Coolier - 新生・東方創想話

空蝉の谷の底で

2014/05/10 02:14:13
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 彼がその貸本屋の存在を知ったのは、幻想郷で暮らしはじめて半年が経った頃だった。
 江戸時代か明治時代のようなこの世界の暮らしにも、ようやく慣れてきた。電卓を叩くのではなく、小学校の頃以来の算盤を弾いての計算も、ずいぶん早く行えるようになった。生活の不便さに閉口することも多いが、外の世界で彼を悩ませてきた煩わしいものごとの一切から解放された、まっさらの状態からの出直しは、彼の心境を、半年前よりはいくぶん明るくさせていた。
 ただそれでも、やはり元の世界への未練はときどき浮かんでは消える。外の世界に戻ったところで、自分の安否など心配している者もいないだろう――その事実に、寄る辺なさを覚えることもある。結局、あの世界での自分の四十年近い人生は何だったのかと思えば、誇れるようなものは何も残してこなかったという事実に溜息が漏れるばかりだ。
 そんな彼にとって、鈴奈庵という店は不思議と居心地が良かった。
 古めかしい和綴じの本が並ぶ中に、ときどき思いがけず、外の世界の古書店に並んでいそうな箱入りの本やハードカバー、バーコードもない文庫などが並んでいる。それらの大半は、名前も聞いたことのないような作家の、初めて見るタイトルの本ばかりだったが、奥付を見れば確かに外の世界に実在する出版社の名前が記されていたりする。
 この幻想郷は、外の世界で忘れ去られたものが流れ着く場所だという。だとすればこれらの本も、自分と同じように外の世界では誰にも必要とされなくなって忘れられた本なのだ。そう思うと、共感とやるせなさが同時に襲ってきて、彼はそういった本を鈴奈庵で見かけるたびに手に取って眺めては、しかし借りることはせずに棚に戻すということを繰り返した。
 金を払って借りないのだから、店にとっては自分は困った客なのだろう、という自覚はあった。しかし和綴じの古めかしい本はまるで古文書でとても読めないし、かといって自分と同じ忘れ去られた本を借りて持ち帰るのもいささか侘びしい気がした。けれども時間が空くと鈴奈庵に通ってしまうのは、外の世界へ残してきた未練ゆえだろうか。
 そんな忸怩たる思いを抱えながら、月に二度ほどのペースで鈴奈庵に通うこと半年ばかり。
 ――その日、彼の目は、書棚に新しく並んでいた本のタイトルに釘付けになった。
 新入荷、という札のついた棚に並んだ、外の世界のソフトカバーの単行本。それを見た瞬間、彼は思わず左手の甲を手袋の上からぐっと押さえていた。
 タイトル、『空蝉の谷の底で』。著者、藤森隼太郎。
 それは彼にとって、忘れがたい過去、そのものだった。











「空蝉の谷の底で」











      1

 人里の貸本屋・鈴奈庵は、二ッ岩マミゾウにとって、里での行きつけの店のひとつである。
 店主の趣味なのか、随分と溜め込まれている変わった本に対する興味もあるし、人間の身でそんな本を嬉々として蒐集する店主の小娘――本居小鈴に対する個人的な興味も少しばかり。足繁くというほどではないにせよ、ちょくちょく顔を出しては蔵書をあさり、また外の世界の昔話を書き留めて売りつけるなどといったこともしていた。
 雪も溶けかけ、しかしまだ空気は冷たい冬と春の境目の頃合い。その日もマミゾウは、いつもの人間姿で鈴奈庵の暖簾をくぐる。だがいつもと違ったのは、同時に中から小鈴が出てきて鉢合わせたことである。

「おや」
「あ、いらっしゃいませ」

 条件反射のようにそう言って、しかし小鈴は困ったように首を傾げた。

「すみません、今ちょっと店を閉めるところで……」
「随分早い閉店じゃのう」
「どうもすみません。今日はちょっとこれから、取り立てなんです」

 よいしょ、と暖簾を下ろして店の中に仕舞いながら、小鈴はそんなことを言った。

「取り立て? 借金取りにでも追われとるんかい?」
「違いますよ。私が取り立てに行くんです。返却期限を過ぎてる本を」

 なるほど、とマミゾウは頷いた。鈴奈庵は貸本屋であるから、貸した本は返して貰わなければならないが、中にはなかなか返さない客もいるのだろう。
 しかし、と小鈴の小柄な身体を見下ろして、マミゾウは鼻を鳴らす。

「お前さん、ひとりで取り返しに行くのかい?」
「え? あ、はい」
「たかだか貸本とはいえ、子供ひとりで悪い客のところに乗り込むのは物騒じゃろ。どれ、儂も手伝ってやろうかね」
「へっ? い、いや、そんな、お客さんに手伝っていただくなんて」

 慌ててぶんぶんと首を横に振る小鈴に、マミゾウは目を細めて、その頭をぽんぽんと叩く。

「なあに、年寄りの暇潰しじゃよ」
「年寄り?」

 不思議そうに小鈴に見上げられ、マミゾウはひとつ咳払いした。いかんいかん、今は人間の姿であって、小鈴から見れば自分は二十代の若い人間の女性である。あまりそういう、人間の若者らしからぬ言い回しは避けねばなるまい。

「まあなんだ。儂の本も買い取って貰っとるし、その礼だと思うとくれ」
「はあ……」
「で、どこの不届きな客のところへ行くんかい?」
「あっ、はい、じゃあ行きましょう!」

 釈然としない表情をしつつも、小鈴はマミゾウの手を掴んで小走りに歩き出す。その勢いに引きずられながら、若い子は元気で結構なことじゃのう、とマミゾウは年寄りじみた感想を心の中だけで思い浮かべていた。



 一軒目は、子供向けの読み物を借りていたという家だった。
 現れた母親とおぼしき女性に小鈴が来意を告げると、家の奥からすごすごと幼い少年が現れる。その子の差し出した本は、表紙が盛大に破けてしまっていた。うっかり破いてしまい、返すに返せなくなってしまったらしい。
 烈火の如く怒り出す母親を「このぐらいならうちで修繕できますから」と小鈴はなだめ、「これからは気をつけてね?」と少年を諭す。頷いた少年の頭を撫でて、しっかり母親からは延滞料金と本の修繕費を受け取り、小鈴は表紙の破れた本を抱いて頭を下げた。

「なかなか手慣れたもんじゃのう」
「えへへ……まあ、こういうのはよくあることですから」

 感心してマミゾウが言うと、小鈴は照れたように笑って答えた。
 続く二軒目は、小鈴によると既に期限を三週間以上過ぎているのに本を返さずにいる独居老人らしい。今までに二度回収に訪れているが、二度とも追い返されたということだった。

「すみませーん、徳田さーん、鈴奈庵でーす」

 玄関の戸を叩いて小鈴が呼びかけるが、返事は無い。

「留守かの?」
「前に来たときはこの時間に居たんですが……」
「耳が遠いとか」
「そういうことも無いはずですけど」
「ふむ。ところで、何の本を借りとるんじゃ?」
「あー、それはその……」

 と、小鈴は急に顔を赤らめて俯き、背伸びしてマミゾウに耳打ちした。――タイトルを聞くだけで、いかがわしいと解る本だった。マミゾウは大げさに肩を竦めて溜息をつく。年甲斐も無く盛んなことと言うべきか、なんともはや。

「そんな本も扱っとるんか」
「が、外来本ならなんでも扱いますから、たまにはそういう本もあります、たまには」

 たまには、を強調して言う小鈴に、マミゾウは苦笑する。

「そんな助平爺相手に追い返されたっちゅうことは、セクハラされたんじゃな?」
「せくはら?」
「お前さんにそのいかがわしいタイトルを大声で言わせようとしたりせんかったかね。もしくは意味もなくお主の身体に触ろうとするとかのう」
「あー……」

 思い当たる節があるのか、小鈴は顔を引きつらせた。マミゾウは鼻を鳴らす。小鈴にセクハラまでするとなれば、その助平爺は少しばかり懲らしめてやらねばなるまい。

「どうれ、そんなけしからん爺は儂が少し懲らしめてやろうかの」
「だ、ダメですよ、一応お客さんですし」
「一応、がつくんじゃな」
「あ、あはは……」
「なに、お前さんに迷惑は掛けんから、安心しんさい」

 そう言って小鈴の頭をぽんぽんと撫でると、小鈴は少し照れくさそうな顔をして俯いた。マミゾウは鼻を鳴らし、それから腕まくりしてその老人の家に足を踏み入れる。

「どれ、ちょいと勝手に上がらせてもらうぞい」

 からからと玄関の引き戸を開けたところで、マミゾウは漂ってきた匂いに小さく顔をしかめた。饐えたような匂いは、この家に染みついた老人の加齢臭だけではない。もっと真新しい匂いだ。そう、ちょうど誰かが嘔吐したばかりのような――。
 次の瞬間、唸るような呻き声が聞こえ、マミゾウは下駄を脱ぐのもそこそこに、家の中に駆け込んだ。奧の襖を開け放つと――そこには、布団の上にうずくまる禿頭の老人の姿がある。布団は吐瀉物で汚れ、老人は腹を押さえて脂汗をかいていた。マミゾウは思わず頭を抱える。タイミングが良いのか悪いのか。何にしても、放っておくわけにもいくまい。

「あの、何かありました?」

 玄関の方から小鈴の声がする。マミゾウは振り返ると、「爺が倒れとるんじゃ! 医者の先生呼んできんさい!」と叫ぶ。「はっ、はい!」と返事があり、小鈴の足音が遠ざかっていった。――全く、本の取り立てを手伝うとは言ったが、腹を壊した老人の介抱までは聞いてないぞい。そうぼやいてみても、聞いてくれる人はいなかった。





      2

 駆けつけた老医師によって腸炎もしくは腸閉塞と診断された徳田老人は、消防団の荷車で運ばれていった。里の医院に入院することになる見込みだという。

「やれやれ、参ったのう」

 がらがらと音を立てて走り去っていく荷車を小鈴と見送り、マミゾウは着物の袖口の臭いを嗅ぎながら溜息をついた。何が悲しくて、見知らぬ助平爺の吐瀉物の始末をせねばならんのか。洗濯代をあとで請求してやろうか、などと考える。

「ご迷惑をおかけして、すみません」

 小鈴が申し訳なさそうにぺこりと頭を下げる。「いやいや、お前さんのせいじゃあないさ」とマミゾウが苦笑すると、小鈴は不意にマミゾウを見上げて、目を細めた。

「あのー……徳田さんから、いやらしいこと、されませんでした?」
「さすがにあの状況でセクハラする元気は無かったようじゃの。こんな若くて美しい娘が介抱してやったっちゅうのに、落ち着いたら病室で地団駄踏むじゃろうの。ふぉっふぉっふぉっ」

 マミゾウが高笑いすると、小鈴はどう反応していいか解らないという様子で苦笑いする。そんな小鈴に、ふとこの家に来た用件のことを思い出して、マミゾウは首を傾げた。

「そういやお前さん、あの助平爺が借りっぱなしの本はどうするんじゃ?」
「あ、さっき家に上がったときに回収してきました。お代はまだ今度回収しないとですけど」

 と、小鈴は本を取りだして得意げに笑う。ちゃっかりしとるのう――とマミゾウは感心しつつも、その本の猥褻な表紙とタイトルに「あんまり表にださん方がええんじゃないかね」と指摘すると、小鈴は真っ赤になって慌てて本を鞄にしまい込んだ。



 予定は遅れたものの、その調子で三件目、四件目と回収は順調に進んだ。

「えーと、次が最後です」

 小鈴がそう言ったときには、里はそろそろ陽が暮れようとしていた。そろそろ戻らないと、店に戻り着く頃には陽が暮れるだろうが、小鈴は構わず進んでいく。マミゾウは呆れ混じりにそれについていった。まあ、遅くなったら自分が店まで送ってやればいいじゃろう、などと気の良いことを考えてさえもいた。

「最後のはどんな客なんじゃ?」
「ここ半年ぐらいでよく来るようになった、冴えない感じの中年の……うちのお父さんぐらいの男の人なんですけど――ウチの店的には、わりと困った感じのお客さんなんですよね」
「というと?」
「いつも、棚の本を眺めて、立ち読みするだけで、借りていってくれないんです。ようやく初めて借りてくれたと思ったら延滞ですから、困っちゃいますよ」
「貧乏人なのかもしれんのう」
「そんな高い値段で貸し出してるわけでもないつもりですけど」

 小鈴は口を尖らせる。マミゾウは肩を竦めた。外の世界にいた頃、百円の漫画の古本を立ち読みして買わずに済ませる人間をたくさん見た身としては、そういう客も当然おるじゃろ、と思う。タダで読める状態なら売り物でもタダで読んで済ませてしまおうという輩は多いものだ。
 そういう客だとしたら、延滞に対しても罪悪感を覚えていない可能性がある。突っぱねるようなら、儂がちょっくら懲らしめてやるかの、などとマミゾウは考えていたのだが――。

「……あれ?」

 小鈴が急に足を止め、周囲を見回して首を捻った。

「どうしたんじゃ?」
「いえ……ええと、あれ? おっかしいなあ」

 帳面を取り出して、小鈴はそこに記された文字を指でなぞり、もう一度首を捻る。

「ええと、あのお客さんの住所、ここのはずなんですけど」
「――何も無いぞえ」

 小鈴が足を止めた場所は、まるっきりただの空き地の前だった。

「その住所ってのは、借りた本人の自己申告かえ?」
「ええ、初めてのお客さんは貸し出しのときに帳面に記入してもらうんですけど」
「書き間違いかもしれんの。近くの家で聞いてみたらどうじゃ」
「あ、そうですね」

 マミゾウの提案に小鈴が頷き、空き地の隣にあった家の戸を叩いた。姿を現した中年の婦人は、小鈴の姿に「あら、貸本屋の」と相好を崩す。

「あら、何か借りてましたっけ?」
「いえ、お宅にではないんです。あの――この近所に、藤林さんっていらっしゃいません?」
「ふじばやし?」

 婦人は首を捻りながら、「さあ、覚えのない名前だねえ」と答えた。
 それから、近所の数軒を回ってみても、『藤林』という名を知る者はなく、もちろん藤林の表札の下がった家もなく――マミゾウと小鈴は、ただ顔を見合わせるしかなかった。





      3

「それはまた、妙な話ですね~」

 翌日。自警団中央駐在所、上白沢班詰所で火鉢を囲みながら、マミゾウは小兎姫に前日の件を話していた。

「そのときは結局、陽も暮れそうじゃったから、小鈴を店まで送ってやって終わりじゃったんじゃがの。――もし、最初から借りパクするつもりでデタラメな住所を書いたんじゃとしたら、いささか悪質じゃのう」
「かりぱく?」
「借りたものを返さず自分のものにしてしまうことじゃよ」
「それって盗みと一緒ですよね~」
「全くじゃ」

 お茶を啜るマミゾウに、「ところで~」と小兎姫が首を傾げる。

「その藤林さんが借りて返さない本って、どんな本なんです~?」
「最近入荷したばかりの、外来の小説っちゅうとったな。タイトルはなんちゅうたか……空蝉のなんとかかんとか、言うとったな。儂は読んどらんから中身は知らんがの」
「空蝉……『空蝉の谷の底で』ですか~?」
「ああ、そんなタイトルじゃったか」
「私、それ鈴奈庵で読みましたよ~。ついこの前、先月ぐらいですけど~」

 驚いた顔でそんなことを言う小兎姫に、マミゾウは目をしばたたかせる。

「そりゃまた偶然じゃの。どんな話なんじゃ?」
「山登りに来た人間たちが、蝉の妖怪に襲われる話でしたね~。蝉に襲われて身体のどこかを食われると、そこから皮膚がだんだん蝉の抜け殻みたいになっていって、最後は衣服だけ残して大量の蝉になってしまうっていう怪奇譚で~。なんとか山から脱出しようとするんですけど、次々と仲間は蝉に食われていってしまって――っていう」
「そりゃまた典型的なB級ホラーじゃのう」
「最初のうちはけっこう面白かったんですけど~。ヒロインが山の蝉神を祀る神社の巫女だったっていう設定が急に出てきて、最後は山の主の巨大な蝉と対決することになるっていう後半の展開がちょっと~、それはどうかと思いましたね~。どこからともなく大量の蝉に襲われるっていうのが良かったのに、全長数メートルの蝉の親玉とか出てこられても~」

 話を聞くだけでダメそうである。しかし、そんな小説をわざわざ借りパクする物好きが、果たしておるかのう、とマミゾウは首を傾げた。怒って突き返しに来そうなものだが。

「マミゾウさんも読んでみませんか~?」
「儂はそういうのは趣味じゃないのう」

 そんなことを話していると、詰所の戸が開く音とともに「楽しそうだな」という聞き慣れた声がした。ふたりが振り返ると、上白沢班リーダー、上白沢慧音の姿がそこにある。

「おお、班長殿。――ああ、そうじゃ、ちょうど良かった」
「なんです?」

 マミゾウは慧音に手招きし、昨日の小鈴との一件を手短に説明する。ふんふんと頷きながら聞いていた慧音だったが、住所に家が無かったというところでは明らかに眉を寄せた。

「最初からその本を盗むつもりでデタラメな住所を書いたんじゃとしたら、自警団で捜査すべき案件じゃあないかね?」
「難しいところですね。鈴奈庵から勝手に持ち出したならともかく、貸し出し手続きを経ているなら、盗む意志を立証しにくい。住所は書き間違えた、返すつもりはあったけれど忘れていた、と言われれば、あとは鈴奈庵と客の間の問題で、自警団が口出しすることじゃない」
「しかし、このまま本人が返しに現れなければ、どこの誰とも知れん輩にその本は盗まれたままじゃぞえ」
「――その本を借りていった客の名前は?」
「藤林、っちゅうらしいの。冴えない中年の男じゃったそうじゃが。鈴奈庵で本を借りるでもなく立ち読みしとることが多かったらしいの」
「あ、その人見たことあるかもしれません~。眼鏡を掛けて、革の手袋して、なんかこう、人生に疲れた感じの雰囲気の~。鈴奈庵でじっと本読んでるの見たことあります~」
「儂に言われても知らんわい」

 小兎姫の言葉に、慧音は「藤林……眼鏡と革手袋の中年の男……?」と腕組みして呟いた。

「班長殿、覚えでもあるんか?」
「――小兎姫、その鈴奈庵で見た男、店の中でも手袋をしていたんだな?」
「え? はい、してました~」

 小兎姫の返事に、慧音が頷きながらも、眉間の皺を深くする。

「なんじゃ班長、知っとるんか?」
「……知っている人間の気がするんですが、おかしいな」
「何がおかしいんですか~?」
「その人物が私の知っている人物なら、彼は藤林なんて名前じゃない」
「――店への申告も偽名じゃったっちゅうことかえ。本名は何ちゅうんじゃ」

 マミゾウが問うと、慧音は「ちょっと待った」と言い残して一度詰所を出て行く。数分後、戻ってきた慧音は一冊の帳面を小脇に抱えていた。それをぱらぱらとめくり、「やっぱり違う」と慧音は頷く。

「その男、私の知っている人間だとすれば――名前は藤林じゃなく、藤森のはずだ。藤森隼太郎。――去年この里に流れ着いて、そのまま里に住み着いた外来人だ。左手の甲に大きな火傷の跡があって、それを隠すために手袋をしていたのを覚えている」
「藤林と藤森? そりゃ書き間違えじゃあ……いや、自分の名前を間違えはせんか……」

 マミゾウが頭を掻いている傍らで、今度は「藤森隼太郎~?」と小兎姫が眉を寄せた。

「どうしたんじゃ」

 そう問うと、小兎姫は首を捻りながら、全く思いがけないことを言い出した。

「――藤森隼太郎って、私の記憶が確かなら、『空蝉の谷の底で』の作者ですよ~」

 マミゾウは、昨日小鈴とそうしたように、思わず慧音と顔を見合わせた。





      4

 ムラサとナズーリンが詰所にやって来て、自警団の仕事を交替したあと、マミゾウは小兎姫ととともに鈴奈庵へ向かった。この件に小兎姫もすっかり興味を覚えてしまったらしい。

「でも、藤森さんはなんでわざわざ自分の本を偽名で借りたんでしょうね~?」
「その藤森ってのが本当にその本の作者なら、まあ気持ちは解らんでもないのう」
「どういうことです~?」
「幻想郷は、外の世界で忘れ去られたものが流れ着く場所じゃろ。鈴奈庵の棚に自分の本があったっちゅうことは、自分の本が外の世界で忘れ去られたっちゅうことじゃ。作家にとっちゃ、それが一番悲しいことじゃないかのう。自分の書いたものが、もう外では誰の記憶にも残ってないっちゅうことじゃからな。いたたまれん気持ちにもなるじゃろ」
「ああ、なるほど~」

 頷いて、それから「そういえば~」と小兎姫は首を傾げる。

「マミゾウさんもつい最近まで外の世界にいたんでしたね~」
「そうじゃが」
「藤森隼太郎って作家、外の世界で聞いたことありました~?」
「初耳じゃ。儂も詳しいわけじゃないが、忘れられた作家じゃったんじゃろうな」

 外の世界なら、インターネットで検索すれば書店のサイトで著作は探せるだろうし、読者が感想を書いているのを見つけられたかもしれないが、幻想郷でそれを言っても仕方ない。マミゾウは外の世界では人並みに人間の本も読んではいたが、藤森隼太郎という作家は全く聞いたこともなかったのは間違いない。小兎姫から聞いた内容からすれば、忘れられるのもむべなるかなとは思う。著作はそれ一冊きりというような作家なのかもしれない。
 そんな話をしているうちに、鈴奈庵に辿り着く。時刻は夕暮れで、ちょうど小鈴が外に出てきて暖簾を下ろそうとしていた。マミゾウが近付くと、小鈴は振り向いて破顔する。

「あ、お姉さん、いらっしゃいませ。もう閉店時間なんですけど、見ていきます?」
「ああ、儂は今日は客として来たわけじゃないんじゃ」
「え?」

 首を傾げた小鈴に、「こんばんは~」と小兎姫が歩み寄る。小鈴は目をぱちくりさせた。

「あれ、小兎姫さんじゃないですか」
「商品を盗まれたかもしれないんですって~?」
「へ? あ、ああ、ひょっとして昨日の――」

 小鈴がマミゾウの方を振り返り、マミゾウは大げさに肩を竦めてみせた。



 というわけで、小鈴を伴ってやって来たるは稗田邸である。

「そういえば、阿求んちって戸籍管理とかもやってるんでしたね」

 幻想郷の記録者である稗田家は、里の歴史の編纂の傍ら、戸籍の管理も行っている。外来人も里で暮らしていくことを選べば、稗田家の戸籍に登録されることになるわけだ。藤森隼太郎が実際は里のどこに住んでいるのかは、稗田家で戸籍を確認するのが一番手っ取り早い。

「しかし、あの冴えないおじさんがあの本の作者だったなんて。人は見かけによりませんね」
「小鈴ちゃん、あれ読んだの~?」
「読みましたよ。もー、今が夏じゃなくて良かったって心底思いました。蝉の鳴き声が怖くて怖くて……大樹だと思ったら幹にびっしり蝉が貼り付いてたとか、想像するだけで気持ち悪いですよ、もう」

 白い息を吐きながら小鈴は言う。小鈴は普通に楽しんでいたらしい。ま、本の感想は人それぞれじゃな、とマミゾウは心の中だけで呟いた。
 ともかく、小鈴が門を叩くと女中が現れ、三人は屋敷の中に案内された。和室の襖を開くと、文机に向かっていた稗田阿求が顔を上げる。

「小鈴。……に、自警団の。妙な組み合わせですね」

 マミゾウ、小兎姫、小鈴という三人の取り合わせに、阿求は不思議そうに首を傾げる。「儂らは付き添いじゃよ」とマミゾウは小兎姫と脇に控え、小鈴が事情を阿求に手短に説明した。阿求は「成る程」と頷き、こめかみに指をあてて数秒目を閉じてから口を開いた。

「一年前にやって来た外来人の藤森隼太郎なら、中林靴店の経理係をしているはずですね。住所は確か――」

 と、資料を見るまでもなく阿求はすらすらと諳んじてみせる。稗田阿求は一度見たものは忘れないという話はマミゾウも耳にしていたが、実際に確認するのは初めてだったので、ほう、と感嘆した。今で言うなら人間グーグルかの、などと外来意識が抜けないようなことを考える。

「さすが人間記録台帳ね。そんなにどうでもいいことまでなんでもかんでも覚えてて、頭の中パンクしちゃわないの?」
「鈴奈庵の本棚と違って、頭の中が整理整頓されていると言って頂戴」

 里の象徴たる阿礼乙女も、同世代の友人相手ではフランクである。気の置けない友人同士という風情の小鈴と阿求のやりとりに、マミゾウは微笑ましいのうと目を細めた。



 稗田邸を辞したときには既に陽も暮れかけていたが、小鈴は構わず取り立てに行くつもりのようだった。マミゾウもどうせなら昨日自分と小鈴を振り回した藤森某の顔を拝んでやろうと、小鈴についていく。もちろん、小兎姫も一緒だ。
 里中央の稗田邸から西に歩くことしばし、中林靴店は既に店を閉めようとしていた。閉店作業をしていた店員に小兎姫が声をかけると、店員は訝しげな顔をしながら店に戻っていく。どうやら藤森隼太郎はまだ店にいたらしい。
 ほどなく、店の奥から姿を現したのは、ひょろりとしたやせぎすの顔に銀縁眼鏡を掛けた、なんとも幸薄そうな雰囲気の中年男だった。顔色もどこか土気色めいて、あまり健康そうには見えない。小兎姫の言っていた通り、左手に革の手袋をしている。男は小鈴の顔を見て、眼鏡の奥の目を見開く。

「あ――貸本屋の」
「藤林……いえ、藤森さんですよね。本の返却期限が一週間前に過ぎているんですが」

 小鈴が口を尖らせて藤森隼太郎に詰め寄ると、藤森はひとつ頭を抱え。

「――申し訳ない」

 と、あっさりと頭を下げた。そして顔を上げると、思わぬことを言い出した。

「延滞料金は払いますので――あの本を、買い取ってもいいでしょうか」

 小鈴は目をぱちくりさせて、藤森を見上げた。

「えっ? いや、まあ、希望されるなら販売もしますけれど」
「そうですか。それなら今代金を――」
「あ、いや、ちょっと待って。ええと……その前に確認したいんですけど。藤森隼太郎さん、ですよね? あの『空蝉の谷の底で』の作者さんってことでいいんですよね?」

 小鈴のその問いに、懐を探っていた藤森はぴたりとその動きを止めて。
 ――何を思ったのか、盛大に溜息をひとつ吐き出した。

「少し、場所を変えてお話させていただいていいですか」

 そう言い出した藤森に、マミゾウたちはただ首を傾げるしかなかった。



 藤森の家である長屋は、中林靴店から歩いて十分ほどのところにあった。

「粗茶ですが」
「お構いなく」

 マミゾウと小兎姫の分までお茶を淹れてくれた藤森は、火鉢を囲んで小鈴と向かい合うように座布団に腰を下ろした。小鈴が見知らぬ中年男の家に連れ込まれるのを黙って見ているわけにも行かずついてきたマミゾウと小兎姫は、小鈴の後ろに腰を下ろしている。
 藤森が取り出したのは、ソフトカバーの単行本だった。表紙には霞がかった深い渓谷の写真。『空蝉の谷の底で』とタイトルが明朝体で大きく記されている。

「まず、始めに誤解を解かせてください。――この本の作者は、私ではありません」
「えっ?」
「確かに私は藤森隼太郎です。が――この本とは全く無関係の、同姓同名の別人なんです」





      5

 ――この本が出たのは二十年ほど前になりますか。私は当時、外の世界の学生でした。
 本を読むのは嫌いではありませんでしたが、自分で小説を書くなど想像もしたことがない、ごく平凡な若者だったのですが、ある日友人から「お前、小説家だったのか」と言われてたいそう驚きました。
 書店で探してみると、確かにこの本が売られていたのです。もちろん、私が書いたはずがない。しかし何の因果か、本に書かれた作者のプロフィールも私と似ていました。生年は二年違い、出身地は隣の県です。
 まあ、はじめは「こんなこともあるんだな」と、自分と同じ名前を名乗る作者に不思議なシンパシーを感じたりもして、その本を買って帰りました。しかし――中身を読んで、いささか反応に困りましたね。正直なところ、面白いとは思えなかったからです。
 ところが。最初に言われたとき、その友人の誤解を上手く解けないまま別れてしまったのが失敗でした。その友人は口が軽く、私が小説を書いて出版していたという話は、私の周囲にあっという間に広まってしまいました。
 まあ、彼らを責めようとは思いません。田中とか佐藤とか平凡な名前ならともかく、藤森隼太郎という名前が、まさか同姓同名とは思わないでしょう。おそらくこの本の作者のもペンネームだと思いますが――被ってしまった身としては、全く困ったことでした。
 知人の何人かが、私に対して「読んだよ」と言ってきました。そうでなくても「小説書いてたんだって?」「サインくれよ」「印税ってどのくらい貰えるの?」なんて言われることが多くなりました。初めはいちいち誤解を解こうとしたのですが、どうも私の釈明の仕方がよくなかったようで、多くの場合謙遜してると受け止められまして。さらには読んだという人が、ものすごく歯切れの悪い褒め言葉をくれるのは、なんとも居心地が悪いものでした。
 ――不幸中の幸いは、この本が大して売れなかったことです。まあ、この中身じゃ仕方ないとは思いますが。文庫になることもなく数年後には店頭で見かけなくなり、私が小説を書いていたという話も大学を卒業する頃にはうやむやになっていました。

 だから、貸本屋でこの本を見つけたときはたいそう驚きました。
 そして同時に、昔なら覚えることもなかった、同情めいた感情もわき上がりました。
 この本も、私と同じように、外の世界で誰にも必要とされなくなったのだろうと。
 そう考えると、何か本当に、自分がこの本の作者だったような気さえしてきたのです。
 きっとこの本の作者だって、愛着をもってこの作品を生み出したのでしょう。たとえ、お世辞にも褒められた出来のものではなかったとしても。それなら、同じ名前の私がせめて、本棚にこの本を残しておいてやろうと、そう思いました。
 ――偽名とでたらめな住所を書いたことは謝ります。昔、誤解された経験から、本名や今の住所を書くのを躊躇ってしまったのです。
 そういうわけですので――どうか、この本のことは私が買い取るということで、お願いします。……まあ、里の人にまた誤解されては敵わないというのもありますが。
 さすがにそれは、自意識過剰ですかね。はは。





      6

 藤森隼太郎の家を辞したときには、とっぷり陽が暮れていた。

「とりあえず、これで問題は解決じゃな?」
「はい。ご迷惑をおかけしました」

 鈴奈庵の前まで小鈴を送り届け、マミゾウと小兎姫はそこで小鈴と別れた。もう自警団の仕事も上がっているので、あとは帰宅するだけである。
 大した事件でもなかったのう、と夜空に口笛を吹きながらマミゾウが歩いていると、隣を歩いていた小兎姫が不意に「……あの、マミゾウさん~」と呼びかけた。

「ひとつ、どうにも気になることがあるんですけど~……」
「なんじゃ?」

 マミゾウは首を傾げつつ、小兎姫に向き直った。小兎姫が何か事件に関して「気になる」と言い出すときは、たいていの場合、直感的に真相に近いところを探り当てたときなのだが――。

「実は――あの『空蝉の谷の底で』っていう本に、藤林っていう登場人物がいるんですよ」
「うん?」
「本に出てくる藤林さんは、ちょうどあの藤森さんみたいな幸薄そうな中年男性で――作中では生きてるのか死んだのかはっきり明言されてないんですけど、作中の藤林さんは手袋越しに左手を蝉に食われて、手袋を外すと左手の皮膚が蝉の抜け殻色に変わり始めていて、持っていたナイフで左手を自分で切り落とそうとしたところを蝉の大群に襲われて、そこで出番が終わるんですよね~……」
「――――それこそ、偶然じゃろ」
「ええ、そう思います~。でも、たとえばなんですけど~」

 暗闇の中、小兎姫は低い声で、言葉を続ける。

「たとえば……皮膚の一部が蝉の抜け殻みたいな色になっているのを、何も知らない誰かに見とがめられたら、火傷の跡だって言い張ったりするんじゃないですかね~……」

 ――左手の甲に大きな火傷の跡があって、それを隠すために手袋をしていたのを……。
 慧音の言葉が、マミゾウの脳裏に甦る。
 まさか、とマミゾウは笑い飛ばそうとしたが――不意に、その音が聞こえてきて、思わずマミゾウは振り返った。
 それは、冬から春になろうというこの季節では、決して聞こえないはずの音。


 ――ミィィィィィィン……ミィィィィィィン……。


 蝉の鳴き声が、冷え込んだ春先の夜の人里に、遠く微かに木霊していた。
蝉って気持ち悪いですよね。
浅木原忍
[email protected]
http://r-f21.jugem.jp/
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コメント



0.1030簡易評価
1.100絶望を司る程度の能力削除
え・・・怖い。ホラーじゃないかw
真実は、何処に…?
2.100名前が無い程度の能力削除
妖魔本の付喪神の亜種といった感じなんですかねぇ、彼は。まさに季節外れのホラー。
話の展開を読もうとする度に良い意味で違えてきてくれる、怖さもある面白い話でした。
3.90名前が無い程度の能力削除
探偵物かと思ったらホラーだったでござる。果たして真相は……
4.100名前が無い程度の能力削除
蝉っていうかこの男の人に哀愁を感じます
5.90名前が無い程度の能力削除
>マミゾウが近付くと、小兎姫は振り向いて破顔する。
×小兎姫 ○小鈴

この作者だしミステリだろうと思って読んでたら最後が予想外過ぎた……
6.100名前が無い程度の能力削除
なにこれ怖い
いったいどうなるんでしょう
7.100智弘削除
ちょっと、奇妙な味っぽくて、好みの話。
面白かったです。
8.80奇声を発する程度の能力削除
面白かったです
10.80名前が無い程度の能力削除
蝉はグロテスクです。耳をつんざく鳴き声も、見た目も、そして生態も。
13.100名前が無い程度の能力削除
まさかホラーな展開で終わるとは
17.100名前が無い程度の能力削除
ミステリ期待で読みましたがこれはこれで。
19.100名前が無い程度の能力削除
いつもの自警団上白沢班シリーズだろうと思い、外伝短編風だからと軽い気持ちで読んだらまさかの展開とオチでびっくりしました。
でも、とても内容も良くてさらにオチが新鮮だったのでとても良かったです。たまにはこういうお話も良いですね。
20.90非現実世界に棲む者削除
おお、これは面白い。
原作を読みたくなってきた。
21.100名前が無い程度の能力削除
おおう、これは怖い。
上白沢班シリーズの外伝と聞いたのでサスペンスを予想していましたが、
これはなかなかのホラーでした。
24.100名前が無い程度の能力削除
作品が忘れ去られることによって、作中の登場人物や妖怪が幻想郷へ…
しかし、妖怪退治のメッカなので案外あっさりと退治されてしまうかもしれませんね
27.100名前が無い程度の能力削除
怖い!でも面白い!!
33.100名前が無い程度の能力削除
そ影絵で想像してしまって…ひゃー怖い
35.100名前が無い程度の能力削除
ふおおぉぉぉぉぉ…Σ(゚д゚lll)