八つの御岳が連なる偉大な連峰。
人々は、その地を「八つ山」と呼んでいる。
その中腹に、ひとつの社があった。
「アリヤ様」
しゃがれた声が、社に響く。
「火吹き山の民が、助けを求めております」
老人が高座に座る女に進言する。
女の顔は白い布で覆い隠され──そこには大きく「目」の印が描かれていた。
「火吹き山、ですか」
アリヤと呼ばれた女は、静かに呟いた。
古き山の神である彼女にとって、山とは本来火を吹くものである。
大地の血を吐き、岩を砕き、煙を上げる。
されど、それらの多くは長き時の流れの中で穏やかとなり、今のこの地で「火吹き山」と言えば、民はひとつの峰を思い浮かべる。
他に火を吹く山が無い訳ではなかった。
だが、それだけその山は特別なものとしてそこに在った。
「あの山も、今しばらくは静かな物だったと思いますが」
「何かあったのですか?」
「遣いの者が言うには──山で大蛇が暴れているとの話です」
大蛇。
思っていたのとは違った方向に飛んだ話に、アリヤが首をかしげる。
そこへ、老人が続けた。
「ただの大蛇ではありません」
「鹿も丸呑みするような──龍と見まがう程の巨大な蛇です」
「……その蛇は、元々火吹き山に居たものですか?」
しばし何かを考えてから、アリヤはそう尋ねた。
「十三年程前、突如として山に現れたそうです」
老人は、ゆっくりと続ける。
「とは言え──それからずっと、民を襲うこともなく静かに暮らしていたそうで」
「それがひと月程前から、理由も知れぬままに暴れだしたと聞いております」
「ふむ」
「確かに、それは私が見に行くしかないでしょうね」
そう言ってアリヤはその腰を上げる。
その背からは、色あせた骨のような翼と尾が覗いていた。
「そこのお前」
アリヤは社を掃除していた若者に声をかける。
突然名指しされた若者は、思わず肩を震わせた。
「わ、私ですか?」
「他に誰が居るのです」
白布に描かれた「目」に睨まれた心地で、若者は周囲を見回した。
誰も助けてはくれなかった。
「山の生き物には詳しかったでしょう、同行しなさい」
突然に神との同伴を命じられた若者は、身を縮ませながらその後を付いて行く。
若者は、八つ山の麓の集落のひとつに生まれた、狩人の息子だった。
だが狩りには身が入らず、ふらふらと生き物ばかりを眺めていたため、雑用にでも何にでも使ってくれと、アリヤの社へと放り込まれたのだった。
鹿を呑み込む程の巨大な蛇。
それは恐ろしい響きではあったが──
どんな姿なのか、見てみたいという気持ちも確かにあった。
(殺してしまう、つもりなのだろうか)
若者は、前を進む神の、骨の翼の生える背を見つめる。
──生き物を殺すというのは、どうにも昔から苦手だった。
南の地では「ノウギョウ」というものが広まりつつあるとも聞くが、この地では狩りこそが生きる術そのものだ。
それは若者にも分かってはいたが、こればかりは自分でもどうしようもなかった。
だから両親に神の社で働くように言われた時には、随分とほっとしたものだったのだが──
「ちょ……ちょっと……待ってくださ……」
火吹き山へと向かう道の途中、息も絶え絶えに若者が音を上げる。
アリヤは若者に振り向くと、首をかしげる。
「人間の歩調は、これくらいかと思ったのですが」
アリヤの歩調は殊更に速いものでは無かったが、その速度は一定で、一向に衰えを見せる気配が無い。
「それでも……ずっと歩き続けるのは、無理ですよぉ」
社を降りたふたりは、盆地の集落で一夜を明かしていた。
集落を出た時には顔を出したばかりだった太陽も、今は真上にある。
遮るものの無い日差しと、盆地の湿気が若者の体力を削っていた。
「ふむ」
「では、ここで一度休みましょうか」
「ほ、本当ですかっ」
「火吹き山まで、あと半分という所です」
「ここで休んでおけば日が沈む前には到着出来るでしょう」
「は、半分……」
若者の笑顔が強ばる。
それはここで休む以上は──残りの行程を、遅れず着いていかねばならないということだ。
若者が腰の水袋を必死に煽る横で、アリヤは火吹き山の方角を見つめていた。
この場所からでもよく見える、形の良い三角の峰。
多くの山々が鎮まった今もなお内に火を秘め──これから先も幾度となく火を吹くであろうその山は、今は静かにアリヤ達を見下ろしていた。
太陽がついに山々の向こうに沈もうという頃、アリヤと若者は火吹き山の麓の集落へと辿り着いた。
「ああっ、貴方が八つ山の神様! よくぞ来てくださいました!」
ぜぇぜぇと息を荒げる若者に対して、アリヤは平然と民の話を聞いている。
「まずは、大蛇について聞かせてください」
「貴方達は、私にそれをどうして欲しいのですか?」
アリヤの問いに、火吹き山の民は顔を見合わせる。
「私達は……あの蛇を助けて欲しいのです」
思いもよらない答えに、若者が顔を上げる。
「あの蛇は、この山に現れてからずっと、人間を襲うことはありませんでした」
「山に深入りした狩人と出くわした時でさえ、それは同じだったといいます」
「鹿だって丸呑みするような大蛇が──それよりずっと足の遅い人間のことは決して食べないのです」
「まるで自らの意思で、そうと決めたように」
「今暴れているのだって……きっと理由があるのだと思います」
民はそこで一度、言葉を切る。
「……我々は、その蛇のことを『アサマ様』と呼んでいます」
「アサマ様、ですか」
アリヤは民が呼ぶ名を反芻するように口にする。
その言葉は、火を吹く山を広く指す呼び名であった。
(この山の民達は、山と蛇を同一視し始めている)
それは、ひとつの信仰が形を持ちはじめる瞬間であった。
アリヤは、それについて是非を断じることはなかった。
ただ、その名を静かに胸の内へと留めていた。
「そうですね」
「日が明けたら、まずは様子を見に行きましょう」
麓の民の話を頼りに火吹き山に足を踏み入れてみれば、その痕跡はすぐに見つかった。
草は剥げ、木々が薙ぎ倒されたその跡は、山奥へと進むように続いていた。
「うわっ……」
若者が思わず声を漏らす。
巨大な蛇、とは聞いていたがこれは予想以上かもしれない。
「この木はへし折れてから然程時間は経っていませんね」
アリヤが倒木に手を触れながら言う。
「まだあまり遠くには行っていないかもしれません、すぐに──」
その時。
──何処からか、メキメキと木の倒れる音がした。
「!」
若者が顔を上げる。
続いて、もう一度。
メキメキ、と。
若者が探るように辺りを見回すと、アリヤは既にひとつの方角を見据えていた。
「……居ましたね」
アリヤが歩む方へ、若者も慌てて付いていく。
──そこに居たのは、美しい生き物だった。
まるで誰かが意図して描いたかのように、規則正しく走る金の模様がその身を覆っている。
その合間からは、雪のように白い鱗が覗いていた。
息を呑むほど整ったそれは、どこか現実離れしていて──
「──綺麗」
アリヤは思わず、そう零していた。
「織物みたい」
未だ人の手には遠い、神々の身に纏うもの。
絢爛なそれに、アリヤは大蛇を重ねていた。
麓の民が、神の化身と思うのも無理はない。
そう思わせるだけの存在感が、その大蛇にはあった。
「うわぁ」
若者もまた、大蛇の姿を見て感嘆の声を上げていた。
この土地で、あんな模様の蛇は見たことがない。
長く生きた蛇の変化だとしても──何処か遠い場所からやって来たのだろうか。
ふたりが思わず見惚れていると──
メキメキメキッ。
大蛇が身を捩らせ木々を薙ぎ倒した。
若者は息を飲む。
人は襲わないとは言うが、それが今も同じとは限らない。
若者の腰が引けそうになったその時──
「お前は──あれをどう見る?」
アリヤが問いかけた。
「ど、どう見るって……」
「何でもいいのです」
「普通の蛇と違う所が分かりますか?」
そうだ。
このために自分は連れてこられたのだろう。
若者は、今も暴れ続ける大蛇へと目を凝らす。
「……首のあたりに、薄い皮のようなものがめくれているのが見えます」
「あれは多分……皮を脱ぐのが、うまくいっていないのだと思います」
「暴れているように見えるのも、もしかしたら……」
躊躇いがちに、若者は言葉を続ける。
「……どうにか皮を脱ごうとして、木々に身体を擦り付けているのかもしれません」
「ふむ」
「皮を脱がせてやれば──あれは大人しくなると思うか?」
「どう、でしょうか」
正直、蛇の気持ちまでは分からない。
それでも──
「それで助けられるものなら……私は助けたいです」
「……分かりました」
「では、どうすればいいか──お前の知恵を聞かせてください」
若者は、少しの間考え、神へと答える。
「まずは……水場に誘導してやる必要があるかと思います」
麓の民に聞いた所、山にほど近い場所に豊かな水源を湛える大沼があるそうだ。
そこならば、あの大蛇もゆったりと浸かれるだけの広さが有るだろう。
問題はどうやって大蛇を誘導するかという所だが。
大蛇が、意思を持って人を襲わないのなら──
「私が試してみましょう」
アリヤは、躊躇いなく言った。
「試すって……何をです?」
若者の顔には、不安が浮かぶ。
白布の「目」が、真っ直ぐ若者を見ている。
「説得です」
アリヤは、今もなお木々に身体を打ち付ける大蛇に、静かに近寄っていく。
「……聞こえますか」
アリヤの呼び掛けに、大蛇の首が、わずかにもたげる。
「皮が脱げなくて、苦しんでいるのでしょう?」
「大人しく私に着いてきてくれたら……手助けできるかもしれません」
大蛇は、動きを止めてゆっくりとアリヤへ首を向ける。
「……大丈夫よ」
アリヤは、大蛇へと歩みを進めようとして──その前に顔を覆う白布を取る。
その下から現れた、うら若き少女の顔には──左目に被さるように赤黒い痣が広がっていた。
アリヤは微笑み、大蛇に語りかける。
「私は──私も、貴方を助けたいと思ってる」
「何でだろう、貴方があんまり綺麗だったからかな」
そう言って笑うアリヤの姿は、神というより屈託ない少女のようだった。
大蛇は、その顔をじっと見つめている。
アリヤが伸ばした手が、そっと大蛇の顎に触れた。
「……一緒に来てくれる?」
大蛇の赤い瞳が、返事のように薄く瞬いた。
「本当に連れて来ちゃった……」
一足先に大沼でアリヤを待っていた若者は、大蛇を伴い現れた彼女を見て思わずそう呟く。
大蛇は暴れることもなく、大人しく彼女の側を這い進む。
そこで若者は、普段彼女の顔を覆う布が取り払われていることに気付く。
「あれっ。アリヤ様、お顔が──」
その下に隠されていた痣に、言葉が途切れた。
自分が見てしまっていい物なのか?
若者は戸惑うが──
「ああ」
「みんなには内緒ですよ」
そう悪戯っぽく微笑むアリヤに、思わず呆気に取られる。
「それで……この大沼に浸かればいいのですか?」
そんな若者の様子も気にせず、アリヤは尋ねた。
「えっ、ああ、はい!」
若者は慌てて返事をした。
「水に浸かってしばらく待てば……いくらか皮も柔らかくなるはずです」
「分かりました」
アリヤは羽織っていた長衣を脱ぐと、若者に放る。
「わわっ」
「大丈夫? 冷たくない?」
ゆったりと大沼の中へ進む大蛇に寄り添いながら、アリヤは声をかける。
──なんだか妙に仲良くなってない?
そんなことを思いながら、若者はその様子を見守っていた。
「アリヤ様!」
「そろそろです!」
アリヤが大蛇と共に大沼に入ってからしばらく経つ頃、若者が大声で合図を送る。
それを聞くとアリヤは、懐から黒く艶を帯びた石片を取り出した。
それは八つ山の石を砕き、その欠片から削り出された──最も原始的な刃だった。
「……じっとしててね、心配要らないから」
水を吸った古い皮は、十分に柔らかくなっている。
一度大蛇を撫でると、アリヤは迷いなくその皮へ刃を当てた。
息を吸い込むでもなく、水に潜る。
大蛇の古い皮を一気に切り裂いていく。
何層にも積み重なったそれは、もう長い間、まともに皮を脱げていなかったことを物語っていた。
そしてその尾まで、アリヤの刃が走った時──
大蛇が大きく一度、その身をうねらせた。
(わっ!)
思わず、アリヤは大蛇にしがみつく。
引き上げられるように、彼女は水面へと浮かび上がり、そして──
──その腕の中に居たのは、白髪の美しい娘だった。
赤い瞳と、間近に目が合う。
「……あれぇ?」
アリヤは思わず声を上げる。
「私、私は……」
娘は何かを言おうとしてそのまま気を失う。
アリヤは慌てて、その身体が沈まぬように抱え直す。
「アリヤさまー! 上手くいきましたかー!?」
遠くから若者の声が聞こえる。
「こっち見ない!」
反射的にアリヤが叫ぶ。
娘は、何も身に纏っていなかった。
「とりあえず火、起こして! 火!」
娘が焚き火の側で目を覚ました時──隣には、顔を白布で覆った女が座っていた。
「あっ……」
娘が小さく声を漏らすと、女の肩がぴくりと跳ねた。
「……」「……」
「アリヤ、って呼ばれてたよね?」
「助けてくれて……ありがとう、アリヤ」
返事は、ない。
焚き火の音だけが、少し大きく聞こえた。
「顔」
「なんでまた隠しちゃったの?」
気を失ってる間に着せられた長衣の袖を握りながら、娘が聞く。
「いやぁ……」
白布の向こうから、バツの悪そうな声が聞こえる。
「蛇なら気にしないだろうと思ってただけというか……」
そう言いながら、女は白布の向こうで左目の位置にそっと手を添えた。
「……」「……」
「私だって、気にしないよ」
少しだけ、拗ねたような声に聞こえた。
「あっ」
アリヤが気付いた時には、娘はその白布に手をかけていた。
「……うん、やっぱり顔が見えてる方がいいよ」
娘は目を細めて、アリヤの顔を覗き込む。
「そう、かな」
「そうだよ」
娘は綻ぶように笑い──アリヤも釣られて口元を緩める。
焚き火に照らされる中、ふたりの少女はただ笑いあっていた。
それから娘は──ゆっくりと、自分のことを語った。
遠い場所にある王国の王女であったこと。
ある日やって来た軍勢に国が滅ぼされたこと。
自分ひとり生き残ったが──その者たちによって、大蛇の姿へと変えられたこと。
『お前たちが神の末裔だというのなら──先祖の姿へ還るがいい』
そして火吹き山に辿り着き、そのまま長い時を過ごしていたこと。
「……麓の人達が、私をそっとしておいてくれたのはありがたかったな」
そう語る彼女の瞳は、けれどどこか寂しげだった。
「……彼らは」
並んで焚き火に当たりながら、アリヤはぽつりと語り始める。
「貴方のことを、山の神として扱いつつありました」
「……貴方が、彼らの暮らしを尊重していたからだと思います」
「私に……貴方を助けて欲しいと求めたのも、彼らでした」
「私は……」
「これからどうすればいいと思う?」
娘は膝を抱えながら、アリヤを見る。
「……」
「彼らに話せば」
「貴方が暮らすための社くらい、用意してくれるはずです」
アリヤは娘の赤い瞳を見つめたまま、言葉を選ぶように続けた。
「貴方には既に──神としての格が備わっている」
それは彼女を先祖の姿に変えた呪いのせいか──
あるいは麓の民からの「名付け」によるものかもしれない。
「私は……」
何かを言おうとして、娘の言葉はそこで途切れる。
「少し、考えさせて」
焚き火のはぜる音だけが、ふたりの間に残っていた。
次の日、アリヤは若者を連れて自分の山へと帰ろうとしていた。
顔を覆う白布は、今は右半分だけは見えるようにずらされている。
「本当にありがとうございました」
火吹き山の民が頭を下げる。
「貴方様のお蔭で──アサマ様も本来の姿を取り戻せたようで」
「ええ、彼女は今や、正真正銘この山の神です」
「どうか──丁重に扱ってあげてください」
そうしてアリヤ達が集落を出て、正に出発しようとしたその時──
「待って!」
娘が、アリヤの元に駆け寄って来た。
「やっぱり私も……私もアリヤと一緒に行く」
その眼差しには、決意が滲んでいた。
「なっ……」
「何を言っているんですか!」
アリヤは、彼女には珍しく慌てて言い返す。
「私なんかに付いてきたって……良いことなんて何もありませんよ」
その言葉には、何処か自嘲めいた響きがあった。
「何が良いことかなんて、私が決める」
毅然とした言葉だった。
見つめ合うふたりの間に、しばし張り詰めた空気が流れるが──
「いいじゃないですか、来たいって言うなら連れていってあげれば」
「アリヤ様だって、あんなに仲良くしてたじゃないですか」
若者が、横から口を挟んだ。
「軽く言うけどねぇ」
「この娘はもう、この山の神として定義付けられてしまっているの」
呆れた調子で、アリヤが言う。
「それなら尚更、アリヤ様が神様の仕事を教えてあげた方がいいんじゃないですか?」
「その子、神様になったばっかりなんでしょ?」
若者の口調は、なおも軽い。
「こう……あっちの山で暮らしながら、こっちの山の仕事もしたり、とか……」
言いながら、流石に自分でも適当なことを言ったと思ったのか、だんだんと言葉がしぼんでいく。
「……」
「はぁ」
しばらくの沈黙の後、アリヤは溜め息をひとつ吐いた。
「まあ、方法については、帰ってから考えましょうか」
「……! それじゃあ!」
娘の顔に、笑みが浮かぶ。
「ええ」
「一緒に来ていいですよ、王女様」
「やった! ありがとうアリヤ!」
「ちょっ……」
娘は喜びの声を上げて、アリヤに抱き付く。
アリヤは半ば困惑しながら、ただ空を見上げていた。
「ところで、これから貴方のことをどう呼べばいいでしょうか」
「民からは──アサマ様、と呼ばれていくのでしょうが」
「ふふっ」
娘は小さく笑い、歩きながらアリヤのほうを振り返った。
「えっとね、私の名前はね──」
八つ山への帰り道を、三つの人影が進んでいく。
その足取りは、行きの時よりずっとゆっくりとした物だった。
人々は、その地を「八つ山」と呼んでいる。
その中腹に、ひとつの社があった。
「アリヤ様」
しゃがれた声が、社に響く。
「火吹き山の民が、助けを求めております」
老人が高座に座る女に進言する。
女の顔は白い布で覆い隠され──そこには大きく「目」の印が描かれていた。
「火吹き山、ですか」
アリヤと呼ばれた女は、静かに呟いた。
古き山の神である彼女にとって、山とは本来火を吹くものである。
大地の血を吐き、岩を砕き、煙を上げる。
されど、それらの多くは長き時の流れの中で穏やかとなり、今のこの地で「火吹き山」と言えば、民はひとつの峰を思い浮かべる。
他に火を吹く山が無い訳ではなかった。
だが、それだけその山は特別なものとしてそこに在った。
「あの山も、今しばらくは静かな物だったと思いますが」
「何かあったのですか?」
「遣いの者が言うには──山で大蛇が暴れているとの話です」
大蛇。
思っていたのとは違った方向に飛んだ話に、アリヤが首をかしげる。
そこへ、老人が続けた。
「ただの大蛇ではありません」
「鹿も丸呑みするような──龍と見まがう程の巨大な蛇です」
「……その蛇は、元々火吹き山に居たものですか?」
しばし何かを考えてから、アリヤはそう尋ねた。
「十三年程前、突如として山に現れたそうです」
老人は、ゆっくりと続ける。
「とは言え──それからずっと、民を襲うこともなく静かに暮らしていたそうで」
「それがひと月程前から、理由も知れぬままに暴れだしたと聞いております」
「ふむ」
「確かに、それは私が見に行くしかないでしょうね」
そう言ってアリヤはその腰を上げる。
その背からは、色あせた骨のような翼と尾が覗いていた。
「そこのお前」
アリヤは社を掃除していた若者に声をかける。
突然名指しされた若者は、思わず肩を震わせた。
「わ、私ですか?」
「他に誰が居るのです」
白布に描かれた「目」に睨まれた心地で、若者は周囲を見回した。
誰も助けてはくれなかった。
「山の生き物には詳しかったでしょう、同行しなさい」
突然に神との同伴を命じられた若者は、身を縮ませながらその後を付いて行く。
若者は、八つ山の麓の集落のひとつに生まれた、狩人の息子だった。
だが狩りには身が入らず、ふらふらと生き物ばかりを眺めていたため、雑用にでも何にでも使ってくれと、アリヤの社へと放り込まれたのだった。
鹿を呑み込む程の巨大な蛇。
それは恐ろしい響きではあったが──
どんな姿なのか、見てみたいという気持ちも確かにあった。
(殺してしまう、つもりなのだろうか)
若者は、前を進む神の、骨の翼の生える背を見つめる。
──生き物を殺すというのは、どうにも昔から苦手だった。
南の地では「ノウギョウ」というものが広まりつつあるとも聞くが、この地では狩りこそが生きる術そのものだ。
それは若者にも分かってはいたが、こればかりは自分でもどうしようもなかった。
だから両親に神の社で働くように言われた時には、随分とほっとしたものだったのだが──
「ちょ……ちょっと……待ってくださ……」
火吹き山へと向かう道の途中、息も絶え絶えに若者が音を上げる。
アリヤは若者に振り向くと、首をかしげる。
「人間の歩調は、これくらいかと思ったのですが」
アリヤの歩調は殊更に速いものでは無かったが、その速度は一定で、一向に衰えを見せる気配が無い。
「それでも……ずっと歩き続けるのは、無理ですよぉ」
社を降りたふたりは、盆地の集落で一夜を明かしていた。
集落を出た時には顔を出したばかりだった太陽も、今は真上にある。
遮るものの無い日差しと、盆地の湿気が若者の体力を削っていた。
「ふむ」
「では、ここで一度休みましょうか」
「ほ、本当ですかっ」
「火吹き山まで、あと半分という所です」
「ここで休んでおけば日が沈む前には到着出来るでしょう」
「は、半分……」
若者の笑顔が強ばる。
それはここで休む以上は──残りの行程を、遅れず着いていかねばならないということだ。
若者が腰の水袋を必死に煽る横で、アリヤは火吹き山の方角を見つめていた。
この場所からでもよく見える、形の良い三角の峰。
多くの山々が鎮まった今もなお内に火を秘め──これから先も幾度となく火を吹くであろうその山は、今は静かにアリヤ達を見下ろしていた。
太陽がついに山々の向こうに沈もうという頃、アリヤと若者は火吹き山の麓の集落へと辿り着いた。
「ああっ、貴方が八つ山の神様! よくぞ来てくださいました!」
ぜぇぜぇと息を荒げる若者に対して、アリヤは平然と民の話を聞いている。
「まずは、大蛇について聞かせてください」
「貴方達は、私にそれをどうして欲しいのですか?」
アリヤの問いに、火吹き山の民は顔を見合わせる。
「私達は……あの蛇を助けて欲しいのです」
思いもよらない答えに、若者が顔を上げる。
「あの蛇は、この山に現れてからずっと、人間を襲うことはありませんでした」
「山に深入りした狩人と出くわした時でさえ、それは同じだったといいます」
「鹿だって丸呑みするような大蛇が──それよりずっと足の遅い人間のことは決して食べないのです」
「まるで自らの意思で、そうと決めたように」
「今暴れているのだって……きっと理由があるのだと思います」
民はそこで一度、言葉を切る。
「……我々は、その蛇のことを『アサマ様』と呼んでいます」
「アサマ様、ですか」
アリヤは民が呼ぶ名を反芻するように口にする。
その言葉は、火を吹く山を広く指す呼び名であった。
(この山の民達は、山と蛇を同一視し始めている)
それは、ひとつの信仰が形を持ちはじめる瞬間であった。
アリヤは、それについて是非を断じることはなかった。
ただ、その名を静かに胸の内へと留めていた。
「そうですね」
「日が明けたら、まずは様子を見に行きましょう」
麓の民の話を頼りに火吹き山に足を踏み入れてみれば、その痕跡はすぐに見つかった。
草は剥げ、木々が薙ぎ倒されたその跡は、山奥へと進むように続いていた。
「うわっ……」
若者が思わず声を漏らす。
巨大な蛇、とは聞いていたがこれは予想以上かもしれない。
「この木はへし折れてから然程時間は経っていませんね」
アリヤが倒木に手を触れながら言う。
「まだあまり遠くには行っていないかもしれません、すぐに──」
その時。
──何処からか、メキメキと木の倒れる音がした。
「!」
若者が顔を上げる。
続いて、もう一度。
メキメキ、と。
若者が探るように辺りを見回すと、アリヤは既にひとつの方角を見据えていた。
「……居ましたね」
アリヤが歩む方へ、若者も慌てて付いていく。
──そこに居たのは、美しい生き物だった。
まるで誰かが意図して描いたかのように、規則正しく走る金の模様がその身を覆っている。
その合間からは、雪のように白い鱗が覗いていた。
息を呑むほど整ったそれは、どこか現実離れしていて──
「──綺麗」
アリヤは思わず、そう零していた。
「織物みたい」
未だ人の手には遠い、神々の身に纏うもの。
絢爛なそれに、アリヤは大蛇を重ねていた。
麓の民が、神の化身と思うのも無理はない。
そう思わせるだけの存在感が、その大蛇にはあった。
「うわぁ」
若者もまた、大蛇の姿を見て感嘆の声を上げていた。
この土地で、あんな模様の蛇は見たことがない。
長く生きた蛇の変化だとしても──何処か遠い場所からやって来たのだろうか。
ふたりが思わず見惚れていると──
メキメキメキッ。
大蛇が身を捩らせ木々を薙ぎ倒した。
若者は息を飲む。
人は襲わないとは言うが、それが今も同じとは限らない。
若者の腰が引けそうになったその時──
「お前は──あれをどう見る?」
アリヤが問いかけた。
「ど、どう見るって……」
「何でもいいのです」
「普通の蛇と違う所が分かりますか?」
そうだ。
このために自分は連れてこられたのだろう。
若者は、今も暴れ続ける大蛇へと目を凝らす。
「……首のあたりに、薄い皮のようなものがめくれているのが見えます」
「あれは多分……皮を脱ぐのが、うまくいっていないのだと思います」
「暴れているように見えるのも、もしかしたら……」
躊躇いがちに、若者は言葉を続ける。
「……どうにか皮を脱ごうとして、木々に身体を擦り付けているのかもしれません」
「ふむ」
「皮を脱がせてやれば──あれは大人しくなると思うか?」
「どう、でしょうか」
正直、蛇の気持ちまでは分からない。
それでも──
「それで助けられるものなら……私は助けたいです」
「……分かりました」
「では、どうすればいいか──お前の知恵を聞かせてください」
若者は、少しの間考え、神へと答える。
「まずは……水場に誘導してやる必要があるかと思います」
麓の民に聞いた所、山にほど近い場所に豊かな水源を湛える大沼があるそうだ。
そこならば、あの大蛇もゆったりと浸かれるだけの広さが有るだろう。
問題はどうやって大蛇を誘導するかという所だが。
大蛇が、意思を持って人を襲わないのなら──
「私が試してみましょう」
アリヤは、躊躇いなく言った。
「試すって……何をです?」
若者の顔には、不安が浮かぶ。
白布の「目」が、真っ直ぐ若者を見ている。
「説得です」
アリヤは、今もなお木々に身体を打ち付ける大蛇に、静かに近寄っていく。
「……聞こえますか」
アリヤの呼び掛けに、大蛇の首が、わずかにもたげる。
「皮が脱げなくて、苦しんでいるのでしょう?」
「大人しく私に着いてきてくれたら……手助けできるかもしれません」
大蛇は、動きを止めてゆっくりとアリヤへ首を向ける。
「……大丈夫よ」
アリヤは、大蛇へと歩みを進めようとして──その前に顔を覆う白布を取る。
その下から現れた、うら若き少女の顔には──左目に被さるように赤黒い痣が広がっていた。
アリヤは微笑み、大蛇に語りかける。
「私は──私も、貴方を助けたいと思ってる」
「何でだろう、貴方があんまり綺麗だったからかな」
そう言って笑うアリヤの姿は、神というより屈託ない少女のようだった。
大蛇は、その顔をじっと見つめている。
アリヤが伸ばした手が、そっと大蛇の顎に触れた。
「……一緒に来てくれる?」
大蛇の赤い瞳が、返事のように薄く瞬いた。
「本当に連れて来ちゃった……」
一足先に大沼でアリヤを待っていた若者は、大蛇を伴い現れた彼女を見て思わずそう呟く。
大蛇は暴れることもなく、大人しく彼女の側を這い進む。
そこで若者は、普段彼女の顔を覆う布が取り払われていることに気付く。
「あれっ。アリヤ様、お顔が──」
その下に隠されていた痣に、言葉が途切れた。
自分が見てしまっていい物なのか?
若者は戸惑うが──
「ああ」
「みんなには内緒ですよ」
そう悪戯っぽく微笑むアリヤに、思わず呆気に取られる。
「それで……この大沼に浸かればいいのですか?」
そんな若者の様子も気にせず、アリヤは尋ねた。
「えっ、ああ、はい!」
若者は慌てて返事をした。
「水に浸かってしばらく待てば……いくらか皮も柔らかくなるはずです」
「分かりました」
アリヤは羽織っていた長衣を脱ぐと、若者に放る。
「わわっ」
「大丈夫? 冷たくない?」
ゆったりと大沼の中へ進む大蛇に寄り添いながら、アリヤは声をかける。
──なんだか妙に仲良くなってない?
そんなことを思いながら、若者はその様子を見守っていた。
「アリヤ様!」
「そろそろです!」
アリヤが大蛇と共に大沼に入ってからしばらく経つ頃、若者が大声で合図を送る。
それを聞くとアリヤは、懐から黒く艶を帯びた石片を取り出した。
それは八つ山の石を砕き、その欠片から削り出された──最も原始的な刃だった。
「……じっとしててね、心配要らないから」
水を吸った古い皮は、十分に柔らかくなっている。
一度大蛇を撫でると、アリヤは迷いなくその皮へ刃を当てた。
息を吸い込むでもなく、水に潜る。
大蛇の古い皮を一気に切り裂いていく。
何層にも積み重なったそれは、もう長い間、まともに皮を脱げていなかったことを物語っていた。
そしてその尾まで、アリヤの刃が走った時──
大蛇が大きく一度、その身をうねらせた。
(わっ!)
思わず、アリヤは大蛇にしがみつく。
引き上げられるように、彼女は水面へと浮かび上がり、そして──
──その腕の中に居たのは、白髪の美しい娘だった。
赤い瞳と、間近に目が合う。
「……あれぇ?」
アリヤは思わず声を上げる。
「私、私は……」
娘は何かを言おうとしてそのまま気を失う。
アリヤは慌てて、その身体が沈まぬように抱え直す。
「アリヤさまー! 上手くいきましたかー!?」
遠くから若者の声が聞こえる。
「こっち見ない!」
反射的にアリヤが叫ぶ。
娘は、何も身に纏っていなかった。
「とりあえず火、起こして! 火!」
娘が焚き火の側で目を覚ました時──隣には、顔を白布で覆った女が座っていた。
「あっ……」
娘が小さく声を漏らすと、女の肩がぴくりと跳ねた。
「……」「……」
「アリヤ、って呼ばれてたよね?」
「助けてくれて……ありがとう、アリヤ」
返事は、ない。
焚き火の音だけが、少し大きく聞こえた。
「顔」
「なんでまた隠しちゃったの?」
気を失ってる間に着せられた長衣の袖を握りながら、娘が聞く。
「いやぁ……」
白布の向こうから、バツの悪そうな声が聞こえる。
「蛇なら気にしないだろうと思ってただけというか……」
そう言いながら、女は白布の向こうで左目の位置にそっと手を添えた。
「……」「……」
「私だって、気にしないよ」
少しだけ、拗ねたような声に聞こえた。
「あっ」
アリヤが気付いた時には、娘はその白布に手をかけていた。
「……うん、やっぱり顔が見えてる方がいいよ」
娘は目を細めて、アリヤの顔を覗き込む。
「そう、かな」
「そうだよ」
娘は綻ぶように笑い──アリヤも釣られて口元を緩める。
焚き火に照らされる中、ふたりの少女はただ笑いあっていた。
それから娘は──ゆっくりと、自分のことを語った。
遠い場所にある王国の王女であったこと。
ある日やって来た軍勢に国が滅ぼされたこと。
自分ひとり生き残ったが──その者たちによって、大蛇の姿へと変えられたこと。
『お前たちが神の末裔だというのなら──先祖の姿へ還るがいい』
そして火吹き山に辿り着き、そのまま長い時を過ごしていたこと。
「……麓の人達が、私をそっとしておいてくれたのはありがたかったな」
そう語る彼女の瞳は、けれどどこか寂しげだった。
「……彼らは」
並んで焚き火に当たりながら、アリヤはぽつりと語り始める。
「貴方のことを、山の神として扱いつつありました」
「……貴方が、彼らの暮らしを尊重していたからだと思います」
「私に……貴方を助けて欲しいと求めたのも、彼らでした」
「私は……」
「これからどうすればいいと思う?」
娘は膝を抱えながら、アリヤを見る。
「……」
「彼らに話せば」
「貴方が暮らすための社くらい、用意してくれるはずです」
アリヤは娘の赤い瞳を見つめたまま、言葉を選ぶように続けた。
「貴方には既に──神としての格が備わっている」
それは彼女を先祖の姿に変えた呪いのせいか──
あるいは麓の民からの「名付け」によるものかもしれない。
「私は……」
何かを言おうとして、娘の言葉はそこで途切れる。
「少し、考えさせて」
焚き火のはぜる音だけが、ふたりの間に残っていた。
次の日、アリヤは若者を連れて自分の山へと帰ろうとしていた。
顔を覆う白布は、今は右半分だけは見えるようにずらされている。
「本当にありがとうございました」
火吹き山の民が頭を下げる。
「貴方様のお蔭で──アサマ様も本来の姿を取り戻せたようで」
「ええ、彼女は今や、正真正銘この山の神です」
「どうか──丁重に扱ってあげてください」
そうしてアリヤ達が集落を出て、正に出発しようとしたその時──
「待って!」
娘が、アリヤの元に駆け寄って来た。
「やっぱり私も……私もアリヤと一緒に行く」
その眼差しには、決意が滲んでいた。
「なっ……」
「何を言っているんですか!」
アリヤは、彼女には珍しく慌てて言い返す。
「私なんかに付いてきたって……良いことなんて何もありませんよ」
その言葉には、何処か自嘲めいた響きがあった。
「何が良いことかなんて、私が決める」
毅然とした言葉だった。
見つめ合うふたりの間に、しばし張り詰めた空気が流れるが──
「いいじゃないですか、来たいって言うなら連れていってあげれば」
「アリヤ様だって、あんなに仲良くしてたじゃないですか」
若者が、横から口を挟んだ。
「軽く言うけどねぇ」
「この娘はもう、この山の神として定義付けられてしまっているの」
呆れた調子で、アリヤが言う。
「それなら尚更、アリヤ様が神様の仕事を教えてあげた方がいいんじゃないですか?」
「その子、神様になったばっかりなんでしょ?」
若者の口調は、なおも軽い。
「こう……あっちの山で暮らしながら、こっちの山の仕事もしたり、とか……」
言いながら、流石に自分でも適当なことを言ったと思ったのか、だんだんと言葉がしぼんでいく。
「……」
「はぁ」
しばらくの沈黙の後、アリヤは溜め息をひとつ吐いた。
「まあ、方法については、帰ってから考えましょうか」
「……! それじゃあ!」
娘の顔に、笑みが浮かぶ。
「ええ」
「一緒に来ていいですよ、王女様」
「やった! ありがとうアリヤ!」
「ちょっ……」
娘は喜びの声を上げて、アリヤに抱き付く。
アリヤは半ば困惑しながら、ただ空を見上げていた。
「ところで、これから貴方のことをどう呼べばいいでしょうか」
「民からは──アサマ様、と呼ばれていくのでしょうが」
「ふふっ」
娘は小さく笑い、歩きながらアリヤのほうを振り返った。
「えっとね、私の名前はね──」
八つ山への帰り道を、三つの人影が進んでいく。
その足取りは、行きの時よりずっとゆっくりとした物だった。