Coolier - 新生・東方創想話

収束する仕舞た屋誌

2016/06/27 00:37:34
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「やあメリーさん、今日はどうしたのかな?」
 喫茶店の一角で、そんな言葉と共に迎えられたメリーは、渋面を作って対面に座った。
「どうしたのか知れないのは、あなたの方よ。何の真似?」
「作家」
 問われた蓮子が間髪入れずに返答する。
「何かこんなイメージでしょ? きざったらしいというか、もったいぶっているというか」
「そんな事無いと思うけど? 前に行った講演会じゃ随分愛想よくしてたわ」
「そ。ま、あくまでイメージよ」
「それは良いけど、その浮かれた様子、この前書いた博物誌に何かあった?」
 メリーの推理を聞いた蓮子は、喜びを隠し切れない様子でネットを開き、メリーの前に映し出した。
「見なさい、この評判」
 次次と映し出される情報からすると、蓮子とメリー共作の博物誌は随分に好評らしい。突如として掲載された空想世界の博物誌とその著者であるレイテンシーへの関心で、各所が賑わっていた。公のニュースでも取り上げられている。
 生憎ここ数日、別の世界に行っていたメリーは、社会が自分達の博物誌でお祭り騒ぎになっている等知らなかった。
「へえ、こんな事になってたのね。知らなかったわ」
「今の時代、広まるのも強まるのも速い速い。一週間前に発表したばかりなのにこの人気。これから更に凄い事になるんじゃない?」
「そう。なんだか怖いわね」
 口で言いつつ、別に怖いとも嬉しいともメリーは思わない。博物誌はあくまで自分の経験をそのまま蓮子に書いてもらったものであるから内容自体に関心が無いのは当然、またその内容が世間にどう受け止められているのかについても、メリーはそれ程興味が無い。
 博物誌は虚構でしか無いのだ。内容が全くの出鱈目という事ではない。博物誌を呼んだ人間は、内容を信じないだろうから。加えて、実地で体験しなければ結局それは誰かから聞いたお話でしかないから。内容を信じている蓮子にとってすら、あくまでメリーから伝えられた情報であって、経験としては会得していない。伝聞で得た情報はお話に過ぎない。だから博物誌を読んだ人間にとって、内容というのは常に虚構に過ぎない。
 自分の見てきた世界が相手にとって単に虚構でしか無いのなら、それがどんな受け取り方をされようと、メリーにはあまり興味が無い。メリーにとって向こうの世界の体験というのは、自分自身が楽しみ、また蓮子の興味を誘って一緒に楽しめるものであって、蓮子以外の他人に伝えてその反応を楽しむものでは決して無かった。
 今回博物誌を編むに当たっても、蓮子の興味を惹く為にちょっと提案してみただけで、実際に完成させて周囲に見せるなんて思いもよらなかった。蓮子がいやに張り切って完成してしまったけど。
 そんな訳で、世間が賑わっていようとどうでも良いのだが、そんな感情が、目の前で喜んでいる蓮子と酷く乖離している気がして、メリーは何だか苛苛とした。
「なんか反応薄いわね、メリー。これは大変な事よ。世間があなたの見た世界をはっきりと認識したのよ! ほら、みんな読んでる。ここなんか詳しくメリーの世界を考察しているわ。こっちの世界の動植物や文化体系と照らし合わせてね。みんながあなたの世界をこうして見ているのよ!」
 息巻く蓮子にメリーは冷たく返す。
「結局珍しい物語として読んでいるだけよ。誰も信じちゃ居ない」
「当たり前じゃない!」
 さっきまでの言動に反する様な事を蓮子は笑顔で言い切った。メリーは面食らって聞き返す。
「誰も信じていないって思ってるの? いえ、私はそう思ってるけど、蓮子もそう思ってるの?」
「もう一度言うわ。当たり前じゃない! 私だってメリーと一緒に博麗神社の向こうとかトリフネの中に行かなかったら信じられないもの。メリーの事を信用していなかったって訳じゃないわ。信じたいと思ったし、メリーの見る世界はあるんだろうって思ってた。けど実際に自分で行かない事にはどうしたって信じられない。いえ、実感が出来無い。そういうものよ。気を悪くしたら悪いけどね、メリー。あなたと一緒に向こう側へ行かなければ、この博物誌に書いた内容を本当の意味で信じる事なんて出来無い。もしもそういうのを期待していたなら残念ながら、よ」
 それはメリーと同じ考えだ。
 でもそうすると、解せない事がある。
 誰も信じないと分かっていながら、どうして博物誌作りなんてしたのか。
「そんな風に思っていながら、何で私が手伝ってくれたのかって不思議そうね」
「どうして?」
「そもそもね、メリー、書き手の期待と読み手の期待はまるっきり別の物なのよ。相手が信じてくれるかどうかって事じゃない。それを言うなら、信じようと信じまいと、相手が見ているのは虚構に過ぎないもの。伝達という過程を経ればどんな真実だって、受け手の解釈が混じって、虚構に成り下がるのよ。だから読み手がそれをどう受け取ろうと、書き手の期待は決して相手が真実を知る事であってはならない」
「なら蓮子の期待は何だって言うの?」
「決まってるじゃない! 私の大切な親友メリーはこんな素敵な所へ言ったんだって事を、そして私はこんな不思議な所へついて行ったんだって事を、世界の奴等にぶつけてやる為よ! 信じてもらう為じゃない。突きつけて笑ってやる為よ。私とメリーが不思議に立ち向かっている事を、誰も知らないし、知ったって信じない事をね。痛快でしょ?」
「そうね」
 浮ついた蓮子の言葉に、メリーは浮かない返事をする。
 メリーにとって自分の目が見出す世界は、自分と隣り合わせの半身の様なものであると同時に、蓮子との結びつきを強くしてくれる絆の様なものだ。メリーの見る世界は突き詰めれば、蓮子との間に交わす魅力的な秘密であり、それがいたずらに他人へ吹聴されるというのは、はっきり言えば面白く無い。どうせ誰も信じないからと、ネットの海に揺蕩わせる事を許可したが、信じる信じないに関わらず世界中に自分達の秘密を突きつける為だというのが蓮子の思惑であるなら、何だか蓮子が自分達の秘密を蔑ろにしている様で、不快感が湧いて出る。
「そうね」
 だが気が付くと、メリーは口の端に笑みを漏らしていた。
 自分がどう受け取ろうと、蓮子は自分達の秘密を特別なものに思ってくれていると分かったから。今回の事は子供が自分の見つけた特別なものを、秘密にしておこうと思いながらも、我慢出来ずに吹聴して回る様に、蓮子はただ無邪気にはしゃいでいるだけなのだと分かったから。
 そして蓮子が自分の事を大切だと言ってくれたから。
 自分の苛立ちなんか下らない事に思えて。
 結局一番大切なものが何かというのはいつだって変わらない。
 だからこそ、この博物誌を世に流す事を提案し、賛同したのだから。
「蓮子の目的は達したの?」
「ええ。言ったでしょ? 大盛況だって。一体どれだけの人が私達の体験を目に止め驚嘆しているのか分からない」
 蓮子の笑顔が眩しくて、メリーは目を細めて笑う。
「それは凄い。これは私の大切な蓮子が持つ素晴らしい筆力があったからに他ならないわね。蓮子、学者じゃなくて作家になったら?」
「私の将来はともかく、書籍化すれば大金持ち間違い無いわ。どう? 本にするのは嫌だって言ってたけど、今からでも製本して」
 蓮子がずいと顔を差し出してきたので、メリーは困って身を引いた。
 熱に浮かれていた感情へ水を掛けられた気がした。
「それはちょっと」
「別に紙でもデータでも一緒じゃない」
「とにかく嫌なの」
 それだけは頼まれても出来無い。
 データと紙に何が違うのかと言われると、確かに何ら変わりないとは思う。
 けれど何か違うのだ。指先一つで消せるデータと燃やすなり溶かすなりしなければならない紙とでは、形に残るという違いがある。形に残るから何だと言う話だけれど、向こう側のあの化物達の情報が形に残ってしまうのは違う。いや恐ろしい。
「前に言ってた保存性の問題って言うなら、データでも本でも変わらないわよ。むしろデータの方が残りやすい」
 言われるとその通りで、何か早まった事をしてしまった気がする。
 でも今更後には引けないし、嫌なものは嫌なのだ。
「ま、冗談よ。別にお金を稼ぎたい訳でも無いし」
「ありがと」
「私もね、メリーと同じで、本にするのは嫌だしね」
 なら本にしようという話は何だったのだ。
「だから冗談だって」
 蓮子が同じ考えを持ってくれたのなら良いけれど。
「だって、ねえ、データなら半永久的に残るって言っても、意識としてはさ、紙に書いた方がずっと残る感じがするじゃない? そうなると何か不安なのよね。メリーの話す向こう側を記すのは」
 それも自分と同じ考えだ。
「私も、蓮子と同じ。何か怖い感じがするのよね」
 メリーが同意を求めて言葉を継ぐと、蓮子は首肯する。
「そう。何かね」
 それが何かは分からないけれど。
「変な不安。向こうの世界に対して、なのかな?」
 分からない。
 言うなれば、理由の無い不安。
「理由が無いなんて事は無い。物事の根源以外には全て原因と結果の連鎖が付き纏っている。恐れているのなら何かを恐れている。それは何?」
 蓮子の自問自答が続く。
「形に残すのが怖い。何故? 恐れているのは何? 形というのなら、データだって形なのに」
 何だか周囲の空気が一段冷たくなった気がした。
 自分の中の無意識が、何かに気が付いた様に。
「もしかしたら思い違いをしているの? 紙もデータも同じ。それに気が付いていないだけで。データにしてもいけなかったんじゃ」
 ふと背筋に怖気が走った。

「蓮子、良い? よく聞いて」
 電車のボックス席の向かいに座る蓮子に、メリーは神妙な顔で話し掛けた。外の景色を眺めていた蓮子がメリーに顔を向けると、メリーは口の前に人差し指を立てる。
「良い? これから何があっても驚いたり、変な声を出したりしちゃ駄目よ」
「何よ。そんな」
 化物が傍に居るかの様な物言いだ。
「良い?」
 メリーが一段と声を沈める。
「ゆっくりと慌てずに、私の視線の先に座る人を見て」
 その言葉に促されて、蓮子は恐る恐る振り返り、メリーの視線の先を追い、二つ先のボックス席に座る乗客へ目をやった。
 その瞬間、蓮子は漏れ出そうになった言葉を両手で抑え、急いでメリーと向かいあう元の態勢に戻る。
 そしてメリーと同じ様に声を沈めて、それでも抑えられない喜色を発した。
「博物誌だ」
 メリーに言われて見た乗客は、本を読んでいた。その装丁には見覚えがある。他でも無い。一週間前に二人が発表した博物誌だ。主にメリーの体験を、主に蓮子が執筆したもので、本にして何件かの本屋に頼み込んで並べてもらったものだ。
 初めの二日は二人で各本屋を巡り、購入者の顔を確認しようとしたが、手に取るところを窺えないばかりか、一冊も売れなかった為、落胆して諦めていた。それがこんな所で購入者を見かけるなんて。
「やっぱり見る目のある人は居るんだわ」
「し! 蓮子、折角読んで下さっているんだから静かにしなくちゃ」
「そうね」
 二人は息を潜めて、自分達の博物誌を読む乗客にちらちらと視線を送っていたが、乗客は特別表情を変えずにページを捲り続け、やがて何の反応を示す事も無いまま、次の駅に到着して降りていった。
 乗客が居なくなった事で、二人は溜めていた息を一気に吐き出した。
「どうかしら? 面白そうともつまらなそうともつかない顔だったけど」
「頭の中までは見えないからね。でもずっと読んでてくれたんだから、きっと面白いと思ってくれたって信じているわ」
 蓮子が力を込めてそう言うと、メリーも嬉しそうに頷く。
「それにしても買ってくれた人が居たなんて。全然売れてなかったのに」
「あの後買ってくれた人が居たのね。誰も手に取らないし、売上も三日目まで零だったから聞くのやめてたけど」
「もしかしたら結構売れてたりして」
「えー、そんな宣伝もしてないのよ」
「まあね。でも口コミでって事も」
 そう言いながら、蓮子はネットの評判を調べだしたが、見つからなかった様子で残念そうに閉じた。そして気を取り直した様に口を開く。
「とにかく、買ってくれた人が居たのは間違いないわ」
「ええ、そうね」
「見たところ大学生だったわね。前の駅で降りたって事はうち等の大学の可能性も大いにある」
「そうねぇ。まあ他にも大学は一杯あるけど」
「でも可能性はある。そしてあの人はあまりの面白さに驚嘆し、周囲に触れ回るに違いないわ。そして、えー、誰このメリーって人すごーい、秘封倶楽部なんてサークルがあるんだー、あれ秘封倶楽部ってうちの大学じゃない、こんな素敵な事が体験出来るなんて私達も入らなきゃーとなって、一ヶ月後には一大サークルとなった秘封倶楽部の姿が」
「それは流石に無い」
 にべもなく切って捨てたメリーは、走り出した電車の窓から駅のホームを見つめる。先程博物誌を読んでいた人の影は何処にも無い。だがこの駅の何処かに、いやこの世界の何処かに、自分達の博物誌を読んでくれている人が居るかと思うと、何だかこそばゆく、高揚した。
「蓮子、今も何処かにあの人は居るのね」
「そうよ。もしかしたら家に帰るのも待ち切れずにそこ等のベンチで読んでいるかもしれないわ」
「そして他の誰かも買っているかもしれない。少しずつ、少しずつ、私達の博物誌は広まっていくのね」
「そうよ。じわりじわりと広がり、段段と早くなって、やがてはこの国を、いえこの世界を覆い尽くす。そう疫病の様に! 秘封倶楽部という名の熱病はやがて人人を理想郷へと駆り立て、私達を先頭に約束の地へ!」
「それじゃ危ない団体よ」
 メリーは笑い、諭す様に言った。
「疫病を伝える鼠がファンタジーを届ける事は無いわ。鼠が来れば物語はお終い」
「クラック! 二十日鼠が来たって私達の秘封倶楽部は終わらない!」
 強気な言葉で頼もしく思えるが、何にせよ、疫病は違うとメリーは笑う。
「蓮子。私達の博物誌を例えるなら、それは疫病じゃない。噂よ。頼りなくて浮ついて、本当かどうかも分からない、まして実生活に影響を与える事なんて滅多に無い噂。それが私の見た世界で、そして博物誌が載せた意味なの」
「ふむ、詩的で素敵、と言いたいところだけど、四十九日で消えるのは御免だわ」
「噂にも色色あるの。すぐに消えてしまう噂もあればそうでないものもあるわ」
「なら私達の博物誌は大丈夫ね。時間で消える様な軟な噂じゃないわよ、私達の子供は。本ていう形にしてあるし」
 冗談で使った子供という表現だが、蓮子は妙にしっくりくるのを感じた。メリーにしても同じだ。秘封倶楽部や今回の博物誌が二人の子供だという表現は、部外者から大袈裟で気取っていると取られかねないが、二人の間に於いては決して正鵠を失したものでない。正に、そしてあらゆる意味で、秘封倶楽部とその活動をまとめた博物誌が二人の子供であるという表現は、二人の出会いから今日までに紡がれた原因と結果の因果に於いて一切の綻びなく当て嵌まる。
 自分達の子供が今、世の中を我が物顔で歩き始めている。
 そんな想像に、メリーは不安を一切覚えない。
 子供の初めてのお遣いを見送るのとは違う。成人した子供を送り出すのとも違う。秘封倶楽部や博物誌の性質そのものは子供であるけれど、今の気分は子供を見送るのではなく、見送るのは。
「猫」
「え? 何?」
「あ、何でも」
 思わず飛び出た言葉に、蓮子が食いついた。
「猫? そうね。私達の博物誌を例えるのに、それは良い表現だわ。知ってる? 猫って長い間生きていると猫又になるのよ」
「猫又って?」
「そういう妖怪。尻尾が二つ以上ある喋る猫。可愛いでしょ?」
「そうね。なら私達の噂も?」
「そう! 長い年月を経る事でパワーアップして帰ってくるに違いないわ」
「喋るのかしら」
 尻尾が二本で喋る噂なんてどんな姿かメリーには想像もつかない。
「猫又は例えよ。とにかくそんな風に、私達の体験は年を経る事で何かすんごいのになるの!」
「長い年月を掛けて、か」
 そうやって変質していくものがあった気がする。いや、何でも長い時間を掛ければ、変わっていくものだけれど。
「メリーもわくわくしてきた?」
「そうね」
 何だったか。
 ああ、そうだ。
「妖怪ね」
「妖怪? メリーが向こうの世界で見るっていう?」
「いえ。私達の世界の妖怪」
「ああ、そっち。架空の怪談ね」
「そう。でもね、妖怪は実在するの。長い年月人口に膾炙し続けた噂は妖怪を生み出す土壌になり、社会の共通認識の中で妖怪は具現化するのよ」
「夢見がちね、メリー。それでも科学者?」
「私の専門は夢も扱うもの」
「そっちの夢じゃ無いでしょう? ま、そんな目を持ってたら夢を見るのも当然か。世の中何でもありだって気になるものね」
「そんな事無いわ。物事には必ず順序がある。それが、科学の基本でしょ?」
「勿論」
「だから、噂話が時間を掛けて妖怪の土壌となる。これも順序、科学の範疇よ」
「今の時代に妖怪が現れたなんて聞かないわ。もしもそれが科学だというのなら、それはきっと紀元前、神代の物理学よ」
「どうしてかしら?」
「どうして?」
「どうして妖怪を見なくなったのかしら。紀元後にだって妖怪が現れたって文献はあるのよ? だけど今は聞かない。それは何故?」
「あくまで妖怪が居るって前提で話すつもり?」
「勿論。私は科学者だもの」
「きっと、昔と今に何か違いがあるんでしょう?」
「違いって?」
「そうね、例えば」
 蓮子が思いつきを口にしようとした時、電車が目的の駅に着いた。
 二人は慌てて広げていた物をしまい、列車を飛び出す。
 その瞬間閃いた蓮子は、電車から降り立つと、嬉しそうにメリーへ振り返った。
「分かった。何故妖怪を見ないのか」
「本当に?」
「それは境界への理解が発達したからよ」
 自信満々にそう言いながら、蓮子は自分とメリーの手荷物を見比べ、平等になる様にメリーから袋を奪い取った。
「メリー、あなたは前に境界の向こうに妖怪が居るって言ってたよね? それよ」
 蓮子と一緒にエレベータに乗り込むと、他にも乗客が居て、自分達二人だけに通じる会話がメリーには恥ずかしく思えた。
「私が言った妖怪とこっちの妖怪は」
「おんなじなのよ!」
 蓮子が高らかに謳う。
 エレベータに同乗する他の客が驚いて身を引いているのに居心地の悪さを覚えつつ、メリーは蓮子の猛りを落ち着ける為に声を落とした。
「どういう事?」
「メリーが境界の向こうの相手に妖怪と名付けた事には意味があるって事」
「何となくよ。怪物、だとあまりにも攻撃的な言い方だから妖怪」
「いいえ、きっとあんたは本能的に察知したのよ、相手の本質を」
 蓮子がどんどんヒートアップしていく。周りの事なんてお構い無しな態度に、メリーは縮こまりつつ、エレベータの戸が開くなり、蓮子を引っ張って真っ先に降りた。
「蓮子に恥ずかしいって気持ちは無いの?」
「恥で満足出来るなら恥じても良いわ。とにかく、メリーが見た境界の向こうに居る奴等はこっちの世界でかつて妖怪と呼ばれた存在だった。そう考えれば、今妖怪を見ない理由がつく。妖怪は境界の向こうの住人で、昔はそれがこちらの世界にやってきていた。だけど今の時代、境界を破る事は禁止されている。かつては無造作に開かれていた境界は全て閉め切れられた。だから向こうから妖怪が来れないの」
 その理屈は、メリーが境界の向こうの彼等を妖怪と呼んだという一点のみが根拠だ。要は何の根拠もない。
「幾ら禁止されていると言ったって、研究なんかで許可が降りれば開ける事が可能だし、私みたいにその禁を犯す者も居る。ならそういった人達はみんな妖怪を見ているって事?」
「勿論」
「でもそんな話聞かないわ」
「それは見ているのに見ていないと思っているから。例えばメリーは微生物が見える?」
「妖怪は小さいって事?」
「違う。小さいと見えない事がある。それ以外にも見えない条件というのは様様に存在する。人間の感覚器官も人間の作った機器も限界があって、その限界の先を捉える事が出来無い。小ささで言えば、微視的な空間で粒子は奇妙な振る舞いをする」
「波になったり?」
「そういうのもある。運動方程式だって違う。ただそれは極小の空間と私達の知る日常空間がずれているんじゃない。極小の空間で起こっている本当の動きを、私達の生活では見る事が出来ていないだけ。運動方程式で言えば、光の速度の項を私達は捉えられていないの」
「分かったわ。つまり妖怪にしても、私達にまだ見る準備が整っていないだけって言いたいのね」
「そういう事。向こうの妖怪がメリーには揺らいで見えたんでしょ? もしかしたらメリーは人よりもちょっと見え方が分かっていて、でも完全には見えていないのかも」
「でもそれだって変よ。だって昔の人間は見れたのよ? ならどうして」
「今は噂が無いからじゃない? いえ、逆ね。蔓延しているの。妖怪が存在しないという噂、共通認識が蔓延しているからよ」
 一体今の世の中、誰が妖怪が居るだなんて信じる?
 居るかもしれないと思えても、必ず居ると信じている人なんて、きっと世界中探しても数える程しか居ないに違いない。
 もしかしたら世界の何処かでは妖怪を見ている人達が居るかもしれない。
 でもそれは、極一部の話であって、今の世の中、極一部というのは存在しないに等しいのだ。あまりにも小さくて。
「なら私も、小さい粒子の一つなのね」
「そうね。それは誰だって同じ。例えメリーが幾ら境界の向こうを見たって、メリーが見るだけなら、それは方程式上無視する事の出来る極小の値でしかない」
 誰も感知し得ない事は存在しないという事なのか。
 答えは否だとメリーは思う。
 自分の見たものは確かに存在したと胸を張って言える。
 いつの時代も、そして誰にとっても常に、地球は球体であったと、メリーは信じている。
「そう言えば、ミクロの世界で、物質は重なりあっているんだったかしら?」
「存在がね」
「なら実は、今も私達が見えていないだけで、私に重なりあった私が居る筈なのね」
「もしかしたら博物誌を出していないかもね」
「そもそも境界が見えない私かも」
「そうすると私達は出会っていなかったのかしら?」
「そうすると秘封倶楽部も出来ていないわね」
 それは悲しい世界だ。
 二人が三叉路を右に曲がる。
 不意にメリーの鼻を亜麻色の髪がふわりとくすぐった。感覚がした。自分の髪の毛だろうと思う。後ろで縛っているから風になびく筈が無いけれど、他に同じ髪色の人は周りに居ない。
「もしかしたら今の道を左に曲がったかもね」
 蓮子の言葉を聞いてある可能性に気が付き、メリーは慌てて三叉路まで戻った。
「急にどうしたの? メリー」
 自分が選ばなかった、三叉路の左の道を見渡すと、往来する人人の中に、金と黒の頭が並んで歩いているのが見えた。様な気がした。
「どうしたの?」
「ううん。ただ」
 今見たものが気の所為なのか、本当に見えたのかは分からない。いや見えたとしても、金髪も黒髪も何処にだって居る。でも。
「何よ」
 二人は並んでいた。
「ただ、きっとどんな状況の私でも、私は、蓮子に出会って、秘封倶楽部を作って、こうしているんじゃないかなって思っただけ」
 それを聞いた途端に、蓮子が吹き出した。
 メリーとしては感情を込めて言った言葉だったので、それを馬鹿にされた気がして気分が悪い。
「何言ってんのよ、メリー」
「馬鹿な事言った?」
 すると蓮子は小馬鹿にする様に肩を竦める。
「当たり前じゃない」
 蓮子の言葉に、メリーは軽い失望を覚える。
 この感情は自分だけのものなのかと。
「そうね」
 だがその失望を蓮子は裏切ってくれた。
「秘封倶楽部は不滅なのよ!」
 そう叫ぶ。
 周囲の人人がその奇抜さに目を向けてきたが、蓮子も、そして今だけはメリーもその視線が気にならない。
「どんな時間、どんな世界、どんな歴史を辿ったって、私達は出会い、秘封倶楽部は出来る。これは必然なの!」
「でもさっき」
「出会わないかもってのは冗談。私とメリーが出会わない訳が無いでしょ! 想像出来る? そんな世界」
 それでもう、メリーは救われて、何もかもが蕩けていく。
「まあ、もしかしたら、秘封倶楽部の無い世界はあるかもしれないわね。でも何処でだって、私達は何かしら馬鹿やってるわ。それは間違い無い」
 蓮子の心地良い言葉を聞きながら、もう一度自分の選ばなかった道を見渡した。
 もうそこには単なる往来しか見えないが、きっと自分達とは別の道を選ぶ自分達も居るのだろう。けれどそれに不安は無い。寂しさも感じない。どんな道を選んでも、選ぶのは二人でだからだ。
「行きましょう、蓮子」
「うん。あ、そうだ、さっきの話に戻るけど」
「可能性の話?」
「私達の博物誌の話よ! 売れちゃったでしょ? どうしましょう! 何だか恥ずかしくなってきたわ」
「ああ、そうだったわね。どうしましょう」
「これから大変よ。大売れに売れたとしたら」
 蓮子が嬉嬉として皮算用を語り出す。馬鹿売れ間違いないという蓮子の語りを聞きながら、メリーは確かに自分達の本がこれからどんどん広まっていったらどうなるのだろうと、ふと疑問に思った。
 その心配も隣の人がしてくれているから良いかと思考を止めて蓮子の節税対策に耳を傾ける。

 メリーは踊る様な足取りで博物館の廊下を駆けた。居並ぶ展示品には脇目も振らず、一階に鎮座する愛しの蓮子の下へひた走る。やがて一階に辿り着いたメリーは、転げる様に蓮子の前へ飛び込んだ。
「聞いて、蓮子! 凄いのよ!」
 胸に掻き抱いていた一冊の本を蓮子に見せびらかす。
「これ! 何だと思う?」
 その表紙に書かれている題字を読み上げたメリーはもう分かったでしょと首をかしげた。
「そう、私達の書いた博物誌。私の見た世界を、私と蓮子が書いた博物誌。それがこの本なのよ!
「私達が大学生の時に一緒に行った様様な冒険の事が書いてあるの。とても興味深いじゃない。
「これを世界中の人が読んでる。世界中の人が私達の冒険を知る事になるのよ?
「え? そうねぇ。飾る場所は、やっぱり入り口かしら。この博物誌は私達の活動を他人に知らしめる為の象徴だもの。
「来客はこんな手順を辿る。まずはこの博物誌を読んでこれから観覧する博物館へ思いを馳せて、そして実際に踏み入れると、そこには正装した蓮子と私が出迎える。きっと誰もがその綺羅びやかさに目を細め、私と蓮子を羨むの。
「内容? まあね。確かにその通りよ、蓮子。あなたの言う通り、これは、危ないものだわ。ブレーンに干渉する為のものだもの。
「例えば、かの岡崎夢美が開発した四次元ポジトロン爆弾は重力場を歪める事でブレーンに干渉し、ブレーンを破壊する事で、世界を壊す恐ろしい爆弾よ。四次元ポジトロン爆弾を使えば、地球だとか宇宙ではなく、本当の意味で世界そのものを壊す事が出来る。
「ブレーンとは世界を支える柱であり、また世界を隔てる膜でもある。これに干渉するというのはどういう事か。そうね。蓮子には釈迦に説法。世界そのものをどうにか出来る。
「あら、私の目はそこまでの事は出来無いわ。単に自分自身をその世界のブレーンから浮き上がらせるだけ。だからブレーンに干渉されずに世界を超える事が出来るけれど、ブレーンに干渉する事は出来無い。
「ブレーンから浮き上がる能力を多用する私は、自身とそのブレーンとの間に齟齬をきたしてやがてその世界に居られなくなり、別の世界へ放浪する事になる。隣に蓮子が居てくれればあなたの目の力で齟齬を補正し、世界に留まり続ける事が出来るのでしょうけれど、世の中何が起きるか分からないし、もしかしたら何処かの世界の私は別の世界に移動したかもしれない。勿論蓮子と一緒にね」
 メリーはそこで言葉を切った。
 息を吸って吐く。
 別に普段は呼吸なんてしていないんだから、息継ぎなんてする必要は無いが、とかく会話とは雰囲気が大事なのだ。
 吸い込む息と共に、薔薇の甘い香りが舌を撫でる。
 例えばこの匂いが、納豆だとかくさやの匂いだったらどうだろう? この真っ白な大理石作りの、世界中の美品珍品、そして何より蓮子を収めた美術館で、折角蓮子と一緒に素敵な話をしているというのに、そこへ流れてくるのが納豆やくさやじゃ、あまりにもしょうもない。勿論蓮子との会話はどんな状況であろうと素晴らしいものではあるけれども、その中にだって優と良の違いは存在するのだ。
 一息吐いたメリーは、蓮子以外の事を考えていた自分を恥じて、蓮子に笑みを見せ、そして話を続けた。
「そうそう、この本の危険性だったわね。
「ブレーンというのは世界の柱であり壁。同時にセキュリティでもある。一人一人がそのブレーンの身分証明を持っているから存在出来る。そのブレーンにそぐわないものは、ブレーンの中で存在する事を許されない。あるいは往来を拒む三途の川に曝された染め物に例えても良いかもしれないわね。小さな模様の一つ一つが私達。それが集まって世界という染物が出来ている。薄っすらとした青の清涼な色物に毒毒しい極彩色の染みがあったら目立つでしょう? 汚れかしらと思って抜こうとするのが普通だわ。それと同じ。淡い青の世界には同じ清涼な模様しか似合わない。例え結界破りをして三途の川の向こうへ行ったって、似合わない色は追い払われる。
「ただ判じる者を誤魔化す事も出来るわ。私の様にブレーンから浮き上がって干渉を受けない様にする事も出来るし、行きたいブレーンに馴染んだ模様に自分を作り変える事でもブレーンを誤魔化せる。案外ブレーンの警備は緩いのよね。
「それだけじゃないわ。全く異なるブレーンに、偽造も使わずに移動する方法もある。方法は口にするだけなら簡単よ。ブレーンを、世界を変えてしまえば良い。自分が極彩色から変われないのなら、相手の世界を極彩色の模様に変えてしまえば良い。
「模様は模様。あくまで布地が着色されたものであって、元から描かれていた訳じゃない。どんなブレーンの模様も、ブレーン内での運動が積み重なる事で、それぞれの模様が組み上がっている。だからその模様は書き換える事が出来る。いいえ、少しずつけれど常に上書きされ続けている。それを自分の望む方向へ進めるのも不可能じゃない。
「死者は生者の世界に存在出来無い。人ならざる化物は人間の世界に存在出来無い。この博物誌が書かれたのはそんな生者である人間の世界みたいね。きっとこの世界の人達はみんなそう信じている。死者は死者。化物は化物。生者である人間はそれ等が存在するなんて思っていない。だから死者も化物も存在出来無い。死者と化物の不在性は、各個人の世界観に刻み込まれ、撚り集まり構築された人間原理によって、世界の模様として描かれている。そんな世界で死者と化物を存在させたいと願うなら、人人の世界観を一つ一つ塗り潰し、その結果として世界の模様を変える必要がある。死者の徘徊する世界に、化物の跋扈する世界に。
「そんな風に、ブレーンをテラフォーミングしようとする輩と言えば、例えば妖怪ね。妖怪の取った人間社会での存在確立は実に気長で実に巧妙だった。妖怪達が使う力はほんの少しで良い。ただ少し、噂を流せば良い。それを信じる者が増えれば、自分達の居場所が出来る様な、伝承や怪談話、都市伝説、様様な呼び方をされる怪異の噂を世に流す。それは短時間にあるいは長期間の内に巷間に広まり、やがて噂によって人人の世界観は変質し妖怪達は世界に立脚する。勿論失敗する事だってあるわ。でもそれは問題にならない。噂を広める事に失敗したとしもて、それは単に時代や社会にそぐわなかったから。一度失敗したって、継続的に噂を流して次の機会を待つでもよし、あるいはより相応しい噂となる様に、自らの存在を少し変質させて、それを元に新たな噂を流せば良い。倦む事無く、飽く事無く、妖怪達は気長に自分達が広まるのを待ち続けている。
「その例で最も成功したのはヴァンパイアかしら。各所に点在した吸血する妖はやがてその存在を保てなくなったけど、構築されたヴァンパイアの噂に便乗して、ある者は己の姿を人型に変え、ある者は己の体を日の光で蒸発する様に変え、ある者は己の性質を磔刑の象徴に身を震わせる様に変え、ある者は己の糧を人の血に変え、元の伝承も本来の己の姿も省みる事無く、多くの妖怪達がヴァンパイアという噂を土壌として社会に現れた。
「あら、優しいのね、蓮子。そうね、確かに寂しい事だわ。自分自身すらも歪めて存在しなくてはならない事を寂しいと捉える事は別におかしい事じゃない。私達の様に初めから最後まで己を保持し続ける事が出来る幸福者にとって、それが出来無い事はとても寂しい事。でもね、蓮子、決して他人事じゃないのよ。もしかしたら何処かの世界で、私達は存在する為に名前や姿を変えているかもしれないわよ。何処かの世界ではね。この世界では絶対に許さないけれど。憐れむ事じゃないわ。あらゆる可能性は常に付き纏っているんだもの。私と蓮子が離れ離れになるという可能性以外はね。
「まあ、ともかく妖怪とはそういうもの。ある時は神様にある時は化物にある時は掟にある時は動物にある時は手紙にある時はデータにある時は預言者にある時は団体にある時は個人の内面に、言い出したらきりがないわね。様様に形を変えて世界に己の存在を確立してきた妖怪達。どうしてそうまでして人間の世界に来ようとしているのか、私には分からないけれど。そんな良いものでもないのにね。
「世界の模様を常に変わり続けているし、自分達の存在を確立させようと狙い澄ましている輩は常に居る。だから気をつけなくちゃいけないのね。だって何が切っ掛けで世界が変わってしまうのか分からないんですもの。客人が齎す技術はとても魅力的だけれど、風習を打ち壊す者であるなら殺さなくちゃいけない。水際で止められれば良いけれど、一度傾けば後はあっという間。若い者から順番に変質して昔の面影はそっくり消えてしまう。
「もしも外からの変質を恐れるなら税関が必要ね。安全で必要な物だけを迎え、危険で不要な物は排斥する。そうすれば自分達の世界を保つ事が出来る。世界が変わった事を嘆き、昔を懐かしむばかりなんて事態を避ける事が出来る。それが出来無い癖に、向こうから脅威が流入してくると気が付かず、境界の向こうには未開の新天地があると盲目的に信じ切って、ただただ技術に酔って、やがて破滅していく世界が実に多い。
「私ならそんな事にはしないのに。蓮子もそう思うでしょ?
「いいえ、それは今更よ、蓮子。今更何処かの世界を管理したいなんて思わないわ。私が望むのは蓮子と私の永遠。世界はそれを取り巻く様にあれば良い。私と蓮子の世界に変化は要らない。だって疲れちゃうでしょ? 変化する世界を管理するなんて。そんな事に気を回しているよりも、お喋りしていたいのよ、蓮子とね。
「照れた顔も素敵よ、蓮子。
「そろそろ疲れた? ずっと立ちっぱなしだったものね。
「ええ、また会いましょう、蓮子」
 メリーは入り口の脇に置いてあるウェイティングスタンドの上に博物誌を載せ、蓮子に手を振って外へ出た。
 外に出ると快晴で、気持ちの良さに伸びをすると、爽やかな風が目の前に広がる薔薇園の香りを運んできた。
 思わず笑みのこぼれる気持ちの良さに、メリーは次に蓮子と会うまでの時間を外の散歩に費やす事と決め、一歩、庇の影から陽光の下へと踏み出した。
 行く先は特に無い。
 薔薇の園は何処までも続き、青空は果てしなく広がっている。
 行く先というものは何処にも無い。
 無限遠へ続く快晴の下、結界の罅割れが何処にも無い事に満足して、メリーは鼻歌混じりに歩き出した。

 魔理沙が借りた本を返しに鈴奈庵へ寄ると、何やら本を読んでいた小鈴が眼鏡を外し嬉しそうに顔を上げた。
「あ、魔理沙さん、今日は霊夢さんと一緒じゃないんですか?」
「一人で来ちゃ悪いか」
「そんな事ありませんけど、よく一緒に居らっしゃるから。二人で一人みたいな」
「私は霊夢のお守役になった覚えは無いけどな」
 苦笑しながら小鈴の下へ歩み寄り、借りていた本を机の上に置いた。
「どうでした?」
「んー、面白かったぜ。借りる前にアンフェアだからって警告されたけど、気にならなかった。ま、確かに犯人には最後まで気が付かなかったけどな」
「容疑者全員犯人ってのは、人によって嫌がるみたいで。返す時に怒る人も居るから」
「私はトリックの解明よりも物語として読む方だからな。ポアロ凄い、で満足だぜ」
「私も魔理沙さんと一緒」
「次は何を借りようかな。また探偵小説が良いな。アンフェアもどんと来いだぜ」
 小鈴は魔理沙に急かされて苦笑して立ち上がろうとしたが、浮かせた腰を下ろして魔理沙に向き直った。
「そうそう。その前に、丁度良く来てくれたから、魔理沙さんにちょっと」
「何だまた厄介事か」
 小鈴が不服そうな顔をする。
「またとは失礼な。それじゃ私が毎回災難を起こしているみたいじゃないですか」
「実際そうだろ」
 魔理沙は近くから椅子を引いてきて遠慮無く座り、小鈴が読んでいた本に目をやった。
「どうせまた、危ない妖魔本でも仕入れたんだろ?」
 表紙を見るに、何かの博物誌らしいが、その割には魔理沙が借りていた本の半分位しか厚さが無い。ブリタニカ大百科とまでは言わないが、博物誌を名乗るならもっと分量があって良い。
「そうじゃなくて、ただこの本の内容について聞きたい事があったんです」
「内容? 私、魔術に関わる事以外はからっきしだぜ」
「この本は博物誌って名前がついてるけど、旅行記に近いの。旅の記録と、旅先で見た事や体験した事の考察」
「何だ大した内容じゃ無さそうだな。レイテンシーってのは? 有名な作家なのか?」
「この作者の本はこれ一冊だけ。あ、私が見た事無いって意味」
「ふーん、レイテンシーってのもふざけた名前だけど」
「どうしてですか?」
「レイテンシーってのは表に出ていない内在的なものって意味だから。それもいずれ表に出るって含意がある。大方、世に認められない自分はあくまで臥龍なんだって事でつけたペンネームだろ」
「じゃあいつか表に出てくる」
「と本人は信じてつけた名前だろうな。それ一冊だけってんなら世に出なかったんじゃないか? まあ、私がレイテンシーって言われて思い浮かぶのは、感冒だとかの病気だけどな」
 じゃあ本名じゃないんですねぇと言いながら小鈴は博物誌をめくる。
「それで聞きたい事ってのは?」
「この内容、実に突飛なんですよ」
「例えば?」
「宇宙に行ったり」
「ほう、そりゃ凄い。でも珍しくないぜ。宇宙に行く小説なんて一杯ある」
「でも小説っていうよりは、やっぱり書き方が旅行記、現実にある事の様に書いてあって」
「そういう小説もあるだろ」
「それだけじゃなくて、実は博麗神社についても書いてあるんです」
「何?」
 小鈴の取り扱う本だから外の書物だと思っていたが、博麗神社について書かれているのであれば、幻想郷内で書かれた物という事か。
「幻想郷の本なら、私に聞くより、そこ等の古老に聞いた方が良いんじゃないか?」
「違います。外から見た博麗神社について書いてあるんです」
「ああ、そういや表は外を向いてるんだったな」
 魔理沙は幻想郷の成り立ちを知らないが、この隔離された幻想郷が博麗神社を柱にしている事は分かる。博麗神社を礎に幻想郷を作り上げたのなら、その元となった博麗神社は現実世界にも存在しておかしくはない。
「ええ、この博物誌によれば、既に打ち捨てられているって書いてあります」
「一帯を結界の中に引き込んだんだろうからな。近くに人が居なくなれば神社も用を無くすだろうさ。ましてや巫女がこっちに来てるんじゃ誰が神社を管理するんだ?」
「それは神主さんとか」
 外の世界ではそうなのかもしれないが、幻想郷では違う。博麗神社を管理するのは博麗の巫女と相場が決まっている。初めから博麗神社とはそういうものであったのかもしれないし、もしかしたら長い年月を掛けて変化していったのかもしれない。
「霊夢さんの一族が代代巫女を継いできたって事ですよね」
「霊夢に家族が居るなんて聞いた事無いぜ」
「そうなんですか?」
「そう。私は誘拐されてきたんじゃないかと睨んでる」
「誰に?」
「紫とかその辺り」
「ゆかり?」
「八雲紫。スキマ妖怪。知らないのか?」
「聞いた覚えがある様な気はしますけど」
 幻想郷の管理者を知らない事が魔理沙には不思議だったが、よくよく考えて見れば、いつも顔を合わせている自分や霊夢はともかく、普通の人間は元元妖怪と縁遠いし、まして八雲紫のお世話になる事は少ないのかもしれない。あいつは出不精だしなと独り言ちてから、魔理沙は本題に戻った。
「ま、あいつの事は良いとして。質問ってのは霊夢の事か? そういうのは霊夢に聞けよ」
「いえ、今のは、たった今、ぱっと思い浮かんだだけで。そうじゃなくて私が聞きたいのは、外の世界の事です」
「答えられる範囲でなら」
 外の世界に行った事の無い自分に聞いても仕方が無いのにと内心魔理沙は肩を竦める。
「この博物誌によると、もう世界に妖怪の存在は居ないみたいな事書いてあって。それって本当なんですか?」
「何だそんな事か。それはそうらしい。居ないというか信じられていないんだとさ。早苗が言ってたよ。神様も妖怪もみんな信じてないって。だから幻想郷に来たんだとさ。でもそれが? 外の本を読んでれば何となく分かるだろ」
「まあ、知識としては。でも、何と言うか、不思議で。妖怪って、確かに積極的には関わらないけど、すぐ隣に居るのに、それが居ないって、分かってたんですけど、よーく考えてみると、何か、変」
「よーく、ねぇ」
 言われてみればそれはおかしな事かもしれない。そこ等をうろついている確かに実体を持った奴等が、外の世界ではもう居ないという感覚は、幻想郷の中に居る者達には分からないのかもしれない。魔理沙自身、知識としてあるが、それが理解にまで及んでいるかと言われると怪しいものだと自分で思う。妖怪は居ない。それは言葉の上での認識であって、実際に妖怪の居ない世界を想像しろと言われても、中中出来そうに無い。ただそれを言うならば、書物に出てくる様な、幻想郷よりもずっと発展している世界だって想像がつかない。先日異変の騒動で外へ出たが、今は記憶が薄らいで、何だか煌めいていた程度のあやふやな印象だ。
「変なのは仕方無いだろ。見知らぬ外国の話なんだから。妖怪の居る国の私達には想像がつかなくて当然」
 結局今を生きる事しか出来無いのだろうなと魔理沙は思う。妖怪が住まう今を生きるから妖怪が居ない世界を想像出来無い。それは逆に、妖怪の居ない世界に住んでいる者には妖怪の居る世界を想像出来無いという事でもある。それは何だってそうで、いつだってそうに違いない。太古に暮らした恐竜達へ、いずれ恐竜は滅んで猿が蔓延ると告げれば笑い飛ばされるだろう。
「知識は知識だからな。実感を伴った理解は難しい。けど、そうだ、最近外の奴が顔を見せてるらしいから、会って話を聞いてみたらどうだ?」
「え? そうなんですか? それは是非。どんな方なんですか?」
「こう、眼鏡掛けてて地味な」
 魔理沙が異邦者の特徴を聞かせようとした時、店の奥から老婆が顔を覗かせた。
「小鈴、小鈴」
 呼ばれた小鈴は飛び上がる様に立ち上がった。
「おばあちゃま! 今、来客中!」
「お客さんかえ」
「そう! どうしたの?」
「薬がね、いつもの所に無いんだよ」
「えー、そんな事無いと思うけど」
「無いんだよ、いつもの所に。飲まんといけないのに」
「分かった。魔理沙さん、ちょっと待ってて」
「魔理沙?」
 老婆の胡乱な目が魔理沙へ向いた。途端に眉間の皺が寄る。
「小鈴、そいつは妖怪かえ?」
「何ぃ?」
 魔理沙は驚いて老婆を見返す。
「私の何処が妖怪だよ。人間だ」
「そんな髪の色して。私は騙されないよ」
「確かに珍しいけどさ」
 魔理沙は溜息を吐いて机に突っ伏した。
 小鈴がとりなす様に老婆の肩を掴む。
「違うって。人間だよ。霧雨さん。隣の里の」
 なだめる為の言葉だったが、それを聞くと、老婆はかっと目を剥いた。
「あんの霧雨か!」
 剥けた目でじろりと魔理沙を睨みつけ、出口を指差して怒鳴る。
「汚らわしい! 出ていきな! こっちまで祟られるよ!」
「ちょっと、おばあちゃま」
 小鈴は慌てて老婆の腕を引っ張る。勢い余って老婆は転びそうになったが、それも構わず、小鈴は老婆を奥まで引っ張っていった。店の奥で小鈴と老婆が何やら言い合っていたが、やがて決着したのか、しばらくして申し訳無さそうな顔の小鈴が帰って来た。
「ごめんなさい、魔理沙さん、祖母が失礼な事を。いつもはあんなんじゃないんですけど」
 落ち込みながら座った小鈴に、魔理沙は手を振って苦笑を返す。
「良いんだ。むしろ懐かしくて涙が出る位だ」
「すみません」
「だから良いって。うん、最近は言われなくなったけど、やっぱり年寄りは忘れてないんだな」
「あの、何か、あったんですか?」
「大した事じゃないぜ。双子が生まれた。しかも片方だけ色素が薄かった。分かるだろ? 何処をとっても不吉だったんだ」
「そうだったんですか」
「特に私の生まれた家は商いをやってるから、余計に験を担いで。縊る縊らないってな。母親のお陰で命だけは永らえたけど。家族、それから産婆も交えて大騒ぎしたらしいから噂が広まって、まあ、まともには生きられないよなぁ。結局家は追い出された。いや飛び出したって方が正しいか」
「そんな事が」
「だから慣れてる。向こうの言い分も理解出来る。だから良いんだ」
 魔理沙が諭すと、小鈴は顔を歪めて俯いた。
「そういうもんだ。お前の婆ちゃんの反応は正しいよ。そういうものなんだ」
 魔理沙は心を痛めているらしい小鈴に笑みを向けるが、俯いたままの小鈴はそれを見ずに、鬱屈と呟いた。
「分かります」
「何よりだぜ。だからさっきのは謝るべきだ。小鈴の婆ちゃんは間違った事は言ってない。それなのに怒鳴ったのは小鈴が悪い。赤の他人の為に喧嘩する必要は無い。家族ってのは大事だろ?」
「でも間違っていると思います」
 小鈴が顔を上げる。その眦には涙が溜まっている。
「不吉だっていうのは分かります。私も否定しようとしたって、そう感じてしまう。だけどそれを正しいとは思っていません。外の世界の書物に触れて、この世界だけが真実じゃないって知りました。双子が不吉だなんて旧弊です」
「双子の是非をとやかくは言わないぜ」
 小鈴の言葉は嬉しかった。けれど小鈴の言葉をそのまま肯定する事は出来無い。小鈴が今言った様に、自分の中の感情と理屈が乖離する事は幾らでもある。その時に外へ出すべきは理屈の方であるべきだと魔理沙は思っている。
「でも他の世界はどうあれ、双子が不吉だって世界は確かにある。私の生まれた里や小鈴の婆ちゃんが住む世界、つまり幻想郷はそういう世界なんだ。自分が間違っていると思うからって相手の世界を否定するのは違うだろ。否定が生むのは対立だけだ。小鈴がこの幻想郷で旧弊だ何だって婆ちゃんを否定するのは、誰の為にもならない。小鈴まで除け者になる必要は無い」
 小鈴は鼻白んだ表情で非難がましく魔理沙を見つめ返す。
「私は魔理沙さんの」
「私が良いって言ってるんだから。私の為に家族と喧嘩しないでくれよ。申し訳無くて顔向け出来無い」
 口篭った小鈴に、魔理沙はおどけた笑みを見せた。
「ま、平和が一番って事だ。少なくとも今の生活は悪くない。霊夢とも会えたしな」
 話頭を変えようとしている事に気が付いて、小鈴は無理矢理笑みを作って魔理沙に応じた。
「そうですか。そう言えば小さい頃から友達なんですよね? それは家を出た後なんですか?」
「そうだぜ。私が不吉って言われてたのは、双子って他に色素が薄い、っつーか、この金髪だな、これも原因でさ、何か恐ろしい妖怪に似てたらしくて、その妖怪の呪いだとか、子供だとか、生まれ変わりだとか、妖怪扱いされてたんだ」
「そんな」
「ずっと妖怪扱いされてたから、自分でも半分信じ込んでて、家を出た後にまず博麗神社に向かったんだ」
「どうして?」
「退治される前にこっちから攻撃してやろうと思って。だから博麗神社に乗り込んで、掃き掃除してた霊夢に蹴りかかった」
「うわあ。霊夢さん怒らなかったんですか?」
「泣き叫びながら掴みかかってきたぜ」
「泣き叫んで? あの霊夢さんが? ちょっと想像がつかないんですけど」
「時期が悪かったんだよ。先代の博麗の巫女が亡くなった半年後位でさ。死を理解出来なかった幼い霊夢にようやく喪失の実感が湧いてきて、心配して見舞ってくれていた人達の足も遠のき始めて、一番寂しさが溜まってた頃らしいんだよ。自分は一人ぼっちだって悲しんでて、どうして自分だけこんな苦しい目に合うんだって苦しんでて、そんな時にいきなり私に蹴り飛ばされただろ? 頭に血が上って訳がわからなくなったらしいぜ。人生でたった一度のきれた時だったってさ」
「うわあ。魔理沙さん最悪ですね」
「まあな」
「じゃあその殴り合いの後に友情が芽生えて」
「殴り合いなんて生易しいものじゃなかったけどなぁ。私は霊夢を殺さないと退治されて殺されると思ってたから殴られようと倒されようと血が出たって髪が毟れたって掴みかかったし。こっちがその気だから、霊夢も本気だし。お互いぼろぼろになって、最後はどっちも動けなくなって。で、霊夢が泣き出してさ。私も泣いて。そしたら何か一緒に夕飯食って仲良くなった」
「何か最後が色色飛んだ気がしますけど。それは、まあ、随分と壮絶な馴れ初めですね」
「照れるぜ」
「うん、まあ。恥ずかしい事なのは間違いないと思いますけど」
「喋った事は内緒にしてくれよ。霊夢にばれたら大変だからな」
「分かりました。まあ、あの霊夢さんが」
「私が何?」
 入り口から第三者に声を掛けられた小鈴は驚いて跳び上がり、来客の主が霊夢だと知って悲鳴を上げて椅子から転げ落ちた。
「何もしないわよ」
 霊夢は魔理沙の隣まで歩むと、借りていた本を机の上に置いた。
「感心しないわね」
「すみません、霊夢さん」
「小鈴ちゃんじゃなくて魔理沙の方」
「ちょっとした昔話じゃん」
「あのね、過去の恥部を。それに間違ってるじゃない。泣いたのは魔理沙が先でしょ?」
「はあ? それは聞き捨てならないな」
「魔理沙が先。だから私もどうでもよくなって泣いたんだもん」
「いや違う。絶対霊夢が先」
 小鈴がまあまあと宥めるが霊夢は二人共譲らない。
「大体どうでもよくなったって何だよ。そんなんで泣くか?」
 魔理沙の問いに霊夢は僅かに逡巡を見せた後、躊躇いがちに答えた。
「だって私だけだと思ってたから」
「何が?」
「一人なのが。散散傷つけ合って、魔理沙が泣き出した。お婆ちゃんが亡くなっても泣かないでこらえてる私の前で魔理沙は恥ずかしげもなく泣いてた。きっとそこに差があると思った。こいつはきっと泣いて家に帰れば母親が居て、抱き締めてもらって、何なら一緒に私の悪口を言って、後で母親を盾に文句行ってきたり。そんな共感して慰めてくれる相手がいるんだろうと思ったの。だけど私は一人ぼっちで、お婆ちゃんも死んじゃって、そもそもお婆ちゃんも血の繋がりがある訳でもなかったし、私は世界の何処にも味方が居ない。泣いたって誰も助けてくれない。お葬式を手伝ってくれた人達だって優しい言葉を掛けてくれるだけで、抱き締めてもくれなければ一緒に怒ってもくれない悲しんでもくれない。なのに目の前のこいつは泣けば助けてもらえる。それが分かって泣いてやがるんだ。と思ったら、何だか虚しくなってどうでも良くなったの。で、不思議と涙が出てきたのよ」
 霊夢の述懐を聞いて、魔理沙は笑った。
「何だよ、そんな事考えてたのか?」
「何よ。悪い?」
 拗ねた様に顔を背ける霊夢に向かって、魔理沙がげらげらと笑い声を上げる。
「寂しい奴だな」
「仕方無いじゃない。あの時は」
「まああの頃はな。私も人の事言えないし」
 そうしてまた魔理沙がげらげらと笑い、霊夢も小さく笑った。
「一人ぼっちって、やっぱり、霊夢さんのご家族は」
「居ない。天涯孤独よ。何処からか連れて来られたの。両親の顔も覚えていない位小さい時にね」
「霊夢さんと先代さんとは血が繋がっていないんですか?」
「ええ。単に博霊の巫女の役柄を継いだだけ。一応育ての親でもあるけど、親子関係というよりは弟子と師匠。どうして私が博霊の巫女として見初められて、何処から連れて来られたのか詳しい事は知らないわ」
「霊夢自身の事じゃん」
「知らないものは知らないの」
「でも霊夢さんって先代さんの生き写しだって聞きましたよ」
「ってよく言われたけど、そう? って感じ。白髪じゃないし皺くちゃじゃないわ」
「それは加齢の所為だろ。若い頃の話だ若い頃の」
「年寄りの言う事だからあてにならないわよ。少なくとも私はお婆ちゃんから、はっきり血が繋がっていないって聞いた。両親も幻想郷には居ないって。だからそれが真実よ」
「時には誰も勝てないんだぜ。人間も妖怪も。だから将来霊夢が白髪の皺くちゃになったら先代そっくりになるかもな」
「かもね。でもどうだって良いわ。似てるから何? って話」
「そりゃ正論だ。でも似ているからこそ何かを期待しちゃうのが人情なんだよな」
「その人情は向けられる方からしたらたまったもんじゃないわ」
「違いない」
 話に一区切りついて、霊夢は机の上の本に手を載せた。
「それはそうと、小鈴ちゃん、これ、返しに来たわ」
「あ、どうも」
 小鈴は受け取った本を、魔理沙が返した本の上に載せた。
「どうでした?」
「面白かったわよ」
「霊夢は何借りたんだ?」
「探偵小説」
「ああ、一緒だ、って、作者も一緒か」
「魔理沙も?」
「小鈴に勧められて」
「最近その作者さんのがまとまって入ってきたので、おすすめしてるんですよ」
「成程ね。霊夢は犯人分かったのか?」
「何となくそうかなって思ってたら、実際そうだった」
「霊夢さん、それじゃあ楽しくなかったでしょ? この本は。犯人の意外性がうりなのに」
「そう? 確かに語り手が犯人って言うのは変な感じがしたわね。でも物語として面白く読んだわ。何読んでも面白く感じる質だけど」
「語り手が犯人? なら推理も何も、読んだらすぐに分かるじゃん」
「巧妙に隠してあるんですよ。犯人だって分かってから読み返してみると、確かに犯人としての思考なんですけど」
「へえ」
「まあ最初から分かってたんじゃ、そういう再発見は無かったんでしょうけど」
「まあね。ただ隠そうとしている意図は透けて見えてそういうのも面白く感じたわ」
「そういうのは再読した時の楽しみなんですけどね」
「しかし容疑者がみんな犯人に、語り手が犯人か。もう何でもありだな。殺された奴が犯人とかもあるかもな」
「それはありましたねぇ」
「何? じゃあ、えーっと、登場人物以外が犯人とか」
「ありますね。何千年も昔の人が犯人とか。後は作者が犯人とか。読者が犯人とか」
「何だそりゃ。滅茶苦茶じゃん。読者が犯人とかどういう事だよ」
「私も読んだ事は無いので、ただそういう推理小説があるって、推理小説に書いてありました」
「まさか読者が読み進めなくちゃ、死ぬ事は無かったなんて言うんじゃないだろうな。シュレディンガーの猫みたいに」
「さあ? 後は偶然が犯人もあるとか。それは推理小説の解説書か何かに」
「何だよそれ。偶然刺しちゃったみたいな事か?」
「窒息って書いてありましたけど」
「まあ偶然の方がまだ。読者や作者が犯人よりもまともだと思うぜ。きっと犯人がどじで二階から花瓶でも落として頭に直撃させたんだろ」
「それじゃあ窒息になりませんけど」
「そう言えばこの前咲夜が魔理沙にやってたわね」
「あれはどじじゃない。わざとだ。絶対」
「いやいや、あんたが咲夜の足を引っ掛けるから」
「それは偶然だ」
「わざとでしょうか」
 二人を前にして、小鈴は吹き出した。二人の注目を受けて、慌てて言葉を重ねた。
「日常にももしかしたら小説みたいない事が起こっているかもしれませんね。私達が主人公の物語が」
「シェイクスピアか? 台本通りに動くなんてまっぴらだぜ」
「少なくとも私は人を殺した覚えは無いわね。妖怪はよく退治するけど」
「分かりませんよ。もしかしたら無意識の内に。そういう小説もあるんです。その人は自分が普段人を殺しているなんて全く気が付いていない。でも裏の人格があってそっちが、という。もしかしたら私も霊夢さんも魔理沙さんも気が付かないでいるけれど、別の顔があるのかもしれない」
「そうだとしても殺人は御免だぜ。どっちかって言うと、あれだ、外の世界で暮らしてみたいな」
「あんた最近そればっかね」
「良いじゃん。菫子みたいにさ、私は夢の存在なんだ。夢の中で幻想郷に存在して、起きている時は外の世界に居る。楽しそうだろ?」
「胡蝶の夢?」
「そうだぜ。霊夢もそうかもしれないな。一緒の学校通ってさ」
「あんま想像つかないわ。あの菫子って奴の話聞いてもね。外の世界なんて知らないし。外で私達は何やってんの? 妖怪退治?」
「妖怪は居ないらしいからな。まあ何かそんな感じのだよ。変な事が起こってそれを解決するんだ」
「良いけど能力はどうなるの? 私達みたいな能力も珍しいらしいじゃない。外の世界だと力が失われちゃうの? 結界を使えないと流石に厳しいわ」
「そりゃ外の世界で霊夢は結界をどうにか出来無いし、私も魔法は使えないぜ。だからこそ夢でそういう力を持っているんだ。この世界は夢の世界だからな」
「不便。寝坊して約束に遅れそうだって時に空も飛べないし結界も扱えないんじゃ遅れちゃうじゃない」
「じゃあちょっとは結界に関わる様な」
「いやそっちは良いわ。妖怪退治しないんだから結界どうこうは魔理沙にあげる。空を飛べる様にして頂戴」
「でも外の世界は速い乗り物とかがあるらしいし、飛ぶ能力も必要無いんじゃ。っていうか寝坊すんなよ。ちゃんと時間を守れる能力にしとけ。悪い事言わないから低血圧を直せ」
「いや目覚めは良いのよ。ただ布団が恋しいだけで」
「だからそれを止めろ!」
 二人を眺めながら、小鈴は両手で自分の頬を抑えながら、ほうと息を吐いた。
「何だか良いですね」
「はあ?」「何がよ」
「何だか信頼しあっているって感じで」
「そうか?」「何処が」
 息を揃えて応ずる二人の様子に小鈴は笑みを漏らす。
「ええきっと、どんな世界であっても、霊夢さんと魔理沙さんは一緒ですよ」
 二人は虚を突かれた様子でお互い顔を見合わせたが、やがて魔理沙が鼻で笑って肩を竦めた。
「ま、仕方無いな。霊夢一人じゃ寂しいだろうし一緒に居てやるぜ」
 それに霊夢が冷たく答えた。
「いや泣いたのは魔理沙が先でしょ。私が居てあげるわよ。仕方無く」
「おう! また繰り返すか? 良いぜ。何度でも言うが、霊夢が先に泣いた」
「魔理沙、良い加減間違っている事を認めなさい。魔理沙が先に泣いた」
 霊夢と魔理沙は喧喧諤諤としばらく言い争っていたがやがて小鈴の執り成しで二人は収まり、結局お互いが借りていた本を交換して借り、店を出て行った。二人一緒に。
 そんな二人の様子に、言い知れぬ満足を覚えつつ、さて機嫌を悪くしているおばあちゃまをどうとりなそうかと考えていると、来客があった。
「御免下さい」
「あ、はい」
 見覚えのある、けれど見た事の無い女だった。会った覚えは無い、けれど何か既視感がある。女は日傘なんていうすかした物を、鼻に付く程優雅に折りたたみ、信用ならない笑みを浮かべて近寄ってきた。金色の髪の下に整った顔を付けているが、美人の癖に好意の欠片も湧かないのは、きっと浮かべた笑みがあまりにも胡散臭いからだろう。
 一瞬魔理沙かと思った。しかし頭髪こそ金色であるものの、顔立ちは似ていない。どちらかと言えば霊夢に似ている。いやいずれにしてもあの明るい二人とは雰囲気がまるで違う。そこまで考えて、小鈴は心の中で魔理沙と霊夢に謝った。重ね合わせる事が失礼な位、目の前の女は胡散臭く不快な存在だ。
 小鈴が警戒心を隠さずに用件を聞くと、女は本を売ってもらいたいと言う。その女の求める本は、先日手に入れ、先程魔理沙との会話で話題にした博物誌の事だった。
「どうしてこの本がここにある事を」
「ある意味で私の物だから、ですわ」
 そうだとしても、この鈴奈庵に博物誌がある事を知っていた理由にはならない。博物誌が元元在ったのは廃れた炭小屋、外から流れてきたものだろう。それを拾った少年から昨日偶然買い取った物だ。昨日の今日で鈴奈庵に流れたと知るのは、少年の知り合いならともかく、こんな見覚えの無い女には無理だろう。
 女の髪の色を見つめながら、先程祖母の言っていた言葉を思い出す。金髪だから妖怪だというのは、魔理沙という実例で否定されるが、祖母の言いたい事はよく分かる。自分とあまりにも掛け離れた者は、自分と同じ存在だと思えない。小鈴にとって目の前の女はそういう存在だった。見た目は何の変哲も無い人間の女性だ。だけどその立ち居振る舞いが、胡散臭い笑みが、滲み出る雰囲気が、自分と同じ物だと思えない。痛みに似た緊張が背筋を走り、冷や汗が全身から流れ出てくる。
 博物誌に未練はあった。まだ読み終わっていないし、内容も興味深い。そしてこの女が求めているというのも好奇心をくすぐられる。
 それでも小鈴が博物誌を手放したのは、女の提示した金額が余程の稀覯本にしか付けない様な値であっただけでなく、目の前の女と関わりたく無いという思いと博物誌は自分が持っていて良い物じゃないという理解が浮かんだから。
 小鈴は震える手で代金を受け取り、取り落としそうになりながら博物誌を渡し、女が出口へ向かうと思わず安堵の息が漏れた。
 だが、一刻も早く女との関り合いを断ちたいという思いと裏腹に、惜しむ口が疑問を漏らした。
「その本はあなたにとって何なんですか?」
 女は振り返り、憂いと慈愛の篭った、さっきまでの胡散臭さを吹き飛ばす様な笑みを浮かべて言った。
「何でも無いわ」
 そうは思えない。だとしたら法外な値段で買い取ろうとする訳が無い。女が嘘を吐いているのは明らかだ。何よりその物憂げな表情に説明がつかない。
 疑る小鈴に気が付いたのか、女は言葉を重ねる。
「この世は舞台。あなたの言った言葉は正しい。そして役は何処まで言っても役なのよ。犯人は語り手の役割を与えられてはいるけれど、読み手、そして作者でもある。この世界の外にこそ価値があり、だからこそ、この本に意味は無いの。あくまでこの本は、役割を与えられただけの、紙束よ。意味を付けるとしたらそれは配置した時点では作者の意図であり、また語られた時点では読み手の解釈によって変わる」
 まるで理解の出来無い、滑稽で、胡乱で、空虚な言葉だ。
 結局女にとっての価値が分からないまま、いつの間にか本は女と共に消えていた。
 白昼夢の様であったが、代金はしっかりと受け取っている。
 最近霊夢と魔理沙から、狸の妖怪に気を付けろと言われた事を思い出し、代金が葉っぱなんじゃないかと調べてみたが、巧妙なのか、杞憂なのか、何処からどう見ても本物にしか見えなかった。
 悩む事を諦めた小鈴は、疲れを感じて椅子に座る。天井を見つめながら魔理沙達との会話を思い出し、夢想する。もしもこの世が物語であるならば、自分はどうなるのだろう。考えたが何も変わらない事に気が付く。役だろうと何だろうと、自分の生活を粛粛と続けるだけだ。強いて思う事があるとするならば、波乱万丈な物語が訪れるのではなく、今の平穏が続いてくれる事を作者に願うだけだ。
 
「ドクターレイテンシーの博物誌、本当に凄いわー。天才じゃね?」
「知性が光ってる」
「文面から優しい人柄が滲み出てるよね、ドクターレイテンシー」
「憧れるよなぁ」
「あんた等馬鹿にしてんでしょ」
 焼酎を飲み干した蓮子が後輩達を睨みつけると、盛り上がる居酒屋の一室のその空間が一瞬鎮まり、後輩達は焦ったふりをしてわざとらしくおだてだした。
「何言ってんすか。敬愛する宇佐見先輩を馬鹿にする訳無いじゃないですか」
「そうですよ。宇佐見部長の事、まじで尊敬してますよ」
「いつ私の話になったの? ドクターレイテンシーの話でしょ? 何で私がどうのって話になったの? 本当に私を馬鹿にしてたの?」
「あ、部長、お酒空ですよ。次何飲みます?」
「ハイボール」
「いやでも、ほんと、冗談抜きで凄いと思いますよ。宇佐見先輩とメリー先輩の書いた博物誌の部分。よくあんな発想あったなって。こう、見ている物が違う的な」
「まあメリーは本当に別の世界が見えてたからね」
「知り合いの編集者にうちの部誌見せたんですけど、博物誌の所見てスカウトしたいって言ってましたもん」
「えー本当に?」
「本当っすよ。作家デビューできますよ」
「本当? どうしようかなー。私、学者になるって夢が」
「え? 夢はメリー先輩の旦那さんじゃないんですか?」
「あんたね」
 蓮子が後輩のつまらない冗談に抗議しようとした時、廊下から影が飛び込んできた。
「話は聞かせてもらったわ! 挙式はいつにする? 蓮子!」
 メリーの放言は部屋中に響き、今蓮子と話していた後輩だけでなく、会話に関わっていなかった後輩達まで歓声を上げて、立ち上がり、みんなで遅れてきたメリーを出迎え、蓮子とメリーへ祝言を投げる。
 堪らず蓮子は立ち上がり、ふざけているメリーと後輩達を怒鳴る。
「黙れ! あんた等、私とメリーはそういうんじゃないって言ってんでしょ! 後、メリーも乗るな!」
 すると後輩達が一斉に声を揃えて言った。
「そういうのってどういうのですか!」
「うっせえ!」
 蓮子が机を叩くと周囲は一層高く笑い上げる。
「蓮子」
 傍らで呟いたメリーを、蓮子が睨む。
「何よ!」
「ううん、何でも無い」
 メリーは何か言い掛けたが結局口を噤み蓮子から顔を逸らした。
「あー、メリー先輩が泣いてる!」
「部長が泣かした!」
「この女たらし!」
 たわけた事を抜かす後輩達に、メリーは目元を拭いながら笑みを向けた。
「大丈夫よ。私、分かってるから。蓮子はきっと私の傍に居てくれるって! 私達の子供を置いて行ったりなんかしないって!」
「メリー先輩、健気ぇ!」
「よ! 良妻賢母!」
 拍手喝采を受けて照れているメリーの頬を、蓮子がつねる。
「いつあんたが子供を産んだ」
「私じゃなくて蓮子かも知れないじゃない!」
「そういう問題じゃない」
 蓮子の指に力が篭もる。
 それを見つめる後輩の一人が言った。
「でもー、この前先輩達二人でラブホ行ったんでしょ?」
 新事実の登場で、舞台は俄に盛り上がり、蓮子の顔が赤く染まる。
「何で、それを」
 周囲の大嬌声が響き渡る中、後輩の一人が言った。
「入る所見てたから」
「何で!」
「いや偶然です。近く歩いてたら」
「余計な事を」
「余計な事と言われても。単にバイトの帰りだったんで」
 ぐっと喉を詰まらせた蓮子は、どういう事ですかと詰め寄る後輩達を押しのけて、運ばれてきたハイボールを一気に飲み干した。
「違うからね! あれはメリーが行きたいって言ったから」
「違うって……そういう事じゃないですか」
「え、マジで行ったんですか?」
「いや、違くて、メリーが行った事無いから行ってみたいって」
「で、やっちゃったんですか?」
「やってねぇ! そうでしょ、メリー? 何も無かったわよね?」
 メリーに言質を取ろうと横を向いたがメリーの姿が無い。見回すと、少し離れた場所で、一人ビールを飲みながら料理を食べていた。メリーは皆から視線を受けた事に気が付いて、慌ててビールから口を離す。
「あ、ごめんなさい。食べてこなかったから追加で料理頼んじゃった」
「お前ぇ、大変な時に」
「まあまあ、良いじゃない。蓮子と私は仲良しって事で」
「だからそれが誤解を招くと。ああ、もう。とにかくあんた等私達はそういうのじゃないからね」
 周りを見れば一瞬前までの熱情は何処へやら、後輩達は元の席に戻り始めている。
 肩透かしを食らった蓮子は、何と怒れば良いのか、しばらく立ち尽くしていたが、やがてすごすごとメリーの隣に腰を下ろした。
「全く、メリーの所為でとんだ迷惑よ」
「冗談なんだから流しておけばいいのに」
「だってしつこいじゃないこいつ等」
「いやしつこくないですよ、俺等」
「そうですよぅ。このレモンサワーの様にさっぱり爽やかな可愛い後輩じゃないですか、私達」
「それ本当にレモンサワー?」
「いえ、泡盛ですけど」
「まあ良いけど。そう言えば、メリー、うち等の部誌、何か大量に持って行ったらしいけどどうしたの? 学園祭までまだ一週間あるのに」
「んー? 言わなかったっけ? 大学の各所にばら撒いてきた」
「え? いつ?」
「だから今日。暇な人達で集まって。ねー?」
 メリーが首を傾げて後輩達に同意を求めると、何人かが顔を赤らめながら首肯した。
「え? ちょっとやめてよ。何処に?」
「食堂とか色色。とにかく目立ちそうな所に沢山。後は本屋にも持って行ったんだけど、置いてくれないって言われちゃった」
「ぎゃー、恥ずかしい!」
「何で?」
「だってそんな大勢が見る所に」
「あの、蓮子? どうせ一週間後には校外も含めた不特定多数に配る事になっているわよね?」
「でも心の準備がまだなのに!」
「良いじゃない。みんなよく出来てたし。蓮子と私のもね。恥じる事無いわ。ペンネーム以外」
「でもー。っていうか、ペンネームはメリーだってオッケーしたじゃん」
「したけどねぇ、やっぱり恥ずかしいのは恥ずかしいし」
「あ、さっき部長にも言いましたけど、あの博物誌、知り合いの編集者に見せたら、凄く褒めてましたよ。担当したいって!」
「あら、本当? どうしようかしら、蓮子」
「どうしようって言われてもねぇ」
「デビューしちゃいますか、先輩!」
「それも良いかなぁって」
 そう言ってメリーは笑ったが、微かに憂いを含んでいるのを蓮子は見逃さなかった。
「どうしたの?」
「え? あ、ううん、ちょっとね」
「メリーの目から能力が消えた事?」
「そ。当たり」
 メリーは寂しそうな顔でビールに口を付ける。
 メリーと蓮子は不思議な目を持っていた。メリーは境界の向こうを覗く事が出来た。蓮子は星月を見るだけで自分の場所と時間を知る事が出来た。それが消えた。何の前触れも無く。トリフネが落ちるというのでサークルの皆で観測会に出掛けた翌日、気が付けば力を失っていた。
 能力が消えたからと言って、生活が変わる訳では無い。言ってしまえば二人の能力は、殆ど生活の役に立たない力だから。活かす機会は常に、この世界とは違う世界を探検する時。それが出来無くなったところで、生活が激変する事も、生きる上で困る事も無い。けれど子供の頃から慣れ親しんだ能力が喪失した事は、寂寞とした思いを胸の中にわだかまらせている。
「子供の頃からずっと考える事はこの目の事ばかりだった。あ、勿論それ以上に蓮子の事も考えたわよ」
「変なフォローは良いから。で?」
「うん。ずっと目の事を考えてた。目こそが私そのものだった。思考の中心は目だった。学部を選んだのだって、自分の目の事をもっと深く知ろうとしたからだった。子供の頃からずっとそう。生きていく上ではこの目が常にあると信じてた。仕事をしたって結婚をしたって。だからね、私が将来の事を考える時にはこの目しか、後、蓮子しか浮かばなかった」
「まあ言いたい事は分かるわよ。私もあんたに付き合って一生境界の向こうを探検する、様な気がしてた」
「うん。でもそれが失われて、後には可能性が残った。異世界を探求し続ける事しか無かった未来が、もっと多様な生活に変わった」
「それはメリーにとって良かったの? それとも残念なの?」
「分からない。きっとそれはもう少ししたら浮かんでくる感情ね。今は、困惑してる。細く長い一本道をただ先へ先へずっと進んでいればいいと思っていたら、急に顔を振り向かされて、目の前にだだっ広い光景がを見せられて、何処でも行っていいよって言われたの。どうすれば良いのか。今は考えている。きっと答えが出たら、その時初めて、どちらが良かったのか分かると思う」
「そ。つっても、卒業まで後一年とちょっとよ。研究室の選択もあるし、早く進む先を考えておいた方が良いわ」
「そうね。蓮子は? 蓮子も同じじゃないの?」
「少なくとも困惑はしていないわ。メリーの例えで言うなら、私は興味のある方へ進んでいるだけだから。細い一本道だろうが、見渡す限りの草原だろうが、興味を抱いた方へ進んでいくだけ。将来の事まで見据えている訳じゃないけど、今どっちへ行こうかってのは考えるまでもなく決まってる」
 そこには、どんな道を選んだってメリーという親友が自分を見捨てないと信じているからだという思いがあったものの、当人へ真っ向から喋る気恥ずかしさと、発言をきっと変に受け取って喜ばれるであろう忌忌しさから、口には出さずに心の中で留める。
「うー、羨ましい」
 悩むメリーを見つめて笑いながら、蓮子は飲み干したグラスを店員に渡して、新しいグラスを受け取った。
「まあ、そういう考えなら、とりあえず色色楽しんでみれば良いんじゃない?」
「そうね。そういう意味でもこのサークルは作って良かったわ。色色新鮮だもの」
「いやあ、まさかこんな人が集まるとはね。最初の年に五人入ったのも驚いたけど、次の年に更に倍入ったし」
「人望ね」
「殆ど掛け持ちやらインカレだけどね。ああ、どうせなら彼氏も作れば? そこのあんた、どうよ、メリー」
 指さされた後輩は、照れた様子でグラスを空け、赤くなった顔をメリーへ向けた。
「えーっと、メリー先輩が良いなら」
 するとメリーが両手で×を作る。
「蓮子より素敵な人じゃないと駄目」
「ですよねー! 分かってました。ちなみに宇佐見先輩より素敵な人って例えばどんな人ですか? 芸能人とかで。外国の人でもいいですよ。例えばどういう人ですか?」
 恥ずかしさを覆う様に、後輩は早口でメリーに問いかけた。メリーはその問に間髪入れず答える。
「さあ? 見た事無いから分からない。想像もつかない」
「あー、そっちっすか」
 後輩の妙な納得の仕方に、蓮子が口を尖らせる。
「どっちよ」
「まあ俺は眼中に無いって事っすね。仕方無いんでメリー先輩は部長に任せて、俺は今の彼女で満足してます。っていうか、もうメリー先輩の相手は部長しか居ないじゃないですか。早くもらってやってくださいよ」
「何で私なのよ」
「いや、ほんと、メリー先輩の隣は部長が似合うんで。それしか想像出来無いんで」
 そうだそうだと周りからも同意の声が上がる。
 蓮子は何だか面倒臭くなって、適当にメリーへ振った。
「だってさ、メリー」
「ええ、そうね」
 あっさり肯定すんなと思いつつ、もう面倒なの文句も言わず、酒に集中する事にした。
「蓮子、さっきも言った通りね、私の中には目の事しか無かった。それは失われてしまった訳だけど、もう一つ、私の周りには常に蓮子しか居なかった。それは小さい頃からずっと変わらない」
 何だか恥ずかしい事を言っているが、否定する気も起きない。
「私は空っぽになった。だけど蓮子は常に私の周りに居てくれる。これからずっと、例え何がどう変わったって、それだけは絶対に変わらない。だからね、蓮子、さっきどの道を行けばいいか困惑しているって言ったけれど、不安は無いの。だってどんな道を歩いたって、隣には蓮子が居てくれるって信じてるから」
 メリーのぶちあげた演説で周囲が拍手喝采を送っているのを何処か遠くに感じながら、蓮子は内心で恥ずかしいなぁと呟いた。
 メリーが自分と全く同じ考えな事。
 そしてそれを嬉しく感じる自分。
 メリーがその考えを周囲へあけっぴろげに晒している事。
 そしてそれを誇らしく感じる自分。
 そのどれもが恥ずかしいから、蓮子はメリーに背を向けた。
 壁に向かって酒を飲む。
 真っ白な壁を見つめていると次第に意識が茫洋としてくる。
 白い壁が、ミルク色の海の様に思えてくる。
 海が次第に世界全てだと思えてくる。
 自分の周囲には真っ白な世界がある。
 背中にはメリーが居て、未だに演説を続けている。
 世界中がそれに喝采を送り、そして自分はそれを誇らしく思う。
 世界が自分達を囲んでいる。
 けれど、それは書割で、結局自分とメリーしか居ない事に気が付いた。
「ねえ、メリー」
 どんな道を進んでもと話したけれど、結局この書割の中でメリーとお喋りをしているのに過ぎないのだろう。
「全部一緒なのね」
 隣のメリーは将来を見据えて心配そうな顔をしている。
「そんなに心配しなくても良いのよ、メリー」
 何も不安に思う事なんて無い。
「私が居るからね、メリー」
 酔い潰れて、後ろへ倒れこみながら、蓮子は笑顔を浮かべてそう言った。
 それを太腿で受け止めて撫でながら、メリーも笑顔を返す。
「ありがとう、蓮子」
 蓮子は目を閉じて、聞いているのかいないのか分からない。
 それを不安に思う必要は無い。
 何がどれだけ変わっても、決して変わらないものが何かをメリーは知っている。
 それでも何かを確かめたくて、覆う様に蓮子へ顔を近づけて、その変わらぬ友の名を呼んだ。
日本の夏 秘封の夏
烏口泣鳴
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コメント



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4.90名前が無い程度の能力削除
とても面白かった。
俺から言える感想はこれだけだ。
8.無評価名前が無い程度の能力削除
後輩達のキャラすき
序盤、漠然と話を纏めた印象を受けたので、最後の落とし処が案外柔らかい後味。
もう少し話を大きくしてもいいのよん?