私は重い瞼をゆっくり開いた。白い天井が見える。部屋の中だ。でも、私の部屋じゃない。
(ここは、どこなの?)
慌てて上半身を起こす。その瞬間、後頭部に鈍い痛みが走った。
反射的に痛む個所に手を置く。粘性のある何かが指先についた。
私は、指先をまじまじと見つめる。そこには、まだ固まり切っていない血が付着していた。
それを見るなり、数時間前の記憶が蘇る。薬売りの仕事が終わり、永遠亭に帰る途中、
後頭部に強い衝撃があったかと思った瞬間、意識が途切れた。
拉致監禁という言葉が頭に浮かぶ。なぜ? どうして私が?
部屋を見回し、扉を見つけ、急いで駆け寄る。私は扉をたたいてみる。何とか破れないだろうか?
立ち上がり体重をかけて扉に体当たりをしてみる。最初はおずおずと、次は本気で。
しかし、大きな音とともに壁が振動するばかりで扉が開く気配はない。かなり頑丈なようだ。
……だったら。
私は渾身の弾幕を放つ。私を閉じ込めたやつが用意した部屋だ。派手に壊してしまっても
構わないだろう。
「どうして……」
扉には傷一つつかなかった。再び扉に弾幕を放つがだめだった。
念のため、天井、壁、床にも弾幕を放ったがだめだった。
間違いない。ここには結界が張られている。
それなら月兎同士で使用できるテレパシーを使おう。たしか、幻想郷には月の都から越してきた
私と同じ月兎達がいる。
とにかく、それで助けを呼ぼう。
しかし、応答はなく、代わりに、ノイズだけがした。結界の力が邪魔をしているのかもしれない。それに気づいたとき、足の力が抜け、私は床に座り込んでしまった。
「すみませーん」
私は声を張り上げる。こうなったら、外にいる誰かに助けてもらうしかない。
私を閉じ込めたやつが私の声を聞き激昂して襲ってくるかもしれない。
それならそれで、入って来たところを返り討ちにして外に出ればいい。
とにかく今は、外に誰かがいると信じて助けを呼ぶしかない。
「すみませーん。誰かいませんか? 困っているんです」
何度目かになる叫び声を上げ返答がないかと耳を澄ますが誰の気配も感じられない。
「すみませーん」
だんだん声がかすれてきた。こんなに大きな声を出すのは久しぶりだ。
100メートル先にいたって、聞こえるようにと、めいっぱい肺の空気を吐き出して叫ぶ。
誰か1人でも私の声を耳に留めてくれれば……。そんな思いも虚しく、私の声は部屋の中を
響きまわるだけで誰にも届いた様子はなかった。
だんだんとのどが痛くなってくる。疲れ果てて私は座り込んだ。
私は外に出られるのだろうか? 1人で扉を開けることは難しそうだ。
しかし、テレパシーは使えないし、声を張り上げても誰にも聞こえない。
下手をしたら当分ここから出られないのではないだろうか。
頭の中でパニックが起きそうになるのを必死で抑え、私は状況確認する。
3メートル四方の部屋、天井はまでの高さは5メートルはあるだろうか? 普通の家よりも
ずっと高く天井すれすれのところにはめ殺しの窓がついていて、
そこから夕陽が差し込んでいる。
部屋には家具や絨毯は無く、部屋の奥には最近、人里で見かける洋式トイレがあった。
壁はレンガ造りになっているが、部屋の一片の壁だけは木で、できており、たたいてみると
乾いた音が返ってきた。もしかしたら、これは仕切りで隣にも部屋があるのかもしれない。
こうして見るとここは部屋というより、倉庫の中の個室であり、今は私を閉じ込めるための
牢屋と化している。
そう考えると急に恐ろしくなり、私は改めて個室を見回す。
世界が急にこの3メートル四方程の空間に縮まってしまったような気がする。
私は心身ともに健康で、どこまででも飛んでいける能力を持っているのに突如としてどこにも行けなくなってしまった。腹立たしいことにすぐそこには普通の世界があるのに……。
私は、社会から切り離されてこの空間に押し込められてしまった。
個室に結界が張られているという理由で……。
涙がにじんできた。外に出る方法はついに見つからないまま日が落ちた。この個室には
明りになるようなものはなく、はめ殺しの窓から月の光が差し込みぼんやり私の手を照らした。
少しのどが渇いた。そういえばこの個室には水も食料もない。
まあ、水はトイレのものを飲めばいいか。でも、おなかが減ってつらい。
頻繁に鳴く自分のおなかを私は虚しくなでた。私を閉じ込めたやつは
私を餓死させたいのだろうか?
永遠亭のみんなは心配しているだろうか? 私がいなくなったことがわかればさすがに
誰かが探しているだろう。
早くこの苦しみから解放されたい。うちに帰って着替えて、おなかいっぱいごはんを食べよう。そして、師匠に頼んで私をこんな目に合わせたやつを捕まえてもらうんだ。
それまでは、なんとしても耐えなければ。
幸い個室の中は寒すぎも暑すぎもしないが、仕事終わりだったこともあって
汗で体がベタベタする。お風呂に入りたいな。
私は壁に背を押し当てた状態で座り、床を呆然と見る。目を閉じるとまた、涙がにじんできた。
まだ見ぬ敵への不安と怒り、永遠亭のみんなに会えない寂しさ、現状を打破できない自分への
やるせない気持ちが熱い液となって目の端から出てくる。
ふと靴音がした。土を踏み鳴らしながらこちらに向かってくる。
一瞬、驚いてすくみ、あせって立ち上がろうとして少しよろける。
誰かが来たんだ。今は誰であれ呼び止めなくてはと思うより早く音の主は
私の個室の前で止まったようだ。
「あの……」
声を出そうとしてせき込む。しばらく黙っていたせいかのどがざらついていた。あわててつばを飲み込んでから私はもう一度声を出す。
「あの……すみません」
向こうにいる相手が敵か味方かどうかはわからないが、私は警戒されないように言う。
「すみません。私、気づいたらここに閉じ込められていて、出られないんです。」
返事はなく、かすかな息遣いだけが聞こえる。数秒が経過したが相手はそれ以上の動きを見せなかった。
「あの、扉を開けてもらえないでしょうか? 困っているんです。もし、難しかったら助けを
呼んでもらえないでしょうか?」
私は困惑しながらも言う。何をしているんだろう? 早く助けてほしいのに。どうして
何も答えないのだろう? いたずらか何かかと勘違いされているのだろうか?
「あのですね。私は永遠亭の者でして……鈴仙・優曇華院・イナバと言います。
これは、いたずらとかそういうものじゃありません。本当に困っているんです」
相手の息遣いが少しだけ早くなったように思えた。しかし、相変わらず返答はない。
そのまま10秒程が過ぎた。私の期待を裏切り足音が個室から離れていく。
「ちょっと! ちょっと!」
足音は迷いなく急速に遠ざかっていく。
「待ってください! どうして? 閉じ込められているんです。助けてください」
足音が聞こえなくなった。
「お願いです! お願い! 困っているんです。助けを呼んできてくれるだけでいいんです」
わけがわからない。どうして? どうして? どうして助けてくれないの?
私を閉じ込めたやつが様子を見に来ただけなのだろうか? いや、耳が不自由な方とか、
しゃべれない方だったのかもしれない。どのみち現状を打破するチャンスだったのに。
「助けて! 助けてー!」
私は必死になって扉を打ち鳴らす。応答はない。誰かがいた気配だけが
扉の向こうに漂っている気がする。
きっと他の方を呼びに行ったんじゃないだろうか? 1人では判断できなかったから
誰かを呼びに行った。きっとそうだ。悪い妖怪がうそをついて潜んでいるとかだったら
大変だもんね。さっきの相手が人里の住人だったらそれくらいの用心深さがないといけないのかも。
そうだ、きっとそうだ。そうであってください。
私は冷たい扉にすがりついてすすり泣きながらただ祈り続けた。
しかし、足音が戻ってくることはなかった。
夜は永遠に続くのではと想うほど長かった。外のかすかな環境音はしだいに消えていった。
私はひとりぼっち。狭い個室の中で震えている。音はしない。
助けが来るのを待ちながら、いつ来るかわからない敵に備え、壁に背をつけて床に座る。
かすかな耳鳴りが側頭部を駆け抜けるが、その音を意識の中でつかもうとすると消えてしまう。
闇、目を閉じていても開いていても闇の濃さは変わらない。
睡眠と覚醒の境界線が曖昧だ。私は浅い眠りを繰り返しながらただ、時間が過ぎるのを待ち続けた。
さっきのは何だったんだろう? 考えてみれば私を閉じ込めたやつなら
そろそろコンタクトをとってきてもおかしくはないのに……。ただの通りすがりだったとしても
どうして助けてくれなかったのだろう? 理解できない。私がなにかいけなかったのだろうか?
服はしわくちゃで汗臭い。おなかは減り、のどが乾く。トイレの水を飲もうとしてみたり、
もう少し我慢できると自分に言い聞かせてみたり。
今の私はひどく惨めだ。ぼんやりと感じられる床の木目と悪夢を交互に見ながら
私はそんなことを考え続けた。
徐々に気温が下がりちょっと肌寒いかも? と感じた頃、どこかから小鳥の声が聞こえた。
目を開くと個室の中は朝日で照らされていた。……朝だ! 声を上げそうになるほどうれしい。
夜は弱気になっていた心が一瞬で立ち直る。そうだ、大丈夫。外に出るために最善を尽くそう。
私は、もう一度、個室の中を確認した。すると、個室の奥の床と仕切りの間に
小さなすき間を発見した。
頭を床につけて恐る恐る覗き込む。洋式トイレの一部が見える。隣の個室も間取りは
この個室と同じなのだろうか?
「すみませーん。誰かいますか?」
返事はない。やはり、隣の個室には誰もいないようだ。個室の中の全体を観察しようとしたが、
どうやっても個室の奥の足元しか見えなかった。すき間を広げようとしても結界のせいなのか
これ以上すき間は広がらなかった。
隣の個室には結界がないのではないかと思い、なんとか腕をすき間に突っ込んで弾幕を放つが
だめだった。すき間を覗き込んでも向こうの景色は先程となんら変わっていなかった。
この倉庫全体が結界で覆われているのかもしれない。
窓から差し込む光の粒子の角度がどんどん高くなり時刻は正午に近づいていく。
信じられない。私はそんな気持ちでいっぱいだった。この時間までこの倉庫にはただの1人も
訪れることはなかったのだ。
こんなことがありえるのだろうか? これが拉致監禁ならどうして相手はコンタクトをとって
こないのだろうか? もしかしたら私を人質にして永遠亭のみんなを脅迫しているのだろうか?
いや、そんなことをしても誰も得をしない。なら、私に強い恨みを持っている者が
私を殺そうとしている? それなら、監禁などせず、とっくに殺っているだろう。
私はぼんやりと立ち上がり、便座の後ろについているタンクを見る。フタを取り外すと、
中に水が溜まっているのが見えた。
のどが鳴る。水がほしい。便器に流れ込む前の水は浄水だ。飲んでしまっても問題ない。
心理的な抵抗感はあったが、そんなことは言っていられない。私は、トイレのレバーを倒した。
大きな音がして、便器に水が流れ排水されていく。タンク内の水量が減り、細いパイプから
給水が始まった。
水飲み場のように水が流れるその先に両手をお椀の形にして差し込む。
透明な水が手の中に溜まっていく。ゆっくりと水面が上がる様がじれったい。
半分ほど溜まったところで我慢できずに口に運ぶ。
ゴクゴクとのどを鳴らして飲み込んだ。なめらかでさわやかな液体が、口から食道を通って
体中に染み込んでいくのがはっきりと感じられる。おいしい……。
息を吐きもう一度手の中に水を貯める。全然おいしいじゃないか。もっと早く飲めば良かった。
水の心配は不要だ。心なしか、空腹も紛らわせられたように思えた。
昼になれば誰か来ると思ったが来なかった。私を閉じ込めたやつが様子を見に来るかと
思ったが来なかった。永遠亭のみんなが助けに来てくれると思ったが来なかった。
あと少ししたら来るかも。あと少ししたら来るかも。細かに時間を区切って期待と落胆を
繰り返し、ただ、待ち続けて時間が過ぎる。
ほぼ1日、この個室にいたことになる。私が突如、消息をたったことを
みんなはどう思っているだろうか? もしかしたら、1日連絡がつかない程度じゃ
仕事をサボって遊んでいるくらいにしか思われないのではないだろうか?
私は浅い眠りについていた。近づけば焦点がぶれ、
遠ざかればこれ見よがしに像を結ぶようなあいまいな夢を見ていた。
夢の中で、私は自由だった。少なくてもこんな場所にはいなかったし、
閉じ込められてもいなかった。
そんな夢からいつの間にか目覚めていた。覚醒した瞬間ははっきりとはわからない。
ただ、なんの特別な感覚もなく、私は夢と現実の境界線を越えた。
いつか夢の世界で出会ったドレミー・スイートという獏なら夢の中から
私を助けに来てくれるのだろうか? そんな無意味なことを考える。
すでにあたりは薄闇が支配し始めている。依然として結界の張られた個室が私を取り囲んでいる。
私は、頭をかきむしる。この個室で迎える2回目の夜がもうすぐやって来る。
どんどん時間が過ぎていく。
トイレの水を飲んで、時々、立ち上がってみたり、短い眠りに落ちたりしているうちに
あっという間に時間が過ぎる。
こんな日があとどれくらい続くのだろうか? 自分の胸に手を当ててみる。
心臓ははっきりと脈動している。おなかは減りすぎて逆に空腹を感じなくなってしまったが、
まだしばらくは大丈夫。
今日も結局、日が沈むまで誰も訪れなかった。ふと、昨日やって来た者のことを考える。あの方は今日も来るだろうか? 何を言っても反応してもらえなかったのは
耳が不自由だからかもしれない。そうではなくて、私を閉じ込めた相手が
様子を見に来ているだけだったら、せめて目的だけでも聞いてみよう。交渉できるかもしれない。
もしかしたら、別の誰かが来てくれる可能性だってある。大丈夫。
まだ、望みを捨てるときじゃない。
そう自分に言い聞かせて私は眠りについた。
夜、足音が近づいて来た。そして、そのまま私の個室の扉の前まで迷うことなくやって来た。
昨日の方? それとも別の誰か? とにかく話しかけなければ。
「すみません! 誰かそこにいるんですか? 私、ここに閉じ込められてしまって
出られないんです。助けてください!」
私は扉をドンドンとたたいて声を上げる。いくら耳が悪い相手だったとしても
扉が振動していれば嫌でも私の存在に気づくだろう。
仮に、耳が悪くてしゃべれない相手だったとしても今のでただ事ではないと気づくはずだ。
しかし、応答は無く微塵の動揺も感じられなかった。やはり扉の前にいるのは
私を閉じ込めた相手なのだろうか?
それなら、交渉してみるしかない。
「あの……あなたが私を閉じ込めたんですか? 一体、何が目的な……」
私の話を最後まで聞かず、足音はどんどん遠ざかっていく。
「ど、どうして? ちょっと!」
私は叫ぶ。
「待ってください! お願い! 待って!」
足音は聞こえなくなった。
私は膝をついて脱力していた。硬い床の感触がじんじんとした痛みを私の膝に与える。
今起こったことは何? 混乱しながらも受け入れるしかなかった。
夜中にやって来る者は耳が悪い者でもしゃべれない者でもない。そういった事情で
私に気がついていないわけではない。私がこの倉庫に閉じ込められていることを知った上で
なお、助けようとしないのだ。あいつは閉じ込めておきたいのだ。私を。
体が震えた。相手は何者なんだろう?
また、朝日が登る。一晩中私は生きた心地がしなかった。
心の中で何度も昨日起きたことを反芻した。やはり、私は人質なのかもしれない。永遠亭を
脅迫するための。でも、私を人質にして一体、何を脅迫するのだろう?
きっとまともな内容ではないはずだ。
ふと、さらに恐ろしいことを想像する。女性を捕まえてどこかの組織に売り渡す。
弱ったところでレイプして殺害する。
この個室が今度は拷問室のように思え、私は不安に押しつぶされそうになる。
それにしても、夜中にやってくるあいつは一体、何をしているのだろう?
ただ、扉の前に来るだけ。
脱走しないように監視しているのか? 私に協力的ではないが、
特に危害を与えてくるわけでもない。相手が何を考えているかわからないというのは不気味だ。
なんとかして交渉できればいいのだが。もしかしたら、あいつが何もしないのは、機が熟すのを
待っているからかもしれない。
そう、私が弱って抵抗できなくなるのを待っているのかもしれないし、
私を殺すのは休日にすると決めているのかもしれない。
私は頭を抱えてうつむいた。奥歯がカチカチと鳴る。
その日の昼頃だった。突然、猛烈な勢いで土を踏み鳴らす音が聞こえてきた。
その音は一気に倉庫の近くまでやって来た。誰か来た。夜に徘徊していたやつが
とうとう私を殺しに来たのかもしれない。相手に見つからないようにするために、
私は存在の波長を操る。さらに、扉を開いたときに死角になる位置に移動する。
相手が入ってきたら背中に弾幕を放つ。
倒せなかったとしても、相手がひるんだ隙を突いて外に逃げるんだ。
音は速度を緩めることなく進み、荒い息遣いがすぐそばにせまり、扉を開ける音が響いた。
私は、面食らった。相手は私の個室ではなく、隣の個室に入ったのだ。
ドサッという何かを落とす音がした。私は波長を戻し、呼びかける。
「ちょっと、あなた!」
やはり返事はなく、今度は扉を勢いよく閉める音がした。
扉を締める音がしたということは、相手は隣の個室にいる? それとも
何かを置いて出ていったのだろうか?
私は仕切りに耳をつける。何も聞こえない。
ということは、外に出ていったのだろう。
あいつは何を置いて行った? 私は昨日見つけたすき間から
隣の個室を観察する。だめだ、このすき間からではあいつが置いていったものが見えない。
お昼すぎくらいになった。あいつは戻ってこない。結局、さっきのは何だったのだろうか?
わからないことが多すぎる。おなかが鳴った。あいかわらず空腹は感じないが、
そろそろ水だけでは限界かもしれない。
再びグゥという音が聞こえた。私はおなかの上に手を置く。
……いや、違う! 今のは私のおなかの音じゃない。
うめき声だ。隣の個室からうめき声が聞こえる。誰かいるんだ。
私は仕切りに耳を澄ませる。
衣擦れの音が聞こえ、壁の向こうで誰かが立ち上がる気配がしたかと思うと息を呑む声が聞こえた。
そして、個室の中を恐る恐るといった様子で歩いたり、
ガチャガチャと扉を鳴らしたりしている。どうやら、向こうの扉も開かないようだ。
時々、独り言が聞こえ、相手が女性だとわかった。はっきりと声が聞こえるわけではないものの、
今の状況に混乱していることが伺える。
さっき、あいつが置いていったのは、彼女なのではないだろうか?
私と同じように拉致されてきたのかもしれない。
今なら話しかけても大丈夫だろう。
「すみません」
私は壁をノックしながら言う。
「えっ! 何?」
しばしの間をおいて返事があった。まともに誰かの声を聴くのは久しぶりだ。
たった一言だけでも私の声に反応してもらえるだけでうれしくなる。
「突然すみません。あの……私この倉庫に閉じ込められてしまって、出られないんです」
「えっ! それじゃあ、あなたも出られないの?」
相手が動揺しているのが伝わってくる。
「そうなんです。ずっと閉じ込められているんです」
「そんな……」
ふと、相手の声に聞き覚えがあるような気がした。この声は……。
「あの、間違っていたらすいません。もしかして、純狐さんですか?」
「えっ! まさかとは思っていたけどその声……」
「私です。鈴仙・優曇華院・イナバです」
「鈴仙ちゃん!?」
信じられなかった。まさか、純狐さんまで閉じ込められたなんて。
状況を聞く限り、隣の個室も私の個室と全く同じようだ。純狐さんの力ならと思い、
扉や壁に弾幕を打ち込んでもらったが私のときと同じく、結界のせいで傷一つつかなかったらしい。
何と言ったらいいかわからず、落胆する私に純狐さんが元気な声で話しかけてきた。
「あの、えーと、鈴仙ちゃんはいつから閉じ込められているの?」
「閉じ込められたのは2日前からだと思います。仕事帰りに背後から襲われて
気づいたらここにいました」
「えぇ! そんなに長い間?」
純狐さんは素っ頓狂な声を出した。
「はい、こんなに長い間、閉じ込められるとは思ってもみませんでした」
「そう……大変だったわね」
「純狐さんはどうしてここに?」
「私は八意さんに用件があって永遠亭に向かっていたときに鈴仙ちゃんと同じで、後ろから……」
「そうだったんですか」
私は純狐さんに気付かれないようにため息をつく。純狐さんは1人で月の都を相手に
異変を起こせるほどの方だ。そんな方を捕まえられるなんて……。
相手は私が思っている以上に強大なのかもしれない。
「だけど、鈴仙ちゃん。こんなところに閉じ込められるなんてひどいわね」
「……ええ」
仕切りを挟んで私達はぼそぼそと話す。
「今までどうやって過ごしていたの?」
「え、いや、水はありますし。まあ、なんとか」
「食べ物は?」
「それは……我慢するしかありません。正直、おなかはかなり減りました
お弁当の残りはありましたが、荷物は全部取られてしまって……」
「そうよね。私も荷物は取られちゃったし……。あっ! ちょっと待って」
衣擦れの音がする。衣服の中を探っているようだ。
「あったわ。」
「何がですか?」
「お菓子よ。私いつも持ち歩いているの。袖の中にあったものは取られなかったみたい」
「本当ですか?」
「ええ、どうにかして鈴仙ちゃんに渡せないかしら」
「木の仕切りに沿って個室の奥まで進んでください。
下の方に私の個室とつながるすき間があります」
「ちょっと待ってね。あっ、本当だ。ここね」
純狐さんの手がこちらの個室に入ってきた。手には個包装されたまんじゅうがあった。
「今は、こんなものしかないけど、もし良かったら」
うれしい。そんな言葉で表現するのがあまりにも陳腐なくらい心の中に温かい感情が沸き起こる。
私はすぐさま、その包みを手に取り中身を取り出した。
「ありがとうございます」
お礼もそこそこに、まんじゅうにかぶりつく。
しっとりとした食感、さらりとした心地の良いこしあんの甘さが口に広がる。
「もう1個食べる?」
私が猛然と食べているのが分かったのだろう。純狐さんは2個目をそっと差し入れてくれた。
それを受け取りまじまじと見る。1個目は一気に飲み込んでしまった。
これは、時間をかけて大切に食べよう。食事がこんなに幸せなことだと久しぶりに思い出した。
空腹は最高のスパイスだというが間違いない。私は1人で納得する。
「まだ、少しあるからほしかったら言ってちょうだい。非常事態だもの。助け合っていきましょう」
純狐さんの優しい声が聞こえてくる。
「ありがとうございます。とりあえず、大丈夫です。助かりました」
心から感謝して答えつつ、同時に小さな不安が心を駆け抜ける。
この先、何日も出られなかったらどうなるのか? お菓子もやがて底をついて
私と純狐さんとで取り合いになってしまうかもしれない。そうなったら、もう、純狐さんは
私にお菓子を渡しはしないだろう。その時に備えて余分にもらっておくべきなんじゃないのか?
純狐さんの心情を量りつつ、私は思考を巡らせる。純狐さんはまだ、
あまり危機感を抱いていない。何日も出られなくなるとは想像もしていない。
一方、私は、その可能性を肌で感じている。悪い言い方だが相手の油断に付け入るなら今しかない。
「すみません。やっぱり、もう1個もらえませんか? 本当におなかが減っちゃっていて……」
「ええ、どうぞ」
純狐さんは穏やかに応じてくれた。
「ありがとうございます」
私はなんて嫌な考え方をするのだろう。自己嫌悪に浸りながらも私の手は滑らかに動き、
受け取ったまんじゅうをポケットに入れた。
包みを開いたように思わせるために、包み紙をクシャクシャといじって音をたてることまでした。
「遠慮しなくてもいいからね。仙霊の私にとって食事は娯楽であって、
絶対に必要ってわけじゃないから」
「えっ! ああ、なるほど。そうですよね」
考えてみれば霊が食事を必要としないのは当然だ。白玉楼の亡霊の幽々子さんが
いつも何か食べているので失念していた。わたしが先ほど心配したことは杞憂だったのだ。
安堵とともに純狐さんを出し抜こうとしていたことを思い出し、憂鬱になる。
それと同時に、1つの疑問が浮かび私は純狐さんに尋ねる。
「あの、仙霊だったら壁をすり抜けて外に出られるんじゃないですか?」
「ごめんなさい。よく勘違いされるんだけど、私は亡霊と同じで、実態があるから、
そういう幽霊みたいなことはできないの」
「……そうなんですか」
亡霊も仙霊も、幽霊も同じだと思っていた。私は少し気まずくなり、黙り込む。
倉庫の中を沈黙がしばらく支配する。
「鈴仙ちゃん」
ふと、隣の個室から声をかけられる。
「は、はい」
虚をつかれて私は狼狽する。
「優曇華ちゃんって呼んでもいい?」
「えっ?」
「ほら、八意さんがあなたのことを優曇華って呼ぶじゃない? 私もそう呼びたいなって」
「いいですけど……」
正直、師匠以外に優曇華と呼ばれるのは好きじゃないが、純狐さんに対して後ろめたさがあり
私は了承する。
「あっ、優曇華ちゃんより、うどんちゃんの方がかわいいかも」
「……好きにしてください」
「あと、敬語を抜きにして話しましょう。遠慮することなんてないんだから」
「別に構いませんが……」
「よかった。じゃあ、改めてよろしくね。うどんちゃん」
「は、はい」
純狐さんの勢いに押し切られて私はうなずく。以前会ったときは感じなかったけど、
意外と積極的なタイプなのかもしれない。
「うどんちゃん、誰も来ないね」
「そ、そうですね」
「敬語じゃなくていいのよ。それにしてもおかしいと思わない? もう、夕方なのに私たちを
閉じ込めたやつが何もしてこないわ。 何かしにきてもおかしくないのに」
「まあ、今までもそうでし……だったよ」
ため口が嫌なわけではないが、こう、いきなり馴れ馴れしく話すことに抵抗があって、
私は舌を噛む。
「今までも? じゃあ、うどんちゃんは犯人と話をしたりはしていないのね」
「はい、おそらく様子を見に来ているだけで私と話そうとしないんです」
純狐さんは私の敬語に気付いたようだったが、指摘するのは悪いと思ったのか
それについては、何も言わない。
「ねえ、そいつまた来るかしら?」
「わかりません」
それを想像すると嫌な気分になった。私を監視している謎の相手。あの不気味な体験を
もう一度味わせられるのかと思うと気が滅入る。
「また来たら私がガツンと言ってあげるからね。ひょっとしたら、うどんちゃんの
言い方が悪かったのかもしれないし。私、けっこうそういうやりとり得意なのよ。
まあ、任せておきなさい」
「お願いします……」
(たぶん、だめなんだろうな)
私はこっそりため息をついた。
結局、日が沈んでもあいつがまた来ることはなかったし、助けも来なかった。
純狐さんと話していたのでのどが渇いた。もう、トイレの水を飲むことに対して抵抗は
なくなっていると思っていたが、近くにいる純狐さんを意識すると、自分の行為が
恥ずかしくなった。純狐さんなら察してくれていると思うが、なるべく気づかれないように、
私は水を飲んだ。
純狐さんは時々、まんじゅうを私に手渡してくれる。たまに雑談を交えたりしながら
私と純狐さんは退屈な時間を過ごした。
なんとなく、この状況に慣れてきている自分がいる。適応力とはすごいものだ。また、単純に
純狐さんがやって来てくれたことが私を元気づけた。やはり、独りぼっちよりも誰か一緒に
いてくれる方が心強い。
「もう、夜なのに誰も来ないね」
「そうですね。いつもはこのくらいの頃には現れるんですけど、昼に純狐さんを運んできたので
今日はもう来ないのかもしれません」
「うーん、交渉すると言っても来てくれなきゃどうしようもないわね」
ガツンと言ってやると息巻いていた純狐さんは残念そうに言う。
「そうですね」
「まあ、いいでしょう。明日、来るかもしれないし」
純狐さんの声には張りがある。この状況は全然ピンチなんかじゃないとでも言いたげな
テンションだ。
(あいつに会ったことがないからそんな風にお気楽でいられるんですよ)
そう思ったが、私は口には出さずに飲み込んだ。
「うどんちゃん、こう、暗い中で閉じ込められているとなんだか妙な気分になるわよね。
これはこれで貴重な体験というか」
私の気も知らず、純狐さんはだらだらと話し続けている。
「子供の頃、こういう暗くて狭い場所で遊んだでしょ? あれ、楽しいわよね。
妙に落ち着くというか、何なのかしらね? 幸せな気持ちになるじゃない」
「ええ」
私は瞼をこすりながらあいまいな返事をする。
「あれって生き物に備わっている本能なんだって。天敵がうようよいるような場所では
きちんと寝床を作らないと危険。寝ている間に襲われたらひとたまりもないからね。
だから、敵に見つからないせまくて小さな隠れ家に入ってようやく安心するんだって。
そう、例えばこんな場所とかがぴったりなのよ」
「そうなんですか……」
「ええ、私って物知りでしょ?」
「えっ、まあ、はい」
初めて知る話だったが、そんなに興味は沸かない。私は気のない返事をする。
あくびがでてきた。少し眠い。話しかけるのは遠慮してほしいなと自分勝手なことを考える。
「そうだ、ほかにも……」
「ごめんなさい。しばらく静かにしてもらえませんか」
「うどんちゃん?」
「すいません。ちょっと疲れてしまって……」
「ごめんね。少しは気が紛れるかと思ったんだけど……」
ああ、純狐さんは気を使ってくれていたのか。
「うどんちゃん、元気なかったから心配で……」
「あっ、いえ……ありがとうございます。体調とかは大丈夫なんです。
ただ、怖いんです」
「怖い?」
「はい、怖いです。理由もわからず連れ去られるし、いまだに相手の意図が見えないのが……。
純狐さんだってそう思っているんじゃないですか?」
「うーん、どうかしら? 言われてみればそうかもしれないわ」
何なのだろう? 純狐さんは、どこかお気楽だ。仙霊だから生命の危機がある私と違って
心に余裕があるのだろうか?
純狐さんはその後も何度か緊張感のない話を続け、私は適当なあいづちを返し続けた。
時折、差し出されるまんじゅうを受け取りながら純狐さんと私の歯車がずれていくのを感じていた。
やはり、自分でどうにかするしかないのかも。そんな風に考え始めたときだった。
突然、純狐さんが私に提案した。
「うどんちゃん、うどんちゃん、私、いいこと思いついちゃった」
「何でしょうか?」
「脱出のアイデアよ。月兎同士が頭のつけ耳を使ってやっているテレパシーを……」
「それならもう試しました。でも、結界のせいでノイズが入ってテレパシーが妨害されるんです」
「うん、そんなことじゃないかと思ったわ。だから、ここからは私のアイデア。
要は、そのノイズをなくしてほかの兎にテレパシーが届けばいいんでしょ?
じゃあ、うどんちゃんがテレパシーを送っているときに私が純化の力を送れば……」
「純化された私のテレパシーが、結界の妨害を受けずに外に届くということですか」
純狐さんの言わんとすることがわかり私は声を出す。
「そう、イメージついた?」
「試してみる価値ありますね!」
私はすき間まで移動し、横になる。そして、片方の耳をそこに通す。
「純狐さん、見えますか?」
「ええ、これでしょ?」
純狐さんが私の耳を軽く引っ張る。
「はい、こちらは準備できました」
「うん、じゃあ、力を送るわね」
これが成功すればこの状況を解決できる。期待で胸を膨らませながら私はテレパシーを試みる。
「どう? 使えそう?」
……すごい。前と比べるとノイズが減っている。
「いい感じです。もう少しクリアになれば問題なく使えると思います」
「わかったわ。出力を上げてみるわね」
さらにノイズが少なくなる。これなら大丈夫そう。
「あっ!」
純狐さんの声と同時にブツンという音が聞こえテレパシーが切れた。
そして、何かが焦げたような匂いがした。私が純狐さんのつかんでいた方の耳を見ると、
そこからは、プスプスと音を立てて煙が出ていた。
「うどんちゃん、大丈夫? 耳から煙が出てるんだけど」
「大丈夫です。私は……」
「テレパシーは?」
「失敗しました。たぶん、オーバーフローしたんだと思います」
「ごめんなさい。出力を上げすぎたわ。悪いんだけどもう片方の耳を……」
「いえ、2つないとテレパシーは使えないんです」
「スペアのつけ耳は?」
「ありません」
「うーん、そうか。ごめんなさい。糠喜びさせちゃったわね」
純狐さんは申し訳なさそうに言う。私は意識して明るい声を出した。
「いえいえ、そんなことありません。いいアイデアだったと思います。おしかったですよ」
「うん、うどんちゃん、落ち込まないでね」
「えっ? あっ、はい」
「また、別の方法を考えるからね。頭を使えばいろいろできるはずよ。
まあ、私を頼りにしてね。私、こういうの考えるの得意だから。元気出していきましょう」
純狐さんの声は力強かった。がっかりしたのは純狐さんも同じだと思うのだが、それでも
すぐに立て直して私を元気づけてくれている。
「はい、ありがとうございます」
うれしくなってしまう。すごく頼もしい方だ。面倒見の良い姉御肌タイプなのかもしれない。
私は、さっきまでの純狐さんを少しうっとうしいと思っていた自分を恥じた。
「純狐さんって、頼りになりますね」
「またまた~、よしてよ」
笑い交じりの声が聞こえてくる。
「ごめんなさい。昨日はなんだか邪険にしちゃって」
「いいの、いいの、わかってくれればいいのよ」
朗らかな純狐さんの笑い声に私も思わず口角が上がるのを感じる。
「私についてくれば、私の言うことを聞けば間違いはないってわかってくれればいいのよ。
わかったでしょ? 私、頼もしいでしょ? 物知りだし、発想力豊でしょ?」
眉間にしわが寄る。純狐さんの口調は変わらない。しかし、なんだか押しつけがましい。
こういう方なのだろうか? ちょっと自分の功績を大きく言いたがる。
そんなタイプなのかもしれない。
「うどんちゃんは、私のことを信じていればいいんだからね。私がいれば大丈夫だから。
私を頼って。どんどん頼って。大丈夫だから。それで大丈夫だから。ね! ね!」
「あ、ありがとうございます」
私は若干とまどいながらもそう答えた。ただ心配してくれているだけなのかもしれないが
純狐さんのことが相変わらずつかめない。
「うんうん、それでいい、それでいいのよ。安心していいのよ」
純狐さんはやや思い込みが激しいところがあるようだ。というよりは、どこか特定の方向に話を
持っていく癖があるというか、不器用というか、それでもそう言ってくれたことはうれしかった。
私と純狐さんの会話は唐突に始まり、中途半端に続いたかと思えば、ふと、途切れる。
その繰り返しだった。どうにも会話のタイミングが難しかった。話し続けるのも変だし、
沈黙が続くのも気持ち悪い。
その日、何度目かの沈黙の最中だった。
「うどんちゃん、元気? ちょっと心配になっちゃって」
突然、純狐さんが話しかけてくる。
「はい、純狐さんは?」
「元気よ。暇だけどね」
「そうですか」
「ねえ、私達、すごく気が合うと思わない? まるで家族みたいっていうか……」
(また、急な振りだなあ)
しかし、話は合わせた方がよさそうだ。
「そうですね。無事にここから脱出できたらいいお友達になれるかもしれませんね」
私は、軽い気持ちでそう言った。しかし、純狐さんは何も答えなかった。
重い沈黙が流れる。今までのノリなら「そうだね~。あはは」という感じで、返してくれると
思ったのだが。何かまずいことでも言っただろうか? 私は少し不安になる。
「純狐さん?」
隣の個室からは荒い息遣いが聞こえてくる。寝息ではない。覚醒した者が懸命に感情を
押し殺しているような呼吸音だ。
「どうしました?」
急に純狐さんが黙ってしまった理由がわからず、混乱する私。
しばらくの沈黙の後、純狐さんはボソリと言った。
「私、友達って扱いなんだ……」
「えっ?」
「ちょっとショックだったわ」
「どういうことですか?」
「だって、私、一生懸命、うどんちゃんのために頑張っているのに、友達止まりなんだなって
思って……」
(何を言っているんだ)
意味が分からず私は沈黙し続ける。
「まあ、そうよね。分るわよ。分る。そうよね。そうだけど……」
純狐さんの声はどこか暗かった。いつもの明るい気配が感じられない。急にどうしたのだろう?
「あの、純狐さん?」
「でも、友達ってたくさんいるじゃない。誰かと友達になっても、それは必ず
複数いる友達の中の1人ってわけでしょ? それって……それって、
あんまりうれしくないっていうか、普通っていうか、結局、使い捨てっていうか、
何ていうか、何ていうか……」
「純狐さん、私、そんなつもりで言ったわけじゃありません」
「違うよ。そういう言葉がポロッと出るのは、そう思っているってことでしょ?
そうなんだ……。私、友達なんだ。なんていうか、その、私、絆とか、
ここで過ごした唯一無二のようなそういう関係が……」
「それはもちろん、唯一無二ですよ」
「嘘よ。うどんちゃんはそんなこと思ってない」
「純狐さん……」
「どうして? 私、悲しい。……ちょっと1人にさせて……」
純狐さんの口調はとげとげしかった。
「……わかりました」
戸惑いながらもそれ以上、声をかけられず、私は黙り込んだ。
個室の中には冷たい沈黙が流れた。
数時間が経過した。
「おなかの音?」
純狐さんが笑って言う。
「はい」
私は、少し照れながら答えた。純狐さんの口調がもとに戻っていることに安心する。
私のおなかは空腹のため、大きな音を立て続けていた。
「まだ、若いから仕方ないわよね」
純狐さんはすき間からまんじゅうを差し入れてくれる
「ありがとうございます」
これで、何度目だろう? ありがたく私はまんじゅうを受け取り、開封して口に運ぶ。
「昨日からたくさんもらってしまってすいません」
「いいのよ。慕ってくれているうどんちゃんを邪険にはできないわ」
「実に頼もしいです」
私は冗談めかして言う。純狐さんはまんざらでもなさそうに、息を吐くと
少し間をあけて言った。
「私はずっと、うどんちゃんの味方よ」
「えっ? はい」
「この倉庫の中でなら、私はずっとうどんちゃんのそばにいて力になってあげられるのよ。
うどんちゃんがいくつになっても、うどんちゃんが望む限り、私はいるのよ」
「はい?」
眉をひそめる私と対照的に純狐さんは上機嫌だった。
「うれしいでしょ?」
「はあ……」
「私もうれしいの」
純狐さんは笑いを抑えきれないという感じの声を出した。
何か嫌な感覚がした。今までにない感覚だった。
夜、あの後、夕飯代わりにまた、まんじゅうをもらって食べた。個室の隅には
まんじゅうの包みが重ねて置いてある。私はさらにその上にもう1枚包み紙を重ねる。
カサリと音を立てて小さな山が崩れた。
純狐さんはもう、寝ているのだろう。隣からはほとんど何の音も聞こえてこない。
真っ暗な個室の中で、私は1人、考えている。おかしい。まんじゅうの包み紙は、
もう、10枚近くになる。いかに、衣服の袖におかしを入れているとしてもまんじゅうを10個も
持ち歩くだろうか?
純狐さんは、今日の昼、妙なことを言っていた。私が望む限り、
ずっとそばに居続けるとか、何とか……。
おかしい、やっぱりおかしい。ふと、頭の中で嫌なイメージが駆け抜ける。
最初の夜にやって来たあいつと純狐さんが重なるイメージ。私は首を振る。それはさすがに
考えすぎではないか。少なくともこれまでの純狐さんの態度は普通の範疇に収まっていた。
ちょっと変なことを口走っていたからと言って、そこまで疑ってはいけないのではないか。
しかし、まんじゅうの量はどう説明する? 箱ごと袖に入れているのだろうか?
いくら何でもそれは不自然だ。
純狐さんがこの倉庫に来たとき、何かを置く音がした。それは、あいつが
気を失っている純狐さんを無造作に置いたときに出た音だと思っていた。
でも、それが外から入って来た純狐さんが、まんじゅうなどの入った荷物を
置いたときの音だったとしたら……。
そういえば、扉が閉まった後に倉庫から離れていくあいつの足跡が
聞こえなかったような気がする。
もしかしたら、私が寝たことを確認してから夜に外出して新しいおかしなどを
調達しているかもしれない。あまり、考えたくはないが、私をずっと閉じ込めておくために。
確かめる方法はある。一睡もせずに、隣の個室に聞き耳を立てるのだ。
でも、今の私の精神力で徹夜はできそうにない。
私は隅にある隣の個室につなぐすき間を見る。あれが中央にあれば、そこから純狐さんの
個室全体の足元を見ることができる。一定の間隔を置いてそこから中をのぞけば
純狐さんが外出しているかどうかがわかるのに。
そんなことを考えながら何となくすき間をのぞき込む。すき間は暗くて向こう側が
よく見えなかった。しばらく目を凝らすように見つめていると視線の先で何かが瞬いた。
何本も赤い筋の入った円の中央にどの闇よりも暗い球体。眼球だった。
私の全身が冷たく硬直する。向こう側に眼球がある意味を数秒考え、理解した瞬間に私はのけぞる。
狭い個室の中で私の背中が後ろのトイレにぶつかりコンッと音を立てた。
「うどんちゃん……」
穏やかな、それでいて粘着質な純狐さんの声が聞こえてくる。
「どうしたの? 寂しくなったの?」
私の体はふるえて返事ができない。
「大丈夫よ。私はどこにも行かないからね」
笑っているような、幼い子供を諭しているようなそんな口調。
「ここにいるからね」
顔の輪郭はわからなかった。闇の中、ただ、赤い眼球だけがはっきりとわかった。
純狐さんの目がゆがみ、心の底からうれしそうな笑みに変化する。
その視線ははっきりと私をとらえていた。
「うどんちゃんも、ここにいてね」
私は恐怖のあまり目を閉じる。その上に手を重ね、顔を覆う。わけがわからない。
どうしてこんなことになっているのか全然、わからない。ただ、目の前の現実から
逃げてしまいたくて私はすき間の向こうにいる純狐さんに見えない位置に移動し、ふるえ続けた。
どれだけの時間がたっただろう。あの後、そのまま眠ってしまったのだろうか?
個室の中には光が差し込んでいて、どこからか小鳥の声が聞こえる。私はため息をつき立ち上がる。
「うどんちゃん、起きたの?」
純狐さんの明るい声がして、どきりと体がふるえる。見ると、隣の個室からまたも、
まんじゅうが差し入れられていた。半分だけこちらの個室に入ったそれを呆然と見つめる。
以前のものと同じまんじゅうだ。
「うどんちゃん、昨日の夜、おなか減っててあまり寝られていなかったみたいだから、
たくさんあげるね」
純狐さんの声とともに新しいまんじゅうが差し込まれる。すき間を埋めるようにまんじゅうが
いくつもいくつも並んでいく。横幅が足りなくなると前のまんじゅうを押し出すようにして
奥から新しいまんじゅうが差し込まれる。際限なく増えるまんじゅうを見ているとめまいがした。
「もう、大丈夫です」
私は喉の奥から絞り出すようにしていう。
「これだけあれば大丈夫ですから」
「あら、いいの? うどんちゃん、このおまんじゅう好きでしょ?」
「好きですけど……」
「私と一緒にここにいる間はいいのよ。好きなだけ食べてもまだまだあるからね」
純狐さんの口調は何とも言えず生暖かい。まるで恋人とふざけあっているようだ。
どこか、うれしそうですらある。
思えば、最初から感じていたのだ。純狐さんにはここに閉じ込められているという
焦りや不安が全くない。
私という仲間がいるから多少元気づけられているのは理解できるが、それでも、楽天的すぎる。
いや、それは正確な表現ではない。むしろ、私と一緒にここにいることを楽しんでいる。
そんな感じだ。そう、純狐さんは、私を閉じ込めて、私と会話して、私を監視して、
私に餌付けして、私を飼育している。
純狐さんも閉じ込められているなど嘘だ、きっと結界も純狐さんが用意したもので、
自由に出入りできる。
そのくせに出られなくなったふりをして、私に親近感を抱かせようとしているのだ。
そこまでして私に何をさせたいのかはわからないが、
隣の個室で薄笑いを浮かべている純狐さんを思うと、背筋がふるえた。
昨日の一連の出来事で、もはや純狐さんへの疑念はほとんど確信に近いほど
強固なものになっていた。
そう考えてしまうと、さまざまなことがらが、悪意に満ちた所業として思い出される。
例えば、脱出の方法があると言われて、純化の力をテレパシーに必要なつけ耳に
流してもらったけど、あれも純狐さんの策略の疑いがある。
外とつながる手段を完全になくすために、わざと壊したのではないだろうか?
何より、純狐さんが来てからあいつがやってこない。
「うどんちゃん、起きているの?」
私はビクンと痙攣する。
「起きているかどうか聞いているの」
先ほどとは対照的な冷たい声だ。
「起きています。おまんじゅう、ありがとうございます」
私はお礼を言いながら、床に広がるまんじゅうを拾う。
「ちゃんとお礼は言いましょうね」
「はい、ちょっとぼーっとしていました。ごめんなさい」
慎重に言葉を選んで発言する。純狐さんが仮に私を閉じ込めた犯人だとするなら、
なおのこと、彼女の機嫌を損ねるわけにはいかない。私を生かすも殺すも純狐さん次第なのだ。
その気になれば、まんじゅうの供給を止めるだけで、私を飢え死にさせられるだろう。
「そう、いい子ね」
私の不安をよそに純狐さんの機嫌はすぐに直った。不気味なほどうれしそうに純狐さんは続ける。
「悪いことをしたと気づいたら素直にあやまる。それが、大事なのよ」
「はい」
乾いた口で私は答える。そして、再び、必死に考える。どうしたらいい?
どうしたらここから抜け出せる?
純狐さんが敵だとすれば頼れるのは自分だけだ。彼女が私を閉じ込め結界を張ったのであれば
かなり、計画的だ。当然、監禁を第三者に邪魔されないように手は打っているだろう。
この倉庫も純狐さんの私物に違いない。そうなると無関係の者がここにやって来て助けてくれる
可能性は低い。
「悪事を開き直って、いつまでも認めない者ほど見苦しい存在はないからね」
つまり、私は自分1人でここから抜け出さなければならないというわけだ。
「そういうの。嫌いなの。ずっと昔からね。やっぱり、うどんちゃんは違うみたいで
うれしいな。そういう風になっちゃだめよ。社会に出で苦労するからね」
横の個室に私を監視する者がいる中でどうやって逃げ出せばいいというのだろう。
「そもそも、悪事を指摘してあげているのは、こっちなんだから相手は私に感謝すべきよね。
それすらせず、私を反逆者みたいに扱うのはおかしいわよ」
手は1つしかない。純狐さんを油断させるんだ。
「ねえ、そう思うでしょ? うどんちゃん」
「は、はい、その通りだと思います」
答えながら口角がふるえる。カチカチと鳴りだしそうなあごを手で押さえつける。
にんまりと純狐さんの唇がゆがみ口角が上がる様が浮かぶ。
「うどんちゃんは、話の分かる子ね。あいつらなんてなかなか同意してくれないのよ」
「そうなんですか?純狐さんの言うとおりだと思いますよ。
むしろ、間違った方が多すぎるんじゃないかって思うくらいです」
「そう? ウフフ……」
月の民の話をしているのだろうか? しかし、私との関連がわからない。
でも、この際、関係ない。とにかく、話を合わせ、純狐さんを持ち上げ、純狐さんを満足させる。
機嫌を損ねるわけにはいかない。その先に何か突破口を見つけて見せる。
「はい、ま、前から思っていたんですけど。純狐さんって物事をきちんと客観的に見ている
方だと思います」
「そうでしょ! そうでしょ! フフフッ」
「ほかの方は主観的に決めつけることが多すぎます。私は純狐さんと話していると
そのバランスのいい考え方にふれられて、すごく落ち着きます」
一度、話始めると意外と口が回った。すこしあざといだろうか?
「それならうれしいわ。私のこと頼りにしていいのよ」
(大丈夫みたいだ)
「はい、こんなにやさしく思いやってくれる方に出会えて私、幸せです」
「うんうん」
「暖かくて、親切で、まるでお母さんと話しているような気持ちになります」
言ってから、しまったと思う。純狐さんは過去に息子を失っている。そんな相手に、
お母さんみたいなんて言ったら……。
「うどんちゃん……」
私の心配とは裏腹に、純狐さんからは生々しい声が返ってきた。
テンションが高いとき、低いとき、どちらでもないニュートラルな純狐さんの声だ。
「そうそう、そういうことなのよ。気づいてくれてうれしいわ。こういうことは自分から
気づかないと意味がないからね」
「どういうことですか?」と言いたくなるのをこらえ、私は意図的な肯定の沈黙をする。
さっきの言葉が鍵となり、純狐さんの心のドアが開いた。純狐さんの口からダラダラと心の中身が
流れ出てくるようだ。
「よかった。本当に……。たぶん、もうすぐ思い出してくれるわよね。
私のこと、思い出してくれるわよね?」
「え? は、はい」
否定しないように気をつけながら、私は先を促す。
「これまで大変だったわ。すごく大変だった。いきなり全部を話しても信じてなんて
もらえないだろうし、それでも、いきなり個室から解放するわけにもいかないから、
私、頑張っていたのよ。慎重に話していたのよ。大変だったわ。ずっと辛かったんだから。
あの日からずっと辛かった。あの日あの子が死んじゃってから、ずっと。
どれだけ悲しかったかわかる? 大切な子供を失うことがどれだけ……。
だから、あなたに会えたとき、すごくうれしかった」
少し前からそうだったが、話が見えない。私を閉じ込めたのは純狐さんで、確定した。
だが、死んだ純狐さんの息子と私の監禁に何の関係があるのかがわからない。
わからないが、私の体中から汗が噴き出し、危険信号が頭の中で鳴り響き早く逃げるようにと
警告している。
しかし、私は逃げられない。この個室から出られない。
私にできるのは、恐怖にすくみながらも、純狐さんと会話することだけだ。
「どうして私と会えてうれしかったんですか?」
私が聞くと、純狐さんはしばらく黙った。
もう一度口を開こうとしたとき、小さな声がした。
「あなたがあの子の生まれ変わりだからよ」
がりがりと頭皮をひっかく音が聞こえてくる。
「私が……」
声がふるえている。
「私が仙霊として蘇ったのに、あの子が蘇ってないなんておかしいじゃない!」
それは、もはや嗚咽だった。
「私のかわいい、かわいいあの子が! まだ小さかったあの子があ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!」
緊張が一気にふるえへと変わり、下から上へと背骨を伝って駆け抜けた。
「ずっとずっと探していたのよ。分るわけがないじゃない。
記憶をなくして、月兎に生まれ変わっていたなんて」
「わ、私が純狐さんの子供の生まれ変わり?」
ドンッと隣の仕切りが振動する。息を飲む間もなくもう一度、ドンッと振動する。
純狐さんの両の手が私の個室に向かって打ち付けられているのだ。
「そうよ! まだ思い出さないの? せっかく、ここまで来たんじゃない! あと少しなのよ!
お願い、早く全部思い出して!」
そんな身に覚えのないことをどうやって思い出せというのだろうか。
私の気も知らず純狐さんは続ける。
「あなたが記憶を失っている間、私がどんな目にあってきたかわかる?
お母さんいじめられたのよ。私が大事に、大事にしていたあなたを殺したあの人を殺して、
嫦娥を殺そうとしただけなのに、な、何も知らない訳知り顔の月の奴らにさ。
ひ、ひどい。ひどすぎる」
何かが壁に衝突する激しい音が響き渡る。私は体をこわばらせる。
「聞いてる? お母さんを許してね。なかなかあなたを見つけてあげられなくて」
(見つけるも何も、どうして私が、あなたの息子の生まれ変わりになっているんですか?)
「でもね……」
隣の個室で壁を叩く音が止まる。
「私、うれしかった。この前の月の襲撃のとき、あなたの方から
私に会いに来てくれたんですもの」
違う。私が純狐さんのところに行ったのは異変解決のためだ。
そのことは純狐さんにちゃんと伝えた。なのに、どうしてこんなことになっているのだろうか?
「あなたが、私のところまで来た経緯を聞いてすぐにピンときたわ。
いくら、地上で暮らすようになったからと言って、自分勝手な月の兎が命を懸けてまで
異変解決のために私の元に来るわけがない。絶対に何かあると思ったわ。
その答えが、あなたの魂が無意識のうちに私を求めたからだったと気づいたとき、
本当にうれしかったわ。たとえ、生まれ変わって、記憶がなくなったとしても
母と子は惹かれあうものなのね」
(無茶苦茶だ)
でも、ここから抜け出す光明が見えた気がする。
純狐さんは私を息子の生まれ変わりだと勘違いしている。
そして、どうにかして、その記憶を取り戻そうとしているらしい。
なら、そこに付け入る隙があるのではないだろうか?
「あなただって、そう思うでしょ?」
(ここだ! ここしかない!)
私は純狐さんが今、一番求めているはずのセリフを言う。
「うん、ぼ、僕もそう思うよ」
隣の個室から息をのむ声が聞こえる。
「今、僕って……」
私の思いつきは功を奏した。
明らかに動揺する純狐さんの反応から、これで正しいと感じた。
悟られまいと、間髪入れずに私は続ける。
「うん、お母さんのおかげで記憶が戻ったみたいなんだ」
私は精一杯の感情をこめて言う。とにかく、今は純狐さんに合わせるんだ。できるだけ言葉を
合わせていくしかない。少しずつ闘志が私の中で湧き上がって来ていた。こんな不条理なこと
受け入れてやるもんか。ここから出てやる。絶対に。
壁の向こうで何かが崩れた。はっきりと泣き声が聞こえてくる。
「本当? 本当に戻って来てくれたの? よかった。本当に……!」
号泣であった。正直怖い。でも、話を合わせないとどうなるかわからない。
「お母さん、僕もうれしいよ」
「うん、うん、よかった。思い出してくれたのね。本当に、本当にあなたなのね?
ああ、ごめんね。ずっと待たせて。お母さんを許してね。許してね」
隣の個室で、大きな嗚咽が響くのを聞いているうちに
少しずつ自分が冷静になっていくのを感じる。
純狐さんの息子を演じることで初めて会話が成り立った。
うまく話せば純狐さんをこのままだませるかもしれない。
「さっきは、お母さん、つい取り乱しちゃった。やっとあなたと話せた。やっとあなたに会えたと
思ったら、気持ちが抑えられなかったの。怖がらないでね」
「うん、わかっているよ。お母さん」
「お母さん、ずっとあなたに会いたかったのよ。お母さんは判ってたの。
あなたの魂がその体に入っているって判ってたの。それは判ってたわ。でもね、
どうして、あなただけが、私を思い出してくれないのかがわからなかったの。
だけど、あなたが薬売りとして毎日仕事に打ち込んでいる姿を見て気づいたの。
私は蘇ってから復讐も含めてあなたのことだけを考えて過ごしていた。
当り前よね。私にはそれしかなかったんだから。
でも、あなたは違った。生まれ変わってからは月兎としての日々があって、地上に降りてからも
薬売りとしての仕事に追われていた。
お母さんのことを思い出す暇なんてなかったのよね。だから、思ったの。
あなたにも私と同じようにお母さんのことだけを考える状況が必要だって」
「だから、僕を監禁したの?」
「ええ、極限の状況で私しかほかに頼れる相手がいなかったら。
私のこと以外、考えられなくなるでしょ?
あなたは私を頼ってくれた。私を母親と言ってくれた。そして、遂に記憶を取り戻してくれた。
辛かったわよね。でもね、全部、全部あなたのためだったのよ」
「うん、僕、お母さんにそんなに思ってもらえて幸せだよ」
私は適当に会話を合わせながら必死で頭を回転させる。何とか純狐さんに、私の個室の扉を
開けさせられないだろうか?
私を閉じ込めているのが純狐さんなら簡単にできることだ。
うまく話をそういう方向へ持っていけたら……。これしか脱出する方法はない。
何とか、純狐さんに……。
「お母さん、ごめんね。苦労させたよね」
私は慎重に言葉を選び、口にする。
「うん、うん、本当に大変だったわ。でも、私はずっとあきらめなかった。
あなたが戻ってきてくれるって信じて頑張ったのよ。その、本当はね、
もう無理なんじゃないかって思ったこともあったわ。でも、あなたは帰って来てくれた。
よかった。ほんとうにうまくいってよかった」
「お母さん、僕もうれしいよ。ねえ、お母さん、“顔が見たいよ”」
意を決し私は言う。
「えっ!? 私の?」
少し、純狐さんの口調が変わった。まずい、警戒されているのかもしれない。
私は必死で言いつくろう。
「この個室の中じゃ、お母さんの顔が見えないよ。すごく寂しいんだ。お母さんに会いたいよ。
抱きしめて……ほしいよ」
(お願い! うまくいって! ……神様!)
「……今はやめておいた方がいいかもしれないわ」
ためらいがちだが、否定的な反応が返ってきてドキリとする。
「ど、どうして!? そんなの嫌だよ。早くお母さんに会いたいよ」
私は言う、必死で言う。
「……私だって会いたいわ。でもね、あなたの記憶が戻ったのは一時的なことかもしれないのよ。
だから、記憶が定着するまで、もう少しだけこのままでいた方がいいと思うの。
大丈夫、食べ物はお母さんが用意するから」
冗談じゃない。私は一刻も早くここから出なくちゃいけないんだ。
何とか風向きを変えられないだろうか。
「お母さん、僕を信じてよ。もう、大丈夫だから」
「でも……せっかくここまで来たのにあなたがまた、私のことを忘れてしまったらって思うと……」
「僕がお母さんを忘れることなんて2度とないよ。
だって、僕たち、深い愛で繋がっているんだから」
覚悟を決めると、こんなセリフも吐けるのか。自分でも驚きながら私は続ける。
「いつまでもこんな個室に一人きりなんて悲しいよ。お母さんだって僕とふれあいたいでしょ?
抱き合って笑いあいたいでしょ?」
「当り前じゃない。だけど……」
「お母さん、僕とお母さんなんだよ。絆で結ばれた二人だよ。死に別れたのに
こうして、もう一度会えるなんて、ほかの親子じゃありえない、奇跡なんだよ。
それくらい繋がりあっているんだよ。また忘れるなんてありえないよ」
すすり泣きのような声が聞こえてくる。私の心がキリキリと痛む。
「……そうね。そうだよね」
純狐さんは異常者だ。しかし、子供を思う気持ちに偽りはない。
ここに閉じ込められてから初めて私は、彼女を不憫に思い、彼女を歪めさせてしまった者達に
対して憤りを覚えた。
純狐さんの行動や表現は間違っているものの、それらは、子供を思う愛ゆえなのだろう。
そんな純狐さんの愛を逆手にとって私は、彼女をだまそうとしている。
それが私を苦しめる。
「うん、絶対大丈夫だよ。お母さんお願い……扉を開けて」
それでも私は言い続ける。冷たくて意図的でするどい嘘。
私の頭が紡ぎだす、今の純狐さんに一番効果的な嘘
「わかったわ」
純狐さんの声が決意をはらんでふるえる。
「お母さん、あなたのことを信じてみる。今までずっと、あなたには私に頼ってほしいと
思っていたけど、一度だけ頼ってみるわ」
やった! 純狐さんの心を動かした。
カチャリと鍵を開ける音、そして隣の扉が開く音。純狐さんの動作はとてもゆっくりだった。
ためらいがちに、それでも確実に私の扉を開こうとしてくれている。
……やるしかない!
「ありがとう、お母さん」
私は会話をつなぎながら、軽くアキレス腱を伸ばして準備運動をする。
絶対に、絶対にこのチャンスは逃せない。必ず逃げ出すんだ。
「待っててね」
純狐さんが隣の個室を出て、私の扉の前まで歩いてくる。その歩みはゆっくりで
軽い音だったが、どこか深夜にやって来た足音を思い起させた。
「今、開けるからね」
私は扉を見つめる。それが開くのを待つ。
「お母さん、ちょっと怖いわ。でも、うれしい。あなたに会いたかったの、抱きしめたかったの。
もう一度一緒に暮らしたかったの。ずっとずっとそう思っていたの」
金具が音を立てる。中からはどうにも開けようがなかったのに、結界の主導権を握っている
純狐さんにとっては簡単に開けられる。
細い糸のようなすき間が徐々に広がり、光が差し込んでくる。外界への出口。
どれほど望んでもたどり着けなかった数センチ先の自由が今や眼前に広がっていた。
そして、目の前には涙を流しながら天使のように笑う純狐さんがいた。
彼女は扉を掴んでいない方の手を私に差し出した。
「おかえりなさい」
私はその姿を一瞬見て、歯を食いしばって目を閉じる。
「……ごめんなさい」
その一言と同時に、私は狂気の瞳を開き純狐さんに幻覚を見せる。
片手を伸ばした状態で彼女の動きが一瞬、ピタリと止まる。
そのすきに、私は純狐さんのわきをすり抜ける。
「どうして……」
今にも消えてしまいそうな純狐さんの声がした。私は、それに構わず全身の筋肉を躍動させて
駆け出した。
肺が、心臓が、筋肉が、脱出のために惜しみなく全力をつぎ込んだ。
倉庫から駆け出し、自分の存在の波長を長くして限界まで存在を希薄にする。そのまま飛翔し、
全力で永遠亭を目指した。一度も振り返らなかった。
純狐さんが私を呼ぶ声が聞こえたような気がした……。
―――――◆◆◆◆―――――
しばらくは一人になることが怖かった。いつ、背後から襲われるかと思うと心配で
たまらなかった。
師匠も、姫様も、てゐも、そんな私を邪険にすることなく一緒にいてくれた。
あの後、師匠や姫様が、純狐さんを探すという話になったが、
彼女も、私が閉じ込められていた倉庫も見つからなかったらしい。
数か月後、私は、以前と同じく薬売りをしていた。生活のスタイルはすっかり元に戻り、
いつもの環境で、いつもの人達を相手に働く日々。
あっという間に、時間は過ぎていく。あの倉庫での数日間はまるで、夢の中の出来事のようだ。
それは、私が倉庫にいるときも世界には何も変化がなかったということを意味している。
帰り道、私は純狐さんのことを考える。
彼女は今、どこで何をしているのだろう? 再び月を襲撃する画策でも練っているのだろうか?
どす黒く救いようのない、深い深い愛情を身に宿したまま……。
ふと、純狐さんの声が鼓膜の中でかすかにリフレインし、あの倉庫での出来事を想起させる。
あんな目に合うのは二度とごめんだ。だけど……。
私は空を見上げる。雲一つない夜空には丸い月が浮かんでいた。
それを見ながら次の復讐は成功すればいいなと私は密かに思った。
(ここは、どこなの?)
慌てて上半身を起こす。その瞬間、後頭部に鈍い痛みが走った。
反射的に痛む個所に手を置く。粘性のある何かが指先についた。
私は、指先をまじまじと見つめる。そこには、まだ固まり切っていない血が付着していた。
それを見るなり、数時間前の記憶が蘇る。薬売りの仕事が終わり、永遠亭に帰る途中、
後頭部に強い衝撃があったかと思った瞬間、意識が途切れた。
拉致監禁という言葉が頭に浮かぶ。なぜ? どうして私が?
部屋を見回し、扉を見つけ、急いで駆け寄る。私は扉をたたいてみる。何とか破れないだろうか?
立ち上がり体重をかけて扉に体当たりをしてみる。最初はおずおずと、次は本気で。
しかし、大きな音とともに壁が振動するばかりで扉が開く気配はない。かなり頑丈なようだ。
……だったら。
私は渾身の弾幕を放つ。私を閉じ込めたやつが用意した部屋だ。派手に壊してしまっても
構わないだろう。
「どうして……」
扉には傷一つつかなかった。再び扉に弾幕を放つがだめだった。
念のため、天井、壁、床にも弾幕を放ったがだめだった。
間違いない。ここには結界が張られている。
それなら月兎同士で使用できるテレパシーを使おう。たしか、幻想郷には月の都から越してきた
私と同じ月兎達がいる。
とにかく、それで助けを呼ぼう。
しかし、応答はなく、代わりに、ノイズだけがした。結界の力が邪魔をしているのかもしれない。それに気づいたとき、足の力が抜け、私は床に座り込んでしまった。
「すみませーん」
私は声を張り上げる。こうなったら、外にいる誰かに助けてもらうしかない。
私を閉じ込めたやつが私の声を聞き激昂して襲ってくるかもしれない。
それならそれで、入って来たところを返り討ちにして外に出ればいい。
とにかく今は、外に誰かがいると信じて助けを呼ぶしかない。
「すみませーん。誰かいませんか? 困っているんです」
何度目かになる叫び声を上げ返答がないかと耳を澄ますが誰の気配も感じられない。
「すみませーん」
だんだん声がかすれてきた。こんなに大きな声を出すのは久しぶりだ。
100メートル先にいたって、聞こえるようにと、めいっぱい肺の空気を吐き出して叫ぶ。
誰か1人でも私の声を耳に留めてくれれば……。そんな思いも虚しく、私の声は部屋の中を
響きまわるだけで誰にも届いた様子はなかった。
だんだんとのどが痛くなってくる。疲れ果てて私は座り込んだ。
私は外に出られるのだろうか? 1人で扉を開けることは難しそうだ。
しかし、テレパシーは使えないし、声を張り上げても誰にも聞こえない。
下手をしたら当分ここから出られないのではないだろうか。
頭の中でパニックが起きそうになるのを必死で抑え、私は状況確認する。
3メートル四方の部屋、天井はまでの高さは5メートルはあるだろうか? 普通の家よりも
ずっと高く天井すれすれのところにはめ殺しの窓がついていて、
そこから夕陽が差し込んでいる。
部屋には家具や絨毯は無く、部屋の奥には最近、人里で見かける洋式トイレがあった。
壁はレンガ造りになっているが、部屋の一片の壁だけは木で、できており、たたいてみると
乾いた音が返ってきた。もしかしたら、これは仕切りで隣にも部屋があるのかもしれない。
こうして見るとここは部屋というより、倉庫の中の個室であり、今は私を閉じ込めるための
牢屋と化している。
そう考えると急に恐ろしくなり、私は改めて個室を見回す。
世界が急にこの3メートル四方程の空間に縮まってしまったような気がする。
私は心身ともに健康で、どこまででも飛んでいける能力を持っているのに突如としてどこにも行けなくなってしまった。腹立たしいことにすぐそこには普通の世界があるのに……。
私は、社会から切り離されてこの空間に押し込められてしまった。
個室に結界が張られているという理由で……。
涙がにじんできた。外に出る方法はついに見つからないまま日が落ちた。この個室には
明りになるようなものはなく、はめ殺しの窓から月の光が差し込みぼんやり私の手を照らした。
少しのどが渇いた。そういえばこの個室には水も食料もない。
まあ、水はトイレのものを飲めばいいか。でも、おなかが減ってつらい。
頻繁に鳴く自分のおなかを私は虚しくなでた。私を閉じ込めたやつは
私を餓死させたいのだろうか?
永遠亭のみんなは心配しているだろうか? 私がいなくなったことがわかればさすがに
誰かが探しているだろう。
早くこの苦しみから解放されたい。うちに帰って着替えて、おなかいっぱいごはんを食べよう。そして、師匠に頼んで私をこんな目に合わせたやつを捕まえてもらうんだ。
それまでは、なんとしても耐えなければ。
幸い個室の中は寒すぎも暑すぎもしないが、仕事終わりだったこともあって
汗で体がベタベタする。お風呂に入りたいな。
私は壁に背を押し当てた状態で座り、床を呆然と見る。目を閉じるとまた、涙がにじんできた。
まだ見ぬ敵への不安と怒り、永遠亭のみんなに会えない寂しさ、現状を打破できない自分への
やるせない気持ちが熱い液となって目の端から出てくる。
ふと靴音がした。土を踏み鳴らしながらこちらに向かってくる。
一瞬、驚いてすくみ、あせって立ち上がろうとして少しよろける。
誰かが来たんだ。今は誰であれ呼び止めなくてはと思うより早く音の主は
私の個室の前で止まったようだ。
「あの……」
声を出そうとしてせき込む。しばらく黙っていたせいかのどがざらついていた。あわててつばを飲み込んでから私はもう一度声を出す。
「あの……すみません」
向こうにいる相手が敵か味方かどうかはわからないが、私は警戒されないように言う。
「すみません。私、気づいたらここに閉じ込められていて、出られないんです。」
返事はなく、かすかな息遣いだけが聞こえる。数秒が経過したが相手はそれ以上の動きを見せなかった。
「あの、扉を開けてもらえないでしょうか? 困っているんです。もし、難しかったら助けを
呼んでもらえないでしょうか?」
私は困惑しながらも言う。何をしているんだろう? 早く助けてほしいのに。どうして
何も答えないのだろう? いたずらか何かかと勘違いされているのだろうか?
「あのですね。私は永遠亭の者でして……鈴仙・優曇華院・イナバと言います。
これは、いたずらとかそういうものじゃありません。本当に困っているんです」
相手の息遣いが少しだけ早くなったように思えた。しかし、相変わらず返答はない。
そのまま10秒程が過ぎた。私の期待を裏切り足音が個室から離れていく。
「ちょっと! ちょっと!」
足音は迷いなく急速に遠ざかっていく。
「待ってください! どうして? 閉じ込められているんです。助けてください」
足音が聞こえなくなった。
「お願いです! お願い! 困っているんです。助けを呼んできてくれるだけでいいんです」
わけがわからない。どうして? どうして? どうして助けてくれないの?
私を閉じ込めたやつが様子を見に来ただけなのだろうか? いや、耳が不自由な方とか、
しゃべれない方だったのかもしれない。どのみち現状を打破するチャンスだったのに。
「助けて! 助けてー!」
私は必死になって扉を打ち鳴らす。応答はない。誰かがいた気配だけが
扉の向こうに漂っている気がする。
きっと他の方を呼びに行ったんじゃないだろうか? 1人では判断できなかったから
誰かを呼びに行った。きっとそうだ。悪い妖怪がうそをついて潜んでいるとかだったら
大変だもんね。さっきの相手が人里の住人だったらそれくらいの用心深さがないといけないのかも。
そうだ、きっとそうだ。そうであってください。
私は冷たい扉にすがりついてすすり泣きながらただ祈り続けた。
しかし、足音が戻ってくることはなかった。
夜は永遠に続くのではと想うほど長かった。外のかすかな環境音はしだいに消えていった。
私はひとりぼっち。狭い個室の中で震えている。音はしない。
助けが来るのを待ちながら、いつ来るかわからない敵に備え、壁に背をつけて床に座る。
かすかな耳鳴りが側頭部を駆け抜けるが、その音を意識の中でつかもうとすると消えてしまう。
闇、目を閉じていても開いていても闇の濃さは変わらない。
睡眠と覚醒の境界線が曖昧だ。私は浅い眠りを繰り返しながらただ、時間が過ぎるのを待ち続けた。
さっきのは何だったんだろう? 考えてみれば私を閉じ込めたやつなら
そろそろコンタクトをとってきてもおかしくはないのに……。ただの通りすがりだったとしても
どうして助けてくれなかったのだろう? 理解できない。私がなにかいけなかったのだろうか?
服はしわくちゃで汗臭い。おなかは減り、のどが乾く。トイレの水を飲もうとしてみたり、
もう少し我慢できると自分に言い聞かせてみたり。
今の私はひどく惨めだ。ぼんやりと感じられる床の木目と悪夢を交互に見ながら
私はそんなことを考え続けた。
徐々に気温が下がりちょっと肌寒いかも? と感じた頃、どこかから小鳥の声が聞こえた。
目を開くと個室の中は朝日で照らされていた。……朝だ! 声を上げそうになるほどうれしい。
夜は弱気になっていた心が一瞬で立ち直る。そうだ、大丈夫。外に出るために最善を尽くそう。
私は、もう一度、個室の中を確認した。すると、個室の奥の床と仕切りの間に
小さなすき間を発見した。
頭を床につけて恐る恐る覗き込む。洋式トイレの一部が見える。隣の個室も間取りは
この個室と同じなのだろうか?
「すみませーん。誰かいますか?」
返事はない。やはり、隣の個室には誰もいないようだ。個室の中の全体を観察しようとしたが、
どうやっても個室の奥の足元しか見えなかった。すき間を広げようとしても結界のせいなのか
これ以上すき間は広がらなかった。
隣の個室には結界がないのではないかと思い、なんとか腕をすき間に突っ込んで弾幕を放つが
だめだった。すき間を覗き込んでも向こうの景色は先程となんら変わっていなかった。
この倉庫全体が結界で覆われているのかもしれない。
窓から差し込む光の粒子の角度がどんどん高くなり時刻は正午に近づいていく。
信じられない。私はそんな気持ちでいっぱいだった。この時間までこの倉庫にはただの1人も
訪れることはなかったのだ。
こんなことがありえるのだろうか? これが拉致監禁ならどうして相手はコンタクトをとって
こないのだろうか? もしかしたら私を人質にして永遠亭のみんなを脅迫しているのだろうか?
いや、そんなことをしても誰も得をしない。なら、私に強い恨みを持っている者が
私を殺そうとしている? それなら、監禁などせず、とっくに殺っているだろう。
私はぼんやりと立ち上がり、便座の後ろについているタンクを見る。フタを取り外すと、
中に水が溜まっているのが見えた。
のどが鳴る。水がほしい。便器に流れ込む前の水は浄水だ。飲んでしまっても問題ない。
心理的な抵抗感はあったが、そんなことは言っていられない。私は、トイレのレバーを倒した。
大きな音がして、便器に水が流れ排水されていく。タンク内の水量が減り、細いパイプから
給水が始まった。
水飲み場のように水が流れるその先に両手をお椀の形にして差し込む。
透明な水が手の中に溜まっていく。ゆっくりと水面が上がる様がじれったい。
半分ほど溜まったところで我慢できずに口に運ぶ。
ゴクゴクとのどを鳴らして飲み込んだ。なめらかでさわやかな液体が、口から食道を通って
体中に染み込んでいくのがはっきりと感じられる。おいしい……。
息を吐きもう一度手の中に水を貯める。全然おいしいじゃないか。もっと早く飲めば良かった。
水の心配は不要だ。心なしか、空腹も紛らわせられたように思えた。
昼になれば誰か来ると思ったが来なかった。私を閉じ込めたやつが様子を見に来るかと
思ったが来なかった。永遠亭のみんなが助けに来てくれると思ったが来なかった。
あと少ししたら来るかも。あと少ししたら来るかも。細かに時間を区切って期待と落胆を
繰り返し、ただ、待ち続けて時間が過ぎる。
ほぼ1日、この個室にいたことになる。私が突如、消息をたったことを
みんなはどう思っているだろうか? もしかしたら、1日連絡がつかない程度じゃ
仕事をサボって遊んでいるくらいにしか思われないのではないだろうか?
私は浅い眠りについていた。近づけば焦点がぶれ、
遠ざかればこれ見よがしに像を結ぶようなあいまいな夢を見ていた。
夢の中で、私は自由だった。少なくてもこんな場所にはいなかったし、
閉じ込められてもいなかった。
そんな夢からいつの間にか目覚めていた。覚醒した瞬間ははっきりとはわからない。
ただ、なんの特別な感覚もなく、私は夢と現実の境界線を越えた。
いつか夢の世界で出会ったドレミー・スイートという獏なら夢の中から
私を助けに来てくれるのだろうか? そんな無意味なことを考える。
すでにあたりは薄闇が支配し始めている。依然として結界の張られた個室が私を取り囲んでいる。
私は、頭をかきむしる。この個室で迎える2回目の夜がもうすぐやって来る。
どんどん時間が過ぎていく。
トイレの水を飲んで、時々、立ち上がってみたり、短い眠りに落ちたりしているうちに
あっという間に時間が過ぎる。
こんな日があとどれくらい続くのだろうか? 自分の胸に手を当ててみる。
心臓ははっきりと脈動している。おなかは減りすぎて逆に空腹を感じなくなってしまったが、
まだしばらくは大丈夫。
今日も結局、日が沈むまで誰も訪れなかった。ふと、昨日やって来た者のことを考える。あの方は今日も来るだろうか? 何を言っても反応してもらえなかったのは
耳が不自由だからかもしれない。そうではなくて、私を閉じ込めた相手が
様子を見に来ているだけだったら、せめて目的だけでも聞いてみよう。交渉できるかもしれない。
もしかしたら、別の誰かが来てくれる可能性だってある。大丈夫。
まだ、望みを捨てるときじゃない。
そう自分に言い聞かせて私は眠りについた。
夜、足音が近づいて来た。そして、そのまま私の個室の扉の前まで迷うことなくやって来た。
昨日の方? それとも別の誰か? とにかく話しかけなければ。
「すみません! 誰かそこにいるんですか? 私、ここに閉じ込められてしまって
出られないんです。助けてください!」
私は扉をドンドンとたたいて声を上げる。いくら耳が悪い相手だったとしても
扉が振動していれば嫌でも私の存在に気づくだろう。
仮に、耳が悪くてしゃべれない相手だったとしても今のでただ事ではないと気づくはずだ。
しかし、応答は無く微塵の動揺も感じられなかった。やはり扉の前にいるのは
私を閉じ込めた相手なのだろうか?
それなら、交渉してみるしかない。
「あの……あなたが私を閉じ込めたんですか? 一体、何が目的な……」
私の話を最後まで聞かず、足音はどんどん遠ざかっていく。
「ど、どうして? ちょっと!」
私は叫ぶ。
「待ってください! お願い! 待って!」
足音は聞こえなくなった。
私は膝をついて脱力していた。硬い床の感触がじんじんとした痛みを私の膝に与える。
今起こったことは何? 混乱しながらも受け入れるしかなかった。
夜中にやって来る者は耳が悪い者でもしゃべれない者でもない。そういった事情で
私に気がついていないわけではない。私がこの倉庫に閉じ込められていることを知った上で
なお、助けようとしないのだ。あいつは閉じ込めておきたいのだ。私を。
体が震えた。相手は何者なんだろう?
また、朝日が登る。一晩中私は生きた心地がしなかった。
心の中で何度も昨日起きたことを反芻した。やはり、私は人質なのかもしれない。永遠亭を
脅迫するための。でも、私を人質にして一体、何を脅迫するのだろう?
きっとまともな内容ではないはずだ。
ふと、さらに恐ろしいことを想像する。女性を捕まえてどこかの組織に売り渡す。
弱ったところでレイプして殺害する。
この個室が今度は拷問室のように思え、私は不安に押しつぶされそうになる。
それにしても、夜中にやってくるあいつは一体、何をしているのだろう?
ただ、扉の前に来るだけ。
脱走しないように監視しているのか? 私に協力的ではないが、
特に危害を与えてくるわけでもない。相手が何を考えているかわからないというのは不気味だ。
なんとかして交渉できればいいのだが。もしかしたら、あいつが何もしないのは、機が熟すのを
待っているからかもしれない。
そう、私が弱って抵抗できなくなるのを待っているのかもしれないし、
私を殺すのは休日にすると決めているのかもしれない。
私は頭を抱えてうつむいた。奥歯がカチカチと鳴る。
その日の昼頃だった。突然、猛烈な勢いで土を踏み鳴らす音が聞こえてきた。
その音は一気に倉庫の近くまでやって来た。誰か来た。夜に徘徊していたやつが
とうとう私を殺しに来たのかもしれない。相手に見つからないようにするために、
私は存在の波長を操る。さらに、扉を開いたときに死角になる位置に移動する。
相手が入ってきたら背中に弾幕を放つ。
倒せなかったとしても、相手がひるんだ隙を突いて外に逃げるんだ。
音は速度を緩めることなく進み、荒い息遣いがすぐそばにせまり、扉を開ける音が響いた。
私は、面食らった。相手は私の個室ではなく、隣の個室に入ったのだ。
ドサッという何かを落とす音がした。私は波長を戻し、呼びかける。
「ちょっと、あなた!」
やはり返事はなく、今度は扉を勢いよく閉める音がした。
扉を締める音がしたということは、相手は隣の個室にいる? それとも
何かを置いて出ていったのだろうか?
私は仕切りに耳をつける。何も聞こえない。
ということは、外に出ていったのだろう。
あいつは何を置いて行った? 私は昨日見つけたすき間から
隣の個室を観察する。だめだ、このすき間からではあいつが置いていったものが見えない。
お昼すぎくらいになった。あいつは戻ってこない。結局、さっきのは何だったのだろうか?
わからないことが多すぎる。おなかが鳴った。あいかわらず空腹は感じないが、
そろそろ水だけでは限界かもしれない。
再びグゥという音が聞こえた。私はおなかの上に手を置く。
……いや、違う! 今のは私のおなかの音じゃない。
うめき声だ。隣の個室からうめき声が聞こえる。誰かいるんだ。
私は仕切りに耳を澄ませる。
衣擦れの音が聞こえ、壁の向こうで誰かが立ち上がる気配がしたかと思うと息を呑む声が聞こえた。
そして、個室の中を恐る恐るといった様子で歩いたり、
ガチャガチャと扉を鳴らしたりしている。どうやら、向こうの扉も開かないようだ。
時々、独り言が聞こえ、相手が女性だとわかった。はっきりと声が聞こえるわけではないものの、
今の状況に混乱していることが伺える。
さっき、あいつが置いていったのは、彼女なのではないだろうか?
私と同じように拉致されてきたのかもしれない。
今なら話しかけても大丈夫だろう。
「すみません」
私は壁をノックしながら言う。
「えっ! 何?」
しばしの間をおいて返事があった。まともに誰かの声を聴くのは久しぶりだ。
たった一言だけでも私の声に反応してもらえるだけでうれしくなる。
「突然すみません。あの……私この倉庫に閉じ込められてしまって、出られないんです」
「えっ! それじゃあ、あなたも出られないの?」
相手が動揺しているのが伝わってくる。
「そうなんです。ずっと閉じ込められているんです」
「そんな……」
ふと、相手の声に聞き覚えがあるような気がした。この声は……。
「あの、間違っていたらすいません。もしかして、純狐さんですか?」
「えっ! まさかとは思っていたけどその声……」
「私です。鈴仙・優曇華院・イナバです」
「鈴仙ちゃん!?」
信じられなかった。まさか、純狐さんまで閉じ込められたなんて。
状況を聞く限り、隣の個室も私の個室と全く同じようだ。純狐さんの力ならと思い、
扉や壁に弾幕を打ち込んでもらったが私のときと同じく、結界のせいで傷一つつかなかったらしい。
何と言ったらいいかわからず、落胆する私に純狐さんが元気な声で話しかけてきた。
「あの、えーと、鈴仙ちゃんはいつから閉じ込められているの?」
「閉じ込められたのは2日前からだと思います。仕事帰りに背後から襲われて
気づいたらここにいました」
「えぇ! そんなに長い間?」
純狐さんは素っ頓狂な声を出した。
「はい、こんなに長い間、閉じ込められるとは思ってもみませんでした」
「そう……大変だったわね」
「純狐さんはどうしてここに?」
「私は八意さんに用件があって永遠亭に向かっていたときに鈴仙ちゃんと同じで、後ろから……」
「そうだったんですか」
私は純狐さんに気付かれないようにため息をつく。純狐さんは1人で月の都を相手に
異変を起こせるほどの方だ。そんな方を捕まえられるなんて……。
相手は私が思っている以上に強大なのかもしれない。
「だけど、鈴仙ちゃん。こんなところに閉じ込められるなんてひどいわね」
「……ええ」
仕切りを挟んで私達はぼそぼそと話す。
「今までどうやって過ごしていたの?」
「え、いや、水はありますし。まあ、なんとか」
「食べ物は?」
「それは……我慢するしかありません。正直、おなかはかなり減りました
お弁当の残りはありましたが、荷物は全部取られてしまって……」
「そうよね。私も荷物は取られちゃったし……。あっ! ちょっと待って」
衣擦れの音がする。衣服の中を探っているようだ。
「あったわ。」
「何がですか?」
「お菓子よ。私いつも持ち歩いているの。袖の中にあったものは取られなかったみたい」
「本当ですか?」
「ええ、どうにかして鈴仙ちゃんに渡せないかしら」
「木の仕切りに沿って個室の奥まで進んでください。
下の方に私の個室とつながるすき間があります」
「ちょっと待ってね。あっ、本当だ。ここね」
純狐さんの手がこちらの個室に入ってきた。手には個包装されたまんじゅうがあった。
「今は、こんなものしかないけど、もし良かったら」
うれしい。そんな言葉で表現するのがあまりにも陳腐なくらい心の中に温かい感情が沸き起こる。
私はすぐさま、その包みを手に取り中身を取り出した。
「ありがとうございます」
お礼もそこそこに、まんじゅうにかぶりつく。
しっとりとした食感、さらりとした心地の良いこしあんの甘さが口に広がる。
「もう1個食べる?」
私が猛然と食べているのが分かったのだろう。純狐さんは2個目をそっと差し入れてくれた。
それを受け取りまじまじと見る。1個目は一気に飲み込んでしまった。
これは、時間をかけて大切に食べよう。食事がこんなに幸せなことだと久しぶりに思い出した。
空腹は最高のスパイスだというが間違いない。私は1人で納得する。
「まだ、少しあるからほしかったら言ってちょうだい。非常事態だもの。助け合っていきましょう」
純狐さんの優しい声が聞こえてくる。
「ありがとうございます。とりあえず、大丈夫です。助かりました」
心から感謝して答えつつ、同時に小さな不安が心を駆け抜ける。
この先、何日も出られなかったらどうなるのか? お菓子もやがて底をついて
私と純狐さんとで取り合いになってしまうかもしれない。そうなったら、もう、純狐さんは
私にお菓子を渡しはしないだろう。その時に備えて余分にもらっておくべきなんじゃないのか?
純狐さんの心情を量りつつ、私は思考を巡らせる。純狐さんはまだ、
あまり危機感を抱いていない。何日も出られなくなるとは想像もしていない。
一方、私は、その可能性を肌で感じている。悪い言い方だが相手の油断に付け入るなら今しかない。
「すみません。やっぱり、もう1個もらえませんか? 本当におなかが減っちゃっていて……」
「ええ、どうぞ」
純狐さんは穏やかに応じてくれた。
「ありがとうございます」
私はなんて嫌な考え方をするのだろう。自己嫌悪に浸りながらも私の手は滑らかに動き、
受け取ったまんじゅうをポケットに入れた。
包みを開いたように思わせるために、包み紙をクシャクシャといじって音をたてることまでした。
「遠慮しなくてもいいからね。仙霊の私にとって食事は娯楽であって、
絶対に必要ってわけじゃないから」
「えっ! ああ、なるほど。そうですよね」
考えてみれば霊が食事を必要としないのは当然だ。白玉楼の亡霊の幽々子さんが
いつも何か食べているので失念していた。わたしが先ほど心配したことは杞憂だったのだ。
安堵とともに純狐さんを出し抜こうとしていたことを思い出し、憂鬱になる。
それと同時に、1つの疑問が浮かび私は純狐さんに尋ねる。
「あの、仙霊だったら壁をすり抜けて外に出られるんじゃないですか?」
「ごめんなさい。よく勘違いされるんだけど、私は亡霊と同じで、実態があるから、
そういう幽霊みたいなことはできないの」
「……そうなんですか」
亡霊も仙霊も、幽霊も同じだと思っていた。私は少し気まずくなり、黙り込む。
倉庫の中を沈黙がしばらく支配する。
「鈴仙ちゃん」
ふと、隣の個室から声をかけられる。
「は、はい」
虚をつかれて私は狼狽する。
「優曇華ちゃんって呼んでもいい?」
「えっ?」
「ほら、八意さんがあなたのことを優曇華って呼ぶじゃない? 私もそう呼びたいなって」
「いいですけど……」
正直、師匠以外に優曇華と呼ばれるのは好きじゃないが、純狐さんに対して後ろめたさがあり
私は了承する。
「あっ、優曇華ちゃんより、うどんちゃんの方がかわいいかも」
「……好きにしてください」
「あと、敬語を抜きにして話しましょう。遠慮することなんてないんだから」
「別に構いませんが……」
「よかった。じゃあ、改めてよろしくね。うどんちゃん」
「は、はい」
純狐さんの勢いに押し切られて私はうなずく。以前会ったときは感じなかったけど、
意外と積極的なタイプなのかもしれない。
「うどんちゃん、誰も来ないね」
「そ、そうですね」
「敬語じゃなくていいのよ。それにしてもおかしいと思わない? もう、夕方なのに私たちを
閉じ込めたやつが何もしてこないわ。 何かしにきてもおかしくないのに」
「まあ、今までもそうでし……だったよ」
ため口が嫌なわけではないが、こう、いきなり馴れ馴れしく話すことに抵抗があって、
私は舌を噛む。
「今までも? じゃあ、うどんちゃんは犯人と話をしたりはしていないのね」
「はい、おそらく様子を見に来ているだけで私と話そうとしないんです」
純狐さんは私の敬語に気付いたようだったが、指摘するのは悪いと思ったのか
それについては、何も言わない。
「ねえ、そいつまた来るかしら?」
「わかりません」
それを想像すると嫌な気分になった。私を監視している謎の相手。あの不気味な体験を
もう一度味わせられるのかと思うと気が滅入る。
「また来たら私がガツンと言ってあげるからね。ひょっとしたら、うどんちゃんの
言い方が悪かったのかもしれないし。私、けっこうそういうやりとり得意なのよ。
まあ、任せておきなさい」
「お願いします……」
(たぶん、だめなんだろうな)
私はこっそりため息をついた。
結局、日が沈んでもあいつがまた来ることはなかったし、助けも来なかった。
純狐さんと話していたのでのどが渇いた。もう、トイレの水を飲むことに対して抵抗は
なくなっていると思っていたが、近くにいる純狐さんを意識すると、自分の行為が
恥ずかしくなった。純狐さんなら察してくれていると思うが、なるべく気づかれないように、
私は水を飲んだ。
純狐さんは時々、まんじゅうを私に手渡してくれる。たまに雑談を交えたりしながら
私と純狐さんは退屈な時間を過ごした。
なんとなく、この状況に慣れてきている自分がいる。適応力とはすごいものだ。また、単純に
純狐さんがやって来てくれたことが私を元気づけた。やはり、独りぼっちよりも誰か一緒に
いてくれる方が心強い。
「もう、夜なのに誰も来ないね」
「そうですね。いつもはこのくらいの頃には現れるんですけど、昼に純狐さんを運んできたので
今日はもう来ないのかもしれません」
「うーん、交渉すると言っても来てくれなきゃどうしようもないわね」
ガツンと言ってやると息巻いていた純狐さんは残念そうに言う。
「そうですね」
「まあ、いいでしょう。明日、来るかもしれないし」
純狐さんの声には張りがある。この状況は全然ピンチなんかじゃないとでも言いたげな
テンションだ。
(あいつに会ったことがないからそんな風にお気楽でいられるんですよ)
そう思ったが、私は口には出さずに飲み込んだ。
「うどんちゃん、こう、暗い中で閉じ込められているとなんだか妙な気分になるわよね。
これはこれで貴重な体験というか」
私の気も知らず、純狐さんはだらだらと話し続けている。
「子供の頃、こういう暗くて狭い場所で遊んだでしょ? あれ、楽しいわよね。
妙に落ち着くというか、何なのかしらね? 幸せな気持ちになるじゃない」
「ええ」
私は瞼をこすりながらあいまいな返事をする。
「あれって生き物に備わっている本能なんだって。天敵がうようよいるような場所では
きちんと寝床を作らないと危険。寝ている間に襲われたらひとたまりもないからね。
だから、敵に見つからないせまくて小さな隠れ家に入ってようやく安心するんだって。
そう、例えばこんな場所とかがぴったりなのよ」
「そうなんですか……」
「ええ、私って物知りでしょ?」
「えっ、まあ、はい」
初めて知る話だったが、そんなに興味は沸かない。私は気のない返事をする。
あくびがでてきた。少し眠い。話しかけるのは遠慮してほしいなと自分勝手なことを考える。
「そうだ、ほかにも……」
「ごめんなさい。しばらく静かにしてもらえませんか」
「うどんちゃん?」
「すいません。ちょっと疲れてしまって……」
「ごめんね。少しは気が紛れるかと思ったんだけど……」
ああ、純狐さんは気を使ってくれていたのか。
「うどんちゃん、元気なかったから心配で……」
「あっ、いえ……ありがとうございます。体調とかは大丈夫なんです。
ただ、怖いんです」
「怖い?」
「はい、怖いです。理由もわからず連れ去られるし、いまだに相手の意図が見えないのが……。
純狐さんだってそう思っているんじゃないですか?」
「うーん、どうかしら? 言われてみればそうかもしれないわ」
何なのだろう? 純狐さんは、どこかお気楽だ。仙霊だから生命の危機がある私と違って
心に余裕があるのだろうか?
純狐さんはその後も何度か緊張感のない話を続け、私は適当なあいづちを返し続けた。
時折、差し出されるまんじゅうを受け取りながら純狐さんと私の歯車がずれていくのを感じていた。
やはり、自分でどうにかするしかないのかも。そんな風に考え始めたときだった。
突然、純狐さんが私に提案した。
「うどんちゃん、うどんちゃん、私、いいこと思いついちゃった」
「何でしょうか?」
「脱出のアイデアよ。月兎同士が頭のつけ耳を使ってやっているテレパシーを……」
「それならもう試しました。でも、結界のせいでノイズが入ってテレパシーが妨害されるんです」
「うん、そんなことじゃないかと思ったわ。だから、ここからは私のアイデア。
要は、そのノイズをなくしてほかの兎にテレパシーが届けばいいんでしょ?
じゃあ、うどんちゃんがテレパシーを送っているときに私が純化の力を送れば……」
「純化された私のテレパシーが、結界の妨害を受けずに外に届くということですか」
純狐さんの言わんとすることがわかり私は声を出す。
「そう、イメージついた?」
「試してみる価値ありますね!」
私はすき間まで移動し、横になる。そして、片方の耳をそこに通す。
「純狐さん、見えますか?」
「ええ、これでしょ?」
純狐さんが私の耳を軽く引っ張る。
「はい、こちらは準備できました」
「うん、じゃあ、力を送るわね」
これが成功すればこの状況を解決できる。期待で胸を膨らませながら私はテレパシーを試みる。
「どう? 使えそう?」
……すごい。前と比べるとノイズが減っている。
「いい感じです。もう少しクリアになれば問題なく使えると思います」
「わかったわ。出力を上げてみるわね」
さらにノイズが少なくなる。これなら大丈夫そう。
「あっ!」
純狐さんの声と同時にブツンという音が聞こえテレパシーが切れた。
そして、何かが焦げたような匂いがした。私が純狐さんのつかんでいた方の耳を見ると、
そこからは、プスプスと音を立てて煙が出ていた。
「うどんちゃん、大丈夫? 耳から煙が出てるんだけど」
「大丈夫です。私は……」
「テレパシーは?」
「失敗しました。たぶん、オーバーフローしたんだと思います」
「ごめんなさい。出力を上げすぎたわ。悪いんだけどもう片方の耳を……」
「いえ、2つないとテレパシーは使えないんです」
「スペアのつけ耳は?」
「ありません」
「うーん、そうか。ごめんなさい。糠喜びさせちゃったわね」
純狐さんは申し訳なさそうに言う。私は意識して明るい声を出した。
「いえいえ、そんなことありません。いいアイデアだったと思います。おしかったですよ」
「うん、うどんちゃん、落ち込まないでね」
「えっ? あっ、はい」
「また、別の方法を考えるからね。頭を使えばいろいろできるはずよ。
まあ、私を頼りにしてね。私、こういうの考えるの得意だから。元気出していきましょう」
純狐さんの声は力強かった。がっかりしたのは純狐さんも同じだと思うのだが、それでも
すぐに立て直して私を元気づけてくれている。
「はい、ありがとうございます」
うれしくなってしまう。すごく頼もしい方だ。面倒見の良い姉御肌タイプなのかもしれない。
私は、さっきまでの純狐さんを少しうっとうしいと思っていた自分を恥じた。
「純狐さんって、頼りになりますね」
「またまた~、よしてよ」
笑い交じりの声が聞こえてくる。
「ごめんなさい。昨日はなんだか邪険にしちゃって」
「いいの、いいの、わかってくれればいいのよ」
朗らかな純狐さんの笑い声に私も思わず口角が上がるのを感じる。
「私についてくれば、私の言うことを聞けば間違いはないってわかってくれればいいのよ。
わかったでしょ? 私、頼もしいでしょ? 物知りだし、発想力豊でしょ?」
眉間にしわが寄る。純狐さんの口調は変わらない。しかし、なんだか押しつけがましい。
こういう方なのだろうか? ちょっと自分の功績を大きく言いたがる。
そんなタイプなのかもしれない。
「うどんちゃんは、私のことを信じていればいいんだからね。私がいれば大丈夫だから。
私を頼って。どんどん頼って。大丈夫だから。それで大丈夫だから。ね! ね!」
「あ、ありがとうございます」
私は若干とまどいながらもそう答えた。ただ心配してくれているだけなのかもしれないが
純狐さんのことが相変わらずつかめない。
「うんうん、それでいい、それでいいのよ。安心していいのよ」
純狐さんはやや思い込みが激しいところがあるようだ。というよりは、どこか特定の方向に話を
持っていく癖があるというか、不器用というか、それでもそう言ってくれたことはうれしかった。
私と純狐さんの会話は唐突に始まり、中途半端に続いたかと思えば、ふと、途切れる。
その繰り返しだった。どうにも会話のタイミングが難しかった。話し続けるのも変だし、
沈黙が続くのも気持ち悪い。
その日、何度目かの沈黙の最中だった。
「うどんちゃん、元気? ちょっと心配になっちゃって」
突然、純狐さんが話しかけてくる。
「はい、純狐さんは?」
「元気よ。暇だけどね」
「そうですか」
「ねえ、私達、すごく気が合うと思わない? まるで家族みたいっていうか……」
(また、急な振りだなあ)
しかし、話は合わせた方がよさそうだ。
「そうですね。無事にここから脱出できたらいいお友達になれるかもしれませんね」
私は、軽い気持ちでそう言った。しかし、純狐さんは何も答えなかった。
重い沈黙が流れる。今までのノリなら「そうだね~。あはは」という感じで、返してくれると
思ったのだが。何かまずいことでも言っただろうか? 私は少し不安になる。
「純狐さん?」
隣の個室からは荒い息遣いが聞こえてくる。寝息ではない。覚醒した者が懸命に感情を
押し殺しているような呼吸音だ。
「どうしました?」
急に純狐さんが黙ってしまった理由がわからず、混乱する私。
しばらくの沈黙の後、純狐さんはボソリと言った。
「私、友達って扱いなんだ……」
「えっ?」
「ちょっとショックだったわ」
「どういうことですか?」
「だって、私、一生懸命、うどんちゃんのために頑張っているのに、友達止まりなんだなって
思って……」
(何を言っているんだ)
意味が分からず私は沈黙し続ける。
「まあ、そうよね。分るわよ。分る。そうよね。そうだけど……」
純狐さんの声はどこか暗かった。いつもの明るい気配が感じられない。急にどうしたのだろう?
「あの、純狐さん?」
「でも、友達ってたくさんいるじゃない。誰かと友達になっても、それは必ず
複数いる友達の中の1人ってわけでしょ? それって……それって、
あんまりうれしくないっていうか、普通っていうか、結局、使い捨てっていうか、
何ていうか、何ていうか……」
「純狐さん、私、そんなつもりで言ったわけじゃありません」
「違うよ。そういう言葉がポロッと出るのは、そう思っているってことでしょ?
そうなんだ……。私、友達なんだ。なんていうか、その、私、絆とか、
ここで過ごした唯一無二のようなそういう関係が……」
「それはもちろん、唯一無二ですよ」
「嘘よ。うどんちゃんはそんなこと思ってない」
「純狐さん……」
「どうして? 私、悲しい。……ちょっと1人にさせて……」
純狐さんの口調はとげとげしかった。
「……わかりました」
戸惑いながらもそれ以上、声をかけられず、私は黙り込んだ。
個室の中には冷たい沈黙が流れた。
数時間が経過した。
「おなかの音?」
純狐さんが笑って言う。
「はい」
私は、少し照れながら答えた。純狐さんの口調がもとに戻っていることに安心する。
私のおなかは空腹のため、大きな音を立て続けていた。
「まだ、若いから仕方ないわよね」
純狐さんはすき間からまんじゅうを差し入れてくれる
「ありがとうございます」
これで、何度目だろう? ありがたく私はまんじゅうを受け取り、開封して口に運ぶ。
「昨日からたくさんもらってしまってすいません」
「いいのよ。慕ってくれているうどんちゃんを邪険にはできないわ」
「実に頼もしいです」
私は冗談めかして言う。純狐さんはまんざらでもなさそうに、息を吐くと
少し間をあけて言った。
「私はずっと、うどんちゃんの味方よ」
「えっ? はい」
「この倉庫の中でなら、私はずっとうどんちゃんのそばにいて力になってあげられるのよ。
うどんちゃんがいくつになっても、うどんちゃんが望む限り、私はいるのよ」
「はい?」
眉をひそめる私と対照的に純狐さんは上機嫌だった。
「うれしいでしょ?」
「はあ……」
「私もうれしいの」
純狐さんは笑いを抑えきれないという感じの声を出した。
何か嫌な感覚がした。今までにない感覚だった。
夜、あの後、夕飯代わりにまた、まんじゅうをもらって食べた。個室の隅には
まんじゅうの包みが重ねて置いてある。私はさらにその上にもう1枚包み紙を重ねる。
カサリと音を立てて小さな山が崩れた。
純狐さんはもう、寝ているのだろう。隣からはほとんど何の音も聞こえてこない。
真っ暗な個室の中で、私は1人、考えている。おかしい。まんじゅうの包み紙は、
もう、10枚近くになる。いかに、衣服の袖におかしを入れているとしてもまんじゅうを10個も
持ち歩くだろうか?
純狐さんは、今日の昼、妙なことを言っていた。私が望む限り、
ずっとそばに居続けるとか、何とか……。
おかしい、やっぱりおかしい。ふと、頭の中で嫌なイメージが駆け抜ける。
最初の夜にやって来たあいつと純狐さんが重なるイメージ。私は首を振る。それはさすがに
考えすぎではないか。少なくともこれまでの純狐さんの態度は普通の範疇に収まっていた。
ちょっと変なことを口走っていたからと言って、そこまで疑ってはいけないのではないか。
しかし、まんじゅうの量はどう説明する? 箱ごと袖に入れているのだろうか?
いくら何でもそれは不自然だ。
純狐さんがこの倉庫に来たとき、何かを置く音がした。それは、あいつが
気を失っている純狐さんを無造作に置いたときに出た音だと思っていた。
でも、それが外から入って来た純狐さんが、まんじゅうなどの入った荷物を
置いたときの音だったとしたら……。
そういえば、扉が閉まった後に倉庫から離れていくあいつの足跡が
聞こえなかったような気がする。
もしかしたら、私が寝たことを確認してから夜に外出して新しいおかしなどを
調達しているかもしれない。あまり、考えたくはないが、私をずっと閉じ込めておくために。
確かめる方法はある。一睡もせずに、隣の個室に聞き耳を立てるのだ。
でも、今の私の精神力で徹夜はできそうにない。
私は隅にある隣の個室につなぐすき間を見る。あれが中央にあれば、そこから純狐さんの
個室全体の足元を見ることができる。一定の間隔を置いてそこから中をのぞけば
純狐さんが外出しているかどうかがわかるのに。
そんなことを考えながら何となくすき間をのぞき込む。すき間は暗くて向こう側が
よく見えなかった。しばらく目を凝らすように見つめていると視線の先で何かが瞬いた。
何本も赤い筋の入った円の中央にどの闇よりも暗い球体。眼球だった。
私の全身が冷たく硬直する。向こう側に眼球がある意味を数秒考え、理解した瞬間に私はのけぞる。
狭い個室の中で私の背中が後ろのトイレにぶつかりコンッと音を立てた。
「うどんちゃん……」
穏やかな、それでいて粘着質な純狐さんの声が聞こえてくる。
「どうしたの? 寂しくなったの?」
私の体はふるえて返事ができない。
「大丈夫よ。私はどこにも行かないからね」
笑っているような、幼い子供を諭しているようなそんな口調。
「ここにいるからね」
顔の輪郭はわからなかった。闇の中、ただ、赤い眼球だけがはっきりとわかった。
純狐さんの目がゆがみ、心の底からうれしそうな笑みに変化する。
その視線ははっきりと私をとらえていた。
「うどんちゃんも、ここにいてね」
私は恐怖のあまり目を閉じる。その上に手を重ね、顔を覆う。わけがわからない。
どうしてこんなことになっているのか全然、わからない。ただ、目の前の現実から
逃げてしまいたくて私はすき間の向こうにいる純狐さんに見えない位置に移動し、ふるえ続けた。
どれだけの時間がたっただろう。あの後、そのまま眠ってしまったのだろうか?
個室の中には光が差し込んでいて、どこからか小鳥の声が聞こえる。私はため息をつき立ち上がる。
「うどんちゃん、起きたの?」
純狐さんの明るい声がして、どきりと体がふるえる。見ると、隣の個室からまたも、
まんじゅうが差し入れられていた。半分だけこちらの個室に入ったそれを呆然と見つめる。
以前のものと同じまんじゅうだ。
「うどんちゃん、昨日の夜、おなか減っててあまり寝られていなかったみたいだから、
たくさんあげるね」
純狐さんの声とともに新しいまんじゅうが差し込まれる。すき間を埋めるようにまんじゅうが
いくつもいくつも並んでいく。横幅が足りなくなると前のまんじゅうを押し出すようにして
奥から新しいまんじゅうが差し込まれる。際限なく増えるまんじゅうを見ているとめまいがした。
「もう、大丈夫です」
私は喉の奥から絞り出すようにしていう。
「これだけあれば大丈夫ですから」
「あら、いいの? うどんちゃん、このおまんじゅう好きでしょ?」
「好きですけど……」
「私と一緒にここにいる間はいいのよ。好きなだけ食べてもまだまだあるからね」
純狐さんの口調は何とも言えず生暖かい。まるで恋人とふざけあっているようだ。
どこか、うれしそうですらある。
思えば、最初から感じていたのだ。純狐さんにはここに閉じ込められているという
焦りや不安が全くない。
私という仲間がいるから多少元気づけられているのは理解できるが、それでも、楽天的すぎる。
いや、それは正確な表現ではない。むしろ、私と一緒にここにいることを楽しんでいる。
そんな感じだ。そう、純狐さんは、私を閉じ込めて、私と会話して、私を監視して、
私に餌付けして、私を飼育している。
純狐さんも閉じ込められているなど嘘だ、きっと結界も純狐さんが用意したもので、
自由に出入りできる。
そのくせに出られなくなったふりをして、私に親近感を抱かせようとしているのだ。
そこまでして私に何をさせたいのかはわからないが、
隣の個室で薄笑いを浮かべている純狐さんを思うと、背筋がふるえた。
昨日の一連の出来事で、もはや純狐さんへの疑念はほとんど確信に近いほど
強固なものになっていた。
そう考えてしまうと、さまざまなことがらが、悪意に満ちた所業として思い出される。
例えば、脱出の方法があると言われて、純化の力をテレパシーに必要なつけ耳に
流してもらったけど、あれも純狐さんの策略の疑いがある。
外とつながる手段を完全になくすために、わざと壊したのではないだろうか?
何より、純狐さんが来てからあいつがやってこない。
「うどんちゃん、起きているの?」
私はビクンと痙攣する。
「起きているかどうか聞いているの」
先ほどとは対照的な冷たい声だ。
「起きています。おまんじゅう、ありがとうございます」
私はお礼を言いながら、床に広がるまんじゅうを拾う。
「ちゃんとお礼は言いましょうね」
「はい、ちょっとぼーっとしていました。ごめんなさい」
慎重に言葉を選んで発言する。純狐さんが仮に私を閉じ込めた犯人だとするなら、
なおのこと、彼女の機嫌を損ねるわけにはいかない。私を生かすも殺すも純狐さん次第なのだ。
その気になれば、まんじゅうの供給を止めるだけで、私を飢え死にさせられるだろう。
「そう、いい子ね」
私の不安をよそに純狐さんの機嫌はすぐに直った。不気味なほどうれしそうに純狐さんは続ける。
「悪いことをしたと気づいたら素直にあやまる。それが、大事なのよ」
「はい」
乾いた口で私は答える。そして、再び、必死に考える。どうしたらいい?
どうしたらここから抜け出せる?
純狐さんが敵だとすれば頼れるのは自分だけだ。彼女が私を閉じ込め結界を張ったのであれば
かなり、計画的だ。当然、監禁を第三者に邪魔されないように手は打っているだろう。
この倉庫も純狐さんの私物に違いない。そうなると無関係の者がここにやって来て助けてくれる
可能性は低い。
「悪事を開き直って、いつまでも認めない者ほど見苦しい存在はないからね」
つまり、私は自分1人でここから抜け出さなければならないというわけだ。
「そういうの。嫌いなの。ずっと昔からね。やっぱり、うどんちゃんは違うみたいで
うれしいな。そういう風になっちゃだめよ。社会に出で苦労するからね」
横の個室に私を監視する者がいる中でどうやって逃げ出せばいいというのだろう。
「そもそも、悪事を指摘してあげているのは、こっちなんだから相手は私に感謝すべきよね。
それすらせず、私を反逆者みたいに扱うのはおかしいわよ」
手は1つしかない。純狐さんを油断させるんだ。
「ねえ、そう思うでしょ? うどんちゃん」
「は、はい、その通りだと思います」
答えながら口角がふるえる。カチカチと鳴りだしそうなあごを手で押さえつける。
にんまりと純狐さんの唇がゆがみ口角が上がる様が浮かぶ。
「うどんちゃんは、話の分かる子ね。あいつらなんてなかなか同意してくれないのよ」
「そうなんですか?純狐さんの言うとおりだと思いますよ。
むしろ、間違った方が多すぎるんじゃないかって思うくらいです」
「そう? ウフフ……」
月の民の話をしているのだろうか? しかし、私との関連がわからない。
でも、この際、関係ない。とにかく、話を合わせ、純狐さんを持ち上げ、純狐さんを満足させる。
機嫌を損ねるわけにはいかない。その先に何か突破口を見つけて見せる。
「はい、ま、前から思っていたんですけど。純狐さんって物事をきちんと客観的に見ている
方だと思います」
「そうでしょ! そうでしょ! フフフッ」
「ほかの方は主観的に決めつけることが多すぎます。私は純狐さんと話していると
そのバランスのいい考え方にふれられて、すごく落ち着きます」
一度、話始めると意外と口が回った。すこしあざといだろうか?
「それならうれしいわ。私のこと頼りにしていいのよ」
(大丈夫みたいだ)
「はい、こんなにやさしく思いやってくれる方に出会えて私、幸せです」
「うんうん」
「暖かくて、親切で、まるでお母さんと話しているような気持ちになります」
言ってから、しまったと思う。純狐さんは過去に息子を失っている。そんな相手に、
お母さんみたいなんて言ったら……。
「うどんちゃん……」
私の心配とは裏腹に、純狐さんからは生々しい声が返ってきた。
テンションが高いとき、低いとき、どちらでもないニュートラルな純狐さんの声だ。
「そうそう、そういうことなのよ。気づいてくれてうれしいわ。こういうことは自分から
気づかないと意味がないからね」
「どういうことですか?」と言いたくなるのをこらえ、私は意図的な肯定の沈黙をする。
さっきの言葉が鍵となり、純狐さんの心のドアが開いた。純狐さんの口からダラダラと心の中身が
流れ出てくるようだ。
「よかった。本当に……。たぶん、もうすぐ思い出してくれるわよね。
私のこと、思い出してくれるわよね?」
「え? は、はい」
否定しないように気をつけながら、私は先を促す。
「これまで大変だったわ。すごく大変だった。いきなり全部を話しても信じてなんて
もらえないだろうし、それでも、いきなり個室から解放するわけにもいかないから、
私、頑張っていたのよ。慎重に話していたのよ。大変だったわ。ずっと辛かったんだから。
あの日からずっと辛かった。あの日あの子が死んじゃってから、ずっと。
どれだけ悲しかったかわかる? 大切な子供を失うことがどれだけ……。
だから、あなたに会えたとき、すごくうれしかった」
少し前からそうだったが、話が見えない。私を閉じ込めたのは純狐さんで、確定した。
だが、死んだ純狐さんの息子と私の監禁に何の関係があるのかがわからない。
わからないが、私の体中から汗が噴き出し、危険信号が頭の中で鳴り響き早く逃げるようにと
警告している。
しかし、私は逃げられない。この個室から出られない。
私にできるのは、恐怖にすくみながらも、純狐さんと会話することだけだ。
「どうして私と会えてうれしかったんですか?」
私が聞くと、純狐さんはしばらく黙った。
もう一度口を開こうとしたとき、小さな声がした。
「あなたがあの子の生まれ変わりだからよ」
がりがりと頭皮をひっかく音が聞こえてくる。
「私が……」
声がふるえている。
「私が仙霊として蘇ったのに、あの子が蘇ってないなんておかしいじゃない!」
それは、もはや嗚咽だった。
「私のかわいい、かわいいあの子が! まだ小さかったあの子があ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!」
緊張が一気にふるえへと変わり、下から上へと背骨を伝って駆け抜けた。
「ずっとずっと探していたのよ。分るわけがないじゃない。
記憶をなくして、月兎に生まれ変わっていたなんて」
「わ、私が純狐さんの子供の生まれ変わり?」
ドンッと隣の仕切りが振動する。息を飲む間もなくもう一度、ドンッと振動する。
純狐さんの両の手が私の個室に向かって打ち付けられているのだ。
「そうよ! まだ思い出さないの? せっかく、ここまで来たんじゃない! あと少しなのよ!
お願い、早く全部思い出して!」
そんな身に覚えのないことをどうやって思い出せというのだろうか。
私の気も知らず純狐さんは続ける。
「あなたが記憶を失っている間、私がどんな目にあってきたかわかる?
お母さんいじめられたのよ。私が大事に、大事にしていたあなたを殺したあの人を殺して、
嫦娥を殺そうとしただけなのに、な、何も知らない訳知り顔の月の奴らにさ。
ひ、ひどい。ひどすぎる」
何かが壁に衝突する激しい音が響き渡る。私は体をこわばらせる。
「聞いてる? お母さんを許してね。なかなかあなたを見つけてあげられなくて」
(見つけるも何も、どうして私が、あなたの息子の生まれ変わりになっているんですか?)
「でもね……」
隣の個室で壁を叩く音が止まる。
「私、うれしかった。この前の月の襲撃のとき、あなたの方から
私に会いに来てくれたんですもの」
違う。私が純狐さんのところに行ったのは異変解決のためだ。
そのことは純狐さんにちゃんと伝えた。なのに、どうしてこんなことになっているのだろうか?
「あなたが、私のところまで来た経緯を聞いてすぐにピンときたわ。
いくら、地上で暮らすようになったからと言って、自分勝手な月の兎が命を懸けてまで
異変解決のために私の元に来るわけがない。絶対に何かあると思ったわ。
その答えが、あなたの魂が無意識のうちに私を求めたからだったと気づいたとき、
本当にうれしかったわ。たとえ、生まれ変わって、記憶がなくなったとしても
母と子は惹かれあうものなのね」
(無茶苦茶だ)
でも、ここから抜け出す光明が見えた気がする。
純狐さんは私を息子の生まれ変わりだと勘違いしている。
そして、どうにかして、その記憶を取り戻そうとしているらしい。
なら、そこに付け入る隙があるのではないだろうか?
「あなただって、そう思うでしょ?」
(ここだ! ここしかない!)
私は純狐さんが今、一番求めているはずのセリフを言う。
「うん、ぼ、僕もそう思うよ」
隣の個室から息をのむ声が聞こえる。
「今、僕って……」
私の思いつきは功を奏した。
明らかに動揺する純狐さんの反応から、これで正しいと感じた。
悟られまいと、間髪入れずに私は続ける。
「うん、お母さんのおかげで記憶が戻ったみたいなんだ」
私は精一杯の感情をこめて言う。とにかく、今は純狐さんに合わせるんだ。できるだけ言葉を
合わせていくしかない。少しずつ闘志が私の中で湧き上がって来ていた。こんな不条理なこと
受け入れてやるもんか。ここから出てやる。絶対に。
壁の向こうで何かが崩れた。はっきりと泣き声が聞こえてくる。
「本当? 本当に戻って来てくれたの? よかった。本当に……!」
号泣であった。正直怖い。でも、話を合わせないとどうなるかわからない。
「お母さん、僕もうれしいよ」
「うん、うん、よかった。思い出してくれたのね。本当に、本当にあなたなのね?
ああ、ごめんね。ずっと待たせて。お母さんを許してね。許してね」
隣の個室で、大きな嗚咽が響くのを聞いているうちに
少しずつ自分が冷静になっていくのを感じる。
純狐さんの息子を演じることで初めて会話が成り立った。
うまく話せば純狐さんをこのままだませるかもしれない。
「さっきは、お母さん、つい取り乱しちゃった。やっとあなたと話せた。やっとあなたに会えたと
思ったら、気持ちが抑えられなかったの。怖がらないでね」
「うん、わかっているよ。お母さん」
「お母さん、ずっとあなたに会いたかったのよ。お母さんは判ってたの。
あなたの魂がその体に入っているって判ってたの。それは判ってたわ。でもね、
どうして、あなただけが、私を思い出してくれないのかがわからなかったの。
だけど、あなたが薬売りとして毎日仕事に打ち込んでいる姿を見て気づいたの。
私は蘇ってから復讐も含めてあなたのことだけを考えて過ごしていた。
当り前よね。私にはそれしかなかったんだから。
でも、あなたは違った。生まれ変わってからは月兎としての日々があって、地上に降りてからも
薬売りとしての仕事に追われていた。
お母さんのことを思い出す暇なんてなかったのよね。だから、思ったの。
あなたにも私と同じようにお母さんのことだけを考える状況が必要だって」
「だから、僕を監禁したの?」
「ええ、極限の状況で私しかほかに頼れる相手がいなかったら。
私のこと以外、考えられなくなるでしょ?
あなたは私を頼ってくれた。私を母親と言ってくれた。そして、遂に記憶を取り戻してくれた。
辛かったわよね。でもね、全部、全部あなたのためだったのよ」
「うん、僕、お母さんにそんなに思ってもらえて幸せだよ」
私は適当に会話を合わせながら必死で頭を回転させる。何とか純狐さんに、私の個室の扉を
開けさせられないだろうか?
私を閉じ込めているのが純狐さんなら簡単にできることだ。
うまく話をそういう方向へ持っていけたら……。これしか脱出する方法はない。
何とか、純狐さんに……。
「お母さん、ごめんね。苦労させたよね」
私は慎重に言葉を選び、口にする。
「うん、うん、本当に大変だったわ。でも、私はずっとあきらめなかった。
あなたが戻ってきてくれるって信じて頑張ったのよ。その、本当はね、
もう無理なんじゃないかって思ったこともあったわ。でも、あなたは帰って来てくれた。
よかった。ほんとうにうまくいってよかった」
「お母さん、僕もうれしいよ。ねえ、お母さん、“顔が見たいよ”」
意を決し私は言う。
「えっ!? 私の?」
少し、純狐さんの口調が変わった。まずい、警戒されているのかもしれない。
私は必死で言いつくろう。
「この個室の中じゃ、お母さんの顔が見えないよ。すごく寂しいんだ。お母さんに会いたいよ。
抱きしめて……ほしいよ」
(お願い! うまくいって! ……神様!)
「……今はやめておいた方がいいかもしれないわ」
ためらいがちだが、否定的な反応が返ってきてドキリとする。
「ど、どうして!? そんなの嫌だよ。早くお母さんに会いたいよ」
私は言う、必死で言う。
「……私だって会いたいわ。でもね、あなたの記憶が戻ったのは一時的なことかもしれないのよ。
だから、記憶が定着するまで、もう少しだけこのままでいた方がいいと思うの。
大丈夫、食べ物はお母さんが用意するから」
冗談じゃない。私は一刻も早くここから出なくちゃいけないんだ。
何とか風向きを変えられないだろうか。
「お母さん、僕を信じてよ。もう、大丈夫だから」
「でも……せっかくここまで来たのにあなたがまた、私のことを忘れてしまったらって思うと……」
「僕がお母さんを忘れることなんて2度とないよ。
だって、僕たち、深い愛で繋がっているんだから」
覚悟を決めると、こんなセリフも吐けるのか。自分でも驚きながら私は続ける。
「いつまでもこんな個室に一人きりなんて悲しいよ。お母さんだって僕とふれあいたいでしょ?
抱き合って笑いあいたいでしょ?」
「当り前じゃない。だけど……」
「お母さん、僕とお母さんなんだよ。絆で結ばれた二人だよ。死に別れたのに
こうして、もう一度会えるなんて、ほかの親子じゃありえない、奇跡なんだよ。
それくらい繋がりあっているんだよ。また忘れるなんてありえないよ」
すすり泣きのような声が聞こえてくる。私の心がキリキリと痛む。
「……そうね。そうだよね」
純狐さんは異常者だ。しかし、子供を思う気持ちに偽りはない。
ここに閉じ込められてから初めて私は、彼女を不憫に思い、彼女を歪めさせてしまった者達に
対して憤りを覚えた。
純狐さんの行動や表現は間違っているものの、それらは、子供を思う愛ゆえなのだろう。
そんな純狐さんの愛を逆手にとって私は、彼女をだまそうとしている。
それが私を苦しめる。
「うん、絶対大丈夫だよ。お母さんお願い……扉を開けて」
それでも私は言い続ける。冷たくて意図的でするどい嘘。
私の頭が紡ぎだす、今の純狐さんに一番効果的な嘘
「わかったわ」
純狐さんの声が決意をはらんでふるえる。
「お母さん、あなたのことを信じてみる。今までずっと、あなたには私に頼ってほしいと
思っていたけど、一度だけ頼ってみるわ」
やった! 純狐さんの心を動かした。
カチャリと鍵を開ける音、そして隣の扉が開く音。純狐さんの動作はとてもゆっくりだった。
ためらいがちに、それでも確実に私の扉を開こうとしてくれている。
……やるしかない!
「ありがとう、お母さん」
私は会話をつなぎながら、軽くアキレス腱を伸ばして準備運動をする。
絶対に、絶対にこのチャンスは逃せない。必ず逃げ出すんだ。
「待っててね」
純狐さんが隣の個室を出て、私の扉の前まで歩いてくる。その歩みはゆっくりで
軽い音だったが、どこか深夜にやって来た足音を思い起させた。
「今、開けるからね」
私は扉を見つめる。それが開くのを待つ。
「お母さん、ちょっと怖いわ。でも、うれしい。あなたに会いたかったの、抱きしめたかったの。
もう一度一緒に暮らしたかったの。ずっとずっとそう思っていたの」
金具が音を立てる。中からはどうにも開けようがなかったのに、結界の主導権を握っている
純狐さんにとっては簡単に開けられる。
細い糸のようなすき間が徐々に広がり、光が差し込んでくる。外界への出口。
どれほど望んでもたどり着けなかった数センチ先の自由が今や眼前に広がっていた。
そして、目の前には涙を流しながら天使のように笑う純狐さんがいた。
彼女は扉を掴んでいない方の手を私に差し出した。
「おかえりなさい」
私はその姿を一瞬見て、歯を食いしばって目を閉じる。
「……ごめんなさい」
その一言と同時に、私は狂気の瞳を開き純狐さんに幻覚を見せる。
片手を伸ばした状態で彼女の動きが一瞬、ピタリと止まる。
そのすきに、私は純狐さんのわきをすり抜ける。
「どうして……」
今にも消えてしまいそうな純狐さんの声がした。私は、それに構わず全身の筋肉を躍動させて
駆け出した。
肺が、心臓が、筋肉が、脱出のために惜しみなく全力をつぎ込んだ。
倉庫から駆け出し、自分の存在の波長を長くして限界まで存在を希薄にする。そのまま飛翔し、
全力で永遠亭を目指した。一度も振り返らなかった。
純狐さんが私を呼ぶ声が聞こえたような気がした……。
―――――◆◆◆◆―――――
しばらくは一人になることが怖かった。いつ、背後から襲われるかと思うと心配で
たまらなかった。
師匠も、姫様も、てゐも、そんな私を邪険にすることなく一緒にいてくれた。
あの後、師匠や姫様が、純狐さんを探すという話になったが、
彼女も、私が閉じ込められていた倉庫も見つからなかったらしい。
数か月後、私は、以前と同じく薬売りをしていた。生活のスタイルはすっかり元に戻り、
いつもの環境で、いつもの人達を相手に働く日々。
あっという間に、時間は過ぎていく。あの倉庫での数日間はまるで、夢の中の出来事のようだ。
それは、私が倉庫にいるときも世界には何も変化がなかったということを意味している。
帰り道、私は純狐さんのことを考える。
彼女は今、どこで何をしているのだろう? 再び月を襲撃する画策でも練っているのだろうか?
どす黒く救いようのない、深い深い愛情を身に宿したまま……。
ふと、純狐さんの声が鼓膜の中でかすかにリフレインし、あの倉庫での出来事を想起させる。
あんな目に合うのは二度とごめんだ。だけど……。
私は空を見上げる。雲一つない夜空には丸い月が浮かんでいた。
それを見ながら次の復讐は成功すればいいなと私は密かに思った。
最後にうどんげが逃げ出したシーンとか本当に恐怖だっただろうな