った事とは別個に、ヒトリで独占すると言うのは良い贅沢だ。
裸身を見られて動揺するほど幼くもないが、解放感はやはりヒトリの方がある。
背を岩に預け、腕を横に伸ばし、足を湯の深い箇所へと投げだす。
肩を境にして変わる温度は、それさえも心地よい。
ちらちらとした雪が体に、湯に、落ちては溶ける――風情もまた、悪くない。
盆の上からつまみを取る。良い色だ。酒と同じく、美味いだろう。
風がひゅんと吹いた――気がする。
そう感じたのは、現れた存在の所為だ。
風と戯れ、風に乗り、風を操る。
私が知る限り、この幻想郷において最も風に近いモノ。
「あやややや、是は是は。ヒトリとは珍しい」
――鴉天狗の射命丸文。
「私の事は言えまいて。椛はどうした?」
「家族と過ごしているわ。もう寝てるかもね」
「なんだ、愛想を尽かされたのではないのか」
「言ってくれるじゃない」
至極真っ当な事を返したつもりだったが、気に障ったようだ。
岩場の陰から衣擦れの音がする。
一枚、二枚、三枚……音の回数からして、流石の彼女も普段の格好で来た訳ではないらしい。
それもそうか。温泉に浸かりに来て風邪を引くのは、考えるだに馬鹿らしい。
「其方こそ、こんな処にいていいの? 隙間の式さん。もしくは、式の式のご主人様」
私の名などたった二言で済むだろうに、無駄に呼び名を長くするのは彼女の生業故か。
……いや、単にあてつけか。
年下や格下の相手ならともかく、彼女を相手にして軽口の応酬は此方の分が悪い。
幼い頃に出会って以来、論理的な議論においてはともかく、言葉遊びの戦績は五分以下だ。
私は――八雲藍は、主人ほどに口は回らない。
「双方とも寝てしまっているからな。傍にいては主人離れできんだの、式離れできんだの言われるし」
「まるで言いがかりの様に言っているけど、実際、できてないじゃないの」
「……あー?」
なんだとこら。
「主人はともかく、式とは離れて暮らしている筈でしょう? なんで寝てるって知ってるのよ」
「橙はお前の言うとおり、私の式だ。ならば、その状態も、意識すればある程度までわかる」
「ほーへーふーん、どういう風に意識しているの?」
「橙、お前は何をしている、何処にいる、橙、ちぇん、ちぇぇぇぇんっ!」
「わー、鼻の下伸ばしてるのが見てないのにわかるー」
やはり、橙はマヨヒガで寝ているようだった。思い浮かべた寝顔は安らかで、当然の如く可愛らしい。
「ほら、それでも過保護じゃないと? 式離れできているとでも?」
「ぐむむ。お前も似たようなものであろう。とやかく言われたくはないな」
「同じ? 私と貴女が? はっ、冗談はよして頂戴な」
ぱんっと乾いた音。
ゆるりと首を回し、視線を文のいる岩場に向ける。
程よく均整のとれた体にバスタオルを巻きつけた彼女が、仁王立ちしていた。
「私が抱く感情は親愛の情なんて優しいものじゃないわ。そう、あの子に抱くこの思いは――れ・つ・じょ・う」
胸を張って言う台詞ではない。
私と彼女の間に、ひゅるりと冷たい風が一陣流れていった。
暫く半眼で眺めてやると、そそくさと湯の方に、つまり、此方に歩を進めてくる。
大自然の突っ込みは思いのほか、体と心に効いているようだ。
或いは、先ほどの風は友を諌めたのかもしれないが。
「や、それにしても寒いわね。早く湯に入って温まらないと」
「寒いのは外気温の所為だけではないと――って、ちょっと待て」
「あによ、貴女に許可を貰わないと入っちゃいけないの? 私が震える姿を見たいの? 隠れSなの?」
全くもってよく回る口だ。
しかも、言葉を繰りつつも、彼女は躊躇いなく湯に浸かろうとしている。
抜け目のなさに関して言えば、幻想郷の中でも十指に入るんではなかろうか。
だが、私はそれでも彼女を制止した。そのままでは許されない。
非難めいた視線を浴びせてくる彼女に、私は鋭く言い放つ。
「タオルをとれ。湯に入るのはそれからだ」
礼儀知らずめ。いや、知っていて尚、無視しているのだ。性質が悪い。
「えー……? 親しき仲にも礼儀ありと言うし、おいそれと裸身を見せる訳にはいかないわね」
「小癪な返しをする。けれど、なぁ、文」
「何よ?」
面倒そうに聞き返してくる。
「私達はそれほど親しい仲であろうか」
「ふむ……それもそうね、言うとおりだわ。それ、キャストオフ!」
「互いに恥じらう年でもないしな――と、言いたい所だが、前位は隠さんか」
「注文が多いわねぇ。ま、いいわ。この桶から取りいだしたる天狗の面――」
「――でどうにかするつもりなら、此方も我が尻尾で何かをするぞ……!?」
ざばっ、と湯から立ち上がり、鼻高天狗の面を装着しようとする文を睨む。
なるほど、朱色も鮮やかなソレは確かに見事だ。
しかし、私の尾とて負けはしない。
睨みあい、久しく感じていない緊張感に身を震わせる。
「はっきしゅ!」
「くしっ!」
まぁ、お互い素っ裸だしな。
再び湯に肩までを沈める。
一瞬で冷えた体に、湯の熱は痛みにも似た感覚を与えてきた。
折角馴れてきたと言うに……だが、この痛みは、悪くない。
「あや、あちゃちゃ、あちゃぁぁぁぁ!?」
……やかましいなぁ。
横に視線をやると、予想通り、文が熱さに悶えていた。
今の今までしこたま外気温に包まれていた彼女、肌に感じる熱は私以上だろう。
仕方ないと、手を伸ばし肩に触れてやる――湯よりは体温の方が低かろうて。
「藍……」
「ふん、難癖つけたタオルを外してくれているからな」
「私、若い子にしか興味がないの。申し訳ないけれど、貴女のごぼがぼぉ!?」
残った片手で頭を掴んで沈めてやる。優しいだけじゃない、厳しさも持ち合わせた私だった。
「どうだった、昨年は?」
定番の言葉だ。仮にも報道の職に就いているのだから、もう少し言葉を飾ればいいものを。あぁ、今はオフか。
湯に入って暫くはただ茹でられていた文だったが、一二分で慣れたようだ。
健康的な小麦色の肌に朱が差し、見る者が見れば普通ではいられないだろう。
彼女から零れる「くぁー」だの「あっちぃわねぇ」だのと言った文句に耐えられれば、だが。
「どうと言われてもな……兎にも角にも此処の原因が大きすぎて、他は霞んでしまった」
片手で湯をすくい上げながら、言う。
此処とは温泉であり、その原因は初冬に起きた、所謂、地霊殿騒動だ。
私自身は直接に関与していないが、我が主――紫様が解決の一端を担っている。
……そのお陰で紫様の通常業務である結界の監視及び補修が此方に全て流れてきて、私も泣きを見た。
当時の超過残業にやり場のない蟠りを覚えていると、横の文が気の抜けた相槌を返してくる。
「そうよねー……夏にゃ局部地震もあったけど、やっぱりそっちのがインパクトあるもんねー」
「極局部、だな。それに、その件に関して言えば、局部的な異常天候が主じゃないか?」
「そっちも極だと思うけど。うーん、確かに言う通りなんだけど、あの博麗神社が潰れたって言うのがね」
両腕をあげ伸びをする文の言葉に、共感を覚えた。
博麗神社。不可思議な所だ。
普段は別段誰の気にも止まらない神社。
けれど、気がつけば誰も彼もが揃っている場所。
すくい上げた湯を右頬に当てる。いかん、緩み過ぎた。私にとって其処は仕事場の一つと変わらんと言うに。
「まぁ、あれは娘子の過度な我儘から出たもの。存分に仕置きもされたから、特に語る事もなかろ」
「……貴女の主人が一番ぶち切れていた気がするんだけど。相変わらず、子供には甘いわね」
「主人譲りと言ったところかな。紫様は……今は、思い出した程度に愚痴る位さ」
意識しているのか否かわからないが、あの方にも癖がある。
愚痴を零している事情は、本当の所、然程気にされていない。
先の異常気象の原因である天界の娘子――年齢ではない。容姿及び性格が、だ――比那名居天子についても、恐らく、そう言う
認識に落ち着いているのだろう。
尤も、あの方の事、気紛れで何かをどうにかされる可能性もままあるのだが。
読めない主の思考に自嘲の笑みを浮かべる。百年二百年の間柄ではないのに、未だにあの方には振り回されてばかりだ。
「あれだけ怒ってたのに。相変わらず何考えているか訳わかんないわね、貴女の主」
私の意を汲んでくれたのか、文が同じような事を、言う。
「全くだ」
「まぁ、どうでもいいけど」
「此方の悩みをたった数文字で片付けてくれるなよ……っ」
多少の恨みが混じった半眼を叩きこむも、文は平然としている。わかっている、こいつはそう言う奴だ。
「んな事より、地霊殿騒動よ、地霊殿騒動。何か面白い話聞いてない?」
「お前な。仮にそう言う話を知っていたとして、あの返答で聞けると思ってるのか?」
「あら、貴女なら言うんじゃない? だって、私は本当に困っているんだもの」
「……お前にだけは教えてやらん」
「やん、藍様ってばいけずぅ」
湯に浸かっている筈の背筋が凍る。
猫撫で声でいけずとか言うな。
あと、お前が私を様付けするな。
けれど、悔しい事に概ね彼女の言葉は間違っていない。損な性分だ、私は。
「あー、でも、その言い方じゃ、知らないのね。へふぅ」
気は思いきり抜けているが、流石、ブン屋と言うべきか、言葉はちゃんと捉えているようだ。
「すまんな」
「ほんとに。とく謝りなさい」
「撤回するぞこら。――それに、どう考えても地底に関しては私よりお前の方が詳しいだろう?」
少し前に出回った、彼女の新聞を思い出す。
紙面を賑やかにするのは、地底と旧都、そして地霊殿の話題。
異変の解決者と同じ道筋を辿ったのだろう、解り易く飲み込み易い記事だった。
天狗の上司である鬼が多々いる其処に行くのは抵抗があっただろうに、彼女は己が職務の為に頑張ったようだ。
「何か主人から聞いてないかと思ったのよ。あぁもぉ、ネタはないしスランプだし、ヤになるわねぇ」
文が頭をガシガシと掻いた。
やめんか、はしたない。
――注意をしようとした私は、ふと彼女の愚痴に疑問を覚える。
「スランプ? この前のが? かなり見応えがあったと思うのだが」
私以外の評価も良かった筈だ。珍しく、博麗の巫女も称賛していたし。
「同情なんていらないわよ。あんな事実を並べただけの記事、スランプ以外の何物でもないわ!」
額に手を当て、嘆く。
彼女はその類の感情を滅多に出さない。
鑑みるに、見上げたブン屋魂と言ったところだろう。
だが、少し待ってほしい。新聞とは本来、そういうもんじゃなかったか。
「締め切りも近いし、やばいんだけどなぁ……印刷所に連絡入れておこうかしら」
どこの同人作家だ。いや、似たようなものかもしれぬ。
「はぁ、もぉ止めちゃおうかしら。で、椛さんに養ってもらうの」
「はっはっは、屑がいる、屑がいるぞ。指をさしてやる」
「……冗談なんだから、突っ込みなさいよ」
律儀にのってやる必要もない。
「あぁ、ネタと言えば。歳の瀬、大晦日の夜に、紅白巫女が香霖堂へと向かっていたぞ」
「大事件じゃない! あの子、ツケを返す概念なんてあったの!?」
「概念とまできたか」
間に浮かぶ盆を押し、文の元へと向ける。
盆の上の盃は一つしかないが、まぁ彼女も気にすまい。
視線をやり、手にするよう促す。
持ち上げられた盃に徳利を傾け、とぽとぽと満たした。
舞い落ちる雪が数滴ばかり酒に溶け、水割りの出来上がり。
さぁ呑め――私が言葉を出すまでもなく、彼女は盃をあおる。
こくりと喉が鳴り、するりするりと胃に落ちていく。
「……旨い」
「私達の舌も変わったものだ。昔は受け付けなかったんだがな」
「そりゃ貴女だけでしょう。こちとら鬼とも対等に呑める種族よ?」
そう言えばそうだった。出会いの宴会からして、文はのんべだった気がする。
遠い……遥かな過去の記憶。
頭の中を掘り返しても、そう易々とは出てこない。
けれど、私と言う個人を形成する上で、欠かせないもの。
――尤も、『過去』と言うものは全てそうなのだけれど。
「……確かに、貴女は変わったわよね。色々と」
「私だけではあるまい。お前も昔は」
「ボインになったわよねぇ」
手が伸ばされる!
拳を肘へと突き上げる!
手応えは――ない。
凡そ速さを競うもので、文に勝る存在はそういない。
最強の妖怪と言われる我が主でさえ後れをとるやもしれぬ。
ならば、その従者たる私がこの天狗に勝てぬのも道理――流石は、幻想郷最速。
「で、私も昔は、何?」
うん、揉みながらさらりと言ってくるな、この最速阿呆。
「清楚だった……気がしたんだがな。よくよく思い出せば芽はあった」
「あっはっは、むっつりだったのよ。今はこの通り、オープンに!」
「善し悪しだな、おい。と言うか、いい加減に手を離せ、この暴れん坊天狗!」
少し擽ったくなってきたじゃないか。……いやいや。
「そうだ、昔で思い出したぞ。お前、出会いの頃、私の事を男と思ってたろう?」
「あー……、私だけじゃないけど、だって、貴女、髪も短かったし、声も」
「で、私に惚れてただろう。だろうじゃないな、惚れて痛っだぁ!?」
乳を抓るな。割と真面目に痛いから。
堪らぬと手を払いのけ、思いきり睨む。
視線の先の彼女は、顔を俯かせ、微かに震えていた。
過去の羞恥に面を朱へと染める――なんだ、可愛い所も残っているじゃないか。
「ん? そんなに恥ずかしいか、ん?」
「珍しく反撃できたからって嬉しそうに言ってくれるわねぇ……」
「ふふふ……、そうそう弄られてばかりでは此方も面白くないからな」
俯いたままの彼女に、ずいと迫る。
彼女は気付き、遠のこうとするが、遅い。
肩に左手を置き、顎に右手を付ける。
「藍……」
「養ってやろうか?」
「馬鹿、冗談って言ったでしょ」
びくりと反応したのは、肩か。口か。
「三食昼寝付き、もふり放題でどうだ?」
「も、お嫁さんにしてぇ!」
「どんとこいっ!」
両腕を広げる私。
飛び込んでくる文。
交わされるのは、口付け――よりも、熱い拳。
「カウンター……か。やってくれ、る……ごふっ」
「さっき抓ったのを、根にもっていたのは、わかっていた、からね――がはっ」
湯に浮かぶ狐と鴉。寒空の下、洒落にもならん。
先程文の方へと押しやった盆が返され、彼女の手には徳利が掴まれている。
盃を持ち上げると、徳利の中身が注がれた。
湯の色と同じ液体で満たされる。
彼女が手拍子で呑むのを煽るよりも早く、私は口をつけ、喉を潤す。
「可愛げがないわねぇ」
「ふん、私は『格好いい』んだろう、雛鴉」
「ぐぬぬ、終わった話題を何時までも……あ、そうだ」
彼女が苦手な話などそうそうないのだ、此方が飽きるまでは使わしてもらう。
にやにやと笑う私に、文は予想外にも同じような話で返してきた。
「あの頃、よく一緒に遊んだ子でさ、瀬堰って覚えてる? ほら、鬼の」
「せぜき……あぁ! 坂上瀬堰か! 覚えているとも、よく難癖つけられたからな」
「そうそ、プライドの高いお嬢様、名前の後に御前って付けないとすーぐ拗ねちゃった子!」
で、すぐに泣きだすんだ――笑いながら言うと、彼女も愉しそうに相槌を打つ。
懐かしい名だ。
まだ鬼が地上にいた頃、幻想郷がもっと漠然としていた頃の友人。
種族的に部下である文だけでなく、私に対しても、その高慢な態度を押し通した少女だった。
我が儘、世間知らず、泣き虫――悪口を連ねながら、けれど、私も文も遠い日の彼女の面影に微笑む。
心情を読み取れぬ当時はともかく、今ならば、その全ては寂しいと言う想いからきているのがわかっているから。
それに、過去の思い出は美化されるものだ。思いだすだに、彼女は可愛らしかった。
「で、その我儘御前がどうした?」
戻ってくるのだろうか。それならば、会ってみたい気もする。
「あの子も、貴女が好きだったのよ」
「ごふっ、けふっ、知らんぞ、そんな話!?」
「あ、やっぱり気付いてなかった? 元々苛めっ子だったから気付きにくいと思うけど、貴女へのは照れ隠し」
流石にそこまでは読み取れぬ。
しかし、振りかえって思い出してみると、そう言う節がなくもない。
想いを抱く相手に構って欲しくちょっかいを出す――幼年期にはままある話。
ままあるのだが、向けられる方は……堪ったもんではなかったなぁ。
懐かしい記憶に微苦笑を零す。
再会の誓いを込め、握手を交わしたのは何時の日か。
「まぁ、今じゃ我儘御前も貞淑な奥様になってたけどね」
箸よりも重い物を持った事もないのだろう、腕は細く、手は白魚の様でエンゲージリングが填められていた。
…………あ?
「なっ!? どこの幼女趣、じゃない、物好きが娶ったと言うのだ!?」
「おや、可愛いあの子が取られてご立腹?」
「や、純粋に興味」
私には紫様と橙がいる。じゃなくて。
文は彼の鬼と、取材で旧都を訪ねた折に再会を果たしたのだろう。
我儘御前の現在を簡単に伝えてくれた。
美しく成長している事、結婚している事、子も設けている事……。
そして、遠い目をして、締めくくる。
「そりゃそうでしょ。あの子だって、もう童じゃないんだから」
風が吹く。あの頃と変わらぬ風が吹く。柔らかくも冷たい風が吹く。
――文の言う通りだ。
旧友と離れてから、既に千年近くも経っている。
彼女は既に童ではないのだろう。私達が童ではない事と同様に。
風が吹く。あの頃と変わらぬ風が吹く。ただそれだけの事を言葉で飾るのは、私達が変わった証拠。
「『ピアス付けるのも許してくれないの』なんて惚気られちゃったわ。綺麗な体に傷を付けるのが厭なんでしょうね」
「相手方がそう申しつけたのか。……自分が一番でっかい穴開けといて?」
「うっわ、貴女、それ下品過ぎ!」
ははは、互いに童じゃないんだ、これ位良かろうて。
ばしばしと肩を叩いてにやにやと笑う文に、私も似た笑みを浮かべる。夢見る少女じゃいられない。
再び、盆を文の方へと流す。
音を立てる事もなく、すんなりと彼女の元へと届いた。
だが、また此方へと指で弾かれ返ってくる。
酔いが回った……訳もないか。
視線を盃からあげ、文に向ける。
「……羨ましい?」
雪が一粒、空の盃に落ちた。
「全く……と言えば、嘘になるな」
徳利を自ら掴み、なるほどと頷く。
「幸せそうだったわよ、彼女」
鬼の瓢箪ではないのだ、無尽蔵には出てきやしない。
「そうか……」
逆さまにして、残る全てを盃に零す。
――呟きは、咄嗟に出てきたもの。意味のある返しではなかった。
思い浮かべる。
美しくなった友人を。
周りにいるモノ達と交わす笑顔を。
「……そうか」
全く羨ましくないと言えば嘘になる。
家庭を築き、家人を守る――それは一つの幸せの形。
大きな波乱や小さな小波を乗り越え、友人はそれを掴んだのだろう。
――二度目の呟きは、万感の思いが込められていた。
「お前はどうだ?」
「上手い事やりやがったな我儘御前!」
「や、アレはどちらかと言えば床下手な気がするが」
「……貴女、さっきから飛ばしているわねぇ。溜まっちゃってる?」
「まさか。三が日は概ね橙にもふられっ放しだったからな、つやつやしているぞ」
尻尾に包まれる橙の愛らしい姿。あれこそが絵にも描けない美しさ。
ぱしゃんと湯を弾く音。文が立ち上がっていた。
「もう出るのか?」
「烏の行水ってね。新聞も進めないといけないし」
ご苦労な事で。
「――私も、貴女と同じ。羨ましくないとは言い切れない。だけど」
体を拭う音。
「仕事はまぁなんだかんだ言って楽しいし」
衣擦れの音。
「可愛い後輩もいる」
風が吹く音。
「それに――」
文は服を着直し、ふわりと此方に戻ってくる。
「ねぇ」
「あぁ」
浮かぶ彼女は微笑んでいた。
「共に湯へと浸かり、酒を飲み、語らう友人がいる。これもまた、悪くない」
言葉を引き継いだ後、盃をあおり、終いの酒を呑みほす。
風が吹く。
視線を向けると、もう彼女は其処にいなかった。
「せっかちな奴め」
盃を戻し両腕を横に伸ばす。
気付くと、疲れやコリも取れていた。
湯の効用か、はたまた他愛もない世間話のお陰か。どちらでも構いはしないが。
盆から良い色具合のつまみ、あぶらげを掴む。
口に放り込み、数度噛む。
喉を鳴らし嚥下する。
「――これもまた、悪くなし」
……あ、新年の挨拶忘れてた。まぁいいか。
<了>
嚥下された液体はするりするりと落ちていき、体をより火照らせた。
積もる疲れやらコリやらもするりと抜けていけばいいのだが、そちらはこの湯――温泉に任せよう。
人里で鳴らさられているであろう、数日外れの鐘も此処には届かない。
当然と言えば当然な距離なのだが、鐘の音は寒空に殊更響く。
もしかしたら、博麗の巫女が付近一帯に防音の結界でも張っているのだろうか。
あり得るかもしれない下らない空想に、私はヒトリ微苦笑を零した。
そう、今、この湯に浸かっているのは私だけだ。
広々とした湯はある程度の数がいても十分に収まるだろう。
けれど、そう言った事とは別個に、ヒトリで独占すると言うのは良い贅沢だ。
裸身を見られて動揺するほど幼くもないが、解放感はやはりヒトリの方がある。
背を岩に預け、腕を横に伸ばし、足を湯の深い箇所へと投げだす。
肩を境にして変わる温度は、それさえも心地よい。
ちらちらとした雪が体に、湯に、落ちては溶ける――風情もまた、悪くない。
盆の上からつまみを取る。良い色だ。酒と同じく、美味いだろう。
風がひゅんと吹いた――気がする。
そう感じたのは、現れた存在の所為だ。
風と戯れ、風に乗り、風を操る。
私が知る限り、この幻想郷において最も風に近いモノ。
「あやややや、是は是は。ヒトリとは珍しい」
――鴉天狗の射命丸文。
「私の事は言えまいて。椛はどうした?」
「家族と過ごしているわ。もう寝てるかもね」
「なんだ、愛想を尽かされたのではないのか」
「言ってくれるじゃない」
至極真っ当な事を返したつもりだったが、気に障ったようだ。
岩場の陰から衣擦れの音がする。
一枚、二枚、三枚……音の回数からして、流石の彼女も普段の格好で来た訳ではないらしい。
それもそうか。温泉に浸かりに来て風邪を引くのは、考えるだに馬鹿らしい。
「其方こそ、こんな処にいていいの? 隙間の式さん。もしくは、式の式のご主人様」
私の名などたった二言で済むだろうに、無駄に呼び名を長くするのは彼女の生業故か。
……いや、単にあてつけか。
年下や格下の相手ならともかく、彼女を相手にして軽口の応酬は此方の分が悪い。
幼い頃に出会って以来、論理的な議論においてはともかく、言葉遊びの戦績は五分以下だ。
私は――八雲藍は、主人ほどに口は回らない。
「双方とも寝てしまっているからな。傍にいては主人離れできんだの、式離れできんだの言われるし」
「まるで言いがかりの様に言っているけど、実際、できてないじゃないの」
「……あー?」
なんだとこら。
「主人はともかく、式とは離れて暮らしている筈でしょう? なんで寝てるって知ってるのよ」
「橙はお前の言うとおり、私の式だ。ならば、その状態も、意識すればある程度までわかる」
「ほーへーふーん、どういう風に意識しているの?」
「橙、お前は何をしている、何処にいる、橙、ちぇん、ちぇぇぇぇんっ!」
「わー、鼻の下伸ばしてるのが見てないのにわかるー」
やはり、橙はマヨヒガで寝ているようだった。思い浮かべた寝顔は安らかで、当然の如く可愛らしい。
「ほら、それでも過保護じゃないと? 式離れできているとでも?」
「ぐむむ。お前も似たようなものであろう。とやかく言われたくはないな」
「同じ? 私と貴女が? はっ、冗談はよして頂戴な」
ぱんっと乾いた音。
ゆるりと首を回し、視線を文のいる岩場に向ける。
程よく均整のとれた体にバスタオルを巻きつけた彼女が、仁王立ちしていた。
「私が抱く感情は親愛の情なんて優しいものじゃないわ。そう、あの子に抱くこの思いは――れ・つ・じょ・う」
胸を張って言う台詞ではない。
私と彼女の間に、ひゅるりと冷たい風が一陣流れていった。
暫く半眼で眺めてやると、そそくさと湯の方に、つまり、此方に歩を進めてくる。
大自然の突っ込みは思いのほか、体と心に効いているようだ。
或いは、先ほどの風は友を諌めたのかもしれないが。
「や、それにしても寒いわね。早く湯に入って温まらないと」
「寒いのは外気温の所為だけではないと――って、ちょっと待て」
「あによ、貴女に許可を貰わないと入っちゃいけないの? 私が震える姿を見たいの? 隠れSなの?」
全くもってよく回る口だ。
しかも、言葉を繰りつつも、彼女は躊躇いなく湯に浸かろうとしている。
抜け目のなさに関して言えば、幻想郷の中でも十指に入るんではなかろうか。
だが、私はそれでも彼女を制止した。そのままでは許されない。
非難めいた視線を浴びせてくる彼女に、私は鋭く言い放つ。
「タオルをとれ。湯に入るのはそれからだ」
礼儀知らずめ。いや、知っていて尚、無視しているのだ。性質が悪い。
「えー……? 親しき仲にも礼儀ありと言うし、おいそれと裸身を見せる訳にはいかないわね」
「小癪な返しをする。けれど、なぁ、文」
「何よ?」
面倒そうに聞き返してくる。
「私達はそれほど親しい仲であろうか」
「ふむ……それもそうね、言うとおりだわ。それ、キャストオフ!」
「互いに恥じらう年でもないしな――と、言いたい所だが、前位は隠さんか」
「注文が多いわねぇ。ま、いいわ。この桶から取りいだしたる天狗の面――」
「――でどうにかするつもりなら、此方も我が尻尾で何かをするぞ……!?」
ざばっ、と湯から立ち上がり、鼻高天狗の面を装着しようとする文を睨む。
なるほど、朱色も鮮やかなソレは確かに見事だ。
しかし、私の尾とて負けはしない。
睨みあい、久しく感じていない緊張感に身を震わせる。
「はっきしゅ!」
「くしっ!」
まぁ、お互い素っ裸だしな。
再び湯に肩までを沈める。
一瞬で冷えた体に、湯の熱は痛みにも似た感覚を与えてきた。
折角馴れてきたと言うに……だが、この痛みは、悪くない。
「あや、あちゃちゃ、あちゃぁぁぁぁ!?」
……やかましいなぁ。
横に視線をやると、予想通り、文が熱さに悶えていた。
今の今までしこたま外気温に包まれていた彼女、肌に感じる熱は私以上だろう。
仕方ないと、手を伸ばし肩に触れてやる――湯よりは体温の方が低かろうて。
「藍……」
「ふん、難癖つけたタオルを外してくれているからな」
「私、若い子にしか興味がないの。申し訳ないけれど、貴女のごぼがぼぉ!?」
残った片手で頭を掴んで沈めてやる。優しいだけじゃない、厳しさも持ち合わせた私だった。
「どうだった、昨年は?」
定番の言葉だ。仮にも報道の職に就いているのだから、もう少し言葉を飾ればいいものを。あぁ、今はオフか。
湯に入って暫くはただ茹でられていた文だったが、一二分で慣れたようだ。
健康的な小麦色の肌に朱が差し、見る者が見れば普通ではいられないだろう。
彼女から零れる「くぁー」だの「あっちぃわねぇ」だのと言った文句に耐えられれば、だが。
「どうと言われてもな……兎にも角にも此処の原因が大きすぎて、他は霞んでしまった」
片手で湯をすくい上げながら、言う。
此処とは温泉であり、その原因は初冬に起きた、所謂、地霊殿騒動だ。
私自身は直接に関与していないが、我が主――紫様が解決の一端を担っている。
……そのお陰で紫様の通常業務である結界の監視及び補修が此方に全て流れてきて、私も泣きを見た。
当時の超過残業にやり場のない蟠りを覚えていると、横の文が気の抜けた相槌を返してくる。
「そうよねー……夏にゃ局部地震もあったけど、やっぱりそっちのがインパクトあるもんねー」
「極局部、だな。それに、その件に関して言えば、局部的な異常天候が主じゃないか?」
「そっちも極だと思うけど。うーん、確かに言う通りなんだけど、あの博麗神社が潰れたって言うのがね」
両腕をあげ伸びをする文の言葉に、共感を覚えた。
博麗神社。不可思議な所だ。
普段は別段誰の気にも止まらない神社。
けれど、気がつけば誰も彼もが揃っている場所。
すくい上げた湯を右頬に当てる。いかん、緩み過ぎた。私にとって其処は仕事場の一つと変わらんと言うに。
「まぁ、あれは娘子の過度な我儘から出たもの。存分に仕置きもされたから、特に語る事もなかろ」
「……貴女の主人が一番ぶち切れていた気がするんだけど。相変わらず、子供には甘いわね」
「主人譲りと言ったところかな。紫様は……今は、思い出した程度に愚痴る位さ」
意識しているのか否かわからないが、あの方にも癖がある。
愚痴を零している事情は、本当の所、然程気にされていない。
先の異常気象の原因である天界の娘子――年齢ではない。容姿及び性格が、だ――比那名居天子についても、恐らく、そう言う
認識に落ち着いているのだろう。
尤も、あの方の事、気紛れで何かをどうにかされる可能性もままあるのだが。
読めない主の思考に自嘲の笑みを浮かべる。百年二百年の間柄ではないのに、未だにあの方には振り回されてばかりだ。
「あれだけ怒ってたのに。相変わらず何考えているか訳わかんないわね、貴女の主」
私の意を汲んでくれたのか、文が同じような事を、言う。
「全くだ」
「まぁ、どうでもいいけど」
「此方の悩みをたった数文字で片付けてくれるなよ……っ」
多少の恨みが混じった半眼を叩きこむも、文は平然としている。わかっている、こいつはそう言う奴だ。
「んな事より、地霊殿騒動よ、地霊殿騒動。何か面白い話聞いてない?」
「お前な。仮にそう言う話を知っていたとして、あの返答で聞けると思ってるのか?」
「あら、貴女なら言うんじゃない? だって、私は本当に困っているんだもの」
「……お前にだけは教えてやらん」
「やん、藍様ってばいけずぅ」
湯に浸かっている筈の背筋が凍る。
猫撫で声でいけずとか言うな。
あと、お前が私を様付けするな。
けれど、悔しい事に概ね彼女の言葉は間違っていない。損な性分だ、私は。
「あー、でも、その言い方じゃ、知らないのね。へふぅ」
気は思いきり抜けているが、流石、ブン屋と言うべきか、言葉はちゃんと捉えているようだ。
「すまんな」
「ほんとに。とく謝りなさい」
「撤回するぞこら。――それに、どう考えても地底に関しては私よりお前の方が詳しいだろう?」
少し前に出回った、彼女の新聞を思い出す。
紙面を賑やかにするのは、地底と旧都、そして地霊殿の話題。
異変の解決者と同じ道筋を辿ったのだろう、解り易く飲み込み易い記事だった。
天狗の上司である鬼が多々いる其処に行くのは抵抗があっただろうに、彼女は己が職務の為に頑張ったようだ。
「何か主人から聞いてないかと思ったのよ。あぁもぉ、ネタはないしスランプだし、ヤになるわねぇ」
文が頭をガシガシと掻いた。
やめんか、はしたない。
――注意をしようとした私は、ふと彼女の愚痴に疑問を覚える。
「スランプ? この前のが? かなり見応えがあったと思うのだが」
私以外の評価も良かった筈だ。珍しく、博麗の巫女も称賛していたし。
「同情なんていらないわよ。あんな事実を並べただけの記事、スランプ以外の何物でもないわ!」
額に手を当て、嘆く。
彼女はその類の感情を滅多に出さない。
鑑みるに、見上げたブン屋魂と言ったところだろう。
だが、少し待ってほしい。新聞とは本来、そういうもんじゃなかったか。
「締め切りも近いし、やばいんだけどなぁ……印刷所に連絡入れておこうかしら」
どこの同人作家だ。いや、似たようなものかもしれぬ。
「はぁ、もぉ止めちゃおうかしら。で、椛さんに養ってもらうの」
「はっはっは、屑がいる、屑がいるぞ。指をさしてやる」
「……冗談なんだから、突っ込みなさいよ」
律儀にのってやる必要もない。
「あぁ、ネタと言えば。歳の瀬、大晦日の夜に、紅白巫女が香霖堂へと向かっていたぞ」
「大事件じゃない! あの子、ツケを返す概念なんてあったの!?」
「概念とまできたか」
間に浮かぶ盆を押し、文の元へと向ける。
盆の上の盃は一つしかないが、まぁ彼女も気にすまい。
視線をやり、手にするよう促す。
持ち上げられた盃に徳利を傾け、とぽとぽと満たした。
舞い落ちる雪が数滴ばかり酒に溶け、水割りの出来上がり。
さぁ呑め――私が言葉を出すまでもなく、彼女は盃をあおる。
こくりと喉が鳴り、するりするりと胃に落ちていく。
「……旨い」
「私達の舌も変わったものだ。昔は受け付けなかったんだがな」
「そりゃ貴女だけでしょう。こちとら鬼とも対等に呑める種族よ?」
そう言えばそうだった。出会いの宴会からして、文はのんべだった気がする。
遠い……遥かな過去の記憶。
頭の中を掘り返しても、そう易々とは出てこない。
けれど、私と言う個人を形成する上で、欠かせないもの。
――尤も、『過去』と言うものは全てそうなのだけれど。
「……確かに、貴女は変わったわよね。色々と」
「私だけではあるまい。お前も昔は」
「ボインになったわよねぇ」
手が伸ばされる!
拳を肘へと突き上げる!
手応えは――ない。
凡そ速さを競うもので、文に勝る存在はそういない。
最強の妖怪と言われる我が主でさえ後れをとるやもしれぬ。
ならば、その従者たる私がこの天狗に勝てぬのも道理――流石は、幻想郷最速。
「で、私も昔は、何?」
うん、揉みながらさらりと言ってくるな、この最速阿呆。
「清楚だった……気がしたんだがな。よくよく思い出せば芽はあった」
「あっはっは、むっつりだったのよ。今はこの通り、オープンに!」
「善し悪しだな、おい。と言うか、いい加減に手を離せ、この暴れん坊天狗!」
少し擽ったくなってきたじゃないか。……いやいや。
「そうだ、昔で思い出したぞ。お前、出会いの頃、私の事を男と思ってたろう?」
「あー……、私だけじゃないけど、だって、貴女、髪も短かったし、声も」
「で、私に惚れてただろう。だろうじゃないな、惚れて痛っだぁ!?」
乳を抓るな。割と真面目に痛いから。
堪らぬと手を払いのけ、思いきり睨む。
視線の先の彼女は、顔を俯かせ、微かに震えていた。
過去の羞恥に面を朱へと染める――なんだ、可愛い所も残っているじゃないか。
「ん? そんなに恥ずかしいか、ん?」
「珍しく反撃できたからって嬉しそうに言ってくれるわねぇ……」
「ふふふ……、そうそう弄られてばかりでは此方も面白くないからな」
俯いたままの彼女に、ずいと迫る。
彼女は気付き、遠のこうとするが、遅い。
肩に左手を置き、顎に右手を付ける。
「藍……」
「養ってやろうか?」
「馬鹿、冗談って言ったでしょ」
びくりと反応したのは、肩か。口か。
「三食昼寝付き、もふり放題でどうだ?」
「も、お嫁さんにしてぇ!」
「どんとこいっ!」
両腕を広げる私。
飛び込んでくる文。
交わされるのは、口付け――よりも、熱い拳。
「カウンター……か。やってくれ、る……ごふっ」
「さっき抓ったのを、根にもっていたのは、わかっていた、からね――がはっ」
湯に浮かぶ狐と鴉。寒空の下、洒落にもならん。
先程文の方へと押しやった盆が返され、彼女の手には徳利が掴まれている。
盃を持ち上げると、徳利の中身が注がれた。
湯の色と同じ液体で満たされる。
彼女が手拍子で呑むのを煽るよりも早く、私は口をつけ、喉を潤す。
「可愛げがないわねぇ」
「ふん、私は『格好いい』んだろう、雛鴉」
「ぐぬぬ、終わった話題を何時までも……あ、そうだ」
彼女が苦手な話などそうそうないのだ、此方が飽きるまでは使わしてもらう。
にやにやと笑う私に、文は予想外にも同じような話で返してきた。
「あの頃、よく一緒に遊んだ子でさ、瀬堰って覚えてる? ほら、鬼の」
「せぜき……あぁ! 坂上瀬堰か! 覚えているとも、よく難癖つけられたからな」
「そうそ、プライドの高いお嬢様、名前の後に御前って付けないとすーぐ拗ねちゃった子!」
で、すぐに泣きだすんだ――笑いながら言うと、彼女も愉しそうに相槌を打つ。
懐かしい名だ。
まだ鬼が地上にいた頃、幻想郷がもっと漠然としていた頃の友人。
種族的に部下である文だけでなく、私に対しても、その高慢な態度を押し通した少女だった。
我が儘、世間知らず、泣き虫――悪口を連ねながら、けれど、私も文も遠い日の彼女の面影に微笑む。
心情を読み取れぬ当時はともかく、今ならば、その全ては寂しいと言う想いからきているのがわかっているから。
それに、過去の思い出は美化されるものだ。思いだすだに、彼女は可愛らしかった。
「で、その我儘御前がどうした?」
戻ってくるのだろうか。それならば、会ってみたい気もする。
「あの子も、貴女が好きだったのよ」
「ごふっ、けふっ、知らんぞ、そんな話!?」
「あ、やっぱり気付いてなかった? 元々苛めっ子だったから気付きにくいと思うけど、貴女へのは照れ隠し」
流石にそこまでは読み取れぬ。
しかし、振りかえって思い出してみると、そう言う節がなくもない。
想いを抱く相手に構って欲しくちょっかいを出す――幼年期にはままある話。
ままあるのだが、向けられる方は……堪ったもんではなかったなぁ。
懐かしい記憶に微苦笑を零す。
再会の誓いを込め、握手を交わしたのは何時の日か。
「まぁ、今じゃ我儘御前も貞淑な奥様になってたけどね」
箸よりも重い物を持った事もないのだろう、腕は細く、手は白魚の様でエンゲージリングが填められていた。
…………あ?
「なっ!? どこの幼女趣、じゃない、物好きが娶ったと言うのだ!?」
「おや、可愛いあの子が取られてご立腹?」
「や、純粋に興味」
私には紫様と橙がいる。じゃなくて。
文は彼の鬼と、取材で旧都を訪ねた折に再会を果たしたのだろう。
我儘御前の現在を簡単に伝えてくれた。
美しく成長している事、結婚している事、子も設けている事……。
そして、遠い目をして、締めくくる。
「そりゃそうでしょ。あの子だって、もう童じゃないんだから」
風が吹く。あの頃と変わらぬ風が吹く。柔らかくも冷たい風が吹く。
――文の言う通りだ。
旧友と離れてから、既に千年近くも経っている。
彼女は既に童ではないのだろう。私達が童ではない事と同様に。
風が吹く。あの頃と変わらぬ風が吹く。ただそれだけの事を言葉で飾るのは、私達が変わった証拠。
「『ピアス付けるのも許してくれないの』なんて惚気られちゃったわ。綺麗な体に傷を付けるのが厭なんでしょうね」
「相手方がそう申しつけたのか。……自分が一番でっかい穴開けといて?」
「うっわ、貴女、それ下品過ぎ!」
ははは、互いに童じゃないんだ、これ位良かろうて。
ばしばしと肩を叩いてにやにやと笑う文に、私も似た笑みを浮かべる。夢見る少女じゃいられない。
再び、盆を文の方へと流す。
音を立てる事もなく、すんなりと彼女の元へと届いた。
だが、また此方へと指で弾かれ返ってくる。
酔いが回った……訳もないか。
視線を盃からあげ、文に向ける。
「……羨ましい?」
雪が一粒、空の盃に落ちた。
「全く……と言えば、嘘になるな」
徳利を自ら掴み、なるほどと頷く。
「幸せそうだったわよ、彼女」
鬼の瓢箪ではないのだ、無尽蔵には出てきやしない。
「そうか……」
逆さまにして、残る全てを盃に零す。
――呟きは、咄嗟に出てきたもの。意味のある返しではなかった。
思い浮かべる。
美しくなった友人を。
周りにいるモノ達と交わす笑顔を。
「……そうか」
全く羨ましくないと言えば嘘になる。
家庭を築き、家人を守る――それは一つの幸せの形。
大きな波乱や小さな小波を乗り越え、友人はそれを掴んだのだろう。
――二度目の呟きは、万感の思いが込められていた。
「お前はどうだ?」
「上手い事やりやがったな我儘御前!」
「や、アレはどちらかと言えば床下手な気がするが」
「……貴女、さっきから飛ばしているわねぇ。溜まっちゃってる?」
「まさか。三が日は概ね橙にもふられっ放しだったからな、つやつやしているぞ」
尻尾に包まれる橙の愛らしい姿。あれこそが絵にも描けない美しさ。
ぱしゃんと湯を弾く音。文が立ち上がっていた。
「もう出るのか?」
「烏の行水ってね。新聞も進めないといけないし」
ご苦労な事で。
「――私も、貴女と同じ。羨ましくないとは言い切れない。だけど」
体を拭う音。
「仕事はまぁなんだかんだ言って楽しいし」
衣擦れの音。
「可愛い後輩もいる」
風が吹く音。
「それに――」
文は服を着直し、ふわりと此方に戻ってくる。
「ねぇ」
「あぁ」
浮かぶ彼女は微笑んでいた。
「共に湯へと浸かり、酒を飲み、語らう友人がいる。これもまた、悪くない」
言葉を引き継いだ後、盃をあおり、終いの酒を呑みほす。
風が吹く。
視線を向けると、もう彼女は其処にいなかった。
「せっかちな奴め」
盃を戻し両腕を横に伸ばす。
気付くと、疲れやコリも取れていた。
湯の効用か、はたまた他愛もない世間話のお陰か。どちらでも構いはしないが。
盆から良い色具合のつまみ、あぶらげを掴む。
口に放り込み、数度噛む。
喉を鳴らし嚥下する。
「――これもまた、悪くなし」
……あ、新年の挨拶忘れてた。まぁいいか。
<了>
件の御前がすっごく気になったり。
それを話のネタに下連発するお二方(主に藍しゃま)マジ最高オーイェー。
こんな光景を橙と椛っちゃんに是非見せたいですね。
あとゆかりんはてっちん(天子)にツンデレだとずっと思ってました。
是非見たいなぁ。
名無しに電撃走る!
最高でした。文句なしに100点です。
ほんとにいいなぁ、この雰囲気…。
良い雰囲気だぜ
お年玉にこれをあげよう
上下の人妖関係は多くても、横の繋がりはあまり見ないなあ……
藍様は中間管理職だし、文はマスコミだし。
温泉なんて贅沢なものではなく、近所の銭湯ですが。
ともかく、なので、お話の話題もみょーに色気がないです(笑。
以下、コメントレス。
>>2様
気取らないフタリは、書いていて私も愉しかったです。またネタが思いつけば書いてみたいと。
>>謳魚様
各々に各々の相手が(私の妄想では)いますので、そういう関係ではないです(笑。
ゆかりんは、うちとければ誰に対しても駄目になりんす。あくまで私のお話では。
>>26様
髪が短く喋り方も男性的っぽいので、小さい頃はさぞかし美少年してたと思います。そうあって欲しい。
>>28様
箍が外れた女性のその手の話は、男性よりも凄まじいんだそうですよ。怖い怖い。
>>29様
×ではなく&ですが(笑。並んで立っても絵になると思うんですよね。
>>33様
良い所も悪い所も知っていて、かと言ってどうするでもない。歳取ると色々受け容れ易くなるのです。
>>34様
湯冷めせぬようお気をつけくださいな(遅いよ。
>>36様
馬鹿騒ぎも愉しいんですが、次第にできなくなってくるんです。体力的にも精神的にも(笑。
>>45様
頂きます。今年貰った唯一のお年玉ですよ(笑。
>>46様
他に加わるとしたら、美鈴と慧音位しか思いつきません。幽香もかなぁ……。
>>53様
ですね。藍様と文は、そうであって欲しいという願望です。
以上
ちょっとくたびれてきているんだけど、まだまだ余裕で頑張れるお姉さんのなんと格好よいことか。
屑って指差されて良いから藍しゃまに養われたひ……