「ねぇ、レミィ。プリン美味しかった?」
紅の悪魔、そう呼ばれるレミリア・スカーレットの自室では、親友のパチュリーを招いてお茶会が開かれていた。テーブルには高級そうなカップが二つ、それに焼きたてのクッキーが添えられている。だが、これはあくまでもティータイム用のお菓子であり、小食なレミリアの主食の一つ。人間の血が加えられたデザートではない。
「ん、そうね。美味しかったわよ」
しかも寝起きなんて、重い食事を見ただけで嫌そうな顔をするので。咲夜が気を使って油っけのないスイーツを作ることが多く。そのすっきり系代表が喉越し快適なプリンなのである。レミリア曰く、『淑女たるもの、ディナーのカロリーバランスに気を使わないといけない』ということらしいが、単なる好みの問題だということは周知の事実である。
「咲夜の作るものは、なんだって最高だもの」
それ以外の要素があるとすれば。
レミリアがスプーンを持って幸せそうにプリンを頬張る姿を愛してやまない。
そんな瀟洒なメイド長がわざとそれを多く作っている、そんな説もあるが。
「お褒めに預かり光栄ですわ」
静かに、主の斜め後ろで頭を下げている姿を見ただけでは。主のそんな不恰好な態度を喜ぶようなメイドには見えない。やることなすことが完璧で、彼女一人がいれば紅魔館は安泰だとも言われるほど。
「咲夜の料理は隙がないものね。食事の必要ない私でも、娯楽としてまた食べたいと思ってしまうもの。だから、今日のプリンも最高だったのでしょうね」
「え、ええ、当たり前じゃない。あの、程よい甘さの中に広がる。甘酸っぱいハーモニーとでも言うのかしら。とても落ち着いた、私に相応しい味付けだわ」
胸に手を当て、その味を思い出すように天井を見上げる。
しかしその手を置いた胸や、肩、帽子という、彼女の身に付けている衣服はところどころ破れており。雰囲気を出そうとしているのに、しまらない。
「そう、味付けは良し、か。じゃあ舌触りは?」
「そ、そりゃあもぅ。あれよ、え~っと、ぷるぷるのしこしこ」
「しこしこ、って良くわからないんだけれど。まあいいわ。口どけは?」
「く、口どけはあれね、ほら、こう、ざーっと洪水のような勢いで」
「……へぇ、じゃあ香りは、後味は?」
「う、あ、えっとね。その、あの……うー、うぅーー」
食べたはずのデザートの質問をされただけなのに、しどろもどろになり。言葉を詰まらせる。そしてついにテーブルに肘をついた状態で頭を抱えてしまった。
そのまましばらく、唸り声を上げるレミリアだったが。
観念した様子でテーブルを叩いた。
「わかったよ! 正直に言えばいいんだろう!」
ばんっ
「負けたわよ! 朝のプリン争奪弾幕勝負でっ!」
ばんっ
「フランにっ!」
ばんっばんっ!
「で、でもね。咲夜のカステラだって美味しかったわっ!! すごくっ! すごくねっ!!」
そうやってカップが飛び上がるほど激しくテーブルを叩き、最後は立ち上がってパチュリーを指差した。その指先が震えているのは、怒りのせいか。それとも興奮によるものか。はたまた羞恥心によるものか。
しかし、パチュリーは落ち着いた様子で頬杖をつき、中央のクッキーへと手を伸ばす。
「……でも、本心ではプリンが食べたかった。あ、これ程よい甘さで美味しい」
「く、こ、このっ! う、うぅぅぅぅーーーーっ! さぁーくぅーやぁーっ! パチェが不忠義すぎるっ! なんとかしてっ!」
パチュリーに向けた腕をぶんぶんっと振り、涙目なって頬を膨らませる。
威厳とかカリスマがマイナスベクトルをひた走る中、レミリアは最後の切り札、咲夜の手腕を持ち出す。忠誠を誓う彼女なら、この場を適度に静めてくれるはず。そんなレミリアの期待を一身に背負い、咲夜は一礼しながら主の横に立つ。
「ご安心ください、お嬢様。すでに今の愛くるし――いえ、カリスマが溢れ過ぎて、だだ漏れしているお姿はドアの隙間から天狗が撮影していきました。永久保存版です」
「さすがね、咲――あれ? 対処法違ってない?」
「いえ、お嬢様。私は最善の手を尽くしたまで。当然写真は紅魔館のみで配布されますので。きっとパチュリー様もその写真を見れば忠義の心を思い出すかと」
小動物を守りたくなる感情で。
咲夜は、危うく続けてしまいそうになった言葉を止め、にっこりと主に微笑みかける。
「さすがね、咲夜。レミィの従者にしておくのは惜しいくらいのソツのなさだわ」
「パチュリー様こそ隙がまるで感じられません。さすが長いお付き合いでいらっしゃる」
ビシッ
歴戦の占有がお互いを称えるように見つめあい、親指を立て合う。
まさしく、ミッションコンプリート。
完璧なレミリアいじりである。
そんな二人の意味深な目線を感じ取り、立ったままキョロキョロと視線を彷徨わせていたレミリアだったが。
急に、その瞳が細くなる。
「深夜になったら、一度会議を開こう。少し話し合う必要がありそうだから、ゆっくりとね」
気付いたのだろう。
パチュリーと咲夜が、単なる遊び感覚でレミリアにちょっかいを出したことを。
だから静かな怒りを秘めた瞳を紅く燃え上がらせ。威嚇するように翼を大きく広げている。机を叩いた時の名残でそっとテーブルに触れさせていた片手。そこからは、ぎしぎしという、テーブルが軋む音が聞こえていた。
「フランに負けたからってそうそうイライラする事ないとおもうけど? それに会議を開いても首をしめるだけだと思うわよ、当然レミィの」
「っ! フランは今関係ないだろうっ! 古い仲だからここまでの暴言を許したが、これ以上はっ!」
いきなり妹の名前が出したことで、レミリアの怒りの炎に油を注ぐことになってしまう。けれど。そんなことはお構いなしに、パチュリーはじっと冷静な視線を向け続ける。
「だって、今、会議を開いたとして。私の不忠が問いただされたとするでしょ? じゃあその原因になった出来事は、となると。朝の出来事を明らかにしなくてはいけない。そうなったら私、反対意見出すわよ?」
「それがどうした、その程度で私が怯むと――」
「じゃあ、そもそも姉であるレミィが妹に弾幕勝負で負けるのが悪いんじゃないっ? てね。負けなければ今みたいな事件は生まれないし、威厳は保たれる」
「――っう゛」
ぴしっ
怒気に任せて、テーブルを再度叩こうとしていたレミリアが、石造のように固まる。それは彼女自身も自覚している、レミリア・スカーレットの汚点の一つなのだから。
そうやってしばらく動きを止めていたレミリアだったが、ぴんっと伸ばしていて羽を力なく畳み。その形を消してから、気まずそうに椅子に戻り、咳払い一つ。
「こほんっ! 会議は、なし……」
「そう、わかったわ」
「で、でもね。私がフランに屈したわけじゃないっ! あの子は私と違ってやることが少ないから美鈴や妖精たちと弾幕勝負で毎日遊んでいる。その絶対的な積み上げの時間の差で負けているだけで、天性の才能とか、知性とか、そういうのは負けてないから!」
確かに、レミリアのいうとおり。弾幕の基礎は、はるかにフランドールの方が習熟している。万全な基礎があるからこそ、応用も容易。トリッキーな動きをしながらも、圧倒的な威力の弾幕を放つことができる。
「知性、ねぇ。フランのことだけれど。最近、私の図書館で楽しそうに本を読んでいたりするわよ。小悪魔といっしょにね。下手したら知性でも追い抜かれかねないんじゃない?」
「読書か。ふーん、あの子もあの子なりに考えているのね」
「たまに、お姉様と一緒にお勉強してみたいとか言ってる。可愛いじゃない。不機嫌なときには『お姉様』が『あいつ』に変わるけれど」
「いつものことだから。気にしない」
「多少気にしてあげなさいよ、姉として『あいつ』と呼ばれないように努力をしてはどう?」
楽しいはずの夜更けのティータイムに、口うるさく言われ。顔を背けながら指でテーブルを叩く。けれどしっかりとパチュリーの言葉を聞き取り、重い息を吐いた。
「そうね、あの子には圧倒的に知識が足りないから……そろそろ良い頃合かもしれないね。でも、どうやってそれを行うか」
腕を組み。どうしたものかと、鼻を鳴らしていると。
こんこんっという控えめなノックの音が響いてくる。
命令を待たずに、咲夜は入り口まで足を運び。妖精メイドからの伝言を受け取って。
一瞬のうちにレミリアの横へと戻ってくる。
時間を止めて、時間を短縮したのだ。
ということは。
それだけ重要か、レミリアの判断を仰ぐ必要のある案件ということ。
「お嬢様、妙な客人がいらしたそうです。人間の女性のようですが、ときおり理解できない言葉を話すということらしく。しかも道に迷ったそうで一晩だけ泊めて欲しい、と」
「……霊夢でも、あの泥棒魔法使いでもない? ましてやあの奇跡とかいう胡散臭いヤツでもないのか?」
「ええ、そのようです。美鈴が足止めしているようですが、追い払いますか? それとも物理的に排除を?」
「そうね。あまり物騒な手段をとると古狸たちが騒ぎそうだから、人里へ送り届けるようにと美鈴に――」
「私は反対よ、レミィ」
どちらかというと、あまり面倒事を好まない。
そんなパチュリーが珍しく声を上げた。しかも手間のかかる方向に。
驚き、言葉を止めた二人を前に、パチュリーは、ただ冷静な声音で意見を述べた。
「今のところ憶測でしかないのだけれど、その娘は有効よ。とても価値があるわ。だから屋敷に招きなさい」
「単なる人間の娘が?」
「ええ、単なる人間の娘だからこそ、よ。あなたのいう『知識』にも、とても有効なはず」
そう言いながら、ふふっと新しい遊び道具を見つけた少女のように微笑んで。紅茶に口をつけた。
そして、一枚の紙を取り出したのだった。
◇ ◇ ◇
初日―― 紅 美鈴との接触。
美鈴は、困り果てていた。
門番として数多くの人間と会話をしたことがある彼女でも、こんなお客は初めてだったから。
「あの、ですから、私の一存じゃ決められませんよ。それにここは人間が入って安全といえるような場所ではありません。もしも、が簡単に起こる場所なんですから……え? 私も人間の癖に、って? 子供だと思って吸血鬼とか適当に言わないで、って? いや、ですから嘘なんて言ってませんって」
いきなり夜中に紅魔館にやってきて、泊めて欲しいと懇願してくる。
齢で言えば、十代中頃のショートカットの少女。硬そうな質感のロングパンツに、ふわふわした毛のついた黒っぽい上着を身に付けているが、明らかに人里の服装と雰囲気が違う。
試しに、人里から来たのかと聞いたら。
「え?」
まったく聞いたことのない地名を、言い切った。しかも自身満々に。当然知っているだろうという顔で。しかも何度か質問したせいで、話しやすい人物と受け取られてしまったのか。
「あの、え? め、めぇる? けーたぃ、でんわ?」
もう、わけのわからない言葉の乱舞をぶつけられる。
いくら武芸の達人の美鈴でも、空気の振動で伝わる音を避けることはできず、ただ棒立ちしながら冷や汗を流すだけ。
「それに、入っていいかどうかは私じゃなくて咲夜ってメイド長の方がですね。え? じゃあその人を出してって? もうお願いしてますよ、でも中々出てきてくれないんですから仕方ないじゃないですか。どうせ、またお嬢様を見てニヤニヤしてたりするだけ――」
サクッ
「――咲夜さん、いきなり後頭部は酷いと思うんですよ?」
壁に耳あり、障子に目ありならぬ。
門に美鈴あり、屋敷に咲夜あり。
ちょっとだけ、悪口を言っただけなのに鋭いものいきなり美鈴に突き立った。
紅魔館ではいつもの風景、ありきたりな出来事なのだが。
今、ここには普通の。
人間の少女がいる。
美鈴の後頭部にナイフが刺さった瞬間を直視した少女は、一瞬動きを止め。その場にへたり込み。発狂したように泣き叫ぶ。
そりゃあ、そうだろう。
普通の人間からしてみれば、明らかに殺人現場である。
「あーあ、泣かしちゃった咲夜さん」
「あなたのその不必要なほどの頑丈さが悪い。とりあえず、頭の上のナイフを抜いて手品だとでも言えばいいでしょう?」
「それもそうですね」
いまさらながら、美鈴はぽんっと頭にナイフが刺さったとは思えないほどコミカルな音を立ててナイフを引き抜くと。ほらほら、と、すでに傷口が消えた後頭部を少女に見せた。それで少しだけ落ち着きを取り戻した少女は、涙の溜まった瞳で新しくその場に加わった咲夜を見て。
何故か美鈴の影に隠れた。
「……やっぱりわかるんですね、危険度が」
「後で、覚えておきなさいね」
「こ、こほんっ! 紅美鈴、本日も立派に門番を務めさせていただきますので、咲夜さんもどうぞご自分のお仕事をっ!」
そう言って、少女を前に押し出す姿を見て。
咲夜は、呆れたように息を吐いたのだった。
初日―― 紅魔館。
二人の間に会話はない。
いや、言葉を交わしはしたが、それを会話と読んでいいかは危うい。咲夜が説明したことといえば。
「ここは、紅魔館、吸血鬼が住まう屋敷よ。お嬢様はとても慈悲深きお方だけれど無礼のないように」
としか。
少女が、泊めてくれるのか。
ご飯を分けてもらうことはできないか、と尋ねても。
「判断するのは私ではありませんので、お嬢様にお聞きください」
決められた言葉だけが返ってくる。
なので少女は途中から会話を諦め、屋敷の中の置物や絵画を眺める作業に没頭した。そうしている間に、大きな扉が目の前に出現する。
「謁見の間です。お嬢様にくれぐれも失礼のないよう」
重そうな扉を咲夜は片手で開き、人間の少女を室内へと案内する。その部屋はレミリアの趣味で作られた、客間代わりの部屋。城に住む王様のように、赤い絨毯がまっすぐ部屋の中心を通り、ある大きな一つの椅子へと続く。
そこにはすでに、悠々と佇む、一人の少女が腰を下ろしていた。
「ようこそ、人間よ。私の屋敷へ。ふふ、そんな堅苦しい挨拶はいらないわ、楽にしなさい。私はこの館の主、レミリア・スカーレットよ」
人間の少女が、部屋の雰囲気に飲まれ声を詰まらせながら挨拶をすると、レミリアは満足そうに笑みを漏らす。人間の少女がレミリアを、吸血鬼を畏怖し震えていたから。それで上機嫌になったレミリアは、黒い羽を広げてより一層凄さを見せ付け――
「ん? なんだって? 可愛い?」
不意に人間の少女から漏れた言葉に、レミリアは眉を吊り上げる。
「……な、人間ごときが、私を『ちゃん』付け、だと? 咲夜っ! ここまで連れて来る間に何をしていた! ちゃんと吸血鬼なるものの存在をだねっ! ぇ? そうなの、パチェが大人しくしろって? 何で私がそんなものに従う―― ふーん、まあ、最終的にそうなるならいいけど」
レミリアが椅子から立ち上がろうとしたのを抑えるように、慌てて少女の側から主の横に移動し、耳打ちする。するとうんうん、っと何かを納得し再び席についた。
「こほん、で、人間、この館に何を望むんだって? 一宿一飯? ふーん、咲夜、あなた用の食料って余分なのあった? あるなら、分けてあげなさい。……で? まだ何かあるの? はぁ? 私の両親はどんな仕事をしてるか? いつ帰ってくる? 悪いけど、そんなものもう居ないわよ」
レミリアがぶっきらぼうにそう答えた途端、少女は何を思ったか瞳を潤ませる。そしてにっこりと微笑みかけて。
「えーっと、何? あなたと、私が同じ? あなたも両親がいないってことね。そんなことで泣く必要もないと思うのだけれど、意味不明ね人間ってやつは。咲夜、後任せた」
始終、その人間の少女にペースを崩されたレミリアは羽を動かし、空を飛ぼうとして。
何かに思い当たる。
はぁ、と小さく息を吐いたレミリアは、面倒くさそうに帽子の上から頭を掻いて、ぴょんっと椅子から飛び降りると。すたすたと出口に向かって歩いていく。
「あと、面倒だけれど、私とその子の料理、時間を合わせて出すように」
それだけを言い残すと。
レミリアは、ばたんっという大きな扉の音を残して部屋から出て行った。その場に残された咲夜と人間の少女は、何も語らないまましばらく立ち尽くし。
「はい、なんです? お嬢様を不快にさせてしまったか、ですか。そういうことではありませんよ、お嬢様はただ――」
咲夜は、表情を崩さないまま言葉を捜す。
この少女にあまり悪い印象を与えることなく、今の不機嫌なレミリアの状況を説明しようと。
そしてとうとう、ある一つの言葉にぶつかった。
「お嬢様はただ、ツンデレなだけです」
◇ ◇ ◇
初日―― 食後の深夜
人間の少女は、とある大きな図書館に通されていた。
そこで咲夜と分かれ、一人の少女に招かれるまま部屋に入れば、身長の三倍はあろうかという本棚の群れが目に入った。
「ささ、どうぞこちらに」
そんな山のような本に目を奪われて足を止めてると、人間の少女を促すように後ろからまた新しい女性が姿を現し、背中を軽く押してくる。その多少強引な行動に従わされるまま、人間の少女は席に付く。
「あら、はじめまして。お待ちしていたわ」
パチュリーは人間の少女が座ったことを確認してから本を置き、テーブルの上で肘をつく。
「わたしはパチュリー・ノーレッジ、あなたの名前は咲夜から聞いたからいいわ。それと元気の良い食べっぷりも。ん、レミィがツンデレ? ツンの要素あったかしら……ただ、なんとなく強気で我侭っていうのが当てはまるのなら正解だけれど」
少女はレミリアといっしょに食事を終えた後、このパチュリーに呼び出されていた。
『一宿一飯の礼として、話に付き合って欲しいから』そう、咲夜に伝えて、食事が終わり次第連れて来るように、と。
もちろん理由は、魔女であるパチュリーの知的探究心のため。
「なるほど、一応これまでの経緯から判断して。あなたは別の世界の人間。この世界で言う外来人に違いないわ。え? そんなことがあるはずがない? ふーん、なかなか頑固者ね、あなた。じゃあ、レミィが吸血鬼ってことも信じていない? そう、素直でよろしい。かくいう私も、人間じゃなく魔女という種族なのだけれど、信じないわよね」
少女は素直にこくり、と、頷いた。
レミリアの背中から生えた羽も、単なる服かおもちゃだと思っている、と答えた。人間だと思っていると。
「なら、この紙に名前を書いて御覧なさい。これは魔女の契約書」
パチュリーは、一枚の紙を懐から取り出し、少女の前に出した。その紙には不思議な模様が書かれていて、少女には絵なのか字なのかすらわからない。単なる古ぼけた羊皮紙に見えるのに、言い知れぬ威圧感を放ってくるようだった。
「この紙には、『あなたは本に触れることができない』そう書かれてある。これにあなたの名前を書き込めば、その契約書の内容を破ることができなくなる。そんなことが可能なら、それは魔法だと思わないかしら?
ええ、そうよ、そこに名前を書くの。魔法を信じていないなら、書けるはずよね?」
挑戦的に微笑みパチュリーに乗せられ、少女は名前をその紙に加えた。
それを見届けたパチュリーは、一冊の本を少女の前に差し出す。
『触れてみなさい』
その意図は簡単に読み取れた。
だから少女はなんの疑いもなく、それに手を伸ばす。魔法なんてあるはずがないと、信じ込んで。
しかし――
本まで、あと数ミリ。
爪で引っかけば触れられそうな位置で、
少女の手が動かなくなる。
引くことはできるが、どうしてもそれ以上前に進まない。
まるで、手だけがパチュリーのものになってしまったかのように。
あれ? と首を捻ってもまるっきり理屈がわからない。
「理解した? 種も仕掛けもない。手品、それが魔法というものよ」
そして、パチュリーがその契約書を魔法で灰にした瞬間。
彼女の指がなんの抵抗もなく本へと触れた。
と、同時に。
がたがた、と。
少女は音を立てて全身を振るわせ始める。
パチュリーが魔女ということが真実なら……
「……そうよ、この館は正真正銘、吸血鬼の屋敷。言うなればレミリアにとってあなたは食料同然。あなたがどうしてこの世界に迷い込んだか、そんな事情なんて知ったことではないけれど。その命の危険性は理解できるわね?」
こくこくっ
少女は首を縦に振り、いきなり『ごめんなさい』と謝りだした。レミリアに生意気を言ったことを思い出して、急に怖くなったのだそうだ。仕返しに食べられてしまうんじゃないかと。
「そう、怖いのね。でもレミィは、あなたと一緒にご飯を食べたんでしょう? そのとき、血なんて食べていたかしら? ちゃんとあなたに合わせて、普通の食事を取っていたでしょう?」
しかし、パチュリーがそのことを思い出させると、少女の表情から少しだけ恐怖の感情が消える。
「それに、ほら。これ、あなたが理解できると思う言語で書いた契約書なのだけれど、ここに書いてあるでしょう? レミリアの名前で。あなたを食べないって。そうそう、もちろん私もあなたを食べるつもりなんてないし、門番の美鈴も同じ。咲夜は人間だから論外ね」
不意にパチュリーが差し出した新しい契約書。
そこには、こんなことが書かれていた。
①私、レミリア・スカーレットは館にいる外来人の命を奪わない。
②私、レミリア・スカーレットは外来人を外傷を負わせない。
しかし、それ以外のことも契約書には記されており。
③外来人はこの契約書が記されてから24時間の間に、一度だけ、無条件でレミリアに助力すること。ただし①、②の事項が優先される。
④外来人はこの館の住人、レミリアに親しき相手に対し。その者が持たない知識を知るための行動を全面的に受け入れ、協力すること。
少女はこれは一体どういうことか、と。パチュリーに訪ねた。
するとパチュリーはなんの動揺も見せず、じっと少女を見つめ返す。
「あなたはこの幻想郷と呼ばれる世界の外、私たちが知りえない情報を有している。それを恩として返してはどうか、と提案しただけなのだけれど。気になる文面があれば訂正してもいいし、別に契約しなくてもいいわよ? ん? やっぱり命の保証のために契約したい? この内容のままで? なら、名前を書いてちょうだい」
少女は、迷うことなくその書類に筆を走らせ。
自分の名前を刻んだ。
と、それを確認した直後。
「こぁ、筆記係よろしく」
「はい、パチュリー様っ!」
さっき少女を無理やり席につかせた小悪魔がパチュリーの横に座り白い紙と万年筆を取り出した。
なんのつもりかと、少女が尋ねると。
パチュリーは平然と、こう告げる。
「契約書のとおり、私の知らない知識を教えてもらおうかと思ってね。オールナイトで」
その後、少女は半ば意識がなくなるまで、パチュリーの知識探求のためにこき使われつづけたのだった。
もちろん。
朝まで……
じゃなくて、昼まで……
◇ ◇ ◇
二日目―― 廊下にて
「……えーっと、なんかふらふらだけど、大丈夫?」
パチュリーの束縛から逃れてから、泥のように眠ること数時間。
契約の力で起こされた少女は、半ば眠ったままレミリアの後ろを付いていく。レミリア曰く『少し手伝ってほしいことがある』そうで、契約書の③に該当した。無理やり契約にしばられているとは言え、食事と宿を与えられたという恩義もあるのか。レミリアが心配そうに声を掛けても『大丈夫』と少女は言い続けた。
「そう、じゃあついて来て」
そう言ってレミリアは昨日少女を通した広間を抜け、とある一つの、わかりにくい場所にある階段を下りていく。小さいながらも素早い動きなため。人間の少女はそれについていくので精一杯。慣れた様子で、一段飛ばしで下りていくレミリアに対し。眠気のせいで体が自由に動かず一段一段ゆっくりとしか足を進められない少女。
とうとう業を煮やしたレミリアは、通路の中で体を浮かせると。
少女を抱きしめて、一気に目的地まで空を飛ぶ。
睡魔による脱欲感と。
浮遊感。
その二つに襲い掛かられた少女は、一瞬だけ意識を手放しそうになるが。
「ほら、ついたわよ」
着地の衝撃で、はっと瞳を開ける。
その瞳に最初に移ったのは、木製の豪勢な扉。
それを見ただけで、この部屋が使用人のために用意された場所でないことが理解できる。
「ここが、私の部屋か? ですって? 違うわよ。私の妹の部屋よ、ちょっと元気が良すぎるのが玉に瑕の、ね」
少女が、働かない頭でぼーっとその言葉を聞いている間に。
レミリアはコンコンと扉をノックし、返事を待つよりも先に部屋に入る。そうやって一歩足を踏み出した途端っ。
「お姉様っ!!」
レミリアに金色の髪をした弾丸が襲い掛かってきて。
ずどーんっ
と、物凄い音と誇りを舞い上がらせながら、少女の横を通り過ぎ。
廊下の壁に激突して、やっと止まる。
「……ふ、ふら、んっ……? ちょっと、はしゃぎ過ぎ……」
「えー、いいじゃないっ! だって楽しみだったんだものっ! 今日は一日、ずっと遊んでくれるのでしょう?」
「ええ……そのつもりだから、はやく私の上から、おどきなさいっ! 苦しいじゃないの。それにお客様も驚いてしまっているわ」
「お客さん?」
廊下でレミリアに馬乗りになった状態のフランドールは、その無邪気な視線を横に動かし。
先ほどから唖然とその様子を見守る人間の少女と目があった。
すると瞬く間にその顔が満面の笑みに変わっていく。
「素敵だわ、お姉様っ! 三人で遊べるなんて。お客様は何枚スペルカードをお持ちなのかしら? あれ? どうしたの?」
「ああ、もう、だからどきなさいっ!」
「わ、わぁっ!?」
なかなか動こうとしないフランドールを無理やり羽で弾き飛ばし。服の埃を払いながらレミリアが起き上がる。
一通り服を綺麗にしてから、置いてけぼりにされていた人間の少女の横に立ち。
こほんっと咳払いをしてから。
「残念だけど、フラン。今日は弾幕はなし」
「えぇっ!? じゃあどうやって遊ぶっていうのっ!」
「そもそも、遊ばないわ。今日はお勉強をするの」
「嫌よ! 私は、お姉様と一緒に遊べるって聞いていたもの。勉強なんてしたくないっ! それにお勉強なら図書館でやるもん!」
「あー、もう、だから。話は最後まで聞きなさい。とりあえず入るわよ」
廊下で話し合っていても仕方ない。
そう判断したレミリアは二人を強引に引っ張ってフランドールの部屋へと入る。ただその部屋は少しだけ変わっていて。
半分は普通の女の子の部屋。
クローゼットや、可愛いベッドが設置されていたけれど。
もう半分は。まるで殺風景。
部屋の隅には妙な染みまで残っていて、異常さをより一層引き立てていた。
「フラン、別に文字を書いたり、読んだりすることだけが勉強じゃないのよ。あなたが言う弾幕勝負だって、ある意味戦いの駆け引きを知る勉強になるのだから」
「んー、本当?」
「ええ、本当よ。私があなたに嘘をついたことがあったかしら?」
「一杯ある」
「そうね、でも今回は本当だから安心しなさい。きっと、びっくりするほど興奮するわよ」
「ふーん、そーなのかー」
「変な妖怪の真似しなくていいから……とにかく、今日はお客様が協力してくださるそうだから、あなたもしっかり覚えるのよ?」
そう言って、レミリアは少女から手を離し。
フランドールの手を握ってベッドの近くまで移動し、何かを耳打ちする。すると、フランドールの表情がぱぁっと明るくなる。
勉強をすると告げられたときの、あの沈んだ顔とはまるで違う。
子供本来の愛らしさがそこにあった。
「じゃあ、フラン、ちゃんとお願いできる? お客様に丁寧に、気持ちを伝えるのよ」
「もー、わかったよ! お姉様は心配性なんだからっ!」
それでも、フランドールの瞳をまっすぐ見つめて。
まるで母親のように口うるさく言うレミリアを見ていた人間の少女からは自然な笑みが零れていた。
吸血鬼と言っても、中身は全然人間と変わらない。
とても家族愛に溢れた種族なんだ、と。
そんなことを思ったのかもしれない。
そんな笑みを浮かべる少女に、フランが後ろで手を組んだまま跳ねるように近づいてきて。
「ねえ、お客様、フランお願いがあるの。私こういうこと初めてだから全然わからなくて、だっていつも形が違うんですもの。だから、お願い――」
にこにこと微笑み、無垢な瞳で見上げ。
「――フランに、血が一番美味しいところ、教えて♪」
――あれ?
少女は、耳を疑った。
耳を疑ってが、ただそれだけ。
恐怖し叫ぼうとしたが、叫ぼうとしただけ。
体はその、フランドールの言葉に反応し。
服を脱ぎ。
無防備な首筋を晒したまま、膝をついた。
ちょうどフランドールの唇に首筋が触れるような高さに。
いくら逃げ出そうとしても体が反応しない。
いくら必死に頭で否定しても体が反応しない。
だって。
彼女はもう。
魔女と契約を結んでしまったのだから。
「お、お姉様。ここ? ここをかぷってすればいいのかしらっ!」
「そうよ、フラン。ストローでジュースを吸い上げる。それをイメージしながら突き立てるのよ」
「はぁぁ~~い♪」
かぷっ
そして、人間の少女の意識は、途切れた。
◇ ◇ ◇
契約にはこうあった。
レミリアが彼女に危害を加えない。
ということは、つまり。
レミリア以外が危害を加える可能性なんていくらでも残されていた。
それでも人間が急いで名前を書いてしまったのは、吸血鬼は人間を襲うという固定観念を強く持っていたことと。この屋敷にもう一人吸血鬼がいることをしらなかったから。
卑怯?
なんのことかしら?
私は確かに、言ったわよ?
『訂正を受け入れる、と』
なのに修正を加えなかったあの子が悪い。
あの子が勝手に勘違いして。
吸血行為をしたことのない。
吸血鬼としての知識のない、フランドールの下僕に成り下がった。
たったそれだけのことだもの。
……ねぇ? 小悪魔?
二日目―― 客人が消えた夜
「うわぁ、さすが、パチュリー様。外来人は襲っちゃいけないっていう人里ルールの枠を綺麗に外して、レミリア様に姉らしい行動を取らせるとは」
「一応、親友だもの。それくらいの協力してあげないとね。あ、そうだ。こぁ、そこの木箱、白紙の契約書入れだから、倉庫に片付けてきてもらえる? 結構水分とか気を使うのよ」
「はぁーい、わかりましっ――はぅっ!!」
ぱたんっ
「何してるのよ、まったく」
「え、えへへ、すみませっ あ、あぁぁっ! 箱がっあわわわっ!」
「慌てないで、倉庫にもうひとつあるから。持ってきて」
「はーい」
たったったった……
ガラガラ……
――あ、あぶなかったです。
マジックアイテムの扱いは細心の注意を払わないといけないというのに。
私ってば、またパチュリー様にご迷惑になることを。
こうなったら素早く箱を見つけてお持ちするしかありませんよ。
えーっと、木箱、木箱っと。えっとこれでしょうか。ちょっと古いですけど、そっくりですものね。そーっとそーっと…………
へ、へくしっ
ぼふんっ!
あ、あわわわっ!?
け、契約書が、飛んでっ
ふ、ふぅぅ……
助かりました。これ以上失敗したら、どうなることか。白紙とは言え一枚足りとも紛失させることがあっては。
「――あれ?」
白紙じゃ、ない?
えっとどなたと契約を結ばれたのでしょう。
えっとお名前の項目は、と。
『契約書 レミリア・スカーレット』
『契約書 フランドール・スカーレット』
これは驚きですね!
しかも、そんなに古くない。
最近書いた契約書みたいです。
さすがパチュリー様と言いましょうか、あのお二人にまで契約を書かせるとは。
えっと……ちょっとだけ……覗いてみても、いいですよね。
うん、ちょっと探すのに時間がかかったことにして。
こんなの見せられて、黙って片付けるほうがおかしいですものね。ええ。
えっと、まずはレミリアお嬢様から。
あ、やっぱり変なことは書いてありませんね。
レミリアお嬢様が困難に陥ったときは、パチュリー様に命の危険性がない限り助ける、とか中途半端に友情たっぷりです。はい。
お嬢様のほうは、あれですね。
『パチュリーに命の危険が迫ったとき、その原因を排除することが可能であるなら全力で排除する』
まあ、なんて献身的。
どちらが主かわからなくなってしまいます。ホント。
そして、えー、次はフランドール様の方ですね。
いやぁ、実にわかりやすい。
パチュリー様がフランドールお嬢様に危害を加えないと約束する代わりに、弾幕勝負を含めた遊びに関係したことも、パチュリー無理強いしないこと。能力も向けてはいけない、ということですね。ええ。
ええーっと、ああ、例外もあるんですか。
どれどれっと。
『ただし、レミリアがフランドールの側にいた場合のみ、フランドールは全力でパチュリーと遊んでよいものとする』
ああ、なるほど。
やっぱりその方がいいですよね。うん。
だってフランドールお嬢様の弾幕とか魔力とか危ないですしね。
この前、私が遊び相手に選ばれたときはもう、生きた心地がしませんでしたよ。ですからやっぱりレミリアお嬢様が付いていれば、安心――
「あれ?」
えっと、えっと……
「あれ?」
おかしい、ですね。
じゃあもし、その。
レミリアお嬢様とフランドールお嬢様がパチュリー様と一緒にいて。
もし、フランドール様が、何かのきっかけで……
パチュリー様に致死量の魔力をぶつけようとしたら……
「あれ?」
おかしい、ですよね。
あはは、はははっ
そんなこと、ありませんよね。
親友である、パチュリー様がそんなことを企てるなんて、あは、あはは。
し、しかし、この危険性は一度お嬢様にお話した方が――
「――あれ?」
「こぁ~~、箱まだ?」
「はぁい、今見つけましたので、少々お待ちくださいね♪」
契約書――
もし、使い魔がパチュリーが口にしない、重大な事実を知ったとき。
自動的に忘却するものとする。
パチュリー・ノーレッジ 小悪魔
紅の悪魔、そう呼ばれるレミリア・スカーレットの自室では、親友のパチュリーを招いてお茶会が開かれていた。テーブルには高級そうなカップが二つ、それに焼きたてのクッキーが添えられている。だが、これはあくまでもティータイム用のお菓子であり、小食なレミリアの主食の一つ。人間の血が加えられたデザートではない。
「ん、そうね。美味しかったわよ」
しかも寝起きなんて、重い食事を見ただけで嫌そうな顔をするので。咲夜が気を使って油っけのないスイーツを作ることが多く。そのすっきり系代表が喉越し快適なプリンなのである。レミリア曰く、『淑女たるもの、ディナーのカロリーバランスに気を使わないといけない』ということらしいが、単なる好みの問題だということは周知の事実である。
「咲夜の作るものは、なんだって最高だもの」
それ以外の要素があるとすれば。
レミリアがスプーンを持って幸せそうにプリンを頬張る姿を愛してやまない。
そんな瀟洒なメイド長がわざとそれを多く作っている、そんな説もあるが。
「お褒めに預かり光栄ですわ」
静かに、主の斜め後ろで頭を下げている姿を見ただけでは。主のそんな不恰好な態度を喜ぶようなメイドには見えない。やることなすことが完璧で、彼女一人がいれば紅魔館は安泰だとも言われるほど。
「咲夜の料理は隙がないものね。食事の必要ない私でも、娯楽としてまた食べたいと思ってしまうもの。だから、今日のプリンも最高だったのでしょうね」
「え、ええ、当たり前じゃない。あの、程よい甘さの中に広がる。甘酸っぱいハーモニーとでも言うのかしら。とても落ち着いた、私に相応しい味付けだわ」
胸に手を当て、その味を思い出すように天井を見上げる。
しかしその手を置いた胸や、肩、帽子という、彼女の身に付けている衣服はところどころ破れており。雰囲気を出そうとしているのに、しまらない。
「そう、味付けは良し、か。じゃあ舌触りは?」
「そ、そりゃあもぅ。あれよ、え~っと、ぷるぷるのしこしこ」
「しこしこ、って良くわからないんだけれど。まあいいわ。口どけは?」
「く、口どけはあれね、ほら、こう、ざーっと洪水のような勢いで」
「……へぇ、じゃあ香りは、後味は?」
「う、あ、えっとね。その、あの……うー、うぅーー」
食べたはずのデザートの質問をされただけなのに、しどろもどろになり。言葉を詰まらせる。そしてついにテーブルに肘をついた状態で頭を抱えてしまった。
そのまましばらく、唸り声を上げるレミリアだったが。
観念した様子でテーブルを叩いた。
「わかったよ! 正直に言えばいいんだろう!」
ばんっ
「負けたわよ! 朝のプリン争奪弾幕勝負でっ!」
ばんっ
「フランにっ!」
ばんっばんっ!
「で、でもね。咲夜のカステラだって美味しかったわっ!! すごくっ! すごくねっ!!」
そうやってカップが飛び上がるほど激しくテーブルを叩き、最後は立ち上がってパチュリーを指差した。その指先が震えているのは、怒りのせいか。それとも興奮によるものか。はたまた羞恥心によるものか。
しかし、パチュリーは落ち着いた様子で頬杖をつき、中央のクッキーへと手を伸ばす。
「……でも、本心ではプリンが食べたかった。あ、これ程よい甘さで美味しい」
「く、こ、このっ! う、うぅぅぅぅーーーーっ! さぁーくぅーやぁーっ! パチェが不忠義すぎるっ! なんとかしてっ!」
パチュリーに向けた腕をぶんぶんっと振り、涙目なって頬を膨らませる。
威厳とかカリスマがマイナスベクトルをひた走る中、レミリアは最後の切り札、咲夜の手腕を持ち出す。忠誠を誓う彼女なら、この場を適度に静めてくれるはず。そんなレミリアの期待を一身に背負い、咲夜は一礼しながら主の横に立つ。
「ご安心ください、お嬢様。すでに今の愛くるし――いえ、カリスマが溢れ過ぎて、だだ漏れしているお姿はドアの隙間から天狗が撮影していきました。永久保存版です」
「さすがね、咲――あれ? 対処法違ってない?」
「いえ、お嬢様。私は最善の手を尽くしたまで。当然写真は紅魔館のみで配布されますので。きっとパチュリー様もその写真を見れば忠義の心を思い出すかと」
小動物を守りたくなる感情で。
咲夜は、危うく続けてしまいそうになった言葉を止め、にっこりと主に微笑みかける。
「さすがね、咲夜。レミィの従者にしておくのは惜しいくらいのソツのなさだわ」
「パチュリー様こそ隙がまるで感じられません。さすが長いお付き合いでいらっしゃる」
ビシッ
歴戦の占有がお互いを称えるように見つめあい、親指を立て合う。
まさしく、ミッションコンプリート。
完璧なレミリアいじりである。
そんな二人の意味深な目線を感じ取り、立ったままキョロキョロと視線を彷徨わせていたレミリアだったが。
急に、その瞳が細くなる。
「深夜になったら、一度会議を開こう。少し話し合う必要がありそうだから、ゆっくりとね」
気付いたのだろう。
パチュリーと咲夜が、単なる遊び感覚でレミリアにちょっかいを出したことを。
だから静かな怒りを秘めた瞳を紅く燃え上がらせ。威嚇するように翼を大きく広げている。机を叩いた時の名残でそっとテーブルに触れさせていた片手。そこからは、ぎしぎしという、テーブルが軋む音が聞こえていた。
「フランに負けたからってそうそうイライラする事ないとおもうけど? それに会議を開いても首をしめるだけだと思うわよ、当然レミィの」
「っ! フランは今関係ないだろうっ! 古い仲だからここまでの暴言を許したが、これ以上はっ!」
いきなり妹の名前が出したことで、レミリアの怒りの炎に油を注ぐことになってしまう。けれど。そんなことはお構いなしに、パチュリーはじっと冷静な視線を向け続ける。
「だって、今、会議を開いたとして。私の不忠が問いただされたとするでしょ? じゃあその原因になった出来事は、となると。朝の出来事を明らかにしなくてはいけない。そうなったら私、反対意見出すわよ?」
「それがどうした、その程度で私が怯むと――」
「じゃあ、そもそも姉であるレミィが妹に弾幕勝負で負けるのが悪いんじゃないっ? てね。負けなければ今みたいな事件は生まれないし、威厳は保たれる」
「――っう゛」
ぴしっ
怒気に任せて、テーブルを再度叩こうとしていたレミリアが、石造のように固まる。それは彼女自身も自覚している、レミリア・スカーレットの汚点の一つなのだから。
そうやってしばらく動きを止めていたレミリアだったが、ぴんっと伸ばしていて羽を力なく畳み。その形を消してから、気まずそうに椅子に戻り、咳払い一つ。
「こほんっ! 会議は、なし……」
「そう、わかったわ」
「で、でもね。私がフランに屈したわけじゃないっ! あの子は私と違ってやることが少ないから美鈴や妖精たちと弾幕勝負で毎日遊んでいる。その絶対的な積み上げの時間の差で負けているだけで、天性の才能とか、知性とか、そういうのは負けてないから!」
確かに、レミリアのいうとおり。弾幕の基礎は、はるかにフランドールの方が習熟している。万全な基礎があるからこそ、応用も容易。トリッキーな動きをしながらも、圧倒的な威力の弾幕を放つことができる。
「知性、ねぇ。フランのことだけれど。最近、私の図書館で楽しそうに本を読んでいたりするわよ。小悪魔といっしょにね。下手したら知性でも追い抜かれかねないんじゃない?」
「読書か。ふーん、あの子もあの子なりに考えているのね」
「たまに、お姉様と一緒にお勉強してみたいとか言ってる。可愛いじゃない。不機嫌なときには『お姉様』が『あいつ』に変わるけれど」
「いつものことだから。気にしない」
「多少気にしてあげなさいよ、姉として『あいつ』と呼ばれないように努力をしてはどう?」
楽しいはずの夜更けのティータイムに、口うるさく言われ。顔を背けながら指でテーブルを叩く。けれどしっかりとパチュリーの言葉を聞き取り、重い息を吐いた。
「そうね、あの子には圧倒的に知識が足りないから……そろそろ良い頃合かもしれないね。でも、どうやってそれを行うか」
腕を組み。どうしたものかと、鼻を鳴らしていると。
こんこんっという控えめなノックの音が響いてくる。
命令を待たずに、咲夜は入り口まで足を運び。妖精メイドからの伝言を受け取って。
一瞬のうちにレミリアの横へと戻ってくる。
時間を止めて、時間を短縮したのだ。
ということは。
それだけ重要か、レミリアの判断を仰ぐ必要のある案件ということ。
「お嬢様、妙な客人がいらしたそうです。人間の女性のようですが、ときおり理解できない言葉を話すということらしく。しかも道に迷ったそうで一晩だけ泊めて欲しい、と」
「……霊夢でも、あの泥棒魔法使いでもない? ましてやあの奇跡とかいう胡散臭いヤツでもないのか?」
「ええ、そのようです。美鈴が足止めしているようですが、追い払いますか? それとも物理的に排除を?」
「そうね。あまり物騒な手段をとると古狸たちが騒ぎそうだから、人里へ送り届けるようにと美鈴に――」
「私は反対よ、レミィ」
どちらかというと、あまり面倒事を好まない。
そんなパチュリーが珍しく声を上げた。しかも手間のかかる方向に。
驚き、言葉を止めた二人を前に、パチュリーは、ただ冷静な声音で意見を述べた。
「今のところ憶測でしかないのだけれど、その娘は有効よ。とても価値があるわ。だから屋敷に招きなさい」
「単なる人間の娘が?」
「ええ、単なる人間の娘だからこそ、よ。あなたのいう『知識』にも、とても有効なはず」
そう言いながら、ふふっと新しい遊び道具を見つけた少女のように微笑んで。紅茶に口をつけた。
そして、一枚の紙を取り出したのだった。
◇ ◇ ◇
初日―― 紅 美鈴との接触。
美鈴は、困り果てていた。
門番として数多くの人間と会話をしたことがある彼女でも、こんなお客は初めてだったから。
「あの、ですから、私の一存じゃ決められませんよ。それにここは人間が入って安全といえるような場所ではありません。もしも、が簡単に起こる場所なんですから……え? 私も人間の癖に、って? 子供だと思って吸血鬼とか適当に言わないで、って? いや、ですから嘘なんて言ってませんって」
いきなり夜中に紅魔館にやってきて、泊めて欲しいと懇願してくる。
齢で言えば、十代中頃のショートカットの少女。硬そうな質感のロングパンツに、ふわふわした毛のついた黒っぽい上着を身に付けているが、明らかに人里の服装と雰囲気が違う。
試しに、人里から来たのかと聞いたら。
「え?」
まったく聞いたことのない地名を、言い切った。しかも自身満々に。当然知っているだろうという顔で。しかも何度か質問したせいで、話しやすい人物と受け取られてしまったのか。
「あの、え? め、めぇる? けーたぃ、でんわ?」
もう、わけのわからない言葉の乱舞をぶつけられる。
いくら武芸の達人の美鈴でも、空気の振動で伝わる音を避けることはできず、ただ棒立ちしながら冷や汗を流すだけ。
「それに、入っていいかどうかは私じゃなくて咲夜ってメイド長の方がですね。え? じゃあその人を出してって? もうお願いしてますよ、でも中々出てきてくれないんですから仕方ないじゃないですか。どうせ、またお嬢様を見てニヤニヤしてたりするだけ――」
サクッ
「――咲夜さん、いきなり後頭部は酷いと思うんですよ?」
壁に耳あり、障子に目ありならぬ。
門に美鈴あり、屋敷に咲夜あり。
ちょっとだけ、悪口を言っただけなのに鋭いものいきなり美鈴に突き立った。
紅魔館ではいつもの風景、ありきたりな出来事なのだが。
今、ここには普通の。
人間の少女がいる。
美鈴の後頭部にナイフが刺さった瞬間を直視した少女は、一瞬動きを止め。その場にへたり込み。発狂したように泣き叫ぶ。
そりゃあ、そうだろう。
普通の人間からしてみれば、明らかに殺人現場である。
「あーあ、泣かしちゃった咲夜さん」
「あなたのその不必要なほどの頑丈さが悪い。とりあえず、頭の上のナイフを抜いて手品だとでも言えばいいでしょう?」
「それもそうですね」
いまさらながら、美鈴はぽんっと頭にナイフが刺さったとは思えないほどコミカルな音を立ててナイフを引き抜くと。ほらほら、と、すでに傷口が消えた後頭部を少女に見せた。それで少しだけ落ち着きを取り戻した少女は、涙の溜まった瞳で新しくその場に加わった咲夜を見て。
何故か美鈴の影に隠れた。
「……やっぱりわかるんですね、危険度が」
「後で、覚えておきなさいね」
「こ、こほんっ! 紅美鈴、本日も立派に門番を務めさせていただきますので、咲夜さんもどうぞご自分のお仕事をっ!」
そう言って、少女を前に押し出す姿を見て。
咲夜は、呆れたように息を吐いたのだった。
初日―― 紅魔館。
二人の間に会話はない。
いや、言葉を交わしはしたが、それを会話と読んでいいかは危うい。咲夜が説明したことといえば。
「ここは、紅魔館、吸血鬼が住まう屋敷よ。お嬢様はとても慈悲深きお方だけれど無礼のないように」
としか。
少女が、泊めてくれるのか。
ご飯を分けてもらうことはできないか、と尋ねても。
「判断するのは私ではありませんので、お嬢様にお聞きください」
決められた言葉だけが返ってくる。
なので少女は途中から会話を諦め、屋敷の中の置物や絵画を眺める作業に没頭した。そうしている間に、大きな扉が目の前に出現する。
「謁見の間です。お嬢様にくれぐれも失礼のないよう」
重そうな扉を咲夜は片手で開き、人間の少女を室内へと案内する。その部屋はレミリアの趣味で作られた、客間代わりの部屋。城に住む王様のように、赤い絨毯がまっすぐ部屋の中心を通り、ある大きな一つの椅子へと続く。
そこにはすでに、悠々と佇む、一人の少女が腰を下ろしていた。
「ようこそ、人間よ。私の屋敷へ。ふふ、そんな堅苦しい挨拶はいらないわ、楽にしなさい。私はこの館の主、レミリア・スカーレットよ」
人間の少女が、部屋の雰囲気に飲まれ声を詰まらせながら挨拶をすると、レミリアは満足そうに笑みを漏らす。人間の少女がレミリアを、吸血鬼を畏怖し震えていたから。それで上機嫌になったレミリアは、黒い羽を広げてより一層凄さを見せ付け――
「ん? なんだって? 可愛い?」
不意に人間の少女から漏れた言葉に、レミリアは眉を吊り上げる。
「……な、人間ごときが、私を『ちゃん』付け、だと? 咲夜っ! ここまで連れて来る間に何をしていた! ちゃんと吸血鬼なるものの存在をだねっ! ぇ? そうなの、パチェが大人しくしろって? 何で私がそんなものに従う―― ふーん、まあ、最終的にそうなるならいいけど」
レミリアが椅子から立ち上がろうとしたのを抑えるように、慌てて少女の側から主の横に移動し、耳打ちする。するとうんうん、っと何かを納得し再び席についた。
「こほん、で、人間、この館に何を望むんだって? 一宿一飯? ふーん、咲夜、あなた用の食料って余分なのあった? あるなら、分けてあげなさい。……で? まだ何かあるの? はぁ? 私の両親はどんな仕事をしてるか? いつ帰ってくる? 悪いけど、そんなものもう居ないわよ」
レミリアがぶっきらぼうにそう答えた途端、少女は何を思ったか瞳を潤ませる。そしてにっこりと微笑みかけて。
「えーっと、何? あなたと、私が同じ? あなたも両親がいないってことね。そんなことで泣く必要もないと思うのだけれど、意味不明ね人間ってやつは。咲夜、後任せた」
始終、その人間の少女にペースを崩されたレミリアは羽を動かし、空を飛ぼうとして。
何かに思い当たる。
はぁ、と小さく息を吐いたレミリアは、面倒くさそうに帽子の上から頭を掻いて、ぴょんっと椅子から飛び降りると。すたすたと出口に向かって歩いていく。
「あと、面倒だけれど、私とその子の料理、時間を合わせて出すように」
それだけを言い残すと。
レミリアは、ばたんっという大きな扉の音を残して部屋から出て行った。その場に残された咲夜と人間の少女は、何も語らないまましばらく立ち尽くし。
「はい、なんです? お嬢様を不快にさせてしまったか、ですか。そういうことではありませんよ、お嬢様はただ――」
咲夜は、表情を崩さないまま言葉を捜す。
この少女にあまり悪い印象を与えることなく、今の不機嫌なレミリアの状況を説明しようと。
そしてとうとう、ある一つの言葉にぶつかった。
「お嬢様はただ、ツンデレなだけです」
◇ ◇ ◇
初日―― 食後の深夜
人間の少女は、とある大きな図書館に通されていた。
そこで咲夜と分かれ、一人の少女に招かれるまま部屋に入れば、身長の三倍はあろうかという本棚の群れが目に入った。
「ささ、どうぞこちらに」
そんな山のような本に目を奪われて足を止めてると、人間の少女を促すように後ろからまた新しい女性が姿を現し、背中を軽く押してくる。その多少強引な行動に従わされるまま、人間の少女は席に付く。
「あら、はじめまして。お待ちしていたわ」
パチュリーは人間の少女が座ったことを確認してから本を置き、テーブルの上で肘をつく。
「わたしはパチュリー・ノーレッジ、あなたの名前は咲夜から聞いたからいいわ。それと元気の良い食べっぷりも。ん、レミィがツンデレ? ツンの要素あったかしら……ただ、なんとなく強気で我侭っていうのが当てはまるのなら正解だけれど」
少女はレミリアといっしょに食事を終えた後、このパチュリーに呼び出されていた。
『一宿一飯の礼として、話に付き合って欲しいから』そう、咲夜に伝えて、食事が終わり次第連れて来るように、と。
もちろん理由は、魔女であるパチュリーの知的探究心のため。
「なるほど、一応これまでの経緯から判断して。あなたは別の世界の人間。この世界で言う外来人に違いないわ。え? そんなことがあるはずがない? ふーん、なかなか頑固者ね、あなた。じゃあ、レミィが吸血鬼ってことも信じていない? そう、素直でよろしい。かくいう私も、人間じゃなく魔女という種族なのだけれど、信じないわよね」
少女は素直にこくり、と、頷いた。
レミリアの背中から生えた羽も、単なる服かおもちゃだと思っている、と答えた。人間だと思っていると。
「なら、この紙に名前を書いて御覧なさい。これは魔女の契約書」
パチュリーは、一枚の紙を懐から取り出し、少女の前に出した。その紙には不思議な模様が書かれていて、少女には絵なのか字なのかすらわからない。単なる古ぼけた羊皮紙に見えるのに、言い知れぬ威圧感を放ってくるようだった。
「この紙には、『あなたは本に触れることができない』そう書かれてある。これにあなたの名前を書き込めば、その契約書の内容を破ることができなくなる。そんなことが可能なら、それは魔法だと思わないかしら?
ええ、そうよ、そこに名前を書くの。魔法を信じていないなら、書けるはずよね?」
挑戦的に微笑みパチュリーに乗せられ、少女は名前をその紙に加えた。
それを見届けたパチュリーは、一冊の本を少女の前に差し出す。
『触れてみなさい』
その意図は簡単に読み取れた。
だから少女はなんの疑いもなく、それに手を伸ばす。魔法なんてあるはずがないと、信じ込んで。
しかし――
本まで、あと数ミリ。
爪で引っかけば触れられそうな位置で、
少女の手が動かなくなる。
引くことはできるが、どうしてもそれ以上前に進まない。
まるで、手だけがパチュリーのものになってしまったかのように。
あれ? と首を捻ってもまるっきり理屈がわからない。
「理解した? 種も仕掛けもない。手品、それが魔法というものよ」
そして、パチュリーがその契約書を魔法で灰にした瞬間。
彼女の指がなんの抵抗もなく本へと触れた。
と、同時に。
がたがた、と。
少女は音を立てて全身を振るわせ始める。
パチュリーが魔女ということが真実なら……
「……そうよ、この館は正真正銘、吸血鬼の屋敷。言うなればレミリアにとってあなたは食料同然。あなたがどうしてこの世界に迷い込んだか、そんな事情なんて知ったことではないけれど。その命の危険性は理解できるわね?」
こくこくっ
少女は首を縦に振り、いきなり『ごめんなさい』と謝りだした。レミリアに生意気を言ったことを思い出して、急に怖くなったのだそうだ。仕返しに食べられてしまうんじゃないかと。
「そう、怖いのね。でもレミィは、あなたと一緒にご飯を食べたんでしょう? そのとき、血なんて食べていたかしら? ちゃんとあなたに合わせて、普通の食事を取っていたでしょう?」
しかし、パチュリーがそのことを思い出させると、少女の表情から少しだけ恐怖の感情が消える。
「それに、ほら。これ、あなたが理解できると思う言語で書いた契約書なのだけれど、ここに書いてあるでしょう? レミリアの名前で。あなたを食べないって。そうそう、もちろん私もあなたを食べるつもりなんてないし、門番の美鈴も同じ。咲夜は人間だから論外ね」
不意にパチュリーが差し出した新しい契約書。
そこには、こんなことが書かれていた。
①私、レミリア・スカーレットは館にいる外来人の命を奪わない。
②私、レミリア・スカーレットは外来人を外傷を負わせない。
しかし、それ以外のことも契約書には記されており。
③外来人はこの契約書が記されてから24時間の間に、一度だけ、無条件でレミリアに助力すること。ただし①、②の事項が優先される。
④外来人はこの館の住人、レミリアに親しき相手に対し。その者が持たない知識を知るための行動を全面的に受け入れ、協力すること。
少女はこれは一体どういうことか、と。パチュリーに訪ねた。
するとパチュリーはなんの動揺も見せず、じっと少女を見つめ返す。
「あなたはこの幻想郷と呼ばれる世界の外、私たちが知りえない情報を有している。それを恩として返してはどうか、と提案しただけなのだけれど。気になる文面があれば訂正してもいいし、別に契約しなくてもいいわよ? ん? やっぱり命の保証のために契約したい? この内容のままで? なら、名前を書いてちょうだい」
少女は、迷うことなくその書類に筆を走らせ。
自分の名前を刻んだ。
と、それを確認した直後。
「こぁ、筆記係よろしく」
「はい、パチュリー様っ!」
さっき少女を無理やり席につかせた小悪魔がパチュリーの横に座り白い紙と万年筆を取り出した。
なんのつもりかと、少女が尋ねると。
パチュリーは平然と、こう告げる。
「契約書のとおり、私の知らない知識を教えてもらおうかと思ってね。オールナイトで」
その後、少女は半ば意識がなくなるまで、パチュリーの知識探求のためにこき使われつづけたのだった。
もちろん。
朝まで……
じゃなくて、昼まで……
◇ ◇ ◇
二日目―― 廊下にて
「……えーっと、なんかふらふらだけど、大丈夫?」
パチュリーの束縛から逃れてから、泥のように眠ること数時間。
契約の力で起こされた少女は、半ば眠ったままレミリアの後ろを付いていく。レミリア曰く『少し手伝ってほしいことがある』そうで、契約書の③に該当した。無理やり契約にしばられているとは言え、食事と宿を与えられたという恩義もあるのか。レミリアが心配そうに声を掛けても『大丈夫』と少女は言い続けた。
「そう、じゃあついて来て」
そう言ってレミリアは昨日少女を通した広間を抜け、とある一つの、わかりにくい場所にある階段を下りていく。小さいながらも素早い動きなため。人間の少女はそれについていくので精一杯。慣れた様子で、一段飛ばしで下りていくレミリアに対し。眠気のせいで体が自由に動かず一段一段ゆっくりとしか足を進められない少女。
とうとう業を煮やしたレミリアは、通路の中で体を浮かせると。
少女を抱きしめて、一気に目的地まで空を飛ぶ。
睡魔による脱欲感と。
浮遊感。
その二つに襲い掛かられた少女は、一瞬だけ意識を手放しそうになるが。
「ほら、ついたわよ」
着地の衝撃で、はっと瞳を開ける。
その瞳に最初に移ったのは、木製の豪勢な扉。
それを見ただけで、この部屋が使用人のために用意された場所でないことが理解できる。
「ここが、私の部屋か? ですって? 違うわよ。私の妹の部屋よ、ちょっと元気が良すぎるのが玉に瑕の、ね」
少女が、働かない頭でぼーっとその言葉を聞いている間に。
レミリアはコンコンと扉をノックし、返事を待つよりも先に部屋に入る。そうやって一歩足を踏み出した途端っ。
「お姉様っ!!」
レミリアに金色の髪をした弾丸が襲い掛かってきて。
ずどーんっ
と、物凄い音と誇りを舞い上がらせながら、少女の横を通り過ぎ。
廊下の壁に激突して、やっと止まる。
「……ふ、ふら、んっ……? ちょっと、はしゃぎ過ぎ……」
「えー、いいじゃないっ! だって楽しみだったんだものっ! 今日は一日、ずっと遊んでくれるのでしょう?」
「ええ……そのつもりだから、はやく私の上から、おどきなさいっ! 苦しいじゃないの。それにお客様も驚いてしまっているわ」
「お客さん?」
廊下でレミリアに馬乗りになった状態のフランドールは、その無邪気な視線を横に動かし。
先ほどから唖然とその様子を見守る人間の少女と目があった。
すると瞬く間にその顔が満面の笑みに変わっていく。
「素敵だわ、お姉様っ! 三人で遊べるなんて。お客様は何枚スペルカードをお持ちなのかしら? あれ? どうしたの?」
「ああ、もう、だからどきなさいっ!」
「わ、わぁっ!?」
なかなか動こうとしないフランドールを無理やり羽で弾き飛ばし。服の埃を払いながらレミリアが起き上がる。
一通り服を綺麗にしてから、置いてけぼりにされていた人間の少女の横に立ち。
こほんっと咳払いをしてから。
「残念だけど、フラン。今日は弾幕はなし」
「えぇっ!? じゃあどうやって遊ぶっていうのっ!」
「そもそも、遊ばないわ。今日はお勉強をするの」
「嫌よ! 私は、お姉様と一緒に遊べるって聞いていたもの。勉強なんてしたくないっ! それにお勉強なら図書館でやるもん!」
「あー、もう、だから。話は最後まで聞きなさい。とりあえず入るわよ」
廊下で話し合っていても仕方ない。
そう判断したレミリアは二人を強引に引っ張ってフランドールの部屋へと入る。ただその部屋は少しだけ変わっていて。
半分は普通の女の子の部屋。
クローゼットや、可愛いベッドが設置されていたけれど。
もう半分は。まるで殺風景。
部屋の隅には妙な染みまで残っていて、異常さをより一層引き立てていた。
「フラン、別に文字を書いたり、読んだりすることだけが勉強じゃないのよ。あなたが言う弾幕勝負だって、ある意味戦いの駆け引きを知る勉強になるのだから」
「んー、本当?」
「ええ、本当よ。私があなたに嘘をついたことがあったかしら?」
「一杯ある」
「そうね、でも今回は本当だから安心しなさい。きっと、びっくりするほど興奮するわよ」
「ふーん、そーなのかー」
「変な妖怪の真似しなくていいから……とにかく、今日はお客様が協力してくださるそうだから、あなたもしっかり覚えるのよ?」
そう言って、レミリアは少女から手を離し。
フランドールの手を握ってベッドの近くまで移動し、何かを耳打ちする。すると、フランドールの表情がぱぁっと明るくなる。
勉強をすると告げられたときの、あの沈んだ顔とはまるで違う。
子供本来の愛らしさがそこにあった。
「じゃあ、フラン、ちゃんとお願いできる? お客様に丁寧に、気持ちを伝えるのよ」
「もー、わかったよ! お姉様は心配性なんだからっ!」
それでも、フランドールの瞳をまっすぐ見つめて。
まるで母親のように口うるさく言うレミリアを見ていた人間の少女からは自然な笑みが零れていた。
吸血鬼と言っても、中身は全然人間と変わらない。
とても家族愛に溢れた種族なんだ、と。
そんなことを思ったのかもしれない。
そんな笑みを浮かべる少女に、フランが後ろで手を組んだまま跳ねるように近づいてきて。
「ねえ、お客様、フランお願いがあるの。私こういうこと初めてだから全然わからなくて、だっていつも形が違うんですもの。だから、お願い――」
にこにこと微笑み、無垢な瞳で見上げ。
「――フランに、血が一番美味しいところ、教えて♪」
――あれ?
少女は、耳を疑った。
耳を疑ってが、ただそれだけ。
恐怖し叫ぼうとしたが、叫ぼうとしただけ。
体はその、フランドールの言葉に反応し。
服を脱ぎ。
無防備な首筋を晒したまま、膝をついた。
ちょうどフランドールの唇に首筋が触れるような高さに。
いくら逃げ出そうとしても体が反応しない。
いくら必死に頭で否定しても体が反応しない。
だって。
彼女はもう。
魔女と契約を結んでしまったのだから。
「お、お姉様。ここ? ここをかぷってすればいいのかしらっ!」
「そうよ、フラン。ストローでジュースを吸い上げる。それをイメージしながら突き立てるのよ」
「はぁぁ~~い♪」
かぷっ
そして、人間の少女の意識は、途切れた。
◇ ◇ ◇
契約にはこうあった。
レミリアが彼女に危害を加えない。
ということは、つまり。
レミリア以外が危害を加える可能性なんていくらでも残されていた。
それでも人間が急いで名前を書いてしまったのは、吸血鬼は人間を襲うという固定観念を強く持っていたことと。この屋敷にもう一人吸血鬼がいることをしらなかったから。
卑怯?
なんのことかしら?
私は確かに、言ったわよ?
『訂正を受け入れる、と』
なのに修正を加えなかったあの子が悪い。
あの子が勝手に勘違いして。
吸血行為をしたことのない。
吸血鬼としての知識のない、フランドールの下僕に成り下がった。
たったそれだけのことだもの。
……ねぇ? 小悪魔?
二日目―― 客人が消えた夜
「うわぁ、さすが、パチュリー様。外来人は襲っちゃいけないっていう人里ルールの枠を綺麗に外して、レミリア様に姉らしい行動を取らせるとは」
「一応、親友だもの。それくらいの協力してあげないとね。あ、そうだ。こぁ、そこの木箱、白紙の契約書入れだから、倉庫に片付けてきてもらえる? 結構水分とか気を使うのよ」
「はぁーい、わかりましっ――はぅっ!!」
ぱたんっ
「何してるのよ、まったく」
「え、えへへ、すみませっ あ、あぁぁっ! 箱がっあわわわっ!」
「慌てないで、倉庫にもうひとつあるから。持ってきて」
「はーい」
たったったった……
ガラガラ……
――あ、あぶなかったです。
マジックアイテムの扱いは細心の注意を払わないといけないというのに。
私ってば、またパチュリー様にご迷惑になることを。
こうなったら素早く箱を見つけてお持ちするしかありませんよ。
えーっと、木箱、木箱っと。えっとこれでしょうか。ちょっと古いですけど、そっくりですものね。そーっとそーっと…………
へ、へくしっ
ぼふんっ!
あ、あわわわっ!?
け、契約書が、飛んでっ
ふ、ふぅぅ……
助かりました。これ以上失敗したら、どうなることか。白紙とは言え一枚足りとも紛失させることがあっては。
「――あれ?」
白紙じゃ、ない?
えっとどなたと契約を結ばれたのでしょう。
えっとお名前の項目は、と。
『契約書 レミリア・スカーレット』
『契約書 フランドール・スカーレット』
これは驚きですね!
しかも、そんなに古くない。
最近書いた契約書みたいです。
さすがパチュリー様と言いましょうか、あのお二人にまで契約を書かせるとは。
えっと……ちょっとだけ……覗いてみても、いいですよね。
うん、ちょっと探すのに時間がかかったことにして。
こんなの見せられて、黙って片付けるほうがおかしいですものね。ええ。
えっと、まずはレミリアお嬢様から。
あ、やっぱり変なことは書いてありませんね。
レミリアお嬢様が困難に陥ったときは、パチュリー様に命の危険性がない限り助ける、とか中途半端に友情たっぷりです。はい。
お嬢様のほうは、あれですね。
『パチュリーに命の危険が迫ったとき、その原因を排除することが可能であるなら全力で排除する』
まあ、なんて献身的。
どちらが主かわからなくなってしまいます。ホント。
そして、えー、次はフランドール様の方ですね。
いやぁ、実にわかりやすい。
パチュリー様がフランドールお嬢様に危害を加えないと約束する代わりに、弾幕勝負を含めた遊びに関係したことも、パチュリー無理強いしないこと。能力も向けてはいけない、ということですね。ええ。
ええーっと、ああ、例外もあるんですか。
どれどれっと。
『ただし、レミリアがフランドールの側にいた場合のみ、フランドールは全力でパチュリーと遊んでよいものとする』
ああ、なるほど。
やっぱりその方がいいですよね。うん。
だってフランドールお嬢様の弾幕とか魔力とか危ないですしね。
この前、私が遊び相手に選ばれたときはもう、生きた心地がしませんでしたよ。ですからやっぱりレミリアお嬢様が付いていれば、安心――
「あれ?」
えっと、えっと……
「あれ?」
おかしい、ですね。
じゃあもし、その。
レミリアお嬢様とフランドールお嬢様がパチュリー様と一緒にいて。
もし、フランドール様が、何かのきっかけで……
パチュリー様に致死量の魔力をぶつけようとしたら……
「あれ?」
おかしい、ですよね。
あはは、はははっ
そんなこと、ありませんよね。
親友である、パチュリー様がそんなことを企てるなんて、あは、あはは。
し、しかし、この危険性は一度お嬢様にお話した方が――
「――あれ?」
「こぁ~~、箱まだ?」
「はぁい、今見つけましたので、少々お待ちくださいね♪」
契約書――
もし、使い魔がパチュリーが口にしない、重大な事実を知ったとき。
自動的に忘却するものとする。
パチュリー・ノーレッジ 小悪魔
正式な契約や約束は、命を左右する力があるのは現実でも変わりません。
そう思った自分はおそらく、騙されてもその事実を信じない人種なんでしょうな…お見事でした。
いい意味で裏切られた!
最後ちょっとぞくっとできたし、いいね!
冒頭と結末の落差に感動した。
ただの人間の少女が利用されたのはべつに構いませんけど、冒頭の流れからの落差で凄いヘヴィな気分になっちまっただorz
ところで、「契約」があればレミさんもフランにプリン食われずに済むんじゃないか?ww
ぱっちぇさん「らしい」魔女的な行動ですね。