「小町。閻魔の仕事をやってみたいとは思いませんか」
「本っ当に勘弁してください」
それは、げに美しき土下座であった。
心の込められたものは美しい。それは陶器や絵画に限らず、箸や鰹節といった消耗品にも言えることである。世に満ちた魂の結晶の、なんと美しいことか。
そのようなわけで、桜でも愛でるような優しげな瞳で、映姫様は眼前に三つ指立てて必死に願い込んでいる死神の少女を眺めていた。けれどその、透き通る風さえ恥じらうような映姫の美しい笑顔も、額を床と熱く抱擁させた小町には見えない。
「小町、遠慮は無用ですよ」
「是非に、是非にそんなことを仰らないでいただきたく存じます」
必死である。
それもその筈で、現在小町は危機を感じていたのだ。咲いた花ほど美しい満面の笑みも、今の小町には闇夜に惑う人を笑う犬にしか見えないでいた。だから、目を合わせない。目を合わせれば食い殺されると、本能で感じているのだ。
そっと小町の横に映姫は立ち、ゆっくりと小町を起こした。目を見ないようにとしていた小町の断り方は、ここにきて打ち砕かれる。
目が合った。その途端、映姫は流れる水のように澄んだ、けれど跳ね返す陽光のようにギラギラと獲物を狙うような視線を投げかける。そんな無邪気な意志は蛇のように小町の肩を抱き、隙あらば丸飲んでくれようぞとばかりにのし掛かる。ぞくりと小町は肩を震わせた。
「嫌ですね、そこまで真剣にならなくてもいいんですよ。ほんの少しの間じゃないですか。それに、やることといったらこの悔悟の棒の裏に書かれたことを読み上げれば良いだけです。ね、判りやすいでしょう」
「いえ、いえ! 無理ですから、私に閻魔代理なんて!」
映姫は、小町に自分の仕事を押し付けようとしていたのである。
そんな無邪気な映姫に対し、小町は何故こうも必死なのか。簡単に言えば、胃が保たないからだ。過去、映姫の願いを聞き入れて、胃を痛めなかったことなどほとんどない。
船を漕ぎたい。あれは、その一言から始まった。小町の制止を少しも聞かず見よう見まねで船を漕ぎ出して、ものの見事に転覆させた記憶はまだ新しい。あの時ほど血の気の引いた経験を、幸か不幸か小町はまだ味わったことはない。
なお、沈んでいく映姫を必死になって助けた直後に言われた言葉が「これは無理だわ。小町って凄いわね」だったものだから、小町は完全に腰を抜かしてしまった。そして、二度と他人に船のオールは持たせまいと誓うに充分な出来事であった。
その他にもいくつかあった。無邪気な好奇心。その異常なまでの破壊力を、小町は身を以て味わった。いや、味わい続けている。四季が巡るよりも早いペースで生まれる映姫の思いつきに、小町は翻弄させられ続けていた。
数々の艱難辛苦を味わい、もう味わいたくないと思い続けて今に至る。その為、今度こそはと映姫の言葉を拒絶する。無理です、できません、勘弁してください。そういう言葉を繰り返し、諦めてくれることを小町は強く願った。
そしてそんな淡い願いは……
「はい、悔悟の棒です」
「……はい」
神なんていねぇ。冬。
とまぁ、見事に断たれたわけである。神が神の救いを諦めたという、少しもの悲しい出来事となった。
大粒の涙をこぼす死神に、良きかな良きかなと笑う閻魔。映姫に悪意がない分、質の悪さはむしろ最上級であった。
「よろしく頼みました。ほんの……」
天井を見上げ、時間を計算する。そして計算を終えると、輝かしい笑顔で告げる。
「一刻ほどで戻ります」
「え、一刻って二時間!? 待って、それはいくらなんでも!」
血の気が引いた顔で焦り声を小町が上げるが、映姫には馬耳東風。
「ま、待って四季様ぁぁぁぁぁ!」
悲壮感あふるる悲鳴を背に、映姫は悠然と部屋を後にしたのであった。
小町の苦難は終わらない。
この後の二時間、小町は泣きじゃくり、他の死神や閻魔にばれて叱られないかとびくびくしながら閻魔代行に勤めた。それは裁かれる霊たちが慰めてしまうほどに、哀切溢れる状況であった。
が、そこは本編と関係ないので大きく割愛させていただくとする。
「そんなわけで、私がいなくても大丈夫なんです」
「……鬼」
「閻魔捕まえて言う科白ですか」
ここは博麗神社。話すは映姫、聞くは霊夢。
昼頃だというのに突然訪れた映姫に、閻魔も大晦日は休みなのかと問い掛けた答えが、今の話だったのである。
「死神も大変ね……って、船頭の仕事はないの?」
「小町も今日の宴会に出席するでしょう。ですから、早々に渡し終えていたそうです」
「そんな小町を使うってあんた」
何か言ってやりたいと思ったが、この我が道を往く閻魔に何を言っても無駄だろうと思い直すと、霊夢は深い溜め息を吐く他なかった。
映姫は温かな陽光を背に受け、無意味に神々しく微笑んでいる。この閻魔の性格を霊夢もよく知っている為、今更どうこう言うのは諦めている。
「それで、なんで神社に来たのよ。まだ早いわよ」
そう訪ねると、映姫は少しだけ真顔になってから、ふっと笑顔を見せる。
「初詣、ということです」
「それは年が明けてからの行事です」
即時に反応すると、映姫はくすくすと楽しげに笑う。
「それで、本当の用事は?」
「ですから、初詣ですよ」
「……はぁ?」
良く判らず鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしている霊夢を、おかしそうに微笑みを湛えながら映姫は見ていた。
「幾千万の生き物の願いを、元日に神様は聞き届けるのですよ。それは大仕事。ですから、一人くらい早めにやっても罰は当たらないでしょう」
「罰は当たらないと思うけど、それって、初詣の意味あるの?」
霊夢は軽い頭痛を憶える。
「確かに、今日と明日で年は変わる。でも、明日が今日の続きなことに変わりはありません。何もかもが白紙に戻るようなことはないでしょう」
「そう言われればそうだけど……それ言うと初詣の意味が」
「ふふ。それに、一番乗りなら願いが叶うかも知れないでしょう」
「……想像を絶するほどせこい」
霊夢が岩でも乗せられたかのように怠そうな顔で呆れると、それが面白いらしく、映姫は声を漏らして笑い続けた。
二人が連れ立って、神社の正面へと向かおうとすると、階段から新たに見覚えのある人物が表れた。風見幽香である。
ほくほくとした笑顔を浮かべ、普段通り軽い足取りで流れているように歩みを進める。その様は、花というより風に見えた。
そんな幽香に二人が気付いたが、二人よりも早く幽香が口を開いた。
「あら、霊夢……と、閻魔……」
霊夢から視線が映姫に移った途端、幽香の表情は目に見えて曇る。
「久しいですね、幽香」
「あら。お忙しいはずのあなたが、なんでここにいるのかしら」
「恐らくはあなたと同じ目的ではないでしょうか」
その言葉に、キッと幽香の目尻が細くなり、針に似た鋭さを視線が帯びる。
元々、あまりそりが合わない。幽香はそう思っていた。だからこそ、自分と同じことを目の前の閻魔が考えていると思うと、面白くなかったのだ。
「……気に食わないわ」
「そうなんですか」
周囲の空気が、少しだけざわめく。そんな中でも、映姫は平然と微笑んでいる。が、その微笑みからも、やはりそれなりの鋭さが放たれていた。
どちらも自然な格好で向き合っているだけだというのに、近づきたくない気配がやたら強く渦巻いている。そんな二人を見ると、霊夢は鬱陶しそうに頭を掻いてから、手にした箒をぱたぱたと振って見せた。
「弾幕ごっこなら余所でやってよ。せっかく掃除したんだから」
その言葉に、二人は威嚇を止める。ただし、微笑みながら、お互い目を逸らさない。
「一緒に初詣でもしますか。幽香」
「……まぁ、いいわよ」
すると、二人は特にぶつかり合うでもなく賽銭箱へと向かい、そっとお金を放り込むと手を合わせた。どちらも鐘は鳴らさない。
どっちかが不意打ちとかして弾幕ごっこになったらどう止めよう。そんなことを考えていたので、いささか拍子抜けな気持ちを味わいながら、ほっと一息を吐いた。
「でも、意外。幽香も願掛けとかするんだ」
一番になってまでしたいほどの願掛けって何なのだろう。そう思うと、霊夢は二人の願いごとが少しばかり気になった。が、こういうのは人に言ってはいけないのだと思うと、意識的に興味を外す。
少し長めの願掛けが終わると、二人は向かっていった時同様、特に目を合わせないものの、争うこともなく自然なままで歩いて戻ってきた。
「霊夢。絵馬、一つもらいますね」
「え? あ、はいはい。ちょっと待ってて……これね。書いたら渡して」
「判りました」
絵馬を受け取ると、とことこと映姫は書く場所へ歩いていき、備え付けのペンを走らせる。霖之助提供のマジックという代物だ。
絵馬を書き始めた映姫を見てから、そっと横に立つ幽香へと霊夢は視線を移す。
「臍曲げてるわね」
「出鼻を挫かれたから。癪に障るわ」
いつもとあまり変わらない顔だが、不満そうな顔。笑顔のままでいる辺り、気にくわないものの、嫌いというわけでもない様に見える。
霊夢は願い事は聞かないことにしていたが、幽香が少し不機嫌な理由が知りたくなり、少しだけ訊ねてみた。
「そんなに最初に願掛けしたかったの?」
「ん? あぁ、ん。まぁ、そんなところ」
微妙に濁った返事が返ってきた。
「……ん。そうだ」
と、突然幽香は傘を閉じると、霊夢の前に回り目線を合わせる。
「霊夢。私はしばらく神社の中で眠っているわ。あいつが帰って、霊夢が暇になったら起こして」
そう言うと、向日葵のような笑みを浮かべる。眠った後で霊夢に起こされる。それを想像すると、自然と笑みが明るくなった。誰かに起こされるという行為が、幽香は結構好きなのであった。
「暇なんて結構遠いと思うけど……まぁ、適当に起こすわ」
「うん。それじゃ、また後で」
手をひらひらと振りながら、幽香は神社へと入っていく。
勝手知ったる人の神社、という感じの背中。思わず霊夢の顔が引き攣ったが、いつものこととすぐに表情を戻す。
映姫の方を見ると、向かっていった時と同じ足取りで、今度は霊夢の前へと戻ってきた。
「さて。絵馬も書き終わったので、私はそろそろ戻りますね」
映姫が早速帰ると言うので、霊夢は少しぽかんとしてしまった。
「随分さっさと帰るのね」
霊夢がきょとんとした顔で返すと、映姫は少し困った顔を浮かべる。
「えぇ。今戻らないと、小町がばれていた場合に宴会に遅刻していまいますから」
ばれていた場合の説教の時間は考慮済みのようである。
霊夢はそっと、小町に頑張れとエールを送った。
「本当なら、いくらか料理を手伝いたいところですが、さすがにそんな時間もないですので。せめてと思って」
すると、映姫はそっと帽子を持ち上げて、中へと腕を差し込む。そして肘まで突っ込んでごそごそとやってから、映姫は目的のものを取り出して霊夢に差し出した。
「お酒と醤油と、あとお酢を」
「どうなってんのよあんたの帽子の中」
容量が未知な帽子であった。
「重いからしっかり持ってくださいね」
が、映姫は霊夢の驚きなどどこ吹く風と、次々取り出す一升瓶を手渡していく。
抱えるように、ぽいぽいと渡された三つの瓶を抱える。
「おっと。ありがとう……このお酒って」
値札付いてた。丸の数がすごかった。
「調理用です」
「うひゃぁ、高っ! 普通に飲んでいい?」
「普通に飲むなら別のお酒の方が美味しいですよ」
「あ、そっか。調理専用の酒なのか……」
少し残念に思える。が、お酒なら他の来客からの差し入れがないはずもなく、神社の貯蔵も随分とある。問題はないなと思うと、霊夢はその三つに対してお礼を言った。
「ありがとね」
「どういたしまして。美味しい料理を期待しています」
多大なプレッシャーを感じて、霊夢は苦笑いを浮かべてしまう。期待の数値は、まさに手渡された数々の総計額である。きっと醤油とお酢も高いに違いない。
手渡されたそれを、一旦霊夢は縁側に置くことにした。今の状態では、ろくに身動きが取れないから。
すると、手ぶらになった途端に、映姫が絵馬を差し出す。
「はい、絵馬」
「あ、はいはい。掛けておくわ」
その受け渡しが終わると、映姫は浮き上がり、空を見上げる。
「それでは、今度は月が見える頃に。今度は小町と一緒に来ます」
「小町によろしくね」
「はい」
清々しいが、なんとなく悪魔ちっくな笑みを返した映姫は、ゆっくりと空へ向かい、赤くなり始めた陽光の中に溶けていった。三途の川を越えずに帰れるらしいが、方法は未だに聞いたことはない。この移動は小町にはできないらしく、さすが閻魔ということなのだそうな。
その姿を見送ってから、絵馬の掛けられた場所まで向かい、そっと映姫の絵馬をその群れの中に収めた。
と、霊夢はふと、今掛けたばかりの絵馬に目を通す。
『仕事減りますように』
「……やる気ないなぁ」
心底呆れてしまう。
と、霊夢は自分が一人になったのだと感じた。またすぐ誰かが来るし、神社には幽香が眠っている。けれどたった今だけは、自分は孤独なのだと感じる。すると同時に、今の少し寂しい気持ちの所為か、今年が終わるということを改めて感じた。
「もう、一年が終わるのか」
長いような、短いような。気付けば今になっている。そう考えると光陰は、なるほど、矢よりも早いものであった。
霊夢はそっと、博麗神社を見上げる。それなりには歴史のある神社だ。屋根や柱はしっかりとしているが、それでもどこか朽ちてきている感じもする。一部の破壊工作によって新しく修繕されていたりする部分と比較すると、長い歳月を刻んだ木板は少しばかり痛々しい。手にした竹箒も、肝心の穂先が随分と削れて短くなっている。そろそろ寿命かも知れない。
それでも、握れば伝う温かさがある。神社の木も、新しい木材と争うことなく呼吸をしている。まだ、どちらもが口をそろえ「まだ早い」と笑っている。
そんな元気なご老体たちを、霊夢はそっと撫でる。
「来年もまた、よろしくね」
笑いかけると、どうも元気な神社全体が、波打つように喜びを表現したように思えた。その波動に、少しバランスを崩して尻餅をつきそうになってしまったほどだ。
「……元気すぎ」
呆れてばっかり。
どうにかバランスを立て直すと、霊夢は竹箒を立てかけて履き物を脱ぎ、貰った瓶を抱えると台所に向かう。料理の下準備はだいたい終わっている。あと忙しいのは仕上げだ。さすがに一人で全ては出来ないので助っ人たちに手伝っても貰うが、霊夢じゃないとできないことも多いので、今やっておいてしまわないといけない。
「さて。今年最後で来年最初の宴会の為に……」
包丁を手に、たすきを締めて食材を睨む。
じきに、様々な妖気が溢れ空気が濁る。神、人、妖怪、霊魂、入り乱れて混沌。
さぁ、年越しの百鬼夜行が始まる。締めくくりと口切りを兼ねる大行事。
霊夢は、花のように笑う。
「気張るとしますか」
誰しもが待ちかねた大宴会の香りが、既に薄く漂い始めていた。
仕事が減りますようにって……少しは休みを取ってのんびりしたいと
いうことでしょうか……?
小町はちょっと不幸でしたが、面白かったですよ。
誤字の報告。
>まさに手渡られた数々の~
ここだけ誤字してました。
正しくは「手渡された」ですよね。
不覚!
3人とも大好きです。
誰もが善行を積んで説教が短くなりますように
という願いなのかも知れません。
そういう意味だと実は至極真っ当な願掛けだと思います。
えーき様が新鮮で小町が面白かった。
無邪気というか、この映姫さまならちょっと好奇心でやらせるくらいのことはやりそうですね