私と霊夢の歴史とは即ち我が恥辱の歴史である。
春雪異変直後、私は今代の博麗の巫女と邂逅し、謂われなく退治され、挙句にそれを紫様に責め立てられ折檻され、あまつさえその時の写真は天狗によって幻想郷中にばら撒かれた。
そんな風に幕を開けた関係がまともであるわけがない。私は霊夢の手によって散々辱められ続け、それが腐りに腐って十年もの時を隔てて今。もはや救いがたい様相を呈している。
いつからか私のやることなすこと碌な結果を出さずに失敗ばかり。その上それを霊夢に嘲られ、すぐにまた失敗をやらかす。恐るべき泥沼の中で喘ぎ、頬を流れる滂沱の涙に翻弄されながらも、私は精一杯生きていた。
いつの間にやら霊夢と私を繋ぐ縁はすっかり断ち切り難い腐れ縁となり、私を雁字搦めに拘束するようになった。
そんな情けない己の姿を俯瞰するにつけ、私は思う。
もしもあの時、冥界にて霊夢と対峙していなかったら、きっともっとまともな十年をおくれていたに違いない。毎日の様に神社の縁側で霊夢にのしかかられる事もなく、天狗にマークされて特ダネのために付け回されたり、紫様からヤサシイ視線を向けられ続ける事もなく、その才覚を存分に発揮して式神らしく働いていたに決まっている。
私は今の己の環境を憂い、そして同時に全ての引き金になった霊夢との出会いを呪い、そして恥辱を拡散した「文々。新聞 第百十九季 葉月の三号」を憎しみ事あるごとに口汚く罵った。そして破り捨てた。
しかしそんな私を一体誰が責められよう。
私は神社の片隅で毛玉に扮して、霊夢と対峙していた。
相も変わらず殺風景な部屋の中でこいつの貧相な顔を見ていると、どうにも気が滅入ってくる。じめじめと這い寄ってくる湿度も合わせて、今の私は不機嫌である。
対して、霊夢はにこにこと楽しげである。それもそのはず、私がお土産に持ってきた一升瓶を一人で空にしたからだ。昼間からすっかり出来上がって紅い顔をし、しきりに天真爛漫でありながら妖怪めいた笑みを浮かべては私を一瞥する。この私が丸くなっているのは、その笑顔から逃れるための健気な抵抗である。
「良いじゃない、行きましょうよ」
「やだよう。だいたいお前、本なんて読まないだろう」
「失礼な」
先程から霊夢が私を籠絡せんとしているのは、里で行われている古書祭に私を連れて行こうとしているためである。一体どういうつもりなのかはわからないが、霊夢はなにやらしきりにそこへ行きたい行きたいと喚いている。
古書祭というのは、読んで字のごとく古書の祭典だ。人間の里にいくつかある古書店や貸本屋が提携して、一般市民まで巻き込んで大々的に古書の露天をそこいら中に打ち立てるのだ。里ではまだそこまで印刷技術は発達しきっていないから、一部の量産された書物を除けば価値の高い物も多い。そうして掘り出し物を狙う好事家と、ゴミを処分しようとする市民との間に多大なる軋轢を生じさせながら、古書祭は毎年開催されている。
しかし私はそれに行ったことがなかった。
「なんでよ、あんた本好きでしょ」
「そりゃあ本は好きだけど」
というのも、古書という本のあり方がどうにも苦手だからだ。好き好んで他人の手垢のついた書物を買い漁るなど、常軌を逸した所業である。読まなくなった本を他人に売りつけるというのも気に食わない。そんな性癖が高じて、私はいつの間にか古書を視界にいれるとくらくらするというよくわからない体質を体得してしまった。
古書が古新聞を連想させると言うのも、この性癖の一翼を担っているのだろう。十年前の文々。新聞は今も私を呪縛し続けているのだ。
「別にたかろうってんじゃないんだから、ついてくるだけでも良いからさ」
「他の連中と行けば良いでしょう、魔理沙とかその辺りと」
「今から連絡つけるの面倒くさいもの。あんただったら目の前にいるし」
霊夢は宥め賺しながら、なんとかこの私を動かさんと言葉を重ねてくる。私はそれをなんとか躱しながらも、如何にして断るべきかを考案しあぐねていた。
互いに互いを牽制しあいながら、そんな押し問答は開始から既に四半刻が経過しようとしていた。
しかし、これは私のほうが大分分が悪い。十年間、この手の言い合いで私が勝利を収めた事など一度たりともないのだ。せいぜい事が済むまでのらりくらりと逃げ続けるのが精一杯で、霊夢を説得出来た事なんて一度たりともない。
何故か。そんなもん決まっている。この不良巫女が私の扱い方をすっかり掌握しているからだ。まったくもってたちの悪いことこの上ない。
腐れ縁腐れ縁と嘆いている内にこんな事態になってしまったのだから、私自身にだって問題はあるのだが、代償があまりに大きくはないだろうか。
私がいつもの様に己の身の不幸を呪っていると、いよいよもって霊夢が動き出した。それまで卓の向こうで後生大事に一升瓶を抱えていたのを投げ出して、こちらに向かってそろりそろりと這い寄ってきた。その兆候に気付いた私はなんとか耐えきろうと構え、霊夢を睨みつけた。対人に疎い私に出来るほんの些細な抵抗である。
しかし、お酒の入った霊夢は私の想定を遥かに超えた行動に出た。縮こまる私の上にのしかかり、べろべろと頬を舐めてきたのだ。このような恐るべき接近戦に出てくるとは想定していなかった私は直撃を喰らい、すっかり頭に血が登ってしまった。
「あ、な……」
「ふふん」
霊夢は舌なめずりをして唸った。
私は一人狼狽し、ふわふわとした感覚に苛まれて呆然としていた。ぼやけて蒸気に包まれたようになった視界の中で、目の前の紅白だけがやけにはっきりと見える。霊夢は深遠な笑みを浮かべていた。
「さぁ藍、行きましょ」
「あ、う」
そうして、情けなくも頷いてしまったのだ。
後に知った事であるが、これは紫様直伝の技であるらしい。曰く、八雲藍という式神狐は不意を突かれると簡単に言うことを聞くようになる、とのこと。確かに身に覚えはあるが、それを他者に漏らすとは我が主人ながら何事か。
しかしきっと紫様も、霊夢がこれを実行するなどとは考えていなかったに違いない。普段いつでもむすっとしている霊夢の事、よもやそんな手を使うとは想像出来まい。
げに恐ろしきは不可能を可能にしてしまうお酒の力である。
いよいよ夏も終わり秋を迎えんとする折、照る日差しは未だに熱くてたまらない。私の尻尾はあっという間に熱を集め、湯気の立ち上らん程に暖まってしまった。
憂う私の手をとって、顔を赤くした霊夢は満面の笑みを浮かべながら大路の真ん中を行く。その威風堂々たる姿は、まさしく傍若無人の権化と言えよう。
道の脇にはござが敷かれ、その上に幾つもの古書が積み重ねてある。中には少しでも風が吹いたら崩壊してしまいそうな牙城に身をかがめている者もあり、それも多分に私の精神を動揺させた。そんな空間の中を、霊夢はあちらこちらを指差しながら進む。そして時折身をかがめては価値のなさそうな古ぼけた本を手にとって、にこにこと笑いながら理不尽な罵詈雑言を並べ立てるのだった。まるで死を告げる妖精のようである。
私はそれに散々振り回されながらも考えた。一体こいつは如何なる理由で私をこんな場所に連れてきたのか。お酒の勢いもある。もしかしたらなんの理由もなく巻き込もうとしたのかも知らないが、友人としてはそんなつまらないことに振り回されるというのはあまりにも悲しい。
なにか一つ、理由の一つでもあれば良いのだが。霊夢はただただ重なった私の手を振り回すばかりである。
私はため息を吐いた。
そもそも、こうしてお酒を飲んでけらけらと笑う霊夢が苦手だ。普段のこいつはもっとむすっとしていて、言動にまったく知性の欠片もないくせにどこか知性的に見える。それが酔っ払うと豹変、いつも以上に知性を失した様子で妖怪めいた不気味な笑みを浮かべるようになる。私は前者の方がずっと好きだった。
来ても吐くような思いにしかならない古書祭、どうせなら酔っていない霊夢と一緒に来たかった。元より霊夢からここに来たいと聞いていれば、お土産に一升瓶を持っていくような愚行など冒しはしなかっただろう。
早急に酒気が抜けてくれる事を祈りつつ、霊夢のなすがままに流れることにした。
そんな決意を固めて十分ほど経ったころ、霊夢は私の顔を覗き込んでこんなことを言った。
「藍」
「ん?」
「お腹空いたわ」
「はいはい」
私の財布の中身だって霊夢のなすがままである。
私は視界を巡らせ、適当な喫茶店を見付けてそこを指差した。霊夢はふんすと鼻を鳴らしてから頷いた。どうやら少しは酔いも冷めたようである。
私が見繕ったのは里の中心にほど近い西洋風の喫茶店だった。蓄音機が常にお洒落な音楽を奏で、少し鼻を働かせれば鼻腔の奥のほうが紅茶と珈琲の匂いでいっぱいになるような、そんな雰囲気の店である。一瞬、そんな場所にこんなもふもふした毛玉が入っていいものか躊躇したが、入店してしまった以上はそそくさと立ち去るわけにもゆかぬ。
腰を下ろしてから、一度目を閉じて深呼吸をした。肺を満たす漫然とした空気に、ほんのちょっぴり緊張が和らぐ。
はたと気付くと、霊夢はその手に新聞を持っていた。それもかなり古めの、大体発行されてから十年くらいは経過していそうな古新聞である。そんなもの、一体どこで手に入れたのだろうか。
「霊夢、なにそれ」
「そこの棚にあったのよ」
霊夢は顎で棚とやらを指した。そこには張り紙がしてあって、古書祭に乗じて倉庫にあった新聞を引っ張り出してきたとの旨が記してあった。隣には持ち帰り自由とも書いてある。大方ゴミとして処分しあぐねたのを体よく処理するための方便であろうと私は推察した。
幻想郷で新聞と言えば、ほんの一部、人間の間で流通している物を除けば、殆どが天狗の作ったそれである。天狗個人個人の思惑が入り乱れた新聞は、それぞれの内容はまるで整合性がない。情報としても役に立たないから、たいていの人々は情報源としてではなく、単なる読み物、お伽噺か何かの類として読んでいる節があった。
それでも新聞は新聞、噂の火元となる事も多々ある。あらぬ風説の元を辿れば天狗のせいだった、という話など、幻想郷に住まう者ならば耳に胼胝ができるくらいに聞いたことがある言い訳だ。
無論私もあんな鳥頭たちの紡いだ言葉を真に受ける程愚かではない。しかし、かつてその新聞に盛大に傷めつけられた経験から、私はそれぞれの記事の内容に目を通すくらいの警戒は続けていた。
霊夢の読んでいる新聞は、まさしく私の自信を粉微塵に打ち砕いたものである。「文々。新聞」という。
「巨大西瓜だって。こんな事あったっけね」
「あったよ。ほら、十二三年前にさ」
私は記憶の糸を手繰り寄せ、当時の事を思い出した。
あれはまだ私と霊夢が腐り果てた縁を持つよりずっと前。幻想郷史上類を見ない程大きな西瓜が収穫された事があった。珍しい物なのにも関わらず、あまりに大きさから人々はそれをお化け西瓜だと言って気味悪がり、食べようとしなかった。そこで紫様は私を連れて倉庫に侵入、その西瓜の中身だけを繰り抜いて盗み出し、友人知人に配って回った。友人知人でない相手にも押し付けた。
その後、人々は空になった西瓜を見てやはりお化けだったと騒いでまわり、とうとう畏怖が高じてご神体として祀ろうと神社に押し掛けた。そこで人々が見たのは、口に西瓜を押し込まれて目を回している博麗の巫女の姿だった……という話である。
あまりの西瓜の大きさに処分しきれなかった紫様が困りに困って霊夢に渡したところ、貪欲なる霊夢はそれを一晩で食べようとして失敗した。そういう裏話を知っている私には笑い話としか思えないが、当時の人間はお化け西瓜の祟りだと言って心底怖がっていたと記憶している。
そう説明しても、霊夢はけろっとして「そんな事あったかしら」と言うばかりである。
「なによ、都合の悪い事は全部忘れるのね」
「覚えててもしょうがないもん。十年前の西瓜の事なんて覚えてるの、あんたみたいな阿呆だけだわ」
「阿呆とはなんだ」
霊夢はけらけらと笑った。紙面をネタに馬鹿にしてやるつもりが、これでは私が一方的に損をした形になる。こいつには敵いそうにない。
私にもそれくらいの器量と忘れっぽさと、あとちょっとの運が欲しいものである。霊夢に巨大西瓜の事を話している途中でさえも、私は件の記事が脳裏にちらついて、内心慄いていた。
忘れもしない、忘れたい、「文々。新聞 第百十九季 葉月の三号」。その紙面を飾った紫様の傘と、痛みに滂沱の涙を流す私の姿。「妖怪が行う動物虐待の現状」という見出しが大分屈折した形でその写真を修飾する。あの恐怖新聞が。
「どうしたの、顔がひきつってるわよ」
「いや、なんでもないよ。なんでもない」
私はナンデモナイナンデモナイと念仏の様に呟きながら、一つ新たな妄想に囚われた。くだらなくも非常に強い、恐るべき妄想に、だ。
あの棚で無料配布されているゴミの山、あの中に、もしかして、その記事があるのではないか。それどころかこの古書祭、ひいてはこの里の中に、数えきれぬ程のあの記事がまだ残っているのではないか。
一度そう考えてしまうと、もうままならない。私の手は震え、脳の芯は麻痺し、有ろうことか目の前で紅茶を啜る霊夢が可愛く見えてくる。意味不明な現象ばかりを引き起こす頭の働きを抑制せんと珈琲を啜ると、反動で涙が湧いて出た。
こうしてはおれぬ。一刻も早く真偽の程を確かめ、この不安を取り除かなくては。おちおちケーキも食べられそうにない。
ふらりと席を立ち、棚の前に踊り出た。そして祈るような思いで、積み重ねられた天狗新聞の一枚一枚をめくりだした。店内の視線が私に集まる。しかしそんなのは些細な事だ。かを確かめるは一時の恥、確かめざるは一生の恥。これ以上の恥を未来へ持ち込んではならぬのだ。
幸か不幸か、それはまもなく発見された。古ぼけた一昔前の新聞、忘れもしない文字列の数々。そしてなにより、我が泣き顔。紫様を謂われなく罵り続ける極めて主観的な文章の断片に、こっそり隠れるように私を狐として憐れむ文章が紛れ込んでいる。
その書面に搭載されたありとあらゆる要素が私の活動を停止させる。ぐるりと視界が反転したかと思うと、私の意識は肉体を抜け出して俯瞰を開始した。目の前の狐は赤ん坊の泣くような声を上げながら、その手に持った新聞をずたずたに切り裂いている。まさしく狂人の様相を呈しており、にわかに私を戦慄させた。それが自分自身であるという事実を忘れるほどであった。
そんな私をよそに、霊夢は一人でケーキを頬張っていた。
一枚の新聞がこの世界から完全に抹消されるのと、私がその喫茶店から存在を排除されるのは殆ど同時だった。霊夢はそれから五分程してから、ケーキを食べて満悦な様子で店から出てきた。
霊夢を待つ時間の間に冷静さを取り戻し、そして同時に何故にあんな狂人めいた行動に出たのかと激しく自問自答した。
これでは恥の上塗りである。というより、そもそもかく可能性の低かった恥を自ら被りに行ってしまった感すらある。地面に頭を打ち付け全てを忘れたい気分に陥ったが、またしても恥をかくことを恐れた私の理性はそれを否認した。
げに恐ろしきは、私からまともな精神状態を剥奪した件の記事である。私を責めるというのはちょっと筋違いであると自らを擁護させていただこう。
喫茶店から出てきた霊夢は、私を見るなりにやにやといやらしい笑みを浮かべた。こいつがこういう笑みを浮かべるのは、酔いが冷めた時と私が何かしらの失態を冒した時だ。今の状況の場合、恐らくは両方であろう。
「ちょっと、どうしたのよ。大脳新皮質に蛆虫でも沸いたの?」
「お前は酷い奴だ、たまには友人を慮るくらいの事はしてよ」
「なんであんたみたいなのを慮らなきゃならないの」
霊夢はどこまでも鬼であった。
私は一人寂しく涙を落とすばかりだ。しばらくしくしくと泣き濡れていると、霊夢は私の頭をぽんと叩いた。そうして帽子を退けてから、犬でもするかのように撫でた。本当に、恐るべき鬼である。
一念発起して立ち上がると、霊夢はいつもの仏頂面を全開にして私の手を掴んだ。
「さぁ行きましょ」
「ん」
そうして、我々は再び古書祭の人混みの中に紛れていった。
しかし、これで私を苛む妄想がすっかり消えたわけではなかった。むしろそこら中に積み重なる古書、そこに紛れ込んだ古新聞がどうしても意識の端に引っかかる様になってしまったのだ。
目の前に幻出する件の新聞を振り払うべく、私は霊夢の腕をしっかと掴んでぷるぷると震えながら歩く羽目になった。霊夢は霊夢でそんな私を面白がって、うりうりと私の頬を突いたりした。普段なら反撃に出る所であるが、今回ばかりはそれに救われているのだから文句の言いようもない。
実際、新聞の事を頭から締め出しながら進む古書祭はそれなりに楽しかった。古臭いにおいに少々辟易もしたし、くらくらと目の前が暗くなりかけもしたが、霊夢の腕を頼りに現世に意識をとどめる事で古書を楽しむだけの術を体得したのだ。
霊夢と一緒ならば、こうして苦手な事にも手を出せると思うとなかなかに複雑な物がある。これは今回の古書祭に限らず、私と霊夢の間に敷かれた奇妙な連帯感の根幹をなしている事象であり、霊夢との縁を断ち切り難い理由もここにあった。
何故に霊夢といれば大丈夫なのか、その理由は深い深い闇の中である。
我々は里を席巻する古書の山を掻き分けて進んでいった。霊夢は相変わらず価値の有無に関わらず目に入った本をこき下ろし、私がそれを諌めてその場を離れるという、出店者から見れば著しく煩わしい存在となって大路を行く。
即席書店の隙間には時折飲み物や食べ物を売っている露天も出ている。それらの周りには私と同じく古書恐怖症らしい人々が座り込んでラムネを飲み焼きそばだのを食べていた。霊夢は露天を見るたびに私に小銭を要求し、いつの間にやら右手にはりんごあめ、左手には焼きそばをそれぞれ装備して、器用に貪り食っていた。そうして貪り食いながら、古書の数々に罵言と一緒に唾と食べかすを吐いた。その罵言も、酔いが覚めたとあって更に舌鋒の鋭さを増し、既に幾つかの書店を潰している。
私はラムネで体内に篭った熱を浄化しながら、霊夢を諌め続けていた。
あらゆる古書店を敵に回す霊夢の快進撃に続いていると、書物の山の中に知り合いを発見した。髪を飾る金の鈴、市松模様の着物がひらりと舞っている。小さな女の子である。
日除けの下の安楽椅子に腰を下ろした少女は鈴奈庵の看板娘、本居小鈴だった。相変わらず、大きな本を膝の上にのっけている。
「あら、藍さんじゃないですか」
小鈴はぺこりと頭を下げて、こちらに挨拶した。私もそれに答え、手を振った。
「やぁ、やっぱりお前も出店していたのか」
小鈴の周囲に形成された山は、他の露店のものよりも大分大きい。私は霊夢の守護を貫通してくる脅威に若干慄きながらも、その品揃えの手広さに感心した。
多くは長い時を経てぼろぼろになり、表紙も外れてしまったような本である。何冊かは大結界が成立するよりも前に書かれた物もありそうだ。恐らくは貸本として役割を果たせなくなった書物の最後の仕事であろうと推察した。
「これまで良く頑張ってくれましたからね。ちょっとさみしいですけど、うちの保管量にも限りがありますから」
「そうかいそうかい」
私が感心していると、それまで私の影に隠れていた霊夢が顔を出した。「なぁんだ、小鈴ちゃんか」
「霊夢さんも居たんですね。どうです、見て行きません?」
私と霊夢は顔を見合わせた。暑い中大分長い距離を歩き、霊夢の表情には若干の疲れが見える。ここは日除けの下に入れてもらって、談笑でもしながら休憩するのが良さそうだ。
「ん、そうさせてもらおうかな」
そう言うと小鈴はにっこり笑って、「じゃあお茶を持ってきますね」と奥に引っ込んでいった。
酔っ払った霊夢の笑顔のにたにたしたのとは違う、爽やかで可愛らしい笑顔だった。見比べようと霊夢の顔を覗きこんでみれば、酔いがすっかりさめた様子で、普段のむすっとした仏頂面をしている。
私は霊夢の表情に可愛げを見出すことを諦めて、鈴奈庵出張店に進入した。日除けの下には数個本棚が並び、古い書物の数々が収められている。妖気の類を感じるものがないのを見るに、どうやら妖魔本は事前に除けてあるらしかった。
小鈴の性格を鑑みても、妖魔本を手放すたまだとは思えない。ちゃっかりしているのもなかなかに彼女らしいな、と私は微笑んだ。
「それにしても凄い量ね」
霊夢が片手を私の手に絡ませたまま、空いた方の手で本棚を撫でながら言う。それには同感する。ざっと見た感じ、ここにある物だけでも四千近くの古書が陳列されている。
げに恐ろしきはこれだけの本を店から運び出した小鈴の豪胆である。こいつの紙に対する愛情に並ぶだけの愛は他には存在しまい。
「あの子は本が好きだからね、多分本のためならなんでも出来るんだろう」
「よくもまぁ、喋りも動きもしてくれない物のためにそんなひたむきになれるもんだわ」
「どういう意味だ」
霊夢は鼻で笑った。「あんたは喋るわ動くわで便利よ」
これだから可愛げがないと言うのだ。私が道具であるのは事実であるものの、友人を道具扱いするその性格の悪さには辟易する。
私は霊夢の額を小突いた。「こいつめ」
その時、小鈴がお盆の上に麦茶を三杯乗っけて戻ってきた。そうして私達を見て、またしても微笑んだ。
「お二人は仲が良いんですねぇ」
見当違いな事を言う。
「誰が」
「誰が」
私達は声を揃えて、その小鈴の勘違いを正そうとした。しかしそれでも小鈴はあらあらと笑うばかりである。どうやら妙な思い込みが生じたらしい。
なんとしても否定しきらねばならないと義憤に駆られたが、しかし小鈴はこう見えてなかなか頑固なところがある。怒ってみせたところで、言葉を重ねれば重ねるほど却ってこちらが不利になる幻影しか見えず、それが私の闘志を萎ませた。
小鈴は本棚の影から折りたたみ椅子を引っ張り出してきて、それを私達に薦めた。そうして、そのまま折りたたみテーブルも広げた。
日差しが避けられるだけで暑さは大分和らぐ。その上で椅子とお茶まで提供されれば文句はない。
「これらの本は、お前が一人で運び出したのか?」
「そんなわけないじゃないですか、手伝ってもらったんですよ」
「誰に」
「長い焦げ茶の髪の毛をした、かっこいい女の人です」
脳裏に狸の薄汚い笑みがひらめき、少々辟易した。霊夢も同じであるらしく、半目で小鈴を見ている。一方小鈴本人はその格好良い女の人の面影に酔いしれているらしく、うっとりとしていた。
きっと本当に価値のある本はちょろまかされている事であろう。ご愁傷さまである。
「あの人はとてもやさしい方です。ええ、とても」
「そうね、ヤサシイでしょうね」
「今度あったらヨロシク伝えておいてあげよう」
小鈴は我々二人の様子に少々不信感を抱いたように口を曲げたが、それにも奴に対する尊敬やら恋慕やらの情が勝ったらしく、「まぁ良いです」と言った。
「それで、お二人はどうして一緒に? 逢瀬ですか?」
「薄気味悪い事を言うな、なんでこんな貧乏巫女と」
「変な事言わないでよ、誰がこんな貧相狐と」
「そんなに怒らないで下さい、冗談ですよ冗談」
意趣晴らしのつもりか。まったく小鈴も趣味が悪い。
「霊夢に無理やり連れてこられたの。私は出来れば来たくなかった」
「こいつ、いい年して古書が怖いなんて言うのよ。それで私にくっついてないと、動けなくなっちゃうんだもの。面白くてたまらないわ」
「お前、まさか私をいぢめるために行こうなんて言い出したのか」
「ふふん」
「ええい、尻を出せっ。折檻してやる」
「いい度胸ね、逆にあんたの尻を腫れ上がらせてあげるわ」
「待って待って、こんな場所で喧嘩しないでくださいよ。本が汚れちゃう」
「痴話喧嘩は他所でして」と小鈴は言う。火に油を注ぐ魂胆か、この小娘は。
私はますますいきり立ちそうになったが、しかしどういうわけだか霊夢はおとなしくなっている。訝しんでいると、霊夢の目が「こいつは怒ると怖いのよ」と伝えてきた。
霊夢が萎縮するというのは、これは重大な問題である。きっと恐ろしいに違いない。賢明なる私は努めて怒りを鎮めようと自制を働かせた。
「まったく、仲がよろしいんですから」
極めて不服な結論を出して、小鈴は一人で勝手に納得した。
話題はそのまま古書祭に関する方面へと向かっていく。どうやら小鈴はこの祭りの運営者の一人らしく、かなり深くまで事情を知っていた。
この古書祭が最初に開かれたのは数年前、小鈴が鈴奈庵の看板娘になった時の事。人間の里には書物を専門に取り扱う店が少なく、徐々に文字に親しむ人間が少なくなりつつあった。音に聞けば本が付喪神になって百鬼夜行を始める始末、開けば人に関する恨み辛みが並べ立てられた末法の書物。それに危機感を抱いた少女小鈴は一念発起し、書物の地位向上を目標に掲げてこの古書祭を提案した。里で伝統を引き継ぎ続ける古書店、貸本屋はそれに呼応して、そうして今に至るのだと言う。
この目の前の幼い少女にそこまでの行動力が秘められているとは大分驚いた話である。
「今ではこうして里のみなさんも家で眠っていた本を出してくれていますからね、嬉しい話です」
「なるほどねぇ」
「これまでは本ってのは回し読みの時代でした。一冊の本を人に貸して、それがずぅっと続いていく。それはそれで楽しい事ではありますけど、知り合いの間だけで動かしている内にどんどん本の価値を薄くさせてしまいます」
小鈴はため息をついた。
「そこでこうして古書祭を考えたんです。お金を払って本を手に入れれば、少しは大事にしようって思えるでしょ?」
私はその深遠な考えに感心した。小鈴の書物に対する愛情は疑いもなく幻想郷一である。
「でも無料で貰えた方が嬉しいわ」
そして同時に、そんな事を平気で言う霊夢に失望もした。「まぁ、そうですけど」と肯定する小鈴も流石に苦笑いである。
「幻想郷は資本主義よ。無料より安い物はないの」
霊夢は得意げな顔をした。私は思わずその頬を突っついた。「黙っていろ」というメッセージを込めて。
「そもそも霊夢、お前は本なんて滅多に読まないでしょ」
「たまには読むもん」
「たまに読む程度で、この目の前の少女の思惑を邪魔しようとするんじゃない」
「なによぅ」
一転、霊夢はぷりぷりして黙り込んでしまった。それで良いのだ、おとなしくしていろ。
小鈴は私達のやりとりをにこにこ笑って見ていたが、終わったのを見るやすぐに「でも」と霊夢を庇うような事を言った。
「霊夢さんの言う事も間違ってはないですよ。もともと無料で手に入る書物もありますし、それをお金を介して動かすのは自分でもちょっとおかしいかなとは思います」
「無料で手に入る書物?」
「新聞の号外とか」
新聞。
その単語が妙に引っかかった。嫌な予感がむらむらと立ち上る。私は多少ぎこちなくも平静を保とうと理性を働かせた。
「……。新聞も扱ってるの? 今、ここで?」
「古新聞の処理に。天狗の新聞なんてちょっとほっとくと山になっちゃいますから」
「念のため訊くけど、それらはどれくらいの頻度で処分してるの?」
「一年に何回か、ですね。古書祭の時に」
なるほど、それなら安心だ。十年近く前の新聞など残ってはおるまい。これでは心配した私が愚かだったと言わざるを得ない。私はすっかり平静になって、麦茶を啜った。
「あ、でも面白い記事はずっと取っといてありますよ」
噴き出した。目の前で不貞腐れていた霊夢の頭が私の麦茶で塗れる。
「なんですって」
「どうしたんです、そんな怖い顔をして」
私はむくむくと膨れる霊夢を片手間に拭いてやりながら、何度か咳払いをして平静を取り戻そうとした。
そうとも慌てる事はない、私の泣き顔などという下らない記事を面白がるほど、この本居小鈴という少女はいい性格はしていないはずだ。きっと一目見て天狗の悪意を看破し、その場で丸めて捨ててくれた事であろう。
いや待て暫し、確かにそう信じたいし、信じられるだけの確信を持ってはいるが、しかし万が一という事はある。念のため確かめて見てもよかろう。良心は痛むものの、やらねばならぬ業である。
「小鈴や、その新聞、いや面白い記事とやらを少し見せてはくれないかしら」
私の胸中など知らない小鈴は、その言葉にぱっと表情を明るくして頷いた。「そりゃあもう、もちろんですとも」そう言って、再び奥の方に引っ込んで行った。
背を見送った霊夢は私の袖で顔を拭いながら、訝しげな視線をむけてくる。
「あんた、また破るつもりじゃないでしょうね」
「失敬な。ちょっと検めるだけだよ」
「あの子の前であんな事したら、あんた尻尾が減るわよ」
私の脳裏に、小鈴に馬乗りにされて尻尾を引っこ抜かれる己の姿が掠めては消えてゆき、私は戦慄した。あの娘の書物への異常なる愛情を思うにつけ、その様はありありと想像出来る。
静かに深呼吸をすると、そんな幻想は静かに消滅していった。
「おまたせしましたー」
すぐに小鈴は戻ってきた。大量の古新聞を抱え込んで、ふらふらと揺れている。テーブルの上はあっという間に新聞でいっぱいになり、麦茶が見えなくなってしまった。
「これはまぁ、よくもこんなに集めたものだ」
「物心ついた時から集めてますからね」
何枚か捲って見てみれば、やはり天狗の新聞ばかりである。殊に文々。新聞の名前が目立つ。私にはよくわからないが、奴の織りなす下賤な記事には人心を掴む何がしかの成分が含まれているらしい。きっとアヤシイ薬でも塗りたくってあるに違いない。
「全部私の宝物です」
小鈴はどこまでも嬉しそうだった。
私は一枚一枚堪能しているかのような素振りを見せつつも、目を皿にして「百十九季 葉月の三」の文字を探した。捲る度に小鈴が嬉しそうにその新聞に関する蘊蓄を垂れたが、残念ながら全て意識の隙間を抜けて行く。
霊夢は霊夢で、私がいつ暴走しだすか気が気でないらしく、お札を構えて待機していた。
目の前に広がる暗黒を少しづつ切り開く度に、安堵すると同時に緊張が高まっていく。このまま事もなく新聞の山を消化しきれねば、自分がどうなるかわかったものではない。
しかし現実はあまりにも非常であった。それから五分もしない内に、例の呪われた文字列が姿を現したのだ。一瞬にして消滅していく理性の中で、「牧歌的な幻想郷を襲う、静かな恐怖」という一文だけが脳髄にこびりついた。
それからの事はあまり覚えていない。ただ、後に霊夢から聞いた話によると、やはり私はその新聞を破ってしまったらしい。そしてどういう事かと困惑し、そのまま泣き出してしまった小鈴を放っておいて、鈴奈庵出張所を飛び出したのだと言う。
数十分の後、私は大量の破れた古新聞の山に埋もれた自分を発見した。暫し呆然としてから、ふとその残骸を見てみれば、全て「文々。新聞 百十九季 葉月の三」の一部である事に気付く。
これは飽くまで推察だが、きっとその後の私は古書祭中の古新聞を検めて周り、件の新聞の全てを破り捨てたのだろう。そう考えてみれば、記憶の隅っこにへばりついている「新聞マニアの男性を相手に恐るべき恐喝を加えている八雲藍」の正体が掴める。
なんと恐ろしい事をしてしまったのだ、私は。気に入らぬ記事を破り歩くなど、まるで子供ではないか。
私はその場で頭を抱えてうずくまった。
どうしよう、どうしよう、破った新聞の量は決して少なくない。私の暴力的なシーンを見た人間もきっとたくさんいるだろう。不幸な思いをした人間もいっぱいいるはず。
紫様の顔に泥を、他人に迷惑を、私は、私は。
「こんなところで何やってんのよ。迷える子羊ごっこ?」
背後の声に振り向くと、目の前に霊夢がいた。普段通りの仏頂面の上に、如何にも呆れたような表情をかぶせている。
私はなんとか平静を保とうとしたが、それがどうにも耐え切れなかった。
「霊夢、霊夢」
「なによ」
「どうしよう」
「知らないわよ」
霊夢は私の頭に被さっている新聞の破片をはたき落としながら、淡白に言う。「紫に殴られてみれば」
「やだよ、そんな、私は」
その時、少し離れた場所から怒声のようなものが聞こえてきた。というより怒声そのものである。私は思わず身を竦ませて、目の前の霊夢を見た。予感の通り、霊夢はほんの少し慌てた様子である。
「霊夢」
「泣いてる場合じゃないわ。あんた、逃げないと今夜鍋にされるわよ」
やはりそうだ、あの声は私を追っているのだ。コレクションの新聞を破られた恨み、そして恐らくはそこに古書祭をめちゃくちゃにされた恨みも込められている。私を生き埋めにしていたのは、そうなっても仕方ないだけの量の新聞だ。
罪悪感に押し潰されて右往左往していると、霊夢が私の手を取って、そのままふわりと宙に浮いた。すっかり余裕を失していた私は姿勢を制御する事も忘れ、必死で霊夢にしがみついていた。
眼下にバケツを携えた人々が蠢いているのが見えて、その脅威のあまりに霊夢の巫女装束を目隠しにするより他に手の施しようがなかった。そうしなければ、恐らく戦慄く手に敗北して落下していた事であろう。
博麗神社に到達すると、すぐに霊夢は私を裏手の温泉に蹴落とした。外界の刺激を全て遮断していた私はそれですっかり不意を突かれ、暫くはそのまま溺れていた。気付いてみれば、私の腰までの深さしかなかった。
どういうことかと問うてみれば、霊夢はむすっとしたままで「ちょっと頭を冷やしてなさい」と言う。式神を断りもなく水にぶちこむとはとんでもない奴だ。
しかし、まぁ、あいつの言う事も一理ある。無意識の内に罪を冒したこの精神、一度洗い流さなくては。私はお湯に浸かってすっかり重くなった服を脱ぎ、ぬくもりに身を委ねる事とした。
ずぶずぶと頭まで浸りながら、一緒にずぶずぶと思考に埋没していく。私は一体何故にあんな事をしてしまったのか。
いや、原因は明白である。私自身にあの記事に関してトラウマが存在するからだ。私が知りたいのはそういう事ではなく、もっと根底にある問題、つまりどうしてそこまであの記事が苦手なのか、である。
トラウマの根源。それはどこにあるのか。
無論、嫌悪感を抱くだけの条件は揃っている。あの件で私の威厳が地に落ちたというのは、もはや否定のしようもない事実である。しかし考えてもみれば、その程度で何年もの間頭を抱え続けているというのは、私にしてはあまりにも狭量ではあるまいか。
私は幻想郷でも頂きを争う程の穏当さを誇る植物のような気性の持ち主であり、道行く誰もが我が愛に心打たれて滂沱の涙を流すと言う。それが新聞紙の一枚や二枚で我を忘れるほどになるとは、やはりおかしい。
なにか理由が、やんごとなき理由が存在するはずだ。
残念ながら、それが一体何なのかはまるで見当もつかないが。
危うく溺れかけて、私は慌てて顔を出した。
すると、目の前に霊夢がいた。
「そのまま溺れてればよかったのに」
「酷い事を言うな」
むすっとして腕を組み、その貧相な肉体を隠そうともせずに仁王立ちしている。今夏の怠惰をそのまま体現したような白い肌である。暫くそれに見とれて呆然としていると、霊夢はさっさと湯船の中に進入してきた。
「なにもお前まで付き合う事はないじゃない」
「別に付き合ってるわけじゃないわよ、気まぐれ」
頭の上に手拭いを置きながら、そんな事を言う。
「あんただけに一番風呂をくれてやるのも惜しいしね」
人を突き落としておいて何を言うのか。理不尽である。
いや、別に今更口を尖らせる必要もない。こいつが私に対して理不尽を強いるのは今に始まった事ではないのだ。我が十年間はこのほえほえ巫女の口から発せられる理不尽と共にあったと言って過言ではない。
私は霊夢を睨めつけながらも、渋々とその言い草を認める事にした。霊夢は私の胸中など察そうともせずに、なにやらふふんと唸っている。
「なんだよ霊夢、言いたい事でもあるのか」
「いや、まったく馬鹿な事をしたな、と思って」
「馬鹿な事とはなんだ。私は……」
「馬鹿な事をしなけりゃ里人に命を狙われるなんて事にはならないわよ」
「ぐぅ」
「あんた、これからどうするの?」
「どうもこうも、こっそり逃げ回る他ないでしょう。私だってまだ死にたくはない」
脳裏に先程見たバケツの光景が閃き、私は思わず身を竦ませた。あんな風に悪意と水をぶつけられては、きっと私とて長くは保つまい。それだけは避けねばならぬ。
「でもほとぼりが冷めるのを待つにしても先は長そうよ」
「うぅむ」
そう、それも問題である。衆生にあまねく私を亡き者にせんとする敵意が、数日数週間で禍根なく消え去るとは到底思えない。それ以上の期間里を避けて過ごすとなると、式神としての仕事に支障が出かねない。
というより、私の精神の方が耐えきれるかどうか怪しい。大勢の人間たちも然ることながら、私が心配しているのは小鈴の事だ。彼女の目の前で書物を切り裂くという暴挙に出て、そのまま謝りもせずにその場を去ったと思うと、小鈴がどうそれを受け止めているかがぐじぐじと私の心を苛む。
早いところ謝らねば、きっといつか私は罪悪感の超重力の中でぺしゃんこになって死んでしまう事であろう。
でも、謝るにしたってもどうやって?
確かに小鈴は優しい、いい娘だ。しかし彼女も聖人君子ではない。ただ謝罪したところで許してくれるという保証はなく、また許すと言ってくれたところでそれが真実であるかはわからない。
どうすれば許してもらえるのか。小鈴だけではない、その他の皆々様方にも。
「ちょっと、泣かないでよ」
「泣いてない。ただの雫だ」
「もー、見栄張っちゃって」
霊夢が不遜な事を繰り返す。弁明するのが億劫になって水中に逃れてみれば、今度は溺れかけた。どうにもままならない。体がうまく動かぬ。
「霊夢、どうしよう」
「知らないわよ、紫に相談でもしてみれば?」
「そしたらおしおきされてしまう」
「隠しきれるわけないんだから、覚悟決めなさいよ」
試しに覚悟を決めようと精神を働かせてみた。しかし、紫様に尻尾を鷲掴みにされたままに吊るしあげられ、尻を叩かれている己の姿が脳裏を掠めた瞬間、そんな思いは尻すぼみになって立ち消えてしまった。
「無理だ、無理。なんとか自分で解決しないと」
どちらにせよ隠しきれる事ではないのなら、せっかくだからやれるところまでやってから尻を叩かれたい。それに、上手く事を運びきれればお咎め無しに終わるかも知れない。希望的観測ではあるが。
私が決めたのはそちらの方面の覚悟だった。
とはいえ、いくら希望に希望を重ねて現実を押し隠そうとしたところで、目の前に横たわる問題が埃にまみれて見えなくなってしまうわけではない。このまま覚悟にかまけて現実から目を背け続ければ、いずれやってくるのは光に溢れた未来などではなく、バケツを携えて私を押し流そうと激昂する人間たちか私の尻を腫れ上がらせようと口元を歪ませる紫様くらいのものである。
物的な被害を出してしまった以上、謝るばかりでは足りないだろう。詫び方も考えなくてはならない。どうしたものか。事態の解決方法を探るにあたっては、私の見識はちょっと狭すぎる。
現状を打開する方法は少ない。「聡明なる私は才気煥発し、全てを円満に解決するだけの策を編み出す」「目の前のほえほえ巫女が珍しく本気になって私の身を心配し、結果として素晴らしい策を考えてくれる」「そもそも根幹となっている件の記事へのトラウマの源泉を探り当てる」この程度だ。
そうして可能性を掘り下げていくに連れて、徐々に「解決策はない。現実は非情である」という思考が脳内を席巻し始めて、私は頭を抱えた。霊夢はそんな私を見て、どことなくふわふわした、笑ってるんだか悩んでるんだかわからない表情を浮かべていた。
「なんだよ、その顔は。馬鹿にしてるのか」
「うん」
「こいつっ」
「だってしょうがないでしょ、あんな阿呆やらしといて、馬鹿にされないと思う方がおかしいのよ」
「うるさいうるさいっ」
「暴れないの、これでも一応心配はしたげてるんだから」
「一応で心配されても困るだけだよ。もっと本気でやってよ」
「よしよし」
私の言葉に即応し、霊夢は私の頭を撫でた。鬼か。
「お前は、本当に」
「そんな膨れないでよ、心配してるのは本当よ」
「そう簡単に信じられるか」
「失礼な、これでも私はいつでもあんたの味方なのよ」
「白々しい事を言うな」
私は口から甘言ばかりを垂れ流す霊夢に見切りを付け、再び自分の思案の世界に入り込もうと灰色の脳細胞を活性化させた。
かつて、私は優秀なる紫様の下僕であり、完璧な式神であった。尻尾を九重に翻し天空を飛行する様は森羅万象の全てを魅了し、黄金の煌きは幻想郷の山野を愛の光で満たしたとされる。この地において私の計算を外れた存在などなく、いつだってその才覚を惜しみなく発揮してこの世界を数式で支配していた。
しかし九年と半年程前、紅白の大幣が一閃した時、我が栄光の時は終焉を迎えた。空に敷かれた王道を征っていた筈の我が身はあえなく落下して地に倒れ伏し、泥に塗れた尻尾の上を霊夢が土足で闊歩していく。いつしか我が手の内にあった数式の全てはこぼれ落ち、私が精神の安寧を得られるのは、屋敷の隅っこの部屋に鎮座ましましている万年床の内側だけに限定されてしまった。
我が日常には不確定要素があまねき、もはや逃げ場はなく、どこへ行ってもほえほえした巫女が私の目の前に立ち塞がる。あまつさえ、こいつはいつも阿呆の百鬼夜行をなして私を押し流すのだった。
いつしか私の威厳は地に落ち、里には風説が流布され、いよいよもって橙も毎回のようにまたたびだの鰹節だのを要求するようになってきた。己だけの問題であるならまだしも、何故にそこまでの救い難き様相を呈する様になったのか。
私の記憶は少しづつ焦点をはっきりさせてゆく。
そう、あれは九年前。第百十九季。その秋の事である。
春雪異変の影響で長く尾を引いていた夏もいよいよ終わり、このところはめっきり冷え込む様になった。神社の周囲を囲む鎮守の森もいよいよ赤や黄色に色付き始め、美しくはあるが近くで見ると目に悪い。
私はそんな紅葉の木の上にしがみついて、いつもの様に遠巻きに博麗の巫女の監視を行っていた。彼女の方も普段とまったく代わり映えをせず、縁側に腰を下ろして南から照る秋の日差しに目を細めていた。今日も報告書は白紙で済みそうである。
この退屈な巫女監視も、既に半年近く続いている。異変終了後に霊夢と初めて出会った私は、その関係でご主人様からその仕事を任されたのである。博麗の巫女の監視と言えば元々紫様の仕事だが、知り合いならばと私に押し付けてきたのだ。
半年の殆どを、彼女は縁側で一人でぐうたらとして過ごしていた。代わり映えのない奴だ。変わるものと言えば、毎日飲んでいる一升瓶の銘柄くらいである。見ているこちらもあまり面白くない。あまりに動きがないものだから、時には式神に監視を任せて里に油揚げを食べに出た事もある。しかしご主人様の勅命をそうないがしろにするわけにもいかず、一応毎日足を運んではいるのだった。
ぐうたらしているとは言え、霊夢も人の子である。時々は知り合いを呼んで、一緒になってお酒を飲んだりもする。私はそんな様子を遠巻きに眺めながら、草葉の陰に隠れて一人でお酒を飲むのを最近の趣味にしていた。
私の監視は飽くまで遠巻きである。監視対象にわざわざ近寄るというのは、優秀なる私の美徳に反する。数カ月前の手酷い敗退が思い出されて体が重くなるとか、そういう情けない理由などでは決してない。
私は今日も今日とて木の上から霊夢の姿を眺めながら、一人で盃を干していた。秋風が冷たく、体を温めねばやっていられない。尻尾を抱いても寒いというなら、エチルアルコールに頼るより他に手はないのである。
しかしそれが悪かった。既に一升瓶の三本目を空けようとする段階にあって、私は風に吹かれて体勢を崩してしまったのだ。咄嗟に飛行をするには判断が遅れ、下には引っかかる枝もない。そのまま、私の体は地面にしたたかに打ち付けられた。目の前が暖色に塗りつぶされて、上からどんどん落ち葉が被さってくる。あっという間に視界がなくなって、私は前後不覚に陥った。
暫くその場でもがいてから、なんとか身を起こす事に成功した。尻尾が上手くクッションになってくれたようで、痛みはない。ただあんまりびっくりしたものだから、すっかり腑が抜けてしまって動けなかった。
問題はそれだけに留まらない。そんな私の一人騒ぎに気付いたらしく、霊夢がまっすぐこちらに向かってくる。その視線は揺らぐことなくこちらを捉えていた。
動転してぱたぱたとやっていても、葉が舞うばかりで事態が解決するわけもない。そのまま目の前に来た霊夢は、じっとりした目で私を見ながら「あんた、何やってるの」と冷たく言った。
秋の気候に根ざしたものとはまた質の異なる寒さが背筋に走る。聡明なる我が脳髄はその責務をまるっきり放棄しており、出てくる言葉も出ない。私はただただ震えるばかりで、目の前に仁王立ちする紅白の影を見上げていた。
「って、あれ? あんた紫んところの式神じゃない」
霊夢は一頻り私を睨めつけてから、目を丸くしてそんな事を言う。そして「もしかしてここ半年、感じてた視線はあんただったの」と小声で呟いて、一人納得したように頷いた。
私は打ち上げられた魚の様になって、あうあうと口を動かすばかりである。そんな私の様子に霊夢はよくわからない薄ら笑いを浮かべていたが、そのうちに「とりあえず、話は向こうでしましょう」と言い出した。
無言のままに頷き、霊夢の背を追おうとしたところで、私はまたしても地に倒れた。抜けた腑が未だに戻っていなかったからだ。再び木の葉を撒き散らした私を見て、霊夢は今度こそ噴き出した。
「ったく、しょうがないわね」
そうして私を背負うと、きゃらきゃらと笑いながら縁側の方へと戻っていったのである。当時の霊夢の背中の感触は今に至るまではっきりと覚えている。なんとも情けない、出来ればあまり思い出したくない思い出である。
縁側の近くまで来ると、霊夢は私を投げ出して、一人で勝手に溜息をついた。私は私で腰を強かに打ち付け、暫く板と畳の境界を転がって呻いていた。
「どうしてそう乱暴に扱うんだ」
「あ、やっと喋った」
霊夢は額の汗を袖で拭い、ふふんと笑う。
「そりゃあ喋る。私だって立派な式神だ」
「立派な式神が腰を抜かすもんですか」
「うるさい、たまにはそういう時もある」
私はすっかりふて腐れて、ぷっくり膨れながら霊夢を睨んでいた。
今にして思えば、これが私と霊夢との個人的なファーストコンタクトだった。そして同時にワーストコンタクトでもあった。春雪異変、永夜異変の時とは違い、式神的な事情を介さないこの出会いは、この後長らく私を呪縛する事になる。
それをまだ知らない当時の純真無垢なる私は、上がらぬ体を引きずって霊夢に報復せんと近付いた。霊夢は私を見下ろしてきゃらきゃらと笑っている。はたしてこんなに笑う娘だっただろうかと不思議に思っていると、一升瓶が転がっているのに気付いた。どうやら笑い上戸であるようだ。
酒臭い顔が目の前に張り出してくる。そのまばゆい笑顔は地獄の火焔めいて私の網膜を焼いた。
「なんだお前は、私をどうするつもりだ」
「一人で暇だったのよ。どうせあんたも同じでしょ。付き合ってよ」
「嫌だ、解放しろ」
「今解放しても地面に落っこちるだけよ」
「むぅ」
縁側から視線を落としてみれば、そこから見えるのは枯れ葉の降り積もった荒涼たる大地である。腰を抜かしたままで踏破するというのは、あまりにも困難なように思えた。
「……私にもお酒を」
「それでいいのよ」
霊夢は自分の影から一升瓶を取り出して、それを私の目の前に置いた。まだ蓋を外してすらいない、新しいやつだ。私はそれを抱きかかえ、暫しじっとしていた。現状を受け入れるための心の準備のためである。
既にこの時点で「自分を打ち負かした相手と再会し」、「その人物の目の前で木から落下して腰を抜かし」、「そいつの背中に負われるはめになり」、挙句の果てに「盃を酌み交わすのを強要される」という心労積み重なる事極まりないイベントを連続体験した私の精神はすっかり疲弊しきっていた。
「どうしたの、泣いてんの?」
「泣いてない、うるさいっ」
徐々に感覚を取り戻しつつある腰に少しづつ力を入れながら、私は身を起こした。僅かに目尻を濡らす涙を袖で拭ってから、再び霊夢を見やる。そして受け取った一升瓶に直接口を付け、一息に飲み干した。
「あ、あ、なんて勿体無い」
「ええい黙れ黙れ。飲まずにやっていられるものか」
私はそのまま次なる一升瓶にも目を付け、それを奪いにかかった。霊夢もそれに対抗、あんたにやるくらいなら私が飲むとでもいわんばかりにお酒を抱え込み、ぐびぐびと飲み出した。
神社の縁側はあっという間に退廃的耐久飲み比べの会場となり、二人してむきになって飲む。飲む。飲む。昼間から空き瓶を大量生産する我々の姿は、傍からは地獄の獄卒の如く映る事であろう。そこには優秀なる式神の姿はない。いるのは二匹の大虎だ。
エチルアルコールと同時に水分を過剰摂取した私の目からは、体から押し出された水が滝の様に零れ出ていた。
そのまま数刻、我々は地獄の様相を呈す飲み比べを続けた。限界を迎える頃には日は沈み、あたりはすっかり暗くなっていた。
私と霊夢は縁側の上で瓶に塗れ、互いに水太りしたお腹を抱えながら重なっていた。もはや気力の欠片もなく、涙も枯れ果て、ただただ夜が更けていくのを待つだけである。
私は、多大なる虚無感の海を小さな板にすがって流れていく己の姿を幻視しながら、同じ板を鷲掴みにして離そうとしない存在も感じ取った。当然、それは霊夢である。霊夢は片手で板を抱き、もう片方の手で私の腕を掴んでいる。なにやら妖怪めいた不気味な笑みを湛えているのが印象的だった。そんな虚無的なカルネアデスの板状態は、それから十年近くが経過した今でも解決の兆しすら見えていない。
流した涙があまりにも多かったものだから、式もすっかり解けてしまった。お酒も手伝って、非常に体が重い。全身の血液がお酒に挿げ替わってしまったかのような感覚である。
どうにも疎ましくなって、私はそれまで固く閉じていた目を開く事にした。すると、目の前にあるのは霊夢の顔である。お酒が回って燃えるように赤くなった頬に、目を閉じて、うんうん唸っている。どうやら相当無理をしていたようである。
こうして大人しくなってから改めて観察してみると、霊夢はなかなかにかわいらしい顔立ちをしていた。なにせふにふにとしている。頬を突いてみると、ゴムマリのような弾力がある。吐く息こそ酒精に塗れているが、それさえ無視すればまるっきり幼い子どもだった。
酒に塗れて正気を失っていた私は、暫くそのまま霊夢のほっぺたで遊んでいた。そうしていると、どういうわけだか愛おしく思えてくるから不思議である。あれだけ苦手とし、半年に渡って遠巻きに眺めてばかりいた少女が、今目の前にいて私に弄ばれている。その事実は私の酩酊を更に深いものにした。
もしかしたら、私はこの娘を。
その時である。上空で何かが風を切るような音がしたかと思うと私の後頭部に鋭い衝撃が走った。その一撃で最後の気力をえぐり取られた私は、そのまま昏倒した。
後に聞いた事であるが、その時私の後頭部に命中したのは天狗の新聞だったらしい。それも、あの忌まわしき「文々。新聞 第百十九季 葉月の三号」である。
「何難しい顔してるの」
霊夢が私の頬を引っ張りながら、むっつりとして言った。
「昔の事を思い出していたんだ。お前と会った頃の事を」
暫く、我々の間に沈黙が流れる。その間も、霊夢は私の頬を抓ったままだった。やがて「んなもん忘れたわ」と言った。
「だろうね、そうだろうと思ってたよ」
「どういう意味よ」
「お前はなにも考えてないからなぁ」
私は霊夢の手をすり抜けながら、そう反駁した。霊夢はますますむすっとする。温泉の熱に当てられて赤くなった霊夢の顔は、なんとなくあの時の寝顔を思い出させた。
「馬鹿にしてるの?」
「そんなつもりはないとも。大体、お前が馬鹿だったら付き合ってる私の方まで馬鹿になってしまう」
「あんたは馬鹿じゃなくて阿呆でしょ」
「それはお互い様だ」
霊夢から逃げつつ、尻尾に水を通す。紙くずに埋もれていた尻尾には未だにかなりの違和感が埋まっているようだし、それをいちいち手で取り除くというのは面倒な作業だ。私が尾をくねらせる度に、細やかな新聞紙の屑が浮いて出た。
「風呂が汚れちゃうじゃない」
「私を洗いもせずに湯船にぶちこんだのはお前だ、お前が悪い」
ちょっと掛け湯でもすればマシになったろうになぁ、と言いつつも、私は更に尻尾を揺さぶった。しかし絡んでいた屑の量は私の想像を超えていた。あっという間に、湯船の表面が濡れたゴミクズに埋め尽くされてしまった。
流石に、これは、私が悪い。霊夢はすっかりふくれっ面をしている。その上水面全体が新聞色に染められたせいで、あたかも巨大な記事が出現したかのような錯覚を起こして目の前がくらくらとした。
しばし呆然としていると、霊夢がむんずと私の尾を掴んだ。何事かと構える間もなく、引き揚げられてしまった。冷たい石の上に放り投げられ、私はまたしても呆然とした。
「なにするんだよ」
「別に。のぼせそうになったから上がっただけよ」
「なんで私まで巻き込むのよぉ」
「なんとなく」
霊夢はその場で体に張り付いた新聞ゴミを剥がしてそこらへんに投げてから、頭に載せていた手拭いで体を拭いてそそくさと行ってしまった。残された私はと言えば、突然尾を引かれた驚きですっかり腰を抜かしてしまっていて動けない。
しょうがないから、這ってその辺に散らばっているゴミを拾い集める事にした。手の届く範囲であっても、それなりの量の切れ端がある。私は一体、何枚の「葉月の三」を破り捨てたのだろうか。
水で濡れた新聞紙はどうにも皮膚にくっつこうとする。少し這いまわっているだけで、体中が灰色になってしまう。どうにも煩わしいが、己の浅薄さの招いた事なれば、文句を言うのも詮なき事なり。
湯船の周りをあらかた片付けてしまってから、手の内のゴミは全て纏めて塊にして置いておいた。流し台のすぐそばに、やたらと存在感のある灰色の球体が鎮座ましました。
それで少し満足していると、今度はやはり湯船の中が気になってくる。浮いているゴミをさっと見ただけでも、十枚分くらいはありそうだ。眺めていただけで眉間の間がじくじく痛む。
これを綺麗に掃除するには網なんかが必要かもしれないなぁ、などと思っていると、背後に誰か降り立つ気配を感じた。振りむいてみれば、そこにいるのは文である。
憎しみが形を成したような球体を撫でながら、滂沱の涙を流している。
「げ」
「げ、じゃありませんよ、なんて酷い事をしてくれたんですか貴方は」
新聞球体を抱え、文は私に詰め寄った。高い下駄を履いているから大変に威圧的である。私は抜けて立たない腰に鞭打って後ずさりした。
「酷いのはお前の方だ、お前がそんなもん書くからこんな事になったんだ」
「これを発行したのはもう何年も前じゃないですかっ」
「もう何年も苦しめられてるんだよ、限界だったのだ」
「貴方のために書いたのに」
「馬鹿な事を言うな」
「虐待されるの、辛かったんじゃないですか。その記事は虐待に対する抗議ですよ」
「私と紫様の事なら、あれは虐待とは言わないよ」
文は泣きながらにぷりぷりと膨れた。
「そもそもお前、私の為を思うならあんな写真を使うなよ」
「これですか」
私の目の前に、かの紙面を飾った我が泣き顔の写真が吊るされた。殆ど反射的に飛びついていたが、抜けた腰で文に取り付けるはずもない。にべもなく躱されて、岩面に強かに体を打ち付けた。
「お前、まだそれを」
「貴方の暴挙を聞いて引っ張り出してきたのです。もし反省していないようであったら、この写真をバラまくつもりです」
恐るべき恐喝に出たものだ。見やれば殆ど破れかぶれのようで、文の目は焦点があっていない。下手に接すればどうなるのかわかったものではない。「当然、貴方の威厳を地の底に貶めるようなキャプション付きで」
「風説の流布とはマスコミの風上にも置けない奴だ」
「今の私はマスコミではありません。新聞を愛するものとしての義憤です」
「だったらマスコミとして手に入れた写真を傘にするな」
「使える物は全て使います」
私は溜息を吐いた。これは話になりそうもない。
「文よ、じゃあ私はどうすればいいんだ」
「反省してください。償ってください」
「……具体的には?」
すると、文は頬に手をあて、ずずいと私の顔を覗きこんできた。そうして、私の胸に新聞の塊を押し付けてきた。どうにも気色の悪い感触に、背筋に怖気が走った。
「貴方が破り捨てたこの記事を、貴方自身の手で再び配布して下さい」
背筋に蓄積された怖気は、その言葉によって全身に拡散した。鳥肌を抑えんと湯船に飛び込むと、視界が灰色に埋もれてしまった。
「な、な、なんて恐ろしい事を言うんだ」
「破って回ったのは貴方でしょう、自業自得です」
「で、でももうちょっと手心ってものを」
「さっき、新しく刷り直したその号の束を神社の縁側に置いておきました。それを全部配ってください。一軒一軒回って」
「お前、人の話を」
「可及的速やかにお願いします」
「ちょっと」
私の意思など尊重するつもりはないらしい。文は新聞紙に塗れてうごうごしている私の頭を踏んづけて、さっさと北の空に消えていってしまった。
残された私は気が気でない。体に張り付いた切れ端をさっさと流してしまってから、風呂場を後にした。
よく考えてみれば、服ごと温泉に打ち込まれたのだから、私には着る物などないのだった。そう思い至って暫く脱衣所で呆然としていると、隅っこの方に畳まれた白衣と書き置きがあるのに気付いた。
開いて読むと、「とりあえずそれ着ときなさい」と気の抜けた文字で書いてある。霊夢も呆けた顔をして、なかなかどうして気の利く奴である。私は喜んでそれに袖を通した。俄にふんわりとしたあいつの匂いが、私の鼻腔を刺激した。
真っ白な装束に身を包んで安心してから、文の言葉を確かめるべく拝殿へと向かった。近付くにつれ、新聞特有のインクの臭いが風にのってやってくる。袖を鼻に押し当ててもはっきりと感じるのだから始末に置けない。
そうして縁側への角を曲がった時、私は戦慄した。そこにあるのは、床板の一部すら見えない程に高く積まれた大量の「文々。新聞 第百十九季 葉月の三」である。神社の一角は完全に灰色の新聞紙に埋め尽くされており、足の踏み場がないどころの騒ぎではない。もはやショックを受けることすら忘れて見つめる事しか出来ない有り様である。
すると、その山の真ん中のあたりがもぞりと動いた。
もしや霊夢なのではあるまいか。そう思って近付き、少し新聞をどかしてやれば、顔を出したのはやはり霊夢である。肩で息をしているのを見るに、もしかしたら窒息なんかしていたのかも知れない。
霊夢は少し辺りを見回してから、目を剥いて「なんなのよ、なんなのよこれはーっ!」と絶叫した。そして私の耳を引っ張った。
「藍、説明、説明っ」
「待ってよ霊夢、説明はする、するから放して……」
私の嘆願が功を奏したのは、それから十分ほど後の事である。
とりあえず霊夢を救出し、二人分の座るスペースを確保してから、ようやく落ち着く事が出来た。即座にお茶による精神安定が図られ、私と霊夢は肩を寄せあって、新聞紙に水分を取られてすっかりひび割れた喉と心を暖かなお茶で潤した。
こうなってはかわいそうなのは巻き込まれた霊夢である。私は、実にこの時、初めてこいつの事を不憫だと思った。目尻に溜まった涙を拭ってやりながら、その頭を撫でてやった。
「あんたは阿呆よ、救いがたい阿呆よ」
霊夢はさめざめと泣きながら、呪詛の様にその言葉を繰り返した。今となっては否定のしようもない。
そんな事をしながら、同時に目の前に横たわる問題についても思索を巡らせねばならなかった。里中の新聞を引き裂いて回った事然り、ひいては古書祭を台無しにしてしまった事。そしてたった今発生した、新聞の再配布問題。頭が痛くなる。
もちろん、聡明なる私は仮の道筋を模索せんと努力した。文の置いていったこの殺人的な量の新聞を、一軒一軒謝罪しながら配っていけば、それが理想的なことの運びとなる。が、しかし、謝罪して回るだけでも目が眩むというのに、配る新聞までもがコレだというのを考慮すると、脳が思考を拒否したがった。
策士と評される私も、自分のこれからの立ち振舞いに直接影響を及ぼす判断を即刻下せるような感性を持ちあわせてはいない。むしろ、私は最善策を打ち出すためにおもむろに状況を判断し続け、最善策が最悪策に転じてしまう事すら厭わずに状況判断を続ける慎重さの持ち主なのである。
如何にして解決するべきか。我が才覚はかつての霊夢との邂逅と共に封印され、煥発される気配など見せてはくれない。霊夢もこの調子では提案協力を仰ぐに忍びない。トラウマの源泉も地底深くに埋め立てられて、いつ掘り起こされるのかもわかったものではない。
私の脳の表面には「現実は非情である」という文句が浮かんでは消え、多大なる精神の力を浪費せしめた。そうして、なんだか泣きたいような気分になってきた。
逆に一頻り現状を嘆いた霊夢は私の袖で鼻をかみ、いよいよ元気を取り戻した。そして「考えててもしょうがないわ」と前向きなんだか何も考えてないんだかわからない事を言った。
「藍、どうするべきだと思う?」
霊夢の言葉を受け、私は先程思い付いた理想的な運びを説明してみせた。無論、最後に私の精神衛生上それは不可能であると付け足しておくのも忘れない。
私が再び黙りこみ、近くの新聞紙を鼻紙に転用し始めた頃、霊夢はあっけらかんとして「別に良いじゃない」などと言う。
「良いわけがあるか。お前は私に死恥をおっ被せるつもりか」
「死ぬの?」
「已む無しだ」
どう想像を巡らせても、配布し終わった後の自分がまともな姿が思い描けない。頓死しているか、溺死しているか、或いは部屋の隅っこで荒縄を結んでいるか、大体その辺りまで想像してから、すぐに目の前が真っ暗になる。
かと言ってこの新聞を放擲して悠々と生きていこうと未来を思えば、いずれ里の人々にとっ捕まって大量の水でバケツリレー爆撃されるのが想像できる。
かくなる上は時が全てを押し流すまで外の世界へ逃避行、なんてのも考えたが、それはあまりにも多大な迷惑をかけすぎる。私は八雲の式神の中でも特別優秀であるから、代役を見つけるのも大変だ。
それにその手を打つと、霊夢とは会えなくなる。
まったくもって面倒な事になったものだ。私は新聞の山に埋もれ、己の身を呪った。身から染み出す祟り汁が新聞に吸い込まれていくような錯覚がした。
「あんたは色々と深刻になりすぎなのよ」
「これがならずにいられるか。他人事だからって適当に言って」
「他人事じゃないわよ。これが捌けないと、縁側でゆっくり出来ないわ」
「……むぅ、それもそうだなぁ」
「何の手も打たない」という賢者の如き選択をしたとしても、今度はこれらの新聞によって我々のお昼寝が邪魔されてしまう。
斯くの如き袋小路は、過去より忍び寄る死神である。こうなっては頭を抱えるより他になく、頭を抱えたところで事態に進展は期待できない。
私と霊夢は寄り添って、二人して頭を抱えていた。
気付けば寝てしまっていたらしい。尻尾にくるまる霊夢の重さに、私は自分を発見した。日は既に沈んでいる。月明かりに照らされる灰色の山を見て、改めて新聞の量に驚愕を強いられた。
霊夢は尻尾に埋もれて寝息を立てている。夜風は冷たく、そろそろ秋の訪れを感じさせた。私も霊夢の掴んでいない尻尾を一本手繰りよせて、それを枕にしてみた。まだ毛は生え変わってはいないものの、ないよりはずっと暖かい。
一度寝てみると、危機感はあまり感じられなかった。元々そこまで深刻な問題ではなかったのか、或いはあまりの深刻さに感覚が麻痺してしまったのか、そのあたりの判断はどうにもつかないが、それでも焦る事はなくなっている。
とはいえ、このままぼうっとしているのはまずかろう。それくらいの判断は正常に下せる。私の未来を平穏なものにするために、霊夢がほえほえとしていても大丈夫にするために、動かねばならぬ。
差し当たって冷静なる私は、まず敵を知るために山積みにされた「文々。新聞 第百十九季 葉月の三」を読破せんと手を伸ばした。一度睡眠を挟んで明鏡止水の境地に至った今であれば、もしかしたら冷静なままに読み切る事が出来るかも知れない。
一部を手に取り、腕を伸ばしてそれをかざす。瞑った目を開くのに、さほど勇気は必要なかった。
月明かりに透かされて、過去の我が泣き顔が飛び込んでくる。みっともない事この上ない。やはり破り捨てたくなる。私は衝動をなんとか堪え、文面に視線を滑らせた。
文の主観に塗れた文句の数々。紫様に対する攻撃的な言葉が並び、私への擁護を通して我が身可愛さが滲み出ている。なんともまぁ、情けない記事である。直接私について言及した記述もなく、終始紫様に「気色が悪い」「支離滅裂」と言っているばかりだ。
こうして改めて読んでみると、意外にも敵意は湧かなかった。むしろ滑稽な読み物として楽しめる。
これは一体どういうことか。発行当時から時を隔てて、自らを客観視する能力を身につけられたと解釈して良いのだろうか。それとも何か、別の要因があるとでも言うのだろうか。
「藍、何やってるの?」
「む」
声に気付いて振り向いてみれば、尻尾に塗れて霊夢が目を擦っているのが見えた。
「起こしちゃったか?」
「違う、ちょっと起きちゃっただけ」
霊夢は肩越しに新聞を見て、「また破るつもりじゃないでしょうね」などと言った。怯えた様子もからかう様子もない。いつも通りの平坦な口調である。
「んなことはしないよ。むしろ、なんで自分があんなことをしたのか疑問に思ってるくらいだ」
記事を渡して「結構かわいいとは思わないか、私」と言うと、霊夢は妙な顔をしてきょとんとした。
「それ、本気で言ってるの?」
「驚きだが、本当だ。この記事に対してまるで破こうとか思わない」
「何よそれ、じゃあ昼間のはなんだったのよ」
「私にもわからない」
一通り記事の内容を記録してから、たたんで再び山のてっぺんに戻した。霊夢はそんな私を目を丸めて見つめていた。
私は身を翻して、霊夢と向き合う様にした。目の前にむっつりした顔が現れる。ほんのちょっぴりだけ、困惑しているように見えた。
「まさかあれは演技だったとか言うんじゃないでしょうね。そしたら本気で怒るわよ」
「そんなわけないだろう、少なくともあの時は本気で我を見失ってた」
「今はどうなの?」
「言った通りさ、何の感情も湧かない」
面白かったと評するのも素直なところである。
「あんたおかしいわ」
「わかってる。これは由々しき問題だ」
自らの心変わりの正体がつかめない以上、まずはここから究明しなくてはならない。これを楽観的に考えていれば、恐らく後で碌なことにはなるまい。恥に押しつぶされて今度こそ死んでしまう。
「霊夢、お前はこの記事、どう思う?」
「どうって言われても大分昔のだからねぇ。ちょっと貸して」
言われた通りに手近なのを一部見せてやった。霊夢は暫く目だけ動かしてぎょろぎょろと見つめていたが、やがてふふんと噴き出した。
「何がおかしい?」
「いや、やっぱりこの顔よ。間抜けな泣き顔だなぁ、と思って」
霊夢はあっけらかんと言う。しかし、どういうわけだか私にはその笑顔が妙に気にかかった。
「……むぅ」
「なによいきなり、不機嫌になって」
「やっぱり、なんか駄目だ。お前に馬鹿にされると落ち込んでしまう」
「都合の良い奴」
「やかましい」
私は新聞を取り上げて、そそくさとしまい込んだ。霊夢はぷくぷくと膨れるばかりである。「なによ、まったく」と言って、私の頬を引っ張った。
自分でも理解に苦しむ情動だ。長年苦しめられた記事を改めて読んでも何の憤りも恥辱も湧いてこない、しかしそのくせ霊夢に見られるのは嫌だとは。
これまで頑なに「私がこんなんになったのは、間違いなく霊夢と文々。新聞のせいである」と信じてきたというのに、これではまるで踊らされた私が馬鹿みたいではないか。否、そもそも私は元より馬鹿だったのだろうか。何の原因もなく、ただただ時の流れるまま運命の赴くままにここまで落ちぶれてしまったとでも言うつもりか。
もはや何を信じて良いのかわからず、俄に不安になってきた。すっかり狼狽した私は、目の前のふにふにした巫女を抱き締める以外に道を見失ってしまった。
「むぐ、どうしたの?」
「どうしよう、どうしよう」
新たに発生した不安に乗じて、ちょっと前まで私を苛んでいた危機感も頭をもたげてこちらを睨むようになった。
もうこうなっては震えるより他に打つ手はなし。きっと私は数日の内にバケツの山に囲まれて濁流に飲み込まれる羽目になる事であろう。
「だから、大丈夫だってば」
霊夢はそう言って、私の頭を撫でるのであった。
「ほんと?」
「ほんと」
その余裕が一体どこからくるのかは知らないが、霊夢の口調は極めて穏やかだ。私にも僅かに光明が見えたような気がして、平坦な胸に埋めていた顔を上げてしまった。
霊夢はイヤラシク笑っていた。
「というわけで、蜘蛛の糸を手繰りたいから新聞みして」
「な、それは駄目だっ」
「良いじゃない。私だってよく覚えてないんだから、確認しないと」
「駄目なものは駄目っ」
「あんただけずるいわ」
そのまま暫く、我々は押し問答に圧し問答を重ね、ついでに取っ組み合いで体を重ねて暴れまわった。新聞の山が崩れて生き埋めになっても、霊夢は意固地になって読もうとしたし、私も意固地になって読ませはせんとした。
結局、すっかり興奮した霊夢に頬を舐められ、私の敗北であった。酔ってもいないのにこの手に出るなどと、どうして想定出来ようか。こいつは一体何を考えているのか。
私はすっかりのぼせて、目の前で嬉々として記事を読む霊夢を見届ける羽目になった。
「笑わないでよ、お願いだから」
「はいはい」
霊夢は私の言葉を聞き流しつつ、紙面に羅列された文字を追っている。時折、歪めた口元から息を吐く。その音が耳を掠める度に、私の頭には血が登った。しかして努めて冷静に霊夢を観察してみれば、どうやら写真からは目を逸らしているように見える。おおかた最後に見て呵々大笑するつもりであろうと推察出来た。
「そっか、こんな内容だっけ」
「……そこまで酷くはないだろ」
「まぁねぇ、あんたについてはそこまで書いてないし」
それから数分もしない内に、霊夢の視線は紙面の左上へと滑った。その瞬間、変に歪んでいた顔は吹き飛び、盛大に唾を噴き散らかした。上半身が倒れ、投げ出された脚はぱたぱたと畳を蹴っている。私はその振動の中で、やり場のない憤りと視線に煩悶していた。
こうなるから嫌だったのだ。霊夢は酷い。そんなに笑う事はないではないか。
「いや、もう、ほんとにごめん」
「謝るのなら最初から笑うな」
霊夢は尚も抱腹絶倒を続行して、その余波で私の精神をずたずたにいぢめた。
その時である。
なにか強烈な既視感が、脳細胞の中を貫いた。暫時呆然として、目の前の新聞と畳と板の境目を転がる霊夢の姿とを交互に見比べて、その正体を掴まんとした。
こんな恐るべき光景を以前にも見たことがあると思うと、むらむらと腹が立つ。
「霊夢、私達前にもこんなやりとりをしなかったか」
「……。そんなわけないでしょ、デジャヴよデジャヴ」
「いいや、そんなはずはない。間違いなく過去にもあった」
新聞を畳みながら、私は記憶を手繰り寄せた。この十年間の思い出の、その底の方に泥土の如く堆積したヤツを、なんとか引き出そうと努力した。
そう。そうだ、徐々に思い出してきたぞ。これまですっかり忘れていたのだ。ショックのあまりに脳が独りでに封印していたのだ。
あの時、霊夢と初めて個人的邂逅があった日。
私は昏倒なんてしていなかったのである。そもそも、この頑丈な肉体が新聞紙に直撃されたくらいで昏倒するわけがなかろう。不意を突かれて倒れるくらいまではあっても、気絶するなどありえない。
ならば何があったか。
私の後頭部を直撃したそれは、そのまま跳ねて私と霊夢の間に落下した。気力を使い果たし、倦怠感に席巻された我が目に映るのはただの灰色の紙っぺらである。
暫く霊夢の平坦な胸の上でぐったりしていると、そのうち霊夢がもぞりと動いた。そうして顔をしかめ、私を乱暴にどけてから「何よ、これ」と不機嫌そうに口元を歪めた。
飛来したのが新聞である事に気付くのにはそう時間はかからなかったが、どけられて落ちた床板の上からでは記事の内容はわからない。意識レベルは恐るべき低空飛行を続けているし、それにお酒が輪にかけて利いている。歪んだ視界の中に見えるのは、新聞を開きかけている霊夢の姿のみである。
「なんだそれは」
「天狗の新聞。たまにこうやって飛んでくるのよ」
「あんたが居てよかったわ。また障子が破られるところだった」と霊夢は言う。
「役に立てたんなら、まぁ、いいけど」
後頭部の激痛が障子一枚と引き換えだと言うのは、ちょっと気に入らない。私はその場で一人膨れた。
霊夢はそんな私のことなど意に介さず、新聞を大きく開いた。そうして、私はそこで初めてそれが文々。新聞であると気付いた。脳裏にあの阿呆天狗の嫌らしい笑みが浮かび、ますます膨れたくなった。
そういえば、と少し前の事を思い出す。私がこの巫女に敗北し、紫様の折檻を受けていた時、文は私の写真を撮ったのだ。そして紫様に対するインタビューも。当時は我が泣き顔が紙面を飾るんじゃないかと戦々恐々としたものだが、それも数ヶ月前の話だ。今更心配には及ぶまい。
すると、霊夢がお腹を抱えて転げまわりだした。手には新聞を持ったままである。そんなに面白い記事でも載っているのだろうか。
けたたましい嬌声ににわかに興味の湧いた私は、重い体を引きずって、霊夢の抱える新聞に手を伸ばした。霊夢はあひあひと息を荒らげながらも、私にそれを手渡してくれた。受け取る瞬間、笑顔が意味深長なモノに変わるのが見えた。
「…………む」
紙面を見て私が発せたのは、意図せずに出たそんな唸りだけであった。
私が傘で殴打されて泣いている写真が大きく掲載され、それを囲む様に紫様に対する支離滅裂な批判が羅列されている。私について然程の言及がない事が、却って泣き顔掲載の無為さを語っているかのようで、目の前がくらくらする。
何故に数ヶ月の時を経て、今更こんなものを記事にしたのか。一体あいつは何を考えているのか。どれだけ他にネタがなかったのだ。どれだけこの写真を使いたかったのか。
私は息を荒くして、切断しそうになる脳の血管を適度に休ませながら、徐々にその記事のもたらした衝撃を中和しようと努力した。
……まぁ、なんだ。意図不明な時期はずれの掲載だと言うことに目を瞑り、私の泣き顔がばらまかれたという事実さえ百万歩を譲れば、それなりに滑稽でオモシロイ記事であると言える。それほど目くじらを立てるような事でもなかろう。私は幻想郷有数の寛大な精神も持ち主であり、あらゆる事象を穏当に済ませるだけの度量を持った大人物なのである。
ところが、そんな私の精神の働きを邪魔する者が一人。
目の前の霊夢はなんだかぬらりひょんのような顔をしていた。妖怪めいた笑みをにたにたと浮かべて、俯いた私のつむじのあたりを見つめていた。
その視線になんとか耐えていると、その内に「あんた、結構可愛らしい顔で泣くのね」などと言い出す。私は思わず威圧的な視線をぶつけ、霊夢を睨め付けた。
「うるさい、そんな記事信じるな」
「写真に嘘も本当もないでしょ」
「やかましい」
霊夢は尚も笑う。私は若干心を折りかけながらも、しかし屈さず、まっすぐ霊夢を見つめた。そうして、その目の向こう側に、まるで幼気な子供を見つめる親心のような物が見えたような気がして、いよいよもって心がへし折れた。
無論、それが酔っ払った事によって生じた私の妄想であるという可能性は多分に存在する。私の精神衛生上の問題を鑑みても、こちらを信じる方がよっぽど良い。だが無邪気に良い方へ思考を流せるほど、私は阿呆ではなかった。
「な、なんだよっ。そんな目で私を見るな」
「どんな目?」
「その、私を、幼子みたいに」
霊夢の視線が私を言い淀ませ、言い淀む事によって霊夢の視線がますますアタタカな方へと向かう。それを繰り返し、私はとうとうあうあうと口を動かすばかりになって、何も言えなくなってしまった。
恐らくはその瞬間に、我が栄光の式神道を封鎖されてしまったのだろう。威厳が音を立てて崩れ去るのを目前にしても、私はどうすることも出来ずにただただ笑う霊夢に縋り付いて子犬の如く鳴くばかりであった。
「忘れろっ、忘れろっ」
そんな私の訴えを受けても、霊夢は抱腹絶倒するばかりであった。畳を蹴る振動に体を震わせても、その笑いが途絶える事はない。私はいよいよ前後不覚に陥って、霊夢に馬乗りになってぽかぽかと殴る事を開始した。
私が晒し者にされるのは良い。甘んじて受け入れよう。
しかし、霊夢に馬鹿にされるのだけは、それだけはどうしても嫌だったのだ。
当時からあの記事そのものを憎んでなどいなかったのだ。ただ霊夢に軽く見られるのがたまらなく嫌で、どうあっても霊夢にはそれなりの威厳を持っていると見て欲しくて、必死になって思い違いまでして十年ちかくも「文々。新聞 第百十九季 葉月の三」を憎む振りをしてきたのである。
阿呆か。
私はひとしきり己の愚行を笑った後、きょとんとする霊夢を見返した。
「いや、なるほど。わかったよ、霊夢」
「え? ああ、そう?」
霊夢は曖昧に頷いて、「なにが?」と言う。
「私はずっと見栄を張っていたんだ。元の原因をすっかり忘れて、それでなんとかそれらしい威厳を見繕おうとしてた」
「威厳なんてずっとなかったじゃない」
「だから笑ったんだ」
初めて個人的邂逅を果たし、盃を酌み交わし、そうして新聞を読んだその瞬間に、既に私は威厳の全てを失っていたのである。霊夢は当時からそれを看破して、今に至るまでずっと私を見下し続けていたのだ。
ありもしない威厳を守り続けて、その結果として今回の様な面倒をおこしてしまったのだから始末に置けない。かくなる上は笑うより他に手はないのであった。己の取るに足らない自尊心が暴走した結果であると思うと、もはや涙しか出てこない。
全てを思い出した。私は霊夢に読まれたくないばっかりに、里中の新聞を破いて回ったのだ。それが徒労である事など、考慮すらしないままに。
ひとしきり笑った後、私は目尻の涙を拭い、それから霊夢に抱きついた。傍から見れば、それはきっと幼子の如きナサケナサを醸し出している事であろう。しかし、今更それを恐れるなど、それこそ阿呆の所業である。
霊夢は暫時「なによ」「重いわ」などと口を尖らせていたが、こちらが「もうちょっと」「あと少し」を押し通している内に、頬をゆるめて頭を撫でてくれた。
「で、どうするの?」
「配りに行くよ、明日にでも」
「随分早いのね」
「引き伸ばしたらまた気が変わりかねない」
先ほどの取っ組み合いで散らばった新聞を集めつつ、私は再び気持ちの整理を付けた。
長らく霊夢に蔑視されたくないばっかりに、私はこれら新聞をずっと憎んできた。しかし、自らの威厳が地に落ちたと自覚した今となっては、そんな事に気を揉む必要はない。霊夢に馬鹿にされるのは未だに堪えるが、他の連中にどう思われた所で、もはや恥辱とは思わぬ。
だったら、今の気持ちが正常に働いているうちに目の前の問題を片付けてしまった方が良い。目の前に山積みになった問題は、今であれば新聞の山を崩せば簡単に解決しきる事ができる。トラウマの源泉が明らかになった以上、何を恐れる事があろうか。
「それに、縁側を空けないと」
霊夢は「それもそうね」と言い、そうして再び私の髪を撫でた。
翌日、我々は大荷物を背負って人間の里に降りた。荷物の中身は、当然大量の「文々。新聞 第百十九季 葉月の三」である。私の後ろについてくる霊夢も、少しは持つのを手伝ってくれた。
古書祭にて暴れまわった時の記憶は極めて朧気であるから、どこの家の新聞を破ったのかは定かではない。よって、一軒一軒回って配布していくより他に手はなかった。
これで良い。滞り無くこの作業が終われば、事はすべて済む。今私が行っているのは自らの恥辱の拡散である。しかし考えてもみよ、大して面識もない者を相手に恥をかいたとて、私の精神にはそれほど影響は及ばない。
要するに、霊夢や紫様あたりの近しい者さえあの記事を持っていなければ、私の平穏は保たれるのである。他がどう思おうが知ったことではないのだ。
そう自覚した今、私を妨げるモノはなにもない。せいぜい尻尾を引っ張って楽をせんとする霊夢くらいのものである。
その行程には然程支障はなかった。多くは「なぜ九年前の新聞を今更配っているのか」とでも言いたげな表情を浮かべ、それにとどまってただ受け取るばかりである。時折バケツを携えて襲いかからんとする者もいたが、真新しい物を見せれば大人しくなった。
最も心配していた小鈴も、私を見て目の光を失ったものの、事情を話せばすぐにいつも通りの笑顔を取り戻してくれた。そして「少し相談があるんですけど」と言った。
「この前の古書祭は誰かさんのせいで滅茶苦茶になっちゃったので、また近いうちにやろうと思うのです」
「ふむ、そうか」
「でも、またやるにはちょっと経済的に厳しいのです。だから……」
「みなまで言うな。援助しろとでも言うんでしょ、誰かさんに」
「駄目ですか?」
「いいや、構わんとも。むしろ歓迎だ」
私がそう答えると、小鈴はますます明るく笑い、「おねがいしますねっ」と頭を下げた。
斯くして、我が恥辱に対する反抗と認知は幕を下ろした。予想していた通り、霊夢の他には私の泣き顔を笑う者などいなかった。恐らくは興味もないのだろう。
次の古書祭では、渋る事もなく里に出て、新聞の影に怯える事もなく、健全な心持ちで霊夢と共にそこら中を駆けずり回れる事であろう。何なら自室を埋め尽くす算学の書物の一部を処理する方面で参加してみるのも良いかもしれない。その売上でラムネの一本でも飲ましてやれば、霊夢も満足するはずだ。
長らく抱えていた実態のない恥辱を認め、また振り払った今の私の眼前に広がっているのは、薄汚れながらもほどほどに輝いている黄金色の未来である。その未来も幻影かもしれないと考えると気が遠くなるが、そんな憂慮も振り払ってしまうに限る。
今の私は、少なくとも昨日よりは幸せである。
「そういや霊夢。お前、なんであんなに執拗に私を誘ったんだ?」
「さぁ? よくわかんない。お酒飲んだからかもね」
「因果関係がわからない。お前はお酒を飲むと人格交代でもするのか」
「酔わないと言えない事もあるのよ、いろいろと」
春雪異変直後、私は今代の博麗の巫女と邂逅し、謂われなく退治され、挙句にそれを紫様に責め立てられ折檻され、あまつさえその時の写真は天狗によって幻想郷中にばら撒かれた。
そんな風に幕を開けた関係がまともであるわけがない。私は霊夢の手によって散々辱められ続け、それが腐りに腐って十年もの時を隔てて今。もはや救いがたい様相を呈している。
いつからか私のやることなすこと碌な結果を出さずに失敗ばかり。その上それを霊夢に嘲られ、すぐにまた失敗をやらかす。恐るべき泥沼の中で喘ぎ、頬を流れる滂沱の涙に翻弄されながらも、私は精一杯生きていた。
いつの間にやら霊夢と私を繋ぐ縁はすっかり断ち切り難い腐れ縁となり、私を雁字搦めに拘束するようになった。
そんな情けない己の姿を俯瞰するにつけ、私は思う。
もしもあの時、冥界にて霊夢と対峙していなかったら、きっともっとまともな十年をおくれていたに違いない。毎日の様に神社の縁側で霊夢にのしかかられる事もなく、天狗にマークされて特ダネのために付け回されたり、紫様からヤサシイ視線を向けられ続ける事もなく、その才覚を存分に発揮して式神らしく働いていたに決まっている。
私は今の己の環境を憂い、そして同時に全ての引き金になった霊夢との出会いを呪い、そして恥辱を拡散した「文々。新聞 第百十九季 葉月の三号」を憎しみ事あるごとに口汚く罵った。そして破り捨てた。
しかしそんな私を一体誰が責められよう。
私は神社の片隅で毛玉に扮して、霊夢と対峙していた。
相も変わらず殺風景な部屋の中でこいつの貧相な顔を見ていると、どうにも気が滅入ってくる。じめじめと這い寄ってくる湿度も合わせて、今の私は不機嫌である。
対して、霊夢はにこにこと楽しげである。それもそのはず、私がお土産に持ってきた一升瓶を一人で空にしたからだ。昼間からすっかり出来上がって紅い顔をし、しきりに天真爛漫でありながら妖怪めいた笑みを浮かべては私を一瞥する。この私が丸くなっているのは、その笑顔から逃れるための健気な抵抗である。
「良いじゃない、行きましょうよ」
「やだよう。だいたいお前、本なんて読まないだろう」
「失礼な」
先程から霊夢が私を籠絡せんとしているのは、里で行われている古書祭に私を連れて行こうとしているためである。一体どういうつもりなのかはわからないが、霊夢はなにやらしきりにそこへ行きたい行きたいと喚いている。
古書祭というのは、読んで字のごとく古書の祭典だ。人間の里にいくつかある古書店や貸本屋が提携して、一般市民まで巻き込んで大々的に古書の露天をそこいら中に打ち立てるのだ。里ではまだそこまで印刷技術は発達しきっていないから、一部の量産された書物を除けば価値の高い物も多い。そうして掘り出し物を狙う好事家と、ゴミを処分しようとする市民との間に多大なる軋轢を生じさせながら、古書祭は毎年開催されている。
しかし私はそれに行ったことがなかった。
「なんでよ、あんた本好きでしょ」
「そりゃあ本は好きだけど」
というのも、古書という本のあり方がどうにも苦手だからだ。好き好んで他人の手垢のついた書物を買い漁るなど、常軌を逸した所業である。読まなくなった本を他人に売りつけるというのも気に食わない。そんな性癖が高じて、私はいつの間にか古書を視界にいれるとくらくらするというよくわからない体質を体得してしまった。
古書が古新聞を連想させると言うのも、この性癖の一翼を担っているのだろう。十年前の文々。新聞は今も私を呪縛し続けているのだ。
「別にたかろうってんじゃないんだから、ついてくるだけでも良いからさ」
「他の連中と行けば良いでしょう、魔理沙とかその辺りと」
「今から連絡つけるの面倒くさいもの。あんただったら目の前にいるし」
霊夢は宥め賺しながら、なんとかこの私を動かさんと言葉を重ねてくる。私はそれをなんとか躱しながらも、如何にして断るべきかを考案しあぐねていた。
互いに互いを牽制しあいながら、そんな押し問答は開始から既に四半刻が経過しようとしていた。
しかし、これは私のほうが大分分が悪い。十年間、この手の言い合いで私が勝利を収めた事など一度たりともないのだ。せいぜい事が済むまでのらりくらりと逃げ続けるのが精一杯で、霊夢を説得出来た事なんて一度たりともない。
何故か。そんなもん決まっている。この不良巫女が私の扱い方をすっかり掌握しているからだ。まったくもってたちの悪いことこの上ない。
腐れ縁腐れ縁と嘆いている内にこんな事態になってしまったのだから、私自身にだって問題はあるのだが、代償があまりに大きくはないだろうか。
私がいつもの様に己の身の不幸を呪っていると、いよいよもって霊夢が動き出した。それまで卓の向こうで後生大事に一升瓶を抱えていたのを投げ出して、こちらに向かってそろりそろりと這い寄ってきた。その兆候に気付いた私はなんとか耐えきろうと構え、霊夢を睨みつけた。対人に疎い私に出来るほんの些細な抵抗である。
しかし、お酒の入った霊夢は私の想定を遥かに超えた行動に出た。縮こまる私の上にのしかかり、べろべろと頬を舐めてきたのだ。このような恐るべき接近戦に出てくるとは想定していなかった私は直撃を喰らい、すっかり頭に血が登ってしまった。
「あ、な……」
「ふふん」
霊夢は舌なめずりをして唸った。
私は一人狼狽し、ふわふわとした感覚に苛まれて呆然としていた。ぼやけて蒸気に包まれたようになった視界の中で、目の前の紅白だけがやけにはっきりと見える。霊夢は深遠な笑みを浮かべていた。
「さぁ藍、行きましょ」
「あ、う」
そうして、情けなくも頷いてしまったのだ。
後に知った事であるが、これは紫様直伝の技であるらしい。曰く、八雲藍という式神狐は不意を突かれると簡単に言うことを聞くようになる、とのこと。確かに身に覚えはあるが、それを他者に漏らすとは我が主人ながら何事か。
しかしきっと紫様も、霊夢がこれを実行するなどとは考えていなかったに違いない。普段いつでもむすっとしている霊夢の事、よもやそんな手を使うとは想像出来まい。
げに恐ろしきは不可能を可能にしてしまうお酒の力である。
いよいよ夏も終わり秋を迎えんとする折、照る日差しは未だに熱くてたまらない。私の尻尾はあっという間に熱を集め、湯気の立ち上らん程に暖まってしまった。
憂う私の手をとって、顔を赤くした霊夢は満面の笑みを浮かべながら大路の真ん中を行く。その威風堂々たる姿は、まさしく傍若無人の権化と言えよう。
道の脇にはござが敷かれ、その上に幾つもの古書が積み重ねてある。中には少しでも風が吹いたら崩壊してしまいそうな牙城に身をかがめている者もあり、それも多分に私の精神を動揺させた。そんな空間の中を、霊夢はあちらこちらを指差しながら進む。そして時折身をかがめては価値のなさそうな古ぼけた本を手にとって、にこにこと笑いながら理不尽な罵詈雑言を並べ立てるのだった。まるで死を告げる妖精のようである。
私はそれに散々振り回されながらも考えた。一体こいつは如何なる理由で私をこんな場所に連れてきたのか。お酒の勢いもある。もしかしたらなんの理由もなく巻き込もうとしたのかも知らないが、友人としてはそんなつまらないことに振り回されるというのはあまりにも悲しい。
なにか一つ、理由の一つでもあれば良いのだが。霊夢はただただ重なった私の手を振り回すばかりである。
私はため息を吐いた。
そもそも、こうしてお酒を飲んでけらけらと笑う霊夢が苦手だ。普段のこいつはもっとむすっとしていて、言動にまったく知性の欠片もないくせにどこか知性的に見える。それが酔っ払うと豹変、いつも以上に知性を失した様子で妖怪めいた不気味な笑みを浮かべるようになる。私は前者の方がずっと好きだった。
来ても吐くような思いにしかならない古書祭、どうせなら酔っていない霊夢と一緒に来たかった。元より霊夢からここに来たいと聞いていれば、お土産に一升瓶を持っていくような愚行など冒しはしなかっただろう。
早急に酒気が抜けてくれる事を祈りつつ、霊夢のなすがままに流れることにした。
そんな決意を固めて十分ほど経ったころ、霊夢は私の顔を覗き込んでこんなことを言った。
「藍」
「ん?」
「お腹空いたわ」
「はいはい」
私の財布の中身だって霊夢のなすがままである。
私は視界を巡らせ、適当な喫茶店を見付けてそこを指差した。霊夢はふんすと鼻を鳴らしてから頷いた。どうやら少しは酔いも冷めたようである。
私が見繕ったのは里の中心にほど近い西洋風の喫茶店だった。蓄音機が常にお洒落な音楽を奏で、少し鼻を働かせれば鼻腔の奥のほうが紅茶と珈琲の匂いでいっぱいになるような、そんな雰囲気の店である。一瞬、そんな場所にこんなもふもふした毛玉が入っていいものか躊躇したが、入店してしまった以上はそそくさと立ち去るわけにもゆかぬ。
腰を下ろしてから、一度目を閉じて深呼吸をした。肺を満たす漫然とした空気に、ほんのちょっぴり緊張が和らぐ。
はたと気付くと、霊夢はその手に新聞を持っていた。それもかなり古めの、大体発行されてから十年くらいは経過していそうな古新聞である。そんなもの、一体どこで手に入れたのだろうか。
「霊夢、なにそれ」
「そこの棚にあったのよ」
霊夢は顎で棚とやらを指した。そこには張り紙がしてあって、古書祭に乗じて倉庫にあった新聞を引っ張り出してきたとの旨が記してあった。隣には持ち帰り自由とも書いてある。大方ゴミとして処分しあぐねたのを体よく処理するための方便であろうと私は推察した。
幻想郷で新聞と言えば、ほんの一部、人間の間で流通している物を除けば、殆どが天狗の作ったそれである。天狗個人個人の思惑が入り乱れた新聞は、それぞれの内容はまるで整合性がない。情報としても役に立たないから、たいていの人々は情報源としてではなく、単なる読み物、お伽噺か何かの類として読んでいる節があった。
それでも新聞は新聞、噂の火元となる事も多々ある。あらぬ風説の元を辿れば天狗のせいだった、という話など、幻想郷に住まう者ならば耳に胼胝ができるくらいに聞いたことがある言い訳だ。
無論私もあんな鳥頭たちの紡いだ言葉を真に受ける程愚かではない。しかし、かつてその新聞に盛大に傷めつけられた経験から、私はそれぞれの記事の内容に目を通すくらいの警戒は続けていた。
霊夢の読んでいる新聞は、まさしく私の自信を粉微塵に打ち砕いたものである。「文々。新聞」という。
「巨大西瓜だって。こんな事あったっけね」
「あったよ。ほら、十二三年前にさ」
私は記憶の糸を手繰り寄せ、当時の事を思い出した。
あれはまだ私と霊夢が腐り果てた縁を持つよりずっと前。幻想郷史上類を見ない程大きな西瓜が収穫された事があった。珍しい物なのにも関わらず、あまりに大きさから人々はそれをお化け西瓜だと言って気味悪がり、食べようとしなかった。そこで紫様は私を連れて倉庫に侵入、その西瓜の中身だけを繰り抜いて盗み出し、友人知人に配って回った。友人知人でない相手にも押し付けた。
その後、人々は空になった西瓜を見てやはりお化けだったと騒いでまわり、とうとう畏怖が高じてご神体として祀ろうと神社に押し掛けた。そこで人々が見たのは、口に西瓜を押し込まれて目を回している博麗の巫女の姿だった……という話である。
あまりの西瓜の大きさに処分しきれなかった紫様が困りに困って霊夢に渡したところ、貪欲なる霊夢はそれを一晩で食べようとして失敗した。そういう裏話を知っている私には笑い話としか思えないが、当時の人間はお化け西瓜の祟りだと言って心底怖がっていたと記憶している。
そう説明しても、霊夢はけろっとして「そんな事あったかしら」と言うばかりである。
「なによ、都合の悪い事は全部忘れるのね」
「覚えててもしょうがないもん。十年前の西瓜の事なんて覚えてるの、あんたみたいな阿呆だけだわ」
「阿呆とはなんだ」
霊夢はけらけらと笑った。紙面をネタに馬鹿にしてやるつもりが、これでは私が一方的に損をした形になる。こいつには敵いそうにない。
私にもそれくらいの器量と忘れっぽさと、あとちょっとの運が欲しいものである。霊夢に巨大西瓜の事を話している途中でさえも、私は件の記事が脳裏にちらついて、内心慄いていた。
忘れもしない、忘れたい、「文々。新聞 第百十九季 葉月の三号」。その紙面を飾った紫様の傘と、痛みに滂沱の涙を流す私の姿。「妖怪が行う動物虐待の現状」という見出しが大分屈折した形でその写真を修飾する。あの恐怖新聞が。
「どうしたの、顔がひきつってるわよ」
「いや、なんでもないよ。なんでもない」
私はナンデモナイナンデモナイと念仏の様に呟きながら、一つ新たな妄想に囚われた。くだらなくも非常に強い、恐るべき妄想に、だ。
あの棚で無料配布されているゴミの山、あの中に、もしかして、その記事があるのではないか。それどころかこの古書祭、ひいてはこの里の中に、数えきれぬ程のあの記事がまだ残っているのではないか。
一度そう考えてしまうと、もうままならない。私の手は震え、脳の芯は麻痺し、有ろうことか目の前で紅茶を啜る霊夢が可愛く見えてくる。意味不明な現象ばかりを引き起こす頭の働きを抑制せんと珈琲を啜ると、反動で涙が湧いて出た。
こうしてはおれぬ。一刻も早く真偽の程を確かめ、この不安を取り除かなくては。おちおちケーキも食べられそうにない。
ふらりと席を立ち、棚の前に踊り出た。そして祈るような思いで、積み重ねられた天狗新聞の一枚一枚をめくりだした。店内の視線が私に集まる。しかしそんなのは些細な事だ。かを確かめるは一時の恥、確かめざるは一生の恥。これ以上の恥を未来へ持ち込んではならぬのだ。
幸か不幸か、それはまもなく発見された。古ぼけた一昔前の新聞、忘れもしない文字列の数々。そしてなにより、我が泣き顔。紫様を謂われなく罵り続ける極めて主観的な文章の断片に、こっそり隠れるように私を狐として憐れむ文章が紛れ込んでいる。
その書面に搭載されたありとあらゆる要素が私の活動を停止させる。ぐるりと視界が反転したかと思うと、私の意識は肉体を抜け出して俯瞰を開始した。目の前の狐は赤ん坊の泣くような声を上げながら、その手に持った新聞をずたずたに切り裂いている。まさしく狂人の様相を呈しており、にわかに私を戦慄させた。それが自分自身であるという事実を忘れるほどであった。
そんな私をよそに、霊夢は一人でケーキを頬張っていた。
一枚の新聞がこの世界から完全に抹消されるのと、私がその喫茶店から存在を排除されるのは殆ど同時だった。霊夢はそれから五分程してから、ケーキを食べて満悦な様子で店から出てきた。
霊夢を待つ時間の間に冷静さを取り戻し、そして同時に何故にあんな狂人めいた行動に出たのかと激しく自問自答した。
これでは恥の上塗りである。というより、そもそもかく可能性の低かった恥を自ら被りに行ってしまった感すらある。地面に頭を打ち付け全てを忘れたい気分に陥ったが、またしても恥をかくことを恐れた私の理性はそれを否認した。
げに恐ろしきは、私からまともな精神状態を剥奪した件の記事である。私を責めるというのはちょっと筋違いであると自らを擁護させていただこう。
喫茶店から出てきた霊夢は、私を見るなりにやにやといやらしい笑みを浮かべた。こいつがこういう笑みを浮かべるのは、酔いが冷めた時と私が何かしらの失態を冒した時だ。今の状況の場合、恐らくは両方であろう。
「ちょっと、どうしたのよ。大脳新皮質に蛆虫でも沸いたの?」
「お前は酷い奴だ、たまには友人を慮るくらいの事はしてよ」
「なんであんたみたいなのを慮らなきゃならないの」
霊夢はどこまでも鬼であった。
私は一人寂しく涙を落とすばかりだ。しばらくしくしくと泣き濡れていると、霊夢は私の頭をぽんと叩いた。そうして帽子を退けてから、犬でもするかのように撫でた。本当に、恐るべき鬼である。
一念発起して立ち上がると、霊夢はいつもの仏頂面を全開にして私の手を掴んだ。
「さぁ行きましょ」
「ん」
そうして、我々は再び古書祭の人混みの中に紛れていった。
しかし、これで私を苛む妄想がすっかり消えたわけではなかった。むしろそこら中に積み重なる古書、そこに紛れ込んだ古新聞がどうしても意識の端に引っかかる様になってしまったのだ。
目の前に幻出する件の新聞を振り払うべく、私は霊夢の腕をしっかと掴んでぷるぷると震えながら歩く羽目になった。霊夢は霊夢でそんな私を面白がって、うりうりと私の頬を突いたりした。普段なら反撃に出る所であるが、今回ばかりはそれに救われているのだから文句の言いようもない。
実際、新聞の事を頭から締め出しながら進む古書祭はそれなりに楽しかった。古臭いにおいに少々辟易もしたし、くらくらと目の前が暗くなりかけもしたが、霊夢の腕を頼りに現世に意識をとどめる事で古書を楽しむだけの術を体得したのだ。
霊夢と一緒ならば、こうして苦手な事にも手を出せると思うとなかなかに複雑な物がある。これは今回の古書祭に限らず、私と霊夢の間に敷かれた奇妙な連帯感の根幹をなしている事象であり、霊夢との縁を断ち切り難い理由もここにあった。
何故に霊夢といれば大丈夫なのか、その理由は深い深い闇の中である。
我々は里を席巻する古書の山を掻き分けて進んでいった。霊夢は相変わらず価値の有無に関わらず目に入った本をこき下ろし、私がそれを諌めてその場を離れるという、出店者から見れば著しく煩わしい存在となって大路を行く。
即席書店の隙間には時折飲み物や食べ物を売っている露天も出ている。それらの周りには私と同じく古書恐怖症らしい人々が座り込んでラムネを飲み焼きそばだのを食べていた。霊夢は露天を見るたびに私に小銭を要求し、いつの間にやら右手にはりんごあめ、左手には焼きそばをそれぞれ装備して、器用に貪り食っていた。そうして貪り食いながら、古書の数々に罵言と一緒に唾と食べかすを吐いた。その罵言も、酔いが覚めたとあって更に舌鋒の鋭さを増し、既に幾つかの書店を潰している。
私はラムネで体内に篭った熱を浄化しながら、霊夢を諌め続けていた。
あらゆる古書店を敵に回す霊夢の快進撃に続いていると、書物の山の中に知り合いを発見した。髪を飾る金の鈴、市松模様の着物がひらりと舞っている。小さな女の子である。
日除けの下の安楽椅子に腰を下ろした少女は鈴奈庵の看板娘、本居小鈴だった。相変わらず、大きな本を膝の上にのっけている。
「あら、藍さんじゃないですか」
小鈴はぺこりと頭を下げて、こちらに挨拶した。私もそれに答え、手を振った。
「やぁ、やっぱりお前も出店していたのか」
小鈴の周囲に形成された山は、他の露店のものよりも大分大きい。私は霊夢の守護を貫通してくる脅威に若干慄きながらも、その品揃えの手広さに感心した。
多くは長い時を経てぼろぼろになり、表紙も外れてしまったような本である。何冊かは大結界が成立するよりも前に書かれた物もありそうだ。恐らくは貸本として役割を果たせなくなった書物の最後の仕事であろうと推察した。
「これまで良く頑張ってくれましたからね。ちょっとさみしいですけど、うちの保管量にも限りがありますから」
「そうかいそうかい」
私が感心していると、それまで私の影に隠れていた霊夢が顔を出した。「なぁんだ、小鈴ちゃんか」
「霊夢さんも居たんですね。どうです、見て行きません?」
私と霊夢は顔を見合わせた。暑い中大分長い距離を歩き、霊夢の表情には若干の疲れが見える。ここは日除けの下に入れてもらって、談笑でもしながら休憩するのが良さそうだ。
「ん、そうさせてもらおうかな」
そう言うと小鈴はにっこり笑って、「じゃあお茶を持ってきますね」と奥に引っ込んでいった。
酔っ払った霊夢の笑顔のにたにたしたのとは違う、爽やかで可愛らしい笑顔だった。見比べようと霊夢の顔を覗きこんでみれば、酔いがすっかりさめた様子で、普段のむすっとした仏頂面をしている。
私は霊夢の表情に可愛げを見出すことを諦めて、鈴奈庵出張店に進入した。日除けの下には数個本棚が並び、古い書物の数々が収められている。妖気の類を感じるものがないのを見るに、どうやら妖魔本は事前に除けてあるらしかった。
小鈴の性格を鑑みても、妖魔本を手放すたまだとは思えない。ちゃっかりしているのもなかなかに彼女らしいな、と私は微笑んだ。
「それにしても凄い量ね」
霊夢が片手を私の手に絡ませたまま、空いた方の手で本棚を撫でながら言う。それには同感する。ざっと見た感じ、ここにある物だけでも四千近くの古書が陳列されている。
げに恐ろしきはこれだけの本を店から運び出した小鈴の豪胆である。こいつの紙に対する愛情に並ぶだけの愛は他には存在しまい。
「あの子は本が好きだからね、多分本のためならなんでも出来るんだろう」
「よくもまぁ、喋りも動きもしてくれない物のためにそんなひたむきになれるもんだわ」
「どういう意味だ」
霊夢は鼻で笑った。「あんたは喋るわ動くわで便利よ」
これだから可愛げがないと言うのだ。私が道具であるのは事実であるものの、友人を道具扱いするその性格の悪さには辟易する。
私は霊夢の額を小突いた。「こいつめ」
その時、小鈴がお盆の上に麦茶を三杯乗っけて戻ってきた。そうして私達を見て、またしても微笑んだ。
「お二人は仲が良いんですねぇ」
見当違いな事を言う。
「誰が」
「誰が」
私達は声を揃えて、その小鈴の勘違いを正そうとした。しかしそれでも小鈴はあらあらと笑うばかりである。どうやら妙な思い込みが生じたらしい。
なんとしても否定しきらねばならないと義憤に駆られたが、しかし小鈴はこう見えてなかなか頑固なところがある。怒ってみせたところで、言葉を重ねれば重ねるほど却ってこちらが不利になる幻影しか見えず、それが私の闘志を萎ませた。
小鈴は本棚の影から折りたたみ椅子を引っ張り出してきて、それを私達に薦めた。そうして、そのまま折りたたみテーブルも広げた。
日差しが避けられるだけで暑さは大分和らぐ。その上で椅子とお茶まで提供されれば文句はない。
「これらの本は、お前が一人で運び出したのか?」
「そんなわけないじゃないですか、手伝ってもらったんですよ」
「誰に」
「長い焦げ茶の髪の毛をした、かっこいい女の人です」
脳裏に狸の薄汚い笑みがひらめき、少々辟易した。霊夢も同じであるらしく、半目で小鈴を見ている。一方小鈴本人はその格好良い女の人の面影に酔いしれているらしく、うっとりとしていた。
きっと本当に価値のある本はちょろまかされている事であろう。ご愁傷さまである。
「あの人はとてもやさしい方です。ええ、とても」
「そうね、ヤサシイでしょうね」
「今度あったらヨロシク伝えておいてあげよう」
小鈴は我々二人の様子に少々不信感を抱いたように口を曲げたが、それにも奴に対する尊敬やら恋慕やらの情が勝ったらしく、「まぁ良いです」と言った。
「それで、お二人はどうして一緒に? 逢瀬ですか?」
「薄気味悪い事を言うな、なんでこんな貧乏巫女と」
「変な事言わないでよ、誰がこんな貧相狐と」
「そんなに怒らないで下さい、冗談ですよ冗談」
意趣晴らしのつもりか。まったく小鈴も趣味が悪い。
「霊夢に無理やり連れてこられたの。私は出来れば来たくなかった」
「こいつ、いい年して古書が怖いなんて言うのよ。それで私にくっついてないと、動けなくなっちゃうんだもの。面白くてたまらないわ」
「お前、まさか私をいぢめるために行こうなんて言い出したのか」
「ふふん」
「ええい、尻を出せっ。折檻してやる」
「いい度胸ね、逆にあんたの尻を腫れ上がらせてあげるわ」
「待って待って、こんな場所で喧嘩しないでくださいよ。本が汚れちゃう」
「痴話喧嘩は他所でして」と小鈴は言う。火に油を注ぐ魂胆か、この小娘は。
私はますますいきり立ちそうになったが、しかしどういうわけだか霊夢はおとなしくなっている。訝しんでいると、霊夢の目が「こいつは怒ると怖いのよ」と伝えてきた。
霊夢が萎縮するというのは、これは重大な問題である。きっと恐ろしいに違いない。賢明なる私は努めて怒りを鎮めようと自制を働かせた。
「まったく、仲がよろしいんですから」
極めて不服な結論を出して、小鈴は一人で勝手に納得した。
話題はそのまま古書祭に関する方面へと向かっていく。どうやら小鈴はこの祭りの運営者の一人らしく、かなり深くまで事情を知っていた。
この古書祭が最初に開かれたのは数年前、小鈴が鈴奈庵の看板娘になった時の事。人間の里には書物を専門に取り扱う店が少なく、徐々に文字に親しむ人間が少なくなりつつあった。音に聞けば本が付喪神になって百鬼夜行を始める始末、開けば人に関する恨み辛みが並べ立てられた末法の書物。それに危機感を抱いた少女小鈴は一念発起し、書物の地位向上を目標に掲げてこの古書祭を提案した。里で伝統を引き継ぎ続ける古書店、貸本屋はそれに呼応して、そうして今に至るのだと言う。
この目の前の幼い少女にそこまでの行動力が秘められているとは大分驚いた話である。
「今ではこうして里のみなさんも家で眠っていた本を出してくれていますからね、嬉しい話です」
「なるほどねぇ」
「これまでは本ってのは回し読みの時代でした。一冊の本を人に貸して、それがずぅっと続いていく。それはそれで楽しい事ではありますけど、知り合いの間だけで動かしている内にどんどん本の価値を薄くさせてしまいます」
小鈴はため息をついた。
「そこでこうして古書祭を考えたんです。お金を払って本を手に入れれば、少しは大事にしようって思えるでしょ?」
私はその深遠な考えに感心した。小鈴の書物に対する愛情は疑いもなく幻想郷一である。
「でも無料で貰えた方が嬉しいわ」
そして同時に、そんな事を平気で言う霊夢に失望もした。「まぁ、そうですけど」と肯定する小鈴も流石に苦笑いである。
「幻想郷は資本主義よ。無料より安い物はないの」
霊夢は得意げな顔をした。私は思わずその頬を突っついた。「黙っていろ」というメッセージを込めて。
「そもそも霊夢、お前は本なんて滅多に読まないでしょ」
「たまには読むもん」
「たまに読む程度で、この目の前の少女の思惑を邪魔しようとするんじゃない」
「なによぅ」
一転、霊夢はぷりぷりして黙り込んでしまった。それで良いのだ、おとなしくしていろ。
小鈴は私達のやりとりをにこにこ笑って見ていたが、終わったのを見るやすぐに「でも」と霊夢を庇うような事を言った。
「霊夢さんの言う事も間違ってはないですよ。もともと無料で手に入る書物もありますし、それをお金を介して動かすのは自分でもちょっとおかしいかなとは思います」
「無料で手に入る書物?」
「新聞の号外とか」
新聞。
その単語が妙に引っかかった。嫌な予感がむらむらと立ち上る。私は多少ぎこちなくも平静を保とうと理性を働かせた。
「……。新聞も扱ってるの? 今、ここで?」
「古新聞の処理に。天狗の新聞なんてちょっとほっとくと山になっちゃいますから」
「念のため訊くけど、それらはどれくらいの頻度で処分してるの?」
「一年に何回か、ですね。古書祭の時に」
なるほど、それなら安心だ。十年近く前の新聞など残ってはおるまい。これでは心配した私が愚かだったと言わざるを得ない。私はすっかり平静になって、麦茶を啜った。
「あ、でも面白い記事はずっと取っといてありますよ」
噴き出した。目の前で不貞腐れていた霊夢の頭が私の麦茶で塗れる。
「なんですって」
「どうしたんです、そんな怖い顔をして」
私はむくむくと膨れる霊夢を片手間に拭いてやりながら、何度か咳払いをして平静を取り戻そうとした。
そうとも慌てる事はない、私の泣き顔などという下らない記事を面白がるほど、この本居小鈴という少女はいい性格はしていないはずだ。きっと一目見て天狗の悪意を看破し、その場で丸めて捨ててくれた事であろう。
いや待て暫し、確かにそう信じたいし、信じられるだけの確信を持ってはいるが、しかし万が一という事はある。念のため確かめて見てもよかろう。良心は痛むものの、やらねばならぬ業である。
「小鈴や、その新聞、いや面白い記事とやらを少し見せてはくれないかしら」
私の胸中など知らない小鈴は、その言葉にぱっと表情を明るくして頷いた。「そりゃあもう、もちろんですとも」そう言って、再び奥の方に引っ込んで行った。
背を見送った霊夢は私の袖で顔を拭いながら、訝しげな視線をむけてくる。
「あんた、また破るつもりじゃないでしょうね」
「失敬な。ちょっと検めるだけだよ」
「あの子の前であんな事したら、あんた尻尾が減るわよ」
私の脳裏に、小鈴に馬乗りにされて尻尾を引っこ抜かれる己の姿が掠めては消えてゆき、私は戦慄した。あの娘の書物への異常なる愛情を思うにつけ、その様はありありと想像出来る。
静かに深呼吸をすると、そんな幻想は静かに消滅していった。
「おまたせしましたー」
すぐに小鈴は戻ってきた。大量の古新聞を抱え込んで、ふらふらと揺れている。テーブルの上はあっという間に新聞でいっぱいになり、麦茶が見えなくなってしまった。
「これはまぁ、よくもこんなに集めたものだ」
「物心ついた時から集めてますからね」
何枚か捲って見てみれば、やはり天狗の新聞ばかりである。殊に文々。新聞の名前が目立つ。私にはよくわからないが、奴の織りなす下賤な記事には人心を掴む何がしかの成分が含まれているらしい。きっとアヤシイ薬でも塗りたくってあるに違いない。
「全部私の宝物です」
小鈴はどこまでも嬉しそうだった。
私は一枚一枚堪能しているかのような素振りを見せつつも、目を皿にして「百十九季 葉月の三」の文字を探した。捲る度に小鈴が嬉しそうにその新聞に関する蘊蓄を垂れたが、残念ながら全て意識の隙間を抜けて行く。
霊夢は霊夢で、私がいつ暴走しだすか気が気でないらしく、お札を構えて待機していた。
目の前に広がる暗黒を少しづつ切り開く度に、安堵すると同時に緊張が高まっていく。このまま事もなく新聞の山を消化しきれねば、自分がどうなるかわかったものではない。
しかし現実はあまりにも非常であった。それから五分もしない内に、例の呪われた文字列が姿を現したのだ。一瞬にして消滅していく理性の中で、「牧歌的な幻想郷を襲う、静かな恐怖」という一文だけが脳髄にこびりついた。
それからの事はあまり覚えていない。ただ、後に霊夢から聞いた話によると、やはり私はその新聞を破ってしまったらしい。そしてどういう事かと困惑し、そのまま泣き出してしまった小鈴を放っておいて、鈴奈庵出張所を飛び出したのだと言う。
数十分の後、私は大量の破れた古新聞の山に埋もれた自分を発見した。暫し呆然としてから、ふとその残骸を見てみれば、全て「文々。新聞 百十九季 葉月の三」の一部である事に気付く。
これは飽くまで推察だが、きっとその後の私は古書祭中の古新聞を検めて周り、件の新聞の全てを破り捨てたのだろう。そう考えてみれば、記憶の隅っこにへばりついている「新聞マニアの男性を相手に恐るべき恐喝を加えている八雲藍」の正体が掴める。
なんと恐ろしい事をしてしまったのだ、私は。気に入らぬ記事を破り歩くなど、まるで子供ではないか。
私はその場で頭を抱えてうずくまった。
どうしよう、どうしよう、破った新聞の量は決して少なくない。私の暴力的なシーンを見た人間もきっとたくさんいるだろう。不幸な思いをした人間もいっぱいいるはず。
紫様の顔に泥を、他人に迷惑を、私は、私は。
「こんなところで何やってんのよ。迷える子羊ごっこ?」
背後の声に振り向くと、目の前に霊夢がいた。普段通りの仏頂面の上に、如何にも呆れたような表情をかぶせている。
私はなんとか平静を保とうとしたが、それがどうにも耐え切れなかった。
「霊夢、霊夢」
「なによ」
「どうしよう」
「知らないわよ」
霊夢は私の頭に被さっている新聞の破片をはたき落としながら、淡白に言う。「紫に殴られてみれば」
「やだよ、そんな、私は」
その時、少し離れた場所から怒声のようなものが聞こえてきた。というより怒声そのものである。私は思わず身を竦ませて、目の前の霊夢を見た。予感の通り、霊夢はほんの少し慌てた様子である。
「霊夢」
「泣いてる場合じゃないわ。あんた、逃げないと今夜鍋にされるわよ」
やはりそうだ、あの声は私を追っているのだ。コレクションの新聞を破られた恨み、そして恐らくはそこに古書祭をめちゃくちゃにされた恨みも込められている。私を生き埋めにしていたのは、そうなっても仕方ないだけの量の新聞だ。
罪悪感に押し潰されて右往左往していると、霊夢が私の手を取って、そのままふわりと宙に浮いた。すっかり余裕を失していた私は姿勢を制御する事も忘れ、必死で霊夢にしがみついていた。
眼下にバケツを携えた人々が蠢いているのが見えて、その脅威のあまりに霊夢の巫女装束を目隠しにするより他に手の施しようがなかった。そうしなければ、恐らく戦慄く手に敗北して落下していた事であろう。
博麗神社に到達すると、すぐに霊夢は私を裏手の温泉に蹴落とした。外界の刺激を全て遮断していた私はそれですっかり不意を突かれ、暫くはそのまま溺れていた。気付いてみれば、私の腰までの深さしかなかった。
どういうことかと問うてみれば、霊夢はむすっとしたままで「ちょっと頭を冷やしてなさい」と言う。式神を断りもなく水にぶちこむとはとんでもない奴だ。
しかし、まぁ、あいつの言う事も一理ある。無意識の内に罪を冒したこの精神、一度洗い流さなくては。私はお湯に浸かってすっかり重くなった服を脱ぎ、ぬくもりに身を委ねる事とした。
ずぶずぶと頭まで浸りながら、一緒にずぶずぶと思考に埋没していく。私は一体何故にあんな事をしてしまったのか。
いや、原因は明白である。私自身にあの記事に関してトラウマが存在するからだ。私が知りたいのはそういう事ではなく、もっと根底にある問題、つまりどうしてそこまであの記事が苦手なのか、である。
トラウマの根源。それはどこにあるのか。
無論、嫌悪感を抱くだけの条件は揃っている。あの件で私の威厳が地に落ちたというのは、もはや否定のしようもない事実である。しかし考えてもみれば、その程度で何年もの間頭を抱え続けているというのは、私にしてはあまりにも狭量ではあるまいか。
私は幻想郷でも頂きを争う程の穏当さを誇る植物のような気性の持ち主であり、道行く誰もが我が愛に心打たれて滂沱の涙を流すと言う。それが新聞紙の一枚や二枚で我を忘れるほどになるとは、やはりおかしい。
なにか理由が、やんごとなき理由が存在するはずだ。
残念ながら、それが一体何なのかはまるで見当もつかないが。
危うく溺れかけて、私は慌てて顔を出した。
すると、目の前に霊夢がいた。
「そのまま溺れてればよかったのに」
「酷い事を言うな」
むすっとして腕を組み、その貧相な肉体を隠そうともせずに仁王立ちしている。今夏の怠惰をそのまま体現したような白い肌である。暫くそれに見とれて呆然としていると、霊夢はさっさと湯船の中に進入してきた。
「なにもお前まで付き合う事はないじゃない」
「別に付き合ってるわけじゃないわよ、気まぐれ」
頭の上に手拭いを置きながら、そんな事を言う。
「あんただけに一番風呂をくれてやるのも惜しいしね」
人を突き落としておいて何を言うのか。理不尽である。
いや、別に今更口を尖らせる必要もない。こいつが私に対して理不尽を強いるのは今に始まった事ではないのだ。我が十年間はこのほえほえ巫女の口から発せられる理不尽と共にあったと言って過言ではない。
私は霊夢を睨めつけながらも、渋々とその言い草を認める事にした。霊夢は私の胸中など察そうともせずに、なにやらふふんと唸っている。
「なんだよ霊夢、言いたい事でもあるのか」
「いや、まったく馬鹿な事をしたな、と思って」
「馬鹿な事とはなんだ。私は……」
「馬鹿な事をしなけりゃ里人に命を狙われるなんて事にはならないわよ」
「ぐぅ」
「あんた、これからどうするの?」
「どうもこうも、こっそり逃げ回る他ないでしょう。私だってまだ死にたくはない」
脳裏に先程見たバケツの光景が閃き、私は思わず身を竦ませた。あんな風に悪意と水をぶつけられては、きっと私とて長くは保つまい。それだけは避けねばならぬ。
「でもほとぼりが冷めるのを待つにしても先は長そうよ」
「うぅむ」
そう、それも問題である。衆生にあまねく私を亡き者にせんとする敵意が、数日数週間で禍根なく消え去るとは到底思えない。それ以上の期間里を避けて過ごすとなると、式神としての仕事に支障が出かねない。
というより、私の精神の方が耐えきれるかどうか怪しい。大勢の人間たちも然ることながら、私が心配しているのは小鈴の事だ。彼女の目の前で書物を切り裂くという暴挙に出て、そのまま謝りもせずにその場を去ったと思うと、小鈴がどうそれを受け止めているかがぐじぐじと私の心を苛む。
早いところ謝らねば、きっといつか私は罪悪感の超重力の中でぺしゃんこになって死んでしまう事であろう。
でも、謝るにしたってもどうやって?
確かに小鈴は優しい、いい娘だ。しかし彼女も聖人君子ではない。ただ謝罪したところで許してくれるという保証はなく、また許すと言ってくれたところでそれが真実であるかはわからない。
どうすれば許してもらえるのか。小鈴だけではない、その他の皆々様方にも。
「ちょっと、泣かないでよ」
「泣いてない。ただの雫だ」
「もー、見栄張っちゃって」
霊夢が不遜な事を繰り返す。弁明するのが億劫になって水中に逃れてみれば、今度は溺れかけた。どうにもままならない。体がうまく動かぬ。
「霊夢、どうしよう」
「知らないわよ、紫に相談でもしてみれば?」
「そしたらおしおきされてしまう」
「隠しきれるわけないんだから、覚悟決めなさいよ」
試しに覚悟を決めようと精神を働かせてみた。しかし、紫様に尻尾を鷲掴みにされたままに吊るしあげられ、尻を叩かれている己の姿が脳裏を掠めた瞬間、そんな思いは尻すぼみになって立ち消えてしまった。
「無理だ、無理。なんとか自分で解決しないと」
どちらにせよ隠しきれる事ではないのなら、せっかくだからやれるところまでやってから尻を叩かれたい。それに、上手く事を運びきれればお咎め無しに終わるかも知れない。希望的観測ではあるが。
私が決めたのはそちらの方面の覚悟だった。
とはいえ、いくら希望に希望を重ねて現実を押し隠そうとしたところで、目の前に横たわる問題が埃にまみれて見えなくなってしまうわけではない。このまま覚悟にかまけて現実から目を背け続ければ、いずれやってくるのは光に溢れた未来などではなく、バケツを携えて私を押し流そうと激昂する人間たちか私の尻を腫れ上がらせようと口元を歪ませる紫様くらいのものである。
物的な被害を出してしまった以上、謝るばかりでは足りないだろう。詫び方も考えなくてはならない。どうしたものか。事態の解決方法を探るにあたっては、私の見識はちょっと狭すぎる。
現状を打開する方法は少ない。「聡明なる私は才気煥発し、全てを円満に解決するだけの策を編み出す」「目の前のほえほえ巫女が珍しく本気になって私の身を心配し、結果として素晴らしい策を考えてくれる」「そもそも根幹となっている件の記事へのトラウマの源泉を探り当てる」この程度だ。
そうして可能性を掘り下げていくに連れて、徐々に「解決策はない。現実は非情である」という思考が脳内を席巻し始めて、私は頭を抱えた。霊夢はそんな私を見て、どことなくふわふわした、笑ってるんだか悩んでるんだかわからない表情を浮かべていた。
「なんだよ、その顔は。馬鹿にしてるのか」
「うん」
「こいつっ」
「だってしょうがないでしょ、あんな阿呆やらしといて、馬鹿にされないと思う方がおかしいのよ」
「うるさいうるさいっ」
「暴れないの、これでも一応心配はしたげてるんだから」
「一応で心配されても困るだけだよ。もっと本気でやってよ」
「よしよし」
私の言葉に即応し、霊夢は私の頭を撫でた。鬼か。
「お前は、本当に」
「そんな膨れないでよ、心配してるのは本当よ」
「そう簡単に信じられるか」
「失礼な、これでも私はいつでもあんたの味方なのよ」
「白々しい事を言うな」
私は口から甘言ばかりを垂れ流す霊夢に見切りを付け、再び自分の思案の世界に入り込もうと灰色の脳細胞を活性化させた。
かつて、私は優秀なる紫様の下僕であり、完璧な式神であった。尻尾を九重に翻し天空を飛行する様は森羅万象の全てを魅了し、黄金の煌きは幻想郷の山野を愛の光で満たしたとされる。この地において私の計算を外れた存在などなく、いつだってその才覚を惜しみなく発揮してこの世界を数式で支配していた。
しかし九年と半年程前、紅白の大幣が一閃した時、我が栄光の時は終焉を迎えた。空に敷かれた王道を征っていた筈の我が身はあえなく落下して地に倒れ伏し、泥に塗れた尻尾の上を霊夢が土足で闊歩していく。いつしか我が手の内にあった数式の全てはこぼれ落ち、私が精神の安寧を得られるのは、屋敷の隅っこの部屋に鎮座ましましている万年床の内側だけに限定されてしまった。
我が日常には不確定要素があまねき、もはや逃げ場はなく、どこへ行ってもほえほえした巫女が私の目の前に立ち塞がる。あまつさえ、こいつはいつも阿呆の百鬼夜行をなして私を押し流すのだった。
いつしか私の威厳は地に落ち、里には風説が流布され、いよいよもって橙も毎回のようにまたたびだの鰹節だのを要求するようになってきた。己だけの問題であるならまだしも、何故にそこまでの救い難き様相を呈する様になったのか。
私の記憶は少しづつ焦点をはっきりさせてゆく。
そう、あれは九年前。第百十九季。その秋の事である。
春雪異変の影響で長く尾を引いていた夏もいよいよ終わり、このところはめっきり冷え込む様になった。神社の周囲を囲む鎮守の森もいよいよ赤や黄色に色付き始め、美しくはあるが近くで見ると目に悪い。
私はそんな紅葉の木の上にしがみついて、いつもの様に遠巻きに博麗の巫女の監視を行っていた。彼女の方も普段とまったく代わり映えをせず、縁側に腰を下ろして南から照る秋の日差しに目を細めていた。今日も報告書は白紙で済みそうである。
この退屈な巫女監視も、既に半年近く続いている。異変終了後に霊夢と初めて出会った私は、その関係でご主人様からその仕事を任されたのである。博麗の巫女の監視と言えば元々紫様の仕事だが、知り合いならばと私に押し付けてきたのだ。
半年の殆どを、彼女は縁側で一人でぐうたらとして過ごしていた。代わり映えのない奴だ。変わるものと言えば、毎日飲んでいる一升瓶の銘柄くらいである。見ているこちらもあまり面白くない。あまりに動きがないものだから、時には式神に監視を任せて里に油揚げを食べに出た事もある。しかしご主人様の勅命をそうないがしろにするわけにもいかず、一応毎日足を運んではいるのだった。
ぐうたらしているとは言え、霊夢も人の子である。時々は知り合いを呼んで、一緒になってお酒を飲んだりもする。私はそんな様子を遠巻きに眺めながら、草葉の陰に隠れて一人でお酒を飲むのを最近の趣味にしていた。
私の監視は飽くまで遠巻きである。監視対象にわざわざ近寄るというのは、優秀なる私の美徳に反する。数カ月前の手酷い敗退が思い出されて体が重くなるとか、そういう情けない理由などでは決してない。
私は今日も今日とて木の上から霊夢の姿を眺めながら、一人で盃を干していた。秋風が冷たく、体を温めねばやっていられない。尻尾を抱いても寒いというなら、エチルアルコールに頼るより他に手はないのである。
しかしそれが悪かった。既に一升瓶の三本目を空けようとする段階にあって、私は風に吹かれて体勢を崩してしまったのだ。咄嗟に飛行をするには判断が遅れ、下には引っかかる枝もない。そのまま、私の体は地面にしたたかに打ち付けられた。目の前が暖色に塗りつぶされて、上からどんどん落ち葉が被さってくる。あっという間に視界がなくなって、私は前後不覚に陥った。
暫くその場でもがいてから、なんとか身を起こす事に成功した。尻尾が上手くクッションになってくれたようで、痛みはない。ただあんまりびっくりしたものだから、すっかり腑が抜けてしまって動けなかった。
問題はそれだけに留まらない。そんな私の一人騒ぎに気付いたらしく、霊夢がまっすぐこちらに向かってくる。その視線は揺らぐことなくこちらを捉えていた。
動転してぱたぱたとやっていても、葉が舞うばかりで事態が解決するわけもない。そのまま目の前に来た霊夢は、じっとりした目で私を見ながら「あんた、何やってるの」と冷たく言った。
秋の気候に根ざしたものとはまた質の異なる寒さが背筋に走る。聡明なる我が脳髄はその責務をまるっきり放棄しており、出てくる言葉も出ない。私はただただ震えるばかりで、目の前に仁王立ちする紅白の影を見上げていた。
「って、あれ? あんた紫んところの式神じゃない」
霊夢は一頻り私を睨めつけてから、目を丸くしてそんな事を言う。そして「もしかしてここ半年、感じてた視線はあんただったの」と小声で呟いて、一人納得したように頷いた。
私は打ち上げられた魚の様になって、あうあうと口を動かすばかりである。そんな私の様子に霊夢はよくわからない薄ら笑いを浮かべていたが、そのうちに「とりあえず、話は向こうでしましょう」と言い出した。
無言のままに頷き、霊夢の背を追おうとしたところで、私はまたしても地に倒れた。抜けた腑が未だに戻っていなかったからだ。再び木の葉を撒き散らした私を見て、霊夢は今度こそ噴き出した。
「ったく、しょうがないわね」
そうして私を背負うと、きゃらきゃらと笑いながら縁側の方へと戻っていったのである。当時の霊夢の背中の感触は今に至るまではっきりと覚えている。なんとも情けない、出来ればあまり思い出したくない思い出である。
縁側の近くまで来ると、霊夢は私を投げ出して、一人で勝手に溜息をついた。私は私で腰を強かに打ち付け、暫く板と畳の境界を転がって呻いていた。
「どうしてそう乱暴に扱うんだ」
「あ、やっと喋った」
霊夢は額の汗を袖で拭い、ふふんと笑う。
「そりゃあ喋る。私だって立派な式神だ」
「立派な式神が腰を抜かすもんですか」
「うるさい、たまにはそういう時もある」
私はすっかりふて腐れて、ぷっくり膨れながら霊夢を睨んでいた。
今にして思えば、これが私と霊夢との個人的なファーストコンタクトだった。そして同時にワーストコンタクトでもあった。春雪異変、永夜異変の時とは違い、式神的な事情を介さないこの出会いは、この後長らく私を呪縛する事になる。
それをまだ知らない当時の純真無垢なる私は、上がらぬ体を引きずって霊夢に報復せんと近付いた。霊夢は私を見下ろしてきゃらきゃらと笑っている。はたしてこんなに笑う娘だっただろうかと不思議に思っていると、一升瓶が転がっているのに気付いた。どうやら笑い上戸であるようだ。
酒臭い顔が目の前に張り出してくる。そのまばゆい笑顔は地獄の火焔めいて私の網膜を焼いた。
「なんだお前は、私をどうするつもりだ」
「一人で暇だったのよ。どうせあんたも同じでしょ。付き合ってよ」
「嫌だ、解放しろ」
「今解放しても地面に落っこちるだけよ」
「むぅ」
縁側から視線を落としてみれば、そこから見えるのは枯れ葉の降り積もった荒涼たる大地である。腰を抜かしたままで踏破するというのは、あまりにも困難なように思えた。
「……私にもお酒を」
「それでいいのよ」
霊夢は自分の影から一升瓶を取り出して、それを私の目の前に置いた。まだ蓋を外してすらいない、新しいやつだ。私はそれを抱きかかえ、暫しじっとしていた。現状を受け入れるための心の準備のためである。
既にこの時点で「自分を打ち負かした相手と再会し」、「その人物の目の前で木から落下して腰を抜かし」、「そいつの背中に負われるはめになり」、挙句の果てに「盃を酌み交わすのを強要される」という心労積み重なる事極まりないイベントを連続体験した私の精神はすっかり疲弊しきっていた。
「どうしたの、泣いてんの?」
「泣いてない、うるさいっ」
徐々に感覚を取り戻しつつある腰に少しづつ力を入れながら、私は身を起こした。僅かに目尻を濡らす涙を袖で拭ってから、再び霊夢を見やる。そして受け取った一升瓶に直接口を付け、一息に飲み干した。
「あ、あ、なんて勿体無い」
「ええい黙れ黙れ。飲まずにやっていられるものか」
私はそのまま次なる一升瓶にも目を付け、それを奪いにかかった。霊夢もそれに対抗、あんたにやるくらいなら私が飲むとでもいわんばかりにお酒を抱え込み、ぐびぐびと飲み出した。
神社の縁側はあっという間に退廃的耐久飲み比べの会場となり、二人してむきになって飲む。飲む。飲む。昼間から空き瓶を大量生産する我々の姿は、傍からは地獄の獄卒の如く映る事であろう。そこには優秀なる式神の姿はない。いるのは二匹の大虎だ。
エチルアルコールと同時に水分を過剰摂取した私の目からは、体から押し出された水が滝の様に零れ出ていた。
そのまま数刻、我々は地獄の様相を呈す飲み比べを続けた。限界を迎える頃には日は沈み、あたりはすっかり暗くなっていた。
私と霊夢は縁側の上で瓶に塗れ、互いに水太りしたお腹を抱えながら重なっていた。もはや気力の欠片もなく、涙も枯れ果て、ただただ夜が更けていくのを待つだけである。
私は、多大なる虚無感の海を小さな板にすがって流れていく己の姿を幻視しながら、同じ板を鷲掴みにして離そうとしない存在も感じ取った。当然、それは霊夢である。霊夢は片手で板を抱き、もう片方の手で私の腕を掴んでいる。なにやら妖怪めいた不気味な笑みを湛えているのが印象的だった。そんな虚無的なカルネアデスの板状態は、それから十年近くが経過した今でも解決の兆しすら見えていない。
流した涙があまりにも多かったものだから、式もすっかり解けてしまった。お酒も手伝って、非常に体が重い。全身の血液がお酒に挿げ替わってしまったかのような感覚である。
どうにも疎ましくなって、私はそれまで固く閉じていた目を開く事にした。すると、目の前にあるのは霊夢の顔である。お酒が回って燃えるように赤くなった頬に、目を閉じて、うんうん唸っている。どうやら相当無理をしていたようである。
こうして大人しくなってから改めて観察してみると、霊夢はなかなかにかわいらしい顔立ちをしていた。なにせふにふにとしている。頬を突いてみると、ゴムマリのような弾力がある。吐く息こそ酒精に塗れているが、それさえ無視すればまるっきり幼い子どもだった。
酒に塗れて正気を失っていた私は、暫くそのまま霊夢のほっぺたで遊んでいた。そうしていると、どういうわけだか愛おしく思えてくるから不思議である。あれだけ苦手とし、半年に渡って遠巻きに眺めてばかりいた少女が、今目の前にいて私に弄ばれている。その事実は私の酩酊を更に深いものにした。
もしかしたら、私はこの娘を。
その時である。上空で何かが風を切るような音がしたかと思うと私の後頭部に鋭い衝撃が走った。その一撃で最後の気力をえぐり取られた私は、そのまま昏倒した。
後に聞いた事であるが、その時私の後頭部に命中したのは天狗の新聞だったらしい。それも、あの忌まわしき「文々。新聞 第百十九季 葉月の三号」である。
「何難しい顔してるの」
霊夢が私の頬を引っ張りながら、むっつりとして言った。
「昔の事を思い出していたんだ。お前と会った頃の事を」
暫く、我々の間に沈黙が流れる。その間も、霊夢は私の頬を抓ったままだった。やがて「んなもん忘れたわ」と言った。
「だろうね、そうだろうと思ってたよ」
「どういう意味よ」
「お前はなにも考えてないからなぁ」
私は霊夢の手をすり抜けながら、そう反駁した。霊夢はますますむすっとする。温泉の熱に当てられて赤くなった霊夢の顔は、なんとなくあの時の寝顔を思い出させた。
「馬鹿にしてるの?」
「そんなつもりはないとも。大体、お前が馬鹿だったら付き合ってる私の方まで馬鹿になってしまう」
「あんたは馬鹿じゃなくて阿呆でしょ」
「それはお互い様だ」
霊夢から逃げつつ、尻尾に水を通す。紙くずに埋もれていた尻尾には未だにかなりの違和感が埋まっているようだし、それをいちいち手で取り除くというのは面倒な作業だ。私が尾をくねらせる度に、細やかな新聞紙の屑が浮いて出た。
「風呂が汚れちゃうじゃない」
「私を洗いもせずに湯船にぶちこんだのはお前だ、お前が悪い」
ちょっと掛け湯でもすればマシになったろうになぁ、と言いつつも、私は更に尻尾を揺さぶった。しかし絡んでいた屑の量は私の想像を超えていた。あっという間に、湯船の表面が濡れたゴミクズに埋め尽くされてしまった。
流石に、これは、私が悪い。霊夢はすっかりふくれっ面をしている。その上水面全体が新聞色に染められたせいで、あたかも巨大な記事が出現したかのような錯覚を起こして目の前がくらくらとした。
しばし呆然としていると、霊夢がむんずと私の尾を掴んだ。何事かと構える間もなく、引き揚げられてしまった。冷たい石の上に放り投げられ、私はまたしても呆然とした。
「なにするんだよ」
「別に。のぼせそうになったから上がっただけよ」
「なんで私まで巻き込むのよぉ」
「なんとなく」
霊夢はその場で体に張り付いた新聞ゴミを剥がしてそこらへんに投げてから、頭に載せていた手拭いで体を拭いてそそくさと行ってしまった。残された私はと言えば、突然尾を引かれた驚きですっかり腰を抜かしてしまっていて動けない。
しょうがないから、這ってその辺に散らばっているゴミを拾い集める事にした。手の届く範囲であっても、それなりの量の切れ端がある。私は一体、何枚の「葉月の三」を破り捨てたのだろうか。
水で濡れた新聞紙はどうにも皮膚にくっつこうとする。少し這いまわっているだけで、体中が灰色になってしまう。どうにも煩わしいが、己の浅薄さの招いた事なれば、文句を言うのも詮なき事なり。
湯船の周りをあらかた片付けてしまってから、手の内のゴミは全て纏めて塊にして置いておいた。流し台のすぐそばに、やたらと存在感のある灰色の球体が鎮座ましました。
それで少し満足していると、今度はやはり湯船の中が気になってくる。浮いているゴミをさっと見ただけでも、十枚分くらいはありそうだ。眺めていただけで眉間の間がじくじく痛む。
これを綺麗に掃除するには網なんかが必要かもしれないなぁ、などと思っていると、背後に誰か降り立つ気配を感じた。振りむいてみれば、そこにいるのは文である。
憎しみが形を成したような球体を撫でながら、滂沱の涙を流している。
「げ」
「げ、じゃありませんよ、なんて酷い事をしてくれたんですか貴方は」
新聞球体を抱え、文は私に詰め寄った。高い下駄を履いているから大変に威圧的である。私は抜けて立たない腰に鞭打って後ずさりした。
「酷いのはお前の方だ、お前がそんなもん書くからこんな事になったんだ」
「これを発行したのはもう何年も前じゃないですかっ」
「もう何年も苦しめられてるんだよ、限界だったのだ」
「貴方のために書いたのに」
「馬鹿な事を言うな」
「虐待されるの、辛かったんじゃないですか。その記事は虐待に対する抗議ですよ」
「私と紫様の事なら、あれは虐待とは言わないよ」
文は泣きながらにぷりぷりと膨れた。
「そもそもお前、私の為を思うならあんな写真を使うなよ」
「これですか」
私の目の前に、かの紙面を飾った我が泣き顔の写真が吊るされた。殆ど反射的に飛びついていたが、抜けた腰で文に取り付けるはずもない。にべもなく躱されて、岩面に強かに体を打ち付けた。
「お前、まだそれを」
「貴方の暴挙を聞いて引っ張り出してきたのです。もし反省していないようであったら、この写真をバラまくつもりです」
恐るべき恐喝に出たものだ。見やれば殆ど破れかぶれのようで、文の目は焦点があっていない。下手に接すればどうなるのかわかったものではない。「当然、貴方の威厳を地の底に貶めるようなキャプション付きで」
「風説の流布とはマスコミの風上にも置けない奴だ」
「今の私はマスコミではありません。新聞を愛するものとしての義憤です」
「だったらマスコミとして手に入れた写真を傘にするな」
「使える物は全て使います」
私は溜息を吐いた。これは話になりそうもない。
「文よ、じゃあ私はどうすればいいんだ」
「反省してください。償ってください」
「……具体的には?」
すると、文は頬に手をあて、ずずいと私の顔を覗きこんできた。そうして、私の胸に新聞の塊を押し付けてきた。どうにも気色の悪い感触に、背筋に怖気が走った。
「貴方が破り捨てたこの記事を、貴方自身の手で再び配布して下さい」
背筋に蓄積された怖気は、その言葉によって全身に拡散した。鳥肌を抑えんと湯船に飛び込むと、視界が灰色に埋もれてしまった。
「な、な、なんて恐ろしい事を言うんだ」
「破って回ったのは貴方でしょう、自業自得です」
「で、でももうちょっと手心ってものを」
「さっき、新しく刷り直したその号の束を神社の縁側に置いておきました。それを全部配ってください。一軒一軒回って」
「お前、人の話を」
「可及的速やかにお願いします」
「ちょっと」
私の意思など尊重するつもりはないらしい。文は新聞紙に塗れてうごうごしている私の頭を踏んづけて、さっさと北の空に消えていってしまった。
残された私は気が気でない。体に張り付いた切れ端をさっさと流してしまってから、風呂場を後にした。
よく考えてみれば、服ごと温泉に打ち込まれたのだから、私には着る物などないのだった。そう思い至って暫く脱衣所で呆然としていると、隅っこの方に畳まれた白衣と書き置きがあるのに気付いた。
開いて読むと、「とりあえずそれ着ときなさい」と気の抜けた文字で書いてある。霊夢も呆けた顔をして、なかなかどうして気の利く奴である。私は喜んでそれに袖を通した。俄にふんわりとしたあいつの匂いが、私の鼻腔を刺激した。
真っ白な装束に身を包んで安心してから、文の言葉を確かめるべく拝殿へと向かった。近付くにつれ、新聞特有のインクの臭いが風にのってやってくる。袖を鼻に押し当ててもはっきりと感じるのだから始末に置けない。
そうして縁側への角を曲がった時、私は戦慄した。そこにあるのは、床板の一部すら見えない程に高く積まれた大量の「文々。新聞 第百十九季 葉月の三」である。神社の一角は完全に灰色の新聞紙に埋め尽くされており、足の踏み場がないどころの騒ぎではない。もはやショックを受けることすら忘れて見つめる事しか出来ない有り様である。
すると、その山の真ん中のあたりがもぞりと動いた。
もしや霊夢なのではあるまいか。そう思って近付き、少し新聞をどかしてやれば、顔を出したのはやはり霊夢である。肩で息をしているのを見るに、もしかしたら窒息なんかしていたのかも知れない。
霊夢は少し辺りを見回してから、目を剥いて「なんなのよ、なんなのよこれはーっ!」と絶叫した。そして私の耳を引っ張った。
「藍、説明、説明っ」
「待ってよ霊夢、説明はする、するから放して……」
私の嘆願が功を奏したのは、それから十分ほど後の事である。
とりあえず霊夢を救出し、二人分の座るスペースを確保してから、ようやく落ち着く事が出来た。即座にお茶による精神安定が図られ、私と霊夢は肩を寄せあって、新聞紙に水分を取られてすっかりひび割れた喉と心を暖かなお茶で潤した。
こうなってはかわいそうなのは巻き込まれた霊夢である。私は、実にこの時、初めてこいつの事を不憫だと思った。目尻に溜まった涙を拭ってやりながら、その頭を撫でてやった。
「あんたは阿呆よ、救いがたい阿呆よ」
霊夢はさめざめと泣きながら、呪詛の様にその言葉を繰り返した。今となっては否定のしようもない。
そんな事をしながら、同時に目の前に横たわる問題についても思索を巡らせねばならなかった。里中の新聞を引き裂いて回った事然り、ひいては古書祭を台無しにしてしまった事。そしてたった今発生した、新聞の再配布問題。頭が痛くなる。
もちろん、聡明なる私は仮の道筋を模索せんと努力した。文の置いていったこの殺人的な量の新聞を、一軒一軒謝罪しながら配っていけば、それが理想的なことの運びとなる。が、しかし、謝罪して回るだけでも目が眩むというのに、配る新聞までもがコレだというのを考慮すると、脳が思考を拒否したがった。
策士と評される私も、自分のこれからの立ち振舞いに直接影響を及ぼす判断を即刻下せるような感性を持ちあわせてはいない。むしろ、私は最善策を打ち出すためにおもむろに状況を判断し続け、最善策が最悪策に転じてしまう事すら厭わずに状況判断を続ける慎重さの持ち主なのである。
如何にして解決するべきか。我が才覚はかつての霊夢との邂逅と共に封印され、煥発される気配など見せてはくれない。霊夢もこの調子では提案協力を仰ぐに忍びない。トラウマの源泉も地底深くに埋め立てられて、いつ掘り起こされるのかもわかったものではない。
私の脳の表面には「現実は非情である」という文句が浮かんでは消え、多大なる精神の力を浪費せしめた。そうして、なんだか泣きたいような気分になってきた。
逆に一頻り現状を嘆いた霊夢は私の袖で鼻をかみ、いよいよ元気を取り戻した。そして「考えててもしょうがないわ」と前向きなんだか何も考えてないんだかわからない事を言った。
「藍、どうするべきだと思う?」
霊夢の言葉を受け、私は先程思い付いた理想的な運びを説明してみせた。無論、最後に私の精神衛生上それは不可能であると付け足しておくのも忘れない。
私が再び黙りこみ、近くの新聞紙を鼻紙に転用し始めた頃、霊夢はあっけらかんとして「別に良いじゃない」などと言う。
「良いわけがあるか。お前は私に死恥をおっ被せるつもりか」
「死ぬの?」
「已む無しだ」
どう想像を巡らせても、配布し終わった後の自分がまともな姿が思い描けない。頓死しているか、溺死しているか、或いは部屋の隅っこで荒縄を結んでいるか、大体その辺りまで想像してから、すぐに目の前が真っ暗になる。
かと言ってこの新聞を放擲して悠々と生きていこうと未来を思えば、いずれ里の人々にとっ捕まって大量の水でバケツリレー爆撃されるのが想像できる。
かくなる上は時が全てを押し流すまで外の世界へ逃避行、なんてのも考えたが、それはあまりにも多大な迷惑をかけすぎる。私は八雲の式神の中でも特別優秀であるから、代役を見つけるのも大変だ。
それにその手を打つと、霊夢とは会えなくなる。
まったくもって面倒な事になったものだ。私は新聞の山に埋もれ、己の身を呪った。身から染み出す祟り汁が新聞に吸い込まれていくような錯覚がした。
「あんたは色々と深刻になりすぎなのよ」
「これがならずにいられるか。他人事だからって適当に言って」
「他人事じゃないわよ。これが捌けないと、縁側でゆっくり出来ないわ」
「……むぅ、それもそうだなぁ」
「何の手も打たない」という賢者の如き選択をしたとしても、今度はこれらの新聞によって我々のお昼寝が邪魔されてしまう。
斯くの如き袋小路は、過去より忍び寄る死神である。こうなっては頭を抱えるより他になく、頭を抱えたところで事態に進展は期待できない。
私と霊夢は寄り添って、二人して頭を抱えていた。
気付けば寝てしまっていたらしい。尻尾にくるまる霊夢の重さに、私は自分を発見した。日は既に沈んでいる。月明かりに照らされる灰色の山を見て、改めて新聞の量に驚愕を強いられた。
霊夢は尻尾に埋もれて寝息を立てている。夜風は冷たく、そろそろ秋の訪れを感じさせた。私も霊夢の掴んでいない尻尾を一本手繰りよせて、それを枕にしてみた。まだ毛は生え変わってはいないものの、ないよりはずっと暖かい。
一度寝てみると、危機感はあまり感じられなかった。元々そこまで深刻な問題ではなかったのか、或いはあまりの深刻さに感覚が麻痺してしまったのか、そのあたりの判断はどうにもつかないが、それでも焦る事はなくなっている。
とはいえ、このままぼうっとしているのはまずかろう。それくらいの判断は正常に下せる。私の未来を平穏なものにするために、霊夢がほえほえとしていても大丈夫にするために、動かねばならぬ。
差し当たって冷静なる私は、まず敵を知るために山積みにされた「文々。新聞 第百十九季 葉月の三」を読破せんと手を伸ばした。一度睡眠を挟んで明鏡止水の境地に至った今であれば、もしかしたら冷静なままに読み切る事が出来るかも知れない。
一部を手に取り、腕を伸ばしてそれをかざす。瞑った目を開くのに、さほど勇気は必要なかった。
月明かりに透かされて、過去の我が泣き顔が飛び込んでくる。みっともない事この上ない。やはり破り捨てたくなる。私は衝動をなんとか堪え、文面に視線を滑らせた。
文の主観に塗れた文句の数々。紫様に対する攻撃的な言葉が並び、私への擁護を通して我が身可愛さが滲み出ている。なんともまぁ、情けない記事である。直接私について言及した記述もなく、終始紫様に「気色が悪い」「支離滅裂」と言っているばかりだ。
こうして改めて読んでみると、意外にも敵意は湧かなかった。むしろ滑稽な読み物として楽しめる。
これは一体どういうことか。発行当時から時を隔てて、自らを客観視する能力を身につけられたと解釈して良いのだろうか。それとも何か、別の要因があるとでも言うのだろうか。
「藍、何やってるの?」
「む」
声に気付いて振り向いてみれば、尻尾に塗れて霊夢が目を擦っているのが見えた。
「起こしちゃったか?」
「違う、ちょっと起きちゃっただけ」
霊夢は肩越しに新聞を見て、「また破るつもりじゃないでしょうね」などと言った。怯えた様子もからかう様子もない。いつも通りの平坦な口調である。
「んなことはしないよ。むしろ、なんで自分があんなことをしたのか疑問に思ってるくらいだ」
記事を渡して「結構かわいいとは思わないか、私」と言うと、霊夢は妙な顔をしてきょとんとした。
「それ、本気で言ってるの?」
「驚きだが、本当だ。この記事に対してまるで破こうとか思わない」
「何よそれ、じゃあ昼間のはなんだったのよ」
「私にもわからない」
一通り記事の内容を記録してから、たたんで再び山のてっぺんに戻した。霊夢はそんな私を目を丸めて見つめていた。
私は身を翻して、霊夢と向き合う様にした。目の前にむっつりした顔が現れる。ほんのちょっぴりだけ、困惑しているように見えた。
「まさかあれは演技だったとか言うんじゃないでしょうね。そしたら本気で怒るわよ」
「そんなわけないだろう、少なくともあの時は本気で我を見失ってた」
「今はどうなの?」
「言った通りさ、何の感情も湧かない」
面白かったと評するのも素直なところである。
「あんたおかしいわ」
「わかってる。これは由々しき問題だ」
自らの心変わりの正体がつかめない以上、まずはここから究明しなくてはならない。これを楽観的に考えていれば、恐らく後で碌なことにはなるまい。恥に押しつぶされて今度こそ死んでしまう。
「霊夢、お前はこの記事、どう思う?」
「どうって言われても大分昔のだからねぇ。ちょっと貸して」
言われた通りに手近なのを一部見せてやった。霊夢は暫く目だけ動かしてぎょろぎょろと見つめていたが、やがてふふんと噴き出した。
「何がおかしい?」
「いや、やっぱりこの顔よ。間抜けな泣き顔だなぁ、と思って」
霊夢はあっけらかんと言う。しかし、どういうわけだか私にはその笑顔が妙に気にかかった。
「……むぅ」
「なによいきなり、不機嫌になって」
「やっぱり、なんか駄目だ。お前に馬鹿にされると落ち込んでしまう」
「都合の良い奴」
「やかましい」
私は新聞を取り上げて、そそくさとしまい込んだ。霊夢はぷくぷくと膨れるばかりである。「なによ、まったく」と言って、私の頬を引っ張った。
自分でも理解に苦しむ情動だ。長年苦しめられた記事を改めて読んでも何の憤りも恥辱も湧いてこない、しかしそのくせ霊夢に見られるのは嫌だとは。
これまで頑なに「私がこんなんになったのは、間違いなく霊夢と文々。新聞のせいである」と信じてきたというのに、これではまるで踊らされた私が馬鹿みたいではないか。否、そもそも私は元より馬鹿だったのだろうか。何の原因もなく、ただただ時の流れるまま運命の赴くままにここまで落ちぶれてしまったとでも言うつもりか。
もはや何を信じて良いのかわからず、俄に不安になってきた。すっかり狼狽した私は、目の前のふにふにした巫女を抱き締める以外に道を見失ってしまった。
「むぐ、どうしたの?」
「どうしよう、どうしよう」
新たに発生した不安に乗じて、ちょっと前まで私を苛んでいた危機感も頭をもたげてこちらを睨むようになった。
もうこうなっては震えるより他に打つ手はなし。きっと私は数日の内にバケツの山に囲まれて濁流に飲み込まれる羽目になる事であろう。
「だから、大丈夫だってば」
霊夢はそう言って、私の頭を撫でるのであった。
「ほんと?」
「ほんと」
その余裕が一体どこからくるのかは知らないが、霊夢の口調は極めて穏やかだ。私にも僅かに光明が見えたような気がして、平坦な胸に埋めていた顔を上げてしまった。
霊夢はイヤラシク笑っていた。
「というわけで、蜘蛛の糸を手繰りたいから新聞みして」
「な、それは駄目だっ」
「良いじゃない。私だってよく覚えてないんだから、確認しないと」
「駄目なものは駄目っ」
「あんただけずるいわ」
そのまま暫く、我々は押し問答に圧し問答を重ね、ついでに取っ組み合いで体を重ねて暴れまわった。新聞の山が崩れて生き埋めになっても、霊夢は意固地になって読もうとしたし、私も意固地になって読ませはせんとした。
結局、すっかり興奮した霊夢に頬を舐められ、私の敗北であった。酔ってもいないのにこの手に出るなどと、どうして想定出来ようか。こいつは一体何を考えているのか。
私はすっかりのぼせて、目の前で嬉々として記事を読む霊夢を見届ける羽目になった。
「笑わないでよ、お願いだから」
「はいはい」
霊夢は私の言葉を聞き流しつつ、紙面に羅列された文字を追っている。時折、歪めた口元から息を吐く。その音が耳を掠める度に、私の頭には血が登った。しかして努めて冷静に霊夢を観察してみれば、どうやら写真からは目を逸らしているように見える。おおかた最後に見て呵々大笑するつもりであろうと推察出来た。
「そっか、こんな内容だっけ」
「……そこまで酷くはないだろ」
「まぁねぇ、あんたについてはそこまで書いてないし」
それから数分もしない内に、霊夢の視線は紙面の左上へと滑った。その瞬間、変に歪んでいた顔は吹き飛び、盛大に唾を噴き散らかした。上半身が倒れ、投げ出された脚はぱたぱたと畳を蹴っている。私はその振動の中で、やり場のない憤りと視線に煩悶していた。
こうなるから嫌だったのだ。霊夢は酷い。そんなに笑う事はないではないか。
「いや、もう、ほんとにごめん」
「謝るのなら最初から笑うな」
霊夢は尚も抱腹絶倒を続行して、その余波で私の精神をずたずたにいぢめた。
その時である。
なにか強烈な既視感が、脳細胞の中を貫いた。暫時呆然として、目の前の新聞と畳と板の境目を転がる霊夢の姿とを交互に見比べて、その正体を掴まんとした。
こんな恐るべき光景を以前にも見たことがあると思うと、むらむらと腹が立つ。
「霊夢、私達前にもこんなやりとりをしなかったか」
「……。そんなわけないでしょ、デジャヴよデジャヴ」
「いいや、そんなはずはない。間違いなく過去にもあった」
新聞を畳みながら、私は記憶を手繰り寄せた。この十年間の思い出の、その底の方に泥土の如く堆積したヤツを、なんとか引き出そうと努力した。
そう。そうだ、徐々に思い出してきたぞ。これまですっかり忘れていたのだ。ショックのあまりに脳が独りでに封印していたのだ。
あの時、霊夢と初めて個人的邂逅があった日。
私は昏倒なんてしていなかったのである。そもそも、この頑丈な肉体が新聞紙に直撃されたくらいで昏倒するわけがなかろう。不意を突かれて倒れるくらいまではあっても、気絶するなどありえない。
ならば何があったか。
私の後頭部を直撃したそれは、そのまま跳ねて私と霊夢の間に落下した。気力を使い果たし、倦怠感に席巻された我が目に映るのはただの灰色の紙っぺらである。
暫く霊夢の平坦な胸の上でぐったりしていると、そのうち霊夢がもぞりと動いた。そうして顔をしかめ、私を乱暴にどけてから「何よ、これ」と不機嫌そうに口元を歪めた。
飛来したのが新聞である事に気付くのにはそう時間はかからなかったが、どけられて落ちた床板の上からでは記事の内容はわからない。意識レベルは恐るべき低空飛行を続けているし、それにお酒が輪にかけて利いている。歪んだ視界の中に見えるのは、新聞を開きかけている霊夢の姿のみである。
「なんだそれは」
「天狗の新聞。たまにこうやって飛んでくるのよ」
「あんたが居てよかったわ。また障子が破られるところだった」と霊夢は言う。
「役に立てたんなら、まぁ、いいけど」
後頭部の激痛が障子一枚と引き換えだと言うのは、ちょっと気に入らない。私はその場で一人膨れた。
霊夢はそんな私のことなど意に介さず、新聞を大きく開いた。そうして、私はそこで初めてそれが文々。新聞であると気付いた。脳裏にあの阿呆天狗の嫌らしい笑みが浮かび、ますます膨れたくなった。
そういえば、と少し前の事を思い出す。私がこの巫女に敗北し、紫様の折檻を受けていた時、文は私の写真を撮ったのだ。そして紫様に対するインタビューも。当時は我が泣き顔が紙面を飾るんじゃないかと戦々恐々としたものだが、それも数ヶ月前の話だ。今更心配には及ぶまい。
すると、霊夢がお腹を抱えて転げまわりだした。手には新聞を持ったままである。そんなに面白い記事でも載っているのだろうか。
けたたましい嬌声ににわかに興味の湧いた私は、重い体を引きずって、霊夢の抱える新聞に手を伸ばした。霊夢はあひあひと息を荒らげながらも、私にそれを手渡してくれた。受け取る瞬間、笑顔が意味深長なモノに変わるのが見えた。
「…………む」
紙面を見て私が発せたのは、意図せずに出たそんな唸りだけであった。
私が傘で殴打されて泣いている写真が大きく掲載され、それを囲む様に紫様に対する支離滅裂な批判が羅列されている。私について然程の言及がない事が、却って泣き顔掲載の無為さを語っているかのようで、目の前がくらくらする。
何故に数ヶ月の時を経て、今更こんなものを記事にしたのか。一体あいつは何を考えているのか。どれだけ他にネタがなかったのだ。どれだけこの写真を使いたかったのか。
私は息を荒くして、切断しそうになる脳の血管を適度に休ませながら、徐々にその記事のもたらした衝撃を中和しようと努力した。
……まぁ、なんだ。意図不明な時期はずれの掲載だと言うことに目を瞑り、私の泣き顔がばらまかれたという事実さえ百万歩を譲れば、それなりに滑稽でオモシロイ記事であると言える。それほど目くじらを立てるような事でもなかろう。私は幻想郷有数の寛大な精神も持ち主であり、あらゆる事象を穏当に済ませるだけの度量を持った大人物なのである。
ところが、そんな私の精神の働きを邪魔する者が一人。
目の前の霊夢はなんだかぬらりひょんのような顔をしていた。妖怪めいた笑みをにたにたと浮かべて、俯いた私のつむじのあたりを見つめていた。
その視線になんとか耐えていると、その内に「あんた、結構可愛らしい顔で泣くのね」などと言い出す。私は思わず威圧的な視線をぶつけ、霊夢を睨め付けた。
「うるさい、そんな記事信じるな」
「写真に嘘も本当もないでしょ」
「やかましい」
霊夢は尚も笑う。私は若干心を折りかけながらも、しかし屈さず、まっすぐ霊夢を見つめた。そうして、その目の向こう側に、まるで幼気な子供を見つめる親心のような物が見えたような気がして、いよいよもって心がへし折れた。
無論、それが酔っ払った事によって生じた私の妄想であるという可能性は多分に存在する。私の精神衛生上の問題を鑑みても、こちらを信じる方がよっぽど良い。だが無邪気に良い方へ思考を流せるほど、私は阿呆ではなかった。
「な、なんだよっ。そんな目で私を見るな」
「どんな目?」
「その、私を、幼子みたいに」
霊夢の視線が私を言い淀ませ、言い淀む事によって霊夢の視線がますますアタタカな方へと向かう。それを繰り返し、私はとうとうあうあうと口を動かすばかりになって、何も言えなくなってしまった。
恐らくはその瞬間に、我が栄光の式神道を封鎖されてしまったのだろう。威厳が音を立てて崩れ去るのを目前にしても、私はどうすることも出来ずにただただ笑う霊夢に縋り付いて子犬の如く鳴くばかりであった。
「忘れろっ、忘れろっ」
そんな私の訴えを受けても、霊夢は抱腹絶倒するばかりであった。畳を蹴る振動に体を震わせても、その笑いが途絶える事はない。私はいよいよ前後不覚に陥って、霊夢に馬乗りになってぽかぽかと殴る事を開始した。
私が晒し者にされるのは良い。甘んじて受け入れよう。
しかし、霊夢に馬鹿にされるのだけは、それだけはどうしても嫌だったのだ。
当時からあの記事そのものを憎んでなどいなかったのだ。ただ霊夢に軽く見られるのがたまらなく嫌で、どうあっても霊夢にはそれなりの威厳を持っていると見て欲しくて、必死になって思い違いまでして十年ちかくも「文々。新聞 第百十九季 葉月の三」を憎む振りをしてきたのである。
阿呆か。
私はひとしきり己の愚行を笑った後、きょとんとする霊夢を見返した。
「いや、なるほど。わかったよ、霊夢」
「え? ああ、そう?」
霊夢は曖昧に頷いて、「なにが?」と言う。
「私はずっと見栄を張っていたんだ。元の原因をすっかり忘れて、それでなんとかそれらしい威厳を見繕おうとしてた」
「威厳なんてずっとなかったじゃない」
「だから笑ったんだ」
初めて個人的邂逅を果たし、盃を酌み交わし、そうして新聞を読んだその瞬間に、既に私は威厳の全てを失っていたのである。霊夢は当時からそれを看破して、今に至るまでずっと私を見下し続けていたのだ。
ありもしない威厳を守り続けて、その結果として今回の様な面倒をおこしてしまったのだから始末に置けない。かくなる上は笑うより他に手はないのであった。己の取るに足らない自尊心が暴走した結果であると思うと、もはや涙しか出てこない。
全てを思い出した。私は霊夢に読まれたくないばっかりに、里中の新聞を破いて回ったのだ。それが徒労である事など、考慮すらしないままに。
ひとしきり笑った後、私は目尻の涙を拭い、それから霊夢に抱きついた。傍から見れば、それはきっと幼子の如きナサケナサを醸し出している事であろう。しかし、今更それを恐れるなど、それこそ阿呆の所業である。
霊夢は暫時「なによ」「重いわ」などと口を尖らせていたが、こちらが「もうちょっと」「あと少し」を押し通している内に、頬をゆるめて頭を撫でてくれた。
「で、どうするの?」
「配りに行くよ、明日にでも」
「随分早いのね」
「引き伸ばしたらまた気が変わりかねない」
先ほどの取っ組み合いで散らばった新聞を集めつつ、私は再び気持ちの整理を付けた。
長らく霊夢に蔑視されたくないばっかりに、私はこれら新聞をずっと憎んできた。しかし、自らの威厳が地に落ちたと自覚した今となっては、そんな事に気を揉む必要はない。霊夢に馬鹿にされるのは未だに堪えるが、他の連中にどう思われた所で、もはや恥辱とは思わぬ。
だったら、今の気持ちが正常に働いているうちに目の前の問題を片付けてしまった方が良い。目の前に山積みになった問題は、今であれば新聞の山を崩せば簡単に解決しきる事ができる。トラウマの源泉が明らかになった以上、何を恐れる事があろうか。
「それに、縁側を空けないと」
霊夢は「それもそうね」と言い、そうして再び私の髪を撫でた。
翌日、我々は大荷物を背負って人間の里に降りた。荷物の中身は、当然大量の「文々。新聞 第百十九季 葉月の三」である。私の後ろについてくる霊夢も、少しは持つのを手伝ってくれた。
古書祭にて暴れまわった時の記憶は極めて朧気であるから、どこの家の新聞を破ったのかは定かではない。よって、一軒一軒回って配布していくより他に手はなかった。
これで良い。滞り無くこの作業が終われば、事はすべて済む。今私が行っているのは自らの恥辱の拡散である。しかし考えてもみよ、大して面識もない者を相手に恥をかいたとて、私の精神にはそれほど影響は及ばない。
要するに、霊夢や紫様あたりの近しい者さえあの記事を持っていなければ、私の平穏は保たれるのである。他がどう思おうが知ったことではないのだ。
そう自覚した今、私を妨げるモノはなにもない。せいぜい尻尾を引っ張って楽をせんとする霊夢くらいのものである。
その行程には然程支障はなかった。多くは「なぜ九年前の新聞を今更配っているのか」とでも言いたげな表情を浮かべ、それにとどまってただ受け取るばかりである。時折バケツを携えて襲いかからんとする者もいたが、真新しい物を見せれば大人しくなった。
最も心配していた小鈴も、私を見て目の光を失ったものの、事情を話せばすぐにいつも通りの笑顔を取り戻してくれた。そして「少し相談があるんですけど」と言った。
「この前の古書祭は誰かさんのせいで滅茶苦茶になっちゃったので、また近いうちにやろうと思うのです」
「ふむ、そうか」
「でも、またやるにはちょっと経済的に厳しいのです。だから……」
「みなまで言うな。援助しろとでも言うんでしょ、誰かさんに」
「駄目ですか?」
「いいや、構わんとも。むしろ歓迎だ」
私がそう答えると、小鈴はますます明るく笑い、「おねがいしますねっ」と頭を下げた。
斯くして、我が恥辱に対する反抗と認知は幕を下ろした。予想していた通り、霊夢の他には私の泣き顔を笑う者などいなかった。恐らくは興味もないのだろう。
次の古書祭では、渋る事もなく里に出て、新聞の影に怯える事もなく、健全な心持ちで霊夢と共にそこら中を駆けずり回れる事であろう。何なら自室を埋め尽くす算学の書物の一部を処理する方面で参加してみるのも良いかもしれない。その売上でラムネの一本でも飲ましてやれば、霊夢も満足するはずだ。
長らく抱えていた実態のない恥辱を認め、また振り払った今の私の眼前に広がっているのは、薄汚れながらもほどほどに輝いている黄金色の未来である。その未来も幻影かもしれないと考えると気が遠くなるが、そんな憂慮も振り払ってしまうに限る。
今の私は、少なくとも昨日よりは幸せである。
「そういや霊夢。お前、なんであんなに執拗に私を誘ったんだ?」
「さぁ? よくわかんない。お酒飲んだからかもね」
「因果関係がわからない。お前はお酒を飲むと人格交代でもするのか」
「酔わないと言えない事もあるのよ、いろいろと」
可愛らしかったです
※誤字報告
冥界にて霊夢と退治→対峙
今後二人の肉体的な絡みを書く予定があれば、二人の身長差にも言及していただきたいところです。めちゃ萌え。
偏屈っぽい文体と行動のギャップがいかにも藍ちゃん。藍と霊夢にスポットが当たり続けて濃度高く藍霊してるのがすごくイイなと思いました。
蘭がここまでおかしくなってしまうのは何があるのだろう、と思っていましたが、
何の事はない、すっかり霊夢にやられていたということですね。
あの九尾をも惹きつけるとは霊夢恐るべし。でも何となく分かる気がします。