当作品は作品集153『姉想いただ前へ』の設定を流用しています。
「ねえ、フランは海を見てみたい?」
とある成り行きから日課のようになってしまった本の朗読を終えたとき、こいしがそんなことを聞いてきた。
こいしと私は、私の部屋にあるテーブルに向かい合って座っている。テーブルには紅茶とお茶菓子であるクッキーの乗せられたお皿が置かれている。
今日読んだ本の中に海が出てきたからそんなことを聞いてきたんだろうか。
「うん、見れるなら見てみたい」
幻想郷に海はない。霧の湖という大きな湖はあるけど、本の中に描かれている海とはかけ離れているような気がする。
いわく、海とは広大なものであるらしい。
いわく、海とは全ての生き物の始まりであるらしい。
いわく、海とは美しくかつ恐ろしいものであるらしい。
何冊もの本を読み、いくつもの海の表現を見てきて私が海に抱いた印象というのはそんなものだった。きっとそれは表情豊かなもので一日中眺めていたって飽きないそんなものなんだろう。
さっき読んだ本の中でも、そんな感じのことが書いてあった。
「ふむふむ、そっかそっか」
私の答えを聞いて、こいしが浮かべたのは何やら意味ありげな表情。
「……こいし? まさか、海まで連れて行ってくれる、とか言わないよね?」
今の話の流れとこいしの反応から察するに、そういった感じのことを考えているという可能性はかなり高い。とはいえ、幻想郷を覆う博麗結界はそう簡単に越えられるものではないはずだ。
……こいしなら案外簡単にすり抜けてしまえるんじゃないだろうかと思えてしまうのが恐ろしいところだけど。
「さーてね」
こいしはそう言うと、クッキーを一枚掴んで口の中に放り込んだ。少し顔が幸せそうに緩む。そんな姿を隠さず見せてくれるのは、それだけ距離が縮まったということだろう。咲夜がいるときは、まだ表情の動きを隠そうとしているし。
こいしの意味ありげな態度が気にならないと言うと嘘になるけど、今のところさほど問題はなさそうだから気にしないことにする。
かなり口の堅いこいしが喋ろうとしないなら、私から聞き出すというのも難しいだろう。一度喋らないと決めると本当に全然喋ってくれないのだ。筋金入りの頑固者だから。
そう思って、私もクッキーを一枚手にして一口かじったのだった。
◆
こいしは私に本の朗読をしてほしいとよくせがんでくるけど、基本的には私とは正反対のアウトドア派で、散歩をすることの方が多い。こいしと友達になってからは、私も連れ回されることが多くなった。
景色を見るのは好きだから、そうやって連れ回されることはいやではなかった。
それに、こいしは他人が苦手だから誰もいないような場所を選んで歩く。他人と付き合うのが苦手な私にとっても、それはありがたかった。
でも、問題もある。
いくつかあるけど、その中でも一番大きいのは、道なき道を無理矢理通ろうとするような無茶をしでかそうとすること。
散歩の間は力を使って無意識に歩いてるようで、自分自身どこに行くかもわからないそうだ。だから、私のところに来たときに服が汚れてたり、一緒に歩いていると森の中へと連れ込まれそうになったりする。
全く先の見えない森の中へと入っていこうとする度に、私はこいしの手を引いてその足を止めさせている。
そして、今日もまたこいしは森の中へと入っていこうとしていた。わざわざ博麗神社の裏までまわって。
そこまではまだいつも通りだ。妙な手間をかけて、無茶をしようとすることもよくある。だから、手を引っ張って止めさせればいい。
でも、今回は引っ張っても止まらなかった。引きずってでも連れていこうとしているかのように足を進めようとしている。
ただし、身長はこいしより小さくても、力に関しては私の方が圧倒的に強いようで、片手で日傘を持っていてもこいしを止めていられることができている。
「こいし?」
いつまでも終わりそうにない引っ張り合いを続けていても仕方ないから声をかけてみる。
そうすると、こいしは足を止めてこちらへと振り返ってきた。翠色の瞳に予想していなかった強い意志が感じられる光があったことに若干ながらも驚いてしまう。
「フラン、私はどうしてもこの先に行きたい」
声にも強い意志が込められている。普段は割とふわふわとした雰囲気のこいしには珍しいことだ。
「……なんで?」
強い意志に圧倒されて無条件に頷いてしまいそうになりながらも、それだけは聞き出そうとしてみる。相手がこいしだからこそ、突拍子のない行動に振り回されないためにできるだけ情報を集めたい。
「この先に面白そうなものがあるから。フランは私のことを信じてついてきて?」
首を傾げながらそう聞いてくる。でも、何をしでかすかわからないというのがわかっているから信じるのは難しい。
でも、その一方でこいしが私に対して悪感情を抱いていないというのもわかっている。基本的には自分勝手だけど、私に対して悪くするつもりはないはずだ。
そうやって、このままついて行っていいものかと悩みに悩んで、
「……わかった、ついて行ってあげる」
頷いた。どうせ、よほどの事情でもない限り、強引なこいしを止めることはできない。
「やったっ。ありがとっ」
こいしはなんだか嬉しそうな様子で抱きついてきた。日傘を落としそうになることはなかったけど、柄の部分が押しつけられて少し痛い。身長が同じか私の方が高ければこんなことにならなかっただろうな、なんて思ってしまう。
「日傘畳みたいから、そろそろ離れてくれる?」
「うん」
お願いすると素直に離れてくれた。こいしは、少し傾いた黒の鍔広帽子の位置を直す。
その間に私は、木陰の中に入って日傘を畳む。ちなみにこの日傘、私の身長と同じくらいの長さがある。それくらいないと、真っ昼間ならともかく、日が傾き始めたころに日光に当たってしまうのだ。
そんな長大なものを持って歩くようなことはしない。畳んだ日傘は、レーヴァテインなんかを納めている魔法空間の中へと入れる。そんなに広い空間を作り出せるわけじゃないけど、ちょっとしたものを持ち運ぶには便利な魔法だ。
「よしっ、準備はいい?」
「うん、だいじょうぶ」
なんだかやけに気合いが入っている気がする。そのことに不審を抱きながらも頷く。ついて行くと決めてしまった以上、それ以外の選択肢もないし。
こいしは私の手を引いて何の躊躇もなく森の中へと入っていく。対して私は気が引けていた。でも、立ち止まることもできないので、羽をできるだけ小さく折り畳むようにしながら木々の群れの中へと入っていく。
一歩進む度に草がかき分けられる音がし、数歩進む度に枝がしなる音がする。更には、十数歩進む度に枝が折れて草の上へと落ちる。そのうちの何本かに一本を私が踏みつけてしまい、乾いた音を立てる。
こいしがどこに向かっているかというのは全くわからない。真っ直ぐ進んでいないというのはわかるけど、それだけだ。何度も何度も不規則に方向を変えているうちにどの方向に進んでいるのかさっぱりわからなくなってしまった。ほとんど外を出歩くようなことがないから方向音痴なのだ。まあ、空を飛べば自分の位置はだいたいわかるから帰れないことはないだろうけど。
それにしても、本当にどこに向かってるんだろうか。こいしの様子は、何があるのかはわかってるみたいだけど、何も話してくれないから想像するしかない。
また、どこか景色の綺麗な場所に連れて行ってくれるんだろうか、とか。
不意に周りの雰囲気が変わるのを感じた。視覚的な変化ではない。魔力や霊力の流れの変化といった感覚的な変化だ。思わず足を止めてしまう。
「どうしたの?」
私に手を引っ張られたこいしがこちらへと振り返る。こいしも私の感じ取ったものを感じただろうか。
「なんだか、周りの雰囲気が変わったなって」
「へぇ、さすがフランだね。わかるんだ」
何やらこいしは感心している。この雰囲気の変化に気づいてはいないようだ。でも、その反応から何かを知っているんだっていうのは十分に伝わってくる。
「……どういうこと?」
「それはもう単純明快。私たちは幻想郷を出て、外の世界にやってきたってことだよ」
「え……?」
言っていることの意味がわからなかった。言葉自体はとても簡単だ。でも、簡単には受け入れがたいほど、私の常識を逸脱していた。
「ま、百聞は一見に如かず、だね。聞いて理解できないなら見て感じる。それに、私自身こんな鬱々とした場所にいるのはうんざりだし」
こっちの状態を察してくれたらしいこいしは、いまだこいしの言葉が呑み込めず呆然としている私の手を引いて歩き始める。先ほどまでの不規則な歩みとは正反対に真っ直ぐに進んでいく。
思ったよりも早く明るい部分が見えてきた。随分と歩いたような気がしていたのに。いや、世界が違えば森も違っていると考えるのが普通か。さっきまでの過程はたぶん、なんの役にも立たないのだろう。
こいしに引かれている間に私は徐々にこいしの言っていたことを理解し始めていた。いや、正確には受け入れ始めていた。こいしの言っていた通り、単純明快で理解すること自体は簡単なのだ。単に、私の持っている常識から外れていたというだけで。
どこか後ろめたさを感じながらも、この森を抜けた向こうにはどんな景色が広がっているんだろうかと胸を躍らせている自分がいることに気づく。
足も気がつけば自分で前に進めている。
こいしの後に続いて森から出る。
開けた視界に映ったのは異世界でも何でもないように見えた。でも、過剰な期待が若干冷めてくると、すぐにここが幻想郷とは異なる世界だというのはすぐにわかった。
目に飛び込んできたのは何年もの間放手入れもされずに放置され、随分と古びてぼろぼろになり、所々に苔が生えてしまっている神社だった。
最初は、昔は博麗神社の近くに別の神社があってそれが打ち捨てられたものなのかと思っていた。でも、よくよく考えてみれば空から博麗神社を見下ろしたとき、そんなものは見えなかったのだ。これだけ開けた場所にあるなら絶対に気づいているはずだ。
だから、これは博麗神社そのものなんだと直感した。雰囲気がどことなく似ているような、そんな気がする。もしかしたら、単なる思い込みかもしれないけど。
ただまあ、それに関しては後でゆっくり見てみればいいとして、大きな問題が一つ転がっていた。
それは、私たちのすぐ傍に一人の少女がいたということ。神社の方に気を取られていて気づくのに遅れてしまった。
たぶん、こいしも気づいていなかったはずだ。気づいてたら、途中で足を止めてたはずだから。たぶん、こいしの場合は前に進もうという気持ちがばかりが先行していたのだろう。やけに、私を引っ張るように歩いてたし。
光の当たり具合によっては茶色にも見えそうな色素の薄い黒髪のショートヘア、身長はこいしよりも高そうだ。服装は幻想郷では見慣れないもの。里の人間たちが着ている動きやすさ重視のものと、私たち妖怪が着ているデザイン重視のものの中間のような服だ。動きやすそうでもあって、デザインもそれなりにいい。スカートではなくズボンを穿いているけど、ちゃんと女の子っぽく見える。
そんな彼女は私の周りでは珍しい、でも日本では標準である黒色の瞳を大きく見開いていた。
と、不意にこいしが森の中へと駆け込む。手を繋いでいた私は、半ば引きずられるようにしながらそれに続く。
逃げようという考えが浮かんできたのは、二歩目を踏み出したときだった。
「あっ……! 待ちなさいっ!」
そんな声を投げかけられる。そう言われてしまうと、余計に心身共に逃げよう状態に入って、引きずられるようだったのが自分から進む形に変わる。
ただ、思うようにはいかない。普段森の中を早く動くようなことはないし、背中の羽のことを考えないといけないから、すいすいと前へと進もうとしているこいしの足を引っ張ってしまう。
背後の音が徐々に近づいてきている。
相手から一瞬でも姿を見えないようにすれば、こいしの力で逃げきることは可能なはずだ。でも、私の羽が完全にネックになってしまっている。緑と茶色だけの薄暗い森の中で宝石じみた七色の羽は私の意志と関係なく自己主張をしている。
邪魔だし目立つし全くいいとこなしだ。
「よしっ、捕まえたっ!」
「わっ?!」
突然、後ろからの衝撃。
一瞬、何が起こったのか把握することができなかった。でも、腰の辺りに回された腕を見て、どうやら先ほど目が合った少女に背後から抱きしめられたようだと気づく。それと同時に、狼狽してしまう。
でも狼狽しながらも、どうするべきかというのは案外簡単に思い浮かんできた。
「え……?」
とっさに自分の身体を霧化させて、その腕から逃れる。そして、すぐに元の身体に戻ると、こいしの手を掴み直した。
驚きの声を漏らしていた少女は地面の上に倒れていたけど、それを気にしているような余裕はない。
追われるなら逃げないといけない。
「こいしっ、行こうっ!」
声をかけるとこいしは頷き返してくれた。あの少女の視界に私たちが映らなくなった瞬間にこいしは力を発動させていたとは思うけど、用心のために距離を取っておきたかった。
臆病者は、そう簡単には安心できないのだ。
しばらく森の中を走って、こいしが疲れ始めたところで足を止めた。歩いているときは疲れ知らずのこいしだけど、走ると私よりも早く体力が尽きてしまうようだ。逆に私は、長く歩くのはあまり得意ではない。
背後を振り返ってみても誰もいない。どうやら、先ほどの少女を振り切ることには成功したようだ。こいしも能力を使ってるみたいだから、よほどのことをしない限りは見つかることはないはずだ。
そんなことよりも。
私たちはこのままここに留まっていてもいいんだろうか。結界から出てはいけないなんて話を聞いたことはないけど、まず誰も抜け出せないだろうと思っていたから決めていなかったということもありえる。
「……ねえ、こいし。このまま帰った方がいいんじゃないかな?」
「やだ。フランと海を見るまで絶対に帰りたくない」
もともとこいしは意地っ張りだし、更には何やら強い意志まであるようでそう簡単には折れそうにない。私も意地っ張りだという自覚はあるけど、ありとあらゆることに対してというほどではないので、こちらが先に折れてしまうような気がする。
始まる前から負けたような気分でいいんだろうかと思うけど、そういう性分なんだからどうしようもない。
「心配する必要なんてない。何回かこっちに来てるけど、今まで一度も誰かに何かを言われたことなんてないから」
「それは、そうかもしれないけど……」
ただ単にこいしを見つけられなかっただけかもしれない。力を使っている間のこいしを見つけるのは生半可なことではないから。
「それに、フランは海、見たくないの? 私は知ってるよ? 海を見たいって言ってたフランが強い憧憬を抱いてたことを」
そう、こいしの言うとおりだ。
私は海に対して強い興味を抱いている。
私は海を見てみたいと願っている。
その熱は確かに本物で、臆病さに冷まされながらもいまだくすぶっていて、こいしに煽られて火勢を取り戻そうとしている。
「私がいればまたいつでもこっちに来られるけど、一回引いちゃったらなかなか前に進めないと思うよ? だから、今日ここで行っちゃおうよ。悩む必要なんてある? フランが海を見たいっていう気持ちは本物なんでしょ?」
こいしの言葉に対する反論は浮かばない。むしろ、自身の内で燃え盛る思いを抑えるので精一杯だ。
そしてそれは同時に、私の思いの強さの証でもあった。無視することは決してできない。
「うん、そう、だね。……でも、何かあったらすぐに帰ろう?」
結局自分自身に対して嘘をつききれず、そう答えてしまっていた。煮え切らない言葉となっているけど、前者と後者、どちらも私の本音だ。
「よしよし、その言葉を待ってたよ。さあさあ、行こう行こう」
私の心配を無視して、嬉しそうに私の手を引っ張り始める。その態度をなんだかなぁ、と思いながらも、こいしが本当に心の底から私と海を見に行くことを楽しみにしてるのを感じ取る。
こいしは一人でも海まで行けるはずだから、自惚れではないはずだ。こいしも臆病ではあるけど、それは他人に対してだけで、それ以外に関してはかなり積極的に関わっていこうとする。
「ねえ、海までどう行けばいいのかわかるの?」
「知らない」
予想していたとおりの言葉だったから、特に驚きといった感情は湧いてこない。こいしは基本的に行き当たりばったりだ。今日のように、大まかでも行き先が決まっている方が珍しい。
「じゃあ、どうやって行くつもり? 歩いて行くにしても、幻想郷よりもずっと広いはずだから、闇雲に歩いてても道に迷うだけだと思うよ?」
でも、できるだけ慎重に行きたい私としては、そういう方針はあまり好ましくない。少しは慣れてきたとはいえ、今いるのは普段いる幻想郷ではなく、初めて訪れた外の世界だ。できる限り詳しく方針を決めておきたい。
「んー、山を下っていけばいいんじゃない? どっかで川を見つけてそれに沿っていけば更に確実になると思うよ」
こういった場合、空を飛んで見下ろしてみようという案は決して出てこない。
こいしいわく、それでは面白くないからだそうだ。初めて間近で見る景色と、一度遠くから見てから間近で見るのとでは全く衝撃が違うらしい。
なんとなくだけど、その言葉には同感できるものがあるから特に反対することなく従ってきている。今回も一応そのつもりだ。
「じゃあ、まずは川を探すことからかな? ……川の近くを通るのはちょっと怖いなぁ」
吸血鬼にとって流れ水は脅威なのだ。
実際に触れたことがないから私にとってどうなのかはわからない。宝石のような七色の羽を始めとしていくつか例外もあったりするのだ。お姉様共々、十字架はなんともないし。
だから、単なる先入観からそんなことを思っているのかもしれないし、本当に私にとって危険なものなのかもしれない。少なくとも、太陽光は私に対して攻撃的な態度を取っている。
「別に川のすぐそばを歩く必要もないから、大丈夫だと思うよ」
「あ、それもそうか」
脅威に怯えすぎていたせいで、そういうふうに考えることができていなかった。沿って歩くと言われると、すぐそばを歩くようなイメージもあるし。
そうやって、これからどうするかを決めながら私たちは森の外を目指した。
狭く薄暗い森を抜ける。森の中へ入るときと同じように木陰に隠れるようにしながら、魔法空間から日傘を取り出して広げた。
神社の裏に先ほどの少女の姿はない。とはいえ、もしかしたら表側の方で待ち伏せしているかもしれないということで、こいしの力で気づかれないようにしながら、神社の表へとまわる。
予想通り、私のよく知っている博麗神社なら鳥居があるだろう辺りで、あの少女は腕を組んで立っていた。明らかに私たちが出てくるのを待っているような体勢だ。
でも、少女がどれだけ注意を払おうとも私たちに気づくことはない。空間を丸ごと把握しているとかそういった超常的なことをしているなら別だけど、外の世界ではそういったものはほとんど失われたはずだ。だからこそ、幻想郷が存在しているわけだし。
近づいてみるけど、反応はない。何も見落とさないように境内へと視線をやっているみたいだけど、肝心の私たちのことを見落としてしまっている。
この様子だと、万が一ということもなさそうだ。
そうやって安心したとき、私はあることに気づいた。
それは、少女の顔にできている小さな傷。どの時点でその顔の傷ができたのかというのはすぐにわかった。
私が霧化して彼女を振り払って転んだときだ。向こうが抱きついてきたのが悪いといえば悪いけど、同時に私にも責任があるような気がする。そのことが気になって足を止めてしまう。
けど、それが他のいくつかの要因を一つに纏め上げ、一つの問題を起こす引き金となってしまった。
こいしは少女との距離をできるだけ早くあけたかったようで足を早めていた。こいしも、そして私自身もこんなところで立ち止まるだろうとは思っていなかったから、強く手を握り合っていなかった。
結果、こいしと私とを繋いでいた手は離れてしまう。そうなれば、こいしの力は私へ及ばなくなる。
「あ……」
目の前の少女が私の存在に、私は今の状態に気づき声を漏らす。
「今度こそ捕まえたわっ!」
先に動いたのは少女の方だった。距離を一気につめられて、再び抱きしめられてしまう。今度は、真っ正面から。そのおかげで、前の景色が全く見えない。
とっさに先ほどと同じ手を使って逃げようとして、すんでのところでここが日の下であることを思い出す。陽に当たった瞬間に死んでしまうようなことはないけど、周りの状況をあまり把握してないから目標も定めずに動くのは怖い。
「は、放してっ」
下手に動くこともできないから、声がくぐもってしまう。
それでも、行動でどうにもできないなら言葉でどうにかするしかない。突然抱きしめてくる時点で、そんなことで解決できるかも怪しいけど。
最悪の場合、陽に当たりつつ逃げるしかなさそうだ。痛みがあるのがわかってるから、相当の覚悟が必要そうだけど。
「ありゃ、意外。逃げないのね」
どうやら特に考えなしにもう一度私を捕まえたようだ。もしかしたら、逃げられてもかまわないと自棄になっていたのかもしれない。
「うん、そうね。私の質問に答えてくれたら放してあげるわ。簡単でしょう?」
「……内容によると思う」
「まあ、それもそうね」
正面から抱きしめられているせいで顔は見えないけど、手の動きから肩を竦めたのはわかった。
「あなたは何者? その変な羽は作り物だと言われても、まあ納得しないこともないけど、さっき私の手をすり抜けていったのは何? 人間業じゃないわよね?」
「え、っと……」
さて、どう答えるべき何だろうか。本当のことを話してもいいんだろうか。
いや、それ以前に幻想がほとんど失われた外の世界で信じてもらえるんだろうか。
口を開く前から考えることが多い。
少し考えてみたけど、上手な誤魔化し方は思い浮かばない。
いきなり抱きしめて行動を止めてきたりと、彼女は押しが強い。更に、私は誤魔化すのが苦手だ。そんな私がそんな相手に問いつめられれば簡単にボロが出てきてしまうだろう。
だったら、先に正直に話してしまった方がいい気がする。気がするだけで、本当にいいのかどうかなんてわからないけど、このままずっと悩んでいたってしかたないだろう。
沈黙し続けてしまったがゆえに、状況が悪くなってしまうのもいやだし。
「……吸血鬼」
「え……?」
私の答えを聞いた瞬間、彼女の身体がびくりと震えた。一瞬、私に回された腕の力が緩んだ。でも、すぐに元通りとなってしまう。
私の言葉を聞いたとき、彼女が抱いたのは恐怖だったんだろうか。今まで誰かに怖がられたことはないけど、私の力のせいでそんな感情が向かってくるだろうという心構えはできていた。だから、さほど傷つくことはない。
まあ、そもそもその恐怖は私の力とかいった個人ではなく吸血鬼という種族へと向けられたものだったし。
「同性の血は、吸わないんだったわよね?」
「えっと、ごめんなさい。自分で血を集めたりとかしたことがないからわかんない」
幻想郷に来る前はお姉様に任せっきりだったし、幻想郷に来てからは紫が届けてきてくれたものを飲んでいる。だから、私はどこの誰の血を飲んでいるのか一切知らないのだ。
「……私の血を吸うつもりはないの?」
「うん」
探るような言葉に頷く。そもそも、一度も誰かから直接血を吸ったことがないし教えてもらったこともないから、吸い方さえ知らない。
「なら安心ね」
腕に力を込められてしまった。対応を間違ってしまったかもしれない。
今更、実は吸うなんて言っても気にされない気がする。噛みついたりすれば信憑性が増すかもしれないけど、他人に噛みつけるほどの度胸はない。知り合いなら、なおさら噛みつけないけど。
「さて、もう一つ聞きたいことがあるんだけど、吸血鬼なあなたはこんなところに何しにきたのかしら?」
「海を見に来たんだ」
その質問は迷うことなく答えることができた。人に知られても問題はないし、説明のしようがないくらいに単純明快なものだったから。
「それだけ?」
「うん、それだけだけど……、どうしたの?」
「いや、別に。単に私が変な先入観を持ってたってだけよ」
やけに残念そうにそんなことを言いながら放してくれた。それと同時にそばにいながら姿を隠していたこいしが現れる。正確にはこちらに気づけるようにした、だけど。
他人の前に出るのが嫌なようで、私の後ろに隠れている。でも、身長差のせいであまり隠れられていないんじゃないだろうか。まあ、一人で立っているよりは精神的に楽なんだろう。
できることなら、私もそっち側に立ちたい。私も他人に関わるのは得意ではないのだ。トラウマを抱えてるこいしに比べればずっとましなんだろうけど。
こいしと私とでは、他人という存在に抱いている感情が違いすぎるのだ。私はわからないからなんだか怖いという感じだけど、こいしは拒絶されることを知っているから明確な恐怖を抱いているんだと思う。
「っと、もう一人も現れたわね。そっちは……、幽霊?」
突然、何もない場所から現れたように見えたこいしをそんなふうに思ったらしい。
なんで私の時はそう思わなかったんだろうか。抱きつけたから?
「……違う」
否定はするけど、それ以上何かを言おうとすることもない。いまだにお姉様や咲夜を苦手視してるくらいで、完全な他人となると全然駄目なのだ。
「えっと、こいしは覚り妖怪なんだ」
代わりに私が答えておく。
あまり他人と話をしたくないなら、無理して話す必要はないだろう。そして、そう考えてしまうと私が答えるしかなくなる。
「ってことは、考えてることがわかるっていうわけ?」
警戒されるかなと思ったけど、むしろ興味を持ったようだ。躊躇も何もなく一歩こちらに近づいてきた。それと同時に、こいしが身体を震わせる。
あの日以来こいしは、さとりか私、それから地霊殿のペットたち以外がいるときは随分と臆病になってしまった気がする。そうでなければ、かなりマイペースに周りを振り回してるんだけど。
「ううん、こいしは心を読めないんだ。代わりに、無意識を操ることができるよ」
さっきも私が答えたし、そのまま私が答えることにする。
「んー……?」
よくわからなかったようで首を傾げている。正直に言えば私もよくわかっていない。感覚的になんとなく理解しているような気になっているだけだ。
でも、おそらく一番わかってるだろうこいしは口を噤んでいて、自分から説明する様子はない。だから、ちゃんと説明することができなくても私が説明しないといけないようだ。
説明すること自体、苦手なんだけどなぁ。まあ、やってみるしかない。
「えーっと、さっき私たちが突然現れたように見えたよね?」
「うん」
「でも、私たちは実際には姿を消してたわけじゃなくて、あなたが気づいてなかっただけなんだ。こいしが私たちのことを無意識に無視するようにさせて」
「うーん? わかるような、わからないような」
首を傾げられてしまう。でも、理解を諦めたわけではないようで、人差し指をこめかみの辺りに当てて考え込んでいる。
「……要するに、そっちの都合のいいように認識をずらしてるってこと? 騙し絵の中に隠されてる絵をどんな人にでも見えたり、見えなくさせるみたいに」
「そんな感じ、なのかな?」
的確な例えのような、そうでもないような。こいしの力は実体がないから、ものすごく説明がしにくいし、理解もしにくい。
こいしは何も言ってこないから、間違ってはいないのだろう。たぶん。
「うーん、なんというか地味ね。すごいとは思うけど」
少女が漏らしたのはそんな感想だった。やけに反応が淡白というか、思っていたよりも私たちのことを自然に受け入れているような気がする。
やけに私たちのことを知っていることはまだなんとか納得がいく。幻想としてではあるけど、外の世界では私たちのような存在について描かれているものがある。私の部屋にもそういった類の小説が置いてある。
でも、幻想は幻想であり現実とは違うはずだ。だから、例えこうして目の前にそういった存在が現れても、受け入れがたいのではないだろうか。夢だと思ったり、なんらかのトリックが隠されているのではないだろうかと思ったり、捻くれた受け取り方をするのではないだろうか。
私が今まで読んできた本の登場人物たちはそうだった。
「ん? 吸血鬼のあなた、不思議そうな顔してるわね。どうしたの?」
「えっと、私たちのことを自然に受け入れてるなって思って。いつか私たちみたいな存在に会ったことがあるの?」
可能性としては零ではないはずだ。でも、聞いておいてなんだけど、彼女の反応は初めて私たちの存在を見たかのようなものだった。今まで一度でも会ったことがあるとは思えない。
「……言われてみればそうね。私はどういう反応をすべきだと思う?」
「えーっと……?」
そんなことを聞かれてもすごく困る。今更驚かれて、存在を否定されたり、幻扱いされるのもいやだ。
「私自身、よくわかんないのよ。こんなことを言うのもなんだけど、私の常識から言えばあなたたちの存在は完全に異常なもの。でも、あなたに言われるまで、自然に受け入れている自分に気づけないほどに、自然に受け入れてたのよね」
それから、少し屈んでじーっと私たちを見つめてくる。私は一歩後退りしそうになるけど、こいしが更に身体を寄せてきたせいで下がれなかった。
黒い瞳に私たちの姿が映っているのがわかるくらい、真剣にこちらを見ている。と、思っていたら姿勢を正した。
「もしかしたら、あなたたちから胡散臭さっていうのを感じなかったからかもしれないわね。特にあなたからは、信じても大丈夫そうっていう、そんなオーラが出てるし」
視線はこいしではなく私の方に向いていた。
こいしにも似たようなことを言われたことがある。そんなに、疑われにくい雰囲気を出してるんだろうか。なんとなく自分の姿を見下ろしてみてもわからない。
「で、まあ、それに加えて私はあなたたちみたいな存在に興味を持ってるのよ。だからっていうのもあるかもしれないわ」
私たちのような存在を調べたりするような人たちのことをオカルト愛好家って言うんだったけ。彼女もそのうちの一人のようだ。
趣味でやっている人から本気で追いかけている人まで幅広くいるらしいけど、彼女はただの趣味としているようだ。信じていないと言っていた点からもそれはわかる。
「ねえ、こんな機会滅多にないだろうし、良かったらあなたたちのことについて色々と教えてくれない?」
でも、彼女は信じていない存在に出会って、それを受け入れた。
だから、彼女のその要求は当然ともいえるべきものだろう。放してはくれたけど、完全に私たちを解放するつもりはないようだ。
こいしの方へと視線を向けると、ふるふると首を横に振り返された。まあ、こいしならこういう反応をすると思っていた。
こいしはこのまま彼女といることをいやがりそうだけど、折角私たちのような存在を肯定しているような人を見つけられたのに、そのまま逃げてしまうのは合理的ではないような気がする。
「別にいいけど、一つ私のお願いも聞いてくれる?」
「内容によるわね。一介の女子高生にできることなんて限られてるから」
「海まで案内してくれないかな?」
知らない世界に来たのなら、案内をしてくれる人がいた方が安心できそうだ。
他人は苦手だけど、嫌いなわけではないから一度喋れば慣れが出てくる。だから、こうしてお願いをすることもできるのだ。
「フラン……」
背後からかなり不満そうな声が聞こえてきた。やっぱりこいしは知らない誰かがいるのはいやなようだ。
でも、私なりに誰かに案内してもらう必要性を感じているから説得するしかないだろう。
「勝手に決めてごめんなさい。でも、外の世界は幻想郷に比べたらずっと広いから、案内してくれる人は必要じゃないかな? 日没までには帰らないといけないから、あんまり時間もかけてられないし」
門限が決まってるわけではないけど、お姉様が心配するかもしれないと思って私の中でそう決めている。
「……」
「……こいし?」
黙ったままなかなか返事をしてくれない。こいしなりに何かを考えてるんだろうか。
「……まあ、フランの言うとおりか。肝心の海を見れないんじゃ本末転倒だしね」
「じゃあ、あの人に案内してもらってもいい?」
「いいよ。……話をするのは全部フランに任せることになるけど」
「うん。任せて」
渋々といった感じだけど、私の意見に納得はしてくれたようだ。
せめて話をするくらいになってほしいとは思うけど、難しいかな。
「どうやら、意見はまとまったようね。私の答えを聞きもせずに」
「あ……、ごめんなさい」
こいしの方にばかり気を向けていたから、答えを聞かずにすっかり案内してもらう気になってしまっていた。
「いいわよ、気にしないで。それで、案内の方だけど喜んで引き受けさせてもらうわ。代わりに、あなたには私が満足するまで質問に答えてもらうけど」
「……お手柔らかにお願い」
「気が向いたら手を抜かせてもらうわ」
そういうふうに言う人は大体気が向いてくることがない。外に出るようになってまだ数年。それでも結構いろんなことがわかってきている。
頼む人を間違えたかなぁ。とはいえ、他に頼める人もいない。
「ああ、そうだ。名前を言ってなかったわね。私は糸川未花。よろしく、フランにこいし、でいいのかしら?」
「うん。よろしく、未花」
まあ、悲観的になっていても仕方がない。
それよりも、海に行ける。そのことを楽しみにしている方がよほど建設的だろう。
こうして、私たちは海へと向かうことになった。
これは、散歩になるのか、冒険になるのか、旅行になるのか。
何にしても、楽しめればいいなとそんなふうに思うのだった。
◆
灰色と白との中間の色合いのコンクリートの床。
陽を遮る鉄でできた大きな屋根。
そして、どこまでも続いているような二本の鉄の棒状の物体で作られた道。
今私たちは駅と呼ばれる場所に立っている。
本に書かれていたから存在自体は知っていたけど、実際に見てみるとだいぶ印象が違う。長い年月が経っているからか、人工物の割にどことなく自然にとけ込んでいるように見える。正確には、自然に飲み込まれかけているという感じだ。土とコンクリートの隙間や、ひび割れの間などから雑草が覗いている。
文章から抱いた印象では強そうだと思っていたけど、生き物のように自己修復ができないから、放っておくと自然に負けてしまうようだ。こういうのを見ると、紅魔館はちゃんと手入れが行き届いているんだというのがよくわかる。
本の中にだけ存在していた世界を実際に見ることができる感動は、初めて外に出てから数年経った今でも変わらない。
アスファルトの道。その上を走る自動車。レンガ造りでも、木造でもない家々。
ここに来るまでの間に見たそんなものたちにも私は意識を向けていた。
「そういえば、フランたちが住んでるところの交通網ってどうなってるのかしら?」
「え? えっと、みんな自力で移動してるんじゃないかな。人里の人たちはそんなに広い範囲を動かないし、私たちみたいなのは空を飛べるし」
周りを見るのに集中していたせいで少し反応が遅れてしまった。
ここに来るまでの間も、未花はこうしてふと思いついたことを質問してきた。
答えたのは幻想郷のこととか、紅魔館のこととか、地霊殿のこととか、個人的なこととか、本当に節操なしという感じだった。私の知ってることはかなり狭い方だから、満足してくれているかどうかはわからないけど、少なくとも不満は抱いていないと思う。欲求不満だからこそ、次々と質問してくるとも考えられるけど。
「ふむふむ。まあ、必要がなければ発展することなんてないわよね」
「こっちにはどんなものがあるの?」
「車に、電車に、飛行機、船と色々とあるわね」
「へぇ……」
私の方からも結構質問をしている。
紅魔館が幻想郷に入ったのが割と最近とはいえ、十何年も前の話だ。あのころは変化が早かったような気がするから、私の知識が古くなっているというのは大いにありえる。
それに、私の知識は全て聞きかじりのものであって、そこに実態は全く伴っていない。それに、もしかしたら誇大表現をされた情報、全くの嘘の情報だって混じっているかもしれない。だから、実際にその世界に住んでいる人から話を聞けるだけでも貴重なのだ。
こっちに住もうという気は全くないけど、色々なことを知れるというのは楽しい。そういうところでは、未花と私は相性がいいのかもしれない。多分だけど、未花も知るという行為を楽しんでいるように思う。
それはいいんだけど、ただ一人、こいしだけは不満そう、というか不機嫌そうだった。時々視線を向けてみるんだけど、その度に恨みがましそうにこちらを見てくる。思っていた以上に未花といるのがいやなようだ。
橋渡しをするのがいいのかな、と思うけどどうやって二人の間を繋げればいいのかもわからない。未花はあまり気にしてないようだけど。
「ん、そろそろ来るわね」
腕時計を確認した未花が不意にそう言う。幻想郷で時刻はあってないようなものだから、時刻を確認するという行為はかなり珍しい。
少しして、遠くから規則正しい音が聞こえてきた。
がたんごとん、がたんごとん。
幻想郷では決して響かない人工の音。その音から感じるのは、強い力。同じ規則正しい音でも、停止を感じさせる時計の音とは違って、動いているというのが強く感じられる。
曲線を描いている線路の先から、四角い鉄の塊が現れる。道に沿って真っ直ぐとこちらに向かってきている。
ぶつかることはないだろうと思っていても、近づいてくる姿を間近で見ていると身が竦む。思わずこいしの手を握る手に力を込めてしまう。
電車はゆっくりと速度を落としていく。
何かがこすれ合う頭の奥まで届きそうな甲高い音が響き渡る。
先ほどとは違った理由で身体に力が入る。長時間聞いていると、気分の悪くなりそうな音だ。
でも、そんな拷問のような状態になることはなく、音は次第に小さくなっていき、最後には空気の抜けるような音がして、不快な音は聞こえなくなった。電車も完全に止まっている。
本の中では日常に紛れ込むような存在だったり、はたまた旅行といった非日常にある存在だったりした。でも、私にとってそれ自体が完全に非日常の存在であり、異質なものだった。
だから、細かい動きの一つ一つに注意を払ってしまう。
「……っ!」
結果、突然開いた扉に声も出ないくらいに驚いてしまった。そうなるんだっていうのは、一応前知識として知ってたはずなのに。
「あははは。警戒心の強い猫みたいな反応で面白いわね」
未花は驚く私を見て笑っていた。
驚いたのと恥ずかしいのとで心臓が高鳴っている。
「あれは、自動扉っていうのよ。機械で閉じたり開いたりする扉。自動なんてついてるけど、実際は車掌が離れた場所から操作してるだけなんだけどね」
「……うん、知ってるけど、見たことのないものを前にして、必要以上に身構えちゃって」
溜め息を吐くようにしながら、胸を押さえて気持ちを鎮める。こうして手を当てると、脈が速くなっているのがよくわかる。
「ふーん。話を聞いてて思ったんだけど、フランって結構こっちのこと知ってるのね」
「時々、外の世界の本が入ってくることがあるからね。そういうのを読んでるから、知識だけはあるんだ」
とはいえ、そのほとんどは小説なんだけど。一応、雑誌や図鑑なんかも読むけど、気がつけば小説の方に手が伸びている。
「とと、こんな所で話してたら置いてかれるわね。フラン、こいし、付いてきて」
未花が少し足早に電車の中へと進んでいく。私もこいしの手を引くようにしながら続く。
「誰もいないから席が選び放題ね」
こいしも電車の中に入るのを確認してから中を観察してみる。
扉の右側には、六、七人が座れそうな長椅子、左側には二人掛けの椅子が二つ向かい合ったのを一セットとして、真ん中の通路を軸として右側と左側に並んでいる。
確かに私たち以外には誰もいない。あんまり気を張る必要はなさそうだ。
ちなみに今、私たちはこいしの力を使って、周囲から完全に浮いてしまっている姿を気にされないようにしている。認識をずらさせるには、こいしと接触していなければいけないという制約があるから、私たちは手を放すことができない。
こいしも私も目立つのはいやなのだ。だから、誰に言われることもなく自主的にそうしている。
「今の時間帯ならこっちの方がいいかしらね」
そう言って未花が向かったのは右側。
長椅子に膝を乗せて、窓の上の方でひらひらとしていたものを掴んでゆっくりと引き下ろす。どうやら、カーテンになっているようだ。完全に日を遮るすだれみたいなものだろうか。館の中ではまず見られない形だ。
「さ、そろそろ出発するでしょうから座って座って。初めてなら、座っといた方が安全よ」
安全という言葉に急かされるように、私は慌てて席の方へと向かう。座った方が安全というのは、裏を返せば立っていると危険だということだろう。わざわざ危険な真似はしたくない。
私は先に座っていた未花の隣に腰を下ろす。こいしはその隣だ。
私たちが乗り込んだ後に、誰かが乗ってきたということもないから、相変わらず私たちしかいないけど、こいしは警戒するようにこちらに身を寄せてきている。
未花との間はそれほど詰めてはいないけど、身長が一番低い私が真ん中に来ると、実際以上に狭く感じる。
「あ、二人とも羽、邪魔じゃないかな」
一応背もたれの上に行くようにしてるけど、羽の宝石のようになった部分はほとんど触覚がないから聞いてみないと当たっているのかどうかわからない。
二人に当たらないように羽に力を入れておくことに関しては、お姉様と隣り合って座るときは邪魔にならないように動かす癖があるから特に問題はない。
「大丈夫」
「ん、大丈夫よ」
両側の二人が頷いてくれた。
これでようやく一心地がつける。そう思った途端、
「……っ!」
突然聞こえてきた空気の抜けるような音に驚いた身体がはねる。
鉄でできた扉が勝手に閉まっている。同じ音にまた驚いてしまったようだ。
「何回目で驚かないようになるのかしらね」
未花がおかしそうに笑いながらそう言ってきたのだった。
本当、何度目で驚かなくなるのだろうか。いつ動き出すかわからない外の世界の機械と私は、すこぶる相性が悪いようだ。
世界が流れていく。
遠くにあるものは、あれは家だとか、木だとか、人だとかいうのはすぐにわかる。でも、近くにあるものは線の集まりである面に成り代わり、よくわからないものへと変容している。
速度を出して飛んでいるときに横を向くと、世界はこんなふうに見えるんだろう。
そう思いながら、窓の外をじっと眺める。この高速世界はいつまで眺めていても飽きそうにない。見慣れないものがいっぱいあるとかは関係なく。
手前の方は幻想郷では見慣れないコンクリートの壁か種類が分からないけど幻想郷でも見たことがあるような木がほとんどの割合を占めている。一瞬一瞬としては変化があるけど、全体の流れとしての変化は少ない。ただ景色が流れていく、それだけだ。
単純に、高速に流れていく世界が好きなのかもしれない。自分でもそういった世界を作り出せるかもしれないけど、私は安全飛行しかできないから今のうちに十分楽しんでおく。
かしゃり。
不意にそんな音が聞こえてきて、私は全身を揺らして驚いた。聞き覚えがあるけど、なんだかわざとらしい感じのする音だ。
なんだろうかと思って音のした方、未花の方を見てみると、赤色の金属的な輝きを持った長方形の物体を持っていた。
少しの間それを眺めていて、いつだったか館にやって来た天狗が持っていたカメラに似ていることに気づく。あれに比べると随分と小さいけど。
「あ、ごめん。いい顔してたから、声をかけたら表情が変わるかと思って。写真を撮られるのは嫌だった?」
「撮られるのはいいけど、事前に声をかけてほしかったな」
わかってたらそこまで驚くことはないだろうし。
「ほんとごめん。えっと、この後も気に入った場面があったら撮ってもいい?」
「うん、いいよ」
今まで割と強引な感じだったから、少し態度がしおらしくなるのはちょっと意外だった。でも、そうやって申し訳ないと思ってくれているから、素直に頷くことができた。強引なままでもたぶん無茶はしてこないだろうから許可はしてたと思う。でも、それで気分がいいかっていうと別だ。
ちなみに、かなりしつこかった天狗は弾幕で追い返そうとした。素早いせいでうまくできなかったけど。
まあ、そんなことより。
「それ、カメラなの?」
確認のために聞いてみる。会話の流れから察しはついていたけど、私の知ってるものとは随分と違う。
「そ、たぶんフランが思い浮かべてるのに比べたらちっちゃいでしょう?」
そう言ってから、その小さなカメラのことについて説明してくれる。
そのカメラはデジタルカメラと呼ばれるらしく、写したものを画像データという状態で保存しておくことができるらしい。従来のカメラに比べると少し写真の質は悪くなるけど、物理的なものではないから保存や加工が容易になるそうだ。
幻想郷も外の世界も情報だけではかさばらないというのは同じらしい。動かない図書館とも呼ばれているパチュリーの持っている情報を文字などの媒体として出力すれば、それは莫大な空間を占領することになるだろう。
まあ、あの無限の広さを持つ図書館なら問題なさそうだけど。
「あ、そういえば、ちゃんと写るのかな?」
鏡には映るけど、写真がどうなのかは分からない。七色の羽を始めとして、例外も色々とあるのだ。いちいち試してもいられないから、全てを把握しているわけではない。
前に天狗に写真を撮られたときは写ってたけど、弾幕を消すことができたり、正面に構えてるのに自分の後ろ姿が写ってたりと、もともと持ってたカメラの知識ともかなりかけ離れてたから、あまり参考にならない気がする。
「そういえば、フランって吸血鬼だったわね。うーん、ちゃんと写ってたと思うけど……」
未花がカメラへと向かって何かをし始める。写したものをその場で見れるとか言ってたから、そのための操作をしてるんだろうか。
館が幻想郷へと移る前もそうだったけど、どんどん外の世界は便利になってきてるんだなぁ。たぶん、カメラだけじゃなくて他の部分も変わってるんだと思う。
世話をされる立場にいる私はしなければいけないこともないけど、メイド長として毎日がんばっている咲夜にとっては役立つものもあるかもしれない。
「あ、写ってる写ってる」
嬉しそうに言いながら、今まで触れていた面を見せてくれる。
最初に見せてくれたときは、レンズの向いている方が写っていた四角い枠のような部分に、私の横顔と少しだけこいしの姿が映っていた。普段は自分の横顔をちゃんと見ることなんてできないから妙な感じだ。
興味があるのか、こいしが覗き込んでくる。未花との距離を気にしてるのか、控えめな様子ではある。
「吸血鬼って、鏡に映らないって聞くけど、写真には写るのね」
「それはたぶん、私が変わってるからだと思うよ。私、鏡にも映るし」
そう言いながら、正面の窓を指さす。外の景色が見える硝子に薄ぼんやりと私たち三人の姿が映っている。
「あー、確かにそうね。言われるまで気が付かなかったわ」
半透明な未花が高速に流れ去っていく背景を透かして苦笑を浮かべる。まあ、当たり前だと思っていれば、本当は異常だったとしても気づかないものなんだろう。たぶん、私が硝子に映っていなければ未花は誰に言われなくとも気づいていたかもしれない。
と、こいしが私の顔をじっと見つめていることに気づく。こいしだけ、横顔が映っている。
「どうした、の?」
本物のこいしの方へと視線を向けると、当然だけど翠色の瞳と目が合う。それが思ったよりも真っ直ぐなものだったので少し狼狽してしまう。
どうしてそんなにも真剣な瞳をこちらに向けているのだろう。
「せっかくいい表情を浮かべてたのに、それを実物で見れなかったのが悔しかったから、それが見れるまで見てる」
「え……?」
全然冗談だという感じもしなくて、どう受け止めていいかもわからない。だから、口からこぼれてきたのは困惑だけだった。
「ふむ、それもそうね。写真なんて後で出来事を詳細に思い出すか、他人に齟齬を少なく出来事を伝えるための道具でしかないから、実物にはどうしても負けるわね。フランは顔の作りが綺麗だから、ふとした瞬間に子供っぽさが抜けたときにすっごく絵になるのよね」
「え? み、未花までそう言うこというの?」
「嘘でもないし、お世辞でもないわよ。ねえ、こいし」
「うん」
未花とは距離を取っていたはずのこいしが力強く頷く。私は二人の顔を見ていられなくて、反対側の窓へと視線を向けた。
でも、その瞬間に外が暗くなって内側の様子がはっきりと映る。
二人の言葉を気にしてしまうと、自分の顔でさえまともに見れなくなってしまった。
◆
再び私たちは硬いコンクリートの床の上に足をつける。
私の時間感覚には正確性の欠片もないから、電車に揺られていた時間は長くも感じたし、短くも感じた。ただ、決して不快ではなく、むしろ心地よかった。
何もせずじっとしているのには慣れている。いや、景色が動いていたから何もせずというのとはちょっと違うか。部屋でじっとしているよりは、ずっと楽しかった。
私たちが降りたのは、最初に乗り込んだところよりも二回りくらい大きな駅だ。線路が一本だけでなく何本も伸びている。
人の姿もちらほらと目に入る。何を急いでいるのかわからないけど、みんな早足だ。
何となく目で追いかけてみると、屋根のついた橋のようなものを渡って別の線路の前へと降りる。そこにはすでに電車が止まっていて、早足だった人たちはそれに乗り込んだ。
それから少しして、電車は走り出す。あれに遅れないように急いでたんだ。
あの電車はどこに向かっていくんだろうか。
ここにはいろんな場所で人を乗せた電車が集まってくるんだろう。
ここからいろんな場所へ人を乗せた電車が走り出していくんだろう。
そう考えると、この場所は遠くのいろんな場所と繋がっているようだ。外の世界というのは、閉じた幻想郷とは違ってどことでも繋がっているのかもしれない。
「フラン、なに考えてたの?」
前に向き直ると、未花と一緒に歩き出そうとしていたこいしと目が合った。電車の中で未花へと心を許したのか、私の後ろへと隠れることはなくなっていた。
そのきっかけというのが、私の容姿を褒めてっていうのが納得いかないというか、受け入れがたいというか……。
しばらくは、鏡をまともに見ることができないかもしれない。それくらい、二人からはあれこれと言われた。
「ここから、どれくらいの場所に繋がってるのかなって」
「どこにでも繋がってるんじゃない? これだけ走ってるんだから」
どうやら、こいしも私と同じような印象を抱いていたようだ。
「うん。実際、お金と時間さえあれば世界中のどこだっていけると思うわよ。秘境の地とかでなければね」
「へえ、そうなんだ」
外の世界は想像に追いつくものも平然と存在しているようだ。当然のことのように話している未花の姿からそう思う。
「だから、私もこんなことやってられるのよね。国内なら、往復を考えても一日で行ける範囲ってかなり広いし」
色んな場所のオカルト的なことを調べるのが趣味だとか言ってたっけ。そういうことができる世界に未花が生まれてきたのか、それともそういうことができるからこそそういう趣味ができたのかはわからないけど、未花にとって外の世界は都合のいい場所のようだ。
まあ、大抵の場合は後者なんだろう。私も昔は本を読むことくらいしかできなくて、気がつけば本を読むことが好きになっていた。強制されるのでなければ、人も妖怪もそこにあるものを自然と好きになっていくのかもしれない。
「さてと、次の電車が来るまで時間もあるし、どこかでお弁当でも買いましょうか」
「……いいの?」
電車に乗るためのお金も払ってもらったのに、そこまでしてもらうのは悪いような気がする。というかそもそも、吸血鬼に人間と同じ食事は必要ない。生きるためだけなら、血さえあれば事足りる。
でも、味覚はあるから娯楽として楽しむというのはある。だからこそ、お金を払ってもらうのは悪い気がするんだけど。
「いいのいいの。せっかく海を見に来たのに、着いたときに空腹でぐったりしてたら楽しくないでしょう?」
「私、人間と同じものを食べる必要はないんだけど」
「ああ、そうだったわね。……私の血って美味しいのかしらね?」
なんでそんな質問なのかはわからないけど、未花の意図は読めた。
「え、っと、知らないけど、一日一回くらい血が飲めればいいから、そこまでしてくれなくてもだいじょうぶ」
その一回分の血は咲夜が料理とか紅茶とかに混ぜてくれてるから、誰かから吸ったりする必要もない。
「へえ、そうなのね。でもまあ、必要ないってことは食べることはできるってことでしょう? やりたいことがあるから付き合ってちょうだい。お金のことは気にしなくていいから」
「そういうことなら、別にいいけど……」
何かを楽しみにしているような顔を見ると、断ることはできなかった。まあ、未花自身がいいと思ってるみたいだから、ありがたくその申し出を受け入れればいいんだろうけど、どうしても遠慮してしまう。
「よしっ、決まりね」
やけに嬉しそうな様子で未花は歩き始める。
こいしの方に視線を向けてみると首を傾げられた。未花のことはどうでもいいか、気にしてないらしい。
まあ、いいか。嬉しそうなのを邪魔するのも無粋だろうし。
そういうふうに気持ちを入れ替えて、少し弾んだ様子の未花について歩いた。
次に私たちが乗った電車は、最初に乗ったものとさほど変わらない作りをしていた。違うといえば、私たちの他にも乗る人たちがいたことくらいだろうか。こいしはそんな人たちの視線から隠れるかのように、未花と私の間で縮こまっていた。
こいしよりも身長が高くて隠れやすそうな未花じゃなくて、身長の低い私にすがりついていたあたり、完全に未花へと心を許したわけではないようだ。まあ、こいしが他人を避けてるのはトラウマからのものだから、少しでも心を許している時点でかなりすごいことだとは思う。
そんなこいしのため、というわけではないらしいけど、私たちは二人掛けの椅子を向かい合わせた席に座っている。こいしと私が同じ椅子に座り、未花が正面の席に座っている。
太陽はてっぺんまで昇ったから、カーテンは上げたままの状態だ。顔を横に向ければ、こいしの横顔とともに外の景色が見える。
「一度でいいから、こういうことしてみたかったのよね」
膝の上に先ほど露店で買ったお弁当を乗せた未花が嬉しそうにそう言う。こいしと私の膝の上にもお弁当が乗せられている。
箱は木でできていて、絵の描かれた紙と紙でできた紐とで包装されている。
それと、短い木の棒の物が半分くらい紙に包まれて紐と紙の間に挟まっている。何だろうか、これは。
「こういうことって?」
「移動中の電車で同行者と向かい合って、お弁当をつつき合うこと」
その答えを聞いて、三人全員に違うお弁当を渡した理由を察する。一緒に食事をするのに、別のものを食べるのはなんだか落ち着かない感じだけど、そういう理由があるなら納得だ。
これが、未花がやってみたいって言ってたことなんだ。
「今まではずっと一人だったから、する機会がなかったのよね。」
そう言いながら、未花はお弁当の紐をほどいている。黙って見ているのも悪い気がするから、私も開けてみる。
紐の一端を引っ張るとするりとほどけた。こいしも同じようにしている。
解いた紐と何だかよくわからない木の棒の拘束から解き放たれた紙の蓋を外す。お弁当の中にどんなものが入っているのか、というのを写した写真が横に置かれていたから中身は知っている。それでも、蓋を外すという行為にはわくわくさせる何かがあるような気がする。
「そういえば、お箸は?」
蓋を完全に外してから、そう気づいた。どう見ても、手で掴んで食べるようなものには見えない。
まあ、お箸を使うのは苦手だから、フォークとかスプーンとかの方がいいんだけど、和風っぽい感じだからお箸の方が妥当だろう。
館の中では、あまり食事を摂らないパチュリーと私だけがお箸を使うのが苦手だ。他のみんなはメイド妖精を含めて上手に使っている。
「これが箸よ?」
未花が何だかよくわからなかった木の棒を紙の中から出して目の高さに上げる。さっきまではわからなかったけど、上端だけを残して真ん中に切れ込みが入っている。
確かに、上端が繋がっていなければお箸のように見えないこともない。
「こうやって、割って使うのよ」
未花が木の棒を左右に引っ張ると、ぱきっ、という乾いた音を立てて二本に割れた。ちょっと持ちにくそうだけど、一膳のお箸になっている。
こんなものがあるんだ、と感心しながら私も同じことをしてみようとしてみる。
「……」
力加減がわからないから、すこーしずつ手に力を入れながら左右に引っ張っていく。込められる力にあわせて間が大きくなっていくけど、割れる気配は一向に感じられない。
「もっとこう、一思いにやった方がいいと思うわよ」
見るに見かねたらしい未花が助言をしてくれる。
「でも、それだと折れたりしそうで怖い」
「あはは、それは心配しすぎよ。変に力を込めない限り折れたりなんてしないわよ。ま、もしものときは私のと変えてあげるから心配する必要もないわよ」
そんなものなのか、と内心頷きながら、気持ち先ほどよりも力を込めてみた。
でも、お箸からの反発を感じてきた辺りで、なんだか怖くなって手の力が抜けていく。だんだん開きが小さくなってきて、最後には元の形に戻ってしまう。
精神的にかなりの強敵だ。
「フランはいろんなことに対して身構えすぎなんだと思うよ」
そんなことを言いながら、こいしは平然とした様子で割っていた。初めてという感じはしない。幻想郷で同じような物は見たことがないはずだけど。
「何だか手慣れてるね」
「うん、他人の得意なことを真似するのは得意だから」
単にずるをしているというだけだった。いや、無意識の部分を操ったりするのは専売特許だからそうでもないんだろうか。こいしだからこそ、という感じだ。
「まあ、思いっ切りやっちゃえばいいよ。こう、抵抗されても無慈悲にぐーっていく感じで」
言葉の選び方が何だか物騒だったけど、未花の助言よりは具体的だった。
とりあえず、もう一度挑戦してみる。
こいしに言われたとおり、ぐーっと力と思い切りを込めてみる。でも、押し戻そうとしてくる力が、折れる直前の知らせなのではないだろうかと思って再び力が抜けてくる。
「ほら、フラン頑張ってっ!」
こいしが応援をしてくれる。でも、それだけでやりたいようにやれるほどの度胸とかは持ち合わせてない。
ぐっ、ぐっと何度か力を込めてみるけど、その度に押し返されてしまう。
「わっ」
「うわっ!」
今まで黙って見ているだけだった未花が突然そんな声を上げた。驚いた私はそれ以上の声を上げてしまう。
お弁当が膝から落ちそうになったけど、真向かいに座っていた未花が支えてくれた。
「い、いきなり、何……?」
「驚かせばその衝撃で割れるんじゃないかと思ったんだけど、期待通りだったわね」
お弁当を支えていた手を離した未花が嬉しそうな笑みを浮かべる。
自分の手元に目をやってみると、木の棒は綺麗に二つに割れていた。私はそれを呆然と眺める。
「でしょう?」
未花の笑みが悪戯っぽい物に変わっていた。ああ、もしかしたら未花も他人をからかったりするのが好きなんだろうか。
どうして私の周りにはそういう人ばかりなんだろうか。こいしからも若干そういう傾向が見て取れるし。
「む……、ちょっと味が濃ゆい」
そのこいしは、いつの間にかお弁当を食べ始めて感想を漏らしていた。まあ、いつもどおりと言えば、いつもどおりのマイペースっぷりだ。
「あ、ちょっと! 何勝手に食べ始めてるのよ!」
「待ちきれなかったから。それに、フランがちゃんと箸を割るのを見てから食べ始めたから問題ない」
「そう言うなら、まあ、それでもいいわ」
未花がお箸を構える。視線が心なしか鋭くなっている。
お弁当をつつき合いたいとか言ってたけど、未花が纏っているのは奪い取るといった感じのオーラだ。図書館に来た魔理沙がよく同じような雰囲気を醸し出している。
「ただし、これはもらったぁっ!」
私の抱いた印象は間違ってなかったようで、未花のお箸が勢い良くこいしのお弁当へと伸びる。多分狙ってるのは、レタスの上に乗せられた鶏の唐揚げ。
この調子だと奪い合いへと発展していくんじゃないだろうか。まあ、私は取られても気にしないけど。
「……あれ?」
勢いよく伸びた未花のお箸は、唐揚げではなくレタスを掴んでいた。こいしが力を使って何かをしたんだろうか。
「一度掴んだ物は、責任を持ってちゃんともらうっていうルールにしよう。文字通り唾を付けたわけだし。これ貰うね」
こいしが固まったまま動かない未花のお弁当から、魚のフライを取りながらそう言う。なんだかやけに手馴れている感じだ。力を使っての撹乱もしてるから、案外地霊殿の食事風景は大体こんな感じなのかもしれない。
全てのペットがちゃんと言うことを聞いてくれるというわけでもないらしいし。
「ええ、望むところよ」
これは荒れそうだなぁ、と思いながら一人手を合わせて昼食を食べ始めたのだった。
◆
「……何だか、かいだことのないにおいがする」
海の近くにあるという駅で電車から降りたときの最初の感想はそれだった。
どう表現していいのかわからないけど、たぶんこれが海のにおいだと思う。本に海の近くでは独特のにおいがする、みたいなことが書いてあったからそう思っているだけだけど。
「確かに、知らないにおいがなんとなーく混じってるね」
「たぶん、海のにおいでしょうね。私はまだわからないけど」
電車の中で少し疲れた様子を見せていた二人だけど、海が近くなってきたからか元気を取り戻している。
あの後、二人は不毛なおかずの取り合いをしていた。それは、私の方にも飛び火してきたけど、もともと昼に食べることはないし、あまり美味しくなかったから気にしていない。
「さ、後は少し歩けば海が見えてくるはずよ」
未花が歩き出す。それを追ってこいしと私も手を繋いだまま並んで歩く。
改札にいた人に最初に乗った駅でスタンプを押してもらった切手を渡して駅から出る。
そこに広がっていたのは、電車の窓からちらりと見えたほとんど見知らぬ場所だ。
道なんてわかるはずがないから、周りの景色を眺めながら未花についていく。
黒いアスファルトの道。それを挟むように建てられた家。ぽつりぽつりと点在する商店の建物。
いろいろとあるけど、人の気配はほとんど感じられない。
最初の駅の周辺は家がちらほらと建っていた程度だったけど、ここはそれに比べると家の密度は圧倒的に多い。それなのに、人の気配があまり感じられないというのは不思議な感覚がある。家が多いというのはそれだけ近くに人もいることだと思っているから。
みんな、電車に乗ってどこかに行ってしまったのだろうか。打ち捨てられた感じはしないけど、空虚さがある。
歩みを進めていく度に、家の密度は低くなっていく。それに合わせて、空虚さも薄れていき、代わりに初めてのにおい。未花いわく、海のにおいが強くなってくる。
海が近づいてきていることを実感して、胸の鼓動が高まってくる。
電車で移動している間も楽しかったけど、一番の楽しみの前には簡単に霞んでしまう。
深呼吸して高ぶりすぎている気持ちを抑えてみようとしてみる。
でも、感動するためにはそんなことをする必要なんてないのかもしれない。こういうときは、自分自身を抑える癖をつけてしまっているのは損だと思ってしまう。
ある家の角を曲がった途端にぶわっ、と強い風が吹いてきた。
咄嗟に日傘を掴んでいる手に力を込めて、持って行かれないようにする。抱きかかえるようにして支えたから、前は見えなくなっている。
でも、風の強さに慣れてしまえばちゃんと支えられるようになる。うっかり日傘を飛ばされてしまわないように慎重に、ゆっくりと顔を上げる。
「わぁ……」
視界の中に飛び込んできたのは、空の向こう側まで続いているきらきらと輝く大きな、とても大きな青色の宝石だった。
夜空に輝く星のようにあちこちに光が点在している。でも、それは止まっているのではなく、明滅を繰り返しせわしなく動き回っている。まるで、止まっている暇はないとでも言うかのようだ。
まぶしくて目をそらしそうになってしまうけど、そんなことをしてしまうのはあまりにももったいなくって、まぶしいのも我慢して目を開き続ける。その輝きを目に焼き付けようとする。
「フランっ!」
不意に正面からこいしに抱きしめられた。こいしの身体に遮られ、海は見えなくなってしまう。突然輝きを失った私の目は、しばらく暗闇の中で何も見つけられない。
何度かまばたきを繰り替えして、ダイヤの形をしたボタンを見つけた。
「こいし……?」
なんでいきなりこんなことをするんだろうか。
海に目を奪われていたせいで、少しぼんやりとしている意識の中でそう思う。
「見惚れるのはいいけど、ちゃんと自分の身は案じて。……フランは、ふとした拍子に消えちゃいそうで怖いから」
「こいしにはあんまり言われたくないなぁ」
こいしは掴みどころがないし、どこか存在感が希薄だから。
「……でも、心配させてごめんなさい。それと、ありがと」
たぶん、知らず知らずのうちに日傘を傾けてしまっていたのだろう。そんな私を守るためにこいしはこうしてくれたんだと思う。日傘の支えになるし、こいし自身が私を陽から避けるための盾となるから。
「謝るなら次から気をつけて」
「うん、わかった」
もしかしたら、また同じことをしてしまうかもしれないけど、できる限り気をつけよう。誰かに心配をかけさせるのはいやだから。
「なんだか私だけ完全に除け者ね」
事態が落ち着いてきたところで、未花がそんなことを言ってくる。
「そう思うなら、諸悪の根元であるフランを抱き締めればいいと思うよ」
「な、なんでそうなるの?」
「フランはもっと自分を大事にすべきだと思うから」
「そういうことなら、協力は惜しまないわ」
こいしが前にいるからどうなっているかわからないけど、未花の足音が後ろ側へと移動していっている。だから、次にどうなるかがわかったけど、たぶん逆らっても無意味なんだろうなと思った結果、私は大人しくしていることにしたのだった。
それからしばらくの間、前後から二人に抱き締められていた。
◆
ざざぁー。
ざざぁー。
水と砂との境が前後する。
そのたびに、水のかき混ぜられる音、砂が流される音が聞こえてくる。音が途切れることはなく、でもそれをうるさいとは思わない。耳の奥底にいつまでも残っていそうなその音に心地よささえ感じる。
においもそうだけど、間近で見るとただ大きいだけの湖ではないんだというのが実感できる。
「はぁ……、おっきいねぇ……」
こいしが溜め息ともつかない言葉をもらす。私がさっきよりは心を奪われていないというのを感じているのか、今度はこいしがかなり無防備になっている。
でも、帽子はちゃんと押さえているし、私とは違って驚異がすぐそばにあるわけではないから、私から何かをする必要もなさそうだ。
だから、私は日傘を支えることに意識を向けつつ、景色とこの場の雰囲気を堪能することにしよう。
と、思っていたらこいしが私の手を離してふらふらと海へと近づき始めた。今のところ、周りに私たち以外はいないからだいじょうぶだとは思うけど、少し不安になってしまう。
「こいし? 何するつもりなの?」
「見てるだけっていうのはつまんないから、触ってみようかなって」
くるりと振り返って私の問いに答えてくれると、また海へと向かい始めた。ときどきかなり突飛なことをすることがあるから止めた方がいいんだろうか。とはいえ、止めるのも悪い気がするから見守ることにする。
いざというときは、魔法を使って何とかしよう。
「海に近づくんならせめて裸足になった方がいいんじゃない? 濡れたままの靴なんて履いてても気持ち悪いだけだと思うわよ」
「おっと、それもそうだね」
波が爪先に触れるか触れないかのところで、未花がそう助言をする。こいしも私も靴のことを考えていなかった。
こいしは未花の言葉に素直に従って、その場で靴を脱ぎ、靴下を丸めてその中へ入れる。せめて浮いてから靴下を脱げばよかったんじゃないだろうか。黒い靴下に白い砂がたくさん付いてしまってる。
でも、そんなことは全然気にしてないようで、海の方へと小走りに向かっていった。その躊躇なさがこいしと私の大きな違いなんだろうと思う。
ちょうど水が引いていったところだから、それを追いかけていくような感じになっている。最初はさくさくと乾いた音が聞こえてきたけど、今はぺたぺたと濡れた音が聞こえてくる。
「ひゃっ、冷たいっ」
水がさっきよりも勢いをつけて戻ってきた。こいしの足首くらいまで浸かっている。それに合わせて、こいしの楽しそうな声が聞こえてきた。
実際、楽しんでるんだろうなぁ。私もせめて触ってみることができればいいんだけど、流れがあるから無理だと思う。だから、こいしの楽しいっていう気持ちを感じながら、私も楽しい気持ちになってみようと思う。
かしゃり。
「羨ましい?」
いつの間にかカメラを取り出していた未花がそんなことを聞いてきた。位置的に、私の後姿と海に足を浸けて楽しそうにしているこいしを撮ったんだと思う。
「うん、ちょっと。でも、騒ぐのは得意じゃないから、こいしが楽しそうにしてるのを見てるだけでも十分だよ」
こいしはしゃがみ込んで海の水に触れている。スカートの後ろ側が地面に触れているから、水が押し寄せてくる度に水を吸ってしまっている。少し無頓着じゃないだろうか。
「こいし、スカート濡れてるよ」
「わかってる!」
ならいいか。いや、いいんだろうか。
「見かけの年齢はこいしの方が上なのに、中身はほとんど同じって感じよね。いや、フランの方が少し上っていう感じかしらね?」
「そうかな? 普段は振り回されてばっかりいるけど」
「ふーん。でも、精神年齢が少し上の方が振り回されやすいっていうのはあるんじゃないかしら?」
「そうなの?」
私の周りにいる人のほとんどがこちらを振り回してくるから、そうだとは思えない。その人たち全員より自分の方が精神的に大人だとも決して思えないし。むしろ、私はかなり子供だと思ってる。
「さあ? 私もそんなにたくさんの人と付き合ってるわけじゃないから良く分かんないわ。何となくそう思うってだけで」
「そっか。でも、どっちが上かなんてのはどうでもいいよ。こいしも私も気が合うから一緒にいるっていうだけだから」
こいしと友達になるまでの過程に色々とあって、そのことの事後経過が少し気になっているというのもある。
それでも、気が合わなかったらこいしと一緒になってこんなところまで来てしまうこともなかっただろう。
「ま、それもそうね」
未花も私の言葉に頷いてくれた。
と、不意にこいしが立ち上がってこちらへと振り向き、こっちに向かって歩いてくる。水を十分に吸って少し重そうになったスカートとさっきまで海に浸されていた手の指先から水滴がぽつぽつと落ちている。
少しだけいやな予感がする。でも、逃げるにしてもどこに逃げればいいかわからないから動けない。
未花も何かを感じ取ったのか、カメラを構えている。何があっても最後まで見ているつもりのようだ。
できれば私を助けてくれる方向で動いてほしかった。
「こいし、せめて手を振って水を落としといた方がいいんじゃないかな」
「そう? せっかく初めて海に触ったのに、それはもったいないと思わない?」
足を速めるでも遅くするでもなく、こちらとの距離を詰めてくる。私はそれから逃げるようにじりじりと後ろに下がる。
「私は濡れたままなのはいやだから、すぐに乾かしたいって思うよ」
「まあ、フランはお嬢様だからそう思うのが自然だろうね」
完全に逃げてしまおうって思ってるわけじゃないから、少しずつ距離が詰まってきている。
「……こいしは、いやじゃないの?」
「ずぶ濡れなのは嫌だけど、手とか足とか末端の方が濡れてる感触は割と好きだよ」
「そう、なんだ」
そんな会話をしている間に、こいしの顔は目の前まで来ていた。近づくにしても、近すぎる気がする。
「というわけで、海の冷たさをフランにプレゼントっ!」
「ひあっ?!」
予想はしていたけど、本当に冷たくなった手で触れてきた。
かしゃり。
その瞬間を狙っていたかのようにシャッターを切る音が聞こえてきた。
「な、なんで背中に手、入れてるのっ」
一つ予想外だったのは、手を掴んでくるか、首筋に触れてくるか位の物だと思っていたのに、抱きつくと同時に襟の部分から手を突っ込んできたということ。冷たさを感じた途端、全身に一気に鳥肌が広がっていくのがわかった。
今も、冷たさに耐えようとするけど、どうしていいかわからず、とにかく羽をばたばたと揺らしている。何の解決にもならない。
「一番反応が面白そうだと思ったから。うん、予想通り面白い反応してくれたね。そのときの顔が見れなかったのは、残念だと思うけど」
海の水に触れていたときとは比べものにならないくらい楽しそうな声だった。
「そうだろうと思って、ちゃんと撮っといたわよ」
「そうなんだ。じゃあ、落ち着いた頃に見せてよ」
「ん、了解」
「だったら、今すぐ手を抜いて見せてもらってよっ」
「手が暖まるまで嫌」
「……」
何を言っても無駄になりそうだったから、無言でその場にしゃがみ込んでみた。でも、こいしはその動きに合わせてきて離れる気配がない。それどころか、覆い被さられるような形になってしまって逃げ場がなくなってしまう。
「この後はどうするつもり?」
「……うぅ」
どうしようもなかった。
かしゃり。
未花は私を助けるつもりがないようで、シャッターの音だけが無情に響いた。
しばらくしてからようやくこいしは手を引き抜いてくれた。その瞬間、脱力して倒れようかと思ったけど、さすがに地面に直接倒れられるほど無頓着にはなれなかった。
代わりに、批難するようにこいしに視線を向けてみたけど、全く気にされなかった。それどころか、海沿いを歩いてみようと提案してきたのだった。
そんなこいしの調子のよさに私は呆れることしかできなかった。でも、私もそうしてみたかったから、異論を挟むことはなかった。
そんなわけで今、私たちは海沿いを歩いている。
こいしの手が常温に戻るまで背中に手を入れられていたせいか、今もまだ冷たい手に触れられているようなそんな感触が残っている。まあ、濡れたままの手を入れられたせいで、その部分だけ濡れているからっていうのもあるんだけど。
こいしは波の感触が気に入ったのか、裸足のまま波が足に触れる部分を歩いている。波の音に混じって、ぺたぺた、ぱしゃぱしゃと二種類の足音が交互に聞こえてくる。ゆっくり穏やかにさざめく波の音と比べると、間が抜けている感じがしてちょっと面白い。
こいしの靴と靴下は私が預かって魔法空間に納めている。こいしが自分で持って歩いてたら、ふとした拍子にどこかに忘れてしまいそうな気がしたから、預かっておいたのだ。
「あっ」
突然、こいしがばしゃばしゃと音を立てながら走り始めた。途中でしゃくしゃくという音に変わって、一歩進む度に足に砂が付着していっている。
こいしが何に反応したのかはすぐにわかった。
「なんか見つけた」
こいしが拾い上げたのは、凸面型で扇の形をした物体だった。確か、貝殻とかいうもので海によく落ちているものだっただろうか。あれが二枚合わさって、その中に生き物がいるらしい。
「結構綺麗な貝殻ね。それをお土産代わりに持って帰ったらいいんじゃない?」
「へぇ……、これが貝殻なんだ」
こいしは拾った貝殻を裏返したりしながら、しげしげと眺めている。私も近くで見てみたいからこいしの方へと近づいてみる。
「あ、フランも見てみたい? じゃあ、これあげる」
「え? ……いいの?」
見せてもらうだけでいいと思っていたのに、あげるとまで言われて困惑してしまう。わざわざ、日傘の下まで伸ばしてくれた手を見ていることしかできない。
「いいのいいの。探して見つかるものなら、また探せばいいし。それに、私の好きな誰かに物をあげたっていうだけでもそれは十分大切な思い出になる。だから、遠慮せずに受け取ってよ」
すごく真っ直ぐな視線を向けられる。そこまで言われると、受け取らないのが悪く思えてしまう。
見惚れてたみたいだから貰うのは悪いかなと思っていたのだけど、余計な気遣いだったらしい。
「うん、ありがと」
「どういたしまして」
こいしから貝殻を受け取ると、すごく嬉しそうな表情を浮かべた。なんで私なんかのためにそんな表情を浮かべられるんだろうかと思ってしまう。
何となく聞きづらいから、聞こうとは思わないけど。
「でも、これと同じくらいの物、見つかるかな?」
そんなに歩いたわけじゃないからよくわからないけど、少し見回してみた限りでは見つからないから、簡単に見つかるものではないと思う。
「見つける。フランだけじゃなくて、お姉ちゃんにもあげたいから」
「そっか、そういうことなら、がんばらないといけないよね。私も……」
がんばって探してみよう。そう言おうとして、ふとあることに気づく。
「……お姉様に海に行ってきたなんて言ったらどう思われるかな?」
こいしの勢いに流されたり、私の興味を煽られたりして深く考えずにここまで来てしまった。怒られることはないとは思うけど、何もないというのもありえないはずだ。
とはいえ、ここまで来てしまったら黙っていることもできない。
「そんなの気にするだけ無意味じゃない? フランのことだから、全部正直に話すんでしょ? 私と散歩に行った日は、レミリアにその日にあったことを楽しそうに話してること知ってるよ」
「え? 何で知ってるの?」
知られて困ることではないけど、どうして知ってるんだろうか。
館の中にこいしがいるなら、力を使っていようとも咲夜が見つけて教えてくれているだろうし、そもそもこいしがそういうことを知ったきっかけとか意図とかがわからない。
「……別に」
何が別になのかはわからないけど、あんまり聞かれたくないみたいだ。私から視線をそらしている。
「そんなことよりっ! 歩いてるだけっていうのもつまんなくなってきたから、貝殻探しをしよう? フランもレミリアへのお土産を用意すべきだよっ。考える必要のないことを考えたって無意味だから」
やけになって話題をそらし始めた。別に無理して追求しようっていうつもりはないんだけどなぁ。
「うん、そうだね。うんと綺麗な貝殻を見つけてお姉様を喜ばせよう」
とはいえ、お姉様はそういうものにあんまり興味がないみたいだから、喜んでくれるかどうか。
「じゃあ、善は急げ! 流されちゃわないうちに、一番いいやつを見つけるよ!」
そう言って、こいしは私の手首を掴んだ。でも、私の手にはまだ貝殻が握られたままなのを思い出したようで、特にそれ以上何かをしてくるようなことはなかった。
私の手に貝殻がなかったら走り出してたんだろうなぁ。
この風の中、歩いているだけなら日傘の揺れを最小限に抑えることができるけど、走ってしまうとたぶん支えきれなくなる。力でこいしに負けることはないけど、少しでもバランスが崩れることさえも怖いといえば怖い。
まあ、自分の姉のためにがんばりたいというのは、私もよくわかる。でも、私にとって姉のためというのは自分の身を守ることもかなり重要なのだ。お姉様が、私のことを心配してくれているのはよくよく知っているから。
「こいし。急ぎたいのはわかるけど、傘を持ってるからゆっくりお願い」
「おっと、そうだったね。ごめん」
やけに聞き分けがいいときとそうじゃないときがあるけど、その二つの違いはなんなんだろうか。
そんなことを考えながら、こいしに貰った貝殻を魔法空間に納めて、改めてこいしと手を握った。
◆
コンクリートでできた壁のような塀のようなものに腰掛けて、お姉様にあげる貝殻を探していたときにみつけた貝殻を眺める。桜の花びらのような薄桃色の貝殻を。
こいしに貰ったものに比べるとずいぶんと小さいけど、色はとても綺麗だ。いくつか並べると見栄えもよくなるかもしれないけど、これ一つだと少し寂しい感じだ。
いくつかあったらお姉様にあげるようになっていたかもしれないけど、生憎これだけしか見つからなかったから自分用のお土産にするつもりだ。
お姉様にあげるものはちゃんと別に用意してある。それは、絶対に割れてしまわないように厳重に魔法空間に納めている。今まで勝手に中身が出てきたようなことはないから特別警戒する必要もないのかもしれないけど、心情的にどうしても身構えてしまう。
ちなみに、こいしは巻き貝を中心に集めていた。こいしはあの少し変わった独特な形が気に入ったようだ。
今も靴を履きなおした足尾ぶらぶらとさせながら、拾った貝殻を脇に並べて一個一個眺めている。
かしゃり。
「フランはその貝が気に入ったみたいね」
「うん」
未花の方へと向いてみると、カメラをこちらに向けていた。私たちが貝を集めている間、ずっと私たちのことを写真に撮っていたからわざとらしいシャッターの音にも慣れてしまった。
私たちが物に思い出を込めている間、未花は写真に思い出を込めていたのだ。でも、そこに未花は写っていないはずだ。
「ねえ、未花は自分の写真を一枚も撮ってないけどいいの?」
「別に自分が写ってる写真がほしいとは思わないから。ああ、でも、一枚くらい三人が写ってるのがほしいわね。今から撮ってもいい?」
「うん、いいよ」
私たちの思い出作りに付き合って貰ったのだから、断る理由なんてない。
「こいしも、いい?」
「大丈夫」
「よしっ、じゃあ寄って寄って」
そう言って、未花が顔を寄せてきた。こいしも遠慮なく顔を寄せてきて、私は二人から挟まれる形になってしまう。いつの間にかこの三人でいるときの私の定位置は、二人に挟まれる位置となってしまったようだ。
まあ、別にいいんだけど。
そんな状態で未花がカメラを持った手を前に伸ばす。レンズがこちらへと向いている。
かしゃり。
何の前触れもなくシャッターが切られた。こういうときは何か合図をするって聞いたことがある気がする。でも、そういうことをされると私の場合、変に身構えてしまうかもしれないから、これで正解だったのかもしれない。
「どうかしら?」
そして、未花は手を引き戻して、先ほど撮った写真を見せてくれる。
少し傾いているけど、そこには三人がしっかりと写っていた。未花は笑みを浮かべていて、こいしも気兼ねない様子で笑顔を浮かべている。そして、二人に挟まれた私は困ったような表情を浮かべながらも、口元が微かに緩めている。
あのとき、あの時間を楽しんでいた。それが、如実に伝わってくる写真だ。集合写真としてはかなり出来がいいのかもしれない。今までそんなものを撮ったことがないから、本当に直感だけの感想だ。でも、だからこそ正しいとも言えるかもしれない。
「うん、いいと思うよ」
「だね」
こいしも、文句はないようだ。
「そう、よかったわ。本当は二人にも写真をあげれたらいいんだけど、印刷できる場所がないのよね」
残念そうに言う。写真は複製しやすいから、思い出を共有するのに最適なものなんだろう。同じ物を持っているというのは、それだけで共感を得られるだろうし。
でも、本当に印象深い事柄なら無理してそういうものを作る必要もないと思う。
「なら、その分だけ覚えておくよ。今日のことは絶対に忘れないから」
「……まあ、そうね。さすがに、今日あったことは簡単に忘れられないでしょうし」
そう言いながら、思い出の詰まったカメラを片付ける。この雰囲気はそろそろ帰るのかなと思っていると、
「ねえ、一つだけお願いしたいことがあるんだけど、いい?」
「未花が無茶なことを言ってくるとは思わないけど、内容によるかな」
帰る前にまだ一つイベントがありそうだ。提供者はこいしか私か、それとも二人ともか。
何にせよ、安請け合いはできない。内容を聞いてから、やっぱりできないと言って落胆させるのはいやだし。
「まあ、そうよね。……空を飛んでみたいのよ。フランもこいしも飛べるのよね? だったら、私を抱えたりして飛べたりしないかな、って」
「うーん、どうだろう。日傘を支えないといけないし、周りに人がいないけど飛んだらさすがに目立つだろうし」
特に日傘に関しては死活問題だ。飛んでる姿を見られたところで死にはしないけど、陽に当たることはそうとは言えない。少しの間ならだいじょうぶだけど、長時間当たることはできない。
「なら、私が後ろから抱きついて傘も持つよ。そしたら、まず気づかれないし、フランも陽から守られる」
「この前、私の傘を持ったときふらついてたけど、だいじょうぶ?」
私の日傘は大きさがある分、重くなっている。私には吸血鬼の身体能力があるからなんともないけど、人間と同じくらいの力しかないこいしでは満足に支えられなかったようだった。
「そういえば、フランの傘ってものすごく重かったよね。フランが平然と持ってるせいですぐに忘れるけど」
「まあ、そこは実際に体勢を取りながら考えればいいんじゃない? 適当にやってれば最適な体勢が見つかるかもしれないし」
かなり楽観的だけど、あんまり悲観的になっても仕方ないか。だめだとわかればそこで諦めればいいわけだし。
……よくよく考えてみれば、こいしが未花を抱えて飛べばいいんじゃないだろうか。でも、私の傘を持ってふらついていたことを考えると、未花を抱えて飛ぶことができないのかもしれない。
まあ、今更誰かが一人だけ残るというのもなんだし、考えても仕方ないか。
「というわけで、ちゃっちゃと考えちゃおう。フラン、これ預かっといてくれる?」
「うん」
こいしから貝殻を受け取って、私がさっきまで眺めていた貝殻と一緒に魔法空間へと納める。普段は日傘を出し入れするくらいしかしないけど、今日はいろいろな物を納めている。それだけ、外の世界へと出るというのは特別なことなんだろう。
「とりあえず、私が未花を後ろから抱きかかえるっていう形でいいかな?」
「で、その後ろから私がフランに抱きつけばいいんだね」
これが基本の形になりそうだ。空を飛んでいると一番実感できそうなのは、景色がちゃんと見えているときだろうし、そうなればこいしは後ろから支えるしかなくなる。
「じゃあ、フラン。傘貸して」
「うん、はい」
「と、と」
渡した途端に、こいしがバランスを崩しそうになる。でも、何とか支えることはできたようで、倒れることも私に陽が当たるようなこともなかった。
「前に持ったときと同じで、重い……。でも、フランのために全力で頑張るから」
「……あんまり無理しないでね」
「命尽き果てようとも、絶対にフランを陽から守ってみせるから」
「そうなる前にちゃんと言ってよ?」
大げさだなぁ、と心の中で突っ込みを入れつつそう返す。こいしは言い回しが大仰になることが多いから慣れてしまった。
「わかってるわかってる。私が無理して一番危険なのはフランだもんね」
そうやって大回りして、ようやく話が一個前に進むのだった。
無駄な会話で時間を費やすのは嫌いではないけど、いつ話がまとまるかなとそんなことを考えていた。
あれこれと思索を繰り返して、ようやく準備が整った。
基本的な形は事前に考えていたとおりで、私が未花の脇から腕を通して抱きかかえて、こいしが後ろから抱きついてきている。
日傘はこいし一人では支えきれなかったから、未花にも支えてもらうことにした。
こいしが腕を突き出すようにしていて、柄の部分が未花の前で袈裟掛けになっている。その柄を未花が両手で持って支えている。少し窮屈そうだけど、問題ないとのことだ。
「じゃあ、未花、今から飛ぶけど、いい?」
「うん、大丈夫よ」
私とこいしはすでに浮き上がっている状態だ。そうしないと、一番身長が一番低いのに真ん中にいる私は押しつぶされてしまう。それに、こいしが傘を支えるために結構力を入れている。
で、私が浮かんでいると、今度はこいしが前を見れなくなってしまうから、こいしも浮かんでいるということだ。
かなり目立ってしまうような状態だけど、周りには誰もいないし、こいしも力を使って私たちに気づかれないようにしてくれているだろう。
「じゃあ、行くよ」
まずは、未花の足が地面から離れる程度に浮かび上がる。日傘を支えるまでが大変だったというだけで、人一人を持ち上げるくらいは簡単だ。たぶん、こいしが自力で飛んでいなくても何とかなると思う。
「お、おお?」
浮かび上がる感覚に驚いたのか、未花がそんな声を上げる。でも、こんな高さで止まっても仕方ないから、構わず高度を上げていく。
初めて空を飛ぶという未花のために、いつもよりも速度は抑える。少しずつ、海の見える面積が増えてくる。
何度見ても、陽の光を反射してきらきらと光っている海は綺麗だと思う。でも、見惚れてしまわないように気を引き締める。腕の力が抜けてしまって未花を落としたらいけない。
正面を見つめて空の割合が多くなってきたところで上昇をやめる。これくらい上がってくれば十分だろう。そう思い後ろ、町のある方へと振り向いてみる。
「わ……」
今度は、私の口から感嘆の声が漏れてきた。
数え切れないほどにたくさんの建物。縦横無尽に引かれた真っ黒なアスファルトの道。
背後に広がっている海と比べると、少しばかりこじんまりとしているように見える。でも、この目に映っている光景が人の手によって作られているのだと思うと、すごいと思う。
「フ、フラン! 手の力が緩んできてるわよっ!」
「あ、わ、ご、ごめんなさいっ」
未花の慌てたような声に我に返る。そして、取り返しのつかないことになる前に、手と腕とに力を込め直す。
「はぁ……。フランは身を預けるにはちょっと危なっかしいわね。信用はできるんだけど」
安堵の溜め息とともにそんなことを言われてしまった。
「本当にごめんなさい」
「まあ、これはこれでスリルがあって面白いからいいけどね」
未花の声は少し弾んでいた。本当にこの状況を楽しんでいるということなんだろう。怖いことが嫌いな私にはあまり理解できない感性だ。
「それにしても、二人は自分でこういう光景が見られるのね。羨ましいわ」
「私からすれば、未花の方が羨ましいよ。幻想郷には海もこんなに大きい町もないから」
私たちが普段見られるもの、未花が普段見られるもの。
違いがあって当然だ。だから、お互いに羨んでしまうのも仕方のないことだろう。
「ないものねだりってやつね。じゃあ、今のうちにお互いこの景色を楽しめるだけ楽しんでおきましょうか」
「うん」
そう、お互いに普段見られないものを見ているのなら、それを見られるときに存分に眺めればいいのだ。目の奥に焼き付けるくらいに見つめ続ければいいのだ。余計なことを考えてしまっていてはもったいない。
それから、私たちは一言も発することなく町を俯瞰する。
人や自動車が動いているのがちらほらと見える。スズメやカラスばかりだけど、鳥の姿もいくつか見える。町の境目はどこにも見当たらなくてどこまでも続いているようだ。
こうして空から見るとよくわかるけど、外の世界は人間の世界なのだ。そして、その大半は私たちの存在を認めていないのだから、こちらに私たちの居場所はないのだろう。
だから、立ち止まるのではなく、こうしてすれ違うくらいがちょうどいいのかもしれない。こっちでは、文字通り羽をのばすことができないし。
「……くしゅんっ」
不意に未花がくしゃみをした。未花の身体が大きく揺れる。
驚いて腕の力が抜けそうになったから、慌ててぎゅっと力を込めた。
「……フラン、ちょっと痛い」
「ご、ごめんなさいっ。驚いて落としそうになったから……」
ゆっくりと腕の力を緩める。とっさに力を込めるとどうしても力が入りすぎてしまうようだ。これでも、かなり抑えてるつもりなんだけど。
「いや、今のは私が悪かったわ。……さすがに、ここまで高いところにくると寒いわね。二人は平気なの?」
「うん。慣れてるし、今は二人に挟まれてるからね」
「そうそう。私とフランの間で熱を循環させてるから、いつもと比べると暖かいよ」
自分を基準に考えていたから、気づかなかった。とにかく、魔法で未花の周りの温度を上げる。次にまたいきなりくしゃみをされたときに支えきれる自信はない。
「ん? なんだか暖かくなってきたわね。フラン、何かした?」
「うん。魔法で周りの温度を上げたんだよ。寒くない?」
「ちょうどいいわ。ありがと」
「どういたしまして」
「でも、そろそろ降ろしてほしいかなー、と。足をぷらぷらさせてるだけでも、結構不安って煽られるものなのね」
くしゃみをする前は怖さも楽しんでいたようだけど、怖くなってきたようだ。もしかしたら、初めて空を飛べたことに興奮してて麻痺してただけなのかもしれない。
「そう? じゃあ、降りようか」
「うん、お願い」
というわけで、降下を始める。俯瞰しているようだった視点が徐々に下がっていき、普通に立っているときと大差がなくなってくる。
上昇するときとは違って、寂しさのようなものが付き纏ってくる。これで、終わりなんだとわかっているからかもしれない。
「はぁ……、地面に足が着いてるのってこんなに安心できることだったのね」
地面に降りてきたとき、未花はそんなことを言った。空を飛ぶことが当たり前の私たちには、決して理解することのできない感覚だ。
それから、こいしが日傘の柄から手を離して、私は未花を離す。最後に未花から日傘を受け取って、飛び立つ前の状態へと戻った。なんとも面倒くさい。
「さて、と、そろそろ帰りましょうか」
最後のイベントも終わってしまったから、もうこれでおしまいのようだ。雰囲気的にもそうだけど、電車に乗っていた時間を考えてみても、そろそろ帰らないといけない。
「うん」
こいしと私が頷いたのはほとんど同時だった。
◆
がたんごとん、がたんごとん。
帰りの電車の中で、私たちは電車のその規則正しい音に包まれている。
あまり長時間動くことない私は、こいしに振り回されるように散歩をすると大体帰った頃には体力が尽きかけている。代わりに走ったりだとかの瞬発的な運動ならさほど問題はないんだけど。
それは、今帰りの電車の中でも同じで、三人で並んで座ってぼんやりと窓を眺めていると、意識の空白を埋めるようにじわりじわりと疲労が滲み出してきていた。じっと動きを止めているから、身体の方が館に帰ってきたと勘違いしてしまっているんだろうか。
さらに、両側にいる二人の暖かさと電車の揺れとが疲労を眠気へと変えていっている。さっきから少しずつ視界が狭まってきていて、それに負けまいと何度か首を振っているけど、振り払い切ることはできていない。
徐々に徐々に確実に眠気が積み重なっていっている。
「フラン、眠いなら寝たら? 私の肩ならいくらでも貸してあげるよ」
私よりも動き回っていたはずのこいしはまだまだ余裕がありそうな感じだ。
「そんないくらもあるものだとは思わないけど……。それに、いつまたこの景色が見れるかわからないから、寝るのはもったいないよ」
こいしがいれば、好きなときに外の世界へと出てくることができるんだろうけど、未花のような案内役がいなければ好きに動くことはできないだろう。幻想郷とはいろいろと常識が違うようだから。
「ふむ、それは残念。でも、限界だと思ったら迷わずこっちに倒れてきていいよ。ちゃんと支えてあげるから」
「うん、ありがと」
なぜだかわからないけど、やけに頼ってほしがっている気がする。眠気に蝕まれかけている意識はそこまで考えるのが限界で、すぐに気にする必要はないという結論を出す。
それからまた私たちは無言になる。こいしと話している間はなんとなく誤魔化せていた眠気もまた顔を覗かせている。
こいしは全然眠そうではなかったけど、未花はどうなんだろうかと視線を向けてみる。
「ん? どうかした?」
すぐに反応があった。少しの間じっと見てみるけど、眠そうな様子はない。
「未花も眠そうじゃないんだね」
「言われてみればそうね。いつもなら、帰りの電車では寝てるんだけど……」
そう言って考え込む。
「フランとこいしがいるからかしらね。せっかく妖怪が隣にいるのに、寝ちゃうのはもったいないかなって」
「そうなんだ」
私と似たような理由だった。でも、未花は私と違ってその気持ちはちゃんと眠気に勝っている。やっぱり、普段から動いてるのとそうでないのとでは差が出てしまうようだ。
「それに、フランの寝顔も見てみたいって思って待ってるのよ」
「……何で?」
少し考えて浮かんできたのは疑問の言葉だけだった。他にも言いたいことがあるような気がするけど、うまくまとまらない。
「他人の寝顔って、なんだかずっと見てたいとか思わない?」
「……まあ、なんとなくわかるような気はする」
私が寝顔を見たことがあるのはお姉様と美鈴くらいだけど、なんとなく眺めていたいという何かが寝顔にはある気がする。まあ、お姉様の顔ならマイナスの表情でさえなければどんな表情を浮かべていてもずっと眺めていたいと思うんだけど。
「でしょう? だから、遠慮なく寝ちゃっていいわよ。こいしと一緒に眺めてるから」
「私はフランを支えてないといけないからそんなことしない。代わりに肩にかかるフランの重さを十分に感じてる」
「えー……っと……?」
どちらに対してもどう反応すればいいのかわからない。下手をすれば私を話題の種として二人で盛り上がりそうだというのはわかるけど。
ただ、あのときと違って抵抗感はなく、ただただ困惑が浮かんでくるだけだ。眠くて頭が回っていないのかもしれない。
「……」
二人から反応があるのを待ってみるけど、黙ったまま何も言おうとはしてこない。それどころか、二人ともこちらを見ていなくて、窓の方を眺めている。
私が寝てしまうのを待っているのかもしれない。
示し合わせたわけでもないのに取る行動が同じ二人に対して、なんだかなぁ、と思う。どうせ何を言っても無駄になりそうだから、私も窓の方へと視線を戻した。私が寝ようとしないのはこの窓から見える景色を見たいからなんだし。
景色が流れていく。
ぼんやりとしている意識の中では、油断をすればいつの間にか全く違った景色に変わっていることがある。それを楽しんでいる余裕はなく、ただ移ろいゆく景色を視界に映していくことしかできない。
そんな景色が不意に傾く。頭に何かが触れたところで止まるけど、一向に元に戻ることはない。
しばらくして、自分の身体がこいしの方へと傾いているということにようやく気づく。
起きないと。そう思うけど、どうやらここが限界のようだ。ゆっくり落ちていくまぶたを上げることもできない。
ああ、もったいないなぁ。
ゆっくりと閉じたまぶたによって、視界は暗転し、意識がそれに続いた……。
◆
……目が覚めて最初に感じたのは振動だった。それから、自分が何か暖かいものに抱きついていることに気づく。
その正体は少し考えてからわかった。自分の身体に紐のようなものが当たっている。
このまま目が覚めたことに気づかれてしまうのはなんだか気恥ずかしい。とはいえ、このまま背負われているというのも悪い気がする。
「あ、フラン。起きた?」
でも、このまま寝たふりをするというのはできなさそうだ。
目を開けると、こいしがいつもかぶっている黒い帽子とそこから少し覗く緑と青との中間のような不思議な色合いをした銀髪が目に入ってきた。
なんだか光が青っぽい気がすると思って少し視線を動かしてみると、すぐ傍を未花が青い傘を差して歩いているのに気づいた。
「……なんでわかったの?」
「ん、なんとなく」
なんともこいしらしい答えだった。無意識が操れるからなのか、それともかつて心を読めたからなのかはわからないけど、他人の動きに対してやけに敏感なところがある。
だから、あまり気にしない。
「こいし、自分で歩けるから降ろして」
「ダメ」
「え? なんで?」
「どうしても。こんなチャンス、滅多にないだろうからね」
「どういうこと?」
「そういうこと」
答えてくれるつもりはないようだ。まあ、本人が進んでやってくれてるんだから、気にしなくてもいいの、かなぁ?
そうやってなんとか自分を納得させながら、周りの状況を把握してみる。
左側にはコンクリートで固められた壁、右側には車が落ちてしまわないためにあるというガードレールとがある。アスファルトの道は上の方へと向かっている。
どうやらここは外の世界の博麗神社の傍のようだ。見覚えがある。
「ねえ、傘は未花が用意してくれたんだよね?」
「そうよ」
「ありがと」
「どういたしまして」
それ以上会話は続かず途切れてしまう。もともとここにいる私含めた三人は話をあまりしないようだ。未花も聞きたいことを聞いてからは、それほど口を開いてはいなかった。
二人分の足音が響く。私だけがこうして楽をしていると、居心地が悪い。でも、こいしは望んで私を背負ってくれているようで、頼んでも降ろしてくれないだろう。
代わりに、私だけが感じてるだろう気まずさを誤魔化すために口を開いた。
「こいし、重くない?」
「全然。むしろ、軽すぎるくらい。ちゃんと食べてるの?」
「割と食べてるつもりだけど」
小食ではあるけど、間食を取る回数も多いから人並みか、それより少し多いくらいは食べてるんじゃないだろうかと思う。それなのに、そんなことを言われてしまうのは、血以外は吸血鬼の栄養にならないからだろうか。
自分の身体のことでも、わからないことは多い。
「そういえば、結構お菓子を食べてたりするね」
「フランってお菓子が好きなのね。イメージ的には甘い物が好きそうだけど、どうなの?」
「うん、未花の言うとおり」
私の幸せの四分の一くらいは甘いものを食べられると言うことだ。ちなみに、幸せの半分はお姉様といられることで、残りの四分の一は不自由なく穏やかに暮らせているということだ。
まあ、穏やかにという部分はこいしと出会ってから少し崩れてはきたけど、不満はない。
「フランって、極度の甘いもの好きだからね。甘いものを食べてるときの幸せそうな表情は必見」
「へぇ、それはもったいないことをしたわね。知ってたら、いくらでも甘いものを買ってあげたのに」
「なら、いつかまた会えばいいよ。お互いにいつ会うか決めて」
未花との別れが迫っている今、誰かがその言葉を言うとは思っていた。でも、まさかそれがこいしだとは思っていなかった。
私が思っている以上に未花に対して心を許しているのかもしれない。
「……最初、あんなに私のことを警戒してたこいしがそんなことを言うなんて意外ね」
未花も同じようなことを思っていたようだ。声に驚きが滲んでいるのがわかる。
「……別に。ただ、そうしたらフランが喜ぶかなって思っただけ」
「ふぅん。まあいいけど」
どこか嬉しそうな声でそう言う。
なんでこいしの態度が変わったのかとかは気にしてないのだろう。ただ、こいしに受け入れられたというその事実があるだけで十分だと思ってるのかもしれない。
「確実に会えるとしたら、春先くらいになるかしらね。冬も時間があるといえばあるけど、雪が降ったときに電車が動いてるか怪しいし」
「未花ってここから遠いところに住んでるの?」
「電車で二時間くらいってところ」
そう言われてもよくわかんないけど、あれだけの速度で動いてるんだからそれなりに遠いんだろうなと、ぼんやり思う。
「近くに住んでればいつでも会えたかもしれないのに残念ね」
「うん。でも、普通は会うことさえもできなかったはずなのに、こうして顔を合わせられただけでもすごいことだと思うよ」
「まあ、そうね。妖怪に会ったなんて言える人なんて滅多にいないでしょうしね。だから、こうして私たちが出会うきっかけを作ってくれたこいしには感謝してるわ。ありがとう」
「……どういたしまして」
心を許したといっても、まだ距離はあるようでこいしの声は恥ずかしさで霞んでいた。
これが誰かが前に進んでいる様子を見守るってことなのかなと、自分の頬が少し緩んでいるのを感じ取りながら思うのだった。
「とうとうお別れね。あなたたちと一緒にいられて楽しかったわ。次は桜の芽が膨らむ頃に会いましょう」
「随分曖昧な約束だけど、だいじょうぶ?」
古びた博麗神社の裏。一度離れてこうして戻ってきたことで気づいたけど、この周りの空気は幻想郷のものに似ているような気がする。
だからこそ、結界に綻びができていて私たちはそれを越えることができたのかもしれない。まあ、結界の外に出たという話なんて聞いたことがないから、こいしのように特殊な力があるか、結界のことにかなり精通していないと見つけることはできないんだろうけど。
「いいのよ。休みになって暇になったら近くの宿でも取って、毎日ここに通うから。だから、あなたたちも春が近づいたら数日に一度くらいはここに来てちょうだい。私は何か目印になるものを置いておくから」
どうやら春が近づくと心情的に落ち着かない毎日を過ごす羽目になりそうだ。臆病だったり慎重だったりする性格は待つのが苦手だ。時間が経つ度に不安が積もっていくから。
でも、まともな連絡手段がないのだからそうするしかないだろう。
「わかった。春頃になったら毎日未花の痕跡を探してみるよ。こいしもいいよね?」
「それくらい、お安いご用」
二人で約束を受け取る。
目に見えないほどうっすらとした繋がりでも、何もないよりはきっとまた会えるだろうという気持ちを強く抱くことができる。
「ありがとう、二人とも」
未花も目を細めて笑みを浮かべてくれた。
「じゃあ、私たちは帰るね。未花、楽しかったよ」
「ええ、私も楽しかったわ」
「美味しいお菓子を食べさせてくれるっていうの絶対覚えといてよ」
「はいはい、わかってるわよ」
なんだかんだでこいしもいつもの調子が出せる程度にはなったようだ。その証が自分勝手な発言っていうのはどうかと思うけど。
「じゃあ、二人とも元気でね。また、会える日を楽しみにしてるわ」
「うん、ばいばい。未花も元気でね」
私たちは手を振りながら森の中へと入っていく。未花も手を振り返してくれていた。
姿が見えなくなるまで手を振っていたかったけど、完全に森の中に入ってしまえばそんな器用なことはできない。名残惜しさを感じながらも前に向き直る。
そして、こいしの背中を追うことに集中する。私たちが無事幻想郷に帰れるかどうかはこいしにかかっている。私はこいしを信じて付いて行くしかない。
こちら側へ来たときと同じように、こいしは不規則な軌道を描いて歩く。無駄な動きに見えるかもしれないけど、そこにはこいしの無意識がどこからか読み取って具現化させた重大な意味があるはずだ。だからこそ、私たちは外の世界へと出てこれたのだ。
こいしがかき分けた草の間を抜けた途端、空気が変わった。魔力や霊力に満ち溢れた幻想郷の空気だ。どうやら無事に帰ってこれたようだ。何が起こるか大体予想ができているから、出たときに比べればあっさりとした感じだ。
でも、まだ周りが木に囲まれているから、帰ってきたという気持ちにはまだならない。
木々の間を抜けると、神社の姿が見えた。向こう側で見たものと同じだけど、こちらは手入れが行き届いているだけあって綺麗だ。
ここでようやく帰ってきたという気分になる。その途端に、お姉様の顔を見たいという気持ちも強くなってくる。
「おかえりなさい」
でも、不意に聞こえてきた声によってその気持ちも霧散させられてしまう。私たちは飛び上がるくらいに驚いた。私が吸血鬼じゃなかったら走って逃げ出していたかもしれない。
でも、日の光という鉄格子が私の動きを止めさせた。こいしも逃げようとはしない。
逃げない代わりに、私はおそるおそる声のした方を見てみた。
そこには、宙に腰掛けた八雲紫の姿があった。
姿を見たのは一度きりだけど、その印象的な姿は決して忘れられない。名前はよく聞くから覚えている。幻想郷を作り出した賢者の一人で、管理も行っているはずだ。
いやな予感を覚えて身構えてしまう。こいしも私の背後に隠れて身を堅くしている。
「酷いですわね。出迎えの言葉をかけただけで驚くなんて。その上警戒までされてしまうなんて、私傷ついてしまいますわ」
冗談めかした物言いをしているけど、私はさらに身を堅くしてしまう。私たちに会いに来るだけの理由があることを自覚しているから、簡単に安心することはできない。
「別に、怒って脅してどうこうするつもりはありませんわ。幻想郷から出て行ってはいけないなどという決まりはないのですから」
「……じゃあ、私たちに何の用?」
「外に出るのは構わないけど、あんまり頻繁に出入りしないでほしい。ただそれを言いたいだけですわ。結界の性質上、物体の出入りに対する耐久性はあるけど、それでも頻繁に出入りされると、それだけ傷んでいくものなの」
どこからか取り出した扇子で口元を隠しながらそう言う。そのせいで、表情が読み取りづらくなる。胡散臭いという噂をよく聞くけど、その行動がそう思わせているのではないだろうか。
引け目があるこちらとしては、どんな対応をされても警戒心をしつつ萎縮してしまうことしかできないんだけど。
「とりあえず、私の言いたいことはわかってくれたかしら?」
「わ、わかった……」
ずいぶんとあっさりしていて面食らってしまう。本当にお願いをするためだけに私たちに会いに来たようだ。たぶん、だけど。私にわかるのはそれくらいだ。もし何か別の用事を隠し持っていたのだとしても、私にそれを推し量ることはできない。
「それなら、よかったですわ。……ああ、そうそう。貴女たちが外の世界に行っているという事は一応保護者たちに伝えておきましたから」
「え? それって、お姉様のこと?」
私の保護者ということで該当しそうなのはそれくらいしか思い浮かばない。咲夜もそれに近い立場であるような気はするけど。
「私の認識ではそうなってますわ。私の前では隠そうとしていたみたいだけど、嫌でも分かるくらいに心配しているようでしたわよ」
どうやら、寄り道せずに真っ直ぐに帰った方がよさそうだ。帰ったときにどんな反応をされるのかと思うと少し怖いけど、躊躇はない。
「そちらの方は、ただ呆れているだけのようでしたわね。普段、二人がどういう行動をしているのかよく分かる違いでしたわ」
紫はこいしの方へと視線を向けると、愉快そうに頬を緩ませる。
「では、伝えることも伝えましたし、私は帰りますわ。ご機嫌よう、結界破りのリトルシスターズ」
そんな台詞を残して紫は空間の裂け目へと姿を消した。それもすぐに空気中に溶けるように消えてしまう。紫の気配は完全に消え去った。
こいし以上の掴みどころのなさに、しばし呆然としてしまう。
「こいしっ、私急いで帰るからっ」
我に返ったとたんに、私は慌てて日傘を取り出して広げる。お姉様が心配していたと言う言葉が私を駆り立てる。
でも、飛び立つ直前にとあることを思い出した。
「あ、ごめんなさい。貝殻のこと忘れてた」
立ち止まって、こいしの方へと振り返る。
「なんだ、覚えてたんだ。後でからかうための材料にしようと思ってたのに」
「よかったよ。思い出せて」
こいしはことあるごとにからかってこようとしてくるから油断できない。私に慣れてくる度にエスカレートしていったような気がするから、さとりも同じような苦労をしてるのかなと考えてしまう。
「はい、どうぞ。喜んでもらえるといいね」
こいしから預かっていた貝殻を取り出して手渡す。いくつかの貝殻がぶつかりあって、からからと乾いた音を立てる。
こいしの手のひらに広がるこぶりな貝殻は、海で見たときと少し印象が違って見える。あるべき場所から離れてしまっているからかもしれない。
「喜んでもらえなかったらフランのところに持ってくから大丈夫」
「それは、だいじょうぶって言えないと思うんだけど……」
こいしが貝殻を持って私のところに来ないようにと祈っておこう。まあ、さとりがこいしから何かを貰って喜ばないということはないと思うけど。
お姉様には及ばないけど、さとりもいい姉だというのは私が保証する。
「まあ、フランが心配しても仕方ないって。なるようになる。お姉ちゃんに捨てられたら、フランのところに行くから」
「えー……」
こいしが来ること自体は別にいいけど、そのきっかけは決して認められないものだった。どんな理由なら認められるのかって聞かれてもわからないけど。
それに、さとりの傍にいてあげてほしいっていう思いも同時にある。さとりがそれを望んでいるのはよく知っているから。
「そんなことより、帰らなくていいの?」
「あっ! そうだったっ! ばいばい、こいし!」
「うん、気をつけて」
こいしの声を背に受けながら、私は全速力で館を目指した。
◆
「た、ただいまっ」
息を切らせながら玄関に駆け込む。門の辺りで美鈴に驚かれたりしたけど、声をかけている余裕はなかった。
乱れた息を整えながら玄関を見回す。そうすると、目的の人物はすぐに見つかった。
私は一目散にそちらへと向けて駆け出した。のは、いいんだけど何をどう言ってどんな行動を起こせばいいのかわからなくて目の前で固まってしまう。
「おかえりなさい、フラン。外の世界に行ってたらしいわね」
「う、うん」
お姉様の前に立っているだけでもやけに緊張してきて声が少し震える。紫と話をしていたときとは比べものにならないくらいに怖い。
どんな対応をされるのかわからないっていうのもあるけど、お姉様の纏っている雰囲気がいつもと違うっていうのもある。私を心配してくれていたときとは少し違うような、そんな気がする。
「何か問題は起きなかった?」
「だいじょうぶ。こうして、無事に帰ってこれた、よ?」
一言一言を発するのに必要以上に慎重になってしまう。でも、そのせいで逆に随分と不自然な言い回しになってしまった。
「……そう。よかったわ」
「……」
お姉様の態度が少し柔らかくなった。対して、私は更に堅くなって動けなくなってしまう。
「どうしてそんなに身構えてるのよ。私は怒ろうなんてこれっぽっちも考えてないわよ。大方、こいしに引っ張られて行ったんでしょう?」
「……半分くらいは私の意志でも?」
「それでも。どうせ、煽られでもしたんでしょう?」
「うん、まあ、そうだけど……」
完璧に見抜かれてしまっているみたいだった。私のことだけじゃなくて、こいしのこともすっかり把握しているようだ。直接会うことは少ないはずだけど、私の話を聞いてイメージを掴んでいたんだろうか。
それだけ私の話を聞いてくれてるんだろうかと思うと嬉しいんだけど、お姉様の態度にはなんだか釈然としないものが付きまとう。
……別に、怒られたいっていうわけでもないんだけど。
「お嬢様は相変わらず、フランドールお嬢様には甘いですね」
咲夜が姿を現す。
「もともと自由にさせてた私が悪いんだから、叱ったってしょうがないじゃない。まあ、遠くに行くなら一言くらい言ってほしかったっていうのはあるけど」
「……ごめんなさい」
「それにほら、フランもちゃんと反省してくれてるようだし」
「まあ、お嬢様がそう仰るのでしたら、これ以上は何も言いません」
「よかったわね、咲夜に許してもらえて」
「え……、う、ん……?」
そういう話だっただろうか。
なんだか煙に巻かれたような感じがする。
「さ、こんなところに突っ立てても仕方ないし、私は部屋に戻るわ」
お姉様がくるりと背を向けてしまう。
「あ、待って!」
今日のことは絶対にお姉様に話したいと思っていた。それに、せっかく見つけてきたお土産も渡したい。だから、その背中を追いかける。
お姉様は、そんな私の気持ちをわかってくれたのか隣に並ぶ私に少し視線を向けてくれただけで、何も言ってくることはなかった。
さっきまで怒られるんじゃないだろうかと萎縮していたのが嘘だったみたいに気持ちが弾んでいる。
お土産を渡したとき、お姉様はどんな反応をしてくれるんだろうか。
◇
パソコンのファンが部屋の中を低い音で満たす。
何もしていないときは騒がしいと感じるその音も、パソコンに触れている間はさほど気にならない。
今ディスプレイに映し出されているのは、フランとこいしを写した写真だ。車窓から覗く景色に目を奪われるフランの横顔を始めとして、何枚も何枚も順々に映し出されていく。
フランは表情豊かで、素直に笑ったり、景色に見惚れたり、私とこいしにからかわれて恥ずかしそうにしたりしている。
対してこいしは、あまり表情が動いていない。でも、枚数を重ねていくたびに表情は柔らかくなってきている。まあ、フランの隣にいるとき、フランをからかったりしているときはすごく楽しそうな表情を浮かべているのだけれど。
そして、今日のまとめとも言えるのは私たち三人で撮った写真。
私とこいしに挟まれたフランが困ったような表情を浮かべて、私とこいしは楽しそうに笑みを浮かべている。
自主的に集合写真を撮ったのなんて初めてだ。学校行事で強制的に撮らされたことは何度かあるけれど。
この写真に今日一日分の全てが詰め込まれていると言っても過言ではないだろう。だからか、この写真を見ていると自然と頬が緩んでくる。
他の写真よりも長い時間眺めてから、キーボードの矢印キーを押す。
次の写真は、こいしの肩に頭を預けて眠っているフランの寝顔。
その次は、背負われたフランと背負っているこいしの後姿。
これが最後の写真だ。最後の最後まで二人の姿が映っていた。
全ての写真を見終わったとき、自然と満足の溜め息が出てきた。
今まで撮ってきた写真はただの資料でしかなかったけど、今日撮ってきたこれらの写真は全く別のものだからだろう。これらには、思い出が詰まっている。
今日、博麗神社へと向かったのは何か目的があったからではない。昔一度訪れて、古びた神社がある以外は特に目立ったものはないということも知っていたし。
でも、どうしてもそこへ向かわなければならないような衝動に駆られて、学校をさぼって私は神社へと向かった。
もしかしたら、二人との出会いを予感していたのかもしれない。実際に妖怪が存在するのなら、そういった運命的な力が存在していてもおかしくないはずだ。
まあ、なんでもいいか。
今日フランとこいしに会うことができた。
景色ばかりを写していた私のカメラが誰かを写した。
ただ、それだけで十分なのではないだろうか。
必然やら運命やら奇跡やらなんやらは私が考えたって仕方がない。
どうせ、考えたところで答えなんて出やしないのだから。
それに、他に考えないといけないこともある。
ふと思い立って、写真表示のためのソフトを閉じ、ブラウザを開く。それから、検索窓に文字を打ち込んでいく。
気が早いかもしれないけど、今度二人を案内するお菓子の美味しいお店を探そうと思ったのだ。近場で美味しいお店があるのも知ってるけど、せっかくならとびっきり美味しいところへと連れていってあげたい。
そうしてまた二人の写真を撮るのだ。
今度は、美味しいそうにお菓子を食べている姿を。
そんなことを考えるだけで、自分の頬が緩んできているのを感じるのだった。
桜の芽が膨らむのを待ち遠しく感じるなんて初めてかもしれない。
Fin
読み終わった後、良い気分になれました
なんかそんな感じがしてすっごいほっこり出来ました
誤字報告を
もしかしたら未花も他人をからかったるするのが好きなんだろうか。
からかった「り」
さとりがそれを臨んでいるのはよく知っているから。
さとりがそれを「望」んでいるのは
でも、そんな非日常的な世界で非日常的なフラグを立てまくるストーリーでなくても楽しめるssもあります。もちろん前作と
この作品です。
『姉想いただ前へ』と同じでフランが実に人間らしい。前作と同じ雰囲気。まさに続編ですね。
思考過程を一つずつ丁寧に書いていっているt…ってこれ以前も言っちゃったよ!くそ!ボキャブラリーが少ないスカスカ脳みそじゃ、気の利いた事が言えない!
なんかないか…。なんかうまいこと言わないと…。そうだ!いやあ!砂浜はいいもんです!
ごみが転がってないサーファーしかいない海とか最高ですよね!潮のにおいもいいけど、
近くの漁港で売ってるしらすとかあじとかの匂いもいいし、それを元気よく販売しているたくましいおばちゃんの声も姿も見てて心地いい。
自分の実家も海のそばにあってですね、電車には乗らず、犬の散歩やジョギングで砂浜に行っていたんです。
やっぱり夕暮れの茜色の空と迫ってくるような巨大な雲、水平線は、何度来てもその風景を細部まで覚えていたいと
思ってしまう。そういった気持ちを文字に起こすとこんな言葉で表現できるんだなとこのssを読みながら、
感心した部分があります。紅雨 霽月さんは早朝の浜辺って行ったことありますか?
日によっては異世界の生物や物質と出会える、現代のワンダーランドです。オススメです。
内容はのんびりほのぼの。邪悪な敵もライバルも、オチもどんでん返しもなければ、謎もドロワもない。
本当に淡々としたssです。でも繊細かな。どうしてこいしが糸井さんとすぐに仲良くなれたのか、よくわからなかったけれど。
後、てっきり蓮子が登場するのかと思いきや、オリキャラをあえて出してきて何やら書き手のこだわりをここは感じます。
ええいそんなことより、フランの機微にとても共感できました。でも、それを期待していない人には、「だからどうした!」と突っ込むを入れそうな気もしました。例えバトル・大爆発シーンがこのSSにあっても、このSSの今ある良さは鈍らないかな…と思っているのですが。
とにかく、前回と同じ位良いSSだと思いましたよ。長文SSお疲れ様でした。