光り輝く、黄金色の雪。それは風に乗るように空へと舞って、解けるように消えていく。
雪解けは春の季語だというのに、幻想郷はまだしばらく、冷たい冬が続きそうであった。
「……え、ちょっと、どういう、こと……」
呆然と、霊夢は誰もいなくなった鳥居を眺めていた。駆け寄ろうにも、駆け寄る相手はいなくなっている。
どうすれば良いのか判らず、霊夢は両腕を前に伸ばし、そのまま固まってしまった。
「なんで……」
何故消えたのか。何故消える必要があったのか。自分に問い掛けて、心は答えない。
だが、考えるまでもなく答えなんて出ている。
『それは駄目よ。博麗の巫女は、結界修復で一番重要な役回りなんだから』
『だからね、霊夢。よく見ておきなさい。これが私たちの現実よ』
あの二つの言葉の示すもの。それから考えれば、答えなんて一つ。
「そんなことの、為に……」
紫は霊夢に語ったことが真実だと証明する為に、その命を惜しげもなく散らした。
「あぁ」
重いものが体の内側から込み上げてくる。伸ばしていた腕を縮めて胸を押さえる。吐きたくはないが、気持ちが悪い。
「……なんで?」
これは、自分自身に対しての疑問だった。何故一人の妖怪が死んだくらいで、自分はこんなにも動揺をしているのだろう。
妖怪や人間に対して、霊夢は特に興味を持ってはいなかった。だから、妖怪に人が食わたと聞いても、面倒だけど退治しなければとしか思わず、弾幕ごっこで妖怪を退治しようが、特にこれといって感じるものはなかった。ならば何故か。
「なんでこんな、苦しい……」
霊夢は未だ、親しい者の死を知らなかったのだ。
誰かと親しくなっているつもりなんてなかった。けれど、宴を共にした人や妖怪や亡霊。それらを無意識の内に、霊夢は他とは違うよう区別していた。
胸を押さえながら鳥居に寄りかかる。そして大きく深呼吸を始め、自分の不安定になっている部分を落ち着けようとした。
「まったく……大厄日だわ」
スッキリとしたかと思うと次の瞬間には衝撃を受ける、その繰り返し。そしてそれにしても、今の衝撃は大きすぎた。
不意にザッと、神社に通じる石段から足音が響いた。その音の方角にすぐさま振り返ると、そこには珍しい人物が立っていた。
「……慧音?」
そこに居たのは、半獣人の上白沢慧音であった。
慧音は鳥居を見上げたまま、その場に立ち尽くしていた。
「珍しいじゃない。どういった御用かしら?」
霊夢はまだ落ち着いていない心を胸の奥に押し込めると、普段通りの表情で慧音に声を掛けた。
そう声を掛けられて、慧音は初めて霊夢に気付く。
「……あ。あぁ、博麗の巫女か」
驚愕の表情を貼り付けたまま、慧音はゆっくりと霊夢に視線を向ける。普段は欠かさない挨拶を忘れてしまうほどに、慧音は動揺していた。
「用事というわけでは……」
そこまで言ってから、ハッとして顔を上げると、今度は強く声を発した。
「そ、それより! 今消えたのは、大妖怪の八雲紫なのか!」
まるで睨むように、慧音は霊夢を見る。
その慧音の言葉を聞いて、霊夢は慧音が立ち尽くしていた理由を知った。
「あぁ……それで」
そして納得を口にする。けれど、それが答えではないと判ると慧音は憤った。
「答えなさい!」
動揺が強いらしく、冷静さを随分と欠いている。珍しいものだと、霊夢は少しだけ面白がった。
「そうよ。今消えたのは……そうよ」
名前を口にしようとして、胸の奥に仕舞った感情が跳ね上がった。うっかり言葉にすれば、自分は泣いてしまう。そう思い、霊夢は紫の名を呼ぶことを避けてしまった。
「やはり……では、これを……!」
その場で慧音は膝を折り、石段に座り込んでしまう。
「……やはり? やはりって、どういうこと?」
何気ない言葉ではあったが、その中で霊夢は敏感に気になる言葉を聞き取る。
「すまない。少し混乱している。話は少しだけ後にして欲しい」
頭を押さえ、必死に暴れる感情や情報を飲み干そうとしていた。
「ふぅ。別にいつでもいいわよ。でも、とりあえず神社に入らない? こんな所にいたら落ち着かないでしょう。お茶ぐらい出すわよ」
それに慧音は少し躊躇する。けれど、やがて小さく頷き、霊夢の後に続いて神社の境内へと入っていった。しかし、建物の中に入ることは遠慮をして、結局は縁側に腰を下ろすこととなった。
茶請けがなかったので、とりあえず茶だけを用意して慧音の横に置く。慧音は短く礼を言うと、無言で少しずつ茶を啜った。そんな慧音の横に座って、霊夢にしては珍しく、慧音が何かを言うまで沈黙して待つことにした。
霊夢の沈黙は、慧音の心配をしたからではない。自分自身も整理が付いていないことが多すぎて、沈黙は霊夢にとっても好都合だったのだ。
二人はゆっくりと茶を飲んでいき、ようやく慧音の湯飲みが空になった頃、慧音はぼうっと空を眺めている霊夢に軽く視線を向けた。
「さっきは、取り乱して申し訳なかった」
どうやら、突然怒鳴ってしまったことを恥じているようだ。
「気にしてないわよ」
ようやく慧音が話す気になったと感じると、霊夢はチラッとだけ慧音を見てから、視線を外した。お互いに、相手のことは見ていない。
「それで、話してもらえる?」
慧音がここに来た理由。そして、紫の消滅を「やはり」と言った理由。
「ああ。けれどまず、確認したいことがある」
言いかけて、淀む。
「ん、何?」
言うべきか言わざるべきかと悩んでいるようで、言葉がなかなか続かない。
「その、だな……結界について、紫から何か聞いていることはあるか?」
それを聞いて、今日紫から聞いたことの大半を、上白沢慧音は自分より先に聞いていたということを理解した。
「幻想郷結界っていうものと、それが今壊れそうだということ。それから、その一部が私たちだってことなら、ついさっき聞いたわ」
危惧されているであろうことが判ったので、要点をまとめて返答する。
「そうか」
あまり辛い事実だから言わない方が良いかと悩んでいた慧音は、知っていることを安心したような、知ってしまっていることを残念に思うような、そんな複雑な表情をした。
「その話を、私は昨日されたんだ」
慧音が言うには、昨日の夕方過ぎに、突然紫がやってきた。そしてどうしたのかと訊ねると、しばらく雑談となって、最後に霊夢と同じように幻想郷結界についてを語ったのだという。
「さすがに、話が話だけに完全には信用できなかった。そうしたら明日、つまりは今日、神社に来いと言われていた」
信用できないのなら、神社に来なさい。そう言うと、一通の手紙を渡し、そのまま挨拶をする間もなく去ってしまったのだ。
「それで、来てみれば……ってことね」
紫がすぐに帰ろうとせず、のんびりとしていたこと。それは、慧音が現れるタイミングを計ってのことであった。
「今度はそっちの様子も聞かせてもらえないか?」
「いいわよ」
霊夢は簡単に、先程の紫との会話内容を教える。それは、慧音が聞いたものと大差ないものであった。
「そして、後はあなたの見た通り。結界に触れて、消えてなくなったわ」
それをお互いに確認し合い、ハァと溜め息を吐く。どうしても、消滅したことについて納得がいかない。命を失うほどではないと、揃って思うのだ。
「ねぇ、やっぱり」
と、霊夢が口にした直後、強力な怖気が走った。
「紫様ぁ!」
雷鳴に似た空気の振動。その轟音に、神社が軽く震えた。
「今度は何よ!?」
「博麗、上だ!」
頭上を指差す慧音に従い、霊夢はジッと上を見上げる。すると、大空で叫び続ける狐が一匹。そして、最初から神社に霊夢と慧音が居たことには気付いていたようで、すぐに二人の前に降り立った。
「二人とも紫様を知らないか! 確かにここに居たはずなんだ!」
それは八雲紫の式神である九尾の狐、八雲藍。
「藍」
目の前に立った、気が気ではない表情に冷や汗を浮かべた藍を見て、霊夢は今更、主が消えれば式神はそりゃ気付くだろうなぁと思い至った。
「二人とも、紫様を、何があったのか!」
言葉が整理し切れておらず、文章として成立していない。
「とりあえず落ち着きなさいよ、藍」
その酷い狼狽する様を見かねて、霊夢は歩み寄りながら藍を落ち着かせようとした。
「落ち着いてられるか! 私の式が外れたんだぞ!」
それは、悲鳴に近かった。
式。それは、主が従者にかける命令をより細かく計算して、それを術として相手に憑依させるもの。そしてこれを憑かされたものを、ここでは式神という。
「気配が消えると同時に式が外れた……なんなんだこれは!」
今にも泣き出しそうなほど青い顔をして、衣服さえ僅かだが乱している。この藍の狂乱は、紫が消滅をしたという事実の信憑性を強めていった。
「そのことなら私たちが説明するから、とりあえず落ち着きなさい」
面倒だし言い難いと思いながらも、霊夢は事情を話そうとした。
「やはり知っているのか!」
と、どんな些細な情報でも欲しい藍は、霊夢に飛びついてガッチリと肩を押さえる。
「痛い痛い! ええい、だから落ち着け!」
ギリギリと万力のように握ってくる藍の手を、霊夢は肩を揺すってどうにか振り落とした。
「落ち着けぬと!」
手を振り払われた藍は、今度は全身で近付いてくる。
その様子に、なんだかムカムカと霊夢の中でストレスが溜まってきた。表情にも険しさが表れ始めている。
「落ち着いて深呼吸するまで話さないわよ!」
「なんだと!」
霊夢の棘のある言葉に、今度は藍までも敵意を見せ始める。
「おい、二人とも落ち着け」
見るに見かね、慧音も口を挟む。が、二人はそんな言葉に耳を貸さない。
「そんな血の上った頭で冷静に話が聞けるわけないでしょう!」
「主の一大事かもしれないのだぞ! これで落ち着けるはずがあるか!」
今にもどちらかが手を出しそうな状況にありながら、二人ともその一線は越えない。とはいえ、このままで行けば間違いなくどちらかが手を出すこととなる。
「お前たち、喧嘩をしたいわけではないのだろ」
慧音は諦めずに言葉掛ける。
「さっさと紫様についてを教えればいいんだ!」
「今のあんたの頭じゃ理解できないって言ってるのよ!」
「このっ、馬鹿にして!」
しかし、二人の耳には届かない。もはや慧音の存在を忘れているのかもしれない。
「博麗もそんなに言葉を尖らせるな」
早く止めなければならないと、慧音の勘が告げている。よく見れば霊夢も藍も、お互いにいつでも攻撃が始められるよう、不自然に両手を構えている。
「あんたの気持ちも判るから、優しくしてればいい気になって!」
「私の気持ちが判るだと! ふざけるな、ろくに生きてもいないくせに!」
二人の思考が、相手への苛立ちで塞がっていく。更に、慧音の苛立ちも高まっていく。
「紫の式、お前ももう少し頭を……うっ!」
止めようと藍の肩に手を触れ、その瞬間に突き飛ばされてしまった。
「まさか、貴様が紫様に危害を加えたわけではあるまいな、博麗の巫女!」
「へぇ、面白い冗談を言うじゃない。そうだ、九尾の尾を八本抜いたらどうなるか試してみようかしら!」
二人の言い争いは、段々とその険悪な雰囲気を強めていってしまう。
だがその一触即発の雰囲気に、二人を落ち着かせようとしていた慧音の、とうとう堪忍袋の緒が切れる。
「二人ともに、まず黙らんかぁ!」
それは般若の形相であった。
満月でもないのに、まるで獣人と化したかのように慧音は吼えた。慧音にとってお仕置きの定番である頭突きをしなかったのは、恐らくギリギリ残った理性によるものだろう。
さすがにその思わぬ怒鳴り声に驚いて、二人はその場で慧音の方を向きながら固まってしまっている。そして驚きの所為か、二人の苛立ちやらはどこかへ吹き飛んでしまった。
「いいか、既に話が別の方向へ進もうとしているじゃないか。そもそもだ、落ち着かせようとしているはずの博麗が冷静さを欠いてどうする」
腕を組み、自らの苛立ちを最大限抑えた状態で説教を始める。
「それから紫の式、あなたもだ。感情に焦って暴走するなど、九尾と八雲の名が泣くぞ」
「うっ」
八雲の名を出されると、さすがの藍も黙ってしまう。
「いいかお前たち、お互いに冷静さを欠いた状態で話し合っても……」
この後、延々と説教が続くこととなった。
ちなみに、説教の開始と共に、藍が博麗神社に現れた時の雰囲気はどこへやら、随分と大人しくなってしまった。
……これは紫の説教を思い出す事による条件反射であったりする。
説教がおよそ五分続き、半分以上聞き流している霊夢と違って全てを真剣に聞き続けていた藍が、手を挙げてギブアップをする。
「あ、あの。落ち着かなければならないことは重々理解しました。それなので、どうかそろそろ紫様についてを教えてもらえないでしょうか」
条件反射とトラウマが結びついてか、腰まで随分と低くなった。
そんな藍の言葉を聞いて、しばらく腕を組んで唸ってから、慧音が手を叩いた。
「あ、そうだ。すまない、博麗、紫の式。すぐに戻ってくるから、しばらくここで待っていてくれ」
そう言うと、慧音は二人に背を向けて歩き始める。
「どうしたのよ?」
「紫から預かった手紙だが、その式に渡して欲しいというものなんだ」
霊夢の問い掛けへの回答を聞いて、一番興味を示したのは藍である。
「何っ!?」
そして、即座に慧音に近寄って、それを渡してくれと頼み始めた。
「里の家に置いてあるんだ! すぐ戻ってくるから、事情を博麗から聞きながらここで待て! いいな、私が戻ってくるまでに、短気を起こして喧嘩などするなよ!」
最後に二人に釘を刺すと、上白沢慧音は階段から落ちるかのように俊敏に石段を駆け下りていった。
不安定な雰囲気を残る状態で残された二人は、どうしたものかと途方に暮れる。
「……お茶でも飲む?」
「……有り難く頂きます」
茶葉の消費の激しい日であった。
「ふぅ、こう寒いと茶が美味しい」
縁側で、揃って茶を啜る。霊夢は飲み過ぎ。
「茶葉がもう古いから味は落ちてるけどね。でも、やっぱり寒い日のお茶は美味しいわ」
「そういえば、良い大根が余っているんだが、何本かいるか?」
「あ、くれるなら貰うわ。そうね、雪は解けたけど、雪見鍋なんていいかしら」
雪見鍋とは、大根おろしで鍋の上を覆ってしまい真っ白にする鍋のことである。ちなみに、博麗神社の雪見鍋は普通より鍋に入れる酒の量が若干多い。
「まだ寒いから良いな。それなら、ついでに酒も持ってこよう」
「悪いわね。あとは野菜と魚を持ってきてくれそうなのを誘えばいいかしら」
客人=具材。
ふと、藍が具材について一つの懸念事項を思い出した。
「出所不明のキノコはいらないからな」
「大丈夫。もしどこかで聞きつけても、怪しいキノコは持ってこないように言うわ」
この鍋の集まりに、魔理沙が誘われないことが決定した。
「……喧嘩をするなとは言ったが、その和み方はなんなんだ?」
神社の階段を駆け下りて人里へ行き、手紙を掴むや一心不乱に駆け戻ってきた慧音であったが、争わせぬ為に駆けたのであり、こうもまったりされていると走った自分がかなり空しく思えてならない。
喜ばしいことに素直に喜べない慧音に対し、霊夢と藍は一度顔を見合わせてから答える。
「「お茶を飲んだら落ち着いた」」
異口同音。
「落ち着いていいものなのか!?」
思わず慧音は叫んでしまった。
「なによ。まるで落ち着いて悪いみたいな言い方ね」
冷ややかな視線を向けられ、自分に非があると感じたのか慧音が怯む。
「いや、そんなことはないが……特に紫の式! お前はそれでいいのか!」
「待て、落ち着けと説いたのはお前だハクタク」
「落ち着きすぎだ!」
先程とは逆の構図で、慧音の方が熱がある。
「慧音。とりあえず、今はあんたが落ち着きなさい」
そして、トドメの一言。
「なっ! く、ぐぅ……!」
理不尽な気持ちを怒鳴りたくもあるが、あくまで自分の考えの問題なので、必死に自分の不満を述べることを我慢した。
そんな慧音に、霊夢が何気なく声を掛ける。
「慧音も雪見鍋食べる?」
現在の重要事項らしい。
「……あ、あぁ。呼んでもらえるのなら食べに来よう」
溜め息混じりに、慧音はそう答えた。するとその返答が予想外だったのか、霊夢は驚いた顔をしてから、嬉しそうに微笑む。
「それなら魚か野菜持ってきてね。米はこっちで用意するから」
すると、どこか自慢げに微笑みながら藍が言葉を続ける。
「大根と酒は私が持ってくる」
「頼む、雪見鍋の話題は後にしてくれ」
気が滅入りそうな慧音だった。二人の気分の変わり方が激しすぎて、ついていけないでいる。
少し頭を押さえつつ俯いた表情の慧音であったが、とりあえず用件は果たそうと、懐から紫より受け取った手紙を取り出す。
「ほら、これが紫から預かっていた手紙だ」
藍に向かって手紙を差し出す。それを見ると、藍はビクリと一瞬だけ震えてから、恐る恐る手を伸ばした。
「あ、これが……」
そして受け取ると、一層手が震え上がった。
「うぅ、見たいが、見たくない」
怯えるように、手紙を睨みつけて動かなくなってしまった。
「ところで、博麗から話は聞いたのか?」
「え、話? あぁ。結界についてと、その、紫様の消える瞬間の話は」
怯えてやや青い顔をしながら、平然と慧音に言葉を返す。
「それで雪見鍋の話ができる神経が判らん」
「放っておけ」
藍は手紙の封を切ろうとする。が、手が止まって動かない。相反する思いが絡みつき、手が藍の思うように動かないのだ。
「貸しなさい」
「あっ」
それを、霊夢は素速く引ったくる。簡単に言うと焦れたのだ。
素速く封を破くと、折り畳まれた手紙を抜き出し、パンと伸ばすと縁側の床に敷く。
「それじゃ読むわよ」
そう言って二人を自分に寄せると、三人は一通の手紙を覗き込んだ。まず目に入ったのは、最初の一文である。
『やっほー。みんなのアイドル、紫ちゃんですよ♪』
「「「ぶっ!?」」」
全員が盛大に吹き出した。
驚きすぎたようで、藍は手紙をくしゃりと縁側に押し付けつつ、ケホケホとむせてしまう。慧音に関しては、驚きのあまり痙攣を起こしかけていた。
「や、やってくれるじゃない、紫」
「……紫様の、馬鹿」
思い思いのショックを受けて、ひとまず手紙から身を離してしばらく風を味わう。
それでようやく落ち着いた頃に、三人は覚悟を決めて手紙を再度開いた。
『私のことを馬鹿と言った式神、空に大声で詫びるように。』
「申し訳ありませんでした紫様ぁ!」
霊夢と慧音が文を読むよりも早く、藍は縁側から飛び降りると大空に叫んでいた。
『よし、良い子。』
慧音と霊夢は、この手紙を読みたくなくなってきていた。
「……なんなんだ、この手紙」
「無性に破りたくなってくるわね」
引き攣った笑みを浮かべる二人。そして、既に満身創痍の藍が戻ってくると、改めて手紙を読み始めた。
『さて、冗談はこの位にしておかないと、短気で賢くない巫女にこの手紙が破かれかねないので、まともに書きましょう。』
「藍、これ燃やして良い?」
「駄目に決まってるだろ!」
既にストレスが限界に近くなってきている霊夢である。
『それで、この手紙だけど、藍だけが読んでいるなら計算違いになるわ。せめて博麗霊夢、理想的には上白沢慧音の三人で囲んで見ていてくれると、実に計算通りだわ。』
この計算通りという文字に目を通し、霊夢と慧音は苦虫をかみつぶしたような顔を作る。
「……何か、とても悔しいのだが」
「奇遇ね、私もなんかすっごく悔しいわ」
読む気が底を尽きそうな二人を藍が説得し、三人はまたなんとか手紙を読み始める。
『とりあえず計算通りに事が運んだとして、これからの文は三人に向けて書くものだから、そのつもりで。まず、この手紙が開かれたということは、私は上手に死ぬことができたはず。』
それは、あまりに何気なく、感情のない一文であった。
三人の表情から、様々な感情の色が抜ける。
『結界の修復の仕方をまとめた書を、博麗神社の机の上に置いておくから、そこにいる三人で協力してどうにかしなさい。あなたたちならできるでしょう。』
と、三人が慌てて部屋の中を覗いてみると、そこには一冊の書が置かれていた。題はなく、紫の手書きのものであった。
『私は、これから起こる事態をどうこうできる力を持たない。だから、こんな役にしかなれなかった。好きなものを守る役に立てないなんて、口惜しいものね。』
無力感。そんなものを、八雲紫が抱いていた。それは霊夢にも慧音にも、そして藍にも、気付けていないことであった。
『でも、死人にこれ以上頼らないように。※除く白玉楼』
……変なところでやたら細かい遺書である。
『あの死人たちは元気だから、精々扱き使いなさい。くたくたにさせるくらいが丁度良いわ』
文が急速に重さを失っていく。
「いきなり砕けたわね」
「あ、あぁ。そうだな」
ふぅと一息吐く霊夢の言葉に、藍は手紙から目を離さず返事をする。霊夢と慧音は、一旦手紙から目を離して、ゆっくりと背伸びをした。
二人が目を離している間も、藍はその手紙を読み進める。文章は砕け、悲壮さも無力感も感じさせない文が連なっている。
藍は探していた。この文のどこかに、紫の生きている可能性を見出せないものかと。
しかし、それは見つからず、遂に手紙は最後の一文に到達する。
『それから、最後に一言だけ。』
これで終わる。そう思いながら次を読み、藍は目を見開いた。
ガタンと、勢いよく藍が立ち上がる。顔は蒼白で、恐怖に引き攣るように震え、口元を手で押さえている。何事かと思った霊夢と慧音は、読んでいなかった部分から飛ばし飛ばしで手紙を読み、手紙の最後の文に目を通した。
『八雲藍。あなたを八雲の主とします。』
この一文に、霊夢と慧音も顔色を失った。
それに続くよう書かれた、『以上。』の文字。それは、とても残酷な言葉だった。
「藍」
振り返りながら心配そうに訊ねる霊夢に、藍は俯いたまま言葉を返さない。
そのまま、しばらく体を震わせてから、青いまま、けれど無理をして穏やかな表情を作り、震える声で霊夢に訊ねた。
「……すまない、霊夢。この辺りで、泣ける場所はないか」
笑顔であったのは、藍に今できる、最大限の強がりであった。
それを聞くと、霊夢は立ち上がって、紫の手紙を藍に渡すと、玄関へ歩き出した。
「神社の中を使いなさい。私と慧音は外にいるわ」
続いて、慧音も立ち上がる。
「……外で待っている」
何か言葉を掛けようとして浮かばず、慧音はそれだけを残して去っていった。
そんな二人の背中を見送ってから、藍はまだ笑顔のままで深く頭を下げながら、小さく小さく呟いた。
「二人とも。恩に着る」
そして頭を上げると、ゆっくりと神社の奥へと入っていった。
歩みながら、ポツリポツリと、記憶が甦っていく。それはやがて、藍の視界全てを埋めていった。
記憶の奔流。目の前に、様々な光景が浮かんでは消える。
初めて会った時の光景。
真剣に戦い合った光景。
藍と名付けられた光景。
式神にされた時の光景。
思い出せば果てがない。それほど長い時間を、藍は紫と過ごしてきていたのだ。その記憶たちは色褪せることなく、藍の心に残っていた。
それらを思い出していると、藍は膝を折った。体から力が抜けていき、立てなくなってしまった。
「紫様」
何気なく、口から言葉が溢れる。
「私が、八雲の主なんて、できるわけないじゃないですか」
震える声で、小さく笑い飛ばした。
前を見ようとしても、視界が滲んでよく見えない。
「私は、どうしたら良いんですか……私は、あなたと一緒にいたかった……あなたの進む道を、一緒に見ていきたかった」
藍は、記憶の中の紫に手を伸ばす。けれど、その手を掴むことはできない。どれだけ手を伸ばしても、幻の紫は手を掴んではくれない。
ドン、と、藍は床を叩いた。苛立たしげに、何度も、何度も。
「なんで、なんでなんでなんで! なんで!」
涙をこぼしながら、歯を噛み締め、藍は吼えた。
「私にとって、あなただけが全てだったんだ! 全てを手に入れた気になっていた昔の私にとって、あなただけが他と違っていた! あなただけが手が届かなかった!」
思い。届かなくなった、昔から紡ぎ続けていた紫への思い。
「やっと一緒にいられると思っていたのに、やっと手に入ったと思ったのに……あなたは、私を残して遠くへ行ってしまうのか! もう二度と追いつけない場所へ行ってしまうつもりなのか!」
両手で、顔を覆う。顔を押し潰しそうなほど、両手で強く、顔を押さえる。
「八雲紫ぃ!」
精一杯の声。
「私は! あなたの為に死にたかったのに!」
それは、藍の思いの全てであった。
途端、藍の視界に昔の自分と紫が映る。
『藍』
それは古い光景。自分を呼ぶ、昔の紫。
『今日から、あなたは八雲藍を名乗りなさい』
藍が八雲の名を受けた日の、藍の中で新しい世界が開いた日の光景だった。
「あ、あぁ……」
言葉が出てこない。もう、何か言葉を考えることさえできない。
「ゆか、り、さまぁ……」
焦り、怒り、そして落ち着き。心の中を極端に変化させることで、藍は大事な人を失ったという事実から目を逸らしていた。長く生き、多くを失っていった存在にとって、それは自己防衛であった。けれど、先程の手紙のたったの一文を読んで、藍は現実を認めてしまった。
……八雲紫は、もう二度と帰ってくることはない……
「うわぁぁぁぁぁ!」
握り締めた手紙からは、八雲紫の残り香が、ゆっくりと薄れて消えていった。
霊夢と慧音とが鳥居の下に着く頃に、神社の中から悲痛に満ちた泣き声が上がった。それは聞くだけで胸が痛む、悲しみを噛み締めるだけの素直な泣き声であった。
二人は石段に腰を下ろして、藍が落ち着くのを待つことにした。
「博麗。お前も、泣いたっていいんだぞ」
慧音は静かにそう言った。
「いいわ。私の分も、きっと藍が泣いてくれるだろうし」
対して、霊夢はサラリとそう返した。
「一人で泣くのはつらくないか?」
「……だから泣かないって」
そう言いながら、霊夢は潤んだ目をゴシゴシと服の袖で拭った。
霊夢や慧音にとって、八雲紫はそれほど大事な人物であるという認識はなかった。けれど、昨日や今日といった、幻想郷の為に必死だった彼女を思うと、やはりやるせない思いが胸を支配していた。
「八雲藍は、自害をするかもしれないぞ」
ふと、慧音はそう漏らす。
「……かもしれないわね」
それは、霊夢も考えていたことであった。
藍にとって、紫はその理想であり、憧れである。その死後、自分も理想の人物を追って自らを殺めないとも限らない。いや、その可能性は極めて高かった。
「止めないのか?」
「止めるだけの、思いがないわ」
死のうとする者を止めるのは難しい。それこそ、死のうという思うを、止める側が上回っていなければ止めきれない。
そして霊夢は、藍が紫を追おうとすれば、それを超える思いで藍を止められる自信がなかった。
「そうか」
それは慧音も同じようで、大きな溜め息を吐いた。死んで欲しくないのは確かだが、死んでしまいたいであろう藍の気持ちも、なんとなく判ってしまうのである。
「でも、藍は多分大丈夫よ」
百パーセントではないが、九十九パーセントくらいの自信を持って、霊夢はそう言った。その自信がどこから来るのか判らず、慧音は首を傾げた。
「八雲の主を継いだ妖怪が、後追い自殺なんて恰好つかないじゃない」
「……なるほど」
その言葉に、慧音は小さく頷いた。
その言葉を最後に、二人の間に重苦しい沈黙が流れる。
沈黙が訪れると、二人は改めて、これからのことに思いを馳せた。八雲紫を失って、事情を知っているのは、恐らくここにいる三人。あるいは他の結界である、西行寺幽々子や八意永琳あたりは話を聞いているかも知れないが、今はまだ判らない。
この状況でもし藍が死んだらと思うと、正直なところ気が気ではない。事情の全てを知るであろう紫がいない今、それに次いで事情を調べる力を持つのは、恐らく八雲藍を除いて他にいない。
「これから、どうなるのかしらね」
「どうにかするのだろう。私たちが」
重い空気を払いきれず、二人は重い溜め息を吐き出した。
こうも気持ちが沈んでしまうのだと思うと、あの気の抜けた八雲紫の手紙は、事実を知った自分たちを励ます為のものだったのかもしれない。慧音は口に出さないまま、そんなことを考えていた。
二人が神社の外に出てから三十分という時間が経った頃、神社の戸が開き、中から藍が表れた。
二人は藍が戸を開けた音に気付いたが、どういう顔をしようかと考えて振り向けずにいた。そしてその間に、二人の近くまで藍が近寄ってくる。
「あー。あー、その、なんだ」
言いたい言葉が見つからず、藍は一回深呼吸をする。
「悪かったな」
その言葉を聞いてから、二人は石段から腰を上げ、藍の方に向き直った。
「気にしないで。でも、あんたは顔を洗った方がいいかもね」
「……そんなに酷いか?」
涙やらなんやらで、顔がグシャグシャになっていた。
「あんたの式が見たら泣くかもしれないくらいには酷いわ」
「あぁ。確かに子供は不安になる顔だ。泣いたのが判る顔をしている」
「そんな顔をしているか……それじゃすまないが、後で洗面所を借りるぞ」
「どうぞご自由に」
どこか照れくさそうに、藍は頭を掻いた。
「しかし、意外とサッパリした顔してるな」
慧音は、優しい顔でそう言った。
「そうかな……」
それに、霊夢も頷く。
「……そうだな。とりあえず、紫様が幻想郷を捨てたのでないと判ったから、安心した」
藍にとっての一番の不安は、紫が自分や幻想郷を捨ててしまったのではないか、ということだったのだ。それが判っただけで、藍は救われた気持ちになっていた。
まだ、心は癒されていない。むしろ、これから心は傷ついていく。紫のいない生活を通して、苦しいほどの虚無感に襲われていく。だが、それを乗り越えようと、藍は思えた。紫に笑われるのは良い。けれど、悲しませたり、失望させたりする生き方はしない。それが、泣き終えてから自分に誓った、八雲藍のこれからの生き方である。
全員が、それなりに持ち直したことを確認すると、霊夢は二人の方を向いて口を開く。
「さて、と。それじゃ、これから忙しくなるわよ」
「望むところさ。紫様の守ろうとした幻想郷だ。絶対に守り抜いてみせる」
「しかし、今はとりあえず……」
三人は、お互いの顔を見て微笑み合う。
「「「お茶でも飲もう」」」
空の端が段々と赤くなり始めたのを眺めてから、三人は神社の中へと入っていく。
今日という日が、そろそろ終わりを告げようとしていた。
いや、面白かったです。
八雲を継いだ藍がこれからどうなっていくのかも気になりますが。
次回を楽しみにしています。
お話も、最初はありふれたもの(悪い意味でない)かなと思っていたのですが、黄泉進めているうち、キャラの性格が味を出してくる、なかなかに面白い作品だと思いました。
特に霊夢のキャラ付け。二次のものでありながら単独として綺麗に成り立ってい"く"様は、私にとってかなり新鮮な印象を与えてくれました。
前作のしつこさも改善されていたようで、少なくともこの作品内では感じとれなかったです。
セリフと地の改行は、前作の方が読みやすかった…かな?
まぁどちらでも問題ありませんがw
次回作、楽しみにしています。
ありがたいです♪
最終話に向けて(ってかなり遠いですが)、藍が更に少しずつ成長していく様を、上手く書ければと思います。
>>大天使さん
頑張ります!
>>もみじ饅頭さん
ありがとうございます♪
書き進めていく内に、段々と書かなくても良い部分が見えてきた気がします。まだまだ多いですが(苦笑)
長く稚拙な文章、読んでいただけただけでも恐縮ですが、改行含め試行錯誤を続けますので、以後もよろしければ意見などをどうぞよろしくお願いします。
生きてたりしないかな~って思ってたのにな。
まあ、続きに期待しておきます。
以上