※※注意
所謂「独自設定」を多めに含みます。
そういったものを好まない場合はお気をつけ下さい。
「それで? 月のスパイさんが私に何かご用かしら?」
永遠亭の客間で、八雲紫はそう言って笑った。
こちらの意図を察しているのかいないのか、その胡散臭い笑顔から察することは私にも難しい。
彼女と私は似ている部分がそれなりにあり、普段はそれ故仲良くさせてもらっているが、まさに似ているが故に腹の探り合いが面倒なことこの上ない。
実際に何を考えているのかは分からないのに“何かまだ裏がある”ことは推測できてしまうから、思考が相手の――あるいは自分の――奥深くまで潜りこんでしまう。
「あら、スパイとは酷い言いようね。味方を騙くらかしている貴方の方がよほど、ねぇ?」
「吸血鬼や霊夢の遊びを面白くしているだけよ? あの子達は暇潰しが目的なんだから感謝されこそすれ恨まれる覚えはありませんわ。
……で、何か私に言いたいことがあるのでしょう、八意永琳?」
八雲紫はそう言って、こちらに流し目を送った。
……例えば、本棚と本棚の間の薄暗い隙間。例えば壁に走った亀裂の黒。例えば底の見えないクレバスの深淵。
そういった隙間にある暗がりを集め煮詰め固めたような暗闇の視線。確かに蠱惑的ではあった。私が男ならば足元に縋りついて求婚でもしていただろう。
しかしあいにく私は女だったので、その視線に対して出来ることは呆れた溜息を返すことくらいだ。
「しかし貴方はどこまで予想が付いているのかしら。困ったわね、パーティのサプライズはバレないうちが花なのに」
「楽しみにしてるわ」
実際、八雲紫が月に喧嘩を売って何をしようとしているのかは、まだ私には予想が付いていない。
それが不気味であり、不安ではある。彼女が幻想郷に不利益をもたらす可能性はゼロではあるのだろうが。
この時にサプライズなるものを問い詰めていれば、此の後八雲紫にあんなに動揺させられずに済んだのであろうが、それを後悔できるのはまだまだ先の話だった。
あんな微笑ましい悪戯について問い詰めるのが無粋というのも、また正しい見解ではあるけれど。
「貴方がレミリア達にやらせたい事は大体予想が付くわ。だから協力してあげようというの。私としても、霊夢達が月に着かないと面倒なことになるからね」
「例の月兎に持たせた手紙のことかしら? まあ私としては、博麗の巫女さえ無事で帰ってきてくれるなら後はどうでもいいのだけど」
「魔理沙とレミリアに言いつけるわよ。まあそれはいいわ。私からの頼みは一つ」
私は大きく息を吸い、八雲紫の暗闇の視線を真正面から受け止め、言葉を放った。
「綿月の者たちに伝言を頼みたいの。密書ですら伝えられない、そうやって伝えてはいけないあることを」
「八雲紫のクソッタレ」
幻想の月の裏側に燦然と聳える月の都。
その中心部に据えられた『月の使者』の為の屋敷の一室で、『月の使者』のリーダーである私はこの上なく苦々しげな顔でそう呻いた。
ああ、申し遅れました。私は綿月依姫。以後よろしく。
さて、卓袱台の上にはばらばらと散らばった書類の山。向かい側では姉の豊姫が相も変わらぬぽややんとした様子で茶を啜っている。ああっあの態度も恨めしい、仕事しろ。
「依姫様、その、どうしたんですかこれ?」
緑茶が淹れられた湯呑みを書類の隙間に乗せながら、玉兎のレイセンが不安そうに問いかけてきた。
ああっその仕草が可愛らしい、こっちが姉なら良かったのに。
いや、それもまたおかしいか。どうも仕事が増えすぎて頭が回っていないらしい。
「この前、秘蔵の銘酒が宝倉から持っていかれたでしょう?」
「ああ、そういえば――地上からの侵攻の隙を突いて、でしたっけ」
「そ。酒を持っていった方の下手人はどうもその一月前位から潜伏していたらしくてね。
目撃証言と霊夢の話から推定するとね」
そこまで言って、溜息を一つ。
まったく。適任だと言うのはわかるけれど、どうして八雲はコレを月に忍び込ませたのかと文句の一つも言いたくなる。
「侵入者は亡霊姫・西行寺幽々子。能力は死を操る程度の能力」
「知った途端、月の都は上へ下への大騒ぎよ。八雲が本気なら、月の都は廃都と化していたわ」
満足げに茶を飲み干した姉が私の言葉に続けて説明する。
そう、我々月人には寿命が無いが外的要因によっては死にうる可能性がある。
むしろ死から離れた分耐性自体は落ちているとも考えられた。そこに因果関係を無視して直接死に誘う能力者が現れればどうなるか。
しかも、ただ現れるだけならばまだしも一ヶ月近く無防備を晒す羽目になったのだ。慌てない方がどうかしている。
「え、で、でもそれおかしいじゃ無いですか。それなら、なんでお酒だけ盗んでいったんですか?」
レイセンの問いは普通に考えれば尤もである。
相手の首筋に刃を突きつけておきながら――しかも、自分たちから吹っかけた戦争であるにも関わらず――そんなふうに引く必要など普通はない。
だがしばらく霊夢と過ごした今の私達であれば、何故そんなことをしたのかと言う理由は割と簡単に理解出来た。
「遊びだもの、致命的で無いけど取られちゃ悔しいものと言ったら、これ以上無い選択だわ」
私達が月と自分達の名誉の為に挑んだ戦争は、向こうにとってすれば単なる悪巫山戯の悪戯にすぎないのだ。
兎に角私達にぎゃふんと言わせれば良し程度の子供じみた遊びであり、直接侵攻してきた吸血鬼たちに至っては単なる暇潰しでしか無い。
踊らされた私たちはいい面の皮だ。
もっとも、その裏にあるメッセージはそれ以上の意味を持っていることもまた確かである。
月を上へ下への大騒ぎに巻き込んでおいて、最後にはくだらないオチが付いてめでたしめでたし。
そんな野心も野望も強欲も無い『幻想郷』と言う場所の平和さを、八雲紫はこの悪戯を以て見事に示した。
かつて月面戦争を挑んだあのスキマ妖怪は、同じ戦争を以てして今度は「最早私達を警戒することはないのだ」とこちらに伝えてきたのである。
我が師、八意××も、そんな八雲の意図を理解していたからこそ、「彼女らを使って都側の不信を解け」という助言を与えてくれたのだろう。
第三次、第四次の月面戦争に備える必要はもうない。起こるとすれば、それは弾幕ごっこと言う平和な遊びを介する娯楽でしか無いのだ。
「とは言っても、してやられたことに違いはないわけでね」
地上の妖怪達と接触したからという理由で、月の都を治める賢者達は後始末を私達に回してきた。
いくら害が無いことを示す悪戯とは言え、やられた事が月の都の防備にとって致命的であることに変わりはない。
それに対処するための書類が、今卓袱台にばら蒔かれている訳だ。八雲め、口なり親書なりで済むことをわざわざ悪戯で示さないで欲しいものだ。
その遊び心もまた『幻想郷』と言うものなのだろうけれど。
一ヶ月間の目撃証言に目を通し、分類し、都の地図に印を付けながら時系列を追う。侵入ルートの確認作業だ。
浄土の存在であり月の民にも違和感を感じさせぬ亡霊とは言え、普段見ない顔を見たと言う程度の証言ならば聞込みをすれば十分すぎるほど集まる。
単調で退屈で、また境界操作の妖怪が相手である以上限りなく無意味に近いその作業も半分を過ぎ、地図上の印が百を越えた頃。
私は唐突にソレに気がついた。
「?」
書類の確認と地図上に印を付ける作業の速度が、跳ね上がる。
明確な意味と謎は、私の退屈な仕事に強烈な刺激を与えた。ものの五分で残りの作業を片付けてしまう。
「レイセン、お姉様、ちょっとコレを見てもらえますか?」
印だらけの地図を姉の方に差し出す。姉は興味深げに片眉を上げた。
レイセンの方は少し困った顔でこちらに問うてくる。
「ええと、私も見て、いいんですか?」
「構わないわ、でも他の人には絶対話さないようにね」
姉が、新聞を広げるように地図を開いて印の確認を始める。レイセンもその後ろに回って地図を覗き込んだ。
確認自体はせいぜい十秒ほど。地図を卓袱台の上に戻したときには姉の顔からぽややんとした雰囲気は抜け落ちていて、この上もなく真剣な『月の使者』のリーダーとしての顔になっていた。
「偏ってる、わね」
そう、西行寺幽々子の目撃情報は偏っていた。都全体にぱらぱらと印が散らばっている中、ただ二箇所だけにギッシリと印が集まっている。
余りにも作為的過ぎて、自分の仕事のミスを疑ってしまうほどだ。
「レイセン、コレが作為的なものでないとしたらどんな理由が考えられる?」
「へ?! ええーと、サンプルが意図しないところで偏っている、チェックにミスがある、偶然人の多いところで目立つ行動を取ってしまった――こんなとこでしょうか?」
突然話を振られたレイセンは、目を白黒させて慌てながらもキチンと答えを返してくる。うん可愛い。
ご褒美に頭を軽く撫でてやると、気持ちよさそうに目を細めた。うん可愛い。
姉が撫でてほしげに頭をこちらに向けていた。とりあえず無視しておく。
「良く出来ました。想定されるのはそんなところね。
この場合、偏っている場所は人が集まる場所ではないから最後のは除外出来るわ。ありうるとしたら一番目か二番目になるけれど――」
目撃情報は担当の兎が聞き集めたものなので、手を抜いて一部だけで聞き込みをしたという一番目の可能性は否定できない。
寧ろ一番有り得そうなオチではある。それならばさっさと再調査をさせてしまえば済む話、なのだが。
「再調査の間に、私達で調べてみる? その、地上からのメッセージを」
姉がピン、と人差し指を立てて提案してきた。
「お姉様は、これが意図的なものだと?」
「依姫はそう思っていないのかしら? いくらなんでもこの目撃のされ方は不自然すぎる。まるで“目撃されたことが私達に伝わるのを知っていたよう”にね。
或いはミスか偶然かもしれない。けれど偶然ではないかも知れない。ソレを追確認するのも私達のお仕事じゃないかしら?」
驚いた。万年桃の盗み食いでのんべんだらりと過ごしている姉の口から、そんな言葉が出るとは。
明日は空から穢でも降ってくるかも知れない。とまれ、言っていることも尤もだし、なにより私もこの不自然さが気にかかっている。
「そうね、行きましょうか。レイセンも手伝って」
「はい!」
元気な返事に満足感を得ながら私は立ち上がった。
西行寺幽々子の目撃情報が固まっているのは二箇所、嫦娥様が幽閉されている郊外の宮殿と、十三番廃棄区画である。
かつてカグヤ姫と並び称された月の姫、嫦娥様はカグヤ様と同じ罪を犯し幽閉された。順番で言えばカグヤ様が後となるが。
その罪とは即ち蓬莱の薬の服用である。
蓬莱の薬は生を永遠のものとする薬であるが、それと引き換えに“穢”を体内に満たしてしまう。穢は、何よりも己が生きたいと思う意思から生まれ、それが望みとは逆しまにすべてのものに寿命を枷す。
月の都はその穢を排除することで一つの永遠と化した場所だ。己のみを永遠として他者へ穢を撒き散らす蓬莱の薬の服用は重罪である。
故に、嫦娥様は幽閉され、カグヤ様は地上へと落とされた。罪に対する罰として。そして穢を都に満たさぬために――
「ふひゃあ。大きなお屋敷ですねぇ」
「この中に、ずっと一人で幽閉されているのよ。皆、何とか出来るのなら何とかしたいのだけれどね」
――そして私達は、その嫦娥様の幽閉された屋敷の前に立っていた。
月の都の端の端、裏と表の月の境界に近いところにあるこの屋敷は、隣に立つレイセンが感心している通り、とても大きい。
何しろ正門の前に立って左右を見ても、屋敷を囲む壁の端を視認することが困難なほどだ。空間が弄られ引き伸ばされているが故である。
個人の邸宅としては月で最も大きいものだろう。咎人と言えど、月の姫であることに変わりはないのだから、当然とも言える。
「でもねえレイセン。貴方達はここに幽閉されている方のために薬を搗いていたことくらいは知っていたでしょう?
その方が何処でどうして居るかくらい、知っておきなさい」
「う、スミマセン……」
耳を申し訳なさそうにへにょらせながら俯いてしまうレイセン。ああ可愛いなぁ。
色々教えてあげたいけれど、何も知らぬ無垢なままでもいて欲しいこのジレンマ! 姉辺りならきっと理解してくれるだろう。
横目で表情を確かめれば、姉も恐らく私と同じであろう蕩けきった笑顔でレイセンを見ていた。私たちは今猛烈に解り合っている。
おっと、いけないいけない。今は頭を春色にしている暇はない。それは後からゆっくりと、だ。
「それじゃあお姉様、そちらはよろしくお願いします」
「はいはい、集合は“S−1”でね」
馴染みの茶店の名前を残して、姉は警備担当の詰所へと向かっていった。
私達は外周を回って付近の調査を担当する。
果たして西行寺幽々子――そしてその背後にいるであろう八雲紫――は、私達にいったい何を伝えようとしていたのか、それはこの嫦娥様のお屋敷を探ることで分かるかも知れない。
とはいえ、だ。
「何にもありませんね、ここ」
調査を始めて10分後、レイセンのそんな一言がこのお屋敷の周辺を余りに見事に言い表しすぎていて、なんだか意味も無く泣いてしまいそうだった。
無い。何も無い。
向かって正面、延々と道が続いている。先の方は掠れて見えない。
向かって背後、延々と道が続いている。出発地の門はもう掠れて見えない。
向かって左手、お屋敷を囲う白い壁。さらにそれを囲むように植木。
向かって右手、文字通り「何も無い」荒野だけが延々と続き、遥か彼方に月の都がぼんやりと見えている。
元々高貴な方の住まいであり、現在は大罪を犯した者の幽閉されている地であり、さらにその御方は生きている限り(即ち永遠無限に!)我々月人にとって致命の毒となるものを生成する。
まあそんなわけでここらには元々施設は殆ど無く、さらに万一に備えて都との距離を限りなく無限に近くすると言う結界が張られている。
都と接続している幾本かの道だけはこの結界の影響を受けないため(無論、緊急時には封鎖される)、この屋敷を囲む道を散歩のコースにしている者も少なくはないが、四六時中居るわけでもない。
要するに、だ。何を探すにしても、まずもって“何も無い”のでは捜査のしようが無いということだ。
このような場所でありながら西行寺幽々子の目撃証言が固まっているというのも、確かにおかしな話ではあるのだが。
歩くこと二時間。既に正方形の形の屋敷の周りで四回の曲がり角を経験し、私達はそろそろ出発地である屋敷の正門前に辿り着こうとしていた。
無論、眼につくものは何も無い。無駄足だっただろうか。
と、私の服の袖に引っ張られる感触。後ろを見返すと、レイセンがなにやら屋敷の壁を指差している。
「あの、ずっと気になってたんですけど、このお屋敷の壁に貼ってあるあの御札ってなんなんでしょう」
指差した所には、白地に赤で印を刻まれた符が確かにある。
その指さした箇所だけでなく、十間ほどの間隔を空けて屋敷の壁に等間隔に貼り巡らされている。
ああ、当たり前のものだったから存在自体が気に止まらなかったのだ。
「“穢祓い”の結界符よ。嫦娥様は蓬莱の薬のせいで穢に満たされてしまったから。
これが無ければ、嫦娥様から溢れ出る穢は、月の全てを覆ってしまうわ」
壁に歩み寄り、符を軽く撫でる。
この結界の壁の向こう側は果たしてどうなっているのか。嫦娥様から溢れ出る穢は世界をどのように犯し/侵し/冒しているのか。
動物は死に、植物は枯れ、食品は腐り、建物は朽ちる。
穢の渦巻くこの壁の向こうではそんな地上のような状態が広がっているに違いない。
それは、なんて、恐ろしいことなんだろう――。
と、符に触れた指先がピクリと震えた。
頭で理解するよりも早く、感覚が異常を知らせてくる。
理解は遅れること数秒でやってきた。
指の下の符を観察し、指先を通して刻まれた式を読む。
背筋が、すうっと冷たくなった。
弾かれるように他の符も確認していく。一枚、二枚、三枚……全て問題ない。
だがこれは、この最初の一枚は、これだけは ――!
だが、いつから なのか。
他の符の式の劣化具合を見るに、ひと月か、ふた月か、それくらいだろう。
たとえひと月の間だったとしても、可奇しい、可奇しすぎる。
私は問題の符を壁から剥がすと懐に収めた。
唖然としているレイセンの手を引っ張って、私は走りだす。
早く、早く姉と合流しなければ。
懐の中で、符がくしゃりと音を立てて歪んだ。
喫茶“S−1”は月では珍しい、地上の欧州風の意匠が施された茶店である。
材木(合成品だが)の暖色を生かした可愛らしいこの小さな茶店は私達姉妹のお気に入りだ。
テラスで苦い珈琲と甘いケーキを楽しんでいるときにはちょっとだけ、地上の文明もそんなに悪くないと思えることもある。
そんな茶店のテラスの隅、私達のいつもの指定席には、既に姉の姿があった。
メロンのタルトと甘い紅茶を頬張りながら、暢気にこちらに向かって手を振ってくる。
私は軽く挨拶を返して隣の椅子に座った。
レイセンも私の隣りに座ったが、なぜだか顔を真っ赤にして息を切らせている。
私はショートケーキとブラックコーヒーを注文し、レイセンは息も絶え絶えに水を下さいと言った。
別に遠慮せずとも、これくらいは奢ってあげるというのに。
「で、どうだった依姫? メッセージのかけらくらいは見つけたかしら」
「まあ、多少は。お姉様は?」
「西行寺幽々子がわざと目撃されていたのは確実、ってことくらいかしらね」
姉が屋敷の警備詰所で聞いたところによれば、あそこの詰所に居た警備担当の兎達は殆ど皆同じ状況で西行寺幽々子を目撃していたらしい。
張番をしていたところで“立ち眩み、息の詰まる感触、あるいは脱力感”を覚え、突然何事かと周囲を確認したとき、聞いた通りの風体の人物を見たのだ、と。
「立ち眩みの正体は黙っておいたわ。事実を知ったら怖がって仕事にならないでしょうし」
それはそうだろう。貴方は、その日突然何の前触れもなく殺されかけました 等と言ってしまうわけにも行くまい。
自分の存在を知らしめるためとは言え、西行寺幽々子も無茶をする。うっかり加減を誤って死んでしまったらどうするつもりだったのか。
「致命の能力を行使してまで周りの存在に己を知らしめた――間違いなく意図的。それで、貴方の方は?」
店員が、注文したケーキと珈琲、それに水を持ってきた。
ようやく落ち着いたらしいレイセンにケーキを一切れ食べさせてやってから、私は懐から一枚の符を取り出しテーブルに置く。
さっき嫦娥様の屋敷から剥がしたものだ。
姉の片眉がピクリと跳ね上がる。符を撫で、式を読み、そうしてその符が持つ意味を理解する。
「これ、お屋敷の周りに?」
「はい、式の劣化具合から見て大体ひと月の間は。これは関係あると思いますか?」
「あるとしたら洒落にならないわね。場合によっては都が滅ぶわよ」
姉が難しい顔をして腕を組む。
姉の言うことはけして大げさなことではない。
この符が示すある状況が真実であったのならば、月の都と言う世界を構成するシステム自体にとって致命的な事件に発展する可能性は高い。
さらにこの事を地上の妖怪が知っていたというところまで行くと、これは最早
「御二人共! 私を放っておいて話を進めないでくださいよー!」
レイセンが両手をパタパタさせながら(恐らくテーブルを叩いているつもりなのだろうと思う)私達の思考に割り込んできた。
いけないいけない、こういう時のためにレイセンを連れてきておいたのだからほっぽりぱなしは宜しくない。
「じゃあレイセン、この符とその符を見比べて気づいたことを言ってみてくれる?」
私は懐から自前の穢祓いの符を取り出してレイセンに示す。
私達は外の侵略者達と真っ先にぶつかる立場にあるため、穢に対抗するための装備は必要不可欠だ。
レイセンは二枚の符を真剣に見比べながらうんうんと唸って相違を発見しようとしている。
どうにも自分達の知識の中で完結してしまいがちな私達には、彼女のような真剣で常識的で真っ当な視点と言うのは得難く貴重なものだ。
知識の量や発想力だけではない、そういう地に足が付いた感覚。私達が彼女に必要としているのはそこなのである。
しばらくして、レイセンがあっ、と口を押さえて符の隅のほうを指さした。
「ひょっとして、これですか? 依姫様の御札ではこの部分はハネになってますけど、こっちの御札はトメてますね」
レイセンの指さした箇所では確かに、印字の形が微妙に異なっていた。
それ自体は殆ど目立たない違いでしか無い。漢字のテストになっても両方マルを貰えるだろう。しかし。
「良く出来ました、正解よ」
しばしレイセンの頭を撫でて、彼女の嬉しそうな顔を観察した後解説を始める。
「そう、トメとハネを間違えているだけの些細な違い。だけど、こういった符は生半可な精密機械よりもずっと揺らぎに弱いわ。
式というソフトウェアをきちんと動作させるには、符というハードウェアをきっちりと構築しなければならないの」
地上の術よりも高度で複雑な術式を組める代わりに、月の術は即効性と冗長性に欠けるきらいがある。
もっとも通常ならばその性能で押しきれてしまうために弱点が露呈することはないが。
「けれどこの符は何かの拍子にそのハードウェアに欠陥が生じ、その上品質検査に弾かれることなく出回ってしまった。
そして嫦娥様のお屋敷に貼られてしまった――」
「依姫様、その話によるとこの御札は正常に働かないってこと――ですか?」
レイセンの言葉が一瞬詰まる。何か脳裏に閃くものがあったらしい。
「そもそも式が乗っていた痕跡すら無いわ。ハードウェアの欠損のせいで定着しなかったのね」
「可奇しいじゃないですか! だってこの御札、ひと月の間は貼られていたんでしょう?!」
椅子から立ち上がってレイセンが叫ぶ。興奮している。
多分、彼女も私達と同じ可能性に思い当たったのだ。私達と違って、まだ確信はしていないのだろうが。
姉が小さく頷いて、私の言葉を継いだ。
「そう、可奇しいわ。本来ならば結界が綻びて穢が漏れ出し、大きな事故になっていたはず。
けれど現実として欠陥符の周りには何も起こっていなかったでしょう?
じゃあレイセン、それは何故かしら?」
「結界が積層構造になっていたんだと思います、安全対策として。いちばん外側に綻びがあっても内側の層が穢を食い止めてくれたんです」
レイセンはキッパリと答えた。正しい答えだ。
だがその声は震えている。信じきれていない。地上の妖怪がそこ を示したと言う事実が、否応なく単なるミスを超える何かを感じさせてしまう。
そして恐らくその感じ方の方が正しい。
私は、レイセンに、より真実に近いと思える仮説を告げた。
「そう、それだけのことかも知れない。だけど地上の妖怪達が何かを伝えようとしていたのだとしたら、それがコレと関係あるのだとしたら。
……一つ、可能性がある」
「何なんですか、それ」
「嫦娥様があのお屋敷に居らっしゃらないと言う可能性よ」
沈黙。
冷や汗が頬を伝い、テーブルに落ちる。
静かだった。まるでこの茶店が丸ごと“表側”に移動してしまったかのようだ。
「嫦娥様は、月でも一番高貴なお方ですよね」
「そうよ」
私が答える。
「蓬莱の薬のせいで穢を産み出すから、だからその罰として幽閉されているんですよね」
「そうよ」
姉が答える。
「じゃあ、何で、あそこに居ないんですか?
それを依姫様すら知らないとしたら、いったい――!」
「レイセン、声を落としなさい」
この話は明らかに他人に聞かれていい領域を超えていた。
興奮するレイセンを落ち着かせる。玉兎はみんな嫦娥様の代わりに罰として薬を搗いていたのだから、他人のことではなかったのだろう。
その上、比較的月の防衛組織の中でも高位にある私と姉が知りえぬことともなればその得体の知れなさは筆舌しがたい。それはつまり月の最高権力者である賢者達が、月の民を騙しているということだから。
レイセンはすみません、と謝って、席についた。私は推論を継続する。
「八雲紫がこんな重大な月の秘密を知っていた? 八意師の差し金かしら」
自分で呟いたその仮定は、肯定も否定もできなかった。
八意師は地上の妖怪の遊びに付随する私達の疑いを晴らすべく助言をしてくれたが、その結果として私達の意識が過剰に霊夢達に集中した事実は否定出来ない。
霊夢達の裏で動く八雲までは注意が払えても、そのさらに裏まで読めなかったのは“疑いを晴らすため、霊夢達を捕らえることに入れ込んでいた”からなのは間違いない。八意師のアドバイスであったことも入れ込みに拍車をかけた。
八意師の動きすら読んで八雲は作戦を立てていたのか、それとも私達の疑いを確実に晴らしつつ悪戯を成功させると言う目標の下に八意師と八雲は手を組んでいたのか。
「そうね、考えても答えが出る問題じゃないし、八意師が八雲を通して私達に伝えたということにしましょう」
姉が私の言葉を継いだ。たしかにそれ以外のルートで地上の妖怪が月の秘密を知ることなどありえなさそうではあるし、
なによりそういうことを話して頼めるくらい地上に馴染んでいるとするならば、ちょっと気持ちが救われるから。
「八雲に頼んで嫦娥様を攫わせたのかしら。カグヤ様を助けたように、嫦娥様を助けるために」
続いての姉の言葉を、私は首を左右に振って否定する。
「いくらなんでもそんなことをすれば月の賢者たちも気付きます。私達辺りに奪還命令がとっくに下ってたっておかしくない。
嫦娥様があそこに居ないのだとしたら、まず間違いなく賢者達の意思が介入していますよ」
嫦娥様は罪人であれど、それだけの影響力を持った存在だ。
そんなお方を意に反して攫われたとしたら、賢者達はノーリアクションで居られるはずがない。
少なくとも、私達ほどの位にいる人間に気付かれないようにすることなどほぼ不可能だ。
そもそも、そんな大逸れたことをしでかしてしまっては、悪戯という八雲の趣旨が台無しになってしまう。
「どこに、いるんでしょう? 嫦娥様は」
震えるレイセンの声。
私はそんな彼女を軽く撫でてやった。
「私達に知らされてないと言うことは知られたくないし知る必要はない、と言うことでしょうね。月の賢者達にとっては。
そして八意師は私達に知るべきであると伝えてきた。こんな手の込んだ方法で」
ただ伝えるだけならば、あの時レイセンに託した手紙にでも書いておけばよかったはず。それを八意師はしなかった。
文字にすること自体を警戒するほどの真実が、嫦娥様の行方には存在しているらしい。
「とりあえず、残ったもう片方のメッセージの謎を探りましょう。
ここまで言っておいてなんだけど、私だって偶然だと思いたいわ。話が大事 過ぎることになるもの」
西行寺幽々子の行動は何かの気まぐれで、お屋敷の結界はレイセンが言った通り積層構造のおかげで大惨事をまぬがれた単なるミス。
ただ偶然が重なっただけと言うそういうオチが付く可能性は未だあるだろう。偶然が二つ重なるまでならあり得る。許せる。
だが、もうひとつのメッセージの意味を探り、そこでまた偶然が重なったとしたら。
私は一体どういう判断を下せば良いのだろうか。
それから三日、ついに私は意を決し、八雲が示したもうひとつの場所である十三番廃棄区画の調査に踏み切った。
今日はレイセンと姉は付いて来ていない。これから探りを入れる場所は、少々危険な場所だからだ。
地球を遥かに超える(と、言うよりはそもそも比較になるレベルではない)文明を持つ月ではあるが、最初から完璧な世界などではなかった。
殊にその文明を支えるエネルギーについては常に試行錯誤が繰り返され、完成を見た現在でも不完全の残滓は存在している。
それがこの十三番廃棄区画だ。
旧世代、エネルギーの生成には穢の発生が不可避であった。故に、エネルギープラントはこの十三番区画にのみ建造、厳重に隔離された。
そこで働いていれば穢に身体が蝕まれ、しかるべき処置を施さねば遠からず寿命によって死に至る。
月の文明を支えるだけのエネルギーを穢を生むことなく生み出す技術が完成されるまでの数億年間、エネルギープラントでの仕事は文字通り“命を削る”仕事だったのである。
その後新たなエネルギー源が開発され、それらは穢を出すこともないので、効率や事故の可能性を考えて都の各地に分散されて設置され、今もこの月の文明をしっかりと支え続けている。
それに伴い、旧世代プラントを集めたこの十三番区画は完全に封鎖され廃棄。
今から三億年後、穢が薄まる頃には開放され、穢の残滓を完全に取り除いた後再整備されることになっている。
そんな、技術の発展に伴い捨てられた区画の前に私は立っていた。
どこまでも静謐で、清潔で、秩序だった月の都の中でそこはまさに異界だ。
何の配色も施されない生の色の金属で出来た歪な建造物が不愉快な姿勢で折り重なり、さらにそれぞれの建造物はおびただしい数の歪んだパイプで病的なまでにしっかりと繋ぎ合わされている。
ユークリッド幾何学を完全に無視した無秩序ぶりは最初からそのように作られたわけではなく、長い年月の間に朽ち果てた結果。現在の月の都にはありえぬはずのカタチ。
その上全ての物体は錆びて薄汚れ壊れ傷ついている。その不快さは曰く名状しがたい。
そしてそれらの異形は薄いガラスを何枚も重ねたような結界に囲われて、その周りに緩衝地帯としての空き地が広がり、それらすべてを遠巻きにしてようやく都のビルディングが見えてくる。
ここも月の裏側、月の都の中だというのに、なんだか酷く遠くに来てしまったように思えた。
――話を戻そう。
西行寺幽々子はこの周辺で複数の人間と兎に目撃されている。
目撃証言は嫦娥様のお屋敷と同じ、“立ち眩み、息の詰まる感触、あるいは脱力感”と共に目撃されていた。
その後彼女とその従者は、この廃棄区画の方へ向かっていったのだという事までは、前日までの聞込みで判明していた。
“この先には廃棄区画しか無いですから、なんであんな所に行くのだろうと思ったんで、それで覚えていたんです”
目撃者は皆言葉の差はあれ同じようなことを言っていた。
この区画へ向かっていることをわざわざ印象づけている所から見て、コレもまた何らかの意図があると見える。
……上等。
懐の穢祓いの符を起動する。特濃の穢が渦巻いているところでもなければ、これ一枚で三ヶ月は持つ。
「今度こそ見せてもらうわよ。こんな事をした意味を」
呟きながら、廃棄区画の結界に指先で触れた。
結界式に私の術式を割りこませて強引に通路を作る。
音もなく目の前の結界が歪み、中へと続く通路が穿たれた。
さて、急がなくては。何しろ無許可の結界破り、それも穢の渦巻く廃棄区画の結界をである。
月の賢者達に動向を知られたくないがゆえの行動ではあるが、また謀反でも疑われるのではないかと思うと少しばかり気は重くなった。
いや、嫦娥様の居所について賢者達が何事かを知り隠しているのだとすれば、私はとっくに謀反を起こしたふとどき者と言うことになるが。
兎に角、私は結界の内側に足を踏み入れ、結界式に干渉する術式を解除した。
私の背後で結界は閉じ、かくて私はこの月の廃都 に足を踏み入れたのだった。
十三番廃棄区画の中は、一言で言えば不快だった。
穢そのものはもちろんのこと、空気の臭い、あちこちから聞こえる物音、歩きづらい足元……。
それらは全て、生物のサイクルによって生み出される嫌悪を伴なう残骸のせいだった。
小動物の排泄物の吐き気を誘発する臭い、何かと何かが争う物音、食い散らかされた生物の残骸の散乱する足元。
穢を身に宿し、生殖し互いを捕食し己の生存のために他者を蹴落とす生き物達の気配。
穢のせいで、この廃棄区画の内側はまるで地上のようだった。
私は背筋に走る怖気を必死に抑えながら探索を続けた。
周辺のプラントを調べていく。ゲッター炉、アイス・セカンド式縮退炉、トロニウム炉、銀鍵守護神機関、その他様々なプラントの残骸――。
その奇妙に嗄れた声が耳に届いた瞬間、私は腰の刀を抜き放ち声のする方向へ向き直った。
ありえない。下等な虫や獣が居るのはまだ分かる。だがしかし、こんな地獄の如き世界に、人語を話す存在が居られるものか!
目の前に広がる朽ちた鉄の密林、それを構成する錆朽ちたパイプとパイプの隙間を潜るようにして。
その奇妙な何者かは、のっそりと姿を表した。
(…………兎?)
現れたのは一匹の玉兎。『月の使者』に属する者の制服であるブレザーと、頭から生えた耳は普段からよく見るお馴染みのものだ。
しかし、その体は、いったいなんなのだろう。アレはいったい何だ?
手足は枯れ木のごとく細く脆く、顔から腕から足からの皮膚は全て丸めた紙屑のごとき有様へと成り果てている。
全身の肉は垂れ下がり、その重みに細い骨が耐えかねているのか背骨は歪み、最早一人で立つことも適わないのか右手に杖を持って身体を支えている。
――老いている、のだろうか。
現在の月の生き物に老化はない。身体の劣化は穢と、それによって蠢く体内の蟲によるものだからだ。
私自身、年老いた生き物を見たのは数万年前に地上を偵察したときくらいである。
ひょっとして彼女はこの穢の中で暮らしているのだろうか。
「お待ちしておりました。ご案内いたしましょう、依姫様」
老兎は笑いながらそういった。
しかしその皺くちゃの笑顔も、喉が震えて聞き取りづらいその声も、何故だか異様な不快感を伴っていた。
「待っていた? 私を?」
「月の賢者様達は貴方達の動向を知っておいでだったのですよ。だから私に、案内するよう言付けました」
賢者達に知られていた、と言う事実に全身が緊張する。
さて、それではこの老兎は私を何処に連れていくつもりだろうか。牢獄か、裁判所か、死刑台か。
姉とレイセンを助けに行くべきかもしれない。その後は気は乗らないが地上にでも降りて八意師の所にでも匿ってもらうか……。
「ご安心下さい。賢者様方も貴方ほどの方を口封じするような勿体無い真似はいたしませんとも」
ふぇっふぇっ、と奇妙な笑い声を立てて老兎は言った。
「どうにもこうにも、これ以上の隠し立ては無意味に過ぎる。ならば依姫様、貴方は秘密を知るべきなのですよ。
真実を知り、その上で口を噤んでもらう。それが最良であろうとの判断でございます」
「いけしゃあしゃあと言うものね? やはり私達にすら隠していた何かを八雲が――いえ、八意××が示していたということでいいのかしら」
「知らぬ方がいいのです。神が人に与えた恩寵とは無知のままこの世界で生きて行けることに他ならないのですから。
さて、どうしますか依姫様。これ以上探らぬのなら見せずともよい、とも言付かっていますが」
不快感を催す視線でこちらを舐り回しながら老兎が笑う。その笑顔はまるで不思議の国のチェシャ猫のようないやらしい笑み。
どうやら答え合わせをしてくれるらしい。親切なことだ。
――――私達とて『月の使者』を束ねる立場にある人間だ。一般の月人達も知らぬ月の実情も知っている。
その私達すら知るべきではないとされていた事実とは、いったい何なのか。八意師の伝言と、それを伝えてきた八雲の意図は一体なんだったのか。
知らずには、居られなかった。
「いいわ、何処にでも案内しなさい」
私はキッパリと、老兎に向けて告げた。
老兎の歩みは亀のごとく遅かった。何の障害物もないところですら頻繁に躓き、動作自体も緩慢に過ぎる。
その上足元は汚れ放題荒れ放題で歩きにくいので、老兎はもう進んでいるのか止まっているのかすら分からないほどだ。
それら全てが癇に障る。自分でも何故ここまでと思うほどに。
彼女はそんな私の内心を知ってか知らずか、ほとんど休みなく私に言葉をかけてきた。
「しかし、そうですか。八意様と地上の妖怪が……何と最早、御両人共残酷なことをなさるものでございますねぇ」
「何が言いたいの」
老兎はふぇっふぇっ、と笑って答えた。
「先程も言ったでしょう? 知らなければ幸せで居られた、と。
貴方はこれから知ってしまう。もう知らなかった頃には戻れない。そして月人に死という忘却はそうそう訪れるものではない!
――つまり、貴方はこれから永遠無限に少しだけ欠けた時間だけ、苦しみ続けるのですよ。これが残酷でなくて、何なのでしょう?」
やがて、足元に散乱する塵屑が目に見えて減ってきた。
人ひとり分だけ塵が払われたそれは獣道を彷彿とさせる。
実際、この老兎が普段使っている道なのだろうが。
「苦しんだりなんてしない。何であれ私達が解決してみせるわ。それを出来ると信頼してくれたからこそ八意師は私達にメッセージをくれたのよ」
「そうですか、そうですか。それでは依姫様がこの悪夢の如き現実を終わらせることを期待いたしましょうかねぇ」
道の先にはひときわ大きなプラントが一つ。そのプラントはこの朽ち果てた文明の死骸の中でも一際異様だった。
建物から無秩序に四方八方へ伸びる錆び付いたパイプの量は一種病的ですらあり、パイプを固めて建物を作ったようにすら見えるほどだ。
まるでそれはこの区画にある全てのパイプがここに集まっているかのようで、それを想像するだけでなんだか訳も無く背筋に冷たいものを感じた。
そのプラントの勝手口らしき扉を開けて、老兎が中へと入っていく。
私はその後を追ってプラントの中に入った。どこもかしこも薄汚れ、うっかり壁に突いた手がべっとりとした何かで汚れた。
気持ちが悪い。足元がふらつく。
「それで、あなたは私を何処に連れていくつもり? この先になにかあるのかしら」
「はてさて、これは依姫様ともあろうお方がまだ見当が付いていらっしゃらないのですか?
貴方がここまで知ったこと、そしてここに真実があると言う事実、答えを出すには十分すぎるほどではありませんか」
言われずともある程度の予測くらいは付いている。
“お屋敷から消えていた嫦娥様がこの区画に居る”であろうと言う事くらいは、お屋敷に嫦娥様が居ないかも知れないと考えた時から頭の片隅にはあった。
この老兎が現れ、月の賢者達の意思が見えたところでその予測は正しかったのであろうとほとんど確信している。
他に繋がりは殆ど見えない。この兎は私を嫦娥様の元に連れていこうとしているのは間違いないだろう。
だが、何故ここなのだ ?
なぜ嫦娥様はお屋敷ではなく、こんな悍しいところに居なければならないのか。
そして何故、賢者達はそれを隠すのか。
パズルを解くにはピースが足りない。
何か、私には知り得ない事実がある。それがこの兎の言う『悪夢の如き現実』とやらなのだろう。
だがそれが何であれ、私はきっとその現実とやらを制してより良い形へと収めてみせよう。
きっとそうすることを望んで八意師はこの秘密を知らせてくれたのだから。
プラントの中は外観以上にパイプだらけだった。
床にも壁にも天井にもびっしりとパイプが張り巡らされているだけでなく、パイプがパイプを支えるようにして折り重なった結果として天井は本来あるべき高さの半分ほど。頭を擦ってしまいそうな位置までパイプが降りてきている。
進めば進むほど左右の壁のパイプも密度を増し、汚れきったそれが私の服を遠慮無く傷つけ始めた。
ああ不快だ。この上なく不快だ。目の前にノイズが走る。
しかしそれにしても、このパイプは量以外にもおかしな所が多すぎる。
進んでいくに連れて密度を増して行っているのはいったいどういう事なのか。このパイプの群れの先に嫦娥様が居るとして、いったいこのパイプはなんのためにあるのか。
老兎はパイプになんども足を取られながら、よたよたとパイプの集まっていく先へ足を進めている。
息は切れて今にも倒れそうになりながらも、にやついた笑いはその顔から離れることはなく、言葉を止める気配は微塵もない。
「それではひとつヒントを差し上げましょうか。嫦娥様はこの先に確かにいらっしゃいますが、ただここに幽閉されているだけなのではありません。
彼女はここで、この月の都を支えるために一人でいらっしゃるのですよ」
月の都を支える? それは何かしら――例えば『月の表と裏を隔てる』結界の維持についての何かだとか――の労務に就いていると言うことだろうか。
蓬莱人故に死の危険が大きい苦役でも充てがわれているのかもしれない。
もしそうならば、私は嫦娥様をここから救い出すことも考えねばならない。
罪には罰があってしかるべきだが、同時に罰は罪に相応のものでなければならない。
嫦娥様の蓬莱の薬の服用という罪には永遠の幽閉と言う罰。そう決まっていたのだ。
それを月の民に知らせることなく別の苦役を課すなど、到底正しい行いとは言えない。賢者達の思惑が何であれ、それでは道理が通らない――。
と、唐突に全身を包む圧迫感が和らいだ。
狭い狭い通路は唐突に途切れ、広い広い部屋に私は足を踏み入れる。
そのドーム状の部屋の天井は高かった。天井までは私の身長の二十倍はあるだろうか。床と言わず壁と言わず天井と言わずびっしりと絡み合うパイプが無ければ、多分もっと広いのだろう。
パイプの量はすでに病的と表現できる量を遥かに超え、最早非人間的な狂気を感じさせるほどに部屋中を這い回り、部屋の中心点に結集している。それはまるで月の都の全てのパイプがこの一点に集まっているよう。
そして、全てのパイプの集まる場所に、それはあった。
「着きましたよ、依姫様。嫦娥様はここにいます よ」
老兎の声が聞こえる。聞こえるけれど聴こえていない。
私の五感と意識の全ては、部屋の中心にある物体に吸い寄せられていた。皮膚がピリピリと粟立つ。
触覚。濃密な穢の感触が肌を焼いている。目の前の物体から溢れ出る穢の濃度は地上とすら比べ物にならぬほどだ。
味覚。周辺を舞う鉄錆と埃の味が口いっぱいに広がっている。不愉快だ。
嗅覚。死臭がする。この上なく濃密で、この上なく不快な臭い。
聴覚。機械の唸る低い音がする。不規則に、不愉快な音で。
そして視覚。私はその物体を網膜に焼き付けた。
機械が、何らかの装置がそこにあった。ここに集まる全てのパイプで狂的に締め上げられ拘束された、機械があった。
その形を言葉で説明しようと思えば、恐らく万の時間と億の言葉を以てしても到底足りるまい。それほどまでに混沌とした形の機械だ。
あえて簡潔に外観を纏めるのならば、この月にある全てのガラクタと呼ばれる物品全てを集めて適当に繋ぎあわせてそれを悪意を持ってかき混ぜ――――駄目だ。どうしても長くなってしまう。
この部屋に集まっている全てのパイプはその機械に接続されていた。この機械はそれらから何かを吸い上げてでもいるのか。あるいは、逆か ?
そんな、正体どころか外観すら理解出来ないその機械。しかし一箇所だけ“それがなんなのか”がよく分かるパーツが据え付けられている。
白い合成樹脂で出来た、人の背丈ほどの高さの長方形の箱……棺だ。人が中に収まったときに顔が来るであろう位置にはガラスの窓が貼られていた。
棺の中は薄ぼんやりと青色に光り、液体に満たされているようで気泡が浮かんでいるのが見える。
そして、
そんな棺の窓の中に、
私は見てしまった。
“人間の手”が内側から窓ガラスを叩いているのを。
小さな掌が窓の内側を何度か軽く叩く仕草をしているのが見えた。
手のひらはやがてピクリと震え、棺の奥へ霞んで消えた。霞み消えて行く直前、その手がぼろぼろと朽ちていくのを確かに見た。
「そう、これが現在の月の都を支えているもの、“蓬莱炉心”ですよ」
そんな老兎の言葉に、どうしようもなく全てが理解できて。全身がカッと燃え上がり。
私は激情にまかせて老兎の襟首を掴み上げて壁に背中を叩きつけた。
「ぐぎッ――?!」
「お前! お前ら! いつからだ?! お前達はくべていた な?! 嫦娥様を、何億年も!」
手首を捻る。ぎぃっ、と老兎が啼いて、両の手足が痙攣した。
足元がふらつく。目の前にノイズが走る。皮膚がピリピリと粟立つ。
なんて、なんという無法、悪夢! こいつらは、嫦娥様をあの機械の中でくべて いる!
物理的に、霊的に、魔術的に、その他あらゆる方法で機械の中に閉じこめられた嫦娥様の生命と身体を燃やし絞りつくし、エネルギーへと変えている!
「蓬莱炉心とはよく言った! ハ、永遠無限にその身を燃やし続けられるのだから! そんな、そんな非道が――――!」
さらに言葉を紡ごうとして、そこで初めて老兎の状態に意識が向いた。
老兎は死にかけていた。顔を蒼白にし、全身を痙攣させ、ひねり上げた襟首はミキミキと音を立てている。
「あ……」
思わず手を離すと、老兎は無様に床に転がった。くずおれ、嘔吐のような咳を繰り返しながらもこちらを見ながら不快に笑う。
「エ゛ッ、ゲボっ、ゲホっ…………ふぇっ、ふぇっ。勘弁して下さいまし依姫様。私の身体は大変脆くなっておりますゆえ」
「ご、ごめんなさい」
老兎を助け起こす。その身体に触れること自体が異常なくらいに不快だったが、何とかその感情は押さえ込んだ。
目の前に銀色のノイズがちらつく。不愉快だ。
「話してくれるわね? こんな常軌を逸した代物が存在する、理由を」
「はいはい、話しますとも。もっとも、私とて賢者様方から聞かされただけなのですがね」
老兎は山のように折り重なったパイプに腰を下ろすと、ぽつりぽつりと話し始めた。
「簡単なね、簡単な話なのですよ。蓬莱の薬を飲んだ嫦娥様を調べた賢者の一人が、思いついてしまっただけなのです。
“これは、無限にくべる 事のできる薪を手に入れたのではないか”と。
そして、それは即座に実行に移されました。それがこの“蓬莱炉心”なのです。
嫦娥様は霊格も高いお方でしたから、生命と共に霊力を搾り出したときに生まれるエネルギーの量はそれはもう、桁違いだったと」
「なんて短慮、月の賢者が聞いて呆れる。そも、何でこんなモノにエネルギーを頼る必要があるの?
もはや穢にもよらずエネルギーを生成する術を私達は持っている。嫦娥様の生命を絞り尽くす必要が何処にある?」
「月の技術は地上より見れば夢のよう。しかし月にとっても夢のような技術と言うものは存在するのですよ?
この月の都の莫大すぎる必要エネルギーを賄い、穢を出さずに済ますだけのものは月の民にとっても夢のようなものではございませんか!
――――穢はそもそも生きる欲より生ずるもの。文明などという“快適に生きるためのもの”に必要なエネルギーを作るのに、それが生まれないなどどうしてありえましょうか?」
なるほど、道理ではある。地上の天人は悟りを開いて半久遠の存在となる(それでも、他者からの穢によっていずれ五衰が訪れる)が、彼らは平穏な心のまま自然とともに緩やかに生きるのがほとんどだ。
文明を発達させて世界を作り替える行為そのものが穢を生む可能性は、なくもない。それは自分達のための行為だから。
理屈としては通っている、しかし何故かたどり着くことのなかった発想…………考え方自体を矯正させられていた? いや、それもまた突飛か。
ああ、足元がふらつき縺れる。不愉快だ。
「新しい夢のエネルギーが完成したと視線を逸らし誤魔化して、この区画を閉鎖して……結局のところ何億年も月の文明を支えてきたのはこの“蓬莱炉心”なのですよ。
他のどんなエネルギー源を用いても、発達しきった月の文明を支えるには月の全てをエネルギープラントにしてもまだ足りません」
何もかもが誤魔化し、何もかもが虚構。その虚構を支えていたのがこの嫦娥様を人柱として動く不愉快な機械。
嫌になる。何もかもが嫌になる。私の信じていた月の全てはこのいびつな機械一つで根こそぎひっくり返されてしまった。
――嗚呼、月は地獄だ。
八意師は知っていたのだろうか? 知っていたのだろう。悩んでいたのだろう。苦しんでいたのだろう…………だから、月を見捨ててカグヤ様と行ってしまった。
八意師とて月では絶対的ではない。他の賢者達に反対され封じられ、嫦娥様を助けることは叶わなかったのだろう。
そんな絶望した八意師が地上に行って、蓬莱人であるカグヤ様と会って……嗚呼、逃げ出さない理由がない。月にカグヤ様を連れて来るなんて残酷を為せる人ではない。
「蓬莱の薬の服用が罪となるのも、単にこの事がバレては困る故。蓬莱人が増えてしまってはいずれ同じ結論に行き着くものも出ましょうからね。
今更嫦娥様を解き放っても賢者様方は破滅でごさいますし。ふぇっ、ふぇっ」
後悔していたのだろう。助けられなかったことを悔いていたのだろう。だから八意師は私達にこの事を知らせてくれた。
私達を信じてくれた。私達ならこの悪夢を終わらせられると信じてくれた。
その信頼に応えずして、何が八意××の弟子か! 何が月の使者か!
私は腰の刀を抜き放つ。切っ先をあの悍しい機械に向けて、意識を集中する。
「おや依姫様、“蓬莱炉心”を壊される御積りで?」
老兎がなにか話しかけてきている。無視。
全身がチクチクと粟立ち不快な痒みを感じる。無視。
「困りますねぇ。それを壊されては、月の都は滅びてしまいます」
「元々不相応な文明を後生大事に抱えていたのが間違いだったのよ。
嫦娥様を助けだして、今の文明が滅びてそれが何? もう一度やり直せばいいだけよ。今度はこんな悍しい方法でないやり方を。何千、何万、何億年を費やしてでも!」
意識の一部に空白を作り、神を降ろす準備を整える。八百万の神の怒りは目の前の“蓬莱炉心”なる悪意を尽く押し潰すに違いない。
“蓬莱炉心”の周辺には触れれば手応えが返ってきそうなほどの穢が渦巻いている。
恐らくは嫦娥様があの中で無限に死に続けているが故に死に抵抗する心が通常以上の穢を生み出しているのだろう。
あれを突破するには、同質の恐怖を支配する妖神、魔神、邪神の類を降ろすのがいいだろうか。
背後で老兎が笑っている。ケタケタと、クスクスと。
私は降ろす神を定め、意識を神に委ね――――。
「なんという愚か! アレを壊した月の都には、千年どころか百年のちも存在しないというのに!」
老兎の哄笑と叫びが、私の動作を停止させた。
この機械を破壊した場合、何らかの罠が作動すると言うのであれば、それは慎重に当たらなければならない。
老兎に背を向けたまま、聞く。
「どういう意味?」
――――聞いてはいけないと、身体の何処かで何かが警告している。
だけれども、私にはそれを聞くより他に方法はなく――――。
「私は昔、『月の使者』の一員であったのですよ。もっとも依姫様と個人的にお話したことは無かったと思いますが。
ああ、あの頃は他の兎とも変わらぬ姿、懐かしゅう、懐かしゅうございますねぇ」
驚きはなかった。見慣れたブレザーを着ている時点で予想は付いていた。
恐らくこの“蓬莱炉心”の見張りを長い長い年月携わり、穢に蝕まれ老いていったのだろう。
そう考えると、この老兎も哀れではある……。
「こっそりと結界破りの術など勉強しましてね、悪戯のつもりでこの区画に忍び込んだのが運の尽き。
コレを目の当たりにしてしまい、賢者様方にはバレてしまい、ここの見張りを命ぜられ、それから長きも長き五十年、老いさらばえて朽ち果てるのを待つのみの身でございます」
その台詞を、私は聞き違えたと思った。今、この老兎はなんと言った?
私は老兎に向き直る。
枯れ枝の如き手足、吐き気を催す皺くちゃの顔、地獄よりなお暗いその瞳。
まるで何億年も歳月を重ねたが如きその姿。
「五十年でございます。こうして老いることも死ぬこともある身になってみれば、なんとまあ長い月日でございました。
後十年もすればようやく死ねるでしょうな。思ったよりも長く生きました」
五十年、たったの五十年 ? たったそれだけの時間でここまで老いたとでもいうのだろうか。そんな、まさか。
「本来、寿命というのはこう言ったものでございます、依姫様。
穢と共にある嫦娥様を解き放つとはこう言った生物に月の民全てがなるということですよ? 月の民にこのような仕打ち、果たして耐えられるものか――」
目の前の老兎に、レイセンの姿が重なる。同じ服装なせいで否が応にも重なってしまう。
可愛らしくて、一生懸命で、優しく、無限の未来を持った私達の玉兎が、醜く老いさらばえ絶望と諦観のうちに腐り果てる姿を幻視してしまう。
それも、五十年なんていう瞬きのごとき時間でだ。
「穢を溢れぬよう押し留める術なんて、いくらでも……いくらでもあるわ。そんなことには、絶対、絶対に」
抵抗の言葉は我ながら虚しい。力が入らない。
老兎はこの世のものとは思えぬほどに歪みきった笑顔で、静かに私の胸元を指し示す。
「無駄ですよ。この雪崩が如き穢の前では抵抗など無駄の一言。
――――あなたの懐にある、そのお札のように、ですよ」
懐に手を突っ込んで、穢れ祓いの符を取り出す。
それはボロボロに朽ち果て塵となっていた。高濃度の穢の負荷に耐え切れず式が破損したのだと脳は理解し、しかしそれ以外の事実に気づいたことで私の意識は完全に凍りついていた。
符を取り出した私の手は汗でぐしゃぐしゃになり、それが乾くことで垢が浮いていた。
チクチクと皮膚が粟立つ感覚の正体を知った。
それに付随して、足の震えが疲労による筋肉の痙攣であると気づいた。
そして、目眩に頭を押さえると、私の銀色の髪が異様に伸びていることにようやく気がついた。
煩わしい視界のノイズの正体は、私の前髪だった。
新陳代謝が、存在していることそれ自体による疲労が、成長が私の身体を蝕んでいた。
…………私の身体に老化が始まっていた。
かくて私は穢に蠢く蟲の閻魔への告げ口により醜く朽ち果てその身は三途の川を渡り閻魔の恐ろしい判決により阿修羅道に渡り血で血を洗う争いの果て初めて信頼した者に狂気の笑みと共に首
を刎ねられ人間道へと転生するも無邪気な子供らの苛烈で地獄のような虐めを受けて列車へ飛び込み自ら死を選び畜生道に堕ち極小の海棲プランクトンとして生まれ知性無きまま漂い続け捕食
者に生きたまま無残に飲み干されその身は消化され完膚なきまでに死にその次には天道に登り天人と化すも喜びを一つも知る間もなく五衰来たりて赤子のまま死に餓鬼道に置いては物質的のみ
ならず心も飢えきり永遠無限に一つ欠けただけ絶望しつづけ挙句の果てに地獄道にてこの世に存在する全ての苦しみを一万年掛けて一万回休むことなく与えられ続けその後完全な無へと意識は
「――――――――!!」
私の喉から吐き出されたとは思えぬほど恐ろしく人外じみた音ならぬ絶叫。
肺の中の空気の全てを断末魔と同様の叫びと共に吐き出しながら私はその場から逃げ出した。
パイプに足を取られ転び、全身に擦り傷を作って、それには一切構わず全力で“蓬莱炉心”から逃げて逃げて逃げる。
行く手を阻むガラクタに霊弾を撃ち込み刃を振るい破壊して、その破片で無様に転げ回りながら逃げ続ける。
いくら走ってもあの老兎が背後で嘲っている気がして、益々私の意識は狂乱した。
それから何処をどう走ったのかは覚えていない。気がつけば自分の部屋に逃げ込んでいた。
部屋に飛び込むやいなや神降ろしを行い、全身を蝕み始めた穢を浄化する。
愛宕様の火を喚び着ていた服は全て灰も残さず焼き尽くす。
先程まで帯びていた刀も処分したかったがそうも行かない代物であるため、封印符をありったけ貼りつけて物置に放り込んだ。
その後自室の風呂に飛び込むと、蛇口をひねって火傷しそうなほど熱い湯をありったけ出し、皮膚が真っ赤に腫れあがるまで全身を擦り全身に何かがまとわりつくような感覚を引き剥がす。
全身を苛む痛みが今はとても有難い。
よく乾いた布で全身を清め、新しい服を取り出して着替え、髪を鋏で切りそろえた辺りでようやく落ち着いた。
これでもう私の身体にはあの場所の痕跡は残っていない。
窓の外を見れば外はすっかり暗くなっていた。
眼下には宝石を散りばめたが如き美しい夜景が地平線の向こうまで広がっている。
私は無言で窓を閉じ、カーテンを閉めた。あの夜景を生み出す根源たる炉心を知ってしまった以上、私はもう二度とその美しさを素直に受け取ることはできない。
星屑散る夜空にも似た美しさを持つ光景の全てを支えているのは、今もあの狭い棺の中で死に続けている嫦娥様だという事実がこの身を灼く。
部屋の明かりも全て消し、そのまま部屋の隅に座り込んだ。
何も考えない、考えてはいけない。考えてしまえば耐えられなくなる。
嗚呼、まるで石ころにでもなってしまったようだ。それでいい、考えてしまえば耐えられなくなる。
外で慌てたようなぱたぱたという足音がする。
部屋の戸が開き、誰かが部屋に飛び込んでくる。ゼイゼイと息を切らせながら、不安でいっぱいの顔をこちらに向けてくる。
「依姫様! その、さっき外で、こっち来るの見て、大丈夫ですか?!」
ああ、レイセンだ。しっかりしなくちゃあ駄目だ。
この子を不安がらせちゃいけない。この子の前で無様なところを見せるわけには行かない。
レイセンが目の前まで駆け寄ってきて、私の肩に触れる。
私の肩がカタカタと震えているのがバレてしまったのだろう。彼女は私の肩を掴んでこちらの顔を覗き込んだ。
不安でいっぱいの、今にも泣き出しそうな顔をして。ああ、そんな顔はさせたくない。答えろ、彼女に答えなければ。
「依姫様! 何かあったんですか?! 大丈夫ですか!」
“何があったのか”とレイセンが聞いてきたから。私はそれに答えようとしてしまった。考えて、しまった。
問いに答えるべく、あの場所で、あの“蓬莱炉心”の前で何があったのかを考えてしまう。
「――――?!」
レイセンが息を呑む声が聞こえる。驚いているのだろう。
それはそうだ。目の前の人間が突然泣き出したりしたら、それは誰だって驚く。
目の前が歪んで何が何だかわからない光景へと変じ、目の端からポロポロと涙が零れ落ちる。
身体の震えが際限なく大きくなって、湯を浴びたばかりなのに顔はぐしゃぐしゃになって、どうしようもなく寂しくなって。
最早自分を抑えきれなくなり、目の前のレイセンに縋りついた。
泣いた。声を上げてひたすらに泣いた。彼女の胸に顔を埋め、赤子のように大声で。
私はなんて弱いのだろう。私はなんて無様なのだろう。
あの時“蓬莱炉心”の前で、私は老兎の脅しを無視し、月の都の民全てに寿命という苦役を強いてでも嫦娥様を助ければ良かった。
あるいは、月の民が生きて行くためには仕方ないと諦め、嫦娥様を見捨てておけば良かった。
そういう風に、誰かのために私自らの意思で事を為していればこんなに惨めで居ずに済んだのだ。
私は、私の意思で決めてなんていない。私はただ逃げ出しただけだ。
それもただ決められなかったからなんかじゃない。ただ私が老いるのが怖かった から、恐怖に耐えられなくなって逃げ出しただけだ。
嫦娥様と月の民の命運を肩に乗せていながら、ただ己の身の可愛さだけで判断を放り投げた。
だって今だって、嫦娥様を助けたいと思っている。ほっとするぬくもりを分けてくれているレイセンを失いたくないと思っている。
だけど、また私が“蓬莱炉心”の前に立ったなら、そんな思いはどちらも吹き飛んで、ただ己が老い朽ちていくことの恐怖に耐えられなくなる。
なんて卑怯。なんて堕落。月の守り人たる資格なんて私には一つもない。
しかし、世界は私に役目を投げ出すことすら許してくれはしない。
もし私がここで己の役割を投げ捨てれば、姉やレイセンが不審がる。何故そうなったのかを調べてしまう。
そして、あの悪夢の存在を知ってしまう! それだけは駄目だ。絶対に駄目だ。この上二人まで守れなかったら、私はもう存在すら許されない大悪人に成り果てる!
だから、私は今のまま、『月の使者』のまま、姉とレイセンがこの件に関わらぬように見張りながら、全てを胸の内に伏せ続けなければならない。
二人が心安らかに暮らすそのために、助けなければならぬ嫦娥様を放置して、何事もなかったかのように永遠無限に少し欠けた時間だけ生き続けなければならない。
なんて、なんていうことだろう。なんていう拷問だろう。それでもこれだけは投げ出すわけには行かなかった。
レイセンが、そっと私の頭をかき抱いてくれた。
その暖かさ、その優しさ。まるで母の胸の中にいるようで、すうっと意識が遠くなる。
ああ、でも、ひとつだけ教えてください。我が師、八意××。
貴方は私にどうして欲しかったのでしょう? 私は、どうすればよかったのでしょう?
「すいませーん。師匠、ちょっといいですか」
私はノックとその言葉の後、師・八意永琳の部屋のドアを開いた。
返事がないので留守かとも思ったが、何気なくドアノブを捻ったら、鍵は掛かっていなかった。
はたして、師匠はそこにいた。
仕事用のデスクの前に座り、外を見ている。
その表情はビックリするくらい悲しげで、酷く悲痛なものを内に秘めているのが分かる。
すっかり暗くなった夜空に浮かぶ満月を見つめて、師匠はそんな泣きたくなるような顔をしていた。
「…………あら、うどんげ。何か用?」
こちらの気配に気づいたのか、師匠はその表情をすっと消すと、普段通りの優しそうで、でもちょっと底の知れない表情に戻った。
とりあえず、あまり深入りしないほうがいいだろうとアタリをつけて、自分の用件を済ませることにする。
手にしたノートを開いて渡し、そこに書かれた分子式についていくつか突っ込んだ質問をする。
この式を新しい薬に応用できそうだと思ったのだが、どうにもある一点で行き詰まってしまう。
出来れば自分一人で解きたかったが、こうまで行き詰ってはしようがないと諦めて師匠に詰まった部分の答えを聞きに来たのである。
師匠はしばらくノートを眺め、ふむ、と小さく息を付くとノートを私に返してくれた。
「もう一歩というところね。ここまでの計算にも間違いは無し。
此処から先は気づきの勝負よ。私が教えたってあまり意味は無いでしょう。
うどんげ、自分で気づきなさい。そして自分で答えを出しなさい」
……つまり、教えてはくれないらしい。
とは言えここまでの手順に間違いはないと分かっただけでも収穫だろう。
私は師匠に礼を言うと、部屋を辞した。
部屋を出る直前、師匠の独り言が聞こえてきた。
多分、さっきみたいな表情で、月を見ながら言ったのではないかと思う。
「――――そう。自分で気づきなさい。そして…………どうするかを自分達で決めなさい。それは私には――――」
最後まで聞かずに、部屋を出てドアを閉めた。
なぜだか師匠が泣いてるように感じられて、いたたまれなくってしょうがなかったから。
ふと渡り廊下で月を見上げる。
遠目には美しい月も、近づいてしまえばおびただしい数のクレーターが穿たれた地獄の荒野のごとき世界。
しかしその裏にはこの幻想郷をも超える楽園たる月の都がある。
ほんの少しだけ、都とそこで一緒に居た人達が懐かしくなって。
しばらくの間、私はあの楽園に思いを馳せていた。
所謂「独自設定」を多めに含みます。
そういったものを好まない場合はお気をつけ下さい。
「それで? 月のスパイさんが私に何かご用かしら?」
永遠亭の客間で、八雲紫はそう言って笑った。
こちらの意図を察しているのかいないのか、その胡散臭い笑顔から察することは私にも難しい。
彼女と私は似ている部分がそれなりにあり、普段はそれ故仲良くさせてもらっているが、まさに似ているが故に腹の探り合いが面倒なことこの上ない。
実際に何を考えているのかは分からないのに“何かまだ裏がある”ことは推測できてしまうから、思考が相手の――あるいは自分の――奥深くまで潜りこんでしまう。
「あら、スパイとは酷い言いようね。味方を騙くらかしている貴方の方がよほど、ねぇ?」
「吸血鬼や霊夢の遊びを面白くしているだけよ? あの子達は暇潰しが目的なんだから感謝されこそすれ恨まれる覚えはありませんわ。
……で、何か私に言いたいことがあるのでしょう、八意永琳?」
八雲紫はそう言って、こちらに流し目を送った。
……例えば、本棚と本棚の間の薄暗い隙間。例えば壁に走った亀裂の黒。例えば底の見えないクレバスの深淵。
そういった隙間にある暗がりを集め煮詰め固めたような暗闇の視線。確かに蠱惑的ではあった。私が男ならば足元に縋りついて求婚でもしていただろう。
しかしあいにく私は女だったので、その視線に対して出来ることは呆れた溜息を返すことくらいだ。
「しかし貴方はどこまで予想が付いているのかしら。困ったわね、パーティのサプライズはバレないうちが花なのに」
「楽しみにしてるわ」
実際、八雲紫が月に喧嘩を売って何をしようとしているのかは、まだ私には予想が付いていない。
それが不気味であり、不安ではある。彼女が幻想郷に不利益をもたらす可能性はゼロではあるのだろうが。
この時にサプライズなるものを問い詰めていれば、此の後八雲紫にあんなに動揺させられずに済んだのであろうが、それを後悔できるのはまだまだ先の話だった。
あんな微笑ましい悪戯について問い詰めるのが無粋というのも、また正しい見解ではあるけれど。
「貴方がレミリア達にやらせたい事は大体予想が付くわ。だから協力してあげようというの。私としても、霊夢達が月に着かないと面倒なことになるからね」
「例の月兎に持たせた手紙のことかしら? まあ私としては、博麗の巫女さえ無事で帰ってきてくれるなら後はどうでもいいのだけど」
「魔理沙とレミリアに言いつけるわよ。まあそれはいいわ。私からの頼みは一つ」
私は大きく息を吸い、八雲紫の暗闇の視線を真正面から受け止め、言葉を放った。
「綿月の者たちに伝言を頼みたいの。密書ですら伝えられない、そうやって伝えてはいけないあることを」
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「八雲紫のクソッタレ」
幻想の月の裏側に燦然と聳える月の都。
その中心部に据えられた『月の使者』の為の屋敷の一室で、『月の使者』のリーダーである私はこの上なく苦々しげな顔でそう呻いた。
ああ、申し遅れました。私は綿月依姫。以後よろしく。
さて、卓袱台の上にはばらばらと散らばった書類の山。向かい側では姉の豊姫が相も変わらぬぽややんとした様子で茶を啜っている。ああっあの態度も恨めしい、仕事しろ。
「依姫様、その、どうしたんですかこれ?」
緑茶が淹れられた湯呑みを書類の隙間に乗せながら、玉兎のレイセンが不安そうに問いかけてきた。
ああっその仕草が可愛らしい、こっちが姉なら良かったのに。
いや、それもまたおかしいか。どうも仕事が増えすぎて頭が回っていないらしい。
「この前、秘蔵の銘酒が宝倉から持っていかれたでしょう?」
「ああ、そういえば――地上からの侵攻の隙を突いて、でしたっけ」
「そ。酒を持っていった方の下手人はどうもその一月前位から潜伏していたらしくてね。
目撃証言と霊夢の話から推定するとね」
そこまで言って、溜息を一つ。
まったく。適任だと言うのはわかるけれど、どうして八雲はコレを月に忍び込ませたのかと文句の一つも言いたくなる。
「侵入者は亡霊姫・西行寺幽々子。能力は死を操る程度の能力」
「知った途端、月の都は上へ下への大騒ぎよ。八雲が本気なら、月の都は廃都と化していたわ」
満足げに茶を飲み干した姉が私の言葉に続けて説明する。
そう、我々月人には寿命が無いが外的要因によっては死にうる可能性がある。
むしろ死から離れた分耐性自体は落ちているとも考えられた。そこに因果関係を無視して直接死に誘う能力者が現れればどうなるか。
しかも、ただ現れるだけならばまだしも一ヶ月近く無防備を晒す羽目になったのだ。慌てない方がどうかしている。
「え、で、でもそれおかしいじゃ無いですか。それなら、なんでお酒だけ盗んでいったんですか?」
レイセンの問いは普通に考えれば尤もである。
相手の首筋に刃を突きつけておきながら――しかも、自分たちから吹っかけた戦争であるにも関わらず――そんなふうに引く必要など普通はない。
だがしばらく霊夢と過ごした今の私達であれば、何故そんなことをしたのかと言う理由は割と簡単に理解出来た。
「遊びだもの、致命的で無いけど取られちゃ悔しいものと言ったら、これ以上無い選択だわ」
私達が月と自分達の名誉の為に挑んだ戦争は、向こうにとってすれば単なる悪巫山戯の悪戯にすぎないのだ。
兎に角私達にぎゃふんと言わせれば良し程度の子供じみた遊びであり、直接侵攻してきた吸血鬼たちに至っては単なる暇潰しでしか無い。
踊らされた私たちはいい面の皮だ。
もっとも、その裏にあるメッセージはそれ以上の意味を持っていることもまた確かである。
月を上へ下への大騒ぎに巻き込んでおいて、最後にはくだらないオチが付いてめでたしめでたし。
そんな野心も野望も強欲も無い『幻想郷』と言う場所の平和さを、八雲紫はこの悪戯を以て見事に示した。
かつて月面戦争を挑んだあのスキマ妖怪は、同じ戦争を以てして今度は「最早私達を警戒することはないのだ」とこちらに伝えてきたのである。
我が師、八意××も、そんな八雲の意図を理解していたからこそ、「彼女らを使って都側の不信を解け」という助言を与えてくれたのだろう。
第三次、第四次の月面戦争に備える必要はもうない。起こるとすれば、それは弾幕ごっこと言う平和な遊びを介する娯楽でしか無いのだ。
「とは言っても、してやられたことに違いはないわけでね」
地上の妖怪達と接触したからという理由で、月の都を治める賢者達は後始末を私達に回してきた。
いくら害が無いことを示す悪戯とは言え、やられた事が月の都の防備にとって致命的であることに変わりはない。
それに対処するための書類が、今卓袱台にばら蒔かれている訳だ。八雲め、口なり親書なりで済むことをわざわざ悪戯で示さないで欲しいものだ。
その遊び心もまた『幻想郷』と言うものなのだろうけれど。
一ヶ月間の目撃証言に目を通し、分類し、都の地図に印を付けながら時系列を追う。侵入ルートの確認作業だ。
浄土の存在であり月の民にも違和感を感じさせぬ亡霊とは言え、普段見ない顔を見たと言う程度の証言ならば聞込みをすれば十分すぎるほど集まる。
単調で退屈で、また境界操作の妖怪が相手である以上限りなく無意味に近いその作業も半分を過ぎ、地図上の印が百を越えた頃。
私は唐突にソレに気がついた。
「?」
書類の確認と地図上に印を付ける作業の速度が、跳ね上がる。
明確な意味と謎は、私の退屈な仕事に強烈な刺激を与えた。ものの五分で残りの作業を片付けてしまう。
「レイセン、お姉様、ちょっとコレを見てもらえますか?」
印だらけの地図を姉の方に差し出す。姉は興味深げに片眉を上げた。
レイセンの方は少し困った顔でこちらに問うてくる。
「ええと、私も見て、いいんですか?」
「構わないわ、でも他の人には絶対話さないようにね」
姉が、新聞を広げるように地図を開いて印の確認を始める。レイセンもその後ろに回って地図を覗き込んだ。
確認自体はせいぜい十秒ほど。地図を卓袱台の上に戻したときには姉の顔からぽややんとした雰囲気は抜け落ちていて、この上もなく真剣な『月の使者』のリーダーとしての顔になっていた。
「偏ってる、わね」
そう、西行寺幽々子の目撃情報は偏っていた。都全体にぱらぱらと印が散らばっている中、ただ二箇所だけにギッシリと印が集まっている。
余りにも作為的過ぎて、自分の仕事のミスを疑ってしまうほどだ。
「レイセン、コレが作為的なものでないとしたらどんな理由が考えられる?」
「へ?! ええーと、サンプルが意図しないところで偏っている、チェックにミスがある、偶然人の多いところで目立つ行動を取ってしまった――こんなとこでしょうか?」
突然話を振られたレイセンは、目を白黒させて慌てながらもキチンと答えを返してくる。うん可愛い。
ご褒美に頭を軽く撫でてやると、気持ちよさそうに目を細めた。うん可愛い。
姉が撫でてほしげに頭をこちらに向けていた。とりあえず無視しておく。
「良く出来ました。想定されるのはそんなところね。
この場合、偏っている場所は人が集まる場所ではないから最後のは除外出来るわ。ありうるとしたら一番目か二番目になるけれど――」
目撃情報は担当の兎が聞き集めたものなので、手を抜いて一部だけで聞き込みをしたという一番目の可能性は否定できない。
寧ろ一番有り得そうなオチではある。それならばさっさと再調査をさせてしまえば済む話、なのだが。
「再調査の間に、私達で調べてみる? その、地上からのメッセージを」
姉がピン、と人差し指を立てて提案してきた。
「お姉様は、これが意図的なものだと?」
「依姫はそう思っていないのかしら? いくらなんでもこの目撃のされ方は不自然すぎる。まるで“目撃されたことが私達に伝わるのを知っていたよう”にね。
或いはミスか偶然かもしれない。けれど偶然ではないかも知れない。ソレを追確認するのも私達のお仕事じゃないかしら?」
驚いた。万年桃の盗み食いでのんべんだらりと過ごしている姉の口から、そんな言葉が出るとは。
明日は空から穢でも降ってくるかも知れない。とまれ、言っていることも尤もだし、なにより私もこの不自然さが気にかかっている。
「そうね、行きましょうか。レイセンも手伝って」
「はい!」
元気な返事に満足感を得ながら私は立ち上がった。
西行寺幽々子の目撃情報が固まっているのは二箇所、嫦娥様が幽閉されている郊外の宮殿と、十三番廃棄区画である。
◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇
かつてカグヤ姫と並び称された月の姫、嫦娥様はカグヤ様と同じ罪を犯し幽閉された。順番で言えばカグヤ様が後となるが。
その罪とは即ち蓬莱の薬の服用である。
蓬莱の薬は生を永遠のものとする薬であるが、それと引き換えに“穢”を体内に満たしてしまう。穢は、何よりも己が生きたいと思う意思から生まれ、それが望みとは逆しまにすべてのものに寿命を枷す。
月の都はその穢を排除することで一つの永遠と化した場所だ。己のみを永遠として他者へ穢を撒き散らす蓬莱の薬の服用は重罪である。
故に、嫦娥様は幽閉され、カグヤ様は地上へと落とされた。罪に対する罰として。そして穢を都に満たさぬために――
「ふひゃあ。大きなお屋敷ですねぇ」
「この中に、ずっと一人で幽閉されているのよ。皆、何とか出来るのなら何とかしたいのだけれどね」
――そして私達は、その嫦娥様の幽閉された屋敷の前に立っていた。
月の都の端の端、裏と表の月の境界に近いところにあるこの屋敷は、隣に立つレイセンが感心している通り、とても大きい。
何しろ正門の前に立って左右を見ても、屋敷を囲む壁の端を視認することが困難なほどだ。空間が弄られ引き伸ばされているが故である。
個人の邸宅としては月で最も大きいものだろう。咎人と言えど、月の姫であることに変わりはないのだから、当然とも言える。
「でもねえレイセン。貴方達はここに幽閉されている方のために薬を搗いていたことくらいは知っていたでしょう?
その方が何処でどうして居るかくらい、知っておきなさい」
「う、スミマセン……」
耳を申し訳なさそうにへにょらせながら俯いてしまうレイセン。ああ可愛いなぁ。
色々教えてあげたいけれど、何も知らぬ無垢なままでもいて欲しいこのジレンマ! 姉辺りならきっと理解してくれるだろう。
横目で表情を確かめれば、姉も恐らく私と同じであろう蕩けきった笑顔でレイセンを見ていた。私たちは今猛烈に解り合っている。
おっと、いけないいけない。今は頭を春色にしている暇はない。それは後からゆっくりと、だ。
「それじゃあお姉様、そちらはよろしくお願いします」
「はいはい、集合は“S−1”でね」
馴染みの茶店の名前を残して、姉は警備担当の詰所へと向かっていった。
私達は外周を回って付近の調査を担当する。
果たして西行寺幽々子――そしてその背後にいるであろう八雲紫――は、私達にいったい何を伝えようとしていたのか、それはこの嫦娥様のお屋敷を探ることで分かるかも知れない。
とはいえ、だ。
「何にもありませんね、ここ」
調査を始めて10分後、レイセンのそんな一言がこのお屋敷の周辺を余りに見事に言い表しすぎていて、なんだか意味も無く泣いてしまいそうだった。
無い。何も無い。
向かって正面、延々と道が続いている。先の方は掠れて見えない。
向かって背後、延々と道が続いている。出発地の門はもう掠れて見えない。
向かって左手、お屋敷を囲う白い壁。さらにそれを囲むように植木。
向かって右手、文字通り「何も無い」荒野だけが延々と続き、遥か彼方に月の都がぼんやりと見えている。
元々高貴な方の住まいであり、現在は大罪を犯した者の幽閉されている地であり、さらにその御方は生きている限り(即ち永遠無限に!)我々月人にとって致命の毒となるものを生成する。
まあそんなわけでここらには元々施設は殆ど無く、さらに万一に備えて都との距離を限りなく無限に近くすると言う結界が張られている。
都と接続している幾本かの道だけはこの結界の影響を受けないため(無論、緊急時には封鎖される)、この屋敷を囲む道を散歩のコースにしている者も少なくはないが、四六時中居るわけでもない。
要するに、だ。何を探すにしても、まずもって“何も無い”のでは捜査のしようが無いということだ。
このような場所でありながら西行寺幽々子の目撃証言が固まっているというのも、確かにおかしな話ではあるのだが。
歩くこと二時間。既に正方形の形の屋敷の周りで四回の曲がり角を経験し、私達はそろそろ出発地である屋敷の正門前に辿り着こうとしていた。
無論、眼につくものは何も無い。無駄足だっただろうか。
と、私の服の袖に引っ張られる感触。後ろを見返すと、レイセンがなにやら屋敷の壁を指差している。
「あの、ずっと気になってたんですけど、このお屋敷の壁に貼ってあるあの御札ってなんなんでしょう」
指差した所には、白地に赤で印を刻まれた符が確かにある。
その指さした箇所だけでなく、十間ほどの間隔を空けて屋敷の壁に等間隔に貼り巡らされている。
ああ、当たり前のものだったから存在自体が気に止まらなかったのだ。
「“穢祓い”の結界符よ。嫦娥様は蓬莱の薬のせいで穢に満たされてしまったから。
これが無ければ、嫦娥様から溢れ出る穢は、月の全てを覆ってしまうわ」
壁に歩み寄り、符を軽く撫でる。
この結界の壁の向こう側は果たしてどうなっているのか。嫦娥様から溢れ出る穢は世界をどのように犯し/侵し/冒しているのか。
動物は死に、植物は枯れ、食品は腐り、建物は朽ちる。
穢の渦巻くこの壁の向こうではそんな地上のような状態が広がっているに違いない。
それは、なんて、恐ろしいことなんだろう――。
と、符に触れた指先がピクリと震えた。
頭で理解するよりも早く、感覚が異常を知らせてくる。
理解は遅れること数秒でやってきた。
指の下の符を観察し、指先を通して刻まれた式を読む。
背筋が、すうっと冷たくなった。
弾かれるように他の符も確認していく。一枚、二枚、三枚……全て問題ない。
だがこれは、この最初の一枚は、
だが、
他の符の式の劣化具合を見るに、ひと月か、ふた月か、それくらいだろう。
たとえひと月の間だったとしても、可奇しい、可奇しすぎる。
私は問題の符を壁から剥がすと懐に収めた。
唖然としているレイセンの手を引っ張って、私は走りだす。
早く、早く姉と合流しなければ。
懐の中で、符がくしゃりと音を立てて歪んだ。
◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇
喫茶“S−1”は月では珍しい、地上の欧州風の意匠が施された茶店である。
材木(合成品だが)の暖色を生かした可愛らしいこの小さな茶店は私達姉妹のお気に入りだ。
テラスで苦い珈琲と甘いケーキを楽しんでいるときにはちょっとだけ、地上の文明もそんなに悪くないと思えることもある。
そんな茶店のテラスの隅、私達のいつもの指定席には、既に姉の姿があった。
メロンのタルトと甘い紅茶を頬張りながら、暢気にこちらに向かって手を振ってくる。
私は軽く挨拶を返して隣の椅子に座った。
レイセンも私の隣りに座ったが、なぜだか顔を真っ赤にして息を切らせている。
私はショートケーキとブラックコーヒーを注文し、レイセンは息も絶え絶えに水を下さいと言った。
別に遠慮せずとも、これくらいは奢ってあげるというのに。
「で、どうだった依姫? メッセージのかけらくらいは見つけたかしら」
「まあ、多少は。お姉様は?」
「西行寺幽々子がわざと目撃されていたのは確実、ってことくらいかしらね」
姉が屋敷の警備詰所で聞いたところによれば、あそこの詰所に居た警備担当の兎達は殆ど皆同じ状況で西行寺幽々子を目撃していたらしい。
張番をしていたところで“立ち眩み、息の詰まる感触、あるいは脱力感”を覚え、突然何事かと周囲を確認したとき、聞いた通りの風体の人物を見たのだ、と。
「立ち眩みの正体は黙っておいたわ。事実を知ったら怖がって仕事にならないでしょうし」
それはそうだろう。貴方は、その日突然何の前触れもなく
自分の存在を知らしめるためとは言え、西行寺幽々子も無茶をする。うっかり加減を誤って死んでしまったらどうするつもりだったのか。
「致命の能力を行使してまで周りの存在に己を知らしめた――間違いなく意図的。それで、貴方の方は?」
店員が、注文したケーキと珈琲、それに水を持ってきた。
ようやく落ち着いたらしいレイセンにケーキを一切れ食べさせてやってから、私は懐から一枚の符を取り出しテーブルに置く。
さっき嫦娥様の屋敷から剥がしたものだ。
姉の片眉がピクリと跳ね上がる。符を撫で、式を読み、そうしてその符が持つ意味を理解する。
「これ、お屋敷の周りに?」
「はい、式の劣化具合から見て大体ひと月の間は。これは関係あると思いますか?」
「あるとしたら洒落にならないわね。場合によっては都が滅ぶわよ」
姉が難しい顔をして腕を組む。
姉の言うことはけして大げさなことではない。
この符が示すある状況が真実であったのならば、月の都と言う世界を構成するシステム自体にとって致命的な事件に発展する可能性は高い。
さらにこの事を地上の妖怪が知っていたというところまで行くと、これは最早
「御二人共! 私を放っておいて話を進めないでくださいよー!」
レイセンが両手をパタパタさせながら(恐らくテーブルを叩いているつもりなのだろうと思う)私達の思考に割り込んできた。
いけないいけない、こういう時のためにレイセンを連れてきておいたのだからほっぽりぱなしは宜しくない。
「じゃあレイセン、この符とその符を見比べて気づいたことを言ってみてくれる?」
私は懐から自前の穢祓いの符を取り出してレイセンに示す。
私達は外の侵略者達と真っ先にぶつかる立場にあるため、穢に対抗するための装備は必要不可欠だ。
レイセンは二枚の符を真剣に見比べながらうんうんと唸って相違を発見しようとしている。
どうにも自分達の知識の中で完結してしまいがちな私達には、彼女のような真剣で常識的で真っ当な視点と言うのは得難く貴重なものだ。
知識の量や発想力だけではない、そういう地に足が付いた感覚。私達が彼女に必要としているのはそこなのである。
しばらくして、レイセンがあっ、と口を押さえて符の隅のほうを指さした。
「ひょっとして、これですか? 依姫様の御札ではこの部分はハネになってますけど、こっちの御札はトメてますね」
レイセンの指さした箇所では確かに、印字の形が微妙に異なっていた。
それ自体は殆ど目立たない違いでしか無い。漢字のテストになっても両方マルを貰えるだろう。しかし。
「良く出来ました、正解よ」
しばしレイセンの頭を撫でて、彼女の嬉しそうな顔を観察した後解説を始める。
「そう、トメとハネを間違えているだけの些細な違い。だけど、こういった符は生半可な精密機械よりもずっと揺らぎに弱いわ。
式というソフトウェアをきちんと動作させるには、符というハードウェアをきっちりと構築しなければならないの」
地上の術よりも高度で複雑な術式を組める代わりに、月の術は即効性と冗長性に欠けるきらいがある。
もっとも通常ならばその性能で押しきれてしまうために弱点が露呈することはないが。
「けれどこの符は何かの拍子にそのハードウェアに欠陥が生じ、その上品質検査に弾かれることなく出回ってしまった。
そして嫦娥様のお屋敷に貼られてしまった――」
「依姫様、その話によるとこの御札は正常に働かないってこと――ですか?」
レイセンの言葉が一瞬詰まる。何か脳裏に閃くものがあったらしい。
「そもそも式が乗っていた痕跡すら無いわ。ハードウェアの欠損のせいで定着しなかったのね」
「可奇しいじゃないですか! だってこの御札、ひと月の間は貼られていたんでしょう?!」
椅子から立ち上がってレイセンが叫ぶ。興奮している。
多分、彼女も私達と同じ可能性に思い当たったのだ。私達と違って、まだ確信はしていないのだろうが。
姉が小さく頷いて、私の言葉を継いだ。
「そう、可奇しいわ。本来ならば結界が綻びて穢が漏れ出し、大きな事故になっていたはず。
けれど現実として欠陥符の周りには何も起こっていなかったでしょう?
じゃあレイセン、それは何故かしら?」
「結界が積層構造になっていたんだと思います、安全対策として。いちばん外側に綻びがあっても内側の層が穢を食い止めてくれたんです」
レイセンはキッパリと答えた。正しい答えだ。
だがその声は震えている。信じきれていない。地上の妖怪が
そして恐らくその感じ方の方が正しい。
私は、レイセンに、より真実に近いと思える仮説を告げた。
「そう、それだけのことかも知れない。だけど地上の妖怪達が何かを伝えようとしていたのだとしたら、それがコレと関係あるのだとしたら。
……一つ、可能性がある」
「何なんですか、それ」
「嫦娥様があのお屋敷に居らっしゃらないと言う可能性よ」
沈黙。
冷や汗が頬を伝い、テーブルに落ちる。
静かだった。まるでこの茶店が丸ごと“表側”に移動してしまったかのようだ。
「嫦娥様は、月でも一番高貴なお方ですよね」
「そうよ」
私が答える。
「蓬莱の薬のせいで穢を産み出すから、だからその罰として幽閉されているんですよね」
「そうよ」
姉が答える。
「じゃあ、何で、あそこに居ないんですか?
それを依姫様すら知らないとしたら、いったい――!」
「レイセン、声を落としなさい」
この話は明らかに他人に聞かれていい領域を超えていた。
興奮するレイセンを落ち着かせる。玉兎はみんな嫦娥様の代わりに罰として薬を搗いていたのだから、他人のことではなかったのだろう。
その上、比較的月の防衛組織の中でも高位にある私と姉が知りえぬことともなればその得体の知れなさは筆舌しがたい。それはつまり月の最高権力者である賢者達が、月の民を騙しているということだから。
レイセンはすみません、と謝って、席についた。私は推論を継続する。
「八雲紫がこんな重大な月の秘密を知っていた? 八意師の差し金かしら」
自分で呟いたその仮定は、肯定も否定もできなかった。
八意師は地上の妖怪の遊びに付随する私達の疑いを晴らすべく助言をしてくれたが、その結果として私達の意識が過剰に霊夢達に集中した事実は否定出来ない。
霊夢達の裏で動く八雲までは注意が払えても、そのさらに裏まで読めなかったのは“疑いを晴らすため、霊夢達を捕らえることに入れ込んでいた”からなのは間違いない。八意師のアドバイスであったことも入れ込みに拍車をかけた。
八意師の動きすら読んで八雲は作戦を立てていたのか、それとも私達の疑いを確実に晴らしつつ悪戯を成功させると言う目標の下に八意師と八雲は手を組んでいたのか。
「そうね、考えても答えが出る問題じゃないし、八意師が八雲を通して私達に伝えたということにしましょう」
姉が私の言葉を継いだ。たしかにそれ以外のルートで地上の妖怪が月の秘密を知ることなどありえなさそうではあるし、
なによりそういうことを話して頼めるくらい地上に馴染んでいるとするならば、ちょっと気持ちが救われるから。
「八雲に頼んで嫦娥様を攫わせたのかしら。カグヤ様を助けたように、嫦娥様を助けるために」
続いての姉の言葉を、私は首を左右に振って否定する。
「いくらなんでもそんなことをすれば月の賢者たちも気付きます。私達辺りに奪還命令がとっくに下ってたっておかしくない。
嫦娥様があそこに居ないのだとしたら、まず間違いなく賢者達の意思が介入していますよ」
嫦娥様は罪人であれど、それだけの影響力を持った存在だ。
そんなお方を意に反して攫われたとしたら、賢者達はノーリアクションで居られるはずがない。
少なくとも、私達ほどの位にいる人間に気付かれないようにすることなどほぼ不可能だ。
そもそも、そんな大逸れたことをしでかしてしまっては、悪戯という八雲の趣旨が台無しになってしまう。
「どこに、いるんでしょう? 嫦娥様は」
震えるレイセンの声。
私はそんな彼女を軽く撫でてやった。
「私達に知らされてないと言うことは知られたくないし知る必要はない、と言うことでしょうね。月の賢者達にとっては。
そして八意師は私達に知るべきであると伝えてきた。こんな手の込んだ方法で」
ただ伝えるだけならば、あの時レイセンに託した手紙にでも書いておけばよかったはず。それを八意師はしなかった。
文字にすること自体を警戒するほどの真実が、嫦娥様の行方には存在しているらしい。
「とりあえず、残ったもう片方のメッセージの謎を探りましょう。
ここまで言っておいてなんだけど、私だって偶然だと思いたいわ。話が
西行寺幽々子の行動は何かの気まぐれで、お屋敷の結界はレイセンが言った通り積層構造のおかげで大惨事をまぬがれた単なるミス。
ただ偶然が重なっただけと言うそういうオチが付く可能性は未だあるだろう。偶然が二つ重なるまでならあり得る。許せる。
だが、もうひとつのメッセージの意味を探り、そこでまた偶然が重なったとしたら。
私は一体どういう判断を下せば良いのだろうか。
◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇
それから三日、ついに私は意を決し、八雲が示したもうひとつの場所である十三番廃棄区画の調査に踏み切った。
今日はレイセンと姉は付いて来ていない。これから探りを入れる場所は、少々危険な場所だからだ。
地球を遥かに超える(と、言うよりはそもそも比較になるレベルではない)文明を持つ月ではあるが、最初から完璧な世界などではなかった。
殊にその文明を支えるエネルギーについては常に試行錯誤が繰り返され、完成を見た現在でも不完全の残滓は存在している。
それがこの十三番廃棄区画だ。
旧世代、エネルギーの生成には穢の発生が不可避であった。故に、エネルギープラントはこの十三番区画にのみ建造、厳重に隔離された。
そこで働いていれば穢に身体が蝕まれ、しかるべき処置を施さねば遠からず寿命によって死に至る。
月の文明を支えるだけのエネルギーを穢を生むことなく生み出す技術が完成されるまでの数億年間、エネルギープラントでの仕事は文字通り“命を削る”仕事だったのである。
その後新たなエネルギー源が開発され、それらは穢を出すこともないので、効率や事故の可能性を考えて都の各地に分散されて設置され、今もこの月の文明をしっかりと支え続けている。
それに伴い、旧世代プラントを集めたこの十三番区画は完全に封鎖され廃棄。
今から三億年後、穢が薄まる頃には開放され、穢の残滓を完全に取り除いた後再整備されることになっている。
そんな、技術の発展に伴い捨てられた区画の前に私は立っていた。
どこまでも静謐で、清潔で、秩序だった月の都の中でそこはまさに異界だ。
何の配色も施されない生の色の金属で出来た歪な建造物が不愉快な姿勢で折り重なり、さらにそれぞれの建造物はおびただしい数の歪んだパイプで病的なまでにしっかりと繋ぎ合わされている。
ユークリッド幾何学を完全に無視した無秩序ぶりは最初からそのように作られたわけではなく、長い年月の間に朽ち果てた結果。現在の月の都にはありえぬはずのカタチ。
その上全ての物体は錆びて薄汚れ壊れ傷ついている。その不快さは曰く名状しがたい。
そしてそれらの異形は薄いガラスを何枚も重ねたような結界に囲われて、その周りに緩衝地帯としての空き地が広がり、それらすべてを遠巻きにしてようやく都のビルディングが見えてくる。
ここも月の裏側、月の都の中だというのに、なんだか酷く遠くに来てしまったように思えた。
――話を戻そう。
西行寺幽々子はこの周辺で複数の人間と兎に目撃されている。
目撃証言は嫦娥様のお屋敷と同じ、“立ち眩み、息の詰まる感触、あるいは脱力感”と共に目撃されていた。
その後彼女とその従者は、この廃棄区画の方へ向かっていったのだという事までは、前日までの聞込みで判明していた。
“この先には廃棄区画しか無いですから、なんであんな所に行くのだろうと思ったんで、それで覚えていたんです”
目撃者は皆言葉の差はあれ同じようなことを言っていた。
この区画へ向かっていることをわざわざ印象づけている所から見て、コレもまた何らかの意図があると見える。
……上等。
懐の穢祓いの符を起動する。特濃の穢が渦巻いているところでもなければ、これ一枚で三ヶ月は持つ。
「今度こそ見せてもらうわよ。こんな事をした意味を」
呟きながら、廃棄区画の結界に指先で触れた。
結界式に私の術式を割りこませて強引に通路を作る。
音もなく目の前の結界が歪み、中へと続く通路が穿たれた。
さて、急がなくては。何しろ無許可の結界破り、それも穢の渦巻く廃棄区画の結界をである。
月の賢者達に動向を知られたくないがゆえの行動ではあるが、また謀反でも疑われるのではないかと思うと少しばかり気は重くなった。
いや、嫦娥様の居所について賢者達が何事かを知り隠しているのだとすれば、私はとっくに謀反を起こしたふとどき者と言うことになるが。
兎に角、私は結界の内側に足を踏み入れ、結界式に干渉する術式を解除した。
私の背後で結界は閉じ、かくて私はこの月の
十三番廃棄区画の中は、一言で言えば不快だった。
穢そのものはもちろんのこと、空気の臭い、あちこちから聞こえる物音、歩きづらい足元……。
それらは全て、生物のサイクルによって生み出される嫌悪を伴なう残骸のせいだった。
小動物の排泄物の吐き気を誘発する臭い、何かと何かが争う物音、食い散らかされた生物の残骸の散乱する足元。
穢を身に宿し、生殖し互いを捕食し己の生存のために他者を蹴落とす生き物達の気配。
穢のせいで、この廃棄区画の内側はまるで地上のようだった。
私は背筋に走る怖気を必死に抑えながら探索を続けた。
周辺のプラントを調べていく。ゲッター炉、アイス・セカンド式縮退炉、トロニウム炉、銀鍵守護神機関、その他様々なプラントの残骸――。
「ああ、依姫様。そちらではございません、こちらですよ?」
その奇妙に嗄れた声が耳に届いた瞬間、私は腰の刀を抜き放ち声のする方向へ向き直った。
ありえない。下等な虫や獣が居るのはまだ分かる。だがしかし、こんな地獄の如き世界に、人語を話す存在が居られるものか!
目の前に広がる朽ちた鉄の密林、それを構成する錆朽ちたパイプとパイプの隙間を潜るようにして。
その奇妙な何者かは、のっそりと姿を表した。
(…………兎?)
現れたのは一匹の玉兎。『月の使者』に属する者の制服であるブレザーと、頭から生えた耳は普段からよく見るお馴染みのものだ。
しかし、その体は、いったいなんなのだろう。アレはいったい何だ?
手足は枯れ木のごとく細く脆く、顔から腕から足からの皮膚は全て丸めた紙屑のごとき有様へと成り果てている。
全身の肉は垂れ下がり、その重みに細い骨が耐えかねているのか背骨は歪み、最早一人で立つことも適わないのか右手に杖を持って身体を支えている。
――老いている、のだろうか。
現在の月の生き物に老化はない。身体の劣化は穢と、それによって蠢く体内の蟲によるものだからだ。
私自身、年老いた生き物を見たのは数万年前に地上を偵察したときくらいである。
ひょっとして彼女はこの穢の中で暮らしているのだろうか。
「お待ちしておりました。ご案内いたしましょう、依姫様」
老兎は笑いながらそういった。
しかしその皺くちゃの笑顔も、喉が震えて聞き取りづらいその声も、何故だか異様な不快感を伴っていた。
「待っていた? 私を?」
「月の賢者様達は貴方達の動向を知っておいでだったのですよ。だから私に、案内するよう言付けました」
賢者達に知られていた、と言う事実に全身が緊張する。
さて、それではこの老兎は私を何処に連れていくつもりだろうか。牢獄か、裁判所か、死刑台か。
姉とレイセンを助けに行くべきかもしれない。その後は気は乗らないが地上にでも降りて八意師の所にでも匿ってもらうか……。
「ご安心下さい。賢者様方も貴方ほどの方を口封じするような勿体無い真似はいたしませんとも」
ふぇっふぇっ、と奇妙な笑い声を立てて老兎は言った。
「どうにもこうにも、これ以上の隠し立ては無意味に過ぎる。ならば依姫様、貴方は秘密を知るべきなのですよ。
真実を知り、その上で口を噤んでもらう。それが最良であろうとの判断でございます」
「いけしゃあしゃあと言うものね? やはり私達にすら隠していた何かを八雲が――いえ、八意××が示していたということでいいのかしら」
「知らぬ方がいいのです。神が人に与えた恩寵とは無知のままこの世界で生きて行けることに他ならないのですから。
さて、どうしますか依姫様。これ以上探らぬのなら見せずともよい、とも言付かっていますが」
不快感を催す視線でこちらを舐り回しながら老兎が笑う。その笑顔はまるで不思議の国のチェシャ猫のようないやらしい笑み。
どうやら答え合わせをしてくれるらしい。親切なことだ。
――――私達とて『月の使者』を束ねる立場にある人間だ。一般の月人達も知らぬ月の実情も知っている。
その私達すら知るべきではないとされていた事実とは、いったい何なのか。八意師の伝言と、それを伝えてきた八雲の意図は一体なんだったのか。
知らずには、居られなかった。
「いいわ、何処にでも案内しなさい」
私はキッパリと、老兎に向けて告げた。
老兎の歩みは亀のごとく遅かった。何の障害物もないところですら頻繁に躓き、動作自体も緩慢に過ぎる。
その上足元は汚れ放題荒れ放題で歩きにくいので、老兎はもう進んでいるのか止まっているのかすら分からないほどだ。
それら全てが癇に障る。自分でも何故ここまでと思うほどに。
彼女はそんな私の内心を知ってか知らずか、ほとんど休みなく私に言葉をかけてきた。
「しかし、そうですか。八意様と地上の妖怪が……何と最早、御両人共残酷なことをなさるものでございますねぇ」
「何が言いたいの」
老兎はふぇっふぇっ、と笑って答えた。
「先程も言ったでしょう? 知らなければ幸せで居られた、と。
貴方はこれから知ってしまう。もう知らなかった頃には戻れない。そして月人に死という忘却はそうそう訪れるものではない!
――つまり、貴方はこれから永遠無限に少しだけ欠けた時間だけ、苦しみ続けるのですよ。これが残酷でなくて、何なのでしょう?」
やがて、足元に散乱する塵屑が目に見えて減ってきた。
人ひとり分だけ塵が払われたそれは獣道を彷彿とさせる。
実際、この老兎が普段使っている道なのだろうが。
「苦しんだりなんてしない。何であれ私達が解決してみせるわ。それを出来ると信頼してくれたからこそ八意師は私達にメッセージをくれたのよ」
「そうですか、そうですか。それでは依姫様がこの悪夢の如き現実を終わらせることを期待いたしましょうかねぇ」
道の先にはひときわ大きなプラントが一つ。そのプラントはこの朽ち果てた文明の死骸の中でも一際異様だった。
建物から無秩序に四方八方へ伸びる錆び付いたパイプの量は一種病的ですらあり、パイプを固めて建物を作ったようにすら見えるほどだ。
まるでそれはこの区画にある全てのパイプがここに集まっているかのようで、それを想像するだけでなんだか訳も無く背筋に冷たいものを感じた。
そのプラントの勝手口らしき扉を開けて、老兎が中へと入っていく。
私はその後を追ってプラントの中に入った。どこもかしこも薄汚れ、うっかり壁に突いた手がべっとりとした何かで汚れた。
気持ちが悪い。足元がふらつく。
「それで、あなたは私を何処に連れていくつもり? この先になにかあるのかしら」
「はてさて、これは依姫様ともあろうお方がまだ見当が付いていらっしゃらないのですか?
貴方がここまで知ったこと、そしてここに真実があると言う事実、答えを出すには十分すぎるほどではありませんか」
言われずともある程度の予測くらいは付いている。
“お屋敷から消えていた嫦娥様がこの区画に居る”であろうと言う事くらいは、お屋敷に嫦娥様が居ないかも知れないと考えた時から頭の片隅にはあった。
この老兎が現れ、月の賢者達の意思が見えたところでその予測は正しかったのであろうとほとんど確信している。
他に繋がりは殆ど見えない。この兎は私を嫦娥様の元に連れていこうとしているのは間違いないだろう。
だが、
なぜ嫦娥様はお屋敷ではなく、こんな悍しいところに居なければならないのか。
そして何故、賢者達はそれを隠すのか。
パズルを解くにはピースが足りない。
何か、私には知り得ない事実がある。それがこの兎の言う『悪夢の如き現実』とやらなのだろう。
だがそれが何であれ、私はきっとその現実とやらを制してより良い形へと収めてみせよう。
きっとそうすることを望んで八意師はこの秘密を知らせてくれたのだから。
プラントの中は外観以上にパイプだらけだった。
床にも壁にも天井にもびっしりとパイプが張り巡らされているだけでなく、パイプがパイプを支えるようにして折り重なった結果として天井は本来あるべき高さの半分ほど。頭を擦ってしまいそうな位置までパイプが降りてきている。
進めば進むほど左右の壁のパイプも密度を増し、汚れきったそれが私の服を遠慮無く傷つけ始めた。
ああ不快だ。この上なく不快だ。目の前にノイズが走る。
しかしそれにしても、このパイプは量以外にもおかしな所が多すぎる。
進んでいくに連れて密度を増して行っているのはいったいどういう事なのか。このパイプの群れの先に嫦娥様が居るとして、いったいこのパイプはなんのためにあるのか。
老兎はパイプになんども足を取られながら、よたよたとパイプの集まっていく先へ足を進めている。
息は切れて今にも倒れそうになりながらも、にやついた笑いはその顔から離れることはなく、言葉を止める気配は微塵もない。
「それではひとつヒントを差し上げましょうか。嫦娥様はこの先に確かにいらっしゃいますが、ただここに幽閉されているだけなのではありません。
彼女はここで、この月の都を支えるために一人でいらっしゃるのですよ」
月の都を支える? それは何かしら――例えば『月の表と裏を隔てる』結界の維持についての何かだとか――の労務に就いていると言うことだろうか。
蓬莱人故に死の危険が大きい苦役でも充てがわれているのかもしれない。
もしそうならば、私は嫦娥様をここから救い出すことも考えねばならない。
罪には罰があってしかるべきだが、同時に罰は罪に相応のものでなければならない。
嫦娥様の蓬莱の薬の服用という罪には永遠の幽閉と言う罰。そう決まっていたのだ。
それを月の民に知らせることなく別の苦役を課すなど、到底正しい行いとは言えない。賢者達の思惑が何であれ、それでは道理が通らない――。
と、唐突に全身を包む圧迫感が和らいだ。
狭い狭い通路は唐突に途切れ、広い広い部屋に私は足を踏み入れる。
そのドーム状の部屋の天井は高かった。天井までは私の身長の二十倍はあるだろうか。床と言わず壁と言わず天井と言わずびっしりと絡み合うパイプが無ければ、多分もっと広いのだろう。
パイプの量はすでに病的と表現できる量を遥かに超え、最早非人間的な狂気を感じさせるほどに部屋中を這い回り、部屋の中心点に結集している。それはまるで月の都の全てのパイプがこの一点に集まっているよう。
そして、全てのパイプの集まる場所に、それはあった。
「着きましたよ、依姫様。
老兎の声が聞こえる。聞こえるけれど聴こえていない。
私の五感と意識の全ては、部屋の中心にある物体に吸い寄せられていた。皮膚がピリピリと粟立つ。
触覚。濃密な穢の感触が肌を焼いている。目の前の物体から溢れ出る穢の濃度は地上とすら比べ物にならぬほどだ。
味覚。周辺を舞う鉄錆と埃の味が口いっぱいに広がっている。不愉快だ。
嗅覚。死臭がする。この上なく濃密で、この上なく不快な臭い。
聴覚。機械の唸る低い音がする。不規則に、不愉快な音で。
そして視覚。私はその物体を網膜に焼き付けた。
機械が、何らかの装置がそこにあった。ここに集まる全てのパイプで狂的に締め上げられ拘束された、機械があった。
その形を言葉で説明しようと思えば、恐らく万の時間と億の言葉を以てしても到底足りるまい。それほどまでに混沌とした形の機械だ。
あえて簡潔に外観を纏めるのならば、この月にある全てのガラクタと呼ばれる物品全てを集めて適当に繋ぎあわせてそれを悪意を持ってかき混ぜ――――駄目だ。どうしても長くなってしまう。
この部屋に集まっている全てのパイプはその機械に接続されていた。この機械はそれらから何かを吸い上げてでもいるのか。あるいは、
そんな、正体どころか外観すら理解出来ないその機械。しかし一箇所だけ“それがなんなのか”がよく分かるパーツが据え付けられている。
白い合成樹脂で出来た、人の背丈ほどの高さの長方形の箱……棺だ。人が中に収まったときに顔が来るであろう位置にはガラスの窓が貼られていた。
棺の中は薄ぼんやりと青色に光り、液体に満たされているようで気泡が浮かんでいるのが見える。
そして、
そんな棺の窓の中に、
私は見てしまった。
“人間の手”が内側から窓ガラスを叩いているのを。
小さな掌が窓の内側を何度か軽く叩く仕草をしているのが見えた。
手のひらはやがてピクリと震え、棺の奥へ霞んで消えた。霞み消えて行く直前、その手がぼろぼろと朽ちていくのを確かに見た。
「そう、これが現在の月の都を支えているもの、“蓬莱炉心”ですよ」
そんな老兎の言葉に、どうしようもなく全てが理解できて。全身がカッと燃え上がり。
私は激情にまかせて老兎の襟首を掴み上げて壁に背中を叩きつけた。
「ぐぎッ――?!」
「お前! お前ら! いつからだ?! お前達は
手首を捻る。ぎぃっ、と老兎が啼いて、両の手足が痙攣した。
足元がふらつく。目の前にノイズが走る。皮膚がピリピリと粟立つ。
なんて、なんという無法、悪夢! こいつらは、嫦娥様をあの機械の中で
物理的に、霊的に、魔術的に、その他あらゆる方法で機械の中に閉じこめられた嫦娥様の生命と身体を燃やし絞りつくし、エネルギーへと変えている!
「蓬莱炉心とはよく言った! ハ、永遠無限にその身を燃やし続けられるのだから! そんな、そんな非道が――――!」
さらに言葉を紡ごうとして、そこで初めて老兎の状態に意識が向いた。
老兎は死にかけていた。顔を蒼白にし、全身を痙攣させ、ひねり上げた襟首はミキミキと音を立てている。
「あ……」
思わず手を離すと、老兎は無様に床に転がった。くずおれ、嘔吐のような咳を繰り返しながらもこちらを見ながら不快に笑う。
「エ゛ッ、ゲボっ、ゲホっ…………ふぇっ、ふぇっ。勘弁して下さいまし依姫様。私の身体は大変脆くなっておりますゆえ」
「ご、ごめんなさい」
老兎を助け起こす。その身体に触れること自体が異常なくらいに不快だったが、何とかその感情は押さえ込んだ。
目の前に銀色のノイズがちらつく。不愉快だ。
「話してくれるわね? こんな常軌を逸した代物が存在する、理由を」
「はいはい、話しますとも。もっとも、私とて賢者様方から聞かされただけなのですがね」
老兎は山のように折り重なったパイプに腰を下ろすと、ぽつりぽつりと話し始めた。
「簡単なね、簡単な話なのですよ。蓬莱の薬を飲んだ嫦娥様を調べた賢者の一人が、思いついてしまっただけなのです。
“これは、無限に
そして、それは即座に実行に移されました。それがこの“蓬莱炉心”なのです。
嫦娥様は霊格も高いお方でしたから、生命と共に霊力を搾り出したときに生まれるエネルギーの量はそれはもう、桁違いだったと」
「なんて短慮、月の賢者が聞いて呆れる。そも、何でこんなモノにエネルギーを頼る必要があるの?
もはや穢にもよらずエネルギーを生成する術を私達は持っている。嫦娥様の生命を絞り尽くす必要が何処にある?」
「月の技術は地上より見れば夢のよう。しかし月にとっても夢のような技術と言うものは存在するのですよ?
この月の都の莫大すぎる必要エネルギーを賄い、穢を出さずに済ますだけのものは月の民にとっても夢のようなものではございませんか!
――――穢はそもそも生きる欲より生ずるもの。文明などという“快適に生きるためのもの”に必要なエネルギーを作るのに、それが生まれないなどどうしてありえましょうか?」
なるほど、道理ではある。地上の天人は悟りを開いて半久遠の存在となる(それでも、他者からの穢によっていずれ五衰が訪れる)が、彼らは平穏な心のまま自然とともに緩やかに生きるのがほとんどだ。
文明を発達させて世界を作り替える行為そのものが穢を生む可能性は、なくもない。それは自分達のための行為だから。
理屈としては通っている、しかし何故かたどり着くことのなかった発想…………考え方自体を矯正させられていた? いや、それもまた突飛か。
ああ、足元がふらつき縺れる。不愉快だ。
「新しい夢のエネルギーが完成したと視線を逸らし誤魔化して、この区画を閉鎖して……結局のところ何億年も月の文明を支えてきたのはこの“蓬莱炉心”なのですよ。
他のどんなエネルギー源を用いても、発達しきった月の文明を支えるには月の全てをエネルギープラントにしてもまだ足りません」
何もかもが誤魔化し、何もかもが虚構。その虚構を支えていたのがこの嫦娥様を人柱として動く不愉快な機械。
嫌になる。何もかもが嫌になる。私の信じていた月の全てはこのいびつな機械一つで根こそぎひっくり返されてしまった。
――嗚呼、月は地獄だ。
八意師は知っていたのだろうか? 知っていたのだろう。悩んでいたのだろう。苦しんでいたのだろう…………だから、月を見捨ててカグヤ様と行ってしまった。
八意師とて月では絶対的ではない。他の賢者達に反対され封じられ、嫦娥様を助けることは叶わなかったのだろう。
そんな絶望した八意師が地上に行って、蓬莱人であるカグヤ様と会って……嗚呼、逃げ出さない理由がない。月にカグヤ様を連れて来るなんて残酷を為せる人ではない。
「蓬莱の薬の服用が罪となるのも、単にこの事がバレては困る故。蓬莱人が増えてしまってはいずれ同じ結論に行き着くものも出ましょうからね。
今更嫦娥様を解き放っても賢者様方は破滅でごさいますし。ふぇっ、ふぇっ」
後悔していたのだろう。助けられなかったことを悔いていたのだろう。だから八意師は私達にこの事を知らせてくれた。
私達を信じてくれた。私達ならこの悪夢を終わらせられると信じてくれた。
その信頼に応えずして、何が八意××の弟子か! 何が月の使者か!
私は腰の刀を抜き放つ。切っ先をあの悍しい機械に向けて、意識を集中する。
「おや依姫様、“蓬莱炉心”を壊される御積りで?」
老兎がなにか話しかけてきている。無視。
全身がチクチクと粟立ち不快な痒みを感じる。無視。
「困りますねぇ。それを壊されては、月の都は滅びてしまいます」
「元々不相応な文明を後生大事に抱えていたのが間違いだったのよ。
嫦娥様を助けだして、今の文明が滅びてそれが何? もう一度やり直せばいいだけよ。今度はこんな悍しい方法でないやり方を。何千、何万、何億年を費やしてでも!」
意識の一部に空白を作り、神を降ろす準備を整える。八百万の神の怒りは目の前の“蓬莱炉心”なる悪意を尽く押し潰すに違いない。
“蓬莱炉心”の周辺には触れれば手応えが返ってきそうなほどの穢が渦巻いている。
恐らくは嫦娥様があの中で無限に死に続けているが故に死に抵抗する心が通常以上の穢を生み出しているのだろう。
あれを突破するには、同質の恐怖を支配する妖神、魔神、邪神の類を降ろすのがいいだろうか。
背後で老兎が笑っている。ケタケタと、クスクスと。
私は降ろす神を定め、意識を神に委ね――――。
「なんという愚か! アレを壊した月の都には、千年どころか百年のちも存在しないというのに!」
老兎の哄笑と叫びが、私の動作を停止させた。
この機械を破壊した場合、何らかの罠が作動すると言うのであれば、それは慎重に当たらなければならない。
老兎に背を向けたまま、聞く。
「どういう意味?」
――――聞いてはいけないと、身体の何処かで何かが警告している。
だけれども、私にはそれを聞くより他に方法はなく――――。
「私は昔、『月の使者』の一員であったのですよ。もっとも依姫様と個人的にお話したことは無かったと思いますが。
ああ、あの頃は他の兎とも変わらぬ姿、懐かしゅう、懐かしゅうございますねぇ」
驚きはなかった。見慣れたブレザーを着ている時点で予想は付いていた。
恐らくこの“蓬莱炉心”の見張りを長い長い年月携わり、穢に蝕まれ老いていったのだろう。
そう考えると、この老兎も哀れではある……。
「こっそりと結界破りの術など勉強しましてね、悪戯のつもりでこの区画に忍び込んだのが運の尽き。
コレを目の当たりにしてしまい、賢者様方にはバレてしまい、ここの見張りを命ぜられ、それから長きも長き五十年、老いさらばえて朽ち果てるのを待つのみの身でございます」
その台詞を、私は聞き違えたと思った。今、この老兎はなんと言った?
私は老兎に向き直る。
枯れ枝の如き手足、吐き気を催す皺くちゃの顔、地獄よりなお暗いその瞳。
まるで何億年も歳月を重ねたが如きその姿。
「五十年でございます。こうして老いることも死ぬこともある身になってみれば、なんとまあ長い月日でございました。
後十年もすればようやく死ねるでしょうな。思ったよりも長く生きました」
五十年、
「本来、寿命というのはこう言ったものでございます、依姫様。
穢と共にある嫦娥様を解き放つとはこう言った生物に月の民全てがなるということですよ? 月の民にこのような仕打ち、果たして耐えられるものか――」
目の前の老兎に、レイセンの姿が重なる。同じ服装なせいで否が応にも重なってしまう。
可愛らしくて、一生懸命で、優しく、無限の未来を持った私達の玉兎が、醜く老いさらばえ絶望と諦観のうちに腐り果てる姿を幻視してしまう。
それも、五十年なんていう瞬きのごとき時間でだ。
「穢を溢れぬよう押し留める術なんて、いくらでも……いくらでもあるわ。そんなことには、絶対、絶対に」
抵抗の言葉は我ながら虚しい。力が入らない。
老兎はこの世のものとは思えぬほどに歪みきった笑顔で、静かに私の胸元を指し示す。
「無駄ですよ。この雪崩が如き穢の前では抵抗など無駄の一言。
――――あなたの懐にある、そのお札のように、ですよ」
懐に手を突っ込んで、穢れ祓いの符を取り出す。
それはボロボロに朽ち果て塵となっていた。高濃度の穢の負荷に耐え切れず式が破損したのだと脳は理解し、しかしそれ以外の事実に気づいたことで私の意識は完全に凍りついていた。
符を取り出した私の手は汗でぐしゃぐしゃになり、それが乾くことで垢が浮いていた。
チクチクと皮膚が粟立つ感覚の正体を知った。
それに付随して、足の震えが疲労による筋肉の痙攣であると気づいた。
そして、目眩に頭を押さえると、私の銀色の髪が異様に伸びていることにようやく気がついた。
煩わしい視界のノイズの正体は、私の前髪だった。
新陳代謝が、存在していることそれ自体による疲労が、成長が私の身体を蝕んでいた。
…………私の身体に老化が始まっていた。
かくて私は穢に蠢く蟲の閻魔への告げ口により醜く朽ち果てその身は三途の川を渡り閻魔の恐ろしい判決により阿修羅道に渡り血で血を洗う争いの果て初めて信頼した者に狂気の笑みと共に首
を刎ねられ人間道へと転生するも無邪気な子供らの苛烈で地獄のような虐めを受けて列車へ飛び込み自ら死を選び畜生道に堕ち極小の海棲プランクトンとして生まれ知性無きまま漂い続け捕食
者に生きたまま無残に飲み干されその身は消化され完膚なきまでに死にその次には天道に登り天人と化すも喜びを一つも知る間もなく五衰来たりて赤子のまま死に餓鬼道に置いては物質的のみ
ならず心も飢えきり永遠無限に一つ欠けただけ絶望しつづけ挙句の果てに地獄道にてこの世に存在する全ての苦しみを一万年掛けて一万回休むことなく与えられ続けその後完全な無へと意識は
「――――――――!!」
私の喉から吐き出されたとは思えぬほど恐ろしく人外じみた音ならぬ絶叫。
肺の中の空気の全てを断末魔と同様の叫びと共に吐き出しながら私はその場から逃げ出した。
パイプに足を取られ転び、全身に擦り傷を作って、それには一切構わず全力で“蓬莱炉心”から逃げて逃げて逃げる。
行く手を阻むガラクタに霊弾を撃ち込み刃を振るい破壊して、その破片で無様に転げ回りながら逃げ続ける。
いくら走ってもあの老兎が背後で嘲っている気がして、益々私の意識は狂乱した。
◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇
それから何処をどう走ったのかは覚えていない。気がつけば自分の部屋に逃げ込んでいた。
部屋に飛び込むやいなや神降ろしを行い、全身を蝕み始めた穢を浄化する。
愛宕様の火を喚び着ていた服は全て灰も残さず焼き尽くす。
先程まで帯びていた刀も処分したかったがそうも行かない代物であるため、封印符をありったけ貼りつけて物置に放り込んだ。
その後自室の風呂に飛び込むと、蛇口をひねって火傷しそうなほど熱い湯をありったけ出し、皮膚が真っ赤に腫れあがるまで全身を擦り全身に何かがまとわりつくような感覚を引き剥がす。
全身を苛む痛みが今はとても有難い。
よく乾いた布で全身を清め、新しい服を取り出して着替え、髪を鋏で切りそろえた辺りでようやく落ち着いた。
これでもう私の身体にはあの場所の痕跡は残っていない。
窓の外を見れば外はすっかり暗くなっていた。
眼下には宝石を散りばめたが如き美しい夜景が地平線の向こうまで広がっている。
私は無言で窓を閉じ、カーテンを閉めた。あの夜景を生み出す根源たる炉心を知ってしまった以上、私はもう二度とその美しさを素直に受け取ることはできない。
星屑散る夜空にも似た美しさを持つ光景の全てを支えているのは、今もあの狭い棺の中で死に続けている嫦娥様だという事実がこの身を灼く。
部屋の明かりも全て消し、そのまま部屋の隅に座り込んだ。
何も考えない、考えてはいけない。考えてしまえば耐えられなくなる。
嗚呼、まるで石ころにでもなってしまったようだ。それでいい、考えてしまえば耐えられなくなる。
外で慌てたようなぱたぱたという足音がする。
部屋の戸が開き、誰かが部屋に飛び込んでくる。ゼイゼイと息を切らせながら、不安でいっぱいの顔をこちらに向けてくる。
「依姫様! その、さっき外で、こっち来るの見て、大丈夫ですか?!」
ああ、レイセンだ。しっかりしなくちゃあ駄目だ。
この子を不安がらせちゃいけない。この子の前で無様なところを見せるわけには行かない。
レイセンが目の前まで駆け寄ってきて、私の肩に触れる。
私の肩がカタカタと震えているのがバレてしまったのだろう。彼女は私の肩を掴んでこちらの顔を覗き込んだ。
不安でいっぱいの、今にも泣き出しそうな顔をして。ああ、そんな顔はさせたくない。答えろ、彼女に答えなければ。
「依姫様! 何かあったんですか?! 大丈夫ですか!」
“何があったのか”とレイセンが聞いてきたから。私はそれに答えようとしてしまった。考えて、しまった。
問いに答えるべく、あの場所で、あの“蓬莱炉心”の前で何があったのかを考えてしまう。
「――――?!」
レイセンが息を呑む声が聞こえる。驚いているのだろう。
それはそうだ。目の前の人間が突然泣き出したりしたら、それは誰だって驚く。
目の前が歪んで何が何だかわからない光景へと変じ、目の端からポロポロと涙が零れ落ちる。
身体の震えが際限なく大きくなって、湯を浴びたばかりなのに顔はぐしゃぐしゃになって、どうしようもなく寂しくなって。
最早自分を抑えきれなくなり、目の前のレイセンに縋りついた。
泣いた。声を上げてひたすらに泣いた。彼女の胸に顔を埋め、赤子のように大声で。
私はなんて弱いのだろう。私はなんて無様なのだろう。
あの時“蓬莱炉心”の前で、私は老兎の脅しを無視し、月の都の民全てに寿命という苦役を強いてでも嫦娥様を助ければ良かった。
あるいは、月の民が生きて行くためには仕方ないと諦め、嫦娥様を見捨てておけば良かった。
そういう風に、誰かのために私自らの意思で事を為していればこんなに惨めで居ずに済んだのだ。
私は、私の意思で決めてなんていない。私はただ逃げ出しただけだ。
それもただ決められなかったからなんかじゃない。ただ私が
嫦娥様と月の民の命運を肩に乗せていながら、ただ己の身の可愛さだけで判断を放り投げた。
だって今だって、嫦娥様を助けたいと思っている。ほっとするぬくもりを分けてくれているレイセンを失いたくないと思っている。
だけど、また私が“蓬莱炉心”の前に立ったなら、そんな思いはどちらも吹き飛んで、ただ己が老い朽ちていくことの恐怖に耐えられなくなる。
なんて卑怯。なんて堕落。月の守り人たる資格なんて私には一つもない。
しかし、世界は私に役目を投げ出すことすら許してくれはしない。
もし私がここで己の役割を投げ捨てれば、姉やレイセンが不審がる。何故そうなったのかを調べてしまう。
そして、あの悪夢の存在を知ってしまう! それだけは駄目だ。絶対に駄目だ。この上二人まで守れなかったら、私はもう存在すら許されない大悪人に成り果てる!
だから、私は今のまま、『月の使者』のまま、姉とレイセンがこの件に関わらぬように見張りながら、全てを胸の内に伏せ続けなければならない。
二人が心安らかに暮らすそのために、助けなければならぬ嫦娥様を放置して、何事もなかったかのように永遠無限に少し欠けた時間だけ生き続けなければならない。
なんて、なんていうことだろう。なんていう拷問だろう。それでもこれだけは投げ出すわけには行かなかった。
レイセンが、そっと私の頭をかき抱いてくれた。
その暖かさ、その優しさ。まるで母の胸の中にいるようで、すうっと意識が遠くなる。
ああ、でも、ひとつだけ教えてください。我が師、八意××。
貴方は私にどうして欲しかったのでしょう? 私は、どうすればよかったのでしょう?
・
・
・
・
・
・
・
「すいませーん。師匠、ちょっといいですか」
私はノックとその言葉の後、師・八意永琳の部屋のドアを開いた。
返事がないので留守かとも思ったが、何気なくドアノブを捻ったら、鍵は掛かっていなかった。
はたして、師匠はそこにいた。
仕事用のデスクの前に座り、外を見ている。
その表情はビックリするくらい悲しげで、酷く悲痛なものを内に秘めているのが分かる。
すっかり暗くなった夜空に浮かぶ満月を見つめて、師匠はそんな泣きたくなるような顔をしていた。
「…………あら、うどんげ。何か用?」
こちらの気配に気づいたのか、師匠はその表情をすっと消すと、普段通りの優しそうで、でもちょっと底の知れない表情に戻った。
とりあえず、あまり深入りしないほうがいいだろうとアタリをつけて、自分の用件を済ませることにする。
手にしたノートを開いて渡し、そこに書かれた分子式についていくつか突っ込んだ質問をする。
この式を新しい薬に応用できそうだと思ったのだが、どうにもある一点で行き詰まってしまう。
出来れば自分一人で解きたかったが、こうまで行き詰ってはしようがないと諦めて師匠に詰まった部分の答えを聞きに来たのである。
師匠はしばらくノートを眺め、ふむ、と小さく息を付くとノートを私に返してくれた。
「もう一歩というところね。ここまでの計算にも間違いは無し。
此処から先は気づきの勝負よ。私が教えたってあまり意味は無いでしょう。
うどんげ、自分で気づきなさい。そして自分で答えを出しなさい」
……つまり、教えてはくれないらしい。
とは言えここまでの手順に間違いはないと分かっただけでも収穫だろう。
私は師匠に礼を言うと、部屋を辞した。
部屋を出る直前、師匠の独り言が聞こえてきた。
多分、さっきみたいな表情で、月を見ながら言ったのではないかと思う。
「――――そう。自分で気づきなさい。そして…………どうするかを自分達で決めなさい。それは私には――――」
最後まで聞かずに、部屋を出てドアを閉めた。
なぜだか師匠が泣いてるように感じられて、いたたまれなくってしょうがなかったから。
ふと渡り廊下で月を見上げる。
遠目には美しい月も、近づいてしまえばおびただしい数のクレーターが穿たれた地獄の荒野のごとき世界。
しかしその裏にはこの幻想郷をも超える楽園たる月の都がある。
ほんの少しだけ、都とそこで一緒に居た人達が懐かしくなって。
しばらくの間、私はあの楽園に思いを馳せていた。
こういうのも怖いけどアリだと思います
老兎が良い感じの雰囲気を醸し出してた
神話の時代から生きてる神々にとって、50年ぽっちで死に至ることがどれほどの恐怖か
しかし真面目な依姫だとこれから罪悪感に苛まれるという残酷な状況に……
いっそぶっ壊してケガレハザード起こしちまった方が幸せなんでは
その場合老いから逃れるワクチンが蓬莱の薬と言うところが最大の皮肉でしょうか
なんでこんなの思いつくんだよ
そんな自分にはとても面白い作品でした、ありがとう。
おいしい話には裏があるように、楽園の裏には地獄があるのですね
恐がってる依姫がかわいいと思ったのは内緒
続編があるならめちゃくちゃ読みたい。
月の都はいづれ滅ぶでしょう――良くも、悪くも。
幻想郷にもきっと同じような闇が…
蓬莱人が穢れを振りまいてもそれに穢れて年老いる住人が居なくなるんだからね
そうなったらもう蓬莱炉心は交代制でOKという事に
色々と夢の広がるとても良いアイデアでした
アイデアが凄いですね。
“蓬莱炉心”って名前もセンスがいいなあ。
文章もとても好みでした。
嫦娥と輝夜が逆だったら…とか想像してしまった。自分の想像力が憎い。
それにしても、なんかstalkerを思い出しました。「炉心」の描写が、自分のモノリスのイメージに超似てたからか。
素晴らしい作品でした。とても面白かったです。
あと、『カペ』は『壁』の誤字でしょうか。違っていたらごめんなさい。
一見突拍子もなさそうな設定だけれども、何故か
この設定を完全に受け入れてしまっている自分がいる。
月の民に関する設定を巧みに利用した非常に上手い解釈ですね。
やはり、幻想郷にはこういう「無常観」がとても合うと思うのは私だけでしょうか?
我々地上の人間からすれば、ユートピアとディストピアの思想は表裏一体ですね
なんというかソイレントグリーン的な
依姫は敗北して、きっと永琳にも無理で、じゃあ誰がこの現実に勝てるんだよって話。
また一つ、宝物のようなSSを発見してしまった。
すっげぇ怖ぇけど。
老いることを常識と知っているこの身のありがたいことよ。
あれさね、ソイレントグリーン、他にも言ってる人いるけどそれを思い出す。
それとDEAD RISING 2とか。現状を維持するための自転車操業を止める方法を
発見するのは現実でも難しい。あ、日本の国債にも通ずるな。怖い。
ホラーでもあり、リアリズムでもあり、フィロソフィカルでもある。
寿命の長い月人からすると五十年は一日二日の感覚なんだろうな
ゆっくりと老いて死ぬのならともかく
急激に老いるなんて地上の住民である自分だって恐ろしく仕方ない
原発の方がマシだな
SF映画なんかにも登場する「無限のエネルギーを創る夢の装置」は、この作品の月の都でも夢の装置だったんですね。
嫦娥はそれ以上の地獄だろうが...
この話のような全体のための理不尽な犠牲は、どの集団でもどの国でも行われていて、それがないと回らなくて無理矢理辞めようとしたら、取り返しのつかない悲惨な事態になってしまうというのは割と調べればありふれています
そして、それを辞めさす人もいればそれを認め堂々とそれに加担するでしょう
しかし、多くの人は拒否しきることも肯定し通すことも出来ず、この依姫のようにどちらにもつかず、卑屈にも弱くも愚かにも正しく強く賢明に中途に苦悩しながら糾弾しながら思考停止しながら媚びながら中津に踏みとどまっているんじゃないですかね?
だから、これは月の高貴な将たる依姫が堕落し大人になるような話じゃないですかね?
助けなかった依姫はヒーローの座から惨めに転げ落ちましたが、同時にヒーローではなくなり大人になったとも考えられます
弱くも取り乱してしまいましたが、それはまだ高貴な将たる証でもあり、多分取り乱さない程強く大人になればさらに高貴たる将ですらなく、ただ将の身分である凡人に成り下ってたと思います
身分のある凡人と身分に相応しい高貴なる者のどちらが害悪でどちらが素晴らしいかは知りませんが
最も高貴なる一人が、全体のために犠牲にされ、犠牲にされながらもまだ高貴なる身分にされている月の都はやはり限りなくユートピアに近いんだと思います
知らない方が良い事を知ってしまった依姫はどうすればいいのか、本当に残酷で悲しいお話しでした
だとしたらその後の永琳に対する依姫の気持ちがすごく気になる
後、これって全員蓬莱の薬を飲めば解決しませんか?そういうわけにはいかないんでしょうけども。
パイプからトメハネといったギミック、背景を支えるディティールがよく考えられているのはもちろんの事、まず心情描写が素晴らしい。
恐怖それ自体の描写にも大変説得力があったのですが、序盤で依姫がレイセンをどれだけ大切に思っているかを示した後、レイセンの平穏を失わせたくないばかりに挫折へとつながる心情の流れが非常に自然で違和感のないものとなっています。
タイトルの時点でオチに想像がつく方もいらっしゃるでしょうが、それでも最後のページまで引っ張っていくのは純粋に筆力のなせる技でしょう。
紺珠伝が発売され、公式で月の都周りの設定が掘り下げられた今でも色あせていない、名作との評判にふさわしい作品でした。
ユークリッド幾何学といった地上の文明の用語が頻出しますが、依姫なら月の使者という立場からこれぐらい勉強していてもおかしくないですね。時間はたっぷりありますし。嫦娥のおかげで……