――冥界。
白玉楼を流れる風は妖夢に春を予感させていた。桜は蕾を花とする気配が無いままだ。
これから咲き誇る桜を幻視しながら妖夢は庭木の剪定を進めていく。
この時期は庭の掃除もそれほど労せず行うことができる。もう少しすれば、舞い散る桜の花びらと空の酒瓶とで白玉楼の庭は埋め尽くされるだろう。
妖夢は鼻を鳴らす。春に掃除が忙しいことは顕界も冥界も同じだ。来るなら来い。宴会の季節。花も酒瓶も、魂魄妖夢がたちどころに掃除してくれる。
武者震いにも似た感覚。細い身体に気迫が漲り、剪定作業の効率も上がっていくのであった。
誰よりもこの白玉楼を管理できているという妖夢の自身の表れでもあった。例え他の事が半人前だと言われようとも、これだけは誰にも負けないという気負いがあった。
「妖夢」
と、その背中に声がかけられる。
甘く、凛とした美声だ。
妖夢は剪定を行っていた両手の剣を止めると同時に振り返ると、目の前の主人に声を返す。
「はい、幽々子様」
キン、と。対となっている剣が鞘に収まる音を響かせる。
桜色の髪を冥界の風に遊ばせながら、玉砂利の音ひとつ立てず、西行寺幽々子は静かに立っていた。
「わざわざ来ていただかなくとも、お屋敷から呼んでいただければよかったのに」
「来たかったから来ただけよ」
白玉楼には二人しか住んでいないとはいえ、やはり職場に主人が来るというのはなんとなく申し訳ない気分になってしまう妖夢だった。
そんな妖夢のわずかな狼狽を見て楽しむように微笑む幽々子は、妖霧に一歩踏み込んだ。
「ねぇ妖夢?」
「わ、あ」
そっと、手を取られた。
白い鎖骨が、妖夢の瞳に煌めいたと思ったら、幽々子の顔が目の前に来た。
「お願いがあるんだけど、いいかしら」
「な、なんです?」
いつも見ているとはいえ、いきなり顔を寄せられると、思わず頬が紅潮してしまう。
柔らかそうな幽々子の唇と、妖夢の肌よりも若干冷たい手の感触に内心で大袈裟なまでに戸惑ってしまう。その表情がなるべく表に出ていない、はず、と言い聞かせながら妖夢は口を開く。
「お昼は先ほど召し上がったばかりですよね? 三時のおやつにはまだ早いですよ?」
そしていつものように思っても無い言葉が口をついて出てしまうのだ。
どうしていいのかわからないから、妖夢としてはこう言うしかないのだ。
そのまま幽々子のなすがままになれば楽なのだろうか、という誘惑が妖夢の中で渦巻く。しかし主従の線引きをしっかりとしなければ、と妖夢の中にある冷静な部分が浮つきそうな自分自身を引き戻す。
「いいですか幽々子様、私は今仕事の真っ最中なのです。もしお戯れでしたら、この後で剣術の指南をばゆっくりとですね……」
「違うの。お願いなの」
妖夢の心情などどうでもいいと言わんばかりに幽々子は言葉を繰り返す。
「ん……なんでしょう」
じっと見つめてくる視線から発せられる無言の圧力に妖夢は屈した。
「これから桜の季節じゃない?」
「えぇ。そうですね」
それは言わずもがなだ。
「例年から言えば顕界からのお花見と宴会のお客様も来るわよね?」
「えぇ。おそらくは」
それも、おそらくそうなるであろう。巫女やら魔女やらナニやらが入れ替わり立ち代わり来るのも先ほど妖夢が予想したことだ。
「そうしたら散った花や宴会の片づけも大変よね」
「えぇそうです。大変なのです。しかしそこからが私の本領発揮です、瞬く間に散らかった白玉楼をですね……」
「うん。今年はその後片付け、わたしがやるから妖夢は何もしないでいいわよ」
「え」
「そういうことにしたのよ。紫に言われてね、たまにはあなたも働いてみたらどう? って」
桜がほころぶような笑顔で幽々子は妖夢に言った。
「え」
それが、幽々子の『お願い』なのか。
「それって」
そんな笑顔で言われたら、『お願い』ではなく。
「そういうことにしたから妖夢」
『通達』とかそういうものだろう、と。
「……で、ありますか……」
にこにこと暖かい笑みを浮かべる幽々子に対し、妖夢は顔を引きつらせながら、そう絞り出すだけであった。
「紫の驚く顔が目に浮かぶわぁ」
幽々子は妖夢から離れると、ふわふわと屋敷の方へと飛んで行ってしまう。
「…………」
残された妖夢は、果たして――
「と、ゆーことがあったんですよぉぉ~」
妖夢はドン、と緑の酒杯を卓に置いた。
「私には幽々子様が分からなくなります!」
「あららぁ、お客さん今日は荒れてるねぇ~」
ミスティアは呆れ顔で、妖夢の杯に酒を注ぐ。
ここはとある森の中でひっそりと開かれている八目鰻の屋台である。
「いやぁ普段真面目な奴がこうなっちまうのはね、何かとてつもな~い理由があるんだって。あたいの経験上言わせてもらうけどね~」
妖夢の隣で酒を煽り、わざと嘆息してみせるのは小野塚小町だった。
「そいでそいで? その後白玉楼の御嬢さんはどうしたんだい?」
「できましたよ」
「は?」
「できてましたよ。完璧に。完全にですよ」
「あんたの予想以上に御嬢さんはうまく立ち回っちまったってことかい」
「ですよ」
「どれくらい?」
「そりゃもう、例えるならば……十分咲きですよ」
「あんたはどうだい?」
「……五分咲き……くらい……?」
「はっはっは! そりゃふて腐れちゃうわね。普段できてると思ってることの倍も巧くやられちゃぁねぇ。そりゃそうなっちゃうよ」
小町は大袈裟に肩を震わせ笑って見せる。
その様子になけなしの自尊心がカチ、と音を立てた。
「それなら貴方はどうなんです? ちゃんと自分のするべきことをできてるんでしょうか? 話を聞く限りでは私にはそうは到底思えないんですが?」
「はは。あたいはいいのさ。てきとーにやっても許されるんだよ」
「許されてないですよ。現にさっきだって上司から怒られたって、ここで愚痴ってたじゃないですか」
妖夢は不満顔で抗議する。
「そうだよ。でもあたいはあんたとは違って分かってるからいいのさ」
小町は唐焼きの猪口を煽る。
「ぷあぁ。映姫様のこと分かってるし、映姫様だってあたいのことを分かってらっしゃる。長い永い付き合いだからねぇ。お互い相手がどんな奴か知ってて、それでも我慢ならない時は怒るのさ」
「……よく分かりません」
小町の言うこと、分かるような、分からないような。妖夢は俯いてしまう。杯に注がれた酒に映る自分の顔は、眉がハの字になった、何とも情けない顔だった。
「まぁ、お互いの関係なんてさ、人それぞれ、主従それぞれだからねぇ。アンタんとこはそういう程度だったってことじゃないの?」
「そういう程度って……」
「簡単なことなのにさ。気が付かないってのは……。従者が半人前なら、それを扱う主も半人前ってことかねぇ」
その一言に、妖夢は顔を上げた。
「それは聞き捨てなりません!」
いつもよりも飲みすぎた酒が、心を敏感にさせた原因なのか。
普段だったら、自己嫌悪に落ちてそのまま流してしまうような小町の言葉に反応してしまった。
「小野塚小町! 私のことを言うのならともかく、幽々子様のことまで悪く言うのは許せません!」
だん、と屋台の椅子を蹴って立ち上がる。
「おぉ? やるかい?」
「そちらがその気なら! とりあえず斬りましょうか?!」
「そっちがその気に見えるじゃないか?」
「……お客さんがたー、揉め事は屋台から離れてやっておくれよー」
困り顔で言ったミスティアの注意が悪い方向に働いた。
よしそういうことなら、とばかりに妖夢と小町は一足飛びで屋台から十間ほど離れると、それぞれの得物を構え、相対した。
「え!? ホントにやるの!? じゃ、じゃあ弾幕ごっこはやんないでよ! 屋台壊れたらお客さんたちの上司に請求するからね!」
ミスティアが青い顔で叫んだ。
妖夢と小町は互いから視線を外さず、ほぼ同時にスペルカードを屋台のミスティアに向かって放り投げた。
「私が勝ったら、今の発言を撤回し、詫びてもらいます!」
「へへ、いいじゃないか。アンタみたいなタイプはこういう方法が一番効くんだ」
視界が定まらない。酒の効果を残したまま、妖夢は余裕の表情で大鎌を振り回す小町を見た。
何度か仕合った経験から、妖夢が導き出した戦法は単純だった。
妖夢は白楼剣と楼観剣を構え、倒れ込むように低い重心から小町に向けて駆け出した。
――小町の得意とする距離の内側で斬る。
交差は一瞬。
妖夢が全力で両手の剣を振り抜いた。
ギィン、という硬いものが遅れて響いた時には、妖夢は初撃が失敗したことを悟った。蒼色の装束を視界の端に収めたまま、円を描くように回り込み、振り向き様に小町に向かって薙ぐような二の太刀を浴びせる。
だがそれは小町により操作された距離により、空振りに終わる。
どころか。
「ほいっ」
鎌の刃で、巧妙に剣の切っ先を絡め取られ、楼観剣を上空へ飛ばされてしまう。
最大の得物の消失。それは妖夢に心を焦がすほどの動揺を与えるには十分だった。
――勝てない……? 半人前だから……
酔いの回った脚がたたらを踏んだ。
その瞬間を逃さず、小町の一閃が妖夢を襲う。
「くっ」
妖夢は残された白楼剣を放り投げ、全身のバネを使ってその場で大きく飛び跳ねた。
地上に残された反霊が実体となり、妖夢と変わらぬ姿で楼観剣を掴む。
妖夢は空中で白楼剣を取り、握り直すと、器用に一回転。そのまま小町に向けて一直線に刃を落とした。
小町に斬りかかった反霊が、逆に蹴り飛ばされ、ボフンと煙となって元の形に戻ってしまうが、妖夢にとってはそれで十分だった。
しかし小町は上空の妖夢を迎撃することなく、鎌を地面に打ち付けた。
――なんだ? ……!?
不審がる妖夢の瞳が見開かれた。
小町の頭の横には光を放つ符が、1枚。
『死符「死者選別の鎌」』
「な、卑きょ……!」
言い終える間もなく、妖夢よりさらに上の空間から質量を伴った霊力の塊が振り下ろされて――
「はーい、しゅうりょー」
「うぐぐ」
妖夢は仰向けに倒れたまま、小町のにやにや顔を悔しげに睨みつけていた。
先ほどのスペルカードの影響か、全身が鈍い痛みと痺れに支配され、指一本動かせなかった。
「別にスペルカードを使わないって誰も言ってないしね。ま、とにかくこの勝負、あたいの勝ちだねぇ」
小町はカラカラと笑って勝利を宣言した。
「さて、と。そういうやアンタはさっき、この勝負に勝ったらあたいの発言を撤回してもらうって条件を付けてたね」
「……そうですよ!」
しかし負けた今となっては、泥をかけられた面子をそそぐことは叶わなくなってしまった。妖夢は悔しさに下唇を噛んだ。
「あたいが勝ったらどうしようかってのを今考えたんだけどさ」
大鎌を一回転させ、小町はその切っ先を妖夢の首筋にピタリと付けた。
「んっ……」
その冷やりとした触感に妖夢は顔をしかめた。
「さて、あたいの仕事は何でしょう?」
意地悪そうな笑みを湛えたままの小町に、妖夢は苦苦しく答えた。
「死神……ですか」
「そのとおりさね」
鎌が、妖夢の首筋から胸元へ、ゆっくりと動き出した。
ブラウスと上着のボタンがブツン、プツと音を立てて飛んでいく。
「や、何を……」
「死神のお仕事さ」
小町の、何の感情も無い冷たい瞳に、妖夢の肌が粟立った。
「やめ、ぇ、ふぁっ」
刃が進んだだけ、切っ先が軽く妖夢の肌も掻かれていく。薄くではあるが、無抵抗のまま肌を傷つけられていく恐怖に妖夢は混乱する。
――私はこのまま死ぬのか。こんなことで、死んでしまうのか。
死んだらどうなるのだろう。一つの霊魂として白玉楼に行くのだろうか。そうなったら幽々子に気付いてもらえるのだろうか。そうなったら。そうなったら……
白い半紙に墨汁をぶちまけたかのごとく、収集のつかなくなった思考の中で、ふと、幽々子の姿が浮かんだ。
――あ、幽々子様が……
妖夢がそこで見た幽々子は、笑っていた。
「ふっふーん」
小町の刃は、上着の真ん中にあるボタンを飛ばした。
上着がはだけ、慎ましやかなフリルに縁どられた、淡い桜色の――
「……お願い……」
「ん?」
蚊の鳴くような声で、絞り出された妖夢の声に、小町は手を止める。
「殺さないで……欲しい。幽々子様に……会えなくなるのは、い、嫌なん……です……」
消え入りそうな声音。今にも零れ落ちそうな涙を隠すこともできずに、妖夢は小町に懇願する。
「それが本心かい?」
「それは……」
妖夢は答えなかった。
そのまま小町と妖夢は微動だにせず――
月は中天よりも少し進み、まだ少し肌寒い春の夜風が二人の間をからかうように吹き抜けていった。
「ま、こんなとこかねぇ」
くるっと、鎌を回しながら小町は妖夢から離れた。
「アンタ、結構溜めこむタイプだろ?」
ようやく動くようになってきた体に活を入れ、無理やり立ち上がった妖夢は、「そう、見ますかね」と呟いた。
「そりゃそうでしょ。じゃなかったら酒煽ったり、死神に喧嘩売らないでしょうよ」
「う、それは……」
「知らぬは本人だけってね。たまにはさ、ご主人様に自分の気持ちをぶつけてみたらどうだい。案外、向こうも、ね。待ってたりね」
にぃ、と小町は屈託無く笑う。
「そんなこと……今までだって……」
やってきてましたよ、と言えるのだろうか。
結局、今回のことも、幽々子の気持ちが分からないと嘆いてばかりだったではないか。
「あ……」
そうだ。と――
妖夢の頭に一筋の光が走った。
「小野塚小町!」
「ん?」
「ありがとうございます!」
妖夢は勢いよく頭を下げると、猛烈な速度で白玉楼まで飛んで行ってしまった。
「あぁぁぁ! お客さん! お代お代!」
ミスティアが涙目で追いすがろうとするが時遅し。
「どうしよう……お代貰って無いのなんて絶対明日には忘れちゃうよぉ」
情けないことを口走るミスティアに小町は優しく言った。
「なぁに。ここはあの子の出世払いと言うことで」
「……小町さんは払ってくれないんですね」
小町は苦笑して「死神は薄給だからねぇ」と言ってみたのであった。
朝の白玉楼。
既に気の早い桜の花びらは枝から離れ、ハラハラと落ち始めていた。
「さーて、今日もお仕事するわよー」
いつもの着物をたすき掛けで結わいた幽々子が箒を持って高らかに宣言した。
「ちょーっと待ってください幽々子様!」
その背中に、妖夢は勇ましく声をかけた。
「あら何かしら妖夢」
「幽々子様、昨日よく考えたんですが、白玉楼の掃除は、やはり私にやらせてください」
妖夢は幽々子を見据えてはっきりと言い放つ。
「妖夢がこんなにはっきり自己主張するなんて、ちょっと驚きだわ」
幽々子は一瞬たじろいだ様子を見せたが、
「でもしばらくはあたしにやらせてもらうわよー」
再び箒を持って、妖夢に背を向けた。
「だめです!」
「なんでよー」
「それは……」
それは、なんだろう。
ここへ来てもまだ、妖夢はどうして自分がこんなに幽々子が掃除をすることへの拒否反応を示しているか。その理由を見つけあぐねていた。
否。
理想は既にあるのだ。
妖夢が白玉楼の掃除や食事を作るため一生懸命飛び回る。それを見ながら幽々子はにこにこと笑っている。そんな日々が妖夢の幸せなのだ。
そしてたまに幽々子が妖夢の頭を撫でてくれたりしたら、もうここは天国かと思ってしまう。冥界だけど。
そうありたいのだ。
そんな映像は浮かぶものの、上手く表現できる妖夢ではなかった。
だから。
シャキン。と二対の剣を抜く。
「申し訳ありません幽々子様!」
「な、なんで顔を赤くしながら剣を構えてるの?」
「申し訳ありませんー!」
「妖夢がおかしくなっちゃったー!」
幽々子との間合いが一気に縮まる。
この気持ちを刃に乗せて――
数秒後。蝶の弾幕を伴い、冥界の空にぽーんと吹き飛ばされた妖夢の姿が。
みょーん。
――とある夜。
その日も宴会が盛大に行われ、白玉楼は静まり返っていたが、まだ耳にはあの喧騒が張り付いているようだった。
妖夢は、幽々子の寝所で、緊張気味に正座をして待っていた。
手には、やや大きい枕が。
片面には大きく○。もう片面には大きく×。
実はこれ、先ほどの宴会で紫に貰ったものなのだ。
人呼んで、イエスノー枕。
妖夢の素直になれない気持ちを代弁してくれる、という触れ込みで渡されたのだが、なるほど見れば見るほど非常にシンプルで、分かりやすい。
(さすが紫様、こんなにも私の気持ちを簡単に表せるものを見繕ってくれるとは……)
頭の下がる思いであった。
す、と閉めた障子の向こう側に幽々子の影が映った。
今夜こそは、幽々子に伝えるのだ。
明日の仕事は私にやらせてください、と。
ぜひ、やりたいんです、と。
障子が開く。
「あら妖夢? どうしたのかしら」
くすり、と幽々子が微笑み、部屋に入ってくる。
「あの、幽々子様」
「はい。なぁに?」
妖夢は、紫から貰った枕の面を思い切り幽々子に掲げて見せた。
伝えるのだ。妖夢。
「私! やりたいんです!」
バーン! と幽々子に見せられた枕の面には大きな○。
「え……いいの?」
幽々子はぽかんとした表情で言った。
「いいです!」
妖夢は自信満々で頷いた。
「それなら……美味しくいただくとするわね」
「え?」
すすすと幽々子が妖夢に倒れ込んでくる、いやこれは――
「ゆゆゆゆゆゆこサマ!? どうして押し倒して!?」
「あらあら誘ってきてくれたのは妖夢なのにね」
「え!? え!? えええぇぇぇ!?」
満開の桜のように赤くなった妖夢を嬉しそうに見つめる幽々子。
影がもつれ――
そして白玉楼の灯りが、消えたのであった。
(終わり)
誤字チェック甘いけど