「あなたには愛してくれる人なんてひとりもいないんでしょ。いくらわたしたちを不幸の底に突き落としても、あなたはもっともっと不幸だからこんな酷いことをするんだって考えて、溜飲を下げてやるわ! 不幸なのはあなたのほうじゃないの? 悪魔みたいに孤独で、悪魔みたいに妬み深いのよね? 誰もあなたを愛さないし――あなたが死んだって、泣いて悲しむ人もいない! つくづく、あなたにはなりたくないわね!」
――E.ブロンテ『嵐が丘』より
〈プロローグ 天使にラブ・コールを!〉
ああ、うるわしの天人様……。
風にたなびくつややかな長い髪は、ぶ厚い雲の外に広がる青空のよう。茶目っ気たっぷりにくるくる動く緋色の瞳はガーネット。空模様を映すスカートに散らばる七色の飾りはまさしく虹ね。天人様の佇まいは高貴で、優雅で、いつも桃の甘い香りがするの。
そんな可憐な姿からは想像もつかないでしょう。ひとたび緋想の剣を振るえば大地震を起こし、小柄な身体に似合わない巨大な要石をいくつも操る豪胆さを持っているなんて。
あ、いけない。私ったら一番大事なことを忘れていたわ。
何より天人様が魅力的なのは、圧倒的な幸運の――つまりは湯水のように溢れる大金の持ち主ってところよ。暖衣飽食で、お金に困ったことなんて一生で一度もなくて、一緒についていくだけで私は妹のおこぼれなんか目じゃないほどの幸運にありつけるの。
なんて、なんて素敵な人なの!
バカな人間が理想の相手は三高だなんだと囃しているけれど、この世はなんといったって金よ。一に金、二に金、三、四がなくて五に金なのよ(これを言うと天人様は『汝、神と富(マモン)とに仕えること能わず』って言ったけど。どーゆーこと?)。お金を持っている人に勝るものなんて何もないわ!
ゆえに天人様は最高! 天人様は至高!
「おーい、紫苑?」
天人様万歳!!
「紫苑ったら」
おっといけない。私があんまりにも天人様の横顔をガン見してたもんだから、心の広い天人様も不審に思っているわ。赤い瞳がぱちぱち瞬いて、もぎたての桃のように瑞々しい唇が可愛らしくて、天人様を見てるとついうっとりポエマーみたいな空想に耽ってしまう。私にも乙女チックな心が残ってたのね。
「まったく、何をため息ばっかついてるの。おいしいキノコがたくさん取れるから山に行きましょうって言い出したのはお前なんだぞ」
はい、そうでした。
私が女苑と一緒に(いや、正確にはほとんど私ひとりで戦ってたような。あいつちゃっかりしてやがる)夢の世界の天人様を倒して、その後で現実の世界の天人様に会って、私が天人様の夢にも劣らない無尽蔵の幸運オーラに一目惚れして、気づけば私たちはどこに行くのも一緒って言っていいくらい仲良くなっていた。
いまは実りの季節。『天高く馬肥ゆる秋』とか天人様は言うけど、私は生まれつきの貧乏と粗食のせいで一度も太ったことがないのに、馬ごときが丸々太るなんて不公平だわ。とはいえ自然の恵みは誰にも等しく降り注ぐべきもので、貧乏な私でもちょっとそこらの山に入ればキノコに木の実に山草にと、それはそれはありがたいご馳走で溢れているのよ。
天界にはない珍しい食べ物があるのですと囁けば、天人様は興味を持って、私と一緒に山へキノコ狩りに来たってワケ。道中で邪魔してきた山の妖怪たちは全員天人様が蹴散らしてくれたわ。頼もしい人!
「私はまだ地上の植物ってやつがよくわかんないのよ、これとかどうなの?」
高貴な天人様は地上の食べ物にはお詳しくない。キノコは正確には植物じゃないらしいですよ、とかヤボなことは言わないで、私は天人様が指さすキノコを見た。
……見るからに毒々しい赤色と白い斑点のカサ。うん、毒キノコじゃね?
「天人様、これは食べない方がいいですよ」
「そうなの? 鮮やかで綺麗なのに」
「キノコってそういうヤツほど危ないんですよ。地味なのなら安全ってわけでもないらしいんですが」
とかなんとか指南してる風だけど、ぶっちゃけ私もキノコの専門家でもなんでもないから詳しいことはあんまわかんない。
だけど私みたいな極貧が日常の貧乏神は、ちょっとやそっとの毒キノコやら毒草やらでビビらないのよ。ひもじければ〝殺しの天使〟ことドクツルタケだって喜んで食べるわ。まあだいたい食べた後でえらい目に遭うんだけど、背に腹はっていうし、自慢じゃないけどこれでも身体は頑丈だし、なんたって神様の端くれだから毒ごときじゃ死なないし。
同じく天人として身体が頑丈にできている天人様も、毒を食らったって、せいぜいお腹が痛くなる程度で済むのだ。これまでの天人様と過ごした経験が証明している。あ、雑魚な人間は死ぬかもしれないよ? よく知らないキノコが食べ放題だなんて、私と天人様だけの特権ね。
それにしても天人様ったら見つけるのがうまいわ。ちょっと落ち葉をどけたり、木の根元を漁ったりするだけで次々にキノコを見つけるんだから。マツタケなんかをあっさり手にしたときはひっくり返るかと思ったわ。天人様の天賦の幸運はこんなどうってことない日常の中でも発揮されるのね。
気がつけば、私と天人様が抱えてきた空っぽのカゴはずっしり重たくなっていた。
「あれっ? なんだ紫苑、お前はキノコ以外も集めてたのか」
「えへへ。この季節は甘ーい栗の実に加えて、ドングリやらトチの実やら木の実も大豊作ですから」
「ふうん。桃に比べたらしょぼいわね」
「丁寧にアク抜きすればドングリだっていけるんですよ? でも、今日の収穫はこれくらいにしておきましょう」
「え? なんで……あーそうか、秋の神がうるさいからな」
不満げだった天人様も、この山をテリトリーにする神様を思い出してしぶしぶキノコ狩りの続行を諦めた。
秋の神……この場合は紅葉の神じゃなくて豊穣の神の方ね。あんなの天人様の実力に比べたら雑魚だと思うけど、下手に喧嘩売って怒らせたらせっかく収穫したものを全部没収されちゃうかもしれない。私? 私の極貧オーラで押し切れなくもないだろうけど、やっぱ後のことを考えたら神様のテリトリーで揉め事を起こすのは面倒でしかないわ。
ひと口に神様って言ってもいろいろあるのよ。たとえば山の上に神社をでーんと構えてる偉そうな風神はお社も巫女も連れてるれっきとした祀られる神様だけど、秋の神は特定のお社を持たない、いわばノラ妖怪に近い存在ね。それでも秋の神たちはまだ人間にありがたがられるんだから、よっぽどいい扱いだと思うわ。
で、私(と、ついでに妹の女苑)はってーと、名前にこそ〝神〟とはつくけれど、世間の扱いはほとんど雑魚妖怪と大差がない。祟り神レベルならビビリの人間が丁重に祀ってくれるけど、貧乏神程度じゃものぐさな人間はきちんと祀ってあげようとまで働きかけないのよね。
あーあ、神の格差社会のむごさといったら。私だって人間を脅して供物を巻き上げるだけの快適な生活を送りたいわよ。と、ちょっと前までの私なら思っていた。
だーけーど! いまの私には天人様がついている! そう、もはや人間の扱いも神様の格差社会も気にしなくていいの。
これまでも金を持ってるだけの人間ならごまんと見てきたけど、どいつもこいつも人間性が薄っぺらいっていうか、ショボいのよ。ま、人間ごときが神様より上になるわけがないんだけど。
その点、天人様は……えーっと、ヒソーヒソー……ナントカっていう高貴な天人の生まれで、生まれ持った幸福オーラのスケールも大きくて、懐も広くって、貧乏神の私がずっとおそばを離れなくても、そのせいで天人様にまで不幸な出来事が降りかかっても、ちっとも気にしないでいてくれる。むしろ私を〝いい付き人ができた〟くらいに思ってくれてるみたい。ああ、貧乏神ってだけで邪険にされないだけでも貴重なのに、むしろ進んで私をあちこち連れ回してくれるなんて! 私の心はガッチリつかまれてしまった。もうね、メロメロよ、ベタ惚れのゾッコンのくびったけよ。
「麓まで降りたらさっそく調理するか。キノコは煮ればいいの? 焼けばいいの?」
「どちらでもお好きなように。腹に入れば全部同じです」
「お前は到底美食家になれそうにないねえ。出された食べ物はなんでも美味い美味いって過剰にありがたがるんだから」
「だって、この世に食べ物がなくてお腹がすくことほどひもじいことってあります?」
某アンパンのヒーローの最大の敵は悪さをするバイキンじゃなくって〝飢え〟なんだってね。真理だわ。
「衣食足りて礼節を知る、か。まあいいや、私のような高貴な天人は贅沢な食事なんて食べようと思えばいつでも食べられるんだからね」
麓の河原まで降りてきたら、あらかじめ用意しておいたお鍋や道具(外の人間がバーベキューって呼んでるヤツ)を取り出して、ウキウキの天人様と一緒に調理を始めた。
天人様、「私は天界では料理なんかしなくていい身分だから」とかいうくせに、料理がお好きなの。召使いたちに前もって用意されておいたものを出されて、ただ黙々と受け取るだけの生活が味気なかったんですって。
箱入りのお嬢様が「なあに、この安物?」とか文句言いながら人里で買った割烹着をまんざらでもない感じで身につけて、「邪魔だなあ」ってめんどくさそうに長い髪の毛をざっくらばんにまとめて、ここはこーしたらあーしらたって口出ししまくる私に「ああもう、うるさいなあ紫苑は!」って怒りながらも調理は投げ出さなくて、さあどんな出来上がるかなって、興味津々に鍋を覗き込んでいる姿は、いつ見てもただただ可愛いのよ。可愛いは正義。天人様マジ天使。
そんでもって完成した料理を「ふーん、ま、こんなもんか」とか言いながら、熱い熱いと顔を赤くして頬張る姿はもう、もうね! 「たまには下界の食べ物も悪くないんじゃない?」みたいな〝下々の食い物をあえて楽しむ粋な私〟ってポーズを取りながら美味に綻ぶ顔が隠しきれてない可愛らしさといったら、眺めてるだけでお腹いっぱいになりそう!(あ、やっぱ嘘。目だけで飢えが満たされたら貧乏神は苦労しないのよ。ってことで私は天人様より多くを当たり前みたく鍋からぶん取っていく)。
あー……幸せ。天人様と一緒だといつも美味しいものでお腹は満たされて、天人様は高貴で美しくて可愛らしくて、いままでに身に染みついた貧乏な生活を忘れちゃう。
それもこれもぜーんぶ天人様のおかげ……なーんて熱ーい眼差しを送り続けていたら、うん? 天人様も私を見ているような。
「……あの」
「何?」
「天人様は食べないんですか。お口に合わないとか?」
「いや。紫苑のなんでも美味そうに食べるとこ、いいよなって思って」
それって、いっぱい食べるキミが素敵みたいなアレか。がっついてて意地汚いって言われることもあるんだけどね。
なんだろ、天人様になら何を言われても嬉しいっていうか、一緒にお鍋を食べるだけっていう、こんな何気ない瞬間すら天人様はキラキラさせてくれる。
そんな優しく笑われると、食い意地張ってるとこを見られて恥ずかしいかもなんて気持ちも吹っ飛ぶわ。胸がドキドキするより、ぎゅーって締め付けられるような感じがして、でもその後は温かい気持ちでいっぱいになるの。魔法にかけられたみたい。
「そういう天人様こそ、何をしてても魅力的ですよ」
「え?」
天人様の目がぱちくり動く。首をかしげると、サラサラと空色の髪がこぼれる。自覚がない。無邪気で無垢で、そんなとこも素敵!
「天人様は、私にとって世界で一番素敵な人。一緒にいるだけで、天人様は私を幸せにしてくれる」
「――」
「さすがは天人様! 天人様の幸運のお力ってすごいんですね!」
私の言い方はそこまでおべっかっぽくはなかったと思う。だって天人様は目を丸くして、頬を赤くして。口元をなんだかむにゃむにゃさせて。
いつも自信満々な天人様にしては珍しい反応だと思ったら、
「当然よ! 私は天人だからね!」
って、胸を張って言った。天人様が照れるなんて、私の見間違いだったかしら?
んでもってしばらくしたら、また天人様は私をじっと見てる。それはさっきみたいな「紫苑は本当に何でも美味しそうによく食べるなあ」なんて微笑ましそうに言うときの顔とはちょっと違うっていうか……。
「紫苑、紫苑が私を覗くときは、私もまた紫苑を覗いているんだ。だから目が合うんだよ」
なんかどっかで聞いたセリフっぽい。どこでかは忘れたけど。
天人様は空になった器を置いて、いきなり私の手に天人様の手を重ねてきた。
「紫苑は、私が好きか?」
えっ、何を今更。
「はい、大好きです!」
決まってるじゃない、私がいままで天人様への好意をどれだけオープンにしてきたかわからないの? 一年以上もずっとふたりで一緒にいるのよ?
天人様はふっと優しく笑って(あれ? なーんか、いつもの無邪気な天人様らしくない、大人びた感じがするのは、気のせい?)、私に近づいて、頬に手を添えて、それから……。
は?
え?
ええっ?
えーと、これっていわゆる、アレですか。
フィクションでしか触れたことがないロマンスってやつですか!
女苑が昔観てたやっすーいトレンディドラマは『ダッサ、リアリティなさすぎ(笑)』とか馬鹿にしてたもんだけど、なんか、なんか、私はいま、80年代から90年代あたりのヒロインにトリップしちゃったんじゃないの!?
だって! 唇と唇が! 天人様の桃のようにうるうるの唇と、私の砂漠のごとく乾いたガッサガサの唇が! ……ロマンもムードもないなあ。まあ無理か、私は貧乏神だし。ていうかお互い食ったばかりで出汁のにおいがぷんぷんするし。ニンニク料理とかじゃなくてよかったね。
これは夢? 私に都合のいい夢? 確かに私はさっき幸せだなあとか思ってたけど、だってだって、貧乏神の私がラブストーリーのヒロインみたいなことしてるなんて、現実とは思えない!
で、でも天人様の花も恥じらうお顔は間近にあるし、緋色の瞳がなんだか……キラキラと……。
あ、あれ、なんかドキドキしてきたな。私はついさっきまで天人様に対する好きは敬愛の好きだと思っていたけれど、き、き、キスされるのがちっとも嫌じゃないってことはさー……私、天人様のこと、そーいう意味で好きになっちゃってたの!?
「嫌だった?」
天人様の不安げなお言葉にぶんぶんと勢いよく首を横に振る。めっそうもない。急だったからビックリしたけど、そんなムードとか前フリとかなかったはずだし、なんで天人様がいきなりそんな気になったのかちっともわかんないけど、天人様のやることが間違いなワケないわ。
「あのう、どうして私に、こんなこと?」
天人様ったら、眉を下げたまま、頬を赤らめてそっぽを向く。照れてらっしゃる。今度は見間違いじゃない。そんなお顔もまたお美しい。
「別にいいでしょ? 紫苑は私が好きなんだから。私だって、気に入った相手にキスしちゃ悪いかよ」
わざと乱暴な言葉遣いになるのも素敵。うん、フツーだったら許可もなく勝手にキスしてくる輩とか絶許だけど、私はぜーんぜん気にしない。だって天人様、態度こそぶっきらぼうだけど、私のことを好きだって言ってるも同然じゃない!
つまりこの瞬間、私と天人様は両思いになったのだ!!
ガールミーツガール、フォーリンラブ! ロマンスの神様、この人だわー!!
私、天人様に一生ついていきます!
そう、私、依神紫苑はいま、まさに幸福の絶頂だった!!
■
……なーんて、後から考えてみれば、このときの私は思い上がりも甚だしいっていうか、バカ丸出しっていうか、明らかにこの後の悲劇のフラグでしかないっていうか。
テレビの過剰演出って好きじゃないんだけど、本当に幸福の絶頂から不幸のどん底に落とされることってあるのね。
ああ、私のバカ。せめてもう少し冷静な思考を持っていれば……って、私にそんなもの期待したってムダだったわ。
■
〈その一 翼を折りたい天使〉
ハルジオン。またの名を貧乏草。
あまりに不名誉な名前の花から名付けられた私は、生まれたときから(つってもどこで生まれたとか知らんけど)どこに出しても恥ずかしくない貧乏神だった。女苑に言わせりゃ『恥しかない』らしいけど、ケッ。
ともかく、時間が経って少し冷静さを取り戻した私は、天人様と両思いになれたという幸福からくる雲の上を歩くようなふわふわした気分が落ち着いて、悟ってしまったのである。
――誰が言ったか、貧乏神の周りは、最後は必ず不幸で終わらなければならない。
私と天人様の幸福な時間は、いつか終わりが訪れる。
天衣無縫な天人様は天気屋で気まぐれなんだから。
ううん、天人様だけじゃない。私の貧相な有り様を憐れんで近づいてきた人間たちは、そのうち私の能力で貧乏になって――あるいは私のあんまりの極貧ぶりに嫌気がさして、みんな私を嫌って去ってしまった。みんなそう。みーんな、そう。それはどうしようもない残酷な現実よ。
だから天人様だって例外じゃない。いまは私を好きだと言ってくれる天人様も、いつか、私に飽きちゃうんだよね。私のそばを去っていくのよね。私には天人様を引き止める術なんてないから、私はただ指を咥えて見ているしかできないのよね……。
だーけーど! 最凶最悪の貧乏神をナメてもらっちゃ困るわ。この依神紫苑が転んでタダで起き上がるとでも思ったか!
えーえー、あんたたちの言いたいことはよーくわかるわ。自堕落、無気力、ダウナー、ヒモ、妹の金におんぶに抱っこ。自分からは何もしない、根暗陰キャインドアの極みみたいなヤツに何ができるんだよ、とかでしょ?
みくびるなよ。私だって、自分の力でできることが、たったひとつだけあるのよ。
私の貧乏神としての生まれ持った能力は、具体的に言えば財を失わせ、運気を下がらせ、不幸にすること。その力は制御が効かなくて、無差別で、自分すらも巻き込んでしまう。
つまり、私は何もしなくても不幸になるし、何かしても不幸になる。どうせ結果が同じなら、いつか訪れる不幸にびくびく怯えて何もしないなんて、不幸をばら撒く貧乏神の名が廃るわ!
そうよ、どうせ不幸になるなら、私がその前にこの手で天人様を不幸にしてやればいいんだ! この幸せが壊れる前に自分で台無しにしてやればいいんだ! 世界で一番大好きな人くらい、私が不幸にできなくてどうするの!
強烈なエゴに突き動かされて、いつも受け身な私には珍しくやる気が漲っていた。
――私が全身全霊をかけて、大好きな天人様を世界一不幸にしてみせる!
◇
「というわけだからあんたも協力しなさい」
「いや知らんがな」
相談を持ちかけた妹はまったく乗り気じゃなかった。面倒くさそうにジト目で見てくる。
「あの偉そうな天人崩れからガッポリ金をふんだくってやろうってなら協力も考えなくもないけど? 姉さん、今回は金目的じゃないんでしょ」
「だって仕方ないじゃん。天人様ったら、あれだけずーっと長い時間私と一緒にいるのに、ちっとも破産する気配がないのよ。お金は確実に減ってるはずなのに、天人様はそれが〝不幸〟だとは一ミリも感じていないの! お金毟っても天人様を不幸にできないのよ!」
「じゃあ勝運を下げてやったら? あいつ勝負事とか好きそうじゃん。負けたら露骨に不機嫌になりそうじゃん。テキトーに言いくるめて賭博とかノセてやったら」
「だーかーら、お金がらみじゃ意味がないんだってば!」
「あーもー、ああ言えばこう言う! じゃあ姉さんは何かいい作戦でもあるの?」
「それが思いつかないからあんたに考えろって頼んでんでしょ、なんとかしてよ」
「はあ!? 何その唯我独尊!?」
女苑がキレて食ってかかってくる。
「だいたい姉さんっていつもそうよ、何もかも他人任せのくせして文句ばっかで、どのツラ下げて『なんとかして』とか言えるワケ? ちょっと見ない間に、偉そうな態度も図々しい物言いも、ずいぶん例の天人様に似てきたんじゃないの!」
「やめて、天人様は神聖にして犯すべからず。私と天人様を比べるなんて解釈違いだわ!」
「何を勝手に盛り上がってんの……」
女苑はがっくりうなだれて「もーいい、姉さんには付き合い切れない」と呻いた。女苑はまるで私が天人様とばかりつるんでいる薄情者みたいな物言いをするけど、そういう女苑は女苑でこのごろは、えーと、みょ……みょ……ミョーホージ? だかなんだか知らないけど、あの武闘派な坊さんとこに入り浸ってんじゃない。
そのせいなのか、強欲で金にがめつくて意地汚くてタカビーでファッションセンスが悪趣味でメイクも未だにバブル引きずってて性格最悪なのが売りの女苑が『お金や宝石のきらめきが減った』とか耳を疑うようなことを言い出して、挙げ句の果てには『心の豊かな人生(笑)』とか『真の幸せ(笑)』とかスピッちゃったことに目覚めちゃって。虫唾ダッシュよ。
あーあ、我が妹ながら宗教なんぞにのめり込むとは情けない。外の世界でバブルが弾けたあとにいくつかのカルト集団が大問題になったけど、女苑もまたあの頃の人間たちと同じく『本当の豊かさとはなんぞや』とかいう意味のない哲学にのめりこんだ結果、同じ末路を辿ってんのかね。
まあ仕方ないわ。カルトにハマったヤツは身内といえども距離を置いて関わらないのが最善だからね。ほっとくっきゃないのよ。
とかなんとか私が白けた目で見ているのに気づいたのか、女苑はフンと鼻を鳴らして、
「とにかく、私は姉さんの破滅願望に付き合うつもりなんてないから。姉さんひとりであの崩れ天人を不幸のどん底でもズンドコでも落としてやりなさいよ」
あっそう。私がこんなに謙虚に頼んでるのに協力してくれないってワケ。お金儲けの話となったら聞いてもいないうちからポンポンアイディア出しまくるくせに、肝心なときに役に立たないんだから。ならいいわよ、私だって薄情な妹なんかに頼らないわ。
どうせ女苑は私のことを『ひとりじゃなんにもできない役立たずのデクノボー』とでも見下してんだから。
いいじゃないの。あんたの力がなくたって、私ひとりでも何かを成し遂げられるって思い知らせてやるわ! 愚かなる妹よ、いまこそ姉の威厳を思い出すがいい! 後で吠え面かくなよな!
……とかなんとか息巻いたのはいいんだけど。私って不幸を象徴するまさしく泣く子も貧する〝貧乏神〟でさ、私に近づくヤツは人間だろーが妖怪だろーが勝手に不幸になってくんだけどさ、女苑にも言ったけど、どーも天人様は例外っていうか。私の能力がちっとも効かない、もうずいぶん長いこと一緒にいるのに一向に不幸になる気配がない、稀有な人なのよね。
自分の能力の限界とかわかんないからはっきり言えないけど、もしかしたら、天人様の幸福オーラは本当に私の不幸オーラを受け付けないんじゃないかしら。お酒のあとで悪酔いしたりとか、多少の被害は出るんだけど、そんなのチンケなもんじゃん。っていうか、私だってそもそも天人様に近づいた最大の理由は〝この人と一緒だったら不幸にならなさそうだから〟なんだけど……。
あーもー、ひとりであれこれ考えるのってめんどくさい。まだるっこしいのは苦手なのよ、チョーダルい。
こうなったら方法はひとつ。
ズバリ、天人様に弱みを直接聞いちゃる!
「はあ? 天人の弱点?」
「はい、こないだ人里で例の偉そうな仙人が天人の『ゴスイ』? について講釈垂れてたんですよね。天人が気をつけなきゃいけない五つのことって。あれってなんです?」
「はーん、天人五衰か。あの仙人、もしかして本気で天人になる気かな? なれっこないのに」
天人様はあの派手派手しい紫色の仙人を完全に自分の下位互換としてバカにしている。ま、半分くらいは『天人様とあろう者が情けない』とか言われた腹いせだと思うけど。
天人様は気分よくスカートをひらめかせて、私にとくとくと教えてくれた。
「天人五衰ってのはね、簡単に言えば天人の避けられない五つの衰えって奴なの。一つ、頭上の花が枯れること。一つ、衣服が乱れること。一つ、汗がにじみ身体が汚れること。一つ、落ち着きをなくして同じ場所に止まっていられないこと。一つ、いまのこの世を楽しめなくなること」
……ダメだ、何言われてんのかちっともわかんない。いや、身体や着物が汚れるとか落ち着きがなくなるとかはまだわかんなくもないけど、頭上の花ってなに? 頭の帽子のお花? それとも頭ん中お花畑みたいな?
私ってマジで難しい話はムリなのよー。天人様はときどき漢字だけがずらっと並んだ難しそーな本を読んでるけど、漢字オンリーの本なんて何が楽しいのかしら。
頭がぐるぐる、ついでに目ん玉もぐるぐる回りそうな私に天人様は苦笑して、
「要は天人といえども完全無欠の不老不死じゃないってこと。五衰が出ると死亡フラグ……は言い過ぎにしても、近いもんかな。詳しいことは、あの地上の坊さんが『往生要集』あたりを片手に教えてくれるだろうよ。天人ってのは道教だけじゃなくて、仏教にも関わるものだからね」
地上の坊さんって、ああ、あの派手な仙人と組んでたヤツか。めんどくさいなー。ああいう我の強い連中は関わるとめんどくさいのよマジで。てかわざわざお説教なんか聞きたくないし。何よりいまあそこに行ったら女苑がいるじゃん。やだよ胡散臭い宗教施設で身内と顔合わせとか。女苑に勧誘なんぞされた日には裸足で逃げ出すわ、元々裸足だけど。
足りない頭で整理してみるけど、要は天人様もいつか死ぬのね? その『天人五衰』とやらを克服しない限りは。
ちょっと天人様を観察させてもらうけど、私にはその五衰の兆候とやらは見えない。見えてもわかんない可能性はあるけど。いつも通りいいにおいで、清潔な服を着て、愛嬌たっぷりのお顔。ほんと、こんな可愛くてお金持ちの人が私を好きだと言ってくれるなんて信じられないわ。どうせ貧乏神の私が珍しいだけなんじゃないの? 見るからに見すぼらしい私を連れ回して自分の虚栄心を満たしたいんじゃないの?
そんな私の視線の意味に気づかない天人様は、えへんと胸を張って、
「なんたって、私は特別だから。お迎えにくる死神だって何度も撃退してるのよ」
なんとも誇らしげに笑った。死神って、あの鎌振り回すおっかない神様モドキ? あれも神様の一種かっていうと、違うよね。付喪神といい貧乏神といい、人間は簡単に神様やそれの紛いもんを作りすぎなのよ。
それはさておき、仙人や天人が本来の寿命より長生きしてると、死神は借金取り立て人のごとく、その命を刈り取りにくるって聞いたわ。長生きって財産になるのね。私だって寿命を売ってお金になるんだったら売り払いたいわ。
まあともかく、欲しい情報は得られたし、天人様といったん別れて、天人様にはナイショで作戦を考えてみよう。
天人にも寿命はある。死神に天人様をどうにかしてもらうのが一番手っ取り早そうだけど、あの自信満々な態度からして、並みの死神じゃ束になっても天人様に勝てそうにないわ。幻想郷の死神は何やってんのよ?
じゃあ大人しく天人様に五衰が出るのを待ってみる? いつになるかわかんないのに?
ムリムリムリ! 時間は湯水みたく沸かないのよ! 私にそんな時間はない。呑気に待ってたら……。
天人様が、私に飽きてしまう。
……こっちから五衰を起こすってのはできないのかな? 私が一緒にいることで、他の天人より天人様の五衰が早くくる可能性はない?
でも五衰なんてどうやって起こせばいいんだろ? 服や身体が汚れる……落ち着かなくなる……いまが楽しくなくなる……。
服や身体を汚すのが一番手っ取り早そう。たぶんそれって本当の五衰とは違うだろうけど、私は貧乏神よ? ひとつの不幸からまた新たな不幸が生まれて、っていうありがたくない不幸のばよえ〜んはいくらでも起こり得るわ。
汚す……天人様を汚す……泥をぶちまけるとかじゃダメそうね。私がそんなことしてもちょっと怒ってみせるくらいで、大したダメージは受けなさそう。
「ねえ」
ていうか天人様って私に怒ったことあったっけ? 私の不幸に巻き込まれても笑って許してくれるし、なんならそれを面白がってるフシがあるし……。
「ねえ、お嬢ちゃん」
お優しいというか、ニブいっていうか。前に神社でお花見やったとき、周りの連中が『うわっまたこいつらかよ』って反応だったの、未だに気づいてないでしょ? でもそういう細かいことを気にしないおおらかな性格がまた魅力的なのよねーなんて……完全に惚れた弱みじゃない、えへへ……。
「お嬢ちゃんってば」
ああもう、誰ようっとーしー! 女の子がひとりで路地裏にこもって考え事してるのを邪魔しないでよ!
怒りに任せて振り向けば、見るからに脂ギッシュなオッサンがひとり。口に出すのも嫌になるくらいやらしー目。男の人って、目線に欲望が滲み出る自覚がないのかしら?
「お嬢ちゃん、キミさ……」
そこから続いたのは……あー、久しぶりだけど聞き飽きたセリフ。たかが一晩、されど一晩。まっとうな人間はまず女の子をお金で買おうとしないのよ。
いかにも貧相な見た目の女の子にわざわざ声をかけてくる人間なんて、大抵こんなヤツなんだ。貧乏神が引き寄せる人間はいつだってマトモじゃないんだ。私って本当にツイてない。
ていうか、天人様とちょっと離れた隙にいきなりこれって。つくづく天人様の幸運がありがたい限りよ。もし天人様と本当にお別れしちゃったら、またこんな連中をさばく日常が戻ってくるのね……。
私はこのオッサンの提案をすぐに断ってもいい、はず。いまは天人様のおかげでお金に困ってないし。
ただ、その……直前まで、どうやって天人様を不幸にしてやろうかって、あれこれ考えてたのもあって。長年の癖っていうか。あとは、えーっと。私、自分ひとりで判断するの、ムリ、っていうか……。
いいや。
私、はじめっから自分の頭で考えて行動するの苦手だし。いましか見えてない行き当たりばったりが私の生き方だし。だからこのとき私が何を考えてたかなんて、あとで思い出せばいいの。
■
ねえねえ天人様、私ずっと天人様のこと考えてたの。だって頭の中を天人様でいっぱいにしてれば嫌なこと何も考えなくて済むもの!
美しい天人様はどんな花にたとえても、花の方がみすぼらしく見えるけど、それでもあえてたとえるんだったら天人様は百合ね。それも白いのやピンクのじゃなくて、黄色い百合。
黄色い百合の花言葉はね、陽気と〝偽り〟それから〝不安〟。
黄色い花の花言葉ってネガティブなものばっかりなのよ。
嫉妬とか、別れとか、実らぬ恋とか。
うふふ。
私が初めて出会ったときの天人様は天界を追放されて不機嫌で、ただ明るいだけの人じゃなかったわ。だから惹かれちゃったのかしら?
天人様は、ハルジオンが日本在来の花じゃないって、知ってるよね。摘んだら貧乏になるって嫌われて〝貧乏草〟なんて呼ばれる可哀想な花なの。
よそ者でのけ者のイエローリリーとハルジオン。
私たち、とってもお似合いよ!
ずうっといっしょだといいのにね!
■
〈その二 天使××区〉
人間の男と寝るのって気持ちよくないよね。
自分から〝ウリ〟を進んでやっちゃう子って、本当は男もセックスも大嫌いな子だったりして、心を壊しちゃう子が多いってのもわかる気がするよ。私が見てきたそういう女の子って、たいてい貧乏でお金のために仕方なく、とか、なんらかのトラウマを背負っててリストカットみたく自傷行為を繰り返して、そのくせ『私は望んでやってます、無理矢理じゃないです、可哀想な子じゃありません』なんて痛々しいまでに明るく強がってたり。誰かにぶっ壊されたのよ。なんか私が関わる前から不幸オーラビンビンな子が多いんだもん。
私はそういう、元から不幸な子には何もしない。ていうか、する必要がない。私の能力って自力でコントロール以下省略。
だいたいね、この……売春? 援交? 最近は〝パパ活〟っていうんだっけ? 買い手がいなきゃ売り手だって成り立たない違法市場よ。そのくせして、買い手は〝女を買う〟のに後ろめたさがあるのか、『これは買春じゃありませんよ、あくまで女の子を援助するための交際ですよ』って援交とか呼び出して、援交も実態が買春と変わんないってバレりゃ『これは援交じゃありませんよ、あくまで女の子がお小遣い稼ぎでやってるパパとのデートみたいなもんですよ』ってパパ活とか呼び出す。人間っていつもこんなのの繰り返し。バッカみたい。
私? 私はほら、しぶとさが売りのハルジオンだし。貧乏神だし。ボロ雑巾みたいに扱われても意外と丈夫だし。後でめちゃくちゃ吐きたくなるし、死にたくなるくらい気持ち悪いけど、お金のためなら別にいいやって思ってる。……思ってる。
だけどまあ、私の元来の凶運のためか、ここでも富を溜め込めない貧乏神根性が発揮されるからか。私が寝た相手から必ずといっていいほどビョーキを感染されるせいで、お代に数万を受け取ったところで儲けなんかビタイチ出ず、治療代でぜんぶパーになるのだった。まったくもー、人間はいつになったらセーフティセックスを覚えるのよ!
にしてもあのクソキモオヤジ、慣れてやがったな。今回が女買うの初めてじゃないな。遊びまくってんな。しかも奥さんいるみたいなこと匂わせてたな? 完全にヤッてんな? 私に感染したモンはどこの誰からもらってきたんだよ!
だけど残念だったな。私はちょっとヤミが入ってるよーなそこらの女の子とは違うのよ。私もだいぶツイてないけどお前も運がなかったんだよ。貧乏神と関わって無事でいられると思うなよ。
そのまま奥さんにぜんぶバレて多額の慰謝料ふんだくられちまえ!!
……そうとでも考えてなきゃやってらんないのよ、ホント。
なんかずっと嫌な汗が止まらない。私は天人じゃないのに五衰が始まったみたい。
とりあえず川に浸かって脂ギッシュなオッサンの気持ち悪さを洗い流すことにした。たぶんこれは禊よ、禊。
……さて。
私は何もビョーキもらうためにオッサンと寝たんじゃないわ。大抵の神様は穢れが嫌いなんだけど、天人様もまた穢れを嫌う。あのオッサンのどうでもいいピロートーク(なんか本来なら若い女の子がこんなことしちゃいかんとか言ってた。風俗説教おじさんかよ)を聞き流しながら、私はずっと天人様のことを考えてた。
天人様だって、こんな目に合ったら、さすがにいつもみたく笑ってはいられないよね? 普段から地上の生き物を下賤だって見下してる天人様だもん、地上の下賤な男の慰み者にされたら屈辱だよね。天人様は神聖……神聖なものは穢したくなるのが人情だよね? 手の届かない高いところに置いて崇めるより、自分と同じとこまで引きずり下ろす方が気分がいいでしょ?
かといって、人間の男を複数人けしかけて、天人様をその……マワすってのは、現実的じゃないし。私の言うことを聞く人間はいないし、天人様だってただの人間なんかに大人しくヤられないでしょ。
どーせ私は誰かを頼ったりできないんだし。動けるのも信じられるのも自分しかいない。だったら私がやるっきゃないっていうか、天人様を不幸にするという大事なことを、人間なんかに任せたくない。わざわざ人間の男に頼み事なんかしなくたって、もっと手っ取り早い方法があったわ。
これ、私がこのまま天人様と寝て、直接感染しちゃえばいいんじゃね?
◇
とはいえ、よ?
一応、天人様のお屋敷には何度かお邪魔したことがあるんだけど(私の家は存在しない。ないったらない)、私たちってまだ両思いになったばっかで、お付き合いも短いし、お泊まりするにはちょっと早いよーな……。もっとしかるべき段階を踏んでからの方がいいっていうか……。
いやいや悪は急げよ。だけどさー、そこらのどーでもいいオッサンをテキトーに引っかけんのと、好きな女の子をお誘いするのはぜんっぜん違うじゃん!? 天人様に自分からそういうこと言うのって、なんか、なんか照れるよー!
だいたい私って男はともかく女の子と寝たことなんてないし。女同士で何をしたらいいんだか正直わかんない。私も天人様もツッコまれる側であってツッコむもんがなくない?
ていうか、天人様ってそっちの経験はどうなの? 大事に育てられたお嬢様って、そっち方面は疎いか、それともご両親がキッチリ性教育を施してるパターンか。たぶん何も知らなさそうだなー。天界の人たちって、天人様やごく一部を除いて、みんな浮世離れした人ばっかだもん。買春も援交もパパ活も何も知らない、性的なことから徹底的に遠ざけられた箱入りの可能性もあるし……おしべとめしべの解説からなんて、流石に勘弁してよね!
えー、じゃあ私がリードしなきゃなの? できれば私は自分からどうこうするよりリードしてほしい。天人様ならなおさら、何をされたって……いいかも? なんてね、キャー!!
……とかなんとかゴネてる場合じゃないんだよ。でも実際、どうやって誘う? そーゆー空気に持ってく? やっぱムードが大事? それとも安心感? 天人様のご両親とか召使いの天女とかがいたらどうしよう。どうやってふたりきりにしてもらおう?
ああ、でも、でも! 何よりも、天人様が私に対してそういう気持ちになってくれなかったらどうしよう! ぶっちゃけ私は出るとこ出てるどころかどっちもえぐれてるし、貧相だし、髪はパサパサだし、肌は血色悪いし、色気なんて出せそうにない。天人様に『お前とじゃそういうのムリ』って言われたら、どうしよう?
「紫苑、どうかしたか?」
「い、いえ、なんでも」
考えすぎてもうなーんも思いつかなくなっちゃった私は、勢いで『天人様のお屋敷に行きたいです』って正直に言っちゃった。天人様はなーんにも怪しまずに快く連れてきてくれた。天人様のお部屋はすっきり片づいてて(召使いにぜんぶやらせるんですって。いいなあお金持ちは……)、召使いがたまーにお茶やお菓子を運んでくる以外は静かだ。
高級そうなお茶をちびちび飲みながら天人様を見ると……天人様はほんと、いつもと何も変わらない。あの、天人様。せっかく恋人を家に上げたのに、なんかないんです? 緊張したりとか浮かれたりとか。ひとりでモジモジしてる私がバカみたいじゃないですか。でもそういう堂々としたとこが素敵なのよね……。
うん。
もう、段階とかムードとか安心感とかどうでもいいや。性的同意? 貞操観念? デートDV? ご両親の心象? 知ったことか! たとえ召使いに『家政婦は見た』されたって気にしないわ!
だってさ、よく考えてみたら、私は既成事実さえ成し遂げりゃ目的達成なんだから。多少強引でもぐいーっと押し倒して一発ヤッちゃえばこっちのもんよ!
どーせ私は処女なんざとっくの昔にゴミ同然に捨てちゃってるし。天人様の処女を私がもらっちゃうのは申し訳ない気もするけど、どーでもいい人間の男に散らせるよりはマシでしょ?
「なあ紫苑、やっぱり今日のお前はちょっとおかしい――」
強行突破!
勢いよく抱きついて、そのまま押し倒して、天人様は見事あおむけに畳の上。布団くらい敷いてあげたいけどいまはムリ。
「あいたっ! こら、紫苑!」
「天人様……」
天人様は戸惑ってるけど、すぐそばにある緋想の剣を取らないあたり、本当に私が何をするつもりかわかってないのね。貞操の危機に気づかないのね。それどころか心配そうに私を覗き込んじゃって。緋色の瞳に映る私は、いかにも切羽詰まってて、私の瞳は濡れて……嫌だなあ、あんなに気持ち悪くて仕方なかったあの脂ギッシュオヤジみたいにギラついてる。
「紫苑? 本当にどうしちゃったんだ。私と別れたあとで、何か困ったことでも起きたのか?」
起きたといえば起きました。でも天人様は何も知らなくていいの。
「紫苑、なんとか言ってよ、紫苑」
「天人様。また新しい遊び、思いついたんです。私と楽しいことしません?」
私のいままでの〝遊び〟はちっとも楽しくなかったけど。楽しいわけあるか! まるで好き勝手扱っていい〝モノ〟みたく無遠慮に身体に触ってくる欲深い男たち、フィクションにすぎないポルノを真に受けてるバカども、売買春が嫌なら売られた女を買わないって選択を取れるくせに、一方的にこっちを〝売女〟だの〝淫乱〟だの見下してくる傲慢なエゴイスト! どれだけの女の子が夜明けに人知れず涙を飲んでいるか知らないのね?
でも、天人様だったら、いいよ。貞操観念ぶっ壊れてる私だけど、女の子の一番大切なものなんて守ってこなかったけど、天人様になら、私のぜんぶ丸ごとあげるよ。
「楽しいこと?」
天人様が不思議そうな顔で私を見上げる。
服を……服を脱がなきゃ。いや、私はみすぼらしいから脱がない方がいいのかな? でも天人様の胸元のリボンに手をかけようとすると、手が震えてうまくいかない。
ダメ、緊張しちゃダメ、ビビっちゃダメ、天人様に考える時間を与えちゃダメ、胃の中がひっくり返るような嫌なことを思い出すのもダメ。
しっかりしろ、依神紫苑! 私は何がなんでも天人様を不幸にしてやるって決めたじゃない。いままでだって何人もの人間を不幸にしてきたじゃない。こんなところでためらってどうするのよ!
やっとリボンがほどけたけど、今度はボタンが外せない。ええいまどろっこしい!
もうこうなりゃヤケだ。貧相なストリップなんか見せたくなかったけど、私が脱ぐ。天人様が動転してる間にすべて終わらせてやる!
そう息巻いて、自分の服に手をかけたところで……私は動けなくなった。
身体が痛い。具体的にどこがって言ったら、さすがの私でも口にしにくい場所が。あまりの痛みに悶絶して、脂汗が滲んで、服を脱ぐどころじゃない。
ああ、そうだった。いまの私の身体って……パリダちゃん、クララちゃん、その他あれこれ。どれかわかんないけど、そりゃロクに治療せずにほっといたのは今日のためだけど、何もこんなときにぶり返さなくたっていいじゃないの! ツイてないにもほどがあるわ!
「ちょ、ちょっと、紫苑? お前、本当に具合が悪かったのか!?」
大丈夫ですって言いたかったけどムリだった。この痛みはいくら頑丈なハルジオンでもムリ。脂汗ダラダラで天人様の上に覆い被さったまま動けなくなっちゃった。
「紫苑! ……おい、誰か、早く丹と薬湯を持て!」
天人様が部屋の外に大声で呼びかけると、召使いたちがすっ飛んできて、手際よく言われたものを薬箱と一緒に運んでくる。幸いにも私の目論見は召使いにも気づかれてないみたいだけど、あーあ、これじゃ今回の計画はおじゃんだ……。
天人様が心配して世話を焼いてくれる間、私はもう痛みを必死に堪えることと、『何か心当たりは?』という天人様の無邪気な質問に黙秘を続けるしかできなかった。な、情けない……。こんなに情けない貧乏神なんて、世界中探したって私しかいないわよ。(余談だけど、私がウリの対価に受け取ったお金はこの騒ぎの間にどっか行っちゃった。お金は貯めるのではなく使うためにあるんだって意見はすごくわかる。でも私はいままで一円だって貯められた試しがないわ!)
〈その三 天使がよこしてくれたもの〉
しばらく天人様のお屋敷でお世話になった私はオッサンからもらったビョーキもすっかり回復したけど、残念ながら今更天人様の親切っぷりや純真っぷりに心を打たれて改心はしないのだった。これしきで諦めたら貧乏神じゃないわ。
具合が悪くなった原因は徹底的に誤魔化すつもりだったんだけど、あの天人様がほっといてくれるはずもなくて、結局天人様を不幸にするって目的は伏せながらゲロっちゃった。
天人様、ショックを受けてるっぽい。そりゃあね、天人様みたいなヒソーなんちゃらのお嬢様には刺激が強すぎるでしょうよ。着るものにも、食う寝るところ住むところにも困って身体を売る惨めな境遇なんて夢にも考えないんでしょうよ。
「……紫苑」
天人様はしばらく無言だったけど、言いにくそうな感じで切り出してきた。
「こういうのって、今回が初めて?」
「違います。処女の方がよかったですか? それはもうどうしようもないんで、すみません。私だって天人様みたいな人に会えるって知ってたら、大事に取っといたんですけどね」
これはまんざら嘘でもない。『ハジメテは本当に好きな人と』なんて処女の妄想くさいけど、天人様みたいな最高の人がハジメテなら、一夜の過ちでも、それっきり捨てられても、その思い出を胸に生きていけそうだもん。
天人様、また難しい顔で黙っちゃった。……いま気づいたんだけど、もしかしてこれ、私が浮気したってことになる? 天人様と両思いのくせして男と寝るってのは。
やばいまったく考えてなかった。なんならあのオッサンと寝るときだって私には天人様がいるのにとか天人様に申し訳ないとか一ミリも思わなかった。仕方ないじゃん、いままで女苑の「最近別れた男が最悪だった」「二股かけて効率よく巻き上げようとしたらバレた」とかいうクソどうでもいい愚痴を聞き流すばっかで、マトモなお付き合いの経験がないのよ!
天人様がめっちゃデカいため息をつく。うん、まあ、浮気を叱られるくらいは受け入れよう。私の本命の計画がバレなきゃいいんだから。
「紫苑」
「はい」
「誰に脅されたんだ」
「……はい?」
うん? なんか思ってた流れと違うな?
天人様は静かーにめちゃくちゃ怒ってるんだけど、その怒りが私に向いてない。
「だから! ……あー、いや、思い出したくないなら無理にとは言わない。私が無神経だった。ごめん」
え、なんで私が謝られてんの?
……ええっと、天人様の歯切れの悪い話し方から察するに。
天人様、私がレイプされたと思ってる?
天人様は私を気遣うような目で見てくる。
「できれば相手の男を八つ裂きにしてやりたいけど、いまのお前を召使いなんかに任せて出かけて行くのは心配だからな」
あ、そのオッサンはもうはめフラ立ってるんで大丈夫です。貧乏神に関わった人間の末路なんて考えるまでもありません。天人様が直々にやってくれるならありがたいけど。
「いいか、紫苑」
肩に置かれた天人様の手が優しい。それでいて口ぶりはどこまでも真剣なんだ。
「終わったことにどうこう言う気はないけど、ヤケは起こすんじゃないよ。私だって、お前が傷ついているならなんとかしてやりたいけど、焦って自分の傷口を広げる真似は駄目だ。私の言ってることわかる?」
ええ。つまり、こないだの私の行動は、天人様がいながら男にレイプされてショックのあまり、天人様に慰めてもらうことでどうにか記憶を上書きして傷を忘れようとした結果の暴走、と受け取られてるわけね? このままほっといたら、最悪の場合、自ら命を……とまで心配してくれちゃってるのね?
天人様って……天人様って、難しい本は読めるし、いろんなことなんでも知ってるし、ウィットに富んでユーモアもあって、私より確実に頭がいいはずなのに、ときどき「バカじゃね?」って言いたくなるのよね。私にとっては都合がいいけど。
「いいか、私のことは気にするな。正直、男のことは気に食わないけど……」
悔しそうな天人様の指が肩に食い込む。緋色の情熱がほとばしる瞳。
「私と先へ進むのは焦らなくていい。私は高貴な天人だもの。病人を無理やり組み敷くほど落ちぶれていないのよ」
……天人様。
なんてお優しくて……バカな人。
そんなんだから、貧乏神につけ込まれるのよ。私のあからさまなヨイショに持ち上げられちゃうのよ。
優しさを素直に受け取れない。憐れまれているように感じるから。
あー、ダメだ。なんかムカついてきた。ちょっとは気づけよ! 私にいいように転がされてばっかいないでさ!
もう全部ぶっちゃけてやろうかと思った、そのとき、
ガツン! と、天人様が緋想の剣を机の上に突き立てた。勢いで机は真っ二つ。召使いが慌てて入ってきたけど、
「なんでもないわ。手が滑ったの。……何見てんの。下がれよ、下がれったら!」
こっちまでビビっちゃうような威圧感と怒鳴り声で召使いを脅して、みんな「総領様がなんとおっしゃるか」とかこぼしながら逃げていった。
え、な、なにこれ。天変地異の前触れ? このまま要石まで降らせるんじゃないでしょうね?
「なあ、紫苑。お前は悪くないはずだし、私は天人らしく寛大な心で許してやろうと思っていたのに、ムシャクシャしてたまらないの」
「は、はい」
怒ってらっしゃる、のか。天人様は天気屋だから機嫌なんてしょっちゅう変わるけど、私に対してここまで怒ったことなんてなかったのに。
あれ? でも、この緋色の瞳は……燃えるように赤い赤い、スカーレットの目。いつもは夕日みたいに綺麗なのに、なんか地獄で燃える炎みたい。
「お前は私のものなのに! なんで男に色目使ったりするんだよ!」
吠えられて、圧倒された私は何も言えなかった。
最初、天人様はいつものワガママを発揮してるだけかなと思ったけど、なんか違うっぽいな。
私は天人様の無尽蔵の幸福エネルギーが欲しくて、天人様は退屈な日常に刺激をくれる私が便利で、私たちの両思いってつまりはそういうウィンウィンな関係だと思ってたのに、それじゃまるで。
嫉妬、してるみたいじゃん。
だって、そんな、困るよ。私ってありとあらゆる負の感情をぶつけられがちだけど、間違っても妬まれるよーな身の上じゃないの。貧乏神なんてすかんぴんでなんにも持ってなくて、失うものもなんにもないのがデフォだからね。私に向けられるのは決まって哀れみか自惚れか、どっちかでしかないのに、天人様はどっちでもないんだもん。
なんでかなあ。嫉妬とか独占欲とか、フツーなら絶対ウザいよ。めんどくさいだけだよ。私はあんたのモノじゃないってきっぱり言ってやればいいんだよ。
なのに私、天人様にそう思われるのは別にいいかなって思っちゃってるんだ。天人様、『紫苑は悪くない』って言うけど、本当は私がいい子じゃないって気づいてるんじゃないの?
そのあと天人様はまた機嫌が変わって、『八つ当たりをした』って謝ったあと、ずっと気まずそうにしてたけど、それを見てたら私のムカつきはどっか行っちゃった。だって天人様は気まずそうな顔してたって可愛いんだもん! やっぱり天人様は私の想像のスケールを軽く飛び越えてくる人だわ。
なんかいいなー。好きな人に妬かれるヤキモチって、なんかいいなー!!
■
このときの私って、天人様のピュアさに惹かれて不安とか危機感とかは忘れてたのね。
思えば、天人様ってとってもピュアなのよ。純粋なのよ。天津飯、じゃなくって、天真爛漫なのよ。
いつぞやだったか、あの夢の支配人とやらが天人様の精神を赤子レベルとか貶したことがあったけど、天人様は、
「誰が赤ん坊だってえ?」
って機嫌が悪くなったけど、そのすぐあとで、したり顔で、
「気を専らにし柔を致して、能く嬰児たらんか。見るやつが見れば私の真価はちゃんとわかるってことね。ふふん、あの獏、できる奴だわ」
とか言ってたのよね(この文章はちゃんと天人様に聞いてから書いたから、たぶん漢字は間違ってないと思うわ)。天人様はしょっちゅう難しい言葉を使う。私には何を言ってるのか、いまでも意味がわかんない。
教養があるところといい、育ちがいいところといい、つくづく私や女苑とは真逆の人だわ。
だからこそ、私は天人様がどうしようもなく好きになってしまったのね。
だからこそ、私はときどき天人様にムカついて仕方なくなるのね。
■
いらいらして落ち着かなくなり、以前の気持ちがもどってきた。おなじ姉妹なのに、どうして一人はほしいものがすべて手に入り、もう一人はなんにも手に入らないのだろうという思いが、まえほど胸をえぐるようなつらさではないが、それでも悲しみをまじえてしつこくつきまとってはなれなかった。そんなわけはないし、ジョーにもそれはわかっていたから、忘れてしまおうとしたが、人間だれもが持っている愛し愛されたいという思いが強くなるいっぽうだった。エイミーの幸せそうな手紙を読んだせいで、「全身全霊をうちこんで愛し、神さまが二人を結びつけておいてくださるかぎりすがりついてはなれない」人がほしいと、飢えたように願う気持ちがよびさまされたのだ。
L.オルコット『続若草物語』より
〈その四 天使な子って生意気〉
そんなこんなで、ビョーキとも晴れてオサラバしたし、ようやくあのオッサンとの気持ち悪い記憶も薄れてきたし、天人様はずっと可愛いし、最近の私はけっこういい感じ。天人様風に言うんなら有頂天。スキップして歩き回りたくなる感じね!
あれから天人様とは『もう売買春なんかしない』って約束した。私だってやらなくていいならやりたくないし、大歓迎。『ひとり歩きは物騒だから』って、私と天人様で別行動するときは多すぎるくらいのお金を渡してくれるようになったし(大金を持ち歩く方が危険って考え方はないのね。私が失くすかもしれないってことすら『構わない』って言ってくれるの、マジ寛大)、服はひとつも継ぎ目やよれがない新品だし、これでまた変な男が声かけてきても堂々と追っ払えるわよ。あー、お金があるってなんてすばらしいの!
でーもー、私は最初の目的……天人様をこの手で不幸にしてやるっての忘れたワケじゃないわ。だけど最近は私も珍しく浮かれっぱなしなせいか、ときどきどうでもよくなっちゃうのよね。
天人様はいつか私から……その不吉な予感はずっと続くけど、そんなネガティブにならなくてもいいでしょ? って気もするの。先のことが何もわからなくて不安なんていまに始まったことじゃないし、元から私はいまさえよければそれでいいって考え方だし。過去も未来も知ったこっちゃない。
それに、それによ?
あの天人様が私にヤキモチ妬いて、私が男とか他の人と仲良くするのを嫌がるのよ?
どうでもいい相手に嫉妬なんてしないでしょ?
だったら私の幸せな恋はちょっとは長持ちするんじゃないかなって、期待したってムリはないでしょ!
ああ、天人様。
天人様の経験値も考えずに大人の階段をダッシュで登ろうとしたことは反省するし、もう他の男どころか人間も妖怪も、老若男女問わず天人様以外なんて相手にしないし、私はずっと天人様が好きだから、少しずつステップアップしていこうね。
私、デートとかしてみたいな。いままでだって天人様とは散々出かけたし、気前がいいから奢ってもらったことだって数えきれないくらいあるけど、改めて〝恋人〟としてお出かけしたいな。
誘ってくれないかな。私から誘ってもいいけど、やっぱリードしてもらいたいし。『今日は何をする?』っていかにも『さあ、私を楽しませてくれ』って姿勢のくせして私のお願いをなんでも聞いてくれる天人様がいいの。
というか、今日は天人様はどこに行ったんだろう? 『ちょっと用事があるけどすぐ戻る』とか言ってたけど。地上のどこかにはいるはずなんだけど、どこだろう? 天人様と私で好き放題やりすぎたせいで、私たちはどこへ行っても鼻つまみ者なのに。
天人様の地上の知り合いって? スクナヒコナの末裔だとかいうちっこい小人……は、小さすぎて探し方がわからない。霊夢……私が神社でお世話になったのもあるし、天人様もあの神社にはなんか興味あるみたいだから、一緒にいる可能性は高い。山の仙人……天人様、なんか知らないけどあいつをよく気にしてるのよね。なんでだろ? 船渡しの死神? 天敵に自分から会いに行くワケないかー。八雲紫……ないな。天人様あいつ嫌ってるし。
ううっ、こうやって思い出してみると天人様、地上なんか下賤で下等でくだらないとか貶してるくせに、めちゃくちゃ知り合いいっぱいいるじゃない! 私の知らないところで私があんまり仲良くない人と仲良くしてるの見ちゃったら、モヤモヤするだろうなー。
仕方ない。地上で新しい〝最凶最悪の二人組〟として嫌われまくったせいで、天人様もひとりでいることを祈ろう。あの口うるさいリュウグウノツカイが来てでもいなけりゃ大丈夫よ。私もいまぼっちだし。女苑と別行動するようになってからは本当に天人様としか一緒にいないもんなー。たまに変なオッサンが声かけてくるのは……忘れよう、もうさっさと忘れよう。
「あっ!」
とかなんとか思ってたら、やっと天人様を見つけた! あの桃がついた帽子、空模様を映したスカート、風にたなびく長い髪、間違いないわ!
「天人様……」
私は、すぐにでも天人様に駆け寄りたかったんだけど。
天人様のすぐ隣にいるヤツの姿を見たとたん、石になったみたいに身体が動かなくなっちゃった。
――女苑。
見間違うはずもない、あのバカみたいに派手派手しい髪型とファッションとアクセサリー! あいつが天人様の隣に立って、楽しそうに笑ってる。何を言ってるかまでは聞こえないけど、天人様も、笑って、る。
私のいないところで、ふたりで、笑ってる。
……ヤバい。
なんか、ヤバい。
胸の中がすっごい冷たい。バブルが弾けた後の氷河期みたいに冷え込んでる。
『姉さんの選択はいつも失敗じゃないの』
悪魔のセリフが呪いみたく頭ん中に響いてくる。違う、今回だけは、ぜったいに!
――天人様、どうしてよりにもよってそいつと……女苑と仲良く笑ってるの。
なんで?
あんた、まだ寺にいたんじゃなかったの。なんでこんなとこにいるの。なんで私の天人様と喋ってるの。
「あ、紫苑! こんなとこにいたのか!」
あんたは他にいくらでも好きなだけ取り巻きを作れるじゃん。
私には、天人様だけなのに。
天人様しかいないのに。
ウザいよ。取らないでよ。離れてよ。触らないでよ。
「え、ちょっと、姉さん? なんかめっちゃ髪逆立ってない? え、何、何? そのヤバそうなオーラしまってよ、ねえ」
いっつもそうだ、あいつは私のものを横取りしていく! なんでもかんでも独り占めしようとする!
姉妹の片っぽだけが得をしてもう片っぽは損をするなんて、絶対に許さない。
あんたこそが私の不幸の最大の原因よ!
女苑なんか……。
妹なんか……。
「妹なんか、大嫌っいだーっ!!」
■
そのあとはちょっと記憶が飛んじゃってあんま覚えてないんだけど、めっちゃ頭にきて怒ってたのは確かだわ。だってね、天人様、貴方が女苑以外の他の誰かといても私はあんまり(たぶん)怒らなかったと思う……けど、よりによって女苑なんだもん。なんで? ってなるじゃん。
後から考えると、ここで天人様に『なんでよそ見するのよ、私にはあんなに浮気するなって言ったくせに』ってブチ切れてもよかったはずなのに、真っ先に女苑に矛先が向くあたり、私にもカイン・コンプレックスってやつがあったのかしら? あ、カインとアベルの話も天人様から教えてもらったの。天人様は本当に博識ねー。
兄のカインと弟のアベルがヤハウェにそれぞれ贈り物をして、どうしたわけだかヤハウェのアホウはアベルの贈り物だけを受け取ってカインの贈り物を拒否ったから、ブチ切れたカインがアベルを殺しちゃったってワケ。それこそが人類初の兄弟殺しでしたよと。『きょうだいで殺し合いなんて、どこの国でも珍しくないけどね。頼朝と義経とか』って天人様は言ってたっけ。
そっから親の愛情を奪い合うきょうだいのコンプレックスをカイン・コンプレックスと呼ぶそうな。しかも厄介なことに、このコンプレックス、親の愛の取り合いだけに発動するとも限らないんだってさ。
まあ、仮に私がそうだったとしても無理はないでしょ。私ったら、妹という生き物の最大の悪癖である『欲しがり癖』をころっと忘れてたのよ。天人様と女苑を近づけさせたのはミスってた。姉のものを横取りするなんて万死に値するわ。
思い返せば女苑との間にはロクな思い出がない。醜い喧嘩ばっかしてた気がする。貧乏神と疫病神の双子の姉妹なんて最悪すぎるでしょ。
だいたいねー。考えてもみてよ。私たちって姉妹、しかもよりによって運悪く双子なもんだから、すぐ近くに『もしかして私だってこんな人生を歩いてたんじゃね?』っていうモデルケースがあるようなもんなのよ。嫌でも目につくのよ。めっちゃストレスよ。
ズルい。女苑ばっかお金集めて、周りに囲まれて、いい思いして、ちょっとしたずる賢さやしたたかさも『妹だから』で大目に見てもらえるなんて、不公平よ、不平等よ、ズルい!! そうよ、ズルいって感情の前では、姉のプライドなんて役立たずなの。子供っぽいとか大人気ないとか言われたって構わないの(そのくせ『さすがはお姉さんだね』って褒め言葉は欲しいとか思っちゃうんだ。めんどくさい姉心)。
家族なんだから。仲良きことは美しきかな。そういう耳触りのいい(あれ? これって誤用なんだっけ? でも正しい言葉なんてわかんないからこのままでいーや)言葉で、世間の皆様方はいともたやすく呪いを押しつけてくるのね。お姉さんなんだから我慢しなさい? 姉妹なんだから仲良くしなさい? うっさいわバカ! 知るかボケ!
だいたいねー! 貧乏神と疫病神なんて、あきらかにフツーの姉妹じゃないのに『なんだかんだいって仲良いんでしょ? 双子の姉妹だし』って、あんたらの思うフツーを押し付けないで!!
きょうだいは他人のはじまりなんてよく言ったもんだわ。私たちは生まれたときからたまたま血が繋がってるだけの他人だったのよ。だって、自分以外のヤツなんてどーせみんな他人じゃん? 他人に振り回される人生なんてバカらしくない?
なのに、どうしたって私は自分と妹を比べちゃうんだ。
あいつはいつでもどこでもチヤホヤされて、羽振りがよくて、自惚れている。
私はいつでもどこでも嫌われて、遠ざけられて、僻みっぽくなっている。
あーヤダヤダ! 姉妹なんて不平等の大元だわ! 貧乏くじを引かされるのは決まって私なんだ! 片方だけいっつもおいしい思いをして、片方だけいっつも苦い思いを味わわされる! 不平等だわ! 〝妹〟という存在そのものが、姉にとっての疫病神なのよ!
ふんっ。
あんなヤツ、勝手に坊さんでもなんにでも惚れ込んで、勝手におめでたく救われた気分になってりゃいいのよ。
え? 妹を取られたみたいな嫉妬心はないのかって?
安心なさい。この依神紫苑、あいつが誰かと一緒にいてヤキモチ妬いたことは人生で一度もないし、これから先も一生ないし、あんな妹欲しけりゃどうぞどうぞとくれてやるわ。どこぞの物好きが女苑を見初めてお引き取りくださる日が待ち遠しくてならないわ。家族愛だの姉妹愛だのという幻想からはさっさと醒めた方が賢明よ。この世で信じられるのはお金だけ。
あっ、でも、あいつが結婚するとなると、重要な問題が二つあるな。
ひとつは、妹に先を越された売れ残りの惨めな姉として見られること。私に姉のプライドなんてあってないようなもんだけど、あいつにデカい顔されるのだけはムカつく。あと私にご祝儀渡すお金があるわけないんだから、むしろ妹からふんだくりたいくらいよ。
そしてもうひとつ。もしかしたらこっちの方が深刻かもね。
もしあいつが見るからに脂ギッシュな成金のオッサンを捕まえてきたら(あいつが三高のイケメンなんか捕まえられるわけないでしょ)、私はそいつを〝義弟〟と呼ばなくちゃならないの? そしてこの私は、たかが妹と結婚しただけの赤の他人に〝お義姉さん〟と呼ばれなきゃならないの?
……考えるだけでおぞましくて身の毛がよだつわ。あー、姉妹って、ホントにめんどくさっ!!
……天人様はいいなあ。天人様、きょうだいはいないんだって。一人っ子なんだって。『姉妹がいるってどういう感覚なの?』って聞かれたこともあるけど、天人様はそのまま知らなくていいわ。世の中には知らない方が幸せなこともあるのは事実よ。一人っ子の天人様はご両親の愛情と財産を独り占めできるなんて、羨ましくて仕方ない。たぶん天人様のご両親なら人間みたく老後の介護とか財産相続争いとかの心配もなさそうだし。
私、ないものねだりしてるのかな? それとも私と天人様が正反対だから、惹かれちゃうのかな?
天人様。ご両親に愛情をたっぷりと注がれて、ライバルになるかもしれないウザいきょうだいはいなくて、惜しみなく教育やらお金やらを与えられた、天衣無縫の恵まれたお嬢様。
ねえ、天人様。もしも、貴方が私に向けてくれる愛情が、気まぐれじゃないのなら……。
私を見て。私だけを見て。
最凶最悪の双子の姉でもない、依神女苑という疫病神の姉でもない、貧乏神でもない、数多のレッテルを請求書と一緒に引っぺがした、生身の〝私〟を見てよ!!
■
「おーい、紫苑、生きてるか?」
私と女苑の派手な姉妹喧嘩が終わってから、天人様がひょっこり顔を出して言う。
私たちが天人様そっちのけで喧嘩をおっ始めたもんだから、声をかける隙もなかったのね。私といえば、まーうっかり全力出しそうになったもんだから、満身創痍で地面に寝転がってる。危うく天人様より先に女苑を不幸のズンドコに落とすところだったわ。せっかく天人様に新しい服もらったのに、もうボロボロにしちゃったなあ。
「生きてますよ。貧乏神はこれしきじゃ死にません」
いっそ簡単に死ねるなら楽だったかもしれないけど、どういうワケだか私、死んだ方がマシってくらい酷い目にあっても、なんやかんやで生き延びちゃうのよね。私自身が簡単にくたばってたまるかって思ってるとこがあるし……うーん、ハルジオンの雑草根性、恐るべし。
天人様が手を差し伸べてくれるから、私はダルい身体を無理やり引き起こして……って、天人様、なんか楽しそうね? 私が妹と喧嘩してボロボロになってるのがそんなに嬉しいの?
「いや? 紫苑ってずいぶん私のことが好きなんだなーと」
……さすがにその反応は無神経すぎません? すべての責任は女苑に押し付けるとしても、こっちは貴方を取られやしないかと必死だったんですけど。
「天人様は所詮一人っ子だから、私みたいなのが抱えてる姉妹のビミョーな事情が理解できないんですよ」
ああ、つい言葉にトゲが出ちゃう。仕方ないじゃん、天人様ってときどき悪意なく無神経なことを言ってくるんだから。
「天人様、ずいぶん女苑と楽しそうに話してましたよね」
浮気ですよ、とは言わないでおく。女苑がぜんぶ悪いから。私って好きな人には甘くなるタイプだったんだなあ。だからちょっと天人様を睨むくらいは許してよね。
「わかってますよ。みんな、ああいう明るくて華やかなヤツの方が好きなんでしょ。いつも上機嫌で笑ってるヤツの方がいつもクマ作って俯いてるヤツより魅力的なんでしょ。私だっていつも笑える状況でいられるんだったら笑えますけどね」
「おい、紫苑」
「どうせ私はすぐ金目の物を失くすし、ネガティヴだし、陰気臭いし、根暗だし、依存体質だし、受け身だし、一緒にいるだけで不運ばっか引き寄せるし、ひとりじゃなんにもできないし。私はハルジオンだから、女苑みたく明るく華やかに振る舞えないし」
「んん? 私はいま、お前と話をしているんであって、お前の妹はどうでもいいんだけど……」
「はあ? だって天人様、さっき女苑と」
「それはお前の話を聞いてたからだよ」
えっ、どういうこと? 私の話? っていうか女苑はどうでもいいの?
「蒸し返すのもアレだけど、こないだ紫苑が、ほら……人間の男と、その」
天人様が気まずそうに頬をかく。あー、アレね。この件に関しては、特別に天人様にいくらでも責める権利をあげるわ。
「私にはどうして紫苑がああいうことするのか、全然わからなくて。思えば私たちって結構長いこと一緒にいるけど、私の知らない紫苑の方が多いに決まってるんだよなーって。だから紫苑に一番詳しそうな奴に聞いてみようと思ったんだ」
そりゃあ、私に詳しいヤツなんて身内しかいないわね。ってちょっと待って、女苑のヤツ、天人様にいらんこと吹き込んでないでしょうね? 姉妹ってのはお互いの黒歴史を握り合ってるもんよ。天人様の話次第ではお前の黒歴史も暴露してやるから覚悟しろよ。
「そしたら案の定、私の知らない紫苑の話ばっかり出てきた。興味深かったよ。まあ、半分くらい愚痴に近かったけど」
「どうせ金のためなら貞操を捨てるビッチとか尻軽とか言ってたんでしょう」
そしたら天人様、急に難しい顔して黙っちゃった。ヒソーなんちゃらのお嬢様に貧乏神の話が面白いなんて思えない。まあ女苑が悪い盛り方してる可能性は全然あるけど。
「確かに拝金主義だとは聞いたけど。だけどそれより、紫苑は、なんていうか……」
珍しく天人様が言葉選びを迷ってる。別にいいのよ? ふしだらってなじってくれても。私の価値観なんて理解しなくていいの。どうせ天人様とは生まれとか育ちとかが違いすぎて、理解できるなんて思ってないから。
「紫苑は、自分のことをちっとも大事にしようとしないんだな」
天人様は寂しそうに言った。
そんなの……そんなの、恵まれてる人にしかできない質問だって、天人様、わかってる?
だって、当たり前でしょ? 近づいただけで不幸を招き寄せる貧乏神なんて誰も大事にしてくれないんだから。実の妹ですら便所バエでも追っ払うみたいに『近寄らないで!』とか言うんだから。誰にも大事にされたことがないと、私だって私のことをどうやって大事にしていいかなんてわかんないよ。
「私、いくら天人様でもお説教なんか聞きませんよ」
「そうじゃなくて。やたらと妹を引き合いに出して自分を貶すのもそういうことかなって。紫苑、私がいままでに一度だってお前と妹を比べたことがある?」
それは……ない。私の記憶する限りでは一度も。
そういえばそうだ。天人様は私と女苑を比べて『妹はああなのに、姉の方は……』みたいなこと言わない。そもそも比べようがないのよ、天人様は女苑とはちっとも関わってないから。それはずっと天人様と一緒にいた私がよく知ってるはずじゃない。
さっき嫉妬を爆発させたのだって、私が勝手に女苑を引き合いに出して怒ってるだけ。どうせ姉妹なんて妹の方ばっか可愛がられる運命なんだわって勝手に拗ねて。少なくとも、いまの天人様は私を見ているはずなのにね?
天人様。貴方って本当にスケールの大きい人ね。こんなどーでもいいような話の流れで、私がずいぶん長いことこだわってた姉としてのみみっちいプライドとか自意識とかを、そんなの何も問題じゃないみたいにあっさりどこかにやっちゃうんだもの。
「さ、紫苑。今日は何をする? まずはその服を着替えた方がいいか」
子供みたく笑って、天人様は私の手を引っ張っていく。
「天人様」
「何?」
「……なんでもないです」
私はうたぐり深いからさ。
本当に女苑には興味ない? 女苑より私の方が好きだって、はっきり言ってくれる?
そう聞きそうになったの。
■
あとになって思うにね、天人様。ここが運命の分かれ道ってヤツだったのよ。
もしかしたら、私、ここで本当に天人様を不幸にするのはやめようってなってたかも。たとえその場の雰囲気だったとしても、天人様が女苑より私を選んでくれたの、嬉しかったの。
でも、結局は女苑を引っ張ってきちゃったから。私の前に連れてきちゃったから。
それがすべてだったのよ。ハルジオンとヒメジョオン、どっちもよく似たありふれた雑草だけど……。
似てるんだったら、どっちかひとつしかいらなくない? ねえ、私のイエローリリー。
■
私を引っ張る天人様の手は柔らかくて、あったかくて、いつもなら幸せいっぱいなんだけど。
天人様が嘘をついてるわけじゃないのはわかってるの。フツーの人だったらもっと素直に天人様の言葉を信じるでしょうね。
だけど私ってたぶん〝依神女苑〟が怖いのよ。富という名の厄災を辺り構わず撒き散らかしまくるあの疫病神が。コンプレックスは少し落ち着いたし、姉が妹を怖がるなんてバカバカしいけど、あいつの異常な執着心をナメちゃいけないわ。その気になれば、姉のものだろうと平気で横取りするくらいには性根ひん曲がってるんだから。
だから、もしもあいつが天人様に興味を示すようなことがあったら……私は怖くてたまらない。女苑はお金儲けの才能以外はいいとこなんか何ひとつなくて性格終わりまくっててひたすらウザくて私の方が『近寄らないで!』って言いたくなるくらい目障りな妹だけど、キョーイに思うのは女苑が私にとっての最大の手強いライバルとなり得る相手だからなのね。姉妹は自分の欲しいものを奪い合うために争う運命なのよ。
私の大好きな天人様を、女苑なんかに横取りされておしまいなんて、絶対に絶対に嫌!!
ただでさえ天人様がいつか、なんて不安だったのに、そこに女苑までしゃしゃり出てきたら、嫌でも焦っちゃうよ。
天人様との幸せな時間を他人にぶち壊されるくらいだったら、やっぱり私が絶対に天人様を不幸にしてやる――そんな決意がますます強くなる。主導権は私にあるの。私がぜんぶ終わらせるの。
そして、天人様の無邪気な『紫苑のことがもっと知りたいな』なんて欲望のせいで、私はまた天人様へのイラつきがぶり返しちゃったのよ。
天人様は、私のこと、何もわかってない。私がどうして天人様と無理やり寝ようとしたのか、まだわからないでしょ? 私がただ天人様への愛だけで動いてるんだと思ってんなら大間違いだわ。
天人様。赤ん坊みたいに純粋な精神を持った、可愛らしくて、高貴で、お金持ちで、教養があって、そのくせワガママでおてんばで、退屈が大嫌いで、珍しいことや新しいことが大好きな、みんなに大事に大事に育てられてきた天性のお嬢様。
私はそんな天人様が大好き。
だけどね。
だからこそ、私はそういう天人様が大嫌い。外の人間が言う〝親ガチャ〟で大当たりを引いて、世の中の汚いことなんか何も知らないで、私がどんなに欲しがっても絶対に手に入れられないものを持ってる天人様を見てると、嫌でも〝貧富の格差〟ってヤツを思い出させられて、腹が立って仕方ないの。
私だって、貴方みたいに純粋でいられたら……どんなによかったか!
「紫苑?」
急に立ち止まった私を振り返る天人様。
もう、もう、我慢できない!
「いい加減気づけよ、このワガママお嬢様!」
私がいきなり怒鳴り出したもんだから、天人様は目を丸くしてる。ああもう後戻りできないな、でも私もう抑えられないな!
ぜんぶぶちまけてやる。私の悪意を知った天人様が傷つけばいい! そうして少しでも不幸だって思ってくれたらいい!
「天人様、私と一緒にいるようになってからなんか運の悪いことばっか起こるなとか、こっ、恋人になってからなんか違和感あるなとか、いままで一度も思わなかったんですか?」
「そんなこと言われたって」
天人様は『何を急に』みたく困惑しながら、
「だってお前は泣く子も貧する貧乏神でしょう? 一緒にいれば、不幸が降りかかってくるのは当然……」
「私は! 〝わざと〟天人様を不幸にしようとあれこれ計画してたの! なんで天人様と付き合ってんのに男と寝たかって? しかもビョーキを隠してそのまま天人様を押し倒したのかって? そんなの、天人様を穢したかったからに決まってるでしょ! なんなら人間けしかけてマワしてやろうかって考えたくらいよ!」
これにはさすがの天人様も言葉を失くしちゃったみたいだった。そのまま畳み掛けてやる。
「私はね、天人様が不幸になってくれたら幸せなの! そのためだったらなんでもしてやる覚悟なの!」
「……たとえ、そのせいで紫苑自身が傷ついてもか」
「そうよ」
天人様はずっと固まっている。ショックで頭真っ白になっちゃった? まさか知らない男の、しかも小汚い脂ギッシュなオッサンのビョーキを感染されるところだったなんてって、気持ち悪くなっちゃった? だったら願ったり叶ったりよ。
でも天人様、しばらくしたら大きなため息をついた。それは私に怒ってるとか失望してるとかじゃなくて、なんていうか……私を憐んでるみたいな目なの。
「そんなんじゃお前、いつかボロボロになってしまうよ」
「私は最初からボロボロです。失うものなんかあってないようなもんですよ」
「いや、そうじゃなくて……。わからないなあ。いつもダウナー気質で、無気力で、他人に適当に合わせて乗っかっとけ、それでおこぼれもらえたらラッキーって感じの紫苑が、そこまで能動的に行動を起こせる力があったなんて。しかも誰の力も借りずに」
「私だってやるときゃやります。前に戦ったときも……ああ、あれは夢の世界の天人様でしたね。私は不幸オーラ全開でぶつかったこともあるんですよ」
「だから不思議なんだ。たとえ負の方向であれ紫苑はそれだけ大量のエネルギーを持ってるのに、どうして自分が幸せになる方向に使わないんだ?」
天人様の何気ない言葉は、私をブチギレさせるのに充分だった。
「あんたにはわからないよ!」
勢いよく繋がれたままの手を振り払う。
私が幸せになるですって? そのために努力をしろって? それができてたら、私はいつまでもひもじい貧乏神のままじゃなかったに決まってんだろ!
「あんたみたいな最初っから恵まれた生まれの人に、私の気持ちなんて……ううん、私もう知ってるのよ。天人様が高貴な生まれだなんて、真っ赤な嘘だってこと」
天人様の眉がつり上がる。どこで知ったんだって不思議かしら? 甘いわ、私たち、ふたりして地上で好き勝手暴れまくったじゃない。嫌でも陰口が入ってくるのよ。当然、天人様についてもね!
「あんたは自分で修行して天人になったんじゃないんでしょ。天人様の親ががんばってたおこぼれでついでに天人にしてもらっただけでしょ。そんなの、運が良かっただけじゃない。所詮は親の脛かじっていい思いしてるだけ。その緋想の剣だって、あんたの本当の持ち物じゃないのはとっくにわかってる!」
「……!」
「成り上がり者が疎まれるなんてお決まりだもんね? 天人様、天界は退屈だってしょっちゅう愚痴って、いつまでも地上にいるけど、単に天界に居場所がないんじゃないの? みんなに除け者にされてるんじゃないの? いつもいつも偉ぶってるけど、天人様の持ってるものは、何もかも借り物なのよ! 女苑のおこぼれでかろうじて生きてた私とおんなじ! 天人崩れとはよく言ったものね……あんたはニセモノの天人だ!」
言い切るか言い切らないかのところで、グーパンが飛んできた。女の喧嘩ってパァンって乾いた音とともに平手打ちが炸裂するイメージがあるけど、ムカついたら問答無用でグーパンだ。女苑もアッパー決めたらすかさず蹴りを入れてくるし。
ああ、真っ赤に燃える緋色の瞳! もっともっと怒って。もっと情けないくらいみっともない姿になって。高貴の〝こ〟の字もないくらい、私と同じとこまで落ちぶれて!
だけど天人様は色んな感情でたぎってる私をよそに、拳を引っ込めて周りをきょろきょろ見て、
「紫苑、一旦場所を変えようか。私たちがここでやり合ったら幻想郷の地形が変わってしまう」
「別にいいわよ。天人様だっていまの世界をぶっ壊してもっといい世界を作りたかったんでしょ? 私は世界が滅んだってどうでもいいわ」
「いいから私と天界に来るんだ!」
天人様は私を無理やり引っ張って行きそうな勢いだった。
「いいか、私は別にお前から逃げようってんじゃない。これでも天人らしく平静を装ってるけど、頭に血が昇ってるんだ。こんなとこで暴れたら間違いなく止められるぞ。せっかくの決闘に邪魔が入るなんて興醒めだかからな」
「決闘? ただの喧嘩じゃなくて?」
天人様は懐から白いハンカチを取り出して私に投げつけた。そんなの持ってたんだ。決闘の申し込みってこんな作法だったっけ?
「お前は説教は嫌だというけど、私は天人だからね。地上の愚民どもにありがたい教えを授けてやるのも天上に住まう民のつとめだ」
あっそーお、天人様って結局私のことは付き合ってても対等なんて思ってくれないワケね。わかりきってたけどね。天人様が地上のすべてを見下してるなんて。そこが高貴な天人様らしくていいと思ってたけど、いまはそれもムカついて仕方ないわ!
「来いよ、最凶最悪の貧乏神、依神紫苑。そのひん曲がった考え方、非想非非想天の天人たる私が叩きのめしてやる!」
「あんたはいまに後悔するわ。最凶最悪の極貧の悪夢、夢だけじゃなく現実のあんたにも見せてあげる!」
にしても、しつこいくらい自分が天人だって強調してくるのね。やっぱり天人様、天人崩れとか不良天人とか呼ばれるの、気にしてたんだわ。
〈その五 私たちは天使なんかじゃない〉
そのまま飛んでくのかと思いきや、天人様が大きめの要石を出してくれたのでそれに乗って天界まで登ってくことになった。
まるでタワーのエレベーターみたいね。山も雲も自分より低くなってくのを天人様とふたりで並んで眺めるなんて、本当だったらそれこそデートっぽいシチュなんだけど、私も天人様もずっと無言。空気最悪。誰かが気を利かして威厳のあるBGMでも流してくれたら少しはこれから決闘だ! って盛り上がったかもしれないけど、私も天人様も相手をねじ伏せることしか考えてないのよ。
「ついたよ」
雲の上は綺麗な青空。私の気分とは正反対。どうせなら土砂降りのドス黒い曇り空にしてほしいけど、天人様も雲の上の天気まではいじらないのかしらね。
天人様はついさっきまで乗り物にしてた要石を、今度は攻撃用に調整し直す。その手に取るのはやっぱり緋想の剣。全人類の気質を操るのも夢じゃないっていう、とんでもないシロモノ。
何度も本気を出すの、疲れるから嫌なんだけどね。私も不幸になるのを覚悟しなきゃならないし。
でもいいんだ。どうせ私は自分が不幸になってでも天人様を不幸にしたいって思ってたんだし、もう一回全人類の不幸を背負ってやる!
「あまりに酷いな、その姿」
「余裕ぶってられるのもいまのうちですよ。私、これでも夢の世界の貴方に勝ってるんですからね。夢に勝てるのなら現実の貴方を倒すのなんてずっと簡単なはずよ」
「泡沫の夢なんてすぐに消えるものだよ」
「バブルが弾けるのより悲惨なことなんてないわ。極貧の世界の悪夢は簡単に現実になるの。私は天人様よりずっとずっと現実を見てきたつもりですから、こう見えてリアリストですよ」
「そうかな。私にはお前が悪夢に囚われているように見える。現実に敗北し続けているからこそ、お前はいまこうやって私と戦う羽目になってるんじゃないのか」
どこまでも、どこまでも尊大な人! 私が現実世界の負け組だって言いたいわけね!
「ロクな修行を積んでない天人なんて怖くないわよ! 天賦の幸運と天賦の不運、どっちが強いか思い知らせてやる!」
そこからは、なんだか昔外の世界で見た、人類が滅亡しそうないかにも世紀末らしいテーマの映画みたいな光景だった。
大きな地震が起きて、大地が割れるみたく雲が裂けて、要石が隕石みたく降り注いで、紙クズと化した価値のない紙幣が絶え間なく降り注いで、巨大化した極貧のオーラが真っ黒な太陽みたく空に輝いて、空は夕方でも明方でもないのに緋色に染まって。
ああ、なんて壮大なスケール。ここでなら大怪獣が暴れ回ったり日本列島が沈没したり恐怖の大王が降ってきたりエイリアンが地球を侵略したりしても、かえってリアルに感じられるかもね。
前に夢の世界の天人様と戦ったとき、夢の天人様は『この世界全てを創り直してやろう!』なんて大口叩いていたけど、きっと天人様が本気になったらそんな夢、簡単に実現してしまうのね。天人様は世界を革命する力を持っているのね。
なら、私もいまの私が出せる最大の不運のオーラをもって天人様を迎え撃たないと、ねっ!
「お前はなんでそこまでして私を不幸にしたいんだ」
「貧乏神は何かをしても何もしなくても不幸になるの。いまは天人様が私のことを好きって言ってくれてても、いつか飽きるかもしれないでしょ?」
「私を疑うのか」
「いまの貴方は本気でも、その後なんてわからないじゃない。いいえ、絶対に別れを避けられない! だったら天人様にはせめて私の手で不幸になってほしかった、それだけよ」
「……歪んでる。そのためだけに、わざわざ好きでもない男と?」
「気持ち悪くて吐きそうだった。でも天人様が不幸になってくれるなら、ちょっとの不幸くらい安いもんだと思ったの」
本当は二度と思い出したくないけど、私ごと天人様をえぐりたかった。天人様、途端に悲しそうな顔をする。甘いなー、戦ってる最中なのに剣を振りかざす手を止めたらダメじゃない!
「どんな夜だったか思い出して細かく聞かせてあげようか」
「やめろ」
「傷ついちゃうから? 私は天人様に傷ついてほしいから全然平気」
「違う! 傷ついているのはお前だろう!」
ありったけの貧乏玉が弾き返された。気がついたら雲の上に押し倒された。
「それ以上自分の傷口を広げるような真似はやめろ」
「何を優等生ぶってるの? 天人様はお優しいのね。自分の心配をしなさいよ、私に浮気されて、裏切られて嫌だったんでしょ!」
「嫌だったよ! いまでも嫌だ! だけど!」
取っ組み合いは天人様の方が強いみたいだった。ここで身体の資本の差ってヤツが出るのね。
急に雨が降ってきた。天人様、気質を操ったのか……と思ったら、天人様が泣いてた。なんで?
「つらいんだ。最初はお前の不実やお前を抉った男に腹を立てていたけど、お前が私を不幸にしたいがために、自分の心と身体をボロボロにしていくのが、本当につらい」
そう言って私に馬乗りになったまま涙を拭う天人様。隙だらけなんだけど、あまりの展開にびっくりしてすぐには動けない。
天人様、本気で私が傷ついてるだけの救いの手を差し伸べてあげないといけないか弱い女の子だとでも思ってるの? だとしたらいくらなんでもその考え方はオメデタすぎよ。そりゃあ私は貧相で貧弱な貧乏神だけど、そこまで弱くはないつもりだもん。
だけど、天人様は何事もやることなすことスケールが大きくて、天人様の方が私よりずっと頭がよくて、広い目を持ってるのも確かなのよね。天人様には私には見えない、気づいてないものに気づいてるって可能性もなくはないわけで、だったら天人様に見える私だって、もしかしたら本当……なのかも……。ああ、頭がゴチャゴチャしてきた。考えるのやめよう。
変なの。涙なんてのは、自分のためだけに流すものよ。ましてやいつも自己中な天人様が、なんで私のために泣くのよ。まるで私を心配してるみたいに。私のことが、大事みたいに。
やめて。……やめて!
「いまさら善人ぶるのはやめてよ! そんなことされて、私がどんなに惨めな気持ちになるかわからないの?」
渾身の力で天人様を押し倒して、今度は私が馬乗りになった。そのまま迷わず天人様の首を絞めた。うまく力が入らないなりに、思いっきり。
「……っ、何回、私を押し倒すつもり? お前っていつも受け身なのかと思ったら、ときどきとんでもない行動起こすよね」
余裕そうに喋っちゃって。私の貧相な腕じゃ天人様の口も塞げないってこと?
「これが貧乏神なりの愛よ。愛してるわ、天人様。だから私と不幸になって」
「……とんでもないプロポーズだ」
「大好きよ。前に言ったでしょう。天人様がそばにいてくれるだけで、私はとっても幸せな気持ちになるの。いつまでもこんな時間が続けばいいなって」
天人様が目を見開く。抵抗する力が強くなって、私は振り払われそうになる。
「この気持ちに嘘なんかない。でもね、私は永遠の愛なんて信じない。永遠の幸福なんて信じない。たとえ実在するんだとしても、私が手に入れられないなら、ぜんぶそこに〝ない〟のと一緒よ! この世に価値があるって信じられるのはお金だけだもの!」
そこで天人様が私の手を振り払った。ゲホゲホと激しく咳き込んで、緋想の剣で身体を支えて、私を睨んでくる。
「ひとつ聞かせろ。もしも私を不幸にするのに成功したら、紫苑、お前はどうなるんだ?」
「さあ? 貴方ほどの幸運の持ち主を極貧に落とすんだから、並の代償じゃ済まないんでしょうけど、どうなるかなんて、私だってそのときになってみなけりゃわからないわ」
「そんな無計画な奴があるか。自分はどうなってもいいのか? どんな破滅が待ち受けているかわからないんだろ?」
「あのね天人様、先のことをあれこれ考えて悩むなんてナンセンスよ。私はいま、天人様を不幸にしたいの。それさえ成功するなら、後のことはどうだっていいわ」
「なんなんだよ。先のことは知らないとかどうでもいいとか言うくせに、さっきは『私たちの別れは避けられない』とか、未来が見えてるみたいな口ぶりだったじゃないか」
「さっきも言ったでしょ、簡単なことよ。貧乏神の末路が〝不幸〟なのは確定事項だからよ! だったら私はいまさえ良ければそれでいいの。他人に寄っかかって後先考えずにお金をじゃんじゃん使って、そう、あぶく銭を使い果たすような生き方をしていられればね!」
「貪人は財を愛するを解せざるなり。あまり金に執着してると……」
「また難しいことを言う! ひもじい思いや寒い思いをしたりしないだけのお金が欲しいって思って何が悪いの! もう遅いのよ、あんたがどんなに天人らしく振る舞おうとしようが、私はあんたが本当の天人じゃないってわかってるんだから!」
「確かにそうだよ、お前の言うとおり、私の力は借り物だよ! 私は天界の異端児だ。天界の連中だって、本当は私のことを天人だなんて認めてないんだ。お父様の顔色を伺って表向きは私にへいこらしてても、内心では見下してるのが見え見え! そうだよ、居心地が悪くてたまらないんだ、天界なんて!」
その悔しそうな顔は、いままでに私が見たことのない天人様だった。天使みたいだと思った可愛くて茶目っ気のある天人様じゃない。ひとりの寂しそうな女の子に見えた。
「天界の生活は死ぬほどつまらなくて、だけど曲がりなりにも高貴な身分として育った以上、地上の連中に気安く馴染むなんて私のプライドが許さない。退屈を嫌いながら、天界を追放されれば拗ねてるんだよ、私は! そのくせ素直に地上の方が居心地がいいと言うのも嫌なんだ! 矛盾してるって好きに思え! それでも!」
いきなり天人様が立ち上がる。また攻撃が始まるのかと思ったら、天人様のスカートから、バサバサと書物が落ちてくる。いつの間にしまってたの?
表紙のタイトルは……私にはどれも正しく読めない漢籍ばっかり。
「こんな昔の人間の古臭い言葉なんか読んでなんの役に立つの? っていまでも思ってる。でも天人なら天人らしい教養を身につけなきゃいけないって叩き込まれたんだ」
「ついでにお説教癖も叩き込まれたのね」
「これらの書物には、人間の生き方の指標になるらしい言葉がたくさん載っている。民を思え、善を勧め悪を憎み清く正しく生きよ、大いなる天を敬い重んじよ。東洋の思想家なんて口うるさいのばっかり、どの教えも到底私には実践できそうにない。だけど人の上に立つ者にはそれだけの責任が求められるのさ。君主が愚か者じゃ、下々の民が不幸だからな」
下々って、相変わらず上から目線なんだから。
「経緯がどうであれ、私は天人だ。天に住まい、地を望み、人の心を見つめる者だ。私は天人らしく民を思い、自戒を込めてお前に忠告する。サービスでいつもより長めにな! 紫苑、お前のためだけのスペシャルコースだ!」
どうだか。私のためみたいに言うけど、どうせ『お前らより私の方が偉いんだぞ』ってマウント取りたいだけでしょ。
天人様は落ちた書物の一冊を手に取る。表紙には『老子』と書いてある。
「人に勝つ者は力有り、自ら勝つ者は強し。己の不運に打ち勝つくらいの心意気で精進せよ」
天人様は中身を開きもせずに誦じた。そういえばこの人、わざわざ本なんか取り出さなくても、ほとんどの漢籍を暗誦できるんじゃないの?
天人様は『老子』を捨てて、続いて『荘子』を拾う。
「且つ大覚有りて而る後に、此れ其の大夢なるを知るなり。お前はそろそろ悪夢から目覚めるべきだ。すべて不幸にして已むべきという不毛な悪夢からな!」
また捨てて、今度は『論語』。
「疏食を飯い水を飲み、肱を曲げてこれを枕とす。楽しみ亦た其の中に在り。お前に説明してもわからないだろうね。暖簾に腕押しな解説ほど虚しいものはないわ」
お次は『孟子』。
「苟くも義を後にして利を先にすることを為さば、奪わずんば饜かず。お前には仁義が足りない。損得勘定から他人のものを奪うという発想が生まれるのだ」
次は『貞観政要』。これで最後みたい。
「古人云う、『禍福は門なし、ただ人の招くところのみ』と。然れどもその身を陥るるは、みな財利を貪冒するがためなり。金に目が眩んでると身を滅ぼすってね。古の賢人はみんな同じことを言うんだ」
そこで天人様のありがたい忠告は終わった。何か響くかって言われたら、残念ながらなーんも響かない。
「天人様。いろいろ言いたいことがあるのはわかりましたけど、私には天人様が何を言っているのか、さっぱりわかりませんでした」
「私がいま引いたのは、己を強く持て、無闇矢鱈に富に執着するな、欲を捨てよ、貧しさの中にも楽しみを見いだせ――そんな戒めだ」
「私の貧乏が! そんなエラソーな御託で解決すると思ってるのかよ!」
「違う! 言っただろう、これらは民を導く者に向けた戒めの言葉でもあると!」
民を導く――って、いかにもあの坊さんと一緒にいた仙人が言いそうなことだけど、天人は仙人より格上の存在なんだっけ。
だから、地上の仙人がやることは天人様もやるってことで……つまり、天人様は私にだけじゃなくて、自分にも向けていまの言葉を誦じたってこと?
嘘でしょ。だって、似合わないよ、天人様がお金のない生活の良さを語るなんて! やめてよ、女苑みたいなカルト狂いならともかく、天人様は『本当の豊かさ』なんてワケのわからない言葉に惑わされたりしないはずよ!
でも私を見る天人様はいたって真面目なんだ。そりゃあ教養のない女苑が豊かさとか考え出したってロクなことにならないのは目に見えてるけど、少なくとも天人様には教養がある。そこが違う。こんなのくだらん意味がないとか言いながらちゃんと勉強してる。他人にどれだけ不良天人のレッテルを貼られようと、天人様は天人らしく振る舞おうと努力してきたんだ。レッテルを剥がそうと足掻いてたんだ。
「なあ、紫苑。私はどうすればお前が幸せになれるのかちっともわからない。他人の不幸は蜜の味とはいうけれど、お前の求める不幸は常軌を逸しているよ」
「……」
そんなこと言われたって。私の身体に、この邪魔っけな請求書だの差し押さえだのみたく張り付いた〝決して幸せになれない貧乏神〟のレッテルを剥がすなんて、私には無理だよ。
天人様だって私が幸せになれる道が見つからないんでしょ? 天人様でも無理なら私はなおさら無理だよ。私は幸せになりたくても、なれないんだよ。
俯いた私の顔を、天人様は両手でつかんで上を向かせる。
「だけど、お前が不幸にならない道なら、私にも示せるはずなんだ」
えっ? どういうこと?
天人様が剣を雲の上に立てる。気質を操るんだ。誰の気質? ……私の?
空がだんだん暗くなる。私の気質を天気にするなら、絶対に快晴とか天気雨とかの明るいものじゃない。
「紫苑が不幸のどん底に落ちてしまうなら、私も連れて行け」
また天気が変わった。ドス黒い雲が立ち込めた中に、なんか七色の光が差して……でもその光は虹じゃない。
空を覆い尽くすカーテンみたいな、淡い虹色に光るそれは、もしかしてオーロラ? オーロラってこんな状況で見れるもんなの?
まさか、天人様の気質が、私の気質と合わさって……?
「道は近きにあり……天人の私が、必ず道を作ってやるから。私の幸運は無尽蔵だって、知ってるでしょ?」
天人様がまっすぐ私を見つめる。ガーネットみたいな緋色の瞳と、晴れた空みたいな青い髪を持った、黄色い百合の花みたいな人。
天の恵みを授かった人が、地に足のついた考え方で、人の気質を映した空を見せて、全力で『紫苑、お前を不幸になんかさせない』って訴えてる。私の手をまだ引っ張ってくれようとしてる。
もう、意味がわからない。
天人様、どっかおかしいんじゃないの? 私、あれだけ言ったよね? 天人様を不幸にするためにムチャクチャやったって。天人様にもひどいことしようとして、天人様の幸運のおかげで未遂で終わったけど、天人様にとって私が最悪なのは変わらないはずでしょ?
なのに……。
「なんで、そこまで私を庇うの? 哀れで貧相なままの私の方が、下賤な地上の民らしくて天人様の理想なんじゃないの?」
「お前を見てると、私は昔を思い出す。非想非非想天の娘・比那名居天子になる前の、ただの人間の娘・地子だった頃を」
ちょ、ちょっと、こんなとこでいきなり過去編に突入されても困るよー!
そりゃあ天人様が修行した天人じゃないのは知ってたけど、じゃあ天人になる前の天人様は? なんて、私何も知らないもん! 天人様が天人様と出会う前の私を知らなかったのと同じ!
「そんな昔じゃないはずなのに、まるで前世の記憶みたいだ。昔の私は確かに人間だった。お父様が名家の名居家に仕えてるってだけの、地上に根を下ろした、ごくごく平凡な娘。当時は単なる召使い一家に過ぎなかったから、私もいまほど裕福でも高貴でもなかったんだ。お前ほど貧乏でもなかったけど」
「結局自慢ですか。親ガチャ成功おめでとうございます。私はそもそも親がいませんけどね」
「あの頃の私が幸せだったかどうかなんてもう覚えてない。けど、お父様のおかげで天人になれたのは、私にとって紛れもない幸運だった」
天人様は緋色のオーラを放ち続ける剣を眺めている。
「お前の言う通り、私は初めから天人じゃなかった。借り物の力ばっかり使っている自覚はある。だけど、たとえ自力でつかんだ力じゃなくても、それらしくあろうと歩き続けていれば、少しは本物に近づけるはずなんだ」
ああ、その先は聞きたくない。頭の悪い私でも、天人様が何を言おうとしてるかわかるもん。
「紫苑。お前だって、その気になれば幸せに――」
「天人様なんか、本当に不幸になればいいのよ!」
聞きたくないから、私は大声で叫んだ。ありったけの呪いを振り撒いてあげる。天人様の天賦の幸運を吹き飛ばすくらいの。
「服なんか私みたくボロボロになっちゃえ、頭の花なんか枯れちゃえ、汗と汚れで身体も汚くなっちゃえ! 落ち着きなんか失くしてオロオロ彷徨えばいい!」
さっさと五衰が起こればいい。惨めな姿で近づく死に怯えればいい。
「この世界の全員を敵に回しても」
元から私は嫌われ者だもん。
「誰かが私たちの間に割って入ってきても」
そいつもまとめて不幸にしてやればいいわ。
「みんながみんな、天人様を好きだと言っても」
誰がなんと言おうが私は天人様が嫌いよ。大好きだからこそ、大嫌いよ。
「お前になんかできっこない、やめておけって笑われても」
だってひとりじゃ何もできない私が唯一できることが〝他人を不幸にすること〟なのよ?
「必ず私が天人様を世界一不幸にしてやる!」
私は誰とも幸せになれない。
――だから、せめて私と一緒に不幸になって。
「無理だよ」
無慈悲で残酷な天使は、私の切実なエゴをあっさり切り捨てる。
無邪気に笑って、また私の頬を撫でる。
「お前と一緒にいて確信したよ。お前の恐るべき不幸の力は、天人の私には届かないって」
「バカ言わないで。余裕ぶっこいてたら足元すくわれるわよ」
「正しくは足をすくわれる、ね。だって紫苑、お前、天人五衰の最後のひとつを忘れてるよ」
天人五衰……ぜんぶ言ったと思ったんだけどな。やっぱり私、難しいこと覚えるの苦手なのよ。
「私にとっては身体が汚れるとか服が乱れるとか、そんなのはどうでもいいんだ。いまを楽しめなくなることは、私の人生から楽しみが奪われるに等しい。それが一番恐ろしいんだ」
そうだ。天人様、退屈を嫌っていつも楽しいことや新しいことを探してるフシがあったもんね。
天人様の顔が切なそうにゆがむ。
「紫苑、お前は知らないんだ、私がお前と一緒にいて、どれだけ幸せだったか。だから紫苑には不幸になってほしくない、それだけよ!」
……そんなの信じない。一緒にいるだけで幸せなんて、貧乏神には絶対に使われないセリフよ。
天人様が楽しそうに振る舞ってたのは、自分は決して落ちぶれたりしないって、心にゆとりがあったから。少しの不幸も人生のスパイスくらいに気楽に考えてたんでしょ。
本当の極貧を味わってなお、同じことが言えるかどうか――。
「紫苑、頼むから、私から楽しみを奪わないでくれ……!」
……バカね、天人様。
自分から弱点をゲロっちゃうなんて、マヌケにもほどがあるわ。私が情に絆されるとでも思ってるのね。
私はリアリストなんだって。愛情よりもお金の方がずっと大事だって、身にしみてるんだって。
天人様の言いたいことはつまり、私の不幸が天人様の不幸ってこと。
天人様の緋色の瞳が揺れている。置いてかれるのは私に決まってるってずっと思ってたのに、まるで天人様は自分の方が私に捨てられる、みたいなすがり方をするのね。
私がこのまま不幸になれば、天人様を確実に不幸にできる……そうよ、私にとっての最高のハッピーエンドかつ最悪のバッドエンドはもうすぐそこに見えている。そしたらもう天人様が私から去っていくなんて怯えなくていい。手強いライバルが現れるかもなんて怖がらなくていい。
それなのに。
――どうして私は、天人様に手を伸ばそうとしているのよ? 私が手折ったところで、天人様は、黄色い百合はハルジオンにぜんぶ養分を吸われて枯れるだけなのに。
「貧乏神は、他人を不幸にするのが役目なの。貴方がどんなに大きな幸運の持ち主でも、私に関わった時点で貴方の運の尽きよ」
「紫苑、それは早合点だ。私の幸運はまだ尽きていないじゃないか。私はまだ完全な不幸になった訳じゃない」
「そんなの時間の問題よ。貴方のデタラメな幸運が本当に底なしなのか、私はまだ確かめてないもの。他にいい方法が見つかってないだけで――」
「なあ、本当に気づいてないのか? 紫苑。お前はすでに私に幸運を与えているんだよ」
――いったい、私は今日だけで何回天人様に驚かされるのかしら?
天人様はイタズラっぽく笑ってる。お前何も知らなかっただろ、って得意げに。
「泣く子も貧する貧乏神、依神紫苑。その恐るべし不運は、周囲の運気を下げ、富や財を溜め込めなくさせる。それは即ち、財禍から――お金があるが故に起こる不幸から、私を守ってくれる能力だ」
なんかもう、「ああっ!」って大声で叫びそうだった。それは決して天人様独自のものの解釈とかじゃないわ。神様っていうのは、私みたいなカーストブービーな貧乏神でも、神徳と災厄、ふたつの顔を持っているもの。祟り神でも丁重に祀ればご利益をくれるみたいなね。
だから、私にもなけなしのご利益ってヤツがあったんだ。私の能力にそんな一面があるなんて、すっかり忘れていたけど。
「お前と一緒にいて、私はけっこう派手にお金を使ったし、素寒貧のときはお前がお金を使わなくても楽しめる遊びを教えてくれた。お金があろうがなかろうが、紫苑、お前と一緒にいるだけで、私は幸せだったよ」
ああ、そんなバカな! 泣く子も貧する貧乏神の私が、この依神紫苑が、知らず知らずのうちに誰かを幸福にしていたなんて、そんなことが現実にありえるの?
これは夢? また夢の天人様と戦ってる? それともいつのまにか夢の世界の私が現実の私と入れ替わっちゃった?
「夢じゃないわ。もう悪夢は終わりよ」
私の考えを見透かしたみたいに、天人様は笑って私の頬を軽くつねる。痛い。別に私は悪夢を見ていたなんて思ってないんだけど。
どうしたらいいのよ、もう! バカみたいじゃない。何もできない私に唯一できることは不幸にすることだけだって、だからたったひとりの大好きな人くらいこの手で不幸にしようって決めたのに、私ってばそれすら失敗してるじゃない! 本当に貧乏神って、何もかもうまくいかない人生だわ!
もう他の手段なんか見つからない。得意分野ですら失敗するなら、私が他に何をしても天人様は不幸にならないんじゃないかって思い始めてる。あとちょっとで勝てるはずだったのに、とんだ形勢逆転よ。大貧民の私にはここから革命を起こせる手札なんて揃えられないわ。
呆然としてる私を見て、天人様はそっと目を細める。
「それからもうひとつ。紫苑はいつだったか、私に向かって『天人様は私を幸せにしてくれる』って言ってくれたね? お前はそれを私の幸運がなせる技みたく思ってたようだけど、私にそんな神様みたいな力はないよ」
「……」
「嬉しかったんだ。そんなこと言われたの、初めてだったから。私は天界でも地上でも問題児だからね。小さな幸運を大袈裟に喜んで、些細なことでも私をすごいすごいと褒めちぎって。そもそも、たとえお金や幸運が目当てだったとしても、天気屋な私にここまで長く付き合ってくれるのって、紫苑、お前くらいだよ」
「……そんな、の」
「だから、私も紫苑といるだけで幸せだった。ただ、一緒にいるだけで、心が満たされる。そういう気持ちを、下界の人間や妖怪たちは〝好き〟って言うんじゃないかな」
天人様は美しく、それこそ天使のように微笑んで、私をぎゅっと抱きしめる。愛おしむみたいに。
ズルいよ。天人様、普段はハッキリ〝好き〟なんてなかなか言ってくれないくせに、ここぞというときに取っておくなんて。なんか本当みたく勘違いしそうじゃない。
絆されちゃダメだ。思い出すのよ、この世で信じられるのはお金だけだって。バブルが弾けたときだって、結局は手元に一番お金を残しておいた人が氷河期を乗り越えて失われた数十年を生き残ったんじゃない。
だけど。だけど……。
あったかいなあ。天人様、甘い桃みたいないいにおいがするなあ。天人様をここで殺しちゃったら、天人様の身体は冷たくなってしまうのよね。もう私に笑いかけてはくれないのよね。
……。
嫌だなあ。
いつか天人様が死ぬのは仕方ないとしても、いまここでお別れなんて嫌だなあ。
もっと、もっともっと天人様と一緒にいたい。
報いならあとでいくらだって受けるから、ほんの少しの間くらい、貧乏神の私だって幸せになってもいいじゃない! 私を幸せにしてくれる人の手を取ったっていいじゃない!
そうよ。どうせ私は幸せになれないって、いつも諦めきってるけど、私だって本当は幸せになりたいのよ!
涙が止まらない。きっと、いま目の前にいる天人様は世界で一番美しい顔をしているはずなのに、私にはそれが見えない。
「天人様ぁ……っ!」
無我夢中で抱きついたら、天人様は抱き返してくれた。
それは、見事なまでの完全敗北。やっぱり貧乏神の私は勝利をつかむことができなかったのね。
だからこれは決して嬉し涙なんかじゃない。
私と一緒に不幸になってくれない天人様なんか、大嫌いなんだから。
■
革命を起こせない大貧民の私は、この身をすべて賭けた。破滅しか待っていない私に恐れるものなんて何もなくて、だからこそ一緒に滅んでしまえと、貴方さえ不幸にできるのなら、私が不幸になってもいいと思えたのに。
貴方はそれを許さないというのね。
自分が不幸になることより、私の破滅を心配して、阻止してしまうのね。
天人様。
私の運命に、革命を起こす人。
貴方みたいに私に真剣に向き合ってくれる人、初めてだったな。
天人様、私のつぼみの奥をこじ開けた。お金以外のものが欲しくなって、私にもそういう欲があったって思い出したの。
そりゃあいまでもお金は一番大事だし、この世で一番欲しいものに変わりはないんだけど。
誰だって、この世にたったひとりの自分を愛してほしいものでしょう?
ちょっと昔にそういう歌が流行ったわね、誰でも世界にひとつだけの違う種の特別なんだってヤツ。
疫病神の姉でもなくて、最凶最悪の貧乏神でもなくて、ただの不幸な女の子でもない、〝依神紫苑〟というたったひとりの私のことを、天人様が見つけてくれるんだったら。
儚い口約束だったとしても。
いずれ醒める夢だとしても。
それはきっと、幸せなことだと思うよ。
■
「ああ、レット、走って走って探しているのに、なにを探しているのか分からないのよ。それはどこまで行っても霧のなかに隠れているの。そこさえ見つかれば、いつまでも安全でいられて、もう二度と寒くてひもじい思いをしなくて済むはずなのに」
「きみが探しているのは、人なのか、それとも物なのか?」
「分からない。それは考えたことがなかったわ。レット、いつかはそこに無事たどりつく夢を見ると思う?」
M.ミッチェル「風と共に去りぬ」より
〈エピローグ どうしようもない私に……〉
「なーに書いてるんだ?」
「わっ」
取り止めもなくメモを書き殴ってた私の上から天人様が現れる。ノックくらいしてよ、って言いたかったけど、ここって天界の天人様の部屋なのよね。この紙も勝手に天人様から借りたわ。天人様は好きに使っていいって言ってたし。
天人様が興味津々って顔で覗き込んでくるから、私は、
「不幸の手紙です」
って言ってやった。
「送られた相手が不幸になるっていう噂のあれ?」
「はい」
「ふーん」
天人様、ちっとも怯まずに私の殴り書きを読み始めちゃった。
うーん。
とっさに不幸の手紙とか言っちゃったけど、あれは今日に至るまでの天人様への私の愛と呪いを込めた日記ともメモともラブレターともつかないもので……天人様に読まれるとマズいじゃん! 恥ずい!
「天人様、返してくださいったら」
「いいや。これを最後まで読み終わったとき、私にどんな不幸が降ってくるのか確かめてやるよ」
天人様、面白がってニヤニヤしてる。もー、そういうとこ、ちっとも変わらないんだから。
難しい漢字の本ばっか読んでる天人様だけど、そもそも天人様って読み物が好きみたいなのよね。私にわからない外の世界の本も読むし、人里で噂になってたアガサなんちゃらっていう作家の小説も興味があるみたいだった。前に鴉天狗がコラムを書いてくれないかって頼みにきたときは、それはそれは嬉しそうにしていたわ。
天人様は『紫苑、お前も読むか?』って言ってくれるけど、私はどうも本はねー。絵がついてるならともかく、難しい文字ばっかりが大量に並んだ本なんて読んでて何が楽しいの?
とまあ、こんな風に価値観の差はあるけれど。私と天人様のお付き合いはいまだに続いている。
天人様を不幸にしようとするのは、もうやめたの。私もろとも不幸のズンドコに落とそうなんて、もう二度と考えないわ。
いつもずっと一緒かっていうと……まあ、女苑にうまい金儲けの話があるって言われたらついふらっとそっちに行っちゃうし(だいたいいつも途中まではうまく行くんだけど最後は大目玉喰らって一文なしになって終わるんだけど)。にしてもあいつはいったい寺で何をしてたのかしら?
石油のときなんか酷かったわ。女苑も私も教養がないのよ。まさか石油の正体とやらがあんなものだったなんて、どうりであの風神の当たりがやたらとキツかったワケだわ。何も知らずにありがたがって銭儲けする救いようのないサイテーのバカどもとでも映ってたんでしょうね。
だーけーど。天人様にもたびたびお金に対する執着を諌められるけど、人間も神様もそんな簡単に変われたら苦労はしないワケでさ。石油で富豪神になれないんだったら地獄のツアーでも組んでみればいいじゃん? ってなって、そしたら今度は霊夢が鬼の形相で退治にきて、ツアーはおじゃんだし儲けはパーよ。ほんっと貧乏神は何をしてもうまくいかない。
天人様はいつも――それこそ世界中が私を敵視しているときだって、「なんだ、また負けたのか」って笑って出迎えてくれる。自分に降り注ぐ火の粉なんて気にしない、世間体なんてどうってことないっていう、大胆でおおらかな人。そこがまた素敵なのよ。
私たちの関係性はっていうと、ぶっちゃけ進展してない。急いで事を進めなくてもいいってなったら『別にいつも通りでいいかー』ってマイペースになっちゃったのよね。だいたい貧乏神の私が自分から何かを起こそうとしたってロクなことにならないんだから、何もしなくていいのよ。天人様もあんま気にしてないみたいだし。
「お前、本は読まないくせにずいぶん長々とした文章を書くんだな」
「返してくださいってばー。そんなのただの愚痴の吐き出しですよ」
「そう? 私には深夜に書いた熱烈なラブレターみたいに読めたけど」
きゃっ、もうバレてる! しかも深夜のラブレターって一番支離滅裂でキモくて恥ずいヤツじゃん。よく平気な顔で読めたわね、天人様。
「お前、意外と売れっ子作家になるかもね」
「ひどい冗談ばっかり! 返してくださいって、もう!」
私が必死になって取り返すのを、天人様は笑って見てた。いまのが皮肉なのは私にもわかるわ、天人様の意地悪。でも外の世界では、ときどきとんでもない悪文っていうか、なんでこんなものが世の中に? みたいな本が大ベストセラーになったりするからね。もしかしたら私もなんかの賞金が当たって一攫千金も夢じゃない!? ……いや、やめとこ。さすがにムリだって。
「にしても」
と、天人様は口を尖らせる。私が勝手に石油騒動に参加したことで、天人様は拗ねてるらしかった。
「今回はもう紫苑は私のとこに戻ってこないかと思ったよ」
「天人様がそれ言いますー? 私はいつ天人様が私に飽きて捨てるのか、気が気じゃありません」
「まだそんなことを言うの? その気になったらお前の方からさっさと未練もなく捨てるくせに」
「だって、私の世界を変えたのは天人様ですよ? まさに革命的でした」
「ああいうのは革命って言わないのよ」
天人様は苦笑いする。
「革命ってのは、弱い奴が強い奴に向かって起こすものなんだから。周の武王が殷王朝を滅ぼしたようにね」
とか天人様は言うけど、私はインがどこの国なのかすらわからない。たぶんインドじゃないと思うけど……。
それはさておき、天人様の悪い癖が出てるのは私にもわかるわ。
「天人様って、素敵な人なのに、たまにうぬぼれ癖が出ますよね」
「へーえ? この私が? 紫苑、お前ってときどき私に楯突くよね」
「私は天人様をお慕いしてて好きで一緒にいますけど、天人様の召使いじゃないんで。嫌なことは突っぱねますし言いたいことは言います」
「じゃあ前にやたらと褒めそやして持ち上げてきたのは単なる金目当てのご機嫌取りだったと」
「ま、そうなりますよね」
「ふーん、生意気」
って天人様はわざとらしく突っかかって見せるけど、ちっとも怒ってないのよね。「いいじゃない、私に不満があるなら言ってごらん。言えるものならね」って挑発してるのよ。
「私だってその気になれば天人様に勝てるって、忘れてるわ。天人様が私を変えたように、今度は私が天人様を変えるかもしれないのに」
「それじゃ、紫苑はいつその気になるの」
「……もうちょっと、現実的な手札が揃ったら」
「あっはっは!」
天人様は腹を抱えて大笑いした。
「紫苑、お前は賢いね」
「バカにしないでください。ぜんぜん褒めてないでしょ」
「いいや、私はお前を気に入ってるもの。ときどき不思議になるよ。私の方が絶対に紫苑より長く生きているはずなのに、たまに紫苑が私よりずっと達観して、世の中をよく知っているような気がするんだ」
からかってるみたいな口ぶりをやめて、天人様は真面目に言う。そんなもんかしら。でも、確かに天人様は私より長生きのはずよ。私の記憶って、どんなに古いのを探しても、あのバブル景気の華やかな賑わいに浮かれまくってる人間たちのアホ面と、それが崩壊した後の底冷えするような貧乏に打ちのめされる人間たちの暗い顔だもの。それより古いのは思い出せないから、たぶん私はそのあたりで生まれたんでしょうね。あの時代に勝ち組になれた人間なんて、ほんのちょっとしかいなかったんじゃないかしら? もしあの時代が本当にいいものだったら、生まれてくる女神なんて女苑ひとりで充分で、私が生まれる余地なんかなかったはずだもの。
そーゆー現実をサバイブしてきたから、そうね、天界暮らしの長い天人様よりはリアルを知っているかも。
「もしも天人様がすかんぴんになったら、私が氷河期の生き方を教えてあげますよ」
「なんだ、まだ私を不幸にするつもり?」
「いえ、それはもういいんですけど、一寸先は闇って言いますから」
「私は構わないけどね。お前の能力が実のところ、どこまで私に通用するのかは依然興味があるし」
こんな調子だもの。思えば天人様は最初っから肝試しくらいの気分で、ずいぶんポジティブな理由で私が近づくのを許したんだった。大胆で怖いもの知らずよねー。そんな人を不幸にしようとする私もどうかしてたわ。
「お前の妹に聞いたときも思ったけど、紫苑の不安ってずっとお金がらみだよね。ひもじい思いをしたくない、生活に困らないだけのお金が欲しい。そんなに衣食住が心配なら私が一生養ってやるよ」
「天人様!」
私、だいぶびっくりして喉から心臓飛び出るかと思ったわ。
「そんなこと簡単に言っちゃダメです。取り返しがつかなくなって後悔しても遅いんですよ?」
「あのね紫苑。私だってこれでも〝綸言汗の如し〟って心得ていろいろ言ってるつもりなんだけどね」
「……えと、なんですって?」
「尊い人の言葉は一度出た汗を引っ込められないように撤回できないものだから、発言はよく慎みなさいってこと。たぶん私ならお前ひとりくらい抱えても平気だろうし」
「貧乏神の私がどんだけ浪費すると思ってるんです? 私が本気で甘えたら貴方は潰れるかもしれませんよ?」
「なあに、私のこと心配してくれるの?」
「とんでもない。私はいつだって私の人生の心配しかしてないわ」
「あっはっは! まあお前はそれでいいのよ。世のため人のためなんて働けるのは天人の私くらいだもんね」
そんな感じでじゃれあってたら、ふっと天人様が真面目な顔をした。
「紫苑。いいニュースと悪いニュースがあるんだけど、どっちから聞きたい?」
「それ、結局悪いニュースがいい方を掻き消しちゃうパターンじゃないですか。いい方から先に聞きたがるヤツいます?」
「じゃあ悪い方からでいいんだな?」
「貧乏神なんで。悪いニュースなんて慣れっこですよ」
「……お父様が、貧乏神との交際なんか認めないっていうのよ」
天人様が口をへの字に曲げる。ここで天人様のお父様が出てくるとは。確かお屋敷の侍女たちに『総領様』って呼ばれてる人よね? 天人様が総領娘様だから。
まあ、その総領様の意見は正しいとしか言いようがないわ。マトモな父親だったら、自分の大事なひとり娘が貧乏神とくっつくのをよしとしないのは当たり前でしょ? 不幸になるのが目に見えてるもんね。
でも、悪いニュースと言ったわりには、天人様はそんなに落ち込んでもないし不機嫌でもない。父親の言うことなんて知ったこっちゃないとか? 反抗期?
天人様はにやっと笑って、
「だからね紫苑、私はお父様に言ってやったの。涅槃経の昔話を思い出してごらんなさいませって」
「ネハン……なんです?」
「密教の古い経典よ」
私、仏教も道教もわからないし興味ないんだけどなあ。漢籍に詳しい天人様はやっぱりすごいわ。
「その経典にはね、人間が自分の家にやってきた福の神を歓待する話があるの。福の神をおもてなしすれば家は富と幸福を約束されたも間違いなしってね。しばらくしたら、今度は貧乏神が同じ家にやってきて、もてなしてくれって言うの。貧乏神なんか歓迎できるわけもない。突然人間は拒んだ。そしたら、福の神が立ち上がってこう言ったのよ。『あの貧乏神は私の姉妹です。姉妹を受け入れてくれないのなら、私も出て行きます』と。結局、その家の人間は姉妹をそろって追い出しちゃったけど、二人を両方受け入れた寛大な家は立派に繁栄しましたとさ、どんど晴れ」
天人様はおちゃらけて締めくくった。
「だから貧乏神を貧乏神という理由で追い出すのはよくありませんよって。お父様はしぶしぶだったけど納得したわ。にしてもこの話、まるで紫苑とその妹みたいだね」
いやいや、あいつは正真正銘の、どこに出しても恥ずかしい疫病神であって、福の神じゃないですから。あいつが勝手に富をもたらすとか大嘘ぶっこいてるだけだから。にしても、福の神と貧乏神を一緒に受け入れるなんて、えらい人間もいるものね。
天人様は私と向かい合って、上機嫌に笑っている。実の父親の苦情なんてなんのその、私には恐れるものなんて何もないんだぞ、って、自信満々の笑顔。これからも私のもたらす不運をすべて蹴散らしてみせるって、勝ちを確信した、勝者の笑み。
「ところで紫苑」
「なんです、天人様」
さっきまで愉快そうだったのに、今度はむくれてる。天人様って本当に天気屋さんね。
「お前はいつになったら、私のことを〝天子〟って呼んでくれるんだ?」
「へっ?」
思いもよらない方向だな!
えっ、何それ、て、天人様、私に名前で呼んでほしいの?
そんなこと言われたって、私にとっての天人は天人様しかいないし、ずっと天人様って呼んでたのに、今更変えるなんて、その……照れ臭くない?
「呼べないの?」
「だ、ダメですか? 私、天人様以外の天人は天人様なんて呼びませんよ」
「他の奴はどうでもいいんだよ。紫苑。私の名前を言ってみなさい」
強気! でもそこが素敵!
だけど呼ぶってどうすれば? て、天子ちゃん、なんて、私が呼ぶのは馴れ馴れしい感じがするじゃん? かといって、て、て、天子、なんて呼び捨てにするのはもっと無理!
「おや、珍しく血色のいい顔をしている」
「天人様、勘弁してくださいよー……」
「しょうがないなあ。いまは天人様で許してやるよ。でもいつかは呼んで」
どうにか見逃してもらったけど、天人様はちょっとだけ恨むような様子も見せる。こうやって私はこれからも天人様のペースに巻き込まれていくのかしらね。でも悪い気はしないなあ。元から自分であれこれ考えてアクティブに動くのって得意じゃなかったしなー。流れに身を任せていまをエンジョイする刹那主義の方が合ってるもんなー。天人様が私の手を引っ張ってリードしてくれるなら、どこだって喜んでついていっちゃう。アイウィルフォロユーよ。
愛しの天人様。
認めてあげるよ。
いまの私は幸せなんだ。
私ね、いまでも〝貧乏〟って言われたらムカつくしいつか絶対に貧乏から抜け出してやるって思ってるけど、天人様が気づかせてくれたおかげで、前ほど『どうせ私は幸せになれない』って卑屈になることは減ったの。
でもね。
私はどこまでいっても貧乏神の依神紫苑だからさ。『そうしてみんないつまでも幸せに暮らしましたとさ、めでたしめでたし』みたいな、お伽話のご都合主義にまみれたハッピーエンドなんて、リアルじゃなくて、ウソくさくって、絶対に信じないから。
この幸福は、いまでもやっぱりいつか終わるものだと思ってる。だって、今回の勝者は天人様ただひとりだもの。私は貴方の幸運に負けたの。
貧乏神の末路は、必ず不幸で終わらなければならないから。
だけど、その終わりは、何もいますぐじゃなくてもいいよね。私がムキになって終わりを早める必要なんか、初めからなかったんだよね。元々私はいましか見てない生き方しかできないんだし、先のことは後で考えればいいのよ。
天人様。
私だけの黄色い百合の花。
奈落の底でも、私たちは場違いみたいに明るく咲き誇っていられるかしら。
いつかふたりを永遠に分かつ日が来るまで、ハルジオンは、ずっと貴方のそばにいるわ。
――E.ブロンテ『嵐が丘』より
〈プロローグ 天使にラブ・コールを!〉
ああ、うるわしの天人様……。
風にたなびくつややかな長い髪は、ぶ厚い雲の外に広がる青空のよう。茶目っ気たっぷりにくるくる動く緋色の瞳はガーネット。空模様を映すスカートに散らばる七色の飾りはまさしく虹ね。天人様の佇まいは高貴で、優雅で、いつも桃の甘い香りがするの。
そんな可憐な姿からは想像もつかないでしょう。ひとたび緋想の剣を振るえば大地震を起こし、小柄な身体に似合わない巨大な要石をいくつも操る豪胆さを持っているなんて。
あ、いけない。私ったら一番大事なことを忘れていたわ。
何より天人様が魅力的なのは、圧倒的な幸運の――つまりは湯水のように溢れる大金の持ち主ってところよ。暖衣飽食で、お金に困ったことなんて一生で一度もなくて、一緒についていくだけで私は妹のおこぼれなんか目じゃないほどの幸運にありつけるの。
なんて、なんて素敵な人なの!
バカな人間が理想の相手は三高だなんだと囃しているけれど、この世はなんといったって金よ。一に金、二に金、三、四がなくて五に金なのよ(これを言うと天人様は『汝、神と富(マモン)とに仕えること能わず』って言ったけど。どーゆーこと?)。お金を持っている人に勝るものなんて何もないわ!
ゆえに天人様は最高! 天人様は至高!
「おーい、紫苑?」
天人様万歳!!
「紫苑ったら」
おっといけない。私があんまりにも天人様の横顔をガン見してたもんだから、心の広い天人様も不審に思っているわ。赤い瞳がぱちぱち瞬いて、もぎたての桃のように瑞々しい唇が可愛らしくて、天人様を見てるとついうっとりポエマーみたいな空想に耽ってしまう。私にも乙女チックな心が残ってたのね。
「まったく、何をため息ばっかついてるの。おいしいキノコがたくさん取れるから山に行きましょうって言い出したのはお前なんだぞ」
はい、そうでした。
私が女苑と一緒に(いや、正確にはほとんど私ひとりで戦ってたような。あいつちゃっかりしてやがる)夢の世界の天人様を倒して、その後で現実の世界の天人様に会って、私が天人様の夢にも劣らない無尽蔵の幸運オーラに一目惚れして、気づけば私たちはどこに行くのも一緒って言っていいくらい仲良くなっていた。
いまは実りの季節。『天高く馬肥ゆる秋』とか天人様は言うけど、私は生まれつきの貧乏と粗食のせいで一度も太ったことがないのに、馬ごときが丸々太るなんて不公平だわ。とはいえ自然の恵みは誰にも等しく降り注ぐべきもので、貧乏な私でもちょっとそこらの山に入ればキノコに木の実に山草にと、それはそれはありがたいご馳走で溢れているのよ。
天界にはない珍しい食べ物があるのですと囁けば、天人様は興味を持って、私と一緒に山へキノコ狩りに来たってワケ。道中で邪魔してきた山の妖怪たちは全員天人様が蹴散らしてくれたわ。頼もしい人!
「私はまだ地上の植物ってやつがよくわかんないのよ、これとかどうなの?」
高貴な天人様は地上の食べ物にはお詳しくない。キノコは正確には植物じゃないらしいですよ、とかヤボなことは言わないで、私は天人様が指さすキノコを見た。
……見るからに毒々しい赤色と白い斑点のカサ。うん、毒キノコじゃね?
「天人様、これは食べない方がいいですよ」
「そうなの? 鮮やかで綺麗なのに」
「キノコってそういうヤツほど危ないんですよ。地味なのなら安全ってわけでもないらしいんですが」
とかなんとか指南してる風だけど、ぶっちゃけ私もキノコの専門家でもなんでもないから詳しいことはあんまわかんない。
だけど私みたいな極貧が日常の貧乏神は、ちょっとやそっとの毒キノコやら毒草やらでビビらないのよ。ひもじければ〝殺しの天使〟ことドクツルタケだって喜んで食べるわ。まあだいたい食べた後でえらい目に遭うんだけど、背に腹はっていうし、自慢じゃないけどこれでも身体は頑丈だし、なんたって神様の端くれだから毒ごときじゃ死なないし。
同じく天人として身体が頑丈にできている天人様も、毒を食らったって、せいぜいお腹が痛くなる程度で済むのだ。これまでの天人様と過ごした経験が証明している。あ、雑魚な人間は死ぬかもしれないよ? よく知らないキノコが食べ放題だなんて、私と天人様だけの特権ね。
それにしても天人様ったら見つけるのがうまいわ。ちょっと落ち葉をどけたり、木の根元を漁ったりするだけで次々にキノコを見つけるんだから。マツタケなんかをあっさり手にしたときはひっくり返るかと思ったわ。天人様の天賦の幸運はこんなどうってことない日常の中でも発揮されるのね。
気がつけば、私と天人様が抱えてきた空っぽのカゴはずっしり重たくなっていた。
「あれっ? なんだ紫苑、お前はキノコ以外も集めてたのか」
「えへへ。この季節は甘ーい栗の実に加えて、ドングリやらトチの実やら木の実も大豊作ですから」
「ふうん。桃に比べたらしょぼいわね」
「丁寧にアク抜きすればドングリだっていけるんですよ? でも、今日の収穫はこれくらいにしておきましょう」
「え? なんで……あーそうか、秋の神がうるさいからな」
不満げだった天人様も、この山をテリトリーにする神様を思い出してしぶしぶキノコ狩りの続行を諦めた。
秋の神……この場合は紅葉の神じゃなくて豊穣の神の方ね。あんなの天人様の実力に比べたら雑魚だと思うけど、下手に喧嘩売って怒らせたらせっかく収穫したものを全部没収されちゃうかもしれない。私? 私の極貧オーラで押し切れなくもないだろうけど、やっぱ後のことを考えたら神様のテリトリーで揉め事を起こすのは面倒でしかないわ。
ひと口に神様って言ってもいろいろあるのよ。たとえば山の上に神社をでーんと構えてる偉そうな風神はお社も巫女も連れてるれっきとした祀られる神様だけど、秋の神は特定のお社を持たない、いわばノラ妖怪に近い存在ね。それでも秋の神たちはまだ人間にありがたがられるんだから、よっぽどいい扱いだと思うわ。
で、私(と、ついでに妹の女苑)はってーと、名前にこそ〝神〟とはつくけれど、世間の扱いはほとんど雑魚妖怪と大差がない。祟り神レベルならビビリの人間が丁重に祀ってくれるけど、貧乏神程度じゃものぐさな人間はきちんと祀ってあげようとまで働きかけないのよね。
あーあ、神の格差社会のむごさといったら。私だって人間を脅して供物を巻き上げるだけの快適な生活を送りたいわよ。と、ちょっと前までの私なら思っていた。
だーけーど! いまの私には天人様がついている! そう、もはや人間の扱いも神様の格差社会も気にしなくていいの。
これまでも金を持ってるだけの人間ならごまんと見てきたけど、どいつもこいつも人間性が薄っぺらいっていうか、ショボいのよ。ま、人間ごときが神様より上になるわけがないんだけど。
その点、天人様は……えーっと、ヒソーヒソー……ナントカっていう高貴な天人の生まれで、生まれ持った幸福オーラのスケールも大きくて、懐も広くって、貧乏神の私がずっとおそばを離れなくても、そのせいで天人様にまで不幸な出来事が降りかかっても、ちっとも気にしないでいてくれる。むしろ私を〝いい付き人ができた〟くらいに思ってくれてるみたい。ああ、貧乏神ってだけで邪険にされないだけでも貴重なのに、むしろ進んで私をあちこち連れ回してくれるなんて! 私の心はガッチリつかまれてしまった。もうね、メロメロよ、ベタ惚れのゾッコンのくびったけよ。
「麓まで降りたらさっそく調理するか。キノコは煮ればいいの? 焼けばいいの?」
「どちらでもお好きなように。腹に入れば全部同じです」
「お前は到底美食家になれそうにないねえ。出された食べ物はなんでも美味い美味いって過剰にありがたがるんだから」
「だって、この世に食べ物がなくてお腹がすくことほどひもじいことってあります?」
某アンパンのヒーローの最大の敵は悪さをするバイキンじゃなくって〝飢え〟なんだってね。真理だわ。
「衣食足りて礼節を知る、か。まあいいや、私のような高貴な天人は贅沢な食事なんて食べようと思えばいつでも食べられるんだからね」
麓の河原まで降りてきたら、あらかじめ用意しておいたお鍋や道具(外の人間がバーベキューって呼んでるヤツ)を取り出して、ウキウキの天人様と一緒に調理を始めた。
天人様、「私は天界では料理なんかしなくていい身分だから」とかいうくせに、料理がお好きなの。召使いたちに前もって用意されておいたものを出されて、ただ黙々と受け取るだけの生活が味気なかったんですって。
箱入りのお嬢様が「なあに、この安物?」とか文句言いながら人里で買った割烹着をまんざらでもない感じで身につけて、「邪魔だなあ」ってめんどくさそうに長い髪の毛をざっくらばんにまとめて、ここはこーしたらあーしらたって口出ししまくる私に「ああもう、うるさいなあ紫苑は!」って怒りながらも調理は投げ出さなくて、さあどんな出来上がるかなって、興味津々に鍋を覗き込んでいる姿は、いつ見てもただただ可愛いのよ。可愛いは正義。天人様マジ天使。
そんでもって完成した料理を「ふーん、ま、こんなもんか」とか言いながら、熱い熱いと顔を赤くして頬張る姿はもう、もうね! 「たまには下界の食べ物も悪くないんじゃない?」みたいな〝下々の食い物をあえて楽しむ粋な私〟ってポーズを取りながら美味に綻ぶ顔が隠しきれてない可愛らしさといったら、眺めてるだけでお腹いっぱいになりそう!(あ、やっぱ嘘。目だけで飢えが満たされたら貧乏神は苦労しないのよ。ってことで私は天人様より多くを当たり前みたく鍋からぶん取っていく)。
あー……幸せ。天人様と一緒だといつも美味しいものでお腹は満たされて、天人様は高貴で美しくて可愛らしくて、いままでに身に染みついた貧乏な生活を忘れちゃう。
それもこれもぜーんぶ天人様のおかげ……なーんて熱ーい眼差しを送り続けていたら、うん? 天人様も私を見ているような。
「……あの」
「何?」
「天人様は食べないんですか。お口に合わないとか?」
「いや。紫苑のなんでも美味そうに食べるとこ、いいよなって思って」
それって、いっぱい食べるキミが素敵みたいなアレか。がっついてて意地汚いって言われることもあるんだけどね。
なんだろ、天人様になら何を言われても嬉しいっていうか、一緒にお鍋を食べるだけっていう、こんな何気ない瞬間すら天人様はキラキラさせてくれる。
そんな優しく笑われると、食い意地張ってるとこを見られて恥ずかしいかもなんて気持ちも吹っ飛ぶわ。胸がドキドキするより、ぎゅーって締め付けられるような感じがして、でもその後は温かい気持ちでいっぱいになるの。魔法にかけられたみたい。
「そういう天人様こそ、何をしてても魅力的ですよ」
「え?」
天人様の目がぱちくり動く。首をかしげると、サラサラと空色の髪がこぼれる。自覚がない。無邪気で無垢で、そんなとこも素敵!
「天人様は、私にとって世界で一番素敵な人。一緒にいるだけで、天人様は私を幸せにしてくれる」
「――」
「さすがは天人様! 天人様の幸運のお力ってすごいんですね!」
私の言い方はそこまでおべっかっぽくはなかったと思う。だって天人様は目を丸くして、頬を赤くして。口元をなんだかむにゃむにゃさせて。
いつも自信満々な天人様にしては珍しい反応だと思ったら、
「当然よ! 私は天人だからね!」
って、胸を張って言った。天人様が照れるなんて、私の見間違いだったかしら?
んでもってしばらくしたら、また天人様は私をじっと見てる。それはさっきみたいな「紫苑は本当に何でも美味しそうによく食べるなあ」なんて微笑ましそうに言うときの顔とはちょっと違うっていうか……。
「紫苑、紫苑が私を覗くときは、私もまた紫苑を覗いているんだ。だから目が合うんだよ」
なんかどっかで聞いたセリフっぽい。どこでかは忘れたけど。
天人様は空になった器を置いて、いきなり私の手に天人様の手を重ねてきた。
「紫苑は、私が好きか?」
えっ、何を今更。
「はい、大好きです!」
決まってるじゃない、私がいままで天人様への好意をどれだけオープンにしてきたかわからないの? 一年以上もずっとふたりで一緒にいるのよ?
天人様はふっと優しく笑って(あれ? なーんか、いつもの無邪気な天人様らしくない、大人びた感じがするのは、気のせい?)、私に近づいて、頬に手を添えて、それから……。
は?
え?
ええっ?
えーと、これっていわゆる、アレですか。
フィクションでしか触れたことがないロマンスってやつですか!
女苑が昔観てたやっすーいトレンディドラマは『ダッサ、リアリティなさすぎ(笑)』とか馬鹿にしてたもんだけど、なんか、なんか、私はいま、80年代から90年代あたりのヒロインにトリップしちゃったんじゃないの!?
だって! 唇と唇が! 天人様の桃のようにうるうるの唇と、私の砂漠のごとく乾いたガッサガサの唇が! ……ロマンもムードもないなあ。まあ無理か、私は貧乏神だし。ていうかお互い食ったばかりで出汁のにおいがぷんぷんするし。ニンニク料理とかじゃなくてよかったね。
これは夢? 私に都合のいい夢? 確かに私はさっき幸せだなあとか思ってたけど、だってだって、貧乏神の私がラブストーリーのヒロインみたいなことしてるなんて、現実とは思えない!
で、でも天人様の花も恥じらうお顔は間近にあるし、緋色の瞳がなんだか……キラキラと……。
あ、あれ、なんかドキドキしてきたな。私はついさっきまで天人様に対する好きは敬愛の好きだと思っていたけれど、き、き、キスされるのがちっとも嫌じゃないってことはさー……私、天人様のこと、そーいう意味で好きになっちゃってたの!?
「嫌だった?」
天人様の不安げなお言葉にぶんぶんと勢いよく首を横に振る。めっそうもない。急だったからビックリしたけど、そんなムードとか前フリとかなかったはずだし、なんで天人様がいきなりそんな気になったのかちっともわかんないけど、天人様のやることが間違いなワケないわ。
「あのう、どうして私に、こんなこと?」
天人様ったら、眉を下げたまま、頬を赤らめてそっぽを向く。照れてらっしゃる。今度は見間違いじゃない。そんなお顔もまたお美しい。
「別にいいでしょ? 紫苑は私が好きなんだから。私だって、気に入った相手にキスしちゃ悪いかよ」
わざと乱暴な言葉遣いになるのも素敵。うん、フツーだったら許可もなく勝手にキスしてくる輩とか絶許だけど、私はぜーんぜん気にしない。だって天人様、態度こそぶっきらぼうだけど、私のことを好きだって言ってるも同然じゃない!
つまりこの瞬間、私と天人様は両思いになったのだ!!
ガールミーツガール、フォーリンラブ! ロマンスの神様、この人だわー!!
私、天人様に一生ついていきます!
そう、私、依神紫苑はいま、まさに幸福の絶頂だった!!
■
……なーんて、後から考えてみれば、このときの私は思い上がりも甚だしいっていうか、バカ丸出しっていうか、明らかにこの後の悲劇のフラグでしかないっていうか。
テレビの過剰演出って好きじゃないんだけど、本当に幸福の絶頂から不幸のどん底に落とされることってあるのね。
ああ、私のバカ。せめてもう少し冷静な思考を持っていれば……って、私にそんなもの期待したってムダだったわ。
■
〈その一 翼を折りたい天使〉
ハルジオン。またの名を貧乏草。
あまりに不名誉な名前の花から名付けられた私は、生まれたときから(つってもどこで生まれたとか知らんけど)どこに出しても恥ずかしくない貧乏神だった。女苑に言わせりゃ『恥しかない』らしいけど、ケッ。
ともかく、時間が経って少し冷静さを取り戻した私は、天人様と両思いになれたという幸福からくる雲の上を歩くようなふわふわした気分が落ち着いて、悟ってしまったのである。
――誰が言ったか、貧乏神の周りは、最後は必ず不幸で終わらなければならない。
私と天人様の幸福な時間は、いつか終わりが訪れる。
天衣無縫な天人様は天気屋で気まぐれなんだから。
ううん、天人様だけじゃない。私の貧相な有り様を憐れんで近づいてきた人間たちは、そのうち私の能力で貧乏になって――あるいは私のあんまりの極貧ぶりに嫌気がさして、みんな私を嫌って去ってしまった。みんなそう。みーんな、そう。それはどうしようもない残酷な現実よ。
だから天人様だって例外じゃない。いまは私を好きだと言ってくれる天人様も、いつか、私に飽きちゃうんだよね。私のそばを去っていくのよね。私には天人様を引き止める術なんてないから、私はただ指を咥えて見ているしかできないのよね……。
だーけーど! 最凶最悪の貧乏神をナメてもらっちゃ困るわ。この依神紫苑が転んでタダで起き上がるとでも思ったか!
えーえー、あんたたちの言いたいことはよーくわかるわ。自堕落、無気力、ダウナー、ヒモ、妹の金におんぶに抱っこ。自分からは何もしない、根暗陰キャインドアの極みみたいなヤツに何ができるんだよ、とかでしょ?
みくびるなよ。私だって、自分の力でできることが、たったひとつだけあるのよ。
私の貧乏神としての生まれ持った能力は、具体的に言えば財を失わせ、運気を下がらせ、不幸にすること。その力は制御が効かなくて、無差別で、自分すらも巻き込んでしまう。
つまり、私は何もしなくても不幸になるし、何かしても不幸になる。どうせ結果が同じなら、いつか訪れる不幸にびくびく怯えて何もしないなんて、不幸をばら撒く貧乏神の名が廃るわ!
そうよ、どうせ不幸になるなら、私がその前にこの手で天人様を不幸にしてやればいいんだ! この幸せが壊れる前に自分で台無しにしてやればいいんだ! 世界で一番大好きな人くらい、私が不幸にできなくてどうするの!
強烈なエゴに突き動かされて、いつも受け身な私には珍しくやる気が漲っていた。
――私が全身全霊をかけて、大好きな天人様を世界一不幸にしてみせる!
◇
「というわけだからあんたも協力しなさい」
「いや知らんがな」
相談を持ちかけた妹はまったく乗り気じゃなかった。面倒くさそうにジト目で見てくる。
「あの偉そうな天人崩れからガッポリ金をふんだくってやろうってなら協力も考えなくもないけど? 姉さん、今回は金目的じゃないんでしょ」
「だって仕方ないじゃん。天人様ったら、あれだけずーっと長い時間私と一緒にいるのに、ちっとも破産する気配がないのよ。お金は確実に減ってるはずなのに、天人様はそれが〝不幸〟だとは一ミリも感じていないの! お金毟っても天人様を不幸にできないのよ!」
「じゃあ勝運を下げてやったら? あいつ勝負事とか好きそうじゃん。負けたら露骨に不機嫌になりそうじゃん。テキトーに言いくるめて賭博とかノセてやったら」
「だーかーら、お金がらみじゃ意味がないんだってば!」
「あーもー、ああ言えばこう言う! じゃあ姉さんは何かいい作戦でもあるの?」
「それが思いつかないからあんたに考えろって頼んでんでしょ、なんとかしてよ」
「はあ!? 何その唯我独尊!?」
女苑がキレて食ってかかってくる。
「だいたい姉さんっていつもそうよ、何もかも他人任せのくせして文句ばっかで、どのツラ下げて『なんとかして』とか言えるワケ? ちょっと見ない間に、偉そうな態度も図々しい物言いも、ずいぶん例の天人様に似てきたんじゃないの!」
「やめて、天人様は神聖にして犯すべからず。私と天人様を比べるなんて解釈違いだわ!」
「何を勝手に盛り上がってんの……」
女苑はがっくりうなだれて「もーいい、姉さんには付き合い切れない」と呻いた。女苑はまるで私が天人様とばかりつるんでいる薄情者みたいな物言いをするけど、そういう女苑は女苑でこのごろは、えーと、みょ……みょ……ミョーホージ? だかなんだか知らないけど、あの武闘派な坊さんとこに入り浸ってんじゃない。
そのせいなのか、強欲で金にがめつくて意地汚くてタカビーでファッションセンスが悪趣味でメイクも未だにバブル引きずってて性格最悪なのが売りの女苑が『お金や宝石のきらめきが減った』とか耳を疑うようなことを言い出して、挙げ句の果てには『心の豊かな人生(笑)』とか『真の幸せ(笑)』とかスピッちゃったことに目覚めちゃって。虫唾ダッシュよ。
あーあ、我が妹ながら宗教なんぞにのめり込むとは情けない。外の世界でバブルが弾けたあとにいくつかのカルト集団が大問題になったけど、女苑もまたあの頃の人間たちと同じく『本当の豊かさとはなんぞや』とかいう意味のない哲学にのめりこんだ結果、同じ末路を辿ってんのかね。
まあ仕方ないわ。カルトにハマったヤツは身内といえども距離を置いて関わらないのが最善だからね。ほっとくっきゃないのよ。
とかなんとか私が白けた目で見ているのに気づいたのか、女苑はフンと鼻を鳴らして、
「とにかく、私は姉さんの破滅願望に付き合うつもりなんてないから。姉さんひとりであの崩れ天人を不幸のどん底でもズンドコでも落としてやりなさいよ」
あっそう。私がこんなに謙虚に頼んでるのに協力してくれないってワケ。お金儲けの話となったら聞いてもいないうちからポンポンアイディア出しまくるくせに、肝心なときに役に立たないんだから。ならいいわよ、私だって薄情な妹なんかに頼らないわ。
どうせ女苑は私のことを『ひとりじゃなんにもできない役立たずのデクノボー』とでも見下してんだから。
いいじゃないの。あんたの力がなくたって、私ひとりでも何かを成し遂げられるって思い知らせてやるわ! 愚かなる妹よ、いまこそ姉の威厳を思い出すがいい! 後で吠え面かくなよな!
……とかなんとか息巻いたのはいいんだけど。私って不幸を象徴するまさしく泣く子も貧する〝貧乏神〟でさ、私に近づくヤツは人間だろーが妖怪だろーが勝手に不幸になってくんだけどさ、女苑にも言ったけど、どーも天人様は例外っていうか。私の能力がちっとも効かない、もうずいぶん長いこと一緒にいるのに一向に不幸になる気配がない、稀有な人なのよね。
自分の能力の限界とかわかんないからはっきり言えないけど、もしかしたら、天人様の幸福オーラは本当に私の不幸オーラを受け付けないんじゃないかしら。お酒のあとで悪酔いしたりとか、多少の被害は出るんだけど、そんなのチンケなもんじゃん。っていうか、私だってそもそも天人様に近づいた最大の理由は〝この人と一緒だったら不幸にならなさそうだから〟なんだけど……。
あーもー、ひとりであれこれ考えるのってめんどくさい。まだるっこしいのは苦手なのよ、チョーダルい。
こうなったら方法はひとつ。
ズバリ、天人様に弱みを直接聞いちゃる!
「はあ? 天人の弱点?」
「はい、こないだ人里で例の偉そうな仙人が天人の『ゴスイ』? について講釈垂れてたんですよね。天人が気をつけなきゃいけない五つのことって。あれってなんです?」
「はーん、天人五衰か。あの仙人、もしかして本気で天人になる気かな? なれっこないのに」
天人様はあの派手派手しい紫色の仙人を完全に自分の下位互換としてバカにしている。ま、半分くらいは『天人様とあろう者が情けない』とか言われた腹いせだと思うけど。
天人様は気分よくスカートをひらめかせて、私にとくとくと教えてくれた。
「天人五衰ってのはね、簡単に言えば天人の避けられない五つの衰えって奴なの。一つ、頭上の花が枯れること。一つ、衣服が乱れること。一つ、汗がにじみ身体が汚れること。一つ、落ち着きをなくして同じ場所に止まっていられないこと。一つ、いまのこの世を楽しめなくなること」
……ダメだ、何言われてんのかちっともわかんない。いや、身体や着物が汚れるとか落ち着きがなくなるとかはまだわかんなくもないけど、頭上の花ってなに? 頭の帽子のお花? それとも頭ん中お花畑みたいな?
私ってマジで難しい話はムリなのよー。天人様はときどき漢字だけがずらっと並んだ難しそーな本を読んでるけど、漢字オンリーの本なんて何が楽しいのかしら。
頭がぐるぐる、ついでに目ん玉もぐるぐる回りそうな私に天人様は苦笑して、
「要は天人といえども完全無欠の不老不死じゃないってこと。五衰が出ると死亡フラグ……は言い過ぎにしても、近いもんかな。詳しいことは、あの地上の坊さんが『往生要集』あたりを片手に教えてくれるだろうよ。天人ってのは道教だけじゃなくて、仏教にも関わるものだからね」
地上の坊さんって、ああ、あの派手な仙人と組んでたヤツか。めんどくさいなー。ああいう我の強い連中は関わるとめんどくさいのよマジで。てかわざわざお説教なんか聞きたくないし。何よりいまあそこに行ったら女苑がいるじゃん。やだよ胡散臭い宗教施設で身内と顔合わせとか。女苑に勧誘なんぞされた日には裸足で逃げ出すわ、元々裸足だけど。
足りない頭で整理してみるけど、要は天人様もいつか死ぬのね? その『天人五衰』とやらを克服しない限りは。
ちょっと天人様を観察させてもらうけど、私にはその五衰の兆候とやらは見えない。見えてもわかんない可能性はあるけど。いつも通りいいにおいで、清潔な服を着て、愛嬌たっぷりのお顔。ほんと、こんな可愛くてお金持ちの人が私を好きだと言ってくれるなんて信じられないわ。どうせ貧乏神の私が珍しいだけなんじゃないの? 見るからに見すぼらしい私を連れ回して自分の虚栄心を満たしたいんじゃないの?
そんな私の視線の意味に気づかない天人様は、えへんと胸を張って、
「なんたって、私は特別だから。お迎えにくる死神だって何度も撃退してるのよ」
なんとも誇らしげに笑った。死神って、あの鎌振り回すおっかない神様モドキ? あれも神様の一種かっていうと、違うよね。付喪神といい貧乏神といい、人間は簡単に神様やそれの紛いもんを作りすぎなのよ。
それはさておき、仙人や天人が本来の寿命より長生きしてると、死神は借金取り立て人のごとく、その命を刈り取りにくるって聞いたわ。長生きって財産になるのね。私だって寿命を売ってお金になるんだったら売り払いたいわ。
まあともかく、欲しい情報は得られたし、天人様といったん別れて、天人様にはナイショで作戦を考えてみよう。
天人にも寿命はある。死神に天人様をどうにかしてもらうのが一番手っ取り早そうだけど、あの自信満々な態度からして、並みの死神じゃ束になっても天人様に勝てそうにないわ。幻想郷の死神は何やってんのよ?
じゃあ大人しく天人様に五衰が出るのを待ってみる? いつになるかわかんないのに?
ムリムリムリ! 時間は湯水みたく沸かないのよ! 私にそんな時間はない。呑気に待ってたら……。
天人様が、私に飽きてしまう。
……こっちから五衰を起こすってのはできないのかな? 私が一緒にいることで、他の天人より天人様の五衰が早くくる可能性はない?
でも五衰なんてどうやって起こせばいいんだろ? 服や身体が汚れる……落ち着かなくなる……いまが楽しくなくなる……。
服や身体を汚すのが一番手っ取り早そう。たぶんそれって本当の五衰とは違うだろうけど、私は貧乏神よ? ひとつの不幸からまた新たな不幸が生まれて、っていうありがたくない不幸のばよえ〜んはいくらでも起こり得るわ。
汚す……天人様を汚す……泥をぶちまけるとかじゃダメそうね。私がそんなことしてもちょっと怒ってみせるくらいで、大したダメージは受けなさそう。
「ねえ」
ていうか天人様って私に怒ったことあったっけ? 私の不幸に巻き込まれても笑って許してくれるし、なんならそれを面白がってるフシがあるし……。
「ねえ、お嬢ちゃん」
お優しいというか、ニブいっていうか。前に神社でお花見やったとき、周りの連中が『うわっまたこいつらかよ』って反応だったの、未だに気づいてないでしょ? でもそういう細かいことを気にしないおおらかな性格がまた魅力的なのよねーなんて……完全に惚れた弱みじゃない、えへへ……。
「お嬢ちゃんってば」
ああもう、誰ようっとーしー! 女の子がひとりで路地裏にこもって考え事してるのを邪魔しないでよ!
怒りに任せて振り向けば、見るからに脂ギッシュなオッサンがひとり。口に出すのも嫌になるくらいやらしー目。男の人って、目線に欲望が滲み出る自覚がないのかしら?
「お嬢ちゃん、キミさ……」
そこから続いたのは……あー、久しぶりだけど聞き飽きたセリフ。たかが一晩、されど一晩。まっとうな人間はまず女の子をお金で買おうとしないのよ。
いかにも貧相な見た目の女の子にわざわざ声をかけてくる人間なんて、大抵こんなヤツなんだ。貧乏神が引き寄せる人間はいつだってマトモじゃないんだ。私って本当にツイてない。
ていうか、天人様とちょっと離れた隙にいきなりこれって。つくづく天人様の幸運がありがたい限りよ。もし天人様と本当にお別れしちゃったら、またこんな連中をさばく日常が戻ってくるのね……。
私はこのオッサンの提案をすぐに断ってもいい、はず。いまは天人様のおかげでお金に困ってないし。
ただ、その……直前まで、どうやって天人様を不幸にしてやろうかって、あれこれ考えてたのもあって。長年の癖っていうか。あとは、えーっと。私、自分ひとりで判断するの、ムリ、っていうか……。
いいや。
私、はじめっから自分の頭で考えて行動するの苦手だし。いましか見えてない行き当たりばったりが私の生き方だし。だからこのとき私が何を考えてたかなんて、あとで思い出せばいいの。
■
ねえねえ天人様、私ずっと天人様のこと考えてたの。だって頭の中を天人様でいっぱいにしてれば嫌なこと何も考えなくて済むもの!
美しい天人様はどんな花にたとえても、花の方がみすぼらしく見えるけど、それでもあえてたとえるんだったら天人様は百合ね。それも白いのやピンクのじゃなくて、黄色い百合。
黄色い百合の花言葉はね、陽気と〝偽り〟それから〝不安〟。
黄色い花の花言葉ってネガティブなものばっかりなのよ。
嫉妬とか、別れとか、実らぬ恋とか。
うふふ。
私が初めて出会ったときの天人様は天界を追放されて不機嫌で、ただ明るいだけの人じゃなかったわ。だから惹かれちゃったのかしら?
天人様は、ハルジオンが日本在来の花じゃないって、知ってるよね。摘んだら貧乏になるって嫌われて〝貧乏草〟なんて呼ばれる可哀想な花なの。
よそ者でのけ者のイエローリリーとハルジオン。
私たち、とってもお似合いよ!
ずうっといっしょだといいのにね!
■
〈その二 天使××区〉
人間の男と寝るのって気持ちよくないよね。
自分から〝ウリ〟を進んでやっちゃう子って、本当は男もセックスも大嫌いな子だったりして、心を壊しちゃう子が多いってのもわかる気がするよ。私が見てきたそういう女の子って、たいてい貧乏でお金のために仕方なく、とか、なんらかのトラウマを背負っててリストカットみたく自傷行為を繰り返して、そのくせ『私は望んでやってます、無理矢理じゃないです、可哀想な子じゃありません』なんて痛々しいまでに明るく強がってたり。誰かにぶっ壊されたのよ。なんか私が関わる前から不幸オーラビンビンな子が多いんだもん。
私はそういう、元から不幸な子には何もしない。ていうか、する必要がない。私の能力って自力でコントロール以下省略。
だいたいね、この……売春? 援交? 最近は〝パパ活〟っていうんだっけ? 買い手がいなきゃ売り手だって成り立たない違法市場よ。そのくせして、買い手は〝女を買う〟のに後ろめたさがあるのか、『これは買春じゃありませんよ、あくまで女の子を援助するための交際ですよ』って援交とか呼び出して、援交も実態が買春と変わんないってバレりゃ『これは援交じゃありませんよ、あくまで女の子がお小遣い稼ぎでやってるパパとのデートみたいなもんですよ』ってパパ活とか呼び出す。人間っていつもこんなのの繰り返し。バッカみたい。
私? 私はほら、しぶとさが売りのハルジオンだし。貧乏神だし。ボロ雑巾みたいに扱われても意外と丈夫だし。後でめちゃくちゃ吐きたくなるし、死にたくなるくらい気持ち悪いけど、お金のためなら別にいいやって思ってる。……思ってる。
だけどまあ、私の元来の凶運のためか、ここでも富を溜め込めない貧乏神根性が発揮されるからか。私が寝た相手から必ずといっていいほどビョーキを感染されるせいで、お代に数万を受け取ったところで儲けなんかビタイチ出ず、治療代でぜんぶパーになるのだった。まったくもー、人間はいつになったらセーフティセックスを覚えるのよ!
にしてもあのクソキモオヤジ、慣れてやがったな。今回が女買うの初めてじゃないな。遊びまくってんな。しかも奥さんいるみたいなこと匂わせてたな? 完全にヤッてんな? 私に感染したモンはどこの誰からもらってきたんだよ!
だけど残念だったな。私はちょっとヤミが入ってるよーなそこらの女の子とは違うのよ。私もだいぶツイてないけどお前も運がなかったんだよ。貧乏神と関わって無事でいられると思うなよ。
そのまま奥さんにぜんぶバレて多額の慰謝料ふんだくられちまえ!!
……そうとでも考えてなきゃやってらんないのよ、ホント。
なんかずっと嫌な汗が止まらない。私は天人じゃないのに五衰が始まったみたい。
とりあえず川に浸かって脂ギッシュなオッサンの気持ち悪さを洗い流すことにした。たぶんこれは禊よ、禊。
……さて。
私は何もビョーキもらうためにオッサンと寝たんじゃないわ。大抵の神様は穢れが嫌いなんだけど、天人様もまた穢れを嫌う。あのオッサンのどうでもいいピロートーク(なんか本来なら若い女の子がこんなことしちゃいかんとか言ってた。風俗説教おじさんかよ)を聞き流しながら、私はずっと天人様のことを考えてた。
天人様だって、こんな目に合ったら、さすがにいつもみたく笑ってはいられないよね? 普段から地上の生き物を下賤だって見下してる天人様だもん、地上の下賤な男の慰み者にされたら屈辱だよね。天人様は神聖……神聖なものは穢したくなるのが人情だよね? 手の届かない高いところに置いて崇めるより、自分と同じとこまで引きずり下ろす方が気分がいいでしょ?
かといって、人間の男を複数人けしかけて、天人様をその……マワすってのは、現実的じゃないし。私の言うことを聞く人間はいないし、天人様だってただの人間なんかに大人しくヤられないでしょ。
どーせ私は誰かを頼ったりできないんだし。動けるのも信じられるのも自分しかいない。だったら私がやるっきゃないっていうか、天人様を不幸にするという大事なことを、人間なんかに任せたくない。わざわざ人間の男に頼み事なんかしなくたって、もっと手っ取り早い方法があったわ。
これ、私がこのまま天人様と寝て、直接感染しちゃえばいいんじゃね?
◇
とはいえ、よ?
一応、天人様のお屋敷には何度かお邪魔したことがあるんだけど(私の家は存在しない。ないったらない)、私たちってまだ両思いになったばっかで、お付き合いも短いし、お泊まりするにはちょっと早いよーな……。もっとしかるべき段階を踏んでからの方がいいっていうか……。
いやいや悪は急げよ。だけどさー、そこらのどーでもいいオッサンをテキトーに引っかけんのと、好きな女の子をお誘いするのはぜんっぜん違うじゃん!? 天人様に自分からそういうこと言うのって、なんか、なんか照れるよー!
だいたい私って男はともかく女の子と寝たことなんてないし。女同士で何をしたらいいんだか正直わかんない。私も天人様もツッコまれる側であってツッコむもんがなくない?
ていうか、天人様ってそっちの経験はどうなの? 大事に育てられたお嬢様って、そっち方面は疎いか、それともご両親がキッチリ性教育を施してるパターンか。たぶん何も知らなさそうだなー。天界の人たちって、天人様やごく一部を除いて、みんな浮世離れした人ばっかだもん。買春も援交もパパ活も何も知らない、性的なことから徹底的に遠ざけられた箱入りの可能性もあるし……おしべとめしべの解説からなんて、流石に勘弁してよね!
えー、じゃあ私がリードしなきゃなの? できれば私は自分からどうこうするよりリードしてほしい。天人様ならなおさら、何をされたって……いいかも? なんてね、キャー!!
……とかなんとかゴネてる場合じゃないんだよ。でも実際、どうやって誘う? そーゆー空気に持ってく? やっぱムードが大事? それとも安心感? 天人様のご両親とか召使いの天女とかがいたらどうしよう。どうやってふたりきりにしてもらおう?
ああ、でも、でも! 何よりも、天人様が私に対してそういう気持ちになってくれなかったらどうしよう! ぶっちゃけ私は出るとこ出てるどころかどっちもえぐれてるし、貧相だし、髪はパサパサだし、肌は血色悪いし、色気なんて出せそうにない。天人様に『お前とじゃそういうのムリ』って言われたら、どうしよう?
「紫苑、どうかしたか?」
「い、いえ、なんでも」
考えすぎてもうなーんも思いつかなくなっちゃった私は、勢いで『天人様のお屋敷に行きたいです』って正直に言っちゃった。天人様はなーんにも怪しまずに快く連れてきてくれた。天人様のお部屋はすっきり片づいてて(召使いにぜんぶやらせるんですって。いいなあお金持ちは……)、召使いがたまーにお茶やお菓子を運んでくる以外は静かだ。
高級そうなお茶をちびちび飲みながら天人様を見ると……天人様はほんと、いつもと何も変わらない。あの、天人様。せっかく恋人を家に上げたのに、なんかないんです? 緊張したりとか浮かれたりとか。ひとりでモジモジしてる私がバカみたいじゃないですか。でもそういう堂々としたとこが素敵なのよね……。
うん。
もう、段階とかムードとか安心感とかどうでもいいや。性的同意? 貞操観念? デートDV? ご両親の心象? 知ったことか! たとえ召使いに『家政婦は見た』されたって気にしないわ!
だってさ、よく考えてみたら、私は既成事実さえ成し遂げりゃ目的達成なんだから。多少強引でもぐいーっと押し倒して一発ヤッちゃえばこっちのもんよ!
どーせ私は処女なんざとっくの昔にゴミ同然に捨てちゃってるし。天人様の処女を私がもらっちゃうのは申し訳ない気もするけど、どーでもいい人間の男に散らせるよりはマシでしょ?
「なあ紫苑、やっぱり今日のお前はちょっとおかしい――」
強行突破!
勢いよく抱きついて、そのまま押し倒して、天人様は見事あおむけに畳の上。布団くらい敷いてあげたいけどいまはムリ。
「あいたっ! こら、紫苑!」
「天人様……」
天人様は戸惑ってるけど、すぐそばにある緋想の剣を取らないあたり、本当に私が何をするつもりかわかってないのね。貞操の危機に気づかないのね。それどころか心配そうに私を覗き込んじゃって。緋色の瞳に映る私は、いかにも切羽詰まってて、私の瞳は濡れて……嫌だなあ、あんなに気持ち悪くて仕方なかったあの脂ギッシュオヤジみたいにギラついてる。
「紫苑? 本当にどうしちゃったんだ。私と別れたあとで、何か困ったことでも起きたのか?」
起きたといえば起きました。でも天人様は何も知らなくていいの。
「紫苑、なんとか言ってよ、紫苑」
「天人様。また新しい遊び、思いついたんです。私と楽しいことしません?」
私のいままでの〝遊び〟はちっとも楽しくなかったけど。楽しいわけあるか! まるで好き勝手扱っていい〝モノ〟みたく無遠慮に身体に触ってくる欲深い男たち、フィクションにすぎないポルノを真に受けてるバカども、売買春が嫌なら売られた女を買わないって選択を取れるくせに、一方的にこっちを〝売女〟だの〝淫乱〟だの見下してくる傲慢なエゴイスト! どれだけの女の子が夜明けに人知れず涙を飲んでいるか知らないのね?
でも、天人様だったら、いいよ。貞操観念ぶっ壊れてる私だけど、女の子の一番大切なものなんて守ってこなかったけど、天人様になら、私のぜんぶ丸ごとあげるよ。
「楽しいこと?」
天人様が不思議そうな顔で私を見上げる。
服を……服を脱がなきゃ。いや、私はみすぼらしいから脱がない方がいいのかな? でも天人様の胸元のリボンに手をかけようとすると、手が震えてうまくいかない。
ダメ、緊張しちゃダメ、ビビっちゃダメ、天人様に考える時間を与えちゃダメ、胃の中がひっくり返るような嫌なことを思い出すのもダメ。
しっかりしろ、依神紫苑! 私は何がなんでも天人様を不幸にしてやるって決めたじゃない。いままでだって何人もの人間を不幸にしてきたじゃない。こんなところでためらってどうするのよ!
やっとリボンがほどけたけど、今度はボタンが外せない。ええいまどろっこしい!
もうこうなりゃヤケだ。貧相なストリップなんか見せたくなかったけど、私が脱ぐ。天人様が動転してる間にすべて終わらせてやる!
そう息巻いて、自分の服に手をかけたところで……私は動けなくなった。
身体が痛い。具体的にどこがって言ったら、さすがの私でも口にしにくい場所が。あまりの痛みに悶絶して、脂汗が滲んで、服を脱ぐどころじゃない。
ああ、そうだった。いまの私の身体って……パリダちゃん、クララちゃん、その他あれこれ。どれかわかんないけど、そりゃロクに治療せずにほっといたのは今日のためだけど、何もこんなときにぶり返さなくたっていいじゃないの! ツイてないにもほどがあるわ!
「ちょ、ちょっと、紫苑? お前、本当に具合が悪かったのか!?」
大丈夫ですって言いたかったけどムリだった。この痛みはいくら頑丈なハルジオンでもムリ。脂汗ダラダラで天人様の上に覆い被さったまま動けなくなっちゃった。
「紫苑! ……おい、誰か、早く丹と薬湯を持て!」
天人様が部屋の外に大声で呼びかけると、召使いたちがすっ飛んできて、手際よく言われたものを薬箱と一緒に運んでくる。幸いにも私の目論見は召使いにも気づかれてないみたいだけど、あーあ、これじゃ今回の計画はおじゃんだ……。
天人様が心配して世話を焼いてくれる間、私はもう痛みを必死に堪えることと、『何か心当たりは?』という天人様の無邪気な質問に黙秘を続けるしかできなかった。な、情けない……。こんなに情けない貧乏神なんて、世界中探したって私しかいないわよ。(余談だけど、私がウリの対価に受け取ったお金はこの騒ぎの間にどっか行っちゃった。お金は貯めるのではなく使うためにあるんだって意見はすごくわかる。でも私はいままで一円だって貯められた試しがないわ!)
〈その三 天使がよこしてくれたもの〉
しばらく天人様のお屋敷でお世話になった私はオッサンからもらったビョーキもすっかり回復したけど、残念ながら今更天人様の親切っぷりや純真っぷりに心を打たれて改心はしないのだった。これしきで諦めたら貧乏神じゃないわ。
具合が悪くなった原因は徹底的に誤魔化すつもりだったんだけど、あの天人様がほっといてくれるはずもなくて、結局天人様を不幸にするって目的は伏せながらゲロっちゃった。
天人様、ショックを受けてるっぽい。そりゃあね、天人様みたいなヒソーなんちゃらのお嬢様には刺激が強すぎるでしょうよ。着るものにも、食う寝るところ住むところにも困って身体を売る惨めな境遇なんて夢にも考えないんでしょうよ。
「……紫苑」
天人様はしばらく無言だったけど、言いにくそうな感じで切り出してきた。
「こういうのって、今回が初めて?」
「違います。処女の方がよかったですか? それはもうどうしようもないんで、すみません。私だって天人様みたいな人に会えるって知ってたら、大事に取っといたんですけどね」
これはまんざら嘘でもない。『ハジメテは本当に好きな人と』なんて処女の妄想くさいけど、天人様みたいな最高の人がハジメテなら、一夜の過ちでも、それっきり捨てられても、その思い出を胸に生きていけそうだもん。
天人様、また難しい顔で黙っちゃった。……いま気づいたんだけど、もしかしてこれ、私が浮気したってことになる? 天人様と両思いのくせして男と寝るってのは。
やばいまったく考えてなかった。なんならあのオッサンと寝るときだって私には天人様がいるのにとか天人様に申し訳ないとか一ミリも思わなかった。仕方ないじゃん、いままで女苑の「最近別れた男が最悪だった」「二股かけて効率よく巻き上げようとしたらバレた」とかいうクソどうでもいい愚痴を聞き流すばっかで、マトモなお付き合いの経験がないのよ!
天人様がめっちゃデカいため息をつく。うん、まあ、浮気を叱られるくらいは受け入れよう。私の本命の計画がバレなきゃいいんだから。
「紫苑」
「はい」
「誰に脅されたんだ」
「……はい?」
うん? なんか思ってた流れと違うな?
天人様は静かーにめちゃくちゃ怒ってるんだけど、その怒りが私に向いてない。
「だから! ……あー、いや、思い出したくないなら無理にとは言わない。私が無神経だった。ごめん」
え、なんで私が謝られてんの?
……ええっと、天人様の歯切れの悪い話し方から察するに。
天人様、私がレイプされたと思ってる?
天人様は私を気遣うような目で見てくる。
「できれば相手の男を八つ裂きにしてやりたいけど、いまのお前を召使いなんかに任せて出かけて行くのは心配だからな」
あ、そのオッサンはもうはめフラ立ってるんで大丈夫です。貧乏神に関わった人間の末路なんて考えるまでもありません。天人様が直々にやってくれるならありがたいけど。
「いいか、紫苑」
肩に置かれた天人様の手が優しい。それでいて口ぶりはどこまでも真剣なんだ。
「終わったことにどうこう言う気はないけど、ヤケは起こすんじゃないよ。私だって、お前が傷ついているならなんとかしてやりたいけど、焦って自分の傷口を広げる真似は駄目だ。私の言ってることわかる?」
ええ。つまり、こないだの私の行動は、天人様がいながら男にレイプされてショックのあまり、天人様に慰めてもらうことでどうにか記憶を上書きして傷を忘れようとした結果の暴走、と受け取られてるわけね? このままほっといたら、最悪の場合、自ら命を……とまで心配してくれちゃってるのね?
天人様って……天人様って、難しい本は読めるし、いろんなことなんでも知ってるし、ウィットに富んでユーモアもあって、私より確実に頭がいいはずなのに、ときどき「バカじゃね?」って言いたくなるのよね。私にとっては都合がいいけど。
「いいか、私のことは気にするな。正直、男のことは気に食わないけど……」
悔しそうな天人様の指が肩に食い込む。緋色の情熱がほとばしる瞳。
「私と先へ進むのは焦らなくていい。私は高貴な天人だもの。病人を無理やり組み敷くほど落ちぶれていないのよ」
……天人様。
なんてお優しくて……バカな人。
そんなんだから、貧乏神につけ込まれるのよ。私のあからさまなヨイショに持ち上げられちゃうのよ。
優しさを素直に受け取れない。憐れまれているように感じるから。
あー、ダメだ。なんかムカついてきた。ちょっとは気づけよ! 私にいいように転がされてばっかいないでさ!
もう全部ぶっちゃけてやろうかと思った、そのとき、
ガツン! と、天人様が緋想の剣を机の上に突き立てた。勢いで机は真っ二つ。召使いが慌てて入ってきたけど、
「なんでもないわ。手が滑ったの。……何見てんの。下がれよ、下がれったら!」
こっちまでビビっちゃうような威圧感と怒鳴り声で召使いを脅して、みんな「総領様がなんとおっしゃるか」とかこぼしながら逃げていった。
え、な、なにこれ。天変地異の前触れ? このまま要石まで降らせるんじゃないでしょうね?
「なあ、紫苑。お前は悪くないはずだし、私は天人らしく寛大な心で許してやろうと思っていたのに、ムシャクシャしてたまらないの」
「は、はい」
怒ってらっしゃる、のか。天人様は天気屋だから機嫌なんてしょっちゅう変わるけど、私に対してここまで怒ったことなんてなかったのに。
あれ? でも、この緋色の瞳は……燃えるように赤い赤い、スカーレットの目。いつもは夕日みたいに綺麗なのに、なんか地獄で燃える炎みたい。
「お前は私のものなのに! なんで男に色目使ったりするんだよ!」
吠えられて、圧倒された私は何も言えなかった。
最初、天人様はいつものワガママを発揮してるだけかなと思ったけど、なんか違うっぽいな。
私は天人様の無尽蔵の幸福エネルギーが欲しくて、天人様は退屈な日常に刺激をくれる私が便利で、私たちの両思いってつまりはそういうウィンウィンな関係だと思ってたのに、それじゃまるで。
嫉妬、してるみたいじゃん。
だって、そんな、困るよ。私ってありとあらゆる負の感情をぶつけられがちだけど、間違っても妬まれるよーな身の上じゃないの。貧乏神なんてすかんぴんでなんにも持ってなくて、失うものもなんにもないのがデフォだからね。私に向けられるのは決まって哀れみか自惚れか、どっちかでしかないのに、天人様はどっちでもないんだもん。
なんでかなあ。嫉妬とか独占欲とか、フツーなら絶対ウザいよ。めんどくさいだけだよ。私はあんたのモノじゃないってきっぱり言ってやればいいんだよ。
なのに私、天人様にそう思われるのは別にいいかなって思っちゃってるんだ。天人様、『紫苑は悪くない』って言うけど、本当は私がいい子じゃないって気づいてるんじゃないの?
そのあと天人様はまた機嫌が変わって、『八つ当たりをした』って謝ったあと、ずっと気まずそうにしてたけど、それを見てたら私のムカつきはどっか行っちゃった。だって天人様は気まずそうな顔してたって可愛いんだもん! やっぱり天人様は私の想像のスケールを軽く飛び越えてくる人だわ。
なんかいいなー。好きな人に妬かれるヤキモチって、なんかいいなー!!
■
このときの私って、天人様のピュアさに惹かれて不安とか危機感とかは忘れてたのね。
思えば、天人様ってとってもピュアなのよ。純粋なのよ。天津飯、じゃなくって、天真爛漫なのよ。
いつぞやだったか、あの夢の支配人とやらが天人様の精神を赤子レベルとか貶したことがあったけど、天人様は、
「誰が赤ん坊だってえ?」
って機嫌が悪くなったけど、そのすぐあとで、したり顔で、
「気を専らにし柔を致して、能く嬰児たらんか。見るやつが見れば私の真価はちゃんとわかるってことね。ふふん、あの獏、できる奴だわ」
とか言ってたのよね(この文章はちゃんと天人様に聞いてから書いたから、たぶん漢字は間違ってないと思うわ)。天人様はしょっちゅう難しい言葉を使う。私には何を言ってるのか、いまでも意味がわかんない。
教養があるところといい、育ちがいいところといい、つくづく私や女苑とは真逆の人だわ。
だからこそ、私は天人様がどうしようもなく好きになってしまったのね。
だからこそ、私はときどき天人様にムカついて仕方なくなるのね。
■
いらいらして落ち着かなくなり、以前の気持ちがもどってきた。おなじ姉妹なのに、どうして一人はほしいものがすべて手に入り、もう一人はなんにも手に入らないのだろうという思いが、まえほど胸をえぐるようなつらさではないが、それでも悲しみをまじえてしつこくつきまとってはなれなかった。そんなわけはないし、ジョーにもそれはわかっていたから、忘れてしまおうとしたが、人間だれもが持っている愛し愛されたいという思いが強くなるいっぽうだった。エイミーの幸せそうな手紙を読んだせいで、「全身全霊をうちこんで愛し、神さまが二人を結びつけておいてくださるかぎりすがりついてはなれない」人がほしいと、飢えたように願う気持ちがよびさまされたのだ。
L.オルコット『続若草物語』より
〈その四 天使な子って生意気〉
そんなこんなで、ビョーキとも晴れてオサラバしたし、ようやくあのオッサンとの気持ち悪い記憶も薄れてきたし、天人様はずっと可愛いし、最近の私はけっこういい感じ。天人様風に言うんなら有頂天。スキップして歩き回りたくなる感じね!
あれから天人様とは『もう売買春なんかしない』って約束した。私だってやらなくていいならやりたくないし、大歓迎。『ひとり歩きは物騒だから』って、私と天人様で別行動するときは多すぎるくらいのお金を渡してくれるようになったし(大金を持ち歩く方が危険って考え方はないのね。私が失くすかもしれないってことすら『構わない』って言ってくれるの、マジ寛大)、服はひとつも継ぎ目やよれがない新品だし、これでまた変な男が声かけてきても堂々と追っ払えるわよ。あー、お金があるってなんてすばらしいの!
でーもー、私は最初の目的……天人様をこの手で不幸にしてやるっての忘れたワケじゃないわ。だけど最近は私も珍しく浮かれっぱなしなせいか、ときどきどうでもよくなっちゃうのよね。
天人様はいつか私から……その不吉な予感はずっと続くけど、そんなネガティブにならなくてもいいでしょ? って気もするの。先のことが何もわからなくて不安なんていまに始まったことじゃないし、元から私はいまさえよければそれでいいって考え方だし。過去も未来も知ったこっちゃない。
それに、それによ?
あの天人様が私にヤキモチ妬いて、私が男とか他の人と仲良くするのを嫌がるのよ?
どうでもいい相手に嫉妬なんてしないでしょ?
だったら私の幸せな恋はちょっとは長持ちするんじゃないかなって、期待したってムリはないでしょ!
ああ、天人様。
天人様の経験値も考えずに大人の階段をダッシュで登ろうとしたことは反省するし、もう他の男どころか人間も妖怪も、老若男女問わず天人様以外なんて相手にしないし、私はずっと天人様が好きだから、少しずつステップアップしていこうね。
私、デートとかしてみたいな。いままでだって天人様とは散々出かけたし、気前がいいから奢ってもらったことだって数えきれないくらいあるけど、改めて〝恋人〟としてお出かけしたいな。
誘ってくれないかな。私から誘ってもいいけど、やっぱリードしてもらいたいし。『今日は何をする?』っていかにも『さあ、私を楽しませてくれ』って姿勢のくせして私のお願いをなんでも聞いてくれる天人様がいいの。
というか、今日は天人様はどこに行ったんだろう? 『ちょっと用事があるけどすぐ戻る』とか言ってたけど。地上のどこかにはいるはずなんだけど、どこだろう? 天人様と私で好き放題やりすぎたせいで、私たちはどこへ行っても鼻つまみ者なのに。
天人様の地上の知り合いって? スクナヒコナの末裔だとかいうちっこい小人……は、小さすぎて探し方がわからない。霊夢……私が神社でお世話になったのもあるし、天人様もあの神社にはなんか興味あるみたいだから、一緒にいる可能性は高い。山の仙人……天人様、なんか知らないけどあいつをよく気にしてるのよね。なんでだろ? 船渡しの死神? 天敵に自分から会いに行くワケないかー。八雲紫……ないな。天人様あいつ嫌ってるし。
ううっ、こうやって思い出してみると天人様、地上なんか下賤で下等でくだらないとか貶してるくせに、めちゃくちゃ知り合いいっぱいいるじゃない! 私の知らないところで私があんまり仲良くない人と仲良くしてるの見ちゃったら、モヤモヤするだろうなー。
仕方ない。地上で新しい〝最凶最悪の二人組〟として嫌われまくったせいで、天人様もひとりでいることを祈ろう。あの口うるさいリュウグウノツカイが来てでもいなけりゃ大丈夫よ。私もいまぼっちだし。女苑と別行動するようになってからは本当に天人様としか一緒にいないもんなー。たまに変なオッサンが声かけてくるのは……忘れよう、もうさっさと忘れよう。
「あっ!」
とかなんとか思ってたら、やっと天人様を見つけた! あの桃がついた帽子、空模様を映したスカート、風にたなびく長い髪、間違いないわ!
「天人様……」
私は、すぐにでも天人様に駆け寄りたかったんだけど。
天人様のすぐ隣にいるヤツの姿を見たとたん、石になったみたいに身体が動かなくなっちゃった。
――女苑。
見間違うはずもない、あのバカみたいに派手派手しい髪型とファッションとアクセサリー! あいつが天人様の隣に立って、楽しそうに笑ってる。何を言ってるかまでは聞こえないけど、天人様も、笑って、る。
私のいないところで、ふたりで、笑ってる。
……ヤバい。
なんか、ヤバい。
胸の中がすっごい冷たい。バブルが弾けた後の氷河期みたいに冷え込んでる。
『姉さんの選択はいつも失敗じゃないの』
悪魔のセリフが呪いみたく頭ん中に響いてくる。違う、今回だけは、ぜったいに!
――天人様、どうしてよりにもよってそいつと……女苑と仲良く笑ってるの。
なんで?
あんた、まだ寺にいたんじゃなかったの。なんでこんなとこにいるの。なんで私の天人様と喋ってるの。
「あ、紫苑! こんなとこにいたのか!」
あんたは他にいくらでも好きなだけ取り巻きを作れるじゃん。
私には、天人様だけなのに。
天人様しかいないのに。
ウザいよ。取らないでよ。離れてよ。触らないでよ。
「え、ちょっと、姉さん? なんかめっちゃ髪逆立ってない? え、何、何? そのヤバそうなオーラしまってよ、ねえ」
いっつもそうだ、あいつは私のものを横取りしていく! なんでもかんでも独り占めしようとする!
姉妹の片っぽだけが得をしてもう片っぽは損をするなんて、絶対に許さない。
あんたこそが私の不幸の最大の原因よ!
女苑なんか……。
妹なんか……。
「妹なんか、大嫌っいだーっ!!」
■
そのあとはちょっと記憶が飛んじゃってあんま覚えてないんだけど、めっちゃ頭にきて怒ってたのは確かだわ。だってね、天人様、貴方が女苑以外の他の誰かといても私はあんまり(たぶん)怒らなかったと思う……けど、よりによって女苑なんだもん。なんで? ってなるじゃん。
後から考えると、ここで天人様に『なんでよそ見するのよ、私にはあんなに浮気するなって言ったくせに』ってブチ切れてもよかったはずなのに、真っ先に女苑に矛先が向くあたり、私にもカイン・コンプレックスってやつがあったのかしら? あ、カインとアベルの話も天人様から教えてもらったの。天人様は本当に博識ねー。
兄のカインと弟のアベルがヤハウェにそれぞれ贈り物をして、どうしたわけだかヤハウェのアホウはアベルの贈り物だけを受け取ってカインの贈り物を拒否ったから、ブチ切れたカインがアベルを殺しちゃったってワケ。それこそが人類初の兄弟殺しでしたよと。『きょうだいで殺し合いなんて、どこの国でも珍しくないけどね。頼朝と義経とか』って天人様は言ってたっけ。
そっから親の愛情を奪い合うきょうだいのコンプレックスをカイン・コンプレックスと呼ぶそうな。しかも厄介なことに、このコンプレックス、親の愛の取り合いだけに発動するとも限らないんだってさ。
まあ、仮に私がそうだったとしても無理はないでしょ。私ったら、妹という生き物の最大の悪癖である『欲しがり癖』をころっと忘れてたのよ。天人様と女苑を近づけさせたのはミスってた。姉のものを横取りするなんて万死に値するわ。
思い返せば女苑との間にはロクな思い出がない。醜い喧嘩ばっかしてた気がする。貧乏神と疫病神の双子の姉妹なんて最悪すぎるでしょ。
だいたいねー。考えてもみてよ。私たちって姉妹、しかもよりによって運悪く双子なもんだから、すぐ近くに『もしかして私だってこんな人生を歩いてたんじゃね?』っていうモデルケースがあるようなもんなのよ。嫌でも目につくのよ。めっちゃストレスよ。
ズルい。女苑ばっかお金集めて、周りに囲まれて、いい思いして、ちょっとしたずる賢さやしたたかさも『妹だから』で大目に見てもらえるなんて、不公平よ、不平等よ、ズルい!! そうよ、ズルいって感情の前では、姉のプライドなんて役立たずなの。子供っぽいとか大人気ないとか言われたって構わないの(そのくせ『さすがはお姉さんだね』って褒め言葉は欲しいとか思っちゃうんだ。めんどくさい姉心)。
家族なんだから。仲良きことは美しきかな。そういう耳触りのいい(あれ? これって誤用なんだっけ? でも正しい言葉なんてわかんないからこのままでいーや)言葉で、世間の皆様方はいともたやすく呪いを押しつけてくるのね。お姉さんなんだから我慢しなさい? 姉妹なんだから仲良くしなさい? うっさいわバカ! 知るかボケ!
だいたいねー! 貧乏神と疫病神なんて、あきらかにフツーの姉妹じゃないのに『なんだかんだいって仲良いんでしょ? 双子の姉妹だし』って、あんたらの思うフツーを押し付けないで!!
きょうだいは他人のはじまりなんてよく言ったもんだわ。私たちは生まれたときからたまたま血が繋がってるだけの他人だったのよ。だって、自分以外のヤツなんてどーせみんな他人じゃん? 他人に振り回される人生なんてバカらしくない?
なのに、どうしたって私は自分と妹を比べちゃうんだ。
あいつはいつでもどこでもチヤホヤされて、羽振りがよくて、自惚れている。
私はいつでもどこでも嫌われて、遠ざけられて、僻みっぽくなっている。
あーヤダヤダ! 姉妹なんて不平等の大元だわ! 貧乏くじを引かされるのは決まって私なんだ! 片方だけいっつもおいしい思いをして、片方だけいっつも苦い思いを味わわされる! 不平等だわ! 〝妹〟という存在そのものが、姉にとっての疫病神なのよ!
ふんっ。
あんなヤツ、勝手に坊さんでもなんにでも惚れ込んで、勝手におめでたく救われた気分になってりゃいいのよ。
え? 妹を取られたみたいな嫉妬心はないのかって?
安心なさい。この依神紫苑、あいつが誰かと一緒にいてヤキモチ妬いたことは人生で一度もないし、これから先も一生ないし、あんな妹欲しけりゃどうぞどうぞとくれてやるわ。どこぞの物好きが女苑を見初めてお引き取りくださる日が待ち遠しくてならないわ。家族愛だの姉妹愛だのという幻想からはさっさと醒めた方が賢明よ。この世で信じられるのはお金だけ。
あっ、でも、あいつが結婚するとなると、重要な問題が二つあるな。
ひとつは、妹に先を越された売れ残りの惨めな姉として見られること。私に姉のプライドなんてあってないようなもんだけど、あいつにデカい顔されるのだけはムカつく。あと私にご祝儀渡すお金があるわけないんだから、むしろ妹からふんだくりたいくらいよ。
そしてもうひとつ。もしかしたらこっちの方が深刻かもね。
もしあいつが見るからに脂ギッシュな成金のオッサンを捕まえてきたら(あいつが三高のイケメンなんか捕まえられるわけないでしょ)、私はそいつを〝義弟〟と呼ばなくちゃならないの? そしてこの私は、たかが妹と結婚しただけの赤の他人に〝お義姉さん〟と呼ばれなきゃならないの?
……考えるだけでおぞましくて身の毛がよだつわ。あー、姉妹って、ホントにめんどくさっ!!
……天人様はいいなあ。天人様、きょうだいはいないんだって。一人っ子なんだって。『姉妹がいるってどういう感覚なの?』って聞かれたこともあるけど、天人様はそのまま知らなくていいわ。世の中には知らない方が幸せなこともあるのは事実よ。一人っ子の天人様はご両親の愛情と財産を独り占めできるなんて、羨ましくて仕方ない。たぶん天人様のご両親なら人間みたく老後の介護とか財産相続争いとかの心配もなさそうだし。
私、ないものねだりしてるのかな? それとも私と天人様が正反対だから、惹かれちゃうのかな?
天人様。ご両親に愛情をたっぷりと注がれて、ライバルになるかもしれないウザいきょうだいはいなくて、惜しみなく教育やらお金やらを与えられた、天衣無縫の恵まれたお嬢様。
ねえ、天人様。もしも、貴方が私に向けてくれる愛情が、気まぐれじゃないのなら……。
私を見て。私だけを見て。
最凶最悪の双子の姉でもない、依神女苑という疫病神の姉でもない、貧乏神でもない、数多のレッテルを請求書と一緒に引っぺがした、生身の〝私〟を見てよ!!
■
「おーい、紫苑、生きてるか?」
私と女苑の派手な姉妹喧嘩が終わってから、天人様がひょっこり顔を出して言う。
私たちが天人様そっちのけで喧嘩をおっ始めたもんだから、声をかける隙もなかったのね。私といえば、まーうっかり全力出しそうになったもんだから、満身創痍で地面に寝転がってる。危うく天人様より先に女苑を不幸のズンドコに落とすところだったわ。せっかく天人様に新しい服もらったのに、もうボロボロにしちゃったなあ。
「生きてますよ。貧乏神はこれしきじゃ死にません」
いっそ簡単に死ねるなら楽だったかもしれないけど、どういうワケだか私、死んだ方がマシってくらい酷い目にあっても、なんやかんやで生き延びちゃうのよね。私自身が簡単にくたばってたまるかって思ってるとこがあるし……うーん、ハルジオンの雑草根性、恐るべし。
天人様が手を差し伸べてくれるから、私はダルい身体を無理やり引き起こして……って、天人様、なんか楽しそうね? 私が妹と喧嘩してボロボロになってるのがそんなに嬉しいの?
「いや? 紫苑ってずいぶん私のことが好きなんだなーと」
……さすがにその反応は無神経すぎません? すべての責任は女苑に押し付けるとしても、こっちは貴方を取られやしないかと必死だったんですけど。
「天人様は所詮一人っ子だから、私みたいなのが抱えてる姉妹のビミョーな事情が理解できないんですよ」
ああ、つい言葉にトゲが出ちゃう。仕方ないじゃん、天人様ってときどき悪意なく無神経なことを言ってくるんだから。
「天人様、ずいぶん女苑と楽しそうに話してましたよね」
浮気ですよ、とは言わないでおく。女苑がぜんぶ悪いから。私って好きな人には甘くなるタイプだったんだなあ。だからちょっと天人様を睨むくらいは許してよね。
「わかってますよ。みんな、ああいう明るくて華やかなヤツの方が好きなんでしょ。いつも上機嫌で笑ってるヤツの方がいつもクマ作って俯いてるヤツより魅力的なんでしょ。私だっていつも笑える状況でいられるんだったら笑えますけどね」
「おい、紫苑」
「どうせ私はすぐ金目の物を失くすし、ネガティヴだし、陰気臭いし、根暗だし、依存体質だし、受け身だし、一緒にいるだけで不運ばっか引き寄せるし、ひとりじゃなんにもできないし。私はハルジオンだから、女苑みたく明るく華やかに振る舞えないし」
「んん? 私はいま、お前と話をしているんであって、お前の妹はどうでもいいんだけど……」
「はあ? だって天人様、さっき女苑と」
「それはお前の話を聞いてたからだよ」
えっ、どういうこと? 私の話? っていうか女苑はどうでもいいの?
「蒸し返すのもアレだけど、こないだ紫苑が、ほら……人間の男と、その」
天人様が気まずそうに頬をかく。あー、アレね。この件に関しては、特別に天人様にいくらでも責める権利をあげるわ。
「私にはどうして紫苑がああいうことするのか、全然わからなくて。思えば私たちって結構長いこと一緒にいるけど、私の知らない紫苑の方が多いに決まってるんだよなーって。だから紫苑に一番詳しそうな奴に聞いてみようと思ったんだ」
そりゃあ、私に詳しいヤツなんて身内しかいないわね。ってちょっと待って、女苑のヤツ、天人様にいらんこと吹き込んでないでしょうね? 姉妹ってのはお互いの黒歴史を握り合ってるもんよ。天人様の話次第ではお前の黒歴史も暴露してやるから覚悟しろよ。
「そしたら案の定、私の知らない紫苑の話ばっかり出てきた。興味深かったよ。まあ、半分くらい愚痴に近かったけど」
「どうせ金のためなら貞操を捨てるビッチとか尻軽とか言ってたんでしょう」
そしたら天人様、急に難しい顔して黙っちゃった。ヒソーなんちゃらのお嬢様に貧乏神の話が面白いなんて思えない。まあ女苑が悪い盛り方してる可能性は全然あるけど。
「確かに拝金主義だとは聞いたけど。だけどそれより、紫苑は、なんていうか……」
珍しく天人様が言葉選びを迷ってる。別にいいのよ? ふしだらってなじってくれても。私の価値観なんて理解しなくていいの。どうせ天人様とは生まれとか育ちとかが違いすぎて、理解できるなんて思ってないから。
「紫苑は、自分のことをちっとも大事にしようとしないんだな」
天人様は寂しそうに言った。
そんなの……そんなの、恵まれてる人にしかできない質問だって、天人様、わかってる?
だって、当たり前でしょ? 近づいただけで不幸を招き寄せる貧乏神なんて誰も大事にしてくれないんだから。実の妹ですら便所バエでも追っ払うみたいに『近寄らないで!』とか言うんだから。誰にも大事にされたことがないと、私だって私のことをどうやって大事にしていいかなんてわかんないよ。
「私、いくら天人様でもお説教なんか聞きませんよ」
「そうじゃなくて。やたらと妹を引き合いに出して自分を貶すのもそういうことかなって。紫苑、私がいままでに一度だってお前と妹を比べたことがある?」
それは……ない。私の記憶する限りでは一度も。
そういえばそうだ。天人様は私と女苑を比べて『妹はああなのに、姉の方は……』みたいなこと言わない。そもそも比べようがないのよ、天人様は女苑とはちっとも関わってないから。それはずっと天人様と一緒にいた私がよく知ってるはずじゃない。
さっき嫉妬を爆発させたのだって、私が勝手に女苑を引き合いに出して怒ってるだけ。どうせ姉妹なんて妹の方ばっか可愛がられる運命なんだわって勝手に拗ねて。少なくとも、いまの天人様は私を見ているはずなのにね?
天人様。貴方って本当にスケールの大きい人ね。こんなどーでもいいような話の流れで、私がずいぶん長いことこだわってた姉としてのみみっちいプライドとか自意識とかを、そんなの何も問題じゃないみたいにあっさりどこかにやっちゃうんだもの。
「さ、紫苑。今日は何をする? まずはその服を着替えた方がいいか」
子供みたく笑って、天人様は私の手を引っ張っていく。
「天人様」
「何?」
「……なんでもないです」
私はうたぐり深いからさ。
本当に女苑には興味ない? 女苑より私の方が好きだって、はっきり言ってくれる?
そう聞きそうになったの。
■
あとになって思うにね、天人様。ここが運命の分かれ道ってヤツだったのよ。
もしかしたら、私、ここで本当に天人様を不幸にするのはやめようってなってたかも。たとえその場の雰囲気だったとしても、天人様が女苑より私を選んでくれたの、嬉しかったの。
でも、結局は女苑を引っ張ってきちゃったから。私の前に連れてきちゃったから。
それがすべてだったのよ。ハルジオンとヒメジョオン、どっちもよく似たありふれた雑草だけど……。
似てるんだったら、どっちかひとつしかいらなくない? ねえ、私のイエローリリー。
■
私を引っ張る天人様の手は柔らかくて、あったかくて、いつもなら幸せいっぱいなんだけど。
天人様が嘘をついてるわけじゃないのはわかってるの。フツーの人だったらもっと素直に天人様の言葉を信じるでしょうね。
だけど私ってたぶん〝依神女苑〟が怖いのよ。富という名の厄災を辺り構わず撒き散らかしまくるあの疫病神が。コンプレックスは少し落ち着いたし、姉が妹を怖がるなんてバカバカしいけど、あいつの異常な執着心をナメちゃいけないわ。その気になれば、姉のものだろうと平気で横取りするくらいには性根ひん曲がってるんだから。
だから、もしもあいつが天人様に興味を示すようなことがあったら……私は怖くてたまらない。女苑はお金儲けの才能以外はいいとこなんか何ひとつなくて性格終わりまくっててひたすらウザくて私の方が『近寄らないで!』って言いたくなるくらい目障りな妹だけど、キョーイに思うのは女苑が私にとっての最大の手強いライバルとなり得る相手だからなのね。姉妹は自分の欲しいものを奪い合うために争う運命なのよ。
私の大好きな天人様を、女苑なんかに横取りされておしまいなんて、絶対に絶対に嫌!!
ただでさえ天人様がいつか、なんて不安だったのに、そこに女苑までしゃしゃり出てきたら、嫌でも焦っちゃうよ。
天人様との幸せな時間を他人にぶち壊されるくらいだったら、やっぱり私が絶対に天人様を不幸にしてやる――そんな決意がますます強くなる。主導権は私にあるの。私がぜんぶ終わらせるの。
そして、天人様の無邪気な『紫苑のことがもっと知りたいな』なんて欲望のせいで、私はまた天人様へのイラつきがぶり返しちゃったのよ。
天人様は、私のこと、何もわかってない。私がどうして天人様と無理やり寝ようとしたのか、まだわからないでしょ? 私がただ天人様への愛だけで動いてるんだと思ってんなら大間違いだわ。
天人様。赤ん坊みたいに純粋な精神を持った、可愛らしくて、高貴で、お金持ちで、教養があって、そのくせワガママでおてんばで、退屈が大嫌いで、珍しいことや新しいことが大好きな、みんなに大事に大事に育てられてきた天性のお嬢様。
私はそんな天人様が大好き。
だけどね。
だからこそ、私はそういう天人様が大嫌い。外の人間が言う〝親ガチャ〟で大当たりを引いて、世の中の汚いことなんか何も知らないで、私がどんなに欲しがっても絶対に手に入れられないものを持ってる天人様を見てると、嫌でも〝貧富の格差〟ってヤツを思い出させられて、腹が立って仕方ないの。
私だって、貴方みたいに純粋でいられたら……どんなによかったか!
「紫苑?」
急に立ち止まった私を振り返る天人様。
もう、もう、我慢できない!
「いい加減気づけよ、このワガママお嬢様!」
私がいきなり怒鳴り出したもんだから、天人様は目を丸くしてる。ああもう後戻りできないな、でも私もう抑えられないな!
ぜんぶぶちまけてやる。私の悪意を知った天人様が傷つけばいい! そうして少しでも不幸だって思ってくれたらいい!
「天人様、私と一緒にいるようになってからなんか運の悪いことばっか起こるなとか、こっ、恋人になってからなんか違和感あるなとか、いままで一度も思わなかったんですか?」
「そんなこと言われたって」
天人様は『何を急に』みたく困惑しながら、
「だってお前は泣く子も貧する貧乏神でしょう? 一緒にいれば、不幸が降りかかってくるのは当然……」
「私は! 〝わざと〟天人様を不幸にしようとあれこれ計画してたの! なんで天人様と付き合ってんのに男と寝たかって? しかもビョーキを隠してそのまま天人様を押し倒したのかって? そんなの、天人様を穢したかったからに決まってるでしょ! なんなら人間けしかけてマワしてやろうかって考えたくらいよ!」
これにはさすがの天人様も言葉を失くしちゃったみたいだった。そのまま畳み掛けてやる。
「私はね、天人様が不幸になってくれたら幸せなの! そのためだったらなんでもしてやる覚悟なの!」
「……たとえ、そのせいで紫苑自身が傷ついてもか」
「そうよ」
天人様はずっと固まっている。ショックで頭真っ白になっちゃった? まさか知らない男の、しかも小汚い脂ギッシュなオッサンのビョーキを感染されるところだったなんてって、気持ち悪くなっちゃった? だったら願ったり叶ったりよ。
でも天人様、しばらくしたら大きなため息をついた。それは私に怒ってるとか失望してるとかじゃなくて、なんていうか……私を憐んでるみたいな目なの。
「そんなんじゃお前、いつかボロボロになってしまうよ」
「私は最初からボロボロです。失うものなんかあってないようなもんですよ」
「いや、そうじゃなくて……。わからないなあ。いつもダウナー気質で、無気力で、他人に適当に合わせて乗っかっとけ、それでおこぼれもらえたらラッキーって感じの紫苑が、そこまで能動的に行動を起こせる力があったなんて。しかも誰の力も借りずに」
「私だってやるときゃやります。前に戦ったときも……ああ、あれは夢の世界の天人様でしたね。私は不幸オーラ全開でぶつかったこともあるんですよ」
「だから不思議なんだ。たとえ負の方向であれ紫苑はそれだけ大量のエネルギーを持ってるのに、どうして自分が幸せになる方向に使わないんだ?」
天人様の何気ない言葉は、私をブチギレさせるのに充分だった。
「あんたにはわからないよ!」
勢いよく繋がれたままの手を振り払う。
私が幸せになるですって? そのために努力をしろって? それができてたら、私はいつまでもひもじい貧乏神のままじゃなかったに決まってんだろ!
「あんたみたいな最初っから恵まれた生まれの人に、私の気持ちなんて……ううん、私もう知ってるのよ。天人様が高貴な生まれだなんて、真っ赤な嘘だってこと」
天人様の眉がつり上がる。どこで知ったんだって不思議かしら? 甘いわ、私たち、ふたりして地上で好き勝手暴れまくったじゃない。嫌でも陰口が入ってくるのよ。当然、天人様についてもね!
「あんたは自分で修行して天人になったんじゃないんでしょ。天人様の親ががんばってたおこぼれでついでに天人にしてもらっただけでしょ。そんなの、運が良かっただけじゃない。所詮は親の脛かじっていい思いしてるだけ。その緋想の剣だって、あんたの本当の持ち物じゃないのはとっくにわかってる!」
「……!」
「成り上がり者が疎まれるなんてお決まりだもんね? 天人様、天界は退屈だってしょっちゅう愚痴って、いつまでも地上にいるけど、単に天界に居場所がないんじゃないの? みんなに除け者にされてるんじゃないの? いつもいつも偉ぶってるけど、天人様の持ってるものは、何もかも借り物なのよ! 女苑のおこぼれでかろうじて生きてた私とおんなじ! 天人崩れとはよく言ったものね……あんたはニセモノの天人だ!」
言い切るか言い切らないかのところで、グーパンが飛んできた。女の喧嘩ってパァンって乾いた音とともに平手打ちが炸裂するイメージがあるけど、ムカついたら問答無用でグーパンだ。女苑もアッパー決めたらすかさず蹴りを入れてくるし。
ああ、真っ赤に燃える緋色の瞳! もっともっと怒って。もっと情けないくらいみっともない姿になって。高貴の〝こ〟の字もないくらい、私と同じとこまで落ちぶれて!
だけど天人様は色んな感情でたぎってる私をよそに、拳を引っ込めて周りをきょろきょろ見て、
「紫苑、一旦場所を変えようか。私たちがここでやり合ったら幻想郷の地形が変わってしまう」
「別にいいわよ。天人様だっていまの世界をぶっ壊してもっといい世界を作りたかったんでしょ? 私は世界が滅んだってどうでもいいわ」
「いいから私と天界に来るんだ!」
天人様は私を無理やり引っ張って行きそうな勢いだった。
「いいか、私は別にお前から逃げようってんじゃない。これでも天人らしく平静を装ってるけど、頭に血が昇ってるんだ。こんなとこで暴れたら間違いなく止められるぞ。せっかくの決闘に邪魔が入るなんて興醒めだかからな」
「決闘? ただの喧嘩じゃなくて?」
天人様は懐から白いハンカチを取り出して私に投げつけた。そんなの持ってたんだ。決闘の申し込みってこんな作法だったっけ?
「お前は説教は嫌だというけど、私は天人だからね。地上の愚民どもにありがたい教えを授けてやるのも天上に住まう民のつとめだ」
あっそーお、天人様って結局私のことは付き合ってても対等なんて思ってくれないワケね。わかりきってたけどね。天人様が地上のすべてを見下してるなんて。そこが高貴な天人様らしくていいと思ってたけど、いまはそれもムカついて仕方ないわ!
「来いよ、最凶最悪の貧乏神、依神紫苑。そのひん曲がった考え方、非想非非想天の天人たる私が叩きのめしてやる!」
「あんたはいまに後悔するわ。最凶最悪の極貧の悪夢、夢だけじゃなく現実のあんたにも見せてあげる!」
にしても、しつこいくらい自分が天人だって強調してくるのね。やっぱり天人様、天人崩れとか不良天人とか呼ばれるの、気にしてたんだわ。
〈その五 私たちは天使なんかじゃない〉
そのまま飛んでくのかと思いきや、天人様が大きめの要石を出してくれたのでそれに乗って天界まで登ってくことになった。
まるでタワーのエレベーターみたいね。山も雲も自分より低くなってくのを天人様とふたりで並んで眺めるなんて、本当だったらそれこそデートっぽいシチュなんだけど、私も天人様もずっと無言。空気最悪。誰かが気を利かして威厳のあるBGMでも流してくれたら少しはこれから決闘だ! って盛り上がったかもしれないけど、私も天人様も相手をねじ伏せることしか考えてないのよ。
「ついたよ」
雲の上は綺麗な青空。私の気分とは正反対。どうせなら土砂降りのドス黒い曇り空にしてほしいけど、天人様も雲の上の天気まではいじらないのかしらね。
天人様はついさっきまで乗り物にしてた要石を、今度は攻撃用に調整し直す。その手に取るのはやっぱり緋想の剣。全人類の気質を操るのも夢じゃないっていう、とんでもないシロモノ。
何度も本気を出すの、疲れるから嫌なんだけどね。私も不幸になるのを覚悟しなきゃならないし。
でもいいんだ。どうせ私は自分が不幸になってでも天人様を不幸にしたいって思ってたんだし、もう一回全人類の不幸を背負ってやる!
「あまりに酷いな、その姿」
「余裕ぶってられるのもいまのうちですよ。私、これでも夢の世界の貴方に勝ってるんですからね。夢に勝てるのなら現実の貴方を倒すのなんてずっと簡単なはずよ」
「泡沫の夢なんてすぐに消えるものだよ」
「バブルが弾けるのより悲惨なことなんてないわ。極貧の世界の悪夢は簡単に現実になるの。私は天人様よりずっとずっと現実を見てきたつもりですから、こう見えてリアリストですよ」
「そうかな。私にはお前が悪夢に囚われているように見える。現実に敗北し続けているからこそ、お前はいまこうやって私と戦う羽目になってるんじゃないのか」
どこまでも、どこまでも尊大な人! 私が現実世界の負け組だって言いたいわけね!
「ロクな修行を積んでない天人なんて怖くないわよ! 天賦の幸運と天賦の不運、どっちが強いか思い知らせてやる!」
そこからは、なんだか昔外の世界で見た、人類が滅亡しそうないかにも世紀末らしいテーマの映画みたいな光景だった。
大きな地震が起きて、大地が割れるみたく雲が裂けて、要石が隕石みたく降り注いで、紙クズと化した価値のない紙幣が絶え間なく降り注いで、巨大化した極貧のオーラが真っ黒な太陽みたく空に輝いて、空は夕方でも明方でもないのに緋色に染まって。
ああ、なんて壮大なスケール。ここでなら大怪獣が暴れ回ったり日本列島が沈没したり恐怖の大王が降ってきたりエイリアンが地球を侵略したりしても、かえってリアルに感じられるかもね。
前に夢の世界の天人様と戦ったとき、夢の天人様は『この世界全てを創り直してやろう!』なんて大口叩いていたけど、きっと天人様が本気になったらそんな夢、簡単に実現してしまうのね。天人様は世界を革命する力を持っているのね。
なら、私もいまの私が出せる最大の不運のオーラをもって天人様を迎え撃たないと、ねっ!
「お前はなんでそこまでして私を不幸にしたいんだ」
「貧乏神は何かをしても何もしなくても不幸になるの。いまは天人様が私のことを好きって言ってくれてても、いつか飽きるかもしれないでしょ?」
「私を疑うのか」
「いまの貴方は本気でも、その後なんてわからないじゃない。いいえ、絶対に別れを避けられない! だったら天人様にはせめて私の手で不幸になってほしかった、それだけよ」
「……歪んでる。そのためだけに、わざわざ好きでもない男と?」
「気持ち悪くて吐きそうだった。でも天人様が不幸になってくれるなら、ちょっとの不幸くらい安いもんだと思ったの」
本当は二度と思い出したくないけど、私ごと天人様をえぐりたかった。天人様、途端に悲しそうな顔をする。甘いなー、戦ってる最中なのに剣を振りかざす手を止めたらダメじゃない!
「どんな夜だったか思い出して細かく聞かせてあげようか」
「やめろ」
「傷ついちゃうから? 私は天人様に傷ついてほしいから全然平気」
「違う! 傷ついているのはお前だろう!」
ありったけの貧乏玉が弾き返された。気がついたら雲の上に押し倒された。
「それ以上自分の傷口を広げるような真似はやめろ」
「何を優等生ぶってるの? 天人様はお優しいのね。自分の心配をしなさいよ、私に浮気されて、裏切られて嫌だったんでしょ!」
「嫌だったよ! いまでも嫌だ! だけど!」
取っ組み合いは天人様の方が強いみたいだった。ここで身体の資本の差ってヤツが出るのね。
急に雨が降ってきた。天人様、気質を操ったのか……と思ったら、天人様が泣いてた。なんで?
「つらいんだ。最初はお前の不実やお前を抉った男に腹を立てていたけど、お前が私を不幸にしたいがために、自分の心と身体をボロボロにしていくのが、本当につらい」
そう言って私に馬乗りになったまま涙を拭う天人様。隙だらけなんだけど、あまりの展開にびっくりしてすぐには動けない。
天人様、本気で私が傷ついてるだけの救いの手を差し伸べてあげないといけないか弱い女の子だとでも思ってるの? だとしたらいくらなんでもその考え方はオメデタすぎよ。そりゃあ私は貧相で貧弱な貧乏神だけど、そこまで弱くはないつもりだもん。
だけど、天人様は何事もやることなすことスケールが大きくて、天人様の方が私よりずっと頭がよくて、広い目を持ってるのも確かなのよね。天人様には私には見えない、気づいてないものに気づいてるって可能性もなくはないわけで、だったら天人様に見える私だって、もしかしたら本当……なのかも……。ああ、頭がゴチャゴチャしてきた。考えるのやめよう。
変なの。涙なんてのは、自分のためだけに流すものよ。ましてやいつも自己中な天人様が、なんで私のために泣くのよ。まるで私を心配してるみたいに。私のことが、大事みたいに。
やめて。……やめて!
「いまさら善人ぶるのはやめてよ! そんなことされて、私がどんなに惨めな気持ちになるかわからないの?」
渾身の力で天人様を押し倒して、今度は私が馬乗りになった。そのまま迷わず天人様の首を絞めた。うまく力が入らないなりに、思いっきり。
「……っ、何回、私を押し倒すつもり? お前っていつも受け身なのかと思ったら、ときどきとんでもない行動起こすよね」
余裕そうに喋っちゃって。私の貧相な腕じゃ天人様の口も塞げないってこと?
「これが貧乏神なりの愛よ。愛してるわ、天人様。だから私と不幸になって」
「……とんでもないプロポーズだ」
「大好きよ。前に言ったでしょう。天人様がそばにいてくれるだけで、私はとっても幸せな気持ちになるの。いつまでもこんな時間が続けばいいなって」
天人様が目を見開く。抵抗する力が強くなって、私は振り払われそうになる。
「この気持ちに嘘なんかない。でもね、私は永遠の愛なんて信じない。永遠の幸福なんて信じない。たとえ実在するんだとしても、私が手に入れられないなら、ぜんぶそこに〝ない〟のと一緒よ! この世に価値があるって信じられるのはお金だけだもの!」
そこで天人様が私の手を振り払った。ゲホゲホと激しく咳き込んで、緋想の剣で身体を支えて、私を睨んでくる。
「ひとつ聞かせろ。もしも私を不幸にするのに成功したら、紫苑、お前はどうなるんだ?」
「さあ? 貴方ほどの幸運の持ち主を極貧に落とすんだから、並の代償じゃ済まないんでしょうけど、どうなるかなんて、私だってそのときになってみなけりゃわからないわ」
「そんな無計画な奴があるか。自分はどうなってもいいのか? どんな破滅が待ち受けているかわからないんだろ?」
「あのね天人様、先のことをあれこれ考えて悩むなんてナンセンスよ。私はいま、天人様を不幸にしたいの。それさえ成功するなら、後のことはどうだっていいわ」
「なんなんだよ。先のことは知らないとかどうでもいいとか言うくせに、さっきは『私たちの別れは避けられない』とか、未来が見えてるみたいな口ぶりだったじゃないか」
「さっきも言ったでしょ、簡単なことよ。貧乏神の末路が〝不幸〟なのは確定事項だからよ! だったら私はいまさえ良ければそれでいいの。他人に寄っかかって後先考えずにお金をじゃんじゃん使って、そう、あぶく銭を使い果たすような生き方をしていられればね!」
「貪人は財を愛するを解せざるなり。あまり金に執着してると……」
「また難しいことを言う! ひもじい思いや寒い思いをしたりしないだけのお金が欲しいって思って何が悪いの! もう遅いのよ、あんたがどんなに天人らしく振る舞おうとしようが、私はあんたが本当の天人じゃないってわかってるんだから!」
「確かにそうだよ、お前の言うとおり、私の力は借り物だよ! 私は天界の異端児だ。天界の連中だって、本当は私のことを天人だなんて認めてないんだ。お父様の顔色を伺って表向きは私にへいこらしてても、内心では見下してるのが見え見え! そうだよ、居心地が悪くてたまらないんだ、天界なんて!」
その悔しそうな顔は、いままでに私が見たことのない天人様だった。天使みたいだと思った可愛くて茶目っ気のある天人様じゃない。ひとりの寂しそうな女の子に見えた。
「天界の生活は死ぬほどつまらなくて、だけど曲がりなりにも高貴な身分として育った以上、地上の連中に気安く馴染むなんて私のプライドが許さない。退屈を嫌いながら、天界を追放されれば拗ねてるんだよ、私は! そのくせ素直に地上の方が居心地がいいと言うのも嫌なんだ! 矛盾してるって好きに思え! それでも!」
いきなり天人様が立ち上がる。また攻撃が始まるのかと思ったら、天人様のスカートから、バサバサと書物が落ちてくる。いつの間にしまってたの?
表紙のタイトルは……私にはどれも正しく読めない漢籍ばっかり。
「こんな昔の人間の古臭い言葉なんか読んでなんの役に立つの? っていまでも思ってる。でも天人なら天人らしい教養を身につけなきゃいけないって叩き込まれたんだ」
「ついでにお説教癖も叩き込まれたのね」
「これらの書物には、人間の生き方の指標になるらしい言葉がたくさん載っている。民を思え、善を勧め悪を憎み清く正しく生きよ、大いなる天を敬い重んじよ。東洋の思想家なんて口うるさいのばっかり、どの教えも到底私には実践できそうにない。だけど人の上に立つ者にはそれだけの責任が求められるのさ。君主が愚か者じゃ、下々の民が不幸だからな」
下々って、相変わらず上から目線なんだから。
「経緯がどうであれ、私は天人だ。天に住まい、地を望み、人の心を見つめる者だ。私は天人らしく民を思い、自戒を込めてお前に忠告する。サービスでいつもより長めにな! 紫苑、お前のためだけのスペシャルコースだ!」
どうだか。私のためみたいに言うけど、どうせ『お前らより私の方が偉いんだぞ』ってマウント取りたいだけでしょ。
天人様は落ちた書物の一冊を手に取る。表紙には『老子』と書いてある。
「人に勝つ者は力有り、自ら勝つ者は強し。己の不運に打ち勝つくらいの心意気で精進せよ」
天人様は中身を開きもせずに誦じた。そういえばこの人、わざわざ本なんか取り出さなくても、ほとんどの漢籍を暗誦できるんじゃないの?
天人様は『老子』を捨てて、続いて『荘子』を拾う。
「且つ大覚有りて而る後に、此れ其の大夢なるを知るなり。お前はそろそろ悪夢から目覚めるべきだ。すべて不幸にして已むべきという不毛な悪夢からな!」
また捨てて、今度は『論語』。
「疏食を飯い水を飲み、肱を曲げてこれを枕とす。楽しみ亦た其の中に在り。お前に説明してもわからないだろうね。暖簾に腕押しな解説ほど虚しいものはないわ」
お次は『孟子』。
「苟くも義を後にして利を先にすることを為さば、奪わずんば饜かず。お前には仁義が足りない。損得勘定から他人のものを奪うという発想が生まれるのだ」
次は『貞観政要』。これで最後みたい。
「古人云う、『禍福は門なし、ただ人の招くところのみ』と。然れどもその身を陥るるは、みな財利を貪冒するがためなり。金に目が眩んでると身を滅ぼすってね。古の賢人はみんな同じことを言うんだ」
そこで天人様のありがたい忠告は終わった。何か響くかって言われたら、残念ながらなーんも響かない。
「天人様。いろいろ言いたいことがあるのはわかりましたけど、私には天人様が何を言っているのか、さっぱりわかりませんでした」
「私がいま引いたのは、己を強く持て、無闇矢鱈に富に執着するな、欲を捨てよ、貧しさの中にも楽しみを見いだせ――そんな戒めだ」
「私の貧乏が! そんなエラソーな御託で解決すると思ってるのかよ!」
「違う! 言っただろう、これらは民を導く者に向けた戒めの言葉でもあると!」
民を導く――って、いかにもあの坊さんと一緒にいた仙人が言いそうなことだけど、天人は仙人より格上の存在なんだっけ。
だから、地上の仙人がやることは天人様もやるってことで……つまり、天人様は私にだけじゃなくて、自分にも向けていまの言葉を誦じたってこと?
嘘でしょ。だって、似合わないよ、天人様がお金のない生活の良さを語るなんて! やめてよ、女苑みたいなカルト狂いならともかく、天人様は『本当の豊かさ』なんてワケのわからない言葉に惑わされたりしないはずよ!
でも私を見る天人様はいたって真面目なんだ。そりゃあ教養のない女苑が豊かさとか考え出したってロクなことにならないのは目に見えてるけど、少なくとも天人様には教養がある。そこが違う。こんなのくだらん意味がないとか言いながらちゃんと勉強してる。他人にどれだけ不良天人のレッテルを貼られようと、天人様は天人らしく振る舞おうと努力してきたんだ。レッテルを剥がそうと足掻いてたんだ。
「なあ、紫苑。私はどうすればお前が幸せになれるのかちっともわからない。他人の不幸は蜜の味とはいうけれど、お前の求める不幸は常軌を逸しているよ」
「……」
そんなこと言われたって。私の身体に、この邪魔っけな請求書だの差し押さえだのみたく張り付いた〝決して幸せになれない貧乏神〟のレッテルを剥がすなんて、私には無理だよ。
天人様だって私が幸せになれる道が見つからないんでしょ? 天人様でも無理なら私はなおさら無理だよ。私は幸せになりたくても、なれないんだよ。
俯いた私の顔を、天人様は両手でつかんで上を向かせる。
「だけど、お前が不幸にならない道なら、私にも示せるはずなんだ」
えっ? どういうこと?
天人様が剣を雲の上に立てる。気質を操るんだ。誰の気質? ……私の?
空がだんだん暗くなる。私の気質を天気にするなら、絶対に快晴とか天気雨とかの明るいものじゃない。
「紫苑が不幸のどん底に落ちてしまうなら、私も連れて行け」
また天気が変わった。ドス黒い雲が立ち込めた中に、なんか七色の光が差して……でもその光は虹じゃない。
空を覆い尽くすカーテンみたいな、淡い虹色に光るそれは、もしかしてオーロラ? オーロラってこんな状況で見れるもんなの?
まさか、天人様の気質が、私の気質と合わさって……?
「道は近きにあり……天人の私が、必ず道を作ってやるから。私の幸運は無尽蔵だって、知ってるでしょ?」
天人様がまっすぐ私を見つめる。ガーネットみたいな緋色の瞳と、晴れた空みたいな青い髪を持った、黄色い百合の花みたいな人。
天の恵みを授かった人が、地に足のついた考え方で、人の気質を映した空を見せて、全力で『紫苑、お前を不幸になんかさせない』って訴えてる。私の手をまだ引っ張ってくれようとしてる。
もう、意味がわからない。
天人様、どっかおかしいんじゃないの? 私、あれだけ言ったよね? 天人様を不幸にするためにムチャクチャやったって。天人様にもひどいことしようとして、天人様の幸運のおかげで未遂で終わったけど、天人様にとって私が最悪なのは変わらないはずでしょ?
なのに……。
「なんで、そこまで私を庇うの? 哀れで貧相なままの私の方が、下賤な地上の民らしくて天人様の理想なんじゃないの?」
「お前を見てると、私は昔を思い出す。非想非非想天の娘・比那名居天子になる前の、ただの人間の娘・地子だった頃を」
ちょ、ちょっと、こんなとこでいきなり過去編に突入されても困るよー!
そりゃあ天人様が修行した天人じゃないのは知ってたけど、じゃあ天人になる前の天人様は? なんて、私何も知らないもん! 天人様が天人様と出会う前の私を知らなかったのと同じ!
「そんな昔じゃないはずなのに、まるで前世の記憶みたいだ。昔の私は確かに人間だった。お父様が名家の名居家に仕えてるってだけの、地上に根を下ろした、ごくごく平凡な娘。当時は単なる召使い一家に過ぎなかったから、私もいまほど裕福でも高貴でもなかったんだ。お前ほど貧乏でもなかったけど」
「結局自慢ですか。親ガチャ成功おめでとうございます。私はそもそも親がいませんけどね」
「あの頃の私が幸せだったかどうかなんてもう覚えてない。けど、お父様のおかげで天人になれたのは、私にとって紛れもない幸運だった」
天人様は緋色のオーラを放ち続ける剣を眺めている。
「お前の言う通り、私は初めから天人じゃなかった。借り物の力ばっかり使っている自覚はある。だけど、たとえ自力でつかんだ力じゃなくても、それらしくあろうと歩き続けていれば、少しは本物に近づけるはずなんだ」
ああ、その先は聞きたくない。頭の悪い私でも、天人様が何を言おうとしてるかわかるもん。
「紫苑。お前だって、その気になれば幸せに――」
「天人様なんか、本当に不幸になればいいのよ!」
聞きたくないから、私は大声で叫んだ。ありったけの呪いを振り撒いてあげる。天人様の天賦の幸運を吹き飛ばすくらいの。
「服なんか私みたくボロボロになっちゃえ、頭の花なんか枯れちゃえ、汗と汚れで身体も汚くなっちゃえ! 落ち着きなんか失くしてオロオロ彷徨えばいい!」
さっさと五衰が起こればいい。惨めな姿で近づく死に怯えればいい。
「この世界の全員を敵に回しても」
元から私は嫌われ者だもん。
「誰かが私たちの間に割って入ってきても」
そいつもまとめて不幸にしてやればいいわ。
「みんながみんな、天人様を好きだと言っても」
誰がなんと言おうが私は天人様が嫌いよ。大好きだからこそ、大嫌いよ。
「お前になんかできっこない、やめておけって笑われても」
だってひとりじゃ何もできない私が唯一できることが〝他人を不幸にすること〟なのよ?
「必ず私が天人様を世界一不幸にしてやる!」
私は誰とも幸せになれない。
――だから、せめて私と一緒に不幸になって。
「無理だよ」
無慈悲で残酷な天使は、私の切実なエゴをあっさり切り捨てる。
無邪気に笑って、また私の頬を撫でる。
「お前と一緒にいて確信したよ。お前の恐るべき不幸の力は、天人の私には届かないって」
「バカ言わないで。余裕ぶっこいてたら足元すくわれるわよ」
「正しくは足をすくわれる、ね。だって紫苑、お前、天人五衰の最後のひとつを忘れてるよ」
天人五衰……ぜんぶ言ったと思ったんだけどな。やっぱり私、難しいこと覚えるの苦手なのよ。
「私にとっては身体が汚れるとか服が乱れるとか、そんなのはどうでもいいんだ。いまを楽しめなくなることは、私の人生から楽しみが奪われるに等しい。それが一番恐ろしいんだ」
そうだ。天人様、退屈を嫌っていつも楽しいことや新しいことを探してるフシがあったもんね。
天人様の顔が切なそうにゆがむ。
「紫苑、お前は知らないんだ、私がお前と一緒にいて、どれだけ幸せだったか。だから紫苑には不幸になってほしくない、それだけよ!」
……そんなの信じない。一緒にいるだけで幸せなんて、貧乏神には絶対に使われないセリフよ。
天人様が楽しそうに振る舞ってたのは、自分は決して落ちぶれたりしないって、心にゆとりがあったから。少しの不幸も人生のスパイスくらいに気楽に考えてたんでしょ。
本当の極貧を味わってなお、同じことが言えるかどうか――。
「紫苑、頼むから、私から楽しみを奪わないでくれ……!」
……バカね、天人様。
自分から弱点をゲロっちゃうなんて、マヌケにもほどがあるわ。私が情に絆されるとでも思ってるのね。
私はリアリストなんだって。愛情よりもお金の方がずっと大事だって、身にしみてるんだって。
天人様の言いたいことはつまり、私の不幸が天人様の不幸ってこと。
天人様の緋色の瞳が揺れている。置いてかれるのは私に決まってるってずっと思ってたのに、まるで天人様は自分の方が私に捨てられる、みたいなすがり方をするのね。
私がこのまま不幸になれば、天人様を確実に不幸にできる……そうよ、私にとっての最高のハッピーエンドかつ最悪のバッドエンドはもうすぐそこに見えている。そしたらもう天人様が私から去っていくなんて怯えなくていい。手強いライバルが現れるかもなんて怖がらなくていい。
それなのに。
――どうして私は、天人様に手を伸ばそうとしているのよ? 私が手折ったところで、天人様は、黄色い百合はハルジオンにぜんぶ養分を吸われて枯れるだけなのに。
「貧乏神は、他人を不幸にするのが役目なの。貴方がどんなに大きな幸運の持ち主でも、私に関わった時点で貴方の運の尽きよ」
「紫苑、それは早合点だ。私の幸運はまだ尽きていないじゃないか。私はまだ完全な不幸になった訳じゃない」
「そんなの時間の問題よ。貴方のデタラメな幸運が本当に底なしなのか、私はまだ確かめてないもの。他にいい方法が見つかってないだけで――」
「なあ、本当に気づいてないのか? 紫苑。お前はすでに私に幸運を与えているんだよ」
――いったい、私は今日だけで何回天人様に驚かされるのかしら?
天人様はイタズラっぽく笑ってる。お前何も知らなかっただろ、って得意げに。
「泣く子も貧する貧乏神、依神紫苑。その恐るべし不運は、周囲の運気を下げ、富や財を溜め込めなくさせる。それは即ち、財禍から――お金があるが故に起こる不幸から、私を守ってくれる能力だ」
なんかもう、「ああっ!」って大声で叫びそうだった。それは決して天人様独自のものの解釈とかじゃないわ。神様っていうのは、私みたいなカーストブービーな貧乏神でも、神徳と災厄、ふたつの顔を持っているもの。祟り神でも丁重に祀ればご利益をくれるみたいなね。
だから、私にもなけなしのご利益ってヤツがあったんだ。私の能力にそんな一面があるなんて、すっかり忘れていたけど。
「お前と一緒にいて、私はけっこう派手にお金を使ったし、素寒貧のときはお前がお金を使わなくても楽しめる遊びを教えてくれた。お金があろうがなかろうが、紫苑、お前と一緒にいるだけで、私は幸せだったよ」
ああ、そんなバカな! 泣く子も貧する貧乏神の私が、この依神紫苑が、知らず知らずのうちに誰かを幸福にしていたなんて、そんなことが現実にありえるの?
これは夢? また夢の天人様と戦ってる? それともいつのまにか夢の世界の私が現実の私と入れ替わっちゃった?
「夢じゃないわ。もう悪夢は終わりよ」
私の考えを見透かしたみたいに、天人様は笑って私の頬を軽くつねる。痛い。別に私は悪夢を見ていたなんて思ってないんだけど。
どうしたらいいのよ、もう! バカみたいじゃない。何もできない私に唯一できることは不幸にすることだけだって、だからたったひとりの大好きな人くらいこの手で不幸にしようって決めたのに、私ってばそれすら失敗してるじゃない! 本当に貧乏神って、何もかもうまくいかない人生だわ!
もう他の手段なんか見つからない。得意分野ですら失敗するなら、私が他に何をしても天人様は不幸にならないんじゃないかって思い始めてる。あとちょっとで勝てるはずだったのに、とんだ形勢逆転よ。大貧民の私にはここから革命を起こせる手札なんて揃えられないわ。
呆然としてる私を見て、天人様はそっと目を細める。
「それからもうひとつ。紫苑はいつだったか、私に向かって『天人様は私を幸せにしてくれる』って言ってくれたね? お前はそれを私の幸運がなせる技みたく思ってたようだけど、私にそんな神様みたいな力はないよ」
「……」
「嬉しかったんだ。そんなこと言われたの、初めてだったから。私は天界でも地上でも問題児だからね。小さな幸運を大袈裟に喜んで、些細なことでも私をすごいすごいと褒めちぎって。そもそも、たとえお金や幸運が目当てだったとしても、天気屋な私にここまで長く付き合ってくれるのって、紫苑、お前くらいだよ」
「……そんな、の」
「だから、私も紫苑といるだけで幸せだった。ただ、一緒にいるだけで、心が満たされる。そういう気持ちを、下界の人間や妖怪たちは〝好き〟って言うんじゃないかな」
天人様は美しく、それこそ天使のように微笑んで、私をぎゅっと抱きしめる。愛おしむみたいに。
ズルいよ。天人様、普段はハッキリ〝好き〟なんてなかなか言ってくれないくせに、ここぞというときに取っておくなんて。なんか本当みたく勘違いしそうじゃない。
絆されちゃダメだ。思い出すのよ、この世で信じられるのはお金だけだって。バブルが弾けたときだって、結局は手元に一番お金を残しておいた人が氷河期を乗り越えて失われた数十年を生き残ったんじゃない。
だけど。だけど……。
あったかいなあ。天人様、甘い桃みたいないいにおいがするなあ。天人様をここで殺しちゃったら、天人様の身体は冷たくなってしまうのよね。もう私に笑いかけてはくれないのよね。
……。
嫌だなあ。
いつか天人様が死ぬのは仕方ないとしても、いまここでお別れなんて嫌だなあ。
もっと、もっともっと天人様と一緒にいたい。
報いならあとでいくらだって受けるから、ほんの少しの間くらい、貧乏神の私だって幸せになってもいいじゃない! 私を幸せにしてくれる人の手を取ったっていいじゃない!
そうよ。どうせ私は幸せになれないって、いつも諦めきってるけど、私だって本当は幸せになりたいのよ!
涙が止まらない。きっと、いま目の前にいる天人様は世界で一番美しい顔をしているはずなのに、私にはそれが見えない。
「天人様ぁ……っ!」
無我夢中で抱きついたら、天人様は抱き返してくれた。
それは、見事なまでの完全敗北。やっぱり貧乏神の私は勝利をつかむことができなかったのね。
だからこれは決して嬉し涙なんかじゃない。
私と一緒に不幸になってくれない天人様なんか、大嫌いなんだから。
■
革命を起こせない大貧民の私は、この身をすべて賭けた。破滅しか待っていない私に恐れるものなんて何もなくて、だからこそ一緒に滅んでしまえと、貴方さえ不幸にできるのなら、私が不幸になってもいいと思えたのに。
貴方はそれを許さないというのね。
自分が不幸になることより、私の破滅を心配して、阻止してしまうのね。
天人様。
私の運命に、革命を起こす人。
貴方みたいに私に真剣に向き合ってくれる人、初めてだったな。
天人様、私のつぼみの奥をこじ開けた。お金以外のものが欲しくなって、私にもそういう欲があったって思い出したの。
そりゃあいまでもお金は一番大事だし、この世で一番欲しいものに変わりはないんだけど。
誰だって、この世にたったひとりの自分を愛してほしいものでしょう?
ちょっと昔にそういう歌が流行ったわね、誰でも世界にひとつだけの違う種の特別なんだってヤツ。
疫病神の姉でもなくて、最凶最悪の貧乏神でもなくて、ただの不幸な女の子でもない、〝依神紫苑〟というたったひとりの私のことを、天人様が見つけてくれるんだったら。
儚い口約束だったとしても。
いずれ醒める夢だとしても。
それはきっと、幸せなことだと思うよ。
■
「ああ、レット、走って走って探しているのに、なにを探しているのか分からないのよ。それはどこまで行っても霧のなかに隠れているの。そこさえ見つかれば、いつまでも安全でいられて、もう二度と寒くてひもじい思いをしなくて済むはずなのに」
「きみが探しているのは、人なのか、それとも物なのか?」
「分からない。それは考えたことがなかったわ。レット、いつかはそこに無事たどりつく夢を見ると思う?」
M.ミッチェル「風と共に去りぬ」より
〈エピローグ どうしようもない私に……〉
「なーに書いてるんだ?」
「わっ」
取り止めもなくメモを書き殴ってた私の上から天人様が現れる。ノックくらいしてよ、って言いたかったけど、ここって天界の天人様の部屋なのよね。この紙も勝手に天人様から借りたわ。天人様は好きに使っていいって言ってたし。
天人様が興味津々って顔で覗き込んでくるから、私は、
「不幸の手紙です」
って言ってやった。
「送られた相手が不幸になるっていう噂のあれ?」
「はい」
「ふーん」
天人様、ちっとも怯まずに私の殴り書きを読み始めちゃった。
うーん。
とっさに不幸の手紙とか言っちゃったけど、あれは今日に至るまでの天人様への私の愛と呪いを込めた日記ともメモともラブレターともつかないもので……天人様に読まれるとマズいじゃん! 恥ずい!
「天人様、返してくださいったら」
「いいや。これを最後まで読み終わったとき、私にどんな不幸が降ってくるのか確かめてやるよ」
天人様、面白がってニヤニヤしてる。もー、そういうとこ、ちっとも変わらないんだから。
難しい漢字の本ばっか読んでる天人様だけど、そもそも天人様って読み物が好きみたいなのよね。私にわからない外の世界の本も読むし、人里で噂になってたアガサなんちゃらっていう作家の小説も興味があるみたいだった。前に鴉天狗がコラムを書いてくれないかって頼みにきたときは、それはそれは嬉しそうにしていたわ。
天人様は『紫苑、お前も読むか?』って言ってくれるけど、私はどうも本はねー。絵がついてるならともかく、難しい文字ばっかりが大量に並んだ本なんて読んでて何が楽しいの?
とまあ、こんな風に価値観の差はあるけれど。私と天人様のお付き合いはいまだに続いている。
天人様を不幸にしようとするのは、もうやめたの。私もろとも不幸のズンドコに落とそうなんて、もう二度と考えないわ。
いつもずっと一緒かっていうと……まあ、女苑にうまい金儲けの話があるって言われたらついふらっとそっちに行っちゃうし(だいたいいつも途中まではうまく行くんだけど最後は大目玉喰らって一文なしになって終わるんだけど)。にしてもあいつはいったい寺で何をしてたのかしら?
石油のときなんか酷かったわ。女苑も私も教養がないのよ。まさか石油の正体とやらがあんなものだったなんて、どうりであの風神の当たりがやたらとキツかったワケだわ。何も知らずにありがたがって銭儲けする救いようのないサイテーのバカどもとでも映ってたんでしょうね。
だーけーど。天人様にもたびたびお金に対する執着を諌められるけど、人間も神様もそんな簡単に変われたら苦労はしないワケでさ。石油で富豪神になれないんだったら地獄のツアーでも組んでみればいいじゃん? ってなって、そしたら今度は霊夢が鬼の形相で退治にきて、ツアーはおじゃんだし儲けはパーよ。ほんっと貧乏神は何をしてもうまくいかない。
天人様はいつも――それこそ世界中が私を敵視しているときだって、「なんだ、また負けたのか」って笑って出迎えてくれる。自分に降り注ぐ火の粉なんて気にしない、世間体なんてどうってことないっていう、大胆でおおらかな人。そこがまた素敵なのよ。
私たちの関係性はっていうと、ぶっちゃけ進展してない。急いで事を進めなくてもいいってなったら『別にいつも通りでいいかー』ってマイペースになっちゃったのよね。だいたい貧乏神の私が自分から何かを起こそうとしたってロクなことにならないんだから、何もしなくていいのよ。天人様もあんま気にしてないみたいだし。
「お前、本は読まないくせにずいぶん長々とした文章を書くんだな」
「返してくださいってばー。そんなのただの愚痴の吐き出しですよ」
「そう? 私には深夜に書いた熱烈なラブレターみたいに読めたけど」
きゃっ、もうバレてる! しかも深夜のラブレターって一番支離滅裂でキモくて恥ずいヤツじゃん。よく平気な顔で読めたわね、天人様。
「お前、意外と売れっ子作家になるかもね」
「ひどい冗談ばっかり! 返してくださいって、もう!」
私が必死になって取り返すのを、天人様は笑って見てた。いまのが皮肉なのは私にもわかるわ、天人様の意地悪。でも外の世界では、ときどきとんでもない悪文っていうか、なんでこんなものが世の中に? みたいな本が大ベストセラーになったりするからね。もしかしたら私もなんかの賞金が当たって一攫千金も夢じゃない!? ……いや、やめとこ。さすがにムリだって。
「にしても」
と、天人様は口を尖らせる。私が勝手に石油騒動に参加したことで、天人様は拗ねてるらしかった。
「今回はもう紫苑は私のとこに戻ってこないかと思ったよ」
「天人様がそれ言いますー? 私はいつ天人様が私に飽きて捨てるのか、気が気じゃありません」
「まだそんなことを言うの? その気になったらお前の方からさっさと未練もなく捨てるくせに」
「だって、私の世界を変えたのは天人様ですよ? まさに革命的でした」
「ああいうのは革命って言わないのよ」
天人様は苦笑いする。
「革命ってのは、弱い奴が強い奴に向かって起こすものなんだから。周の武王が殷王朝を滅ぼしたようにね」
とか天人様は言うけど、私はインがどこの国なのかすらわからない。たぶんインドじゃないと思うけど……。
それはさておき、天人様の悪い癖が出てるのは私にもわかるわ。
「天人様って、素敵な人なのに、たまにうぬぼれ癖が出ますよね」
「へーえ? この私が? 紫苑、お前ってときどき私に楯突くよね」
「私は天人様をお慕いしてて好きで一緒にいますけど、天人様の召使いじゃないんで。嫌なことは突っぱねますし言いたいことは言います」
「じゃあ前にやたらと褒めそやして持ち上げてきたのは単なる金目当てのご機嫌取りだったと」
「ま、そうなりますよね」
「ふーん、生意気」
って天人様はわざとらしく突っかかって見せるけど、ちっとも怒ってないのよね。「いいじゃない、私に不満があるなら言ってごらん。言えるものならね」って挑発してるのよ。
「私だってその気になれば天人様に勝てるって、忘れてるわ。天人様が私を変えたように、今度は私が天人様を変えるかもしれないのに」
「それじゃ、紫苑はいつその気になるの」
「……もうちょっと、現実的な手札が揃ったら」
「あっはっは!」
天人様は腹を抱えて大笑いした。
「紫苑、お前は賢いね」
「バカにしないでください。ぜんぜん褒めてないでしょ」
「いいや、私はお前を気に入ってるもの。ときどき不思議になるよ。私の方が絶対に紫苑より長く生きているはずなのに、たまに紫苑が私よりずっと達観して、世の中をよく知っているような気がするんだ」
からかってるみたいな口ぶりをやめて、天人様は真面目に言う。そんなもんかしら。でも、確かに天人様は私より長生きのはずよ。私の記憶って、どんなに古いのを探しても、あのバブル景気の華やかな賑わいに浮かれまくってる人間たちのアホ面と、それが崩壊した後の底冷えするような貧乏に打ちのめされる人間たちの暗い顔だもの。それより古いのは思い出せないから、たぶん私はそのあたりで生まれたんでしょうね。あの時代に勝ち組になれた人間なんて、ほんのちょっとしかいなかったんじゃないかしら? もしあの時代が本当にいいものだったら、生まれてくる女神なんて女苑ひとりで充分で、私が生まれる余地なんかなかったはずだもの。
そーゆー現実をサバイブしてきたから、そうね、天界暮らしの長い天人様よりはリアルを知っているかも。
「もしも天人様がすかんぴんになったら、私が氷河期の生き方を教えてあげますよ」
「なんだ、まだ私を不幸にするつもり?」
「いえ、それはもういいんですけど、一寸先は闇って言いますから」
「私は構わないけどね。お前の能力が実のところ、どこまで私に通用するのかは依然興味があるし」
こんな調子だもの。思えば天人様は最初っから肝試しくらいの気分で、ずいぶんポジティブな理由で私が近づくのを許したんだった。大胆で怖いもの知らずよねー。そんな人を不幸にしようとする私もどうかしてたわ。
「お前の妹に聞いたときも思ったけど、紫苑の不安ってずっとお金がらみだよね。ひもじい思いをしたくない、生活に困らないだけのお金が欲しい。そんなに衣食住が心配なら私が一生養ってやるよ」
「天人様!」
私、だいぶびっくりして喉から心臓飛び出るかと思ったわ。
「そんなこと簡単に言っちゃダメです。取り返しがつかなくなって後悔しても遅いんですよ?」
「あのね紫苑。私だってこれでも〝綸言汗の如し〟って心得ていろいろ言ってるつもりなんだけどね」
「……えと、なんですって?」
「尊い人の言葉は一度出た汗を引っ込められないように撤回できないものだから、発言はよく慎みなさいってこと。たぶん私ならお前ひとりくらい抱えても平気だろうし」
「貧乏神の私がどんだけ浪費すると思ってるんです? 私が本気で甘えたら貴方は潰れるかもしれませんよ?」
「なあに、私のこと心配してくれるの?」
「とんでもない。私はいつだって私の人生の心配しかしてないわ」
「あっはっは! まあお前はそれでいいのよ。世のため人のためなんて働けるのは天人の私くらいだもんね」
そんな感じでじゃれあってたら、ふっと天人様が真面目な顔をした。
「紫苑。いいニュースと悪いニュースがあるんだけど、どっちから聞きたい?」
「それ、結局悪いニュースがいい方を掻き消しちゃうパターンじゃないですか。いい方から先に聞きたがるヤツいます?」
「じゃあ悪い方からでいいんだな?」
「貧乏神なんで。悪いニュースなんて慣れっこですよ」
「……お父様が、貧乏神との交際なんか認めないっていうのよ」
天人様が口をへの字に曲げる。ここで天人様のお父様が出てくるとは。確かお屋敷の侍女たちに『総領様』って呼ばれてる人よね? 天人様が総領娘様だから。
まあ、その総領様の意見は正しいとしか言いようがないわ。マトモな父親だったら、自分の大事なひとり娘が貧乏神とくっつくのをよしとしないのは当たり前でしょ? 不幸になるのが目に見えてるもんね。
でも、悪いニュースと言ったわりには、天人様はそんなに落ち込んでもないし不機嫌でもない。父親の言うことなんて知ったこっちゃないとか? 反抗期?
天人様はにやっと笑って、
「だからね紫苑、私はお父様に言ってやったの。涅槃経の昔話を思い出してごらんなさいませって」
「ネハン……なんです?」
「密教の古い経典よ」
私、仏教も道教もわからないし興味ないんだけどなあ。漢籍に詳しい天人様はやっぱりすごいわ。
「その経典にはね、人間が自分の家にやってきた福の神を歓待する話があるの。福の神をおもてなしすれば家は富と幸福を約束されたも間違いなしってね。しばらくしたら、今度は貧乏神が同じ家にやってきて、もてなしてくれって言うの。貧乏神なんか歓迎できるわけもない。突然人間は拒んだ。そしたら、福の神が立ち上がってこう言ったのよ。『あの貧乏神は私の姉妹です。姉妹を受け入れてくれないのなら、私も出て行きます』と。結局、その家の人間は姉妹をそろって追い出しちゃったけど、二人を両方受け入れた寛大な家は立派に繁栄しましたとさ、どんど晴れ」
天人様はおちゃらけて締めくくった。
「だから貧乏神を貧乏神という理由で追い出すのはよくありませんよって。お父様はしぶしぶだったけど納得したわ。にしてもこの話、まるで紫苑とその妹みたいだね」
いやいや、あいつは正真正銘の、どこに出しても恥ずかしい疫病神であって、福の神じゃないですから。あいつが勝手に富をもたらすとか大嘘ぶっこいてるだけだから。にしても、福の神と貧乏神を一緒に受け入れるなんて、えらい人間もいるものね。
天人様は私と向かい合って、上機嫌に笑っている。実の父親の苦情なんてなんのその、私には恐れるものなんて何もないんだぞ、って、自信満々の笑顔。これからも私のもたらす不運をすべて蹴散らしてみせるって、勝ちを確信した、勝者の笑み。
「ところで紫苑」
「なんです、天人様」
さっきまで愉快そうだったのに、今度はむくれてる。天人様って本当に天気屋さんね。
「お前はいつになったら、私のことを〝天子〟って呼んでくれるんだ?」
「へっ?」
思いもよらない方向だな!
えっ、何それ、て、天人様、私に名前で呼んでほしいの?
そんなこと言われたって、私にとっての天人は天人様しかいないし、ずっと天人様って呼んでたのに、今更変えるなんて、その……照れ臭くない?
「呼べないの?」
「だ、ダメですか? 私、天人様以外の天人は天人様なんて呼びませんよ」
「他の奴はどうでもいいんだよ。紫苑。私の名前を言ってみなさい」
強気! でもそこが素敵!
だけど呼ぶってどうすれば? て、天子ちゃん、なんて、私が呼ぶのは馴れ馴れしい感じがするじゃん? かといって、て、て、天子、なんて呼び捨てにするのはもっと無理!
「おや、珍しく血色のいい顔をしている」
「天人様、勘弁してくださいよー……」
「しょうがないなあ。いまは天人様で許してやるよ。でもいつかは呼んで」
どうにか見逃してもらったけど、天人様はちょっとだけ恨むような様子も見せる。こうやって私はこれからも天人様のペースに巻き込まれていくのかしらね。でも悪い気はしないなあ。元から自分であれこれ考えてアクティブに動くのって得意じゃなかったしなー。流れに身を任せていまをエンジョイする刹那主義の方が合ってるもんなー。天人様が私の手を引っ張ってリードしてくれるなら、どこだって喜んでついていっちゃう。アイウィルフォロユーよ。
愛しの天人様。
認めてあげるよ。
いまの私は幸せなんだ。
私ね、いまでも〝貧乏〟って言われたらムカつくしいつか絶対に貧乏から抜け出してやるって思ってるけど、天人様が気づかせてくれたおかげで、前ほど『どうせ私は幸せになれない』って卑屈になることは減ったの。
でもね。
私はどこまでいっても貧乏神の依神紫苑だからさ。『そうしてみんないつまでも幸せに暮らしましたとさ、めでたしめでたし』みたいな、お伽話のご都合主義にまみれたハッピーエンドなんて、リアルじゃなくて、ウソくさくって、絶対に信じないから。
この幸福は、いまでもやっぱりいつか終わるものだと思ってる。だって、今回の勝者は天人様ただひとりだもの。私は貴方の幸運に負けたの。
貧乏神の末路は、必ず不幸で終わらなければならないから。
だけど、その終わりは、何もいますぐじゃなくてもいいよね。私がムキになって終わりを早める必要なんか、初めからなかったんだよね。元々私はいましか見てない生き方しかできないんだし、先のことは後で考えればいいのよ。
天人様。
私だけの黄色い百合の花。
奈落の底でも、私たちは場違いみたいに明るく咲き誇っていられるかしら。
いつかふたりを永遠に分かつ日が来るまで、ハルジオンは、ずっと貴方のそばにいるわ。
正直、紫苑が「どんなに努力しても必ず最後には全てを失って不幸になるなら
せめて自分の手で大切な人を破滅させたい」、という思想のもとで
行動を起こし始めた時点で
「仮に過程に関係なく迎える結末が同じならあえて今急いで結論を出す必要もないのでは」という方向に向かう予想は立てながら読み進めました。
ただ話の流れ以上にネガティブに満ちた紫苑視点の地の文とひたすらに真っ直ぐな天子の台詞の文から二人の想いの強さがとても強く印象に残りました。
好きな作品です。
読んでて思わず赤面してしまいました。そうそう、こんな感じでしたよね。あの頃の小説は。
それはそうと、内容自体は雨降って地固まる的な話(紫苑が自ら雨降らせてたけど)で、終始紫苑の視点で話が進むのですが、一見とっ散らかってるように見えて、話の進む方向が明確だったのでわかりやすかったです。
2人のキャラや性格にちょっと違和感はありましたが、それを勢いで補えてたと思いました。面白かったです!
不幸でしか人生を語れない紫苑と完璧には程遠い天人の天子が2人ともギラギラしていて読んでいて最高に楽しかったです
こんな最高なプロポーズがあるかよ
紫苑は天子に対して、ある種神性をみるような視線を向けているとするなら、そこに健全な関係性はあるのか? 一方的な崇拝になってしまわないか? という疑問はあると思うのですが、この作品ではしっかりと一つと一つの存在の対等な関係として描かれていたように思い、そこが大変好きでした。
歪んでおかしな方向に行ってしまう天子の思想を、一人の人格として・あるいは天人としての力も用いて正面から受け止める天子が素敵でした。天子自身も完璧な存在とは程遠く、紫苑の思惑を理解できていなかったところが多々ありつつ、それでも紫苑への理解と受容を示して、大切な相手なんだと真摯に伝える様がやっぱり素敵でした。
また、文章も読みやすく良かったです。早口でまくしたてるシーンも、言い合いで理論を展開するシーンも、やりたいことが先行してしまわずにちゃんと読みやすい文になっており、そこも良かったです。
性的な示唆のあたり、ケータイ小説っぽさ有るな~と感じていたら本当にそれを意識していたのが後書きで知れてよかったです。
素晴らしかったです。有難う御座いました。