「美宵ちゃん、この料理はカロリーとかタンパク質ってどのくらい入ってるの?」
「えっと、ごめんなさい、ちょっと分からないです……」
「そっかーまあ仕方ない。でも、最近は気にする人多いし、お品書きに書いておいた方がいいかもよ。」
「え、ああ、はい……」
なんて会話もこれで3日連続だった。いい加減うんざりしていた。ここ最近、妙なお客さんが多くて、接客に対して全くと言って良いほど気乗りしなかった。
「かろりー」とか「たんぱくしつ」っていうのは如何やら食べ物に入ってる栄養とかの話らしい。最初に聞かれた時、単語の意味が分からなくて聞き返してみたら、そんなような事をさぞ自慢気に捲し立てられた。大体5分くらい経過してもまだ終わらなそうなものだから、流石に上手い具合に話を切り上げさせたけど、まあそのくらい熱く語れる程には大事なものらしい。
大事なのは結構。別にそれはいい。けれど、それをたかが居酒屋に表記させる事を求めるのは、ちょっとやりすぎじゃないかなって思う。お品書きに書けって、一品ごとにそんなのを測る労力を考えると本当にやりたくない。想像力がないんかな。そんなめんどくさい事をやらせるってほんと何様? ああ、お客様か……。
「それにしてもお品書きが品名だけってのはもう鯢呑亭だけだよな。シンプルで見やすいけど」
「え! そうななんですか? もしかしてみんなそのかろりーとやらを書いてるの?」
「そうだねえ。大体何処も書いてあるんじゃない? 俺は今増量中だからそこまで気にしないけど、減量中でカリカリしてる奴らはカロリー表とずっと睨めっこしてるよ」
「嘘でしょ……」
何がどうしてそんな事態になったんだろう。最近店の外に殆ど出てなかったから(どこぞの鬼やら狸やらのせいで昼も夜も働いていたため)、里の雰囲気が全く分からない。確かに、増量だの減量だの何だのと、そういう言葉を露骨に聞くようにはなったけど、せいぜい店に訪れるお客さんの話しか知らなかったし、そんな里のお店全部の雰囲気が変わるような事になってるなんて知らなかった。
「もしかして異変なのかな……」
ふと、そんな事を思った。もしそうなら霊夢さんに相談しないと。もしかしたら里の異変を察知して既に動いているかもしれない。そしたらみんながこんな風になってる原因も分かるかもしれないし、とにかく、明日の昼にでも博麗神社に向かってみる事にした。
お昼頃、神社に向かう前に里の中を散策してみた。なんか、気の所為かもしれないけど、すれ違う人みんな、平均的な体型と比較して身体が大きい気がする。それも太ったというよりかは、なんかこう、ゴツゴツしてるような? 顔とかは細いままだし。しかも、どういう訳か、結構な割合の人がぴったりとした服を着てる。体のラインが丸見えで、なんかえっちだ。
「私が外に出てない間に一体何があったというの……」
大通りの店には「ぷろていん」っていう謎の薬みたいなものが売られているし、みんなこぞってその薬もどきを品定めしている。路地裏を見れば、完全に薬が売られていて、注射器とかが転がっていた。風の噂によると「すてろいど」と言うらしい。どうやら健康被害を招くような副作用があるらしく、里の中だと忌避されているとのこと。それでも自分の限界を知る為に手を出す人や安易な気持ちで手を出してしまう人が後を絶えないらしい。
そんな事も風の噂で流れてくるのかって? そりゃ風の噂どころか何処行ってもみんなそんな話しかしてないんだもん。路地裏に近付いただけで聞いてもないの忠告してくる人が3、4人くらいもいたし。「お嬢ちゃんにはまだ早い」とか「まずはナチュラルで習慣づけるところからだよ」とか、なんかそんなこと言ってくる。みんな良い人ではあるんだろうけど、もう喋る話題が全部同じでそろそろ頭がおかしくなってきそうだった。
まあつまり、里を回って気付いたことは、この里は「筋トレ」とやらに支配されているらしい。みんな動機はどうあれ、その行為にハマっているらしかった。こんな事はあり得ない。いかに里の人間達が衆愚だとしても、揃いも揃って同じ事に熱中するものだろうか。
「やっぱり異変だよね。急いで霊夢さんのところに行かなきゃ」
確信を抱いて、私は急いで里を飛び出した。
神社に着くと霊夢さんが境内にいた。そして筋トレをしていた。私は踵を返すことを決めた。しかし回り込まれてしまった。
「ちょっと、何で逃げるのよ。ここに来るって事は何か用事があったんでしょ」
「その用事はたった今無くなりました。異変に屈した霊夢さんに用はないです。魔理沙さんか紅魔館のメイドさんにでも頼みに行きます」
「え、異変があるの? それなら本職の私がやるべきじゃん」
「ですから、その異変に屈した貴方に頼む意味はもうないんですよ」
「私は異変に屈してなんてないわよ」
「現在進行形で屈してますから」
「屈する……? ああ、スクワットの事? 確かに体曲げてるもんね」
「帰ります」
冗談だって、と霊夢さんが笑いながら謝ってきた。全然冗談に思えなかった。だって今もそのスクワットととやらをやってるし。けど、とりあえず話は聞いてみないとこの幻想郷に何が起きているかは分からないままだから、仕方なく帰るのはやめる事にした。
私は霊夢さんに人里の様子を話した。みんな揃って「じむ」という謎の単語を喋っては、謎の建物に入っていく事。お互いの体を見せ合いながら褒め称えあっている事。挙げ句の果てには、その輪の中にありのままの姿をした妖怪も混じっている事。
話していて未だに信じられないでいる。あり得ない光景が里の中で広がっているのだ。
「ってことなんです! こんなの異変以外あり得ないですよ!」
「ああ、それ異変じゃないわよ」
「分かりました。帰ります」
「ちょ、ちょっと話を聞いてよ。みんながこうなったのもちゃんと経緯があるんだから。まったく、美宵ちゃんって思ったより短気なのね」
「いや、境内で不審な動きをしてる人の話なんて誰が信じると思います?」
「ひどい」
霊夢さんの言い分としては、どうやらマッチョなる人間が幻想郷に迷い込んでしまった事がきっかけらしい。それは、はち切れんばかりの筋肉を携え、己の研鑽に意識を向け続ける男だったとのこと。見た目はひどく恐ろしいが、これが意外な事に想像以上に優しく、寧ろ里の人間の手伝いなんかもして、いつしか皆から好かれるような立場になったという。
「そんな馬鹿な。それだけ大きな筋肉を持ってるって妖怪ですよ。人間じゃ無理です」
「それがそうでもないらしいのよ。外の世界ではマッチョの人って別にそこまで珍しくはないんだってさ」
「ええ? どうなってるんですかそれ。魔境じゃないですか」
「写真とか見せてもらったけど筋肉まみれの人いっぱい居たわよ。なんか筋肉の大きさを競い合ってそれでお金もらってる人もいるらしいし」
「えー変わってますね。外の世界って」
結局、マッチョの人は外の世界に帰ってしまったらしい。里の人間達は彼が帰る事をひどく惜しんだという。そのくらい、彼は里の人間から好かれていたし、頼りにされていたのだ。
しかし彼は帰る前に、里に対しトレーニング方法や必要な栄養素を記載した筋トレ本を寄贈していった。里の人間はせっかくあの彼が残してくれた物だからと、みんなでその本を読む事にしたらしい。
そしてこれが、里の人間に大ウケした。酒と流行りに乗るくらいしかやる事のない無趣味で中身のない人間には、何か崇高な行為として筋トレが映ったらしい。重い物を持ち上げる事に快感を覚える者、鍛えた身体を認められる事で承認欲求を満たす者、異性に好かれようとする者。動機は様々だか、皆それぞれ筋トレに熱中していったのだ。
「かくいう私も筋トレ楽しくてさ、やればやるほど成果が出るんだもん。一生懸命頑張る理由ってこういうのが楽しいからなのね。私ようやく分かったわ」
「努力に目覚めるのは結構ですが、良い加減現実に向けて目も覚ましてくださいよ。里に妖怪が身分も隠さずに出入りしてるんですよ? 大問題じゃないですか」
「確かに問題だけど、今はステロイドが横行してる方がよっぽど重大なのよ。人体に悪いしね。それに、出入りしてる奴は基本的に筋肉が認められた奴だけだし、まあ大丈夫でしょ」
「それっぽい理屈みたいですけど後半は破綻してますからね。何ですか筋肉が認められた奴って。おかしいでしょ」
「えーだってほら、例えば紅魔館の門番とかめっちゃ良いお尻してるじゃん? ああいうのがいるとみんなやる気出るんだってさ。憧れとかそういうのでね。私もちょっと羨ましいし、だから今スクワット頑張ってるのよ」
「はあ……そうですか」
お尻かあ。確かに形が綺麗だと足も長く見えるし、なんかかっこいい。でも所詮、お尻に目を向けるやつなんて貧乳だけだと思う。自分にそっちの魅力がないから、仕方なくそっちにいくってだけ。私は勝ち組だから今まで気にした事なかったけど、確かに霊夢さんはそういう思考回路になってもおかしくはないか。
「ねえ、今とんでもなく失礼なこと考えてない?」
「いえ、霊夢さんは細くて可愛いから今のままで良いのにって考えてました」
「次に碌でもない事考えてたらお店に美宵ちゃんの事言いつけるわよ」
「ごめんなさい。ほんとに勘弁して下さい」
めちゃくちゃ睨まれた。こういう時の霊夢さんは本当に怖い。どんなに筋肉で頭がいっぱいになっても、やはり霊夢さんは霊夢さんだった。
「とにかく、里がおかしくなった理由は分かりましたよ。ほんとに異変じゃないってことも。そして皆さんがとんでもなく馬鹿なこともです」
「馬鹿って何よ馬鹿って。人が何を好きになろうが別に良いじゃないの」
「幻想郷のシステムが崩壊しそうなのに放ったらかしにしてるのが問題なんですよ! 賢者の人達は何やってるんですか全く」
「一応大丈夫なように策は打ってるみたいだけど、今んところは面白いから放置してるっぽい」
「なんですかそれ、どうかしてますよ」
「紫なんてこの前男連れ込んだらしいわよ。なんか腹筋が好きなんだって。やっぱスキマ妖怪だし割れ目が好きなんでしょうね」
「はあ……なんか幻滅しました。割れ目が好きなら、女の形してるんだし自分の股でも見とけば良いじゃないですか」
「美宵ちゃん? 信じられないぐらい品がないこと言ってる自覚はあります?」
「良いんです。どうせ霊夢さんが酔った時にでも記憶消しとくんで……は!」
そうだ。私の能力で筋トレに関係する記憶を上手い具合に隠蔽すれば良いんだ。そうすればみんな元に戻るはず。お店にやってきた人間の記憶を操り、徐々に正常な人達を増やしていく。里の人達みんながまともに戻ればば、それに続いて騒ぎに乗じていた妖怪達も落ち着くだろう。
賢者の策が何であれ、このままでは、いつこの事態が収まるのか全く想定できない。そうこうしてる内に店主さんの気が狂って、お品書きの魔改造が着手される可能性だってある。そんな事が始まったら何と面倒な作業になることか。
こうしちゃいられない。もうここでの用事は済んだし、急いでお店に帰って力を使う準備をしないと。
「霊夢さん、私帰ります。私がこの異変を解決しますから」
「いきなりどうしたのよ。さっきから言ってるけどこれは異変じゃ、あ! ちょっと美宵ちゃん!?」
霊夢さんの弁明が長くなりそうだったので、無視して神社を飛び出した。ああいう手合いは長々と言い訳がましい事を言っては言いくるめようとしてくるので、早々に切り上げるか、別の話題に変えてやるのが好ましい。これも日頃の接客で身につけた経験則である。
案の定、霊夢さんは私めがけて何かごちゃごちゃと何か叫んでいた。筋トレは悪いものではないのだの、筋トレしたら代謝が上がって痩せるだの、痩せたらその無駄にでかい胸が適正サイズまで萎んで楽になるだの……、だから何だってんだうるさいな。本気で店出禁にしたろか。
もう霊夢さんの事はどうでもいいとして、善は急げだ。私には大義が出来た。この好きでもなかった己の力で皆を救い、元の幻想郷を取り戻すのだ。
霊夢さんから経緯を聞いて数日が経過した。計画は順調である……筈だった。
初めは良かった。幸いうちのお店は結構人気なので人の出入りは多かった。お店に来たお客さんに対して筋トレに関する記憶を消し続ける日々を過ごした。しかし、何十人かの記憶を弄り続けた矢先、違和感を覚えた。
「あれ、新しいお客さんが来ない……?」
お店に訪れるお客さんが固定化されていたのだ。謂わば常連客しか居ない店。これじゃあ、人里を正常に戻すには到底足りない数字だった。
「何でだろう。うちのお店人気の筈なのに、もしかして、人気なくなっちゃったの……?」
こういう時、店側の目線から見ても原因には辿り着けない。自分達にとってどんなに素晴らしい環境を用意しても、それがみんなに刺さらなければ、お客さんは増えていかない。私はよくお店に来てくれている常連の2人組に、それとなく理由を聞いてみることにした。ちなみに、この2人は私が筋トレの記憶を消した記念すべき第1号と第2号の方である。
「んー、俺らもよく分からないな、あ、でもみんな、なぜか最近酒飲まなくなっちゃったんだよな」
「確かに。俺が誘っても最近みんな断るんだよ。何でも筋肉が分解しちゃうとか何とか。意味分かんねえ。最近里の奴らみんなおかしな格好してるし、妙にでかいし、なんかもう恐ろしくて出歩けねえよ」
みんなお酒を飲まなくなっただって? そんな、私の能力と相性が悪すぎる。どうやら話を聞いているうちに分かったのだが、お酒というのは筋肉にとって良くないらしい。筋トレに支配されている愚民どもは行動の全てを筋肉へ優先させている。それはここ暫くでもう嫌なくらい理解出来た。でもだからこそ、皆お酒を飲まなくなっていたのだ。
ということは、私がお店で相手してたのは、筋トレ民の中でも中途半端な人だけだったってことだ。完全に盲点だった。幻想郷の住民は基本的にみんなお酒が好きだ。だから、お酒を飲んで酔っ払ったところを見計らって記憶を消す作戦は完璧な筈だった。それがどうだ、みんなこぞって筋肉に頭を侵されてしまった。私達の命の源であった筈のお酒すら捨てて。私はもう、幻想郷を救えない。
「一体どうすればいいの……」
そう悩んでいた矢先の出来事だった。深夜の鯢呑亭、妖怪専門の居酒屋を開いていたら、1人の鬼がやってきた。まあ、案の定萃香さんだった。
「この店はまだまともみたいだな。助かったよ」
「それもいつ駄目になるか分かったもんじゃないですけどね」
どうやら萃香さんとしてもこの里の現状に不満があるらしい。乱暴に椅子を引いて席に着く。相当苛立っているようで、普段よりも酒を煽るペースが早かった。
「全く、どいつもこいつもつまらない。みんな酒を辞めて健康になってく。別にそういう奴がいても良いんだ。ただ全員がそうなったら面白くないだろう? 霊夢だって飲まれちまった。そこらの妖怪だってそうさ。この惨劇に興味を示していないのは魔法使いの連中くらいだ。あいつらは魔法の事しか頭にない変態だからな」
「魔理沙さんは面白そうーって言いそうな気もしますけど」
「確かに最初は面白がってたな。けど、あいつだって求道者さ。自分の道に通ずるものがないから早々に飽きて家に引きこもってるよ。それにしても賢者の連中はさあ!」
「あの人達も大概ですよね。この前紫さんが男連れ込んでたって話聞きましたよ」
「あーそれ私も聞いた。腹筋に興奮する女は基本カスだよ。つまんないね。はあ、ほんとに駄目なんだよな、あいつは。一丁前に策を講じてるみたいな雰囲気出しといて、その過程で出る被害を全く考えてないんだ。今やどこ行っても宴会なんて無いんだぞ。つまらないったらありゃしない。私は何を楽しみにすれば良いんだって話だよ。くそ! ふざけんな! 誰でもいいから酔っ払いと喧嘩したいよ!」
矢継ぎ早に不満が湧いている。それはもう凄まじい程に。下手に止めると怒られるし、こういう時は話半分で流しておくのが吉だ。
それにしても、萃香さんも現状に納得していないこちら側の存在だった。それは嬉しい誤算だ。私の力ではどうにもならない事でも彼女の力を借りれば、この手詰まりの現状を打破できるかしれない。
「萃香さん、私も今の幻想郷は面白くないです。みんなお酒を飲まなくなってるし、このお店だって潰れちゃうかもしれません。それだけは絶対嫌です。萃香さんだってこのお店が無くなるのは嫌でしょ? なら力を貸してください」
「……ふん。いいだろう。どうせこっちもそのつもりで来たんだ」
「え、ほんとですか!」
「お前が里の連中の記憶を弄ってるのは知ってるよ。でもお前の力だけじゃ焼け石に水さ。記憶を消された連中もどうせまた筋トレとやらに飲まれてしまう。でも、私の力があれば話は別だ。里どころか幻想郷の皆を酔わせる事だって出来る、そしたらあとはお前の出番だろう? 」
いける。この人の力があれば、人里を、いや、幻想郷を元に戻せる筈だ。
「分かりました! そうと決まれば早速取りかかりましょう!」
「まあ待て。こっちにも準備がある」
萃香さんは、私の前に手を突き出した。焦るなとそう言いたいらしい。一体何をする為の準備なのだろう。
「酒を溜めるんだよ。私の中にね。」
「え、どういう事ですかそれ」
「私の力で酒気を幻想郷に広げまくるとするだろ? でもそんな事したら薄まり過ぎて妖怪どころか人間すら酔わせられない。だから、普段より遥かに酒を蓄える事で、それを無理やり可能にするのさ」
「めちゃくちゃゴリ押しじゃないですかそれ」
「そーだよ。だからここ最近はずっと酒を飲み続けてきたんだ。普段飲むよりもっともっと強い酒を浴びる程飲み続けた。そろそろ良い具合に仕上がってくる」
「そんな事して大丈夫なんですか? いくら鬼でも……」
「いや、本音を言うと流石にきつい。もう限界が近い。こんなに酔っ払うことなんて久しくなかったもん。もうさ、みんな一緒に飲んでくれないから一人で飲み続けてたんだけど、最初は良いんだよ。でも、流石に寂しくなってきちゃってさあ。こんな義務感で酒なんて飲みたくないよ。でも、私がやらないとみんなお酒飲んでくれないままだしさ、私だって嫌なんだよ! もうほんとに! でも、やらないとつまんないままだもん。だけど、1人で飲むのも限界なんだよ。寂しくてさあ。だからこの店来たんだよ。最後の仕上げに一緒に飲んでくれよ。なあ、頼むよ。ぶっちゃけ、もうやっても良いんだよ。でも、これで始めるのもなんか味気ないじゃんか。最後に2人で良い感じに飲んでから仕事しようよーなあ頼むよー」
何この人、だるすぎる。私と話す時ってもっと怖い感じのイメージだったのに。限界まで酔っ払うとこの人こんなめんどくさくなるのか。いや、まあちょっと可愛い感じもあるけど、でもあまりにもだる絡みが過ぎる。ほんとにずっと泣き言しか話さないし、なんかちょっとどうして良いか分からなくなってきてしまった。
「分かった! 分かりましたから! 最後の仕上げで一緒に飲みますよ。店は閉めますから2人だけですけど、いいですよね」
「ほんとかあ! やったぜ! やっと誰かと話しながら酒が飲めるよう!」
頭が働かなくなって、そう安請け合いしてしまった。まあ可哀想だし、これから働いてもらうわけだから、これくらいは仕方ないかも。鬼の泣き言なんて滅多に見れるものじゃないから珍しいもの見たさに付き合うのもいいかもしれない。
私は急いで店を閉める準備をした。もし他の妖怪が来たら、萃香さんのあられもない姿を見られてしまう。それは彼女の名誉的にも憚られる事だった。
「さあ、店も閉めましたし! 今日は飲みますよ!」
「よっしゃあ、飲むぞ!」
そう言って二人で乾杯した。ここ最近はずっと苛々してたからそれに比べたら楽しいかもと思った。明日に向けて英気を養うのも悪くない。今夜だけは、弱りきった萃香さんと朝まで飲み明かすことにした。
で、誰? 鬼と飲もうなんて思ったやつ。
昨日の出来事を心底後悔している。めちゃくちゃ気持ち悪い。頭も痛過ぎてとてもじゃないがまともに歩けない。ほんとに頭が悪いことをした。こんな事なら筋肉達と筋トレすればよかったかも。
私はお店の中で潰れていた。幸い今日は店が休みだったから店主さんにも無様を晒さずに済んだけど、それにしても気分が悪い朝だった。
萃香さんは泣きながら酒を飲み続けていた。あの人は本物の化け物だ。限界と言ってからまだ飲んでいる。しかも泣いている理由ってのも酔いの辛さよりも私が潰れて1人で飲まなければいけないのが悲しくて泣いているらしかった。
「朝っぱらから泣き腫らしても飲んでるってどういう事よ……」
涙を見せるのは夜だと相場が決まっているのに。どうやらこの人には朝も夜もないらしかった。
私は重い身体に鞭を打って萃香さんの肩を組み、店から引っ張り出した。そろそろ計画を進めないと本当にただ酔い潰れただけになってしまう。
「ほら! そろそろ行きますよ。みんなと一緒にお酒飲めるようにするんでしょ」
「分かった、やるから乱暴にしないで。吐き気してきた。」
「我慢してください。私だって吐いて楽になりたいです」
何とか説得し、2人で里を出た。里の人間達に見つからないようにゆっくりと空を飛び、幻想郷が見渡せる高度まで昇り続ける。
「そろそろかな」
萃香さんがそう呟いた。その瞬間、彼女の身体が霧状に薄まっていく。人の形が溶けていき、そうして幻想郷中を包み込み始めた。その様は何だか美しいとすら感じられた。霧に包まれる原風景というのもどこか趣がある。
と、思ったのも束の間、
「ん? あれ、なんか、ってうわ! めっちゃお酒臭い!」
そう、萃香さんから生じた霧はとんでもなく酒臭かった。考えてみればそうだ。幻想郷のみんなを酔わせる為、萃香さんは体内に限界までお酒を溜め込んだのだ。その萃香さんが作った霧から、お酒の匂いがしない訳がない。
ほんの僅かな時間でもその霧を美しいと感じた自分が馬鹿だった。どうしようもないような作戦なのを今になってちゃんと理解出来た。
里の方を見ると、人間達が呻き苦しんでいる。耳を澄ますと筋肉がーとか溶けるーとかそんなような叫びを上げていた。お酒の匂いを感じ取ったのだろう。確か、お酒は筋肉を壊すんだっけか。今や筋肉で頭がいっぱいの彼等にとってはこの有様は天変地異にも等しいかもしれない。
まあそれも時間の問題だ。もう暫くすれば、みんな酒気に満ちていく。酔ってしまえば後はこっちのものなのだ。
そうこうしていくうちに時間が経ち、人々の悲鳴も収まっていった。それに伴い、徐々に酔っ払いが増えていくのを感じていた。私はそれに合わせて皆の記憶を操作し始めた。
二日酔いが響くがそんなことも言ってられない。お店の為にもこんなところで諦める訳には行かないのだ。
「そこまでよ」
ふと誰かの声が聞こえた。聞き覚えのある声だった。
「……霊夢さん」
振り返ると、霊夢さんが私を睨みつけていた。その顔は薄らだが赤く染まり、ほろ酔い程度と見てとれる。
「まさか貴方が異変を起こすとはね。人間に危害は加えない妖怪だと思っていたのに」
「危害なんて加えていません。私はただ、元の幻想郷に戻そうとしてるだけなんです」
「元の幻想郷? 前にも言ったけどみんなが筋トレにハマったのは異変でも何でもない。ただ、みんな好きになったものが同じだっただけよ。それを壊そうというのなら、それこそ異変だわ」
「そう言われるとちょっと否定出来ない……」
「私は博麗の巫女! 異変を解決するのが私の仕事だ! そして私の筋肉を守る為にも! 今ここでお前達を退治する!」
そう叫ぶと霊夢さんはめちゃくちゃ怖い顔でこちらに迫ってきた。まずい。霊夢さんの記憶を弄るにはもう少し酔わせないと。ほろ酔い程度では記憶を操作しようにも、まだ彼女の意識が強過ぎる。
「萃香さん!」
「そう来るだろうと思ってたよ、霊夢」
私が叫ぶと目の前に霧が集まりだして、萃香さんの姿が形作られた。どうやら萃香さんは霊夢さんが止めに来るのを見越していたらしい。私を庇うようにして、霊夢さんの前に立ち塞がった。
「萃香、今すぐこの霧を消しなさい。酒臭いったらありゃしないのよ。それに、アル中で死ぬ奴なんてでたら洒落にならないわ」
「ふん、嫌なことった。一滴も酒を飲まない、生真面目を通り越した狂人しかいないようなこの場所に何の価値がある? 何が筋肉だ、味噌滓どもめ。お前もだよ、霊夢。私は心底うんざりしている」
「私のどこに失望される要素があるのよ。正しい努力と自分を律する心! そうやって鍛えればみんな理想の自分に近付けるのよ。人間として立派な姿勢じゃない」
「それが面白くないんだよ! お前らのやってることは女々しすぎる。本物の鍛錬とは訳が違うんだ。皆、鍛えてるふりをしているだけのままごと程度で、さぞ立派になったと勘違いしている。揃いも揃って気持ちの悪い理想を抱えこみやがって、全員、とことん苦しめて死なせてやる!」
「ちょ、ちょっと萃香さん!」
まずい、熱くなっている。このままだと、とんでもないくらい大暴れをするかもしれない。何も私はそこまでを望んでいない。ただ、幻想郷が、人里が前のような姿に戻ってくれればいいだけなのに。
こうなったらやるしかない。失敗したら火に油を注ぐような一か八かの賭けだが、萃香さんの熱くなった頭を冷やすにはこれしか思いつかなかった。
霊夢さんと萃香さんは互いに向き合い、今にも撃ち合いを始めそうな、一触即発の状態だった。2人が動くその瞬間を見計らって、思いっきり息を吸う。そして、熱くなり過ぎて周囲が見えていない2人にも届く声量で、私は叫んだ。
「萃香さん! あんまり暴れるようなら、萃香さんの黒歴史全部暴露しますからね!」
「はあ!?」
萃香さんの動きが止まった。怒りの矛先が私に向けられる。でも、ここで中途半端に止めてしまえば事態は悪化するだけだ。全部喋る。霊夢さんが無事なうちにここでぶちまけるんだ。
「昨日私と飲んだ時、聞き飽きるくらい教えてくれてたじゃないですか。お酒でやらかした失敗談を。ほら、酔っ払っておねしょしちゃったとか、女友達の鬼と雰囲気でキスしちゃったとか、酔い潰れると泣き上戸になって甘えたくなっちゃうとかいっぱい喋ってくれましたよね。あ、あと昔モテたくて角の手入れして飾りとかも付けてたらしいじゃないですか。当時すごい不評だったらしいですけど。他にも萃香さん、好きな男のタイプも教えてくれましたよね。胸板が厚い人だって、やっぱ筋肉好きなんじゃないですか。すごいノリノリで話してくれたし、良いですよね。みんなに話しちゃっても」
「ふざけんなまじで、本気で殺すぞ! あと胸が一番良いのは当然だろ! 腹筋好きなんてゴミカスだ! 」
ひたすらに頭を回転させ、そして懸命に口を動かした。萃香さんがこちらに向かってくるが、少しでも躊躇してはいけない。他人に握られたら困る情報全てを霊夢さんに聞いてもらう。少しでも許容出来る範囲の情報量なら、私だけが萃香さんに殺されてお終いだ。けど、とことんまで喋り尽くせば、萃香さんは、私と霊夢さん、両方を殺さないといけなくなる。そんな事は彼女だって望んではいない。そこで交渉を持ち掛けるのだ。私の記憶を操る能力。それを手札から提示する事で萃香さんに私の言うことを聞いてもらう。
「まだまだネタはありますよ。ほら、あの時だって」
「良い加減にしろ! 何がみんなにバラすだ。霊夢が居る時点でそれはもう脅しを通り越してるんだ。最悪だよもう。私はどこまで喋っちまったんだ。」
「忘れたんですか? 私の力。霊夢さんの記憶を消せば良いんですよ。萃香さんがちゃんと動いてくれさえすれば、都合の悪い所は忘れさせますから。それに、私を殺したら、あのお店はもう開けられないですよ。それでもいいんですか?」
「考えたな、ちくしょう」
はあ、とため息を溢すと、萃香さんは怒りを鎮めてくれた。危なかった、なんとか一命は取り留めた。
「それで、私は霊夢を酔わせればいいのか」
「はい。出来ますか?」
「酒気はもう殆ど使い切っちまったけど、あいつ一人くらいなら問題ないね」
「お願いします。私はみんなの酔いが覚める前に何とかやってみせるので、霊夢さんを酔い潰したら教えて下さい」
「しょうがないな、後で覚えておけよ」
「そんなこと言って。もう甘えさせてあげませんからね」
「……組む相手間違えたわ」
萃香さんは、冷静に霊夢さんを見据えると飛び出していった。これでとりあえずは大丈夫な筈。霊夢さんを抑え込むのは萃香さんに任せて、私は幻想郷全域での記憶操作を再開した。
やってみて気付いたが、思っていた以上に数が多過ぎた。筋トレ関係の記憶だけを消すとなると、かなり緻密な操作だったし、そんな行為は1人ずつでの作業じゃないと到底できない。けれど、そんなペースじゃみんなの酔いが覚めるまでには明らかに間に合わなかった。
「どうしたら……」
「おい、こっちはもう終わったぞ」
「え、ほんとですか」
「なんだ。まだ終わってなかったのか。そろそろまずいんじゃないか」
驚いて萃香さんの方を見ると、酔い潰れた霊夢さんが抱えられていた。死んでもいないようだし、どうやら無事に終わったらしい。とりあえずは安心なようで胸を撫で下ろした。
しかし、萃香さんの指摘は全くもってその通りであった。だが、私の力ではこれが限界で、これ以上はどうしようもない。とりあえず、事情を正直に説明して、萃香さんからも何か案を出してもらうしかないと思った。
現状を丁寧に説明すると、萃香さんは呆れたような面倒くさそうな表情をして私を叱った。
「何をそんなちまちまやってるんだよ。こんな規模なんだぞ、もう一気にここ半年分くらいの記憶を消しちゃえよ」
「そんな事したら、どんな後遺症が起きるか分かりませんよ!」
「知らん、どっちにしろ、今のままじゃ無理なんだからやり方を変えるしかないだろ」
「……分かりました。やってみます」
悔しいが言い返せない。確かに、大雑把にここ半年(筋トレが流行り出したのが多分そのくらい)の記憶を消しまっても元の幻想郷には戻るだろう。リスクもあるが、これに賭けるしかなかった。
緻密な記憶操作でなければ、多人数でもいけなくはない。時間は限られている。範囲は霧で萃香さんが覆っていた幻想郷全域。伊吹瓢に住んでから、妖怪としての格が随分と上がった。今の調子ならこれくらいは何とか出来る筈だ。
「ふう。何とか出来そうかい。じゃあ、私は先に勝利の祝杯をいただこうかな」
「ええ、萃香さんの仕事は終わりました。あとは私に任せて下さい」
「へいへい、じゃあ私はその様子でも肴にしながら飲むとするよ」
一歩一歩、着実に工程を踏んでいく。能力を行使する範囲の指定。そして記憶を消す期間の設定。やる事は大まかだが、記憶操作にも体力は使う。これだけの規模だ。失敗した場合、次はもうない。
「あーなんか今日は酒が回るの早いなあ。久々に頑張ったからかな」
「ほんと貴方はどうなってるんですか。私、しばらくはお酒飲みたくないって思うくらい飲んだのに」
「あ、ほんとに良い感じに酔ってきた。気持ちいいなあ」
「えー本当に大丈夫ですか? 絶対無茶やったのが尾を引いてますよね」
「うるさいなあ、こんだけすぐ酔える日なんて珍しいんだから、たまには良いだろ」
なんて、お喋りをしていたらそろそろ作業の終盤に到達した。諸々の準備は済んだ。あとは実際に記憶を消すだけである。
「さて、萃香さん、そろそろみんなの記憶を消しますよ」
「あいよー」
これでやっと終わる。苦しい事も多かったが、元の幻想郷に戻り、お品書き大改造もお店存続の危機もないような、みんなでお酒を楽しめる毎日を過ごせるのだ。
しかし、何か違和感がある。その違和感の正体はわからないが、なにか忘れているようなそんな感覚。ただそんな事はない筈だ。作業工程は完璧だった筈。いくらお喋りをしながらだと言っても確認は何度もした。不備はない。これだけの事をするのが初めてだから、心のどこかで不安があるだけだ。しかし、そんな事で躊躇しても幻想郷は帰ってこない。
一抹の不安を無視し、覚悟を決めた。自分の意識全てを集中し、そして、その瞬間に一気に能力を開放した。と、同時に、
「あ」
気付いてしまった。違和感の正体を。
「なんだ? なんか忘れ物でもしたか?」
「はい、重大な作業を忘れてました」
「おい、何だそれ」
「私達を能力の対象から抜くのを忘れました」
「は、お前、それって自滅……」
「ええ、個人じゃなく範囲で指定したが故の失敗です。しくじりました! ごめんなさい!」
「おい! どうにかして……」
「許して下さい! もう間に合わ……」
萃香さんが何かを叫んだ、そしてその刹那、私達の意識は闇に沈んだ。そして、何か嫌な夢を見た気がする。けれども、その夢も今ある意識も、もう二度と日の目を見る事はなかった。
最近、奇妙な出来事があった。人妖問わず、幻想郷に存在するみんなが意識を失っていた事態が発生したらしい。原因は不明だった。しかもそれだけじゃなくて、覚えのない物が置いてあったり、逆にあるはずの物が無くなっていたり、とにかく、ひどい思い違いをしていたような、妙な事態が頻発したとのこと。
どこかの誰かが、これらは思い違いではなく、みんなの記憶が消されたからだとか、歴史が無かったことにされたとか言っていたけど、真相は分からなかった。なんせそれを知る人が現れなかったから。ただ、みんなの生活に大した影響は無かったためか、みんなこの奇妙な出来事のことを忘れ、元の生活に戻っていった。
そういえば数日前に、1人の外来人が外の世界に帰って行ったらしい。店に来たわけでもないし会ったことはなかったが、常連さんの噂で聞いている限りは、みんなに頼られてたとかで、とても良い人のようだった。
「へーその外来人の方は凄かったんですね」
「そうなんだよ。みんな帰るのを惜しんでいたね」
「まったくだ。ああ、そういえばあの人、俺達の為に本を残してくれたらしいぜ。思い出に、だってさ。今度読んでみるか」
「どんな本なんですか?」
「んーなんだったかな」
私が本の名前を聞いてみたら、常連さんは暫く考え込んでしまった。それくらい聞き馴染みのない本のようだった。
料理本とかなら良かったのにな、なんて考えていたら、常連さんが突然、あ、と喋り、何かを思い出したような顔になった。
「思い出せました?」
「あーうん。やっと思い出したよ。確かね」
筋トレ本、って言うらしい。
「へー」
変わった名前の本だなと、ただそう思った。
「えっと、ごめんなさい、ちょっと分からないです……」
「そっかーまあ仕方ない。でも、最近は気にする人多いし、お品書きに書いておいた方がいいかもよ。」
「え、ああ、はい……」
なんて会話もこれで3日連続だった。いい加減うんざりしていた。ここ最近、妙なお客さんが多くて、接客に対して全くと言って良いほど気乗りしなかった。
「かろりー」とか「たんぱくしつ」っていうのは如何やら食べ物に入ってる栄養とかの話らしい。最初に聞かれた時、単語の意味が分からなくて聞き返してみたら、そんなような事をさぞ自慢気に捲し立てられた。大体5分くらい経過してもまだ終わらなそうなものだから、流石に上手い具合に話を切り上げさせたけど、まあそのくらい熱く語れる程には大事なものらしい。
大事なのは結構。別にそれはいい。けれど、それをたかが居酒屋に表記させる事を求めるのは、ちょっとやりすぎじゃないかなって思う。お品書きに書けって、一品ごとにそんなのを測る労力を考えると本当にやりたくない。想像力がないんかな。そんなめんどくさい事をやらせるってほんと何様? ああ、お客様か……。
「それにしてもお品書きが品名だけってのはもう鯢呑亭だけだよな。シンプルで見やすいけど」
「え! そうななんですか? もしかしてみんなそのかろりーとやらを書いてるの?」
「そうだねえ。大体何処も書いてあるんじゃない? 俺は今増量中だからそこまで気にしないけど、減量中でカリカリしてる奴らはカロリー表とずっと睨めっこしてるよ」
「嘘でしょ……」
何がどうしてそんな事態になったんだろう。最近店の外に殆ど出てなかったから(どこぞの鬼やら狸やらのせいで昼も夜も働いていたため)、里の雰囲気が全く分からない。確かに、増量だの減量だの何だのと、そういう言葉を露骨に聞くようにはなったけど、せいぜい店に訪れるお客さんの話しか知らなかったし、そんな里のお店全部の雰囲気が変わるような事になってるなんて知らなかった。
「もしかして異変なのかな……」
ふと、そんな事を思った。もしそうなら霊夢さんに相談しないと。もしかしたら里の異変を察知して既に動いているかもしれない。そしたらみんながこんな風になってる原因も分かるかもしれないし、とにかく、明日の昼にでも博麗神社に向かってみる事にした。
お昼頃、神社に向かう前に里の中を散策してみた。なんか、気の所為かもしれないけど、すれ違う人みんな、平均的な体型と比較して身体が大きい気がする。それも太ったというよりかは、なんかこう、ゴツゴツしてるような? 顔とかは細いままだし。しかも、どういう訳か、結構な割合の人がぴったりとした服を着てる。体のラインが丸見えで、なんかえっちだ。
「私が外に出てない間に一体何があったというの……」
大通りの店には「ぷろていん」っていう謎の薬みたいなものが売られているし、みんなこぞってその薬もどきを品定めしている。路地裏を見れば、完全に薬が売られていて、注射器とかが転がっていた。風の噂によると「すてろいど」と言うらしい。どうやら健康被害を招くような副作用があるらしく、里の中だと忌避されているとのこと。それでも自分の限界を知る為に手を出す人や安易な気持ちで手を出してしまう人が後を絶えないらしい。
そんな事も風の噂で流れてくるのかって? そりゃ風の噂どころか何処行ってもみんなそんな話しかしてないんだもん。路地裏に近付いただけで聞いてもないの忠告してくる人が3、4人くらいもいたし。「お嬢ちゃんにはまだ早い」とか「まずはナチュラルで習慣づけるところからだよ」とか、なんかそんなこと言ってくる。みんな良い人ではあるんだろうけど、もう喋る話題が全部同じでそろそろ頭がおかしくなってきそうだった。
まあつまり、里を回って気付いたことは、この里は「筋トレ」とやらに支配されているらしい。みんな動機はどうあれ、その行為にハマっているらしかった。こんな事はあり得ない。いかに里の人間達が衆愚だとしても、揃いも揃って同じ事に熱中するものだろうか。
「やっぱり異変だよね。急いで霊夢さんのところに行かなきゃ」
確信を抱いて、私は急いで里を飛び出した。
神社に着くと霊夢さんが境内にいた。そして筋トレをしていた。私は踵を返すことを決めた。しかし回り込まれてしまった。
「ちょっと、何で逃げるのよ。ここに来るって事は何か用事があったんでしょ」
「その用事はたった今無くなりました。異変に屈した霊夢さんに用はないです。魔理沙さんか紅魔館のメイドさんにでも頼みに行きます」
「え、異変があるの? それなら本職の私がやるべきじゃん」
「ですから、その異変に屈した貴方に頼む意味はもうないんですよ」
「私は異変に屈してなんてないわよ」
「現在進行形で屈してますから」
「屈する……? ああ、スクワットの事? 確かに体曲げてるもんね」
「帰ります」
冗談だって、と霊夢さんが笑いながら謝ってきた。全然冗談に思えなかった。だって今もそのスクワットととやらをやってるし。けど、とりあえず話は聞いてみないとこの幻想郷に何が起きているかは分からないままだから、仕方なく帰るのはやめる事にした。
私は霊夢さんに人里の様子を話した。みんな揃って「じむ」という謎の単語を喋っては、謎の建物に入っていく事。お互いの体を見せ合いながら褒め称えあっている事。挙げ句の果てには、その輪の中にありのままの姿をした妖怪も混じっている事。
話していて未だに信じられないでいる。あり得ない光景が里の中で広がっているのだ。
「ってことなんです! こんなの異変以外あり得ないですよ!」
「ああ、それ異変じゃないわよ」
「分かりました。帰ります」
「ちょ、ちょっと話を聞いてよ。みんながこうなったのもちゃんと経緯があるんだから。まったく、美宵ちゃんって思ったより短気なのね」
「いや、境内で不審な動きをしてる人の話なんて誰が信じると思います?」
「ひどい」
霊夢さんの言い分としては、どうやらマッチョなる人間が幻想郷に迷い込んでしまった事がきっかけらしい。それは、はち切れんばかりの筋肉を携え、己の研鑽に意識を向け続ける男だったとのこと。見た目はひどく恐ろしいが、これが意外な事に想像以上に優しく、寧ろ里の人間の手伝いなんかもして、いつしか皆から好かれるような立場になったという。
「そんな馬鹿な。それだけ大きな筋肉を持ってるって妖怪ですよ。人間じゃ無理です」
「それがそうでもないらしいのよ。外の世界ではマッチョの人って別にそこまで珍しくはないんだってさ」
「ええ? どうなってるんですかそれ。魔境じゃないですか」
「写真とか見せてもらったけど筋肉まみれの人いっぱい居たわよ。なんか筋肉の大きさを競い合ってそれでお金もらってる人もいるらしいし」
「えー変わってますね。外の世界って」
結局、マッチョの人は外の世界に帰ってしまったらしい。里の人間達は彼が帰る事をひどく惜しんだという。そのくらい、彼は里の人間から好かれていたし、頼りにされていたのだ。
しかし彼は帰る前に、里に対しトレーニング方法や必要な栄養素を記載した筋トレ本を寄贈していった。里の人間はせっかくあの彼が残してくれた物だからと、みんなでその本を読む事にしたらしい。
そしてこれが、里の人間に大ウケした。酒と流行りに乗るくらいしかやる事のない無趣味で中身のない人間には、何か崇高な行為として筋トレが映ったらしい。重い物を持ち上げる事に快感を覚える者、鍛えた身体を認められる事で承認欲求を満たす者、異性に好かれようとする者。動機は様々だか、皆それぞれ筋トレに熱中していったのだ。
「かくいう私も筋トレ楽しくてさ、やればやるほど成果が出るんだもん。一生懸命頑張る理由ってこういうのが楽しいからなのね。私ようやく分かったわ」
「努力に目覚めるのは結構ですが、良い加減現実に向けて目も覚ましてくださいよ。里に妖怪が身分も隠さずに出入りしてるんですよ? 大問題じゃないですか」
「確かに問題だけど、今はステロイドが横行してる方がよっぽど重大なのよ。人体に悪いしね。それに、出入りしてる奴は基本的に筋肉が認められた奴だけだし、まあ大丈夫でしょ」
「それっぽい理屈みたいですけど後半は破綻してますからね。何ですか筋肉が認められた奴って。おかしいでしょ」
「えーだってほら、例えば紅魔館の門番とかめっちゃ良いお尻してるじゃん? ああいうのがいるとみんなやる気出るんだってさ。憧れとかそういうのでね。私もちょっと羨ましいし、だから今スクワット頑張ってるのよ」
「はあ……そうですか」
お尻かあ。確かに形が綺麗だと足も長く見えるし、なんかかっこいい。でも所詮、お尻に目を向けるやつなんて貧乳だけだと思う。自分にそっちの魅力がないから、仕方なくそっちにいくってだけ。私は勝ち組だから今まで気にした事なかったけど、確かに霊夢さんはそういう思考回路になってもおかしくはないか。
「ねえ、今とんでもなく失礼なこと考えてない?」
「いえ、霊夢さんは細くて可愛いから今のままで良いのにって考えてました」
「次に碌でもない事考えてたらお店に美宵ちゃんの事言いつけるわよ」
「ごめんなさい。ほんとに勘弁して下さい」
めちゃくちゃ睨まれた。こういう時の霊夢さんは本当に怖い。どんなに筋肉で頭がいっぱいになっても、やはり霊夢さんは霊夢さんだった。
「とにかく、里がおかしくなった理由は分かりましたよ。ほんとに異変じゃないってことも。そして皆さんがとんでもなく馬鹿なこともです」
「馬鹿って何よ馬鹿って。人が何を好きになろうが別に良いじゃないの」
「幻想郷のシステムが崩壊しそうなのに放ったらかしにしてるのが問題なんですよ! 賢者の人達は何やってるんですか全く」
「一応大丈夫なように策は打ってるみたいだけど、今んところは面白いから放置してるっぽい」
「なんですかそれ、どうかしてますよ」
「紫なんてこの前男連れ込んだらしいわよ。なんか腹筋が好きなんだって。やっぱスキマ妖怪だし割れ目が好きなんでしょうね」
「はあ……なんか幻滅しました。割れ目が好きなら、女の形してるんだし自分の股でも見とけば良いじゃないですか」
「美宵ちゃん? 信じられないぐらい品がないこと言ってる自覚はあります?」
「良いんです。どうせ霊夢さんが酔った時にでも記憶消しとくんで……は!」
そうだ。私の能力で筋トレに関係する記憶を上手い具合に隠蔽すれば良いんだ。そうすればみんな元に戻るはず。お店にやってきた人間の記憶を操り、徐々に正常な人達を増やしていく。里の人達みんながまともに戻ればば、それに続いて騒ぎに乗じていた妖怪達も落ち着くだろう。
賢者の策が何であれ、このままでは、いつこの事態が収まるのか全く想定できない。そうこうしてる内に店主さんの気が狂って、お品書きの魔改造が着手される可能性だってある。そんな事が始まったら何と面倒な作業になることか。
こうしちゃいられない。もうここでの用事は済んだし、急いでお店に帰って力を使う準備をしないと。
「霊夢さん、私帰ります。私がこの異変を解決しますから」
「いきなりどうしたのよ。さっきから言ってるけどこれは異変じゃ、あ! ちょっと美宵ちゃん!?」
霊夢さんの弁明が長くなりそうだったので、無視して神社を飛び出した。ああいう手合いは長々と言い訳がましい事を言っては言いくるめようとしてくるので、早々に切り上げるか、別の話題に変えてやるのが好ましい。これも日頃の接客で身につけた経験則である。
案の定、霊夢さんは私めがけて何かごちゃごちゃと何か叫んでいた。筋トレは悪いものではないのだの、筋トレしたら代謝が上がって痩せるだの、痩せたらその無駄にでかい胸が適正サイズまで萎んで楽になるだの……、だから何だってんだうるさいな。本気で店出禁にしたろか。
もう霊夢さんの事はどうでもいいとして、善は急げだ。私には大義が出来た。この好きでもなかった己の力で皆を救い、元の幻想郷を取り戻すのだ。
霊夢さんから経緯を聞いて数日が経過した。計画は順調である……筈だった。
初めは良かった。幸いうちのお店は結構人気なので人の出入りは多かった。お店に来たお客さんに対して筋トレに関する記憶を消し続ける日々を過ごした。しかし、何十人かの記憶を弄り続けた矢先、違和感を覚えた。
「あれ、新しいお客さんが来ない……?」
お店に訪れるお客さんが固定化されていたのだ。謂わば常連客しか居ない店。これじゃあ、人里を正常に戻すには到底足りない数字だった。
「何でだろう。うちのお店人気の筈なのに、もしかして、人気なくなっちゃったの……?」
こういう時、店側の目線から見ても原因には辿り着けない。自分達にとってどんなに素晴らしい環境を用意しても、それがみんなに刺さらなければ、お客さんは増えていかない。私はよくお店に来てくれている常連の2人組に、それとなく理由を聞いてみることにした。ちなみに、この2人は私が筋トレの記憶を消した記念すべき第1号と第2号の方である。
「んー、俺らもよく分からないな、あ、でもみんな、なぜか最近酒飲まなくなっちゃったんだよな」
「確かに。俺が誘っても最近みんな断るんだよ。何でも筋肉が分解しちゃうとか何とか。意味分かんねえ。最近里の奴らみんなおかしな格好してるし、妙にでかいし、なんかもう恐ろしくて出歩けねえよ」
みんなお酒を飲まなくなっただって? そんな、私の能力と相性が悪すぎる。どうやら話を聞いているうちに分かったのだが、お酒というのは筋肉にとって良くないらしい。筋トレに支配されている愚民どもは行動の全てを筋肉へ優先させている。それはここ暫くでもう嫌なくらい理解出来た。でもだからこそ、皆お酒を飲まなくなっていたのだ。
ということは、私がお店で相手してたのは、筋トレ民の中でも中途半端な人だけだったってことだ。完全に盲点だった。幻想郷の住民は基本的にみんなお酒が好きだ。だから、お酒を飲んで酔っ払ったところを見計らって記憶を消す作戦は完璧な筈だった。それがどうだ、みんなこぞって筋肉に頭を侵されてしまった。私達の命の源であった筈のお酒すら捨てて。私はもう、幻想郷を救えない。
「一体どうすればいいの……」
そう悩んでいた矢先の出来事だった。深夜の鯢呑亭、妖怪専門の居酒屋を開いていたら、1人の鬼がやってきた。まあ、案の定萃香さんだった。
「この店はまだまともみたいだな。助かったよ」
「それもいつ駄目になるか分かったもんじゃないですけどね」
どうやら萃香さんとしてもこの里の現状に不満があるらしい。乱暴に椅子を引いて席に着く。相当苛立っているようで、普段よりも酒を煽るペースが早かった。
「全く、どいつもこいつもつまらない。みんな酒を辞めて健康になってく。別にそういう奴がいても良いんだ。ただ全員がそうなったら面白くないだろう? 霊夢だって飲まれちまった。そこらの妖怪だってそうさ。この惨劇に興味を示していないのは魔法使いの連中くらいだ。あいつらは魔法の事しか頭にない変態だからな」
「魔理沙さんは面白そうーって言いそうな気もしますけど」
「確かに最初は面白がってたな。けど、あいつだって求道者さ。自分の道に通ずるものがないから早々に飽きて家に引きこもってるよ。それにしても賢者の連中はさあ!」
「あの人達も大概ですよね。この前紫さんが男連れ込んでたって話聞きましたよ」
「あーそれ私も聞いた。腹筋に興奮する女は基本カスだよ。つまんないね。はあ、ほんとに駄目なんだよな、あいつは。一丁前に策を講じてるみたいな雰囲気出しといて、その過程で出る被害を全く考えてないんだ。今やどこ行っても宴会なんて無いんだぞ。つまらないったらありゃしない。私は何を楽しみにすれば良いんだって話だよ。くそ! ふざけんな! 誰でもいいから酔っ払いと喧嘩したいよ!」
矢継ぎ早に不満が湧いている。それはもう凄まじい程に。下手に止めると怒られるし、こういう時は話半分で流しておくのが吉だ。
それにしても、萃香さんも現状に納得していないこちら側の存在だった。それは嬉しい誤算だ。私の力ではどうにもならない事でも彼女の力を借りれば、この手詰まりの現状を打破できるかしれない。
「萃香さん、私も今の幻想郷は面白くないです。みんなお酒を飲まなくなってるし、このお店だって潰れちゃうかもしれません。それだけは絶対嫌です。萃香さんだってこのお店が無くなるのは嫌でしょ? なら力を貸してください」
「……ふん。いいだろう。どうせこっちもそのつもりで来たんだ」
「え、ほんとですか!」
「お前が里の連中の記憶を弄ってるのは知ってるよ。でもお前の力だけじゃ焼け石に水さ。記憶を消された連中もどうせまた筋トレとやらに飲まれてしまう。でも、私の力があれば話は別だ。里どころか幻想郷の皆を酔わせる事だって出来る、そしたらあとはお前の出番だろう? 」
いける。この人の力があれば、人里を、いや、幻想郷を元に戻せる筈だ。
「分かりました! そうと決まれば早速取りかかりましょう!」
「まあ待て。こっちにも準備がある」
萃香さんは、私の前に手を突き出した。焦るなとそう言いたいらしい。一体何をする為の準備なのだろう。
「酒を溜めるんだよ。私の中にね。」
「え、どういう事ですかそれ」
「私の力で酒気を幻想郷に広げまくるとするだろ? でもそんな事したら薄まり過ぎて妖怪どころか人間すら酔わせられない。だから、普段より遥かに酒を蓄える事で、それを無理やり可能にするのさ」
「めちゃくちゃゴリ押しじゃないですかそれ」
「そーだよ。だからここ最近はずっと酒を飲み続けてきたんだ。普段飲むよりもっともっと強い酒を浴びる程飲み続けた。そろそろ良い具合に仕上がってくる」
「そんな事して大丈夫なんですか? いくら鬼でも……」
「いや、本音を言うと流石にきつい。もう限界が近い。こんなに酔っ払うことなんて久しくなかったもん。もうさ、みんな一緒に飲んでくれないから一人で飲み続けてたんだけど、最初は良いんだよ。でも、流石に寂しくなってきちゃってさあ。こんな義務感で酒なんて飲みたくないよ。でも、私がやらないとみんなお酒飲んでくれないままだしさ、私だって嫌なんだよ! もうほんとに! でも、やらないとつまんないままだもん。だけど、1人で飲むのも限界なんだよ。寂しくてさあ。だからこの店来たんだよ。最後の仕上げに一緒に飲んでくれよ。なあ、頼むよ。ぶっちゃけ、もうやっても良いんだよ。でも、これで始めるのもなんか味気ないじゃんか。最後に2人で良い感じに飲んでから仕事しようよーなあ頼むよー」
何この人、だるすぎる。私と話す時ってもっと怖い感じのイメージだったのに。限界まで酔っ払うとこの人こんなめんどくさくなるのか。いや、まあちょっと可愛い感じもあるけど、でもあまりにもだる絡みが過ぎる。ほんとにずっと泣き言しか話さないし、なんかちょっとどうして良いか分からなくなってきてしまった。
「分かった! 分かりましたから! 最後の仕上げで一緒に飲みますよ。店は閉めますから2人だけですけど、いいですよね」
「ほんとかあ! やったぜ! やっと誰かと話しながら酒が飲めるよう!」
頭が働かなくなって、そう安請け合いしてしまった。まあ可哀想だし、これから働いてもらうわけだから、これくらいは仕方ないかも。鬼の泣き言なんて滅多に見れるものじゃないから珍しいもの見たさに付き合うのもいいかもしれない。
私は急いで店を閉める準備をした。もし他の妖怪が来たら、萃香さんのあられもない姿を見られてしまう。それは彼女の名誉的にも憚られる事だった。
「さあ、店も閉めましたし! 今日は飲みますよ!」
「よっしゃあ、飲むぞ!」
そう言って二人で乾杯した。ここ最近はずっと苛々してたからそれに比べたら楽しいかもと思った。明日に向けて英気を養うのも悪くない。今夜だけは、弱りきった萃香さんと朝まで飲み明かすことにした。
で、誰? 鬼と飲もうなんて思ったやつ。
昨日の出来事を心底後悔している。めちゃくちゃ気持ち悪い。頭も痛過ぎてとてもじゃないがまともに歩けない。ほんとに頭が悪いことをした。こんな事なら筋肉達と筋トレすればよかったかも。
私はお店の中で潰れていた。幸い今日は店が休みだったから店主さんにも無様を晒さずに済んだけど、それにしても気分が悪い朝だった。
萃香さんは泣きながら酒を飲み続けていた。あの人は本物の化け物だ。限界と言ってからまだ飲んでいる。しかも泣いている理由ってのも酔いの辛さよりも私が潰れて1人で飲まなければいけないのが悲しくて泣いているらしかった。
「朝っぱらから泣き腫らしても飲んでるってどういう事よ……」
涙を見せるのは夜だと相場が決まっているのに。どうやらこの人には朝も夜もないらしかった。
私は重い身体に鞭を打って萃香さんの肩を組み、店から引っ張り出した。そろそろ計画を進めないと本当にただ酔い潰れただけになってしまう。
「ほら! そろそろ行きますよ。みんなと一緒にお酒飲めるようにするんでしょ」
「分かった、やるから乱暴にしないで。吐き気してきた。」
「我慢してください。私だって吐いて楽になりたいです」
何とか説得し、2人で里を出た。里の人間達に見つからないようにゆっくりと空を飛び、幻想郷が見渡せる高度まで昇り続ける。
「そろそろかな」
萃香さんがそう呟いた。その瞬間、彼女の身体が霧状に薄まっていく。人の形が溶けていき、そうして幻想郷中を包み込み始めた。その様は何だか美しいとすら感じられた。霧に包まれる原風景というのもどこか趣がある。
と、思ったのも束の間、
「ん? あれ、なんか、ってうわ! めっちゃお酒臭い!」
そう、萃香さんから生じた霧はとんでもなく酒臭かった。考えてみればそうだ。幻想郷のみんなを酔わせる為、萃香さんは体内に限界までお酒を溜め込んだのだ。その萃香さんが作った霧から、お酒の匂いがしない訳がない。
ほんの僅かな時間でもその霧を美しいと感じた自分が馬鹿だった。どうしようもないような作戦なのを今になってちゃんと理解出来た。
里の方を見ると、人間達が呻き苦しんでいる。耳を澄ますと筋肉がーとか溶けるーとかそんなような叫びを上げていた。お酒の匂いを感じ取ったのだろう。確か、お酒は筋肉を壊すんだっけか。今や筋肉で頭がいっぱいの彼等にとってはこの有様は天変地異にも等しいかもしれない。
まあそれも時間の問題だ。もう暫くすれば、みんな酒気に満ちていく。酔ってしまえば後はこっちのものなのだ。
そうこうしていくうちに時間が経ち、人々の悲鳴も収まっていった。それに伴い、徐々に酔っ払いが増えていくのを感じていた。私はそれに合わせて皆の記憶を操作し始めた。
二日酔いが響くがそんなことも言ってられない。お店の為にもこんなところで諦める訳には行かないのだ。
「そこまでよ」
ふと誰かの声が聞こえた。聞き覚えのある声だった。
「……霊夢さん」
振り返ると、霊夢さんが私を睨みつけていた。その顔は薄らだが赤く染まり、ほろ酔い程度と見てとれる。
「まさか貴方が異変を起こすとはね。人間に危害は加えない妖怪だと思っていたのに」
「危害なんて加えていません。私はただ、元の幻想郷に戻そうとしてるだけなんです」
「元の幻想郷? 前にも言ったけどみんなが筋トレにハマったのは異変でも何でもない。ただ、みんな好きになったものが同じだっただけよ。それを壊そうというのなら、それこそ異変だわ」
「そう言われるとちょっと否定出来ない……」
「私は博麗の巫女! 異変を解決するのが私の仕事だ! そして私の筋肉を守る為にも! 今ここでお前達を退治する!」
そう叫ぶと霊夢さんはめちゃくちゃ怖い顔でこちらに迫ってきた。まずい。霊夢さんの記憶を弄るにはもう少し酔わせないと。ほろ酔い程度では記憶を操作しようにも、まだ彼女の意識が強過ぎる。
「萃香さん!」
「そう来るだろうと思ってたよ、霊夢」
私が叫ぶと目の前に霧が集まりだして、萃香さんの姿が形作られた。どうやら萃香さんは霊夢さんが止めに来るのを見越していたらしい。私を庇うようにして、霊夢さんの前に立ち塞がった。
「萃香、今すぐこの霧を消しなさい。酒臭いったらありゃしないのよ。それに、アル中で死ぬ奴なんてでたら洒落にならないわ」
「ふん、嫌なことった。一滴も酒を飲まない、生真面目を通り越した狂人しかいないようなこの場所に何の価値がある? 何が筋肉だ、味噌滓どもめ。お前もだよ、霊夢。私は心底うんざりしている」
「私のどこに失望される要素があるのよ。正しい努力と自分を律する心! そうやって鍛えればみんな理想の自分に近付けるのよ。人間として立派な姿勢じゃない」
「それが面白くないんだよ! お前らのやってることは女々しすぎる。本物の鍛錬とは訳が違うんだ。皆、鍛えてるふりをしているだけのままごと程度で、さぞ立派になったと勘違いしている。揃いも揃って気持ちの悪い理想を抱えこみやがって、全員、とことん苦しめて死なせてやる!」
「ちょ、ちょっと萃香さん!」
まずい、熱くなっている。このままだと、とんでもないくらい大暴れをするかもしれない。何も私はそこまでを望んでいない。ただ、幻想郷が、人里が前のような姿に戻ってくれればいいだけなのに。
こうなったらやるしかない。失敗したら火に油を注ぐような一か八かの賭けだが、萃香さんの熱くなった頭を冷やすにはこれしか思いつかなかった。
霊夢さんと萃香さんは互いに向き合い、今にも撃ち合いを始めそうな、一触即発の状態だった。2人が動くその瞬間を見計らって、思いっきり息を吸う。そして、熱くなり過ぎて周囲が見えていない2人にも届く声量で、私は叫んだ。
「萃香さん! あんまり暴れるようなら、萃香さんの黒歴史全部暴露しますからね!」
「はあ!?」
萃香さんの動きが止まった。怒りの矛先が私に向けられる。でも、ここで中途半端に止めてしまえば事態は悪化するだけだ。全部喋る。霊夢さんが無事なうちにここでぶちまけるんだ。
「昨日私と飲んだ時、聞き飽きるくらい教えてくれてたじゃないですか。お酒でやらかした失敗談を。ほら、酔っ払っておねしょしちゃったとか、女友達の鬼と雰囲気でキスしちゃったとか、酔い潰れると泣き上戸になって甘えたくなっちゃうとかいっぱい喋ってくれましたよね。あ、あと昔モテたくて角の手入れして飾りとかも付けてたらしいじゃないですか。当時すごい不評だったらしいですけど。他にも萃香さん、好きな男のタイプも教えてくれましたよね。胸板が厚い人だって、やっぱ筋肉好きなんじゃないですか。すごいノリノリで話してくれたし、良いですよね。みんなに話しちゃっても」
「ふざけんなまじで、本気で殺すぞ! あと胸が一番良いのは当然だろ! 腹筋好きなんてゴミカスだ! 」
ひたすらに頭を回転させ、そして懸命に口を動かした。萃香さんがこちらに向かってくるが、少しでも躊躇してはいけない。他人に握られたら困る情報全てを霊夢さんに聞いてもらう。少しでも許容出来る範囲の情報量なら、私だけが萃香さんに殺されてお終いだ。けど、とことんまで喋り尽くせば、萃香さんは、私と霊夢さん、両方を殺さないといけなくなる。そんな事は彼女だって望んではいない。そこで交渉を持ち掛けるのだ。私の記憶を操る能力。それを手札から提示する事で萃香さんに私の言うことを聞いてもらう。
「まだまだネタはありますよ。ほら、あの時だって」
「良い加減にしろ! 何がみんなにバラすだ。霊夢が居る時点でそれはもう脅しを通り越してるんだ。最悪だよもう。私はどこまで喋っちまったんだ。」
「忘れたんですか? 私の力。霊夢さんの記憶を消せば良いんですよ。萃香さんがちゃんと動いてくれさえすれば、都合の悪い所は忘れさせますから。それに、私を殺したら、あのお店はもう開けられないですよ。それでもいいんですか?」
「考えたな、ちくしょう」
はあ、とため息を溢すと、萃香さんは怒りを鎮めてくれた。危なかった、なんとか一命は取り留めた。
「それで、私は霊夢を酔わせればいいのか」
「はい。出来ますか?」
「酒気はもう殆ど使い切っちまったけど、あいつ一人くらいなら問題ないね」
「お願いします。私はみんなの酔いが覚める前に何とかやってみせるので、霊夢さんを酔い潰したら教えて下さい」
「しょうがないな、後で覚えておけよ」
「そんなこと言って。もう甘えさせてあげませんからね」
「……組む相手間違えたわ」
萃香さんは、冷静に霊夢さんを見据えると飛び出していった。これでとりあえずは大丈夫な筈。霊夢さんを抑え込むのは萃香さんに任せて、私は幻想郷全域での記憶操作を再開した。
やってみて気付いたが、思っていた以上に数が多過ぎた。筋トレ関係の記憶だけを消すとなると、かなり緻密な操作だったし、そんな行為は1人ずつでの作業じゃないと到底できない。けれど、そんなペースじゃみんなの酔いが覚めるまでには明らかに間に合わなかった。
「どうしたら……」
「おい、こっちはもう終わったぞ」
「え、ほんとですか」
「なんだ。まだ終わってなかったのか。そろそろまずいんじゃないか」
驚いて萃香さんの方を見ると、酔い潰れた霊夢さんが抱えられていた。死んでもいないようだし、どうやら無事に終わったらしい。とりあえずは安心なようで胸を撫で下ろした。
しかし、萃香さんの指摘は全くもってその通りであった。だが、私の力ではこれが限界で、これ以上はどうしようもない。とりあえず、事情を正直に説明して、萃香さんからも何か案を出してもらうしかないと思った。
現状を丁寧に説明すると、萃香さんは呆れたような面倒くさそうな表情をして私を叱った。
「何をそんなちまちまやってるんだよ。こんな規模なんだぞ、もう一気にここ半年分くらいの記憶を消しちゃえよ」
「そんな事したら、どんな後遺症が起きるか分かりませんよ!」
「知らん、どっちにしろ、今のままじゃ無理なんだからやり方を変えるしかないだろ」
「……分かりました。やってみます」
悔しいが言い返せない。確かに、大雑把にここ半年(筋トレが流行り出したのが多分そのくらい)の記憶を消しまっても元の幻想郷には戻るだろう。リスクもあるが、これに賭けるしかなかった。
緻密な記憶操作でなければ、多人数でもいけなくはない。時間は限られている。範囲は霧で萃香さんが覆っていた幻想郷全域。伊吹瓢に住んでから、妖怪としての格が随分と上がった。今の調子ならこれくらいは何とか出来る筈だ。
「ふう。何とか出来そうかい。じゃあ、私は先に勝利の祝杯をいただこうかな」
「ええ、萃香さんの仕事は終わりました。あとは私に任せて下さい」
「へいへい、じゃあ私はその様子でも肴にしながら飲むとするよ」
一歩一歩、着実に工程を踏んでいく。能力を行使する範囲の指定。そして記憶を消す期間の設定。やる事は大まかだが、記憶操作にも体力は使う。これだけの規模だ。失敗した場合、次はもうない。
「あーなんか今日は酒が回るの早いなあ。久々に頑張ったからかな」
「ほんと貴方はどうなってるんですか。私、しばらくはお酒飲みたくないって思うくらい飲んだのに」
「あ、ほんとに良い感じに酔ってきた。気持ちいいなあ」
「えー本当に大丈夫ですか? 絶対無茶やったのが尾を引いてますよね」
「うるさいなあ、こんだけすぐ酔える日なんて珍しいんだから、たまには良いだろ」
なんて、お喋りをしていたらそろそろ作業の終盤に到達した。諸々の準備は済んだ。あとは実際に記憶を消すだけである。
「さて、萃香さん、そろそろみんなの記憶を消しますよ」
「あいよー」
これでやっと終わる。苦しい事も多かったが、元の幻想郷に戻り、お品書き大改造もお店存続の危機もないような、みんなでお酒を楽しめる毎日を過ごせるのだ。
しかし、何か違和感がある。その違和感の正体はわからないが、なにか忘れているようなそんな感覚。ただそんな事はない筈だ。作業工程は完璧だった筈。いくらお喋りをしながらだと言っても確認は何度もした。不備はない。これだけの事をするのが初めてだから、心のどこかで不安があるだけだ。しかし、そんな事で躊躇しても幻想郷は帰ってこない。
一抹の不安を無視し、覚悟を決めた。自分の意識全てを集中し、そして、その瞬間に一気に能力を開放した。と、同時に、
「あ」
気付いてしまった。違和感の正体を。
「なんだ? なんか忘れ物でもしたか?」
「はい、重大な作業を忘れてました」
「おい、何だそれ」
「私達を能力の対象から抜くのを忘れました」
「は、お前、それって自滅……」
「ええ、個人じゃなく範囲で指定したが故の失敗です。しくじりました! ごめんなさい!」
「おい! どうにかして……」
「許して下さい! もう間に合わ……」
萃香さんが何かを叫んだ、そしてその刹那、私達の意識は闇に沈んだ。そして、何か嫌な夢を見た気がする。けれども、その夢も今ある意識も、もう二度と日の目を見る事はなかった。
最近、奇妙な出来事があった。人妖問わず、幻想郷に存在するみんなが意識を失っていた事態が発生したらしい。原因は不明だった。しかもそれだけじゃなくて、覚えのない物が置いてあったり、逆にあるはずの物が無くなっていたり、とにかく、ひどい思い違いをしていたような、妙な事態が頻発したとのこと。
どこかの誰かが、これらは思い違いではなく、みんなの記憶が消されたからだとか、歴史が無かったことにされたとか言っていたけど、真相は分からなかった。なんせそれを知る人が現れなかったから。ただ、みんなの生活に大した影響は無かったためか、みんなこの奇妙な出来事のことを忘れ、元の生活に戻っていった。
そういえば数日前に、1人の外来人が外の世界に帰って行ったらしい。店に来たわけでもないし会ったことはなかったが、常連さんの噂で聞いている限りは、みんなに頼られてたとかで、とても良い人のようだった。
「へーその外来人の方は凄かったんですね」
「そうなんだよ。みんな帰るのを惜しんでいたね」
「まったくだ。ああ、そういえばあの人、俺達の為に本を残してくれたらしいぜ。思い出に、だってさ。今度読んでみるか」
「どんな本なんですか?」
「んーなんだったかな」
私が本の名前を聞いてみたら、常連さんは暫く考え込んでしまった。それくらい聞き馴染みのない本のようだった。
料理本とかなら良かったのにな、なんて考えていたら、常連さんが突然、あ、と喋り、何かを思い出したような顔になった。
「思い出せました?」
「あーうん。やっと思い出したよ。確かね」
筋トレ本、って言うらしい。
「へー」
変わった名前の本だなと、ただそう思った。