『この売女が!』
黒い影たちが私の前に居並ぶ。影は完全なシルエットで、その姿は判然としない。
だが影たちには、総じて兎の耳がついていることだけは分かる。
『薄汚い女め!』
『気持ちの悪い赤い眼!』
ああ、彼女たちだ。
私が月に置いてきた彼女たち。私が見捨ててしまった彼女たち。
彼女たちは口々に罵りの言葉をあげる。
『くずが! 仲間を見捨てたくずが!』
『なんでのうのうと生きているんだ!』
『どうして今すぐ首をくくらない!』
『生きていて楽しいか?』
『死ね! 死んでしまえ!』
『殺してやる!』
怨嗟の声は無限大に大きくなり、私の脳髄を破壊せんとしている。
私は何も出来ず、何も言えず、ただうずくまるだけだ。
事実だから。否定できない事実だから。だって私は確かに。
『裏切り者!』
裏切り者なのだから。
「えっとね、妖夢……ちょっとお願いごとがあるんだけど……いいかな?」
鈴仙はこんな感じでなんだか恥ずかしそうに、わたしに言った。
幻想郷に完全な夏が来た。遂にセミの大合唱が響き渡り、太陽は光の最盛期を演出している。汗ばむ暑さが体を包む。
今日わたしは幽々子さまのおつかいで人里に来ていた。いつものように大量の食糧を買い込むためだ。
頼まれた品をなんとか揃えるのに一刻ほど掛け、ハンカチで汗を拭い、さて帰るかと空中に浮かび上がった直後、
「あれ? 妖夢じゃない」
鈴仙に声をかけられた。
「ああ、久しぶり鈴仙」
「私は置き薬のチェックに来たんだけど……妖夢はおつかいみたい、ね」
「……うん」
こちらから言わなくても、誰もが今のわたしの姿を見ればわかるだろう。わたしは風呂敷包み一杯に食糧を背負っているのだから。
「ははは……」
鈴仙は朗らかに笑ってくれた。変に気遣われるよりずっと良い。
わたしも苦笑いでも返そうかなと思い、鈴仙の顔を見つめた。
その時である。
わたしはあることに気がついた。
「……あれ? なんだか疲れた顔してる」
「……え」
なんだか目の下に隈のようなものが見えたのだ。それになんとなく目がとろんとしているような……。
「……気がついちゃった?」
鈴仙は眼を伏せる。
「どうしたの? 最近仕事が大変なの?」
「いや、仕事は前から大変だから、もう慣れっこなんだ……ちょっと寝不足で」
鈴仙は再び目を開き、じっとわたしを見つめた。
鈴仙の赤い赤い眼が、見える。
引き込まれる目、だと思う。見つめていると、そのまま永遠にその目に囚われてしまうんじゃないか、そんな妄想じみた思いを抱く。
狂気の赤眼。鈴仙の二つ名は確かそんな風だったか。だが、本人と多少の交流があるわたしからすれば、どうも不思議なネーミングである。
鈴仙は普通の女の子なのに。
「……確か妖夢は……それなら」
なにか鈴仙がぶつぶつ言っている。どうやら何事かを思案しているようだ。
そして、およそ一分後。
「ええと……」
ここで、冒頭の言葉につながったのだ。
お願いごと。
疲れた顔に関係している、なにか。
鈴仙はわたしを路地裏にまで引っ張っていった。家と家の間、薄暗く狭い場所だ。おそらく、大通りの真ん中では言えないことのようだ。
「……最近、嫌な夢を見るんだ」
鈴仙は言った。
「夢?」
「妖夢は……私の昔のこと、知ってるよね」
それは、消え入りそうな声だった。
力なく、弱々しげな声だった。
必死に絞り出すかのように、鈴仙は自分が日頃めったに口にしない、『私の昔』という単語を声に出した。
鈴仙の過去。
それは以前、いつかの宴会で彼女が断片的に語ってくれたことだった。
本当に断片的で、詳細は分からないけれども、確かこうだった。
鈴仙は空に浮かぶ、あの月で生まれた。月には大きな都があり、そこには神話に出てくるような偉大な神々と、彼らに奉仕する玉兎がいた。鈴仙は玉兎のなかの一匹であり、彼女は綿月依姫という人の下で、月の防衛隊の一員として暮らしていた。だが、平和だった月に地上からの侵略者がやってくる。鈴仙は恐怖にかられた。彼女は守るべき人、守るべき世界を見捨てた。地上へと逃げ出してしまったのだ。
あの時わたしは、ただその告白を聞くことしか出来なかった。そして、今も正直、整理しきれていない。
鈴仙が卑怯者だ、なんてこれっぽっちも思っていない。ただ友人にそんな重たい過去があったなんて想像だにしていなかったから、戸惑いを覚えているのだ。
鈴仙の過去が間違っているだとか、正しかっただとか。そんなのわたしがどうこう言おうだなんておこがましい。わたしは未熟者だ。未熟なわたしが友人のそんな重い過去の価値判断など簡単にしてはいけないのだ。
鈴仙の昔の出来事については、あの宴会以来ふたりの話に出てこないようお互い注意を払った。わたしも鈴仙も、出来るだけこれに触れたくなかったのである。
だが。鈴仙はいまこの瞬間、自らの過去に関わるようなことを言おうとしている。
一体なにがあった?
「夢のなかにね、月にいたころの友達が出てくるんだ」
「友達……仲の良かった友達の夢だったら、それは良い夢じゃ?」
「ううん。友達が笑っていて、それで昔にあった本当に楽しかった思い出ばなしをしてくれるのだったら、それはとても良い夢だけれど……あれは違う。
友達が、私を罵ってくるのよ」
「……え?」
途端、鈴仙の顔が曇る。目端を見るとそこには涙がたまり始めていた。わたしは狼狽する。
「だ、だいじょうぶ……?」
「つらい、つらいことを言ってくるの。七人が横に並んで、口々に。みんな黒い影で誰なのかは分からないけれど、あれは間違いなく玉兎。月にいたころの友達。その、友達が」
涙が目からこぼれはじめた。鈴仙の身体が震えはじめる。つらいのだろう。けれど、鈴仙の言葉は止まらない。
「分かっているの、分かっているんだよ。本当に私は汚れきっていて、くだらなくて。でも、嫌なの。もう聞きたくないの。『裏切り者』と言われたくないの。でも頭の中に響いてくるの。それがガンガンして、ガンガンして」
「鈴仙!」
わたしは思わず大声を出してしまった。呟くような声を延々と口にしていた鈴仙は、びくっ! と目を見開く。
「……ごめん。ははっ。ご覧の通りなのよ。本当にノイローゼで……まともに眠れてないんだ。
月から逃げてきたことは正直あんまし気にしてなかったんだけどなぁ……そう思っていたのだけど……でもやっぱり、ってことなのかな……」
「……永遠亭の人たちには?」
「言ってない。心配かけたくないし」
鈴仙は地べたに腰を降ろした。まるで力が抜けきってしまったかのように。
その姿はあまりにも弱々しくて。
見ていられない。
「だから……妖夢。あなたに助けて欲しいの。お願い。力になって」
「いいよ」
わたしは即答した。
「わたしは本当に未熟者。紫さまのような知恵もなければ、幽々子さまのような機転もない。だけど、それでもあなたを助けられるだけの力があるというのなら……それは本当に嬉しいことだよ」
少しでも鈴仙を安心させてあげるために、わたしはまず微笑みを返した。
「……ありがとう」
鈴仙は己の涙を拭った。
「妖夢には私の夢のなかに入ってもらいたいの」
「夢の中に入る?」
「そう、私の能力を応用してね。脳波ってのがあるんだけど、その各個人ごとに違う波を私は調律することが出来るんだ。
あなたの脳波を私のものと限りなく同一に近いものにさせてもらう。そして、その状況下で一緒に寝てもらう。そうすれば、あなたは私の夢のなかに入れるはず。
夢のなかに入ったら、後は簡単。妖夢の持っているその白楼剣で、夢の中に出てきた黒い影を斬ってもらう。そうすれば、私の迷いも無くなってしまうと思うの」
「おお……!」
脳波なんたらという理屈はあまり理解できないが、医学を志す鈴仙が言うのだから本当なのだろう、たぶん。この白楼剣と楼観剣も一種精神的なものだから、夢の世界に持ち込めるだろう。
夢のなかに入って、迷いを断ち斬る白楼剣を使う。簡単だ。わたしがいつもやっていることの延長線。何かを、斬る。
「分かったよ鈴仙、それじゃその方法で早速今夜にでも!」
「ありがとう! 心の底からありがとう! ああでも。この真夏だとちょっと暑いかな?」
「……?」
暑い、とは?
「うん、妖夢にはわたしを抱き締めながら眠ってもらう必要があるの」
どうしてこうなった。どうしてこうなった。
蝋燭の明かりが照らす鈴仙の部屋。目の前には布団が敷かれ、その上ではパジャマ姿の鈴仙が既に横になっている。
「よし! それじゃ、やろうか妖夢!」
何を? 何をやるの鈴仙? 一瞬パニックになりかけたが、頭を振って冷静になろうと努める。そうだ、鈴仙の夢の中に入って、悪夢の原因となっている彼女の迷いを断ち切るのだ。決して……その……エッチなことではない。
今日は幽々子さまに、一晩下界の滝にうたれてきますと嘘を言って永遠亭に来た(たぶん、ごまかせたと思う、たぶん)。
真夜中、わたしはこっそりと、他の誰にも気づかれないように鈴仙の部屋へとやってきたのだ。これは鈴仙の希望で、やはり彼女は主人たちに心配を掛けたくなかったのだ。だが……鈴仙の部屋に行くまで、今のわたし間男みたい、という思いを拭うことが出来なかった。違う、違うはずなんだ……。
鈴仙曰く、この方法で夢の世界に入るためには身体を密着させなければいけないらしい。そうしなければうまくいかないのだ。
だがそれは結局、わたしと鈴仙が添い寝をするということになる。
どうしてこうなった。どうしてこうなった。
最初、わたしはこの方法以外に遣り方はないのかと鈴仙に問い質した。また、それと同時に、一緒に眠らなくても直接この場で鈴仙に白楼剣を使えば良いのではないかと提案した。だが、
「これ以外に方法は思いつかないよ。それに、白楼剣を使うってことは私を斬るということでしょ。そんな死ぬほど痛いの、やだよ」
そうだった。白楼剣は斬らなければその効果を発揮しない。当てるだけでは駄目だ。ズバッと思いっきり相手を斬らなければいけないのだ。考えてみると、なんて使いづらい剣なんだ……。
鈴仙に血を流させる遣り方は駄目だ。例えちょっとでも血が流れてもかわいそうだ。
ならば、やはり夢の世界で悪夢を斬るしかない。
しかし、そのためには、添い寝をする必要があるのだ。
「……」
自分の頬に触れると、そこに熱がこもっているのが分かる。恥ずかしい。密着して寝るなんて恥ずかしい。
いや、鈴仙と寝るのが嫌というわけではない。でも、これは。
うじうじと、布団の前で立ちすくむ。ちなみに、今のわたしは浴衣姿だ。永遠亭に来る直前に濡れた手拭で身体を拭いておいた後、着替えた。
「よ、う、むー!」
鈴仙はわたしの腕へ手を伸ばし、それを掴み取った。そしてあたふたしているわたしを尻目に、そのまま一気に自分の布団の中にいざなってしまった。
「わ、わわ!」
「さあ、夢の世界にご案内~!」
鈴仙はニコニコとしていた。ようやく今まで何日も続いた悪夢から解放される。その喜びからテンションがハイになっているらしい。
「……」
「……もっと近づかないと効果ないよ?」
わたしは布団の端っこでうずくまっていた。え、もっと近づかないとダメ? そんなご無体な。
「もう!」
わたしの肩に鈴仙の手がかかる。そのままわたしの身体は、鈴仙の下へと引き寄せられる。
ぎゅむ。
ぎゅむむ。
柔らかいものが、顔を包んだ。
鈴仙の胸だ。わたしの視界一杯に鈴仙の胸が広がっている。ああ、なんていう柔らかさだろう。胸って、大きくなれば大きくなるほど、柔らかくなるものなんだ。わたしはその柔らかさを、顔一杯で感じていた。
石鹸の良い匂いが鼻腔をくすぐる。湯上りだからだろうかふわりとした良い匂い。たまらなく良い匂い。
こうなれば、もう覚悟するしかあるまい。
ようやくわたしは腹を据えた。鈴仙の肩に手を回し、そのまま包み込む。
鈴仙も同じように、わたしを包み込む。
鈴仙の息がわたしの顔にかかる。彼女の目と鼻は、わたしの目と鼻の先。
「明かり、消すね」
手元にあった蝋燭の火が消される。今夜は月の光が明るい。少しすれば目が暗闇に慣れ、ぼんやりと光る鈴仙の赤眼が視認できた。
腕のなかに、ほのかな熱がある。じんわりと浴衣と肌を通してやってくるその熱。それは鈴仙の熱だ。ああ、誰かの身体を抱くというのは、からだ一杯に熱を感じるということなんだ。わたしはそんなことを思った。
鈴仙の体はわたしより少し高くて、わたしより肉付きが良い。それは決して太っているというわけではない。抱き締めていると、彼女の柔らかさを全身で感じられた。手に、胴に、足に、心地よい弾力が返ってくる。
わたしはものごごろつく頃から一人で眠っていた。西行寺を守る魂魄の者として、出来るだけ早く独り立ちするためだ。だから、母親に抱かれて眠ったという記憶を、わたしはほとんど持っていない。誰かに抱かれる、誰かを抱くという行為は、本当に新鮮だった。
わたしの視線は鈴仙にのみ注目していた。いや、視線だけではない。わたしの全感覚が鈴仙に注目している。抱き合うというのは、つまりこういうことなのだろうか。
どこまで密着していいのか分からない。わたしはただ、ただ鈴仙をぎゅっと抱き締める。それはもしかしたら、傍目から見て、鈴仙の体と一つとなろうしていてるように見えているかもしれない。どうしてだろう。本当に気持ちよいからか。いつしか、もっともっと抱き締めたく……
「『深夢潜水』(ルナティックダイヴ)」
そんな声が、聞こえた。
……?
「え?」
「だから、『深夢潜水』(ルナティックダイヴ)。今回使う技の名前。一緒に言わなくちゃダメ」
「え、えと。そうなの?」
「いくよー、せーの」
なんだか彼女の体を抱き締めている間に、頭がぼー、としてしまっていたらしい。気をはっきりさせなければ。
いまからわたしは戦いにいくのだ。彼女の悪夢と戦いにいくのだ。
彼女の赤い、引き込まれるような眼を見つめる。
「『深夢潜水』(ルナティックダイヴ)」
「『深夢潜水』(ルナティックダイヴ)」
そして、わたし達二人は声を重ねた。
そして、夢の世界に沈んでいく。
まず、土が見えた。
「ああ、なるほど。こういう夢か」
鈴仙の声と共に意識が覚醒する。そして自分が地面にうつ伏せになっていることを自覚した。
「ええと……着いたの鈴仙? 夢の世界に」
体を起こす。鈴仙が隣にいることに安堵し、同時に自分達が寝巻きではなく普段の服装であることに気づく。その後、周りを見渡した。
「……ぶ!」
そして思わず吹き出した。
なんだここは!?
目の前に広がるのは畑だった。広さは周囲一町ほど(その周りには鬱蒼と繁った森がある)。等間隔に畝が作られ、そこに一尺ほどの大きさの『作物』が植えられていた。
「う、兎の耳!?」
作物は兎の耳だった。ひょろひょろと細長い、鈴仙のものとよく似た兎の耳が、畝の中から飛び出している。兎の耳は畑一杯に存在していた。
「そう、こんなところだったわ……」
「え、えと」
戸惑っていると、状況に変化が生じた。目の前に突然、瞬間移動でもしてきたかのように見慣れぬ人物が現れたのだ。
「え!」
「見てて妖夢」
いきなり現れた人物は、玉兎だった。詳しい経緯は省くが、わたしは幽々子さまに連れられて月の都に行ったことがある(第二次月面戦争における重要な役割だったらしいが、正直なところいまだにあれらの行為がなんだったのか理解しきれていない)。だから、地上の妖獣とは違うすらりとした背筋を持った人型兎については知っている。目の前の玉兎は、お医者さんが着るような白い服を身に纏っている女性であり、どうやらこちらの存在に気がついていないらしい。
玉兎は畑からぴょこんと飛び出した兎の耳を掴んだ。そして、それを思いっきり引っこ抜いた。ずぼっ、という音と共に、次の瞬間『それ』が地上に姿を現した。
「おぎゃああ! おぎゃああああ!」
辺りに一帯に、泣き声が響く。
「え、えええええ!?」
地上にひっぱり上げられた『それ』。その正体にわたしは心の底から驚いた。
赤ちゃんである。生まれたての赤ちゃんが畑の中から収穫されたのだ。
「妖夢、いま生まれた赤ちゃん……あれ私なんだ」
「ええええええ!?」
さっきから驚きっぱなしである。
鈴仙の話によると、わたし達は無事夢の世界に入れたらしい。入った夢の内容は、鈴仙のこれまでの人生のあらすじ。生まれてから今までの出来事をおおまかに辿っていくものではないかと鈴仙は推測している。
で、目の前のなんとも不思議な光景だが、これは玉兎の一般的な誕生らしい。
「玉兎は月の都が始まったとき、月の人々に奉仕するために月の土をこねて創られたのよ。そういえば、確か唐国の人間も土をどうにかして生まれたのだったかしらね。
地上の生き物を模してつくったから交尾をして子供を作ることも出来るのだけど、そうすると穢れが生じてしまうのよ。だからこうやって畑を作り、『兎の卵』を植えて、一定の大きさまで育てる。で、最後に、今見たように地上に引きずり出すってわけ」
「……それで、今産まれたのが鈴仙?」
「そういうことね……」
鈴仙はなんだか、不思議なものを見るような表情をしていた。仕方ないかもしれない。わたしだって自分の産まれた場面を眺める立場になったならば、不思議な状況に戸惑いつつ、出どころが不明な妙な懐かしさを覚えるだろう。
その時。
場面が変わった。
そう表現するしかないだろう。漫画の一場面が終わり次の一場面のコマにうつる。それと同じように周りの風景が一瞬で変わってしまった。
これは夢の中の世界なのだ。こちらからもあちらからも干渉はできず、ただ夢が進行するに任せるしかない。鈴仙に干渉出来ないのならばわたしが例の影を斬ることも出来ないのではないかと尋ねたら、鈴仙はやってみないと分からないと答えた。
場面は大きな街の中。この場所は知っている。確か月の都の中心だ。
街の中心を貫く大通りのど真ん中。大勢の玉兎と、少数のどこか高貴な雰囲気を持つ月の人。
これらの人々に紛れ、どこか調子はずれな歌を歌う小さな玉兎がいた。
「♪月の世界を追い出され~永久の罪を背負いつつ~姫は地上に墜とされた~」
途端、鈴仙の顔が真っ赤になる。
「え、え! ごめん聞かないで! 昔は歌がどうしても!」
「あ、ああ! あの子小さいころの鈴仙か!」
ぴょこぴょこと元気よく走っている紫髪の玉兎。人間でいうと六歳ぐらいに見えるだろうか。その面影は、確かに現在の鈴仙に似ている。
「……いまはまだ元気なのよね……この後が大変なの」
鈴仙が言った。顔を赤くしながら、小さいころの自分を、どこか危なっかしそうに見ている。
「?」
場面が変わる。
そこは鈴仙曰く、学校。木造三階建ての建物で大きな寺子屋のような施設で、幼い玉兎はここで教育を受けるらしい。鈴仙はそこで孤立してしまっていた。さっきまでの元気さは消えうせ、どこか辛そうな顔をしつつ、教室の端っこで本を黙々と読んでいた。学校に通いはじめた当初は明るかったらしいのだが、学校というほかの玉兎が大勢いる空間にいつしか恐怖を感じるようになってしまったのだ。幼い鈴仙には学校中がとてつもない感情の波の奔流に包まれているように見えていた(能力の片鱗がこの頃からあったのだ)。嫌で嫌でたまらない。鈴仙は自分の殻にこもるようになった。
場面が変わる。
教室の席に座っている鈴仙の周りに、三人の玉兎がいた。三人の内の一人、金髪のさばさばした雰囲気の玉兎が言う。
「あんたを手下にしてあげる!」
彼女は玉兎の能力を見分ける力を持っていた。その力を使って鈴仙の能力を理解し、それをイタズラに利用しようと考えたのだ。イタズラ三人組に連れられて、鈴仙は色々なことをした。姿を見えなくして勝手に将棋の駒を動かすのは序の口。地上に無断で出かけ、自由の女神という大きな像に落書きをする。月の禁域である不死の薬を飲んだ女神の封印場所に近づく。イタズラ三人組と鈴仙は本当に色々なことをした。やがて、鈴仙は波長を操る能力を成長させ、周りに大勢がいてもなんとかなるようになっていった(現在もまだ人ごみは苦手らしいけど)。
場面が変わる
鈴仙とイタズラ三人組はどこかの屋敷へ、桃を盗み取ろうしていた。だが、一人の女性にそれを見つかってしまう。確かに能力を使ったのに、それを周りの僅かな変化から見破った女性、わたしは彼女が誰なのか察しがついた。おそらく昔の鈴仙のご主人、綿月豊姫だろう。おっとりとした雰囲気を持つ豊姫は、イタズラ者たちを許すかわりに、自らの屋敷で雑用をするように命令する。これ以後鈴仙たちは学校に行く時間以外を、綿月の屋敷で過ごすようになった。これを契機に、鈴仙たちは学校を卒業後、綿月家で本格的に働くようになり、月の防衛に関わるようになったのである。
様々なことを経験し、成長していく鈴仙。わたしは彼女の半生を綴った物語を読むように、夢の世界を楽しんでいた。
鈴仙は魅力あふれる人柄だと思う。その人柄がこんな風に形成されていったのか。感慨を覚え、なおかつ、こんな風に彼女を育ててくれた周りの玉兎たちに感謝の念を抱いた。
ああ、しかし。
わたしはこの時点で半ば忘れてしまっていた。
愚かにも自分がどうして夢の世界に入ったのか忘れかけてしまった。
鈴仙は最近、夢でずっと罵られ続けてきたのだ。
自身を孤独から救ってくれた友人達に。
場面が変わる。
そこは、冷たい雰囲気の部屋だった。
金属的なにぶい輝きを放つ床、壁、天井。灰色で塗られたそれらが、人の十倍はあろうかという高さ、百人は入れるだろう広さの部屋を囲っている。わたしと鈴仙以外だれもおらず、また物は何も置かれていない。いくつかの電灯の灯りがあるばかりで、薄暗かった。
「……ねえ妖夢、いいかな?」
「?」
鈴仙はわたしが何らかの返事、もしくは行動をする前に、わたしの手を握ってきた。ぎゅっと、ただぎゅっと、強く強く。その顔には脂汗がにじみ始め、急に呼吸が速くなったように思えた。
「……ああ、そうか」
得心がいった。
どうやら、お目当ての場面にわたし達は到着したらしい。彼女の生涯のあらすじは、ここまできたのだ。
鈴仙自身はあまり意識していなかったとしても、その心の奥底で確かに存在し続け、遂に夢となって現れた、それ。
罪悪感。
「何度も言うようだけれど、私は自分がそんなに罪悪感を感じていただなんて思ってなかった。妖夢とは知り合って結構たつけれど、私そんなに鬱々とはしていなかったでしょ。わざと明るく振舞っていたわけじゃない。素直にそのままの気持ちで周りに接していたつもり。
でも、そうじゃなかったんだね。ははっ。自分の心なんて分からないもんなんだ。
私はあんなにも私が嫌いだったんだね」
鈴仙は震えながら、言う。なぜだろう、一瞬わたしよりも背が高いはずの彼女が、小さな幼子のように見えてしまった。まるで、子供が一人、泣いているような。
なにか言わなくてはいけない。その時、わたしは強くそう思った。
だが、何も思いつかない。
幽々子さまや紫さまだったら、こんな時どう言うのだろうか。きっとたちどころに鈴仙の傷を癒してしまうに違いない。それに比べて、わたしは。手を握ったまま、それを握り返すことも出来ず、ぼうっと突っ立っていることしか出来ない。
「……ああ、来た」
部屋の四隅に、何か黒いものが生じた。
それは確かに人間の影のように見える。だが、影にしてはどす黒すぎる。まるで地獄の深淵まで穴が開いてしまったかのようだ。
四隅の影は、恐ろしい速さで移動を開始した。目にも止まらぬ速さ。一瞬でわたし達二人の前で集合した。七体、いる。そして、兎の耳を持っていた。
これなのか。なんだか吐き気がしてくる。あまりにも黒すぎて、吐き気を催してしまう。気が狂ってしまうほどの黒さだった。
影たちは整然と並んだ。
そして。
『この売女が!』
口々に、汚い言葉を発し始めた。
『薄汚い女め!』
『気持ちの悪い赤い眼!』
『くずが! 仲間を見捨てたくずが!』
『なんでのうのうと生きているんだ!』
『どうして今すぐ首をくくらない!』
『生きていて楽しいか?』
『死ね! 死んでしまえ!』
『殺してやる!』
その声には間違いなく、さきほどまで鈴仙と笑いあっていた友人たちのものが混じっていた。かわいげのある女の子には不釣合いな、嘲りに満ちた言葉が放たれる。
ああ、これなのか。これが悪夢か。影たちの罵りは確かに耳を通しているはずなのに、まるで脳に直接たたきつけられているようじゃないか。
罵られている直接の相手ではないはずのわたしでさえ、心にひびが入ってしまうようだった。なら、鈴仙は。
「あ、ああ。嫌……嫌ぁぁぁぁぁぁ!」
傍らで耳をつんざくような叫び声が聞こえる。
「あああああああああああああ!」
鈴仙はその場で勢いよくしゃがみこんだ。そしてそのままうずくまる。
ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……そんな呟きが聞こえる。
……待ってて鈴仙。いま助ける。
わたしは、自らの集中を内へ内へともっていった。
わたしの腰には、わたしの魂が差してある。
楼観剣と白楼剣。ずっと、それこそ生まれた頃から握ってきた二振り。いつだってわたしの力になってくれた。いつだってわたしの導き手になってくれた。
わたしは白楼剣に手をかける。
『死ね! 死ね! 死ね! 死ね!』
影たちの声がうるさい。だがそれには全く耳を貸さず、ただ一つのことにのみ集中する。
斬る。目の前のものを斬る。
そうすれば、きっと鈴仙の迷いはなくなり、この悪夢も終わるはず……!
内にためていた集中を、一気に、解放した。
「……はああああああああああ!」
白楼剣を抜き放つ。
ぐちゃぐちゃで、ガンガンして。
頭がどうにかなりそうで。
わけがわからなくて。
ただうずくまるしかない私の前で、妖夢が刀を抜いた。
美しかった。
妖夢自身が一本の剣になったかのように鋭い動き。
雷のように、閃光のように。
ただ斬るという行為を刹那にかける。
一瞬で、七つの影たちは、横薙ぎに両断された。
終わった。これで悪夢は……。
あれ?
どうして?
影、きえない。
なんで?
影が一つになった。
影が私に近づいてくる。
影が私を包もうとしてくる。
妖夢が驚いている。
たすけて。
たすけて妖夢。
いやだよ。
こわいよ。
たすけて妖夢。
私、『また』壊される。
「鈴仙! ……え?」
鈴仙はわたしの腕のなかにいた。抱き合った二人を布団が覆っている。
周りを見渡すと、そこは鈴仙の部屋。明かりが消され、月の光だけが薄く薄く広がっている。
「……夢から、醒めた?」
夢の世界から戻ってきたのだろうか? いや、ちょっと待て。わたしはまだ、あの影を倒していない。
あの七つの影をわたしは確かに斬った。だが、それで終わりではなかった。影たちは斬られたとたん、一つに合体し、そのまま鈴仙を襲ったのだ。
なんていう不覚。相手の速さについていけなかった。鈴仙は黒い影たちに全身を包まれてしまって……気がついたら眼を醒ましていた。
一体、なにが起こったんだ。
「……妖夢」
「鈴仙!」
と、とにかく。どういう状況になったのか鈴仙と相談しないと……。
「大丈夫、鈴仙? どこかおかしなところは……」
「妖夢」
「うん?」
「妖夢」
「……どうしたの鈴仙?」
「ばん」
鈴仙が何かを言った、とわたしの耳が捉えてから、それは一瞬で起こった。
わたしは気づくべきだった。鈴仙の手がわたしの肩から離れ、わたしの胸にその人差し指があてられていたことを。
胸に、激痛が走った。
「え、あ、あ」
自分の胸に手をあてた。だが、この時点で自分の身になにが起きたのか理解はしていた。どうして彼女がこんなことをしたのか、その理由は分からなかったが。
手にはべっとりと血がついていた。胸の穴からはどくどくと血が溢れ出している。
「え、な、なんで……があ!」
口から血が流れ出した。胃が血で満たされているのを感じる。
「どいて」
鈴仙はすくっ、と立ち上がり、そのままわたしを布団から蹴り飛ばした。無造作に、それこそゴミを扱うように。
その眼は赤い。いつもよりも遥かに赤い。
まさに、狂気を感じるほど赤い。
「なんで……」
なんで鈴仙はわたしを撃った?
鈴仙の指から生成された弾は、わたしの胸を貫いた。
あまりの事態に、思考はほとんど停止する。
「消えてしまえ」
鈴仙が言った。
「いなくなれ。私の目の前から消えてなくなれ。そして二度と姿を見せるな。
ああ、そうだ。
おまえだけじゃない。みんないなくなれ。消え去ってしまえ」
怖い。
とても怖い。
なんだあの赤い瞳は。
わたしは今まで鈴仙の赤眼に、そんな感情を抱いたことはない。
だが、いまは、ただひたすらにその眼が怖かった。
あの眼に見つめ続けてしまったら、脳髄がその一片にいたるまで、狂い尽くしてしまうんじゃないか。そんな妄想が、やがて確信にまで育ってしまう。
そして、わたしは恥ずべき行動をした。
なるほど、あまりにも不明瞭な事態に陥ったならば、その行動によって一度仕切りなおしが出来るかもしれない。でも、それでも、これだけは絶対に駄目だろう。
わたしは友達に恐れをなした。そして友達を見捨て、その場から逃げ出したのだ。
胸の傷が痛い。この瞬間にも気絶してしまいそうなくらい、痛い。
この傷は、普通の人間だったら即死してもおかしくない傷だ。
だが、わたしはそれを無視して、走り続けていた。
永遠亭を飛び出し、迷いの竹林を行く。
心のなかには、まず怖さがあった。次に、恥ずかしさがあった。
分かっている。いますぐにでも永遠亭に引き返し、どうかしてしまった鈴仙を助けなくてはいけないと。
だが、怖かった。この瞬間もわたしの体は震え続けている。
それに、いまさらわたしに何が出来るというのか。わたしは確かに夢の世界で影を斬ったはずなのだ。迷いは断たれたはずなのだ。でも、状況は余計に悪化した。もうわたしには理解不能だ。
ああ、斬る以外に出来ることなんて、わたしにはなにもない。そうだ、永遠亭には八意永琳がいるじゃないか。あの人なら鈴仙を救ってくれるだろう。彼女に任せればよいのだ。
わたしよりも凄いひとは一杯いる。こんな未熟で半端者のわたしが何かをしようということ自体がおこがましかったのだ。
わたしなんて、こんな風に、無様に逃げ続けるのが、お似合いだ。
「は、ははははは!」
急におかしくなってきた。なにもかもどうでもよくなってきた。わたしは走り続けながら大声で笑い出した。
乱れた浴衣を着た血まみれの女が、大笑いしながら夜の竹林を行く。ああ、なんて素敵に狂っているのだろう。
でも、どうでもよい。どうでもよいのだ。
「ははははは! ははは、ひぃひぃ、あ、あはははははははは! あははははははははは! あきゃああああああああ! ひゃはやああああああああああ! がああああああああああ! らららららららららららら! 」
ああ、思考という思考が、止まっていく。でも、なんだか、それが気持ちよくなって。
「あははあはははははははははははははははは! あはあははあああああああああああああ! にやああああああああ! ぴやあああああああ! ああああああああああああああ!」
「はい、そこまでだよ。妖夢お姉ちゃん」
何かが、わたしの足を絡み取る。
目の前に地面が近づく。
激突。
顔をしたたかに打った。
「痛い!」
「眼が覚めた?」
……あれ?
わたし、一体?
「ははは、眼が真っ赤だよ妖夢お姉ちゃん」
わたしは、誰かに、足を引っ掛けられて、こかされた?
後ろを振り向く。
そこには、一人の女の子が立っていた。
黄色のシャツに緑のスカート。灰色とも銀色ともとれる不思議なくせ毛。はばの広い帽子。
胸には濃い紫色をした、閉じられた瞳のようなものがある。
「あなたは……」
幻想郷の地下に存在する地霊殿、そこを治める覚り妖怪の妹。
「こんばんは。その通り、古明地こいしだよ」
満面の笑みを浮かべ、彼女は言った。
こいしという少女について、わたしも幾らかの知識を持っている。だけど、それを覚えておくことは難しい。それは彼女の無意識を操る能力が常時発動しているため、こいしという少女を記憶に留めておけないためだ。いつのことだったか、この幻想郷で宗教戦争が巻き起こったとき、こいしが大活躍をしていたような気がする。だが、それも今この時にいたるまで、記憶にのぼることはなかった。彼女によって足をひっかけられることによって、ようやく彼女を認識出来るようになり、ようやく思い出したのだ。
「妖夢お姉ちゃんは、兎のお姉ちゃんの赤眼のせいで狂気に落ちちゃったんだよね?」
「……え!」
この子……!
「なんで……」
「細かいことは良いのです!」
「!?」
「今は謎の解答のお時間なんだよ!」
ずずい、とわたしに向けて顔を近づける。
な、なんだこの子は。会話が成立しない?
謎の解答、ってなんなんだ?
「『この売女が!』。まずこの台詞を疑わなくちゃいけなかったんだよ」
……え?
「『この売女が!』。なるほど罵りの言葉としては充分にきつい言葉だよね。でも、ちょっと待って。この台詞を夢の中で言ったのって、兎のおねえちゃんの友達なんだよね? 女の子なんだよね? なにか、違和感を感じない? 売女、っていう台詞、確かに女の人だって使うこともあるかもだけど。でもねえ。
『薄汚い女め!』もなんだかおかしい。女の人が別の女の人を罵るときは『薄汚い奴め!』のほうが自然じゃない?
『気持ちの悪い赤い眼!』。いやいやいやいや。兎さん達、あなたがたの眼はみんな赤いでしょうが! 何を言っているの!
ねえ、妖夢お姉ちゃん。
あの夢は何かがおかしいんだよ。
そりゃあ、夢っていうのは不整合でハチャメチャなものだよ? 理屈だって通らないかもしれない。でも、それでも、各個人の記憶が反映されているのは事実なんだ。
でね、思ったんだ。
あの夢は、もしかしたら兎のお姉ちゃんの罪悪感だとかそんなのじゃないかもしれない。単純に、色んな昔の記憶を切り貼りしただけのものかもしれない。
つまり、あの影は兎のお姉ちゃんの昔の友達かもしれないけれど、あの台詞は全くの別の誰かのやつかも、というわけだよ。
ねえ、妖夢お姉ちゃん。『この売女が!』なんて、まるで男の人が言ったような台詞じゃない?
『薄汚い女め!』もそうだし、『気持ちの悪い赤い眼!』なんて同じ玉兎が言う言葉じゃないよ。
たぶん、兎のお姉ちゃんは昔、男の人にひどいことを言われたんだよ。
それに、これも推測だけど、それと同時にひどいこともされたんじゃないかな? いまになって悪夢を見てしまうほどの、ひどいことを。それがあまりにもひどすぎたから、記憶の奥底に封印していたんだよ」
古明地こいしは一気にまくしたてた。
わたしはその独演会を、胸を貫く痛みも忘れて、聞き続けた。
あの影が言った言葉、それは鈴仙の深層心理ではなく、過去の記憶?
鈴仙は昔、男の人にひどいことをされた?
「妖夢お姉ちゃんは夢の中で兎のお姉ちゃんの迷いを斬ろうと考えたのだろうけれど、たぶん失敗しちゃったんだね。それは、斬った相手が間違っていたんだよ」
斬った相手が、違う?
「斬るべきだったのは、昔の友達じゃなかった。過去に対する罪悪感じゃなかった。
斬るべきだったのは、もっと単純な恐怖心だったんだよ」
恐怖心……。
「竹林の中を血まみれで走る狂女という態もなかなかおもしろいけれども。でも、それは一種の贅沢なんだよ、サムライさん?」
こいしの顔がますます近づく。彼女は何を言いたいのか、どうして鈴仙の夢を知っているのか。疑問は尽きない。
だが、なぜだろう。
こいしの顔を眺めていると、こころが静まるのを感じるのだ。
鈴仙の赤眼に恐れをなし、竹林に逃げ出すまでは覚えている。だが、その後のことはほとんど記憶にない。暴風が吹き荒れてしまったかのような混乱が巻き起こり、頭がその機能をかき乱されてしまった。だが、こいしが現れてからというもの、暴風は止みつつある。
「ちょっとだけ能力を使わせてもらったよ妖夢お姉ちゃん。無意識を操作して、狂気を抑えたんだ」
「……どうしてわたしを助けてくれたの?」
「頼まれたからね、どうしてもって」
「頼まれたって、誰に……?」
その時。
遠くから、がさがさという音がした。
誰かが竹林のなかを掻き分けている。そしておそらく近づいてくる。
がさがさという音がどんどん大きくなっていき、やがて。
「おっと、赤眼は治ったみたいだね」
触りごごちのよさそうな、兎耳。その幼子のような見た目とは正反対な、落ち着いた物腰。
永遠亭の妖怪兎、因幡てゐ。彼女がひょっこり現れた。
「て、てゐさん」
「うーんと、まずそうだね。その怪我をなんとかしようか」
てゐはポケットから青い丸薬を取り出す。それをわたしに渡した。どうやら服用できる血止めらしい。
「よし、飲んだね? それじゃ本題だ。鈴仙が危ない。鈴仙を助けてくれ」
その言葉を聞いたとたん、背筋が凍りついた。そうだ、そうじゃないか。わたしは行かなければいけない。今度こそ、鈴仙を救わなくちゃいけないんだ。
てゐ曰く、わたしが逃げ出したあと鈴仙は永遠亭で大暴れを始めてしまったらしい。弾丸状の弾幕を放射し、当たるが幸いに次々と様々なものを壊していった。だが、その暴走もやがて、屋敷の主蓬莱山輝夜の攻撃で食い止められた。
いま鈴仙は、攻撃を受けて気を失ったまま、目を醒まさないらしい。永琳によると、おそらく夢の世界に囚われてしまったようだ。
「妖夢、あんたが鈴仙の夢の中に行ってから、まだそんなに時間がたっていない。あと一回だけならあいつの夢に入れるはずだ」
「妖夢お姉ちゃん、あの夢の解答は永遠亭までの道中で全部解答してあげる。さあ、いそがなくちゃね」
わたしは己の腰に二本の剣があるか、確認した。
大丈夫だ。わたしの魂はまだ、ある。
わたしの仕事はどうやらいまだ半ばのようだ。斬る相手が違った。斬る相手さえ分かれば、今度こそ真実の刃を振るってやる。
どうやらこいしとてゐ(というより永遠亭)は今回の件においてつながりがあるらしい。なんだか自分が大きな流れに流されているだけのような気もする。だが、かまうもんか。大きな流れがあるというのなら、用意は周到なんだろう? バックアップもあるのだろう?いいだろう。流れが鈴仙を救いたいのなら、喜んで身を任せてやる。
「血は止まりました。行きましょう」
てゐに案内され、わたしは永遠亭に戻る。
もう、恐怖はない。
永遠亭は外から見ればいつもと同じように見えた。真夜中に灯りがともっているのも、夜通しの宴会でもやっていればそんなにおかしくはない。
だが中に入れば、所々に弾痕がつけられ、小火があちこちで生じている。明らかな異常だった。
わたしとこいし、てゐの三人は全速力で永遠亭に向かい、そのままの勢いで鈴仙が寝かされている部屋まで行った。
「来たわね妖夢」
そこには、永琳と、ベッドに寝かされている鈴仙がいた。鈴仙はさきほどとは違うパジャマを着ていた。輝夜は兎たちの混乱を鎮めている真っ最中らしい。
わたしは肩で息をしながら、永琳の目前に立つ。
「申し訳ありませんでした!」
謝った。
もっとわたしがしっかりしていれば、こんなことにはならなかった。いや、それ以前に、周りの人々に少しでも相談をしていれば……!
「それは違うわ、妖夢」
だが永琳はやさしげな顔で、こう言った。
「鈴仙は永遠亭の家族みたいなものなの。それなのにこの子の異常に対して対応が後手後手に回ってしまったわ。一番責任を感じなくてはいけないのはこちらのほうなのよ。そして情けないことに、もうあなたに頼るしかないのよ。」
もう少ししたら、鈴仙は自らの狂気に飲まれてしまうわ。
「……鈴仙の夢の世界に行きます。そして鈴仙の本当の迷いを斬ってきます」
「もしかしたら戻ってこれなくなるかもしれないわよ」
「覚悟の上です」
こいしに助力を頼んだ。夢の世界に入るためには、彼女の協力が必要だ。
こいしの手が私の肩に触れる。そのままわたしは鈴仙に近づく。
鈴仙の夢については、先ほどここに来るまでにこいしに聞いた。
もし、それが本当なのだとしたら。わたしは鈴仙の触れてはいけないところに、触れてしまうかもしれない。かつて鈴仙が経験した辛い過去。その過去と同じ目にあえるかと聞かれたら、わたしには無理だと答えるかもしれない。鈴仙の過去は、あまりにも、あまりにも、女として恐怖すべきものだ。
それでも、例えそれでも。嫌われてでも、わたしは鈴仙を助けたい。
「いきます、皆さん」
わたしは、ベッドに横たわる鈴仙を、抱き締めた。
最初に彼女の夢の世界に入った時と同じように、鈴仙を強く強く、抱く。
彼女のほのかな熱を感じる。それは、彼女が生きているという証。この熱は半分死んでいるわたしには不可能な、静かな力強さを感じる熱だ。
わたしは戻ってきた。あの時はあなたから逃げてしまったけれど。
もう手放したくない。
「いくよ、鈴仙」
わたしは、言った。
「『深夢潜水』(ルナティックダイヴ)」
まず、生臭さがした。
嗅いだことのない、酸っぱいような、何かが腐ったような臭い。
なぜかわたしは、その臭いに本能的嫌悪を感じた。
あの影たちがわたしと鈴仙の前に居並んだ部屋。恐らく、そこと全く同じところにわたしは戻ってきたのだろう。そんな風に推測できたのは、唯一見ることが出来た足元があの部屋と同じ床であったからだ。電灯の灯りはさらに暗くなり、ほんの先すら見ることができない。
「…………ああ!」
甲高い声が聞こえた。闇の奥、不可視の領域から誰かがいる証が聞こえた。
「…………ああ!」
一瞬だれだかが分からなかった。それは日常においては決して聞くことはない声だったからだ。女にとって、それは秘すべき声なのだ。
饐えた臭いがますます大きくなるのを感じる。
やがて、闇のなかで何人もの人間が蠢いているのが分かった。
「いま、助けるよ鈴仙」
闇のなかで何が行われているか、それを直接見ようとは思わない。鈴仙のためにも、絶対に見てはいけないだろう。わたしは、斬るだけだ。ごちゃごちゃ言わず、一瞬で終わらせてやろう。
「下衆が! 鈴仙から離れろ!」
部屋全体に轟くほどの大声を叫ぶ。かつてのお爺さまを思い出しながら、相手を一喝した。
『……ああ?』
野太い男の声がした。
『なんだてめ? せっかくきもちのいいことをしてたのによ』
『興ざめだよねー』
『夢の世界なんだから自由にさせろよ!』
『ああ、ああすげえ。すげえよ。こんなのはじめてだ。すげえ』
『トップく~ん? ちょっとめんどいこと起こったからストップしようか』
『なあ、こいつもやっちまわね?』
『ぶっ殺すぞおらぁ!』
闇の中から聞こえる声は七つ。それら全てが下卑ていた。
「かかってこい屑共。まとめて叩き斬ってやる」
『はっ! かっこつけてんじゃねーよ。いいか、俺たちはこの女の記憶なんだぞ? ということは、こいつは俺たちとイイことしたのが忘れられないってことだ! とんだ売女じゃねーか! なあ、みんな!?』
リーダー格の男の言葉を皮切りに、男たちは叫び始めた。
『この売女が!』
『この売女が!』
『この売女が!』
『この売女が!』
『この売女が!』
『この売女が!』
はははははははははははは!
その後に、哄笑が響いた。
もう、会話をする気もおきない。
こんなの、鈴仙が記憶の奥底に封印して当たり前だ。
わたしは、白楼剣を抜く。刀の切っ先を、闇のなかに向けた。
『ふん! 結局やるのかよ。めんどくせーな。おい、みんな。[集まれ]』
じゅる。
じゅるじゅるじゅるじゅるじゅるじゅるじゅるじゅるじゅる!
なめくじが這い回るような気色の悪い音がした。一瞬、鳥肌が立つ。
闇のなかで何かが起きている。おぞましいなにかが。
『死ねえ!』
黒き針が眼前に迫った。
それを避ける。
同時に、自分のすぐ隣に弾幕を放つ。小規模な爆発が起こり、そこから炎が上がった。
その炎を新たな灯りとして、わたしは眼前の敵の全体像を初めて視認した。
人の影だった。そこには兎の耳はない。股間に怖気の走る何かがぶら下がっていた。背の高さは十尺。見上げるほどであった。影たちは、一つに合体したのだ。
『ちょこまかしてんじゃねえよ!』
黒き針はやつの腕が変化したものだった。やつは次々と黒き針を繰り出していく。
わたしはそれを避けていく。
『ははっ! どうした、おら! 逃げてばっかりじゃねえか! 怖気づいたか!?』
「……何か、勘違いしているようだな」
『……ああ?』
「わたしは別にここで闘ってやろうだなんて、これっぽっちも思ってないんだ」
わたしが夢の世界でやることは闘いじゃない。
むしろ、駆除と言ったほうがいい。
『あ……? あ? はあ!?』
激昂している影は無視する。
一気に片をつけよう。念入りに斬り伏せる。
刹那、横たわっている鈴仙が目に入った。彼女の白い肌が見える。見るな。彼女と会うのは悪夢が覚めたあとだ。
「いくぞ」
心の内へ内へと、集中していく。
『ぶっ殺す! そしてお前もかわいがってやる!』
長い夜は終わりだ。わたしが終わらせる。
集中を、解き放つ!
獄界剣「二百由旬の一閃」
畜趣剣「無為無策の冥罰」
修羅剣「現世妄執」
人界剣「悟入幻想」
天上剣「天人の五衰」
六道剣「一念無量劫」
『が、があああああああああああ!?』
斬る、斬る、斬る! わたしは黒い影に何発も何発も、斬撃をたたきつける!
人符「現世斬」
断命剣「冥想斬」
魂符「幽明の苦輪」
人鬼「未来永劫斬」
断迷剣「迷津慈航斬」
『は、やめ、ぎゃああああああああああああ!』
鈴仙もずっとお前達との記憶を忘れていたかったのだろう。だが、何の拍子か、またお前達は出てきてしまった。
現実のお前達を斬れなくて本当に残念だ。鈴仙がどれだけ苦しんだか貴様らに分かるか!?
迷符「半身大悟」
人智剣「天女返し」
妄執剣「修羅の血」
天星剣「涅槃寂静の如し」
剣伎「桜花閃々」
断霊剣「成仏得脱剣」
転生剣「円心流転斬」
『あ、あ、あ』
巨大な影は斬撃の連続を受け、もう息も絶え絶えだ。
暗き部屋の天井ががらがらという音をたてて、破れる。そこから月の光がこぼれた。悪夢が終わろうとしている!
とどめだ。
鈴仙と初めて会ったあの永夜の異変、あの時に体得した狂気の月の力を借りる技。
「待宵反射衛星斬」
閉じられたまぶたを通ってきた明るい光を感じた。いまわたしは横になっているらしい。
「……妖夢? 妖夢!」
手を誰かに握られている。
わたしはまぶたを開けた。
「妖夢……!」
鈴仙。
鈴仙・優曇華院・イナバ。
彼女が、まぶしい朝の光を浴びながら、わたしを覗き込んでいた。
美しかった。一種の芸術を感じる滑らかな紫髪も、鋭さと柔らかさを両立させた顔も、そして、真っ赤なその眼も。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
ここは、鈴仙の部屋だろうか? 夜は明け、心地のよい日差しが満ちている。いや、いまはそれはどうでもいい。
彼女の瞳から涙がこぼれ始めた。鈴仙は謝罪の言葉を繰り返し呟き続けている。
「鈴仙!」
わたしはそんな彼女を見ているとたまらない気持ちになった。がばっ、と起き上がり、そのまま一気に鈴仙を抱き締めた。
きっと彼女は驚いているだろう。だが、かまうもんか。
「妖夢、離して! 私……あなたにひどいことを!」
「もういいから。もういいんだよ。お願い、あなたを抱き締めさせて」
ぎゅっと、ぎゅっと。ひたすら彼女を抱き締め続ける。
いまのわたしにはこうすることしか思いつかない。幽々子さまや紫さまだったら、鈴仙を癒す言葉を見つけ出せるだろう。でも、わたしに出来るのはこれだけだ。
あなたのすぐそばに、わたしはいるのだと伝えたかった。
鈴仙は昔、七人の男に乱暴を受けた。
月から逃亡し、地上に降り立った彼女。幻想郷にある永遠亭が目的地だったが、どうやったら行けるのかどうしても分からなかった。そこに、外の世界の術師たちがやってきた。術師たちは言葉巧みに鈴仙に近づき、一定の信頼を得た。そして一応、彼らのおかげで幻想郷を発見することが出来たのである。だが、いざ幻想郷に入ろうとした瞬間、彼らは鈴仙を裏切った。鈴仙を銃撃し、流れた大量の血を奪い取った。男達の目的は貴重な玉兎の血液だったのだ。
一リットル半の血を採取し、目的を達成した男達。彼らはその後、もののついでとばかりに、鈴仙に乱暴した。数々の罵声を浴びせながら。
隙を見計らって、鈴仙はなんとか逃げ出すことに成功した。そして、なんとか幻想郷に入り、迷いの竹林まで行くことが出来た。だが、このあまりに辛い出来事に、彼女の心は耐えられなかった。
彼女は記憶を封印したのだ。
このことを永琳ほか、永遠亭の面々は以前から薄々気がついていたらしい。節々で、なんだかおかしなところが散見されていたようだ。けれど、そう易々と触れてよいものでもないだろうから、静かに見守っていたらしい。
だが何の拍子か、奥底に眠っていたはずのそれが、少しずつ鎌首を上げはじめた。夢にうなされている鈴仙を、てゐが偶然発見したのだ。てゐはそれを永琳に相談した。月の頭脳はすぐさま行動を開始、古明地こいしに協力を要請して、彼女の夢を探っていた。
そんな状況を無視して、わたしと鈴仙は勝手に動いてしまった。結果、わたしが本来斬るべきものと別のものを斬ってしまったせいか鈴仙のトラウマは暴走、鈴仙を狂気へと駆り立ててしまったのだ。
「妖夢、あなたは私の迷いを、辛い記憶を斬ってくれた。だから、私はもう……」
「で、でも……!」
それでも、彼女はあんなに酷い記憶を思い出してしまった。もう悪夢で悩まされることはないかもしれない。けれど、男に乱暴されたという確かな過去は、どれだけ迷いを斬ってもなくなることはない。発狂することはないけれど、心にしこりとなってこれからもずっと鈴仙の中に残り続ける。それが、どんな影響を与えるか分からない。
「男の人とうまく付き合えなくなるかもしれないんだよ……!」
抱き締める。抱き締める。この兎を抱き締める。わたしには、こんなことしかできない。
「大丈夫だよ、妖夢」
鈴仙はゆっくりとわたしを抱く。二人で抱き合う形になる。
「あなたは、誰かが優しく自分を抱いてくれることの価値を知らない。それがどれだけ人に勇気を与えるか分かる? 私ね、いますごく幸せなんだ。こんなに幸せなんだから、絶対に私は無敵だよ」
ねえ、またお願いがあるの。
鈴仙が言った。
「迷いが無くなっても、きっとこれからも大変なことはあると思う。たまにで良いからさ」
いまみたいにぎゅー、ってしてくれない? それならきっと、私は大丈夫だから。
わたしは、力強くうなづいた。
黒い影たちが私の前に居並ぶ。影は完全なシルエットで、その姿は判然としない。
だが影たちには、総じて兎の耳がついていることだけは分かる。
『薄汚い女め!』
『気持ちの悪い赤い眼!』
ああ、彼女たちだ。
私が月に置いてきた彼女たち。私が見捨ててしまった彼女たち。
彼女たちは口々に罵りの言葉をあげる。
『くずが! 仲間を見捨てたくずが!』
『なんでのうのうと生きているんだ!』
『どうして今すぐ首をくくらない!』
『生きていて楽しいか?』
『死ね! 死んでしまえ!』
『殺してやる!』
怨嗟の声は無限大に大きくなり、私の脳髄を破壊せんとしている。
私は何も出来ず、何も言えず、ただうずくまるだけだ。
事実だから。否定できない事実だから。だって私は確かに。
『裏切り者!』
裏切り者なのだから。
「えっとね、妖夢……ちょっとお願いごとがあるんだけど……いいかな?」
鈴仙はこんな感じでなんだか恥ずかしそうに、わたしに言った。
幻想郷に完全な夏が来た。遂にセミの大合唱が響き渡り、太陽は光の最盛期を演出している。汗ばむ暑さが体を包む。
今日わたしは幽々子さまのおつかいで人里に来ていた。いつものように大量の食糧を買い込むためだ。
頼まれた品をなんとか揃えるのに一刻ほど掛け、ハンカチで汗を拭い、さて帰るかと空中に浮かび上がった直後、
「あれ? 妖夢じゃない」
鈴仙に声をかけられた。
「ああ、久しぶり鈴仙」
「私は置き薬のチェックに来たんだけど……妖夢はおつかいみたい、ね」
「……うん」
こちらから言わなくても、誰もが今のわたしの姿を見ればわかるだろう。わたしは風呂敷包み一杯に食糧を背負っているのだから。
「ははは……」
鈴仙は朗らかに笑ってくれた。変に気遣われるよりずっと良い。
わたしも苦笑いでも返そうかなと思い、鈴仙の顔を見つめた。
その時である。
わたしはあることに気がついた。
「……あれ? なんだか疲れた顔してる」
「……え」
なんだか目の下に隈のようなものが見えたのだ。それになんとなく目がとろんとしているような……。
「……気がついちゃった?」
鈴仙は眼を伏せる。
「どうしたの? 最近仕事が大変なの?」
「いや、仕事は前から大変だから、もう慣れっこなんだ……ちょっと寝不足で」
鈴仙は再び目を開き、じっとわたしを見つめた。
鈴仙の赤い赤い眼が、見える。
引き込まれる目、だと思う。見つめていると、そのまま永遠にその目に囚われてしまうんじゃないか、そんな妄想じみた思いを抱く。
狂気の赤眼。鈴仙の二つ名は確かそんな風だったか。だが、本人と多少の交流があるわたしからすれば、どうも不思議なネーミングである。
鈴仙は普通の女の子なのに。
「……確か妖夢は……それなら」
なにか鈴仙がぶつぶつ言っている。どうやら何事かを思案しているようだ。
そして、およそ一分後。
「ええと……」
ここで、冒頭の言葉につながったのだ。
お願いごと。
疲れた顔に関係している、なにか。
鈴仙はわたしを路地裏にまで引っ張っていった。家と家の間、薄暗く狭い場所だ。おそらく、大通りの真ん中では言えないことのようだ。
「……最近、嫌な夢を見るんだ」
鈴仙は言った。
「夢?」
「妖夢は……私の昔のこと、知ってるよね」
それは、消え入りそうな声だった。
力なく、弱々しげな声だった。
必死に絞り出すかのように、鈴仙は自分が日頃めったに口にしない、『私の昔』という単語を声に出した。
鈴仙の過去。
それは以前、いつかの宴会で彼女が断片的に語ってくれたことだった。
本当に断片的で、詳細は分からないけれども、確かこうだった。
鈴仙は空に浮かぶ、あの月で生まれた。月には大きな都があり、そこには神話に出てくるような偉大な神々と、彼らに奉仕する玉兎がいた。鈴仙は玉兎のなかの一匹であり、彼女は綿月依姫という人の下で、月の防衛隊の一員として暮らしていた。だが、平和だった月に地上からの侵略者がやってくる。鈴仙は恐怖にかられた。彼女は守るべき人、守るべき世界を見捨てた。地上へと逃げ出してしまったのだ。
あの時わたしは、ただその告白を聞くことしか出来なかった。そして、今も正直、整理しきれていない。
鈴仙が卑怯者だ、なんてこれっぽっちも思っていない。ただ友人にそんな重たい過去があったなんて想像だにしていなかったから、戸惑いを覚えているのだ。
鈴仙の過去が間違っているだとか、正しかっただとか。そんなのわたしがどうこう言おうだなんておこがましい。わたしは未熟者だ。未熟なわたしが友人のそんな重い過去の価値判断など簡単にしてはいけないのだ。
鈴仙の昔の出来事については、あの宴会以来ふたりの話に出てこないようお互い注意を払った。わたしも鈴仙も、出来るだけこれに触れたくなかったのである。
だが。鈴仙はいまこの瞬間、自らの過去に関わるようなことを言おうとしている。
一体なにがあった?
「夢のなかにね、月にいたころの友達が出てくるんだ」
「友達……仲の良かった友達の夢だったら、それは良い夢じゃ?」
「ううん。友達が笑っていて、それで昔にあった本当に楽しかった思い出ばなしをしてくれるのだったら、それはとても良い夢だけれど……あれは違う。
友達が、私を罵ってくるのよ」
「……え?」
途端、鈴仙の顔が曇る。目端を見るとそこには涙がたまり始めていた。わたしは狼狽する。
「だ、だいじょうぶ……?」
「つらい、つらいことを言ってくるの。七人が横に並んで、口々に。みんな黒い影で誰なのかは分からないけれど、あれは間違いなく玉兎。月にいたころの友達。その、友達が」
涙が目からこぼれはじめた。鈴仙の身体が震えはじめる。つらいのだろう。けれど、鈴仙の言葉は止まらない。
「分かっているの、分かっているんだよ。本当に私は汚れきっていて、くだらなくて。でも、嫌なの。もう聞きたくないの。『裏切り者』と言われたくないの。でも頭の中に響いてくるの。それがガンガンして、ガンガンして」
「鈴仙!」
わたしは思わず大声を出してしまった。呟くような声を延々と口にしていた鈴仙は、びくっ! と目を見開く。
「……ごめん。ははっ。ご覧の通りなのよ。本当にノイローゼで……まともに眠れてないんだ。
月から逃げてきたことは正直あんまし気にしてなかったんだけどなぁ……そう思っていたのだけど……でもやっぱり、ってことなのかな……」
「……永遠亭の人たちには?」
「言ってない。心配かけたくないし」
鈴仙は地べたに腰を降ろした。まるで力が抜けきってしまったかのように。
その姿はあまりにも弱々しくて。
見ていられない。
「だから……妖夢。あなたに助けて欲しいの。お願い。力になって」
「いいよ」
わたしは即答した。
「わたしは本当に未熟者。紫さまのような知恵もなければ、幽々子さまのような機転もない。だけど、それでもあなたを助けられるだけの力があるというのなら……それは本当に嬉しいことだよ」
少しでも鈴仙を安心させてあげるために、わたしはまず微笑みを返した。
「……ありがとう」
鈴仙は己の涙を拭った。
「妖夢には私の夢のなかに入ってもらいたいの」
「夢の中に入る?」
「そう、私の能力を応用してね。脳波ってのがあるんだけど、その各個人ごとに違う波を私は調律することが出来るんだ。
あなたの脳波を私のものと限りなく同一に近いものにさせてもらう。そして、その状況下で一緒に寝てもらう。そうすれば、あなたは私の夢のなかに入れるはず。
夢のなかに入ったら、後は簡単。妖夢の持っているその白楼剣で、夢の中に出てきた黒い影を斬ってもらう。そうすれば、私の迷いも無くなってしまうと思うの」
「おお……!」
脳波なんたらという理屈はあまり理解できないが、医学を志す鈴仙が言うのだから本当なのだろう、たぶん。この白楼剣と楼観剣も一種精神的なものだから、夢の世界に持ち込めるだろう。
夢のなかに入って、迷いを断ち斬る白楼剣を使う。簡単だ。わたしがいつもやっていることの延長線。何かを、斬る。
「分かったよ鈴仙、それじゃその方法で早速今夜にでも!」
「ありがとう! 心の底からありがとう! ああでも。この真夏だとちょっと暑いかな?」
「……?」
暑い、とは?
「うん、妖夢にはわたしを抱き締めながら眠ってもらう必要があるの」
どうしてこうなった。どうしてこうなった。
蝋燭の明かりが照らす鈴仙の部屋。目の前には布団が敷かれ、その上ではパジャマ姿の鈴仙が既に横になっている。
「よし! それじゃ、やろうか妖夢!」
何を? 何をやるの鈴仙? 一瞬パニックになりかけたが、頭を振って冷静になろうと努める。そうだ、鈴仙の夢の中に入って、悪夢の原因となっている彼女の迷いを断ち切るのだ。決して……その……エッチなことではない。
今日は幽々子さまに、一晩下界の滝にうたれてきますと嘘を言って永遠亭に来た(たぶん、ごまかせたと思う、たぶん)。
真夜中、わたしはこっそりと、他の誰にも気づかれないように鈴仙の部屋へとやってきたのだ。これは鈴仙の希望で、やはり彼女は主人たちに心配を掛けたくなかったのだ。だが……鈴仙の部屋に行くまで、今のわたし間男みたい、という思いを拭うことが出来なかった。違う、違うはずなんだ……。
鈴仙曰く、この方法で夢の世界に入るためには身体を密着させなければいけないらしい。そうしなければうまくいかないのだ。
だがそれは結局、わたしと鈴仙が添い寝をするということになる。
どうしてこうなった。どうしてこうなった。
最初、わたしはこの方法以外に遣り方はないのかと鈴仙に問い質した。また、それと同時に、一緒に眠らなくても直接この場で鈴仙に白楼剣を使えば良いのではないかと提案した。だが、
「これ以外に方法は思いつかないよ。それに、白楼剣を使うってことは私を斬るということでしょ。そんな死ぬほど痛いの、やだよ」
そうだった。白楼剣は斬らなければその効果を発揮しない。当てるだけでは駄目だ。ズバッと思いっきり相手を斬らなければいけないのだ。考えてみると、なんて使いづらい剣なんだ……。
鈴仙に血を流させる遣り方は駄目だ。例えちょっとでも血が流れてもかわいそうだ。
ならば、やはり夢の世界で悪夢を斬るしかない。
しかし、そのためには、添い寝をする必要があるのだ。
「……」
自分の頬に触れると、そこに熱がこもっているのが分かる。恥ずかしい。密着して寝るなんて恥ずかしい。
いや、鈴仙と寝るのが嫌というわけではない。でも、これは。
うじうじと、布団の前で立ちすくむ。ちなみに、今のわたしは浴衣姿だ。永遠亭に来る直前に濡れた手拭で身体を拭いておいた後、着替えた。
「よ、う、むー!」
鈴仙はわたしの腕へ手を伸ばし、それを掴み取った。そしてあたふたしているわたしを尻目に、そのまま一気に自分の布団の中にいざなってしまった。
「わ、わわ!」
「さあ、夢の世界にご案内~!」
鈴仙はニコニコとしていた。ようやく今まで何日も続いた悪夢から解放される。その喜びからテンションがハイになっているらしい。
「……」
「……もっと近づかないと効果ないよ?」
わたしは布団の端っこでうずくまっていた。え、もっと近づかないとダメ? そんなご無体な。
「もう!」
わたしの肩に鈴仙の手がかかる。そのままわたしの身体は、鈴仙の下へと引き寄せられる。
ぎゅむ。
ぎゅむむ。
柔らかいものが、顔を包んだ。
鈴仙の胸だ。わたしの視界一杯に鈴仙の胸が広がっている。ああ、なんていう柔らかさだろう。胸って、大きくなれば大きくなるほど、柔らかくなるものなんだ。わたしはその柔らかさを、顔一杯で感じていた。
石鹸の良い匂いが鼻腔をくすぐる。湯上りだからだろうかふわりとした良い匂い。たまらなく良い匂い。
こうなれば、もう覚悟するしかあるまい。
ようやくわたしは腹を据えた。鈴仙の肩に手を回し、そのまま包み込む。
鈴仙も同じように、わたしを包み込む。
鈴仙の息がわたしの顔にかかる。彼女の目と鼻は、わたしの目と鼻の先。
「明かり、消すね」
手元にあった蝋燭の火が消される。今夜は月の光が明るい。少しすれば目が暗闇に慣れ、ぼんやりと光る鈴仙の赤眼が視認できた。
腕のなかに、ほのかな熱がある。じんわりと浴衣と肌を通してやってくるその熱。それは鈴仙の熱だ。ああ、誰かの身体を抱くというのは、からだ一杯に熱を感じるということなんだ。わたしはそんなことを思った。
鈴仙の体はわたしより少し高くて、わたしより肉付きが良い。それは決して太っているというわけではない。抱き締めていると、彼女の柔らかさを全身で感じられた。手に、胴に、足に、心地よい弾力が返ってくる。
わたしはものごごろつく頃から一人で眠っていた。西行寺を守る魂魄の者として、出来るだけ早く独り立ちするためだ。だから、母親に抱かれて眠ったという記憶を、わたしはほとんど持っていない。誰かに抱かれる、誰かを抱くという行為は、本当に新鮮だった。
わたしの視線は鈴仙にのみ注目していた。いや、視線だけではない。わたしの全感覚が鈴仙に注目している。抱き合うというのは、つまりこういうことなのだろうか。
どこまで密着していいのか分からない。わたしはただ、ただ鈴仙をぎゅっと抱き締める。それはもしかしたら、傍目から見て、鈴仙の体と一つとなろうしていてるように見えているかもしれない。どうしてだろう。本当に気持ちよいからか。いつしか、もっともっと抱き締めたく……
「『深夢潜水』(ルナティックダイヴ)」
そんな声が、聞こえた。
……?
「え?」
「だから、『深夢潜水』(ルナティックダイヴ)。今回使う技の名前。一緒に言わなくちゃダメ」
「え、えと。そうなの?」
「いくよー、せーの」
なんだか彼女の体を抱き締めている間に、頭がぼー、としてしまっていたらしい。気をはっきりさせなければ。
いまからわたしは戦いにいくのだ。彼女の悪夢と戦いにいくのだ。
彼女の赤い、引き込まれるような眼を見つめる。
「『深夢潜水』(ルナティックダイヴ)」
「『深夢潜水』(ルナティックダイヴ)」
そして、わたし達二人は声を重ねた。
そして、夢の世界に沈んでいく。
まず、土が見えた。
「ああ、なるほど。こういう夢か」
鈴仙の声と共に意識が覚醒する。そして自分が地面にうつ伏せになっていることを自覚した。
「ええと……着いたの鈴仙? 夢の世界に」
体を起こす。鈴仙が隣にいることに安堵し、同時に自分達が寝巻きではなく普段の服装であることに気づく。その後、周りを見渡した。
「……ぶ!」
そして思わず吹き出した。
なんだここは!?
目の前に広がるのは畑だった。広さは周囲一町ほど(その周りには鬱蒼と繁った森がある)。等間隔に畝が作られ、そこに一尺ほどの大きさの『作物』が植えられていた。
「う、兎の耳!?」
作物は兎の耳だった。ひょろひょろと細長い、鈴仙のものとよく似た兎の耳が、畝の中から飛び出している。兎の耳は畑一杯に存在していた。
「そう、こんなところだったわ……」
「え、えと」
戸惑っていると、状況に変化が生じた。目の前に突然、瞬間移動でもしてきたかのように見慣れぬ人物が現れたのだ。
「え!」
「見てて妖夢」
いきなり現れた人物は、玉兎だった。詳しい経緯は省くが、わたしは幽々子さまに連れられて月の都に行ったことがある(第二次月面戦争における重要な役割だったらしいが、正直なところいまだにあれらの行為がなんだったのか理解しきれていない)。だから、地上の妖獣とは違うすらりとした背筋を持った人型兎については知っている。目の前の玉兎は、お医者さんが着るような白い服を身に纏っている女性であり、どうやらこちらの存在に気がついていないらしい。
玉兎は畑からぴょこんと飛び出した兎の耳を掴んだ。そして、それを思いっきり引っこ抜いた。ずぼっ、という音と共に、次の瞬間『それ』が地上に姿を現した。
「おぎゃああ! おぎゃああああ!」
辺りに一帯に、泣き声が響く。
「え、えええええ!?」
地上にひっぱり上げられた『それ』。その正体にわたしは心の底から驚いた。
赤ちゃんである。生まれたての赤ちゃんが畑の中から収穫されたのだ。
「妖夢、いま生まれた赤ちゃん……あれ私なんだ」
「ええええええ!?」
さっきから驚きっぱなしである。
鈴仙の話によると、わたし達は無事夢の世界に入れたらしい。入った夢の内容は、鈴仙のこれまでの人生のあらすじ。生まれてから今までの出来事をおおまかに辿っていくものではないかと鈴仙は推測している。
で、目の前のなんとも不思議な光景だが、これは玉兎の一般的な誕生らしい。
「玉兎は月の都が始まったとき、月の人々に奉仕するために月の土をこねて創られたのよ。そういえば、確か唐国の人間も土をどうにかして生まれたのだったかしらね。
地上の生き物を模してつくったから交尾をして子供を作ることも出来るのだけど、そうすると穢れが生じてしまうのよ。だからこうやって畑を作り、『兎の卵』を植えて、一定の大きさまで育てる。で、最後に、今見たように地上に引きずり出すってわけ」
「……それで、今産まれたのが鈴仙?」
「そういうことね……」
鈴仙はなんだか、不思議なものを見るような表情をしていた。仕方ないかもしれない。わたしだって自分の産まれた場面を眺める立場になったならば、不思議な状況に戸惑いつつ、出どころが不明な妙な懐かしさを覚えるだろう。
その時。
場面が変わった。
そう表現するしかないだろう。漫画の一場面が終わり次の一場面のコマにうつる。それと同じように周りの風景が一瞬で変わってしまった。
これは夢の中の世界なのだ。こちらからもあちらからも干渉はできず、ただ夢が進行するに任せるしかない。鈴仙に干渉出来ないのならばわたしが例の影を斬ることも出来ないのではないかと尋ねたら、鈴仙はやってみないと分からないと答えた。
場面は大きな街の中。この場所は知っている。確か月の都の中心だ。
街の中心を貫く大通りのど真ん中。大勢の玉兎と、少数のどこか高貴な雰囲気を持つ月の人。
これらの人々に紛れ、どこか調子はずれな歌を歌う小さな玉兎がいた。
「♪月の世界を追い出され~永久の罪を背負いつつ~姫は地上に墜とされた~」
途端、鈴仙の顔が真っ赤になる。
「え、え! ごめん聞かないで! 昔は歌がどうしても!」
「あ、ああ! あの子小さいころの鈴仙か!」
ぴょこぴょこと元気よく走っている紫髪の玉兎。人間でいうと六歳ぐらいに見えるだろうか。その面影は、確かに現在の鈴仙に似ている。
「……いまはまだ元気なのよね……この後が大変なの」
鈴仙が言った。顔を赤くしながら、小さいころの自分を、どこか危なっかしそうに見ている。
「?」
場面が変わる。
そこは鈴仙曰く、学校。木造三階建ての建物で大きな寺子屋のような施設で、幼い玉兎はここで教育を受けるらしい。鈴仙はそこで孤立してしまっていた。さっきまでの元気さは消えうせ、どこか辛そうな顔をしつつ、教室の端っこで本を黙々と読んでいた。学校に通いはじめた当初は明るかったらしいのだが、学校というほかの玉兎が大勢いる空間にいつしか恐怖を感じるようになってしまったのだ。幼い鈴仙には学校中がとてつもない感情の波の奔流に包まれているように見えていた(能力の片鱗がこの頃からあったのだ)。嫌で嫌でたまらない。鈴仙は自分の殻にこもるようになった。
場面が変わる。
教室の席に座っている鈴仙の周りに、三人の玉兎がいた。三人の内の一人、金髪のさばさばした雰囲気の玉兎が言う。
「あんたを手下にしてあげる!」
彼女は玉兎の能力を見分ける力を持っていた。その力を使って鈴仙の能力を理解し、それをイタズラに利用しようと考えたのだ。イタズラ三人組に連れられて、鈴仙は色々なことをした。姿を見えなくして勝手に将棋の駒を動かすのは序の口。地上に無断で出かけ、自由の女神という大きな像に落書きをする。月の禁域である不死の薬を飲んだ女神の封印場所に近づく。イタズラ三人組と鈴仙は本当に色々なことをした。やがて、鈴仙は波長を操る能力を成長させ、周りに大勢がいてもなんとかなるようになっていった(現在もまだ人ごみは苦手らしいけど)。
場面が変わる
鈴仙とイタズラ三人組はどこかの屋敷へ、桃を盗み取ろうしていた。だが、一人の女性にそれを見つかってしまう。確かに能力を使ったのに、それを周りの僅かな変化から見破った女性、わたしは彼女が誰なのか察しがついた。おそらく昔の鈴仙のご主人、綿月豊姫だろう。おっとりとした雰囲気を持つ豊姫は、イタズラ者たちを許すかわりに、自らの屋敷で雑用をするように命令する。これ以後鈴仙たちは学校に行く時間以外を、綿月の屋敷で過ごすようになった。これを契機に、鈴仙たちは学校を卒業後、綿月家で本格的に働くようになり、月の防衛に関わるようになったのである。
様々なことを経験し、成長していく鈴仙。わたしは彼女の半生を綴った物語を読むように、夢の世界を楽しんでいた。
鈴仙は魅力あふれる人柄だと思う。その人柄がこんな風に形成されていったのか。感慨を覚え、なおかつ、こんな風に彼女を育ててくれた周りの玉兎たちに感謝の念を抱いた。
ああ、しかし。
わたしはこの時点で半ば忘れてしまっていた。
愚かにも自分がどうして夢の世界に入ったのか忘れかけてしまった。
鈴仙は最近、夢でずっと罵られ続けてきたのだ。
自身を孤独から救ってくれた友人達に。
場面が変わる。
そこは、冷たい雰囲気の部屋だった。
金属的なにぶい輝きを放つ床、壁、天井。灰色で塗られたそれらが、人の十倍はあろうかという高さ、百人は入れるだろう広さの部屋を囲っている。わたしと鈴仙以外だれもおらず、また物は何も置かれていない。いくつかの電灯の灯りがあるばかりで、薄暗かった。
「……ねえ妖夢、いいかな?」
「?」
鈴仙はわたしが何らかの返事、もしくは行動をする前に、わたしの手を握ってきた。ぎゅっと、ただぎゅっと、強く強く。その顔には脂汗がにじみ始め、急に呼吸が速くなったように思えた。
「……ああ、そうか」
得心がいった。
どうやら、お目当ての場面にわたし達は到着したらしい。彼女の生涯のあらすじは、ここまできたのだ。
鈴仙自身はあまり意識していなかったとしても、その心の奥底で確かに存在し続け、遂に夢となって現れた、それ。
罪悪感。
「何度も言うようだけれど、私は自分がそんなに罪悪感を感じていただなんて思ってなかった。妖夢とは知り合って結構たつけれど、私そんなに鬱々とはしていなかったでしょ。わざと明るく振舞っていたわけじゃない。素直にそのままの気持ちで周りに接していたつもり。
でも、そうじゃなかったんだね。ははっ。自分の心なんて分からないもんなんだ。
私はあんなにも私が嫌いだったんだね」
鈴仙は震えながら、言う。なぜだろう、一瞬わたしよりも背が高いはずの彼女が、小さな幼子のように見えてしまった。まるで、子供が一人、泣いているような。
なにか言わなくてはいけない。その時、わたしは強くそう思った。
だが、何も思いつかない。
幽々子さまや紫さまだったら、こんな時どう言うのだろうか。きっとたちどころに鈴仙の傷を癒してしまうに違いない。それに比べて、わたしは。手を握ったまま、それを握り返すことも出来ず、ぼうっと突っ立っていることしか出来ない。
「……ああ、来た」
部屋の四隅に、何か黒いものが生じた。
それは確かに人間の影のように見える。だが、影にしてはどす黒すぎる。まるで地獄の深淵まで穴が開いてしまったかのようだ。
四隅の影は、恐ろしい速さで移動を開始した。目にも止まらぬ速さ。一瞬でわたし達二人の前で集合した。七体、いる。そして、兎の耳を持っていた。
これなのか。なんだか吐き気がしてくる。あまりにも黒すぎて、吐き気を催してしまう。気が狂ってしまうほどの黒さだった。
影たちは整然と並んだ。
そして。
『この売女が!』
口々に、汚い言葉を発し始めた。
『薄汚い女め!』
『気持ちの悪い赤い眼!』
『くずが! 仲間を見捨てたくずが!』
『なんでのうのうと生きているんだ!』
『どうして今すぐ首をくくらない!』
『生きていて楽しいか?』
『死ね! 死んでしまえ!』
『殺してやる!』
その声には間違いなく、さきほどまで鈴仙と笑いあっていた友人たちのものが混じっていた。かわいげのある女の子には不釣合いな、嘲りに満ちた言葉が放たれる。
ああ、これなのか。これが悪夢か。影たちの罵りは確かに耳を通しているはずなのに、まるで脳に直接たたきつけられているようじゃないか。
罵られている直接の相手ではないはずのわたしでさえ、心にひびが入ってしまうようだった。なら、鈴仙は。
「あ、ああ。嫌……嫌ぁぁぁぁぁぁ!」
傍らで耳をつんざくような叫び声が聞こえる。
「あああああああああああああ!」
鈴仙はその場で勢いよくしゃがみこんだ。そしてそのままうずくまる。
ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……そんな呟きが聞こえる。
……待ってて鈴仙。いま助ける。
わたしは、自らの集中を内へ内へともっていった。
わたしの腰には、わたしの魂が差してある。
楼観剣と白楼剣。ずっと、それこそ生まれた頃から握ってきた二振り。いつだってわたしの力になってくれた。いつだってわたしの導き手になってくれた。
わたしは白楼剣に手をかける。
『死ね! 死ね! 死ね! 死ね!』
影たちの声がうるさい。だがそれには全く耳を貸さず、ただ一つのことにのみ集中する。
斬る。目の前のものを斬る。
そうすれば、きっと鈴仙の迷いはなくなり、この悪夢も終わるはず……!
内にためていた集中を、一気に、解放した。
「……はああああああああああ!」
白楼剣を抜き放つ。
ぐちゃぐちゃで、ガンガンして。
頭がどうにかなりそうで。
わけがわからなくて。
ただうずくまるしかない私の前で、妖夢が刀を抜いた。
美しかった。
妖夢自身が一本の剣になったかのように鋭い動き。
雷のように、閃光のように。
ただ斬るという行為を刹那にかける。
一瞬で、七つの影たちは、横薙ぎに両断された。
終わった。これで悪夢は……。
あれ?
どうして?
影、きえない。
なんで?
影が一つになった。
影が私に近づいてくる。
影が私を包もうとしてくる。
妖夢が驚いている。
たすけて。
たすけて妖夢。
いやだよ。
こわいよ。
たすけて妖夢。
私、『また』壊される。
「鈴仙! ……え?」
鈴仙はわたしの腕のなかにいた。抱き合った二人を布団が覆っている。
周りを見渡すと、そこは鈴仙の部屋。明かりが消され、月の光だけが薄く薄く広がっている。
「……夢から、醒めた?」
夢の世界から戻ってきたのだろうか? いや、ちょっと待て。わたしはまだ、あの影を倒していない。
あの七つの影をわたしは確かに斬った。だが、それで終わりではなかった。影たちは斬られたとたん、一つに合体し、そのまま鈴仙を襲ったのだ。
なんていう不覚。相手の速さについていけなかった。鈴仙は黒い影たちに全身を包まれてしまって……気がついたら眼を醒ましていた。
一体、なにが起こったんだ。
「……妖夢」
「鈴仙!」
と、とにかく。どういう状況になったのか鈴仙と相談しないと……。
「大丈夫、鈴仙? どこかおかしなところは……」
「妖夢」
「うん?」
「妖夢」
「……どうしたの鈴仙?」
「ばん」
鈴仙が何かを言った、とわたしの耳が捉えてから、それは一瞬で起こった。
わたしは気づくべきだった。鈴仙の手がわたしの肩から離れ、わたしの胸にその人差し指があてられていたことを。
胸に、激痛が走った。
「え、あ、あ」
自分の胸に手をあてた。だが、この時点で自分の身になにが起きたのか理解はしていた。どうして彼女がこんなことをしたのか、その理由は分からなかったが。
手にはべっとりと血がついていた。胸の穴からはどくどくと血が溢れ出している。
「え、な、なんで……があ!」
口から血が流れ出した。胃が血で満たされているのを感じる。
「どいて」
鈴仙はすくっ、と立ち上がり、そのままわたしを布団から蹴り飛ばした。無造作に、それこそゴミを扱うように。
その眼は赤い。いつもよりも遥かに赤い。
まさに、狂気を感じるほど赤い。
「なんで……」
なんで鈴仙はわたしを撃った?
鈴仙の指から生成された弾は、わたしの胸を貫いた。
あまりの事態に、思考はほとんど停止する。
「消えてしまえ」
鈴仙が言った。
「いなくなれ。私の目の前から消えてなくなれ。そして二度と姿を見せるな。
ああ、そうだ。
おまえだけじゃない。みんないなくなれ。消え去ってしまえ」
怖い。
とても怖い。
なんだあの赤い瞳は。
わたしは今まで鈴仙の赤眼に、そんな感情を抱いたことはない。
だが、いまは、ただひたすらにその眼が怖かった。
あの眼に見つめ続けてしまったら、脳髄がその一片にいたるまで、狂い尽くしてしまうんじゃないか。そんな妄想が、やがて確信にまで育ってしまう。
そして、わたしは恥ずべき行動をした。
なるほど、あまりにも不明瞭な事態に陥ったならば、その行動によって一度仕切りなおしが出来るかもしれない。でも、それでも、これだけは絶対に駄目だろう。
わたしは友達に恐れをなした。そして友達を見捨て、その場から逃げ出したのだ。
胸の傷が痛い。この瞬間にも気絶してしまいそうなくらい、痛い。
この傷は、普通の人間だったら即死してもおかしくない傷だ。
だが、わたしはそれを無視して、走り続けていた。
永遠亭を飛び出し、迷いの竹林を行く。
心のなかには、まず怖さがあった。次に、恥ずかしさがあった。
分かっている。いますぐにでも永遠亭に引き返し、どうかしてしまった鈴仙を助けなくてはいけないと。
だが、怖かった。この瞬間もわたしの体は震え続けている。
それに、いまさらわたしに何が出来るというのか。わたしは確かに夢の世界で影を斬ったはずなのだ。迷いは断たれたはずなのだ。でも、状況は余計に悪化した。もうわたしには理解不能だ。
ああ、斬る以外に出来ることなんて、わたしにはなにもない。そうだ、永遠亭には八意永琳がいるじゃないか。あの人なら鈴仙を救ってくれるだろう。彼女に任せればよいのだ。
わたしよりも凄いひとは一杯いる。こんな未熟で半端者のわたしが何かをしようということ自体がおこがましかったのだ。
わたしなんて、こんな風に、無様に逃げ続けるのが、お似合いだ。
「は、ははははは!」
急におかしくなってきた。なにもかもどうでもよくなってきた。わたしは走り続けながら大声で笑い出した。
乱れた浴衣を着た血まみれの女が、大笑いしながら夜の竹林を行く。ああ、なんて素敵に狂っているのだろう。
でも、どうでもよい。どうでもよいのだ。
「ははははは! ははは、ひぃひぃ、あ、あはははははははは! あははははははははは! あきゃああああああああ! ひゃはやああああああああああ! がああああああああああ! らららららららららららら! 」
ああ、思考という思考が、止まっていく。でも、なんだか、それが気持ちよくなって。
「あははあはははははははははははははははは! あはあははあああああああああああああ! にやああああああああ! ぴやあああああああ! ああああああああああああああ!」
「はい、そこまでだよ。妖夢お姉ちゃん」
何かが、わたしの足を絡み取る。
目の前に地面が近づく。
激突。
顔をしたたかに打った。
「痛い!」
「眼が覚めた?」
……あれ?
わたし、一体?
「ははは、眼が真っ赤だよ妖夢お姉ちゃん」
わたしは、誰かに、足を引っ掛けられて、こかされた?
後ろを振り向く。
そこには、一人の女の子が立っていた。
黄色のシャツに緑のスカート。灰色とも銀色ともとれる不思議なくせ毛。はばの広い帽子。
胸には濃い紫色をした、閉じられた瞳のようなものがある。
「あなたは……」
幻想郷の地下に存在する地霊殿、そこを治める覚り妖怪の妹。
「こんばんは。その通り、古明地こいしだよ」
満面の笑みを浮かべ、彼女は言った。
こいしという少女について、わたしも幾らかの知識を持っている。だけど、それを覚えておくことは難しい。それは彼女の無意識を操る能力が常時発動しているため、こいしという少女を記憶に留めておけないためだ。いつのことだったか、この幻想郷で宗教戦争が巻き起こったとき、こいしが大活躍をしていたような気がする。だが、それも今この時にいたるまで、記憶にのぼることはなかった。彼女によって足をひっかけられることによって、ようやく彼女を認識出来るようになり、ようやく思い出したのだ。
「妖夢お姉ちゃんは、兎のお姉ちゃんの赤眼のせいで狂気に落ちちゃったんだよね?」
「……え!」
この子……!
「なんで……」
「細かいことは良いのです!」
「!?」
「今は謎の解答のお時間なんだよ!」
ずずい、とわたしに向けて顔を近づける。
な、なんだこの子は。会話が成立しない?
謎の解答、ってなんなんだ?
「『この売女が!』。まずこの台詞を疑わなくちゃいけなかったんだよ」
……え?
「『この売女が!』。なるほど罵りの言葉としては充分にきつい言葉だよね。でも、ちょっと待って。この台詞を夢の中で言ったのって、兎のおねえちゃんの友達なんだよね? 女の子なんだよね? なにか、違和感を感じない? 売女、っていう台詞、確かに女の人だって使うこともあるかもだけど。でもねえ。
『薄汚い女め!』もなんだかおかしい。女の人が別の女の人を罵るときは『薄汚い奴め!』のほうが自然じゃない?
『気持ちの悪い赤い眼!』。いやいやいやいや。兎さん達、あなたがたの眼はみんな赤いでしょうが! 何を言っているの!
ねえ、妖夢お姉ちゃん。
あの夢は何かがおかしいんだよ。
そりゃあ、夢っていうのは不整合でハチャメチャなものだよ? 理屈だって通らないかもしれない。でも、それでも、各個人の記憶が反映されているのは事実なんだ。
でね、思ったんだ。
あの夢は、もしかしたら兎のお姉ちゃんの罪悪感だとかそんなのじゃないかもしれない。単純に、色んな昔の記憶を切り貼りしただけのものかもしれない。
つまり、あの影は兎のお姉ちゃんの昔の友達かもしれないけれど、あの台詞は全くの別の誰かのやつかも、というわけだよ。
ねえ、妖夢お姉ちゃん。『この売女が!』なんて、まるで男の人が言ったような台詞じゃない?
『薄汚い女め!』もそうだし、『気持ちの悪い赤い眼!』なんて同じ玉兎が言う言葉じゃないよ。
たぶん、兎のお姉ちゃんは昔、男の人にひどいことを言われたんだよ。
それに、これも推測だけど、それと同時にひどいこともされたんじゃないかな? いまになって悪夢を見てしまうほどの、ひどいことを。それがあまりにもひどすぎたから、記憶の奥底に封印していたんだよ」
古明地こいしは一気にまくしたてた。
わたしはその独演会を、胸を貫く痛みも忘れて、聞き続けた。
あの影が言った言葉、それは鈴仙の深層心理ではなく、過去の記憶?
鈴仙は昔、男の人にひどいことをされた?
「妖夢お姉ちゃんは夢の中で兎のお姉ちゃんの迷いを斬ろうと考えたのだろうけれど、たぶん失敗しちゃったんだね。それは、斬った相手が間違っていたんだよ」
斬った相手が、違う?
「斬るべきだったのは、昔の友達じゃなかった。過去に対する罪悪感じゃなかった。
斬るべきだったのは、もっと単純な恐怖心だったんだよ」
恐怖心……。
「竹林の中を血まみれで走る狂女という態もなかなかおもしろいけれども。でも、それは一種の贅沢なんだよ、サムライさん?」
こいしの顔がますます近づく。彼女は何を言いたいのか、どうして鈴仙の夢を知っているのか。疑問は尽きない。
だが、なぜだろう。
こいしの顔を眺めていると、こころが静まるのを感じるのだ。
鈴仙の赤眼に恐れをなし、竹林に逃げ出すまでは覚えている。だが、その後のことはほとんど記憶にない。暴風が吹き荒れてしまったかのような混乱が巻き起こり、頭がその機能をかき乱されてしまった。だが、こいしが現れてからというもの、暴風は止みつつある。
「ちょっとだけ能力を使わせてもらったよ妖夢お姉ちゃん。無意識を操作して、狂気を抑えたんだ」
「……どうしてわたしを助けてくれたの?」
「頼まれたからね、どうしてもって」
「頼まれたって、誰に……?」
その時。
遠くから、がさがさという音がした。
誰かが竹林のなかを掻き分けている。そしておそらく近づいてくる。
がさがさという音がどんどん大きくなっていき、やがて。
「おっと、赤眼は治ったみたいだね」
触りごごちのよさそうな、兎耳。その幼子のような見た目とは正反対な、落ち着いた物腰。
永遠亭の妖怪兎、因幡てゐ。彼女がひょっこり現れた。
「て、てゐさん」
「うーんと、まずそうだね。その怪我をなんとかしようか」
てゐはポケットから青い丸薬を取り出す。それをわたしに渡した。どうやら服用できる血止めらしい。
「よし、飲んだね? それじゃ本題だ。鈴仙が危ない。鈴仙を助けてくれ」
その言葉を聞いたとたん、背筋が凍りついた。そうだ、そうじゃないか。わたしは行かなければいけない。今度こそ、鈴仙を救わなくちゃいけないんだ。
てゐ曰く、わたしが逃げ出したあと鈴仙は永遠亭で大暴れを始めてしまったらしい。弾丸状の弾幕を放射し、当たるが幸いに次々と様々なものを壊していった。だが、その暴走もやがて、屋敷の主蓬莱山輝夜の攻撃で食い止められた。
いま鈴仙は、攻撃を受けて気を失ったまま、目を醒まさないらしい。永琳によると、おそらく夢の世界に囚われてしまったようだ。
「妖夢、あんたが鈴仙の夢の中に行ってから、まだそんなに時間がたっていない。あと一回だけならあいつの夢に入れるはずだ」
「妖夢お姉ちゃん、あの夢の解答は永遠亭までの道中で全部解答してあげる。さあ、いそがなくちゃね」
わたしは己の腰に二本の剣があるか、確認した。
大丈夫だ。わたしの魂はまだ、ある。
わたしの仕事はどうやらいまだ半ばのようだ。斬る相手が違った。斬る相手さえ分かれば、今度こそ真実の刃を振るってやる。
どうやらこいしとてゐ(というより永遠亭)は今回の件においてつながりがあるらしい。なんだか自分が大きな流れに流されているだけのような気もする。だが、かまうもんか。大きな流れがあるというのなら、用意は周到なんだろう? バックアップもあるのだろう?いいだろう。流れが鈴仙を救いたいのなら、喜んで身を任せてやる。
「血は止まりました。行きましょう」
てゐに案内され、わたしは永遠亭に戻る。
もう、恐怖はない。
永遠亭は外から見ればいつもと同じように見えた。真夜中に灯りがともっているのも、夜通しの宴会でもやっていればそんなにおかしくはない。
だが中に入れば、所々に弾痕がつけられ、小火があちこちで生じている。明らかな異常だった。
わたしとこいし、てゐの三人は全速力で永遠亭に向かい、そのままの勢いで鈴仙が寝かされている部屋まで行った。
「来たわね妖夢」
そこには、永琳と、ベッドに寝かされている鈴仙がいた。鈴仙はさきほどとは違うパジャマを着ていた。輝夜は兎たちの混乱を鎮めている真っ最中らしい。
わたしは肩で息をしながら、永琳の目前に立つ。
「申し訳ありませんでした!」
謝った。
もっとわたしがしっかりしていれば、こんなことにはならなかった。いや、それ以前に、周りの人々に少しでも相談をしていれば……!
「それは違うわ、妖夢」
だが永琳はやさしげな顔で、こう言った。
「鈴仙は永遠亭の家族みたいなものなの。それなのにこの子の異常に対して対応が後手後手に回ってしまったわ。一番責任を感じなくてはいけないのはこちらのほうなのよ。そして情けないことに、もうあなたに頼るしかないのよ。」
もう少ししたら、鈴仙は自らの狂気に飲まれてしまうわ。
「……鈴仙の夢の世界に行きます。そして鈴仙の本当の迷いを斬ってきます」
「もしかしたら戻ってこれなくなるかもしれないわよ」
「覚悟の上です」
こいしに助力を頼んだ。夢の世界に入るためには、彼女の協力が必要だ。
こいしの手が私の肩に触れる。そのままわたしは鈴仙に近づく。
鈴仙の夢については、先ほどここに来るまでにこいしに聞いた。
もし、それが本当なのだとしたら。わたしは鈴仙の触れてはいけないところに、触れてしまうかもしれない。かつて鈴仙が経験した辛い過去。その過去と同じ目にあえるかと聞かれたら、わたしには無理だと答えるかもしれない。鈴仙の過去は、あまりにも、あまりにも、女として恐怖すべきものだ。
それでも、例えそれでも。嫌われてでも、わたしは鈴仙を助けたい。
「いきます、皆さん」
わたしは、ベッドに横たわる鈴仙を、抱き締めた。
最初に彼女の夢の世界に入った時と同じように、鈴仙を強く強く、抱く。
彼女のほのかな熱を感じる。それは、彼女が生きているという証。この熱は半分死んでいるわたしには不可能な、静かな力強さを感じる熱だ。
わたしは戻ってきた。あの時はあなたから逃げてしまったけれど。
もう手放したくない。
「いくよ、鈴仙」
わたしは、言った。
「『深夢潜水』(ルナティックダイヴ)」
まず、生臭さがした。
嗅いだことのない、酸っぱいような、何かが腐ったような臭い。
なぜかわたしは、その臭いに本能的嫌悪を感じた。
あの影たちがわたしと鈴仙の前に居並んだ部屋。恐らく、そこと全く同じところにわたしは戻ってきたのだろう。そんな風に推測できたのは、唯一見ることが出来た足元があの部屋と同じ床であったからだ。電灯の灯りはさらに暗くなり、ほんの先すら見ることができない。
「…………ああ!」
甲高い声が聞こえた。闇の奥、不可視の領域から誰かがいる証が聞こえた。
「…………ああ!」
一瞬だれだかが分からなかった。それは日常においては決して聞くことはない声だったからだ。女にとって、それは秘すべき声なのだ。
饐えた臭いがますます大きくなるのを感じる。
やがて、闇のなかで何人もの人間が蠢いているのが分かった。
「いま、助けるよ鈴仙」
闇のなかで何が行われているか、それを直接見ようとは思わない。鈴仙のためにも、絶対に見てはいけないだろう。わたしは、斬るだけだ。ごちゃごちゃ言わず、一瞬で終わらせてやろう。
「下衆が! 鈴仙から離れろ!」
部屋全体に轟くほどの大声を叫ぶ。かつてのお爺さまを思い出しながら、相手を一喝した。
『……ああ?』
野太い男の声がした。
『なんだてめ? せっかくきもちのいいことをしてたのによ』
『興ざめだよねー』
『夢の世界なんだから自由にさせろよ!』
『ああ、ああすげえ。すげえよ。こんなのはじめてだ。すげえ』
『トップく~ん? ちょっとめんどいこと起こったからストップしようか』
『なあ、こいつもやっちまわね?』
『ぶっ殺すぞおらぁ!』
闇の中から聞こえる声は七つ。それら全てが下卑ていた。
「かかってこい屑共。まとめて叩き斬ってやる」
『はっ! かっこつけてんじゃねーよ。いいか、俺たちはこの女の記憶なんだぞ? ということは、こいつは俺たちとイイことしたのが忘れられないってことだ! とんだ売女じゃねーか! なあ、みんな!?』
リーダー格の男の言葉を皮切りに、男たちは叫び始めた。
『この売女が!』
『この売女が!』
『この売女が!』
『この売女が!』
『この売女が!』
『この売女が!』
はははははははははははは!
その後に、哄笑が響いた。
もう、会話をする気もおきない。
こんなの、鈴仙が記憶の奥底に封印して当たり前だ。
わたしは、白楼剣を抜く。刀の切っ先を、闇のなかに向けた。
『ふん! 結局やるのかよ。めんどくせーな。おい、みんな。[集まれ]』
じゅる。
じゅるじゅるじゅるじゅるじゅるじゅるじゅるじゅるじゅる!
なめくじが這い回るような気色の悪い音がした。一瞬、鳥肌が立つ。
闇のなかで何かが起きている。おぞましいなにかが。
『死ねえ!』
黒き針が眼前に迫った。
それを避ける。
同時に、自分のすぐ隣に弾幕を放つ。小規模な爆発が起こり、そこから炎が上がった。
その炎を新たな灯りとして、わたしは眼前の敵の全体像を初めて視認した。
人の影だった。そこには兎の耳はない。股間に怖気の走る何かがぶら下がっていた。背の高さは十尺。見上げるほどであった。影たちは、一つに合体したのだ。
『ちょこまかしてんじゃねえよ!』
黒き針はやつの腕が変化したものだった。やつは次々と黒き針を繰り出していく。
わたしはそれを避けていく。
『ははっ! どうした、おら! 逃げてばっかりじゃねえか! 怖気づいたか!?』
「……何か、勘違いしているようだな」
『……ああ?』
「わたしは別にここで闘ってやろうだなんて、これっぽっちも思ってないんだ」
わたしが夢の世界でやることは闘いじゃない。
むしろ、駆除と言ったほうがいい。
『あ……? あ? はあ!?』
激昂している影は無視する。
一気に片をつけよう。念入りに斬り伏せる。
刹那、横たわっている鈴仙が目に入った。彼女の白い肌が見える。見るな。彼女と会うのは悪夢が覚めたあとだ。
「いくぞ」
心の内へ内へと、集中していく。
『ぶっ殺す! そしてお前もかわいがってやる!』
長い夜は終わりだ。わたしが終わらせる。
集中を、解き放つ!
獄界剣「二百由旬の一閃」
畜趣剣「無為無策の冥罰」
修羅剣「現世妄執」
人界剣「悟入幻想」
天上剣「天人の五衰」
六道剣「一念無量劫」
『が、があああああああああああ!?』
斬る、斬る、斬る! わたしは黒い影に何発も何発も、斬撃をたたきつける!
人符「現世斬」
断命剣「冥想斬」
魂符「幽明の苦輪」
人鬼「未来永劫斬」
断迷剣「迷津慈航斬」
『は、やめ、ぎゃああああああああああああ!』
鈴仙もずっとお前達との記憶を忘れていたかったのだろう。だが、何の拍子か、またお前達は出てきてしまった。
現実のお前達を斬れなくて本当に残念だ。鈴仙がどれだけ苦しんだか貴様らに分かるか!?
迷符「半身大悟」
人智剣「天女返し」
妄執剣「修羅の血」
天星剣「涅槃寂静の如し」
剣伎「桜花閃々」
断霊剣「成仏得脱剣」
転生剣「円心流転斬」
『あ、あ、あ』
巨大な影は斬撃の連続を受け、もう息も絶え絶えだ。
暗き部屋の天井ががらがらという音をたてて、破れる。そこから月の光がこぼれた。悪夢が終わろうとしている!
とどめだ。
鈴仙と初めて会ったあの永夜の異変、あの時に体得した狂気の月の力を借りる技。
「待宵反射衛星斬」
閉じられたまぶたを通ってきた明るい光を感じた。いまわたしは横になっているらしい。
「……妖夢? 妖夢!」
手を誰かに握られている。
わたしはまぶたを開けた。
「妖夢……!」
鈴仙。
鈴仙・優曇華院・イナバ。
彼女が、まぶしい朝の光を浴びながら、わたしを覗き込んでいた。
美しかった。一種の芸術を感じる滑らかな紫髪も、鋭さと柔らかさを両立させた顔も、そして、真っ赤なその眼も。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
ここは、鈴仙の部屋だろうか? 夜は明け、心地のよい日差しが満ちている。いや、いまはそれはどうでもいい。
彼女の瞳から涙がこぼれ始めた。鈴仙は謝罪の言葉を繰り返し呟き続けている。
「鈴仙!」
わたしはそんな彼女を見ているとたまらない気持ちになった。がばっ、と起き上がり、そのまま一気に鈴仙を抱き締めた。
きっと彼女は驚いているだろう。だが、かまうもんか。
「妖夢、離して! 私……あなたにひどいことを!」
「もういいから。もういいんだよ。お願い、あなたを抱き締めさせて」
ぎゅっと、ぎゅっと。ひたすら彼女を抱き締め続ける。
いまのわたしにはこうすることしか思いつかない。幽々子さまや紫さまだったら、鈴仙を癒す言葉を見つけ出せるだろう。でも、わたしに出来るのはこれだけだ。
あなたのすぐそばに、わたしはいるのだと伝えたかった。
鈴仙は昔、七人の男に乱暴を受けた。
月から逃亡し、地上に降り立った彼女。幻想郷にある永遠亭が目的地だったが、どうやったら行けるのかどうしても分からなかった。そこに、外の世界の術師たちがやってきた。術師たちは言葉巧みに鈴仙に近づき、一定の信頼を得た。そして一応、彼らのおかげで幻想郷を発見することが出来たのである。だが、いざ幻想郷に入ろうとした瞬間、彼らは鈴仙を裏切った。鈴仙を銃撃し、流れた大量の血を奪い取った。男達の目的は貴重な玉兎の血液だったのだ。
一リットル半の血を採取し、目的を達成した男達。彼らはその後、もののついでとばかりに、鈴仙に乱暴した。数々の罵声を浴びせながら。
隙を見計らって、鈴仙はなんとか逃げ出すことに成功した。そして、なんとか幻想郷に入り、迷いの竹林まで行くことが出来た。だが、このあまりに辛い出来事に、彼女の心は耐えられなかった。
彼女は記憶を封印したのだ。
このことを永琳ほか、永遠亭の面々は以前から薄々気がついていたらしい。節々で、なんだかおかしなところが散見されていたようだ。けれど、そう易々と触れてよいものでもないだろうから、静かに見守っていたらしい。
だが何の拍子か、奥底に眠っていたはずのそれが、少しずつ鎌首を上げはじめた。夢にうなされている鈴仙を、てゐが偶然発見したのだ。てゐはそれを永琳に相談した。月の頭脳はすぐさま行動を開始、古明地こいしに協力を要請して、彼女の夢を探っていた。
そんな状況を無視して、わたしと鈴仙は勝手に動いてしまった。結果、わたしが本来斬るべきものと別のものを斬ってしまったせいか鈴仙のトラウマは暴走、鈴仙を狂気へと駆り立ててしまったのだ。
「妖夢、あなたは私の迷いを、辛い記憶を斬ってくれた。だから、私はもう……」
「で、でも……!」
それでも、彼女はあんなに酷い記憶を思い出してしまった。もう悪夢で悩まされることはないかもしれない。けれど、男に乱暴されたという確かな過去は、どれだけ迷いを斬ってもなくなることはない。発狂することはないけれど、心にしこりとなってこれからもずっと鈴仙の中に残り続ける。それが、どんな影響を与えるか分からない。
「男の人とうまく付き合えなくなるかもしれないんだよ……!」
抱き締める。抱き締める。この兎を抱き締める。わたしには、こんなことしかできない。
「大丈夫だよ、妖夢」
鈴仙はゆっくりとわたしを抱く。二人で抱き合う形になる。
「あなたは、誰かが優しく自分を抱いてくれることの価値を知らない。それがどれだけ人に勇気を与えるか分かる? 私ね、いますごく幸せなんだ。こんなに幸せなんだから、絶対に私は無敵だよ」
ねえ、またお願いがあるの。
鈴仙が言った。
「迷いが無くなっても、きっとこれからも大変なことはあると思う。たまにで良いからさ」
いまみたいにぎゅー、ってしてくれない? それならきっと、私は大丈夫だから。
わたしは、力強くうなづいた。
ハッピーエンドでよかったぁ( ^ω^ )
この手の描写嫌な人もいるでしょうし
妖夢の立ち回りシーンに力を入れてほしかったかな、と。
弾幕を思い起こすことで読者が補うのも勿論アリだけど、
折角の文字媒体なので勿体ないと思う。
あと、タグ・前書きはあった方が良いに一票。
警戒を促すための注意書きと、批判をかわすための予防線は紙一重だけど、
こういう描写に関しては注意書きとして機能するはず。