「私を恨むなら恨めばいい」
赤金色の影の中で、霊夢は叫んだ。喉も張り裂けんばかりに、空に向かって。
「呪うなら好きなだけ呪えばいい。でもね、勘違いしないでよ。あんた達が何処にも逝けなかったのは、私のせいじゃない」
風に吹かれた花が空へと巻き上げられて、吹雪となって舞い踊る。霊夢は聳え立つ無数の墓標を見渡して、毅然と告げる。
「だから、私は認めない。こんなものが救いだなんて、絶対に認めてやらない」
墓標達は何も答えなかった。ただ、春の名残を風に散らすばかりだった。
◆骸の花は天に昇らず
博麗霊夢が最初にそれを見たのは、ある夜の花見の宴でのことだった。
その日は夜気が肌寒く、境内に集まった参加者は皆、体を温める為にいつも以上に盃を重ねて賑々しく騒いでいた。すっかり出来上がった酔っ払い達が、下らない話でどっと沸き上がる。何も変わらない、いつも通りの宴の光景だった。
そんな喧騒の輪を抜け、霊夢は早々に酔い潰れて寝てしまった魔理沙と早苗を抱えて歩いていた。部屋に引っ張り上げてやるためだ。流石に凍死することはないだろうが、二日酔いついでに風邪でも引かれたらたまったものではない。もしそうなれば自分が面倒を見る羽目になるのが目に見えているからだ。そんな後の面倒を避けるために、彼女は今の面倒を引き受けざるを得なかったのである。
「ったく、なんだって私がこんな……」
二人を適当な部屋に放り込んだ霊夢は、酔いで赤らんだ頬を膨らませてぶつぶつとぼやく。それから気を取り直して宴席に戻ろうしたところに、背後から声が投げ掛けられた。
「あら、その二人はもうお休み?」
声の方を見やると、二人を放り込んだ部屋の障子が月明かりに照らされ、盃を手にした人影を映していた。誰かと思って開けてみれば、そこには白玉楼の亡霊、西行寺幽々子が縁側に座っていた。彼女も例に漏れず、既に相当飲んでいるのだろう。月光のように透き通った肌が、酒気を帯びて仄かな桜色に染まっていた。
「また随分と淋しい場所で飲んでるわね。境内で飲めばいいでしょうに」
霊夢の言う通り、幽々子が座っているのは神社の裏手に面した縁側で、灯籠や提灯のある境内とは違って月明かりの他に光はなく、桜にしてもまだ見頃のものは少ない、おおよそ花見には向かない場所である。そんな場所に一人でいるとは、よもや何かよからぬことを企んでいるのではないか。と、霊夢は微かに眉をひそめる。
「紫に誘われたのよ。まぁ、その紫は用事があるとかでもう帰ってしまったけれど。どうせ暇なくせににねぇ」
そんな疑念を察したのか、幽々子はくすくすと笑いながら言った。成る程よく見てみれば、彼女の脇には数本の酒瓶に加え、空の盃がもう一つ置かれている。
「あぁ、そう」
いつの間に来たのか知らないが、紫相手にそんなことを考えても無意味だろう。そう考えて、肩をすくめる。
「ちょうどいいわ。良かったら一緒に飲まない? どうせ貴方も一人でしょう?」
幽々子が傍らの盃に酒を注いで誘ってくる。霊夢は一寸頭を巡らせた後、「頂くわ」とその隣に腰を下ろした。既に自分もそれなりに酔いが回っていて境内まで戻るのは正直億劫だったし、幽々子の言う通り、先程まで一緒に飲んでいた二人も今は潰れて夢の中。断る理由などありはしない。注がれた酒を一息に飲み干し、ゆるゆると息を吐く。
「……で、あいつはなんでここを選んだわけ? どうせまた何か下らないことでも企んでいるんでしょう」
「さぁ?」
しかし、幽々子は小首を傾げてみせるばかりで。
「さぁ、って」
「紫は『そろそろだから』としか言わなかったもの」
「何が」
「知らないわ」
「……聞くだけ無駄だったみたいね」
煙に巻くつもりなのか、それとも本当に知らないのか。恐らくというかほぼ間違いなく前者だが、とにかくこの亡霊からはまともな返答は期待できないと悟って、ため息とともに眼前の桜を見上げた。眼前の桜はまだ成長中の若木であり、花も満開とは到底言えない様子だった。少なくとも、紫の言う『そろそろ』とやらはこの桜の見頃のことではなさそうだ。
「どうでもいいじゃない、紫のことなんて」
幽々子は笑って、自分の盃を突き出してきた。酌をしろ、ということだろう。霊夢は手近な徳利を取って酒を注ぐ。
そんなときにふと、あることに気が付いた。
「あんた、いつもそんなのつけてたっけ?」
幽々子の胸元が、見慣れない装飾品で飾られていたのだ。それは雫形に削られた小指の先程もある大粒の石を幾つか、銀の鎖で連ねた首飾りだった。石は月光を浴びる度に紫や桜色に輝く妖しげな石で、霊夢は何故か、その輝きに少し嫌悪感を覚えた。
「あぁ、これのこと? 紫にもらっているのよ、ずっと。綺麗でしょう?」
言って、幽々子は自慢気に首飾りを振ってみせる。擦れた銀鎖がさりさりと澄んだ音を立てた。その言い回しには若干の違和感を覚えたものの、聞かないでおくことにした。
何しろこの西行寺幽々子と言う亡霊は、紫よりは分かりやすい物言いをする方ではあるものの、その真意は紫に輪をかけて見えにくい。要するに、紫と同じかそれ以上に面倒な相手なのだ。そんな彼女がこういう物言いをするということは本人には説明する気が全く無いということを意味していて、つまりは自分で勝手に解釈するか聞き流す他にないのである。霊夢が選択したのは後者の方だった。酔いの回った頭で考える気にもなれないし、そうでなくとも付き合うのは馬鹿馬鹿しいからだ。
「どうかしら。どっちかって言うと気味の悪さの方が目立つわ。 どうせロクな物じゃないんだろうけど」
だから、質問の代わりに率直な感想を返しておく。実際、吸い込まれるように見入ってしまうその石に言い知れない不吉さを感じていた。あまり見ていたいものではない。
「……それに、似合ってるとも思えない」
魅入られてしまいそうなその首飾りから意思を込めて目を逸らし、否定する。内心、機嫌を悪くした彼女が立ち去るか、或いはそれを仕舞ってくれることに期待していた。
「あら、そう? 妖夢は綺麗だと言ってくれたのだけれど。……まぁ、あの娘は鈍いからねぇ」
しかし幽々子は気にした素振りさえ見せず、何食わぬ顔で盃を傾ける。それから再び桜を見上げて、独り言のように呟いた。
「きっと、綺麗な桜になるのでしょうね。羨ましいものだわ」
月が雲に覆われたのか、不意に辺りが暗くなる。灯籠や提灯のある境内とは違って月明かりだけが頼りの縁側は一瞬真っ暗になって、幽々子の表情は伺えない。ただ、その声音はどこか、先程までと違ってどこか無機質なものに聞こえた。
「ここの桜が綺麗に咲けるのは」
雲が風に流されたのだろう。月が再び顔を出し、闇が晴らされる。
「きっとここが、退屈な場所ではないからなのでしょうね」
月光に照らされる彼女の表情は、闇に包まれる前と変わらない。声音も先までと同じ、柔らかなものだった。
「桜なんて、何処でどう咲こうが似たようなもんでしょう。この木だって、ここにある他の桜と同じだわ」
「それでいいのよ。だからこそ、一緒に見に来たのだから」
「?」
怪訝に思い、首をかしげる。だったら、どうして羨む必要がある。冥界にはここよりも余程沢山の桜の木があるはずだし、見劣りするほどの差はないはずだ。まして、こんな咲きかけの桜など見飽きるほどにあるだろう。一体、幽々子と紫はこの桜に何を見ていると言うのか。
怪しい、と霊夢は身構える。どうにもこの迂遠な言い回しは好かない。煙に巻いて何か重要なことから遠ざけられているような気分になる。
「やっぱりあんた達、何か企んでるんじゃ……」
「おーおー、お前ら二人でなんだってこんなシケたところで飲んでるんだ? 私の宴会芸が見れないってのかー?」
「二人でしっぽりですか? しっぽりれすね? いけませんねぇいけません、非生産的れすよそれは! れも大丈夫! 我らが守矢神社の御祭神であらせられる神奈子様と諏訪子様を信仰すれば、その御神徳でたちまち子宝にー」
口をついた言葉を遮るように、背後から酒臭い声が飛んでくる。いつの間にか復活したらしい酔っぱらい二人が、口々に阿呆なことを喚いていた。
「あらあら、騒がしくなってきたわねぇ。それじゃあ私はそろそろおいとまするわ。妖夢には言わなくていいわよ」
「あ、ちょっと!」
まだ話が終わっていない。そう呼び止めようとしたが、魔理沙達に捕まってしまう。幽々子は既に縁側を離れ、咲きかけの桜の下に立っていた。
「――それじゃあ、見頃になったらまたお花見をしましょう」
微笑みながらそう言って、幽々子は姿を消してしまった。後には呆然とした様子で魔理沙達に引きずられる霊夢と、月光に舞う桜吹雪しか残らなかった。
◆
その夜から一月程が過ぎた。酔っていたこともあってか、霊夢は幽々子と話したことなどすっかり忘れ、いつものように境内を掃除していた。
空は快晴、絶好の花見日和である。当然今夜も宴会が開かれる予定だ。そろそろ散り始めた今年の桜の見納め、というのが今宵の宴の理由だった。この理由で宴会を開くのも今年に入ってもう三度目になるが、いよいよそれも最後だろう。と神社中に舞う桜吹雪を見ながら考えていた。
「今年の花見も今日で終わりかぁ」
石畳に落ちた花びらを掃き集めながら、やや名残惜しげにひとりごちる。春の博麗神社と言えば桜。桜と言えば春の博麗神社。そんな幻想郷随一の桜の名所であるここは、春になれば真っ先に花見が開かれる場所であり、同時に春の終わりに最後の花見が開かれる場所でもあった。つまり幻想郷における花見という行事は今日が最終日であり、そうなれば春の間に増えた参拝客も当然元通りということになる。それ故に、この時期になるといつも気が滅入ってしまう。そしていっそ葉桜の花見大会でも開いてやろうか、などと考えては、どうせ集まるわけがないと思い直すのもすっかり慣例になってしまっていた。
「……さて、ひとまずこんなもんか」
あれやこれやと考えながら続けていた境内の掃除に一区切りつけ、休憩することにする。掃き集めた桜の花びらは結構な量になっていたが、どうせ夕暮れになる頃にはまた積もっているだろう。その時にまたやればいい。箒を置き、縁側に腰かける。
夕方まで何をしよう。宴会の準備はしなくていい。酒器や食器の類いは出したままにしてあるし、料理もどうせいつも通り、宴会が始まれば紅魔館のメイド辺りが適当に見繕うことだろう。敷物の類も今から用意するには早すぎるから、夕方の掃除の後でいい。
「ごきげんよう。相変わらず暇そうね」
「あん? ……なんだ、あんた達か」
折角だから昼寝でもしようかと寝そべり、うとうとと微睡み始めた、まさにその時である。突然の来訪者の姿を見て、霊夢はあからさまに煩わしそうな顔をした。
「何の用? 宴会にはまだまだ早いわよ」
「ご挨拶ねぇ。人が折角参拝に来てあげたと言うのに」
「あんた達は妖怪でしょ。まぁいいか、素敵なお賽銭箱はあっちよ」
「あら、私は紫と違って妖怪じゃないわ。善良な亡霊よ」
「うっさい。大差無いわよ」
来客は紫と幽々子だった。どちらか片方だけでも面倒で厄介だと言うのによりにもよって二人揃ってやってくるわ、その上自分が微睡むのを見計らっていたかのようなタイミングで姿を現すだわで、余計に不機嫌になってしまった。
「で、こんな昼間から何しにきたの」
しかし、そんな二人がちゃんと賽銭を入れたのを見てほんの少しだけ機嫌を直して、あらためて聞く。ただ参拝しに来ただけではないことなど解っている。何の理由も無しにこの二人が、それも連れだって来るはずがないのだ。そして、そんなときは大抵、ろくな理由ではないことも。
「何って、そりゃあ」
二人は少し顔を見合わせてから、同時に口を開いた。
「お花摘み?」「お花見?」
「……紫、厠ならあっちよ」
「違うわよ」
半眼で神社の奥を指し示す霊夢をぴしゃりと切り捨て、紫は面倒くさそうに頭を掻いて言った。
「……幽々子、貴方言っておかなかったの?」
「おかしいわねぇ。ちゃんと言ったはずなのだけれど」
「何の話よ」
「忘れたの? お花見するって約束してたじゃない」
「あー? ……あぁ、言ってたかしらね、そんなこと。あんたが一方的に言ってただけだけど」
言われ、あの夜の事を思い出す。『見頃になったらまたお花見をしましょう』確かに、そんなようなことを言っていた気がする。それに、その時に聞きそびれた事があったような――
「……!」
そこまで思い出してから、ハッと幽々子に視線を向け、釘付けにされる。やはりあの夜と同じように彼女の胸元に収まった首飾りが、霊夢の視線を捉えていた。
「私が馬鹿だったかしらね、色々と。まぁいいか。じゃあそういう訳だから」
「待ちなさい」
二人の会話を聞いていた紫が呆れたように言い捨てて神社の裏へ向かおうとするのを視界の端に捉え、幽々子から強引に視線を剥がして呼び止める。
「私が立ち会うわ。何を企んでるのか知らないけど、ここで勝手なことはさせない」
「安心なさい。悪いようにはしないわ」
「それが信用できないのよ」
紫は振り返りもせずに行こうとする。霊夢はその背を睨みながらにじり寄ろうとするが、後ろから袖を引かれて止められてしまった。幽々子だった。扇子で口元を隠しているが、その淡紅色の瞳にはからかうような色を浮かべている。
「紫の花摘みなんかに付き合ってもつまらないわよ。それより、お茶を淹れてもらえないかしら? お花見に飲み物はかかせないでしょう?」
「自分で勝手に淹れなさいよ。茶葉なら台所の手前の棚に――」
「幽々子、一番奥の棚に秘蔵の玉露が入ってるわ。それと、その下に上等の羊羮もね」
「なっ」
被せるような紫の言葉に、思わずびくりと肩を震わせる。図星だった。
「まあ、それは良いことを聞いたわ。じゃあお言葉に甘えて」
「いい。私が淹れる。というかあんたは絶対に台所には入れない。入ったら即退治する」
「あら、残念」
少しも残念そうではない様子で幽々子は笑う。やられた。完全に二人のペースに飲まれている。見張りを断念した霊夢は苦虫を噛み潰したような顔で紫を睨み付けた後、台所の死守に走る。明日の幻想郷より今日の玉露と羊羮である。
「紫! 妙な真似をしたらあんたも即刻退治するからね!」
悔し紛れに投げつけた牽制の言葉にひらひらと手を振って、紫は神社の裏へと消えてしまった。
「粗茶ね」
「見りゃ分かるでしょ」
ぶっきらぼうな言葉と共に縁側に湯呑みと煎餅の入った器を置いて、幽々子の隣に座る。それから相変わらずにこにこと笑っている亡霊へと恨めしげな視線を送りながら、霊夢は聞こえよがしに溜め息を吐いた。
「まぁいいわ。頂きましょう」
「妥協するくらいなら頂かなくていいわよ」
冗談よ、と言って茶を啜る幽々子に然り気無く視線を送ると、どうしてもあの首飾りに目が行ってしまう。首飾りはあの夜と同じく、光を浴びるごとに紫や桜色の輝きを湛え、異様な気配を纏っていた。
……あの時は、それが何か分からなかった。けれど今は違う。これが何なのか、今はもう知っている。首飾りに目をやる度に言い知れない苛立ちを覚えながら、霊夢は記憶の糸を手繰っていた。
少し前のことだ。山の間欠泉センターの近くで鳥が次々に変死するという事件があり、調査の結果、鳥達が変死した原因は間欠泉とともに打ち上げられた鉱物の破片によるものだということが分かった。そしてその鉱物が、幽々子の首飾りの石に良く似ていたのだ。更に記憶を辿る。名前は確か、そう。
「あんた、それ」
「――貴方は、自分達が死んだらどこにいくのか知っている?」
と。幽々子の問いに、言葉が遮られる。唐突な質問だった。
「死んだらどこに行くか、だって? ……さぁね。少なくとも、私は地獄にすら行けないってさ。閻魔のお墨付きよ」
花の異変でのことだ。解決のために手当たり次第に倒して進んでいた際に出会った閻魔にそう言われた。それからは一応自分なりの努力をしているつもりだが、今日に至るまでその言葉を撤回して貰えた覚えはない。だから多分、今死んでも自分が何処かに行くことはないのだろう。そんな風に、考えていた。
「そう、何処にもいけないのね」
「それがどうかした?」
苛立ちを募らせ、不愉快さを隠そうともせずに問う。まただ。狙ったようなタイミングで話を遮られた。さっきからずっと、そうやって相手のペースで物事を進められるのが気に入らなかった。
「いいえ。ただ、やっぱりと思ってねぇ」
「……何が言いたいの」
顔をしかめる霊夢に、幽々子は相も変わらずおかしそうに笑いながら言った。
「貴方が、どこにいきたいのかという話よ」
「知らないわよ。そんなことはその時になってから考えたらいいじゃない。それより」
言いかけて、口をつぐむ。既に自分の中で答えは出ているが、確かめればきっと、余計なことまで知って後悔することになる。直感的にそう思ったのだ。
「これが何か、気になっているのね?」
しかし、言わずに飲み込んだその先を引き継ぐように、幽々子は首飾りの石を指差して言った。何を言おうとしていたのかを初めから知っていたような口ぶりだった。
「別に」
気に入らない。目の前の亡霊の一挙一動が、何もかも。霊夢は溜め込んでいた苛立ちを全て吐き出すようにして、言った。
「石桜。そのくらいは知ってるわ。悪趣味よね」
そう。確か、そんな名前の鉱物だった。桜の下に埋められた死体の成れの果て。肉体が朽ち果て、土に還った人間が尚も長い時間を掛けて土の中で純化された、結晶化した人の魂。事件の時に会った火車がそう言っていた。道理で異様な気配がするはずだった。人の魂を加工して装飾に使うなど、悪趣味と言わずに何と言うのか。
「その首飾りは壊させてもらうわ。思った通り、ろくでもなかった」
こんな物はあってはいけない。すぐにでも壊してしまうべきだ。そう決めた霊夢は袖から取り出した札を左手に握り、幽々子の鼻先に突きつける。
「それだけ?」
しかし、幽々子は微動だにもせず、そんな言葉を口にする。挑発や煽りではなく、本当に拍子抜けしたような声音だった。
「他に何があるの」
「……もう少し鋭いかと思っていたのだけれど。妖夢より少しはマシという程度なのね、貴方」
「その悪趣味な首飾りにまだ何かあるっての? あぁ、別に言わなくていいわよ。どうせ全部壊すから」
そう言いながらも、札を投げることができなかった。聞けばきっと後悔することになる。彼女の中の直感が、先ほどと同じように訴える。だから、早く壊してしまわなくてはいけない。頭ではそう思ってはいる。それなのに、手が動かない。
「貴方、私と紫が何をしにきたか覚えている?」
札を突きつけられたまま、幽々子が言った。焦りや敵意などの不純物が一切ない、いつもと何も変わらない柔らかな声だった。
「紫が花摘みで、あんたが花見でしょ。どっちも今やってるじゃない」
「いいえ、私はまだ花見なんてしていないわ。紫は花摘みの最中でしょうけど」
「だからなんだって言うの。そんなことは今はどうでも――」
また、言葉が続かなかった。霊夢はここにきてようやくこの亡霊の言わんとしていることを理解し、紫が何をしているか察したのだ。
「あぁ、そうか」
得心が行って、苦々しげに呟く。幽々子は無言のまま、薄い笑みを浮かべていた。
「つまり……つまり、それは全部、ここで出来たものだっていうのね」
『紫にもらっているのよ、ずっと』
あの夜のことを思い返す。あのとき、こいつは首飾りを指してそう言った。道理でそんな言い回しをしていたわけだ。何しろ、この首飾りは今なお飾り石を増やし続けている未完成の品なのだから。なんて腹立たしいのだろう。自分の目と鼻の先でこんなふざけたことが行われていることも、それに気が付かなかった自分も、実に腹立たしい。
「それを紫が掘り出して、あんたの首飾りにしていたと。そういう訳なのね」
「えぇ、そうよ」
呆気ないほど簡単に肯定され、ますます悪趣味な代物だと霊夢は鼻白んだ。だが、まだ分からないことがある。
「なんで、そんなものを作ったの」
博麗神社では葬式は行われない。少なくとも霊夢はしたことがないし、仮にやったとしても里の人間は共同墓地に、それ以外は無縁塚に埋葬される。少なくとも、わざわざ神社に埋葬されることはないはずだ。ということはつまり、恐らくはこの二人が――否、紫がこの神社に死体を埋めたということであって、そして、その死体と言うのは、要するに。
「分からない? いいえ、そんな筈はないわ。貴方ももう気がついているのでしょう?」
まるで、何でもないことのように。しかしそれまで浮かべていた笑み消して、亡霊は言った。
「だって、貴方もいつかこの中の一つになるのだから」
「……馬鹿馬鹿しい」
付き合いきれないとばかりに立ち上がる。そして終ぞ投げることのできなかった札を袖に納め、今度は近くに置いていた大幣を手に取った。札を投げられないなら、直接叩き壊してしまえばいい。そう考えたのだ。ずっと札を握りしめていた手は、少しだけ汗ばんでいた。
「もう沢山よ。私はそんなものにはならない。なるわけがない。だって、たった今からそれを壊してしまうんだもの。あんたも紫も、二度とそんなものを作ろうだなんて思えなくなるくらい徹底的に退治してやるわ」
「いいえ、なるのよ。いつかこうして、貴方も桜の一つになるの。羨ましいことに。だって、貴方も何処にも逝けないのだから」
「それはあんたが決めることじゃない。私は桜の下になんて埋まらない」
苛立ちすぎて気分が悪い。耳の奥でチリチリとした焦燥が音を立てている。これ以上自分の仮説を肯定されてはいけない。それなのに、どうしても手が動かない。だから、壊す代わりに言葉を紡ぐ。直感が危険だと訴えかける何かを少しでも遠ざけるために。けれど、それは無意味な足掻きだった。
「ねぇ、よく考えてみて。これは悪いことではないのよ。紫も言っていたでしょう、悪いようにはしないと」
幼子をあやすような声音で、幽々子は言った。
「これはね、霊夢。何処にも逝くことができなかった博麗の巫女 なのよ」
汗に手が滑り、大幣を取り落とす。しかし構わず、そのまま幽々子めがけて左手を伸ばした。しかし、首飾りを引き千切るために伸ばした筈の手は、亡霊の白くか細い首を掴んだだけだった。
「……もう沢山だって、言ったわ。さっさとそれを寄越しなさい」
隙間風のように掠れた声で、霊夢は言った。苛立ちの正体とはつまり、そういうことなのだ。彼女は無意識の内に、その首飾りに己の末路を見ていた。だから、これほどまでの嫌悪感を覚えたのだ。
「やぁよ。これは私の桜。貴方なんかにあげられないわ」
「ならその首ごと置いて消えなさい」
指が白くなるほどに強くその首を絞め、底冷えするような声とともにその顔を睨む。しかし幽々子は顔色一つ変えずに平然としていた。当然だ、彼女は亡霊、元より息などしている筈もない。いくら強く首を絞めつけたところで、脅しにさえなりはしない。それでも、手に力を込め続ける。言葉通り、首を捻じ切るつもりでさえあった。力を込めすぎた手が、徐々に痺れてくる。
「駄目よ、それではただ貴方の手を痛めてしまうだけだわ。私を縊ろうというのなら、せめて両手を使わないと。横着は得にならないわよ?」
「うるさい」
「それにね、霊夢。貴方はもっとよく考えてから私を殺すべきだわ」
「うるさい。死人の癖に口を開くな」
抵抗する素振りすら見せずに、亡霊はくすくすと笑って喋り続ける。その淡紅色の瞳は楽しげな色で染まっていた。分かっている。無駄なのだ。今の自分の行いは、何もかも。そのことをこの亡霊は誰よりも理解している。だからこそ、気に入らない。
「博麗の巫女 の中にはね、よく居るのよ。三途の川さえ渡ることが出来ずに、死して尚何処にも逝けないという者が。でも、折角ちゃんと役目を果たして死んだというのに、受ける仕打ちがそれではあんまりでしょう? だから、私がこうして連れて逝くのよ」
「閉じ込めているの間違いでしょう。それなら冥界に運んでから石桜を砕いてしまえばいい。わざわざそんな悪趣味な飾り物にする理由はないわ」
石桜を砕けば、中の魂は昇天する。霊夢はそれを知っている。他ならぬ自分が砕いたときにそうなるのを見ていたのだ。幽々子の言葉は欺瞞にすぎない。そう判断して痺れる手にまた力を込め、空いた手で先程取り落とした大幣を拾った。
「ああもう、馬鹿ね。それでは留まれないのよ。確かに石桜を砕けば中の魂は天へと昇るわ。でもそれは見かけだけ。考えてもみなさいな。地獄にさえ逝けないような無価値な魂が、一体どうして天に昇れるというの?」
「……」
僅かに緩んだ手が、痺れに囚われて力を失ってしまう。ともすれば軽く手折ることさえできそうな程にか細い首へと掛けられていた手は、何一つ奪うこともないままにだらりと垂れ下がった。きつく力を込められていた指先が、その行いを咎めるように痛みを訴えている。
「だから、ね? 貴方もいずれ桜になるの。そして、私があの世に連れて逝くの」
くずおれるように、霊夢は再び縁側に座り込んだ。気付けば、がくがくと膝が笑っていた。
幽々子の言葉を頭の中で反芻する。つまり、これは言わば、救いなのだ。こうすることで、惑う事しか出来ない魂に居場所を与えて救うのだと。だからこの首飾りを壊してしまえば、石桜となった魂は永遠に救われなくなってしまうのだと。暗に、幽々子はそう言っているのだ。
「私にはね、あなたたちがとても羨ましく思えるのよ」
幽々子の手がするりと伸びて、霊夢の痺れた手を握った。亡霊の柔らかくひやりとした手の感触が、痛む指を慰める。
「あなたたちは何処にも逝くことはできない。けれど、花を咲かせることができる。桜となって生きた証を残すことができる。それはとても綺麗な死に方だとは思わない?」
誘うようなその声は、身の毛がよだつほどに破滅的だった。
「……石桜になって、あんたの首を飾るのが綺麗な死に方だって? 馬鹿にするのも大概にしなさい」
しかし、その手と声を振り払って否定する。形はどうあれ、浄土の住人として冥界に住まう。確かに、それは救いなのかもしれない。間違ってはいないことなのかもしれない。でも、正しいことだとは思えなかった。
「そんなの、これ以上ないくらい惨めな死に方だわ。何も残らない方がまだマシよ」
「なら、貴方は身も魂 も桜になってしまいたいの? ……嗚呼、それはそれで素敵かもしれないわね」
霊夢の亡骸を喰らって咲き誇る地上の桜と、砕け散り、桜吹雪となったその魂を想像したのだろうか。幽々子はうっとりと、陶酔するように言った。
「貴方は無限に自分の死に方を選ぶことが出来る。本当に素晴らしいことよ。ねぇ、教えて。貴方はどんな風に死んで、どこに逝きたいの?」
焦がれるようにそう言って、幽々子は覗き込むように顔を近付けてくる。目が合い、巫女は亡霊の淡紅色の瞳が、何も映していないことに気が付いた。映る筈の自分の影さえ、そこには見出だせなかった。恐怖は感じない。ただ、ひたすらに虚ろで、底知れなかった。
「少なくとも、あんたが羨むような愉快な死に方は絶対にしてやらないわ。何処に逝くのかも、死んでから自分で考える。あんた達の世話にはならない」
首飾りを壊すなら、今しかない。意を決して、霊夢はその首筋に大幣を押し当てる。今度こそ、破壊する。そして、この死に魅入られた悪辣な亡霊も調伏する。最後に今夜の宴会で全部忘れて、お終い。それだけだ。躊躇いも悩みも必要ない。
「嗚呼、駄目よ。死を粗末にするなんて。一度きりしか無いと言うのに、それではあまりに勿体無いわ」
「興味がないのよ。そんな下らないことには。さぁ、観念してそいつを寄越しなさい。これで最後よ」
「酷いわ。貴方はこんなにも恵まれているのに、みすみす捨ててしまうなんて。……でも、そうね。それなら――」
巫女の言葉など聞かず、亡霊は大仰に顔を覆って嘆いてみせる。そして、
「――それなら。貴方の死を、私にちょうだい?」
ふっと、手を延ばし。霊夢の胸に、縋るように宛がった。
ぞわぞわと全身が粟立っていく感覚が襲ってくる。ただ胸に手を当てられているだけだと言うのに、身動きがとれなかった。
「桜にはなりたくないけれど、死後に逝くあてもないのでしょう? それなら、今ここで私が連れて逝ってあげる。約束するわ。きっと、素晴らしく退屈よ」
大幣を首に当てられたまま、幽々子は空恐ろしくなるほどに美しく、そして虚ろに微笑んだ。霊夢は何も感じなかった。末期の甘やかな痺れが全身を満たし、恐怖の情すら奪い去っていた。
「さぁ、目を閉じて。平気よ。苦しめたりはしないもの。貴方の死を貰うのに、そんなのは不公平でしょう?」
力が抜けて、重くなった瞼が視界を狭めていく。底無しの沼に嵌まるように、ずぶずぶと意識が沈んでいく。
「いいわ。とても素敵よ。これでやっと、私も――」
「駄目よ」
ぴしり、と酷く明瞭な音がして。あ、という声とともに胸元を這っていた手が引き剥される。力が戻ってきて、瞼が軽くなる。霊夢は目を開いた。
「まったく、勝手なことをして。幽々子、あまり私を困らせないで頂戴」
目に映ったのは紫だった。右手に閉じた扇子を持ち、左手には大きな紫色の鉱石を抱えている。
呆けたように座り込んでいた霊夢は、大幣で左手を軽く叩いて確かめる。まだうっすらと赤い指から疼痛が走った。どうやら、すんでの所で死に損なったらしい。
「もう、折角良いところだったのに。紫ったら、空気を読まないのね」
「この子は貴方の物ではないの。だから、駄目」
「これからそうなるのなら、駄目じゃないでしょう?」
「駄目。いくら幽々子でも、そのお願いは聞けないわ。絶対にね」
「むー」
悪戯を咎められた子供のようにむくれる幽々子の頭を、紫が扇子でぽんぽんと叩いて諭す。幽々子は未練がましそうに霊夢を見つめていたが、やがて諦めたように立ち上がった。
「さぁ、それを渡して頂戴。つけっぱなしじゃ新しいのが付けられないでしょう?」
「はいはい。ああもう、折角のお花見が台無しだわ」
「花見の席で花を手折ろうとする者は、いつだって嫌な顔をされるものよ」
「紫は年中嫌な顔をされてるくせに」
「うるさい」
紫の手に首飾りが渡る様を、霊夢は何もせずに見送った。動く気力など、もう残ってはいなかった。
「さて、用事も済んだことだし。そろそろおいとまするとしましょうか」
「あら、この後宴会があるのでしょう? このまま居てもいいじゃない」
「いいから。お花見なら私か貴方の家ででもやればいいでしょう。ほら、さっさと入って。……それじゃあ、霊夢。お邪魔したわね」
「待ちなさいよ」
幽々子を追い立てるようにしてスキマの中に放り込んだ紫が振り返る。気付けば、辺りはもう夕暮れ時を迎えていた。
「何かしら?」
「何かしら、じゃないわ。どうせ全部分かってるんでしょう」
「幽々子をやっつけたいならまた今度にして頂戴。それに、貴方もあの子を煽りすぎよ」
「そんなことはどうだっていいのよ」
はぐらかすな。そんな意思を込めて睨むと、紫は困ったように横目で桜を見ていたが、やがて諦めて口を開いた。
「……あの子がこれを持つことが、そんなに気に入らない?」
そうだ。自分が殺されそうになったことも、退治もさせないまま逃がすように幽々子を追い返したことも、どうでもいい。用があるのは最初からこの首飾りだけだ。こんなものをあの悪辣な亡霊が持ち続けるなど、許せる筈がない。
「当たり前でしょう。どんな理由があっても、これは冒涜よ。気に入るわけ無いじゃない」
「本当にそう思っているの? ただ貴方が壊したいだけなんじゃなくて?」
「そんなこと、」
あるわけがない。そう言おうとして、言葉が詰まってしまう。確かにこの首飾りは魂への冒涜だ。そう言いきれる。けれど、だからと言ってそれを破壊することが正しいと言えるだけの理屈を、霊夢は持ち合わせていなかった。
「……紫。それを最初に作ろうなんて言い出したのは、誰」
だから、確かめる。その理由を探すために。或いは、私は正しい、という言い訳を作るために。その心を見透かしたように紫は一瞬目を細め、言った。
「幽々子よ」
「それなら――」
「でも、それを受け入れたのはこの子達。これは強制されたものではない」
紫の手の中の首飾りが、夕焼けを浴びて桜色に輝く。彼女の言葉を肯定するように。
「何処へも逝けないことを選ぶよりも、何処かで安らぐ事を選んだのは他でもない、この子達なのよ、霊夢。だからこれは、貴方が口を挟めるようなことではないの」
「それでも」
認められない。こんなものが救いだなどと、どうして認めてやれるものか。もっとあるはずだ。もっと何かが。もっと、ちゃんと納得できるような救われ方が。本当にこんな末路しかあり得ないというのなら、博麗の巫女 には、あまりに報いが無さすぎるではないか。
「こうなりたくないと思うのは、貴方の勝手よ。そして、そう思うのなら勝手に努力なさい。死というものは貴方次第で姿を変えるわ。巫女が全て同じ末路を迎えてきた訳ではないように」
傾いた陽が逆光となって、その表情は窺えない。紫の姿をした影と、石が放つ桜色の輝きしか霊夢の目には映らなかった。
「あんたは」
よろめく足で影に詰め寄りながら、霊夢は言った。
「あんたはどうなのよ。これが本当に、博麗の巫女 への救いだって、あんたもそう思ってるの?」
「それが救いかどうかを考えていいのは、救われる本人だけなのよ。だから、貴方にも、私にも、そしてもちろん、幽々子にも。そんなことを考える権利はないの」
「私は救いだなんて思わない。石に閉じ込められて永遠を過ごすことが救いだなんて、ふざけてる」
「無駄よ」
影は感情の無い、機械のような声で言った。諭すでも叱るでもない、ただ事実を告げるだけの声だ。
「無駄なのよ、霊夢。こんな話をすること自体が、最初から。……貴方も幽々子も、少し無い物ねだりが過ぎる」
影が指を振るい、虚空が再び昏い顎門 を開いた。影が、その向こうへと消えていく。
「さようなら」
既に半分ほど姿を消しながら、影は言った。
「少し、忘れ物をしていくわ。次のお花見の頃に取りに来るから、預かっていて頂戴。……でも、そうね。季節が廻る頃には、そんなことはもう忘れてしまっているかもしれないけれど」
虚空が顎門を閉じて、影が消える。ふと背後に気配を感じて振り返ると、紫色の鉱石と桜色の石を連ねた銀鎖の首飾りが見捨てられたように縁側に置かれていた。
霊夢はそれらを手にとって、神社の裏へと回った。まだ黄昏時になったばかりだというのにそこは暗い影に満ちている。例の桜の若木も影に染まり、心なしか恨めしそうに霊夢を見下ろしていた。その根本には掘り返したような小さな跡があった。多分、紫がこの木の下から石桜を取り出したと見て間違いないのだろう。見頃とはそういう意味だったのだ。その土の上に石塊と首飾りを置く。不意に強い風が吹いて、木々が度し難い暴虐を犯そうとする彼女を非難するようにざわめいた。霊夢は構わずに一つ深呼吸をし、心を静める。
そして、大幣を振り上げて、
『それが救いかどうかを考えていいのは、救われる本人だけなのよ』
頭に過る言葉を。迷いを。何もかもを振り払うように、眼前の亡骸へと叩きつけた。
打ち据える。銀鎖の首飾りを、石の桜と成り果てた亡骸を。何度も、何度も、打ち据える。大幣が振り下ろされる度に玻璃の砕けるような音を立てて石桜がひび割れ、銀鎖が拉げて地面に散った。それでも、霊夢は手を止めない。他には誰一人いない黄昏時の神社の裏で、一心に大幣を振るい続けた。木々が悲鳴のように軋んだ音でざわめくが、それさえも聞こうとはしなかった。
涙はない。
怒りもない。
もとより喜びなどあるはずもない。
ただただ無心に、破壊する。
世界さえも置き去りにして、幾度となく大幣を振るい続ける。全て砕けてしまえとばかりに、骸の花へと力任せに叩きつける。
そして、ついに。
パン、という花火のような音とともに石桜が弾け、四散する。その衝撃に押され、霊夢は尻餅をついた。
桜色の亡骸から解き放たれた不定形な湯気のようなものが、スカートの土を払いながら立ち上がる巫女を恨めしげに取り囲む。しかし、それもやがては戸惑うような動きで天へと昇り、どこへともなく霧散した。
「私を恨むなら恨めばいい」
屋根の向こうから僅かに差し込む赤金色の光に照らされながら、霊夢は叫んだ。喉も張り裂けんばかりに、空に向かって。
「私を呪うなら好きなだけ呪えばいい。でもね、勘違いしないでよ。あんた達が何処にも逝けなかったのは、私のせいじゃない」
ひときわ強い風が吹いて、地面に散った欠片が空へと巻き上げられる。砕けた骸は花となって空を舞い、桜吹雪の中へと融けるように消えていった。何もかもが桜となって消えていく中で、霊夢は聳え立つ無数の墓標を見渡し、毅然と告げた。
「だから、私は認めない。こんなものが救いだなんて、絶対に認めてやらない」
亡霊の淡紅色の瞳を思い出す。何も映していなかったあの目は、己の為に死を求める目だ。報われない魂を救おうだなどというものでは決してない。だから、あれは救いなんかじゃない。
彼女の叫びに、墓標達は何も答えなかった。ただ、春の名残を風に散らすばかりだった。
◆
「え、百薬枡を? どうしたの、藪から棒に。どこか悪いの? 頭?」
「うるさいわね、なんでもいいからちょっと貸してよ。どこぞの魔理沙じゃあるまいし、死ぬまで借りたりしないから」
「いやでも、まだ飲みかけだし」
「いいから」
夜。今年最後の花見も盛況だった。宴の参加者は皆、夏に向かい始めた暖かな空気で渇いた喉を潤すために、いつも以上に盃を重ねて賑々しく騒いでいた。
そんな喧騒の中、霊夢は宴に参加していた茨木華扇の枡を強引に奪い、その中身を自分の盃に移していた。
「ちょっと、それは人間が飲むには流石に強すぎるって」
「ありがと。ほら、返すわ」
「ああもう、どうなっても責任とらないからね!」
あわあわとしている華扇を尻目に、神社の屋根へと飛ぶ。強くて結構。その為にわざわざせしめたのだから。
誰かが宴会芸でも披露したのか、眼下の境内からどっと声が沸いた。何も変わりはしない。当然だ。この神社に訪れたささやかな変化を知っているのは自分と、ここにはいないあの二人と、そして咲き誇るこの墓標達の他にはいないのだから。
溢してしまわないように慎重に運んだ盃を見る。月を映す澄んだ酒には、いつの間に紛れ込んだか、桜の花びらが浮いていた。それが石桜の欠片でないことを確かめてから、桜ごと盃を呷る。熱い焔のような酒が、喉を下っていった。
仙人の枡に注がれた酒は、百薬となる代わりに飲んだものを鬼に変えてしまうという。だったら、今の自分にとってこれ上無く似合いの酒だと霊夢は笑った。
自分は先人達の安息を身勝手な理由で奪い、破壊し、否定した。体裁を繕えるだけの大義すらなく、思い通りにいかないと駄々を捏ねる子供のように。ただ自分が認められないというだけの理由で、だ。それはきっと博麗の巫女として許されることのない、悪いことなのだろう。それは分かっている。でも、あれは博麗の巫女としてではなく、博麗霊夢という存在として行ったこと。だからあれは、正しい行いでもある筈だ。例え博麗の巫女として許されない暴虐だったとしても、博麗霊夢としては断じて間違った行為などではなかった。それだけは、胸を張って言い切れる。
けれど結局の所、博麗霊夢という存在は博麗の巫女という役割とは不可分で、つまりは是非など初めから問えるようなものではないのかもしれない。
そしてもし、そうだとするならば。今夜だけは鬼になってしまおうと霊夢は思った。“博麗の巫女”でも“博麗霊夢”でもない、一夜限りの鬼と成り果て、去り行く春に全てを忘れてしまおう。逃げる為ではなく、向き合うために。
半分ほど飲んだところで、霊夢は屋根の上で盛大に噎せ返る。流れた涙を拭い、春と共に散りゆく墓標達を見下ろした。墓標は何も語らない。そこにはもう何も眠っていないのだから。彼女を咎めるものも、彼女が許しを乞えるものも、もう何処にも居はしない。
盃の残りを飲み干して、もう一度派手に噎せた。飲み下して尚灼熱のように喉を焼き続けるその酒は、幽かに苦い味がした。
(了)
赤金色の影の中で、霊夢は叫んだ。喉も張り裂けんばかりに、空に向かって。
「呪うなら好きなだけ呪えばいい。でもね、勘違いしないでよ。あんた達が何処にも逝けなかったのは、私のせいじゃない」
風に吹かれた花が空へと巻き上げられて、吹雪となって舞い踊る。霊夢は聳え立つ無数の墓標を見渡して、毅然と告げる。
「だから、私は認めない。こんなものが救いだなんて、絶対に認めてやらない」
墓標達は何も答えなかった。ただ、春の名残を風に散らすばかりだった。
◆骸の花は天に昇らず
博麗霊夢が最初にそれを見たのは、ある夜の花見の宴でのことだった。
その日は夜気が肌寒く、境内に集まった参加者は皆、体を温める為にいつも以上に盃を重ねて賑々しく騒いでいた。すっかり出来上がった酔っ払い達が、下らない話でどっと沸き上がる。何も変わらない、いつも通りの宴の光景だった。
そんな喧騒の輪を抜け、霊夢は早々に酔い潰れて寝てしまった魔理沙と早苗を抱えて歩いていた。部屋に引っ張り上げてやるためだ。流石に凍死することはないだろうが、二日酔いついでに風邪でも引かれたらたまったものではない。もしそうなれば自分が面倒を見る羽目になるのが目に見えているからだ。そんな後の面倒を避けるために、彼女は今の面倒を引き受けざるを得なかったのである。
「ったく、なんだって私がこんな……」
二人を適当な部屋に放り込んだ霊夢は、酔いで赤らんだ頬を膨らませてぶつぶつとぼやく。それから気を取り直して宴席に戻ろうしたところに、背後から声が投げ掛けられた。
「あら、その二人はもうお休み?」
声の方を見やると、二人を放り込んだ部屋の障子が月明かりに照らされ、盃を手にした人影を映していた。誰かと思って開けてみれば、そこには白玉楼の亡霊、西行寺幽々子が縁側に座っていた。彼女も例に漏れず、既に相当飲んでいるのだろう。月光のように透き通った肌が、酒気を帯びて仄かな桜色に染まっていた。
「また随分と淋しい場所で飲んでるわね。境内で飲めばいいでしょうに」
霊夢の言う通り、幽々子が座っているのは神社の裏手に面した縁側で、灯籠や提灯のある境内とは違って月明かりの他に光はなく、桜にしてもまだ見頃のものは少ない、おおよそ花見には向かない場所である。そんな場所に一人でいるとは、よもや何かよからぬことを企んでいるのではないか。と、霊夢は微かに眉をひそめる。
「紫に誘われたのよ。まぁ、その紫は用事があるとかでもう帰ってしまったけれど。どうせ暇なくせににねぇ」
そんな疑念を察したのか、幽々子はくすくすと笑いながら言った。成る程よく見てみれば、彼女の脇には数本の酒瓶に加え、空の盃がもう一つ置かれている。
「あぁ、そう」
いつの間に来たのか知らないが、紫相手にそんなことを考えても無意味だろう。そう考えて、肩をすくめる。
「ちょうどいいわ。良かったら一緒に飲まない? どうせ貴方も一人でしょう?」
幽々子が傍らの盃に酒を注いで誘ってくる。霊夢は一寸頭を巡らせた後、「頂くわ」とその隣に腰を下ろした。既に自分もそれなりに酔いが回っていて境内まで戻るのは正直億劫だったし、幽々子の言う通り、先程まで一緒に飲んでいた二人も今は潰れて夢の中。断る理由などありはしない。注がれた酒を一息に飲み干し、ゆるゆると息を吐く。
「……で、あいつはなんでここを選んだわけ? どうせまた何か下らないことでも企んでいるんでしょう」
「さぁ?」
しかし、幽々子は小首を傾げてみせるばかりで。
「さぁ、って」
「紫は『そろそろだから』としか言わなかったもの」
「何が」
「知らないわ」
「……聞くだけ無駄だったみたいね」
煙に巻くつもりなのか、それとも本当に知らないのか。恐らくというかほぼ間違いなく前者だが、とにかくこの亡霊からはまともな返答は期待できないと悟って、ため息とともに眼前の桜を見上げた。眼前の桜はまだ成長中の若木であり、花も満開とは到底言えない様子だった。少なくとも、紫の言う『そろそろ』とやらはこの桜の見頃のことではなさそうだ。
「どうでもいいじゃない、紫のことなんて」
幽々子は笑って、自分の盃を突き出してきた。酌をしろ、ということだろう。霊夢は手近な徳利を取って酒を注ぐ。
そんなときにふと、あることに気が付いた。
「あんた、いつもそんなのつけてたっけ?」
幽々子の胸元が、見慣れない装飾品で飾られていたのだ。それは雫形に削られた小指の先程もある大粒の石を幾つか、銀の鎖で連ねた首飾りだった。石は月光を浴びる度に紫や桜色に輝く妖しげな石で、霊夢は何故か、その輝きに少し嫌悪感を覚えた。
「あぁ、これのこと? 紫にもらっているのよ、ずっと。綺麗でしょう?」
言って、幽々子は自慢気に首飾りを振ってみせる。擦れた銀鎖がさりさりと澄んだ音を立てた。その言い回しには若干の違和感を覚えたものの、聞かないでおくことにした。
何しろこの西行寺幽々子と言う亡霊は、紫よりは分かりやすい物言いをする方ではあるものの、その真意は紫に輪をかけて見えにくい。要するに、紫と同じかそれ以上に面倒な相手なのだ。そんな彼女がこういう物言いをするということは本人には説明する気が全く無いということを意味していて、つまりは自分で勝手に解釈するか聞き流す他にないのである。霊夢が選択したのは後者の方だった。酔いの回った頭で考える気にもなれないし、そうでなくとも付き合うのは馬鹿馬鹿しいからだ。
「どうかしら。どっちかって言うと気味の悪さの方が目立つわ。 どうせロクな物じゃないんだろうけど」
だから、質問の代わりに率直な感想を返しておく。実際、吸い込まれるように見入ってしまうその石に言い知れない不吉さを感じていた。あまり見ていたいものではない。
「……それに、似合ってるとも思えない」
魅入られてしまいそうなその首飾りから意思を込めて目を逸らし、否定する。内心、機嫌を悪くした彼女が立ち去るか、或いはそれを仕舞ってくれることに期待していた。
「あら、そう? 妖夢は綺麗だと言ってくれたのだけれど。……まぁ、あの娘は鈍いからねぇ」
しかし幽々子は気にした素振りさえ見せず、何食わぬ顔で盃を傾ける。それから再び桜を見上げて、独り言のように呟いた。
「きっと、綺麗な桜になるのでしょうね。羨ましいものだわ」
月が雲に覆われたのか、不意に辺りが暗くなる。灯籠や提灯のある境内とは違って月明かりだけが頼りの縁側は一瞬真っ暗になって、幽々子の表情は伺えない。ただ、その声音はどこか、先程までと違ってどこか無機質なものに聞こえた。
「ここの桜が綺麗に咲けるのは」
雲が風に流されたのだろう。月が再び顔を出し、闇が晴らされる。
「きっとここが、退屈な場所ではないからなのでしょうね」
月光に照らされる彼女の表情は、闇に包まれる前と変わらない。声音も先までと同じ、柔らかなものだった。
「桜なんて、何処でどう咲こうが似たようなもんでしょう。この木だって、ここにある他の桜と同じだわ」
「それでいいのよ。だからこそ、一緒に見に来たのだから」
「?」
怪訝に思い、首をかしげる。だったら、どうして羨む必要がある。冥界にはここよりも余程沢山の桜の木があるはずだし、見劣りするほどの差はないはずだ。まして、こんな咲きかけの桜など見飽きるほどにあるだろう。一体、幽々子と紫はこの桜に何を見ていると言うのか。
怪しい、と霊夢は身構える。どうにもこの迂遠な言い回しは好かない。煙に巻いて何か重要なことから遠ざけられているような気分になる。
「やっぱりあんた達、何か企んでるんじゃ……」
「おーおー、お前ら二人でなんだってこんなシケたところで飲んでるんだ? 私の宴会芸が見れないってのかー?」
「二人でしっぽりですか? しっぽりれすね? いけませんねぇいけません、非生産的れすよそれは! れも大丈夫! 我らが守矢神社の御祭神であらせられる神奈子様と諏訪子様を信仰すれば、その御神徳でたちまち子宝にー」
口をついた言葉を遮るように、背後から酒臭い声が飛んでくる。いつの間にか復活したらしい酔っぱらい二人が、口々に阿呆なことを喚いていた。
「あらあら、騒がしくなってきたわねぇ。それじゃあ私はそろそろおいとまするわ。妖夢には言わなくていいわよ」
「あ、ちょっと!」
まだ話が終わっていない。そう呼び止めようとしたが、魔理沙達に捕まってしまう。幽々子は既に縁側を離れ、咲きかけの桜の下に立っていた。
「――それじゃあ、見頃になったらまたお花見をしましょう」
微笑みながらそう言って、幽々子は姿を消してしまった。後には呆然とした様子で魔理沙達に引きずられる霊夢と、月光に舞う桜吹雪しか残らなかった。
◆
その夜から一月程が過ぎた。酔っていたこともあってか、霊夢は幽々子と話したことなどすっかり忘れ、いつものように境内を掃除していた。
空は快晴、絶好の花見日和である。当然今夜も宴会が開かれる予定だ。そろそろ散り始めた今年の桜の見納め、というのが今宵の宴の理由だった。この理由で宴会を開くのも今年に入ってもう三度目になるが、いよいよそれも最後だろう。と神社中に舞う桜吹雪を見ながら考えていた。
「今年の花見も今日で終わりかぁ」
石畳に落ちた花びらを掃き集めながら、やや名残惜しげにひとりごちる。春の博麗神社と言えば桜。桜と言えば春の博麗神社。そんな幻想郷随一の桜の名所であるここは、春になれば真っ先に花見が開かれる場所であり、同時に春の終わりに最後の花見が開かれる場所でもあった。つまり幻想郷における花見という行事は今日が最終日であり、そうなれば春の間に増えた参拝客も当然元通りということになる。それ故に、この時期になるといつも気が滅入ってしまう。そしていっそ葉桜の花見大会でも開いてやろうか、などと考えては、どうせ集まるわけがないと思い直すのもすっかり慣例になってしまっていた。
「……さて、ひとまずこんなもんか」
あれやこれやと考えながら続けていた境内の掃除に一区切りつけ、休憩することにする。掃き集めた桜の花びらは結構な量になっていたが、どうせ夕暮れになる頃にはまた積もっているだろう。その時にまたやればいい。箒を置き、縁側に腰かける。
夕方まで何をしよう。宴会の準備はしなくていい。酒器や食器の類いは出したままにしてあるし、料理もどうせいつも通り、宴会が始まれば紅魔館のメイド辺りが適当に見繕うことだろう。敷物の類も今から用意するには早すぎるから、夕方の掃除の後でいい。
「ごきげんよう。相変わらず暇そうね」
「あん? ……なんだ、あんた達か」
折角だから昼寝でもしようかと寝そべり、うとうとと微睡み始めた、まさにその時である。突然の来訪者の姿を見て、霊夢はあからさまに煩わしそうな顔をした。
「何の用? 宴会にはまだまだ早いわよ」
「ご挨拶ねぇ。人が折角参拝に来てあげたと言うのに」
「あんた達は妖怪でしょ。まぁいいか、素敵なお賽銭箱はあっちよ」
「あら、私は紫と違って妖怪じゃないわ。善良な亡霊よ」
「うっさい。大差無いわよ」
来客は紫と幽々子だった。どちらか片方だけでも面倒で厄介だと言うのによりにもよって二人揃ってやってくるわ、その上自分が微睡むのを見計らっていたかのようなタイミングで姿を現すだわで、余計に不機嫌になってしまった。
「で、こんな昼間から何しにきたの」
しかし、そんな二人がちゃんと賽銭を入れたのを見てほんの少しだけ機嫌を直して、あらためて聞く。ただ参拝しに来ただけではないことなど解っている。何の理由も無しにこの二人が、それも連れだって来るはずがないのだ。そして、そんなときは大抵、ろくな理由ではないことも。
「何って、そりゃあ」
二人は少し顔を見合わせてから、同時に口を開いた。
「お花摘み?」「お花見?」
「……紫、厠ならあっちよ」
「違うわよ」
半眼で神社の奥を指し示す霊夢をぴしゃりと切り捨て、紫は面倒くさそうに頭を掻いて言った。
「……幽々子、貴方言っておかなかったの?」
「おかしいわねぇ。ちゃんと言ったはずなのだけれど」
「何の話よ」
「忘れたの? お花見するって約束してたじゃない」
「あー? ……あぁ、言ってたかしらね、そんなこと。あんたが一方的に言ってただけだけど」
言われ、あの夜の事を思い出す。『見頃になったらまたお花見をしましょう』確かに、そんなようなことを言っていた気がする。それに、その時に聞きそびれた事があったような――
「……!」
そこまで思い出してから、ハッと幽々子に視線を向け、釘付けにされる。やはりあの夜と同じように彼女の胸元に収まった首飾りが、霊夢の視線を捉えていた。
「私が馬鹿だったかしらね、色々と。まぁいいか。じゃあそういう訳だから」
「待ちなさい」
二人の会話を聞いていた紫が呆れたように言い捨てて神社の裏へ向かおうとするのを視界の端に捉え、幽々子から強引に視線を剥がして呼び止める。
「私が立ち会うわ。何を企んでるのか知らないけど、ここで勝手なことはさせない」
「安心なさい。悪いようにはしないわ」
「それが信用できないのよ」
紫は振り返りもせずに行こうとする。霊夢はその背を睨みながらにじり寄ろうとするが、後ろから袖を引かれて止められてしまった。幽々子だった。扇子で口元を隠しているが、その淡紅色の瞳にはからかうような色を浮かべている。
「紫の花摘みなんかに付き合ってもつまらないわよ。それより、お茶を淹れてもらえないかしら? お花見に飲み物はかかせないでしょう?」
「自分で勝手に淹れなさいよ。茶葉なら台所の手前の棚に――」
「幽々子、一番奥の棚に秘蔵の玉露が入ってるわ。それと、その下に上等の羊羮もね」
「なっ」
被せるような紫の言葉に、思わずびくりと肩を震わせる。図星だった。
「まあ、それは良いことを聞いたわ。じゃあお言葉に甘えて」
「いい。私が淹れる。というかあんたは絶対に台所には入れない。入ったら即退治する」
「あら、残念」
少しも残念そうではない様子で幽々子は笑う。やられた。完全に二人のペースに飲まれている。見張りを断念した霊夢は苦虫を噛み潰したような顔で紫を睨み付けた後、台所の死守に走る。明日の幻想郷より今日の玉露と羊羮である。
「紫! 妙な真似をしたらあんたも即刻退治するからね!」
悔し紛れに投げつけた牽制の言葉にひらひらと手を振って、紫は神社の裏へと消えてしまった。
「粗茶ね」
「見りゃ分かるでしょ」
ぶっきらぼうな言葉と共に縁側に湯呑みと煎餅の入った器を置いて、幽々子の隣に座る。それから相変わらずにこにこと笑っている亡霊へと恨めしげな視線を送りながら、霊夢は聞こえよがしに溜め息を吐いた。
「まぁいいわ。頂きましょう」
「妥協するくらいなら頂かなくていいわよ」
冗談よ、と言って茶を啜る幽々子に然り気無く視線を送ると、どうしてもあの首飾りに目が行ってしまう。首飾りはあの夜と同じく、光を浴びるごとに紫や桜色の輝きを湛え、異様な気配を纏っていた。
……あの時は、それが何か分からなかった。けれど今は違う。これが何なのか、今はもう知っている。首飾りに目をやる度に言い知れない苛立ちを覚えながら、霊夢は記憶の糸を手繰っていた。
少し前のことだ。山の間欠泉センターの近くで鳥が次々に変死するという事件があり、調査の結果、鳥達が変死した原因は間欠泉とともに打ち上げられた鉱物の破片によるものだということが分かった。そしてその鉱物が、幽々子の首飾りの石に良く似ていたのだ。更に記憶を辿る。名前は確か、そう。
「あんた、それ」
「――貴方は、自分達が死んだらどこにいくのか知っている?」
と。幽々子の問いに、言葉が遮られる。唐突な質問だった。
「死んだらどこに行くか、だって? ……さぁね。少なくとも、私は地獄にすら行けないってさ。閻魔のお墨付きよ」
花の異変でのことだ。解決のために手当たり次第に倒して進んでいた際に出会った閻魔にそう言われた。それからは一応自分なりの努力をしているつもりだが、今日に至るまでその言葉を撤回して貰えた覚えはない。だから多分、今死んでも自分が何処かに行くことはないのだろう。そんな風に、考えていた。
「そう、何処にもいけないのね」
「それがどうかした?」
苛立ちを募らせ、不愉快さを隠そうともせずに問う。まただ。狙ったようなタイミングで話を遮られた。さっきからずっと、そうやって相手のペースで物事を進められるのが気に入らなかった。
「いいえ。ただ、やっぱりと思ってねぇ」
「……何が言いたいの」
顔をしかめる霊夢に、幽々子は相も変わらずおかしそうに笑いながら言った。
「貴方が、どこにいきたいのかという話よ」
「知らないわよ。そんなことはその時になってから考えたらいいじゃない。それより」
言いかけて、口をつぐむ。既に自分の中で答えは出ているが、確かめればきっと、余計なことまで知って後悔することになる。直感的にそう思ったのだ。
「これが何か、気になっているのね?」
しかし、言わずに飲み込んだその先を引き継ぐように、幽々子は首飾りの石を指差して言った。何を言おうとしていたのかを初めから知っていたような口ぶりだった。
「別に」
気に入らない。目の前の亡霊の一挙一動が、何もかも。霊夢は溜め込んでいた苛立ちを全て吐き出すようにして、言った。
「石桜。そのくらいは知ってるわ。悪趣味よね」
そう。確か、そんな名前の鉱物だった。桜の下に埋められた死体の成れの果て。肉体が朽ち果て、土に還った人間が尚も長い時間を掛けて土の中で純化された、結晶化した人の魂。事件の時に会った火車がそう言っていた。道理で異様な気配がするはずだった。人の魂を加工して装飾に使うなど、悪趣味と言わずに何と言うのか。
「その首飾りは壊させてもらうわ。思った通り、ろくでもなかった」
こんな物はあってはいけない。すぐにでも壊してしまうべきだ。そう決めた霊夢は袖から取り出した札を左手に握り、幽々子の鼻先に突きつける。
「それだけ?」
しかし、幽々子は微動だにもせず、そんな言葉を口にする。挑発や煽りではなく、本当に拍子抜けしたような声音だった。
「他に何があるの」
「……もう少し鋭いかと思っていたのだけれど。妖夢より少しはマシという程度なのね、貴方」
「その悪趣味な首飾りにまだ何かあるっての? あぁ、別に言わなくていいわよ。どうせ全部壊すから」
そう言いながらも、札を投げることができなかった。聞けばきっと後悔することになる。彼女の中の直感が、先ほどと同じように訴える。だから、早く壊してしまわなくてはいけない。頭ではそう思ってはいる。それなのに、手が動かない。
「貴方、私と紫が何をしにきたか覚えている?」
札を突きつけられたまま、幽々子が言った。焦りや敵意などの不純物が一切ない、いつもと何も変わらない柔らかな声だった。
「紫が花摘みで、あんたが花見でしょ。どっちも今やってるじゃない」
「いいえ、私はまだ花見なんてしていないわ。紫は花摘みの最中でしょうけど」
「だからなんだって言うの。そんなことは今はどうでも――」
また、言葉が続かなかった。霊夢はここにきてようやくこの亡霊の言わんとしていることを理解し、紫が何をしているか察したのだ。
「あぁ、そうか」
得心が行って、苦々しげに呟く。幽々子は無言のまま、薄い笑みを浮かべていた。
「つまり……つまり、それは全部、ここで出来たものだっていうのね」
『紫にもらっているのよ、ずっと』
あの夜のことを思い返す。あのとき、こいつは首飾りを指してそう言った。道理でそんな言い回しをしていたわけだ。何しろ、この首飾りは今なお飾り石を増やし続けている未完成の品なのだから。なんて腹立たしいのだろう。自分の目と鼻の先でこんなふざけたことが行われていることも、それに気が付かなかった自分も、実に腹立たしい。
「それを紫が掘り出して、あんたの首飾りにしていたと。そういう訳なのね」
「えぇ、そうよ」
呆気ないほど簡単に肯定され、ますます悪趣味な代物だと霊夢は鼻白んだ。だが、まだ分からないことがある。
「なんで、そんなものを作ったの」
博麗神社では葬式は行われない。少なくとも霊夢はしたことがないし、仮にやったとしても里の人間は共同墓地に、それ以外は無縁塚に埋葬される。少なくとも、わざわざ神社に埋葬されることはないはずだ。ということはつまり、恐らくはこの二人が――否、紫がこの神社に死体を埋めたということであって、そして、その死体と言うのは、要するに。
「分からない? いいえ、そんな筈はないわ。貴方ももう気がついているのでしょう?」
まるで、何でもないことのように。しかしそれまで浮かべていた笑み消して、亡霊は言った。
「だって、貴方もいつかこの中の一つになるのだから」
「……馬鹿馬鹿しい」
付き合いきれないとばかりに立ち上がる。そして終ぞ投げることのできなかった札を袖に納め、今度は近くに置いていた大幣を手に取った。札を投げられないなら、直接叩き壊してしまえばいい。そう考えたのだ。ずっと札を握りしめていた手は、少しだけ汗ばんでいた。
「もう沢山よ。私はそんなものにはならない。なるわけがない。だって、たった今からそれを壊してしまうんだもの。あんたも紫も、二度とそんなものを作ろうだなんて思えなくなるくらい徹底的に退治してやるわ」
「いいえ、なるのよ。いつかこうして、貴方も桜の一つになるの。羨ましいことに。だって、貴方も何処にも逝けないのだから」
「それはあんたが決めることじゃない。私は桜の下になんて埋まらない」
苛立ちすぎて気分が悪い。耳の奥でチリチリとした焦燥が音を立てている。これ以上自分の仮説を肯定されてはいけない。それなのに、どうしても手が動かない。だから、壊す代わりに言葉を紡ぐ。直感が危険だと訴えかける何かを少しでも遠ざけるために。けれど、それは無意味な足掻きだった。
「ねぇ、よく考えてみて。これは悪いことではないのよ。紫も言っていたでしょう、悪いようにはしないと」
幼子をあやすような声音で、幽々子は言った。
「これはね、霊夢。何処にも逝くことができなかった
汗に手が滑り、大幣を取り落とす。しかし構わず、そのまま幽々子めがけて左手を伸ばした。しかし、首飾りを引き千切るために伸ばした筈の手は、亡霊の白くか細い首を掴んだだけだった。
「……もう沢山だって、言ったわ。さっさとそれを寄越しなさい」
隙間風のように掠れた声で、霊夢は言った。苛立ちの正体とはつまり、そういうことなのだ。彼女は無意識の内に、その首飾りに己の末路を見ていた。だから、これほどまでの嫌悪感を覚えたのだ。
「やぁよ。これは私の桜。貴方なんかにあげられないわ」
「ならその首ごと置いて消えなさい」
指が白くなるほどに強くその首を絞め、底冷えするような声とともにその顔を睨む。しかし幽々子は顔色一つ変えずに平然としていた。当然だ、彼女は亡霊、元より息などしている筈もない。いくら強く首を絞めつけたところで、脅しにさえなりはしない。それでも、手に力を込め続ける。言葉通り、首を捻じ切るつもりでさえあった。力を込めすぎた手が、徐々に痺れてくる。
「駄目よ、それではただ貴方の手を痛めてしまうだけだわ。私を縊ろうというのなら、せめて両手を使わないと。横着は得にならないわよ?」
「うるさい」
「それにね、霊夢。貴方はもっとよく考えてから私を殺すべきだわ」
「うるさい。死人の癖に口を開くな」
抵抗する素振りすら見せずに、亡霊はくすくすと笑って喋り続ける。その淡紅色の瞳は楽しげな色で染まっていた。分かっている。無駄なのだ。今の自分の行いは、何もかも。そのことをこの亡霊は誰よりも理解している。だからこそ、気に入らない。
「
「閉じ込めているの間違いでしょう。それなら冥界に運んでから石桜を砕いてしまえばいい。わざわざそんな悪趣味な飾り物にする理由はないわ」
石桜を砕けば、中の魂は昇天する。霊夢はそれを知っている。他ならぬ自分が砕いたときにそうなるのを見ていたのだ。幽々子の言葉は欺瞞にすぎない。そう判断して痺れる手にまた力を込め、空いた手で先程取り落とした大幣を拾った。
「ああもう、馬鹿ね。それでは留まれないのよ。確かに石桜を砕けば中の魂は天へと昇るわ。でもそれは見かけだけ。考えてもみなさいな。地獄にさえ逝けないような無価値な魂が、一体どうして天に昇れるというの?」
「……」
僅かに緩んだ手が、痺れに囚われて力を失ってしまう。ともすれば軽く手折ることさえできそうな程にか細い首へと掛けられていた手は、何一つ奪うこともないままにだらりと垂れ下がった。きつく力を込められていた指先が、その行いを咎めるように痛みを訴えている。
「だから、ね? 貴方もいずれ桜になるの。そして、私があの世に連れて逝くの」
くずおれるように、霊夢は再び縁側に座り込んだ。気付けば、がくがくと膝が笑っていた。
幽々子の言葉を頭の中で反芻する。つまり、これは言わば、救いなのだ。こうすることで、惑う事しか出来ない魂に居場所を与えて救うのだと。だからこの首飾りを壊してしまえば、石桜となった魂は永遠に救われなくなってしまうのだと。暗に、幽々子はそう言っているのだ。
「私にはね、あなたたちがとても羨ましく思えるのよ」
幽々子の手がするりと伸びて、霊夢の痺れた手を握った。亡霊の柔らかくひやりとした手の感触が、痛む指を慰める。
「あなたたちは何処にも逝くことはできない。けれど、花を咲かせることができる。桜となって生きた証を残すことができる。それはとても綺麗な死に方だとは思わない?」
誘うようなその声は、身の毛がよだつほどに破滅的だった。
「……石桜になって、あんたの首を飾るのが綺麗な死に方だって? 馬鹿にするのも大概にしなさい」
しかし、その手と声を振り払って否定する。形はどうあれ、浄土の住人として冥界に住まう。確かに、それは救いなのかもしれない。間違ってはいないことなのかもしれない。でも、正しいことだとは思えなかった。
「そんなの、これ以上ないくらい惨めな死に方だわ。何も残らない方がまだマシよ」
「なら、貴方は身も
霊夢の亡骸を喰らって咲き誇る地上の桜と、砕け散り、桜吹雪となったその魂を想像したのだろうか。幽々子はうっとりと、陶酔するように言った。
「貴方は無限に自分の死に方を選ぶことが出来る。本当に素晴らしいことよ。ねぇ、教えて。貴方はどんな風に死んで、どこに逝きたいの?」
焦がれるようにそう言って、幽々子は覗き込むように顔を近付けてくる。目が合い、巫女は亡霊の淡紅色の瞳が、何も映していないことに気が付いた。映る筈の自分の影さえ、そこには見出だせなかった。恐怖は感じない。ただ、ひたすらに虚ろで、底知れなかった。
「少なくとも、あんたが羨むような愉快な死に方は絶対にしてやらないわ。何処に逝くのかも、死んでから自分で考える。あんた達の世話にはならない」
首飾りを壊すなら、今しかない。意を決して、霊夢はその首筋に大幣を押し当てる。今度こそ、破壊する。そして、この死に魅入られた悪辣な亡霊も調伏する。最後に今夜の宴会で全部忘れて、お終い。それだけだ。躊躇いも悩みも必要ない。
「嗚呼、駄目よ。死を粗末にするなんて。一度きりしか無いと言うのに、それではあまりに勿体無いわ」
「興味がないのよ。そんな下らないことには。さぁ、観念してそいつを寄越しなさい。これで最後よ」
「酷いわ。貴方はこんなにも恵まれているのに、みすみす捨ててしまうなんて。……でも、そうね。それなら――」
巫女の言葉など聞かず、亡霊は大仰に顔を覆って嘆いてみせる。そして、
「――それなら。貴方の死を、私にちょうだい?」
ふっと、手を延ばし。霊夢の胸に、縋るように宛がった。
ぞわぞわと全身が粟立っていく感覚が襲ってくる。ただ胸に手を当てられているだけだと言うのに、身動きがとれなかった。
「桜にはなりたくないけれど、死後に逝くあてもないのでしょう? それなら、今ここで私が連れて逝ってあげる。約束するわ。きっと、素晴らしく退屈よ」
大幣を首に当てられたまま、幽々子は空恐ろしくなるほどに美しく、そして虚ろに微笑んだ。霊夢は何も感じなかった。末期の甘やかな痺れが全身を満たし、恐怖の情すら奪い去っていた。
「さぁ、目を閉じて。平気よ。苦しめたりはしないもの。貴方の死を貰うのに、そんなのは不公平でしょう?」
力が抜けて、重くなった瞼が視界を狭めていく。底無しの沼に嵌まるように、ずぶずぶと意識が沈んでいく。
「いいわ。とても素敵よ。これでやっと、私も――」
「駄目よ」
ぴしり、と酷く明瞭な音がして。あ、という声とともに胸元を這っていた手が引き剥される。力が戻ってきて、瞼が軽くなる。霊夢は目を開いた。
「まったく、勝手なことをして。幽々子、あまり私を困らせないで頂戴」
目に映ったのは紫だった。右手に閉じた扇子を持ち、左手には大きな紫色の鉱石を抱えている。
呆けたように座り込んでいた霊夢は、大幣で左手を軽く叩いて確かめる。まだうっすらと赤い指から疼痛が走った。どうやら、すんでの所で死に損なったらしい。
「もう、折角良いところだったのに。紫ったら、空気を読まないのね」
「この子は貴方の物ではないの。だから、駄目」
「これからそうなるのなら、駄目じゃないでしょう?」
「駄目。いくら幽々子でも、そのお願いは聞けないわ。絶対にね」
「むー」
悪戯を咎められた子供のようにむくれる幽々子の頭を、紫が扇子でぽんぽんと叩いて諭す。幽々子は未練がましそうに霊夢を見つめていたが、やがて諦めたように立ち上がった。
「さぁ、それを渡して頂戴。つけっぱなしじゃ新しいのが付けられないでしょう?」
「はいはい。ああもう、折角のお花見が台無しだわ」
「花見の席で花を手折ろうとする者は、いつだって嫌な顔をされるものよ」
「紫は年中嫌な顔をされてるくせに」
「うるさい」
紫の手に首飾りが渡る様を、霊夢は何もせずに見送った。動く気力など、もう残ってはいなかった。
「さて、用事も済んだことだし。そろそろおいとまするとしましょうか」
「あら、この後宴会があるのでしょう? このまま居てもいいじゃない」
「いいから。お花見なら私か貴方の家ででもやればいいでしょう。ほら、さっさと入って。……それじゃあ、霊夢。お邪魔したわね」
「待ちなさいよ」
幽々子を追い立てるようにしてスキマの中に放り込んだ紫が振り返る。気付けば、辺りはもう夕暮れ時を迎えていた。
「何かしら?」
「何かしら、じゃないわ。どうせ全部分かってるんでしょう」
「幽々子をやっつけたいならまた今度にして頂戴。それに、貴方もあの子を煽りすぎよ」
「そんなことはどうだっていいのよ」
はぐらかすな。そんな意思を込めて睨むと、紫は困ったように横目で桜を見ていたが、やがて諦めて口を開いた。
「……あの子がこれを持つことが、そんなに気に入らない?」
そうだ。自分が殺されそうになったことも、退治もさせないまま逃がすように幽々子を追い返したことも、どうでもいい。用があるのは最初からこの首飾りだけだ。こんなものをあの悪辣な亡霊が持ち続けるなど、許せる筈がない。
「当たり前でしょう。どんな理由があっても、これは冒涜よ。気に入るわけ無いじゃない」
「本当にそう思っているの? ただ貴方が壊したいだけなんじゃなくて?」
「そんなこと、」
あるわけがない。そう言おうとして、言葉が詰まってしまう。確かにこの首飾りは魂への冒涜だ。そう言いきれる。けれど、だからと言ってそれを破壊することが正しいと言えるだけの理屈を、霊夢は持ち合わせていなかった。
「……紫。それを最初に作ろうなんて言い出したのは、誰」
だから、確かめる。その理由を探すために。或いは、私は正しい、という言い訳を作るために。その心を見透かしたように紫は一瞬目を細め、言った。
「幽々子よ」
「それなら――」
「でも、それを受け入れたのはこの子達。これは強制されたものではない」
紫の手の中の首飾りが、夕焼けを浴びて桜色に輝く。彼女の言葉を肯定するように。
「何処へも逝けないことを選ぶよりも、何処かで安らぐ事を選んだのは他でもない、この子達なのよ、霊夢。だからこれは、貴方が口を挟めるようなことではないの」
「それでも」
認められない。こんなものが救いだなどと、どうして認めてやれるものか。もっとあるはずだ。もっと何かが。もっと、ちゃんと納得できるような救われ方が。本当にこんな末路しかあり得ないというのなら、
「こうなりたくないと思うのは、貴方の勝手よ。そして、そう思うのなら勝手に努力なさい。死というものは貴方次第で姿を変えるわ。巫女が全て同じ末路を迎えてきた訳ではないように」
傾いた陽が逆光となって、その表情は窺えない。紫の姿をした影と、石が放つ桜色の輝きしか霊夢の目には映らなかった。
「あんたは」
よろめく足で影に詰め寄りながら、霊夢は言った。
「あんたはどうなのよ。これが本当に、
「それが救いかどうかを考えていいのは、救われる本人だけなのよ。だから、貴方にも、私にも、そしてもちろん、幽々子にも。そんなことを考える権利はないの」
「私は救いだなんて思わない。石に閉じ込められて永遠を過ごすことが救いだなんて、ふざけてる」
「無駄よ」
影は感情の無い、機械のような声で言った。諭すでも叱るでもない、ただ事実を告げるだけの声だ。
「無駄なのよ、霊夢。こんな話をすること自体が、最初から。……貴方も幽々子も、少し無い物ねだりが過ぎる」
影が指を振るい、虚空が再び昏い
「さようなら」
既に半分ほど姿を消しながら、影は言った。
「少し、忘れ物をしていくわ。次のお花見の頃に取りに来るから、預かっていて頂戴。……でも、そうね。季節が廻る頃には、そんなことはもう忘れてしまっているかもしれないけれど」
虚空が顎門を閉じて、影が消える。ふと背後に気配を感じて振り返ると、紫色の鉱石と桜色の石を連ねた銀鎖の首飾りが見捨てられたように縁側に置かれていた。
霊夢はそれらを手にとって、神社の裏へと回った。まだ黄昏時になったばかりだというのにそこは暗い影に満ちている。例の桜の若木も影に染まり、心なしか恨めしそうに霊夢を見下ろしていた。その根本には掘り返したような小さな跡があった。多分、紫がこの木の下から石桜を取り出したと見て間違いないのだろう。見頃とはそういう意味だったのだ。その土の上に石塊と首飾りを置く。不意に強い風が吹いて、木々が度し難い暴虐を犯そうとする彼女を非難するようにざわめいた。霊夢は構わずに一つ深呼吸をし、心を静める。
そして、大幣を振り上げて、
『それが救いかどうかを考えていいのは、救われる本人だけなのよ』
頭に過る言葉を。迷いを。何もかもを振り払うように、眼前の亡骸へと叩きつけた。
打ち据える。銀鎖の首飾りを、石の桜と成り果てた亡骸を。何度も、何度も、打ち据える。大幣が振り下ろされる度に玻璃の砕けるような音を立てて石桜がひび割れ、銀鎖が拉げて地面に散った。それでも、霊夢は手を止めない。他には誰一人いない黄昏時の神社の裏で、一心に大幣を振るい続けた。木々が悲鳴のように軋んだ音でざわめくが、それさえも聞こうとはしなかった。
涙はない。
怒りもない。
もとより喜びなどあるはずもない。
ただただ無心に、破壊する。
世界さえも置き去りにして、幾度となく大幣を振るい続ける。全て砕けてしまえとばかりに、骸の花へと力任せに叩きつける。
そして、ついに。
パン、という花火のような音とともに石桜が弾け、四散する。その衝撃に押され、霊夢は尻餅をついた。
桜色の亡骸から解き放たれた不定形な湯気のようなものが、スカートの土を払いながら立ち上がる巫女を恨めしげに取り囲む。しかし、それもやがては戸惑うような動きで天へと昇り、どこへともなく霧散した。
「私を恨むなら恨めばいい」
屋根の向こうから僅かに差し込む赤金色の光に照らされながら、霊夢は叫んだ。喉も張り裂けんばかりに、空に向かって。
「私を呪うなら好きなだけ呪えばいい。でもね、勘違いしないでよ。あんた達が何処にも逝けなかったのは、私のせいじゃない」
ひときわ強い風が吹いて、地面に散った欠片が空へと巻き上げられる。砕けた骸は花となって空を舞い、桜吹雪の中へと融けるように消えていった。何もかもが桜となって消えていく中で、霊夢は聳え立つ無数の墓標を見渡し、毅然と告げた。
「だから、私は認めない。こんなものが救いだなんて、絶対に認めてやらない」
亡霊の淡紅色の瞳を思い出す。何も映していなかったあの目は、己の為に死を求める目だ。報われない魂を救おうだなどというものでは決してない。だから、あれは救いなんかじゃない。
彼女の叫びに、墓標達は何も答えなかった。ただ、春の名残を風に散らすばかりだった。
◆
「え、百薬枡を? どうしたの、藪から棒に。どこか悪いの? 頭?」
「うるさいわね、なんでもいいからちょっと貸してよ。どこぞの魔理沙じゃあるまいし、死ぬまで借りたりしないから」
「いやでも、まだ飲みかけだし」
「いいから」
夜。今年最後の花見も盛況だった。宴の参加者は皆、夏に向かい始めた暖かな空気で渇いた喉を潤すために、いつも以上に盃を重ねて賑々しく騒いでいた。
そんな喧騒の中、霊夢は宴に参加していた茨木華扇の枡を強引に奪い、その中身を自分の盃に移していた。
「ちょっと、それは人間が飲むには流石に強すぎるって」
「ありがと。ほら、返すわ」
「ああもう、どうなっても責任とらないからね!」
あわあわとしている華扇を尻目に、神社の屋根へと飛ぶ。強くて結構。その為にわざわざせしめたのだから。
誰かが宴会芸でも披露したのか、眼下の境内からどっと声が沸いた。何も変わりはしない。当然だ。この神社に訪れたささやかな変化を知っているのは自分と、ここにはいないあの二人と、そして咲き誇るこの墓標達の他にはいないのだから。
溢してしまわないように慎重に運んだ盃を見る。月を映す澄んだ酒には、いつの間に紛れ込んだか、桜の花びらが浮いていた。それが石桜の欠片でないことを確かめてから、桜ごと盃を呷る。熱い焔のような酒が、喉を下っていった。
仙人の枡に注がれた酒は、百薬となる代わりに飲んだものを鬼に変えてしまうという。だったら、今の自分にとってこれ上無く似合いの酒だと霊夢は笑った。
自分は先人達の安息を身勝手な理由で奪い、破壊し、否定した。体裁を繕えるだけの大義すらなく、思い通りにいかないと駄々を捏ねる子供のように。ただ自分が認められないというだけの理由で、だ。それはきっと博麗の巫女として許されることのない、悪いことなのだろう。それは分かっている。でも、あれは博麗の巫女としてではなく、博麗霊夢という存在として行ったこと。だからあれは、正しい行いでもある筈だ。例え博麗の巫女として許されない暴虐だったとしても、博麗霊夢としては断じて間違った行為などではなかった。それだけは、胸を張って言い切れる。
けれど結局の所、博麗霊夢という存在は博麗の巫女という役割とは不可分で、つまりは是非など初めから問えるようなものではないのかもしれない。
そしてもし、そうだとするならば。今夜だけは鬼になってしまおうと霊夢は思った。“博麗の巫女”でも“博麗霊夢”でもない、一夜限りの鬼と成り果て、去り行く春に全てを忘れてしまおう。逃げる為ではなく、向き合うために。
半分ほど飲んだところで、霊夢は屋根の上で盛大に噎せ返る。流れた涙を拭い、春と共に散りゆく墓標達を見下ろした。墓標は何も語らない。そこにはもう何も眠っていないのだから。彼女を咎めるものも、彼女が許しを乞えるものも、もう何処にも居はしない。
盃の残りを飲み干して、もう一度派手に噎せた。飲み下して尚灼熱のように喉を焼き続けるその酒は、幽かに苦い味がした。
(了)
もがいてるなぁ、霊夢。
これは良いものだ。上にもあるけど、こういう霊夢が好き。
正直、俺も見てみたいと思ってしまいました。
しかし「博麗の巫女」という生き方が死後どこにもいけないものとなりやすいというのは事実でしょうし、
そのシステムを紫が作ったというのも容易に想像が尽きます
提案者は幽々子、受け入れたのは魂達本人
では紫にとってこの案ははたしてどういう意味を持っていたのでしょうか
真実を知って苦しむ霊夢と、それを見て「忘れ物」をして助言を残していく紫
もしかしたら紫も救いを求めていたように感じます
霊のごとく単行本追いなのでどこがネタバレなのかは明確にわからないのですが、この話の核となる死(霊夢目線)についてかなぁと当たりをつけました(石桜や墓標)。
何処かで見かけた茨は華扇目線、鈴は小鈴目線から見た幻想郷という色合いを、作中の人間臭い霊夢で表現出来てるなあと感じました。
人間らしい弱みと彼女らしい強がりに似た感情と、胡散臭い古参二人の物言いとその遣り取りは、読んでいてらしさがあふれていて楽しめたした。
ただ、人称名代詞が多様されていて、読みやすい言葉選びの中でくどさが目立ち、読み始めから少しスクロールしたところで若干の疲れを覚えました。
ただ話の進みはテンポいいなぁと思う反面で、首飾りの正体に焦点ばかりが向けられていたために、霊夢への感情移入や心の波を読みとれる箇所が少なく、終わりの静けさの余韻よりも、物足りなさの方が個人的に勝ってしまったのが心残りでした。
誤字を数点見つけたので、報告にて締めたいと思います。
目を反らす→逸らす(序盤幽々子との会話辺り)
表情を伺う・えない→窺う・えない(序盤幽々子の会話、月明かりが薄れる場面と、中~終盤で神社に訪れた紫に問い詰めたところ、西日を背景に陰がかかる場面)
以上、長々と失礼しました。
繊細な文章と雰囲気に荒々しい霊夢 ギャップが両方にリアリティを与え説得力を持たす気もするし、グロテスクな気がしないでもないです
歴代の博麗の安寧を踏み躙ってまで自我を通す冷酷で凶暴な若さと幽々子の対決が面白かったです