最も澄み渡る朝。きんと張り詰められた空気の中、それでも陽の光は柔らかくプリズムリバー邸を包み込んでいた。
ルナサ・プリズムリバーが窓を開けると、研ぎ澄まされた冷気が部屋に流れ込む。騒霊にとって寒気は取るに足らないものであるが、その刺すような冷たさこそ気分を引締めてくれた。ルナサは窓の縁に軽く腰掛け、足を外気に曝しながらその新しく生まれた陽を望んだ。
新年の到来。
人間達はこれを神聖なものとして喜び、祝うのだという。そもそも年の区切りなんていうものは、嘗て人間が歴史の都合や利便性、又は人間が創り出した神々の為に、人間自身が引いた境界であると聞く。それに歓喜する事は見事予定調和、なんて滑稽。自らをも欺く道化を美徳とするのだろうか。騒霊であるルナサにはいまいち理解が及ばなかった。
だが、胸の深い所でルナサはその種の祝福を享受している。
死と再生、騒霊の身には余る題である。しかし感じずにはいられない。開放的な終末を。創造的な再生を。
「ふふ……」
零れた笑みを弄ぶように、ルナサは口元を歪めた。
幼さを残す太陽は、例年よりも確実に美しい。何せ――
*
スパァン、と障子が、
「あけました! 霊夢、大変だ霊夢!」
「よう、煩いの。閉めろ」
博麗神社の居間に、人の身には有り余る冷気が舞い込む。炬燵から上半身を出して仰向けに寝転がっていた霧雨魔理沙はその被害を被りつつも、紅い服をきた騒霊――リリカ・プリズムリバーを視界に収めた。
「どうした、目出度くもない異変でも起こったか? こんな早々に」
「その通り――あれ、霊夢は?」
「そこで伸びてるぜ」
魔理沙は視線でもって炬燵の反対側を促した。リリカはふわふわと炬燵の上空を旋回し、目をぱちぱちとさせた後にこちらへ向き直る。
「霊夢の足しかいないよ」
「……」
ごそごそと足の形を整えてから言う。
「初詣に来る参拝客の手土産をアテにしてた所為でこの様だ」
「参拝……? そうか、ここは神社か。あれ、私たちは参拝客じゃないの?」
「「素敵な賽銭箱はあちらよ」」
言いながら、全く同じタイミングで博麗霊夢が声を重ねてきた事にぎょっとする。見れば炬燵の横側から霊夢の腕が突き出しており、それは拝殿のほうを指しているらしかった。
魔理沙が先ほど見たままであるならば、件の箱周辺は『元日に限りご利益5倍』(ゼロには何を掛けてもゼロだ)だとか『ご利益が感じられない場合、返金致します』(幸運が一度も無い奴などそうそう居ない)、『悲しいけどこれ、賽銭箱なのよね』(来年まで食い繋ぐという意味での一年戦争)等と書かれた旗や帯が雰囲気を賑やかしており、必死さが伺える様子である。
憐憫と渇望が飽和したアドバイス空しく、リリカはそれを行動に活かすつもりは無いようだ。やはり、神社にやって来る魑魅魍魎どもはこうでなければならない。
「なんだ起きてるじゃん。霊夢!」
「何なのよ。私はいますごく機嫌が悪いの」
くぐもった声が炬燵から聞こえてくる。この亀巫女、どうやらこの状態のまま会話を継続するつもりらしい。
「霊夢ー、姉さんが大変なんだよー」
「聞こえないー」
「とりあえずそこから出ろよ、霊夢」
「やーあー」
ごねる霊夢は今日も頑なだ。
「私は今日一日、ここで魔理沙の下着を眺めながら過ごすの!」
しかし魔理沙は、それに劣らない強靭な心を持っていた。容赦の無い蹴りを霊夢に浴びせる。
「あががががあああ!」
ガタガタと揺れる炬燵を押さえながら、尚も猛攻を加える。
「ああっづぁああ!」
中に置いておいたミニ八卦炉(これを以って炬燵としている)に当たったらしい、悲鳴を最後に炬燵の揺れが収まった。足で踏んで確かめる限り、霊夢は無事ぐったりとしたようだ。
「ところでリリカ」
「ん?」
一方リリカは、いつの間にか炬燵の側面を陣取りお茶を啜っていた。
「姉さんってあれか? あのラッパの煩い」
「ふぅ……不味い。いや、メル姉は風邪をひいて寝込んでるよ」
「ありゃ、するとあの大人しそうなほうか。そりゃ大変だな」
「何で?」
「普段大人しい奴が爆発すると、そりゃもうすごいんだぜ」
「え? 姉さん、爆発したの?」
「ん、違うのか?」
「いや、あれはイクスプロージョンというよりヴォルケイノだね」
「合ってんじゃねえか」
「ばくはつー」
幽霊には基本的に話が通じない。比較的通じやすいと評判のリリカでさえこれなのだから、これ以上幽霊とつるんでいく為にはボディランゲージの習得が必要なのかもしれない。
しかし、何かがあったのは確かなようだ。リリカは見たところ平静(終には炬燵でごろごろしだした)だが、そもそもリリカが神社にまで押しかけてくる事が非常に稀である。過去に覚えている限りでは、姉と喧嘩した、もう片方の姉と喧嘩した、姉たちに喧嘩されたの三パターンのみである。
いつもならば『どうせ姉妹喧嘩だ面倒臭い』と流す所であるが、何という事か、魔理沙はそこそこに退屈を持て余していた。霊夢があんなだし。
「良し」
「お?」
ずだん、と景気良く手で畳を鳴らし、その反動でふわりと立ち上がる。
途端、容赦の無い寒気が体温を奪うのが解ったが、好奇心に灯った火の熱さは微塵も揺らごうとはしなかった。
「霊夢、面白そうだから私が行ってくるぜ」
「あ、その前に魔理沙」
「あん?」
「あんた、ドロワーズに染みがぁああああああっづああ!!」
博麗霊夢は今日も最高だ。おかげでミニ八卦炉を忘れずに済んだ。
*
「へぶし!」
ずず、と鼻を吸いながら箒に跨り、冬の空を全身で感じる。
とにかく寒い。神社で暖まった身体はとうに芯まで冷え切っており、指の先端は既に感覚を失っている。元々は神社でぬくぬくダラダラとする予定だったので、余り暖かい格好をしてきていないのが悔やまれた。
「せめてもう少し厚着をして来るんだったぜ」
「人間は貧弱だねえ」
そう言うリリカは短いスカートを靡かせながら、すぐ傍を綽々と飛行している。
「お前はそんな格好で寒くないのか?」
「だって私、幽霊だもん。寒いもなにも無いよ」
「あれ……? うん、まぁそうか」
何かに引っかかったが、この凍えるような状況下それは些事だろう。追究を早々に切り捨てた後、最も寒くならない体勢の模索を続けた。
勢いで飛び出して来たものの、早くも炬燵が恋しい。炬燵の『元』は手元にあるのだが、こんな至近距離で暖をとっても前例のように火傷をするだけである。
「そういえばこれ、何処へ向かってるんだ? もう紅魔館の辺りまで来ちゃってるみたいだが」
「私たちの屋敷だよ」
「ほお」
そういえば、彼女らは湖畔にひっそりと立つそこそこ大きめ洋館に住み着いていると聞いた事がある。紅魔館ほどではないだろうが、障子ではない扉に隙間風の通らない壁、適度に暖の取られた快適な洋室がイメージされる。
(ほお……!)
自然と、箒を持つ手に力が入った。
速度が乗るように、しかし風の抵抗を受けず寒くない最も理想的な姿勢を取る。そのまま少し速度を上げると、向かい風が目に入り痛んだ。帽子を目深にかぶり、顔を伏せる。
「寒くなってきたから飛ばすぜ」
「私は良いけども――げ、姉さんだ」
「え?」
リリカの声に反応し前方を向く。その遠く先、リリカとは対照的に黒を基調とした落ち着いたデザインの服の人物――ルナサ・プリズムリバーがこちらへ向かって飛行していた。
通り過ぎるわけには行かないだろう。上げようとした箒の出力を渋々抑え、徐々に減速をする。次第に身を裂くような風の暴力も弱まり、魔理沙は相対的な暖かさを獲得した。ルナサの姿が十分に大きくなる頃には箒の速度も落ち着いており、魔理沙は既に飛行を止めて待っていたルナサの目前でようやく停止した。
「斬新な箒の乗り方ね。土下座?」
「いや……」
そういえばそんな姿勢だ。慌てて箒に跨り直す。
「ええと、大人しく暖かい紅茶で持て成して貰おうか」
「何なのよ一体」
「お前の妹に呼ばれて来たんだが」
「あら……リリカ?」
「あれ?」
辺りを見回すが、先ほどまで横に居たリリカの姿が無い。
が、背後に小さな存在感というか、リリカは魔理沙の腰に抱きつくように背後に隠れていた。
「お前、そんな所で何やってんだ」
「うう、だって」
「冷たい、離れろ」
道理でさっきから腰周りが冷えると思った。腰から手は離してくれたものの、背中が一段とひんやりする。風邪を引いてしまいそうだった。
(それにしても……)
ルナサをじろじろと観察するが、別段おかしな所はない。
「どういう事だ? お前の姉さん、特に爆発してないぞ」
「何よそれ」
ルナサが半眼でじろりと視線をずらす。
「ひぅ」
それに萎縮したように、背後のリリカが小動物のように縮こまるのが解った。
「おい、あんまり苛めてやるなよ。怖がってるぞこいつ」
「ふふ。まさかこんな気持ちの良い年明けに、可愛い可愛い妹を苛めるわけ無いじゃない」
途端、ぱぁ、とルナサの顔が晴れ渡り、とても爽やかな笑顔が現れた。
「……」
魔理沙は首を少し背後へ向け、ルナサには聞こえない程度の小声で喋った。
(確かにちょっと変だな)
(でしょ!? ルナ姉のあの笑顔はほんとに怖いんだ。なんていうかドSがドMをいたぶる時の)
(いやそれは知らんが)
「何をこそこそ話してるのかしら。リリカ?」
「うぅ……」
ルナサはその晴れやかな表情を崩さず、しかしリリカを睨み付ける。
「朝から私を避けてると思ったら黙って何処かへ行くし、挙句の果てには白黒なんて連れ出して。何を企んでるのよ一体」
「いや、そもそも私が呼びにいったのは霊夢で」
「あ、ひでえ」
自分では不足だというのか。異変揉め事なんでもござれ、とにかくイベントには顔を突っ込むライフワークを否定され、少し苛立つ。
「それよりもルナサ、私はお前の家の暖炉に用がある」
「暖炉なんて無い。それにこれから初詣に行くから駄目ね。良かったら貴女もどう?」
「私はその神社から来たんだぜ。ん――?」
見れば、リリカはがくがくと震えながらルナサを指差している。そして弱々しく口を開いた。
「やっぱり異変だ……。あの人見知りの姉さんが人を誘うだなんて――!」
「失礼ね。友達の少なさに定評のあるリリカに言われたくないわ」
「なっ! 魔理沙は友達だもん!」
「あら、ようやくリリカにも友達が」
「ただの知り合いだぜ」
「あ、酷い」
ささやかな報復を果たした所で、魔理沙にはとても気になっている事があった。
「ところでさっき、初詣とか言ったな」
「ああ、言った」
魔理沙の頬を、この寒さにも関わらず一筋の汗が流れる。
とても嫌な予感がした。
「何処へ?」
「博麗神社に」
「賽銭は?」
「此処に」
ルナサは何処からともなくバイオリンを取り出し、それを傾ける。バイオリンの空洞からじゃらじゃらと音がした。
「……」
何という事か、あの博麗神社に賽銭持って初詣だと? というか、楽器をそんな風に使っちゃだめだろう。どうやって取り出すんだアレ。リリカが大変だと騒ぐだけの事は有る。いや、さすがは騒霊。
霧雨魔理沙は空想する。
お賽銭が入って上機嫌な霊夢、
一銭も入らずに泣きを見る霊夢?
博麗霊夢、
博麗霊夢。
…………。
「駄目だ。やっぱり私は苛めるほうが好きなんだ」
「「え、あんたもなの?」」
リリカとルナサの声が綺麗にユニゾンする。
「ああいや、とにかくこのままお前を神社へ行かす訳には行かない。それでいいんだろ? リリカ」
呼びかけるが、リリカは何故か泣きそうな顔でこちらを見ていた。しかし、同時にこくんと頷く。
「やる気? 新年早々」
「やる気だぜ? 新年早々」
そういうと魔理沙は大きく手を広げ、
「こいつが」
渾身怒涛の魔力と恋心を有りったけ、
「今年最初のボディランゲージだ!」
そのまま内側に両腕を振りかぶり、星型弾を無造作に、そして大量にばら撒く!
―― 魔符『 ミルキーウェイ 』
「いやっほう!」
叫びながら、放弾の反動で大きく後退、上昇する。ついでにリリカの襟首を引っ掴んだ。
「うひゃああ!?」
リリカが裏返ったような声を上げるが、構わずにリリカを横方向へと思いっきり放り投げる。
「乱暴だなあ、もう。よ、っと!」
そのままくるりと空中で反転しバランスをとると、リリカはいつもの鍵盤楽器を自分の前に出現させた。そのままパチパチと楽器のつまみを手早く弾いていき、そのたびに楽器が淡い光に包まれていく。一連の動作を終えると、ルナサへと向き直った。
「いくよ、姉さん!」
―― 冥鍵『 ファツィオーリ冥奏 』
直後、楽器から放たれた衝撃弾が、魔理沙の放った星型弾の間を縫うように展開される。曲率半径の異なる曲線が重なり合い、それらが収束するようにルナサの方へと殺到した。
*
「二対一? フェアじゃないわね」
星屑が飛び交う濁流の中で余裕を持って漂いながら、ルナサは呟く。
「はぁ、妹が数の暴力に奔って憂鬱だ。まぁお仕置きついでに、相手してあげる」
ヴァイオリンをじゃらじゃらと鳴らしながら肩に掛け、そして弓をそっと弦に当てる。
―― 神弦 『 ストラディヴァリウス 』
「uno」
そのままルナサがヴァイオリンを放すと、それは独りでに音を奏で出した。周囲に張り巡らされた音弾は静かに炸裂、しかし爆発的に連鎖し、放射状の弾幕を展開する。それらはリリカ、魔理沙の弾幕と真っ直ぐにすれ違い、網目から壁へと閉じるように彼女らへと向かった。
それによってリリカは、大きく後退したようだ。程なく、リリカの放った弾幕が薄く遅いものへと緩んでいくのが確認できた。だが――
「動くと鬱!」
完全なる背後から、鋭い魔理沙の声が聞こえた。
「へえ」
ルナサは感嘆のため息を吐きながら、ぴたりと動くのを止める。
こいつに対しては見せた覚えの無いスペルだったのに、こうも瞬間的に看破されてしまう物なのか。ストラディヴァリウスの弾幕は放射状に展開されるために、その内側を行く弾はとても少ない。つまり、弾が炸裂する前に内側へと潜り込まれれば、即ちこちらの窮地となる。
「間違えた。鬱と動く」
あぁ憂鬱だ。初詣に行こうとしていただけなのに、どうしてこんな所で邪魔をされなければならないのか。こんな良い気分になったのは久々だというのに。リリカは後ほどたっぷりといたぶらなければならない。
「今すぐ動く!」
その声を合図に、ルナサは弾かれたように飛び出した。そのすぐ傍をレーザーが走り、それは軌道をこちらへと迫らせてくる。
そして、逃げながら方向を少し調整する。私の背後から撃つという事はつまり。
「うぎゃあ!」
遠くからリリカの悲鳴が聞こえた。ルナサがにやりとして魔理沙のほうへ向き直ると、魔理沙も同じようににやにやしていた。こいつ、解っていてやったらしい。
そのまま魔理沙から距離を取る様に、でたらめに弾幕の中を飛行する。しかし魔理沙は尚も食らいつくように、距離を詰めてきた。このまま近寄られ続ければ不利である。
(ならば、近寄らせなければいいだけ)
ルナサは手を振るい、その先にヴァイオリンをもう一つ出現させる。そして、先ほどから弾幕を出し続けているほうのヴァイオリンを手繰り寄せ、その二つを魔理沙へ突きつけた。
「due」
「げ」
先ほどの倍の弾幕が至近距離で炸裂し、魔理沙が飲まれる。その波が過ぎた後、そこには魔理沙の姿は見当たらなかった。
瞬間、目の端を黒い残像が横切る。
距離は多少離せど、上手い具合に中距離を保ち、突撃する隙を探しているようだ。全く、恐れ入る。
リリカはようやく復帰したようで、涙目で帽子を抑えながら鍵盤を制御していた。弾幕の勢いが回復していく。しっかり見てはいなかったけども、あのレーザー、頭に当たったのだろうか。
(でも、お仕置きは別)
ヴァイオリンに働きかけ、弾幕を少し歪めた。両端の弾に指向性を持たせ、リリカのほうへ密度の高い弾幕が展開されるように集中させる。
リリカのぎょっとした表情が遠目で確認できるが、躊躇などしていられない。魔理沙がいつ再びこちらの懐に飛び込んでくるか解らない緊張に追われながら、力を強める。
が、
「狙い鬱ぜ!」
方々を飛び回っているはずの魔理沙の声がやけに近く響いた。慌ててその音源を探ろうと身体を捻った瞬間、数瞬前まで居た位置を、下から直線状の雷撃が鋭く貫く。
「んっ」
見れば、魔理沙はルナサのすぐ直下をところ狭しと飛び回っていた。そして地面へ向かって何かを投げつけている。先ほどの雷撃か。
「狡い真似を」
ルナサは再び手を振るう。二つのヴァイオリンが斜め背後、両側へ引き上がったのを確認し、全神経を集中させた。
眩暈が視界を歪めるのが解ったが、構いはしない。今ならやれるはずだ。
「tre!」
「マジかよ!?」
これを勝機と飛び込んできた魔理沙の眼前に、三つ目のヴァイオリンが出現する。それは電光石火で弾幕を炸裂させた。
「ガッ」
魔理沙が被弾する。箒を手放し大きく落下して行くがすぐに箒の制御を取り戻し、遠く下前方へと滑るように大きく弧を描きながら飛んで行く。助けてやる必要は無さそうだ。
トライアングルを形成したヴァイオリンはルナサの周りを旋回し、尚も弾幕を炸裂させ続けた。先ほどまで辛うじて魔理沙が縫っていた弾幕の隙間を埋めるように弾は縦横無尽に駆け巡り、終に魔理沙は接近を諦めたようだ。気がつけば、さらに遠く、リリカの方へ逃げていく魔理沙の背中が見えた。
*
ぐるぐるとルナティックな弾幕を展開し続けるルナサを遠目に、魔理沙はリリカの元へと辿り着いた。これだけ距離を取れば、なんとか会話できるだろう。
「何なんだあいつは。洒落になってないぜ」
「姉さんは特にこの時期、絶好調なんだよ……。あぁなったらもう誰にも止められない」
「時期って何だ? あいつ、冬の妖怪だったっけか。確かに初めて会った時は幽々子のせいで冬真っ盛りだったが」
「いや、時期というよりは気持ちの問題だと思うんだけど、ううん。まぁ後で解るよ」
「?」
視線を逸らすリリカに疑問を覚えつつも、流す。妖怪幽霊魑魅魍魎。理屈では語れない連中がごまんと存在する中、その特性をいちいち追求していてもキリがないだろう。
「いやーしかし、新年早々から黒だとはな。ルナサの奴、気合が入ってるぜ」
「……それで下のほう飛んでたんだ? そっか、黒か。姉さんいつも隙が無いもんな」
ぼそぼそと呟くリリカの顔が少し赤らむ。
「ん、何の話だ? 黒星、負けって事だぜ。一発食らわされた」
「うううう」
リリカの顔の赤みがさらに増した。
一発食らわされた腹いせに、一杯食わせる。世の中はバランスが大切だ。
「しかしどうする。このままじゃ押し切られるぜ」
「これは最後の手段にしようと思ってたんだけど……。背に腹は代えられないね。人間の里にいる半獣に助けを求めにいこう!」
「慧音か……よく解らんが。知識人なら紅魔館にいる書痴のほうが近いんじゃないか? 私が行けばある程度協力してくれると思うぜ」
「いや、半獣じゃないと駄目なんだ。説得力というか」
「どうにも要領を得ないな。まぁ起死回生の策があるのなら乗ってやってもいいが……そもそもお前、ルナサが賽銭箱に何入れようが特に困らないだろ。なんで神社に飛び込んできたんだ?」
「え? 騒いだほうが楽しいからに決まってんじゃん」
「だろうな」
話は決まった。
一時撤退すべく、その方法を模索する。こっちはリリカもいるのだから、普通に飛んで逃げるのでは距離は縮まらないだろう。ならば。
「もうお仕舞い? 来ないならこちらから攻めるわよ」
ルナサが声を上げる。流石に余裕はないようだったがその顔からは闘志が溢れており、なんとも活き活きしていた。愚図ついている暇は無さそうだ。
「リリカ、掴まれ」
「え?」
言うが早いかリリカの腕をがっしりと掴むと、もう片方の手で乱暴にミニ八卦炉を鷲掴みにする。
「行け! マスタースパークだ!」
出力を最大に、出せる威力を極大に。
光の暴力が視界を、ルナサの姿ごと埋め尽くした。
その反動を殺さず、途端、魔理沙(とリリカ)は爆発的な勢いで後方へと引っ張られる。そのままぐるりと百八十度回転し、なんとかバランスを取りながら箒で流れに乗った。
エネルギーの奔流がようやく収まる頃に振り返ると、ルナサの姿は遥か遠くで小さくなっていた。
*
「誰が牛か」
「ギブギブギブギブ」
襟首を掴まれ、もう天頂近くにまで上がってしまった太陽に頭を近づけられた状態で、魔理沙は限界さをアピールした。目下では怒りを目に籠めた半獣――上白沢慧音がこちらの首元へ腕を伸ばしている。頭の上の帽子は頭の中身に劣らない奇抜さを誇り、里を守る半獣としてのちょっとした象徴となっている。
そんな事を確認しているうちに息苦しさは去り、代わりに尻を遅効性の冷たさを伴う衝撃が襲う。人里の地面はある程度均されていたが、痛いものは痛い。
「げほっ、いきなりひでえ乱暴しやがる」
「ああ――すまん。少し気が立っていたものでな。無礼を詫びよう。先ほどの事は忘れてくれ」
「牛が何だって?」
「忘れてくれ」
訪ねて真っ先に掴み上げられた身としては是非明らかにしたいところではあるが、こう見えてこの知識人、かなりの曲者である。聡明な表面を被っているだけに余計に性質が悪い。時たま、こういった訳の解らない行動にそれが露呈する。
さて置き、ルナサが神社へと向かっているであろう今、悠長に遊んでいる時間など無い。魔理沙は早口にこれまでの事情を慧音へと説明した。
「――大体の事情は飲み込めたが、目的が完全にお前の個人的願望じゃないか。私はお前の歪んだ性癖に付き合う程暇じゃないぞ」
「ぐ」
呆れたように慧音は言い放った。そう言われてみればその通りである。
「このまま姉さんを放っておくとひどい事になるよ」
と、そこにリリカがおずおずと口を挟んだ。
「貴女は確か――その騒霊の末妹か。どういう事だ?」
「あのままだと、姉さんは幻想郷じゅうに鬱を蔓延させようとする。鬱になった人はやる気が出なくなるし、何もかもがだるくなる。体力を使わないから自然と夜更かしするようになるし、次第にお腹のお肉も気になってくる。でも動くのが面倒くさい。夕方にのそのそと起き出してぼーっとした後、明け方になってやっと眠くなるの。そんな奴ばっかりの幻想郷になっても良いの!?」
「……えらく具体的だな」
次第に熱くなったリリカの口弁に、慧音が少し距離を取る。
「駄目な時の姉さんはそんな感じだから」
「うへえ、そりゃ勘弁願いたいな」
魔理沙も研究に没頭している時の生活は酷いものだから、あまり人の事を言えないのだが。
「魔理沙だってもう既に鬱の影響は受けてると思うよ」
「そうか? そんな事はないと思うぜ」
とくに気分が盛り下がるような事は無く、思い当たる節も無い。取り立てて挙げるなら身体があちこち痛む程度だが、それもこの寒い日に朝から暴れまわったせいだろう。
「とにかく、もう長年一緒にいるから解るんだ。このまま放っておくと大変な事になる!」
しかし、ここで疑問が発生する。リリカは先ほどの弾幕戦中に『この時期になるとルナサが絶好調』だと言った。しかし、ルナサと初めて顔を合わせた時は冬にも関わらず、今日のような様子では無かったはずだ。つまり『時期』というのは、リリカが言うルナサの異変が発生する時期、という事になる。
「じゃあ聞くが、今まではどうしてたんだ。ルナサが、その何だか知らないが大変な事になったのは初めてじゃないんだろ?」
「前回――ちょうど十二年前の事だけど、その時は私とメル姉でなんとかボコボコにして収まったんだ。笑顔のメル姉がラッパでルナ姉の事本気で殴るわ殴る。すごかったんだよ」
「スプラッタだな……。でも、今回はそのメルランが風邪で寝込んでるからそういう訳にも行かないと」
「うん」
「ずっと突っ込もうと思ってたんだが、騒霊って風邪ひくのか?」
「馬鹿だなあ、引くわけ無いよ。寒さや菌類なんてどうって事ないんだから」
リリカはころころと笑った後、そのまま表情を硬直させた。
「あ」
「……」
要するにメルランがいい加減面倒臭くなって投げた、と。それも鬱の影響なのかは解らないが、どっちにした所で協力は望めそうに無い。最早どうでも良い事だろう。
凍りついたリリカを尻目に、会話に取り残された慧音が不機嫌そうに「あー、」と声を上げる。
「私が行ったところで、結局どうすればいいんだ。流石に騒霊に関する知識までは持ち合わせていないぞ。そもそもそれは、私でなければいけないのか? まだ里での新年の挨拶や会合の予定が控えているんだが……」
「それはね、ええと――」
硬直から復活したリリカがその抗議に対応しようとするが、何やら言いあぐねているようだ。もごもごと口を動かしながら手を組み、慧音に対して少し上目遣いになる。
「……!」
その様子に慧音は、渋面をふっと緩ませ、リリカに対して柔らかな微笑みを返した。
魔理沙が知る上で、慧音は、実は小さくて可愛いものには目が無い。身長が低く小柄で、小動物のようなリリカにそんなポーズをとられてはツボというものだろう。実際、リリカのその様子は魔理沙の加虐心をも焚きつけていた。
しかし当のリリカはそんな心知らず、と尚も深刻そうにごくりと唾を呑み、覚悟を決めたような顔持ちをしている。そして、言葉を次いだ。
「牛だから」
その後、激昂した慧音を中心とするスプラッタを止める為には、里の皆さんのご協力と、余りの恐怖と痛みにマジ泣きを始めたリリカの『ごめんなさい』百回、そして四半刻弱もの時間を必要とした。
*
魔理沙はリリカ、慧音を連れ立ち、博麗神社へ向かって急ぎすっ飛んで往く。
陽が高くなったとはいえ冬の空は寒く、身は裂かれるようだ。しかし、確実に迫っているはずのリミットに、そんな事こそが些事であった。
「畜生、時間を食いすぎたぜ」
「全く誰の所為だ……。後、用事が済んだら私は帰らせてもらうぞ」
(主にお前の所為だろう……)
未だに不機嫌な慧音は、しかし箒が最高速度に近いにも関わらず並走してきてくれている。こんな奴ではあるが、この半獣のとびきりの良さは情に厚い事であり、過去に何度か無茶な頼み事をしてきたが無碍に断られたことは一度も無かった。
リリカはというと少し同情する程度にぼろぼろであった上に、もともと速く飛ぶ事が得意ではないらしく、今は魔理沙の後ろの席へと落ち着いている。多少速度は落ちるが、これでもリリカが自力で飛行するよりはうんと速いだろう。
慧音が少し飛行速度を落とし、魔理沙に対して斜め後方へ位置するようになる。そのまま横方向に箒へと接近し、リリカへと話しかけた。
「しかし、聞く話によると可愛らしいじゃないか。本人も解った上でやってるんだと思うんだが、やはりそっとしておく訳にはいかないのか?」
「いや、姉さんは素直すぎるというか、教えられたことを簡単に信じるんだよ。あれは本気だ。この機会に、ひと思いに矯正してやったほうが良いね」
もうすっかり復活したらしい。リリカは軽快に言い放った。
「お前がそう言うのなら構わんが――結果的に彼女を傷つける事になりそうでな。だからこそ、お前も今まではぐらかして来たんだろう?」
「だいじょーぶ。私たち騒霊は、楽しく騒ぐ事が生きる目的なの。そんな事で挫けたりしないよ、きっと」
理由になっていない気がしたが、リリカの切り替えの良さには存分の説得力があった。そして慧音はリリカへの二人称を早くも『お前』にランクダウンさせていた。しかし、リリカはそんな事も気にした様子も無く、むしろ親交の証として受け取ったようだ。慧音もそれを解っているのだろう。流血沙汰を通して芽生えたらしい友情に、魔理沙の目頭が熱くなる。
「おい、そろそろ神社のあたりだぜ」
いつの間にか、博麗神社へと続く石段が肉眼で確認できるほどにまで接近していた。右手で慧音のほうへ合図をし、そのまま降下しながら飛行の速度を徐々に落としていく。
「あ! あれ!」
その時、リリカが叫んだ。
リリカが顔を向けている方へ意識を遣ると、そこには太陽を背後に浮かぶ人型一つ。
どうやら、ジャスト。間に合ったらしい。
「あら、久しぶり」
「百年ぶりだな。お変わり無い様で」
言いながら降下してくるルナサに、軽口を叩きながら相対する。
『弾幕る』。その意思を確認し合うように、お互い、視線を衝突させた。
そこに、慧音が割って入った。
「少し待ってくれ、先に話を――」
「あら変な帽子。貴女も弾幕る気?」
「お前が言うな――じゃなくて、私はそんなつもりは……」
「じゃあ先に、そこの弾幕る気満々の白黒と勝負を付けさせてくれる? 何、直ぐに終わるわ。二度と立ち上がれないようにしてあげるだけだから」
「そいつぁ無理だな。例え足首かっ切られようと、この身在る限り、どこまでもぶっちぎってやる」
「おい魔理沙」
慧音が面倒くさそうにこちらへ眼を飛ばすが、それを無視する。
誤魔化しては居たが、腹の底は先の敗北からずっと消化不良を起こし煮えくり返っていた。いらいらと拳が疼く。
「御託は十分だ。さっさと弾幕ろうぜ」
「何時、待ってくれなんて頼んだのかしら。攻めないのは勝者の余裕」
「言ってろ!」
魔理沙は後ろ手にマジックミサイルを五発配置、慧音の左右を回り込むように軌道を調整する。それらは直ちに加速度を持った後、速度を増幅させていった。
「うわっ――魔理沙!」
「慧音、スマン!」
突風と弾道が慧音の顔を掠める。当たらなかったので良しとしよう。
ミサイルは上方へ退避したルナサを追うように螺旋を描きながら上昇、魔理沙もそれを追うように真っ直ぐと駆け上る。すぐにミサイルとルナサを追い抜く。
そこで、ルナサが急旋回した。ミサイルは曲がりきれず他弾と接触、爆散する。膨れ上がる煙幕にルナサの姿が消えた。
その様子を、魔理沙は既に真上から眺めていた。挟撃の目論見は失敗である。
目を凝らし、煙幕の中を注意深く観察する。近くからにしろ、遠くからにしろ、ルナサはこの煙幕を利用してこちらの不意を突こうとするだろう。
その後の先を取る。
ルナサがこの煙幕を利用するのならば、この煙幕は確実な通過面である。故に、その中を動く物を見逃してはならない。
暫くして、煙幕の中を横切る影を認めた。
「そこか!」
イリュージョンレーザーを素早く撃ち込む。それは愚直な直線を描き、しかし命中した。
その影は四散し、その一部が目にも留まらない速度を伴ってこちらへ殺到する。
「っ!」
頬に小さな衝撃と、その後にじんわりと熱さが訪れた。
煙幕が完全に晴れると、悠然と漂うルナサが余裕のある笑みを浮かべ現れた。
「二人がかりで負けておいて、一人で勝てると思ってるの?」
「私は一人のほうが強いぜ」
目の端に、地上へと退避したらしい慧音とリリカが映る。片方は頭を抱え、
「まぁリリカだしね」
「そうだな」
片方は欠伸をしていた。
「そもそもなんでお前は、そう意固地に神社に行きたがるんだ」
「そもそもどうして貴女は、そう意固地に邪魔をしたがるの」
「幻想郷の平和を守る為だぜ」
「……? よく解らないけれど。私はこの素晴らしい一年を祝福する為に来ただけなのに」
「そう思うなら偶像を拝んでなクリスチャン。ただし賽銭はこちらに寄越してもらおうか」
「ただの恐喝じゃない」
ルナサが呆れる。
「それに、今年は神道で行かせて貰うわ。折角だもの」
「何が折角なんだ?」
「決まってるでしょう? 今年は――――――だから!」
同時、ルナサが咆哮しながら腕を横薙ぎに大きく払った。ぶおんと大きく風を鳴らし、自身の叫びをも飲み込む衝撃波を発生させる。暴風に視界を遮られながら、魔理沙はなんとかルナサから放たれた弾を確認した。弾数は全部で三から四程度。
少なすぎる。しかも、その軌道はこちらから大きく外れていた。だが、その先は――
あれは、ただの弾じゃない。
「させるか!」
魔理沙は躊躇せずにルナサに対して背を向け、その弾を見据える。
既に『賽は投げられてしまった』。神社へと迫るごく小さな、しかしクリティカルな弾道は最早追えるものではない。速度を持ちすぎている。
しかし、魔理沙にはその先に到達する為の切り札がある。ここのところ乱発しすぎているが、切り札は切り札である。
両手でしっかりとミニ八卦炉を構え、迅速に、そして正確に照準を合わせる。
目標は、ルナサの放った弾道の至る一点。神社の古びた四角い箱。
籠める魔力と恋心。
―― 魔砲『マスタースパーク』
「ブチ壊せぇっ!」
神社へと向かう膨大な魔力の奔流を目に収めたところで、その反動が身体を大きく吹き飛ばそうとする。
だが、ここからだ。
マスタースパークの向かう先を眺めている余裕は無い。本命はこっちだ。
先ほどはこれで以ってルナサから逃亡したが、今度は違う。
(逃げっぱなしだなんて性じゃない!)
吹き飛ばされながら身体を反転させ、体当たりに備え身体を丸める。
気づけば、すぐそこにまでルナサの姿が近寄っていた。
「食らえ!」
「なっ!?」
呆気に取られたようなルナサの表情が間近に見えたのも束の間、頭の芯まで響くような衝撃、そして強烈な鉄臭さと共に、魔理沙の意識は暗転した。
*
結局、気を失っていたのは少しの間だったらしい。
魔理沙が目を開けると、未だ高い太陽の光が葉の隙間を縫うように差し込んだ。
「うう……」
「お、目が覚めたか。大丈夫か?」
視界に陰が差し、慧音の顔が近く現れる。
慧音が介抱してくれたのだろう。膝枕は何とも恥ずかしいので、急いで身を起こした。
「身体中痛いぜ」
「それで済んだだけ有難いと思え。死にたいのか、お前は。もうすこし身体を大切にするんだな」
軋む身体を振り絞って立ち上がる。
見回すと、木の根元で簀巻きされたリリカに腰掛けるようにルナサが佇んでいた。
「無茶苦茶ね。弾幕もくそもないじゃない」
「あん? やり直すか?」
「はぁ、もうどうでも良いわ。なんだかテンションが下がった。痛い」
「そうかい」
「たすけてー」
リリカが声を上げる。魔理沙がそれに対しウインクで返すと、リリカは泣きそうな顔になった。正しい扱いだと思う。
「最高に憂鬱。お賽銭もどっかやっちゃったし、もう帰るわ」
「あー、姉さん。その前に」
「何よ。置いて帰るわよ?」
リリカはそのままでも飛べると思うのだが、突っ込むのは無粋なので止めておく。
「姉さんにずっと黙ってた事があるんだけど――」
「おい、リリカ。もう良いんじゃないか」
「何なのよ」
慧音が制止するが、それは逆にルナサの興味を引いてしまったようだ。ルナサは不機嫌に語気を強めた。
恐る恐る、といった様子でリリカが問う。
「今年の干支は何か判る?」
「鬱年でしょう?」
何を今更、とでも言うようにルナサがあっさりと答えた。
魔理沙は慧音と目を見合わせる。そして魔理沙が先にすっと身を引いた。慧音が舌打ちをするのが解ったが、知ったことではない。そうこうしているうちに、リリカが続けた。
「ええと……本当は『うつどし』じゃなくて『うしどし』なんだよ」
「え」
「鬱年、なんてのはレイラがこっちにきてから遊び半分で思いついた、姉さんをからかう為のジョークで、それを姉さんが真に受けてただけなんだ。あまりにも姉さんが嬉しそうに『私の年だ!』なんて喜ぶもんだから、レイラも終に言いそびれてそのまま逝っちゃったんだけれども……」
「え?」
ルナサは慧音のほうへ、ぎぎぎと音を立てながら向き直った。
慧音はそれから逃げるようにこちらを睨んでくるが、済まし顔で葉っぱの数でも数える事にする。そもそもこの役回りを選んだのはリリカなので、矛先はそっちへ行くべきであろうに。
慧音は諦めたように溜息を吐いた。
「寅、卯、辰、巳、午、未、申、酉、戌、亥、子、ときて『鬱』の訳ないだろう。今年は丑年、正確には己丑(つちのとうし)と云う。ちなみに前回の己丑はかの中田カウス師匠が生誕した年で、今年で還暦だそうだ」
「誰だよそれ」
相変わらず偏った知識人だ。
「しかし、ルナサ・プリズムリバー。貴女は変人の多い幻想郷の中では博学聡明な方だと見受けられたんだが――いや、失礼。誰にだってその、至らない所はあるさ。なぁ魔理沙?」
「あんたもムッツリ変態のくせによく言うぜ」
「フォローをしろ?」
「ギブギブギブ」
未だ各所が痛む身体を捻じ曲げられ、悲鳴を上げる。
「姉さん……?」
視界の端では、何時の間に縄から抜け出したのか、リリカがぺたぺたとルナサの頬を叩いていた。
しかしルナサは、何の反応も示さない。というかリリカに腰掛けていた姿勢のままなので、空気椅子の状態である。
「気絶してる。座ったまま気絶してる……」
「リリカ以上の物知らずってのが効いたんだろうな」
「可哀想に……」
「ちょ、どういう意味だよそれ! ってか慧音まで!」
「いや、私はそういう意味で言ったのではないぞ!?」
「そのままの意味で間違ってないから良いぜ」
ぎゃあぎゃあとリリカと慧音が喚く。
その時、全く突然に、魔理沙の頬にべちゃりと何かがへばり付いた。
「ひぁぁ!」
「うわああ!」
魔理沙と、何故かリリカまでが悲鳴を上げる。
「冷た! なんだよこれ!」
慌ててそれをひっ掴み、地面へと投げ捨てた。それは形を崩して、地面で潰れたように四散する。
見る限りは褐色の、水気を持った、何かである。
「……本当に何なんだ?」
「騒がしいわね」
神社の方からとても――とても低い声が響き、辺りを支配した。
少なくとも、たっぷりと五秒は時間が止まった。
慧音はその声の方を向いて固まっている。ルナサは元々固まっている。
「おい霊夢――」
「ここは何処かしら、あぁ寒い。こんなに寒い場所が境内にあったのね」
霊夢は魔理沙を無視して続けた。
「少し前よ。参拝客が賽銭持ってやってくる予感がした」
「触覚でも生えてんのかお前」
「急須にとっておきのお茶葉を淹れ、上等の煎餅まで引っ張り出したわ。里でいつも行列を作ってる辛味煎餅よ。その時、表ですごい音がした」
聞く耳持たず、といった様子で霊夢は続ける。
「直後、家がものすごい揺れた。お茶をお煎餅にぶちまけるくらいには」
「ふええ……」
情けない声を上げるリリカは、髪の毛に絡みついた何か――どうやら上等なお茶を吸った上等な煎餅らしい――を必死で取り除いていた。
「何事かと思って表に出たわ。そう、音がしたのは丁度、賽銭箱のほう」
「あのな、霊夢。これには――」
「そこには、在るべき場所に賽銭箱が無かった。ついでに拝殿まで焦げていた」
ざり、と音を立て霊夢が一歩踏み出す。
同時、魔理沙は背筋が凍るようなプレッシャーを感じ、後ずさった。
これは不味い。
「おい慧音、お前の能力で無かった事に――って居ねえ!」
「姉さん、逃げ――やっぱり!」
何が不味いかと言えば、霊夢がとてもにこやかな表情である事だ。ただし目が笑っていない。
「賽銭箱の恨み、折角の参拝客を邪魔した恨み、炬燵の恨み、そしてお茶とお煎餅の恨み」
「炬燵は私のだぜ……?」
「覚悟は良いかしら」
会話が成立しない。魔理沙は泣きそうになった。
「明けましておめでとう。死になさい」
霊夢の最高の笑顔と共に、辺りは強烈な光に包まれ――
今年最大の弾幕戦が今、始まる。
しかも何気にハイテンションだし強いしで。
最後はああなったけど面白かったです。
「私は今日一日、ここで魔理沙の下着を眺めながら過ごすの!」
って霊夢、頭から潜り込んで何やってんの!(爆笑)
えーと、誤字と思われるものをいくつか見つけましたので、ご報告まで。
間違っていたらごめんなさい。
> それでも柔らかな斜陽は謙虚にプリズムリバー邸を包み込んでいた。
斜陽は一般に夕日にしか使わないのでは?
> 刺すような冷たさこそ気分を研ぎ済ませてくれた。
研ぎ済ませて→研ぎ澄ませて
> 「うへえ、そりゃ簡便願いたいな」
簡便→勘弁
霊夢...