※ごく軽い性的な描写があります。苦手な方はお気を付けください
日記 霜月の十四
1
先日暇を出した使用人に代わってやってきた新米の子が、なぜ阿求様が日記をつけるのでしょうと訊く。
日焼けした古い日記帳と真新しいそれを机に並べて難しい顔をしていた私を見て怪訝に思ったようだ。
なるほど、求聞持の力を持つ私にとっておよそ日々の記憶を紙に書き留める必要などない。
そう考えるのが普通というものだろう。実に平凡な発想である。
日記というのは何も記憶の補助具としてのみしたためるものではない。書くという行為そのものを通して、その日の出来事を改めて振り返り、吟味し、意味づけする儀式なのである。
見たこと・聞いたことを正確に記憶したとしても、その意味づけを誤ってしまえば、頭の中は雑然たる色彩と音の混沌に支配されるだけだ。
なまじ常の人よりも多くの情報が入ってくる私だからこそ、稗田として識ある判断を下し続けるため、むしろ頭の中の整理整頓として日記が大切な習慣になるのだ。
2
今日、新しい日記帳を里の大書店で物色していたとき、ばったり出くわした小鈴にも同じことを尋ねられた。
私の説明を小鈴はふーんと軽く流して、「ねえねえ、それよりどんな事書いてるのさ」と追求してうるさい。
「人の日記を読もうなんて悪趣味よ」と私がつっけんどんに応えると、小鈴は「けち。何も読ませてなんて言ってないでしょ。ただどんな感じなのかなーって思っただけよ」と頬を膨らませた。
やがて彼女は興味を失い「まあいいや。それより最近うちに来てないけど本が2冊延滞になってるから」と言い残すと、書店の棚をあちこち移動して流行本一覧の作成に取り掛かり始めた。実に家業熱心なことである。
私はほっと安堵の息を吐くと、小鈴に気取られないように、こっそりと胸のあたりに片手を当てた。
鼓動がいつもより速くなっているのがはっきりと分かった。
とても小鈴に言えるわけがない。しばらく日記を書けていないなんて。それもよりによって、あんたのことで。
3
あの日は収穫祭だった。
私と小鈴は、山に帰っていく豊穣神たちを見送る人波から早めに抜け出し、山裾でひっそりとやっているこじんまりとした温泉宿で汗を流すことにした。
もともと里の有力者やその家族が利用する隠し湯であり、収穫祭で他の有力者たちが出ずっぱりになるこのタイミングは事実上貸し切りになる。
私は何でもなく小鈴が髪飾りの鈴を外すのを見ていた。小鈴は風呂に入るとき、鈴を外すんだ。当たり前か。
そう思っていたら小鈴も「あんたもお風呂じゃ花飾りを外すのね」とからかってきた。
小鈴が襦袢を脱ぐと、庶民の子らしい痩せぎすな身体が目についた。
胸部はあばらが浮き出、双丘がわずかに認められる。私は何か悪い気がしてとっさに目を逸らした。
小鈴はそんな私の挙動など全く意に介した様子もなく、先に入ってるねと言って小さな尻をこちらに向け、慌ただしく駆けていく。
私が遅れて露天風呂に顔を出すと、小鈴はとっくに湯船に肩まで浸かっていた。
透明な湯の上を滑るように紅や黄の紅葉が流れてきて、小鈴の肌色を艶やかに彩った。
私も湯に足を入れると、小鈴がおもむろに腰を上げ、「弾幕!」と叫んで湯をばしゃばしゃと掛けてくる。
白い湯気の中で上気した肢体を私に衒いなく見せつけている。
私は「こら、はしたない!」と怒ったが、半分は自分の反応に驚いてしまってのことだった。
――私は小鈴のことを大事に思っている。好ましく思っている。それはずっと前から自覚していた。
その感情の中に、友愛だけではない親愛の情を認めることもあったが、それは子を育てることのない私が、子や孫のような存在に向ける家族愛に近いものだと考えていた。
里の人間を守る使命を帯びた御阿礼の子である私は、小鈴のことを目の離せない手のかかるわが子のように可愛がっているところがある。それは嘘偽らざる感情だ。だからこそ、あの日、私は小鈴の裸体を見て感じたものが何なのか、すぐには理解できなかった。いや、どこかで分かっていたけれど、認めたくなかった。それは罪深いことだった。
湯上りで火照る体を冷やしながら、いつの間にか布団の上で仰向けに寝てしまった小鈴を見て、私は、その上に自分の身体を重ねるさまを何度も思い描いた。唇を塞ぎ、舌の味を知りたいと思った。そのくせ、私はなぜ自分がそんな想像をするのか、全く分からなかった。そしてそのまま、珍しく五日も日記を書かなかった。
御阿礼の子としての私は数百歳、考え方によっては千歳近く。
その「縦糸の私」は人間の里という家族の長として、小鈴を確かにわが子として見ている。
愛欲の対象などなりえない、守るべき愛し子として。
でも、白状する。私は、あの時小鈴を欲していた。
この稗田阿求という小娘の頭と体、「横糸の私」は、小鈴を今此処を共に過ごす人として見ているのだ。
とんでもなく身勝手に。もうあと何年もしないうちにこの魂は彼岸に行き、この思いはどこへ行くともなく私の中から消えてしまうというのに。
仮に私と小鈴が恋仲になったとして(!)、私が死んだとき小鈴は泣いてくれるだろう。
その小さな胸に私という炎をずっと燻ぶらせてくれるかもしれない。そのことを横糸の私は無上の昏い喜びとし、縦糸の私は近親相姦よりもなお罪深いこととみなすだろう。守るべき子に対し、恋人として先立つなどという……。
私は見たものを決して忘れない。
その私の視線の意味に気づかず、私の目を無邪気に受け入れる彼女の姿。それは、これから私の呪いとなる。
たった一度見ただけで、私は小鈴のあどけない信頼を、それを踏み越えたいという自分の心を、その境界線の意味を俄かに悟り、この道の先に待つ予感に打たれ動けなくなっていたのだ。
4
ようやくこうして筆を執り、五日前の出来事を振り返って、私は私の抱えた問題を自覚した。
私は冒頭で、日記をつける目的について「稗田として識ある判断を下し続けるため」などと耳障りのよいことを書いた。
だが、こうして文章にすることができた今ならはっきりと分かる。
私の中にある「横糸の私」こそ、この日記を書かせていた原因、昏く激しい欲望だったのだと。
明日私は久々に鈴奈庵に足を運び、小鈴に本の返却が遅れたことを詫び、日記の習慣を再開するだろう。
でも、もう同じではいられない。
日記 霜月の十四
1
先日暇を出した使用人に代わってやってきた新米の子が、なぜ阿求様が日記をつけるのでしょうと訊く。
日焼けした古い日記帳と真新しいそれを机に並べて難しい顔をしていた私を見て怪訝に思ったようだ。
なるほど、求聞持の力を持つ私にとっておよそ日々の記憶を紙に書き留める必要などない。
そう考えるのが普通というものだろう。実に平凡な発想である。
日記というのは何も記憶の補助具としてのみしたためるものではない。書くという行為そのものを通して、その日の出来事を改めて振り返り、吟味し、意味づけする儀式なのである。
見たこと・聞いたことを正確に記憶したとしても、その意味づけを誤ってしまえば、頭の中は雑然たる色彩と音の混沌に支配されるだけだ。
なまじ常の人よりも多くの情報が入ってくる私だからこそ、稗田として識ある判断を下し続けるため、むしろ頭の中の整理整頓として日記が大切な習慣になるのだ。
2
今日、新しい日記帳を里の大書店で物色していたとき、ばったり出くわした小鈴にも同じことを尋ねられた。
私の説明を小鈴はふーんと軽く流して、「ねえねえ、それよりどんな事書いてるのさ」と追求してうるさい。
「人の日記を読もうなんて悪趣味よ」と私がつっけんどんに応えると、小鈴は「けち。何も読ませてなんて言ってないでしょ。ただどんな感じなのかなーって思っただけよ」と頬を膨らませた。
やがて彼女は興味を失い「まあいいや。それより最近うちに来てないけど本が2冊延滞になってるから」と言い残すと、書店の棚をあちこち移動して流行本一覧の作成に取り掛かり始めた。実に家業熱心なことである。
私はほっと安堵の息を吐くと、小鈴に気取られないように、こっそりと胸のあたりに片手を当てた。
鼓動がいつもより速くなっているのがはっきりと分かった。
とても小鈴に言えるわけがない。しばらく日記を書けていないなんて。それもよりによって、あんたのことで。
3
あの日は収穫祭だった。
私と小鈴は、山に帰っていく豊穣神たちを見送る人波から早めに抜け出し、山裾でひっそりとやっているこじんまりとした温泉宿で汗を流すことにした。
もともと里の有力者やその家族が利用する隠し湯であり、収穫祭で他の有力者たちが出ずっぱりになるこのタイミングは事実上貸し切りになる。
私は何でもなく小鈴が髪飾りの鈴を外すのを見ていた。小鈴は風呂に入るとき、鈴を外すんだ。当たり前か。
そう思っていたら小鈴も「あんたもお風呂じゃ花飾りを外すのね」とからかってきた。
小鈴が襦袢を脱ぐと、庶民の子らしい痩せぎすな身体が目についた。
胸部はあばらが浮き出、双丘がわずかに認められる。私は何か悪い気がしてとっさに目を逸らした。
小鈴はそんな私の挙動など全く意に介した様子もなく、先に入ってるねと言って小さな尻をこちらに向け、慌ただしく駆けていく。
私が遅れて露天風呂に顔を出すと、小鈴はとっくに湯船に肩まで浸かっていた。
透明な湯の上を滑るように紅や黄の紅葉が流れてきて、小鈴の肌色を艶やかに彩った。
私も湯に足を入れると、小鈴がおもむろに腰を上げ、「弾幕!」と叫んで湯をばしゃばしゃと掛けてくる。
白い湯気の中で上気した肢体を私に衒いなく見せつけている。
私は「こら、はしたない!」と怒ったが、半分は自分の反応に驚いてしまってのことだった。
――私は小鈴のことを大事に思っている。好ましく思っている。それはずっと前から自覚していた。
その感情の中に、友愛だけではない親愛の情を認めることもあったが、それは子を育てることのない私が、子や孫のような存在に向ける家族愛に近いものだと考えていた。
里の人間を守る使命を帯びた御阿礼の子である私は、小鈴のことを目の離せない手のかかるわが子のように可愛がっているところがある。それは嘘偽らざる感情だ。だからこそ、あの日、私は小鈴の裸体を見て感じたものが何なのか、すぐには理解できなかった。いや、どこかで分かっていたけれど、認めたくなかった。それは罪深いことだった。
湯上りで火照る体を冷やしながら、いつの間にか布団の上で仰向けに寝てしまった小鈴を見て、私は、その上に自分の身体を重ねるさまを何度も思い描いた。唇を塞ぎ、舌の味を知りたいと思った。そのくせ、私はなぜ自分がそんな想像をするのか、全く分からなかった。そしてそのまま、珍しく五日も日記を書かなかった。
御阿礼の子としての私は数百歳、考え方によっては千歳近く。
その「縦糸の私」は人間の里という家族の長として、小鈴を確かにわが子として見ている。
愛欲の対象などなりえない、守るべき愛し子として。
でも、白状する。私は、あの時小鈴を欲していた。
この稗田阿求という小娘の頭と体、「横糸の私」は、小鈴を今此処を共に過ごす人として見ているのだ。
とんでもなく身勝手に。もうあと何年もしないうちにこの魂は彼岸に行き、この思いはどこへ行くともなく私の中から消えてしまうというのに。
仮に私と小鈴が恋仲になったとして(!)、私が死んだとき小鈴は泣いてくれるだろう。
その小さな胸に私という炎をずっと燻ぶらせてくれるかもしれない。そのことを横糸の私は無上の昏い喜びとし、縦糸の私は近親相姦よりもなお罪深いこととみなすだろう。守るべき子に対し、恋人として先立つなどという……。
私は見たものを決して忘れない。
その私の視線の意味に気づかず、私の目を無邪気に受け入れる彼女の姿。それは、これから私の呪いとなる。
たった一度見ただけで、私は小鈴のあどけない信頼を、それを踏み越えたいという自分の心を、その境界線の意味を俄かに悟り、この道の先に待つ予感に打たれ動けなくなっていたのだ。
4
ようやくこうして筆を執り、五日前の出来事を振り返って、私は私の抱えた問題を自覚した。
私は冒頭で、日記をつける目的について「稗田として識ある判断を下し続けるため」などと耳障りのよいことを書いた。
だが、こうして文章にすることができた今ならはっきりと分かる。
私の中にある「横糸の私」こそ、この日記を書かせていた原因、昏く激しい欲望だったのだと。
明日私は久々に鈴奈庵に足を運び、小鈴に本の返却が遅れたことを詫び、日記の習慣を再開するだろう。
でも、もう同じではいられない。
冒頭の疑問私も思ったけれど、上手く説明してる。
沼に片足突っ込んで慌てる少女にも見えて、千年とおして初めてぶつかる思いに悩む才女にも見えて、魅力的でした
沼に片足突っ込んで慌てる少女にも見えて、千年とおして初めてぶつかる思いに悩む才女にも見えて、魅力的でした
禁断の愛ならぬ禁断の欲に目覚めた阿求が悶々としている姿が良かったです