竜宮の使いである永江衣玖が倒れたのは突然の知らせだった。比那名居天子の事実上のお世話係である彼女が倒れたことは有頂天の調和を維持しなければならない天人にとっては大問題であった。彼女は暫くの間玄雲界の実家へと帰ることになった。
天界と地上の境目に立つ存在である彼女の不在は他の竜宮の使いの補充によって賄えるかもしれないが、何よりも問題だったのは不良天人である彼女の存在だ。
見張り役がいなくなったことで自由奔放な彼女が何をしてしまうか分からない。そこで白羽の矢が立ったのが私であった。
周囲の天人からは「あのお転婆娘の我儘に付き合うなんて災難だ」と言われてしまったが私には何一つ問題はなかった。むしろそこには焦燥と歓喜の心境が渦巻いていた。
「地子……」
僕は思わずそう呟く。彼女の昔の名前なんて今や誰も知らないだろう。まだ彼女が天人になる前、地上で暮らしていた頃、私と彼女は所謂幼馴染という関係性であった。長い年月を経てまた彼女と会うことができる。早く彼女に会いたい。会話を交わしたい。でも覚えているだろうか?
比那名居家の広い回廊の向こうから長い青髪を揺らした彼女が現れた。天子は緋想の剣を腰に差し、いつものあの不遜極まりない表情で私を見つめた。
「今日からお世話になります。天子様」
そう私が言うと彼女は周囲に天人がいないか確認した後、強情なその瞳を私に向けた。ああ、あの頃と何ら変わらない目だ。
「……なんで、あんたが」
「運命も気まぐれですね。まさかこうやって……」
そう言いかけた瞬間、天子は私の胸に飛び込んできた。目には涙が浮かんでいた。
「遅い……!何もかも遅すぎるよ……!」
「天子様、困ります。こんなところを見られてしまっては」
「その呼び方やめて!……昔みたいに地子って呼んでよ」
その名前を呼んでしまったら彼女は彼女ではなくなってしまう。天人ではなかった頃の地子に戻ってしまう。
しかし彼女の思いに応えなければならない。
「二人きりの時だけでいいか、地子」
「……うん」
普段は上司と部下の関係性で彼女は振る舞ってくれた。伊吹萃香が来た時は面倒くさいからと対応を任され、衣玖さんの様子を見に行く際は一緒に付き添う。
衣玖さんは元気そうで後暫くしたら復帰できると話していた。その帰り道のことであった。
僕達はさも当たり前かのように手を繋ぐ。指を絡め合わせ簡単に離れないように。
「◯◯……」
「どうした地子?」
もう恋人のようになっていたがお互いに思いを伝えあったことはない。わざわざそんなことをする必要なんて、あるのだろうか。
「衣玖、恋人いるらしいのよ」
「まああんな人ならいるでしょうね」
「……」
彼女は私をじっと見つめ睨んだ。最近はずっとこうである。衣玖さんだとしても他の女性のことを話すと問答無用で睨んでくる。
「嫉妬しても何も出ないよ」
「それは……分かってる、けど」
「自分に自信持ったほうがいいよ、地子」
「至極真っ当なことを話すのね」
彼女は不機嫌そうに頬を膨らませた。地上にいた頃から正しいことを言われた時ほど素直に頷かない。
「自信なんて持てるわけないじゃない」
「どうして?」
「あんたは何も分かってない」
絡み合った指に力が入りさらに深くなる。
「天人になった時に名前も変わった。周りからは比那名居家の娘として扱われて地上にいた頃の私なんて忘れ去られたのよ」
「最初から存在しなかったように、ね。衣玖も私の家族も話さなくなったし」
「それなのにあんたは昔の私を知っている」
天子は立ち止まった。雲海の向こう側にある夕日は今にも沈みそうで僕たちを照らしていた。彼女の青みがかった髪は日に照らされどこか紫色のように見えた。
「だから怖いの」
「あんたがまた私の目の前からいなくなることが」
「衣玖に恋人がいると分かった時私はどこか嫌な気持ちになった。酷いと思うけど嫌だったの」
「私の知らないところで衣玖は誰かを好きになっていて……私の知らない時間があって……」
「当たり前なのにね」
彼女はそう言うと私の手を振りほどこうとした。僕は意地になって彼女の手を離さない。それどころか力強く握りしめた。
「なんで」
「地子が離れようとしてるから」
「子供扱いは嫌」
「してないよ」
「嘘つき、昔みたいに私が拗ねてると思ってる」
確かに彼女は昔からよく拗ねていた。
遊びで負ければ木の枝を投げ捨て、じゃんけんで負けただけでも地団駄を踏む。
僕がほかの子供と話していたらその子がいなくなるまで遠くから僕を睨んでいた。
しかしあの頃とは違う。彼女は拗ねているのではない。
怯えているのだ。
「君が怯えているぐらい声色を聞けば分かる。僕だって天人だから」
「確かに僕の時間はあった。もしかしたら地子の事を忘れていたこともあったかもしれない」
「……最低」
「そうだな、最低な男だ。自分のことを好きな人を無視していたようなもんだから」
そう言うと僕は彼女の前髪を整えるように優しく撫でた。
「でも地子と再会した時、僕は……」
「君と離れていた時間が惜しいと思ってしまったんだ」
天子は思わず目を見開いた。
「もっと早く地子の側にいたかった。天人になった地子がどんなふうに生きていたのか知りたかった。腹を立てていたりしていた時、地子が異変を起こしていた時、隣にいられなかったことが物凄く辛かったんだ」
「異変のことは忘れなさいよ」
「それは無理なお願いだな」
「うるさい」
「だからこれからは地子の隣にいつまでもいたいと思っている」
「……それどういう意味よ」
「自由に受け取ってもらって構わない」
「ずるい」
「そうだな、ずるいな僕は」
僕は笑い、彼女の頭を優しく撫でた。
「一つ言えることは……そうだな」
「僕は衣玖さんが戻ってきたとしても隣にいるよ」
「衣玖が戻ってきたらあんたの仕事は終わるじゃない」
「仕事としてはね」
「会いに来る。プライベートとして」
「毎日?」
「僕だって仕事があるのだから厳しいよ」
「ずっと離れていたくせに酷い」
「我儘だな」
「ずっと私を放っておいた罰よ」
天子はそう言うと、僕の肩に頭を預けた。
「ならもう君の家に婿に入ろうかな」
「……本気?」
「できるかは分からないけどね」
「……なら、さ。さっきの言葉、ちゃんと言って」
「これからは隣にいるって話」
天子がこちらを見た。頬が赤く見えるのは夕日のせいではないらしい。
「わざわざはっきりさせる必要あるかな、もうどっちなのか地子もわかってると思うけど」
「言葉にしなきゃ分からないの」
「地子は察してとよく言うくせにずるいなぁ」
「うるさい。はっきりしてほしいの」
「……ここで言わなきゃ地震を起こす」
「物騒すぎるよ」
「早く言いなさい、こっちは本気よ」
天子は本気らしい。確か異変を起こした時もこんな顔をしていたのだと後で文さんに教えてもらった。
「好きだよ。地子」
「僕にとっては地上にいた頃の君も、今の君も同じ地子であり天子だ」
「他の天人が忘れたとしても衣玖さんも忘れたとしても家族が忘れてしまったとしても僕だけは忘れない」
僕がそう言うと天子はまたあの時のように胸に飛び込んできた。あの時と違うのは彼女の中に不安感がなかったということだ。
僕は力強く抱きしめた。そしていつまでもこの子の隣りに居続けようと決意した。
「私の隣に一生いなさい」
「天人に一生だなんて言われたらプレッシャーかかるな」
「うるさい、これまで離れた罰よ」
そのように話す彼女の顔はとても美しくそしてその瞳は僕だけを見つめていた。
天界と地上の境目に立つ存在である彼女の不在は他の竜宮の使いの補充によって賄えるかもしれないが、何よりも問題だったのは不良天人である彼女の存在だ。
見張り役がいなくなったことで自由奔放な彼女が何をしてしまうか分からない。そこで白羽の矢が立ったのが私であった。
周囲の天人からは「あのお転婆娘の我儘に付き合うなんて災難だ」と言われてしまったが私には何一つ問題はなかった。むしろそこには焦燥と歓喜の心境が渦巻いていた。
「地子……」
僕は思わずそう呟く。彼女の昔の名前なんて今や誰も知らないだろう。まだ彼女が天人になる前、地上で暮らしていた頃、私と彼女は所謂幼馴染という関係性であった。長い年月を経てまた彼女と会うことができる。早く彼女に会いたい。会話を交わしたい。でも覚えているだろうか?
比那名居家の広い回廊の向こうから長い青髪を揺らした彼女が現れた。天子は緋想の剣を腰に差し、いつものあの不遜極まりない表情で私を見つめた。
「今日からお世話になります。天子様」
そう私が言うと彼女は周囲に天人がいないか確認した後、強情なその瞳を私に向けた。ああ、あの頃と何ら変わらない目だ。
「……なんで、あんたが」
「運命も気まぐれですね。まさかこうやって……」
そう言いかけた瞬間、天子は私の胸に飛び込んできた。目には涙が浮かんでいた。
「遅い……!何もかも遅すぎるよ……!」
「天子様、困ります。こんなところを見られてしまっては」
「その呼び方やめて!……昔みたいに地子って呼んでよ」
その名前を呼んでしまったら彼女は彼女ではなくなってしまう。天人ではなかった頃の地子に戻ってしまう。
しかし彼女の思いに応えなければならない。
「二人きりの時だけでいいか、地子」
「……うん」
普段は上司と部下の関係性で彼女は振る舞ってくれた。伊吹萃香が来た時は面倒くさいからと対応を任され、衣玖さんの様子を見に行く際は一緒に付き添う。
衣玖さんは元気そうで後暫くしたら復帰できると話していた。その帰り道のことであった。
僕達はさも当たり前かのように手を繋ぐ。指を絡め合わせ簡単に離れないように。
「◯◯……」
「どうした地子?」
もう恋人のようになっていたがお互いに思いを伝えあったことはない。わざわざそんなことをする必要なんて、あるのだろうか。
「衣玖、恋人いるらしいのよ」
「まああんな人ならいるでしょうね」
「……」
彼女は私をじっと見つめ睨んだ。最近はずっとこうである。衣玖さんだとしても他の女性のことを話すと問答無用で睨んでくる。
「嫉妬しても何も出ないよ」
「それは……分かってる、けど」
「自分に自信持ったほうがいいよ、地子」
「至極真っ当なことを話すのね」
彼女は不機嫌そうに頬を膨らませた。地上にいた頃から正しいことを言われた時ほど素直に頷かない。
「自信なんて持てるわけないじゃない」
「どうして?」
「あんたは何も分かってない」
絡み合った指に力が入りさらに深くなる。
「天人になった時に名前も変わった。周りからは比那名居家の娘として扱われて地上にいた頃の私なんて忘れ去られたのよ」
「最初から存在しなかったように、ね。衣玖も私の家族も話さなくなったし」
「それなのにあんたは昔の私を知っている」
天子は立ち止まった。雲海の向こう側にある夕日は今にも沈みそうで僕たちを照らしていた。彼女の青みがかった髪は日に照らされどこか紫色のように見えた。
「だから怖いの」
「あんたがまた私の目の前からいなくなることが」
「衣玖に恋人がいると分かった時私はどこか嫌な気持ちになった。酷いと思うけど嫌だったの」
「私の知らないところで衣玖は誰かを好きになっていて……私の知らない時間があって……」
「当たり前なのにね」
彼女はそう言うと私の手を振りほどこうとした。僕は意地になって彼女の手を離さない。それどころか力強く握りしめた。
「なんで」
「地子が離れようとしてるから」
「子供扱いは嫌」
「してないよ」
「嘘つき、昔みたいに私が拗ねてると思ってる」
確かに彼女は昔からよく拗ねていた。
遊びで負ければ木の枝を投げ捨て、じゃんけんで負けただけでも地団駄を踏む。
僕がほかの子供と話していたらその子がいなくなるまで遠くから僕を睨んでいた。
しかしあの頃とは違う。彼女は拗ねているのではない。
怯えているのだ。
「君が怯えているぐらい声色を聞けば分かる。僕だって天人だから」
「確かに僕の時間はあった。もしかしたら地子の事を忘れていたこともあったかもしれない」
「……最低」
「そうだな、最低な男だ。自分のことを好きな人を無視していたようなもんだから」
そう言うと僕は彼女の前髪を整えるように優しく撫でた。
「でも地子と再会した時、僕は……」
「君と離れていた時間が惜しいと思ってしまったんだ」
天子は思わず目を見開いた。
「もっと早く地子の側にいたかった。天人になった地子がどんなふうに生きていたのか知りたかった。腹を立てていたりしていた時、地子が異変を起こしていた時、隣にいられなかったことが物凄く辛かったんだ」
「異変のことは忘れなさいよ」
「それは無理なお願いだな」
「うるさい」
「だからこれからは地子の隣にいつまでもいたいと思っている」
「……それどういう意味よ」
「自由に受け取ってもらって構わない」
「ずるい」
「そうだな、ずるいな僕は」
僕は笑い、彼女の頭を優しく撫でた。
「一つ言えることは……そうだな」
「僕は衣玖さんが戻ってきたとしても隣にいるよ」
「衣玖が戻ってきたらあんたの仕事は終わるじゃない」
「仕事としてはね」
「会いに来る。プライベートとして」
「毎日?」
「僕だって仕事があるのだから厳しいよ」
「ずっと離れていたくせに酷い」
「我儘だな」
「ずっと私を放っておいた罰よ」
天子はそう言うと、僕の肩に頭を預けた。
「ならもう君の家に婿に入ろうかな」
「……本気?」
「できるかは分からないけどね」
「……なら、さ。さっきの言葉、ちゃんと言って」
「これからは隣にいるって話」
天子がこちらを見た。頬が赤く見えるのは夕日のせいではないらしい。
「わざわざはっきりさせる必要あるかな、もうどっちなのか地子もわかってると思うけど」
「言葉にしなきゃ分からないの」
「地子は察してとよく言うくせにずるいなぁ」
「うるさい。はっきりしてほしいの」
「……ここで言わなきゃ地震を起こす」
「物騒すぎるよ」
「早く言いなさい、こっちは本気よ」
天子は本気らしい。確か異変を起こした時もこんな顔をしていたのだと後で文さんに教えてもらった。
「好きだよ。地子」
「僕にとっては地上にいた頃の君も、今の君も同じ地子であり天子だ」
「他の天人が忘れたとしても衣玖さんも忘れたとしても家族が忘れてしまったとしても僕だけは忘れない」
僕がそう言うと天子はまたあの時のように胸に飛び込んできた。あの時と違うのは彼女の中に不安感がなかったということだ。
僕は力強く抱きしめた。そしていつまでもこの子の隣りに居続けようと決意した。
「私の隣に一生いなさい」
「天人に一生だなんて言われたらプレッシャーかかるな」
「うるさい、これまで離れた罰よ」
そのように話す彼女の顔はとても美しくそしてその瞳は僕だけを見つめていた。