「お嬢様……」
「……フランの事?」
「申し訳も御座いません。私という者がいながら…」
「貴女が気に病む必要はないわ、咲夜。今後は十分注意すればいいだけの事だし、今までサボってくれた食料係の連中もあとで打ち据えてやればいい。こんな事態が起きた以上、あの時の契約自体も一度大幅に見直す必要がありそうね」
「そうですね。お嬢様達吸血鬼の絶対の契約を破った彼等の豪胆さだけは賞賛してあげますが…」
「えぇ。それに敬意を表してこれからは二度とそれを破る気が起きないよう、その時は徹底的にやらせてもらうわ。止めちゃ駄目よ?」
「しかし妹様は…なぜあそこまで、魔理沙の亡骸をいとおしむのでしょう……。やはり、愛する人を自らの手で殺めてしまった事に負い目を感じているのでしょうか」
「まだ現実を受け止められないのね。むしろ簡単に受け入れられる方が異常よ…フランって、ああ見えて一途な娘だから」
「愛していたからこそ…ですね。彼女は眠っているだけ、いつか目を覚ますだろうって思いたいのでしょう。詮無い願いですが…」
「そうね。それに、あの娘が初めて触れた別離が…一番好きな魔理沙ですもの。仕方の無いことだわ」
「ところで…その魔理沙はどうしましょう。せめて私達の手で手厚く葬ってあげたほうが宜しいでしょうか」
「その必要はないわ。魔理沙の身体はもう暫らく、フランの好きにさせてあげなさい」
「……何故です?」
「咲夜……貴女ひょっとしてあの時魔理沙を止められなかった事、まだ引き摺っているのかしら?」
「いや……私は………」
「心配せずとも、貴女なら分かっているはずよ……。あの娘の中にある貴女と同じものの存在に。魔理沙と貴女が、共に身体に宿すそれ…それが起こす奇跡、一つ見届けましょう?」
「お嬢様…っ。成程、分かりました……」
「もう暫らくしたら…その時が来たら、また声を掛けるわ。くれぐれもそれまであの娘には内緒にね……」
(ここは…一体何処だ?)
見たことのない、場所にいた。
少女が…霧雨魔理沙がいる世界……濛々と白い霧が立ち込める、暗黒の世界。足元に敷き詰められているのは、不気味なほどに滑らかになった玉砂利。
遠くに目を凝らすと、濃い霧の合間を縫って、やたら幅の広い河が見え隠れする。
「なんだよ、怖いくらい静かなところだぜ。お~い!誰かいないのか?誰でもいいからいたら返事してくれ~!!」
精一杯声を張り上げて周囲に呼びかける。しかしどれほど時間が経っても誰も現れないばかりか、先程の叫び声が辺りに残響する事もなかった。
ひょっとしたら、ここにいるのは自分だけなのか?何て事だ。そうだとしたら、今自分がいる場所を確かめる術もない…。
思わず途方に暮れかけたその時。濃い霧の向こう側から、快活な女の声が聞こえて来た。
「ほ~う。まさか中有の道すっ飛ばして来る奴がいるなんて珍しいね。しかも幽霊の身になってもまだ喋れるとは…ますます珍しい」
魔理沙の叫び声に応じたのかどうかは分からないが…先程のその声と共に現れたのは、身の丈を遥かに越す大鎌を携えた赤いツーサイドアップの女。背丈自体もやたら高い彼女は澄ました顔で魔理沙を見下ろしている。
「あたいは小町、しがない死神さ。ここは……あ、そんな必要はないか。これだけ言えば何処かくらい分かるだろ」
死神……それだけですぐに想像がついた。ここはどうやら此岸と呼ばれるところで、傍を流れる大河は言わずと知れた三途の河のようだ。
「アンタ、名前は?」
「霧雨…魔理沙」
「魔理沙…か。なるほど、通達通りの別嬪さんだねぇ」
「世辞はいい。どうせお得意の社交辞令だろ?」
「いや…本心も本心、大本音さ。しっかしこの若さを保ったまま逝っちまうなんて実に勿体無いねぇ……。佳人薄命とは、強ち間違いでもなさそうだ」
拍子抜けした。小町と名乗ったその死神は、魔理沙が今日まで抱いていた死神のイメージからは完全に掛離れた…死神にしてはあまりにも、明け透けし過ぎた感じの女だ。
彼等彼女等は皆冷酷な面構えをして、その眼には生々しい妖しい光を湛え、人に対しては情けも容赦も一切無い…そんな偏見じみたイメージしかなかったのだ。まさかこんな死神がいたとは…。魔理沙は完全に言葉を失う。
とはいえ、相手は死神である。彼女の務めが如何なるものかは魔理沙も十分承知していた。
「小町……さん、か。お前が私の前にいるって事は、私はもう死んだって事だろ?覚悟ならもうとっくの昔に…それこそ、死ぬ前から出来ているんだ。すぐにでも彼岸とやらに連れてってくれないかな」
「ん~、出来るならすぐにでもそうしたいとこなんだけど」
「なんだよ、要領を得ない死神だぜ。ハッキリ言え。それとも何か事情みたいなものでもあるのか?」
「あたいには無理なんだ。輪廻転生という人の道を外れたアンタを連れてっちゃいけないって、おっかない上司にきつ~く言われてるんだよ」
無理?頼んだ瞬間無理だなんて、それは一体どういう事だ!私が人の道から外れたなんて、失礼にも程があるじゃないか。
私を連れて行く事は出来ない、ならばどうして私の前に出て来たんだ……!!魔理沙がそう叫ぶ前に小町がその理由を告げた。
「アンタ、ここに来る前にどこぞの吸血鬼に血をくれてやっただろ?」
不意をついたその言葉に思わずハッとする。なるほど、流石は死神。何でもお見通しという事か…。ここまで知られている以上、隠し事は出来そうにない。腹を決めた魔理沙はありありと、忘れもしないあの時の事を語り始めた。
「…あぁ、そういえばそうだ。吸血鬼のくせにまともに血を飲めなくて、とうとう欠乏症まで引き起こした奴がいてな。切実に人間の血が欲しいっていうから、私ので良ければって与えてやったんだ……」
「おやおや。言い方はガサツそのものなのに随分と優しいこって。誰かの為に己の命を投げ出す、確かにそいつはある意味では美徳と言えるけどさ……。
考えようによっちゃあ、己の命を己で断つという、古今類を見ない大罪とも言えるよ」
言い返す事など出来なかった。全てが本気で愛したフランドールという吸血鬼の少女のためとはいえ、この事実だけは何人にも覆しようがないのだ。あの時自分の中では最良の手段をとったつもりでいた。
しかし今思えばあの時自分がとった選択で、自分は少女に生の道と同時に、大きな悲しみも与えてしまったんだ……。
「そっか。あ~あ、私はあの日の時点でもう、地獄行きは確定してたんだな……」
「いや、魔理沙。悪いけどアンタは地獄にも行けないんだ」
感傷に浸る魔理沙を尻目に、あっさりと言ってのける小町。とうとう魔理沙は滑らかな玉砂利だらけの河原にどうと倒れこむ。
何て事だ……。私は地獄にも極楽にも行けぬまま、三途の河を臨むこの寂しい此岸のペンペン草一本生えていない荒涼とした河原の上で、鬱陶しいくらいノリのいい死神と二人っきり、次の哀れな亡者を待つ身となってしまった。
微塵ほどの力もない、自嘲気味な乾いた笑いが絶え間なく漏れ出す。
「おいおい…答えを焦るなっての。アンタ、人の話は最後まで聞けって教わらなかったのかい?此岸の死者に残された可能性は、彼岸と地獄の二つだけじゃあないんだよ」
魔理沙もそれは初耳だった。新たな可能性…それを聞いた魔理沙はもう一度、眼を見開く。そして小町は何やら語り始める……。
「三途の河ってのは寂しいところでねぇ。いつもこんなに優しく流れているのに、何でか知らんがせせらぎ一つ聞こえやしない。たまに鳥や獣が河原を駆け回ってても、その羽撃きや鳴き声なんてちっとも響かないのさ……。
基本、みんな死んだ奴だからな。ようやっと耳に入ってくるものといえば、たまにここを通りかかる気が知れた死神(なかま)のヘタクソな歌くらいなもんだ」
「へぇ、そうなんだ…けど、変だな……何処かから、誰かの声がする……」
いつも水を打ったように静かな此岸の世界。そこに、山彦のように響き渡る何かの音を…いや、誰かの声を、魔理沙も小町も聴いた。
そっと耳を澄ませ、その声を確かめようとして……。やがて少女は声のする方向、そしてその主を認めた。
「この声…フランの声だ!!」
「フラン?あぁ、分かるよ。さっき言ったアンタが血をくれてやった吸血鬼だろ。で、どんな事を言ってるのさ」
「“魔理沙、戻ってきて…”って。ひょっとして…私を、呼んでるのかな」
小町の口元から含み笑いが漏れるのを、魔理沙は聞いた。ひょっとしたらこれが、彼女の言う“可能性”というものなのだろうか。
「聞こえたか…。なら、話が早い。声のする方向へ真っ直ぐに進めば、アンタは現世に戻れる。ま、どれくらい進めば戻れるかってのはあたいにも分からないけどな。
…どうするんだい?全てを諦めて変わり映えしない此岸の景色を永劫眺めつづけるか、アンタを呼ぶあの声を信じて只管に歩いてみるか…どっちにしても道は二つに一つだよ、魔理沙」
すっと魔理沙は立ち上がる。自分がどちらを選ぶかという事くらい、ここで言わずとも分かっている筈だ……。どうやら小町も、魔理沙のその意思を感じ取ったらしい。
だらりと下げた腕をそっと上げ、死神の少女は声の方向を指差す。
「決まったみたい、だね。くれぐれも途中で方向を変えたりするなよ?そんな事したら戻って来れないばかりか、今度こそアンタの魂は塵も残らずに消滅しちまうからな」
「心配してくれて嬉しいぜ。けど、大丈夫だよ。フランが私を待ってる……迷うもんか」
「ハハッ、その意気や良しだ。魔理沙、ひょっとしたらアンタとはもう会う事はないだろ……達者でな」
「あぁ。これでさよならだぜ…永遠に」
少女はそれを最後に死神に背を向け、一歩、また一歩と声の方向へ歩んでいく。何よりも大好きだった、あの柔らかいソプラノボイスが響く方向へ……。
「魔理沙…今日はね、こんな事があったんだよ……」
あの日以来、フランドール・スカーレットは全く自分の部屋から動くことがなくなってしまった。正確には自分がその牙にかけた魔理沙の骸(からだ)のそばから。
フランは自分のベッドの上に魔理沙を横たえ、まるで彼女が今もそこに居るかのように声をかけたり、椅子に座らせて二人で飯事遊びをしたり、たまにブラシを持ち出してその艶やかなブロンドの髪を優しく鋤いたり、眠る時には二人ぴたりと寄り添って眠った。
彼女の傍らで見る夢は、全てが彼女との楽しい思い出を描いたものだけ。だがそれが終わり、その全てが今はもう触れる事叶わないものだという事実を突き付けられる度、またフランは泣いた。
そんな日々を繰り返していくうちに、フランの心の歯車は耳障りな軋み音を立て…少しずつ、また、狂いが生じていった。
たまに誰かがフランを心配して尋ねて来ても全く気にすら留めなくなり、周りを取り巻く人々のどんな励ましや諭しさえも、彼女はそれを不快な雑音としか受け取らず、酷い時には派手にヒステリーを起こして来訪者に当り散らした。
紅魔館の住人の間ではもともと気が触れているといわれるフランだ。彼女もとうとう来るところまで来てしまったのかと、メイド達は口々に噂した。
しかしそんな噂もレミリアや咲夜を始めとした一部の者は、それは今に始まった事ではないだろうとまるで取り合わなかった。
色鮮やかな、だが今となってはあまりに空虚な、魔理沙との思い出の中で生きるフラン。ただ二人幸せだった頃の世界。二人だけの固く閉ざされた世界に、彼女はそっと閉じ篭ってしまった。
もう二度と、あの楽しい日々の中に戻る事など出来ないと分かっていながら…。
とはいえ、彼女は何時も傍においている魔理沙の身体に起きている出来事に、気付いてはいなかったようだ。
魔理沙の身体は既に死んでいるはずなのに…死した人間の身体に須らく起こるであろう硬直も腐食も、それには何一つ起きなかった。あの日から今日までの一月もの間魔理沙の屍は、肌の色素が失われ少しずつ白く薄れていく以外は、まさに生前そのままのように瑞々しい状態を保ちつづけていたのだ。
そうしてその一月が過ぎたとある夜のこと。訪れる者も殆どいなくなったフランの部屋に現れたのは、姉のレミリアとメイド長の咲夜だ。
「フラン。元気していたかしら?」
「お姉…様……」
少女が姉を呼ぶ声にいつかの力は無く、あの日に一度輝きを取り戻した瞳もまた曇りかけている。与えられた食事だけは十分に摂り、加えて魔理沙のそれがよほど腹持ちのいいものだったのか、あの時のように欠乏症を引き起こすような事はなかったが。
「美鈴やメイド達が騒々しいから、心配して見に来ちゃったわ。大丈夫…ってワケでもなさそうね」
レミリアは勿論の事……咲夜にも、そしてフラン自身にも、その理由は分かっていた。それはフランのすぐ傍にある、一人の少女の存在。
一月前に牙を突き立てられたあの時と同じ、とても幸せそうな顔をした魔理沙の死顔。あの日から少しも傷む事無く、艶やかな金髪と皮膚のきめ細かさが保たれた、あの日のままの魔理沙の亡骸…。
「…魔理沙。今日も…綺麗だよ……」
病んだ視線でそれを見つめたまま、細く白いその手で彼女の身体を、自分が制御出来る限りの力でそっと優しく撫ぜていく。レミリアと咲夜も、フランに続いてそれを覗き込んだ。思わず二人は息を呑む…。
「何よ…美しいじゃない、この娘ったら……」
その感嘆の言葉の主はレミリアだった。普段の態度があんな感じだった所為で今までそれは全く感じなかったが、今こうして静に眠り続ける少女を見つめていると、彼女が……魔理沙が如何程の美少女であったかが、レミリアにもハッキリと分かる。
姉や従者の前だということすら気にも留めず、柔らかい魔理沙の唇にそっと自分のそれを重ねるフラン。
眠りにつく時に、たまに暫らくその場を離れる時にいつもするように、自分に出来る限りの優しいキスをする。
「あらあら、人前だというのにお熱いことで。よっぽどその娘がお気に入りなのね……何だか妬けちゃうわ」
「だって…好きなんだもん。魔理沙の全部が好きなの。真っ黒なのに輝きがある服が好き。艶々した柔らかい金髪が好き。大きな帽子が好き。強く抱いたら折れちゃいそうなくらい細い身体が好き。魔理沙の持ってる全部、大好き…。だから、手放したくないの。ずっとずっと、私の傍に置いておきたいの……」
発せられてすぐにでも消え入りそうな涙声でフランは囁く。死を迎えて一月も経ったというのに、ほんの少しも劣化しない美しい少女の身体を摩り、いとおしみながら。再び柔らかいパールピンクの唇に自分の唇をそっと寄せる。
「私が御伽噺の王子様だったら、魔理沙がお姫様だったら…。こうすれば、目を覚ますんだよね……」
先程のキスの味がまだ残る唇に、じわりと滲む悔しさをきつく噛み締める。自分は王子様では無いし、魔理沙もお姫様ではない。
そもそも自分のいる世界は御伽噺の世界ではないし、キス一回で人が息を吹き返したら誰も悲しんだりなんてしない。
…それでも、フランが魔理沙の唇へキスを絶やす日は、一日たりともなかった。
「恐らくはね。…だけど、フラン。貴女の哀しみも今日で全ておしまいよ」
「お姉様…魔理沙をどうする気?私は嫌。土に埋めるのも湖に沈めるのも燃やすのも嫌。私は魔理沙と一緒にいたいの!!幾らお姉様や咲夜でも、魔理沙には小指一本触れさせないから……!!」
凄絶を極めるフランの激昂にレミリアが答えることなく、代わりに傍の咲夜に問う。
「ところで……咲夜、今何時かしら?」
「23時59分…。もうすぐ日付が変わりますわ。そして、あれももうすぐ……」
咲夜の手元にあるのは、彼女がいつも愛用する黄金の懐中時計。その一番細い針が12の数字を指した、まさにその時……。
リンゴーン…リンゴーン…。
何故か深夜にしか鳴ることがない紅魔館の鐘。悪魔の棲む家と呼ばれながらも、これだけは実に美しいと、幻想郷の人妖の間ではもっぱらの評判の鐘。レミリア、咲夜、そしてフランも、この鐘の音は何度も聴いている。
神々しさ、そしてある種の儚さも併せ持つ、悪魔の棲む家の美しい鐘の音色が、館に優しく響き渡る…。
「ん……」
その時だった。何処かから少女にしては少々低い小さな声とともに、ずっと動きを止めたままだった魔理沙の瞼が動く。暫くすると完全に彼女の視界は晴れ、両の目に三つの人影が飛びこんでくる。
「うっ、あぁ…。あれ?レミリア…それに、フラン……咲夜も……」
「魔理沙ぁ~!!」
「ちょっ、な、なんだよフラン、突然抱きついたりして。ちょ、離れろって!」
「だって…だって、私…すごく心配したんだよ?突然動かなくなっちゃったんだもん……よかったぁ……!!」
両手両足をじたばたと動かして一生懸命抵抗してもフランドールはがっちりと魔理沙の首元に腕を回したまま、全く離れようとしない。
ようやく彼女を引き離し、どうにかこうにか落ち着きを取り戻した頃…最初に口を開いたのはレミリアだ。
「お目覚めは如何かしら、魔理沙」
「レミリア、一体何がどうなってるんだよ。私…死んだはずだ。三途の河も拝んできたし、死神にも会った……」
「えぇ、その通り。貴女は今日この時までずっと、暗く深い死の淵の中にいたのよ」
死の淵の中にいた…やはりそうか。未だ完全に覚醒していない頭を高速回転させ、あの時の記憶を辿っていく。
取敢えず自分が死んだ事だけは分かっていた。フランドールにその多くの血を与えたのだから当然だ、と言うよりむしろそれは既に覚悟していた。人生について後悔が全く無いと言えば嘘になるが、心から愛する人の生を繋いで死ぬならば、それも悪くないと思っていたから……
その生をこの場で終わらせるという究極の選択も、受け入れる事が出来たんだ。
だけどどうして今、自分はこうして生きているんだろうか。唖然としたままの魔理沙に、レミリアは彼女特有の妖しい微笑みを浮かべながら告げた。
「そして貴女は生まれ変わった…。私達の仲間、吸血鬼としてね」
「えっ…。私が、吸血鬼……だって!?」
思わず、呆然とする。貴女は死んだ。そして生まれ変わった。しかも、人ではなくなった…。正常な神経の持ち主であれば到底受入れられない言葉が止まる事無く頭の中を駆け巡る。
馬鹿な…。死んだことならまだ納得できるが、吸血鬼になったって?試しに上下の歯に舌を這わせてみると肉類を噛み切る為に必要な犬歯は長く伸び、その内の二本は微妙に口腔からはみ出している。
続いて自分の両手を見れば、十本の指の先端にある爪…それが獣のそれのように鋭く尖り、長く伸びている。そしてそれを見つめる両の瞳はどんな赤よりも朱い、ルビーの如き真紅のそれに染まっていた。更に…。
「うぅ…一体全体何が何だかわからないけど、何か…凄く喉が渇いたぜ……」
「無理もないわね…。そうだわ魔理沙、試しに私の血を吸ってみなさい」
「お、お嬢様!いけません!!」
「そうだぜレミリア!そんな事したら……」
「いいから。フランが貴女にそうしたように首筋にガブっていくの。出来るでしょう?」
あっさりとレミリアは言ってのける。私の血を吸ってみなさい…自らの身に起きた出来事をざっと聞いた今ならば、その言葉の意味は何となくだが分かる。
“信じられないなら、試してみろ”という事だ…。
「…っ。どうなっても知らないぞ……」
促されるまま魔理沙はレミリアの首に、刃の如く鋭くなった犬歯を突きたてる。一瞬来る痛みに全身を反らせた少女の細い首、そこから流れ出る赤い液体が魔理沙の口の中に流れ込み、味蕾に伝わっていく…。
「美味い…っ……」
今まで味わった事のないそれであったが、何というか、それはとても…美味しい。これほどまで美味なそれならばほぼ毎日でも飲めそうな気がする。
数秒後にそっとレミリアの首から牙を離した頃には、既に喉の渇きは止んでいた。今し方生の証を吸い取られたばかりだというのに、レミリアはその冷ややかな笑みを崩していない。
そっと彼女がその部分を撫ぜると流れ出でる血はすぐに止まり、傷口も完全に塞がっていた。
「……これで分かったでしょう?」
「そっか……私、ホントに吸血鬼になっちまったんだな……覚悟はしてたけど、やっぱりこうなるのか」
「あらあら、てっきり人間に戻せって五月蝿く喚くと思ったけど、流石に物分りがいいのね。貴女、本当に私が見込んだ通りの人間だわ……あぁ、それは可笑しいか。もう人間じゃなくなったものね」
「見込んだ通り?そりゃどういう事だよ」
「あぁ、それは咲夜から説明してもらうわ。咲夜?」
「はい。いい魔理沙、巷の民間伝承その他の所為で、色々誤解していると思うけど…。幾ら人間が吸血鬼に血を吸われたからといって、その全てが吸血鬼となってしまうわけではないの。今貴女がこうして蘇ったのは、貴女の身体に『種子』があった所為よ」
「種子…だって?」
訳が分からぬままの魔理沙に咲夜は告げる。本来人間であれば吸血鬼の牙に掛かった者はその多くが木乃伊のように全身が干からびて死に至るか、幸い一命を取り留めた一部の者でも生前の自由意志というものを失い、生ける屍としてこの世を彷徨い続ける存在となるという事。
今の魔理沙のように人間が吸血鬼として蘇るためには、身体の中に『種子』と呼ばれる吸血鬼化の因子を持った人間が吸血鬼の牙を受け、それによって種子が覚醒する現象…『トリガー』が引かれるのが必要だという事。
そして、代々吸血鬼ハンターを生業とする家に生まれ、一族最強と謳われた咲夜自身の身体にも、『種子』が存在しているという事…。
「考えても見なさい…血を吸われた人間がいちいちみんな吸血鬼になってたら、今頃幻想郷は吸血鬼だらけになってるわ。食料になりうる人間が消えれば吸血鬼は飢え死にするか、妖怪の血に手を出していつかの吸血鬼異変の時のように打ちのめされるか、もしくは共食いして全滅するしかない」
「言われてみれば…そうだな。これじゃあ両者の比率を崩す一方で、お互い何のメリットもない。あとは外の世界に出ていくしかないけど、将来的にはそっちも同じ道を辿るな」
「そう。そこで吸血鬼の始祖は自分達と人間、そして妖怪…それぞれの“種の保存”のために、苦肉の策を取る事にした。人間に自分達の身体の一部である“種子”を与え、それが覚醒した人間だけが吸血鬼となるというシステムを作ったの…。ほんの少数、始祖に選ばれた人間が自分の後継となるようなシステムをね」
「なるほど。つまり私や咲夜はその、始祖に選ばれた人間って事か」
一体いつの間に自分はその種子とかいうものを与えられたのかという事を、魔理沙は敢えて考えない事にした。彼女の先程の言葉に深く頷いた咲夜は更に続ける。
「これはあまり知られていない事だけど…吸血鬼は実際に人から血を吸う前に、体内から分泌される吸血鬼エキスを注入してから吸血を行うの。まぁ、蚊と同じね。普通なら注入したエキスは吸血後に身体に戻るんだけど、どうした事かいくら頑張ってもその全部を戻す事は出来ないわ。だから吸血後はエキスが必ず身体の中に僅かながら残ってしまう。
こうして人間の身体に入った吸血鬼エキスが体内の種子と反応すると、疲れを感じにくくなったり特殊な能力が身についたりと、その身体に様々な影響を及ぼすの」
吸血鬼エキスの力については魔理沙も知るところであった。それはいつかの紅霧異変の際にレミリアと立ち会った時…彼女が使用したスペルカードに、自らの血が滴るナイフやその他の弾を大量にばら撒くというものがあった。
レミリアのエキスを含んだそれらはまるで生物のように襲いかかり、相対した霊夢や魔理沙を翻弄したのだ。
「ともあれそのようにして吸血鬼エキスが僅かでも体内に入った状態で死ぬとトリガーが引かれ、潜伏した種子が完全覚醒した人間は身体の構造を作り変えられて吸血鬼となるわけ。個人差はあるけれど遅くても大体半年、早ければ数週間か一ヶ月前後あればその間に死体を焼くなり溶かすなりして甚大なダメージを与えない限り、人間は吸血鬼として蘇生するわ。
貴女の身体が一月もの間硬直や腐敗といった現象を起こさなかったのも、あの日貴女の身体が生命活動を止めた事を切っ掛けにして体内で芽吹いた種子が、身体を吸血鬼のそれに作り変えていたからよ…」
魔法を使う者、何らかの悔いを心に残す者、罪を犯しやすい者…。そういう人間ほど種子の力が強い事も咲夜は告げた。どんぴしゃりで当て嵌まるところが多すぎる事に思わず苦笑を浮かべてしまう。
「幸か不幸か、魔理沙。貴女は妖怪としての、とりわけ吸血鬼としての才能がありすぎたのよ。もともと力の弱い人間の身でありながら、貴女は危険な魔法の研究に日々を費やしていたでしょう?幻想郷、いえ東洋の人間にはそもそも外の世界における西欧諸国の魔法技術は、とてもじゃないけど体に合わない。尤も、貴女がそれを承知していたかどうかは知らないけど……。
魔法の森の瘴気を絶え間無く吸い、危険な西洋の魔法研究と妖怪退治を繰り返すうちに貴女は段々人から遠ざかっていき、それに伴って種子の力も強まっていった。それこそ無数の妖怪の群れの中に混じっても見分けがつかないくらいにね」
父との軋轢。魔法の研究と妖怪退治に費やした日々。魔法の森の、決して美味いとは言えない空気。森のキノコを煮詰めたスープの匂い。自身の成果で真っ黒に染まった、手製の魔術書と銘打った何冊ものノート。そして初めて本気で師と仰いだ悪霊との出逢い…。
魔法と共に過ぎた過去を魔理沙は一遍に思い返した。こうして振返って見れば十分納得がいく。実家を飛び出して魔法を極めることを心に決めたあの日、既に自分は人以外の存在の領域に片足を深く突っ込んでいたらしい。
人間とそれ以外の存在の、あまりに細すぎる境界線(ボーダーライン)。そのスレスレを歩んでいれば、いずれどちらかに落ちることは分かっていた。そして今自分は妖怪の側へ落ちた、ただそれだけの事だ。感傷に浸る魔理沙をよそに、レミリアが突然に口を開く。
「それだけじゃないわ。魔理沙…そう言えば貴女とフランが初めて会ったあの日、全くの初対面にも関わらずフランが貴女に凄く懐いていたでしょう?それがあの日の時点で既に貴女が人から遠く離れていた、何よりの証拠。もっと言えば…私や咲夜しか気付かなかったみたいだけど、あの日の貴女の身体から発せられた魔力に混じっていた紅い魔力…。私のそれと非常に似ていたわ」
「何だよ…紅い魔力って」
「あれから色々貴女自身と魔力について調べてみたんだけど、あれは“紅夢”と呼ばれる特殊な魔力の一種。人間は勿論の事、種族としての魔法使いも生まれながらに持っている者は珍しい、妖怪の賢者が持つそれに匹敵する質を持った稀有かつ強大な魔力よ。まぁ、長い時間の経過と共に貴女の中の紅夢は段々と薄れていったみたいだけど…どうやら何らかの形で残ってはいたみたいね……。
魔法の森の瘴気、体内で眠っていた種子、そして紅夢…。条件はずっと前、それこそ貴女が生まれた時から全て揃っていたのよ。全く、貴女があの時まで人間の身体を保ち続けていたのが不思議なくらいだわ…」
「そうだ…私、阿求にこんな事言われた事があるんだよ。“貴女は将来的に種族としての…妖怪の魔法使いになる”って」
「阿求……御阿礼の子ね。あの娘は気付いてたってことか…全く、食えない人間もいたものだわ」
「へぇ、そうかよ…。って咲夜、ちょっと待ってくれ」
「何?」
「レミリアはお前の血を受けることで生を維持しているって聞いた。なのにどうして、まだお前は人間の身体を保っていられるんだ」
魔理沙にはそれが疑問だった。レミリアが少量しか血を摂取しないとはいえ咲夜がほぼ毎日主に血を与え続け、更にメイド長としてその身体と自身の能力を酷使していれば、今頃彼女は間違いなく死んでいる。
長年蓄積された吸血鬼エキスによって種子が目覚め、遅かれ早かれ咲夜自身も吸血鬼となってしまっている筈……。そう考えたのだ。
「そうね……それは私の能力のおかげよ。体細胞の中のテロメア、所謂命の蝋燭の燃焼を大幅に遅らせ、人間としての死を迎えるまでの猶予期間を延ばし続けているだけ。人間の身体でしか出来ない事がまだ沢山あるからね。
まぁ、それもいつ限界が来るかは分からないけど…もしその時を迎えたなら、私も貴女と同じように蘇るでしょう」
「あぁ、だから見た感じ、全然老ける様子がなかったんだなぁ~。実際はもう三桁くらい年いってたりして?」
「何ですって!?」
言うなり咲夜は魔理沙の目の前で、その場にあった硬い鉄の剣を素手で容易く圧し折って見せる。
恐らくはこれも『種子』の片鱗なのだろうか…。思わず全身の毛穴という毛穴から冷や汗が一遍に噴出した。
「じょ、冗談だって……まったくもう」
「やれやれ……ところで、モノは相談だけど、魔理沙」
一瞬の間。レミリアは暫く顔を伏せた後、そっと魔理沙の方を見て切り出す。
「……私達と、一緒に暮らさない?」
「え……っ!?」
魔理沙は勿論、その場にいた他ニ名の少女を含む全員が、その両の目を丸くした。
「私…貴女が気に入ったの。私の妹の為に、本来赤の他人のはずの者の為に命を投げ打った貴女がね」
「お嬢様!一体どういうつもりでそんな事を仰っておられるのですか?」
驚きのあまりつい大声を上げてしまった咲夜を制してレミリアは続ける。
「実を言うと私…今までフランと、姉妹らしいことをした事なんて一度も無いのよ。広い庭園を一緒に駆け回ったり、人形や色んな玩具で遊んだり、将来のささやかな夢を語り合ったり……。私がフランの力を恐れていた所為でただの一つも出来なかったそれらの事を人間である貴女が平然とやってのけた様子を見た時、私は直感したわ。
貴女の中の紅夢だけじゃない。二人の間には身内の私でさえ、入り込む事も絶ち切る事も叶わない繋がりが存在している……そんな貴女にならフランも、スカーレット家の全ても……託せると思ったの」
「いや……別に、私はそんな大層な事…誰かに気に入られるような事なんて一つもしてないぜ?」
実に珍しいレミリアの褒め言葉に、未だに魔理沙はドギマギするばかり。どうにかこうにか自分の中で最良の否定の言葉を紡いだものの、それはあまり意味を為さなかったらしい。
「あらあら……。この娘ったら、見かけによらず奥ゆかしいのねぇ。ますます気に入っちゃったわ。もしも貴女が望むならば専属のメイドや魔法研究用の部屋、暖かい食事もお茶も柔らかいベッドも……好きなだけ用意するわよ?」
「え、そ、そう言われてもなぁ……ここまで至れり尽せりだと逆に……」
「大好きな図書館の魔術書も好きなだけ読めると言っても?」
「はは。そりゃあなんとも魅力的な提案だな」
冷や汗が途切れる事無く滲み出る。これぞまさしく、悪魔の囁きという奴じゃないか…。既に魔理沙の中では葛藤が始まっていた。
一度魔法の世界という茨の道に足を踏み入れた以上もっと魔法を極めてみたいし、何でも言うことを聞く奴隷も欲しい。その研究のために必要な魔術書も、ここに住めば堂々と借り放題借りられる。何よりあの門番に煩わされる事が無いというのはとても大きな事だ。
しかし、である。今ここで皆と暮らす事を選んだら、色々大変な事もある…例えば今の家からの引越し作業とか、人間妖怪問わず沢山出来た知り合いへの挨拶回りとか、魔法の森の霧雨魔法店廃業のお知らせとか…。
無論霊夢やアリスといった気の知れた仲間達とも、今後は自由に絡む事は中々出来そうにない。全くどうしたものかとあれこれ考えていると、後ろから服をくいっ、くいっと引っ張られるような感覚。何事かと思ってそっと振返ってみる。
「……魔理沙」
フランドールだ。魔理沙のエプロンドレスの裾を掴んだまま、あの時と同じように見えて…しかしそれより遥かに哀しみに彩られた瞳で、じっと彼女を見つめている。
「帰っちゃうの……魔理沙……?」
「フラン…お前……」
「行っちゃ、やだ…一人ぼっちにしちゃやだぁ……」
精一杯その細い腕できつく抱きしめ、絶え間なく嗚咽を漏らしながら、吸血鬼の少女は魔理沙のエプロンドレスに顔を埋める。ただでさえ紅い大きな目…魔理沙が何より好きだったその目を涙で更に紅く腫らしたその顔は、魔理沙の心を打つには十分すぎたようだ。
(そうだった…。私には、コイツがいたんだよな)
たった一つの自分の命…少なくとも、人間としての命を捨てたのは、この少女の為だったんだ。あまりに突拍子もない話を長く聞いていた所為で、自分にとって一番大事な存在をすっかり忘れていた。
「しょうがねぇなぁ…、いいぜ。フランの為だ……お前達と一緒に暮らすよ」
「ふふ…っ。貴女なら、そう言うと信じてたわ。では、ここで契約を交わしましょう。これは本来なら私自身がしなければいけないのだけど…。今回は特別よ。フラン、誓いの印は貴女自身の手で刻みなさい」
これはレミリアと咲夜が交わした主従の契約ではない。フランと魔理沙の永遠の結合、この瞬間から始まる旅路の安寧を約束するものだと、吸血鬼の姫は告げる……。それを聞いた魔理沙とフランは一瞬躊躇うが、それも一時の感情。すぐに二人の心は合致したようだ。
「フラン、魔理沙。心の準備が出来たなら、二人同時にキスするの…いいわね?」
言われずとも、“それ”なら既に出来ていた。二人の少女はもう一度真っ直ぐに向かい合い、何も言わずに互いの瞳をじっと見つめる。その後に二人がすることはたった一つしかなかった。
二人の少女の薄い唇が、そっと隙間無く重なり合う。静に両の眼を閉じて、永遠なる誓いの言葉を、互いの心にそっと響かせる。
(魔理沙…私達、ずっと一緒だよ……)
(あぁ。ずっと一緒だ。約束だぜ……)
全知全能の神ですら決して破ることは叶わない、紅い悪魔の妹との契約が唇を介してその身体に刻まれてゆくのを、かつて人であった少女は感じていた。
既に人のそれでなくなった身体なら、いつかそこに宿る心さえも悪魔のそれへと堕ち逝くのが、逃れ得ない自然の摂理だろうが…。
自然と、恐怖は感じなかった。今の自分には限りなく悠久に近い時、そしてずっと傍にいてくれる大事な人がいる。
生を受けたものであれば不可避のものである死でも、二人を分かつ事など出来はしない。熱い陽光に焼き尽くされようが、心の臓を杭で貫かれようが、二人は決して離れる事などないと今なら声を大にして言い切れる。
少女が同性の唇という禁断の果実(フォービドゥン・フルーツ)を口にしたという事実も、その甘美な味を知った彼女にとっては瑣末な事だった。
吸血鬼というこの世界のあらゆる理の輪から解き放たれた存在となった、今となっては……。
もう何一つ、恐れるものなど少女にはなかった。
「ようこそ、私達の世界へ…心から歓迎するわ、魔理沙」
「これからも…よろしく頼むぜ、レミリア。いや、お義姉様……」
かくして紅魔館、そして幻想郷に、三人目の吸血鬼が誕生した。
それから数週間後。紅魔館のほぼ恒例行事と化したお茶会を終えてくたくたな身体を引き摺り、魔理沙は紅魔館にある自室へと戻ってきた。
前もって焚いておいた白檀(サンダルウッド)のインセンスの香りが、今日一日総動員した心身に幾許かの爽快感を与える。
あの日晴れてスカーレット家の一員として迎えられた魔理沙は今、人間だった頃以上に魔法の研究に勤しみつつ、義姉となったレミリアや咲夜達から一角の吸血鬼としての嗜みを学ぶ日々を送っている。
特にレミリアはいつか魔理沙を自分の後継にと考えている節があるらしく、良くも悪くも何かと世話を焼いてくれるのだ。
今夜行われたお茶会も魔理沙にとってはただの異種間交流から、将来の幻想郷の担い手としての修養の場という認識に変わっていた。人間だった頃以上に多忙を極める日々…。
慣れない事、大変な事だらけの、人の身だった頃は想像すらつかなかった日常。
しかしそれを終えればいつもそこにあるのは、そんな日々に確かな、そして大きな潤いを齎してくれるもの…。
「おかえり、魔理沙。お茶会楽しかった?」
「フラン…わざわざ私を待ってたのか?なんだよ、お前も来れば良かったのに。寂しくなかったのか」
「ううん、大丈夫。ここで待ってれば、魔理沙は何処に行ったって戻って来るもん」
「…ま、当たり前だけどな。今のところここが私の居場所みたいなもんだし」
レミリアから提供された魔理沙の部屋。そこのベッドの柔らかいマットレスに腰掛けて、部屋の主を待っていたのはフランドールである。
周囲から情緒不安定と謳われていたフランもここ最近は落ち着きというものが出て来たのか、広い紅魔館の中を普通に出歩くようになったし、美鈴や咲夜が付いていれば僅かな時間ではあるが人間の里にも赴くようになっていた。
尤も住めば都とは良く言ったもので、一日の殆どは地下にある自分の部屋で変わらず過ごしているようではあるが…。
「今日、霊夢と香霖に久しぶりに会ったんだ。二人ともビックリしてたぞ?特に香霖なんか終始ビクビクしっ放しでさ。何もしないのに」
「ふ~ん。二人とも長い付き合いだったからそりゃあビックリするよね。ところでその香霖とか霊夢の血って美味しかった?」
「おいおい、どうしてそっちの話題になるんだよ。確かにこないだあの契約が大幅に改定されて、死なない程度だったら人間からの吸血行為も許されるようになったけど……。だからって二人の血は吸ってないぞ。特に霊夢は普段まともなもの食ってないみたいだから凄く不味そうだったしな」
あの日のフランと魔理沙の一件が切っ掛けとなり、かつて吸血鬼と幻想郷の妖怪の間に交わされた契約はレミリアの手により、不履行時の罰則規定の強化や人間から吸血行為を行う際の条件緩和などの各種改定が行われた。
中でも画期的なのは前述のように致死量に達しない程度に血を摂取し、その後に幾許かの御礼の品を持たせて人間の里へ帰せば、里の一部の人間も吸血対象としてもよいなどという項目を新たに盛り込んだ事だ。
これは以前のように吸血対象としている、幻想郷へ迷い込んだ外の世界の人間についても同様である。外の世界から幻想郷へ迷い込んだ人間を外の世界へ帰す役割を担う霊夢の全面協力のもと実現させたものだ。
……とはいえ彼女との交渉に伴う代価は決して安いものではなかったが。
「そう言えばついこないだ、お姉様が仕事をサボった妖怪の食料係の身体に、白木の杭を打ち込んでいるのを見たの。手にも足にもズドン、ズドンって感じで。まぁあいつ等は自業自得かもしれないけど、私…お姉様を本気で怖いって思ったのは初めてだったな……」
「…………」
「どうしたの、魔理沙」
「フラン。さっき、今夜のお茶会で…霊夢と香霖に合ったって言ったろ。私ひょっとしたら、浮気したかもしれないんだぜ?怒ったりしないのか?さっきの食料係にレミリアがそうするように、お前は私を杭打ちにしないのか?」
「しないよ。魔理沙が誰と一緒にいたって、私には魔理沙が一番だもん…全然気にしないから。それに……」
そう言うなり、突然に魔理沙の脇にぴたりと寄り添って、その背中を撫ぜて行くフラン。今は魔理沙お気に入りのモノクロームの服で隠れているが、
その下にある魔理沙の小さな背中には…あの日に刻まれたフランドールとの永遠の契約の証であるスカーレット家の家紋を象った血印がある。
「私には、いくらお姉様でも決して破れない絶対の契約があるんだからね」
「はは…そういやそうだったな。それを持ち出されたら弱いぜ……」
思わず魔理沙は苦笑した。悪魔の妹との契約の証……。これがある限り、浮気なんて殊勝な真似などまず出来そうにない。しかも相手はかつてその力故、実の姉にすら恐れられたフランである。
うっかり怒らせようものならば強靭な吸血鬼のそれとなった身体でも無事で済むか…とてもじゃないけど自信がない。
まぁスカーレット家に嫁入り同然で迎えられた今頃になって、そんな危なっかしい事をするつもりなど今の魔理沙には毛頭ないが。
暫らくするとフランは魔理沙の顔をじっと見つめ、お得意の甘えるような表情でそっと告げる。
「魔理沙…今日も、あれ……やりたいな。お姉様がいつも咲夜にやっている、あれ……」
「あぁ…いつものあれかよ。しょうがねぇなぁ」
そう言うと魔理沙はすっかり着慣れたローブを脱いで純白のベビードール一枚になり、そのまま大きなベッドの上に身体を横たえる。作り慣れた誘いの表情を向けると、それを受けたフランは魔理沙の上にそっとまたがった。
あの時と同じように魔理沙の首へ…しかし今度は出来る限り優しく牙を立てるフラン。傷口から流れ出でる魔理沙の血はそこから零れて真白のシーツを紅く染める事無く、全てがフランの口腔へと流れ込んで行く。
「やっぱり、魔理沙の血が一番美味しいな。パチェや美鈴のそれより、ずっと」
「それはそれは…喜んでいただけて何よりだ。だけど……」
と、突然に魔理沙がその身を起こした事で、二人の体勢は一瞬にして完全に逆転した。自分の身に起きた事を把握できないフランは思わず目をぱちくりさせる。
「そう言うお前の血は、どんな味がするのかな…?」
すっかり板についた吸血鬼特有の妖しい笑みを浮かべ、ニー・イン・ザ・ベリーの体勢でフランに覆い被さる魔理沙。この体勢を取られてしまえばもはやフランに脱出する術は無い。
あの日背中に生え揃った、フランのそれに似た白銀の翼を思いきり広げ、力強くはためかせる。
「…魔理……沙?」
「与えるばかりというのにもそろそろ飽き飽きしてたところでね…。折角こうして吸血鬼の身体になったんだ。私もフランのとっても美味そうな血が、欲しいんだぜ……」
フランの細い首筋に魔理沙の双つの牙が突き刺さり、その生の証が少しずつ魔理沙に流れ込む。絶えず味蕾を刺激するフランの血液に、魔理沙は心から酔いしれた……。
「美味い…美味いよ、フラン。甘酸っぱいのに十分な栄養価も持ち合わせた、まさに極上モンだぜ……」
鋭い牙をその首に受け、そこから血を吸われた痛みから一瞬苦悶に歪んだフランの表情も、すぐにそれは彼女特有の…魔理沙が好きだった笑顔に変わっていく。
「何だろ…最初は凄く痛いのに、あとはそこがじんじんと痺れて…頭も眼もふわふわとして来て……。よくわかんないけど…とっても、気持ちいいなぁ……」
「ほら…な。お前も、感じるだろ。あの日初めて感じて、それから何度も魅了された、私が好きなこの感覚。だけど…いざそれを与えられる側に立ってみると、なかなかどうしていいもんだろ…」
「うん……魔理沙。こんなに気持ちいいなら、私、もっと欲しいな……」
「あぁ。お前が望むなら…私のでいいなら幾らでもやるよ。そうだ、折角だから…」
先程マットレスに臥させた、自分の身体よりもずっと小さな少女の身体を、もう一度引き起こす。ひざまづいて向かい合う二人の少女…。
「あ……、そっか。二人でやれば……二人同時に首筋にガブっていけばいいんだよね?」
「そういう事。互いの血を同時に、それぞれの身体に流し込むんだ……絶対、気持ちいいって思うぜ」
「でも、これって何ていうのかな……。よくわかんないけど、私…怖い……」
「何が怖いんだよ。私達はもう、幻想郷の摂理の輪からはみ出した存在なんだ。共食いなんて、今更恐れる事ないだろ…?」
「そうだよね…。私には、魔理沙がいてくれるから…もう何も、怖くないよ」
二人の吸血鬼の少女はきつく抱き合い、互いの首元へそれぞれの牙を突き立てる。流れ込む生の証を啜り合う少女達の瞳には、
共食いという禁忌を犯した後悔も、不安もない。そこに映るのはただ、何ら飾り気のない剥き出しの思いに彩られ、燦然と輝きを放つ二人の未来だけ……。
「魔理沙…もう一度、約束出来る?私達…ずっと、一緒だよね……」
「あぁ、約束だ……。もう二度と、フランを一人ぼっちになんかしないからな……」
「うん…約束だよ、魔理沙……。私ももう、魔理沙の傍を離れないから……」
隙間なく重ねた身体を介して伝わる体温と鼓動……。それを感じながら互いに啜り会う血の味は、二人が今までに味わったものの中で何よりも美味なそれだった……。
「うふふふ…まったく今日も睦まじい事で。本当、身内ながら妬けて来ちゃうわ……」
「………」
「どうしたのよ咲夜、浮かない顔して」
「お嬢様。本当に…幸せな事なんでしょうか。妹様はまだしも、魔理沙にとっては……」
「どういう事かしら?」
「一体彼女の幸せは何処にあったんでしょうか。愛する者の生を繋ぎあくまで人として死に逝く事と、人ならざる存在となってまで心から愛する者と永遠を生きる事…。魔理沙にとっては、どちらが幸せだったんでしょう」
「さぁ。だけど…フランにとっての幸せが、あの娘にとっての幸せ。前者と後者、どちらも正解…私ならそう考えるわ」
「魔理沙ならそうでしょうね…吸血鬼となる事は死から解き放たれ、大いなる力を得ると同時に、その身に多くの枷を自ら嵌める事でもある。普通の人間であれば好んでなろうとは思わないでしょう…しかし彼女なら、魔理沙ならどうだったか……」
「…咲夜。今まで魔理沙が人間の型に拘っていた素振りを、一度でも私達に見せた事があったかしら?少なくとも私は見た事ないわね」
「と、言いますと…?」
「フランは魔理沙が人間であっても魔法使いであっても、はたまた妖怪であっても…変わらずあの娘を愛した筈よ。魔理沙も同じように、自分が人以外のどんな存在となっても、それがフランの為ならば甘んじて受け入れていた。
お互いの型がどんなものであれ、二人にとって魔理沙は魔理沙、フランは同じフラン。二人がその答えを絶えず持ち続けた結果が、あの幸せな結末…そうでしょう?」
「…そうかも、知れませんね。釈然とはしませんけど……私も、そう思う事にします」
「よろしい。ま、それはそれとして、咲夜…今夜も、頼めるかしら」
「はい…私でよければ、喜んで」
「そうだわ…貴女もたまには、私の血を受けてみない?」
「遠慮致しますわ。もう暫らくは…少なくとも私が人でいる間は、何かを捧げる側に回らせてくださいな」
「…そう。きっと気持ちいいのに……」
今宵も東の国の山の中の楽園に、真紅に染まった朧月が妖しくも美しい光を投げかける。
湖の畔の赤い館…そこに今も息衝く闇の世界の住人達の幸せは、もはや如何なる存在にも脅かされる事はないであろう。
……この世界に、夜が存在する限り。
あくまで私個人が思った事ですが、展開が急過ぎること、会話にリアリティがないこと、取ってつけたような設定が多いこと、この3点がこの作品を臭い芝居のように見せてしまっています。
実際に会話しているところを思い浮かべたとき、こういう言葉を返すだろうか、こういう反応をするだろうか、と考えると、些か不自然な点が多く見受けられました。
また、伏線が張られずに突然新たな事実が出てくることも問題と思います。
単純に何かあることをにおわせることと、伏線を張るということは似て非なるものです。
あとは、私が不勉強で誤っていたら申し訳ありませんが、吸血鬼同士で血を吸うのかとか、人間が吸血鬼になるのって全部血を吸われた時という解釈が多いようなとか(咲夜の件)、そもそも紅魔郷EXの設定は無視なのかとか、いくらなんでも会ってすぐ欠乏症発症って都合良すぎませんかとか、レミリアとフランでたった5歳しか違わないのに「育ち盛り」という理由で必要摂取量が違うのって不自然じゃないかとか、色々引っかかる点がありました。
地の文の言い回しも、内容に対して若干不自然にくどい。
題材は悪くないと思うので、もっと読者を引き込むような手法を身につけてほしいところです。
今後の作品に期待します。