洞窟をしばし歩いて、ようやく目が慣れる頃。そこには地底と地上を結ぶ橋が架かっている。木造のかなり古びたその橋は、一人の少女によって見守られている。ただそれも建前で、実際のところ彼女は橋を眺めているだけだった。それも当然だろう。その橋は渡るものが途絶えた橋。見守ろうにも、肝心の相手がいなければ何を見守ればいいのやら。
では、その橋を渡るものが現れたら?
◆
それまで私が過ごしてきた日々は、とても単調なものだった。毎日毎日、一日たっぷりかけて橋を眺めてはお茶を飲んでいるだけ。何も食べなくたって死ぬことはないから、家を出る必要が無い。仕事というか、橋姫として橋の見張りさえしていればいい。同じ理由で旧都に行くことはなかったし、お陰で友人と呼べる友人はいない。挨拶を交わす程度の知人なら二人までは思いつくのだけれど。いや、よく考えればその知人だって、向こうが一方的に挨拶してくるだけじゃないか。
黒谷ヤマメは自称地底のアイドルで、誰にでもちょっかいを出すところがある。その「誰にでも」に当然のように私も含まれているだけだ。だから私から積極的に話しかけたという記憶はないし、しようとも思わない。
それからもう一人、桶に入った妖怪と遊んでいることも見かけるけど、そっちの方はほとんど知らない。なんて名前だったかな。キス……? 何にせよ、そいつは知人と呼べる程じゃない。
「そうそう、キス魔だわ。きっと二人でよろしくちゅっちゅやっているに違いないのよ」
橋を眺めていると、時折こんな風に斬新な結論が出てくる。実に有意義な時間だ。
願わくば、この平和な毎日が続かんことを。
私が愛する永遠の孤独でいられることを!
◇
それまで私が過ごしてきた日々は、とても単調なものだった。毎日毎日、一日たっぷりかけて橋を眺めてはお茶を飲んでいるだけ。「酒よりもお茶が好き」という理由で旧都の宴会に行くことはほとんどなかったし、お陰で友人と呼べる友人はいない。
しかしある日を境に、知っている人が増えた。毎日顔を見せられれば、嫌でも覚える。本当に嫌なのに、覚えてしまう。
「おはよう、パルスィ。 今日もいい天気になりそうね!」
「こんにちは、パルスィ。 お昼ごはんは食べたかしら?」
「こんばんは、パルスィ。 今日も楽しかったのよ!」
朝昼晩、あいつは不定期に出現する。あいつの悪質なのは毎日ここを通ることだ。よくもまあ飽きもせず地上に行けるものだと感心する。その上私がぼーっとしているところに、突然思考に割り込んでくるのだから心臓に悪い。そんな生活がここ数ヶ月続きっぱなしだ。
孤独とは、誰にも会わないことを前提に成り立つものだ。
その前提が、音を立てて崩れていく。
私の孤独を邪魔した妖怪、古明地こいしだけは許してなるものか。
お湯を沸かしながらそんなことを考えていると、果たしてあいつはやって来た。
「おはよう、パルスィ!」
今日もいきなり後ろから声を掛けてくる。ここは私の家だ、いつの間に台所に忍び込んだのよ。
「……あら、おはよう」
最大限ぶっきらぼうに返事を返してやる。この態度にショックの一つでも受けてくれれば儲け物だが、いつも通りと言わんばかりに飄々としている。
「パルスィは今から朝ごはん?」
「そんなところね。こいしは今日も地上に行くつもりなの」
「そうよ」
さらにふわふわと揺れながら微笑み返してくる。じっとできないのか。
「よく飽きないわね」
「だって友達が待ってるもの」
「ならさっさと行けばいいじゃない。毎回ここに立ち寄る必要なんてないでしょうに」
ストレートにぶつけてみた。こういうタイプは直に言わないとだめだから。それでもあいつは食い下がる。
「そんなことないわ。毎日の挨拶が友達の基本だって、お姉ちゃんも言ってたし」
「友達?」
毎日挨拶するのが友達。すると私とこいしは友達ということになる。冗談じゃない、地上の人妖だけに飽き足らず、私とも友達になるつもりなのか、この妖怪は。
「ええ。だってパルスィと友達になりたいもの」
そう言って彼女は、体も笑顔もふわふわと揺らしながら。
会話の途中でお湯が沸き、それを使ってお茶を淹れる。無意識に彼女の分まで用意したのが失策だが。……まぁ、お茶ぐらいいいだろう。本当にお茶だけ、だ。
「断るわ。私に友達なんていないし要らない」
「知ってるよ。これから作ればいいじゃない」
無理だ。私には仕事がある。孤独がある。何より一人でいた時間が長すぎる。
「友達といると幸せよ」
それでも彼女はダメを押してくる。
幸せ? 友達といると幸せになれるというのか。そんなおめでたい思考には嫉妬しよう! 友情なんて幸せを奪うだけだ。地上で情に裏切られ、嫉みの炎に焼かれた私にとって、そんな幸せは幻想だ。最後に掴んだ孤独という唯一の幸せまでをも、この友は奪っていくのか。
私は思わず湯飲みを持つ手を振るわせる。
その私を見てか見ずにか、こいしは別れの挨拶を口にした。
「じゃあ私はそろそろ行くわ。さようなら、パルスィ」
こいしの湯飲みからは、まだほんのりと湯気が立ち上っていた。
◇
こいしの言葉に悶々としながら、私は縁側から橋を見守っていた。渡る人も途絶え、私と共に孤独に沈んでいたはずの橋。まったく、迷惑な通行人と知り合ったものだ。それでも、この独りだけの時間は着実に私を癒してくれる。
おっと、お茶が切れた。沸かしてくるか。お茶も私を癒してくれるのよ。
薬缶を火にかけ、お茶の葉を漁っていると背後から足音がした。ああ、いいなあ足音。こっちも心構えができるから、すごくいい。
果たして、足音の主は声をかけてくる。
「やっほ、パルスィ」
「久しぶりね、ヤマメ」
私の思った通り相手は数少ない知人・その1だった。名前が間違えていないことを祈る。
「おや、湯飲みが二つもあるじゃない。準備がいいねぇ」
「生憎だけど、それ貴方のじゃないわ。まぁお茶は淹れてあげるけど」
お茶を振舞うのも慣れたものだ、手際よくこいしの使った湯飲みを洗ってやった。
「それが私のじゃないってことは誰か来てたのかい」
「ええ、例のこいしがね」
別に隠すほどのことでもないだろう。あいつがふらふら彷徨ってるのは、地底の妖怪には常識だ。
見れば、ヤマメも納得したように頷いている。
「こいしちゃんか。いい娘だよね」
「貴方にとってはそうかもしれないけど、私にはいい迷惑よ」
へぇ、という相槌。どうやら興味を持ったらしい。丁度いい、私の妬みごとに付き合ってもらうか。
「毎日毎日あいつと話をしなきゃいけないのよ。私はずっと孤独でいたいのに。それに……そうそう、今日私になんて言ったと思う? 友達になりたい、だって」
「そんなら私も言われたよ」
ヤマメは、それが至極当たり前だという面持ちで口をにやけさせている。
成る程こいしにとっては、散策ついでに友達百人できるかな、というわけだろう。それならば一層いい。私なんかほっといて、とっとと他の九十九人を当たればいいのだ。
「別に友達くらいいいじゃないのさ。本当に嫌なら挨拶すらしないよ。私の経験から言ってね」
「そんな経験、私だってあるわ。地上でも地下でも」
「そうそう。パルスィのことを言ってるんだ」
なんのこっちゃ。こちらもすっかり毒気を抜かれてしまった。いや、自主的に毒を吐いただけか。ともかく、お湯が沸いたらしいのでお茶を用意しに腰を上げる。
「で、今日は何しに来たの?」
「なんだ、用事がないと来ちゃ行けないのかい。ま、用事はあるんだけどね」
はぁ。「なら用事を済ませなさいよ」
背中越しに声をかけて一刻。どうやら自分の用事が何だったか思い出してるようだ。
「えーっとね、そうだそうだ。キスメが溺れたから助けて欲しい」
えー。
「そういうのは早く言いなさい!」
「大丈夫大丈夫、桶に入ったまま溺れてるから。桶は逆になってるけど」
「それならなおさらでしょ!」
ばたばたと家を出て、ヤマメに促されるまま欄干から足元を覗き込む。見事に桶が逆さまになって橋脚にへばり付いていた。きっとあの中には酸素が足りない妖怪ももれなく同梱されてるんだろう。
「んじゃ私が糸垂らして引っ掛けるから、パルスィは一本釣りの要領でよろしく」
「やったことないわよ。とりあえず、持ち上げればいいのね。糸離さないでよ」
「もちろん! キスメー、今助けるからなー」
なんとも緊張感の無い声が響く。
「ちょっと、この糸ネバネバするじゃない!」
「蜘蛛の糸だからねぇ。そこは我慢してもらわないと」
「かんべんしてよ。……あら、意外と軽いわね」
「私一人で巻き上げられる重さだからね、キスメは」
「私を呼んだ意味あるの?」
「それはその……おおっと糸が滑った!」
「きゃっ、何してんのよ!」
どういう状態にあったのか、桶は逆さ釣りのまま宙に浮き、中のキスメもそのまま無事保護された。欄干に一発ぶつけたおかげで橋の見栄えを損ねてしまったが、この場合命の方が優先だろう。
「まったく、泳げないんなら川で遊ばないでよね」
「だって流れが緩やかだし、なぁキスメ?」
「……あ、あ、りがとう」
まったく会話が成立しない。
その後家で体を拭いていくようにも勧めたが、キスメが桶に篭って拒否したので解散の流れになった。それはそれは壮大な拒否っぷりだったが、また独りになれるのなら問題はない。
「それにしても、重ね重ね悪いね」
「重ね重ねって、何がよ。私のティータイムを邪魔したこと?」
「いんや橋の方。大事な橋なんだろう、見事にやっちゃったじゃないか」
「なんだそんなこと。いいのよ、古い橋なんだから」
二人はそのまま住家へと帰っていき、その後はまた独りになれた。
手についた粘着感と、それから一日の終わりにこいしが来たのは頂けないが。
◇
古いとは貶したものの、一応は私の相棒と呼べなくもない橋だ。壊れたままで放っておくのも、あまり気分によろしくない。
橋の修繕はすぐに終わった。あんな破損、橋姫の私にかかれば三十分とかからない。でも修理の腕に橋姫の名は関係ないかも。ここのとこ老朽の影響かすぐ傷むから、単に慣れただけなのよね。
工具を持って引き上げようとしたころ、旧都の方から誰かと桶の二人連れがやってくるのが見えた。案の定昨日の溺死コンビ。
「珍しいわね、二日連続で来るなんて」
「ちょいと昨日のお礼とお詫びをね」
「……しゅうり」
「成る程ね。でも修理ならもう済んだわ。気持ちだけもらっとく」
「あらま、そりゃ悪いね。せっかく鬼たちから道具を借りてきたのに」
バツの悪そうにヤマメが頬をかく。キスメはと言うと、恥ずかしさからか桶に篭っているので様子が分からない。そんなに内気だったかしら。
「仕方ない、私たちはこれを返してくるよ。邪魔したね」
おや、もう帰るのか。これもまた珍しい。
「あんたの独りを邪魔しちゃ恨まれるからね。
ふむ、恨まれついでにも一つお節介でもしてこうか。こいしちゃんは今日も来たのかい?」
「来たわよ。お茶を二杯も飲んで行ったわ。朝からうんざりよ」
「ふぅん。ずいぶん寂しそうな目をして言うのね」
寂しそうな目? 私の目は緑だ。妬みに染められた緑。それを寂しそうだなんて、見当違いにも程がある。現にこうやってうんざりしてるでしょう。
「分かった分かった、そんなに怒らないでよ。キスメが怯えてるじゃないの。
ま、それはともかく。そんなに嫌ならこいしちゃんに直接言いなさいよ」
「それぐらいしたわよ。もう何度も。あいつには諦めなんて感情はないのかってくらいね。こっちはほとほと諦めてるのに」
「ならさとりさんに頼みなさいな。やっこさんなら妹にも言ってくれるんじゃない」
そういえばそうだ、こいしには姉妹がいる。すっかり失念していた。持つべきものは情報をくれる知人だ。
「ああ、その手があったわね」
「お、行く気になったかい」
「久しぶりに散歩も悪くないでしょ」
「来た甲斐もあったものだね」
今まで見た中で、二番目に嬉しそうなヤマメの笑顔だった。そこまで喜ばれても、とは思う。
「じゃあ私らはこれで。行こっか、キスメ」
桶が嬉しそうにガタガタ鳴っている。こっちは私から離れられることを嬉しそうに。手を振り二人を見送って、やがて私も古明地の住む地霊殿へと出かける準備をした。今日は橋守はお休みだ。
◇
「いつ見ても、広い家ね……」
地霊殿の玄関に立ちすくみ、思わず呟いてしまう。私の一軒屋が束になってかかっても敵わない広さだろう。もっとも、私はひとり暮らし。ここまで広いと掃除が大変なだけだ。
「考えても無駄よね。お邪魔するわよ」
玄関を開けて入った大広間。ここもやっぱりだだっ広い。しかし広いだけで生活感に欠けているというか、その点においては我が家に軍配があるだろう。
さて問題の館の主は、広間の端でペット(ウサギかしら)に食べ物を与えていた。その周りだけやけに生活臭が漂っている。その臭いを纏わせながら、こちらに振り向いたさとりは口を開いた。
「珍しいわね、来客なんて。紅茶を用意するから、先に客間に入ってて頂戴。あら、玄米茶の方が好きなのね。ごめんなさい、それは今切らしているから」
こちらの思い浮かべたことを淡々と吐いてくる、相変わらず不気味な妖怪だ。好物のお茶が飲めないとあって、いまさら来たことを後悔してしまう。とはいえそのまま引き返す訳にも行かないので、渋々ながら言われたとおり客間へと向かった。
暗い地底の中でも、主の表情を反映するように一際暗い地霊殿。その地霊殿に訪れた、全ての招かれざる客をぶちこむのが客間だ。あるのは洋風のテーブルとイスが数脚だけ。飾り気の欠片もない。誰も来ないのか、誰も呼ぶ気がないのか、どっちにしろ客の気が滅入る作りになっている。
そこに沈む私に運ばれてきたお茶は、果たして玄米茶だった。無いと言ったくせに、という気持ちが浮かぶ前に素直に喜んでしまう。どんな妖怪だって好物には勝てない。
「あら、嬉しいわ。そんなに喜んでもらえて」
顔にも出していないのに、こいつまた心を読んだのか。どうにも玄米茶ごときで喜ぶ私を弄んでいるように思えてぞっとする。
そして彼女は、玩具をいじる子どものような声を続ける。
「ここに来てから沈んだり浮かんだり。ふふ、素直な妖怪ね」
やはり、この姉妹は嫌いだ。
私としては用件だけ伝えてとっとと帰りたかったのだが、さとりが雑談ばかり振ってくるのでそうも行かなかった。久しぶりの客が嬉しいのか、私のイメージにあるさとりよりもだいぶ饒舌だ。やれペットの自慢だの、やれこの前来た魔法使いが大切なものを盗んでいっただの。この家に盗むものなんてあるのか?
ただ、この家の玄米茶はおいしい。どこの店か聞きたかったが、
「ごめんなさい、私が買ってるわけじゃないの」
と一蹴されてしまった。妬むぞ。
「怖いわね」
「そりゃ嫉妬だもの、怖いのは当然よ。私の力でも消せないくらいね」
「嫉妬は気持ちの中でも一番純粋よ。勝手に消えたら困るわ。妬みがあるから他人と繋がれるし、泣いたり笑ったりできるんでしょうに。だから妬いてる時の貴方はとても純粋だわ」
「そんなこと言う相手は初めてね。もしかして口説いてるの?」
「代弁してるのよ」
口元を吊り上げながらそう言った。代弁とははて、こいしのことだろうか? 脳裏に無邪気な笑顔が浮かぶ。
……そうそう、こいしだ。こいしのことを話しに来たんだ。
「そうそう、こいしとはうまくやってくれてる?」
お茶を啜ること数杯目、熱い決意を取り戻した私に思わぬ方向からジャブが飛んできた。お茶を噴出しそうになったが、すんでのところで耐えて聞き返す。
「うまくって、何が」
「あら、友達って聞いたのだけれど。毎日会ってるんでしょう」
成る程確かに、地上にしろ地底にしろ、私ほど頻繁に顔を会わせる相手もいないだろう。姉妹の話で私が出てくることがあっても珍しくはない。そしてそれをさとりが気にかけていたとしても。
「答えに躊躇うのね、こいしの話だとずいぶん仲が良いみたいだったけど」
「冗談を。ただお茶を振舞うだけの仲よ」
「良かった、それだけで十分よ。ありがとう」
精一杯毒を吐く私に、笑顔を見せてからわざわざ頭まで垂れてくる。どうやら本気で感謝しているらしかった。その姿を見て、心臓がとくんと波打つ。私はこんなに嫌がっているのに、それでもなお感謝するのか? 私が好きで相手をしているとでも思っているのか。
「『嫌がってる』って? 私にはそうは見えないけどね」
「あら、あなたの心の眼も大して当てにならないのね。心底嫌よ、私は」
「嫌なんかじゃないわ、恐いだけなのよ、あなたは。こいしに嫉妬の影を見てるのね」
「……!」
こちらを抉るような言葉の矢。思わず目をそらし、手元の湯飲みに逃げる。さとりの言葉は、今の私に向けられたんじゃない。昔の嫉妬に殺された私にだ。地上でのトラウマが、怒涛のように押し寄せる。みんながあまりにも私に話しかけるから、大切なことをすっかり忘れてしまっていた。このままこいしと友達になったら、また私は誰かの持つ嫉妬に殺される。
私は独りじゃないと怖いんだ。視覚と聴覚は一瞬で遮られ、嫉みの影だけを見た。
好物のはずの玄米茶が、それからはとても無機質な味がした。
「どう、お茶はおいしい?」
「そう……やっぱり貴方って素直で素敵だわ」
◇
「さて、そろそろみんなにごはんあげないと」
その後も雑談は続いたが、正直なところどんな話をしたかも覚えていない。ずっと上の空で相槌を返していたからだが、さとりの一言でお茶会もようやく終わった。しかしあの妖怪のことだ。私が会話に耳を傾けようともせず、何を考えていたのかは察しがついていると思う。つくづく嫌なヤツだ。
帰路。旧都を横切りながら、地霊殿での会話を思い出す。結局、こいしの件は頼めなかった。さとりは私の腹積もりに間違いなく気付いていたと思うが、こちらに話を振らせようとはしなかった。というより、私自身がそれどころじゃなかった。
さとりと別れてからもずっと放心気味であったが、気付けば旧都を駆け抜けていた。怖い何かに追われているような気がしたから。
息を切らせながら、街の端に辿り着く。私の橋も全景を見渡せるくらい広がっている。
「や、ずいぶん昏い顔してるじゃないか」
橋の上にはヤマメが一人で立っていた。
「何、私を待ってたの」
「そうだねぇ。初めてかもね」
「二回目よ」
それを聞いたヤマメの顔は、少しだけ緩んだ。私が覚えていたことに安心するように。でもそれもすぐに元の険しい目つきに戻る。
「その様子だと、地霊殿には行ってきたみたいだね」
「もしかして、別れてからずっと待ってたの? 明日でもよかったのに」
「送り出した私が言うのもなんだけど、さとりさんにヘンなこと言われないか気になって。一人で病んでちゃ毒だからね」
「毒だからね、か……」
ヤマメの言葉には既視感がある。
あの時も、地上と地下を結ぶ橋で彼女は待っていた。
地上の世界が私を嫌い、そして殺した。刺殺でもない、絞殺でもない。ただ生み出された遣り場の無い感情で、ゆっくりと毒が回るように仕組まれて死んでいったのだ。
そして確かに、私は彼女を頼った覚えがある。
毒だか病気だか知らないが、彼女と話をした後は地上のできごともさっぱり忘れられた気がする。
「そういや、昔あんたには下らないことを言ったわね」
「下らなくはないよ。だからパルスィ、もう一度助けになれるならさ……」
毒を盛られた私は、それでも完全には死ななかった。土蜘蛛に毒気を抜かれて、生き延びた先の地底ならもう一度やり直せるかとも思ってしまった。
差し出された手が私には暖かすぎて、きっと勘違いしたんだ。
一人で病んでちゃ毒だよ パルスィ
だから 話してごらん
独りじゃないんだから
私の大切な友人 パルスィ
ええ、ヤマメ。実はね。
「断るわ。一回とはいえあんたの耳に喋ってしまった。私の最大の失敗ね」
「私には耳が二つある!」
でも、それでも私には友人などない。嫉妬という魔物がまた私を追いかけてきたとしても、それは誰かに打ち明けることでは解決しない。これは今まで生きてきた中で知り得た、たった一つの自分を守る方法だから。嫉妬は嫉妬の連鎖を生むから、誰かと繋がっていてはいけないのだ。
だからいくらヤマメが手を差し伸べようとも、私はそれを払い除ける。
「嫌よ。あいつには何も言われてない。だからあんたにも何も言わないわ。
……話すことはそれだけ?」
返事も待たず、足早に彼女の横をすり抜けていく。ちらりと見えた横顔には、寂しさが宿っていたように思えた。一体何を寂しがる。私とあんたは所詮他人だ。
緩やかな川の音に掻き消されながら、聞こえない程の小さな声が耳に届いた。
「二回目だっけか。よく覚えてるねぇ。いや、あいつが思い出させたんだね。
じゃあ結局、私はパルスィに酷いことをしただけだ。友達になんてなれやしない。地底のアイドルも大したことないね」
パルスィの足が何かに当たる。橋から落ちた木片が水面を揺らし、そしてその揺れはどこまでも広がっていった。
◇
蜘蛛の糸を振り切って、私は安全なる自分の家へと逃げ帰る。窓も扉も全て閉め、そして鍵まで閉ざす。これでこの世界にはたった独り。橋も見えない、誰一人と入って来れない。私は完全に独りきりだった。地上で何もかもを失い往く当てもなく、廃屋だったこの家に住み着いたときと一緒だ。
地上で皆に裏切られ、誰からも陥れられ、そして私の心は地に堕ちた。心は醜い緑に染まり果て、私に近づくものを怨んだ。それでも近づいたものは、みな私から何かを奪って去っていく。相互の信頼など存在しない、向けられた憎悪だけを見てきた。これが嫉妬、怖いでしょう。
最後に私は独りになる。終に残った孤独だけは、もう誰にも奪わせない。
◆
一日が過ぎ、二日が過ぎ、橋のそばにある家は閉ざされたままだった。中の住人は何をしているとも知れず、扉が一寸たりとも動くことはなかった。しかしその家には毎日妖怪の少女が訪れ、住人に会いたがっている。
何日かが過ぎた、風の弱い日。
今日も家の前で呼びかけるこいしの前に、ヤマメが姿を見せる。
「こいしちゃん、今日はどうだい」
「まったく変わりなし。全然だめってことね」
こいしは力なく笑う。
「まるで地底に来たばっかりの頃みたいだねぇ」
「ねぇ、ヤマメも原因はお姉ちゃんだと思う?」
「さとりさんの所為というよりかは、さとりさんの嫉妬心かな。パルスィは二度と見たくなかったんだよ、あんなもの」
「それじゃあ私たち、そっとしておいた方がいいんじゃないの? このままだとお姉ちゃんは嫉妬するばかりよ」
「本当にそう思ってるなら、解決にゃあ程遠いね」
閉じきった門戸が、ふいにごとりと鳴る。明日は風が強くなるかと思われた。
次の日、こいしはやはりパルスィ宅を訪れては呼びかけを続けている。昨日とほとんど同じ光景だった。ただ少し違うのは、帽子が飛ばないよう右手で頭を抑えていたことだ。
そんな家の様子がよく見える橋の上で、ヤマメはある妖怪を呼び出していた。
トラウマを想起させた張本人、古明地さとり。
「酷いことさせるわね、地底の端から端まで呼んで寄越すなんて」
「酷いことしたのはどっちだ」
ヤマメは敵意を剥き出しにして、さとりを糾弾する。
「あら、私は彼女に確かめさせただけよ。どうして友達がいらなくなったのか、ということを」
「嘘を吐け」
「私は見え透いた嘘が嫌いよ。知ってるでしょう?」
「じゃあ何故あそこまでパルスィは傷ついたんだ」
「さぁ? 嫌なことでも思い出したんじゃないかしら。あの子は素直だったもの。さぞかし辛いでしょうね」
どこまでも食い下がろうとするが、相手は頭から相手にしていないようだった。
ヤマメもパルスィも、自分には関係がない。言葉の端々からもそれが読み取れる。
「でも、良かったんじゃないの? これであの子は独りに戻る。本人が幸せって言うのなら、それでいいのよ」
「独りになるだって。あんたの妹さんはどうなのさ。パルスィと友達になって……」
「それが許せないのよ!」
こいしの話が出た途端、さとりは感情を顕にした。それに呼応するかのように、洞窟へと吹き込む風は極端に圧力を増す。容赦ない冷風が威嚇するようにヤマメに吹き付ける。
果てしない緑色の怪物、さとりは嫉妬に取り憑かれていた。
「ねぇ分かる? 毎日毎日毎日毎日妹の行方を心配する姉の気持ちが。そして帰ってきたら毎日毎日毎日毎日聞かされるのよ。会ったこともない醜い嫉妬の妖怪の話を! でも私は知ったわ、パルスィがずっと孤独だったことを。だから私はパルスィを寂しい独りにさせるの、こいしの友達なんて認めないわ。こいしはずっと私と一緒にいればいいのよ!」
目の前には叫びながら妬み狂う姉の姿があったが、不思議とヤマメは落ち着いていた。以前に一度だけ聞いた、地上でのパルスィを襲った状況と限りなく同じものだったからである。
「なるほどな、パルスィ。実際に見たらよく分かるよ、これじゃあ篭りたくもなるわ。自分が関わったら、多かれ少なかれこうなるんだろうね」
さとりの嫉妬はまだ止まらない。恐らく、パルスィはそれが自分に起因していることを理解しているのだろう。地霊殿でさとりに見せられたのは、自分の過去でも、増してやトラウマでもない。最も忌み嫌う、そして自分自身である嫉妬の感情だったのだ。だから彼女は孤独になる。周りの者が妬みに狂わないように、優しさに満ち溢れた孤独だった。
「『皆には嫉妬に狂って欲しくない』、前はそう言ってたね。でも貴方が狂っちゃってどうするのよ。そうよパルスィ、貴方が狂う方がよっぽどおかしいわ。だからもう一度友達として迎えてもらうよ」
堅い決意を秘めた少女は、目の前の無惨な妖怪の首を掴み引きずっていく。
「離しなさい、何をする気よ!」
「あんたにも用があるのよ。私の友達に謝りなさい」
忘恩の地から吹く風を受け、黒谷ヤマメはもう一度友達に会いに行く。
◇
扉には、帽子を両手で押さえたこいしがしな垂れかかっていた。聞けば、中々返事をしないパルスィに痺れを切らし、『元気になるまでここを動かない!』と大見得をきったという。いい友達に恵まれている。ヤマメはパルスィをほんの少し羨ましく思った。
だがヤマメが感心したのも束の間、引っ張ってきたさとりがまたも暴れ出す。曰く、そんなことはさせない、こいしはあなたには渡さないとのことだ。
「いつもこうなのかい?」
「まさか。こんなお姉ちゃん、初めて見るわ」
二人でさとりを雁字搦めに抑えつつ、冷静に語った。
「で、どうするの。パルスィのお友達さん」
「言わせるのさ、『私はあなたの友達です』ってね。
友情には嫉妬もない。相手から奪っていくだけさ」
ヤマメは大きく息を吸い込む。風がその一瞬だけ強まり、目の前の廃屋を地面から揺さぶった。
「パルスィ、聞こえるかい」
◆
「パルスィ、聞こえるかい」
私は玄関からよく見える畳の上で、背中を丸めて座り込んでいた。
今日は風の強い日だったが、その中でもいっとう強いやつが家を駆け抜けた。棚のガタガタという物音に怯え、さらに身を縮こまらせた一瞬。
懐かしい知人の声が轟いてきた。
声は喧しくも続ける。
「パルスィのことだ、見たくも無い嫉妬を見せられて滅入ってるんだろう」
「素直だものね」
なぜ知人ごときがそのことを? やっぱり昔に喋ったからね。つくづく失敗だわ。
「今度こそはと思って隠居してきた地底でも、二度と嫉妬なんて見たくない。だからそこで孤独に浸っているのね」
彼女の言うことには間違いはない。私に必要なのは孤独だ。嫉妬なんかじゃない、孤独さえあれば幸せになれる。それなのに、どうしてあんた達は私から離れないのよ。
その思いを込めて、今度こそ知人に止めを刺すべく最後の言葉を告げた。
「二度と来るな、私はそれが幸せなのよ!」
長い沈黙。
聞こえるのは家の外の雑草が風に靡く音だけ。
ややあって、二人の掛け声が聞こえた気がして。
「孤独が幸せ? その幸せが妬ましいのよ、私にも分けて頂戴!」
扉は息の合った二人の蹴りによって、開くべき方向を無視して私に倒れてきた。
外からは風が吹き込んできて、涙に濡れた私を冷やす。
「ほら、泣いてる。やっぱり独りじゃ虚しいだけなのよ」
「……大きなお世話よ。それに、やっぱり私から奪うのね。最低よ、貴方たち」
こいしの姿を見られない。言葉だけでも拒絶しようとするが、この言葉は貴方たちには届くことはないと思う。風が強い日だから。
「そうだね、私もやっぱり奪いたかっただけかもしれないねぇ。地上の誰かさんと一緒かな」
「それ見なさいよ、だから私は友達なんて……」
横に並ぶヤマメの姿も見られなかった。そして声は震える。家の周りの雑草のように、一陣の風にたなびいて。
「決まりね。奪った分の埋め合わせは、私たちが幸せをあげるわ。友人だもの」
こっとこっとと一歩ずつ近づいてくる、二人の姿を見られなかった。
やがて友人二人に抱きしめられ、私はついに孤独までをも奪われた。
◇
あれから一ヶ月が経つ。
こいしは相変わらず毎日来るし、ヤマメともなんだかんだで一日に一回は顔を合わせる。
私は独りではなくなったが、嫉妬が戻ってくることもなかった。
嫉妬の妖怪はずっと嫉妬されるのを怖がっていました、なんて笑えない話だと思う。けど、ヤマメもこいしも本当に笑わずに私と向き合ってくれた。
そして、かつて私に嫉妬の牙を向けた彼女も。
「あなたもよく私と付き合う気になったわね」
「妹の言葉よ。誰にも相手にされないのに、誰も渡らない橋を直している素敵な妖怪がいるって」
「それで嫉妬したくせに、よく言うわ」
「でも私も好きよ、目立たないところで頑張ってるあなたのこと」
「素直ね。恥ずかしくないの?」
「恥ずかしいのね。素直だわ」
ある風の穏やかな日のことだ。
家に珍しい客人が来たので、丁寧にもてなしていた。
「……あなたの好きな私は何に怯えていたと思う」
「あら照れ隠し? 酷いわね。友人の嫉妬でしょ」
「ならその嫉妬していた友人はどうなったの」
「友人の友人の叫びを直に聞かされて、しばらく卒倒していたわ」
「その友人はいつ目を醒ましたの」
「友人の友人に怒られたときね、お姉ちゃんなんだからしっかりしなさいって」
「なるほど、持つべきものは友人ね。じゃあいい加減あの玄米茶の出所を教えなさい」
「駄目よ。買出しはこいしがやってるもの。持つべきものは妹よ」
ふはあ、と大仰に溜め息をついたついでに、
「友人なんだからしっかりしなさい」
私はまたしても増えた友人に叱咤を浴びせかけた。
では、その橋を渡るものが現れたら?
◆
それまで私が過ごしてきた日々は、とても単調なものだった。毎日毎日、一日たっぷりかけて橋を眺めてはお茶を飲んでいるだけ。何も食べなくたって死ぬことはないから、家を出る必要が無い。仕事というか、橋姫として橋の見張りさえしていればいい。同じ理由で旧都に行くことはなかったし、お陰で友人と呼べる友人はいない。挨拶を交わす程度の知人なら二人までは思いつくのだけれど。いや、よく考えればその知人だって、向こうが一方的に挨拶してくるだけじゃないか。
黒谷ヤマメは自称地底のアイドルで、誰にでもちょっかいを出すところがある。その「誰にでも」に当然のように私も含まれているだけだ。だから私から積極的に話しかけたという記憶はないし、しようとも思わない。
それからもう一人、桶に入った妖怪と遊んでいることも見かけるけど、そっちの方はほとんど知らない。なんて名前だったかな。キス……? 何にせよ、そいつは知人と呼べる程じゃない。
「そうそう、キス魔だわ。きっと二人でよろしくちゅっちゅやっているに違いないのよ」
橋を眺めていると、時折こんな風に斬新な結論が出てくる。実に有意義な時間だ。
願わくば、この平和な毎日が続かんことを。
私が愛する永遠の孤独でいられることを!
◇
それまで私が過ごしてきた日々は、とても単調なものだった。毎日毎日、一日たっぷりかけて橋を眺めてはお茶を飲んでいるだけ。「酒よりもお茶が好き」という理由で旧都の宴会に行くことはほとんどなかったし、お陰で友人と呼べる友人はいない。
しかしある日を境に、知っている人が増えた。毎日顔を見せられれば、嫌でも覚える。本当に嫌なのに、覚えてしまう。
「おはよう、パルスィ。 今日もいい天気になりそうね!」
「こんにちは、パルスィ。 お昼ごはんは食べたかしら?」
「こんばんは、パルスィ。 今日も楽しかったのよ!」
朝昼晩、あいつは不定期に出現する。あいつの悪質なのは毎日ここを通ることだ。よくもまあ飽きもせず地上に行けるものだと感心する。その上私がぼーっとしているところに、突然思考に割り込んでくるのだから心臓に悪い。そんな生活がここ数ヶ月続きっぱなしだ。
孤独とは、誰にも会わないことを前提に成り立つものだ。
その前提が、音を立てて崩れていく。
私の孤独を邪魔した妖怪、古明地こいしだけは許してなるものか。
お湯を沸かしながらそんなことを考えていると、果たしてあいつはやって来た。
「おはよう、パルスィ!」
今日もいきなり後ろから声を掛けてくる。ここは私の家だ、いつの間に台所に忍び込んだのよ。
「……あら、おはよう」
最大限ぶっきらぼうに返事を返してやる。この態度にショックの一つでも受けてくれれば儲け物だが、いつも通りと言わんばかりに飄々としている。
「パルスィは今から朝ごはん?」
「そんなところね。こいしは今日も地上に行くつもりなの」
「そうよ」
さらにふわふわと揺れながら微笑み返してくる。じっとできないのか。
「よく飽きないわね」
「だって友達が待ってるもの」
「ならさっさと行けばいいじゃない。毎回ここに立ち寄る必要なんてないでしょうに」
ストレートにぶつけてみた。こういうタイプは直に言わないとだめだから。それでもあいつは食い下がる。
「そんなことないわ。毎日の挨拶が友達の基本だって、お姉ちゃんも言ってたし」
「友達?」
毎日挨拶するのが友達。すると私とこいしは友達ということになる。冗談じゃない、地上の人妖だけに飽き足らず、私とも友達になるつもりなのか、この妖怪は。
「ええ。だってパルスィと友達になりたいもの」
そう言って彼女は、体も笑顔もふわふわと揺らしながら。
会話の途中でお湯が沸き、それを使ってお茶を淹れる。無意識に彼女の分まで用意したのが失策だが。……まぁ、お茶ぐらいいいだろう。本当にお茶だけ、だ。
「断るわ。私に友達なんていないし要らない」
「知ってるよ。これから作ればいいじゃない」
無理だ。私には仕事がある。孤独がある。何より一人でいた時間が長すぎる。
「友達といると幸せよ」
それでも彼女はダメを押してくる。
幸せ? 友達といると幸せになれるというのか。そんなおめでたい思考には嫉妬しよう! 友情なんて幸せを奪うだけだ。地上で情に裏切られ、嫉みの炎に焼かれた私にとって、そんな幸せは幻想だ。最後に掴んだ孤独という唯一の幸せまでをも、この友は奪っていくのか。
私は思わず湯飲みを持つ手を振るわせる。
その私を見てか見ずにか、こいしは別れの挨拶を口にした。
「じゃあ私はそろそろ行くわ。さようなら、パルスィ」
こいしの湯飲みからは、まだほんのりと湯気が立ち上っていた。
◇
こいしの言葉に悶々としながら、私は縁側から橋を見守っていた。渡る人も途絶え、私と共に孤独に沈んでいたはずの橋。まったく、迷惑な通行人と知り合ったものだ。それでも、この独りだけの時間は着実に私を癒してくれる。
おっと、お茶が切れた。沸かしてくるか。お茶も私を癒してくれるのよ。
薬缶を火にかけ、お茶の葉を漁っていると背後から足音がした。ああ、いいなあ足音。こっちも心構えができるから、すごくいい。
果たして、足音の主は声をかけてくる。
「やっほ、パルスィ」
「久しぶりね、ヤマメ」
私の思った通り相手は数少ない知人・その1だった。名前が間違えていないことを祈る。
「おや、湯飲みが二つもあるじゃない。準備がいいねぇ」
「生憎だけど、それ貴方のじゃないわ。まぁお茶は淹れてあげるけど」
お茶を振舞うのも慣れたものだ、手際よくこいしの使った湯飲みを洗ってやった。
「それが私のじゃないってことは誰か来てたのかい」
「ええ、例のこいしがね」
別に隠すほどのことでもないだろう。あいつがふらふら彷徨ってるのは、地底の妖怪には常識だ。
見れば、ヤマメも納得したように頷いている。
「こいしちゃんか。いい娘だよね」
「貴方にとってはそうかもしれないけど、私にはいい迷惑よ」
へぇ、という相槌。どうやら興味を持ったらしい。丁度いい、私の妬みごとに付き合ってもらうか。
「毎日毎日あいつと話をしなきゃいけないのよ。私はずっと孤独でいたいのに。それに……そうそう、今日私になんて言ったと思う? 友達になりたい、だって」
「そんなら私も言われたよ」
ヤマメは、それが至極当たり前だという面持ちで口をにやけさせている。
成る程こいしにとっては、散策ついでに友達百人できるかな、というわけだろう。それならば一層いい。私なんかほっといて、とっとと他の九十九人を当たればいいのだ。
「別に友達くらいいいじゃないのさ。本当に嫌なら挨拶すらしないよ。私の経験から言ってね」
「そんな経験、私だってあるわ。地上でも地下でも」
「そうそう。パルスィのことを言ってるんだ」
なんのこっちゃ。こちらもすっかり毒気を抜かれてしまった。いや、自主的に毒を吐いただけか。ともかく、お湯が沸いたらしいのでお茶を用意しに腰を上げる。
「で、今日は何しに来たの?」
「なんだ、用事がないと来ちゃ行けないのかい。ま、用事はあるんだけどね」
はぁ。「なら用事を済ませなさいよ」
背中越しに声をかけて一刻。どうやら自分の用事が何だったか思い出してるようだ。
「えーっとね、そうだそうだ。キスメが溺れたから助けて欲しい」
えー。
「そういうのは早く言いなさい!」
「大丈夫大丈夫、桶に入ったまま溺れてるから。桶は逆になってるけど」
「それならなおさらでしょ!」
ばたばたと家を出て、ヤマメに促されるまま欄干から足元を覗き込む。見事に桶が逆さまになって橋脚にへばり付いていた。きっとあの中には酸素が足りない妖怪ももれなく同梱されてるんだろう。
「んじゃ私が糸垂らして引っ掛けるから、パルスィは一本釣りの要領でよろしく」
「やったことないわよ。とりあえず、持ち上げればいいのね。糸離さないでよ」
「もちろん! キスメー、今助けるからなー」
なんとも緊張感の無い声が響く。
「ちょっと、この糸ネバネバするじゃない!」
「蜘蛛の糸だからねぇ。そこは我慢してもらわないと」
「かんべんしてよ。……あら、意外と軽いわね」
「私一人で巻き上げられる重さだからね、キスメは」
「私を呼んだ意味あるの?」
「それはその……おおっと糸が滑った!」
「きゃっ、何してんのよ!」
どういう状態にあったのか、桶は逆さ釣りのまま宙に浮き、中のキスメもそのまま無事保護された。欄干に一発ぶつけたおかげで橋の見栄えを損ねてしまったが、この場合命の方が優先だろう。
「まったく、泳げないんなら川で遊ばないでよね」
「だって流れが緩やかだし、なぁキスメ?」
「……あ、あ、りがとう」
まったく会話が成立しない。
その後家で体を拭いていくようにも勧めたが、キスメが桶に篭って拒否したので解散の流れになった。それはそれは壮大な拒否っぷりだったが、また独りになれるのなら問題はない。
「それにしても、重ね重ね悪いね」
「重ね重ねって、何がよ。私のティータイムを邪魔したこと?」
「いんや橋の方。大事な橋なんだろう、見事にやっちゃったじゃないか」
「なんだそんなこと。いいのよ、古い橋なんだから」
二人はそのまま住家へと帰っていき、その後はまた独りになれた。
手についた粘着感と、それから一日の終わりにこいしが来たのは頂けないが。
◇
古いとは貶したものの、一応は私の相棒と呼べなくもない橋だ。壊れたままで放っておくのも、あまり気分によろしくない。
橋の修繕はすぐに終わった。あんな破損、橋姫の私にかかれば三十分とかからない。でも修理の腕に橋姫の名は関係ないかも。ここのとこ老朽の影響かすぐ傷むから、単に慣れただけなのよね。
工具を持って引き上げようとしたころ、旧都の方から誰かと桶の二人連れがやってくるのが見えた。案の定昨日の溺死コンビ。
「珍しいわね、二日連続で来るなんて」
「ちょいと昨日のお礼とお詫びをね」
「……しゅうり」
「成る程ね。でも修理ならもう済んだわ。気持ちだけもらっとく」
「あらま、そりゃ悪いね。せっかく鬼たちから道具を借りてきたのに」
バツの悪そうにヤマメが頬をかく。キスメはと言うと、恥ずかしさからか桶に篭っているので様子が分からない。そんなに内気だったかしら。
「仕方ない、私たちはこれを返してくるよ。邪魔したね」
おや、もう帰るのか。これもまた珍しい。
「あんたの独りを邪魔しちゃ恨まれるからね。
ふむ、恨まれついでにも一つお節介でもしてこうか。こいしちゃんは今日も来たのかい?」
「来たわよ。お茶を二杯も飲んで行ったわ。朝からうんざりよ」
「ふぅん。ずいぶん寂しそうな目をして言うのね」
寂しそうな目? 私の目は緑だ。妬みに染められた緑。それを寂しそうだなんて、見当違いにも程がある。現にこうやってうんざりしてるでしょう。
「分かった分かった、そんなに怒らないでよ。キスメが怯えてるじゃないの。
ま、それはともかく。そんなに嫌ならこいしちゃんに直接言いなさいよ」
「それぐらいしたわよ。もう何度も。あいつには諦めなんて感情はないのかってくらいね。こっちはほとほと諦めてるのに」
「ならさとりさんに頼みなさいな。やっこさんなら妹にも言ってくれるんじゃない」
そういえばそうだ、こいしには姉妹がいる。すっかり失念していた。持つべきものは情報をくれる知人だ。
「ああ、その手があったわね」
「お、行く気になったかい」
「久しぶりに散歩も悪くないでしょ」
「来た甲斐もあったものだね」
今まで見た中で、二番目に嬉しそうなヤマメの笑顔だった。そこまで喜ばれても、とは思う。
「じゃあ私らはこれで。行こっか、キスメ」
桶が嬉しそうにガタガタ鳴っている。こっちは私から離れられることを嬉しそうに。手を振り二人を見送って、やがて私も古明地の住む地霊殿へと出かける準備をした。今日は橋守はお休みだ。
◇
「いつ見ても、広い家ね……」
地霊殿の玄関に立ちすくみ、思わず呟いてしまう。私の一軒屋が束になってかかっても敵わない広さだろう。もっとも、私はひとり暮らし。ここまで広いと掃除が大変なだけだ。
「考えても無駄よね。お邪魔するわよ」
玄関を開けて入った大広間。ここもやっぱりだだっ広い。しかし広いだけで生活感に欠けているというか、その点においては我が家に軍配があるだろう。
さて問題の館の主は、広間の端でペット(ウサギかしら)に食べ物を与えていた。その周りだけやけに生活臭が漂っている。その臭いを纏わせながら、こちらに振り向いたさとりは口を開いた。
「珍しいわね、来客なんて。紅茶を用意するから、先に客間に入ってて頂戴。あら、玄米茶の方が好きなのね。ごめんなさい、それは今切らしているから」
こちらの思い浮かべたことを淡々と吐いてくる、相変わらず不気味な妖怪だ。好物のお茶が飲めないとあって、いまさら来たことを後悔してしまう。とはいえそのまま引き返す訳にも行かないので、渋々ながら言われたとおり客間へと向かった。
暗い地底の中でも、主の表情を反映するように一際暗い地霊殿。その地霊殿に訪れた、全ての招かれざる客をぶちこむのが客間だ。あるのは洋風のテーブルとイスが数脚だけ。飾り気の欠片もない。誰も来ないのか、誰も呼ぶ気がないのか、どっちにしろ客の気が滅入る作りになっている。
そこに沈む私に運ばれてきたお茶は、果たして玄米茶だった。無いと言ったくせに、という気持ちが浮かぶ前に素直に喜んでしまう。どんな妖怪だって好物には勝てない。
「あら、嬉しいわ。そんなに喜んでもらえて」
顔にも出していないのに、こいつまた心を読んだのか。どうにも玄米茶ごときで喜ぶ私を弄んでいるように思えてぞっとする。
そして彼女は、玩具をいじる子どものような声を続ける。
「ここに来てから沈んだり浮かんだり。ふふ、素直な妖怪ね」
やはり、この姉妹は嫌いだ。
私としては用件だけ伝えてとっとと帰りたかったのだが、さとりが雑談ばかり振ってくるのでそうも行かなかった。久しぶりの客が嬉しいのか、私のイメージにあるさとりよりもだいぶ饒舌だ。やれペットの自慢だの、やれこの前来た魔法使いが大切なものを盗んでいっただの。この家に盗むものなんてあるのか?
ただ、この家の玄米茶はおいしい。どこの店か聞きたかったが、
「ごめんなさい、私が買ってるわけじゃないの」
と一蹴されてしまった。妬むぞ。
「怖いわね」
「そりゃ嫉妬だもの、怖いのは当然よ。私の力でも消せないくらいね」
「嫉妬は気持ちの中でも一番純粋よ。勝手に消えたら困るわ。妬みがあるから他人と繋がれるし、泣いたり笑ったりできるんでしょうに。だから妬いてる時の貴方はとても純粋だわ」
「そんなこと言う相手は初めてね。もしかして口説いてるの?」
「代弁してるのよ」
口元を吊り上げながらそう言った。代弁とははて、こいしのことだろうか? 脳裏に無邪気な笑顔が浮かぶ。
……そうそう、こいしだ。こいしのことを話しに来たんだ。
「そうそう、こいしとはうまくやってくれてる?」
お茶を啜ること数杯目、熱い決意を取り戻した私に思わぬ方向からジャブが飛んできた。お茶を噴出しそうになったが、すんでのところで耐えて聞き返す。
「うまくって、何が」
「あら、友達って聞いたのだけれど。毎日会ってるんでしょう」
成る程確かに、地上にしろ地底にしろ、私ほど頻繁に顔を会わせる相手もいないだろう。姉妹の話で私が出てくることがあっても珍しくはない。そしてそれをさとりが気にかけていたとしても。
「答えに躊躇うのね、こいしの話だとずいぶん仲が良いみたいだったけど」
「冗談を。ただお茶を振舞うだけの仲よ」
「良かった、それだけで十分よ。ありがとう」
精一杯毒を吐く私に、笑顔を見せてからわざわざ頭まで垂れてくる。どうやら本気で感謝しているらしかった。その姿を見て、心臓がとくんと波打つ。私はこんなに嫌がっているのに、それでもなお感謝するのか? 私が好きで相手をしているとでも思っているのか。
「『嫌がってる』って? 私にはそうは見えないけどね」
「あら、あなたの心の眼も大して当てにならないのね。心底嫌よ、私は」
「嫌なんかじゃないわ、恐いだけなのよ、あなたは。こいしに嫉妬の影を見てるのね」
「……!」
こちらを抉るような言葉の矢。思わず目をそらし、手元の湯飲みに逃げる。さとりの言葉は、今の私に向けられたんじゃない。昔の嫉妬に殺された私にだ。地上でのトラウマが、怒涛のように押し寄せる。みんながあまりにも私に話しかけるから、大切なことをすっかり忘れてしまっていた。このままこいしと友達になったら、また私は誰かの持つ嫉妬に殺される。
私は独りじゃないと怖いんだ。視覚と聴覚は一瞬で遮られ、嫉みの影だけを見た。
好物のはずの玄米茶が、それからはとても無機質な味がした。
「どう、お茶はおいしい?」
「そう……やっぱり貴方って素直で素敵だわ」
◇
「さて、そろそろみんなにごはんあげないと」
その後も雑談は続いたが、正直なところどんな話をしたかも覚えていない。ずっと上の空で相槌を返していたからだが、さとりの一言でお茶会もようやく終わった。しかしあの妖怪のことだ。私が会話に耳を傾けようともせず、何を考えていたのかは察しがついていると思う。つくづく嫌なヤツだ。
帰路。旧都を横切りながら、地霊殿での会話を思い出す。結局、こいしの件は頼めなかった。さとりは私の腹積もりに間違いなく気付いていたと思うが、こちらに話を振らせようとはしなかった。というより、私自身がそれどころじゃなかった。
さとりと別れてからもずっと放心気味であったが、気付けば旧都を駆け抜けていた。怖い何かに追われているような気がしたから。
息を切らせながら、街の端に辿り着く。私の橋も全景を見渡せるくらい広がっている。
「や、ずいぶん昏い顔してるじゃないか」
橋の上にはヤマメが一人で立っていた。
「何、私を待ってたの」
「そうだねぇ。初めてかもね」
「二回目よ」
それを聞いたヤマメの顔は、少しだけ緩んだ。私が覚えていたことに安心するように。でもそれもすぐに元の険しい目つきに戻る。
「その様子だと、地霊殿には行ってきたみたいだね」
「もしかして、別れてからずっと待ってたの? 明日でもよかったのに」
「送り出した私が言うのもなんだけど、さとりさんにヘンなこと言われないか気になって。一人で病んでちゃ毒だからね」
「毒だからね、か……」
ヤマメの言葉には既視感がある。
あの時も、地上と地下を結ぶ橋で彼女は待っていた。
地上の世界が私を嫌い、そして殺した。刺殺でもない、絞殺でもない。ただ生み出された遣り場の無い感情で、ゆっくりと毒が回るように仕組まれて死んでいったのだ。
そして確かに、私は彼女を頼った覚えがある。
毒だか病気だか知らないが、彼女と話をした後は地上のできごともさっぱり忘れられた気がする。
「そういや、昔あんたには下らないことを言ったわね」
「下らなくはないよ。だからパルスィ、もう一度助けになれるならさ……」
毒を盛られた私は、それでも完全には死ななかった。土蜘蛛に毒気を抜かれて、生き延びた先の地底ならもう一度やり直せるかとも思ってしまった。
差し出された手が私には暖かすぎて、きっと勘違いしたんだ。
一人で病んでちゃ毒だよ パルスィ
だから 話してごらん
独りじゃないんだから
私の大切な友人 パルスィ
ええ、ヤマメ。実はね。
「断るわ。一回とはいえあんたの耳に喋ってしまった。私の最大の失敗ね」
「私には耳が二つある!」
でも、それでも私には友人などない。嫉妬という魔物がまた私を追いかけてきたとしても、それは誰かに打ち明けることでは解決しない。これは今まで生きてきた中で知り得た、たった一つの自分を守る方法だから。嫉妬は嫉妬の連鎖を生むから、誰かと繋がっていてはいけないのだ。
だからいくらヤマメが手を差し伸べようとも、私はそれを払い除ける。
「嫌よ。あいつには何も言われてない。だからあんたにも何も言わないわ。
……話すことはそれだけ?」
返事も待たず、足早に彼女の横をすり抜けていく。ちらりと見えた横顔には、寂しさが宿っていたように思えた。一体何を寂しがる。私とあんたは所詮他人だ。
緩やかな川の音に掻き消されながら、聞こえない程の小さな声が耳に届いた。
「二回目だっけか。よく覚えてるねぇ。いや、あいつが思い出させたんだね。
じゃあ結局、私はパルスィに酷いことをしただけだ。友達になんてなれやしない。地底のアイドルも大したことないね」
パルスィの足が何かに当たる。橋から落ちた木片が水面を揺らし、そしてその揺れはどこまでも広がっていった。
◇
蜘蛛の糸を振り切って、私は安全なる自分の家へと逃げ帰る。窓も扉も全て閉め、そして鍵まで閉ざす。これでこの世界にはたった独り。橋も見えない、誰一人と入って来れない。私は完全に独りきりだった。地上で何もかもを失い往く当てもなく、廃屋だったこの家に住み着いたときと一緒だ。
地上で皆に裏切られ、誰からも陥れられ、そして私の心は地に堕ちた。心は醜い緑に染まり果て、私に近づくものを怨んだ。それでも近づいたものは、みな私から何かを奪って去っていく。相互の信頼など存在しない、向けられた憎悪だけを見てきた。これが嫉妬、怖いでしょう。
最後に私は独りになる。終に残った孤独だけは、もう誰にも奪わせない。
◆
一日が過ぎ、二日が過ぎ、橋のそばにある家は閉ざされたままだった。中の住人は何をしているとも知れず、扉が一寸たりとも動くことはなかった。しかしその家には毎日妖怪の少女が訪れ、住人に会いたがっている。
何日かが過ぎた、風の弱い日。
今日も家の前で呼びかけるこいしの前に、ヤマメが姿を見せる。
「こいしちゃん、今日はどうだい」
「まったく変わりなし。全然だめってことね」
こいしは力なく笑う。
「まるで地底に来たばっかりの頃みたいだねぇ」
「ねぇ、ヤマメも原因はお姉ちゃんだと思う?」
「さとりさんの所為というよりかは、さとりさんの嫉妬心かな。パルスィは二度と見たくなかったんだよ、あんなもの」
「それじゃあ私たち、そっとしておいた方がいいんじゃないの? このままだとお姉ちゃんは嫉妬するばかりよ」
「本当にそう思ってるなら、解決にゃあ程遠いね」
閉じきった門戸が、ふいにごとりと鳴る。明日は風が強くなるかと思われた。
次の日、こいしはやはりパルスィ宅を訪れては呼びかけを続けている。昨日とほとんど同じ光景だった。ただ少し違うのは、帽子が飛ばないよう右手で頭を抑えていたことだ。
そんな家の様子がよく見える橋の上で、ヤマメはある妖怪を呼び出していた。
トラウマを想起させた張本人、古明地さとり。
「酷いことさせるわね、地底の端から端まで呼んで寄越すなんて」
「酷いことしたのはどっちだ」
ヤマメは敵意を剥き出しにして、さとりを糾弾する。
「あら、私は彼女に確かめさせただけよ。どうして友達がいらなくなったのか、ということを」
「嘘を吐け」
「私は見え透いた嘘が嫌いよ。知ってるでしょう?」
「じゃあ何故あそこまでパルスィは傷ついたんだ」
「さぁ? 嫌なことでも思い出したんじゃないかしら。あの子は素直だったもの。さぞかし辛いでしょうね」
どこまでも食い下がろうとするが、相手は頭から相手にしていないようだった。
ヤマメもパルスィも、自分には関係がない。言葉の端々からもそれが読み取れる。
「でも、良かったんじゃないの? これであの子は独りに戻る。本人が幸せって言うのなら、それでいいのよ」
「独りになるだって。あんたの妹さんはどうなのさ。パルスィと友達になって……」
「それが許せないのよ!」
こいしの話が出た途端、さとりは感情を顕にした。それに呼応するかのように、洞窟へと吹き込む風は極端に圧力を増す。容赦ない冷風が威嚇するようにヤマメに吹き付ける。
果てしない緑色の怪物、さとりは嫉妬に取り憑かれていた。
「ねぇ分かる? 毎日毎日毎日毎日妹の行方を心配する姉の気持ちが。そして帰ってきたら毎日毎日毎日毎日聞かされるのよ。会ったこともない醜い嫉妬の妖怪の話を! でも私は知ったわ、パルスィがずっと孤独だったことを。だから私はパルスィを寂しい独りにさせるの、こいしの友達なんて認めないわ。こいしはずっと私と一緒にいればいいのよ!」
目の前には叫びながら妬み狂う姉の姿があったが、不思議とヤマメは落ち着いていた。以前に一度だけ聞いた、地上でのパルスィを襲った状況と限りなく同じものだったからである。
「なるほどな、パルスィ。実際に見たらよく分かるよ、これじゃあ篭りたくもなるわ。自分が関わったら、多かれ少なかれこうなるんだろうね」
さとりの嫉妬はまだ止まらない。恐らく、パルスィはそれが自分に起因していることを理解しているのだろう。地霊殿でさとりに見せられたのは、自分の過去でも、増してやトラウマでもない。最も忌み嫌う、そして自分自身である嫉妬の感情だったのだ。だから彼女は孤独になる。周りの者が妬みに狂わないように、優しさに満ち溢れた孤独だった。
「『皆には嫉妬に狂って欲しくない』、前はそう言ってたね。でも貴方が狂っちゃってどうするのよ。そうよパルスィ、貴方が狂う方がよっぽどおかしいわ。だからもう一度友達として迎えてもらうよ」
堅い決意を秘めた少女は、目の前の無惨な妖怪の首を掴み引きずっていく。
「離しなさい、何をする気よ!」
「あんたにも用があるのよ。私の友達に謝りなさい」
忘恩の地から吹く風を受け、黒谷ヤマメはもう一度友達に会いに行く。
◇
扉には、帽子を両手で押さえたこいしがしな垂れかかっていた。聞けば、中々返事をしないパルスィに痺れを切らし、『元気になるまでここを動かない!』と大見得をきったという。いい友達に恵まれている。ヤマメはパルスィをほんの少し羨ましく思った。
だがヤマメが感心したのも束の間、引っ張ってきたさとりがまたも暴れ出す。曰く、そんなことはさせない、こいしはあなたには渡さないとのことだ。
「いつもこうなのかい?」
「まさか。こんなお姉ちゃん、初めて見るわ」
二人でさとりを雁字搦めに抑えつつ、冷静に語った。
「で、どうするの。パルスィのお友達さん」
「言わせるのさ、『私はあなたの友達です』ってね。
友情には嫉妬もない。相手から奪っていくだけさ」
ヤマメは大きく息を吸い込む。風がその一瞬だけ強まり、目の前の廃屋を地面から揺さぶった。
「パルスィ、聞こえるかい」
◆
「パルスィ、聞こえるかい」
私は玄関からよく見える畳の上で、背中を丸めて座り込んでいた。
今日は風の強い日だったが、その中でもいっとう強いやつが家を駆け抜けた。棚のガタガタという物音に怯え、さらに身を縮こまらせた一瞬。
懐かしい知人の声が轟いてきた。
声は喧しくも続ける。
「パルスィのことだ、見たくも無い嫉妬を見せられて滅入ってるんだろう」
「素直だものね」
なぜ知人ごときがそのことを? やっぱり昔に喋ったからね。つくづく失敗だわ。
「今度こそはと思って隠居してきた地底でも、二度と嫉妬なんて見たくない。だからそこで孤独に浸っているのね」
彼女の言うことには間違いはない。私に必要なのは孤独だ。嫉妬なんかじゃない、孤独さえあれば幸せになれる。それなのに、どうしてあんた達は私から離れないのよ。
その思いを込めて、今度こそ知人に止めを刺すべく最後の言葉を告げた。
「二度と来るな、私はそれが幸せなのよ!」
長い沈黙。
聞こえるのは家の外の雑草が風に靡く音だけ。
ややあって、二人の掛け声が聞こえた気がして。
「孤独が幸せ? その幸せが妬ましいのよ、私にも分けて頂戴!」
扉は息の合った二人の蹴りによって、開くべき方向を無視して私に倒れてきた。
外からは風が吹き込んできて、涙に濡れた私を冷やす。
「ほら、泣いてる。やっぱり独りじゃ虚しいだけなのよ」
「……大きなお世話よ。それに、やっぱり私から奪うのね。最低よ、貴方たち」
こいしの姿を見られない。言葉だけでも拒絶しようとするが、この言葉は貴方たちには届くことはないと思う。風が強い日だから。
「そうだね、私もやっぱり奪いたかっただけかもしれないねぇ。地上の誰かさんと一緒かな」
「それ見なさいよ、だから私は友達なんて……」
横に並ぶヤマメの姿も見られなかった。そして声は震える。家の周りの雑草のように、一陣の風にたなびいて。
「決まりね。奪った分の埋め合わせは、私たちが幸せをあげるわ。友人だもの」
こっとこっとと一歩ずつ近づいてくる、二人の姿を見られなかった。
やがて友人二人に抱きしめられ、私はついに孤独までをも奪われた。
◇
あれから一ヶ月が経つ。
こいしは相変わらず毎日来るし、ヤマメともなんだかんだで一日に一回は顔を合わせる。
私は独りではなくなったが、嫉妬が戻ってくることもなかった。
嫉妬の妖怪はずっと嫉妬されるのを怖がっていました、なんて笑えない話だと思う。けど、ヤマメもこいしも本当に笑わずに私と向き合ってくれた。
そして、かつて私に嫉妬の牙を向けた彼女も。
「あなたもよく私と付き合う気になったわね」
「妹の言葉よ。誰にも相手にされないのに、誰も渡らない橋を直している素敵な妖怪がいるって」
「それで嫉妬したくせに、よく言うわ」
「でも私も好きよ、目立たないところで頑張ってるあなたのこと」
「素直ね。恥ずかしくないの?」
「恥ずかしいのね。素直だわ」
ある風の穏やかな日のことだ。
家に珍しい客人が来たので、丁寧にもてなしていた。
「……あなたの好きな私は何に怯えていたと思う」
「あら照れ隠し? 酷いわね。友人の嫉妬でしょ」
「ならその嫉妬していた友人はどうなったの」
「友人の友人の叫びを直に聞かされて、しばらく卒倒していたわ」
「その友人はいつ目を醒ましたの」
「友人の友人に怒られたときね、お姉ちゃんなんだからしっかりしなさいって」
「なるほど、持つべきものは友人ね。じゃあいい加減あの玄米茶の出所を教えなさい」
「駄目よ。買出しはこいしがやってるもの。持つべきものは妹よ」
ふはあ、と大仰に溜め息をついたついでに、
「友人なんだからしっかりしなさい」
私はまたしても増えた友人に叱咤を浴びせかけた。
パルスィにここまでやられるとは思ってませんでした!!
こんなパルスィもありです!!
最後結構感動しましたー
嫉妬心を操る程度の能力ってSS的に本当においしい能力ですよね。
あなたの描くパルスィまた読みたいです。ごちそうさまでした。
話をとても引き締めていて良いと思いました。
良いですね。最後には彼女自身、友人と呼ぶ光景。
面白かったです。