Coolier - 新生・東方創想話

あの子の翅と彼の羽

2022/12/10 20:05:01
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1
 どうしてかはぼんやりとしか分からない、でも、とりあえず人里は人間たちが平和に暮らすための世界らしいので、妖怪が立ち入るときはなるべく大人しくしているべきとのうわさ、だから私もいつものマントを家に置いて、編み笠で触角をちゃんと隠してから人里に降りてきた。正直、自分の感覚器官が折れ曲がった感じがとても気持ち悪いけれどしょうがない。今日の気温と、湿気と、かんかん照りの太陽の様子を見て、あの子たちの結婚式がそろそろ行われそう、という確かな予感があったので、それくらいの気持ち悪さはどうってことなかった。
 どうも恥ずかしがりだからなのか、それともたんに気まぐれだからなのか、人里に住んでいる子たちは森や竹林に住んでいる子たちと違って、めったに私に結婚式を見せてくれない。いや、逆か、私が森や竹林をいつも歩き回っていて、人里にはあんまり降りることがないから彼らを見かけないのかしら、実は恥ずかしがりで気まぐれなのは私のほうなのかもしれない。まあそんな小難しいことは別にどうでもいい、大切なのは理屈よりものごとにかける情熱、とにかく今日という日に、私はどうしてもそれが見たかったのだった。
 人間たちが西区と呼んでいるらしいエリアには大きな公園があって、そこにあの子たちの巣が十個くらいあった覚えがあるので目指すべきはその場所。大股で人里の入り口の門をくぐりぬけると、立ち並ぶ長屋からただよってくるお昼ごはんの匂い、炊きたてのお米のほんわかした香りやら炭焼きのうなぎの脂ぎった香りやら煮っころがしのあまじょっぱい香りやら、鼻にとどく感覚のすべてが私の心をはずませる。人里は来るたびに何だか楽しくて楽しくてしょうがなくて、気が付いたら行き交う人の波をぬうようにして私は大通りを駆けていた。

2
 生きていることと死んでいることの境界を人間が感じ取り始めるのは、多分このあたりの時期なのではないかと思う。
 とはいえ、私はこの人里に棲み始めてからとうに百年は経っているので、子供たちがこういうことをして遊んでいる姿は今まで何度も見てきた。だから全く驚くことではないはずなのだけれど、見かける度に、ついその光景をまじまじと眺めてしまう。いや、それは冷静に考えると相当に残酷な営みで、これを見た多くの大人たちはいい顔をしないはずだ。しかしどうも深刻さが伴わない、むしろ私はある種の滑稽ささえ感じてしまう。自分は首が取れても死なないせいだろうか。
 今日は製茶問屋での仕事が休みで、かといって特にしなければならない用事もなく、貸本屋、茶屋、文具屋、茶屋と近場の店を気ままにぶらぶらして過ごすことに決めたのだった。一軒目の茶屋は団子が美味しいところだったから、二軒目の茶屋は葛切りが美味しいところ、などとまだ見ぬ一皿に思いを馳せながら、文具屋を出たのが昼過ぎだった。その文具屋の隣には短い、名前もよく分からない草が生い茂った空き地がある。確か元は米屋があったのだけれど、二年前の秋に廃業してからその跡地がずっと放置されて、今では近所の子供たちの遊び場になっていた。
 今日は恐らく三から五歳くらいの、まだ自分達だけで遊ばせるには頼りない子供たちが五人集まっていた。周りに親は見当たらない。正直、だいぶ無防備だなぁと思ってしまう。人里の中とはいえ、どこに妖怪が紛れてるかも分からないのにね、などと私は心の中でうそぶく。
 彼らは虫捕りをしていた。地面を這うようにして見つめ、そして唐突に、あっ、いたっ、と短いけれど耳にキンと響く叫び声を上げて草むらの中に手を突っ込む。そして手の中に収めた細長いバッタを、一個の虫かごの中に放り込んでいく。
 しかし、ただ虫を捕まえるだけでは終わらない。彼らは満足のゆくくらいバッタが捕れると、籠の中で身動きの取れない一匹をつまんで、節によって区切られた、どことなく機械的な体の構造に目を凝らす。親指と人差し指の間でバタバタともがくバッタの感触を確かめる。そしてひとしきりその動きを観察し終えると、神妙な表情を浮かべながら脚を一つ一つ毟っていき、最後に、羽を震わすだけになった掌の上の虫の頭を勢い良く引き抜く。万年筆のインクのように黒い、でもインクよりもずっと密度の濃い液体が流れ出して、彼らの爪の間を満たしてゆく。
 …ちょっと冷静になると恥ずかしくなってくる位に変な想像をしている。ここから実際に見えるのは子供たちがバッタの頭を引き抜いているというところだけで、別に摘ままれた虫の動きや、その断面から溢れ出るものの様子などが直接見えるわけではないのだけれども。
 ただ、何となく、本当に何となくなのだけれど、子供たちの体験している感覚については少し興味があった。大半の人間たちは、どうやらそういう小さいものの命を奪う行為を繰り返しているうちに、いつかの段階で気付くらしい。生きているものを死んでいるものに変えることの言いようのない重さに。
 それは私たち妖怪が経験しえないことなのだろう。薄ぼんやりとした記憶や伝承の中から生起したのち、成長という過程を経ることなく、人々から忘れ去られるまでの間、同じ姿、同じ考え方を保ちながら生きる私たちにとっては。別に、だからといって、妖怪と人間どっちがいい、とかそういうことを言いたいわけでは決してないのだけれど。

 気が付いたら長いこと立ち止まって子供たちを凝視していたようで、通りを歩く人々が怪訝そうな目を向けてきたので慌ててその場を離れることにした。考え事に夢中になると周りが見えなくなるのは私の悪い癖で、自覚はあるのだけれどもなぜだかいつまでも直らない。
 その場を離れようと歩き出した矢先に、緑色の髪をした妖怪がこちらに向かって走ってくるのを見つけた。もちろん向こうから妖怪だと明かされたわけではないのだけれど、米農家が被るような竹編みの笠に、ボタン付きの白いシャツ、キュロットと言うのか洋風のズボンという珍奇な格好からして、妖怪であることは明らかだった。彼女は周囲の通行人をすり抜けるようにして駆け、やがて私が先ほどまで立っていた草むらで足を止める。
 人里慣れしていない妖怪と、まだ冷静な判断力を持たない子供たちの取り合わせ。あぁ、これはどう考えても物騒なことになりそうだと思いながらも、ちょっと足を速めて再び通りを行き交う人の中に紛れる。私は面倒ごとには関わりたくはない。とにかく私は、これから二軒目の茶屋に入り葛切りを食べる。貸本屋で借りてきた時代小説をのんびりと読みながら。
 実を言えば、そういう判断ができたとき、私はちょっと安心するのだった。
人里に長いこと住んでいるうちにいつのまにか人間とすっかり同化して、妖怪としての自分を見失ってしまうのではないか、という不安が私には常に付きまとっているからだった。地味な海老茶色の着物を着て、ご近所さんとぎこちないながらもそれなりの付き合いをして、日雇いや短期の仕事で金を稼いで酒を飲む。引っ越すたびに偽名と架空の生い立ちを考えて、長屋の大家や仕事の雇い主に書類を提出する。そういった人間的な生活への擬態が私の日常の大半を占めている。
 満月の夜には衣装を纏い、墓地や山道を歩く命知らずな人間を驚かして一か月分の食事を済ませるのが習慣になっているのだけれど、結局、妖怪の時間は一日だけ、あとの二十九日は人間の時間。妖怪としては実に危うい生き方だと自分でも思う。そういう暮らしは割と楽で便利とはいえ。
 だからあの後子供たちが緑の髪の妖怪に襲われて最悪殺されるようなことがあっても、私の関知するところではない、まあ、死んだってしょうがないじゃんか、あの子たちだってバッタ殺してたんだし、と割り切りながら葛切りを食べることができたのであれば、ああ、やはり私は人間ではない、妖怪としての自分をしっかりと保持している、という安堵に浸っていられるはずだ。
 少なくとも人間に対して、可哀想に、だなんて感情を抱きたくはない。

3
 だいぶ久しぶりの人里だったけれど、森の中に住んでいる私は一度通ったことのある道のりについての物覚えがとてもいいので、あの公園までは瓦屋根のうちがあと十軒、九軒、八軒、と数えながら人ごみをすり抜けていった。そして残り三軒というところで、茶色なんだか赤色なんだかよくわからない色の着物を着た真っ赤な髪の女の人間の隣をすり抜けたとき、うわ、なんかあの人こっちじろじろ見てた、気持ち悪いし不吉、とか思った。そして、そんなことを思っていたら本当に縁起でもない場面に出くわしてしまったのだった。
 その女とすれ違ってすぐの空き地から、助けてくださいっ、という悲鳴が聞こえて、それから文字にしたくないほどにおぞましい叫び声も聞こえて、私は自分の足に急ブレーキをかけた、後ろを歩いていた若い男の人間に舌打ちされたけれどそんなことはどうでもいい。その空き地には、お蚕さんで言うとたぶん二令幼虫くらい、ガキっぽいとか悪口を言われる私よりもガキ、という感じの人間の子供たちが五人いて、ショウリョウバッタたちをぬりかべみたいな無表情でちぎっては投げちぎっては投げしていた。かれらの手の中で無残にもばらばらにされていくそのバッタたちがもうかわいそうでかわいそうで、声を上げて泣きたくてたまらなくて、でもそんなことでは蟲の王様の威厳的な、そういうものが全くなくなってしまうということはさすがの私にも分かるので、目じりからあふれる涙をぬぐいながら、黙ってその光景を見つめていた。黙っていたからか、バッタたちの悲鳴はことさらくっきりと、頭の中にがんがん響いてきて私は心臓をぞうきん絞りにされたみたいな気分になった。
 ここが人里の外だったなら、たぶん、この世の中のありとあらゆる肉食の昆虫を呼んで、子供たちをめちゃくちゃに、というか、ぐちゃぐちゃにしていたかもしれない、いやきっとそうしたはず、でも人里の中でそんなことをしたら私がぐちゃぐちゃに退治されることは目に見えている。だからといって自らの保身のために、敵の手にかかっている罪なき民たちを見殺しにするなんて、私は王様として失格じゃないか、だめだ、やっぱりなんとかしなくては。でも私の頭は考えれば考えるほど油が切れてしまうようで、空回りばかりして真っ白に発火する、どうすればいいのか、どうすべきかが一向にわからない。結局私は止めどなく流れる涙を白いシャツのそででごしごしとふき取るしかなかった。

 あなたいつもぼんやりしていてね、ちょっとここが弱いのね、とか言って無意識のうちにバカにしてくる知り合いの顔が頭に浮かび始めて、ああもうだめそう私、とあきらめかけたその時、虫かごの中にいるショウリョウバッタの一匹が叫んだ。あなたが私たちを操っていただければ、私たちはこの “じゃちぼうぎゃく” な子供たちの目の穴に、鼻の穴に、耳の穴に飛び込んで見せましょう、と語りかけてきたのだった。”じゃちぼうぎゃく” の意味は私にはわからなかったのだけど、まあとにかくとても悪そうな響きの言葉であることには違いなかったから、そうか、荒っぽい手合いたち、たとえばスズメバチとかウシアブとかを連れてこなくても、この子たちを救うためにはこの子たち自身に仕返ししてもらえばよいのか、と私はようやく納得して、すり切れかけの頭に新しい油がそそがれていくような感覚がした。
 私がバッタたちに向かって力を込めて念じると、虫かごの中で生き残っていた五匹が、木のふたをガバリと押し上げてそれぞれ子供たちに飛びかかる、さらに草むらの地面のありとあらゆる場所からもバッタたちが飛び出してきて子供たちに群がっていく。幼虫たちは細く短いけれど筋肉のつまった足をしなやかに曲げ伸ばしして、成虫たちはビロードみたいに鮮やかな黄緑の翅をいっぱいに広げて、矢のように子供たちの顔に突進していく。
 子供たちはすぐに悲鳴を上げて空き地から走って出ていった。かと思ったら、一人の女の子が、虫かごを忘れていることに気づいて、大あわてで引き返し、目的のものを引っつかむとまたすぐに走り去った。もう中にはなんにも入っていないというのに。

 空き地の真ん中に立って、きちきちきちと歓声を上げるバッタたちの声を聴きながら、私はとっても誇らしい気分にひたっていた。でも、子供たちがさっきまでいた場所、草がふみつけられて土の肌があらわになっているその場所には、私がここに着く前に殺されてしまったバッタたちのなきがらが転がっていて、まじまじとそれを見ると、ああ、やっぱり私はだめな王様だなあ、とうつむく他なかった。悲しくて悲しくて、今すぐにでもお家に帰って反省したくなってくる。
 けれど、今日はそもそもあの子たちの結婚式を見るためにここに来たのだった、あれを見ずにしてねぐらに戻るほど私はいくじなしじゃない。まあ、実のところ彼らの方からお呼ばれされたわけではないし、いや、ずっと前に森の中に巣をかまえていた子たちからお呼ばれされたこともあるけれど、そのときは新しい代の女王様が「やっぱり今日は曇ってきたからやりません」とか言い出して取りやめになっちゃったし。まあちょっとわがままなのだあの子たちは、でもそういうところも好き、あの子たちを私は無条件に愛してる。
 ふと足元を見ると、バッタの脚を運んで巣穴に持って帰るために、数匹のあの子たちがやってきたところだったので、私はうれしくなって話しかけた。こんにちは! こんにちは。今日私が来たのは、あっちの公園で結婚式をやるんじゃないかと思って! ああそうなんですか、確かに今日やりそうですね、ちなみに私たちもこれからやりますよ、まあ天気が崩れなければですけれど。へぇ、やっぱりそうなんだ、来てよかった! いやあ、結婚式だなんて、そんなロマンチックなものでもありませんけれどもね。
 音のない会話を一匹の子として、ああ、やっぱり今日がその日だった、私のカンはさえている、と誰かに自慢したくなった。私と会話をしている間も、その子はせわしなく動いて、荷物の表面にびっしりと並んだ細かなささくれに、自分の大あごを引っかける。周りの仲間が同じように大あごを引っかけたのを確かめてから、いっせーの、の合図で、全員が一つのバッタのかけらをそっと持ち上げ、今さっき来た道を引きかえしていくので、私はそれについていく。そうすれば必ず巣穴の場所にたどりつく、この子たちは一度自分がたどった道すじを決して忘れないからだ。一,二分してその子たちが行き着いた先は、草むらの角にひっそりと積まれた材木、いや長いこと雨風にさらされてぼろぼろになっていてもはや材木としては使いようのない焦げ茶色のかたまりの、その陰になっているところだった。ああ、この巣は目立たない場所でいいね、先代の女王様は優秀だったんだね、と私がうんうんと頷くと、ああそれはどうも、そう言ってもらえると女王の娘として誇らしいです、と返しながら、さっき私の話し相手になってくれた子は巣の中にバッタの脚を引きずり込んで消えていった。
 私はうつろな材木に腰をおろした。本当は公園にもっとたくさん巣穴があって、そこのほうが結婚式の見ごたえはあるのかもしれないけど、さっきの子と会話してから、なんかもうここでもいいか、という気がしたのだった。ここでの結婚式を見届けてから、あっちに移動しよう、のんきにそう思った。
 そういうわけで私がじっくり彼らの動きを目で追っていると、突然人間の男の子が通りのほうからすたすた歩いて草むらに入ってきて、うわあ、なんでまたこんな時に、うるさくしないでよ、とか思っていたら、一直線に私のいる場所へ向かってきたので私はうろたえた。その男の子はさっきの子供たちよりだいぶ背が高い子で、たぶん年はお蚕さんでいうと五令幼虫の繭を作り始める一週間前といったぐらい、でもその細長い顔はなんか生気がなくてひっくり返ったあまがえるのお腹みたいな真っ白さ。そんな彼は私を見るなり、白色の顔をさっとおびえた土色にして「妖怪だ…」とつぶやいた。
「え、なんで私が妖怪だって分かるの!?」
「…リグル、だっけ」
 私はびっくりして声も出せなかった、だって絶対に今まで会ったことない人間なのに、というか人間に名乗ったことなんて今までほとんどないのに、なんでこの男の子は私の名前を知ってるんだ。もしかして、人間と見せかけて、実はうわさで聞いたことのある”さとり”というやつなのでは、地底にひそんでいて、他人の脳みその中を勝手にのぞくことのできる恐ろしい妖怪、そんな悪いイメージが頭の中をぐるぐる走り抜けて、気が付いたら私は飛び立って、空き地のとなりの家の瓦屋根に降り立っていた、素直に認めたくはないけれどかんたんに言えば逃げ出したのだった。
 そろーっと、下の空き地の景色を見ると男の子は首をかしげながらこっちの方を見ていて、でもかくん、と首をすぐにうつむけて、私がさっきまで座っていた材木の上に腰かけた。なんか見るからに疲れてるな、とは思ったもののやはり私の名前を知っているのは不気味で、ふとさっきすれ違ったときの赤い髪の女の姿が浮かんで、どうも今日は亡霊みたいな人間としょっちゅう出くわす、とても不吉だ、巫女は怖いけれど心の安らぎのほうが大切だから、帰りに博麗神社に寄っておみくじもらって、運試ししてから帰ろ、と決めた。
 あれそういえば、と思ってふと空き地と反対の方向を見ると、本来私が結婚式を見に行くはずだった公園が見えて、あ、何だそうかここから見えるのか、これは思いがけない幸運かもしれない、そう気を取り直して、あの公園に向かって飛び降りようと試みた。けれどそれもつかの間、その公園のすみで、さっきショウリョウバッタと私が空き地から追い払った子供たちが泥まみれのボールを蹴って遊んでいるのを見つけて、それで自分でも分かるくらいに急にやる気がしぼんでいく、あーあ、やんなっちゃうな、やっぱり人間は大嫌い、とくに子供、と歯ぎしりする。屋根の上に勢いよく寝転がると、瓦の角ってこんなにも背中に食い込んで痛かったっけ、あとすごくあっついなこの瓦、なんて思った。
 一分くらい前に思いついたことだけど、博麗神社のおみくじを引く計画もやめだ、やめだ。どうせ末吉みたいないちばんつまんないやつが出てくる。

4
 やっぱりあの子供たち不安だな、と不意に思ってしまったのは、本日二軒目となる茶屋で葛切りを食べ終わり、小説の表紙を開こうとしたその時だった。
 冷静に想像してみる。そもそもあそこの空き地は私の住む長屋の近所なので、子供が妖怪に殺されたとなったら自警団の取り締まりが強化されるはずだ。それでも犯人がうまく逃げ切ったなら、最悪巫女が出てくる。そうなると隠れて住んでいる私の身が危ない。近辺には、口にこそ出さないが多少私の正体を察している人間がいるし、そもそも私は前の異変の時、巫女に顔が割れているし。
 いや、でも今から見に戻ったところで、緑色の髪をしたあの妖怪と空地の前ですれ違ったのはもう三十分以上前のことで、だから何らかの物騒なことが起こっていたら確実に手遅れなのだが、一度気になりだすとどうも落ち着かない。例えるなら指にできたささくれを見つけたときのような。
 私は立ち上がると、お会計で、と言って小銭を店員に渡して店を出た。通りを迷惑にならない程度の早歩きで進みながら、とにかく何にもなっていないといい、と思った。
 それから五分くらい歩いて、結局一ページも読めていない時代小説を茶屋の机に置きっぱなしにしてきたことに気が付いた。どうしようかな、私物じゃなく貸本屋のやつだし戻るか、いやでもあとちょっとで空き地に着くし…などと考えながら歩いていたら、前を歩いてきた中年の男とぶつかりそうになって舌打ちされ、もういいや後で取りに行けば、と思考を放棄することにした。

 空き地に戻ると、一人の少年がいた。色白以外にこれといって特徴のない顔だが、相当おぼろげな記憶を辿ると、このあたりで何度か見かけたことがある少年だという気がした。さっきの5人と比べると一回り、いや二回り年上に見える。まあ年上といっても多分寺子屋を卒業してすぐくらいの歳だろうけれど、落ち着いた色感の深緑の着物が、大人びているという印象をより強くさせている。
 彼は米屋の解体後も空き地に残されている朽木の上に座り、地面を睨むように凝視していた。目つきの鋭さとひどく落ち込んでいるような顔つきがアンバランスで、だいぶ話しかけにくい雰囲気だった。
 彼の視線の先にはもぞもぞとうごめく黒色の塊があって、あまりに密集していたのでそれが蟻だと気が付くのに数秒時間がかかった。私が近づいてもなお集中して蟻を見つめている彼に、ちょっと逡巡しつつも声をかける。
「突然ごめん」
「…はい?」
「さっきここに子供たちがいたんだけど、知らない?」
「あぁ…ごめんなさい、見てないので分かんないです。でも…えっと、妖怪はいました」
 彼はちょっと不自由な敬語を使って返事をした。ぼそぼそとした口調にやや壁を感じる。
「もしかして緑の髪の?」
 彼は頷くと、「なんか、あっちの方に飛んでいきました。僕が名前を言ったら」と文具屋の屋根のほうを指さしながら言った。それ以前に特に騒ぎも起きていないという。よくよく考えたら、もし人通りの多いこの場所に危ないということで有名な妖怪が出たら、当然の流れとしてすぐに大人たちが警戒するに違いない。もしかしたら私が知らなかっただけで、あの妖怪は取るに足らないやつだと広く認識されているのかもしれない。言っちゃ悪いけどちんちくりんという感じの見た目だったし。
「まあ、そういうことなら良いけど」
 私がそう言って去ろうとすると彼は黙って会釈し、すぐに再び地面に目を落とした。そして私が背を向けたその直後、うわっ、何これ、と、さっきの口調とは打って変わってはっきりとした声で叫んだ。
 私は踏み出しかけていた足を止め再び彼のほうを見る。すると次の瞬間、彼の立っている地面から、大量の黒い粒が空に向かって飛び立っていくのが見えた。
 はっとして、上空に目を遣る。
 それは羽蟻だった。雲一つない夏の空はあまりにも大きくて青すぎて、光を反射しない小さな羽蟻の姿を覆い隠してしまう。それでもじっくりと目を凝らすと、空を不規則に飛び交う一匹一匹の姿が、視界を右から左へ、上から下へと駆け抜けていくのがわかった。
 地面を見ると、茶色の光沢を帯びた羽蟻たちが、数匹身を寄せ合って、そして空へと一斉に翔けた直後に四方八方へと散乱していく。羽のない蟻たちは、羽蟻たちに背を向けて巣を取り囲んで円陣を作り蠢いている。飛び立つ者たちを護衛しているようにも見える。ふと、何から護っているのだろう、と私は想像する。カマキリやトカゲかもしれないし、今現在彼らを見下ろしている私たちかもしれない。
 男の子のほうを見ると、一心に空を眺めていたかと思えば、ふと目を落として次から次へと巣穴から這い出てくる羽蟻たち一匹一匹の姿を追う、という動作を繰り返していた。目を大きく見開いて瞬き一つしない彼の横顔は、内から湧いてくる興奮を必死に抑えているといった面持ちだった。とにかく、さっき真っ白い顔だったのが随分血の気を帯びている。
 私は、彼の顔と蟻たちを何度か交互に見比べて、自分でも理由はよく分からないのだけれど、さっきの五人の子供たちとこの少年が鉢合わせしなかったという僥倖に感謝した。

5
 あの子たち―クロヤマアリの一つの巣の中に暮らすアリたちは、すべて一匹の女王様から生まれる。卵、幼虫、さなぎの時期を過ごした後、六本足で歩けるようになったときから、もうその子たちの生き方は決められている。男の子たちは全員が翅を生やした王子様候補で、結婚式のために巣の中でひたすら栄養をたくわえる。女の子たちはそのほとんどが翅をもたずに、巣のまわりで食べ物を運んだり子育てを手伝ったりする働きアリになる。でもほんの一にぎり、翅の生えた女の子が現れて、その子は次の代の女王様候補、みんなからたくさんの栄養をもらってみんなよりもずっとお腹が大きくなる。
 彼らの結婚式はたくさんの巣が一緒になっていっせいに行われる。初めに、男の子たちが頃合いを見計らっていっせいに空へと飛び立つ。それを見送った後に、新しい代の女王様が出てきて、大きなお腹をゆっくりと持ち上げながら生まれた家に別れをつげる。働きアリたちは巣の外に出て、青空に向かって消えていくきょうだいたちと新たな女王の門出を見守る。
 この話はいつだったか忘れてしまったほど昔に、ちぎれたみみずのかけらを運んでいた働きアリの子から聞いた。私が、へぇ、そうなんだ、一度飛び立ったら巣の仲間たちや女王様と二度と会えないんだね、なんかそれって苦しくないの、とたずねると、さあ、これは昔から当たり前のことらしいので、そんなこと思ったこともないですね、と言われた。そうか、これはひょっとしたら私が生まれるよりもずっと前から続けられてきた営みなのかもしれない、と私はぼんやり思った。
 巣から出て行ったあとはどうするの、と私が聞くと、その子はすこし声を小さくして、男の子は、別の巣から飛び立った新しい女王と出会って子供の素を渡そうとするんですけども、まあせいぜい飛び立った子のうちの一匹か二匹しか想いを届けることはできません。そうなんだ、じゃあ運の悪かった男の子たちは次の季節を待つしかないの? いや、みんな死にます、一人残らず。一人残らず? ええ、男の子たちは飛び立ったら力尽きてまもなく死ぬんです、子供を残そうが残すまいが。そして彼らに先立たれた新しい女王は、独り新しい土地に降り立って、新しい巣を作り始めるんです。一匹だけで? 一匹だけで。

 私はすっかりふてくされて、西のほうからやってくる太陽のびかびかした光線に背を向けて、屋根瓦のほかほかの温度をお腹の右のほうで受けとめていた。そんなときに突然、さっきまでいた空き地のほうが急にざわざわし始めたので、ああ結婚式が始まったのだな、巣穴の近くで見たかったなあ、なんてことを考えながらも、私はゆっくりと起き上がってそちらの方を見つめた。
 空き地の方から飛んできた男の子たちは、青空に散り散りにまぎれて行く。一匹一匹に目をこらしてみると、飛んでいる最中に目ざとく騒ぎを聞きつけてやってきた鳥たちに食べられたり、飛ぶのにつかれて木の葉の上で休んでいるところをとかげに食べられたりしていて、見ているだけでなんだか胸の奥のほうをごわごわのたわしでこすられているような気分になった。
 実のところを言えば “巣穴の近くで” あの子たちの結婚式を見るということに私がこだわっているのは、彼らが空の上で死んでいくところをじかに見たくないからなのだった。巣穴の近くだったら、勇気いっぱいで飛んでいくあの子たちのその後については見えないし、考えなくてもよいから。きれいなところだけ見ることができるから。
 だから今、ああ、そうか、高いところから見ると、あの子たちの結婚式って、やっぱりどうしようもなくはかない、悲しいものだったんだなぁ、そして、これまでずっと避けていたものを直視するのはこんなにもつらいことだったんだなぁと私はしみじみ思った。ふと、クロヤマアリたちといい、さっきのショウリョウバッタたちといい、今日私は蟲たちが死んでいくところを見るために人里まで降りてきたんじゃないか、という気がした。
 それでも、私はきっとあのアリたちを救ってはいけない。あの子たちの死は、子供たちに殺されてしまったバッタたちの理不尽な死とはわけが違う、いたって自然な死。強いものが弱いものを食べる。ハヤブサはヘビを食べる。カラスはスズメを食べる。カエルは、ハチを食べる。アリは花の汁を吸ったり、ほかの生き物のなきがらを食べたりして、そしてやっぱりいろんな生き物に食べられる。そんな世界の中で彼らは、私が立ち入ってはいけない、立ち入るすきのない何かを作って生きている。
 でも、それは頭ではわかっているのだけれど、素直に受けいれることなんてできない、それほど私はお利口じゃない。私はどこまでも蟲を愛しているからだった。
 そもそも今日はこんなはずではなかった、こんなにつらい気持ちを味わうためにわざわざ人里まで降りてきたのではなかった、じゃあどうするべきか、どう晴らすべきか、このうっぷんを。そんなことを考えていると、ふと気が付いたのだった。
 妖怪は、ヒトを食べる。
 公園のほうを見ると、公園のほうにあるクロヤマアリの巣でも結婚式は始まっていた、飛び立つアリたちはまるで地面から天へと軌道をえがく、数えきれない黒色の流れ星、でもそんな命のエフェメラルなきらめきをまるで気にかけることなく、子供たちはボール遊びをしている。もういいんじゃないかな、という気がしてきた、一人くらいさらっていったってだれも気が付かないんじゃないか。
 いや、でも、ばれたら巫女に半殺しにされるか本当に殺される、それはやはり怖い。強いものが弱いものを食べる、蟲はヒトにつぶされる、そういったことがこの世界を作っているかもしれない。それはきっと実に厳粛でしんどい世界。

 くすんだ目で公園をながめ続けていたら、突然、あっ、いた、という大きな声が聞こえて、二人の人間のおばさんが公園に入ってきた。
 ようやく見つけた、子供たちだけで出歩くなって、何度言ったら分かるのよあんたたちはもう…という怒りとあきれの混じった声が聞こえて、それから子供たちは、ほっとした顔からとても怖い顔に変化したおばさんたちにひたすらなじられていた、それはもうけちょんけちょんに。あれはきっとあの子たちのお母さんだ、人間のそれぞれの家にはそれぞれの女王様がいるらしくその権力はとても強いという話を聞いたことがある。子供たちはぎゃーぎゃー泣き出している。ざまあみろ。
 ただ、よく見ると虫かごをもった一人の女の子だけが、何やらぼうっとして首を横に向けていた。とはいっても視線の先には地面しかなくて、私は首をかしげる。
 子供たちがお母さんたちに引きずられるように帰って行った後に、私は公園に降り立って、女の子が見ていたあたりの地面をさぐることにした。すると、そこには女王アリがいて、その近くには、彼女から落ちたらしい四枚の翅が横たわっていた。それは彼女が新女王である証だった。
 無事子どもの素を受け取ったの? ええ、おかげさまで。これから巣を掘るんですよ。一匹で? 一匹で。そっか。
 本来とても喜ばしいことのはずなのに気の利いたせりふが思いつかなくて、それで少し聞きにくかったのだけど、少し気になっていたことを聞いてみた。
 さっきの女の子って、もしかしてあなたを見てた? 虫かごを持った女の子。
 ええ、なんだか彼女は、私に興味しんしんの目つきをしていましたね。
 ふうん、それは、どういう目? あなたを殺そうとするような?
 まさか、縁起でもないこと言わないでくださいよ。…何というか、とらえどころのない目です。でも、思えば、あの子はさりげなく、私にボールが当たらないようにしてくれていた気がしますね。
 …ふうん。
 えっと、私がもともと居た巣、それはここに程近い空き地の巣で、そこのきょうだいから聞いたんですけれど、あそこにはしょっちゅう少年が来て熱心に私たちを観察していたらしいんですよ。たとえ人間であっても、そういう目で見られるのは、そんなにいやな気はしないんですよね、実は。
 そっか。そっか。
 はい。
 それはよかった。
 はい。
 まあとにかく、私はあなたの無事を祈るよ。遠くからね。
 私はそう言いのこして、地面からふわりと飛び立った。
 女王様の話を聞いたことで、少しだけ心がすっとしたのを感じた。そして、これ以上余計なことを見ないように、聞かないように、あとは何にも考えないでまっすぐ森へ帰ろうと思った。
 あの新たな女王が、新たな命の物語をつむぐための第一歩を踏み出すことができたのなら、そして、さっきのあの子供の心に万が一、何かしらの翅が芽生えたなら。私はただそれを信じることで、今日のいろんなことを許せる気がした。

6
 蟻たちの飛行は徐々に収束を迎えているようだった。
「…すごかったね」
「…はい」
 すごい、としか言えない。冷静に考えると虫の大群が地面から湧き出ているという場面なので、見る人が見たら卒倒するくらいに気持ち悪く感じるはずなのだけれど、少なくとも私と少年は同じような感慨を抱いているようだった。決して優美でも幻想的でもないけれど、否応なく目を奪われる。その営みに存在する難しい理屈など関係なく。
「これを見に来たの?」
「いや」
 彼は首を横に振ると、別にそういうわけではなくて、らしき言葉をごにょごにょとくぐもった声で言った。だとしたら彼はただただ蟻の巣を見つめていて、偶然この光景に出くわしたということだったのだろうか。
 私がそんなことを考えていると、ふぅ、と長い溜息が聞こえた。ある種の異様な空気感に包まれているこの場において、それは隣にいる私に聞かせようとして発せられたようにも聴こえた。それで私は、先ほどから何となく察していたものの、訊こうか訊くまいかと思っていたことを口に出すことにした。
「もしかして、家出中?」
「……まあ」
「…そう。まあ、早めに帰ったら。お母さんが心配する前に」
「親はもう死んでます」
 食い気味に、朴訥とした口調で発せられた言葉の響きが耳の穴を通り抜ける。そしてそれは、すぐに後悔に変化して頭の全体へ広がっていった。
 だからあなたはだめなんだ。最低だ。先ほどの彼の溜息。心配してほしい、という態度の現れな訳があるか。早くひとりにさせてくれという意思表示に決まっているだろうに。あなただって時々取る手段だろうが。なんでそんなことも分からないんだ。
「ごめん」
「いや…別に、僕は何とも…」
「えっと、その、あの…ごめん、何と言うか…」
 待て。あなたは今何を言い出そうとしているんだ。
「あの、私さっき行った茶屋に忘れ物してきたんだけど」
 黙ってくれ。頼むから放っておいて、すべて。
「今から取りに行くんだけど、もしよかったらこの後一緒に行く?」
 ……。
 舌の根から広がる苦い液体が、乾ききった口の中を湿らしていくのを感じる。
 彼は困惑した表情のまま、はあ、と気のない返事をして頷いた。
 私は何秒かの間を置いた後、黙って頷き返し、速足で空き地を出ることにした。頭で考えていることと口から出る言葉が相反するのは、私としてはよくあることのように思える。たぶん百年以上前からそうだ。もういい加減諦めろ。
 通りに出る間際、ふと後ろを振り返って、空き地の上空を仰ぎ見た。そこには、つい先ほど繰り広げられたことの一切を忘れたかのような青空が広がっている。視界の端には、俯いたまま私についてくる少年の姿が映る。そして道端には、飛翔のあとで力尽きたと思しき羽蟻たちの死骸がいくつか転がっている。

 時代小説は店で預かってくれていた。二、三回頭を下げながら給仕さんからそれを受け取り、私たちは角のほうの席に腰を下ろした。
 歩いている最中にほとんど会話はなく、私はずっと考え事をしていた。もう自分の性分について考えるのはひたすら腹が立つだけで無意味なので、少年のことについてひとしきり考えていた。両親の死、それは明らかに、自分の手の中でバッタが死んでいくのとは種類の違う死なのであって、しかしこの子も昔はバッタを潰したのだろうか、といった答えの出ない考え事をひたすら繰り返していた。そして素直に認めたくはないけれども、その堂々巡りのうちに、この人間への同情を私は先ほどよりも深めてしまったのだった。
 それでも、この人里にいる限りは、冷笑的に他人を傍観する立場で居続けることはできない。人間であろうと妖怪であろうと。そのはずだろう、きっとみんなそうだ、とひとまず今は自分を納得させることにした。
 店の奥からほうじ茶が運ばれてきて、私があんみつを注文すると、彼は僕もそれで、と小さい声で発した。その直後に、彼は衝撃的な言葉をおずおずと言った。
「あの、いきなりであれですけど…妖怪ですよね? 赤蛮奇…さん、でしたっけ、名前」
「えっ」私は口に運びかけていた湯吞みをごとりと置いた。
「何で知ってるの」
「…幻想郷縁起っていう、なんと言えばいいか、その、妖怪の図鑑に書いてました」
 あぁ、あれか、なんて厄介な。私は額を抑えながら天井を仰いだ。
 ただ、悔しいけれど弱小妖怪の私が載っていた頁は、相当小さな欄にまとめられていた覚えがあって、内容に関してははっきり言って本人の私ですら記憶がない。それくらいの妖怪の名前と顔ですら一致させているということは、よほど彼は真面目に、熱心にあの本を読んでいるのだろう。
 それを思ったときに、彼の抱える事情について私はなんとなく予想がついてしまったのだった。親がいないその理由は、要するにそういうことで、妖怪の図鑑を読み込んでいるというのはそのことに起因している気がした。
「なんで私がその…それであると知ってて、ここまでついてきたの」
「…その本に、危険じゃない、みたいに書かれてたのと…、あと、まぁ、お金なくて。住み込みの丁稚なので」
「そ、そっか…」
 私が苦笑いを作りながらそう言うと、ふふっ、と彼は暗い笑みを見せながら、
「まあ、もし連れ去られたらどうしようとか、ちょっと思いましたけど。でも、その、さっきあんな光景を見たので。長いことあそこの蟻を見てるんですけど、あんな大群は今日初めて見れて。感動はしましたけど、なんか気も抜けちゃって、もうあれを見たら、このあと別にどうなっちゃってもいいかなって」
 えっと、いや、こんな話、折角ご馳走してもらっているのにすみません、ありがとうございます、と途切れ途切れに話す彼に対して、君の考え方は本当に甘いし危うい、とは言えなかった。話し相手の伏し目がちな顔と相対しながら、そんなことを言えるほどの強さは私にはない。なるほどね、とだけ返した。
「…えっと、昆虫観察が趣味なの?」
「いや、別に…なんというか、いろいろあったとき、気晴らしに時々、あの空き地で蟻眺めてやり過ごしてたんです、近所なので」
 でもなあ、もうあれ見ちゃったら、なんかもう普通の行列を見る意味なくなってくるかも、と独り言のように彼が続ける。そうか、としか私は言えなかった。さっきから、そうか、なるほど、という言葉ばかりを使っている。自分から質問するだけして、ろくな返事もできない己にふつふつと怒りが沸いてくる。
 彼をこの茶屋に誘ったのは誤った判断だったのではないか、ということを再び考え始めていた。彼にとって、妖怪の話相手になるという作業がどれだけ苦痛か分かったものではない。それでも、彼はあからさまに口調や表情にその苦痛を滲ませるような態度を取ってはいない。却ってそのことが、私の言葉を詰まらせるのだった。
 私が目線を下に向けると、十秒ほど経ってから、彼はおもむろに口を開いて、
「なんかすみません、色々自分のことばかり吐き出してしまって」
と言った。彼にしては淀みない言い方だった。
「謝らないでいいよ」
「えっ…あっはい、そうですね」
 彼はそう言うと、口元を少し緩ませた。心なしか、この茶屋に入った時に比べればすっきりした表情を浮かべている気がした。私は細く長い息を彼に聞こえないように吐くと、湯吞みを手に取る。
 彼の言葉の端々には確かな諦念を感じる。彼のその諦念が、受容の一種であることを私は信じた。拒絶や絶望の一種であって欲しくはない、どうか。

 それからは長い沈黙が続いて、先にあんみつを食べ終えてしまった私は、それからはただ時代小説の頁を眺めることに徹した。本当に、本当に情けないことなのだけれども。そしてもはや文字を追うことにすら段々と倦んできて、この子が食べ終わったらなるべく早く別れよう、その方がお互い精神的に良い、たぶん、などと身勝手なことを考え始めていた。
 ふと本から視線を外すと、窓から迷い込んだのか羽蟻の一匹が、店頭の焼き団子を焼く七輪に近づいて、あっけなく炭の中に落ちるのが見えた。
 どうして君たちってそんなに脆いのよ。
 妖怪としての私がそんな言葉をつい口に出しそうになり、必死に堪える。それは究極の非礼であるような気がした。目の前に座る子供に対して、いや、私たち妖怪とは異なり、限りある命を生きているすべてのものに対して。
 そのとき、突然彼が「あの、それ、面白いんですか?」と、私の手元の本を指差して問うてきたので、私は少したじろぎつつも、うん、面白いよ、と返した。
「すごく?」
「…まぁ、すごく」
 そうですか、と彼は小さな声で言うと、あんみつのグラスの下に引いてあったざらざらした台紙を裏返して、
「あの、その本の題名を覚え書きしたいんですけど、…書くものとか持ってますか」
と申し訳なさそうに訊ねてきた。
 そのときになって私はようやく思い当たったのだった。彼はあれからずっと何かを探していたのかもしれない。蟻の観察の代わりとなる何かを。心を軽くするための、こぢんまりとした羽を。
「使って」
 鞄の中から新品のペンを取り出し、封を開けて彼に手渡す。
 私にできることとしては、きっとこのくらいが相応しいのだろうと思った。
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コメント



0.200簡易評価
1.90奇声を発する程度の能力削除
良かったです
2.90東ノ目削除
正直冒頭部分がちょっと読みにくかった(人間の子供と、虫を比喩的に表現した子が混じっているから?)のですが、バッタを虐める子供が出てきたところからはのめりこむ様に読みました。私自身、子供時代バッタを虐めた経験があるから親近感を覚えたのでしょうね……。懺悔します。
リグルと赤蛮奇というあまり見ない組み合わせながら、それぞれの優しさが出ていて温かさのある読後感の話でした。
3.100名前が無い程度の能力削除
人の子たちと、リグル・ナイトバグと、赤蛮奇。それぞれの生活、視点、行動が別々に動いていながら、ほんの少しずつ接点を持ち、大きな一枚の絵のように連なっている。
大変興味深く、趣深いものを読ませていただきました。とても面白かったです。
6.100のくた削除
それぞれの感覚、価値観、視点がとても良いです。そしてそれが一つの話になるところが
7.100竹者削除
よかったです
8.100名前が無い程度の能力削除
二人の視点から垣間見れる人の子の情景が良かったです。無邪気な残酷さもあり、それをひたすら見殺すことで己の妖怪らしさを再認識するシーンが特に印象的です。リグルが激高するでも諦念に至るでもなく、ただ悔しがりながらも淡々と実情を受け入れ、最後に少しだけ救われるのも、蟲の力強さを示しているようでとても好きです。素晴らしい作品をありがとうございました。
9.100南条削除
とても面白かったです
アリの結婚飛行を軸にした一連のキャラの在り方が素晴らしかったです
バッタを殺されて苦しんでるリグルも、アリの大群を見送る赤蛮奇と少年もよかったです
自然の力強さのようなものを感じました
10.100夏後冬前削除
無心になってじっくりと浸れる話でした。柔らかな文体も好みでした
12.90福哭傀のクロ削除
読み方を間違ええいるかもしれないのですが、
なんとなく命とかそういうテーマで繋がっているんだろうなと、
全体として少し流れというか書きたいことが抽象的に感じました。
(読解力のなさが申し訳ない)
ただそれはそれとして子供の虫に対する残酷さ(読んでて若干しんどかったレベル)や、
幻想郷に生きる虫の王様としてのリグルの在り方や、
人里で過ごす中で妖怪でありたい赤蛮奇の考え方等、
要素ごとはすごく解像度が高くて読んでいて楽しめました。
13.100植物図鑑削除
とても面白かったです。二人の邂逅とささやかな別れ、それが虫たちのある種の儚さ(この言葉を使うのは適当かどうかはわからないが)と交錯し、読んだ後、なんともいえない読後感がありました。不思議だったのは虫という私が嫌いなものを扱っているのに、不思議と気持ち悪さを感じなかったことです。