今よりほんの少し昔の事である。
月の都を守る近衛軍たる月の軍隊に、狂気を操る事に長けた兎が居た。
彼女は、月の軍隊のエース候補として、将来を嘱望された存在であった。
彼女が所属する月の軍隊を支えるのは、圧倒的な月の兵器。
戦闘におけるその効力、その破壊力は桁違いだった。
いかなる勢力との戦闘であろうが、結果は常に月の軍隊の一方的な勝利。
そして彼女は、こなした戦闘の数と同じだけの敗北を見せつけられてきた。
敗北とは無残な物である。
戦闘における敗北とは、文字通り、全てを失うという事と同義なのだから。
勿論、彼女自身が失うわけではない。
逆に、彼女の目にした者達がその全てを失う様を、ただひたすらに、延々と彼女は見届け続けてきたのだ。
そしてその光景は、根が善良すぎた彼女にとっては、決して気持ちの良い物ではなかった。
それでも、かろうじて救いがあった。
「生」が穢れた物とされている月では、「命が奪われる」という概念はない。
それどころか「命」とはむしろ忌むべき存在とされている。
故に、彼女達の手によって「命」が散りゆくその刹那でさえ、敗れた者は一様に安らかであった。
つまり「生とは捨脱すべきもの」。
その意識が、敗者が知覚するであろう最期の瞬間において、一種の幸福をもたらしていたのだ。
そして彼女は、その一瞬において自身の軍人としての行為に正当性を見出していた。
そんなある日、ある大妖に率いられた軍勢が、地上から月の都に攻めてきた。
何しろ「牢獄」たる地上から、忌むべき「生」の集団が押し寄せてきたのである。
当然のごとく、月の都は色めきたった。
彼女もまた、同様であった。
地上の妖怪の長は勇敢だった。
そして、勇敢な彼女に率いられた妖怪達もまた勇敢だった。
月の圧倒的戦力を目の前にしながら、その鬨の雄叫びは決して鳴りやむ事がなかった。
いかなる困難を前にしても、彼らはその全てが、一人の例外もなく頑なに前を向き続けていた。
しかし、彼らは僅かな例外を除き、勇敢な者から順に散っていった。
月の最新兵器の前には、勇敢である事は無意味だったのだ。いや、無価値ですらあった。
地上の妖怪達が、渾身の力を振り絞って背負った勇敢さは、その実、月では護身用の小さな鉛玉の重さにも満たなかった。
ある者は四肢が吹き飛び、場合によっては、五体が跡形も無く消し飛んだ。
ある者は月の最新科学の結晶たる強力な精神妨害兵器によって、妖怪の存在の根源たる精神を汚染され、その存在ごと消し去られた。
それは、凄惨な光景だった。
彼らの敵として対峙した彼女でさえそう思ったのだ。
味方が、さらには自分が、もしそのような状況に陥ったとしたら……
彼女には、まともな思考を維持する事は出来なかった。
しかし、である。
その阿鼻叫喚を見せつけられてなお、勇敢な地上の妖怪達は戦い続けた。
文字通り「全てを失う」その刹那まで、戦い続け、散っていったのだ。
忌むべき物であった筈の「命」は、余りにも熱く、生々しかった。
同時に、そのなれの果ては、冷たい「無」その物であった。
そして、僅かに残るその生々しさだけが、そこに命があった事の痕跡のように感じられた。
初めて「命」が消失する事の恐怖を知った。
初めて「命」への固執という感情を自身が持っていた事を知った。
初めて「生」は決して忌むべき物などではないことを思い知らされた。
その時、彼女の同僚の一人が、心底忌々しげに話しかけてきた。
「見ろよ鈴仙、奴らのあのザマを! ったく、神聖なるこの地を“不浄な血”で穢しやがって」
不意に、彼女は心強い仲間であるはずの自軍の事が怖くなった。
息吹く命、猛る咆哮、それらを眉一つ動かさず奪ってゆく友軍が、怖くて怖くて仕方が無くなった。
自らの手で「命」を奪っておきながら、そのなれの果てを「不浄」と罵る同僚が信じられなかった。
「生」は忌むべきものだと思っていた。その教えに疑問を抱いた事はなかった。
「命」など、捨脱されるべき物だと思っていた。
ならば……
彼女は思った。
「私の中に確かに宿る、この命は一体何なのか?」
繰り返しになるが、月では「生」とは穢れた物である。
つまり、「生」を成立させる根幹たる「命」もまた、月では微塵の価値も無いものなのだ。
そこで、ふと、気が付く。
もし、仮に月が。いや、彼女の所属する月の軍隊の上官や同僚達がと言った方が、より適切だろう。
もしも、彼らがその気になれば。
「命」を不浄な物、穢れた物と罵る彼らがその気になれば。
――ワタシノ命ハ捨テラレル
どうしてそんな事はないと言い切れるだろうか。
忌むべきものとされている「生」を、わざわざ守りたいなどと、一体、誰が思うだろうか。
想像の中の自分自身と、目の前で散りゆく地上の妖怪達の姿が、ゆっくりと重なり合わさっていく。
そのうちに、もうこんなところには居られないと思った。
一刻も早く、ここから離れたいと思った。
そうして……
彼女は月から逃げ出した。
迷いの竹林の中に佇むお屋敷、永遠亭。
そこには、鈴仙という兎が居る。
彼女はひどい夢を見た。
思い出したくもない過去の夢だ。
彼女が永遠亭に来てから、決して少なくない時間が経った。
しかし、未だ頻繁に、悪夢に襲われる夜がある。
どうやら今夜も、そんな夜であったらしい。
「ちょっと、夜風に当たって来ようかな」
鈴仙はそうつぶやくと、ゆっくりと立ち上がった。
主人から寝室としてあてがわれていた座敷の襖をそっと開け、屋敷の外を目指す。
鈴仙は普段、この永遠亭に隠れ住んでおり、滅多に屋敷の外に出る事はない。
何故なら、彼女は月から逃げ出してきた身であり、隠れ匿われている身である。
隠れ匿われている以上、あまり無闇に外をうろついて、目立ちたくはなかった。
だが、どうやら今宵は新月らしい。
どこにも月明かりは見当たらず、ただ僅かに風がさざめくばかり。
この分であれば多少外を出歩いてもそう目立つ事はないであろう。
何より「月が出ていない」という事実は、彼女の心をして、これ以上ないほどに安堵させていた。
月の光無き真夜中の竹林は、驚くほどに暗く、静かだった。
あてもなく夜の竹林をフラフラと歩く。
「師匠、何だか疲れてたな」
彼女の言うところの師匠とは、「月の頭脳」とまで称された稀代の天才、八意永琳のことである。
鈴仙がちらりと聞いた話によれば、彼女はその叡智をかけた秘術を施す準備に入ったらしい。
術の完成までにどれほどの時間を要するのかは、見習いにすぎない彼女自身では知る由もない。
だが、何でも、月、それも正真正銘の本物の月に大きく干渉する術式であるとのことだ。
無論、大いなる力を持つ本物の月を術式に組み込むなど、到底不可能な事ではある。
だが、当の月において比類無き存在と謳われた師匠ならば、あるいは可能なのかもしれなかった。
そんなことを考えながら歩いていた時、傍らの暗がりの奥から突然声がした。
「よ、見ない顔だね。さては、あんたが噂の月兎かい?」
出会ったのは特徴的な白い髪に、赤と白の装束が印象的な少女。
灯りの代わりなのだろう。彼女はその片の手に火の玉を携えていた。
「……私に何の用でしょうか?」
鈴仙は、敢えて名乗らずに答える。
それなりに時を経たとはいえ、彼女は月を脱走した身であるのだ。
見ず知らずの相手に対し、己が出自を明かす危険性は十分に承知している。
確かに鈴仙に話しかけてきた少女は、一見すると地上の人間の少女のように見える。
だが、それが月の追っ手ではないという確証にはならない。
月の技術を以てすれば、容姿を変化させる事などは物の足しにもならぬほどに容易い事なのだから。
鈴仙の今の状態を一言でいうなれば警戒心。
しかし、そんな鈴仙の鋭い殺気に対して、件の少女は、努めて気さくに話しかけてきた。
「あー、いやいや、怪しいもんじゃないよ。私は奴……いや、あんたのとこの主人の知り合いだ」
「主人?」
鈴仙は訝しげな視線を送った。
「あ、薬師じゃない方な?」
どうやら主人である姫様の知り合いらしい。
でも、姫様からこんな少女の話は聞いた事がない。
「私の名は藤原妹紅、ま、とりあえずよろしく」
気さくに差し出される右手を無視して、疑問を投げかける。
「……貴女は、姫様とはどういった御関係で?」
「あぁ、一言で言うとだな、共に殺し合う仲だよ」
妹紅と名乗った少女がしれっとした調子で答える。
しかし、それに反して、彼女が手に携えていた火の玉が一瞬大きく燃え盛った。
「は……?」
「……驚いたかい?」
驚くな、という方が無理があるだろう。
「そ、それは、比喩などではなく……」
突然目の前に現れて、物騒な単語を並べる少女。
「あぁ、正真正銘の殺し合いさ。奴はどうか知らんが、私は他の何よりも奴の事を憎んでいるよ」
これでようやく互いの立場が明確となった。
彼女の主人の敵は永遠亭の敵、すなわち鈴仙にとっての敵だ。
「そう、正直なのね、貴女は」
束の間の沈黙。
やがて、互いの間を一陣の風が吹き抜けた。
「改めて訊くわ、藤原妹紅。これが最後の通告よ」
鈴仙の得意とするところは、相対する者の狂気を操る事。
自身の意識に埋没し、狂気の波長にスイッチを入れる。
それは例えるならば銃器の引き金を引く感覚に似ている。
その感覚は、月で散々味わってきたあの冷たい感覚と、どこか似ているモノだった。
「それで、姫様とは殺し合う仲であるという貴女が、姫様の下に居る身である私に何の用?」
最大限の威嚇を込めて、問いかける。
残念ながら武器を所持していないのが悔やまれるが、場合によっては即座に戦闘。
覚悟を決めて拳を握りしめた。
その時だった。
「あー、だからさ、別に、あんたに危害を加えようとかじゃないんだって」
妹紅と名乗る少女は、やれやれと言った表情で両手をあげる。
そして、すぐにその手を降ろすと、おもむろにこう切り出した。
「いや、偶然通りかかったら、こんな夜中に浮かない顔で竹林を徘徊している兎がいるじゃないか」
「私には、あんたが何だか重い物を背負ってるように思えてね」
その瞬間、鈴仙があからさまにピクリと反応した。
「…………人間風情の貴女に、一体何がわかるというんですか?」
命の価値すらわからぬままに、その生涯を終えていく人間が……
なおも言いかけた鈴仙であったが、妹紅はそれを遮るように言った。
「んー、私は“一応”人間だけどさ。これでも軽く千年くらいは生きてるんだけどね」
「せ、千年って、あ、貴女のような人間には、絶対無……」
無理、と。
そう言いかけた鈴仙であったが、ふと、その顔に驚愕の色が浮かぶ。
「あ、あなた、まさか姫様と同じ……」
鈴仙が悟った事を察したのだろう。
妹紅と名乗った少女は、酷く悲しそうに、酷く忌々しげに口にした。
「あぁ、そうさ。私は奴と同じ禁断の秘薬に冒された人間。不老不死の人間だよ」
「私が見たところ、あんたよりは私の方が人生経験はありそうだ」
「……」
「信用してない顔だね。どう? 軽くだったら殺してみても良いよ? ……痛いけど、死なないから」
「こ、殺せだなんて……」
鈴仙には、出来なかった。
月を脱走した経緯が経緯である以上、それは当然だ。
しかし、悲しい哉、火の玉を携えたこの少女はそれを知る由もない。
それにしても、彼女は今、「試しに殺せ」と言った。
殺しても「命」が無くならないと、確かに言った。
その言葉の重さには、決して嘘八百ではない得体のしれない重みがあった。
そして、「不死」は、人間の身にある限りは絶対に不可能な事である。
唯一可能になるとすれば、それは「禁断の秘薬」とやらの効果によるものに違いない。
それともう1つ。
彼女は姫様の事を知っていた。
月においては、口に出す事すら憚られる「姫様」と「秘薬」という単語。
その事を、いとも簡単に口にした。
何しろ、月においては、不死は大罪なのである。
その理由の1つには、「生」が忌むべき物であるとされている事も含まれるであろう。
故に、その不死を実現せしめる「秘薬」もまた、存在する事自体が罪。
だからこそ、「姫様」こと蓬莱山輝夜と、その付き人、私が師事する「師匠」こと八意永琳は、
その禁忌を犯した大罪人として、地上に隠れ住んでいるのである。
「そんな……」
総合的に判断して、目の前の妹紅と名乗る少女は月の追っ手ではない。
月の禁忌を犯した姫様の居場所を知ってなお、何も行動を起こさないという事は絶対にありえない。
であるならば、というのが鈴仙の出した結論だった。
「不死の人間が他にも……」
鈴仙は、ふと、目の前の少女に向かって鬱屈した胸の内を暴露したくなった。
何故なら、彼女の人生(それ)は、鈴仙のそれと比べても、遜色の無いどころか、
遥かに凌ぐほど長きに渡り、かつ凄惨なものであることが見受けられたからだ。
何しろ、不死の秘薬に冒された人間である。
目の前の少女には申し訳ないが、それがまっとうな人生だったはずがない。
鈴仙の脳裏には、彼女とは違う不死の薬に冒された人間の姿が浮かんでいた。
そうして、ほどなく鈴仙は、これまでのいきさつを話し始めた。
その内に鬱屈した思いを。
一人で抱えているには、あまりにも重すぎる思いを。
鈴仙は、1つ1つ語っていく。
「生」を不浄と定める月の民でありながら、「生」を尊び、「命」に価値を置いてしまった事。
それが原因で、月の軍隊から逃げ出してきた事。
逃げ出した事で、軍だけではなく、陰に日向にお世話になっていた、とある姉妹をも裏切ってしまった事。
その後、命からがら、この永遠亭に辿り着いた事。
こんな厄介者を、永遠亭は、何の見返りも求めずに匿ってくれている事。
そして。
逃げ出してきた筈の「浄き月」の輝きは、逃げれば逃げるほどより近くに、より強く感じられるという事。
鈴仙の独白はなおも続く。
「私のせいで、ここに隠れ住んでいた姫様や師匠までもが、見つかってしまうかもしれない…」
「それによって何の関係も無いてゐや地上の兎達を惨劇に巻き込んでしまうかもしれない!」
「何より、そうなれば、私はこの永遠亭からも逃げ出してしまうかもしれない!!!!」
最後に響いたその独白は、まさに、叫びと呼ぶに相応しいものであった。
気が付けば、鈴仙の目には涙が浮かんでいた。
繰り返しになるが、彼女は「命」の重さに耐えきれず月から逃げだした身である。
結果的にはそれが仇となり、自身の身をして、より直接的な危険に晒してしまったわけなのだが……
無論、彼女に後悔はない。
現にもし、あのまま軍に残っていたら、その心は壊れていたに違いないのだから。
では、彼女の胸に襲いかかる漠然たる不安は一体何であるのか。
それは、この一言に集約されるであろう。
「もしも、再び困難に当たった時に、この永遠亭から逃げ出してしまわないと絶対に言い切れるのか?」
何しろ、経緯はどうあれ、彼女は一度、逃亡という形の裏切りを起こした身である。
故に、二度、三度の裏切りを起こす可能性はゼロとは言えない。
それが、帰納法的証明における帰結であり、「ゼロ」と「それ以外」の根本的な違いはそこにある。
率直に言って、鈴仙は「拾ってくれた恩」以上の「愛着と忠誠」を永遠亭に感じていた。
月の軍隊では、様々な仲間に出会った。
勿論、嫌な者、苦手な者も数多くいたが、かけがえのない仲間の数はそれ以上だった。
だが、今、永遠亭で姫様や師匠、てゐやたくさんの地上の兎に囲まれて暮らす生活もまた、いつしか、自分にとってかけがえのないものになっていた。
「もう二度と…………私は逃げたりしたくない」
「私は永遠亭を裏切りたくない……」
「…………永遠亭は、大切な場所なんです」
瞼を濡らしていた涙が、ぽろぽろと溢れ出す。
まるで、その1つ1つが彼女の吐きだす思いであるかのように。
「驚いたね。あんた、噂に聞いた“新しく来た月兎”とは全然別物じゃない」
息を飲む音。
その沈黙は、彼女が心底驚いている事を、何よりも示していた。
「月の軍人だなんて言うからさ。もう少しこう殺伐としたヤツだと思っていたよ」
ぺたんと膝を折って泣きじゃくる鈴仙の姿。
その姿を見た妹紅は小さく嘆息した。
「ま、私だって大した人生経験なんて積んじゃいないけどね」
妹紅は少し困ったように宙を見据えた。
「そうだな、1つだけ」
「他人と過去は変えられない」
「え?」
唐突な問答に、座り込んだ鈴仙の顔が妹紅を見上げる。
「言葉通りだよ。他人様と過去は決して変えることはできないんだ」
鈴仙は、きょとんとした顔で僅かに首を傾げた。
「あんたが月の軍隊を逃げ出したという事実はな、残念だが未来永劫変わらない」
まず、そこは諦めろと妹紅は言った。
「そして、あんたがどう思ったところで、月の追っ手とやらがあんたを追って来る可能性は、絶対にないとは言えない」
自分がいくら心配したところで、嘆いたところで、他人の動向はまず変えられない、とそう口にした。
「だから、あんたは自分を変えてみるといい」
「そうすれば、未来は変わるよ、きっと」
「私自身と……未来」
「他人を変えることは絶対に不可能だが、あんたが他人をどう思うかは、今すぐにでも変えられるはずだ」
「そもそも、奴とあの薬師が月で犯した不死っていう罪は、一脱走兵の罪なんかよりも余程の重罪らしいじゃないか」
「むしろ、あいつらの犯した大罪のせいで、お前さんが見つかってしまう可能性の方がずっと高いはずだ」
「それはいいんです!」
仕方ないことですから、と鈴仙は小さく呟いた。
「で、でも、私のせいで姫様や師匠やてゐに迷惑がかかることだけは……」
ガタガタと震え始める鈴仙。
それは恐怖だった。自分のせいで誰かに迷惑をかけるのは嫌だ。
だから、鈴仙は己が指で引き金を引き続けた。
他ならぬ「誰かに迷惑をかけるかもしれない自分自身」を殺すために。
「いいや、私から見れば、アイツらはそれを承知であんたをあの屋敷に置いているとしか思えんがね」
「それに、あのてゐとかいう兎。あの兎は、私なんかよりもずっと前からここに住み着いていてね」
妹紅がふと見せた、心底、迷惑そうな顔。
「それはそれは賢くて、狡猾な兎だ」
鈴仙は思わず苦笑する。
思い当たる節は……ありすぎる。
「あの兎はどういうワケか、あんたがあの屋敷に住み着いてなお、仕える主人を変えていない」
「ははっ、あれだけの知恵を持った奴のことだ、危険を感じたならば、絶対に姿を消しているはず」
確かにてゐは永遠亭の出来るずっと前から元々、この辺りの兎達のボスとして君臨している。
その古参妖怪としての貫禄たるや、兎でありながらまさに虎の威も借る獅子だ。
「それが今もなお、姿を眩ましていないということは……まぁ、奴なりの勝算はあるんだろうさ」
「でも、てゐはいつも、私を追い出そうと苛めてくるんですよ?」
「そ、それこそ、迷惑だからとしか……」
そう、事あるごとに、てゐの奴は、私を弄るのだ。
永遠亭に来てからというもの、私が辱めを受けた事は一度や二度ではない。
例えば、お風呂に入った隙に着替えがなくなっていたり、寝ている隙に顔に落書きをされたり云々。
そういえば、食事に豊胸薬を混ぜられて、愛用のブレザーのボタンを飛ばしてしまった事もあった。
そんな事をするなんて、出ていけのメッセージに他ならないではないか。
「はは、あの妖怪兎が他人に見せるのは、基本的に愛嬌の良さと狡猾さだ。自身の手は滅多に汚さない」
「それが、あんたを苛める為に奴自身が直接手を下しているとなると、だ」
妹紅はにやりと笑った。
「むしろお前さんは相当好かれているとみたね」
こりゃ傑作だ、とつぶやく。
「でもな」
「あんたに1つだけ言いたい事がある」
ふと、妹紅の瞳から温かな色が消えた。
「今もそうだ。あんたはそうやって自分を責める事で、罪を償おうとしてきた」
「永遠に自分に責め苦を与え続ける事が、お前さんに出来る唯一の贖罪の形だった」
「でも、それは永遠には続かない。いくらお前さんが深い罪の意識に苛まれていようが、絶対に」
それは鈴仙にとってはあまりにも残酷すぎる通告だった。
「貴女は、私の抱く罪の意識を、贖罪の気持ちを、馬鹿にするの……?」
「この罪の意識を私がいつか忘れ去ってしまうと、貴女はそう言いたいの…!?」
涙に濡れた鈴仙の瞳に赤い光が宿る。
自身を否定された悲しみが、激情となって鈴仙の感情を支配した。
「違う」
しかし、妹紅は静かにそれを遮った。
「文字通りだよ。絶対に永遠には続かないんだ。贖罪を願うお前さんの命が、ね」
「お前さんの罪の意識の源泉、それは生であり、そこに宿る命であり、それがいつか尽きてしまう物である事だ」
「だが、命は尊く、熱く、かけがえのないものだ」
「いつか尽きるものだからこそな」
そう口にしたのが自虐であった事に鈴仙は気が付いただろうか。
「私の命は永遠に尽きる事が無くなった」
「お天道様ですら、いつかはその光を失う時が来る。そうなればお前さんが居た月も当然光を失うだろう」
「でも、私の命はそれでも尽きない。そうなって初めて気づいた事さ」
たとえ世界が終っても自身は終わらない。
世界が終るという事がどんな状態を指すのかは正直わかりかねるが、
ただ1つ言えるのは、虚無の中に存在し続けなければいけない苦痛は計り知れないモノがあるという事だ。
「だからお前さんも、考えてみたらいい」
「月での殺生が善だったとは言わない。だが、いつまでも過去の悪に囚われているのは如何なものか?」
「お前さんはもう十分苦しんだじゃないか」
それは福音だった。
月でその手にかけてきた数多の命。
それらを不浄の物と罵る上官や同僚達の悪意。
見て見ぬふりをしてきた。苦しむ自分の心に嘘をつき続けてきた。
己の罪を永遠に抱え続けなければいけないと、自らを縛り付け続けてきた。
――その全てから解放される心地がした。
――今まで感じてきたありとあらゆる全ての苦しみから解放される心地がした。
「私は、私の罪をずっと抱え続けるつもりでした。永遠にずっと……」
それは鈴仙の偽らざる本音であった。
それほどまでに彼女の心に巣くう自責の念は、深く深く刻み込まれていたものだった。
「永遠なんてものはね、夢であるくらいが丁度良いんだ」
そう、それは決して届かぬからこそ美しい。
手に入れてしまえば、間近で目にしてしまっては、見えなかった細部までが見えてくる。
その生々しさ、その醜悪さはまさに不浄そのもの。
きっと眉を顰める事になるだろう。
現に、初めて「永遠そのもの」を、不老不死をもたらす禁断の秘薬に冒された存在を。
その目で目の当たりにした月の民は“それ”をどう見たか。
「そうだ、生きとし生ける者は皆、永遠というモノを望みすぎるんだ」
「昔はお前さんの主や師匠もそうだったさ」
だからこその秘薬であり、だからこその今。
後悔しても決して終わる事のない現実との戦いが、禁断の秘薬に冒された者の末路。
「終わりがあるからこそ、終わりが来るからこそ、だ」
それこそが生きている証だと、妹紅はそう口にした。
「永遠なんてね、そう良いモンじゃないよ」
「それでも、私は…」
鈴仙にはまだ迷いがあった。
救われたい。でも、救われてはいけない。罪から逃げてはいけない。
私の周りの世界、私が犯してきた罪によって泣いた者たち、失われた命。
それらはきっと私が私を許す事を許してはくれないだろう。
そんな迷いが、鈴仙の心をさざなみのように掻き乱した。
「確かにあんたの犯した過ちは変わらない」
「でも“自分自身を変える事はできる”最初にそう言っただろ?」
妹紅は繰り返しそう口にした。
「今宵、あんたが過去の自分を乗り越えたなら、自分の中で確かに何かが変わったのなら」
その声色はどこまでも優しかった。
「変わったあんたを見た周りの者も、自分を変えようとするかもしれない」
「そして、そんな誰かを見た別の誰か、その誰かもまた自分を変えようとするかもしれない」
「そうやって繋がりに繋がっていったとしたら、いつかお前さんの周りは今までとは全然違う世界になるだろう」
「そしてそうなれば、きっと変わるさ」
「一変した周りの世界に囲まれた、お前さんの未来もね」
「私が変われば、未来も……変わる……」
呟く鈴仙。
しかし、その佇まいはそれまでとは何かが違っていた。
遠くを見据えるその瞳には、確固たる意思が宿っていた。
「私は…」
「変えようと思う。自分を。未来を」
小さく言葉を搾り出す。
「私は嫌いだった自分を、少しだけ好きになれそうです」
「ありがとう、藤原妹紅。貴女のおかげで私は救われた」
「あぁ、どういたしまして。良いカオしてるよ、今のあんた」
もう心配ないとばかりに妹紅もそう口にした。
「月の兎さん、お前さんの幸運を祈るよ」
「あなたの方こそ」
見据えあい、小さく頷き合う。
互いに向けた不敵な笑みは二人の間に新しく繋がった絆の証。
「それでは私はお屋敷に戻ります」
「今日は本当にありがとうございました」
「あぁ、気ぃ付けて帰るんだぞ」
ヒラヒラと手を振って、早く行けとばかりに促す妹紅。
鈴仙はペコリとお辞儀をして、屋敷へと帰っていった。
その背中は先ほど出会った時よりも、心なしか凜としているように妹紅には見えた。
鈴仙が屋敷に戻ってから数刻。
再度、闇に包まれた竹林の一角にうごめく影があった。
辺りにガサリと土を踏みしめる音が響く。
「ウチのイナバを救ってくれてありがとう。改めて礼を言わせてもらうわ、妹紅。それと、変な事を頼んで悪かったわね」
「ふん、あんな説教染みた事、身内のお前が言ったところで説得力がないからな」
突如、闇の中にボっと炎が灯る。
明るくなったその場所に、互いに相まみえるように立っていたのは二人の少女だった。
「言っておくけど、妹紅。今のが貴女に対して口にする人生最後のお礼よ。そのつもりで、せいぜい心に刻みつけておきなさい」
「はっ、お前の口から出たお礼なんぞ、ただの一度たりとも聞きたくないね」
「そうだと思ったわ」
「は、そうか。そりゃ良かったな」
身もふたもない口撃の応酬。
それはこれから始まる「殺し合い」の幕開け。
「だが、こちらこそ礼を言わせてもらおう、輝夜」
輝夜と呼ばれた少女に浮かぶ驚愕。
その様子を満足そうに一瞥して、妹紅と呼ばれた少女は口にした。
「あの月兎に語りかけた言葉は、まるで自分自身に言い聞かせているようだったからな」
声の主、妹紅は遠い目をしていた。
暗がりの向こうに在りし日の自分自身を見つめる、そんな目をしていた。
「あら、それは私に対する人生最後のお礼という事でいいかしら?」
「ああ、願はくばもう二度と、お前に礼を言う機会なんて無い事を祈っているよ」
不死となった者同士の「人生最後の」というフレーズ。
お互い、そこに思うところがあったのだろう。
両者は逡巡し、しばしの沈黙が走る。
「さて……」
妖艶な笑みをたたえながら、輝夜が切り出す。
「ああ……」
不敵な笑みをたたえながら、妹紅が応える。
「今宵も……」
七色の光と紅蓮の炎が真夜中の竹林を照らす。
決闘の開始を告げる二人の声が同時に木霊した。
「殺し合いましょう!」
「殺し合おうじゃないか!」
ここまで何千何万と変わらず続けられてきた戦い。
どんなに手を変え品を変えても、決して結果が変わることのない戦い。
未来永劫変わる事がないであろう永遠の殺し合いが今宵もまた始まった。
幻想郷には迷いの竹林と呼ばれる場所がある。
この地に最も古くから住み着いていたのは、妖怪兎の因幡てゐ。
そこに月の姫と従者が現れて屋敷を建て、後にそこに鈴仙が加わる。
このように竹林という1つの場所を以てしても、「日常」は絶えず変わってゆく。
逆に言えば、未来永劫、永遠に変わる事のない「日常」は決して存在しない。
――不死という禁断の例外を除いては。
ただし、唯一変わらない「日常」があるとすれば、それは過去に思いを馳せた時に広がる「日常」。
「あの楽しかった日々」「あの苦しかった日々」として心に浮かぶ「日常」は決して変わる事はない。
そう、永遠とはどんなに追い求めたところで、必ず逃げていくものだ。
繰り返すが、物事は森羅万象、いつか変わってゆくものだ。
言い換えれば、「永遠」とは、思い出の中で固定された「過去」そのものである。
「須臾」とは、今現在を起点として絶えず変わってゆく「未来」そのものである。
そうであるならば、求めるべきは果たして、変えられるもの(未来)か、変えられぬもの(過去)か。
鈴仙優曇華院イナバは、不死ではない。
故に、選ぶ権利がある。
「永遠」と「須臾」、どちらを選ぶのかを。
「姫様、ウドンゲが見るからに元気になったようですが」
「それがどうかしたの?」
「いえ、憑き物が落ちたようなウドンゲのあの変わりぶり、もしや姫様のお口添えではないかと」
「私がそんな面倒な事するワケないじゃない」
「そうですか…」
月の天才、八意永琳はその後、その叡智を賭けて、永遠を求める秘術を幻想郷に施した。
そして、その秘術を破る存在。
永遠と須臾の狭間で生きる者達の心に、その生き方に、風穴を開ける事になる存在。
後に幻想郷を明るく楽しい世界に変えてゆく事になる彼女たちが、異変解決と称して、ここ永遠亭に殴り込んでくるのはもう少し先の話。
月の都を守る近衛軍たる月の軍隊に、狂気を操る事に長けた兎が居た。
彼女は、月の軍隊のエース候補として、将来を嘱望された存在であった。
彼女が所属する月の軍隊を支えるのは、圧倒的な月の兵器。
戦闘におけるその効力、その破壊力は桁違いだった。
いかなる勢力との戦闘であろうが、結果は常に月の軍隊の一方的な勝利。
そして彼女は、こなした戦闘の数と同じだけの敗北を見せつけられてきた。
敗北とは無残な物である。
戦闘における敗北とは、文字通り、全てを失うという事と同義なのだから。
勿論、彼女自身が失うわけではない。
逆に、彼女の目にした者達がその全てを失う様を、ただひたすらに、延々と彼女は見届け続けてきたのだ。
そしてその光景は、根が善良すぎた彼女にとっては、決して気持ちの良い物ではなかった。
それでも、かろうじて救いがあった。
「生」が穢れた物とされている月では、「命が奪われる」という概念はない。
それどころか「命」とはむしろ忌むべき存在とされている。
故に、彼女達の手によって「命」が散りゆくその刹那でさえ、敗れた者は一様に安らかであった。
つまり「生とは捨脱すべきもの」。
その意識が、敗者が知覚するであろう最期の瞬間において、一種の幸福をもたらしていたのだ。
そして彼女は、その一瞬において自身の軍人としての行為に正当性を見出していた。
そんなある日、ある大妖に率いられた軍勢が、地上から月の都に攻めてきた。
何しろ「牢獄」たる地上から、忌むべき「生」の集団が押し寄せてきたのである。
当然のごとく、月の都は色めきたった。
彼女もまた、同様であった。
地上の妖怪の長は勇敢だった。
そして、勇敢な彼女に率いられた妖怪達もまた勇敢だった。
月の圧倒的戦力を目の前にしながら、その鬨の雄叫びは決して鳴りやむ事がなかった。
いかなる困難を前にしても、彼らはその全てが、一人の例外もなく頑なに前を向き続けていた。
しかし、彼らは僅かな例外を除き、勇敢な者から順に散っていった。
月の最新兵器の前には、勇敢である事は無意味だったのだ。いや、無価値ですらあった。
地上の妖怪達が、渾身の力を振り絞って背負った勇敢さは、その実、月では護身用の小さな鉛玉の重さにも満たなかった。
ある者は四肢が吹き飛び、場合によっては、五体が跡形も無く消し飛んだ。
ある者は月の最新科学の結晶たる強力な精神妨害兵器によって、妖怪の存在の根源たる精神を汚染され、その存在ごと消し去られた。
それは、凄惨な光景だった。
彼らの敵として対峙した彼女でさえそう思ったのだ。
味方が、さらには自分が、もしそのような状況に陥ったとしたら……
彼女には、まともな思考を維持する事は出来なかった。
しかし、である。
その阿鼻叫喚を見せつけられてなお、勇敢な地上の妖怪達は戦い続けた。
文字通り「全てを失う」その刹那まで、戦い続け、散っていったのだ。
忌むべき物であった筈の「命」は、余りにも熱く、生々しかった。
同時に、そのなれの果ては、冷たい「無」その物であった。
そして、僅かに残るその生々しさだけが、そこに命があった事の痕跡のように感じられた。
初めて「命」が消失する事の恐怖を知った。
初めて「命」への固執という感情を自身が持っていた事を知った。
初めて「生」は決して忌むべき物などではないことを思い知らされた。
その時、彼女の同僚の一人が、心底忌々しげに話しかけてきた。
「見ろよ鈴仙、奴らのあのザマを! ったく、神聖なるこの地を“不浄な血”で穢しやがって」
不意に、彼女は心強い仲間であるはずの自軍の事が怖くなった。
息吹く命、猛る咆哮、それらを眉一つ動かさず奪ってゆく友軍が、怖くて怖くて仕方が無くなった。
自らの手で「命」を奪っておきながら、そのなれの果てを「不浄」と罵る同僚が信じられなかった。
「生」は忌むべきものだと思っていた。その教えに疑問を抱いた事はなかった。
「命」など、捨脱されるべき物だと思っていた。
ならば……
彼女は思った。
「私の中に確かに宿る、この命は一体何なのか?」
繰り返しになるが、月では「生」とは穢れた物である。
つまり、「生」を成立させる根幹たる「命」もまた、月では微塵の価値も無いものなのだ。
そこで、ふと、気が付く。
もし、仮に月が。いや、彼女の所属する月の軍隊の上官や同僚達がと言った方が、より適切だろう。
もしも、彼らがその気になれば。
「命」を不浄な物、穢れた物と罵る彼らがその気になれば。
――ワタシノ命ハ捨テラレル
どうしてそんな事はないと言い切れるだろうか。
忌むべきものとされている「生」を、わざわざ守りたいなどと、一体、誰が思うだろうか。
想像の中の自分自身と、目の前で散りゆく地上の妖怪達の姿が、ゆっくりと重なり合わさっていく。
そのうちに、もうこんなところには居られないと思った。
一刻も早く、ここから離れたいと思った。
そうして……
彼女は月から逃げ出した。
迷いの竹林の中に佇むお屋敷、永遠亭。
そこには、鈴仙という兎が居る。
彼女はひどい夢を見た。
思い出したくもない過去の夢だ。
彼女が永遠亭に来てから、決して少なくない時間が経った。
しかし、未だ頻繁に、悪夢に襲われる夜がある。
どうやら今夜も、そんな夜であったらしい。
「ちょっと、夜風に当たって来ようかな」
鈴仙はそうつぶやくと、ゆっくりと立ち上がった。
主人から寝室としてあてがわれていた座敷の襖をそっと開け、屋敷の外を目指す。
鈴仙は普段、この永遠亭に隠れ住んでおり、滅多に屋敷の外に出る事はない。
何故なら、彼女は月から逃げ出してきた身であり、隠れ匿われている身である。
隠れ匿われている以上、あまり無闇に外をうろついて、目立ちたくはなかった。
だが、どうやら今宵は新月らしい。
どこにも月明かりは見当たらず、ただ僅かに風がさざめくばかり。
この分であれば多少外を出歩いてもそう目立つ事はないであろう。
何より「月が出ていない」という事実は、彼女の心をして、これ以上ないほどに安堵させていた。
月の光無き真夜中の竹林は、驚くほどに暗く、静かだった。
あてもなく夜の竹林をフラフラと歩く。
「師匠、何だか疲れてたな」
彼女の言うところの師匠とは、「月の頭脳」とまで称された稀代の天才、八意永琳のことである。
鈴仙がちらりと聞いた話によれば、彼女はその叡智をかけた秘術を施す準備に入ったらしい。
術の完成までにどれほどの時間を要するのかは、見習いにすぎない彼女自身では知る由もない。
だが、何でも、月、それも正真正銘の本物の月に大きく干渉する術式であるとのことだ。
無論、大いなる力を持つ本物の月を術式に組み込むなど、到底不可能な事ではある。
だが、当の月において比類無き存在と謳われた師匠ならば、あるいは可能なのかもしれなかった。
そんなことを考えながら歩いていた時、傍らの暗がりの奥から突然声がした。
「よ、見ない顔だね。さては、あんたが噂の月兎かい?」
出会ったのは特徴的な白い髪に、赤と白の装束が印象的な少女。
灯りの代わりなのだろう。彼女はその片の手に火の玉を携えていた。
「……私に何の用でしょうか?」
鈴仙は、敢えて名乗らずに答える。
それなりに時を経たとはいえ、彼女は月を脱走した身であるのだ。
見ず知らずの相手に対し、己が出自を明かす危険性は十分に承知している。
確かに鈴仙に話しかけてきた少女は、一見すると地上の人間の少女のように見える。
だが、それが月の追っ手ではないという確証にはならない。
月の技術を以てすれば、容姿を変化させる事などは物の足しにもならぬほどに容易い事なのだから。
鈴仙の今の状態を一言でいうなれば警戒心。
しかし、そんな鈴仙の鋭い殺気に対して、件の少女は、努めて気さくに話しかけてきた。
「あー、いやいや、怪しいもんじゃないよ。私は奴……いや、あんたのとこの主人の知り合いだ」
「主人?」
鈴仙は訝しげな視線を送った。
「あ、薬師じゃない方な?」
どうやら主人である姫様の知り合いらしい。
でも、姫様からこんな少女の話は聞いた事がない。
「私の名は藤原妹紅、ま、とりあえずよろしく」
気さくに差し出される右手を無視して、疑問を投げかける。
「……貴女は、姫様とはどういった御関係で?」
「あぁ、一言で言うとだな、共に殺し合う仲だよ」
妹紅と名乗った少女がしれっとした調子で答える。
しかし、それに反して、彼女が手に携えていた火の玉が一瞬大きく燃え盛った。
「は……?」
「……驚いたかい?」
驚くな、という方が無理があるだろう。
「そ、それは、比喩などではなく……」
突然目の前に現れて、物騒な単語を並べる少女。
「あぁ、正真正銘の殺し合いさ。奴はどうか知らんが、私は他の何よりも奴の事を憎んでいるよ」
これでようやく互いの立場が明確となった。
彼女の主人の敵は永遠亭の敵、すなわち鈴仙にとっての敵だ。
「そう、正直なのね、貴女は」
束の間の沈黙。
やがて、互いの間を一陣の風が吹き抜けた。
「改めて訊くわ、藤原妹紅。これが最後の通告よ」
鈴仙の得意とするところは、相対する者の狂気を操る事。
自身の意識に埋没し、狂気の波長にスイッチを入れる。
それは例えるならば銃器の引き金を引く感覚に似ている。
その感覚は、月で散々味わってきたあの冷たい感覚と、どこか似ているモノだった。
「それで、姫様とは殺し合う仲であるという貴女が、姫様の下に居る身である私に何の用?」
最大限の威嚇を込めて、問いかける。
残念ながら武器を所持していないのが悔やまれるが、場合によっては即座に戦闘。
覚悟を決めて拳を握りしめた。
その時だった。
「あー、だからさ、別に、あんたに危害を加えようとかじゃないんだって」
妹紅と名乗る少女は、やれやれと言った表情で両手をあげる。
そして、すぐにその手を降ろすと、おもむろにこう切り出した。
「いや、偶然通りかかったら、こんな夜中に浮かない顔で竹林を徘徊している兎がいるじゃないか」
「私には、あんたが何だか重い物を背負ってるように思えてね」
その瞬間、鈴仙があからさまにピクリと反応した。
「…………人間風情の貴女に、一体何がわかるというんですか?」
命の価値すらわからぬままに、その生涯を終えていく人間が……
なおも言いかけた鈴仙であったが、妹紅はそれを遮るように言った。
「んー、私は“一応”人間だけどさ。これでも軽く千年くらいは生きてるんだけどね」
「せ、千年って、あ、貴女のような人間には、絶対無……」
無理、と。
そう言いかけた鈴仙であったが、ふと、その顔に驚愕の色が浮かぶ。
「あ、あなた、まさか姫様と同じ……」
鈴仙が悟った事を察したのだろう。
妹紅と名乗った少女は、酷く悲しそうに、酷く忌々しげに口にした。
「あぁ、そうさ。私は奴と同じ禁断の秘薬に冒された人間。不老不死の人間だよ」
「私が見たところ、あんたよりは私の方が人生経験はありそうだ」
「……」
「信用してない顔だね。どう? 軽くだったら殺してみても良いよ? ……痛いけど、死なないから」
「こ、殺せだなんて……」
鈴仙には、出来なかった。
月を脱走した経緯が経緯である以上、それは当然だ。
しかし、悲しい哉、火の玉を携えたこの少女はそれを知る由もない。
それにしても、彼女は今、「試しに殺せ」と言った。
殺しても「命」が無くならないと、確かに言った。
その言葉の重さには、決して嘘八百ではない得体のしれない重みがあった。
そして、「不死」は、人間の身にある限りは絶対に不可能な事である。
唯一可能になるとすれば、それは「禁断の秘薬」とやらの効果によるものに違いない。
それともう1つ。
彼女は姫様の事を知っていた。
月においては、口に出す事すら憚られる「姫様」と「秘薬」という単語。
その事を、いとも簡単に口にした。
何しろ、月においては、不死は大罪なのである。
その理由の1つには、「生」が忌むべき物であるとされている事も含まれるであろう。
故に、その不死を実現せしめる「秘薬」もまた、存在する事自体が罪。
だからこそ、「姫様」こと蓬莱山輝夜と、その付き人、私が師事する「師匠」こと八意永琳は、
その禁忌を犯した大罪人として、地上に隠れ住んでいるのである。
「そんな……」
総合的に判断して、目の前の妹紅と名乗る少女は月の追っ手ではない。
月の禁忌を犯した姫様の居場所を知ってなお、何も行動を起こさないという事は絶対にありえない。
であるならば、というのが鈴仙の出した結論だった。
「不死の人間が他にも……」
鈴仙は、ふと、目の前の少女に向かって鬱屈した胸の内を暴露したくなった。
何故なら、彼女の人生(それ)は、鈴仙のそれと比べても、遜色の無いどころか、
遥かに凌ぐほど長きに渡り、かつ凄惨なものであることが見受けられたからだ。
何しろ、不死の秘薬に冒された人間である。
目の前の少女には申し訳ないが、それがまっとうな人生だったはずがない。
鈴仙の脳裏には、彼女とは違う不死の薬に冒された人間の姿が浮かんでいた。
そうして、ほどなく鈴仙は、これまでのいきさつを話し始めた。
その内に鬱屈した思いを。
一人で抱えているには、あまりにも重すぎる思いを。
鈴仙は、1つ1つ語っていく。
「生」を不浄と定める月の民でありながら、「生」を尊び、「命」に価値を置いてしまった事。
それが原因で、月の軍隊から逃げ出してきた事。
逃げ出した事で、軍だけではなく、陰に日向にお世話になっていた、とある姉妹をも裏切ってしまった事。
その後、命からがら、この永遠亭に辿り着いた事。
こんな厄介者を、永遠亭は、何の見返りも求めずに匿ってくれている事。
そして。
逃げ出してきた筈の「浄き月」の輝きは、逃げれば逃げるほどより近くに、より強く感じられるという事。
鈴仙の独白はなおも続く。
「私のせいで、ここに隠れ住んでいた姫様や師匠までもが、見つかってしまうかもしれない…」
「それによって何の関係も無いてゐや地上の兎達を惨劇に巻き込んでしまうかもしれない!」
「何より、そうなれば、私はこの永遠亭からも逃げ出してしまうかもしれない!!!!」
最後に響いたその独白は、まさに、叫びと呼ぶに相応しいものであった。
気が付けば、鈴仙の目には涙が浮かんでいた。
繰り返しになるが、彼女は「命」の重さに耐えきれず月から逃げだした身である。
結果的にはそれが仇となり、自身の身をして、より直接的な危険に晒してしまったわけなのだが……
無論、彼女に後悔はない。
現にもし、あのまま軍に残っていたら、その心は壊れていたに違いないのだから。
では、彼女の胸に襲いかかる漠然たる不安は一体何であるのか。
それは、この一言に集約されるであろう。
「もしも、再び困難に当たった時に、この永遠亭から逃げ出してしまわないと絶対に言い切れるのか?」
何しろ、経緯はどうあれ、彼女は一度、逃亡という形の裏切りを起こした身である。
故に、二度、三度の裏切りを起こす可能性はゼロとは言えない。
それが、帰納法的証明における帰結であり、「ゼロ」と「それ以外」の根本的な違いはそこにある。
率直に言って、鈴仙は「拾ってくれた恩」以上の「愛着と忠誠」を永遠亭に感じていた。
月の軍隊では、様々な仲間に出会った。
勿論、嫌な者、苦手な者も数多くいたが、かけがえのない仲間の数はそれ以上だった。
だが、今、永遠亭で姫様や師匠、てゐやたくさんの地上の兎に囲まれて暮らす生活もまた、いつしか、自分にとってかけがえのないものになっていた。
「もう二度と…………私は逃げたりしたくない」
「私は永遠亭を裏切りたくない……」
「…………永遠亭は、大切な場所なんです」
瞼を濡らしていた涙が、ぽろぽろと溢れ出す。
まるで、その1つ1つが彼女の吐きだす思いであるかのように。
「驚いたね。あんた、噂に聞いた“新しく来た月兎”とは全然別物じゃない」
息を飲む音。
その沈黙は、彼女が心底驚いている事を、何よりも示していた。
「月の軍人だなんて言うからさ。もう少しこう殺伐としたヤツだと思っていたよ」
ぺたんと膝を折って泣きじゃくる鈴仙の姿。
その姿を見た妹紅は小さく嘆息した。
「ま、私だって大した人生経験なんて積んじゃいないけどね」
妹紅は少し困ったように宙を見据えた。
「そうだな、1つだけ」
「他人と過去は変えられない」
「え?」
唐突な問答に、座り込んだ鈴仙の顔が妹紅を見上げる。
「言葉通りだよ。他人様と過去は決して変えることはできないんだ」
鈴仙は、きょとんとした顔で僅かに首を傾げた。
「あんたが月の軍隊を逃げ出したという事実はな、残念だが未来永劫変わらない」
まず、そこは諦めろと妹紅は言った。
「そして、あんたがどう思ったところで、月の追っ手とやらがあんたを追って来る可能性は、絶対にないとは言えない」
自分がいくら心配したところで、嘆いたところで、他人の動向はまず変えられない、とそう口にした。
「だから、あんたは自分を変えてみるといい」
「そうすれば、未来は変わるよ、きっと」
「私自身と……未来」
「他人を変えることは絶対に不可能だが、あんたが他人をどう思うかは、今すぐにでも変えられるはずだ」
「そもそも、奴とあの薬師が月で犯した不死っていう罪は、一脱走兵の罪なんかよりも余程の重罪らしいじゃないか」
「むしろ、あいつらの犯した大罪のせいで、お前さんが見つかってしまう可能性の方がずっと高いはずだ」
「それはいいんです!」
仕方ないことですから、と鈴仙は小さく呟いた。
「で、でも、私のせいで姫様や師匠やてゐに迷惑がかかることだけは……」
ガタガタと震え始める鈴仙。
それは恐怖だった。自分のせいで誰かに迷惑をかけるのは嫌だ。
だから、鈴仙は己が指で引き金を引き続けた。
他ならぬ「誰かに迷惑をかけるかもしれない自分自身」を殺すために。
「いいや、私から見れば、アイツらはそれを承知であんたをあの屋敷に置いているとしか思えんがね」
「それに、あのてゐとかいう兎。あの兎は、私なんかよりもずっと前からここに住み着いていてね」
妹紅がふと見せた、心底、迷惑そうな顔。
「それはそれは賢くて、狡猾な兎だ」
鈴仙は思わず苦笑する。
思い当たる節は……ありすぎる。
「あの兎はどういうワケか、あんたがあの屋敷に住み着いてなお、仕える主人を変えていない」
「ははっ、あれだけの知恵を持った奴のことだ、危険を感じたならば、絶対に姿を消しているはず」
確かにてゐは永遠亭の出来るずっと前から元々、この辺りの兎達のボスとして君臨している。
その古参妖怪としての貫禄たるや、兎でありながらまさに虎の威も借る獅子だ。
「それが今もなお、姿を眩ましていないということは……まぁ、奴なりの勝算はあるんだろうさ」
「でも、てゐはいつも、私を追い出そうと苛めてくるんですよ?」
「そ、それこそ、迷惑だからとしか……」
そう、事あるごとに、てゐの奴は、私を弄るのだ。
永遠亭に来てからというもの、私が辱めを受けた事は一度や二度ではない。
例えば、お風呂に入った隙に着替えがなくなっていたり、寝ている隙に顔に落書きをされたり云々。
そういえば、食事に豊胸薬を混ぜられて、愛用のブレザーのボタンを飛ばしてしまった事もあった。
そんな事をするなんて、出ていけのメッセージに他ならないではないか。
「はは、あの妖怪兎が他人に見せるのは、基本的に愛嬌の良さと狡猾さだ。自身の手は滅多に汚さない」
「それが、あんたを苛める為に奴自身が直接手を下しているとなると、だ」
妹紅はにやりと笑った。
「むしろお前さんは相当好かれているとみたね」
こりゃ傑作だ、とつぶやく。
「でもな」
「あんたに1つだけ言いたい事がある」
ふと、妹紅の瞳から温かな色が消えた。
「今もそうだ。あんたはそうやって自分を責める事で、罪を償おうとしてきた」
「永遠に自分に責め苦を与え続ける事が、お前さんに出来る唯一の贖罪の形だった」
「でも、それは永遠には続かない。いくらお前さんが深い罪の意識に苛まれていようが、絶対に」
それは鈴仙にとってはあまりにも残酷すぎる通告だった。
「貴女は、私の抱く罪の意識を、贖罪の気持ちを、馬鹿にするの……?」
「この罪の意識を私がいつか忘れ去ってしまうと、貴女はそう言いたいの…!?」
涙に濡れた鈴仙の瞳に赤い光が宿る。
自身を否定された悲しみが、激情となって鈴仙の感情を支配した。
「違う」
しかし、妹紅は静かにそれを遮った。
「文字通りだよ。絶対に永遠には続かないんだ。贖罪を願うお前さんの命が、ね」
「お前さんの罪の意識の源泉、それは生であり、そこに宿る命であり、それがいつか尽きてしまう物である事だ」
「だが、命は尊く、熱く、かけがえのないものだ」
「いつか尽きるものだからこそな」
そう口にしたのが自虐であった事に鈴仙は気が付いただろうか。
「私の命は永遠に尽きる事が無くなった」
「お天道様ですら、いつかはその光を失う時が来る。そうなればお前さんが居た月も当然光を失うだろう」
「でも、私の命はそれでも尽きない。そうなって初めて気づいた事さ」
たとえ世界が終っても自身は終わらない。
世界が終るという事がどんな状態を指すのかは正直わかりかねるが、
ただ1つ言えるのは、虚無の中に存在し続けなければいけない苦痛は計り知れないモノがあるという事だ。
「だからお前さんも、考えてみたらいい」
「月での殺生が善だったとは言わない。だが、いつまでも過去の悪に囚われているのは如何なものか?」
「お前さんはもう十分苦しんだじゃないか」
それは福音だった。
月でその手にかけてきた数多の命。
それらを不浄の物と罵る上官や同僚達の悪意。
見て見ぬふりをしてきた。苦しむ自分の心に嘘をつき続けてきた。
己の罪を永遠に抱え続けなければいけないと、自らを縛り付け続けてきた。
――その全てから解放される心地がした。
――今まで感じてきたありとあらゆる全ての苦しみから解放される心地がした。
「私は、私の罪をずっと抱え続けるつもりでした。永遠にずっと……」
それは鈴仙の偽らざる本音であった。
それほどまでに彼女の心に巣くう自責の念は、深く深く刻み込まれていたものだった。
「永遠なんてものはね、夢であるくらいが丁度良いんだ」
そう、それは決して届かぬからこそ美しい。
手に入れてしまえば、間近で目にしてしまっては、見えなかった細部までが見えてくる。
その生々しさ、その醜悪さはまさに不浄そのもの。
きっと眉を顰める事になるだろう。
現に、初めて「永遠そのもの」を、不老不死をもたらす禁断の秘薬に冒された存在を。
その目で目の当たりにした月の民は“それ”をどう見たか。
「そうだ、生きとし生ける者は皆、永遠というモノを望みすぎるんだ」
「昔はお前さんの主や師匠もそうだったさ」
だからこその秘薬であり、だからこその今。
後悔しても決して終わる事のない現実との戦いが、禁断の秘薬に冒された者の末路。
「終わりがあるからこそ、終わりが来るからこそ、だ」
それこそが生きている証だと、妹紅はそう口にした。
「永遠なんてね、そう良いモンじゃないよ」
「それでも、私は…」
鈴仙にはまだ迷いがあった。
救われたい。でも、救われてはいけない。罪から逃げてはいけない。
私の周りの世界、私が犯してきた罪によって泣いた者たち、失われた命。
それらはきっと私が私を許す事を許してはくれないだろう。
そんな迷いが、鈴仙の心をさざなみのように掻き乱した。
「確かにあんたの犯した過ちは変わらない」
「でも“自分自身を変える事はできる”最初にそう言っただろ?」
妹紅は繰り返しそう口にした。
「今宵、あんたが過去の自分を乗り越えたなら、自分の中で確かに何かが変わったのなら」
その声色はどこまでも優しかった。
「変わったあんたを見た周りの者も、自分を変えようとするかもしれない」
「そして、そんな誰かを見た別の誰か、その誰かもまた自分を変えようとするかもしれない」
「そうやって繋がりに繋がっていったとしたら、いつかお前さんの周りは今までとは全然違う世界になるだろう」
「そしてそうなれば、きっと変わるさ」
「一変した周りの世界に囲まれた、お前さんの未来もね」
「私が変われば、未来も……変わる……」
呟く鈴仙。
しかし、その佇まいはそれまでとは何かが違っていた。
遠くを見据えるその瞳には、確固たる意思が宿っていた。
「私は…」
「変えようと思う。自分を。未来を」
小さく言葉を搾り出す。
「私は嫌いだった自分を、少しだけ好きになれそうです」
「ありがとう、藤原妹紅。貴女のおかげで私は救われた」
「あぁ、どういたしまして。良いカオしてるよ、今のあんた」
もう心配ないとばかりに妹紅もそう口にした。
「月の兎さん、お前さんの幸運を祈るよ」
「あなたの方こそ」
見据えあい、小さく頷き合う。
互いに向けた不敵な笑みは二人の間に新しく繋がった絆の証。
「それでは私はお屋敷に戻ります」
「今日は本当にありがとうございました」
「あぁ、気ぃ付けて帰るんだぞ」
ヒラヒラと手を振って、早く行けとばかりに促す妹紅。
鈴仙はペコリとお辞儀をして、屋敷へと帰っていった。
その背中は先ほど出会った時よりも、心なしか凜としているように妹紅には見えた。
鈴仙が屋敷に戻ってから数刻。
再度、闇に包まれた竹林の一角にうごめく影があった。
辺りにガサリと土を踏みしめる音が響く。
「ウチのイナバを救ってくれてありがとう。改めて礼を言わせてもらうわ、妹紅。それと、変な事を頼んで悪かったわね」
「ふん、あんな説教染みた事、身内のお前が言ったところで説得力がないからな」
突如、闇の中にボっと炎が灯る。
明るくなったその場所に、互いに相まみえるように立っていたのは二人の少女だった。
「言っておくけど、妹紅。今のが貴女に対して口にする人生最後のお礼よ。そのつもりで、せいぜい心に刻みつけておきなさい」
「はっ、お前の口から出たお礼なんぞ、ただの一度たりとも聞きたくないね」
「そうだと思ったわ」
「は、そうか。そりゃ良かったな」
身もふたもない口撃の応酬。
それはこれから始まる「殺し合い」の幕開け。
「だが、こちらこそ礼を言わせてもらおう、輝夜」
輝夜と呼ばれた少女に浮かぶ驚愕。
その様子を満足そうに一瞥して、妹紅と呼ばれた少女は口にした。
「あの月兎に語りかけた言葉は、まるで自分自身に言い聞かせているようだったからな」
声の主、妹紅は遠い目をしていた。
暗がりの向こうに在りし日の自分自身を見つめる、そんな目をしていた。
「あら、それは私に対する人生最後のお礼という事でいいかしら?」
「ああ、願はくばもう二度と、お前に礼を言う機会なんて無い事を祈っているよ」
不死となった者同士の「人生最後の」というフレーズ。
お互い、そこに思うところがあったのだろう。
両者は逡巡し、しばしの沈黙が走る。
「さて……」
妖艶な笑みをたたえながら、輝夜が切り出す。
「ああ……」
不敵な笑みをたたえながら、妹紅が応える。
「今宵も……」
七色の光と紅蓮の炎が真夜中の竹林を照らす。
決闘の開始を告げる二人の声が同時に木霊した。
「殺し合いましょう!」
「殺し合おうじゃないか!」
ここまで何千何万と変わらず続けられてきた戦い。
どんなに手を変え品を変えても、決して結果が変わることのない戦い。
未来永劫変わる事がないであろう永遠の殺し合いが今宵もまた始まった。
幻想郷には迷いの竹林と呼ばれる場所がある。
この地に最も古くから住み着いていたのは、妖怪兎の因幡てゐ。
そこに月の姫と従者が現れて屋敷を建て、後にそこに鈴仙が加わる。
このように竹林という1つの場所を以てしても、「日常」は絶えず変わってゆく。
逆に言えば、未来永劫、永遠に変わる事のない「日常」は決して存在しない。
――不死という禁断の例外を除いては。
ただし、唯一変わらない「日常」があるとすれば、それは過去に思いを馳せた時に広がる「日常」。
「あの楽しかった日々」「あの苦しかった日々」として心に浮かぶ「日常」は決して変わる事はない。
そう、永遠とはどんなに追い求めたところで、必ず逃げていくものだ。
繰り返すが、物事は森羅万象、いつか変わってゆくものだ。
言い換えれば、「永遠」とは、思い出の中で固定された「過去」そのものである。
「須臾」とは、今現在を起点として絶えず変わってゆく「未来」そのものである。
そうであるならば、求めるべきは果たして、変えられるもの(未来)か、変えられぬもの(過去)か。
鈴仙優曇華院イナバは、不死ではない。
故に、選ぶ権利がある。
「永遠」と「須臾」、どちらを選ぶのかを。
「姫様、ウドンゲが見るからに元気になったようですが」
「それがどうかしたの?」
「いえ、憑き物が落ちたようなウドンゲのあの変わりぶり、もしや姫様のお口添えではないかと」
「私がそんな面倒な事するワケないじゃない」
「そうですか…」
月の天才、八意永琳はその後、その叡智を賭けて、永遠を求める秘術を幻想郷に施した。
そして、その秘術を破る存在。
永遠と須臾の狭間で生きる者達の心に、その生き方に、風穴を開ける事になる存在。
後に幻想郷を明るく楽しい世界に変えてゆく事になる彼女たちが、異変解決と称して、ここ永遠亭に殴り込んでくるのはもう少し先の話。
永遠亭って結構立場の違う、生き方も違ったであろう奴らが一緒に住んでる不思議なとこですよね。素敵でした
うどんげの相談相手に妹紅、というのも珍しい組み合わせに見えて、なかなかマッチしてる。
しかし、全体的に説教臭くなってしまったのがもったいない気がしました。話の流れ的にも仕方ないのかもしれませんが、もっとズバッと綺麗に簡潔に説教パートを纏められたような気がします。
特に鈴仙の『生』と『永遠』に対する定義が凄すぎて上手く言葉にできません。
当然ストーリーも最高でした。
重い悩みを抱える鈴仙に答えを教える時の妹紅とか、その後に礼を言う輝夜とか、自分が変わるべきだと確信した鈴仙とか、読むだけで感動が芽生えました。