犬走 椛が無断欠勤をした。
あの三角定規が服を着て山の警備に当たっている様な、生真面目ガチガチ勤労組織人の椛が、である。これは異例の出来事だ。
椛の上司である警備部長も、初日は規則を破ったとして処罰を考えていたが、3日となると顔色も変わってくる。
部長は心配して他の天狗に最近の様子を聞き込みしたが、有益な情報は得られない。
そんな流れの情報が、新聞記者である私の耳に届くのは必然だった。
『天狗社会のひずみ 犬走氏孤独死か?』
そんな縁起でもない記事を書きたくないので、私は何度か足を運んだことのある椛の庵へと羽を伸ばすことにした。
まぁ、きっと大したことはないだろう。まだ椛には酒と肴2食分くらいの貸しがあるんだ。死なれちゃ困るな。
そうじくじくと悪い予感に蝕まれる心中を明るく誤魔化して、私は黒翼をはためかせた。
丸木を組んだ壁に板張りの屋根。この簡素な庵が、椛のねぐらだ。
まるで山小屋の様だが、とにかく私は戸口に降り立ち、中へ呼びかける。
「椛。も~み~じ~! 居ますか? 何日も連絡ないから、みんな心配してますよ~」
返事は、無い。
私の緊張が高まる。
滝の裏や河童淵など、椛が行きそうな所は全て居なかった。
だとしたら、この庵にも居ないか、もしくはこの中で返事もできない状態であるということだ。
躊躇っている暇はない。
私は戸に手をかけ勢いよく開け放つ。鍵はないので、すんなりと室内に入れた。
「椛! 大丈夫ですか!? 返事して!」
私は外聞もなく大きな声で椛を探す。
この庵は二間。玄関を入ってすぐに簡単な台所と食事机がある部屋。奥は寝室らしいが、入れてもらえないので中は未知だ。
だが、こちらの部屋には姿が見えない。
ならば、残るは寝室。
私は最悪の場合、中に不埒な輩が潜んでいることも考慮し、すぐさま戦闘に移れる体勢で板戸の前に立つ。
戸に手を当て、慎重に横へ開けようとしたその時
「…………文……さん……」
中から本当に微かな、蚊の鳴くように細い誰何の声が聞こえてきた。
間違いない、椛だ。とりあえず生存はしている様だ。
でも、いつもの生意気を言う調子じゃない、憔悴しきった声に私は安心できなかった。
いったい、どうしたことだ。
「椛? どうしたんですか? 具合が悪いのですか?」
「……ほ、本当に……文さん、ですよね……」
なんだ、会話が噛み合わない。いくら扉越しでも、声で判別できない程距離がある関係じゃないだろう。
若干のいぶかしさを感じつつ、私は椛に記者の癖で質問を重ねようとしたその時、引き戸がほんの少しだけ開いた。
その隙間から見知った顔。椛がジッとこちらを窺っていた。
まるで舐める様に視線が上下し、頭襟から高下駄靴の先までつぶさに観察する。
するとチェックが終了したのか、引き戸が全開にされ、椛が全身をようやく私に見せてくれた。
私は息を呑む。
寝巻き姿の椛は、やつれている上に疲労困憊で、明らかに大病を患っている印象を見受けた。
目の周りは真っ赤に腫れて、その下には隈がべったり。ストレスのせいか単に気が回らなかったのか、さらさらと真っ白な頭髪は雑草の様に乱れている。
今のところ二本の足で立っているが、いつ地面に倒れてもおかしくない。
すると、椛は突如顔をくしゃっと歪める。その目から、大粒の涙が零れ落ちた。
「文さん……文さぁん、怖かった。怖かったよぉ」
もう辛抱の限界だという風情に椛が私の胸に飛び込み、そのままオイオイと泣き崩れる。
何が怖いのか事情もさっぱりわからないが、とりあえず「大丈夫ですよ」など慰めの言葉をかけて、椛の背中をさする。
椛が落ち着くのに、半刻を要した。
――◇――
「鼻が利かない!?」
私は思わず大声で聞き返してしまう。
イスに座って感情を落ち着けた椛が、現在身に起きている事象を説明した。
それはここ3日間、椛の鼻がまったく機能していないという衝撃的な内容だった。
「……鼻が利かないと言うより、鼻が通らなくなってしまったんです。
3日前の朝に起きたら突然こうなっていて、何の匂いも分からなくて……
そしたら猛烈な不安に襲われて、一歩もここから出られなくなってしまって……」
そう搾り出す様に言って、椛は目を両手で擦りながら俯いた。
鼻が使えなくなる。その効果は、白狼天狗に絶望を与えるには充分な破壊力を持つ。
狼などイヌ科の動物は目よりも耳、耳よりも鼻の感覚器が重要である。
持ち前の鋭敏な嗅覚で危険を察知したり情報を確認したり、日常生活のほとんどを鼻に頼っているのだ。
その感覚が突然消えてしまうのは、私達が朝起きたら失明していたという状況に等しい。
さらに椛の千里眼だって、実はかなりの部分を鼻に頼っている。
これでは哨戒任務はおろか、身の回りの識別もままならない。
かくして椛は、他の頼りない感覚器官のみで妖怪の山に一人ぼっち、という孤独と恐怖に抗っていたのだ。
何日も部屋に篭ったり、私の訪問を執拗に確認したのも頷けた。
これは深刻な問題だ。このまま怯え切った椛を捨て置く訳にはいかない。
「椛、永遠亭へ行きましょう。あそこなら、きっと原因もわかりますよ」
「えっ!? い、嫌です! 外に出たくない! 何にも、何にも分からないの!!
もう、嫌だ……怖いよぉ……」
そう苦悩するように頭を抱える椛。まるで飼い主に捨てられた子犬の様な姿を、私は見ていられなかった。
私はいやいやと首を振る椛の頬を両手で優しく押さえて、こっちを向かせる。
「落ち着いて椛。私の顔を見て。
一人で行かせる訳ないでしょう。私もついて行きますよ。
道中はずっと見えるところに居るし、話しかける。
鼻が駄目なら、それ以外で私を感じて。それなら安心でしょう?」
そう説得する私。
するとぐずっていた椛も、何とかこの異常事態を打開したかったのだろう。気丈に唇を結んで、しっかりと頷いた。
とはいっても、ここからが大変だった。
いつもの装束に着替えさせ玄関に向かったのだが、ここまでくるのにも相当の時間と励ましが必要だった。
そして私は椛を刺激しないよう、ゆっくり扉を開ける。
山は春の装いをまとい出し、柔らかな空気はほのかに暖かい。木花のつぼみも膨らみ始め、風もいい具合。
特に異変も感慨も無い、見慣れた初春の風景だ。
しかし椛の目には、これがどこで足を踏み外すかわからない漆黒の闇に見えている。
傍目で見ても分かるくらい、椛の肩が震えだした。
「……文さん。手を……手を握ってくれますか?」
「それより、もっといい方法がありますよ」
「え、あっ!? きゃっ!」
私はおずおずと差し出された手を引き寄せ、背中側から私の首に回す。そのまま椛の体を密着させ足を持ち上げる。
いわゆるおんぶの構えだ。椛はあわてて腕に力を込めて私に抱きつく。
「これなら私の声も近くで聞こえるし、椛も飛ぶことを考えなくていいから楽でしょう」
「……はい」
椛は私の羽の間で安堵したように小さく頷く。
私は「落ちないよう、しっかりつかまっていてくださいよ」と注意し、迷いの竹林に向かって風を操り飛び上がった。
上昇気流を生み出し、二人分の重力を大地から切り離す。
いつもなら鋭角の軌道を描いて空を斬る所だが、今日はゆりかごの様な安定飛行を心がけた。
背中の温もりを意識しながら、私はなるべく椛に話しかけてやる。
「椛、大丈夫ですか?」
「……はい。平気、です。でも、なんだか目隠しで手を引かれている気分です」
「それは、如何ともし難いですね」
「でも、文さんの声を聞いて、背中をじっと見ていれば大丈夫です」
「あやや~、何だか視線がくすぐったく感じてきました」
「もう、文さんったら」
始めは縋る様に強張っていた椛の体。
でも緊張がだいぶ緩和されたのか、時折もぞもぞと私の羽の付け根で居場所を確かめるように小さく動く。
(……まるで母親にでもなった気分ね)
私はそんなことを柄にもなく想起し、自分でおかしくなってつい含み笑いをしてしまった。
「あ、なんか笑いましたね」
「え、いやぁ」
「鼻は使えなくとも、耳は健在なんですよ。気持ち悪い笑いも全部聞こえるんですからね。
どーせまた私をからかう台詞を選んで、思い出し笑いの先取りをしたのでしょうが」
あやや、いつもの辛辣な調子に戻ってしまった。
余裕が出てきたのは良い兆候だけど、ここで主導権を握っているのは私。
ひとつ先輩として威厳を示してあげましょう。
「違います。私は、背中で小さく丸まって擦り寄ってくる椛が可愛いな、と思っただけですよ」
「んなっ!? ちょ、ま、またそんな軽口を」
「おおっ、竹林が見えてきましたね。それじゃ垂直降下しまーす」
「え! きゃあ!?」
「……う・そ・です。可愛い後輩をおんぶしているのに、無茶はしませんよ」
「こっ……この……むうぅ」
顔を名前の如く真っ赤にしたと思ったら、ビクッと震えて私を強く抱きしめる椛。
それでネタばらしをしたら、怒りでいきりたつ耳と反比例して、顔は満更でもない表情をしてくれる。
くうぅ、相変わらず写真に撮りたいほど初心で敏感な反応。これだから椛いじりはやめられません。
そんな椛上級者の嗜みを堪能していると、今度は本当に竹林が見えてきた。
私は椛の異常がすぐ見つかればいいなと思いつつ、ゆっくりと高度を下げた。
――◇――
永遠亭。
幾多の兎が住み、天才薬師が病院を営む屋敷。
私達は助手兎の鈴仙さんに連れられ、診察室に通された。
ちなみに、やけに長い廊下で「何でおんぶしているんですか?」と至極自然な質問を頂戴した。
私は椛の気持ちを汲んで、「この子はシャイなんです。知らない所が怖いんですよ」とあしらっておいた。
鈴仙さんは納得された様子だった。背中を椛に蹴られた。
そして丸椅子に降ろした椛の問診に目を通し、鼻の様子を診察した白衣の八意永琳さんは、あっさり病名を告げる。
「長く続く鼻づまりと、腫れぼったい目。無意識に目を擦ってない?
これ、典型的な花粉症の症状よ。この季節だと、スギが原因でしょう」
えらく軽い宣告に、私は拍子抜けした。だが、椛は不安そうな顔をする。
「あの……花粉症、ってなんですか?」
「生物の体内には、侵入してきた異物を排除する抗体っていう機能があるのだけど、ある特定の物質に対して抗体が過剰に反応することがあるの。
それが植物の花粉なら花粉症。他にも、食物や接触する無機物など様々な物質も含めるとアレルギーと呼称されるわ。
あなたの場合は、スギ花粉に反応して鼻づまりや目のかゆみが長く続くってわけ。
まぁ、命に関わるほど酷くはないけど、これからこの季節は要注意ね」
「でも私、そんな病気になったことないんですけど……」
「急に発症したのは、そういうアレルギーの原因物質が体内に蓄積して許容値を超えたせいよ。ちょうど注ぎすぎたコップから水が溢れる様にね。
あなたは哨戒天狗。スギ花粉が飛散しまくる場所で見廻りしていたら、いつ発症してもおかしくないわ」
永琳さんの説明に、椛は「はー……」と一応納得する。
すると永琳さんは、机のカルテにカリカリと解読不能な文言を書きつける。
「鼻づまりがひどいから、それを緩和する薬と抗アレルギー剤を出しとくわ。
それじゃ、お大事に」
え、お終い?
「ちょっと待ってください。それだけですか」
私は永琳さんに食ってかかる。永琳さんは手を止め、不思議そうな顔をした。
「え、他に何か? 薬を飲めば明日にも良くなっているわよ」
「薬が効くまで一日もかかるじゃないですか。その間、椛はずっと不安に曝されるんですよ。
そりゃ人間の花粉症の治療は簡単で軽いかもしれませんが、椛にとっては馬鹿にできない症状なんです。
もっと親身になって考えてくれませんか」
普段の私らしくもない。少し感情を表に出して要求してしまった。
でも、一瞬椛の目が落胆に染まったのを目撃してしまっては、異議を申し立てずにはいられない。
しばらく永琳は私達の顔をじっと眺めていたが、ふと申し訳なさそうな口調になる。
「それは配慮が足りなかったわ。鼻づまりも立派な病気よね。
それなら今日この場で劇的に治る治療法があるから、それをやってみましょう。
うどんげ、処置室を準備しておいて。貴方達はこちらへ」
そう言って、処置室とやらに促す永琳さん。
移動したのは隣の部屋。処置室と呼ばれるその空間には、真ん中に大きな作り付けの椅子があった。
その脇には様々な形の金属器具が台車に置いてある。おそらく治療道具だ。
椛は慣れない病院、しかもこれから始まる得体の知れない治療に尻込みしていたが、マスクと額帯鏡をつけた永琳さんに椅子へと座らされる。
「じゃあ椛さん、治療を始めますね」
少し上を向かせた椛にそう宣言して、永琳さんは額帯鏡を下ろし、控えていた鈴仙さんに器具の指示を出す。
すると無駄の無い動きで、細い管に引き金がついた道具を渡す。
「まずは鼻水を吸引します」
「!」
そう説明するやいなや、椛の鼻の片穴に管を突っ込む永琳さん。
そして引き金を引いた途端、ところてんを啜った様な生々しい吸引音が響き渡る。
片方が終わればもう片方。手際よく鼻水を取り去る。
これには椛も面食らい、目を白黒させるが、何せ動けないため拳を握って耐える。
カフカフと口の呼吸は乱れ、私まで洟を吸い出される感触を想像してしまい、ちょっとむず痒い。
「少し空気送りますね」
「ふっ! むぐ……ふう」
似た形の器具に持ち替えたと思ったら、ぷしゅぷしゅっ、と圧縮した空気を小気味よく噴射する。
椛は一瞬鼻を膨らませて唇をぷるぷる震わせていたが、何とか我慢した。
多分、クシャミを噛み殺したのだろう。
だが、ここからこの治療がその本性を現す。
次に永琳さんが持ったのは、極細の針金の先にこれまた細く脱脂綿が巻かれた道具。
永琳さんはその脱脂綿を、軟膏の様な薬が入った瓶に突っ込む。
え……まさか……
「この薬を鼻腔に直接塗りつけるから、じっとしていてね」
「え!? 待っむぐぅ!」
椛が身の危険を察知して制止の声を上げようとしたが、背後の鈴仙さんがガーゼを口に当てて、そのまま押さえ込む。
むー、むーとうめき声が聞こえるが、医者はそれを気にしていたら何も出来ないとばかりに針金を鼻に挿入し始めた。
針金が奥に入る。まだ奥に……え、そんな奥で大丈夫ですか!?
私の心配も余所に、永琳さんがクイッと手首を持ち上げる。
刹那、椛の肢体がビクリと跳ねた。
ガーゼの隙間から形容しがたい悲鳴が漏れ、椛の目から生理現象の涙が溢れる。
つま先は反り返り、手で椅子をパンパン叩いて限界を表現する。
鼻の奥、最も敏感な所に触ったのだ。私は身震いして目頭を押さえる。
椛は生きていく上で味わいたくない刺激を、今存分に味わっているのだろう。
すると、椛は突然目を見開く。首の筋肉が硬直し、顔がブルブルと震える。
永琳さんは何かを察したのか、素早く針金を引き抜く。
その途端、ついに椛が噴火した。
「は、はくちょいぃっ!! へっぷそん!! ううっふう!」
鼻に猛烈な異物が直撃したのだ。そりゃあクシャミも出ますよね。
鈴仙さんも予兆を感じ取って、クシャミしやすいようガーゼを少し離すナイスフォロー。
しかし、摩訶不思議な音ね……椛のクシャミ。
それに反動で顔から出るもの全部出ちゃっていて、凛々しい白狼天狗の見る影もない。
だが鈴仙さんは事も無げに、椛の顔を新しいガーゼで拭き拭き。
そして人心地ついた椛の口を、間髪入れずにまた押さえる。
「大丈夫ですか。それじゃ、もう片方もやるから頑張ってくださーい」
「むぐぅ!? むー! むうぅ!」
先ほどの行程がよほどこたえたのか、涙目でプルプルと首を横に振り拒絶の意思を必死に伝える。
が、それで止めてくれるほど医療行為は甘くない。
「もうちょっとですから。こらえてね~」
「ふむぐううぅぅ!! ふっ!? ふ……ぐ
ひっきし! ひゃくしょう! えほえほえほっ! ぐむぅ!」
ああ……もう見ていられない。
こんな悲喜劇に耐えること3分少々、固くて長い棒を敏感な穴に突っ込まれるという痛ましくも笑える治療は、椛に大きなトラウマを残して終了した。
治療椅子からよろよろと降りた椛は、しばらく半泣きで鼻をちーんちーんとかみ続け、チリ紙をたくさん消費していた。
しかし、洪水の様な鼻水がある瞬間から唐突に止み、椛は呆けた顔をする。
そして、驚いた様相で何度も鼻呼吸を繰り返す椛に、永琳さんはにこやかな顔で一言。
「ね? 劇的でしょう」
その後、椛は処方薬として錠剤の他に、点鼻薬というノズルを鼻に突っ込み霧吹きして使う薬を貰った。
鼻の中に霧吹き。これまたむせそうな薬だが、椛は真剣に点鼻薬の使い方を聞いていた。
永琳さんの治療で飛躍的に鼻の通りが向上したのが、よほど衝撃だったらしい。
ともかく、私は椛の病状が回復した様でなによりだった。
――◇――
鈴仙さんに見送られ、私たちは外に出た。
すると、椛は目を見開いて大きく鼻から息を吸った。
「――風の匂い、木の匂い。ああ、全部わかる!」
ぱぁっと椛の顔が輝く。
椛は、はしゃぐ子供の様に庭に躍り出て、なんと四つん這いになって地面に顔を近づけた。
「文さん、大地と水の匂いです! もう千里先の事だって嗅ぎ分けられますよ!」
「わ、わかりました! わかりましたから少し控えて……」
くんかくんかと鼻を鳴らして地べたの匂いを嗅ぎまくる椛を、私は何とかなだめる。
さっきから感じる、鈴仙さんの苦笑交じりの視線が少々ツライ。
私は興奮冷めやらぬ椛を立たせて、わんこから社会人に進化させる。
その時、私の背後から陽気な春の風が吹き、椛の前髪を揺らした。
その風を感じた椛は、すうっと目を細めて私の胸に飛び込んできた。
「あややややっ!?」
「んふー……すーはーすーはー」
「あっ!? やややぁ……」
突然の出来事に面食らった私は椛を振りほどこうとしたが、胸元に当たる深い息遣いに思わず力が抜けてしまう。
椛は私の体を吸い込むように、ひっついたままで何度も呼吸をする。
私が妙に熱く湿った吐息にドギマギしていると、椛は自然と私を抱きかかえる様に腕を回した。
「……新聞のインクと、牛乳石けん。あと、幻想郷中の匂いが混ざっている……
文さんの匂いだ……すごく、落ち着きます」
「椛……」
まるでこの瞬間に初めて治ったと自覚したように、ゆっくりと言葉と匂いを噛みしめる椛。
ほぅ、と息をついて、椛はそっと私から離れる。
「あの……今日はありがとうございました。
文さんが付き添ってくれて……すごく嬉しかったです」
そう頬を薄く染め、やや上目遣いでお礼を述べる椛。
(そっか……椛、私を匂いでも感じてくれたのね……)
私は胸が熱くなって、後輩の頭を撫でてやる。
「いいえ。困った時はお互い様。
私も椛が元気になってくれて嬉しいですよ」
そう言ってわしわしと頭を梳くと、椛は今日初めてで一番の、はにかんだ笑顔を見せてくれた。
「……ゴホン。あー、そこのご両人。
仲睦まじいのは大いに結構なのですが、ここではヒマを持て余した師匠と姫様にとって格好の見世物になります。
つまり……余所でやってもらえませんかね?」
はっ、と鈴仙さんの哀愁を帯びた声に振り向くと、奥の縁側でお茶をすすりながら私たちを興味津々に眺める長生きツインズが視界に入った。
「あらあらまあまあ、お盛んねぇ」
「姫様知っていますか? 狼って一度つがいになると、そのペアは一生添い遂げる生き物なのだそうですよ」
「へぇ。人間も見習って欲しいわね」
「おやおや、含蓄がありすぎるお言葉ですね」
「あら、当て付けかしら?」
「いえいえ。むしろ私たちが、異種族間の愛情を当て付けたられた格好ですよ」
「まぁ、あらしのよるもビックリね。ほほほほ」
「ふふふふふ」
「や……ヤダ……」
「あややややぁ……」
一部始終を見られて、椛は赤面し、私は何ともバツが悪くなる。
これは……しばらくこの病院では、話の種に事欠かないわね……
そう私は、日常を噂される方の気持ちを味わい、ほんのちょっぴり反省した。
その後、椛の症状は処方された薬がてきめんに効いているお陰で、日常生活に支障をきたさなくなった。
だが油断は禁物だ。
永琳さんによれば、鼻づまりだけが突出する症状ならまだマシな方で、酷いと目のかゆみやクシャミ、鼻水が併発して顔中がエライことになるらしい。
そのことを、私との関係を尋問するという名の検診で聞いた椛は、予防法もしっかりマスターしてきた。
そして今日も、いつもの装束に永琳さん推奨のどでかいマスクとゴーグルをつけて、元気に山へと出勤するのであった。
「……なぁ、文さん。あの、椛の不審者丸出しの風貌は何なのだ?」
「……警備部長殿。これから毎年のことです。早めに慣れてくださいな」
「???」
がんばれ、椛。
幻想郷に花粉症が浸透するその日まで、春は白い目に耐えるのだ。
【おわr……ひっくしゅん!】
あの三角定規が服を着て山の警備に当たっている様な、生真面目ガチガチ勤労組織人の椛が、である。これは異例の出来事だ。
椛の上司である警備部長も、初日は規則を破ったとして処罰を考えていたが、3日となると顔色も変わってくる。
部長は心配して他の天狗に最近の様子を聞き込みしたが、有益な情報は得られない。
そんな流れの情報が、新聞記者である私の耳に届くのは必然だった。
『天狗社会のひずみ 犬走氏孤独死か?』
そんな縁起でもない記事を書きたくないので、私は何度か足を運んだことのある椛の庵へと羽を伸ばすことにした。
まぁ、きっと大したことはないだろう。まだ椛には酒と肴2食分くらいの貸しがあるんだ。死なれちゃ困るな。
そうじくじくと悪い予感に蝕まれる心中を明るく誤魔化して、私は黒翼をはためかせた。
丸木を組んだ壁に板張りの屋根。この簡素な庵が、椛のねぐらだ。
まるで山小屋の様だが、とにかく私は戸口に降り立ち、中へ呼びかける。
「椛。も~み~じ~! 居ますか? 何日も連絡ないから、みんな心配してますよ~」
返事は、無い。
私の緊張が高まる。
滝の裏や河童淵など、椛が行きそうな所は全て居なかった。
だとしたら、この庵にも居ないか、もしくはこの中で返事もできない状態であるということだ。
躊躇っている暇はない。
私は戸に手をかけ勢いよく開け放つ。鍵はないので、すんなりと室内に入れた。
「椛! 大丈夫ですか!? 返事して!」
私は外聞もなく大きな声で椛を探す。
この庵は二間。玄関を入ってすぐに簡単な台所と食事机がある部屋。奥は寝室らしいが、入れてもらえないので中は未知だ。
だが、こちらの部屋には姿が見えない。
ならば、残るは寝室。
私は最悪の場合、中に不埒な輩が潜んでいることも考慮し、すぐさま戦闘に移れる体勢で板戸の前に立つ。
戸に手を当て、慎重に横へ開けようとしたその時
「…………文……さん……」
中から本当に微かな、蚊の鳴くように細い誰何の声が聞こえてきた。
間違いない、椛だ。とりあえず生存はしている様だ。
でも、いつもの生意気を言う調子じゃない、憔悴しきった声に私は安心できなかった。
いったい、どうしたことだ。
「椛? どうしたんですか? 具合が悪いのですか?」
「……ほ、本当に……文さん、ですよね……」
なんだ、会話が噛み合わない。いくら扉越しでも、声で判別できない程距離がある関係じゃないだろう。
若干のいぶかしさを感じつつ、私は椛に記者の癖で質問を重ねようとしたその時、引き戸がほんの少しだけ開いた。
その隙間から見知った顔。椛がジッとこちらを窺っていた。
まるで舐める様に視線が上下し、頭襟から高下駄靴の先までつぶさに観察する。
するとチェックが終了したのか、引き戸が全開にされ、椛が全身をようやく私に見せてくれた。
私は息を呑む。
寝巻き姿の椛は、やつれている上に疲労困憊で、明らかに大病を患っている印象を見受けた。
目の周りは真っ赤に腫れて、その下には隈がべったり。ストレスのせいか単に気が回らなかったのか、さらさらと真っ白な頭髪は雑草の様に乱れている。
今のところ二本の足で立っているが、いつ地面に倒れてもおかしくない。
すると、椛は突如顔をくしゃっと歪める。その目から、大粒の涙が零れ落ちた。
「文さん……文さぁん、怖かった。怖かったよぉ」
もう辛抱の限界だという風情に椛が私の胸に飛び込み、そのままオイオイと泣き崩れる。
何が怖いのか事情もさっぱりわからないが、とりあえず「大丈夫ですよ」など慰めの言葉をかけて、椛の背中をさする。
椛が落ち着くのに、半刻を要した。
――◇――
「鼻が利かない!?」
私は思わず大声で聞き返してしまう。
イスに座って感情を落ち着けた椛が、現在身に起きている事象を説明した。
それはここ3日間、椛の鼻がまったく機能していないという衝撃的な内容だった。
「……鼻が利かないと言うより、鼻が通らなくなってしまったんです。
3日前の朝に起きたら突然こうなっていて、何の匂いも分からなくて……
そしたら猛烈な不安に襲われて、一歩もここから出られなくなってしまって……」
そう搾り出す様に言って、椛は目を両手で擦りながら俯いた。
鼻が使えなくなる。その効果は、白狼天狗に絶望を与えるには充分な破壊力を持つ。
狼などイヌ科の動物は目よりも耳、耳よりも鼻の感覚器が重要である。
持ち前の鋭敏な嗅覚で危険を察知したり情報を確認したり、日常生活のほとんどを鼻に頼っているのだ。
その感覚が突然消えてしまうのは、私達が朝起きたら失明していたという状況に等しい。
さらに椛の千里眼だって、実はかなりの部分を鼻に頼っている。
これでは哨戒任務はおろか、身の回りの識別もままならない。
かくして椛は、他の頼りない感覚器官のみで妖怪の山に一人ぼっち、という孤独と恐怖に抗っていたのだ。
何日も部屋に篭ったり、私の訪問を執拗に確認したのも頷けた。
これは深刻な問題だ。このまま怯え切った椛を捨て置く訳にはいかない。
「椛、永遠亭へ行きましょう。あそこなら、きっと原因もわかりますよ」
「えっ!? い、嫌です! 外に出たくない! 何にも、何にも分からないの!!
もう、嫌だ……怖いよぉ……」
そう苦悩するように頭を抱える椛。まるで飼い主に捨てられた子犬の様な姿を、私は見ていられなかった。
私はいやいやと首を振る椛の頬を両手で優しく押さえて、こっちを向かせる。
「落ち着いて椛。私の顔を見て。
一人で行かせる訳ないでしょう。私もついて行きますよ。
道中はずっと見えるところに居るし、話しかける。
鼻が駄目なら、それ以外で私を感じて。それなら安心でしょう?」
そう説得する私。
するとぐずっていた椛も、何とかこの異常事態を打開したかったのだろう。気丈に唇を結んで、しっかりと頷いた。
とはいっても、ここからが大変だった。
いつもの装束に着替えさせ玄関に向かったのだが、ここまでくるのにも相当の時間と励ましが必要だった。
そして私は椛を刺激しないよう、ゆっくり扉を開ける。
山は春の装いをまとい出し、柔らかな空気はほのかに暖かい。木花のつぼみも膨らみ始め、風もいい具合。
特に異変も感慨も無い、見慣れた初春の風景だ。
しかし椛の目には、これがどこで足を踏み外すかわからない漆黒の闇に見えている。
傍目で見ても分かるくらい、椛の肩が震えだした。
「……文さん。手を……手を握ってくれますか?」
「それより、もっといい方法がありますよ」
「え、あっ!? きゃっ!」
私はおずおずと差し出された手を引き寄せ、背中側から私の首に回す。そのまま椛の体を密着させ足を持ち上げる。
いわゆるおんぶの構えだ。椛はあわてて腕に力を込めて私に抱きつく。
「これなら私の声も近くで聞こえるし、椛も飛ぶことを考えなくていいから楽でしょう」
「……はい」
椛は私の羽の間で安堵したように小さく頷く。
私は「落ちないよう、しっかりつかまっていてくださいよ」と注意し、迷いの竹林に向かって風を操り飛び上がった。
上昇気流を生み出し、二人分の重力を大地から切り離す。
いつもなら鋭角の軌道を描いて空を斬る所だが、今日はゆりかごの様な安定飛行を心がけた。
背中の温もりを意識しながら、私はなるべく椛に話しかけてやる。
「椛、大丈夫ですか?」
「……はい。平気、です。でも、なんだか目隠しで手を引かれている気分です」
「それは、如何ともし難いですね」
「でも、文さんの声を聞いて、背中をじっと見ていれば大丈夫です」
「あやや~、何だか視線がくすぐったく感じてきました」
「もう、文さんったら」
始めは縋る様に強張っていた椛の体。
でも緊張がだいぶ緩和されたのか、時折もぞもぞと私の羽の付け根で居場所を確かめるように小さく動く。
(……まるで母親にでもなった気分ね)
私はそんなことを柄にもなく想起し、自分でおかしくなってつい含み笑いをしてしまった。
「あ、なんか笑いましたね」
「え、いやぁ」
「鼻は使えなくとも、耳は健在なんですよ。気持ち悪い笑いも全部聞こえるんですからね。
どーせまた私をからかう台詞を選んで、思い出し笑いの先取りをしたのでしょうが」
あやや、いつもの辛辣な調子に戻ってしまった。
余裕が出てきたのは良い兆候だけど、ここで主導権を握っているのは私。
ひとつ先輩として威厳を示してあげましょう。
「違います。私は、背中で小さく丸まって擦り寄ってくる椛が可愛いな、と思っただけですよ」
「んなっ!? ちょ、ま、またそんな軽口を」
「おおっ、竹林が見えてきましたね。それじゃ垂直降下しまーす」
「え! きゃあ!?」
「……う・そ・です。可愛い後輩をおんぶしているのに、無茶はしませんよ」
「こっ……この……むうぅ」
顔を名前の如く真っ赤にしたと思ったら、ビクッと震えて私を強く抱きしめる椛。
それでネタばらしをしたら、怒りでいきりたつ耳と反比例して、顔は満更でもない表情をしてくれる。
くうぅ、相変わらず写真に撮りたいほど初心で敏感な反応。これだから椛いじりはやめられません。
そんな椛上級者の嗜みを堪能していると、今度は本当に竹林が見えてきた。
私は椛の異常がすぐ見つかればいいなと思いつつ、ゆっくりと高度を下げた。
――◇――
永遠亭。
幾多の兎が住み、天才薬師が病院を営む屋敷。
私達は助手兎の鈴仙さんに連れられ、診察室に通された。
ちなみに、やけに長い廊下で「何でおんぶしているんですか?」と至極自然な質問を頂戴した。
私は椛の気持ちを汲んで、「この子はシャイなんです。知らない所が怖いんですよ」とあしらっておいた。
鈴仙さんは納得された様子だった。背中を椛に蹴られた。
そして丸椅子に降ろした椛の問診に目を通し、鼻の様子を診察した白衣の八意永琳さんは、あっさり病名を告げる。
「長く続く鼻づまりと、腫れぼったい目。無意識に目を擦ってない?
これ、典型的な花粉症の症状よ。この季節だと、スギが原因でしょう」
えらく軽い宣告に、私は拍子抜けした。だが、椛は不安そうな顔をする。
「あの……花粉症、ってなんですか?」
「生物の体内には、侵入してきた異物を排除する抗体っていう機能があるのだけど、ある特定の物質に対して抗体が過剰に反応することがあるの。
それが植物の花粉なら花粉症。他にも、食物や接触する無機物など様々な物質も含めるとアレルギーと呼称されるわ。
あなたの場合は、スギ花粉に反応して鼻づまりや目のかゆみが長く続くってわけ。
まぁ、命に関わるほど酷くはないけど、これからこの季節は要注意ね」
「でも私、そんな病気になったことないんですけど……」
「急に発症したのは、そういうアレルギーの原因物質が体内に蓄積して許容値を超えたせいよ。ちょうど注ぎすぎたコップから水が溢れる様にね。
あなたは哨戒天狗。スギ花粉が飛散しまくる場所で見廻りしていたら、いつ発症してもおかしくないわ」
永琳さんの説明に、椛は「はー……」と一応納得する。
すると永琳さんは、机のカルテにカリカリと解読不能な文言を書きつける。
「鼻づまりがひどいから、それを緩和する薬と抗アレルギー剤を出しとくわ。
それじゃ、お大事に」
え、お終い?
「ちょっと待ってください。それだけですか」
私は永琳さんに食ってかかる。永琳さんは手を止め、不思議そうな顔をした。
「え、他に何か? 薬を飲めば明日にも良くなっているわよ」
「薬が効くまで一日もかかるじゃないですか。その間、椛はずっと不安に曝されるんですよ。
そりゃ人間の花粉症の治療は簡単で軽いかもしれませんが、椛にとっては馬鹿にできない症状なんです。
もっと親身になって考えてくれませんか」
普段の私らしくもない。少し感情を表に出して要求してしまった。
でも、一瞬椛の目が落胆に染まったのを目撃してしまっては、異議を申し立てずにはいられない。
しばらく永琳は私達の顔をじっと眺めていたが、ふと申し訳なさそうな口調になる。
「それは配慮が足りなかったわ。鼻づまりも立派な病気よね。
それなら今日この場で劇的に治る治療法があるから、それをやってみましょう。
うどんげ、処置室を準備しておいて。貴方達はこちらへ」
そう言って、処置室とやらに促す永琳さん。
移動したのは隣の部屋。処置室と呼ばれるその空間には、真ん中に大きな作り付けの椅子があった。
その脇には様々な形の金属器具が台車に置いてある。おそらく治療道具だ。
椛は慣れない病院、しかもこれから始まる得体の知れない治療に尻込みしていたが、マスクと額帯鏡をつけた永琳さんに椅子へと座らされる。
「じゃあ椛さん、治療を始めますね」
少し上を向かせた椛にそう宣言して、永琳さんは額帯鏡を下ろし、控えていた鈴仙さんに器具の指示を出す。
すると無駄の無い動きで、細い管に引き金がついた道具を渡す。
「まずは鼻水を吸引します」
「!」
そう説明するやいなや、椛の鼻の片穴に管を突っ込む永琳さん。
そして引き金を引いた途端、ところてんを啜った様な生々しい吸引音が響き渡る。
片方が終わればもう片方。手際よく鼻水を取り去る。
これには椛も面食らい、目を白黒させるが、何せ動けないため拳を握って耐える。
カフカフと口の呼吸は乱れ、私まで洟を吸い出される感触を想像してしまい、ちょっとむず痒い。
「少し空気送りますね」
「ふっ! むぐ……ふう」
似た形の器具に持ち替えたと思ったら、ぷしゅぷしゅっ、と圧縮した空気を小気味よく噴射する。
椛は一瞬鼻を膨らませて唇をぷるぷる震わせていたが、何とか我慢した。
多分、クシャミを噛み殺したのだろう。
だが、ここからこの治療がその本性を現す。
次に永琳さんが持ったのは、極細の針金の先にこれまた細く脱脂綿が巻かれた道具。
永琳さんはその脱脂綿を、軟膏の様な薬が入った瓶に突っ込む。
え……まさか……
「この薬を鼻腔に直接塗りつけるから、じっとしていてね」
「え!? 待っむぐぅ!」
椛が身の危険を察知して制止の声を上げようとしたが、背後の鈴仙さんがガーゼを口に当てて、そのまま押さえ込む。
むー、むーとうめき声が聞こえるが、医者はそれを気にしていたら何も出来ないとばかりに針金を鼻に挿入し始めた。
針金が奥に入る。まだ奥に……え、そんな奥で大丈夫ですか!?
私の心配も余所に、永琳さんがクイッと手首を持ち上げる。
刹那、椛の肢体がビクリと跳ねた。
ガーゼの隙間から形容しがたい悲鳴が漏れ、椛の目から生理現象の涙が溢れる。
つま先は反り返り、手で椅子をパンパン叩いて限界を表現する。
鼻の奥、最も敏感な所に触ったのだ。私は身震いして目頭を押さえる。
椛は生きていく上で味わいたくない刺激を、今存分に味わっているのだろう。
すると、椛は突然目を見開く。首の筋肉が硬直し、顔がブルブルと震える。
永琳さんは何かを察したのか、素早く針金を引き抜く。
その途端、ついに椛が噴火した。
「は、はくちょいぃっ!! へっぷそん!! ううっふう!」
鼻に猛烈な異物が直撃したのだ。そりゃあクシャミも出ますよね。
鈴仙さんも予兆を感じ取って、クシャミしやすいようガーゼを少し離すナイスフォロー。
しかし、摩訶不思議な音ね……椛のクシャミ。
それに反動で顔から出るもの全部出ちゃっていて、凛々しい白狼天狗の見る影もない。
だが鈴仙さんは事も無げに、椛の顔を新しいガーゼで拭き拭き。
そして人心地ついた椛の口を、間髪入れずにまた押さえる。
「大丈夫ですか。それじゃ、もう片方もやるから頑張ってくださーい」
「むぐぅ!? むー! むうぅ!」
先ほどの行程がよほどこたえたのか、涙目でプルプルと首を横に振り拒絶の意思を必死に伝える。
が、それで止めてくれるほど医療行為は甘くない。
「もうちょっとですから。こらえてね~」
「ふむぐううぅぅ!! ふっ!? ふ……ぐ
ひっきし! ひゃくしょう! えほえほえほっ! ぐむぅ!」
ああ……もう見ていられない。
こんな悲喜劇に耐えること3分少々、固くて長い棒を敏感な穴に突っ込まれるという痛ましくも笑える治療は、椛に大きなトラウマを残して終了した。
治療椅子からよろよろと降りた椛は、しばらく半泣きで鼻をちーんちーんとかみ続け、チリ紙をたくさん消費していた。
しかし、洪水の様な鼻水がある瞬間から唐突に止み、椛は呆けた顔をする。
そして、驚いた様相で何度も鼻呼吸を繰り返す椛に、永琳さんはにこやかな顔で一言。
「ね? 劇的でしょう」
その後、椛は処方薬として錠剤の他に、点鼻薬というノズルを鼻に突っ込み霧吹きして使う薬を貰った。
鼻の中に霧吹き。これまたむせそうな薬だが、椛は真剣に点鼻薬の使い方を聞いていた。
永琳さんの治療で飛躍的に鼻の通りが向上したのが、よほど衝撃だったらしい。
ともかく、私は椛の病状が回復した様でなによりだった。
――◇――
鈴仙さんに見送られ、私たちは外に出た。
すると、椛は目を見開いて大きく鼻から息を吸った。
「――風の匂い、木の匂い。ああ、全部わかる!」
ぱぁっと椛の顔が輝く。
椛は、はしゃぐ子供の様に庭に躍り出て、なんと四つん這いになって地面に顔を近づけた。
「文さん、大地と水の匂いです! もう千里先の事だって嗅ぎ分けられますよ!」
「わ、わかりました! わかりましたから少し控えて……」
くんかくんかと鼻を鳴らして地べたの匂いを嗅ぎまくる椛を、私は何とかなだめる。
さっきから感じる、鈴仙さんの苦笑交じりの視線が少々ツライ。
私は興奮冷めやらぬ椛を立たせて、わんこから社会人に進化させる。
その時、私の背後から陽気な春の風が吹き、椛の前髪を揺らした。
その風を感じた椛は、すうっと目を細めて私の胸に飛び込んできた。
「あややややっ!?」
「んふー……すーはーすーはー」
「あっ!? やややぁ……」
突然の出来事に面食らった私は椛を振りほどこうとしたが、胸元に当たる深い息遣いに思わず力が抜けてしまう。
椛は私の体を吸い込むように、ひっついたままで何度も呼吸をする。
私が妙に熱く湿った吐息にドギマギしていると、椛は自然と私を抱きかかえる様に腕を回した。
「……新聞のインクと、牛乳石けん。あと、幻想郷中の匂いが混ざっている……
文さんの匂いだ……すごく、落ち着きます」
「椛……」
まるでこの瞬間に初めて治ったと自覚したように、ゆっくりと言葉と匂いを噛みしめる椛。
ほぅ、と息をついて、椛はそっと私から離れる。
「あの……今日はありがとうございました。
文さんが付き添ってくれて……すごく嬉しかったです」
そう頬を薄く染め、やや上目遣いでお礼を述べる椛。
(そっか……椛、私を匂いでも感じてくれたのね……)
私は胸が熱くなって、後輩の頭を撫でてやる。
「いいえ。困った時はお互い様。
私も椛が元気になってくれて嬉しいですよ」
そう言ってわしわしと頭を梳くと、椛は今日初めてで一番の、はにかんだ笑顔を見せてくれた。
「……ゴホン。あー、そこのご両人。
仲睦まじいのは大いに結構なのですが、ここではヒマを持て余した師匠と姫様にとって格好の見世物になります。
つまり……余所でやってもらえませんかね?」
はっ、と鈴仙さんの哀愁を帯びた声に振り向くと、奥の縁側でお茶をすすりながら私たちを興味津々に眺める長生きツインズが視界に入った。
「あらあらまあまあ、お盛んねぇ」
「姫様知っていますか? 狼って一度つがいになると、そのペアは一生添い遂げる生き物なのだそうですよ」
「へぇ。人間も見習って欲しいわね」
「おやおや、含蓄がありすぎるお言葉ですね」
「あら、当て付けかしら?」
「いえいえ。むしろ私たちが、異種族間の愛情を当て付けたられた格好ですよ」
「まぁ、あらしのよるもビックリね。ほほほほ」
「ふふふふふ」
「や……ヤダ……」
「あややややぁ……」
一部始終を見られて、椛は赤面し、私は何ともバツが悪くなる。
これは……しばらくこの病院では、話の種に事欠かないわね……
そう私は、日常を噂される方の気持ちを味わい、ほんのちょっぴり反省した。
その後、椛の症状は処方された薬がてきめんに効いているお陰で、日常生活に支障をきたさなくなった。
だが油断は禁物だ。
永琳さんによれば、鼻づまりだけが突出する症状ならまだマシな方で、酷いと目のかゆみやクシャミ、鼻水が併発して顔中がエライことになるらしい。
そのことを、私との関係を尋問するという名の検診で聞いた椛は、予防法もしっかりマスターしてきた。
そして今日も、いつもの装束に永琳さん推奨のどでかいマスクとゴーグルをつけて、元気に山へと出勤するのであった。
「……なぁ、文さん。あの、椛の不審者丸出しの風貌は何なのだ?」
「……警備部長殿。これから毎年のことです。早めに慣れてくださいな」
「???」
がんばれ、椛。
幻想郷に花粉症が浸透するその日まで、春は白い目に耐えるのだ。
【おわr……ひっくしゅん!】
これはアレルギーの類なのかな……。
導入も意外で引き込む力があります。
面白かったです。
花粉症は、昔は枯草熱って言ったらしいですね。
花粉症にはなりたくないな・・・
それはそうと、このもみもみ可愛いすぎ。
「あらしのよる」という言葉を久しぶりに聞いてホッコリしました
と思われちゃうんだよー!アホの子みたいに電車ん中で花垂れるし。永琳先生私の事も診察して! お嬢様
『三角定規が服を着て山の警備に当たっている様な、生真面目ガチガチ勤労組織人の椛』の表現はさすがにがま様です。とてもユニークで
シックリくる表現でした。前回の藍様の話といい、がま様は動物好きなんだなて思いました。 冥途蝶
文さんがいいヒトすぎる。でも、三日間椛さんの家には誰も来てくれなかったんですよねぇ…。ぶわっ(泣) 超門番
ええ。自分はわからないのですが、周りの人がピリピリし始めると「来たな」と感じます。
4番様
ありがとうございます。病弱な椛と元気一杯椛、どっちも可愛いですよねぇ。
8番様
あっ!? やややぁ……
君の瞳にレモン汁様
え!? じゃあ、瞳にレモン汁も危ないのでは……
こほん。真面目な話、専門家じゃないのでわからないのですが、気になるのであれば専門医の受診をおすすめします。
今日びのアレルギーはシャレにならない症状を引き起こす可能性もあるので、安心のためにもなります。
直江正義様
ご感想ありがとうございます。構成を褒められたのは初めてで、少し照れています。
愚迂多良童子様
多分知ってはいるけど、あえて無視しているに一票。枯草熱……何かワクチンを投与しそうな勢いの病名ですね。
13番様
ええ、花粉症だけはかからない方がいいです。毎年修羅場になりますから。
名前を忘れた程度の能力様
さらに強い抗アレルギー剤は、物によってはすごく眠くなるから授業前とかに飲むと拷問。
でも、椛の居眠りはちょっと見てみたいか(ry
17番様
あの治療の経験者ですか。私も初めてやられた時、変な角度からの痛みに襲われました。罰ゲームですよ、あんなの(泣)
25番様
おやおや、25番様も経験済みですか。私は(こんな治療二度と受けるか!)と思ったのですが、とにかく効果が早く高いので今でも時々お世話になっています(笑)
27番様
すみません。卒業式でふと隣の奴を見たら、涙より鼻水をダラダラ流していた思い出があるもので……
やはり異種属の交流と言えば「あらしのよるに」がイメージ強いです。国語の教科書にも載ってましたから。
お嬢様・冥途蝶・超門番様
なんと。お嬢様も花粉症でしたか。心中お察しいたします。
薬で症状が抑えられればいいのですが、最近ではあんまり酷いと鼻の粘膜を焼いたり、レーザーを照射したりする治療があるとか。
……花粉症って、いつからそんな一大事になってしまったの?
三角定規の表現は、割とさらっと思い付いて書きました。椛のことをイメージしたら「……これだ!」って感じです。
動物は基本的に好きですね。ホームセンターのペット売り場で癒されます。
>でも、三日間椛さんの家には誰も来てくれなかったんですよねぇ…。
これもある意味、天狗社会のひずみですね(泣)
鼻が痛くならないローションティッシュは、エジソンの電球くらいの大発明だと思うがま口でした。
紅魔館のメイドは毎日銀磨きで大変やなあ
銀器磨きは紅魔館のメイド達の大事なお仕事。でも綺麗な銀食器は妖精が勝手に持って行っちゃうので、咲夜さんは目が離せません(オイ)
人間病気には勝てませんなぁ
しかし検査では陽性でも、症状が出ないって結構あるみたいです。
特に霊夢なら、体調崩しても食欲は減らないタイプだと思います(笑)