霧雨魔理沙は変人だ。それ以外に、説明の付かない──人間だ。
魔理沙はいつも神社に来ては、私のお茶を二、三杯飲む。それから私のお茶菓子を、一つ二つと摘む。それだからまあ、人間だ。
彼女はそれから、私と話をする。異変の話であったり、魔法の話であったり、妖怪の話であったり、弾幕ごっこの話であったり。話の内容は実に罪の無い──いや、たまに窃盗をほのめかす様な事も言うから罪はあるかも知れない──他愛の無い話だ。けれどそれは、およそ人里で耳にするような話題じゃない。それだから、変梃(へんてこ)だ。
彼女は私と散々無駄話をしてから、適当な頃合いで箒にまたがり空を飛んで帰る。時々は勝手に寝泊まりしたり、宴会を始めて一晩中くだを巻く事もあるけれど、まあ大概空を飛んで帰る。元々は里の人間なのに。だからまあ、変人だ。
──親友、だって。悪い冗談だわ。なら悪友かって。なお悪いじゃないの。
なら、何。
魔理沙は私にとって……赤の他人だ。
◇◇◇◇◇◇
『──ねえ霊夢。あのさ、私もきっと空を飛んでみせるからね。だから、いつか一緒に空を飛ぼうっ』
いつ頃の事だったか。私は昔から何事に対してもあまり興味を持たない質だったから、思い出そうとして思い出せる事は少ない。
なにぶん子供の頃の事だったと思う。今頃ふと思い出すような事なんだから、多分ろくでもない思い出の一つだ。
「……夢、霊夢。どうしたんだよお前、今日はいつも通り呆けてるな」
「ん。うん。少し考え事をしていただけよ」
「何だよ、心ここに在らずだな。折角私がわざわざ霧雨魔理沙・英雄譚を話しに来てやっているってのに……聞いてくれよ」
「聞いていたわよ。山にお芋の神様が居たんでしょう」
「そうそう、これがまた生焼き芋の香りがして……」
秋風の穏やかな博麗神社の境内。台風が来たわけでもないのに、神社は落ち葉で埋め尽くされている。掃いても掃いても積もるもんだから、飽きて縁側でお茶をしている所にやって来たのが、魔理沙だ。
相変わらずの黒白した格好で箒にまたがり、一直線に空を飛んで来た。まあそろそろ来る時分だと思っていたから、彼女の分も茶碗は用意してあった。珍しく土産を持って来たから、茶請けにして一緒につついている。
塩羊羹というらしい。漬物みたいなものかと思ったら、少しばかりの塩気の後にしっかりとした甘味が後に引いて、緑茶に妙に馴染む。なかなかの物だから、つい続けざま二切れ程を口に入れた。
先日の事。山の神社から使者が来て、神社経営の譲渡を迫られた。正直なところ私にはどうでも良い事だったから、建前上反発して、魔理沙に事の次第を伝えた。異変ではなかったし、彼女ならこういう話も好きだろうと思って。
有り体に言えば、面倒だからこの事件を彼女に丸投げした。
魔理沙の事はそれなりに認めている。子供の頃からの付き合いだから、実力もよく知っている。
人間にしては、強い。努力をして強くなった、そういう子だ。それを隠している事も知っている。自尊心というか、昔っから負けん気が強い。努力をしているから、勝負にも強い。
それは気概の強さというか、いわゆる意地なんだろう。元々は里の大店の一人娘だったんだけれど、全くその血筋だからだと思う。商売人になればきっと彼女は大成する。そういう、本当に人間的な強さがある。
だから今回の事件は、魔理沙に任せても構わないと思った。「事件」だからだ。これが「異変」だったなら、他の奴に任せるか、私が行く。
別に彼女をないがしろにしている訳じゃない。私は彼女の実力を認めている。人間にしては強い、と。それで事件を丸投げしたんだ。
「……夢、おい霊夢。お前本当に聞いているのかよ」
「ん。聞いているってば。お化け胡瓜が河童を投げてきたんでしょう」
「何で河童が投げられる側なんだよ。河童がお化け胡瓜を武器にしてだな、こう……」
「どうでも良いじゃないそんなの。霧雨魔理沙は妖怪も神様もばったばったとなぎ倒しました、で御仕舞い。私は核心が知りたいんだけれど」
「解ってないなあ。英雄譚てのは道中の物語が面白いんだぜ。まあ聞けって。その河童と決闘中、私は急に金山寺味噌が欲しくなってだな……」
まあそんな訳で、今は魔理沙から事の次第を聞いているところだ。どうやら事件を収めるのには成功したらしい。
少しばかり失敗したかなと思うのには、話の端々で信仰がどうたらこうたら言う。今度人里の巽方(たつみがた)にある御社に、茸の豊穣祈願をするんだとか。魔法の森にも御社を建ててみたいとか。変な宗教にでも引っかからなければ良いけれど。
こう見えて魔理沙は信仰に篤い面もある。今の彼女にとっては、魔法がそうだ。一時期は神社に取り憑いていた悪霊を師と仰いで、本格的な魔法の勉強をしていた時期もあった。
あまり思い出してやるのも悪いけれど、あの頃の彼女は大分おかしくなっていたと思う。人格が壊れる程度に狂信的だった。今は……まあ、変人程度だ。まさにどうでも良い。
……どうでも良い、と思いつつ。今の私は、昔の事を考えながら魔理沙の話を聞いている。我ながら矛盾していると思う。本当にどうでも良ければ、考える事無く彼女の話を聞いていれば良いんだ。
まあ、多分理由は一つだ。今回の件は、ある意味で博麗神社に危機が訪れたからだろう。やはり神社が乗っ取られたら少し困る。これでも一応ここは気に入っているから。お気に入りを横取りされるのは、あまり気分の良いものじゃない。
だからこそ神社への愛着を昔の思い出に頼り、彼女の報告を聞きながら神社の無事をしみじみ感じようとしているんだ。
『ねえ霊夢。あのさ、私もきっと空を飛んでみせるからね。だから、いつか一緒に空を飛ぼうっ』
かと、言って。これは違うだろう。お気に入りなんかじゃない。今回の事件にも関係しない。私の無意識が、昔の事を思い出すついでに得手勝手に想起した記憶の残滓だ。故意に思い出そうとした言葉じゃあない。
隣に魔理沙が居て、彼女が声を発している。それが切っ掛けとなり思い出されただけの、どうでも良いことに違い無い。
だからその頃も、私はこう言ったのを思い出す。
『無理だよ。魔理沙はただの人間じゃない。そんなの不可能だよ』
◇◇◇◇◇◇
魔理沙の声が聞こえる。柔らかな口元の動き、大仰な身振り手振り、もう楽しくって仕方の無さそうな瞳の輝き。
私の声も聞こえる。彼女への相づち、彼女への問いかけ、彼女への皮肉。
端から見ても違和感の無い、いつも通りの風景……を、私の心は遠くから覗いている。
今日はいつになく、魔理沙の事を考えてしまう。気付けばそこに居るような、切っても切れない腐れ縁だってのに。無事に事件を解決して戻ってきた彼女から、気持ちが離れていかない。
心配の念ではないと思う。彼女の事は、心配するだけ無駄だ。一人だって生きていける子だし、実際そうなんだから。それに私が構わなくたって、彼女には、彼女を心配してくれる程度に親交を深めた知人も居る。森の人形使いや七曜の魔法使いなんかとは、気の置けない間柄だそうだ。そうした事に関して彼女はあまり嘘を言わないから、そうなんだと思う。
あえて言うなら。魔理沙はどうして、いつもこんな風に楽しそうなんだろう。そういうどうでも良い疑問が、私を昔の思い出に誘うのかも知れない。
────。
魔理沙とは、随分小さな頃からの付き合いだった。
いつ頃からかははっきりしないけれど、その頃神社にはまだ先代が居て、私は先代の下で色々学んでいた頃だった。先代からは特に自然体の精神修養というのを学ばされていた。
博麗の巫女は何者にも縛られてはいけない。幻想郷において、博麗の巫女は自然(じねん)と在らねばならない──物心付いて間も無い子供に対する教え方じゃないと思う。けれど繰り返し教えられるうちに私も自然体というものを理解し、身に付けたのだから不思議だ。
子供の頃の私は、素直だったんだと思う。努力しようなんて意思はなかったけれど、修行というものはするものだ、と先代から口煩く言われていたから、毎日欠かさず精神修養とやらに励んだ。
今では考えられない。努力だの修行なんてものは、足りないからするもんだ。訳も解らずするもんじゃない。まして、いつか思いが届くから、なんて見当違いも良いとこだ。報われたければ私の神社の素敵なお賽銭箱に寄進してお祈りをするのが良い。もしかしたらご利益がある。
……どうも先代の事を思い出すと、厭な気分が起きて堪らない。今ではもう神社に居ない。さて何処で何をしているやら。もう二度と会えない程遠くに行ってしまった気もするし、未だに近くで私の事を覗いているような気もする。どうであれ今では、興味も無い。
そう、魔理沙の事だ。彼女とはその頃にこの神社で出会った。人里の大手道具屋「霧雨店」の主がよくこの神社へ訪れるので、いつからかそれに付いて来るようになったものらしい。
その頃の彼女は、実に珍妙な格好をしていた──いや、昨今着用している黒白の姿に目が慣れてしまったからこそ、そう感じるんだと思うけれど。実際は人里の子供と大差無い格好をしていた。
ただ大店の一人娘という事もあり、あつらえ物の着物や帯はいつでも下ろし立てに違い無く、駒下駄の鼻緒まで滑らかな正絹(しょうけん)だった。これなら足指も痛むまいと、親心あふれる贅沢ななりをしていた。だから逆にわざとらしく見えた。子供心ながらこれは全て贋物で、最初は大道芸か何かの子供だなと思っていた。
魔理沙は大人しい、いじらしい子供だった。親の後に黙って付き従い、親が先代と話をしている間中黙って待ち、帰る時分まで黙ってじっとしている子だった。
私は別に、先代にべったりではなかったから、先代に付き合って終始彼女の様子を見ていたわけじゃない。参道の掃除をしたり、先代に命じられてお茶を出したり、境内の隅で修練をする折々に見かけた程度だ。そのうえで私には、彼女からそうした印象しか受けなかった。
彼女には我が無いんだと思った。全く親の言いなりに、従順な振舞いしかしなかったから。そうして面白いともつまらないとも付かない表情で、黙ってばかり居たから。まるで人形だ。彼女が他の人里の子みたく、外を元気に走り回る姿など想像も付かなかった。
ただ時折、魔理沙は空を見上げる事があった。会話を交わすようになる前に、私はそうした彼女を二、三度見かけた事があった。
その時だけは、彼女は人間の表情をしていた。
……昔の事も、意外と思い出せるもんだ。あの頃は確かに、私は何事に対しても興味を持たない質だったと思っていたけれど。
実際私は、魔理沙に興味など無かった。たまに親子で来るのを見かけては、お茶を出すのを億劫がる程度だった。
それが会話を交わすようになるまでには、多く時間を要したわけじゃなかった。
そう言うと少し語弊があるかも知れない。つまり、そもそも私は私で魔理沙に興味も無かったし、彼女は彼女で人形みたいに生きていたから、時間を要する以前の問題だった。何事も無ければ、縁もゆかりも無い他人のまま今日に至った事だろう。
それはちょっとした切っ掛けだった。事件と言えるかも知れない。青天の霹靂、というやつだったんだ──魔理沙にとっては。
私はいつものように、境内の片隅で精神修養とやらに励んでいた。もう随分と長い事続けていたから、自然体にはごく簡単な所作でなれた。究極的には、自然体が常体にならないといけないらしい。要は慣れなんだけれど、その頃はまだ私も慣れてはいなかった。
目を瞑り、数回の深呼吸をして五感を集中する。私を広げて、幻想郷を感じる。そうして交じる。私は広がる。どこまでもどこまでも広がり、やがて私は幻想郷に、幻想郷は私になる──
ふと目を開くと、私は宙に浮いていた。それ程高く浮いたわけじゃない。精々がところ、神社の屋根に足が着けられそうな程度だ。けれど私も初めての経験だったから、少し驚いて辺りを見回した。そうして。
人間の表情をした魔理沙と、目が合った。
◇◇◇◇◇◇
気が付けば魔理沙も帰ってしまったものか、縁側には誰も居ない。認識の上では彼女の帰ったことを了解していたけれど、意識を伴ってそう気付いた頃にはもう日も暮れて、酉(とり)の方に薄らと夕日の残り火があるばかりだ。
秋の日は釣瓶落とし。暮れてしまえば、宵闇はすぐだ。鴉も天狗も、もう鳴いていない。だから彼女も帰ったんだな、と思う。
魔理沙の語った話の内容は覚えている。結局彼女は、彼女の武勇伝を語り尽くしただけだった。肝心の神社経営譲渡についてはまるで解らない。本当にどうでも良い話になってしまった。
けれどそれが、彼女の下した判断なんだろう。つまり今回の事件は私にとってどうでも良い事だから、核心を話さずに終えた。そういう事だ。
縁側から居間へと移る。障子には夕日の燃え残りのような朱が、ほのかに差して見える。けれど閉め切ってしまえば、部屋の中は青い闇色に沈む。
天井に吊り下げたラムプを灯せば、頼り無く燃え立つ炎が瞬きながら、辺りに落とした影をかすかに揺らす。炎は灯した時にだけ、じじ、と音を立てたけれど、それから先は音も無く。炎はただ明滅しながら、ゆらゆらと辺りを揺らす。
今宵は虫の声もしない。しんとしている。
面白くないな、と思う。きっと魔理沙が自分の話しかしなかったから、そう思うんだ。そうして話が済めばこの通り。
静か、だから。
だから、また。私は昔の事を思い出し始める。
────。
本当の魔理沙は、やかましい程よく喋る子だった。あるいはそれは、普段受けている抑圧に対しての反動なのかも知れなかった。
私が空を飛んだ姿を目撃してからというもの、彼女は以前にも増して神社へ来るようになった。霧雨店の主が来る時は、おまけとして必ず付いて来た。しばらく間の空いた時は、人目を憚るようにして、神社に私しか居ない頃合いに一人で来た。
そうしてぺちゃくちゃと、私に夢物語を語って聞かせた。
「こんにちは霊夢。今日はお掃除なのね、お庭広いから大変そうね」
「庭じゃなくて境内。まあ面倒だわ。落ち葉なんて何処からでも吹き溜まるもの」
「今日は風が強いもんね、きっとお山から飛んで来るのよ。ほらまたあっちから飛んで来た。ねえ霊夢、空を飛ぶのってどんな気持ちかなあ」
「別に。足元がすかすかして落ち着かない」
「うんうん、やっぱり葉っぱの舞い踊るみたいに、ふわふわして良い気持ちなんだ」
「……あのね。落ち着かないって言ってるの」
「いやあ解るよ。楽しくってわくわくするもん。私だって空が飛べれば、一時も落ち着いていられないよ、きっと」
終始こんな調子だ。私が何をしていようと、勝手に話し始めた。そうしてどんな話題でも、いつしか空に馳せる夢へとすり替わった。
魔理沙は、幼い頃から空に憧れていたらしい。その頃もまだ十に満たない年頃だったから、十分幼かったけれど。それよりなお幼い、物心付いて間も無い頃から、彼女は自身が自由に空を飛ぶことを、心の内に描いていたんだそうだ。
恐らく何か、彼女にそうした思いを強く起こさせる切っ掛けがあったんだろう。それについて彼女は何も明言しなかった。現在に至るまで、私はその原因を聞かされていない。それはきっと彼女の心の内にだけ在るべき思いだ。だから安易に言葉には出来ないんだろう。
ただ、私にとっては正直迷惑だった。
単純に魔理沙がうざったい程私に絡んでくるのも迷惑だったし、満足するまで彼女の話に付き合わされるのも迷惑だったし、彼女ばかり一方的に話して何ら私に得るものがないのも迷惑だった。
そして何より、彼女の夢──空を飛ぶこと──そのものが、一番の迷惑だった。
幻想郷では昔から、神様と呼ばれるモノや、妖怪と呼ばれるモノが闊歩していた。
今だから理解している事だけれど、もう百年余り以前に幻想郷は結界で閉ざされていた。それは幻と実体を切り分け、非常識と常識を覆す結界だ。全くよく出来たもので、本来存在しないはずの神様や妖怪が、幻想郷には「居る」んだ。
そいつらは人間じゃあない。人間じゃあないから、人間には到底出来ない事をやってのける。例えば、そう──空を飛ぶんだ。
人間にとって、道具も何も使わずに空を飛ぶのは、まあありふれた夢ではあると思う。けれどもし、それを実現してしまったら。
「それ」はもう、人間じゃあない。
いくら幼い私でも、それくらいの見識は付いていた。なのに魔理沙には、人間が空を飛ぶことがどれ程異常なことか解っていなかったんだ。
だから私は迷惑だった。彼女に幾ら頼まれても、私は彼女の目の前でだけは決して空を飛ぶことをしなかった。
ある日のこと。私は先代が不在の間に、一人で人里へ訪れた。月に一度の、食料買い出しの日だ。
傍目には、人里はいつもと変わらない風景だった。そう思ったのは、やはり私にとって人里も興味の薄い場所だったからだろう。今思えば、その頃私は里の人々から敬遠されていた。
例えば、神社から里へと下る路にある関所──と言っても里の人々の持ち回りだったから、そんなに物々しいわけじゃない──の番人は、不安そうな目で私を見送った。挨拶をしても、どこか怯えたような声で返事をするばかりだった。
例えば、市場へ続く街道で、私を見かけるや否やこそこそと裏路地へ隠れる人も居た。井戸端の声高な世間話も、私が通りがかる途端にひそひそとした声に変わる事もあった。
といっても、皆が皆そうではなかった事も覚えている。市場のおじさんやおばさんは相変わらず威勢良く、私が食料を買い出しに来ると、いつもおまけをしてくれた。よく道端に長椅子を設けて日向ぼっこしている御爺とも、にこにこ笑顔で他愛無い話をした。茶屋の御婆も店先で休憩させてくれたし、お金も払わないのに串団子とお茶をくれた。だからまあ、私はそうした変化に気付かなかった……いや。些事として、気にかけなかった。
「やあい、化け物。空を飛ぶぞう、化け物やあい」
そうした声が、私の傍らをすり抜けて行った。路地に折れて駆けて行く影は、私と同じくらいか、もう少し年下の二、三人の子供だった。
それは明らかに、私に向けてかけられた言葉なのに違い無かった。けれどそんな囃し声も、私はまるで気にしなかった。
ひと月分の食料とはいえ、先代も私も小食だったから、そんなに大量じゃない。神社近辺では山菜も採れたから、買うのは米と味噌くらいなものだ。まあそれでも、子供には持ち難いし重たかった。だからいつも、神社へ戻る時は休み休み一日がかりで戻っていた。
里の境に近い場所は旧屋敷が多く、土塀がひんやりとして気持ちが良かった。たまに首輪を着けた、毛並みの良い黒猫も遊びに来た。愛想の無いところが好ましかった。
私はいつも、往来の邪魔にならない場所で土塀に背中を預け、一休みしてから里を出る事にしていた。だからその日も同じように、米袋と味噌桶を傍に置いて日陰で休んだ。
路地の向こうから、子供の声が聞こえた。少し離れているのか、それ程しっかりとは聞き取れなかった。
私はそれを、聞くともなしに聞いていた。往来と違って閑静な場所だったから、じっとしていれば声も多少明瞭に聞こえてきた。
どうやら、子供同士の言い争いのようだった。数人が、一人を相手に気焔を吐いていた。途中からだから内容まではよく解らない。元より興味も無かったから、ただ聞こえるままを頭に浮かべた。
恐らく、何か嘘や妄言を吐いた子が責められていたんだろう。時折弁解するような声がして、それを莫迦にするような応対が繰り返された。弁解する声は、次第に大きくなっていった。夢だの憧れだの、何処かで聞いたような台詞が聞こえた。
理解をされずにいる事が、いたたまれない。そういう声だ。けれどそれは私にも、きっと理解できないだろうなと思った。夢だの憧れだの。聞かされたところで迷惑だ。自己満足を人に押し付けて、得意顔をして。そんなもの、指をさされて笑われるのが良いところだ。
そうして莫迦にされ、怒っているんだろう。私には自業自得のようにしか思わなかった。もう少し休んだら、さっさと神社に戻ろう。そう思って、私は息をひとつ吐いた。
「私の憧れを、莫迦にするなッ──いつか絶対、空を飛んでみせるんだからッ」
最後にそう、魔理沙の声が聞こえた。いつもの彼女らしからぬ、叫びにも近い大気焔だった。
それから先は、声よりも大きな、色々の音がした。板の割れる音とか、樽の転がる音とか、砂利を蹴る音とか、土を滑る音とか、人を殴る音とか──色々の音が一度にして、ざわざわと人のたかる気配がした。
その日は黒猫も来なかった。だから私は、米袋と味噌桶を持ち直して神社へと帰った。
神社へ戻るまでの間、どうしてか魔理沙の声が耳から離れなかった。
◇◇◇◇◇◇
卓に肘を突いて、ただぼんやりとしている。いつしか油も尽きてラムプの灯は消えていた。
暗くはない。障子から差す月光が、闇夜を通して蒼白く冷たく、座敷を照らしている。ここにある全てのものは、半身が蒼く色褪せ、半身が闇に溶けてぼんやりとしている。境目が無い。私と罔両と景(かげ)が、混じり合ってここに在る。
しんとしている。音はあるけど、ない。山の頂じゃあないし、障害物は幾らでもある。音は反響して回折して、他の音と混じりながら弱まってはいるけれど、無音じゃない。音はある。静かな……しんとした、無い音が有る。
それらは悉皆、私だ。
人であり、人でなし。
やっぱり──面白く、ない。
面白くない考えだ。そんな事をいくら考えても、時間の無駄だ。
だからもう、今日は眠ることにした。眠るのは好きだ。私の事を考えなくて済む。誰の事も考えなくて良い。
塩羊羹を食べたから、そんなに空腹も感じない。暑くもないから湯浴みも要らない。洗い物も面倒だから明日にする。
洗い場へ行き、粗塩で歯だけしごいて口をすすぐ。部屋へ戻り、卓を隅へ押しやって、布団を敷いて寝間着に着替える。潜り込んだ布団は、秋の冷えた空気を吸って、あまり良い心地がしない。けれど目を瞑れば、もう現(うつつ)は見えない。それだけで罔両も景も無い音も、私さえも冷えた布団や枕に吸われて曖昧になる。
そうして私は、色褪せた過去を見る。
────。
買い出しの明くる日、魔理沙は神社に来なかった。
という展開だったら、実に判り易い挫折劇になったんだけれど。どっこい魔理沙はその日も一人で来た。
左目に青痣をこしらえて、肌の晒された箇所に包帯や膏薬を覗かせて、それでもいつも通り大店の一人娘然とした身なりをしていたものだから、少し可笑しかった。
けれど彼女は全くいつも通りで、体の怪我などまるで構わず、空への憧れを私に語った。そんなに大仰な身振りをしたらさぞ傷口に響くだろうと思ったけれど、痛がる素振りも見せなかった。
事によると、彼女は昨日の言い争いも含め、全て忘れてしまったんじゃないかしらん。そう思わせる程だった。
私は観念して落ち葉集めの手を休め、参道の石段に腰を下ろして魔理沙の話を聞いてやる事にした。彼女は最初、きょとんとした顔をして、それから凄く嬉しそうな顔で隣に座り、また元気良く話し始めた。
ただ、そんな彼女の話し振りは、いつにも増して威勢が良かった……いや、威勢というよりは。
「──ねえ霊夢。霊夢はどうして空を飛べるの」
なり振り構っていられない気持ちがあったんだろう。そんな問いかけを、私にするくらいだから。
一緒に、空を飛ぼう。そう言った魔理沙が。
「私は、空なんて飛ばない」
だから私は、あえてそう答えた。
案の定、魔理沙ははっとした顔で少しく言葉を失った。
二人の間を一陣の風が通り抜け、幾葉も枯葉が泳いだ。そのうち二葉の紅葉が、くるり、ひらりと、私達の目の前で対等に舞ってみせた。
ようやく落ち着いたものか、魔理沙がまた、ぽつぽつと話し始めた。
「……私は、空を飛びたい。出来れば霊夢と一緒に」
「解っているわ。いつも言ってるじゃない、何をそんな──」
そこで、私は一度口を噤んだ。
何故だか、今は魔理沙の顔を見て話せない。それで、つい。
「……でもそれは夢でしょ。あんたのそれは度を越してる。現実逃避っていうものよ」
憎まれ口を叩いてしまった。
言ってから、少し後悔した。それまで私は魔理沙の事なんて、気にもかけていなかった。彼女の事情や心持ちさえ、全くどうでも良かった。そんな風に知ろうともしなかった彼女の事を、今のは貶めるような言い草だ。とんだ言いがかりだ。
あるいは私も、昨日の里での待遇に少し腹を立てていたから、かも知れない。結局言いがかりなんだけれど……全く、そんな些細な事に感情を縛られるなんて私らしくもない。
けれど魔理沙は、そんな言葉にも動じる気配は無かった。むしろ。
「違うよ。私は夢に逃げたいんじゃない、本当に空を飛びたいんだ。ずっと夢だった。憧れだった。でも──本当に飛べるんだって、霊夢が教えてくれた」
私の言葉を発条(ばね)にして、より自身の夢を大きく語った。
「そんな考え方、……迷惑だわ」
そう語る魔理沙に対しても、結局、迷惑としか私には言えなかった。
魔理沙の強い瞳の色は、私の目指す先を迷わせる。彼女の活きた言葉は、私の在り方を惑わせる。
──迷惑、なんだ。
「迷惑、って。どうして」
「だって。あんたは人間が空を飛んだら、それを人間だと思えるの」
私は私の感じる迷惑を、そう言葉にして魔理沙に放った。それは全く、近頃の私の懊悩からなる発言だった。
人間が身一つで空を飛ぶなんて、夢物語だ。もし、それを実現してしまったら。「それ」はもう、人間じゃあない。
私は博麗の巫女として、ここに居る。幻想郷において存在を許された妖怪変化、里の人間に悪さをする彼奴らを退治し、里の人間を護る。それが博麗の巫女の役割であり、生業なんだ。
妖怪は人間を食う。人間は妖怪を退治する。だから博麗の巫女は人間じゃなきゃ道理が立たない。私は──まず人間でなければ、いけない。
私は化け物なんかじゃない。私は、人間だ。
だってのに。
「当たり前じゃない。それは空を飛ぶ人間だよ」
あまりにあっけらかんとして言うもんだから、私は魔理沙が何を言ったのか解らず、しばしぽかんと呆けて彼女を見つめた。
魔理沙の言葉を今一度反芻してみた。人間が空を飛んだら、それは空を飛ぶ人間。そうか成程。
……莫迦にしている。
ひとつ拳固で殴ってやろうと、拳を握って魔理沙を睨め付けた。けれど。
彼女はいつも通り、純朴に夢見る瞳で私を見返すばかりだった。そこに私を小莫迦にしたような、皮肉な色は無かった。
本当に、真面目にそう考えていたんだろう。一目見ただけで解る、それは無邪気な笑顔をしていた。
途端、私の中で凝り固まった緊張のようなものが、どっと崩れて空気になる心持ちがした。そうして胸の内に溜まったそれを、私は盛大な溜息に換えて秋空へ散らした。
「……はあ。ま、良いけど」
へなへなと萎んだ胸の内には、魔理沙の莫迦な一言しか残らなかった。
別にその一言で、私の懊悩が解決したわけじゃない。ただ何だか珍妙で、愉快な心持ちになったから。へなへなと苦笑混じりに、私はそう答えた。
彼女は全く変わった考え方をする。つまり変人なんだな、と思った。
「霊夢にだって飛べるんだもん。私だって飛べるよ、きっと。少し待っていて、絶対自分の力で飛んでみせるから。だからいつか、一緒に空を飛ぼうっ」
そう言って、魔理沙は元気に石段を駆け下りて行った。私は一人残って、彼女の駆けて行く姿を見つめ続けた。
それからも魔理沙は二、三日に一度の割合で神社へ顔を出していた、と思う。
うざったい程私に絡んできて、満足するまで話に付き合わされて、彼女ばかり一方的に話して。
柔らかな口元の動きで、大仰な身振り手振りで、もう楽しくって仕方の無さそうな瞳の輝きで。
異変の話であったり、魔法の話であったり、妖怪の話であったり、弾幕ごっこの──いや。それは昨今の話だ。
朝が近い。ゆるゆると、今の私が帰ってくる。
そうして今と昔とが綯い交ぜに浮かぶのを見る。成程、魔理沙は昔っから変わっていないんだな、と思う。変わったといえば、口調くらいなもんだろう。
今ばかりじゃない。あの頃だって、前日の魔理沙と当日の彼女は連続していて、違いなどまるで無いように見えた。
全くいつも通りで、体の傷などまるで構わず、空に馳せる思いを私に語った。そんなに大仰な身振りをしたら、やはり傷口に響くだろう。
あの頃から魔理沙は、いつも何処かしら体に怪我を負うようになった。
夜明けの薄ら白い光が、障子を優しく照らす。月光には無い暖かさを肌で感じて、私の輪郭が判然としていく。
そうして覚束無い朝日が次第に明度を増すように、私はゆっくりと目を覚ました。
◇◇◇◇◇◇
今日は魔理沙が神社に来ない予感がした。私の勘はまあ、当たる。
だから何とかして境内を埋め尽くす落ち葉を片付けようと誓いを立て、朝から竹箒で境内を掃いている。
さく、さくと石畳を掃く音が軽快で心地良い。ややもすると気分が乗ってきて、鼻歌でも歌いたくなってくる。けれど歌わずに、黙々と箒を動かす。
こういう単調な作業には、単調ながら微妙なリヅムがある。調子を整えるのは、竹箒の軽快な音だけが好い。歌うように掃除をする。掃除はだから、私は退屈に感じない。何を考える事も無く、ただ楽しく調子を取って、後も綺麗になる。一石二鳥とはこういう事だろうと私は思う。
日が昇ってしばらくした頃までには、境内の奥から手前の端までをすっかり掃いてやった。うるさいのが居ないだけで、こうも掃除が捗ろうとは思わなかった。私は清々しい気分になり、ゆっくりと朝餉を頂こうと本殿の方を振り向き──
依然変わらず落ち葉の敷かれた境内を目の当たりにして、唖然とする。
狐に抓(つま)まれたようなものだ。目の前の光景が、俄かに信じ難い。私は確かに向こうの端からこちらの端まで、余す所無く掃除をしたのに。
そうして呆としていると、またちらり、ちらりと紅葉が舞い落ちてくる。といっても、周囲にある鎮守の森からじゃない。あちらから、こちらから、引っ切り無しに秋の風物が送られてくる。秋空を覆い尽くさん勢いではないにせよ、全く迷惑な秋の知らせだ。
山の方を見渡してみれば、山から湖にかけてのあたりが、すっかり秋の色に染まっている。成程そこから風に乗ってやってくるのに違い無い。
そういえば昨日、魔理沙が山での遊行について語った中に、山には紅葉を司る神様が居るとか何とか言っていた。優しくて温和な質だけれど根が真面目で、毎年幻想郷中を紅葉で埋め尽くそうと必死なんだそうだ。はた迷惑な神様も居たもんだと思う。見かけたら退治してやらなければなるまい。
ひとつ溜息を吐いて、また私は一から落ち葉集めを始めようと思ったところで──憎たらしいつむじ風が、集めた落ち葉を残らず散らしてしまった。
あるいはここに魔理沙が居れば、腹を抱えて笑い転げるのに違い無い。いっそ神社ごと火を付けてしまえば早かろう、なんて皮肉も言うのに違い無い。そう思うと途端に私はやる気が削がれ、それまでの誓いを反故にして、落ち葉を踏み踏み座敷へ戻った。
結局、今日になっても私の調子は狂ったままだ。昨日から、私はずっと「博麗の巫女」になり損ねている。
囚われているんだ。ふいに思い出した、幼い頃の魔理沙の一言に。
魔理沙の夢に。
────。
次に来た時も。その次に来た時も。魔理沙の体の傷は癒えていなかった。
それは数日に一度の割で来るんだから、都合一週間に満たないのに治癒の具合を心配しても詮無いのは解っている。だから、そうじゃない。
次に来た時も。その次に来た時も。魔理沙はどこかしら、怪我を新しくこしらえて来た。
都合一週間に満たなくたって、それが幾度も続けば私でさえ妙に思った。けれど、魔理沙はそれについて特に何も言わなかった。気にするそぶりさえ見せなかった。だから私も、聞くに聞けなかった。
ただ、不審ばかり募った。
彼女はやはり、夢を語る時には大仰な身振り手振りを加えた。心を空に預けて、元気一杯に弾けてみせた。そうして時折、体の痛みを耐えるように顔をしかめた。それで私と目を合わせると、白い歯を見せて笑い、また続けるのだった。
だから、不可解に思えた。
私には、魔理沙の身に何が起きているのか解らなかった。
先日の買い出しの帰り、彼女が喧嘩している所に遭遇した。目撃したわけじゃないから、その時の様子は知れなかった。ただ、声だけは聞き間違い様の無い、歴とした彼女の声だった。彼女は確かに、他数人の子供らと大喧嘩をしていた。
それで、遺恨を抱かれたんだろうか。けれど里にそんなねちっこい奴が居るなんて、あまり信じたくはない。もちろん十人十色というくらいだし、それ程大きくはない人里にだって厭な奴は居るかも知れない。
特に子供は無邪気だからこそ残酷だ。幼い頃の私でさえ、時折里で見かける子供の遊ぶ風景に、薄ら寒い思いをした事が何度もあった。無垢だからこそ、無垢でない何かに興味を抱いて──人は色付く。
十人居れば、十色になる。人それぞれ異なるように、色に対してさえ、穢い色にこそ美を感じる者も居るだろう。そして、そうした色を得るために、彼女が標的にされた──それは決して、無いとは言い切れない事だ。
私はそんな風に、魔理沙の身に起きている事を想像した。もちろん、そんな胸焼けを起こしそうな想像ばかりじゃない。可能性は幾らだって考えられたんだから。
例えば彼女が、実は想像を絶するどじな子だとか。わざと包帯や膏薬を身に付けて、邪気眼がどうのと呻き出すあぶない子だとか。
けれどそのいずれも、私の不審を解くには至らない想像だった。それはそうなんだ。だって魔理沙は──私の前では、いつも元気で、夢見勝ちで、笑顔の絶えない子だったから。
ある日、私は魔理沙の帰り道を尾行した。何か起きているのなら助けてあげようとか、そんな殊勝な気持ちではなかった。
ただ、心の内にあるもやもやとした気持ちを晴らしたくて、そうした。
魔理沙はどちらかと言えば単純というか、猪突猛進な質だから、尾行はとても簡単だった。彼女から少し離れて、後ろから付いて行くだけだ。彼女は全く気付かず、振り向きさえしなかったから、随分と尾行のし甲斐の無い子だと思った。
神社の参道を下った彼女は、そのまま里へ帰るのかと思えば、途中の路を亥(い)の方に折れ、魔法の森に向かった。私は妙に思い、しばらく近場の木陰に身を潜めてから、慎重に彼女の足取りを辿ってみた。
この時初めて、私は魔法の森入口付近に「香霖堂」という物置小屋、もとい小道具屋がある事を知った。魔理沙はそこを訪ねたらしい。
私はそれを確認してから、後日改めてこの物置小屋を調べることにして、神社へと戻った。
数日を経て魔理沙が神社へ来ない日を狙い、また私は香霖堂を訪れた。日の高いうちに来たから、今度は建物の全容が見えた。
見れば見る程、物置小屋だった。小屋の周りには人里でも見た事の無い、様々な物が置いてあった。飴のように艶のある白くて大きな匣とか、黒くてひび割れた切り株みたいな円いものとか、煤けたビイドロに釦の沢山付いた木枠を被せたものとか。他にも色々と奇妙奇天烈なものばかりで、まるで何の用を足すものか解らなかった。
小屋の方はそう古くもなく、木肌や土壁は存外しっかりとしていた。ただ、使えそうもない変梃(へんてこ)な物が密集していたから、そうした物の気が小屋を古く見せていた。……古風というよりは、みすぼらしかったけれど。看板に筆太の字で「香霖堂」としてなければ、まず小道具屋とは知れない有様だ。
周囲に誰も居ない事を確認して、そっと扉を開けた。扉は少しばかり立て付けの悪い音がした。外からの日射しが、小屋の内に漂う微細な埃を照らして、ちらちらした。店なのに掃除の行き届いていない事甚だしい。私は少し顔をしかめて、それでも中に入った。
中は薄暗かった。窓明かりだけが明るく、その他に熱を帯びたものが無いから、少しひやりとしていた。
様子は店の外と大差無かった。左右の棚には大小様々の珍品がひしめいて、床まで妙な壺だの変な置物に埋め尽くされて。奥には大きな西洋机があって、そこにも古書やら訳の解らない装飾品やら大判の本に顔を埋めた銀髪の──
吃驚して後ずさりをした拍子に、床に置かれた傘のある燭台を蹴倒してしまった。がしゃ、と堅い音が響いたところで、本を読んでいた者が顔を上げてこちらを向いた。
「もう戻ったのかい魔理──おや。失敬したね、いらっしゃいお嬢さん。何かお探しかな」
本を机に置き、眼鏡を上げ直して私へ笑いかけた。爽やかというよりは皮肉に歪んだ顔だ。およそ接客に適った態度に見えなかったけれど、別に私も買い物に来たわけじゃないから気にしなかった。
それよりも、その店主と思しき者の様子が気になった。人間、に見えるけれど。まるでそんな気がしなかった。
「貴方、妖怪ね」
独特の雰囲気だ。その物腰からは、里の御爺よりも余程達観した──違う。諦観というか。倦んでいる感じだ。何に対してかはよく解らない。けれど、いずれこんな人里離れた場所に居を構えるような奴は、妖怪か何かに違い無いんだ。
「ん……だったらどうするんだい」
店主は一瞬だけ、酷く厭な目つきをして私を見た。語気も、やや感情的に響いた。それらは皆、何とも言い様の無い力を宿していた。
けれどむしろ、そうした反応が逆に人間らしくも思えた。
「退治……するんだけど、いつもは」
「不当だな。懲悪なら僕も是とするところだがね、妖怪なら退治するというのは理不尽じゃないかな」
「妖怪はそれだけ、人間にとって良くないコトなの。善悪なんて無いわ。妖怪だから退治するの」
そうは言ったものの、私はこの店主を退治する気なんか無かった。今日は御札も持っていないし、まだ見習い中の身だし、そもそも目的が違う。私は魔理沙の動向さえ解れば、それで良かったんだから。
どうして彼女の体から、痛々しい生傷が絶えないのか。
「ふむ。成程解った、つまり君は客ではないんだな。転んで品物を壊す前に回れ右して帰りなさい」
だからそう言われて、少し慌てた。魔理沙がここに訪れているのは明らかで、この店主もどうやら彼女の事を知っているようだったから。機嫌を損ねて成果無しというのは、いささか間抜けだ。
「今日は退治なんてしないわ。聞きたい事があるの。魔理沙は何処に居るの。いつもここに来て、何をしているの」
「何だ、君は魔理沙の友達なのか」
「違う。ただ、魔理沙が何をしているのか改めに来たの」
「改めに、かい。物々しいな。ああ、だけれど遅かったね。生憎と魔理沙はもうここに居ないよ」
もうここに居ない、と聞いて、胸がざわりとした。目の前の店主はそれ程悪さをするような奴に見えなかった、けれど。腐っても妖怪だ。本当のところがどういう性格かなんて、解ったもんじゃない。
「居ない、って……まさか貴方食べたの」
「あのじゃじゃ馬を食べたら妖怪だって食あたりを起こすね。僕が自信を持って請け合う。もっとも、僕は純粋な妖怪ではないから食べもしないが」
少し身構えたが、そういう妖怪ではないみたいだった。ただ、この店主はどうも──見た目通り、話す通りの、妖怪だ。
人を小莫迦にしたような、いわゆる人を食った物言いをする。鼻持ちならない奴だ。
「食べてないなら、良い。他を当たる。お邪魔さま」
「まあ少し待ちたまえ。今君が、何も知らず魔理沙に会うのは頂けないな。初対面で何だが、君は少し配慮に欠けるところがあるようだ」
「余計なお世話よ。それとも何。代わりに私を食べようって言うの」
ぎり、と店主を睨め付けた。御札も無く、まだ見習い中とはいえ、こんな口先だけで人を食う奴は私でも何とかなる。
耳を貸さない事。心を惑わされない事。そうして対峙する時には、胆力と眼力で相手を射竦める事。自分と相手に明確な境界を引き、決して侵入を許さない事──それだけで、この「妖怪」は十分退治できる。
店主は肩を竦めて、鼻で溜息を吐いた。
「そうじゃあない。僕はそうした妖怪ではないし、別に君を莫迦にするわけじゃないんだ。……そうだなあ。こう言ったら良いかな。僕はね、魔理沙と縁がある。彼女を生まれた頃から知っている。だからね、最近の彼女の奇行が気になる。そこへ君が来たから、多少色眼鏡で見たんだ。気に障ったなら謝る」
「そう。初めからそう言えば良いのよ」
私は睨むのを止して、改めて店主を見た。棘は少しあったけれど、もう私に対する皮肉は無かった。
「けれど君も中々気丈な……まあ、この話は置いておこう。それで君は、魔理沙に会ってどうするんだい」
「別に、会わなくても良い。ただ、少し……最近、魔理沙が何をしているのか解れば」
「ふむ」
そうして店主は何事か考えるように、顎に手を置いて僅かに俯いた。それでも目線は、ずっと私に定められていた。
少し、落ち着かなかった。何者にも縛られない私にとって、その視線は厭に私を頑なにさせた。
「こういうのはどうだろう。僕はね、まあ見ての通り商売人だ。君はこうして店先に来たんだから、客に相違無い。だから取引と行こう。何、難しく考える事は無いよ。君は『魔理沙のしている事』を買って、その対価に僕へ『最近の彼女の様子』を支払うんだ。何なら少しおまけしても良い」
私がもじもじと体をよじり出す前に、店主がそう提案をした。
商売としての取引──まだ私は、こいつを信用などしていなかった。考えてみれば名前さえも知らない相手なんだから、当然だ。けれど成程、商売としてなら構わない。後腐れが無く、縛られるものも無い。何より、魔理沙には悪いけれど、私の懐が痛む事も無い。
私は彼女のしている事が知りたくて来たわけだから、悪くない話だと思った。勘だけは鋭いから、嘘を吐かれても何となく解るし。私は私で、嘘を吐いてまで隠したい理由も無かった。
「じゃあ、取引するわ」
「お買い上げ有難う御座います。さて、じゃあおまけはどうしようかな」
「美味しいお茶とお饅頭」
「はははははは。いや、失敬。まるで魔理沙みたいだ。良い茶飲み友達になるよ君は。少し待っていてくれ、今淹れてくるから」
そう言い、店主は奥の扉へと消えた。雑然とした店先に独り残された私は、その辺にあった手頃な木箱を椅子にして、頬杖を突いた。
「……友達と違うもん」
むっつりとして、私はそう呟いた。けれど何を不満に思ってそう呟いたのか、その時の私には判然としなかった。
◇◇◇◇◇◇
気付けばもう夕刻になっている。天道は朝から同じような顔をして神社を照らしてくれているというのに、少し傾いただけで寂しげに感じる。
結局、魔理沙も今日は来なかった。時には夜中に来たりもするけれど、恐らく今夜は来るまい。
彼女が今、何をしているのかは知らない。この時期だから茸狩りかも知れない。なら数日後にはおすそわけをくれるかも知れない。
数日後だな、と思う。明日も、明後日も魔理沙は来ないような気がする。
ふとした予感だ。私の勘は、まあ。当たってしまう。良くも悪くも。
(……別に、静かで良い事じゃない。何が「良くも悪くも」なんだか)
縁側でぼんやりと秋空を眺め、そう胸の内で呟く。答えを期待しない呟きだ。けれど意外にもその答えが、私の胸の内にぽかりと浮かぶ。
……これから数日、面白くない日が続きそうだな、と。成程、それは悪い話だ。
見上げる先には、ただ遠い秋空が広がっている。
────。
香霖堂を出てから、私は無名の丘に足を運んだ。出来る限り人目を忍んで。
話では、そこに魔理沙が居るということだった。
香霖堂の店主は、嘘を言わなかった。だから私も、最近の魔理沙の事を包み隠さず伝えた。
目的の話自体は、そう長くはなかった。私はただ見てきた限りの彼女を伝えただけで、店主からは今彼女がしている事を教えられただけだ。大体、二言三言程度の会話で済んでしまったと思う。
彼女が最近、一人で無名の丘に行っている事もその時に聞いた。日中とはいえ、里の外に一人では危険過ぎる。何故そんな事を許したのか問い質したら、無名の丘という場所は人も妖怪もめったに寄付かないから大丈夫なんだそうだ。だからこそ、彼女もその場所を選んだらしい。
それからも少しだけ話は続いた。まだお茶も残っていたし、お饅頭も一口しか食べていなかったから、少しは付き合ってやろうという気があった。大した話をした訳じゃない。店主はその辺のものを手に取り、それがどのような物で、どのような用途なのかを勝手に紹介した。
そこに必ず、魔理沙のエピソオドを添えて。
例えば、触覚のある細長の十字架は「ラヂオ・コントロオル飛行機」と言った。店には無かったけれど、本来は呪物の詰まった偈箱(げばこ)みたいなものと対で、命令通りに空を飛ぶ式神らしい。表面は綺麗だけれど、継ぎ目が見える程隙間だらけだった。幾度も幾度も、魔理沙が分解して中身を調べたそうだ。
例えば、幾つもの骨を頑丈な布で丸めたやつは「グライダ」と言った。大きな西洋凧みたいなもので、その懐に人を掴まらせて空を飛ぶらしい。手に入れた当初から布に大穴が開いて使えないのを、魔理沙は何とか繕って使おうとしたそうだ。けれどそもそも、子供の力じゃ扱えない代物だった。
空を飛ぶものばかりだった。そうした物のなかでも「マイラ・バルン」と言うえらく丈夫そうな風船や「磁石オブジェ」と言う磁石で宙に浮く、何が面白いのか解らない置物には興味が無かったらしい。
宙に浮くだけなんてつまらない。私は自由に空を飛びたいんだ──そんな事を、魔理沙は言ったそうだ。
ここ最近の魔理沙は、香霖堂に来て本ばかり読んでいたという。そこに書かれたものこそ、彼女にとって相応しく、また唯一の空を飛ぶ方法だった。それで彼女は、少し前から自分なりに、空を飛ぶ実践を始めたんだそうだ。
私はその本を見て、全く呆れた。確かにその本も、この幻想郷ではあまり見かけない本には違い無かった。かと言って教本だとか技術書だとかいうものじゃあない。
童話だった。伊曾保物語とか、格林(グリム)民話とか、安徒生(アンデルセン)童話とか。そんなものばかりだった。
無名の丘は開けた場所で、そこそこ広かった。神社からも人里からも小高い山のようにしか見えなかったから、こんな場所だと思っていなかった。奥には鈴蘭の群生があるらしく、里側に近いあたりにも、ちらほらと鈴蘭が生えていた。
鈴蘭は別として、里の外ではよく見るような風景だ。けれどとても寂しく、悲しく感じる場所で、確かにここなら人も妖怪も来そうになかった。今では確か、何とかいう毒人形が居ると聞くけれど、その頃にはまだ居なかった。
林の方から身を隠して丘を眺めると、動くものが居た。日に照らされて薄く輝く金色の髪。時折するかけ声。それは間違い無く、魔理沙だった。
ただ私は、その姿格好を見て、思わずアッと驚いてしまった。そこで見た彼女は、実に珍妙な格好をしていた──いや、それまで人里の子供と大差無い格好をしていたからこそ、そう感じるんだと思うけれど。実際は、そう──今と同じ、黒白の格好をして、手には竹箒を持っていた。
それは童話に出てくる、魔法使いの格好そのものだった。
魔理沙は本気だった。驚く程本気で、空を飛ぶ夢を追い、魔法使いになろうとしていた。
屈んで靴を履き直し、箒を右手に持って──駆け出した。丘の上を、眼差しは空へ向けて。そうして──
跳んだ。丘の切れた場所、草原から急斜面になり土砂の剥き出しになった切れ間から、空へ。声を振り絞って、渾身の力を込めて、箒にまたがりジャンプした。
その瞬間を、私は今でも鮮明に記憶している。本当に童話の魔法使いそっくりだった。緩く箒を持ち、猫背の前傾姿勢で、両足を楽に曲げた格好で。
今では笑い話にしかならない。もっとも、私が見ていた事を魔理沙は知らないだろうから、誰にも喋ることは出来ないけれど。きっと彼女もあまり思い出したくない事だろう。
けれど、私にはそれが、その瞬間が。本当に、魔法使いが童話の世界から抜け出して、空を飛んているように見えたんだ。
でも、それは一瞬だった。
真っ直ぐ前を向いていた箒の先は、途端に下を向いた。魔理沙は箒を持つ手を強めて、姿勢を正そうと体を後ろへ反らした。そうじゃない。そんな事をしたって、飛び続けられるもんじゃない。
急降下。もう、体勢を整えるなんて状態じゃなかった。魔理沙はただ必死に歯を食い縛り、箒を掴んでもがきながら、落ちてゆくばかりだ。
斜面には剥き出しの岩や尖った石ころは沢山あった。だから土の上に落ちたのは、全く運が良かったと思う。彼女は体を斜めにして肩口から地面に落下し、重く響かない音を立てた。ごろごろごろと、数回激しく転がった。箒は一度強く地面で跳ね返り、勢い良く回転して、近場の岩をしたたかに打った。かつん、と渇いた音が響いた。
当然の結果だった。魔理沙はただの人間だ。空を飛ぶなんて、不可能だ。
それは確かに、幻想郷には神様や妖怪が「居る」くらいだから、魔法使いだって居る。聞いた話では、生来の魔法使いも居れば、人間が魔法使いになった例もあるらしい。そういう奴は、確かに空を飛ぶんだそうだ。
だけれど。それは「魔法使いだから空を飛ぶ」んだ。「空を飛んで魔法使いになった」わけじゃない。大して違わないように聞こえるけれど、それは全く大きな違いだ。
魔法使いは、人間とは異なる種族として考えられている。人間が魔法使いになった例というのは、そもそもそうした素質があり、豊富な知識と経験を得て、人間である事を捨てたからこそなれるんだ。魔法使いなら、空を飛べる。人間なら、空を飛べない。そういうもんだ。
だから恐らくはその話も、元来の人間が魔法使いになったんじゃない。突然変異か特異体質か、難しいことは知らない。ただ彼らは元来、人間の皮を被った魔法使いなんだ──解釈だけれど、そう考えないと私には納得出来なかった。
魔理沙は、そうした験(しるし)も兆しも無い、純然たる人間だ。ただ空に想いを馳せ、叶わない夢を追う、純朴な人間だ。
だから空は飛べない。飛べるわけがない。
──飛んで良いはずが、無い。
私は博麗の巫女として、ここに居る。まだ見習いだけれど、いずれそうなるだろう事は理解していた。博麗の巫女は人間として、妖怪を退治するんだ。妖怪と言ってしまえば狭義だけれど、つまりは人間を護る者として、人間以外の奴を退治するために、ここに居る。
だからこそ、人間かそうでないかは明確な境界を設けなければいけない。道理が立たなくなる。空を飛べるものは、人間の筈も無──
大きな衝撃が、胸中を貫いた、気がした。空を飛べるものは、人間の筈も無いというなら。
空を飛べてしまった、私は、何。
……焦点の合わない私の目線の先で、魔理沙は土を握り締め、ゆっくりと立ち上がった。何かを呟きつつ、箒を拾い上げた。そうして箒を水平に持ち、何事か考察する素振りをして、一つ二つと頷いた。
振り返り、また丘の上へと駆け出した。その刹那に見えた彼女の瞳の色は、まるで光も失われず。むしろ細かに形を整えられ、磨き上げられた宝石のように、より強く、より美しい光をたたえていた。
決して諦めず、夢を追い続ける人の色だ。
◇◇◇◇◇◇
静かな秋の夜長。今宵も綺麗な月が顔を覗かせていたから、私は一人縁側で晩酌をしている。
綺麗な十三夜だ。傍らには三宝を据えて、栗を供えてある。夕暮れに慧音が来て、お裾分けしてくれた。里は今年も豊作で、もう少ししたら例年通り収穫祭も執り行なわれる、って慧音が言ってた。
幻想郷は平和だ。慧音のような獣人も、今や里の大切な共生者の一人なんだから。かつてのような陰湿な雰囲気は、もう殆ど無い。
もちろん悪さをする妖怪なんてのは、ここにはまだ幾らでも居る。妖怪に限らない。吸血鬼も亡霊も蓬莱人も、神様でさえ悪さをする。……考えてみれば、悪さをする奴らばかりだ。だからまあ、博麗の巫女もここにこうして居て良いんだ、とも思う。
ただ「妖怪だから退治する」という考え方は、ここでは性に合わない。もっと気楽に、適当に考えて過ごすのが幻想郷らしいし、私らしい。
……思えば私も、若かった。なんて物言いをするのは変な話かも知れない。今だって十分若いし。
けれど年老いた人が昔を懐かしがるのと、私がこうして過去に思いを巡らせるのとは、さして変わらないだろう。
それだけ「博麗の巫女」の立場は、重い──と、思っていたから。
それほど「夢を追い続ける」事は、儚い──と、思っていたから。
あの頃の私は多分「博麗の巫女」であることにこそ、縛られていたんだろう。
またあの頃の魔理沙も多分「夢を追い続ける」事に、不安があったんだろう。
もう既に、答えを与え合っていたってのに。
未熟だったなあ。私も、魔理沙も。
────。
その日、私がどこをどう辿って神社に帰ったのかは、どうしても思い出せなかった。
ただ気付けば、暮れ泥(なず)む夕日に黄昏れた縁側で独り、座っていた。
混乱していた。私はただ、どうして魔理沙の体から生傷が絶えないのかを知りたかっただけなのに。それが──私自身の在り方、考え方に大きく深い瑕(きず)を見つける事になるなんて、思いもしなかったんだ。
瑕は幾らでもあった。空を飛ぶ私を目撃した魔理沙への、口止めさえしなかった対処。私を敬遠し陰口をする里の人々への、否定さえしなかった態度。空へ想いを馳せる魔理沙への、好意的にも受け取れた応対。
妖怪と判りながら退治せず、魔理沙の話に終始した香霖堂での事。
空を飛べるはずの無い人間が、博麗の巫女が、空を飛べた事。
胸の奥に、強い悪寒が走るのを覚えた。
まだ長月だ。夕暮れといっても寒くはない。だのに震えが止まなくて、両腕を強く抱いた。ぐらぐらと、辺りの全てが揺れ動くような怖気を震わせた。
汗が一筋、二筋と、頬を伝った。その時の私は、見るに耐えない顔をしていたのに違い無い。精魂の枯れた、人間以外の顔をしていたのに違い無い。
誰にも顔を合わせられないと思った。幸い、余程の用でも無い限り里の人間も神社には来なかった。その日は先代も何処かをふらついていたものか、神社には誰も居なかった。
──物音一つ無かった。
私独りだけだ。
厭だ。壊れてしまう。
ぐらぐらと、揺れ続ける景色に、私は焦燥した。
私は、博麗の巫女なんだ。人間を護る者として、幻想郷を護るんだ。こんなに揺れ続けては──壊れてしまう。
けれど。どんなに立ち上がろうとしても。
立ち上がれない。
どんなに手を伸ばそうとしても。
腕が上がらない。
どれだけそうして居たろう。須臾のようにも、永遠のようにも感じられた。心に時の概念は無い。もしあれば、次の瞬間にも私は壊れてしまったろう。
時の無い、瑕だらけの心の内から、私は幻想郷を見ていた。揺れ続け、回り続けて、いつ壊れるとも知れない幻想郷を。ただ両腕を掻き抱き、何も出来ず見ていた。
灼け付くような焦燥は、静かに燻り、灰と埋もれて。冷めてしまえば、後には凍える程の悲しさだけが残った。
涙が流れれば、それだけでも救われたろう。けれど精魂の枯れた私に、涙のひとしずくさえ有りはしなかった。
やっぱり。
幻想郷を護るどころか、涙すら、流せないんだ。
それはそうだよ。
私はやっぱり、人間じゃあ──
「……ああ居た。ねえ、これ霊夢のでしょう」
魔理沙の声が、私を覆う氷塊のような悪寒を砕いた。はっと我に返って、額の汗を腕で拭った。
ぱたぱたと、下駄を鳴らせて拝殿の方から彼女が駆けてきた。もういつもの着物に着替えていて、左手に何か赤い布をかけていた。
「へへ。こんな刻限に御免。ちょっと散歩してたら、神社への道沿に見たことある大きいリボンが落ちてたもんだから。ほらやっぱり、解けて落としたんでしょ」
そう言って、魔理沙は私にリボンを差し出した。にかっと笑う彼女の頬には、また新しい膏薬が増えていた。
「んん。どうしたの呆けて……あ、リボン汚れてる。それで呆けてるの。洗えばまだまだ使えるよ。破れたりしてないよ」
魔理沙は一人でリボンをくるくる見回して、しきりに何か喋っていた。
私は彼女の言う通り、ずうっと、呆けた顔で彼女を見ていた。まるで動けなかった。心が現実に追い付いていなかった。
魔理沙はきょとんとした顔でひとつ首を傾げ、リボンを綺麗に畳んで私の膝に置いた。そうして。
「……何か疲れてるみたいだよ。もう遅いから、私帰るね。また明日来るね。じゃあね」
魔理沙が、帰ってしまう──そう、思って。
私の体は、突然に動いた。背を向けた彼女の右手を、咄嗟に掴んだ。
「…………」
魔理沙は黙って、私へと振り返った。私は。
どんな顔をしていただろう。
「ね。今日霊夢以外誰も居ないみたいだけどさ。泊まったら迷惑かな」
突然そんな無茶苦茶な事を言って、魔理沙は私に、にっこりと笑顔を向けた。真っ赤な夕日に照らされて、眩しいくらいだった。
いつもの彼女は夢を追う少女の顔で、憧れに浮き立った幸せそうな顔ばかりするのに。
そんな彼女はただ空を飛びたい一心で、あんなにひたむきな、真剣な顔になる事もあって。
その、どれもこれも。表情は全く違うのに、それらは全部──凄く綺麗な、魔理沙の顔なんだ、って思ったら。
何だかとても可笑しくなって、堪え切れずに私は笑った。まるで治まらなかった。声を出して、大きく、大きく笑った。
目を丸くした魔理沙の顔がまた可笑しくて、胸が苦しくなる程笑って、笑い泣きをした。
魔理沙の目の前で、初めて感情を表に出して──泣き笑いをした。
「れ、霊夢。笑うなんて酷いよ。私何かそんなに変な事言ったかなあ」
「……はあ、あは、あはははっ……はあ。だってあんた、いきなり思い付いたように言うもんだから」
「んん、そりゃ思い付きだけれどさ。何かもう、これから帰るの面倒だなあって」
「うん、別に私は構わないけれど。でも家の人に言わないで、怒られても知らないわよ」
「良いよそんなの。霊夢に迷惑かけないもん。たまには父様にも良い薬になるよ」
「これから厄介になるのに何言ってるんだか。じゃ、これからすぐ夕餉の支度するわ。あんたには着替え貸したげるから、お風呂沸かして頂戴」
「えええ、私そんなのした事無いよ」
「それじゃ今から覚えなさい。ほらさっさと着替える。そしたらまずは水汲みね、外から回って裏に井戸あるから……」
その日の夜、私はとても饒舌だった。それまでの私では考えられない事だった。
様々な感情が胸の内を駆け巡り、留まる事を知らず、抑える事も知らず。私は私を赤裸々に、一夜を過ごした。
吹っ切れたわけじゃなかった。私の瑕は、そのままの形で残った。その日からそれは、心の何処かで疼き、胸の詰まる思いを私に与えた。
ただ、その日の夜は。あるいは明くる日、また数日を経てからの日中は。あるいは度々人目を忍んで訪れた無名の丘では。
私の瑕は痛みを和らげ、疼きも引いて、平癒したかのような落ち着きを得た。
いつからだろう。少なくとも、魔理沙に対しては。
いつからか「興味無い」「どうでも良い」そうした感情が無くなっている事に、この時気付いた。
◇◇◇◇◇◇
一合の徳利を空けたところで、栗名月の宴をお開きにした。
お酒は飲めば良い気分になるし、まだ飲めるけれど、飲み過ぎは体に良くない。それに今は飲まなくたって、もう十分良い気分だ。
簡単に沐浴をしてから汲み置きの水で口をすすぎ、例のごとく秋の気をはらんだ寝床に就く。所作は昨夜とさして変わらないのに、昨夜ほど虚ろな心地はしない。火照った体には、そのくらいの優しい冷たさが、心地良くすらある。
いつかの夜も、そんな気持ちで寝入った事を思い出す。ひとつは、隣で魔理沙が寝息を立てていた夜だ。
もうひとつは、とても──とても凄い事件を目の当たりにした日の、夜だ。
────。
明くる日の早朝に、魔理沙は里へと帰った。けれど昨日発した言葉の通り、昼過ぎになって本当にまた来た。
私は当分彼女に会えないものと覚悟をしていた。大店の一人娘である彼女が無断外泊をして、咎められない訳が無い。場合によっては自宅謹慎だろうと思っていたんだ。
魔理沙には言えるわけもなかったけれど、昨日私は無意識のうちに彼女に助けを求め、そうして救われた。
もし昨日、彼女があのまま帰ってしまっていたなら。私は多分、もう私でなくなっていただろう。
そしてもし、今日からしばらく彼女に会えないんだとしたら──やはり、同じ事だろう。
だから、笑顔で石段を駈け登って来た魔理沙を見て、私はほっと胸を撫で下ろした。
感慨も湧いたけれど、表出したのはそれくらいだった。瑕(きず)が、まだ癒えていなかったから。
でも嬉しかったのは本当だ。
「やあ、本当にこっ酷く叱られた。ねちねち嫌味言うんだもん、全く厭になっちゃう」
「でもよく叱られただけで済んだわね。大らか過ぎるわ、霧雨店のおじさん」
「ああ違うよ。叱ったのはちょっとした知り合い。まあそいつが昨晩家から訪ねてきた御使いを誤魔化してくれた御陰で、大事に至らなかったの。それは感謝してるけどさ、そいつ凄く憎ったらしくて。もううんざり」
昨日の無断外泊の顛末について、魔理沙はそんな事を言った。ちょっとした知り合いというのは、恐らく香霖堂の店主だろう。どういう間柄なのかは解らないけれど、本当に彼女の事を心配しているんだ、あの店主──霖之助さんは。
皮肉屋だけれど、面白い奴だからまた今度霊夢にも紹介してあげるよ、と彼女は言った。もう私は知っていたけれど、また今度ね、と答えておいた。
それからは、いつも通りだった。魔理沙は変わらず空に憧れて、私は変わらず彼女の話を聞いた。
全く、いつも通りだった。
神社に来ない日、魔理沙は飽きもせず魔法使いの格好をして、無名の丘へ訪れた。そうして一心に、空へ向かって駆けた。
雨の日も。風の日も。
まるで休む事無く。体を厭う事無く。
何度も何度も、丘を蹴っては、土に落ちた。
──まるで休む事無く。
私は、陰で見ていた。
その頃私はどんな気持ちで魔理沙を見ていたのか、実はよく解らない。
彼女が空を飛べるとは思わなかったし、やはり空を飛んで良いはずが無いと思っていた。だから彼女を応援したかったとか、暖かい目で見守りたかったとか、そういう気持ちは無かった。
ただ、見ていた。それでどうなるわけでも無いし、どうなるという考えも無い。彼女を見る、その行為自体が日課となっていた、というか。
魔理沙には随分と失礼な事かも知れないけれど。何をどうしようと絶対に変わらない「いつも通り」を、私は私のために確認していたんだ、と思う。
そうしなければ、瑕が疼くんだ。人間は空を飛べない──人間と妖怪の明確な境界を、この頃の私は見ずにはいられなかった。
彼女が良いだけ転んで、傷だらけの体で溜息混じりに帰るまで、私は見ていた。そうしていつも通り帰ってしまってから、ようやく私は瑕の疼きが治まる、心地がした。
ただそれでも。もう一つの瑕──私が空を飛べた事──については、耐えるしかなかった。
僅かずつ。けれど確かに。その疼きは、沁みへと。沁みは、痛みへと。
それに私は、いつまで耐えられるのか。解らないまま……
冬が近付いていた。
「霖之助さん。魔理沙は、本当に空を飛ぶのかしら」
ある日のこと。私は魔理沙が居ないのを見計らって香霖堂を訪ねた。
といってもまだ彼女から霖之助さんを紹介されてはいなかった。恐らく、今は知られたくないんだろう。
怪我は隠さないくせに、無名の丘での事は隠す。空に馳せる思いは熱く語る割に、空を飛ぼうとしている事は語らない。彼女は、そういう子なんだ。
だから私の香霖堂訪問も、彼女には内緒でいた。彼女の意地を尊重しての事だ。
秋も終わりに近いからか、香霖堂ではストオヴを出して掃除をしていた。この頃はまだ熱くなり過ぎるストオヴは無く、薪を燃す達磨型の重たいやつを使っていた。
「僕が魔理沙を飛ばすわけじゃないからね。解らないな」
霖之助さんは達磨ストオヴの焚き口に付いた錆を鑢(やすり)で落としながら、そう素っ気無く答えた。
手頃な木箱に腰かけ、私はその作業を見ながらひとつ、溜息を吐いた。
「……そう。そうよね。私にも解らないし、誰にも解らないわ」
霖之助さんとは、こうして度々魔理沙の事を話していた。
魔理沙は相も変わらず、無名の丘で空を飛ぼうと頑張っていた。そうして私も、それを見ていた。
ただ、昨日はいつもと少しだけ、違った。
何度目かの墜落の後。魔理沙は一声怒鳴り、地面を叩いた。
それは叫びのような、呻きのような。彼女に積もったわだかまりを拳に握り込み、殴り付けたような声だった。
もう、ふた月もの時が過ぎたんだ。それなのに何も。何も進展が無かった。
いくら魔理沙が夢を追う事に貪欲だとしたって。心は、挫折しかけて当然だ。
だから今日、私は何となく魔理沙の様子を見に行く気になれなくて、ここへ来た。
「まあ、その答えを持つとしたら一人だけだろうね」
ごりごりと錆を削る音を立てて、霖之助さんが呟いた。こちらを見ないもんだから、達磨ストオヴが呟いたようにも見えた。
「誰」
「魔理沙だよ」
そんなの判っている。けれどそれじゃあ、解りっこない。
「何それ。じゃあやっぱり空は飛べないって事なの」
「飛べるか飛べないかは知らないよ。けれど、飛ぶか飛ばないかは、まあ彼女次第だろう」
「……精神論ね」
「精神論だよ。そういう意図で尋ねたんじゃないのかい、君は」
「知らない」
そう言い、頬を膨らませてそっぽを向いた。
……けれど実際、そうなんだ。
ふた月だ。その間魔理沙は、ずっと空に想いを馳せてきた。普通に考えて、尋常な思い入れじゃあない。
昨日彼女は、ふた月を経て初めて挫折しかけたんだろう。その声を、私は聞いた。それはどれ程苦しく、どれ程切なかったろう。私はそんな彼女の声を、初めて聞いたんだ。
それは紛れも無く、人間である、人間でしかない魔理沙の声だ。ふた月もの間、夢を追い続けた末の彼女の声だ。
そう、思った。それでもう、諦めるんだろうと思った。もう止してしまうんだと思った。
だのに、それから顔を上げた魔理沙の瞳は。
魂は。
諦めて、いなかった。
そうしてまた、丘を駆け。
何度も。
何度も。
何度も、何度も。
駆ける足に力を込めて。丘を踏み切り、空を見つめて。空だけを見つめ、箒にまたがって。
土に落ちた。
夢にしては空想過ぎる。憧れにしては突飛過ぎる。そんなの魔理沙にだって、判っていたろう。だのに──
それでも魔理沙は、顔に付いた泥を拭き。目には一層の輝きを秘めて。
また、空を飛ぼうとした。
彼女の思いが何に起因するものかは知らないし、ふた月を経た今更そんな事を知っても仕方無いと思った。
ただ。魔理沙がこのまま、これから何処へ行き着くのか──それが私には、とても気になったんだ。
「そう不貞腐る事無いだろう。そもそも人間が身一つで空を飛ぶなんて、物質的に論じても詮無い。すると残るは精神だけだ。魔法はその最たるものだ。それについて、魔理沙は僕らより早く気付いていたよ。だから魔法使いになろうとしているんだろう」
「なれっこ無いわ。験(しるし)も、兆しもないもの」
「ふむ。どうあれ僕らは見ているしか無いよ。物質と違って、精神は目に見えない。目に見えないものは解らない。解らないものを論じても、やはり詮無い。だから魔理沙が信じていたら、それが彼女にとって正しい事だとしか言えない」
霖之助さんはそう言い、顔を上げて汗を拭った。そうしてお茶を一口飲み、私の方を──いや、私の裏にある本棚を見た。
「そこに皮表紙の本が幾つかあるだろう。君はそれを読めるかい」
振り向いて見れば、以前魔理沙が読んでいたという童話と並べて、数冊程の本が収まっていた。和書じゃなかった。蚯蚓(みみず)みたいな書体のものもあれば、幾何的で文様にしか見えないものもあった。果たしてその本の何たるかは、私には解らなかった。
「さっぱり読めない」
「だろう。僕も読めない」
「そんな訳解んないのを売り物にしているの」
「いやまあ。以前さる方から譲り受けたんだがね、初等魔術の記された魔導書らしい。僕の能力では読本とまでしか解らなかったけれど」
そんな物まで、この店にはあるのか。それにしてもこんな本、一体誰が読むんだろう。
「変な人も居るのね。魔法の本なんて里の人が読むとは思えないし、だいいちこんなの読めないわ。大方騙されたんじゃないの」
「いや、珍しい本には違い無いんだ。それに──その本が何であるかを知ったのは最近だ。それを魔導書だと言ったのは、魔理沙なんだよ」
驚いて、私は霖之助さんの方を振り向いた。彼はまた達磨ストオブに向かって、ごりごりとやっていた。
「鰯の頭も信心から、と言うのかな。少し違うかも知れないが……魔理沙には、読めてしまったらしい。まあ、験(しるし)だの兆しといったものじゃないだろうね。そういうのは何というか、悟りに近い。魔理沙はその本を当たり前に手に取って、当たり前に読んだんだ。それでそう言った」
「──嘘よ。だって。魔理沙は、里の大店の一人娘じゃない。魔法なんて、そんな知識を魔理沙が持っている筈……」
「だから僕も驚いた。けれど事実そこの本全部を読んでしまったし、そこに記された飛行論を基に魔理沙は練習しているそうだ」
私は唖然として開いた口が塞がらなかった。霖之助さんはまた私に向き直ると「魔術」についての講釈をした。
「魔術というのはね、元は民間信仰みたいなものだ。学問ではないんだよ。歴史を重ねていくうえで魔術を『見せる』ための技術や知識の大系は出来上がったが、そのいずれも薬学や気象学、物理化学その他の派生なんだ。魔術学なんてものは無い。
あるとすれば、呪術や卜占術だ。けれどそれらは文化的指向、精神的指向の強いものであって、物質的じゃない。目に見えないんだ。だからこそ実際の効果の程は解らない。統計学的な試行を用いてそれらを解こうとする者も居ると聞くがね、それでも偶然だとか無秩序な要素が加わると、途端に駄目だ。つまり、それを論じる事には意味が無い。魔術というのも同じなんだ。自他共にただ信じてこそ、顕在化する性質がある。
──例えば、怪我人が魔術師に、魔法での治療を依頼して、治癒したとする。彼は魔法を信じ、魔術師は魔法をかけて治療をしたと言う。それが実際には九割方薬学的知識に拠るとしても、彼らにとっては呪術を基とした魔法であり、すなわち魔術だ。
──例えば、田畑の枯れた村に雨を喚んで欲しいと魔術師に依頼したとする。村人は魔法を信じ、魔術師は魔法で以て雨雲を喚んだと言う。それが実際には九割方気象学的知識に拠るとしても、彼らにとっては卜占術を基とした魔法であり、すなわち魔術だ。
僕が思うに、魔術というものは信じることが第一にある。こと幻想郷においては、その結果が甚だしく顕在化する傾向にある。だから、魔理沙が魔法を使うんだと信じたことで、その魔導書を読めたんだろう。そして空を飛ぶんだと信じていたなら──飛ぶんだろうね」
その考え方は一聞すると論理立っていた。けれど、結局のところ精神論だと、そう言っていた。──それだけでは、私の瑕はまだ塞がらない。
それはもちろん神様や妖怪が「居る」幻想郷だから、空を飛ぶのだって精神論あってこそかも知れない。
けれど信じる心一つで空を飛べたなら、幻想郷中の人間は残らず空を飛んで差し支え無い。実際そんな事は無いから、人間は空を飛べないと考えないと、おかしい。
だから私は思うんだ。人間は空を飛べない。人間じゃないから空を飛べる。そこが明確な境界のはずだ、と。
「でも……でも霖之助さん、人間は魔法を使えないわ。魔法を使うのは、魔法使いだからでしょう。人間と魔法使いは違うわ」
「うん、確かに幻想郷縁起などでは種族として分けられているようだがね。僕の考えは少し違う。由緒ある稗田家を貶すわけではないが……魔法使いには二種類ある。先天的なそれは確かに、人間とは種族が違うんだろう。けれど後天的なそれは、人間と同じじゃないだろうか。
そうだな、強いて言うなら──思い込みの激し過ぎる、より幻想に近い──まあ変人、かな」
──当たり前じゃない。それは空を飛ぶ人間だよ。
そんな魔理沙の声が、頭の中で聞こえた。その声に。
境界は、破られた。
◇◇◇◇◇◇
────。
私は香霖堂を飛び出して、無名の丘へと走った。
魔理沙は──居た。もう幾度となく転び、服も顔も泥だらけに汚れて。丘の上に一人、箒を持ち空を見ていた。
信じていた。ただそれだけの顔をして。
そうして。
屈んで靴を履き直し、ただ空を見つめて──駆け出した。
丘の上を、ただ青く広い空へ向かって。先へ、より先へと繰り出される魔理沙の足は、一足毎に軽く、速く。
丘はもうあと数歩で切れる。その手前、最後の一歩を力強く踏み込んで──
跳んだ。地から、空へ。あの白い雲へ。あの明るい天道へ。目指す空の先の、そのまた向こうへ。
声を張り上げ、全身全霊を憧れの空へと放って、箒にまたがりジャンプした。
──ふらふらと。
──ふわふわと。
魔理沙は、空を飛んだ。
◇◇◇◇◇◇
秋はまだまだ盛りの時期。境内にはやはり、見ているだけで厭になる程落ち葉が積もっている。
結局あれから掃いても掃いても、ちっとも境内が綺麗にならない。もう三日も同じ事を繰り返したから、諦めるより無いと思う。
魔理沙が山の事件を話しに来た日から、三日経つ。今夜は十五夜だから、里芋でも供えないといけない。片見月なんて無粋極まる所業だ。
そんな事を考えながら、本殿の階段で箒を抱えてしゃがみ込み、頬杖を突いて惨憺たる境内を眺めていると。
「よう。いつからここは畑になったんだよ。あんまり落ち葉が積もっているから腐葉土が出来てるぜ」
ふいに声をかけられて、らしくもなく驚いた。見れば魔理沙が箒を携えて立っている。
今日に限って勘が鈍るなんて──そう思ったけれど、改めて考えてみればここ最近、何故か彼女の事ばかり思い返していたから、思考が慣れて意識だけが鈍ってしまったのに違い無い。
それが証拠に、驚きはしたけれど、やはり傍らに置いた盆の上には急須とお煎餅と……茶碗が二つ、無意識のうちに用意してある。
魔理沙は箒を賽銭箱に立てかけて、断りもなく茶碗を掴み、冷めた中身をぐいと空ける。無遠慮な事この上無い。
「皮肉を入れて人のお茶を勝手に飲むなんて、大した英雄さんだこと」
「なに釣り銭は要らんから取っといてくれ。それより英雄譚の続報だ、霊夢にもきっと得になる事なんだから、有難く拝聴してくれないと厭だぜ」
そう言って魔理沙は、はにかんだ笑顔を見せる。
彼女のこういう所は、昔から変わっていない。何か得意気な事があると、きっと堂々とはせず、少し気恥ずかしいような、勿体振った顔をする。話し始める切っ掛けも、いつもの不遜な態度の内に少しの弱気があって、不思議と構ってやりたくなる。
そうして話を始めれば、今度は慌ただしい。言葉に換えて声を発する所作がもどかしい程に、胸の内には感情が渦巻いているんだろう。
早く、伝えたい。今でも彼女は、そうしたかつての頃を思い起こさせる表情をするんだ。
────。
魔理沙は空を飛んでから、しばらく呆けた後、もう何度か同じように繰り返した。そのうち一、二度は前の通り地面に落ちたけれど、それでも要領が得られたものか、滞空時間は次第に長くなった。覚束無いながら、確かに飛べるようになった事を、胸の内で噛み締めていたんだろう。
その日私は彼女が帰宅するよりも前に、無名の丘を離れた。
神社へ戻る足取りが、軽かった。魔理沙と同じ、まるで私も空を飛んでいるような気分だった。
その高揚とした気持ちは、確かに興奮だったんだろう。私はこの時生まれて初めてそんな風に、他人に対し大いなる興味を持って、胸中を奮わせたのに違い無かった。
けれど同時に、穏やかだった。その時の不思議な気持ちは、私じゃなく、彼女の経験による発奮だったからだと考えていた。そうしてそんな事、考えるだけ無粋だな、と一人くすぐったく笑って神社へ駆けたんだ。
今考えてみればそれもその筈だった。
魔理沙は、空を飛ぶ人間として、人間のまま空を飛んでみせたんだ。
だからこの時すでに、私の瑕(きず)は綺麗に塞がっていたんだと思う。
「──とまあそんな訳でだな。喜べ霊夢、この神社じみた畑を活気付かせる好機だ」
「畑じゃないわよ。ちゃんと掃除しているんだから。素敵なお賽銭箱もここにあるし」
「飼い葉桶にでもすると良いぜ。牛でも居た方が畑を耕すのは楽だからな」
そう言われて少しだけ想像してみる。しっとりとした腐葉土の上によく育った野菜が整然として、古びた本殿を牛小屋に、大きな牛が賽銭箱へ首を突っ込んでむしゃむしゃやっている。成程、違和感が無いからとても困る。
「いや、それはね。この神社に参拝客が少ないってのは常々問題だって思っているけれど」
「だからだよ。霊夢お前、客ってのは呼び込まなけりゃ来てくれないんだぜ。山の神様達も協力してくれるって言うんだ、乗らなけりゃ損だろう」
つまり、こうだ。
魔理沙は事件の後、山の河童と仲良くなって度々山に入っているらしい。そこでこの間食べたお土産の塩羊羹に味をしめたものか、よく山の神社にお八つをたかりに行くという。
もののついでに今度執り行なわれる収穫祭の事を伝えると、そこに坐す風神様が一計を案じて、この前うちにやって来た緑髪の巫女と私とで神楽を舞う事を、勝手に決めてしまったそうだ。迷惑な事この上無い。
「だからって里の収穫祭で神楽舞の披露なんて、勝手に決めないで欲しいわ」
「こうでもしなきゃ霊夢も動かんじゃないか。それに巫女ってのは神様を楽しませて何ぼだって聞いたぜ。こんな畑で幾ら踊ったところで誰も見やしないんだ、収穫祭も御神事に違い無いならお前も参加するべきだろう」
「……何よ、今年は莫迦に意欲的じゃない。里のお祭りは毎回見向きもしないってのに」
「まあちょっとした縁があってな。そんな事はどうでも良いだろう、それよりも踊るのか踊らないのか」
厭にせっつく。魔理沙にとって、今季の収穫祭は何か訳があるようだ。そんな事私には関係無いし、本当に迷惑なら断っても構いやしないんだけれど。
彼女のその、顔。その柔らかな口元の動き。大仰な身振り手振り。もう楽しくって仕方の無さそうな瞳の輝き。
魔理沙は昔っから変わっていない。思った事や考えた事は口に出さなくても、ありったけの表現をして。それを、私に見せてくれて。
だから彼女が、一緒に空を飛ぼうと言ったあの日──私は一緒に、空を飛んだんだ。
「んん……ま、良いけどね。私はあんたと違って、ちゃんと里のお祭りにも顔出しているし。その早苗、って言うの。その子も幻想郷に来たばかりなのなら、里の人達に挨拶もしたいんでしょう」
「何だ、解ってるじゃないか。流石は博麗畑の農場主だぜ」
解っている。魔理沙のそんな皮肉は、照れ隠しからくる無駄口なんだって事くらい。口調が変わった事くらいが、彼女の唯一成長した所なんだ。
昔も、今も。彼女は変わらず、夢を追い続けている。そうして私を、ぐいぐいと魅き付けるんだ。
「それはもう良いって」
「じゃ早速山に行こうぜ。もう打ち合わせに呼ぶって言ってあるんだ。思い立ったが吉日だ、ほらさあ早く」
魔理沙は私の手を掴んで立たせると、颯爽と箒にまたがり──二人、肩を並べて空を飛んだ。
────。
一緒に空を飛んだ、あの日から。魔理沙は「人間の魔法使い」という、何とも不思議な道を歩み出した。
私はやはり、博麗の巫女としての修行を積んだ。やはり今の私じゃ考えられない、けれど。その頃は、神社を訪れた彼女の顔を見る度に、何となく……本当に何となく、たまには良いかな、と思ったりもしたんだ。
よく二人手をつないで、空を飛んだ。魔理沙は最初の頃こそふらふらと、ふわふわと心許無い感じだった。そうして私も空を飛ぶ練習まではあまりしなかったから、頼り無い感じだった。
けれどそうすればする程、私達はより深く、互いの事が解るようになったんだ。
彼女はそのうちに、色々と簡単な魔法が使えるようになった。私もそのうちに、破魔や結界が使えるようになった。そうして互い弾幕ごっこにも興じた。
私達に怖いものなんて何も無い。私達は、空を飛ぶ人間なんだ。不思議な能力を使う、人間なんだ。
──ほら、私達は人間だ。ちょっと無敵なだけなんだ。
そう二人で語っては、顔を見合せて笑った。高く広い空に馳せ、白く柔らかそうな雲に触れ、それが水滴だなんて初めて知って、ずぶ濡れになりながら、それでも絶えないその、笑顔。
ああ、解った。
山での事件を解決して戻った魔理沙は、その時の顔をしていたんだ。
だからこんなに、彼女から気持ちが離れていかないんだ。
魔理沙は夢を追っていた。最初は空を飛ぶ夢に。やがて星を手にする夢に。それから、それから。
彼女にはきっと、次の夢もあるんだろう。そのまた次の夢だって、あるんだろう。
その思いはいつだって強くて。いつだって努力して。そうしていつだって、命を懸けてまで、守るんだ。
魔理沙の夢と、そんな彼女を見続けたいと思う、私の夢を。
◇◇◇◇◇◇
霧雨魔理沙は変人だ。それ以外に、説明の付かない──人間だ。
魔理沙はいつも神社に来ては、私のお茶を二、三杯飲む。それから私のお茶菓子を、一つ二つと摘む。それだからまあ、人間だ。
彼女はそれから、私と話をする。異変の話であったり、魔法の話であったり、妖怪の話であったり、弾幕ごっこの話であったり。話の内容は実に罪の無い──いや、たまに窃盗をほのめかす様な事も言うから罪はあるかも知れない──他愛の無い話だ。けれどそれは、およそ人里で耳にするような話題じゃない。それだから、変梃(へんてこ)だ。
彼女は私と散々無駄話をしてから、適当な頃合いで箒にまたがり空を飛んで帰る。時々は勝手に寝泊まりしたり、宴会を始めて一晩中くだを巻く事もあるけれど、まあ大概空を飛んで帰る。元々は里の人間なのに。だからまあ、変人だ。
──親友、だって。悪い冗談だわ。なら悪友かって。なお悪いじゃないの。
なら、何。
魔理沙は私にとって……赤の他人だ。
飛びきり身近で、ちょっと気になる。
けどなぁ、魔理沙の初飛行シーン位はもうちょっと外連味というかあざとさを発揮しても
罰は当たらないと思うんだよなぁ。
幻想郷の弾幕少女達は人妖問わず空を飛ぶ。唯一霊夢だけが浮かんでいる。
私の認識はこんな感じです。
だから魔理沙は凄いと思う。己を飛ばし、霊夢を飛ばせる彼女は本当に凄い。
> 6様
夢に向かって必死な子は素敵ですよね。ついつい見守りたくなります。筆者がそうすると通報されそうになりますけれど。
> 10様
その一言が、明日への活力!
> コチドリ様
いつもありがとうございます。筆者も好きなんだ。ケッコンシテクダサイ!
今回は「ユメオイ」という題材が先に御座いましたので、原曲に沿った箇所はなるべく原曲を尊重したく思い、こうさせて頂きました。是非「ユメオイ」を聴きながら!
ご意見ありがとうございます。申し訳御座いません、ここは作中にうまく盛り込めなかった部分ですね。把握した上での裏設定となります。
筆者は霖之助が元々人里の道具屋で修行していた事、魔理沙のように魔法に執着しているように見えない事から、元々魔法の知識があったわけではないと考えました。裏設定的に、八卦炉に見られるような魔法知識は魔理沙の影響だと考えています。
今回のお話はまだ魔理沙が魔法を使えない頃のお話ですので、霖之助も魔法を使えない事にしています。ただ物語と関係の無い内容のため、無理に盛り込むよりは別の機会に出そうと思い、削ってしまいました。
Wikipediaに限らず元ネタwikiや考察サイト様には毎回お世話になっております。ですが物語の都合上、筆者の解釈を優先させて頂く事も多々御座います。けれどそうした突っ込み大歓迎です。今後共どうぞ宜しくお願いいたします!
。。。香霖堂書籍マダカナー