この作品は前作『東方与太話~0フラグ付近から始めるひじりん攻略@とらまる☆~幕間其の弐』からの続き物となっております。
――Who is missing?――
風切り飛び行く聖輦船、ナズーリンはその船室の窓から移りゆく景色をぼんやりと見つめていた。瞳に世界を映せど心はそこに在らずといった様子である。
「あ゛~……ご主人、今頃どうしてるかねぇ……」
自分が寅丸の心配などらしくないと、そう思う。
千年間も連れ添って、それこそうんざりする程拝んだ顔だというのに――離れてみれば、それはそれで寂しいと思うのだから不思議なものだ。
誰にでもなく呟いたつもりのナズーリンであったがしかし、その声に応える者がいた。
「心配しなくとも今頃は聖とくんづほぐれづゴロゴロしてる頃じゃないですかね?」
「なんだ船長か、わざと誤解を招くような言い方をするのは感心しないな……いや、するけど良い感心とは言い難いね」
「それは失礼、貴女が柄にもなく神妙な顔つきでいたものですから……茶化したくなるでしょう? そういうの」
「お~い一輪、どうにかならないかな? この人」
ムラサの気紛れに付き合っていると気疲れする事は目に見えている。ので、彼女の扱いに長けた一輪に助けを求めたのだが……助けを求められた当人はというと――
「……雲山が一人、雲山が二人、雲山が三人、雲山が……」
親友の暴挙によって千年来の連れ合いと唐突に生き別れる事になったショックからか、眠れもしないのに不貞寝していた。とても話が出来る状態ではない。
「ああ、駄目か……」
「そう、先程から一輪はあの様子で取り憑く島もありません。故に私は退屈で仕方が無いのです。さぁさぁ観念して下らぬ世間話に花を咲かせようではありませんか?」
ナズーリンは諦めてムラサの戯言に付き合うことにした。大丈夫、聖輦船がご主人と聖の所へ着くまでの辛抱だ。そう自分に言い聞かせた。船が目的地に到着する気配は一向に無い。
「世間話と言ってもね船長、君を満足させるような話題の持ち合わせなんて無いと思うよ?」
「ええ、ですから下らぬ話をしようと、そう言ったではないですか。何でもいいのですよ。例えばそう、寅丸が失踪した理由とかそんな程度のことでいいのです」
ナズーリンは一瞬狐につままれたような顔になり、すぐに平時の取り澄ました表情に戻った。
「全く、誰も彼も……お節介な事だね?」
「勘違いして貰っては困りますね。単純に気になっただけで他意はありません」
丸っきり心外だと言わんばかりのムラサを横目に、ナズーリンは呆れたように溜め息を吐く。つい先程までは白蓮と一輪の追求をかわすのに四苦八苦していたと言うのに、一難去ってまた一難。おまけに今回の相手は状況を楽しんでいるぶん性質が悪い。さてはて、どうしたものだろうか?
「船長、そういう話は本人を差し置いてするもんじゃないだろう?」
取りあえず一つ、ありきたりな牽制をしてみる。これでムラサが引き下がってくれるなら多分苦労はしない。
「わかってないですね、ネズミ君。こういう話は本人がいないからいいんじゃないですか? むしろ本人の口から聞けばそれは唯の事実に過ぎないのだから面白味に欠けると言うものです」
「船長、意味がわかんない」
「いいですかナズーリン、当事者である寅丸がこの場にいない以上、貴女の語る言葉のウラを取る事は私には不可能なのです。貴女は主を想い、私に嘘を騙ることも出来ますし、逆に事実を面白おかしく脚色して語ることも可能なのです。そして私はそんな法螺か与太かも判らぬ話を聞いてアレコレと勝手な事を言う。ほら、少しばかり愉しい気がしてくるでしょう?」
ナズーリンに理解出来たのはムラサの感性が理解不能だという事だけだったが、この際それはどうでもよかった。
「よく言うよ、大方の見当はついてるくせに。生憎と私は船長と腹芸を競うほど酔狂じゃないよ」
村紗水蜜は喰えないヤツだ。ナズーリンは常日頃からそう思っている。彼女の気質は――その表現が適切かは兎も角、一言で表すならば海だ。
海を一言で説明するのは自分には不可能だ。海は不思議で、不可解だ。あとちょっとだけ、怖い。
客観的に見ればそれは丸い地球の表面を覆っている濃度3%程度の塩水の集合体に過ぎないと言うのに――その正体は紛れも無く巨大な、唯々巨大なだけの水溜りだというのに――何故か人を惹きつけ、包み込み、時にそのまま飲み込んでしまう。唯の水溜りのくせにまるで確たる意志が在るように振舞う。実際には周りの――空や天の運行に合わせて動いているだけなのに、その規模と身振りが余りに大袈裟で、なまじ目に見える色と膨大な質量を持っているせいでまるでソイツが主体であるように錯覚させる。
全体としてひとつで在るはずなのに、所によってその在り様を自在に変幻させる。透き通っていて肚の底まで丸見えなこともある一方で、裡にあるはずの山も谷も覆い尽くして平面にしてしまっているのもまた事実だ。広い世の中には紅い海まであるという。果ては空に浮かぶ月にまで海はあるというのだからもう訳が解らない。不可解だ。
何時だったかご主人――代理ではない方の毘沙門天から聞いたことがある。昔も昔、それこそ神代のさらに前、海はその全てが氷で出来ていたと――その唯でさえ途方も無い質量を凍てつかせることで更に膨張させ、人も動物も締め出し、拒絶していたと――
全てを受容したかと思えば全てを拒絶する。結果、惑わせる。明確に矛盾した性格を当たり前のように裡に孕んでいる。
自分にとって海とはそういうものだ。
自分にとって村紗水蜜とはそういうものだ。
何故に彼女がそんな複雑怪奇な気質を持ちえたか、実質的な付き合いの短い自分には推し測るより他に術など無いけれど――それはきっとムラサの遍歴に起因するんだろう。船長にして船幽霊。それが現在のムラサの在り方だ。己が船に乗る者を目的地へと導く一方で、いたずらにその心を迷わせる。そんな矛盾した性質の持ち主。
いや――きっとそれは特殊な事じゃない。誰しも――そう、自分だってそうだ。白と黒、明と暗、清と泥。その両極端の間でゆらゆらと揺れながら生きている。その証拠に自分は灰色だ。誰も単一色でなど生きてはいない。ムラサが自分の目に奇異に映るのはそう、単純に波が激しいからというだけなんだろう。
今回の件にしたってそうだ。実際のところムラサが何かを望んで行動を起こした訳じゃない。彼女は唯、船長として自分が出来ること、すべきだと思う事を実行に移しただけだ。唯、彼女の場合、やる事なす事がいちいち度を越してしまうだけだ。
幽霊なのだから浮いてしまうのは仕方ないがもう少し落ち着いてくれ。矢っ張り不可解だ。第一海だ何だと言う前に自分は水が苦手なんだ。ドブネズミじゃないから。
なんだか頭痛が痛くなってきたな。ナズーリンはそう思い、目の前の人物に対する洞察を僅か二秒で断念した。そんな彼女の心中など知ったこっちゃ無いムラサはつまらなそうに言う。
「つれませんねぇ……まぁ貴女の言う事はもっともですね。あの花咲か頭の寅丸が悩む事といったら聖のことに決まっています。一体何をズルズルと引きずっているのやら……」
「まぁそうなんだけど……あの人は八百年もたった一つの事に囚われ続けていたからね……」
「それはそれは、余程に味気の無い八百年を過ごしたんでしょうね?」
「否定はしないよ。聞きたいかい? 愚痴にしかならないと思うけどね」
「いえ、全然。そんな鬱々とした話を聞かされるくらいなら一輪をいじくり回してる方が幾分かマシです」
きっぱりと言い切ってムラサは一輪の方へと歩いて行った。
「話を振っておいて放置とは……やっぱり船長は喰えないね」
ナズーリンは若干遣り切れない想いを抱きつつも窓の外を眺める作業に戻ることにした。次の嵐が来るまでには到着しますようにと、そう願った。
寅丸星は空を見上げていた。
自分が気を失ってから、どれだけの時が過ぎたろうか?
疼くように痛む腹に手を遣り、大した時間は経っていない事を確信する。
起きる事も叶わず、寅丸星はぼんやりと――蒼い空と白い雲を見ていた。
果ての無い空にはふわふわと漂う無数の綿雲。その一つに雲山の姿を見た気がして――ああ、自分は疲れているのだな――そう思い、こてんと頭を倒し横を向く。
そこには背を向け立ち尽くす白蓮の姿があった。
かつて白蓮の、寅丸の、ナズーリンのムラサの一輪の――多くの人と妖怪にとっての家同然であったこの場所。今は半ば瓦礫の山と化し、残り半分は黴ている。既に建物とすら呼べぬ残骸。黴ているのは寅丸が管理を放棄した所為であり、半壊しているのは白蓮が先程ぶちかましをかけた所為である。
穏やかな風に外套をはためかせる白蓮の後姿が寅丸には何故か――泣いているように見えた。
「聖?」
その先に続ける言葉のあても無く、それでも声を掛けた。理由など無い。理由など無いが……その時の寅丸には放っておけば白蓮がまた、何処かに消えてゆくような気がしたのだ。あの時のように――
「あら寅丸様、目が覚めましたか?」
呼ばれて振り向いた白蓮の顔はいつもと何ら変わらぬ、穏やかな微笑みを湛えていた。
「何をしていたのです?」
「何を……ですか。そうですねぇ……何でしょうね? よくわかりません」
「なんですかそれ……」
お互い言っている事にとりとめが無さ過ぎると思いつつ、それでも寅丸は笑った。
きっと千年振りに自由の身となった今の聖には何も悩みなんか無くて――彼女の後ろ姿や笑顔を見て胸が痛むのはそう、自分がいつまでも下らぬ過去を引きずっているせいに過ぎないのだと――彼女に落ちる暗い影は自分の気の迷いが生み出した幻に過ぎないと――そう思ったからだ。
聖は悲しくないし、苦しくない。それならば自分も笑うべきなのだ。
鉛のように重たい躰を無理矢理起こし、寅丸は白蓮のもとへと歩み寄る。傍らに立ち並び、その視線の先を追う。そうした寅丸には白蓮が何を見ているのか分からなかった。
白蓮は寅丸の方を見ず、呟くように言う。
「何となく――懐かしいなぁと思いまして……」
「ああ、どうりで……いえ、気にしないで下さい。こっちの話ですから……」
寅丸には白蓮が何を見ているのか分からなかった。当然だ。虚空を眺めるその瞳は既にこの場に存在しない、過ぎ去った思い出を映していただけなのだから。
先程の、夢現の境界でふらふら揺ら揺らと彷徨っていた自分もまた、端から見ればこんな様子だったのだろうか? 今度ナズーリンにでも訊いてみようか?
寅丸の言葉の意味を理解できず、首を傾げる白蓮に対し、彼女は問いかける。
「聖はこの場所を覚えてるんですね……千年の時が経ち、見る影もない有様だというのに」
「当たり前じゃないですか」
「そうですかね?」
「そうですよ」
とてもそうは思えなかった。寅丸が知る限り、千年前のこの場所を覚えている人間など白蓮を除けば誰も存在しない。無論、人間の寿命は短いから当時を生きていた人間が存在しないのは自然な事だ。そういう意味では幻想郷には不自然なものが存在するのだが――それは寅丸にとって未だ知りえぬ事だった。
そうではなく、この場所の存在――その意味は誰からも忘れられてしまった。
この場所が寺院であった事、そこに白蓮や寅丸がいた事、ヒトと妖怪、かつてその間に横たわっていた深い溝が愚かな諍いを生み、彼女を飲み込んでしまった事――過ぎ行く時間の中でそれらの出来事は悉く人々の記憶から消え失せた。
そうしてこの場所はいつしか、木々と草花に埋もれ、佇むだけのものに――誰からもそうとしか認識されぬ程度のものに成り下がってしまった。ヒトに語られず、歴史にも記されず、その存在を証明する者もまた、自ら望んで忘れられた場所に閉じこもり、忘れられた。故に今、この場所は幻想郷に在る。
だから――聖白蓮は例外なのだ。それが問題なのだ。
「聖は――きっと解放されたのが一万年後だろうが一億年後だろうが同じように覚えていたのでしょうね?」
「たぶん、そうでしょうね。あそこでは思い出に浸っている他にする事もありませんでしたし」
あそこ――白蓮の封印されていた赤黒い場所――正確には封印式の内側が如何なところであったかなど寅丸には分からないが、白蓮が何一つ忘れていなかったのは事実だった。
あの時、封印を解かれた白蓮と対峙した時に寅丸は確信させられた――ああ、何も変わっていないと――。
「聖、一体どんな術式を組んだのですか? あの封印は貴女が自分で組み上げたものでしょう?」
「あら、言いましたっけ? そのこと?」
怪訝そうな顔で尋ねる白蓮に対し、寅丸は説明するのも億劫だというように語る。
「聖が封印された状況を考えれば他に該当者がいないというだけの事です。貴女ほどの力の持ち主を封印する術式を組める者などそうはいませんし、仮にいたとしてその封印の鍵二つが二つとも封印される者に縁の深い物だなんてお粗末に過ぎます。それでは貴女の復活を願う者に解いて下さいと言ってるようなものじゃないですか。何より『術式は既に組んである』と――そう言ったのは聖、貴女自身です」
「よく覚えてますね? そんな昔のこと」
「’当たり前’じゃないですか?」
「ああ、そうでした。一本取られましたね」
白蓮は笑う。寅丸は嗤う。屈曲した言い方しか出来ない自分を。当たり前などではないと――そう否定される事を期待する事しか出来ない自分を。
「確かにあれを組んだのは私ですが……封印と言っても大したものじゃありませんよ? 内外を断絶するだけのもので中には何も」
「何も、ですか……」
「ええ、本当に何も。必要最低限の生活空間とあとは真っ白な世界が広がるだけです。おかげでとても退屈でした」
「あの封印の中がそのようになっていたとは……まさかとは思いますがそこでの一年はこっちでの一日なんて事は?」
「ないですないです。何処から出て来たんですかそんな発想」
「そんな事は作者に聞いてください」
「作者? 何のです?」
「口が裂けても言えません」
巫山戯た事を言いながら、寅丸はその光景を想像していた。白い、単一色の世界。空の蒼も山の緑も夕暮れの茜も無い、黒い夜すら無い世界。
視界を遮るものなど何も無く、その上で視界に映るものが存在しない。そんな世界。
ああ、そうか……同じなのだ。薄暗い箱の中で八百年を過ごし続けた自分と何も変わらない。寅丸には合点がいった。
「なるほど、忘れない訳です」
何も無い場所に何かが生まれる理由は無い。過ぎ去った思い出がどれ程に風化し、色褪せようとも……新しい思い出が生まれないのならそれを忘れる事など出来はしない。詰め込むものも無いのに中身を捨ててしまったら何も残らない。それは自分自身を、その足で歩んできた歴史を否定することに他ならないのだから――
「聖は忘れなかったでしょう、例え――」
そう、例え――
「私がそれを願ったとしても――」
ピタリと、欠けていたものが心の空白に嵌るのを感じた。
夢の中にも見出せなかった失くしもの。記憶。
或いはそれは、見つけ出さない方が良かったのかも知れない。それでも、寅丸は見つけてしまった。
自分が八百年間もの永きに渡って愚仏に身をやっしていたその理由。
あの日、解放された聖と――千年前と何も変わらぬ聖と相対するまでは確かに心に留めていたはずの想い――
「『聖は私達のことなど忘れていますよ』……ねぇ……」
空行く聖輦船、一向に寅丸と白蓮のもとへ到着する気配の無い船の一室で、ナズーリンは相変わらずの窓辺に座り、呟いた。
「やぁやぁネズミ君、独り言は他人に聞こえない所で言わないと寂しい人だと思われてしまいますよ?」
「なんだまた船長か、人に聞かれた以上独り言じゃないから問題ないよ。それより一輪のご機嫌とりはもういいのかい?」
背後からかけられた言葉に反応して振り向いたナズーリン。彼女の視界には頭から景気よく流血しているムラサと……それを為したであろう一輪が船室の角でふてくされているのが見えた。
「ケンカする程仲がいいとは言うけどね……ちょっと過激じゃないかい?」
ナズーリンとしても親友同士がいがみ合うのを見ているのは気分の良いものではない。とはいえ今回に関してはそれも致し方ないと言える。一輪は長年連れ添った親友を失い、その原因となったのもまた長年の親友で――その親友はといえばまるで何事も無かったかのようにけろりとしているのだから。
ムラサは一向に気力を快復させる気配を見せない一輪に業を煮やし、じゃれつき、挙句の果てに雲山張りの拳骨を食らって逃げてきたところだった。
「お手上げです。私には尼の岩戸はこじ開けられそうもないですね」
「そもそもこじ開ける類のものじゃないだろう……」
「そう、そこで誰かさんにならいましてね……貴女と私が愉しくおしゃべりしていれば一輪もそれこそ火に誘われる蛾の如くふらふらっと……」
一輪は船室の隅に暗い影を落とし、膝を抱えて座っている。そちらから聞こえた舌打ちの音を聞いたナズーリンはげんなりした様子で言う。
「誘い寄せる本人に魂胆が筒抜けじゃ意味がないと思うよ?」
「当たり前です。船長たる私がそんな人を騙すような真似をするはずが無いでしょう。押して駄目なら一旦引いて全力で押せ。今は小休止というだけです」
「言ってることが180度ひっくり返ってるじゃないか。第一……いや、何でもない」
「なんです、鼠のくせに歯切れが悪いですね」
つい先日、自らを囮にして巫女達を魔界まで連行して見せたのは誰だったのか――ナズーリンはそう言おうとして口ごもった。
実際、あの時のムラサの働きは見事なものだった。ナズーリンはそう思っている。
当初の予定では船に乗り込んできた巫女を一輪がのし、飛倉の欠片を回収して終わりのはずだった。
行き当たりばったりで大雑把な……作戦とも呼べぬ作戦。その時点で一輪もムラサも相手の戦力を測り損ねていた事は否定できない。もっともそれは、あの巫女が異常だというだけで仕方のない事とも言えた。
しかし、一輪陥落の報せを受けたムラサは即座に計画の修正に踏み切った。自分達の力では巫女を倒す事は叶わない。ならばと――ムラサはその時点で聖輦船内に在った全てを囮として使う策を立てた。
興味本位で聖輦船に乗り込んでくる有象無象の妖精共を言葉巧みに懐柔し、巫女にけしかけた。最終的に自ら巫女の足止めを買って出た時も一秒でも時間を稼ごうと弾幕を張り続けた。結果、巫女が気付いた、いや、気付かされた時には彼女は引き返す事の出来ない地点に到達していた。
そういう事を平然とやってのけるのだ、この船長は。下手な事を言って挑発すると後が厄介だ。
「まぁせいぜい頑張っておくれよ……」
「ええ、頑張って貴女をおちょくりたいと思います」
「ちょっと待った、前言撤回。面舵一杯回れ右。押して駄目なら休まず押してておくれ」
「そう、それで先程貴女が言っていた事ですがね? 何だって寅丸はあんな馬鹿げた事を言ってたんでしょうね?」
ナズーリンが呟いていた言葉はムラサにも聞き覚えがあった。棚からぼた餅で千年振りに地上に出たムラサと一輪が真っ先に向かった先、黴果てた廃寺で聞いた言葉だ。言ったのは彼女の旧友。どうしようも無くやさぐれた、虚ろな目でそう言い捨てた寅丸に対してムラサは迷う事無くいかりを投げつけたものだった。
ムラサには理解不能だった。自分が聖を忘れていないのに聖が自分を忘れる理由などありはしないではないか――と。
ナズーリンにもまた理解不能だった。何故に目の前の船幽霊はここまで徹底的に他人の話を無視できるのか――と。
ナズーリンは激怒した。此の傍若無人の船長を遣り込めねばならぬと決意した。
目には目を、歯には歯をである。ムラサがあくまでマイペースを貫くならば自分もまたそうしよう。げっ歯類の恐ろしさを彼女に知らしめるのだ。
「ねぇ船長? 昨日の朝餉が何だったか覚えてるかい?」
「……はて? 唐突に聞かれましても……仏蘭西料理のフルコースじゃなかった事は確かですが……」
全くもって予期せぬ問いかけにさしものムラサも少々戸惑った。
「正解は白米と味噌汁と生卵とお豆腐。つまりそういう事なんだよ、記憶というやつは頼もしいようで酷く頼りない」
「ふむ?」
何やら一本取られたようで実のところそうでもないのではないか? ムラサはそう思う。
「しかしナズーリン、寅丸と朝ごはんの生卵を同列で語る訳にはいかないでしょう? 私は別に構いませんが少なくとも聖にとっては――ああ、本当にバカですね。大馬鹿者です」
「ああ、そうだね。’だったらどうしよう’なんて話で八百年もうだうだと思い悩んでたんだからね。唯、それに関しては二人の性格のせいでもあったと思うよ?」
「ふむ?」
「知っての通り、ご主人は失くし物が多い。それは言い換えるなら忘れっぽいって事でもあるんだ。毎日使っている物、身に着けている物すら何処かに置いて置きっ放し。置いた事すら忘れて私に泣きついてくる事なんかしょっちゅうだったからね。いやいや、泣きついてくるならまだましさ。最悪の場合、忘れたことすら忘れてる。自分の物を失くして――その事実すら置き去りにして来るんだから見てる方がヒヤリとする」
「何といいますか……その様でよく千年間も聖のことを覚えてましたね?」
確かに昔から抜けたところはあった気がする。気はするが……そこまでだっただろうか?
こめかみに手を当てて唸りをあげるムラサの姿に苦笑しながら、ナズーリンは答える。
「逆だよ船長、聖のことを覚えていたから――覚えていようとしたから他の事なんかろくすっぽ覚えてられなかったのさ。人も妖も過去の記憶を片っ端から忘れていくのは変わらないんだ。記憶の対象が目の前に無いのなら尚更さ。第一考えてもみなよ? 二人が共にあった時間は高々数十年の話でこれは妖怪の一生に比すれば相当に短い。ふと気を抜けば夢にしてしまって不思議は無いような儚い記憶だよ。事実、あの人にとって聖は半ば以上に夢の中の存在と言えた」
「夢ですか」
「そう、夢。永い永い生の中で繰り返し見る数多の夢。聖白蓮とは自分が一夜のうちに見た夢物語に過ぎないんじゃないかってね。だってそうじゃないか? 目を覚まして辺りを見回せば彼女を知るヒトなんて何処にもいないんだから……」
人生は邯鄲の夢かと、ムラサは自らの知らぬその光景に想像を巡らせる。夢枕、柔らかな布団の――自らの温もりに包まって見る景色。
人気者だった聖、栄盛を極めた寺院。まだ若く、ガチガチに緊張しながら毘沙門天としての仕事をこなしていた寅丸星。山門の守護兼受付嬢だった一輪。
自分は聖の背にべったり取り憑いて、そんな日常を瞰視していたっけ……ああ、違う違う。寅丸の見る夢なのだから……自分などは児啼爺か婆のように見えていたのかも知れない。全くもって失礼なことだ。まぁ、あれも元々が人間だというし船幽霊の自分と大差ないと言ってしまえばそうなのかも知れない。
幸せな日常、永遠に続くと思えた風景。唐突に終わる夢。
パチンと覚めれば周りには誰もいない。朝ごはんのお米すら炊き上がっていない。って……?
ムラサはハッとして問いかける。
「何処にもいないってナズーリン、貴女は?」
「私かい? 私じゃ駄目さ。私の知る聖白蓮はほとんど全部がご主人から聞かされたものだからね、裏返せばあの人の知らない聖白蓮の事は私も知らない。それじゃ彼女の存在証明には届かない。私に出来たのはせいぜい、夢ではないと――そう自分に言い聞かせるように夢の内容を語るあの人に合いの手を入れてやる事くらいだったよ。だからあの日――船長や一輪が尋ねてきた時、ご主人は内心では嬉しかったんだと思うよ?」
「ううむ……」
ムラサは腕を組んで考える。どうも釈然としない。というか話の筋をずらされている。
「納得がいきませんね。確かに私は聖に関して寅丸が知りえぬ部分を知っていますし、それが聖白蓮が存在した証になるというのも認めましょう。しかしその事と’聖が寅丸を忘れる’という事は関係がないでしょう?」
ムラサの問いかけに対してナズーリンは答えにもならぬような応え方をした。
「ご主人は聖の事を忘れたくなかったから他の事を忘れ続けた。優先順位の低いものから優先的に忘れていったんだ。それに対して聖はどうか? 彼女は全てに平等じゃないか? それこそ心の篭った惣なら何に対してもね。なら――全てを平等に忘れていくのも自然な事だと――そう考えたのかも知れないよ?」
「……」
ムラサはナズーリンが語る内容に違和感を覚えずにはいられない。
「しかしナズーリン、先程の貴女の言い方だとまるで――そう、まるである朝寅丸が目を覚ましたら周りの人間が皆、聖の事を忘れていたと――そう言っているように聞こえましたよ?」
「それに近い感覚に陥る事は多かったんじゃないかな? あの人が語る聖の夢はいつだって同じ場面の繰り返しだった。聖が封印される直前の悪夢ばかりを繰り返し見てたんだ。覚めれば泡沫と消える筈の夢を現で心に留めるにはそれが一番だからね。まぁ……その瞬間がご主人の脳裏に一番鮮烈なイメージを刻んだという事実もあるんだろう。別れの夢を見る、その度にあの人の心はその瞬間に引き戻される。反面、覚めた目に映るのは残酷な時間の流れの結果さ。過去に留まろうとするあの人の心とは裏腹に誰も彼も聖の事なんか忘れてるんだ。それはどんな気分なんだろうね?」
寅丸が見ていた夢は自分が想像したものとはかけ離れた内容だったようだ。ムラサは少しだけ同情した。
自分も悪夢を見ることはある。聖に会う前などはしょっちゅうだった気がする。自分のあれは――やはり船なのだろう。
潮風と波の音。緩やかな揺動を繰り返す足元。穏やかな揺籃のような――心地よい浮遊感を伴った夢。故なき安心感を与えられ、唐突に奪われる夢。
ズブリと、前触れなく沈み込む足元。冥い、深い塊に飲み込まれてゆく。そんな夢。
もがいてもがいて腕を伸ばして――そうして目を覚ます。手に掴んでいるのは大抵の場合、名も知らぬ船か人の残骸だった。
ぶるんと、大きく頭を振ってムラサは気を取り直した。
「浦島太郎ですね。おおよその事は解りました。が……」
ムラサは更に考える。ナズーリンの説明は仮説を混じえながらもそれなりの説得力を持っているように思える。ただ――疑問が残る。それを晴らさないことには納得は出来かねる。
「ナズーリン、最後の質問です。その説明だと貴女も寅丸も千年間、聖が人々の記憶から消え去るのを手をこまねいて見ていた事になります。貴方達にその気さえあれば……聖の名誉を挽回する事も出来たのではないですか?」
ムラサの質問に対し、ナズーリンは仄かに笑って答えた。とても明確な答えだった。
「手をこまねくも何も……今か今かと待ち焦がれていたんだよ。出来る出来ないじゃなく、しなかったんだ。人々の記憶から忘れ去られる事は去り際に聖白蓮が願った事であり、結果的、最終的には寅丸星が望んだ事なんだから」
「マイナスから始めるか、ゼロから始めるか……私にとっては、そういう問題でした」
ゆっくりと、寅丸は語り始める。自分の歴史――白蓮を封じた後、自分が何を想い、結果何をしてきたのか。
そうせねばならないと――語った後に自分が彼女にどう思われようと、語らずして先には進めぬと思った。
「貴女を封じた直後、私は何も考えられず、途方に暮れていました。頭の中では別れの際の貴女の言葉の数々が反響し、とても神仏として働けるような状態ではなかった。暗澹とした気持ちのまま訳の解らぬ貴女の言葉をひたすらに反芻し続けて一週間、ようやく気持ちの落ち着いてきた私は一度心を無にして己が裡に問いかけました。自分は何をすべきか?――その問いに対する答えは見出せませんでしたが……自分が何をしたいかという問いに対する答えははっきりしていました。その決断に関して言えば、私は一切後悔していません」
白蓮をみつめる寅丸の目はひたすらに真っ直ぐだった。
本当に――その想いだけは間違ってはいなかったと――今でもそう思う。
「聖、私は貴女が帰る場所を取り戻したかった」
唯、それだけを願った。人の為でも、妖怪の為でもなく、自分が望むままに行動する事を寅丸星は選択した。
唯、呆然としたままに白蓮を失って……その上で成り行きまかせに、流されるままに生き続けるなど耐えられはしなかった。
楚々と佇み、沈黙を貫く白蓮に寅丸は語り続ける。
「聖白蓮を復活させる。唯物的な意味ではなく、あらゆる意味で――ヒトの信頼も、妖怪の信仰も、かつて貴女が持っていた全てを元通りに還してやりたいと――そう思い、私は自分に出来る事を考え抜きました。闇雲に貴女の封印を解けば同じことの繰り返しになるだけです。人々は貴方を怖れ、疎み、貴方もまた、自ら消えゆく事を選択するでしょう。ならばどうするか? 問題解決の糸口は貴女が遺した言葉にありました。いえ、成ったと言った方が正しいですね」
それは千年前の寅丸にとって天啓にも似た閃きだった。
聖白蓮の威光を取り戻す。その一点から見た時、意味不明だった筈の白蓮の言葉の一つ一つが眩いばかりの光を放ち、寅丸の行く先を照らす光明となった。
「去り際に貴女の仰った言葉は正しかった。一度ヒトの心に根付いた疑念を完全に払拭する事は例え神仏の類であっても容易ではありません。仏がヒトを生かすも殺すも、ヒトが仏を生かすも殺すもヒト次第。ヒトの信仰なくしてその存在意義を定義できない仏は結局の処、ヒトの望む形でしかその存在を許されません。私が貴女の名誉を復権させようと弁を尽くしたところで人間達が耳を傾ける筈がない事は容易に想像がつきました……故に私は、人前で聖白蓮について語る事を自らに固く禁じました」
それは白蓮が示唆したように、寅丸自身が人間から疑われない為の行為でもあった。
何も寅丸は自分の身が危険に晒される事を恐れた訳ではない。彼女の計画を成就させる為には自身が毘沙門天として人々からの絶対の信仰を受けている事が前提条件だった。
故に寅丸は人々の前では毘沙門天として完璧な振る舞いを続けた。
民草に仏の道を説く一方で財宝神としてのご利益も遺憾なく発揮し、非の打ち所も無いほどであった。
彼女には休む暇など無かったし、休むつもりも無かった。一心不乱に、人の信頼と信仰を掻き集めた。
心に決めた、唯一つの目的の為に――
「『私の事など忘れて下さい』と、貴女はそう言った」
「―――――」
白蓮は何も言わない。琥珀色の瞳は何も語らない。
寅丸はゆるゆると首を振り、続ける。
「私にはその言葉の真意は解りかねましたが少なくとも……一つの考えを与えてくれるきっかけにはなりました。私は人々の中の聖白蓮という存在を一度白紙に戻し、ゼロからやり直そうとしたのです」
静かに――嘲るように笑った。何とも馬鹿げた話だと、自分でもそう思うのだ。
「ねぇ聖、皮肉だと思いませんか? 貴女を救うために何が出来るか考えた結果が’何もしないこと’なんですから……」
それは永い、人間に比して余りに永い命の持ち主である妖怪だからこそ取り得た手段だったと言える。
寅丸がした事は唯々に毘沙門天としての徳を高める事だった。人々の心が、信仰が、寅丸に向かえば向かうほど人々は目の前から消えた白蓮を――自分達のかつての偶像を忘れてゆく。
わかり易い現世利益に傾倒するのは人の常だ。それは儚い一生の中でささやかな幸福を願うその心の在り方として当然の結果だった。自分達の信頼を裏切り、妖怪に与した、堕ちた偶像の遺影をいつまでも心に抱えていても重荷にしかならないのだから……
「私にとって待つ事はさほど苦痛ではありませんでした。日が昇り、あっという間に夜が来て――またあっという間に日が昇る。矢のように飛びゆく日々。人々が貴女を忘れる事を願い、貴女の夢を見て過ごした雌伏の日々はまた、貴女の為に生きているという事が実感できる至福の時でもあったのです……そうして二百年の後、人々の心から聖白蓮という存在は完全に忘れ去られました。同時にその瞬間は私の毘沙門天としての絶頂でもありました」
あの頃の自分の姿を見せたら聖はさぞ歓んでくれた事だろう――寅丸は最早叶わぬ願いをふと心に浮かべ、すぐに握りつぶした。
本当に、そこまでは計画通りだったのだ。あとは白蓮の封印さえ解けば万事解決という所まで、何の障害もなく辿り着いた。
無論、寅丸の胸の裡には都合よく白蓮のことを忘れた人間達に対する憤りの気持ちがあった。高々――そう、高々百年や二百年で忘れてしまえるような、その程度の事で白蓮が封印されねば――封印せねばならなかったのかと思うと遣り切れなかった。
しかし、そんな私憤すら瑣末な事と思えるほど、彼女の心は歓喜と希望に満ち溢れていたのだ。
すっと――寅丸は右手を白蓮に差し出し、哀しい、空っぽの笑顔を浮かべた。
その瞳に映るのは今ではない。過ぎ去った景色。遠い遠い胸の高鳴り、熱。今は醒め切った夢。
「その先に待つ未来を思うと天にも昇る気持ちでした。貴女の封印を解き、千年前の貴女が私を仏に仕立てたように、今度は私が貴女を引き立てる。手に手を取り、人々の前に立ち、高らかに宣言するのです。『この者こそは毘沙門天の遣い。その身は人にして人に非ず。汝らを導く化仏の徒である』と――突如現れた若き僧侶。その身に宿した絶大な法力で以て奇跡を起こす聖女。二百年の時を超え、聖尼公・聖白蓮を再現できると――その時の私は本気で思っていたのです」
それは夢でも幻でもなく、確かに実現可能な願いだった。
魔界へ到達する方法など知らなかった。
飛倉の封じられた地底へ行く術も持ち得ていなかった。
それでも――人々の信仰を一身に受けていた当時の自分なら――月にだって手が届くと思っていた。
聖を封じた時に持っていた宝塔は本物の毘沙門天様に奉じて、その後の行方はようとして知れなかった。あの頃自分が持っていた宝塔は仏像の数だけある宝塔の内のひとつに過ぎない。だからどうしたと言うのだ?
ナズーリンに任せれば上手くやってくれるだろう。そう思っていたし、その読みも多分、外れてはいなかった。
妙に楽観的な、浮ついた幸福感に突き動かされていた。何もかもが思い通りになると――二百年間、何もかも思い通りに進めてきたという事実は寅丸星をある種の視野狭窄へと陥れていた。
「多少、杜撰な部分を含んではいたものの……私は貴女を解放する為の行動を起こそうとして――不意に何か、自分がとても大きな見落としをしているような不安に襲われました」
それは取り立てて不思議な事ではなかった。旅行に出る間際、かけたはずの鍵を何度も確認してしまうくらい自然な、漠然とした不安だった。
寅丸にとって不幸だったのは本当に見落としていた事が存在した点と、それが彼女にとって決して気付いてはいけない事だったという点だった。
「思惑通り、誰も彼も聖白蓮を忘れていました。自分はやれるだけの事をやって、その結果が眼前に広がっていました。何も問題は無いと――自分の二百年に渡る努力は結実し、今正に開花しようとしているのだと思えました。復活した聖は今の自分の姿を誇りに思ってくれるだろうか? 私は聖の意を正しく汲んでやれただろうか? そんな風に自問して、ふと思ってしまったのです。自分が聖の為に過ごした二百年、その間、聖は何をしていたのだろうと――」
よく覚えている。その瞬間の言いようの無い心地の悪さ、全身が粟立つような悪寒を感じた事を――
「貴女を封じた後の二百年は間違いなく、貴女に捧げた時間だった。それは私にとって嘘偽りのない真実です。同時に――極めて客観的な見方をするならば、私は二百年に渡って貴女の事を放置し、何もしてやれなかった。それもまた、事実だったのです。そんな私の事を聖は許してくれるのだろうか? いや、そもそも――二百年離れ離れになっていた私の事など覚えているのだろうか? そう思ってしまった――」
それは不安などと呼べる代物ではなかった。些細な不安から生まれた疑念は瞬く間に恐怖へとその姿を変容させ、寅丸星を戦慄させた。
天地がひっくり返り、足元がガラガラと音を立てて崩れ、そのまま空に向かって落ち込んでゆくような――そんな――
そんな馬鹿なことがあるだろうか? 聖に限って? 自問する。
二百年。飛び過ぎた日々。私にとっての――人間にとっては――聖にとっては――? 答えは出ない。一人では導き出せない。
確認する事は至極簡単だ。このまま聖の封印を解く為に歩みを進めればいい。そうすれば答えは明らかになる。
そうしたならば――後戻りは出来ない。
答えが出て……本当に聖が私の事を忘れていたら? 一体どうしろというのだろう?
自由の身になり、私に感謝を述べる聖の口から『ところで貴女は?』などと聞かれたら?
そんな彼女を前にして、私は何を言えるというのか?
私は妖怪で……彼女は人間で……時間に対する感覚が根本的なところでずれていて……何故、そんな簡単な事に気付かなかったのか?
何故、何故私は――真っ先に聖の封印を解く事を考えなかったのか――?
「私は二百年の間、人が貴女を忘れてゆく姿を見続け、その過程で『人間』が忘れる存在だという事は嫌と言うほど理解したつもりでいました。しかし――貴女を解放しようとするその寸前まで、『人間』の枠の中に『聖白蓮』という要素も含まれるという事には気付けなかった。それが私の犯したありえない見落とし――あってはならぬ失念でした。それに気付いた時、私は歩みを止め、呆然と立ち尽くす事しか出来なくなったのです」
或いは――最初から歩いてなどいなかったのかも知れない。唯、止まっていた。
誰もが明日へ明日へと流れてゆく中、立ち尽くし、留まっていただけ。
周りの誰もが自分の後ろへと流れて行くから、自分が前に進んでいると思っただけ。
明日から目を背けていた。それだけ――
「光明を求め、逃げ込み、迷い込んだ先はまたもや貴女の遺した言葉でした」
千年前の寅丸にとって白蓮の言葉は行く先を照らす光明に成った。八百年前の彼女にとっては――
「『忘れて下さい』と――貴女はそう言った」
寅丸は空を見上げる。白蓮の顔を見続けていられなかった。抜けるような青空は唯々、遠い。
「それは他の誰でもなく、私に向けて発せられた言葉でした。私は貴女が自身の復活を願い、その為の手段を示す遠回しな助言としてそれを遺したのだと信じ込もうとしました。しかし一方で、その言葉が率直な貴女の本心で言われた言葉だとすれば――それは真逆の意味を持ちます。そこに思い至った時――私は全てを投げ出したのです」
聖は本当に自分を忘れて欲しかったのではないか?
永い間離れていれば他の人間がそうであるように忘れてしまうから――だから貴女も忘れて構いませんと――そういう意味で言ったのだとしたら?
八百年前の寅丸には何も見えなかった。眼前に広がるのは真っ暗い絶望ばかりで、身動き一つ出来なかった。
ああ、よく憶えている。八百年前、ご主人は何もかもを捨てたんだ。
毘沙門天としての自分を信仰する人々を前にして自分は仏に非ず、妖怪であると――そう言い放ってみせた。
結果は言わずもがな、聖のときの二の舞だった。二人のした事の違いといえば己が封ぜられる事を受け入れたか拒絶したか、それくらいのものだ。
挙句、寺は荒れ果て、そこに在った金銀財宝――人と信仰は瞬く間に失われ、彼女の神仏としての格は地に堕ちた。
「それはもう潔かったよ? 自分が死にもの狂いで積み上げてきたものを躊躇いなく捨てて見せたんだからね。誰だったかな――『仏の道は捨ててこそ』なんて言ってたのは……ある意味ではあの瞬間のご主人こそ紛れもなく、仏であったのかもね」
「それで? 何もかもが嫌になって……自分を信奉する者達を捨てて八百年も自忘自棄になっていたと? 悟りじゃなくて逃避じゃないですか、それ」
呆れたように言うムラサにナズーリンは首を振って応える。
「それどころじゃなくてね、逃避と言うならそれこそ最初っからだったのかも知れないよ? 何せあの人が’誰か’の為に仏であった事なんて一度たりとも無かったんだから……それにね船長、聖がご主人に遺した言葉が如何な考えによるものか判らぬ以上、仏として威光を放っていた二百年とその後の世捨て寅としての八百年、どちらが正解かなんて誰にも決められない」
「ナズーリン、貴女本気で言ってますか?」
「…………」
ムラサは深い、海の様に深い緑色の瞳でナズーリンの顔を覗き込む。その瞳に込められた感情が何であるか、ナズーリンには見当も付かない……が、下手な嘘が通じないであろう事は容易に想像できた。
「……降参だよ船長、私個人の見解を包み隠さずに言えば――やっぱりあれは逃避だったんだろうね。聖を救いたいという心、同時にそうする事を恐れる心、二律背反の袋小路。前に進んで全てを取り戻すか、何もかも失うか。或いはその場に留まり、問題を先延ばしにし続けるか――あの時のご主人にはどちらを選ぶ事も出来て――それ故にどちらも選べなかった。だから全部捨てたのさ。そうすればもう前には進めないんだから……」
「彼女が選択権を放棄してしまう前に誰かがその背を押してやれば前にも進めたのでは? ねぇ、ナズーリン?」
緑の目、底の見えない目。ナズーリンはそれを見ないように答える。飲まれぬよう、沈められぬよう――
「その誰かは私の役目じゃないよ。三歩離れて付き従い、主人の行く先を黙して見守る。それが毘沙門天の部下である私の生き方だからね」
「……まぁ、そういう事にしておきましょう」
「…………」
村紗水蜜は喰えないヤツだ。本当にそう思う。彼女は海で、平坦だ。
嵐にうねる大波も結局は表層的なものに過ぎず、その裡で何を思うのか、その裡に潜らぬ者には――沈む事を拒む者には永遠に解らない。
今だってそうだ、自分が何を思っているかなど彼女はお見通しなのだろう。それなのに素知らぬ顔でいる。
それが彼女なりの優しさによるものか、或いは無関心によるものか――自分が知ることは無いのだろう。
構うものか。触れられずに済むのなら――どっちでもいい。
多分、それは自分の弱さでもあったのだと、ナズーリンはそう思う。
背を押してやる事は簡単だった。たった一言『そんな事は無い』と――そう言ってやるだけで良かった。そう、復活したムラサがそうしたように。
そんな些細で無責任な言葉ひとつであの人は迷いを断ち切り、聖を復活させたろう。
その結果裏の目が出れば――寅丸星は本当に壊れてしまっていただろう。唯、それを恐れた。
哀れみ。憐憫。きっとそうに違いない。高々――そう、高々数十年程度の思い出に振り回されて傷付き続ける主人を見ている事が出来なかった。
不思議なものだ。あの日あの時、あの瞬間まで自分にとって彼女は従属と監視の対象に過ぎなかったというのに……
部下、或いは監吏としての立場から言えば――自分は彼女の背中を押してやるべきだった。
上手くいけば寅丸星は変わらずに仏でいただろうし、下手をすれば――その時は別の仕事に移るだけだ。
――そんな風に冷めた、怜悧な判断が出来ていれば――結果的に聖の解放は八百年前に行われ、今のようにあの人が思い悩む事も無かったろう。
自分は相変わらず部下で、監吏で――共に居たいと――ぼんやりと、自分がそう願っている事にすら気付けぬまま――
気付いてしまったから……立ち尽くすあの人の背を押し、先の見えない暗闇に向かって突き放す事など出来なかった。
全てをなげうつあの人を傍観し、八百年を漫然と過ごした。黴てゆく匣に身を隠し、何もかも不確定なままにしてしまったあの人を見守るだけだった。
逃避の先に待つのが緩やかな破滅だと判っていて尚、前に進む事は出来なかった。
だから……私とあの人は共犯なのだろう、多分。
「それにしても……あの聖がそんな事を望んだとは思えません。と同時に嘘を吐ける様な人間でもない。だから聖の真意はもっと別のところにあるのでしょう。まぁ……それをここで論じても詮無き事ですね。ナズーリン、質問です」
ビシリと、ムラサは立てた指先をナズーリンの鼻先に突きつける。
「アレ? ついさっき最期の質問だって言ったのは船長じゃなかったっけ?」
とぼけたように問い返すナズーリンにムラサはニヤリと笑って言った。
「ええ、ですからこれは――最初の質問です。改めて問いましょうナズーリン、寅丸星は何故、失踪したのですか?」
「…………」
カリカリと頭を掻いて、ナズーリンは困ったような顔をする。ムラサは何故か得意満面だった。
「……うまく話を逸らしてきたつもりだったんだけどね……」
「その程度で誤魔化されるものですか。寅丸の悩みが’聖に忘れられている’という懸念から来るものだとするなら――それは聖の封印を解いた時点で解決されています」
「そうだね、聖はご主人も私も、誰のことも忘れてなんかいなかった。だから今――辛いんだと思う」
ムラサは少し考え込み、ナズーリンの意図した通りの結論に達した。
「……なるほど。余計なところで生真面目というか……聖はそんな事気にしないでしょうに?」
「だろうね。ご主人はなんていうか償いのようなものを求めているんだろうけど……きっと、それを与える者はいない。だから――」
「聖を飛ばしたのはヤブヘビでしたかね?」 ムラサは決まりが悪そうに言い、ナズーリンは首を振った。
「判らない。なるようにしかならないと思う。何にせよ聖輦船が二人の所に着くまでは出来ることなんか無いし、私が話せることももう無いよ」
「そうですか。じゃあ次は――」
ムラサの言葉は遮られた。ナズーリンは指で船室の一角を指し示し、そちらを向いたムラサの視界には相変わらずの体育座りでふさぎ込んでいる一輪の姿が飛び込んできた。
「うん、いつまでも先延ばしにしてないでさ……さっさと一輪に謝ってきなよ?」
「……はい。」
とぼとぼと一輪の方へ歩いて行くムラサを見送り、ナズーリンは窓の外を見た。目的地はまだ見えない。
今頃、ご主人は答えを見つけているだろうか?
どう転んでも自分の答えは変わらないだろう。自分は寅丸星の前に立ち、行く先を照らす宝塔ではない。後ろから背中を押す春風とも違う。自分は影法師で構わない。彼女が暗闇の中で行き場を無くしたなら、優しく包み込もう。彼女が光に包まれて笑っているなら――自分は消えてもいい。
「君が笑ってくれるなら 離れて気付く 末期かな……うん、これは酷い。下手だな。私も」
ナズーリンは自嘲し、溜め息を吐き、窓ガラスに映った自分をグーで殴りつけ、泣かせてやった。聖輦船の窓ガラスの強度は圧倒的だった。
「もっと早く気付くべきだったのです」
絞り出した声。沈み込んだ、消え入りそうな声。
溜め息混じりに呟かれた言葉が二人の間に横たわる空を伝わってゆく。
寅丸は虚空を見つめている。白蓮は寅丸を見つめている。
視線は交わらない。
「八百年、私は仏としても妖怪としても抜け殻同然だった。人々からの信仰も畏怖も失った私は本来であれば誰に知られる事もなく、ナズーリン共々消え去る運命にあったはずです。にも関わらず……私はこの場所に在り続けた。それが何を意味するのか気付けたはずだったのに……」
簡単な、とても簡単な事だったのに……失意と諦観が自分を盲目にして、気付く事が出来なかった。誰からも忘れ去られた自分を信じる者が存在すると――その頃の自分に祈りを捧げる者が居たとしたら――それは一人しかいなかった。
それは届いていたのだ。弱々しく、それでも確かに。
地獄と天上の間に張られた蜘蛛の糸のように細く頼りないそれはしかし、決して切れる事なく寅丸星の存在を支え、繋ぎ留めていた。
仏談との相違点は救われていたのが仏の方だったという事だ。
ずしりと――何か重たい、黒い塊が胃の腑に落ち込んでいく。
寅丸は先に続けるべき言葉を一度飲み込み、苦々しい気持ちと共に吐き出した。
「千年間、私に変わらぬ信仰を捧げ続けた貴女を私は救えなかった」
それは変えがたい、堪えがたい事実だ。
二つの事実、そのどちらが違っていても自分はこんな風に苦しまなかっただろう。
地底に封じられていたムラサや一輪とは違う。自分は自由だった。
全てを捨てた自分は――裏返せば誰より身軽だったのに――
全てを元に戻す事など出来なくとも、聖を自由にする事は、その為に出来る事はあったはずなのに――
違う。そうではない。その自由は逃避の結果の産物で、意味など無い。
結局は自分の心の弱さのせいだ……
妖怪としての寅丸星にとって聖白蓮は欠け替えの無い友で、支えだった。
仏としての寅丸星にとって聖白蓮は無二の信徒で、庇護すべき者だった。
どちらにしろ――自分が第一にすべき事は聖の封印を解く事だったのだ。
復活した聖が誰にどう思われようと――聖に自分がどう思われようと――自分の想いを貫けるだけの強さが欠けていた。
何より――
「世を厭い、誰からも忘れられた私を信じ続けた貴女を――私は裏切り続けた。私は貴女を信じる事が出来ず、信じられなかったという事実すら都合よく忘れようとした……」
それは正確には忘却ではない。自分の過ち、勘違い。『聖は自分を忘れている』と思い込んでいた事――それを認めたくないが為に忘れたフリをしていただけだった。千年前は去り行く彼女を止められず、八百年前は彼女を信じる事が出来なかった。そしてつい先程まで――そんな自分の弱さから目を逸らしていた。何も成長していない。自分は逃げてばかりだ。だから――
寅丸は視線を白蓮に向け、決然と言い放った。
「聖、貴女が信仰する寅丸星はこの有様です。己を信じる者を救えず、信じられず、己の弱さを受け入れられない私に仏である資格など無い。私には――貴女の傍にいる資格など――ありません」
長い独白に終止符が打たれ、二人の間には静寂だけがある。虫の声も、風の音も聞こえない。一秒が途方もなく永い。
永遠とも思える沈黙を破ったのは白蓮の方だった。どこかで聞いたような――場違いに明るい声が響く。
「全く……本当にどうしようもありませんね、寅丸様は。あの頃と何も変わってないんですから……」
「――え?」
「本当にだらしなくて気が弱くて……最近は『へたれ』って言うんですかね? そういうの?」
「あの……聖?」
白蓮は寅丸の問いかけなど何処吹く風に、まるで出来の悪い子供に呆れる母親のような口調でまくし立てる。
「そもそもが修行不足なんですよ、寅丸様は。ホラ、今だってストレスで耳と尻尾がはみ出してますし……それでよく人間に正体を悟られずにいられたものです」
「それは……今はどうでもいいでしょう……」
そうは言いながらも寅丸は頭から生えていた寅耳を撫で付けるようにして隠した。
トントン拍子で白蓮のペースに乗せられているなと、そう思った。
「壁に耳あり障子にメリーと言うではないですか。まぁ……ここには壁も障子も無いので別に構わないのかも知れませんけどね」
「丸見えって事じゃないですか、それ……というか原型留めてないです」
ああ、そういえば野外だったな――少女たるものお淑やかで在らねばならぬと、おばあちゃんが言っていた。そう思い出し、寅丸は尻尾も引っ込めた。
白蓮は笑って言った。
「別に丸見えでも良いのでは? ここなら。」
「……なんだ、そういうことですか。聖も人が悪い……」
確かにここなら――幻想郷なら――そんな事を気にする必要もないのだろう。ぴょこんと、寅耳が立つ。
例え神様仏様に獣耳や尻尾が生えた所で――物笑いの種にされ、天狗の新聞のネタにされ、ある事ない事吹聴される程度だ。ふにゃりと、寅耳が萎えた。
寅丸は決して人前で尻尾を出すまいと誓った。耳もしまった。
そんな様子を見た白蓮はやれやれと呆れて言う。
「まぁ耳や尻尾をどうするかはこの際置いておくとして……やはり座禅あたりからやり直す必要がありそうですね?」
「ああ……それもいいかも知れませんね……」
悪くはないだろう、人の立寄らぬ山中に独り庵を結び、禅を組み隠遁生活を送るのもまた――仏徒の在り様だ。
正直なところ聖から離れられるなら何でもいい。
「それじゃあ聖、お世話になりました」
そう言って後ろ手を振って立ち去ろうとして――
――ぐるん。――
「――ぅえ?」
一瞬、寅丸には何が起こったのか判らなかった。踏みしめていた大地の感触が消え、世界が回った。
襟首を後ろから鷲掴みにされ、引きずり倒されたのだと気付いたのは青い空と――笑顔に青筋を浮かべた白蓮が視界に映ったからだった。
「……何処へ行かれるおつもりです?」
「えと……ですから貴方が言うように己を鍛え直すべく独り山へでも――」
寅丸はその先に言葉を続けることが出来なかった。
自分を見下ろしている白蓮の背後、ゆらゆらと立ち上る怒気の中に正真正銘の毘沙門天の立ち姿を見た気がしたからだ。
「人の話……聞いてましたか?」
「あの……聖? もしかしなくても怒ってますね?」
「ええ、貴女がとんちんかんな事を仰るせいで」
全くもって理不尽な言い分だと思う。どう考えてもとんちんかんな言動をしているのは聖の方だ。怒るポイントがズレている。
先程まで私がどんな気持ちで心情を吐露していたのか彼女は理解しているのだろうか?
なじられ、けなされ、見放される覚悟を決めていたというのに……そんな事など知らぬ存ぜぬという顔で受け流して――訳の分らぬ事に腹を立てている。
寅丸はもう考えるのが億劫だった。いっそ脳がプリン体にでもなればいいのにと思った。きっと糖分が不足しているのだ。
白蓮は寅丸を叱り付けるように言い放った。
「言ったでしょう? 貴女はへたれだと――その様子では独りで山になんぞ篭ったところで怠けてダラダラするに決まっています!」
「どれだけ信用が無いんですか……私は……」
いや、そう思われて当然だ。当然だが……何か違う気がする。
寅丸はもっと愁思溢れる展開を予想していたので肩透かしを食らった気分だった。
「ですから――」
白蓮は寝転がる寅丸へと右手を差し出し、いつも通りの穏やかな微笑みを浮かべて言った。
「見張り役が必要でしょう?」
「 」
一瞬、言葉を失くした。
それはどうしようもなく甘い――胸焼けがする程甘い言葉だった。
知っている。それが聖白蓮なのだろう。
彼女はいつだってそうやって……何もかもを赦してしまうのだ。
そうした結果、傷付いてきたのは自分なのに――孤独の時を過ごしたのは自分なのに――
差し出された手は救いに見える。慈愛に満ちた手。すがり付きたくなるような、優しい手。
千手観音でもないというのに、それは万人に与えられるのだ。平等に。うんざりするくらいに――
誰も彼もがその手にすがって――その重みで彼女は赤黒い海に沈んでしまったというのに――
ここでその手を取るのなら――同じだということだ。堪えられない。
ぱちんと、渇いた音が響き渡った。手で手を払う音。刹那に触れ合い、離れた音。
「ごめんなさい聖、その手は取れません」
「……どうしてです?」
「どうして? それはこっちの台詞です。どうして貴女はそうなのです? 何故、いつもそうやって笑っているのです?」
寅丸は自分の声がほんの少し震えている事に気付いた。
燃えている。じりじりと音を立てて心が爛れてゆくこの感覚を覚えている。千年前の彼女に感じたのと同じ、理不尽でお門違いな怒り。
「私は貴方を裏切ったのに……貴方の望んだ仏でなどいられなかったのに……責めてくれた方が、いっそ忘れてくれていた方が楽だったのに……」
目茶苦茶な事を言っているのがどちらなのか――それくらい分っている。こんなのは唯の無意味で無様な、醜い八つ当たりだ。
彼女は何も悪くないのに――そう、いつだってそうだ。客観的に見れば聖のしている事は圧倒的なまでに正しい。
菩是心の塊のような彼女の振る舞いを責める道理など誰が持ち得ようか?
彼女の生き方は仏徒として、一つの理想形ですらあるように思える。
それなのに何故――こんな苛立ちを感じなければならないのだろうか?
「わからないんです聖、千年前からずっと……貴方が何を考えていたのかも、何を望んでいたのかも……。千年前のあの日も、貴方はそうやって微笑んでいた。あの笑顔が本物だったのか造り物だったのか――今、私の目の前で同じように微笑んでいる貴方が心の底から笑っているのかすら……私にはわかりません」
ああ、駄目だ。まるで支離滅裂だ。そんなのは当たり前の事じゃないか。さとり妖怪でもない自分に分かる訳が無い。
他人の心の裡を知ろうなど――叶う筈がない。目には見えない。触れることも出来ない。何より――埒外なのだ、聖白蓮のような人間は。人の心の冥い部分から生まれ、ヒトの畏怖と叫断を糧に生きる事を本質とする妖怪の私にはその在り方が理解できない。自分の知るヒトとはあまりにかけ離れている。
「…………」
白蓮は困っていた。
自分がよかれと思っていった言葉、行動が寅丸を永きに渡って悩ませていた事実は彼女にとって誤算であったし、その問題を解決するには彼女の心を納得させる必要がある。そしてその為には……自分の遍歴やら黒歴史やらを赤裸々に語る必要がある。正直なところ気は進まない。
とはいえ、このままという訳にもいかない。白蓮はこの難題に対する解法を考え、閃いた。こんな状況にうってつけの手法があったのを思い出したのだ。
「……寅丸様、少しお話させて貰っても宜しいでしょうか? 何、昔の知り合いの話です。死を恐れ、人の道を外れ、それでも人であろうとして――結局、人でなしの烙印を押された破戒僧のお話です」
これぞ『必殺! 自分の秘密をさも他人の事の様に語ってしまえ大作戦』であった。千年前の白蓮は寅丸に何か、正面きって語るのが憚られる事柄について相談するときはいつもこの作戦を実行し、事なきを得ていた。
「ああ……それは酷いですね。目の前の誰かさんそっくりです」
時の流れとはかくも残酷なものか――白蓮は千年の重さを感じてちょっと泣きそうになった。
雲居一輪はうんざりしていた。今の自分は相当に凹んでいる。
こんなに鬱々とした気分になったのは千年前、望まずして姐さんと離れ離れになった時以来だった。
心模様はどんよりクラウディー。それなのに雲山はいないのだ。気が滅入る。叶うことならいっそ仏になりたい。
『パト○ッシュ……僕もう疲れたよ』――そう言って天に昇った少年のように……駄目だ、心中する相手がいない。
一輪は更に沈み込んだ。
「一輪? いちり~ん? い~ち~り~ん~?」
ああ、うんざりだ。うんざりなのだ。さっきから執拗に自分を呼んで苛立たせるこの声も――
「もう、いい加減に機嫌を直しなさいな。そりゃあ今回の件に関しては私が悪かったと思いますよ? でも雲山の事ですからきっと天狗風の一つも吹けば元通りになって帰って来ますって――うわっ!」
ノー天気にのたまう船幽霊の胸ぐらを引っ掴んで引き寄せる。今回ばかりは堪忍袋の緒が切れた。
「……’も’でしょう? 今回’も’!」
ウンザリーヌ、ウンザリーナ、ウンザリーニ……駄目だ、もう言葉が見つからない。誰だ語尾にヌを付けるだけで瀟洒な雰囲気が出せるなんて言ってたのは、勢いあまって三段活用までしたのに全っ然じゃないか……とにかく、このはた迷惑極まりない船幽霊にはいよいよもって愛想が尽きた。これ以上は付き合っていられない。
そも、千年間もこんな奴とやってこれた事自体が仏陀再臨にも匹敵する偉業だと思う。世界で姐さんの次に心が広いのは自分に違いない。
だがそれも限界だ。今こそこの船幽霊めに人ならぬ身と心にも痛みがあるということを叩き込んでやらねばならない。
きっとそれがムラサの為だ。成仏させる次くらいにムラサの為に違いないのだっっ!
そう決心するが早いか、一輪の放った拳骨がムラサの脳天を直撃した。
「っ痛――ッ! 何をするんですか一輪……私が幽霊でなければ死んでいましたよ!?」
「黙れフナムシ。お前に抗議する権利など存在しない」
「……酷ひ……」
よよよと――頭のてっぺんから血の涙を流しつつ、村紗水蜜はその場に崩れ落ちた。
「嗚呼! あんまりよ……あんまりだわ! 共に千年を過ごした仲だというのに! 言うに事欠いて甲殻類扱いとはッッ!!」
「それを言うなら雲山も……でしょう?」
甲殻類の事ではない。念の為。
一輪は冷笑を浮かべながらムラサの頬を両手で吊り上げる。一見するとイタズラ娘とそれを叱り付ける保母さんといった光景だが、ムラサの頬からはミチミチと血管やら何やらの張り裂ける音が聞こえているのでシャレになっていない。
「いひゃいいひゃい! いひりん! ギブです! ギブ!」 一輪の腕をタップするムラサの手は綺麗な8ビートを刻んだ。
「――ふん」
一輪はしぶしぶながらもムラサから手を放した。正直なところまだまだ気は晴れない。千の風になった雲山の痛みを思えばこの程度、責め苦の内にも入るまい。
「どうだいムラサ? 少しは他人の痛みってやつが理解できたかい?」
「ええ、そりゃもう痛い程に。……しかしですね一輪、貴方はそうやって私の事ばかりを責めますが……寅丸のところへ行きたいと言ったのは聖の方ですよ? 私はその為に最速の手段を提供しただけじゃないですか……」
ムラサは納得がいかぬとばかりに食い下がり、一輪は治まったはずの怒りが再び燃え上がる音を聞いた。
姐さんが言った? だから何だというのだ? 『だから仕方ない』とでも言いたいのかこのトーヘンボクは?
一輪が親の仇でも見るような目で自分を睨みつけている事に気付いたムラサは慌てて弁明の言葉を続けた。
「いやホラ……あれですよ、『目的の為には手段を選ばず』と何処かの偉い人も――痛たたたた!!」
右耳を勢いよく吊り上げられた事で、またしてもムラサの言葉は遮られる結果となった。
一輪は引っ掴んだ耳を自分の口元にまで持ってきて辛辣な言葉を囁く。
「合わせて覚えとくんだねムラサ、どっかの偉い人の言葉さ。『目的は手段を正当化しない』ってね!」
ゴツンと鈍い音が船室に響き渡った。一輪の拳骨がムラサの頭にめり込むのは本日だけでも三度目くらいである。
「大体ねムラサ、何だってアンタはそうなんだい?」
ちょっとばかし一方的で荒っぽいボディーランゲージの熱も冷めた頃、ついさっきも似たような台詞を吐いたなと――そう思いながら一輪はムラサに問いかけた。
問われた本人はといえば鳩が豆鉄砲を食ったようにキョトンとしている。
「’そう’と言われましても一輪、何のことやらさっぱりです」
「はぁ……」
一輪は大きな溜め息を吐いて続けた。
「だからさ……何だってそう姐さん絡みの事になると見境やら分別やらがなくなるんだい?」
「愚問ですね。聖より優先されるものなどこの世に聖輦船しか存在しません!」
キッパリハッキリ迷い無く言い放ったムラサの言葉に一輪は肩を落とした。どうつっこんだものやら分からない。
「まぁ……それ以上ないくらいアンタらしい回答だとは思うけどさ……私が訊いてるのはもうちょっと根っこの方の話だよ。ムラサやムラサ、何がお前をそうさせる~ってやつ」
「それこそ至極単純なことですね。私こと村紗水蜜が船幽霊であり、聖輦船とそれを生み出した聖白蓮はその憑代だというだけの話です」
「よりしろねぇ……姐さんも何だってそんな面倒な事をしたんだか……こんな奴、手っ取り早く成仏させちゃえば良かったのに……」
「そんな事は本人にでも訊いて下さい。というか一輪も大概に失礼な人ですね。祟りますよ?」
「アンタ絡みの厄介ならこの千年間で嫌って程味わったよ。もう十分だから勘弁しとくれ……まぁ、あたし達が考えても仕方ないってのはその通りなんだろうね……はぁ。」
ムラサが海に縛り付けられていたのは彼女の船がそこで沈没したせいだと聞いている。姐さんはムラサに聖輦船を与えることで呪いの海から解き放った。そう――生前の彼女の船を与えることで。
詰まるところ船なんだ。村紗水蜜の根幹――彼女を船幽霊たらしめている妄執、縛鎖の出所は。
自分が沈めてしまった自分の船。海の藻屑と消えた船。死しても死に切れず、求め続けた彼女の船。
過ぎた愛着は時として禍を招く。少なくとも仏道においてはそうだし、己の船を探して他人の船を見境なく沈めていたムラサは誰にとっても災厄以外の何者でもなかったはずだ。
じゃあ今のムラサはどうか?
考えるまでもない。コイツは今も船幽霊で、船長だ。村紗水蜜は手に入れた。与えられたんだ。
自分の名前の刻み込まれた墓石を引きずり回しながら死に続けている。それが今の村紗水蜜だ。
どうして姐さんはそんな手段を用いたんだろう?
ムラサの話によると姐さんはムラサと対峙した瞬間に彼女の怨念の源が船にある事を見抜いていたらしい。だからこそ腑に落ちない。
あらゆる意味で諦観に至る事を至上とするお釈迦さんとやらの教えに沿うのなら――ムラサを縛る船への執着を解きほぐし、この世に対する未練を断ち切らせ、成仏させることが本道だったんだろうと思う。そして姐さんならそれは容易かったとも思う。なのに何故――?
そもそもムラサが幽霊としてこの世に留まっている事自体、輪廻転生がどーたらこーたらでちょっとした問題のはずなのだけれど……
考えれば考えるほど謎は深まるばかりで答えに繋がる糸口さえ見えやしない。そもそも仏法なんぞかじった程度の自分が考えたところで下手のうんちゃらかんちゃらほりでぃほりでぃとかそんなトコだろう。
どの道、千年以上も昔のことだ。わざわざ姐さんに訊いて掘り返す気もない。要するに二人は繋がっているということなんだろう。
それがどんなカタチであれ……。
「……えい。」 何やらドロつくような苛立ちを覚えた一輪は取り敢えずムラサの頬をつねった。
「痛っ!? 一輪……今度は何ですか!?」
「いや、今日はいい天気だったからついね……」 一輪は適当な理由をでっち上げて答えた。当然ムラサはキレた。
「雲山の件があったから大人しくしてましたが……さっきから理不尽が過ぎるんじゃないですかね? 私、DVには断固反対ですよ?」
「でーぶい?」
「どえすちっく・ばいおれんすの事です」
「あ、そう……ねぇムラサ? 実は今まで黙ってたんだけどさ……」 一輪はムラサの非難など右から左に受け流し、語り出す。
「……何です?」
「実はあたしと姐さんは同じ人魚の生き胆を分け合って不老不死になった仲なんだって言ったら……どう思う?」
「いえ、別に何も?」
沈黙。
「えっと……びっくり仰天非想天とかそんなリアクションは……ない?」
「だって法螺でしょう。それ。」 ムラサは即断した。
「……」
「……」
「悪霊退散。」
掛け声と共に一輪の放った問答無用のマッハビンタでムラサの意識が非想天に飛びかけた。
「痛いじゃないですか!」
「うっさい! 親友の言うことを少しは信用しろ!」
「いきなりそんな荒唐無稽な事を言われて信じる方がどうかしています!」
「むむぅ……尼つながりだしそれなりにイイ線いってると踏んだんだけどね……もう一歩捻りと深みが……」
「いやいや一輪、先程から貴女は何を言っているのです?」 呆れたように問うムラサに一輪は不貞腐れて言う。
「いやだってホラ、アンタや寅丸ばっかズルいじゃないか? あたしにも何か姐さん絡みのアッと驚いたりほんわり心の温まる裏話の一つや二つあってもいいと思わないかい?」
「だからってさも当たり前のように歴史を捏造するのもどうかと思いますよ?」
そういう不届きな輩は幻想郷では牛に食われるか、ど突かれると相場が決まっている。
「ハイハイ……取り敢えず『人魚の生き胆は初恋の味(うす塩)作戦』は失敗っと……」
おもむろに懐から帳面を取り出した一輪は何やら一心不乱に書き殴っている。あの中身は機会があっても見ない方がいいんだろうな――ムラサはそう思った。
「お~い! お二人さん! だんだんと聖輦船の速度が落ちてきてるけど……そろそろ到着するのかな?」
先程から窓際で暇そうにしていたナズーリンがムラサと一輪に話しかけてきた。
「ん? ああ、そのようですね。それにしても大丈夫でしょうかねぇ……」
「うん? ムラサ、何の心配だい? ぶっ飛んでった姐さんの事かい? それともソレを受け止める寅丸のこと?」
腕組みをして考え込んでしまったムラサに一輪が問いかける。ムラサは首を振って否定する。
「いやまぁ……寅丸のことではあるんですがね……ホラ私、聖輦船の行き先――なんて言いましたっけ?」
「?」
「寅丸星って言ったね」 答えたナズーリン、訳が分からないといった様子である。
「そうですよね……『寅丸星』なんですよね……『寅丸星の近く』じゃなくて……」
沈黙。
「まさかとは思うけど……船長?」
「冗談だろう?」
ムラサの言葉の意味するところを理解したであろうナズーリンと一輪は血の気の失せた表情で問いかける。
「聖も気が利きませんよね? どうせならファジー理論の一つや二つ、搭載してくれればよかったのに……まぁ愚痴っても仕方がありませんね。寅丸だってどちらかといえばすごく強い妖怪ですし……大型船の一隻や二隻は余裕で受け止めてくれますよね?」
決まりの悪そうな笑顔を浮かべて村紗水蜜はのたまった。
「’彼女’は元々仏門に帰依した身であり、’彼女’には同じ志を持ち、目標とする弟がありました」
「どんな人だったんですか? その聖命蓮さんというのは?」 寅丸はサラっとメタって見せた。白蓮は怯まない。
「そんな人は知りませんが……’彼女’の弟は立派な人でしたよ? 当時の仏教は今とは大分毛色の異なるもので……死を穢れと忌避し、民衆とは半ば隔絶されたような世界でした。そんな中、独り市井に混じり、人々を弔っては念仏を唱え、衆生を浄土へと導く事を生業としたのが彼でした。その生き様は多くの人の心を救い、同時に強く惹きつけました。そのせいか晩年は市聖なんて大層な通り名で呼ばれたりしてましたね」
寅丸自身、白蓮が己の過去について話すのを聞くのは殆ど初めてに近い。寅丸と出会った時点で白蓮は今と変わらぬ姿の白蓮であった。ましてや弟である命蓮の人となりの話となると何も知らないに等しい。
「えと……死んじゃったんですよね? その人。」
「ええ……古希まで生きたので当時としては大往生でしたね。ほんとに元気な人で……お互い喧嘩した時には死ぬがよいとか罵り合ってました」
「なるほど、世も末ですね」
「まぁ末法の時代だったのは事実です。そんな彼女でしたが……弟を失った時は泣きました。しわがれた手で醜く歪めた顔を覆い、無様に泣き崩れました」
「それは……肉親を亡くしたのなら当然でしょう?」
「そう思えるのが寅丸様の良い所ですよ……そう、人であったならばそうでしょう。しかし彼女は仏門に身を置き、仏を目指していた身でした。『親に逢うては仏を殺せ、親に逢うては親を殺せ』――仏道の境地はそこにあります。何かに固執する事無く、依らず、拘らず、縛られぬ心を持つこと、歓びにも悲しみにも揺れる事無き静寂の湖面の如き心で在る事が’悟る’という事です」
「しかしそれは……」
余りにも寂しいのではないか? 寅丸はそう思う。
特別なものを持たない。好かず、嫌わず、ただ平等に在るがままを受け入れる。無条件に、無判別に――相手が誰であっても赦す心を持つこと――
全てを受け入れる。それは裏返せば究極の無関心だ。波立たぬ静寂の水面はそれ故に覗き込んだ者を不安にさせる。目をこらして見てもそこに映るものは醜い自分の姿だけで――どこにも彼女自身の姿を見つけられないのだから。
それは間違いなく美徳ではあるけれど――酷く孤独であるようにも思える。人の心は弱いから――お互いに弱い部分を支えて立つから’人’だと言うのに――
「ふと思ったんですが聖、不思議な字ですよね、’人’という字は」
「また唐突ですね……そうですか?」
寅丸は宙に’人’の字を書いて白蓮に見せる。
「どう見ても左のほうが楽をしているのに支え合っていると言うのですから。ねぇ?」
「仏がそういう事を言ってはいけませんよ。それに――見方を変えれば左が右を守っているようにも見えるでしょう?」
「ふむ……何にせよ、1人で立つことが出来るというならそれはもう人ではないでしょう?」
「それでも自分は人だと言い張るならば人なのでしょう。’あの子’なんかがいい例だと思いますよ? ホラ、あのおめでたい色の――」
寅丸の脳裡に先日弾幕を交わした巫女の顔がよぎった。
「ああ、そうですね……アレは間違いなく人でなしです。色んな意味で」
全くもってあの巫女の頓着の無さには感服する。なにせ異変ときたら人も妖怪も神仏も見境なしに殴り倒してまわると言うのだから……おまけに普段は普段で人も妖怪も神仏もお構いなしに茶をしばいているというから大したものだと思う。
「道こそ違いますが――あれこそが仏の在るべき姿です。彼女の心はどこまでも平坦で乱れも迷いも無い。私が目指し、たどり着けなかった姿です」
「それは良かった。聖がああなったら私が泣きます。というか要するに自己中ってだけじゃないですか。アレは。」
「それでいいのですよ。何があっても揺るがぬ大樹のような自己の持ち主だからこそ、人も妖も彼女に気兼ねなく依ってかかれるのでしょう。まぁ……彼女の場合は地に足が着いてない上に、気ままに飛び回るものですから、依っかかるのも一苦労みたいですけどね」
「才能ですよね、あの周りに対する無関心っぷりは。」
「それが彼女の責務なのかも知れませんが……どっちにせよ結果は同じです。巫女は巫女、僧侶は僧侶、人は人です。私は結局、仏である事など出来なかったのです」
そう語る白蓮の顔には悔恨や無念の色は微塵も存在しない。
「話を戻しましょう。弟を失った私の悲しみはどれだけ念仏を唱えようと消えはしませんでした。それは彼を慕っていた民草にとっても同じ事で……弟の死は彼が救ってきた人々の心に消せない傷を刻んでいきました。『嗚呼上人、化縁すでに尽きて、極楽に帰り去りぬ』といったものですね」
「皮肉というか……因果なものですね」
仕方が無いと思う。人が人である以上、死は絶対だ。出逢いが運命だろうが偶然だろうが終りは必然的にやって来る。
だから――どう別れるかが重要なんだろう。
「弟は笑って逝きました。私達は泣いて見送りました。彼の死を悼む人々を見て、自分が死んだ時のこと、彼等が死んだ時のことを考えて――その時からですかね……私が自身の死を恐れるようになったのは」
「納得がいきませんでしたか? 弟の死に……」
悲しみを遺していった彼が許せなかった? きっと、遺していったものはそれだけでは無かった筈なのに?
寅丸の疑問を払拭するように、白蓮は首を振る。
「どうでしょうね? 終わりよければ全てよしというのなら――弟の命はよい終わり方をしたのだと思います。確かに――いつだって残される方は辛いです。共に生きた時間が長いほど心に残る傷は深くなる。それでも――そんな悲しみも誰かと分かち合う事は出来ます。二人なら半分とはいいませんが……傷ついた彼等の心が輪廻を巡り、忘却がその傷を消し去るまで傍に居てやることは出来ます。きっと、自分が死ぬときも同じように彼等に見送られて――笑って逝けると、そう思いました。しかし、では――彼等は? あの時代、己の死を見送り、悼んでくれる人を持たない者も多かった。自分が死した後、彼等を見送ってやる者が果たして居るのだろうか? 出来ることならと……そう考えて私は気付いたのです。なんだ、出来るではないかと――私には、眠りにつく彼等が孤独に苛まれぬよう、笑って逝けるように傍で見守ってやるやる事が出来ると――」
「それで……貴女は残される方で居続ける事を選んだんですか?」
「そんなところです」
寅丸は唖然とした。滅茶苦茶だ。
それは救われぬ道だ。報われぬ道だ。降ろす事の出来ない重荷を次から次へとその身に背負い込むことに他ならない。とても人の躰と心では耐えられない。死ぬまで続くなどというものではない。彼女はその逃げ道すら絶って、独りになるまで終わらない道を行く事を選択した。正気の沙汰とは言えない。
何も言えずにいる寅丸を置き去りにして白蓮は話を進める。
「さて、そんな次第で寿命を捨て去り、輪廻から外れてしまった訳ですが……私はその後数十年でちょっとした問題を抱える事となりました。寿命を捨てた呪術の代償、或いは多くの死を見過ぎて心が麻痺したのか……だんだんと自分と他人との感覚にすれ違いを感じるようになりました」
「長寿故の歪曲……ですか」
「でしょうかね?」
元々が長寿に出来ている妖怪には今ひとつ理解しかねる感覚なのだが――どうも、理に反して命の尺度を引き伸ばした人間と周囲の人間との間には溝のようなものが生じると聞く。
共に歩んできた人が自分を置いて死んでゆく。自分の歴史を知る人間が減ってゆく。取り残されてゆく。そうして流れに逆らい立ち尽くしているうちに流れ逝く者達と自分を同一視することが難しくなってくる。アレらと自分は違うものなのだと――そう思わねば遣り切れなくなる。
と同時に、余人から見れば聖のような人間もまた、自分達とは異質なものとして認識される。歳を取らず、常人には理解の及ばぬ力を持つ彼女はその来歴を知る者ならいざ知らず、普通の人間の目には化け物として映ったとしても不思議はなかった。
彼女がそういった奇異の目で見られずに済んでいたのは病人の治療をしたり、妖怪退治をして人々に尽くしていたからだ。
だから、彼女が妖怪と懇意にしている事を知った人間達はあっさりと手の平を返した。その時点で彼等の聖白蓮に対する認識は異物から怪物に変わったということなんだろう。
「私は老若男女問わず多くの人々の死を見てきて――彼等の中には弟のように笑って死んでゆく人もいましたが――多くの人は『死にたくない』と嘆きながら事切れてゆきました。同じ死に向かう者で何故こうも違うのかと――輪廻を巡り、新しい生が始まることに変わりは無いと、だから嘆くことなどないと――私がどれだけ理を説いたところで彼等を安息へと導くことは出来ませんでした。いつからでしょうか……私には彼等が頑なに死を拒む気持ちが理解出来なくなっていました。おかしいですね? 自分が不老不死になった理由も同じはずなのに……」
「言いにくいんですが聖、それは寿命を捨てたせいじゃないです」
いつからかと言うなら……きっと最初からだ。おそらく根本からして異なっている。人々が死に対して抱く怖れは、聖が感じたものとは端を異にするものだ。
彼等が感じているのは理不尽な――理解不能に盲目的で直観的な畏怖。天災や夜の闇、妖怪に対する恐怖と同種のものだ。理屈じゃない。
一方で聖が怖れ、嫌ったのは――厳密には死という現象そのものじゃない。聖本人にとっては死は巡り繰り返す輪廻の一区切りに過ぎないのかも知れない。彼女が嘆いたのは死に付随する人々の悲しみや苦しみで――それを捨て置くことが出来なかったから己の死を捨てた。詰まるところ、自分の死を考えての行動じゃない。
考えれば考えるほどに聖白蓮が不可解だった。損得の秤が破綻しているとしか思えない。
「ともあれ――そういった経緯から私は彼らの苦しみを理解し、共に悩む事の出来る『人格者』を必要としたのです」
「選りによってここでその言葉が出てきますか……」
想定の範囲外。完全に不意打ちだった。
散々に掻き回されて容量オーバー気味だった寅丸星の頭は煙を上げて沈黙した。いっそ日本語が解らなくなればいいのにと思った。
「そう、はるか高みから万里を見通し、人々を正しき方向へと導くのが仏本来の姿であるのは確かでしょう。一方で、人と同じように迷い、悩み、共に歩いていける、そんな人間くさい仏がいてもいいのではないかと……そう思ったのです」
「それが……私に白羽の矢が立てられた理由ですか……」
ずっと疑問だった。本当に――何度頭をひねってみようとも、聖が自分を選んだ理由は分からなかった。元来、自分は誰かを導いてやれる程の器の持ち主ではないと――そう思っていた。
考えてみれば、あの山にも自分より永くを生き、広い知見を有した――それこそ達観した精神を持った妖怪なら他にいくらでも居た。聖に推挙された当時の自分は妖怪と呼ばれる者達の中では間違いなく若く分類される立場だった。
妖怪の一般論として、齢を重ねた者ほど深い精神性を有するようになる。
妖怪はヒトの心が生み出すモノだ。だから自然、生まれながらに『人間らしい』感情を備えている。例えソレが著しく負の方向に傾いたものであったとしても――『人間らしい』ことに変わりはない。
じゃあ数多の妖怪の皆が皆、『人間らしい』かといえば――答えは『はい』であり『いいえ』だ。永きを生きた妖怪はその余りの『人間らしさ』故に、常人には理解されぬ存在に成り果てる。
妖怪は生まれながらに’色’のようなもの――属性とでも言えばいいのだろうか?――を持っている。人間は精神的に白紙で生まれてくるが、人間の心から生まれる妖怪はそうもいかない。自分を生み出した起源ともいうべき感情――怒り、悲しみ、苦しみ、妬み、恐れ、飢え――それこそ七つの大罪から百八の煩悩まで何でもいいのだろうけれど、そういったものを持っていて、場合によっては縛られている。
茫漠として頼りない白に絵の具を垂らし、華やかに彩っていくのがヒトの生だとするならば――自分を縛り付ける色を塗り潰すように他の色を取り込んでいくのが妖怪の生だ。ヒトを食らい、ヒトと交わり、その感情や価値観を己が心の裡に取り込んでゆく。一度染み込んで染まった色はシミになって残り、落ちることは無い。永い時間をかけて多くの色が混ざり合い、融け合う事を繰り返した’色’が最後に行きつく先は一つしかない。
あらゆる感情、価値観が渾然一体となって得体の知れない黒。それが年経た妖怪の心だ。高々数十年生きた人間に理解が及ばないのは当然のことだ。
それじゃあ……私はどうなのだろう? あの頃から何か変わっただろうか? 精々、性根が捻じれた程度であんまり変わってない気がする。そういう風に生きてきた。ヒトを食らわず、交わらず、傍観してきただけだ。
寅丸星はあの頃と同じように未熟で、不明だ。
千年前の自分がもっと慧眼であったなら――先を見通し、うまく立ち回るだけの余裕があったなら――あんな事にはならなかったかも知れない。
或いは――齢を重ね、何事にも動じぬ精神性を備えていたならば――あのような出来事も、聖の言葉も、瑣末な事と切り捨て、悩むことなど無かったのかも知れない。
それならば未熟者であって好かったのか――どうも、それが聖の望みでもあったようだし……
ちぐはぐな気持ちを整理できず、寅丸は白蓮にボヤいた。
「何だか酷い詐欺にあったような気分です。そういう事ならそういう風に言って下さいよ……私、色々と悩み損じゃないですか?」
「どうぞ末永く悩んで下さい。初心忘れるべからずです」
「全身全霊ではっ倒していいですか?」
千年以上振りに聖をぶん殴ってやりたかった。よくてグーパン、下手をすれば禁じ手にしていたタイガークロー的な何かが飛び出すかも知れない。
寅丸は遣り切れない気分を切り替えるべく、他の事を考えるように努めた。そうして一つ、二つと浮かんで来た疑問を白蓮にぶつけた。
「しかし聖、貴女が私を毘沙門天に推挙したのは自身の不死性の維持――その為に人妖の力関係のつり合いを取る必要があったからだと――そう言っていたではありませんか? 貴方が現れた事であの山の妖怪達が萎縮してしまって――その状況を解決する為に私を引き立てたのでは?」
「それもまた事実です。が――今思えばそれは杞憂であったのだろうと思います。何せあの頃は今よりずっと夜の精気が濃く、闇の深かった時代です。路を行けば鬼が人の皮を被って歩いているような時代でしたから……私がそんな事をせずとも妖怪の力が衰える心配は無かったように思います。その後――貴女を毘沙門天として推挙した後のことは貴方もよくご存知でしょう?」
確かに、そこから先は知っている。聖は次第に妖怪達のことを気にかけるようになっていった。
「聖、貴女から見て私達は――妖怪はどういう風に見えていたんですか?」
「そうですね……酷く寂しい生き物に見えました。己の必要とする者を食らわねばならない哀しい生き物だと――」
孤独な存在に――苦しんでいるように見えたのだろうか?
神も仏も妖怪もある意味では似たようなものだ。人の心なくしてその存在を保てない。
妖怪が――ほとんどの妖怪が神仏と一線を隔しているのは――信仰ではなく畏怖を必要とするところだ。
人に怖れられる事でしかその存在を保てず――そうして怖れられれば怖れられる程に、尚一層におぞましい姿形へと変貌を遂げてゆく存在。忌避されながらしか生き永らえることの出来ない、か弱い捕食者。
泥沼の如き進化を重ねて人に退治される。そんな生き物。
「でも人間だって牛や豚を殺してその肉を食らうでしょう? 何も変わらない……唯の食物連鎖じゃないですか? 違うのは餌側の頭のつくりだけです」
「しかし……貴方達が必要としているのは肉ではなく畏怖でしょう? 大切なのは身体でなく心なのでしょう?」
「そうですね……必要なのは死という事実であり、それに伴う恐怖こそが妖怪の糧になります。その後に残った肉塊を貪り食らう理由は明確にはありません。……大抵の場合は食べますけどね……ほら、なんか不義理な感じがしますから」
「あの頃の貴方達には他に術が無かった。いえ、他の方法を模索する必要性も無かった」
「右も左も人間でしたしね。幻想郷は慢性的に人間不足みたいですけど……」
外ではまぁ、今も変わらない。むしろ人は増えた。増えすぎて妖怪の入り込む隙間も無いくらいだ。
「私はきっと、あの頃の人と妖怪の関係を変えたかったのだと思います。両者の間に横たわる溝を何とか埋められないものかと暗中模索を重ね――結局は失敗した。その結果は貴方のよく知る通りです。私は魔女として人々の前から立ち去る事になりました」
「肝心なところをぼかさないで下さい。因果関係がさっぱりです。なんであんな風に去る事を選択したんですか?」
「その理由なら――千年前に言った通りです。それが万事丸く収まる方法だと、そう思ったからです」
「そうですね、貴女がいなくなったという一点を除けば……全て丸く収まりました。私はその一点に納得できなくて――結局、全部駄目にしてしまった。私には貴女ばかりが貧乏くじを引く事が耐えられなかった」
何故、聖だけがそんな重荷を背負わねばならないのか?
もっと自分勝手に生きていいのに――人間なんて――そうあるべきなのに――
私はいつだって彼女にそうしてほしいと願っているのに――
今にも崩れてしまいそうな顔でうつむく寅丸を見て、白蓮は一つ、嘆息した。
そっと、頬に触れる温かな感触に寅丸は身を強張らせる。
「そんな顔をしないで下さい。全部――私自身の望んだことです。誰の為でもなく、私は自分の為にそういう生き方を選択したのですから……」
「そうやって自分勝手に他人本位に振舞って……置いていかれる方の気持ちにもなって下さいよ……」
「残される辛さなら誰より知っているつもりです。ですから……忘れてくださいと、そう言ったじゃないですか?」
「……そうですか……そうですね……」
種を明かせば何てことはない。これ以上ないくらいに聖らしい考えだった。結局のところ自分は――自分の都合に合わせて彼女の言葉を捻じ曲げていたに過ぎない。
寅丸は何か、自分が諦めに似た感情に包まれていくのを感じていた。夢から覚めるように彼女は理解した。きっと、最初から存在しなかったのだと。
自分がそう在って欲しいと願った聖白蓮など――どこか弱く、支えを求める彼女など存在しない。
彼女はこれからも、そうしていくのだろう。誰に支えられずとも、独りであろうとも、私が傍に居なくても――自分の心の命ずる生き方を貫いていくだろう。自分には彼女の意思を揺さぶることなど出来ず、変えられない。そもそも変える必要など無いのだ。自分が彼女に願ったのは人間らしく――自分勝手に振舞うことで――自分がそう願うまでもなく、聖白蓮はそうだったのだ。
ずっと、私が彼女に出遭った頃からずっと、聖白蓮は自分に正直に生きてきたのだ。彼女の思想と行動に私の理解が及ばなかったというだけだ。
その理由もなんとなく理解できる。何も難しいことじゃない。唯――違うだけだ。人も、妖怪も仏も関係無い。唯、寅丸星と聖白蓮は違う生き物だから、根本から理解し合うことなど出来ないのだろうと思った。唯、肯定することしか出来ない。
「ねぇ聖、それが貴女の望む生き方だというのなら――」
’誰か’の為に生きたい聖と、聖の為に生きたい自分。きっと二人は平行線だ。想いが交わることは永遠にない。それでも――
「私もまた、自分勝手に生きていこうと思います」
「と言いますと?」
「そうですね、先に謝っておきますが……人々を導く仏でいるつもりは毛頭ありません。私の両手が誰かを救うことはないでしょう」
「それは……残念です」
「私は貴女のように誰かの支えになるなんて御免です。私の両手は――聖白蓮の為にあればいい。いつか――貴女がその身に抱え込んだ生と死の重さで潰されそうな時、立っているのに疲れた時に支えられるように――」
例えその時が永遠に訪れないとしても――
「私は唯の寅丸星でいい。信仰も畏怖も、持たざる者で構いません。私の両手には宝塔も宝棒も必要ない。傍らに居るだけで構いません」
平行線でもかまわない。
決して縮まらない距離、それは裏返せば決して離れないという事でもある。そして幸いなことに二人の距離は――手を伸ばせば届く程度の距離だ。
「何といいますか……私の立場が無い気がします……」
寅丸を毘沙門天として推挙した白蓮としては渋い顔をしない訳にはいかない。とはいえ確かに、これといって問題は無い。
元々、寅丸を毘沙門天として推挙した背景には当時の人と妖の関係――双方の間に如何ともし難い隔たりがあった事実がある。
幻想郷においてはそういった心配事は無いのだから、寅丸が仏である必要性は白蓮にとってもあんまりない。
それでも白蓮としては複雑な心境であった。
「言わせて貰いますがね、立場が無くなるのは私の方です。ナズーリンとか仰天しますよ、きっと。」
『実家に帰らせてもらいます!!』とか言われたらどうしよう――寅丸はそう思い、ちょっと考え直した。
「ゴホン! まぁ……辞めると言ってもあくまで気持ちの上での話です。名ばかりだったのは今までも同じですし……」
「まぁ……無理強いしても仕方がありませんしね……寅丸様の心境の変化を待ちますか」
そこで寅丸はハッとした。なんだかんだで有耶無耶になっていた問題を思い出したのだ。
「そう、それです聖! その『寅丸様』。いい機会ですしそれも止めちゃいましょう! たとえ神仏相手だろうとフランクに接するのが最近の幻想郷でのトレンドだと聞いていますよ?」
「ふらんく?」
「えと……簡単に言うとお互いの立場に余り固執せず、気軽に接するということですね」
「はぁ……では……何て呼びましょうか?」
何と呼ばれたいかと問われれば答えは決まっている。
「’とら’でいいですよ……昔の――出逢った頃ように、そう呼んで下さい」
白蓮は少し考え込んだ。寅丸の言い方が妙に引っかかった。
「もしかしてとらは……戻りたいのですか? あの頃に?」
白蓮の問いかけに寅丸は首を振り、穏やかな口調で答えた。
「たら、ればの話なんてしても仕方ないと思いますけどね……願わくばと――そう思った事ならあります」
聖がいて、ムラサや一輪もいて、ナズーリンがやって来て――自分はぎこちなく仏の真似事をして――悩みなんか何も無かったあの頃。
本当に――夢か幻かと思うほどに幸福だった。
千年間の別離を経てようやく皆が再開して――何もかも、元通りになんかならなかった。今はほんの少しだけ、苦しい。
寅丸はまた、俯きそうになった。
見かねた白蓮はそっと、寅丸の手を取って言った。
「とら、ふと思いついたのですが……この場所に新しいお寺を建てるというのはどうでしょう?」
「この場所って……この黴た瓦礫の山の上にですか?」 寅丸は辺りを見回して言う。
「ええ、いつまでも船に乗って宙ぶらりんという訳にもいきませんし……きっと一輪やムラサは歓ぶとますよ?」
「そうですね……私も、もう一度ここから始められるのなら――」
そこで一度、言いよどんだ。
ナズーリンは……彼女は歓んでくれるだろうか? きっと無理だろう。彼女にとっては辛い思い出の方が多かったはずだ。
――努力しよう。空っぽだった八百年を埋めて余りある楽しい思い出を築いていけるよう――。
「――いいと思います。あの頃出来なかった事も、ここでなら出来ると――不思議とそう思えます」
寅丸の返事を聞いた白蓮は花のように笑った。寅丸もつられて笑った。随分と久しぶりに笑えた気がした。
「決まりですね、善は急げです! 四人が到着次第、事情を説明して建設開始です!……あら? 噂をすれば何とやらですよ?」
そう言った白蓮の視線の先、寅丸は米粒大の飛行物体を見た。
「ああ、聖輦船ですね。お~い……って……ちょっと?」
米粒大の影だった聖輦船は瞬く間に寅丸の視界の大部分を占有する程の大きさになり、その上で尚、速度を緩める事無く接近してくる。
目的地である『寅丸星』めがけて。
聖輦船内は完全にパニック状態だった。
「停めろ船長! 停めるんだ! 火急的速やかに!! このままだとご主人が轢き肉だ! イカリを降ろせ! 沈めろ!! 得意だろう!?」
ナズーリンはムラサの胸ぐらを掴んでガクガクと振り回している。ムラサは軽い脳震盪を起こしながらも答える。
「お、お、落ち着きなさいネズミ君! この世には押し寄せる時の流れの如く避けがたい運命というものが存在するとハイゼンベルグさんとシュレーディンガーさんの働きによって半ば幻想へとその身を貶められた古典質点物理学の支配概念存在たるラプラスの悪魔さんも――」
「ここは幻想郷だ! 日本語を話せ!!」
ナズーリンの頭突きがムラサにヒットした。
「きゅうぅ~」
ざんねん ムラサは のびて しまった
「ああもう! 寝てる場合じゃないだろう! 一輪! 何かいい手立ては――ッ!??」
藁をも掴む思いで一輪の方を向いたナズーリンはがく然とした。
「雲山ッ!? 雲山じゃないか! 無事だったんだね!?」
夢か幻かはたまた現実逃避の産物か――それとも一輪にはそこに存在しないはずの雲山が見えているのか? はたまたナズーリンにだけそこに存在するはずの雲山が見えていないのか――ナズーリンには判断がつかなかったが結果として彼女がとった行動はきっと不変だっただろう。
「そっちは涅槃だ目を覚ませーーーーーッ!!」
ナズーリンが勢い任せにくり出したドロップキックは一輪の延髄に効率的に食い込んだ。
「キュウゥ~」
ざんねん いちりんも のびて しまった
「ああっもう! どいっつもこいっつも! 肝心なところで役に立たないったら!! どうするナズーリン!? どうしようナズーリン!? 嗚呼っ! こんな時にご主人がいてくれたらご主人を助けられるのにっっ! お願い助けて! まもって毘沙門天! ちっがう逆だよ! 私が毘沙門天を護らなきゃなんじゃないか! 一体全体どうしてこうなった!!」
聖輦船の内部に小さな賢将の大きな叫び声が響き渡った。
「これは……拙いですよね? やっぱり……」
「でしょうねぇ……」
迫り来る聖輦船を前にして立ち尽くす二人の耳に雷鳴の如くけたたましい声――聖輦船に備え付けの拡声器によって増幅されたナズーリンのものだった――が聞こえてきた。
「おーい! ご主人! 聞こえるかい!? 聞こえてたら三回まわってガォーってしておくれ!」
「……がぉー」
「はい、よく出来ました。ご主人! 時間がないから手短に説明するよ! 今現在、聖輦船は船長の手違いによって寅丸星をどこぞの狩猟民族の工芸品よろしく真っ平らにしない限り停まれなくなってる! 船内では不幸な事故によって船長、一輪ともにダウンしちゃってて打つ手が無い状況なんだ! そっちでなんとかしておくれ!」
「何とかって……いつになく無茶振りしますね……聖!?」
既に目と鼻の先まで迫りつつある聖輦船。寅丸とその間に割り込むようにして白蓮が歩み出る。
「何をする気ですか!?」
黒衣をはためかせ、仁王立ちの聖白蓮は寅丸星の問いかけに振り向き、笑顔で答える。
「何って――とらがミンチになるのを黙って見ている訳にはいきませんから――やる事なんて一つでしょう?」
寅丸は白蓮の固く握った拳に尋常ならざる法力が込められていくのを目の当たりにした。
「待って下さい聖! いきなりそんな手荒な方法に訴えずとも何か他に平和的な解決法が――」
例えば自分が二次元生命体に退化してみるとか――その程度の解決法しか見つけられない自分の脳味噌を寅丸は激しく後悔した。
「答え3 かわせない。とら、現実は非情ですよ。ならば――致し方の無い事もあります」
「ですよねー」 寅丸は自棄をおこした。なるようになれ、だ。
「いざ! 南無三!!」
その後の数瞬の内に何が起こったか――真相を正確に記憶している者は存在しない。
結果だけを述べると白蓮の放った渾身の右ストレートによって聖輦船はものの見事に木っ端微塵。数千、数万とも知れぬその残骸達は黴た寺院跡に降り注いだ。後日、その瓦礫の山を使って命蓮寺が建立される運びとなった。
また、聖輦船撃沈の際に発生した凄まじい衝撃は辺り一帯に嵐を巻き起こし、その結果として雲山が謎の復活を遂げた。気絶したまま聖輦船から投げ出された一輪、ムラサの両名を救出したのも彼の働きである。
ちなみにナズーリンは持ち前の逃げ足の速さでもって事なきを得ていた。
こうして寅丸星の失踪に端を発した一連の事件には終止符が打たれた。
余談として――命蓮寺の建立後ほどなくして、『新しい船を捜しに行きます。捜さないで下さい』との書置きを残し村紗水蜜が失踪する事となるのだが――それはまた別の話である。
<了>
所々カリスマやら哀愁やら漂わせたり匂わせたりしながらコミカルに纏める手法が秀逸でパルパルしてまう。
悔しい!でも読んじゃう!
読み始めの頃は、正直こんな凄い話になるとは露とも思わなかったのに…
読ませていただいてありがとうございました!
そして引き込まれる様な面白さ。素晴らしい。
それもまた正義であるー