この世には見えない物が沢山ある。
それは友情だとか、愛情なんて、見え透いた陳腐な話ではなくて。
箱の中の半分死んだ猫とか、何も写ってない鏡なんて、 捻くれた物でもなくて。
もっと広大な、世界の裏側というか、そういう物だ。
もし機会があるならば、見てみたい。そう霊夢は考えていた。
いつもと変わらない空、いつもと変わらない縁側、いつもと変わらない風貌の社殿。
いつもと変わらない博麗神社だった。でもそれがハリボテだと霊夢は知っている。
深呼吸したのち、霊夢はいつもの様に箒を手に庭に出た。
途端に箒が縦横無尽に曲がり、暴れ出した。手から離すと、片足跳びでもするかのように、ひょこひょこと去って行った。
掃除を諦め座敷に上がると、今度は突然乗った畳が波打ち始めた。霊夢が飛び降りると尺取虫の要領で庭に這っていった。眉に唾を付けて見ても、畳は帰ってこなかった。
仕方が無いのでお茶でも飲むかと、そう思い急須の横手に手を伸ばせば、するりと回ってかわされた。追って手を出せば、また回る。五回ほど避けられた末、意地になって底を持った。
注いだ茶を前に勝ち誇った顔で湯呑に口をつけた瞬間、湯呑がぼんと煙をだして爆散した。
煙の後に、憎たらしい顔の狸が外に出て行く。
お茶を豪快に被った霊夢は、怒りにわなわなと拳を震わせた。
「いい加減にしないと、狸汁にするわよ!」
怒鳴り声で威嚇すると、今度は急須がぽんと正体を現した。
ぴんと耳の立つ細目の狐だった。 霊夢が睨むとすごみを感じたのか文字通りしっぽを巻いて逃げていく。しかしまだ安心など出来なかった。
神社は最近ずっとこの調子だ。
狸と狐が家具等に化けて隠れている。驚かせるのが目的らしく、近寄ったり触ったりすると面倒なことになる。一匹一匹蹴散らすのも面倒なうえ、翌日にはまた何処かに化けている。本物の家具自体も元に戻るが、まともに生活するのは絶望的だった。
布で顔を拭いつつ、我慢の限界を突破している霊夢はマミゾウに会いに行くことにした。
狐も居るが、狸が悪さしているのは変わりない、それならばあいつが咬んでいるに決まっている。名推理だった。
「それがな、儂のせいではないんじゃよ」
マミゾウは命蓮寺であっさり見つかったが、事はそう簡単では無いらしい。歯を見せて笑うマミゾウに霊夢は落胆する。
「あんたのせいじゃなくても良いから、辞めさせてよ」
「そうは言うが、狐と化け比べしているだけじゃ。稲生物怪録みたい楽しかろう?」
「楽しかない! なんで人の家でやってんのよ」
「驚き具合で勝敗を付けとるんじゃろ、お前さん面白いから」
「どういう意味よ」という霊夢の問いをマミゾウは苦笑いで無視した。
「とにかく狐との争いは双方に宿命と思うとるから、狸にだけ言っても詮ない。今は眉に唾でもつけてやり過ごしとくれ」
「眉唾は眉唾よ、やったけど全然効果無かったし」
「ふむ、化かされてる時には良いんじゃが。勝手に化けてるからか」
「他に方法は無いわけ?」
「儂に言っても解決は無理じゃ、狐に頼んでみるんじゃな。ヤケ酒なら付き合うぞい」
マミゾウが陶器の酒瓶を振ると、ちゃぽちゃぽと音がした。
「そんな気分じゃ無いの。そもそも教育が行き届いてないのが悪い、ちゃんと言うこと聞くようにしてよ」
「仮にも化け物の類じゃ、教育なんて必要ないじゃろう。やりたいなら巫女がやるんじゃな」
「ならあいつらには拳で教えてやるわ」
「体罰でもなんでもやっとくれ」
霊夢はわざとらしくため息を吐くと、肩を落とし踵を返した。
狸や狐に神経をすり減らしていくのは死活問題だ。拳で教えると言ってもきりが無いことは既に承知している。せめて何にばけて居るのか分からないと。
飛ばずに鬱々と歩いていたのが功を奏したのか、今度は話のわかりそうな狐が霊夢の目に入った。紫の式である藍だ。空に目を凝らしているのは、主人の代わりに結界の状態を見ているのだろう。
霊夢は物は試しと背後から声を掛けた。
「いいところに居たわ。ちょっと頼みがあるんだけど」
「な、なんだ急に、悪いけど今は忙しいんだ」
「どうせ退屈な小間使いでしょう。私に付き合ってくれたくれた方が楽しいわよ、たぶん」
「小間使いとはなんだ。これも名誉ある役回りの一つだ」
つんとそっぽ向いてしまう。流石に言い方が不味かっただろうか、霊夢は少し後悔したが、直ぐに向き直った。
「……それで頼みって言うのは?」
名誉の沈黙は十秒ほどで崩された。
結界を見るついでなら、という名目で歩きながら藍は話を聞いてくれた。霊夢が簡単に事を説明すると、存外に下らないと笑った。
「ずいぶんと楽しそうじゃないか」
「楽しくないの。なんか言ってやってよ、仕事の邪魔しないでって」
「そっくりそのまま、お前にも言いたいよ」
「このままだと、おかしくなって結界にヒビ入れちゃうかもしれない。紫と藍の関係にもね」
「変な脅しはやめてくれ……私は狐の大将じゃないんだ、鶴の一声とはならないさ」
「あんたまで、それじゃあ私の平穏な毎日はどうなるのよ」
藍が少し空を見上げた。
「まあ狐と狸は水と油より交わらないよ、うん。諦めるんだね」
霊夢は渋そうな顔をして、小石を蹴飛ばした。すると藍が「でも」と腕を組んだ。
「狐や狸のしっぽを掴む……いや、見ることくらいはできるかも」
「ほんとに?」霊夢はぱっと顔を綻ばせ、藍に詰め寄る。
「かも、だぞ。保証は出来ないが……狐の窓って知っているか?」
「狐の惑って……ああ、確か──」
聞き覚えのある言葉に霊夢は手を前に出して考える。
狐の窓は両手で作るおまじないみたいな物だ。というのは覚えていたが、形は作れない。
「まず互い違いに手の甲を合わせる。そこから右手の人差し指を左手の小指の後ろ、左手も同じように右手の小指の下にもってくる。ここからちょっと指が辛いが中指と薬指を斜めにして親指の腹に当てて、最後に真ん中から向こう側をみる」
「いや、全然わかんないんだけど」
手本を見せてくれるが、霊夢の手は既に団子状態になっている。
藍は手を解いて頭を掻いた。かみ砕いた説明を考えているらしい。少しすると手で影絵の狐を作り霊夢に向けた。
「……まず手で二つ狐を作る。片手をねじって頭をぶつけさせる形にして、手を開く。後は少し手をずらして、中指と薬指を親指まで持ってくれば、人差し指と中指の間から覗けるようになる」
「えーと、こうかしら?」
「ああ、ちょっと違うな」
「もう一回やって」
「こうだよ」
「もう一回!」
というやり取りを幾度か繰り返し、霊夢も狐の窓を作ることが出来た。
「これって、覗くと見えない物が見えるようになる、おまじないよね」
「外の世界ではあやかし等を見るため最近まで使われていた手法だよ。幻想郷では使われないけどな」
それはそうだろう、と霊夢は思った。妖怪が見えないなんて、河童の光学迷彩ぐらいなものだから必要は無い。迷彩すら目をこらせば見えるのだが。
霊夢は試しに狐の窓のまま辺りを見るが、いつも通りで何も変わらない。
これで本当に事が解決するのかは疑問だった。
「別に狐狸が見えないわけじゃないのよ、狐狸に見えないだけで……」
「似たようなもんさ、普通に見えてしまっているのが見えないと言うことさ」
藍が自信ありげな顔をした。
「まあやるだけやってみるわ、百聞は一見にしかず、よね」
「昔から狐の窓はここぞと言うときに使う物だ。あまり無闇に使うなよ」
「わかった」
霊夢は早速試そうと神社に戻った。
相変わらずおかしな所は寸分無い。縁側から座敷に向かって仁王立ちし、狐の窓を作って中をのぞき込んだ。途端にあっ、声を漏れそうになるのを寸前の所で押さえた。
そこから見た部屋の隅、箪笥から狸の尻尾が生えていたのだ。さらに目を凝らすとうっすらと全体的に毛が立っている。
狐の窓の外から見てみると、いつもの箪笥だ。
本当に効果があったのだ。霊夢はほくそ笑みつつ、奥の台所から漬け物石を持ってきた。抜き足差し足忍び足の心で箪笥に近づく。無論鉄槌を下す為である。
しかし箪笥はぽんと狸の姿を現し、必死な形相で逃げていった。心で舌打ちしつつ、霊夢は再び狐の窓を作って部屋を見回した。
床の間の壷から狐の尻尾が生えている。しめしめ、と漬け物石を手に近づくと、その壷も狐に戻って逃げてしまった。
驚かすのだから、周りが見えていないわけがない。漬け物石を持って来られたら不審に思うのも当然だ。気づいた霊夢は漬け物石を戻し、狐の窓で神社の隅々まで見る事にした。
するといつの間に化けたのか、境内の石や木から文机や風呂桶、果ては針や下足にまで化けていた。全て素知らぬ顔をして近づいて蹴飛ばし追い出した。
ついには狐の窓でも何も見えなくなった。
「これでのんびりできるわ」
その夜は一人勝利の余韻に浸りつつ、祝杯を傾けた。
だが狐狸も一度で音を上げる程、やわでは無かった。
翌日、気を抜いていた霊夢はしゃもじに往復ビンタを喰らい、座布団から振り落とされた。これで終わりではない、むしろ開戦だったのだ。そう悟った霊夢は徹底抗戦を心に決め、狐の窓を照準代わりに見つけた狐狸を片っ端から追い出すことにした。
初めの二三日こそ狐狸も元々ある静物に化けただけだったが、四日もすると魔理沙や参拝客に化けて出るようになり、五日目には人の持ってきた奉納品や水たまりと、ゲリラ的な攻撃が始まった。最早狐狸の間の化かし合いではなく、霊夢と狐狸の根比べと化していた。
霊夢は寝るとき以外は殆ど常時狐の窓をするようになった。いざと言うときに、という藍の言葉は覚えていたが、常にいざという時と言わざるを得ない状況だ。実際に狐の窓を使わない間は苦汁を嘗める事になり、使ってようやく一時の平穏が訪れる状況だった。
それでも一週間を過ぎると狐狸の数は減り始め、二週間が過ぎると、神社から姿が見えなくなった。
狐の窓を前に、ついに連中は音を上げたのか。いやしかし……。
「だったらもうしなくて良いんじゃないか?」
魔理沙が口元を上げる。
「全然駄目よ、あいつらは暫く間を置いてまた攻撃するに決まってる」
霊夢が狐の窓越しに魔理沙を見る。もうすっかり疑心暗鬼に陥り、狐の窓が欠かせない、しないと落ち着けない。こうして人と会うときも構わずに使っていた。
「まあ、私が持ってきた栗にまで化けてた時は驚いたがな」
「奴らの手先になったのかと思ったわ」
睨みを効かす霊夢に魔理沙は目を反らして笑った。
「ははは……お、咲夜が来たぞ。あれも化けてないか確かめてくれ」
霊夢も顔を向けると、咲夜が紅葉を背景にこちらに向かっている。咲夜にしてはゆっくりと歩いて来ている点と日傘が怪しいが、尻尾は無い。
「ふふん、あれは本物。けど日傘してるなんて珍しいわね」
「いつもの傘持ち役だろ」
「だってレミリアが居ないじゃない」
「いや、居るじゃないか」
「いないでしょ?」
「ん?」
霊夢が不思議そうに辺りを見回している間に、咲夜は縁側まで来ていた。
「ご機嫌よう霊夢。狐と狸がいっぱい居るそうなので、一匹ずつ下さいな」
咲夜はとびきりの愛想笑いだった。
「今は何処かに隠れてるから、自分で探さないと駄目よ」
「もう全部絞め終えていて、倉庫に隠してあるの?」
「胃袋の中かもしれないぞ」
「だったらどんなに嬉しい事やらね。今は野に罠でも仕掛けた方が早く捕まると思う」
「残念ですわ。わざわざお嬢様も楽しみに来て下さったのに……」
霊夢は顔をしかめた。
「二人して私を騙そうとしているの? レミリアなんて居ないでしょう?」
それを聞いて咲夜と魔理沙は頭をかしげ、日傘の影を見た。
「変なポーズが原因なんですか?」
「霊夢、その狐の窓をやめろとレミリアが言ってるぞ」
「何言ってのよ」見えないレミリアの言葉に怪しみつつも、霊夢は狐の窓を解いてみた。
すると日傘の下に、ひどくつまらなさそうな顔をしているレミリアが現われた。
「で、出た!」
「出たんじゃない居たんだよ。霊夢の付き合いが悪いと話題になってたけど、今のが原因だね」
「てっきり狐狸のせいで、いじけてるのかと思ってたんですけどね」
咲夜とレミリアは顔を見合わせた。
「そんな噂あったの?」
「私も狐狸の相手でいらついてるのかと思ってたんだけどな」
魔理沙が言うには、最近の霊夢は声を掛けても無視したり、躍り出て見ても完全無視してきてつまらない。という話が妖怪たちの間で少し噂になっていたらしい。
そんな噂が出始めたころ、魔理沙は神社に来たが、いつも通り接していられたので、完全にデマかと思っていたのだ。
もちろんそんな覚えは霊夢に全くなかった。覚えがあるのは、ずっと狐の窓をして狐狸と交戦していた事だ。だがさっきのレミリアの事を考えると、大方の予想はつく。
「つまり狐の窓をしていると妖怪が見えないし、聞こえないってこと?」
「それだけじゃないわ、触ることもできないみたい。これ文屋からもらった写真だけど」
咲夜が懐から写真を取り出して霊夢に見せた。
その写真には、萃香の右手が狐の窓を作った霊夢の頭を貫通しているという、ショッキングな写真だった。青ざめて頭を撫でてみるが、穴は空いていない。
「私からは霊夢の姿は見えたけどさ、そっちからは何も感知できないってわけね」
「こんな写真、新聞に載せられないって事で偶々貰ったけど、見たときはびっくりしたわ」
「私はあの新聞に倫理観があったことに驚きだな」
「なら撮んなきゃいいのに、こんな不気味な写真撮って……」
霊夢はまじまじと写真を眺めた。萃香も文も、ここ最近全く見覚えが無い。不思議な感覚だ。
「とにかく不愉快だから、やらないでよ」
レミリアが口をとがらせる。霊夢は生返事しつつ、これは中々面白いと思った。
それから霊夢は様々な所で狐の窓越しに風景を見る様になった。見えなくなるのは妖怪だけでは無い。幽霊も、妖精も、精霊も、実体が有るはずの神も。何も見えないようだ。
妖怪の居ない妖怪の山。閑静な妖怪寺。メイド一人の紅魔館。妖精や精霊すら見えない。
どれも新鮮な景色で霊夢は心躍らせた。ここまで静かで穏やかで、それでいて微かにノスタルジックな幻想郷を今まで見た事が無い。観光気分で幻想郷を眺めた。
狐狸はあれから出ていない。飛び回って景色を見に行くことには霊夢も直ぐに飽きたが、神社では相変わらず常時しているようになってしまった。静かな神社は清い感じがする。
妖怪達は何も反応してくれない巫女がつまらないので、木の枝や石を投げて気づかせることが一つの挨拶となった。
霊夢は縁側で狐の窓を使い、外を眺めていた。
妖怪相手に今までどれ程苦しめられたことか、振り返ればいくらでも苦虫を噛む事ができた。
最終的には叩きのめしたとしても、異変も怪異も人は見たいとは思ってはいなかった筈で、見ずに済むならそれが良いのかもしれない。人間として、見ない努力も大切に違いない。狐の窓はまさしく人のできる見ない努力に違いないのだ。
霊夢はそんなふうに考え始めていた。
そんな調子で一か月が過ぎると、妖怪自体が顔を出す回数も減り、狐の窓を時々外しても神社で妖怪を見る事は無かった。
ある日、霊夢が賽銭箱を覗き、やっぱり無いものは狐の窓を使っても見えないのだと実感していると、横から石が投入された。
久々に妖怪が喧嘩を売りたいらしい。霊夢は怠そうに振り向き狐の窓を解いてみるが、周りには誰もいなかった。気のせいかと頷きかけるも、石が賽銭箱に飛び込んでくるはずはない。
はてな、と考えつつ辺りを見回していると、木ががさりと揺れた。猿でもいるのだろうかと近づいても、何も見えなかった。
しかし木の葉が勝手にざわめきを起こし、それが徐々に遠ざかって行く。霊夢は口をあけてその様子を見ていた。霊夢は嫌な予感がして、空に飛び出した。
それが何だったのか、考えて出た結論は、狐の窓をしなくても妖怪が見えなくなった、ということだ。今度は焦りに突き動かされ妖怪の山や霧の湖で妖怪を探し回ったが、とにもかくにも妖怪も妖精もいやしない。
見えない物が見える狐の窓を作っても、見ることは叶わなかった。狐の窓を覗きすぎて、目が慣れてしまったのか。いや、壊れてしまったのだろうか。
うつろな気持ちになりつつ、霊夢は神社に戻った。自分で見えなくしといて、本当に見えなくなって慌てるなんて、馬鹿らしいなと思ったが、見えないと見ないでは訳が違う。
でもなったものは仕方ない、こんな事はきっと一時的なことだろう。元に戻ったら、もう狐の窓はやめれば良い。
そう胸の内に決心してから、実に一か月が経ってしまった。
霊夢が妖怪を見えなくなった事は直ぐに幻想郷に広まり、里や妖怪の界隈で密かな話題となっていた。
うるさい妖怪記者が神社に問い詰めに来ることは無いが、新聞は置いて行くので、幸か不幸かどういう認識されているのかは霊夢も知ることが出来た。さらに写真の中の妖怪は見えるので、多少は妖怪を感じることは出来る。
どうにも皆どういう風に接して良いのか分からないらしい。実際に霊夢自身もどう接して良いのかは決めかねていた。このままでは今まで通り、というのは不可能だし。手紙位はできそうだが、弾幕ごっこをしてきた今まではあまりに違いすぎた。
見えないのなら、いっそ交流を断つ方が後腐れもないだろうか。
新聞を見ると、ぼーっと賽銭箱の中を確かめている自分の写真があった。
少なくとも見えないことを逆手にとり、正面から隠し撮りする天狗はとっちめたい。
怒りの炎を燃やしていると「おはようございます」と声が聞こえた。
「お土産もって来ましたよ」
「あら、早苗がお土産なんて珍しい、ちょっと待ってね」
朝の陽を背に現われたのは、山の神社の風祝だ。霊夢は急須をのぞき込んで、お茶の準備をする。
狐の窓のせいか、神奈子や諏訪子も見えなくなってしまった。しかし現人神である早苗は、変わらず見ることが出来る。神様のお客様と呼べるのは早苗だけだ。お茶を出すと、早苗が申し訳なさそうな顔をした。
「ありがとうございます。でも、お土産は食べ物じゃないんですよね」
「なんだ、てっきりお煎餅でも持ってきたのかと」
座卓の隅に二つの湯呑を置かれると、早苗はウグイス色の風呂敷を真ん中に置いた。中には細長い棒が入っていた。
「お土産の望遠鏡です」
「望遠鏡? なんか随分小さいわね……やたら軽いし」
「学研の付録なんで、ちゃちいのは我慢してくださいね」
「ガッケンて知らないけど」
受け取った霊夢は早速片目で覗き込んで、早苗の顔に向ける。近すぎて肌色のぼんやりしか見えなかった。
「くれるなら貰っておくけど。でもなんで私に?」
「霊夢さんは妖怪が見えなくて、寂しいかと思いまして」
「思ったよりは平気よ、退屈だけどね」
「あら、そうなんですか?」
早苗が少し残念そうな顔をする。でも本心だった、どうなるか心配していたが、そのうち見えると思って過ごしているうちに、特別な問題は無かった。それは人の適応力だろうと霊夢は考えている。
「退屈もこれで星でも見れば、少しは気がまぎれるかしら」
「いえ、見えない物を見ようとして、望遠鏡を覗き込むのが外の世界のトレンドなんですよ」
急に視界が暗くなる。
伏せてた目を開くと早苗が望遠鏡を反対から覗き込んでいた。
「嘘くさいわね、それだけで見えるなら皆苦労しないでしょう」
「それだけじゃないですよ、午前二時に見るんです」
「牛三つ時に、見えない物を見るって……肝試しの話?」
「天体観測です」
霊夢がため息をつくと、早苗は改まってお茶をすすった。
「でも霊夢さんが平気ならよかったです、なんとなく霊夢さんみたいな状況わかりますから」
「あんたも見えない時とかあったの?」
早苗は小さく禿を振った。
「外の世界では、妖怪が見えない人も沢山いましたから、巫女でも見えない人なんてざらでしたよ」
「そんなんで本当に巫女できるの、って今の私が言えたことじゃないけどさ」
「あはは、今は私もそう思います。でもきっと、妖怪が見えなくてもやることって沢山あるんだと思いますよ。巫女も普通の人も」
「やること、ねぇ……。もしかして私に喝を入れに来たってわけ」
このところ霊夢は神社の中で暇を持て余していた。妖怪退治を休業せざるを得ない今、何をしたらいいのかは分からずにいる。新聞に撮られた通り、賽銭箱を眺める日々だ。
「そんなことは……ただ見えないからって巫女辞めないで欲しいな、なんて思ったんです」
早苗はおどける様に言って目尻を下げた。きっと仲間が居なくなるのが寂しい、と思ってくれているのだろう。なんせ幻想郷に巫女は自分しか居なかったのだから。
「外の巫女みたいには行かないだろうけど、まあなんかやってみるわ」
それから霊夢は時々望遠鏡を覗く様になった。早苗の言うとおり遠望性能は今ひとつだが、月や星を大きく見るには悪くない。飛んでいる野鳥も観察できて、ハヤブサが鼠を掴んでいるところや、カラスがネックレスを加えている所も見えた。妖怪は見えなかったが、普段見えない物が見えるという意味では、やっぱり見えない物が見えているのだろうか。
見えなくなった事ばかり考えていたけれど、今まで見てこなかった物も沢山有るのだなと霊夢は思った。少し新しいことをしてみたら、また何か見えるのだろうか。
ある日思い立ち、霊夢は人里で地道な布教活動を始めた。
自分の神社の神は弱いので勧めるのは程々にして、屋敷神の祀り方や移動の作法を教えると感謝された。時には簡単な勧請も請け負って、呼んで見守ってくれるように頼んだりすると、里の人はありがとうと言ってくれる。それもまた新しい景色だ。
勧請にせよきちんと呼べている保証はないし、今まで見えていた神もうっすら感じるだけで、呼び出されて機嫌を損ねている可能性もある。霊夢は不安だったが、不思議と里の人はそれでも喜んでくれていた。
神様なんて見えない奴が言う方が、信じられるのだろうか。
そうして少しずつだが、神社の信仰を得ていった。それは祭神の底力、というより霊夢の努力だ。
もう見えなくなってから、二か月が経った。
霊夢にとって神社は寂しい場所と化し、昼間は開けることが多くなった。
朝起きて、朝食を食べて、ふと号外の新聞に気付いた。神社と巫女の記事はめっきりと減ったが、その日は偶々昔の写真が載っていた。
宴会の雰囲気を盛り上げるグッズとやらの効果を試すために、以前の写真と比べたらしい。
見たところ、大して効果は無いようである。
しかし、以前の自分の姿に違和感を覚えた。写真に写っている自分の気持ちもが全く思い出せない。私は妖怪といるのが楽しかったのだろうか、写真の中の自分と確かな隔たりを感じる。写真の中は異世界の様にしか思えなかった。
あ、こんな事してる場合じゃ無い。と霊夢は気を取り直して、手荷物の準備をした、今日は勧請縄の張り方をレクチャーする予定がある。編んだ見本を手にして確認していると、来客らしい足音がして霊夢は顔を上げた。
「御機嫌よう。案外忙しそうで安心ね」
咲夜だった。紅魔館に行く機会が皆無となってからは、殆ど会っていなかった。
「久しぶり! 元気そうね」霊夢は直ぐさま咲夜の前に行く。
「えっと今日はちょっと忙しいけど、今度一緒にお酒でも飲まない?」
「随分と俗っぽい感じになったわね、お嬢様が居るから夜は難しいわよ?」
霊夢は照れ笑いしつつ、縄を伸ばしたり縮めたりした。
「それで今日はどうしたのよ、言ってくれれば何か用意したのに」
「いきなりで悪いけど、これ咥えて欲しいの」
咲夜が畳まれたハンカチを取り出し、丁寧に四方をめくった。先端が金属のガラス棒が出てきて、よく見ると目盛が入っている。串程度の長さからすると、体温計だ。
「なんで体温なんふぁっ!」
有無を言わさず霊夢の口に体温計が突っ込まれる。仕方ないのでもごもごと舌の裏に追いやった。
「お嬢様が計ってこいって言うものだから……水銀飲みたくなかったら、喋らないほうがいいわよ」
「まったく、私が変な風邪ひいたと思ってるのかしら」
「似たような物じゃないの? 早く正気に戻ってよね、皆退屈してるのだから」
「私は正気よ」
咲夜が不服そうな顔をするが、霊夢は黙って体温計を上下させた。
こんなことしていると、本当に病人の気がしていけない。……自分は病人なのだろうか、実は一度だけ永遠亭に行って調べてもらったこともあった。その時は、心理的な物だと門前払いに終わった。
「こうして里の人の信用も少し得られたのよ。結界も支障はなさそうだし。これはこれで良いのよ、たぶんね」
「本当にそれでいいの? 眼を逸らしているだけ、なんじゃないの」
「私は見ようとしてるわよ、でも見えないんだから、しょうがないじゃない」
あまりこういう話はしたくないな、と霊夢は体温計を口から出して見た。三十六度九分だから、概ね健康体だろう。咲夜もじっと温度を確認すると、ハンカチだけ懐に収めた。
「その体温計上げるから、風邪ひいたらちゃんと医者に行くのよ」
「こんなの貰わなくても気分が悪ければ医者に行くわよ」
「そういう人に限って行かないもの」
咲夜なりの心配なのだろうか、だとしたら凄い歪だ。霊夢は口元を緩めた。
「自分のことは、自分が一番分かるなんて、思わない方が得策よ」
「はいはい、分かったわよ」
霊夢は可笑しいのをこらえつつ、薬箱の中に体温計を仕舞った。
咲夜は任務完了したからとすぐに帰ってしまった。
折角貰った体温計。毎日体温を測ろうかと思ったが、馬鹿らしいと思って直ぐに辞めてしまった。それでもどうにか使おうとしたが、三十五度から四十二度までしか計れないのでどうにも使いにくい。
一度温泉の温度を計ってみたら四十度だった。ふと思いつき、ぬる燗をやるときに酒の温度を計るのに便利だと気づいた。それから霊夢は夜に一人でぬる燗を呑むことが増えた。
一人でもぬる燗で呑むと、少し寂しくなった神社に暖かみが出来る気がした。
三ヶ月経ったころ、霊夢は人里での仕事も身が入らずに、ぼーっとしていることが多くなった。咲夜の一言が想像以上に後を引いていた。
早苗の言うように、やれる事は見えてきたが、考えてみるとそれは逃避なのかもしれない。
本当にやるべきことは、やっぱり妖怪退治だったんじゃないだろうか。そう考えはするのだが馴れというのは無慈悲で、妖怪が見えなくても生きていけるのだから、今を頑張ればいいでは無いか、とも思えてくる。そちらの方が手頃な未来だ。
気晴らしを兼ねて里に出ていると、不意に酒屋に呼び止められ一斗の酒樽を貰った。
この前、軒先に吊るす杉玉を協力して作ったので、そのお礼とのことだ。気前は良いが、できれば神社に送って欲しかったと霊夢は複雑だった。
休憩を数十回と挟んでようやく神社に戻ることができた。とんだ気晴らしになってしまったと悔いていると、人影がある。
「おーい、遊びに来たのに、何だその酒は」
この陽気な声は魔理沙だと直ぐにわかった。なぜか唐草模様の風呂敷を背にし盗人の恰好だ。結構膨らんでいて重そうにしている。霊夢は酒を賽銭箱の横に仮置きして、お茶を入れることにした。先ほどまでの重労働で手は震えるがどうにか湯呑に収めた
「で、今日は何の用なの」
「今日は異変の様子見といった所かな」
霊夢は少しひるんだ。魔理沙は相変わらずよく遊びに来ているのだが、あまり異変がらみの話はしなかったのだ。きっと気を使っているのだろうと霊夢は考えていた。新聞を見る限り大した出来事も無かったようだが。それなのに、何の異変か。
「そうなんだ、どんな異変があったの?」
「名付けて、霊夢妖怪見えなくなる異変かな」
「なんだ私のこと? 異変という程の事じゃないわよ」
「十分に異変だろう。まあ、妖怪の連中も結構思うところあるらしいんだ。そこで私の見せ場ってことになったのさ」
「見せ場って、何するつもりなのよ」
「正直、私もあまりやりたく無いんだけどな、恥ずかしいし……」
照れ笑いしつつ、魔理沙は風呂敷をごそごそとした。中から出されたのは、修験者のつける梵天がくっついている頭襟だ。
よく天狗がつけている物だったなと霊夢は少し懐かしみ、お茶を口に含んでいると魔理沙は頭襟を帽子代わりに被り、わざとらしく咳払いした。
「あやややや! 霊夢さんいい加減インタビューさせてくださいよ!」
「ぶふっ!」
霊夢は思わずお吹き出した。
「な、なにそれ、文の真似してるつもり?」
「私も恥ずかしいと言っただろう、次やるぞ」
ヤケ気味に頭襟を放ると、再び風呂敷に手を突っ込み今度は蝙蝠傘を改造したらしい羽と、ナイトキャップを身に着けた。そしてまた咳払いを一つ。
「いい加減目を覚まさないと、幻想郷がディストピアになっても知らないよ」
「へー、レミリアの真似? その羽良くできてるじゃない」
「素で返されると恥ずかしいから、やめて欲しい」
魔理沙はナイトキャップをくしゃくしゃにして、頭を掻いた。
その次は野暮ったい注連縄を出して「商売敵がそれじゃつまらん、もうちょっとしゃっきりしろ」とか宝塔もって「巫女が居なくなると反って妖怪の肩身が狭くなる」と言ってみたり。
青いリボンを付けて「無敵状態はずるい」と言われたり、よくもまあこんなに小道具の用意と言葉を覚えたなと霊夢は素直に感心した。
「何だか懐かしいわね」
自然と笑みがこぼれた。
「言ってることは全部本当だからな。まあ写真で見れるみたいだが、こうやったほうが伝わると皆が言うもんでな」
「誰の入れ知恵よ」
「マミゾウだよ」と言うと今度は眼鏡を掛け葉っぱを頭に乗せた。
「狐狸共も申し訳ないと思っておる。あの時は力に成れなくて、すまんかったのう。じゃが儂と話したことも思い出して欲しいぞい」
「なるほどね、実に狸らしい発想だわ」
「だな、まあ他の奴にもこの案は好評でな」
今度は葉っぱだけ取ると額に指を当てた。
「やれやれ霊夢は思いこみで何でも出来てしまうから、たまには僕みたいに客観的な視点を持った方が良いよ」
「手抜き過ぎでしょ。それに私霖之助さんは見えるわよ」
「まあノリだよ、それに私も香霖の真似はしてみたかったから」
「馬鹿ねえ」と、霊夢は笑った。可笑しいのは魔理沙の言葉だけでなく、見えないはずの妖怪達をこうして身振りで教えてくれるのが、とても愉快だった。
それはどことなく似ていると霊夢は思った。
まるで──
「巫女みたいだわ」
「何言ってんだ。巫女の真似はしてないぞ」
「そうね」
一通り終えると、魔理沙が散らばった道具を風呂敷に押しこんだ。霊夢は小さな拍手で労う。
「おわり? お疲れ様、なかなか楽しかったわ」
「最後は私が言いたいことを言おう」
お茶で喉を潤してから、魔理沙は続けた。
「やっぱりお前は妖怪が見えないと困る」
「別に困ってないけど……」
「いいや、困ってるだろう。現に最近は元気がないって里で噂されてるぞ」
霊夢は少し驚いた、そんな噂が有った事を全く知らなかった。よく考えてみると酒樽をくれたのも、気遣ってくれていたのかもしれない。
「里の人の事も、見えてなかったのかしらね」
初めに妖怪が見えなくなっていた時と同じ気分だ。
「さてな、とにかく元気があるほうが霊夢らしい、と皆思っているわけだ」
「別に風邪ひいてるわけじゃないし。見えない物はどうしようもない」
霊夢がため息まじりに言うと、魔理沙は見よとばかりに手を重ねた。まさしく狐の窓だった。
「マミゾウや藍に聞いたことだがな、狐の窓は見えないものを見えるようにするらしい」
「何を今更、だから私はそれで狐狸を見てたのよ」
「ああ、でもその時点でおかしい。この世には本当は見えないものなんてそれこそ山のようにある。全部見えている訳じゃない。それは道具屋に居た私が保証しよう」
「道具屋に保証されるのもおかしな話ね」
「世の中見えないものを目で見るための道具だらけさ、風向きを見るために風見鶏、温度を見るため温度計、方角見るために方位磁石……」
「ああ、確かにそう言われればそうかも。私もそんな経験あるわ」
霊夢の脳裏に望遠鏡や体温計が思い浮かばれた。
「魔法にも似た趣がある。だが見えない物は怖いぞ、見えない物にのめり込んで身を滅ぼす奴だって居るんだ」
霊夢は少しむっとした。
「何よ、私がそんなヒステリックな状態で、幻影でも見えている奴だって言いたいの?」
「そんな事言ってないだろ。ヒステリックで変な物が見えるなんて私は思わないしな。ただ身を滅ぼす可能性はありそうだと思う」
魔理沙は狐の窓を解き、その手をグーパーさせた。あまり長くやると辛いのだ。
「どういうことよ」
「本当に見えてるかもしれないが、見え過ぎると人間狂っちまうもんだ。お前も今までに見たこと無いものが見えてるんだろう」
「まあ、そうかもしれないけれど……」
「自分を見失ったら人間おしまいだぞ」
魔理沙がじっと霊夢を見る。その瞳に霊夢は自分が映っているのを見た気がした。
妖怪が見えないことで、逆に沢山の物が見えたことをで霊夢は実感していた。きっと妖怪が見えなくなったのではなく、妖怪の見えない世界が見えるようになったのだ。
その結果、妖怪と共にあった自分まで見えなくなってしまった。それは必然かもしれなかった。
「でも今あるものを見るしか、ないじゃない。違う?」
「狐の窓なんておまじないだ。おまじないてのは、自分にしか効かないもんだ。見えちゃいけない物が見えるときに、やることがあったろう」
「え?」
「ヒントはさっきのマミゾウ」
そんな物あっただろうか、霊夢は目を見張って考える。
見えない物を見るとき、狐の窓を使うのだ。三ヶ月前に狐の窓を使ったのは、狐狸が普通に見えてしまうことが、即ち見えないって事だと藍に言われたからだ。
今の状況は、普通見えない物が見えている。そういえば、狐の窓の前にやったことがあった、あの時は意味がなかったが、今使えば――。
霊夢は、おもむろに両手の人差し指を咥えた。そして目を閉じてゆっくりと眉をなぞった。要は眉唾である。
ゆっくりと瞼を上げた。前の魔理沙は満足そうな笑みを浮かべている。きっとがやれと言わんとしたことは間違ってない。霊夢は眉唾を信じて縁側に出てみた。
すると、角を生やした頭が現われた。酒の香りを漂わせ縁側でごろごろしている姿はまさしく萃香だ。霊夢があまりに自然体でいる状況に面食らっていると、萃香がむくりと起き上がって、眼と眼が合った。
「おう、久しぶり!」
「あ、うん」
霊夢は言葉を用意しておらず、気の抜けた返事しかできなかった。でも心の内で「良かった」と安堵の息を吐いた。
簡単に見えるようになり戸惑いつつも、まず最初に霊夢がしたのは、兼ねてより決めていた新聞記者へのお礼参りだ。好き勝手被写体にされた恨みを晴らし、翌日の新聞には博麗の巫女復帰が一面を飾ることになった。
幻想郷での新聞の覇権は強く、直ぐに妖怪達の耳に入り神社に顔を見せに来た。
眉唾は少しすると効力が切れてしまったが、何度かしている内にずっと見えるようになった。狐の窓とは違って三日もすると元に戻ることができた。きっと噂に聞くリバウンドという奴だろう、と霊夢は思った。
一週間もすると、最早見えない期間自体が無かったかと思うくらい全てが元の鞘に収まり、霊夢は再び妖怪にやきもきする生活に返り咲いた。人の里とは以前と同じ距離感になって、妖怪のせいで回復し掛けた参拝客は減り、何かあっては霊夢も飛んでいって退治と称して弾幕に励んだ。
そして久々に神社で霊夢は宴会を開くことになった。夜からの筈が、文や萃香がやたら早く来てうるさくするので昼間から始めた。
もともと貰った樽酒を消費できる気がしなかったから開いた宴会だが、このままでは夜までもたないかもしれない。妖怪どもには軽すぎたか。
里で過ごした時間が実を結んだような酒だから、少し惜しい気もしたが、腐らせるよりは良いだろう。変な未練になるのも避けたい。霊夢は縁側に座って遠巻きに減りゆく酒樽を眺めていた。鬼と天狗に混ざり、狐と狸が顔を赤くして飲んでいる。
なんでも霊夢が狐の窓をしていた期間を機に、結託したらしい。これだけは、狐の窓をやった前と変わった事だ。
他の事について、あの三ヶ月はずっと前の事、あるいは幻だったかもしれないと霊夢は感じていた。
眉唾で以前の感覚に戻れたのは、きっと化かされていたに違いない。狸や狐では無く、狐の窓に、それとも妖怪が見えない世界そのものだろうか?
いや、外の世界では見えない人も多いと早苗が言っていた。本当はどっちの世界も重なるように存在していて、その内のどこに身を置いているのかを自覚しておくべきなのだ。
狐の窓はそんな世界を覗く道具なのだろう。
霊夢は慣れた手で狐の窓を作った。
「おい、それはもうやるなって」
いつの間にか魔理沙が隣にいた。手には酒の入った升を手に。
「大丈夫よ、これは見える物を見えなくするわけではなくて、見えない物を見るための物だって、もうわかったから」
「じゃあ何を見るつもりなんだよ」
霊夢は少し黙って「さあね」と繋げた。「でも、私たちには見えなくても、私たちを見てる人がいるかなって」
「そりゃスキャンダル好きな天狗か、お天道様ぐらいだろ」
「どっちも見えるわよ。でも目でも合ったら面白いでしょ」
「ホラーの間違いじゃないのか」
魔理沙がやれやれと宴に戻っていった。
新聞の中が別世界に感じたが、今の自分はその新聞の中に近い状態かも知れない。見ている人がいて、狐の窓をしたらこちらからも見えるのでは無いか。そんな気がした。
この世には見えない物が沢山有るのだ。
霊夢はもう少しだけ、そう思い狐の窓から空を見上げた。
「あっ――」
それは友情だとか、愛情なんて、見え透いた陳腐な話ではなくて。
箱の中の半分死んだ猫とか、何も写ってない鏡なんて、 捻くれた物でもなくて。
もっと広大な、世界の裏側というか、そういう物だ。
もし機会があるならば、見てみたい。そう霊夢は考えていた。
いつもと変わらない空、いつもと変わらない縁側、いつもと変わらない風貌の社殿。
いつもと変わらない博麗神社だった。でもそれがハリボテだと霊夢は知っている。
深呼吸したのち、霊夢はいつもの様に箒を手に庭に出た。
途端に箒が縦横無尽に曲がり、暴れ出した。手から離すと、片足跳びでもするかのように、ひょこひょこと去って行った。
掃除を諦め座敷に上がると、今度は突然乗った畳が波打ち始めた。霊夢が飛び降りると尺取虫の要領で庭に這っていった。眉に唾を付けて見ても、畳は帰ってこなかった。
仕方が無いのでお茶でも飲むかと、そう思い急須の横手に手を伸ばせば、するりと回ってかわされた。追って手を出せば、また回る。五回ほど避けられた末、意地になって底を持った。
注いだ茶を前に勝ち誇った顔で湯呑に口をつけた瞬間、湯呑がぼんと煙をだして爆散した。
煙の後に、憎たらしい顔の狸が外に出て行く。
お茶を豪快に被った霊夢は、怒りにわなわなと拳を震わせた。
「いい加減にしないと、狸汁にするわよ!」
怒鳴り声で威嚇すると、今度は急須がぽんと正体を現した。
ぴんと耳の立つ細目の狐だった。 霊夢が睨むとすごみを感じたのか文字通りしっぽを巻いて逃げていく。しかしまだ安心など出来なかった。
神社は最近ずっとこの調子だ。
狸と狐が家具等に化けて隠れている。驚かせるのが目的らしく、近寄ったり触ったりすると面倒なことになる。一匹一匹蹴散らすのも面倒なうえ、翌日にはまた何処かに化けている。本物の家具自体も元に戻るが、まともに生活するのは絶望的だった。
布で顔を拭いつつ、我慢の限界を突破している霊夢はマミゾウに会いに行くことにした。
狐も居るが、狸が悪さしているのは変わりない、それならばあいつが咬んでいるに決まっている。名推理だった。
「それがな、儂のせいではないんじゃよ」
マミゾウは命蓮寺であっさり見つかったが、事はそう簡単では無いらしい。歯を見せて笑うマミゾウに霊夢は落胆する。
「あんたのせいじゃなくても良いから、辞めさせてよ」
「そうは言うが、狐と化け比べしているだけじゃ。稲生物怪録みたい楽しかろう?」
「楽しかない! なんで人の家でやってんのよ」
「驚き具合で勝敗を付けとるんじゃろ、お前さん面白いから」
「どういう意味よ」という霊夢の問いをマミゾウは苦笑いで無視した。
「とにかく狐との争いは双方に宿命と思うとるから、狸にだけ言っても詮ない。今は眉に唾でもつけてやり過ごしとくれ」
「眉唾は眉唾よ、やったけど全然効果無かったし」
「ふむ、化かされてる時には良いんじゃが。勝手に化けてるからか」
「他に方法は無いわけ?」
「儂に言っても解決は無理じゃ、狐に頼んでみるんじゃな。ヤケ酒なら付き合うぞい」
マミゾウが陶器の酒瓶を振ると、ちゃぽちゃぽと音がした。
「そんな気分じゃ無いの。そもそも教育が行き届いてないのが悪い、ちゃんと言うこと聞くようにしてよ」
「仮にも化け物の類じゃ、教育なんて必要ないじゃろう。やりたいなら巫女がやるんじゃな」
「ならあいつらには拳で教えてやるわ」
「体罰でもなんでもやっとくれ」
霊夢はわざとらしくため息を吐くと、肩を落とし踵を返した。
狸や狐に神経をすり減らしていくのは死活問題だ。拳で教えると言ってもきりが無いことは既に承知している。せめて何にばけて居るのか分からないと。
飛ばずに鬱々と歩いていたのが功を奏したのか、今度は話のわかりそうな狐が霊夢の目に入った。紫の式である藍だ。空に目を凝らしているのは、主人の代わりに結界の状態を見ているのだろう。
霊夢は物は試しと背後から声を掛けた。
「いいところに居たわ。ちょっと頼みがあるんだけど」
「な、なんだ急に、悪いけど今は忙しいんだ」
「どうせ退屈な小間使いでしょう。私に付き合ってくれたくれた方が楽しいわよ、たぶん」
「小間使いとはなんだ。これも名誉ある役回りの一つだ」
つんとそっぽ向いてしまう。流石に言い方が不味かっただろうか、霊夢は少し後悔したが、直ぐに向き直った。
「……それで頼みって言うのは?」
名誉の沈黙は十秒ほどで崩された。
結界を見るついでなら、という名目で歩きながら藍は話を聞いてくれた。霊夢が簡単に事を説明すると、存外に下らないと笑った。
「ずいぶんと楽しそうじゃないか」
「楽しくないの。なんか言ってやってよ、仕事の邪魔しないでって」
「そっくりそのまま、お前にも言いたいよ」
「このままだと、おかしくなって結界にヒビ入れちゃうかもしれない。紫と藍の関係にもね」
「変な脅しはやめてくれ……私は狐の大将じゃないんだ、鶴の一声とはならないさ」
「あんたまで、それじゃあ私の平穏な毎日はどうなるのよ」
藍が少し空を見上げた。
「まあ狐と狸は水と油より交わらないよ、うん。諦めるんだね」
霊夢は渋そうな顔をして、小石を蹴飛ばした。すると藍が「でも」と腕を組んだ。
「狐や狸のしっぽを掴む……いや、見ることくらいはできるかも」
「ほんとに?」霊夢はぱっと顔を綻ばせ、藍に詰め寄る。
「かも、だぞ。保証は出来ないが……狐の窓って知っているか?」
「狐の惑って……ああ、確か──」
聞き覚えのある言葉に霊夢は手を前に出して考える。
狐の窓は両手で作るおまじないみたいな物だ。というのは覚えていたが、形は作れない。
「まず互い違いに手の甲を合わせる。そこから右手の人差し指を左手の小指の後ろ、左手も同じように右手の小指の下にもってくる。ここからちょっと指が辛いが中指と薬指を斜めにして親指の腹に当てて、最後に真ん中から向こう側をみる」
「いや、全然わかんないんだけど」
手本を見せてくれるが、霊夢の手は既に団子状態になっている。
藍は手を解いて頭を掻いた。かみ砕いた説明を考えているらしい。少しすると手で影絵の狐を作り霊夢に向けた。
「……まず手で二つ狐を作る。片手をねじって頭をぶつけさせる形にして、手を開く。後は少し手をずらして、中指と薬指を親指まで持ってくれば、人差し指と中指の間から覗けるようになる」
「えーと、こうかしら?」
「ああ、ちょっと違うな」
「もう一回やって」
「こうだよ」
「もう一回!」
というやり取りを幾度か繰り返し、霊夢も狐の窓を作ることが出来た。
「これって、覗くと見えない物が見えるようになる、おまじないよね」
「外の世界ではあやかし等を見るため最近まで使われていた手法だよ。幻想郷では使われないけどな」
それはそうだろう、と霊夢は思った。妖怪が見えないなんて、河童の光学迷彩ぐらいなものだから必要は無い。迷彩すら目をこらせば見えるのだが。
霊夢は試しに狐の窓のまま辺りを見るが、いつも通りで何も変わらない。
これで本当に事が解決するのかは疑問だった。
「別に狐狸が見えないわけじゃないのよ、狐狸に見えないだけで……」
「似たようなもんさ、普通に見えてしまっているのが見えないと言うことさ」
藍が自信ありげな顔をした。
「まあやるだけやってみるわ、百聞は一見にしかず、よね」
「昔から狐の窓はここぞと言うときに使う物だ。あまり無闇に使うなよ」
「わかった」
霊夢は早速試そうと神社に戻った。
相変わらずおかしな所は寸分無い。縁側から座敷に向かって仁王立ちし、狐の窓を作って中をのぞき込んだ。途端にあっ、声を漏れそうになるのを寸前の所で押さえた。
そこから見た部屋の隅、箪笥から狸の尻尾が生えていたのだ。さらに目を凝らすとうっすらと全体的に毛が立っている。
狐の窓の外から見てみると、いつもの箪笥だ。
本当に効果があったのだ。霊夢はほくそ笑みつつ、奥の台所から漬け物石を持ってきた。抜き足差し足忍び足の心で箪笥に近づく。無論鉄槌を下す為である。
しかし箪笥はぽんと狸の姿を現し、必死な形相で逃げていった。心で舌打ちしつつ、霊夢は再び狐の窓を作って部屋を見回した。
床の間の壷から狐の尻尾が生えている。しめしめ、と漬け物石を手に近づくと、その壷も狐に戻って逃げてしまった。
驚かすのだから、周りが見えていないわけがない。漬け物石を持って来られたら不審に思うのも当然だ。気づいた霊夢は漬け物石を戻し、狐の窓で神社の隅々まで見る事にした。
するといつの間に化けたのか、境内の石や木から文机や風呂桶、果ては針や下足にまで化けていた。全て素知らぬ顔をして近づいて蹴飛ばし追い出した。
ついには狐の窓でも何も見えなくなった。
「これでのんびりできるわ」
その夜は一人勝利の余韻に浸りつつ、祝杯を傾けた。
だが狐狸も一度で音を上げる程、やわでは無かった。
翌日、気を抜いていた霊夢はしゃもじに往復ビンタを喰らい、座布団から振り落とされた。これで終わりではない、むしろ開戦だったのだ。そう悟った霊夢は徹底抗戦を心に決め、狐の窓を照準代わりに見つけた狐狸を片っ端から追い出すことにした。
初めの二三日こそ狐狸も元々ある静物に化けただけだったが、四日もすると魔理沙や参拝客に化けて出るようになり、五日目には人の持ってきた奉納品や水たまりと、ゲリラ的な攻撃が始まった。最早狐狸の間の化かし合いではなく、霊夢と狐狸の根比べと化していた。
霊夢は寝るとき以外は殆ど常時狐の窓をするようになった。いざと言うときに、という藍の言葉は覚えていたが、常にいざという時と言わざるを得ない状況だ。実際に狐の窓を使わない間は苦汁を嘗める事になり、使ってようやく一時の平穏が訪れる状況だった。
それでも一週間を過ぎると狐狸の数は減り始め、二週間が過ぎると、神社から姿が見えなくなった。
狐の窓を前に、ついに連中は音を上げたのか。いやしかし……。
「だったらもうしなくて良いんじゃないか?」
魔理沙が口元を上げる。
「全然駄目よ、あいつらは暫く間を置いてまた攻撃するに決まってる」
霊夢が狐の窓越しに魔理沙を見る。もうすっかり疑心暗鬼に陥り、狐の窓が欠かせない、しないと落ち着けない。こうして人と会うときも構わずに使っていた。
「まあ、私が持ってきた栗にまで化けてた時は驚いたがな」
「奴らの手先になったのかと思ったわ」
睨みを効かす霊夢に魔理沙は目を反らして笑った。
「ははは……お、咲夜が来たぞ。あれも化けてないか確かめてくれ」
霊夢も顔を向けると、咲夜が紅葉を背景にこちらに向かっている。咲夜にしてはゆっくりと歩いて来ている点と日傘が怪しいが、尻尾は無い。
「ふふん、あれは本物。けど日傘してるなんて珍しいわね」
「いつもの傘持ち役だろ」
「だってレミリアが居ないじゃない」
「いや、居るじゃないか」
「いないでしょ?」
「ん?」
霊夢が不思議そうに辺りを見回している間に、咲夜は縁側まで来ていた。
「ご機嫌よう霊夢。狐と狸がいっぱい居るそうなので、一匹ずつ下さいな」
咲夜はとびきりの愛想笑いだった。
「今は何処かに隠れてるから、自分で探さないと駄目よ」
「もう全部絞め終えていて、倉庫に隠してあるの?」
「胃袋の中かもしれないぞ」
「だったらどんなに嬉しい事やらね。今は野に罠でも仕掛けた方が早く捕まると思う」
「残念ですわ。わざわざお嬢様も楽しみに来て下さったのに……」
霊夢は顔をしかめた。
「二人して私を騙そうとしているの? レミリアなんて居ないでしょう?」
それを聞いて咲夜と魔理沙は頭をかしげ、日傘の影を見た。
「変なポーズが原因なんですか?」
「霊夢、その狐の窓をやめろとレミリアが言ってるぞ」
「何言ってのよ」見えないレミリアの言葉に怪しみつつも、霊夢は狐の窓を解いてみた。
すると日傘の下に、ひどくつまらなさそうな顔をしているレミリアが現われた。
「で、出た!」
「出たんじゃない居たんだよ。霊夢の付き合いが悪いと話題になってたけど、今のが原因だね」
「てっきり狐狸のせいで、いじけてるのかと思ってたんですけどね」
咲夜とレミリアは顔を見合わせた。
「そんな噂あったの?」
「私も狐狸の相手でいらついてるのかと思ってたんだけどな」
魔理沙が言うには、最近の霊夢は声を掛けても無視したり、躍り出て見ても完全無視してきてつまらない。という話が妖怪たちの間で少し噂になっていたらしい。
そんな噂が出始めたころ、魔理沙は神社に来たが、いつも通り接していられたので、完全にデマかと思っていたのだ。
もちろんそんな覚えは霊夢に全くなかった。覚えがあるのは、ずっと狐の窓をして狐狸と交戦していた事だ。だがさっきのレミリアの事を考えると、大方の予想はつく。
「つまり狐の窓をしていると妖怪が見えないし、聞こえないってこと?」
「それだけじゃないわ、触ることもできないみたい。これ文屋からもらった写真だけど」
咲夜が懐から写真を取り出して霊夢に見せた。
その写真には、萃香の右手が狐の窓を作った霊夢の頭を貫通しているという、ショッキングな写真だった。青ざめて頭を撫でてみるが、穴は空いていない。
「私からは霊夢の姿は見えたけどさ、そっちからは何も感知できないってわけね」
「こんな写真、新聞に載せられないって事で偶々貰ったけど、見たときはびっくりしたわ」
「私はあの新聞に倫理観があったことに驚きだな」
「なら撮んなきゃいいのに、こんな不気味な写真撮って……」
霊夢はまじまじと写真を眺めた。萃香も文も、ここ最近全く見覚えが無い。不思議な感覚だ。
「とにかく不愉快だから、やらないでよ」
レミリアが口をとがらせる。霊夢は生返事しつつ、これは中々面白いと思った。
それから霊夢は様々な所で狐の窓越しに風景を見る様になった。見えなくなるのは妖怪だけでは無い。幽霊も、妖精も、精霊も、実体が有るはずの神も。何も見えないようだ。
妖怪の居ない妖怪の山。閑静な妖怪寺。メイド一人の紅魔館。妖精や精霊すら見えない。
どれも新鮮な景色で霊夢は心躍らせた。ここまで静かで穏やかで、それでいて微かにノスタルジックな幻想郷を今まで見た事が無い。観光気分で幻想郷を眺めた。
狐狸はあれから出ていない。飛び回って景色を見に行くことには霊夢も直ぐに飽きたが、神社では相変わらず常時しているようになってしまった。静かな神社は清い感じがする。
妖怪達は何も反応してくれない巫女がつまらないので、木の枝や石を投げて気づかせることが一つの挨拶となった。
霊夢は縁側で狐の窓を使い、外を眺めていた。
妖怪相手に今までどれ程苦しめられたことか、振り返ればいくらでも苦虫を噛む事ができた。
最終的には叩きのめしたとしても、異変も怪異も人は見たいとは思ってはいなかった筈で、見ずに済むならそれが良いのかもしれない。人間として、見ない努力も大切に違いない。狐の窓はまさしく人のできる見ない努力に違いないのだ。
霊夢はそんなふうに考え始めていた。
そんな調子で一か月が過ぎると、妖怪自体が顔を出す回数も減り、狐の窓を時々外しても神社で妖怪を見る事は無かった。
ある日、霊夢が賽銭箱を覗き、やっぱり無いものは狐の窓を使っても見えないのだと実感していると、横から石が投入された。
久々に妖怪が喧嘩を売りたいらしい。霊夢は怠そうに振り向き狐の窓を解いてみるが、周りには誰もいなかった。気のせいかと頷きかけるも、石が賽銭箱に飛び込んでくるはずはない。
はてな、と考えつつ辺りを見回していると、木ががさりと揺れた。猿でもいるのだろうかと近づいても、何も見えなかった。
しかし木の葉が勝手にざわめきを起こし、それが徐々に遠ざかって行く。霊夢は口をあけてその様子を見ていた。霊夢は嫌な予感がして、空に飛び出した。
それが何だったのか、考えて出た結論は、狐の窓をしなくても妖怪が見えなくなった、ということだ。今度は焦りに突き動かされ妖怪の山や霧の湖で妖怪を探し回ったが、とにもかくにも妖怪も妖精もいやしない。
見えない物が見える狐の窓を作っても、見ることは叶わなかった。狐の窓を覗きすぎて、目が慣れてしまったのか。いや、壊れてしまったのだろうか。
うつろな気持ちになりつつ、霊夢は神社に戻った。自分で見えなくしといて、本当に見えなくなって慌てるなんて、馬鹿らしいなと思ったが、見えないと見ないでは訳が違う。
でもなったものは仕方ない、こんな事はきっと一時的なことだろう。元に戻ったら、もう狐の窓はやめれば良い。
そう胸の内に決心してから、実に一か月が経ってしまった。
霊夢が妖怪を見えなくなった事は直ぐに幻想郷に広まり、里や妖怪の界隈で密かな話題となっていた。
うるさい妖怪記者が神社に問い詰めに来ることは無いが、新聞は置いて行くので、幸か不幸かどういう認識されているのかは霊夢も知ることが出来た。さらに写真の中の妖怪は見えるので、多少は妖怪を感じることは出来る。
どうにも皆どういう風に接して良いのか分からないらしい。実際に霊夢自身もどう接して良いのかは決めかねていた。このままでは今まで通り、というのは不可能だし。手紙位はできそうだが、弾幕ごっこをしてきた今まではあまりに違いすぎた。
見えないのなら、いっそ交流を断つ方が後腐れもないだろうか。
新聞を見ると、ぼーっと賽銭箱の中を確かめている自分の写真があった。
少なくとも見えないことを逆手にとり、正面から隠し撮りする天狗はとっちめたい。
怒りの炎を燃やしていると「おはようございます」と声が聞こえた。
「お土産もって来ましたよ」
「あら、早苗がお土産なんて珍しい、ちょっと待ってね」
朝の陽を背に現われたのは、山の神社の風祝だ。霊夢は急須をのぞき込んで、お茶の準備をする。
狐の窓のせいか、神奈子や諏訪子も見えなくなってしまった。しかし現人神である早苗は、変わらず見ることが出来る。神様のお客様と呼べるのは早苗だけだ。お茶を出すと、早苗が申し訳なさそうな顔をした。
「ありがとうございます。でも、お土産は食べ物じゃないんですよね」
「なんだ、てっきりお煎餅でも持ってきたのかと」
座卓の隅に二つの湯呑を置かれると、早苗はウグイス色の風呂敷を真ん中に置いた。中には細長い棒が入っていた。
「お土産の望遠鏡です」
「望遠鏡? なんか随分小さいわね……やたら軽いし」
「学研の付録なんで、ちゃちいのは我慢してくださいね」
「ガッケンて知らないけど」
受け取った霊夢は早速片目で覗き込んで、早苗の顔に向ける。近すぎて肌色のぼんやりしか見えなかった。
「くれるなら貰っておくけど。でもなんで私に?」
「霊夢さんは妖怪が見えなくて、寂しいかと思いまして」
「思ったよりは平気よ、退屈だけどね」
「あら、そうなんですか?」
早苗が少し残念そうな顔をする。でも本心だった、どうなるか心配していたが、そのうち見えると思って過ごしているうちに、特別な問題は無かった。それは人の適応力だろうと霊夢は考えている。
「退屈もこれで星でも見れば、少しは気がまぎれるかしら」
「いえ、見えない物を見ようとして、望遠鏡を覗き込むのが外の世界のトレンドなんですよ」
急に視界が暗くなる。
伏せてた目を開くと早苗が望遠鏡を反対から覗き込んでいた。
「嘘くさいわね、それだけで見えるなら皆苦労しないでしょう」
「それだけじゃないですよ、午前二時に見るんです」
「牛三つ時に、見えない物を見るって……肝試しの話?」
「天体観測です」
霊夢がため息をつくと、早苗は改まってお茶をすすった。
「でも霊夢さんが平気ならよかったです、なんとなく霊夢さんみたいな状況わかりますから」
「あんたも見えない時とかあったの?」
早苗は小さく禿を振った。
「外の世界では、妖怪が見えない人も沢山いましたから、巫女でも見えない人なんてざらでしたよ」
「そんなんで本当に巫女できるの、って今の私が言えたことじゃないけどさ」
「あはは、今は私もそう思います。でもきっと、妖怪が見えなくてもやることって沢山あるんだと思いますよ。巫女も普通の人も」
「やること、ねぇ……。もしかして私に喝を入れに来たってわけ」
このところ霊夢は神社の中で暇を持て余していた。妖怪退治を休業せざるを得ない今、何をしたらいいのかは分からずにいる。新聞に撮られた通り、賽銭箱を眺める日々だ。
「そんなことは……ただ見えないからって巫女辞めないで欲しいな、なんて思ったんです」
早苗はおどける様に言って目尻を下げた。きっと仲間が居なくなるのが寂しい、と思ってくれているのだろう。なんせ幻想郷に巫女は自分しか居なかったのだから。
「外の巫女みたいには行かないだろうけど、まあなんかやってみるわ」
それから霊夢は時々望遠鏡を覗く様になった。早苗の言うとおり遠望性能は今ひとつだが、月や星を大きく見るには悪くない。飛んでいる野鳥も観察できて、ハヤブサが鼠を掴んでいるところや、カラスがネックレスを加えている所も見えた。妖怪は見えなかったが、普段見えない物が見えるという意味では、やっぱり見えない物が見えているのだろうか。
見えなくなった事ばかり考えていたけれど、今まで見てこなかった物も沢山有るのだなと霊夢は思った。少し新しいことをしてみたら、また何か見えるのだろうか。
ある日思い立ち、霊夢は人里で地道な布教活動を始めた。
自分の神社の神は弱いので勧めるのは程々にして、屋敷神の祀り方や移動の作法を教えると感謝された。時には簡単な勧請も請け負って、呼んで見守ってくれるように頼んだりすると、里の人はありがとうと言ってくれる。それもまた新しい景色だ。
勧請にせよきちんと呼べている保証はないし、今まで見えていた神もうっすら感じるだけで、呼び出されて機嫌を損ねている可能性もある。霊夢は不安だったが、不思議と里の人はそれでも喜んでくれていた。
神様なんて見えない奴が言う方が、信じられるのだろうか。
そうして少しずつだが、神社の信仰を得ていった。それは祭神の底力、というより霊夢の努力だ。
もう見えなくなってから、二か月が経った。
霊夢にとって神社は寂しい場所と化し、昼間は開けることが多くなった。
朝起きて、朝食を食べて、ふと号外の新聞に気付いた。神社と巫女の記事はめっきりと減ったが、その日は偶々昔の写真が載っていた。
宴会の雰囲気を盛り上げるグッズとやらの効果を試すために、以前の写真と比べたらしい。
見たところ、大して効果は無いようである。
しかし、以前の自分の姿に違和感を覚えた。写真に写っている自分の気持ちもが全く思い出せない。私は妖怪といるのが楽しかったのだろうか、写真の中の自分と確かな隔たりを感じる。写真の中は異世界の様にしか思えなかった。
あ、こんな事してる場合じゃ無い。と霊夢は気を取り直して、手荷物の準備をした、今日は勧請縄の張り方をレクチャーする予定がある。編んだ見本を手にして確認していると、来客らしい足音がして霊夢は顔を上げた。
「御機嫌よう。案外忙しそうで安心ね」
咲夜だった。紅魔館に行く機会が皆無となってからは、殆ど会っていなかった。
「久しぶり! 元気そうね」霊夢は直ぐさま咲夜の前に行く。
「えっと今日はちょっと忙しいけど、今度一緒にお酒でも飲まない?」
「随分と俗っぽい感じになったわね、お嬢様が居るから夜は難しいわよ?」
霊夢は照れ笑いしつつ、縄を伸ばしたり縮めたりした。
「それで今日はどうしたのよ、言ってくれれば何か用意したのに」
「いきなりで悪いけど、これ咥えて欲しいの」
咲夜が畳まれたハンカチを取り出し、丁寧に四方をめくった。先端が金属のガラス棒が出てきて、よく見ると目盛が入っている。串程度の長さからすると、体温計だ。
「なんで体温なんふぁっ!」
有無を言わさず霊夢の口に体温計が突っ込まれる。仕方ないのでもごもごと舌の裏に追いやった。
「お嬢様が計ってこいって言うものだから……水銀飲みたくなかったら、喋らないほうがいいわよ」
「まったく、私が変な風邪ひいたと思ってるのかしら」
「似たような物じゃないの? 早く正気に戻ってよね、皆退屈してるのだから」
「私は正気よ」
咲夜が不服そうな顔をするが、霊夢は黙って体温計を上下させた。
こんなことしていると、本当に病人の気がしていけない。……自分は病人なのだろうか、実は一度だけ永遠亭に行って調べてもらったこともあった。その時は、心理的な物だと門前払いに終わった。
「こうして里の人の信用も少し得られたのよ。結界も支障はなさそうだし。これはこれで良いのよ、たぶんね」
「本当にそれでいいの? 眼を逸らしているだけ、なんじゃないの」
「私は見ようとしてるわよ、でも見えないんだから、しょうがないじゃない」
あまりこういう話はしたくないな、と霊夢は体温計を口から出して見た。三十六度九分だから、概ね健康体だろう。咲夜もじっと温度を確認すると、ハンカチだけ懐に収めた。
「その体温計上げるから、風邪ひいたらちゃんと医者に行くのよ」
「こんなの貰わなくても気分が悪ければ医者に行くわよ」
「そういう人に限って行かないもの」
咲夜なりの心配なのだろうか、だとしたら凄い歪だ。霊夢は口元を緩めた。
「自分のことは、自分が一番分かるなんて、思わない方が得策よ」
「はいはい、分かったわよ」
霊夢は可笑しいのをこらえつつ、薬箱の中に体温計を仕舞った。
咲夜は任務完了したからとすぐに帰ってしまった。
折角貰った体温計。毎日体温を測ろうかと思ったが、馬鹿らしいと思って直ぐに辞めてしまった。それでもどうにか使おうとしたが、三十五度から四十二度までしか計れないのでどうにも使いにくい。
一度温泉の温度を計ってみたら四十度だった。ふと思いつき、ぬる燗をやるときに酒の温度を計るのに便利だと気づいた。それから霊夢は夜に一人でぬる燗を呑むことが増えた。
一人でもぬる燗で呑むと、少し寂しくなった神社に暖かみが出来る気がした。
三ヶ月経ったころ、霊夢は人里での仕事も身が入らずに、ぼーっとしていることが多くなった。咲夜の一言が想像以上に後を引いていた。
早苗の言うように、やれる事は見えてきたが、考えてみるとそれは逃避なのかもしれない。
本当にやるべきことは、やっぱり妖怪退治だったんじゃないだろうか。そう考えはするのだが馴れというのは無慈悲で、妖怪が見えなくても生きていけるのだから、今を頑張ればいいでは無いか、とも思えてくる。そちらの方が手頃な未来だ。
気晴らしを兼ねて里に出ていると、不意に酒屋に呼び止められ一斗の酒樽を貰った。
この前、軒先に吊るす杉玉を協力して作ったので、そのお礼とのことだ。気前は良いが、できれば神社に送って欲しかったと霊夢は複雑だった。
休憩を数十回と挟んでようやく神社に戻ることができた。とんだ気晴らしになってしまったと悔いていると、人影がある。
「おーい、遊びに来たのに、何だその酒は」
この陽気な声は魔理沙だと直ぐにわかった。なぜか唐草模様の風呂敷を背にし盗人の恰好だ。結構膨らんでいて重そうにしている。霊夢は酒を賽銭箱の横に仮置きして、お茶を入れることにした。先ほどまでの重労働で手は震えるがどうにか湯呑に収めた
「で、今日は何の用なの」
「今日は異変の様子見といった所かな」
霊夢は少しひるんだ。魔理沙は相変わらずよく遊びに来ているのだが、あまり異変がらみの話はしなかったのだ。きっと気を使っているのだろうと霊夢は考えていた。新聞を見る限り大した出来事も無かったようだが。それなのに、何の異変か。
「そうなんだ、どんな異変があったの?」
「名付けて、霊夢妖怪見えなくなる異変かな」
「なんだ私のこと? 異変という程の事じゃないわよ」
「十分に異変だろう。まあ、妖怪の連中も結構思うところあるらしいんだ。そこで私の見せ場ってことになったのさ」
「見せ場って、何するつもりなのよ」
「正直、私もあまりやりたく無いんだけどな、恥ずかしいし……」
照れ笑いしつつ、魔理沙は風呂敷をごそごそとした。中から出されたのは、修験者のつける梵天がくっついている頭襟だ。
よく天狗がつけている物だったなと霊夢は少し懐かしみ、お茶を口に含んでいると魔理沙は頭襟を帽子代わりに被り、わざとらしく咳払いした。
「あやややや! 霊夢さんいい加減インタビューさせてくださいよ!」
「ぶふっ!」
霊夢は思わずお吹き出した。
「な、なにそれ、文の真似してるつもり?」
「私も恥ずかしいと言っただろう、次やるぞ」
ヤケ気味に頭襟を放ると、再び風呂敷に手を突っ込み今度は蝙蝠傘を改造したらしい羽と、ナイトキャップを身に着けた。そしてまた咳払いを一つ。
「いい加減目を覚まさないと、幻想郷がディストピアになっても知らないよ」
「へー、レミリアの真似? その羽良くできてるじゃない」
「素で返されると恥ずかしいから、やめて欲しい」
魔理沙はナイトキャップをくしゃくしゃにして、頭を掻いた。
その次は野暮ったい注連縄を出して「商売敵がそれじゃつまらん、もうちょっとしゃっきりしろ」とか宝塔もって「巫女が居なくなると反って妖怪の肩身が狭くなる」と言ってみたり。
青いリボンを付けて「無敵状態はずるい」と言われたり、よくもまあこんなに小道具の用意と言葉を覚えたなと霊夢は素直に感心した。
「何だか懐かしいわね」
自然と笑みがこぼれた。
「言ってることは全部本当だからな。まあ写真で見れるみたいだが、こうやったほうが伝わると皆が言うもんでな」
「誰の入れ知恵よ」
「マミゾウだよ」と言うと今度は眼鏡を掛け葉っぱを頭に乗せた。
「狐狸共も申し訳ないと思っておる。あの時は力に成れなくて、すまんかったのう。じゃが儂と話したことも思い出して欲しいぞい」
「なるほどね、実に狸らしい発想だわ」
「だな、まあ他の奴にもこの案は好評でな」
今度は葉っぱだけ取ると額に指を当てた。
「やれやれ霊夢は思いこみで何でも出来てしまうから、たまには僕みたいに客観的な視点を持った方が良いよ」
「手抜き過ぎでしょ。それに私霖之助さんは見えるわよ」
「まあノリだよ、それに私も香霖の真似はしてみたかったから」
「馬鹿ねえ」と、霊夢は笑った。可笑しいのは魔理沙の言葉だけでなく、見えないはずの妖怪達をこうして身振りで教えてくれるのが、とても愉快だった。
それはどことなく似ていると霊夢は思った。
まるで──
「巫女みたいだわ」
「何言ってんだ。巫女の真似はしてないぞ」
「そうね」
一通り終えると、魔理沙が散らばった道具を風呂敷に押しこんだ。霊夢は小さな拍手で労う。
「おわり? お疲れ様、なかなか楽しかったわ」
「最後は私が言いたいことを言おう」
お茶で喉を潤してから、魔理沙は続けた。
「やっぱりお前は妖怪が見えないと困る」
「別に困ってないけど……」
「いいや、困ってるだろう。現に最近は元気がないって里で噂されてるぞ」
霊夢は少し驚いた、そんな噂が有った事を全く知らなかった。よく考えてみると酒樽をくれたのも、気遣ってくれていたのかもしれない。
「里の人の事も、見えてなかったのかしらね」
初めに妖怪が見えなくなっていた時と同じ気分だ。
「さてな、とにかく元気があるほうが霊夢らしい、と皆思っているわけだ」
「別に風邪ひいてるわけじゃないし。見えない物はどうしようもない」
霊夢がため息まじりに言うと、魔理沙は見よとばかりに手を重ねた。まさしく狐の窓だった。
「マミゾウや藍に聞いたことだがな、狐の窓は見えないものを見えるようにするらしい」
「何を今更、だから私はそれで狐狸を見てたのよ」
「ああ、でもその時点でおかしい。この世には本当は見えないものなんてそれこそ山のようにある。全部見えている訳じゃない。それは道具屋に居た私が保証しよう」
「道具屋に保証されるのもおかしな話ね」
「世の中見えないものを目で見るための道具だらけさ、風向きを見るために風見鶏、温度を見るため温度計、方角見るために方位磁石……」
「ああ、確かにそう言われればそうかも。私もそんな経験あるわ」
霊夢の脳裏に望遠鏡や体温計が思い浮かばれた。
「魔法にも似た趣がある。だが見えない物は怖いぞ、見えない物にのめり込んで身を滅ぼす奴だって居るんだ」
霊夢は少しむっとした。
「何よ、私がそんなヒステリックな状態で、幻影でも見えている奴だって言いたいの?」
「そんな事言ってないだろ。ヒステリックで変な物が見えるなんて私は思わないしな。ただ身を滅ぼす可能性はありそうだと思う」
魔理沙は狐の窓を解き、その手をグーパーさせた。あまり長くやると辛いのだ。
「どういうことよ」
「本当に見えてるかもしれないが、見え過ぎると人間狂っちまうもんだ。お前も今までに見たこと無いものが見えてるんだろう」
「まあ、そうかもしれないけれど……」
「自分を見失ったら人間おしまいだぞ」
魔理沙がじっと霊夢を見る。その瞳に霊夢は自分が映っているのを見た気がした。
妖怪が見えないことで、逆に沢山の物が見えたことをで霊夢は実感していた。きっと妖怪が見えなくなったのではなく、妖怪の見えない世界が見えるようになったのだ。
その結果、妖怪と共にあった自分まで見えなくなってしまった。それは必然かもしれなかった。
「でも今あるものを見るしか、ないじゃない。違う?」
「狐の窓なんておまじないだ。おまじないてのは、自分にしか効かないもんだ。見えちゃいけない物が見えるときに、やることがあったろう」
「え?」
「ヒントはさっきのマミゾウ」
そんな物あっただろうか、霊夢は目を見張って考える。
見えない物を見るとき、狐の窓を使うのだ。三ヶ月前に狐の窓を使ったのは、狐狸が普通に見えてしまうことが、即ち見えないって事だと藍に言われたからだ。
今の状況は、普通見えない物が見えている。そういえば、狐の窓の前にやったことがあった、あの時は意味がなかったが、今使えば――。
霊夢は、おもむろに両手の人差し指を咥えた。そして目を閉じてゆっくりと眉をなぞった。要は眉唾である。
ゆっくりと瞼を上げた。前の魔理沙は満足そうな笑みを浮かべている。きっとがやれと言わんとしたことは間違ってない。霊夢は眉唾を信じて縁側に出てみた。
すると、角を生やした頭が現われた。酒の香りを漂わせ縁側でごろごろしている姿はまさしく萃香だ。霊夢があまりに自然体でいる状況に面食らっていると、萃香がむくりと起き上がって、眼と眼が合った。
「おう、久しぶり!」
「あ、うん」
霊夢は言葉を用意しておらず、気の抜けた返事しかできなかった。でも心の内で「良かった」と安堵の息を吐いた。
簡単に見えるようになり戸惑いつつも、まず最初に霊夢がしたのは、兼ねてより決めていた新聞記者へのお礼参りだ。好き勝手被写体にされた恨みを晴らし、翌日の新聞には博麗の巫女復帰が一面を飾ることになった。
幻想郷での新聞の覇権は強く、直ぐに妖怪達の耳に入り神社に顔を見せに来た。
眉唾は少しすると効力が切れてしまったが、何度かしている内にずっと見えるようになった。狐の窓とは違って三日もすると元に戻ることができた。きっと噂に聞くリバウンドという奴だろう、と霊夢は思った。
一週間もすると、最早見えない期間自体が無かったかと思うくらい全てが元の鞘に収まり、霊夢は再び妖怪にやきもきする生活に返り咲いた。人の里とは以前と同じ距離感になって、妖怪のせいで回復し掛けた参拝客は減り、何かあっては霊夢も飛んでいって退治と称して弾幕に励んだ。
そして久々に神社で霊夢は宴会を開くことになった。夜からの筈が、文や萃香がやたら早く来てうるさくするので昼間から始めた。
もともと貰った樽酒を消費できる気がしなかったから開いた宴会だが、このままでは夜までもたないかもしれない。妖怪どもには軽すぎたか。
里で過ごした時間が実を結んだような酒だから、少し惜しい気もしたが、腐らせるよりは良いだろう。変な未練になるのも避けたい。霊夢は縁側に座って遠巻きに減りゆく酒樽を眺めていた。鬼と天狗に混ざり、狐と狸が顔を赤くして飲んでいる。
なんでも霊夢が狐の窓をしていた期間を機に、結託したらしい。これだけは、狐の窓をやった前と変わった事だ。
他の事について、あの三ヶ月はずっと前の事、あるいは幻だったかもしれないと霊夢は感じていた。
眉唾で以前の感覚に戻れたのは、きっと化かされていたに違いない。狸や狐では無く、狐の窓に、それとも妖怪が見えない世界そのものだろうか?
いや、外の世界では見えない人も多いと早苗が言っていた。本当はどっちの世界も重なるように存在していて、その内のどこに身を置いているのかを自覚しておくべきなのだ。
狐の窓はそんな世界を覗く道具なのだろう。
霊夢は慣れた手で狐の窓を作った。
「おい、それはもうやるなって」
いつの間にか魔理沙が隣にいた。手には酒の入った升を手に。
「大丈夫よ、これは見える物を見えなくするわけではなくて、見えない物を見るための物だって、もうわかったから」
「じゃあ何を見るつもりなんだよ」
霊夢は少し黙って「さあね」と繋げた。「でも、私たちには見えなくても、私たちを見てる人がいるかなって」
「そりゃスキャンダル好きな天狗か、お天道様ぐらいだろ」
「どっちも見えるわよ。でも目でも合ったら面白いでしょ」
「ホラーの間違いじゃないのか」
魔理沙がやれやれと宴に戻っていった。
新聞の中が別世界に感じたが、今の自分はその新聞の中に近い状態かも知れない。見ている人がいて、狐の窓をしたらこちらからも見えるのでは無いか。そんな気がした。
この世には見えない物が沢山有るのだ。
霊夢はもう少しだけ、そう思い狐の窓から空を見上げた。
「あっ――」
何だか好い夢を見ていたようです。
突然変わった環境に適応するのは生き抜くためだと思いますが、やっぱり怖いとも思います。
魔理沙のモノマネ見てみたいなあ。
オチも間のやりとりも面白かったです
読者への見せ方に気を使ったのが良く解る
体温計ぴこぴこさせる霊夢が可愛い
面白かったです
相変わらず読ませる話をお書きになる…
文句無く面白かった 真似てみたがキツネノマドむずかしい
霊夢さん お目眼おおきい!
ありがとうございます
わからないから別の何かがわかることも
知らないから別の何かを知ることが出来ることも理解出来ないから別の何かを理解出来ることもあると思う
逆に言えば知れば何かを忘れる
理解すれば何かを理解出来なくなる
わかることで何かがわからなくなる
結局全知とは幻想であり、世界の見方を選択しそんな見方をする自分を選択してるだけかも知れない
自分と世界の見方を選択してるということこそ本当の等価交換かも知れない
何かを理解したら何かが理解出来なくなるという等価交換
思想や宗教の問題は皆ただ見える世界と自分を選んでいるだけなのに全て見えているつもりでいるのがそもそもの問題なのかも
無知の知は知らないことを認めるだけじゃなくて知れば忘れることを認めることまでしないといけない そんな気がします
世の中が暗くみえるのはある意味自分が世の中を暗く見えるような自分であることを選んでいるだけかも知れない
まあ世の中が明るく見えるようになれば逆に今まで見えていたものが見えなくなる覚悟はいるだろうけど
価値観や思想とはつまりそういうことじゃないかと思います
一番顕著なのは愛と加虐心ですかね
愛で世界をみれば加虐心が作る世界の理が見えなくなり、加虐心で世界を見れば世界の愛の理が見えなくなる
バランスが大切というが片方が見えれば片方が見えなくなる そこらが色んな問題の病理の根底な気がします
霊夢可愛いよ霊夢
もしかしたらすぐ隣に幻想郷があるのかもしれませんね
何かもふもふした九尾の狐が尻尾をぶつけているかのような音を。
しかしドアを押し破ったところでわたしを見つけられはしない。
いや、そんな! あのスキマは何だ! 窓に! 狐の窓に!
学研の教材とか早苗さん物持ち良いなw
そしていろんな意味での『見せ方』がお見事!
作りもテーマもオチも
とても面白かったです。
引っ張られるように読まさせられました。
霊夢だからこそ「見えた」のかもしれませんね。
いいものを読みました