Coolier - 新生・東方創想話

賽の目にすべてを委ねて

2025/01/13 09:56:51
最終更新
サイズ
55.49KB
ページ数
1
閲覧数
903
評価数
9/10
POINT
930
Rate
17.36

分類タグ

 このあたりもおだやかになったものだ、と思いながら、境界にあたるゆるやかな坂道を歩いていく。
「さすがに年単位であっちこっち行ったり来たりして帰ってみると、変わるものもありますねえ」
 従者がそう言ったが、自然そのものはあまり変わりないように見えた。変わったのは人の営みにかかわるものばかりだ。なまくらの刀槍は鋤鍬に鋳潰されて、業物は殺傷物ではなく権威や威信を示すものになった。炊飯の煙もひとところから立ちのぼる野戦場の竈などではなく、村々からぽつぽつと沸き立つ素朴なものに戻っている。天下は泰平に安んじている。飯綱丸龍にとっては、そちらの方がこころよい。
「だがね典」
「へえ」
「おだやかになるとかえって廻ってこないものもある。たとえば今回の塩の買い付けの件だ」
「塩の流通自体は戦時中の方がけっこう盛んでしたからねえ」
「ああした物資は非常時の方がごそっと大きく動くからな。人間様の里を維持するために私らがせっせと裏で動くのもアホらしいし、適当な商人をそそのかして、奴らに塩の買い付けでもさせるか。近くの郷まで出て、わざわざ割高な塩を売りつけられているようだしね」
「それがよございます」

 山に帰るのをもう少し先延ばしにして人里入りしたふたりは、数日かけて様々な商人と交流し、塩を取り扱う問屋の開設を運動した。元々、いわゆる塩の道、流通路の一部に位置している場所なのだ。今までこのたぐいの商人がいなかったのが不思議なくらいだった。
「ま、この件に関してはこんなところだろ」
 自分自身が主導したいものでもないし、適度に焚きつけて物事が転がり始めれば、それでいい。
 そばの運河沿いを遡ったり下ったりしている舟を、寝泊まりしている旅籠宿の窓から見下ろしながら龍は言った。
「よーし、今度こそ山に戻ってごろごろするぞー」
「……どうせ戻ったら、また御大層なお役目なんか押しつけられますよ」
「やだやだやだやだもうお山の政治なんぞどうでもいいから隠居して好きにお金貯めたり有望な新事業への投資とかしたーい」
「また始まったよこの人」
 急に子供に戻ったように駄々をこね始める龍だったが、ふざけているだけというのを典は知っている。というか、そんなつもりなら山に戻らなければいいだけだし。
 かと思うと、がばっと起き上がって、菅牧典に対してくだをまきはじめた。
「だいたいおかしないですか? うちもうあの山のために、じゅうぶん尽くしたゆうふうに思うんですわ。そりゃーもう表に裏に八面六臂」
「やっている側の肌感だと、表が三、裏が七くらいでしたね」
「それが山の連中はどういう了見なんですかなぁ、なーんか厄介ごとがあると、いっつも。色んな部局を巡り巡って、ふわぁっと、するぅっと、こっちに……」
 そう言いながら宙に目を泳がせて、なにか目に見えないものが、自分の手元にやってくる事を、眼差しだけで表現する。
「……やってくる」
「そういう事言うからそうなるんですよ」
「なんかあんた近頃冷淡になったね」
「付き合い長いとそういう時期もあるでしょ」
 主従で軽口を叩き合いながらも、二人の感慨は似たり寄ったりだった。
 塩の買い付けは、旅の終わりのついでのおつかいにすぎなかった。彼女たちは戦乱の終わった諸国を巡って見聞しつつ、何年ぶりかに幻想郷に帰ってきたところなのだ。
 天下はおさまったような気がするものの、人心が掌を返すように平時に戻るわけでもない。旅では様々な事を見かけたし、遭遇したりもした。嫌なものを見る場合も多かったが、それ自体は人の世の常よなと思い、時には施しや介助を与えつつも、どこか遠巻きな憐れみを感じるだけだった。しかし、宿場で色々と話を聞いていると、この郷でも同様の――当然、まったく同じではないが、いくらかは似通った――混乱が起きていた。呆れたいような憐れみたいような、変な気分にさせられる。
 まだ三月も経たない前のこと、当代の博麗の巫女が追放されていた。

 追放したのは稗田家だった――といっても、いわゆる百何十年周期に出現する、御阿礼の子によってではない。直近の御阿礼の子にあたる稗田阿夢はもう何年か前に命を落としている。ただ、その死もまた今回の追放とやや関係していて、いささか複雑で根が深かった。
 どれだけ複雑で、根深かったかというと、まずこの郷の人間たちの政治的関係を説明するため、二代目阿爾にまで話を遡らせる必要がある。そもそも阿爾という人は、博麗神社に仕える一介の神人から出でて、ちょうど古代村落の解体と律令の再編期という時勢を利用しつつ、実力をつけてこの幻想郷に本格的に地歩を固めた、いわゆる富豪の輩といわれる人々のひとりだった。しかし、実態は変われどあくまで博麗神社の神賎であるという出自と身分は残ったし、ある時は農民と神人という身分の使い分けを駆使して労役を免除してもらうなどという立ち回りもあった。そんなわけで、この影の上下関係自体は稗田氏がこの幻想郷一等の長者となった後も、ひっそり存続している。
 ただ、こうした関係が常に平和な相互関係であり続けたかというと、微妙なところがある。三代目阿未は人里の統制と利権を一族に集約するために博麗の神聖権威を巧みに利用したし、四代目阿余は傍流の出自から骨肉相食む闘争の末に家督を相続した経緯があって、わずかでもおのれの正統性を補強すべく博麗神社の後ろ盾を求めた。妖怪拡張計画に対抗して、博麗の巫女という存在を本格的に興して妖怪退治の英雄へと仕立て上げたのは、五代目阿悟だ。
 六代目阿夢はというと、二代の巫女にわたって仕えた。この巫女たちはどちらも元の性向がやたらめったらな武闘派だったようで、そのうえ阿悟以降の稗田氏が仕込んだ異常な思想教育が、百年の月日と、また自力救済的な社会環境の中で強烈に醸成されてしまってもいる。
 大変な事になった。博麗の巫女は神社の氏子たちを招集し、己の軍兵に仕立てて、妖怪の山への侵攻を開始したのだ。
 ただ、この暴力的な軍事行動にも、一応の正統な理由があった。山の裾野に広がる樹海まで含む広大な土地の一部には、かつて博麗神社が神事等で必要とする資源を採集していた社領があって、法的な領有権は未だ失効していなかったからだ。
 聖女による聖地の再征服は、情熱的に行われた。幻想郷には妖怪退治を生業としていた者の末裔が多くいるとされているが、この時代の幾たびもの戦役の間に、傭兵集団として郷の外から結集してそのまま里に土着したり、それとは別に博麗や稗田の家にそうした技能を育成された家も少なくなかった。
 博麗の巫女には、狂信的なだけでなく不思議に現実主義な一面もあって、力押しに妖怪を攻めるだけはしなかった。人間に多少なり友好な勢力は意外にも優しく遇したり、種族間にくさびを打って離反をそそのかしたりして、巧妙にその力を減じさせたりもした。
 ところが、こうした徹底的な戦いぶりを支えながら、疲弊して消耗していった人間もいる。それが稗田阿夢だったわけで、この人は歴代の御阿礼の子の中でも不思議なくらい凡庸で(それどころか、本当は御阿礼の子その人ではないのではないかという疑義さえ在任当時からあった)、情勢に翻弄される事や、立場の問題で板挟みになる事が多かった。
 そんな中で当代の巫女が死ぬ。この女性は一世の名もなき女傑といっていい人だったが、己の命数には勝てなかった。引き継いだ次代の巫女はまだまだ若年で、その執政となるべきだった阿夢さえ、その後いくらも経たないうちに四十手前で(御阿礼の子にしてはやや長寿と言えるが)早世してしまった。生来の病弱に加えて心労がたたったものと思われる。
 次代への引き継ぎが上手くいったとは考えられないし、先代の負債があった事も確かだ。氏子衆や傭兵たちへの恩賞は以前から滞っていて、これらの不満を押し留めていたのは、巫女ではなく中間管理職的に立ち回っていた稗田阿夢の人徳だった。なにより、この人が没した後の稗田家じたい、戦いに倦み疲れて手を引こうともしていたのだ。手打ちとするには早い方がいい(こうした和平の空気が漂ってきた時期、龍と典は諸国を巡る旅に出た)。
 実態は、稗田の家によって支えられていた軍集団だったのだろう。一度は満ちた潮が自然と引いていくように、領土を奪還し維持しようとする人間たちの情熱は失せていった――新たに就任した博麗の巫女を除いては。
 新任の彼女には先代ほどの実績が無く、功成す事への執着と焦りがあったのは当然だし、同情もできるだろう。だが本人に問題が無かったとも言えない。彼女は若い頃からわがままで、衝動的で、そして癇癪持ちだった。常に大人たちに囲まれて、同世代の友とする者もいなかった。しかもこれは誰の罪でもないのだが、長じていくうちに歯の病が生じた。毎夜激しい歯痛に悩まされたのもあって、元来狷介だった性格が更に難しくなった。
 成人後の博麗の巫女は、常にいらいらとしていて、好戦的で、やがてその所業にも異様な残虐性があらわれるようになった……というのは歴史の記録にありがちな、ものの方便なのかもしれないが、ともかくそれが追放の理由の第一とされた。
 彼女は稗田家の手勢に拘束され、すべての歯を無理矢理こじ抜かれた上で、野に放たれたそうだ。
 稗田家の者がシェイクスピア的な――『リチャード二世』における“お前はもはやイングランドの一地主だ、王ではない”に相当するような名文句を、博麗の巫女に対して吐いたかどうか、定かでない。

 その後、博麗の巫女の名跡については、稗田阿七が先代博麗の巫女につながる遠い縁者を呼びつけてひっそりと再興し、阿弥の援助によって中興するに至るまで、長い空位期間が置かれた。その後の九代目阿求の時代――歴代博麗の巫女の最高傑作・最高潮・最高到達点と名高い博麗霊夢がそのありようを確立するまで、彼女たちの立場も揺れ動き続ける事になる。
 のちの世の事はともかく。
 龍にしてみれば、博麗の巫女も博麗の巫女だが、稗田の家も稗田の家だった。
「……まったく。この土地の神職に仕えるふみのつかさにすぎなかった一族が、いつの間にやら偉くなったもんよね」
「人の名前を呼ばないでくださいよ」
「お前の名は呼んでないよ典」
 正座をさせた典に太ももの間に顔をうずめながら、龍はじっと考え続ける。はたから見ると完全に変態か好き者としか見えない光景だが、その思考はまったくあやしくなかった。
「……しかしあの抗争が終わったのなら、あんたどう見る?」
「お山の天狗さんたちは樹海に残された博麗の旧社領に手をつけようとするでしょうね」
「だがあそこは――」
「山姥が守り続けていますよね、たぶん」

 案の定というべきか。
 妖怪の山に帰還した龍を待っていたのは、そうした戦後もくすぶり続けている領地係争の解決という案件だった。
「なのでおそらく――」
「……あんたねぇ。まだ私、天魔様に帰還後の挨拶や報告すらできていないの。その前にそういう話を持ち込まれても困るのよ。物事の順序が逆」
 帰った途端に山の現状を耳に入れてくる鴉天狗に辟易しながら、龍は言い返した。相手の歩幅に合わせながら歩いていく天狗の政治中枢は、かつてのような山上に張り出した政所ではなく、地下に掘り抜かれた壕の中だった。
「そして、また、こんな穴蔵に逆戻りしたの」
「人間との戦いは終わりましたが、おかげ様であれから様々な問題が噴出しましてね。ついでに白狼天狗の間にも不穏な動きがあります」
 ちなみに、白狼天狗という種族の分離は意外と歴史が新しいもので、以前からなんとなく横たわっていた差別意識が明確な種別として突如起き上がり、そのために天狗たちは分かたれた。これも先代巫女による離間の計略によるものだった。彼女は我々と奴らとの境界を定義する行為の効果を、よく知っていたわけだ。
「相変わらずの戦時体制なのね」
「外の世界だって、なにもかもがさっぱりすっぱり変わったわけではないでしょう」
 その通りだった。郷の外の世界でも、新政権による旧体制の解体と整理はあくまで行政的に進んでいたが、その中で主家を失った牢人たちは巷にたむろしているし、社会に対する不満や憂いが消えたわけではない。
「こっちだって、それと一緒ですよ」
「ちょっとは賢い顔ができるようになったみたいだな、文」
 相手は名前を呼ばれて、へっと息を吐いた。
「ま、こうしてあなたに色々とお伝えしておかなければいけないんですよ。なんせ博麗の巫女が――」
「追放された、だろ?」
 話の先を取ってやったつもりでそう言ってやると、文は少し意地悪そうにニヤリと笑った。
「半分正解ですが、それだけじゃありません。彼女は追放されたのち、樹海の博麗旧社領の中に逃げ込んで、山姥に保護されています」
「だろうと思った」
 負け惜しみではなく、本当にそれくらいの顛末は予想している。すでに手は打っていた。

 その頃、菅牧典は樹海の中で不思議とぽっかり拓けた野原の中を、無邪気に駆けていた。
「ちょうちょ、ちょうちょ、まってよぉ……あ、きれいなおはなさんだー、わーい」
 内心では馬鹿馬鹿しいと感じている。馬鹿馬鹿しいが、山姥の性格からして、これくらい幼い感じの方が捕まっても煮たり食ったりされたりはしないだろう、という龍の見立ては、たぶん正しい。たぶん正しいからこそ腹立つ。
(だからってこんな潜入の仕方?)
 と思うわけだった。なにせここまで、こんな調子で切り立った山道を行き、天狗の関所を見過ごされて、沢を渡ってここに至っている。
 そうしてふざけている間に、女と出会った。細かな描写はあえて省くが、一目見ただけでこいつはやべえとわかる女だった。
「おどれ」
 一瞬「踊れ」と言われたのかと思いつつすぐさま「おまえ」の意味だと解したが、設定上そんな賢い事ができるわけもなく「はい……」と半泣きで踊らざるをえない典。
「はぐれ子か?」
 今度は意味が通じるのだが、微妙に語の拍子がおかしい。はぐれ・子か? と問われているのに、妙に平坦な感じがして、本当に自分ははぐれ子=迷子で良いのだろうかという逡巡に一瞬悩まされて、そこでようやく自分の役を思い出すという調子だった。
「……うええええーん」
 とりあえず泣く事にした。噓泣きは上手だった。昨年、京の都に立ち寄った際に六条河原で開催されていて参加した(龍にさせられた)、童子の嘘泣き選手権で見事優勝してしまった事もある。(見よ、都会仕込みの嘘泣きを……!)とばかりに踊ったまま半ばヤケでやっていると、なにやっているんだろう私という近代的自我の萌芽といえるかもしれない情けなさも相まって、本気で泣けてきた。
「……あー、だんないか?」
 と、相手が本気で心配そうに言ってくれているのはわかるのだが、それに甘えて相手へと突進するのも、この場面ではちょっとおかしい。むしろ踵を返して逃げていいし、その方が怪しまれないだろう、とも思う。
(つーかこの人、訛り? がすごい)
 今更な感慨だったが、そういうことを考えながら、くるくる踊りつつ嘘泣きをしている。典は相手以上に自分がわからなくなってきた。
(だんないか=大事ないでしょうかとあんたは尋ねるけれど、どう見ても頭と情緒のおかしい子でしょうがよ)
 そのうち本当に頭がくらくらしてきたので、これはかえって相手のふところに飛び込む事ができるのではないかと思いつき、目を回しよろめきながら、山姥の方に近づき始める。
 相手も、どうしたものかという表情で、典の接近を許していた。
(……にしてもこいつおっぱいでけえな)
 冷静にひとつひとつの行動を繋げているつもりの典だったが、そうした感想がぼそっと漏れるくらいには頭がおかしくなっていた。先だって、自分の主人が子供にかえったように駄々をこね始めた時の事も、ふと思い出した。あの方、結局今回も頑張る羽目になるんだろうし、今度ご褒美に私のおっぱいでも吸わせてやろうかな?
 馬鹿みたいなあれこれを考えつつ山姥の胸に飛び込もうとした典だが、それは果たせなかった。横合いからものすごい勢いの殺気と肉弾が殴りかかってきた。典の体は横っ飛びに吹っ飛ばされて、しかし空中で二回転するうちに体勢を立て直し、鮮やかに着地した。
「――なんだてめえ人のおっぱいを(別に典のものではない)どういう了見だこの野郎」
 思わず地の性格そのままに咎めそうになったが、その口ははたとつぐまれた。
 典を押し退けて山姥の乳房をはだけさせて取りついていたのは、成人女性――博麗の巫女だった。絶対に異様な状況と言えるのに、山姥はそれを優しく受け入れていた。山姥は「あらんどんのにむりせんとね」とかなんとか言っているが、典の頭には入ってきていない。博麗の巫女は歯の無い口で山姥の乳を吸って生き延びている。

 龍は頭を悩ませていた。
 土地係争はあったが、博麗旧領の四至自体は決まっていて、そこがいっそう混乱の種だった。所領目録の記載方法が「一処博麗社領 四至――東はこれを限る、西はそれを限る、南はあれを限る、北はどれを限る」といった内容だったからだ。
「つまりね、彼らの領地って四方がどうという話は決まっているけど、時代が下るにつれてそれらの境界線があいまいになってきていて、今となっては法的根拠としての効力があやしくなっているわけ」
「境相論とか土地権利とか、そういう法関係の話はめんどくさいけど、言わんとする事はわかるよ」
 あらあらと掘られた坑道の中で、龍は旧友に向かって一連の事情を説明している。友人の姫虫百々世は無学なお姫様だったが、そうした話に無理解なほど頭が悪いわけではなかった。
「それで、俺になんの相談だよ」
「どこをどうつついても文句が出そうな、そういう状況よ。あんたくらい遠巻きに眺めている方が、冷静な助言がもらえるかと思って」
「ふーむ……」
 百々世は考えてくれる。
「……ひとまず、ややこしい状況なのは変わりないみたいだけど、一時期より全然ましだ。少なくとも、人間の横槍が入る恐れが無いだけでも」
「しかしあの土地の管理を博麗神社に託された山姥は、追放されたとはいえ博麗の巫女を保護している。そのあたりの関係が将来どうなるかは完全に未知数」
「今わからない事が将来ならわかるなんて保証もない。ということは、今のうちにさっさと決めてしまうべきだろう」
「それは天狗側の理屈ね。山姥側の理屈としてはどうでしょう?」
「山姥の性格からいって、別に領土を拡張する意思は無いだろうな。俺もお仕事の関係であの領内の採掘を依頼されたりしたけど、ああみえておとなしい女だよ。土地境界線そのものの決定については妥協しないだろうけど、なにがしかが決まる事を拒絶するようなたちではない」
「ごくごく客観的に、あなたたち局外にいる妖怪の理屈で言えば?」
「なんでもいいから諍いになる前にさっさと決めて欲しい――見なよ最近掘り当てた鉱脈」
 と立ち上がった百々世は、坑道を先に歩いて案内を始めた。
「こっちは、こういう自分の仕事に熱中したいだけだ……この手の採掘場は、樹海の博麗領内にもあったな。けして大きな鉱脈ではなかったけれど、でも産出する資源の種類の多さに驚いた記憶が……」
「広さの割に、あの土地はとんでもなく豊かよ。かつての噴火によって放棄される前、神人に開墾させていた頃には、神事目的などに調進する五穀、紅花、藍、大麻などの栽培、養蚕場すらあったみたい。今ではみんな忘れっぽくなってしまっているけれど、古代における博麗神社の力の源泉の一つは、間違いなくあそこ」
「冗談抜きで聖地なわけか」
 百々世も考え込んでしまう。
「……昔はさ、こちらが大人しくしている分には、人間連中も乱暴して来なかったんだよ。まあたまに暴れてへこまされるのもこっちの宿痾というか性分みたいなもんだから、結局適度にやらかすんだけどさ。そういう時に話をつけていいようにしてくれるのがあの神社の連中だったんだよな。それは妖怪と人間の関係だけじゃなくて、妖怪同士の対立の時さえ。だいたいおかしいのは妖怪拡張計画の方だよ。あんな事をしでかしたら、そりゃ人間側も断交するわなって話で――」
「あ、あー、過ぎた事を話すのは、後にしましょ。今……今この状況にいて欲しいのは、今この混乱を生んでいる博麗神社そのものって言いたいわけ?」
「多少皮肉な見方をすればね。どんな判断をしても無理が出てくる係争なんか、時には神様っていうか、自分ではままならない領域に判断のお伺いを立てて、どういう結果でも無理矢理納得するしかない時ってあるじゃん。それを判断する相手が、同じ妖怪、同じ人間なんかだと“んだとてめえこら”ってなっちゃったりね」
「最後には神様に聞くしかないって事?」
 それでは、人間たちが時に行うような神明裁判と同じではないか。
「究極ね、究極……」
 百々世も妙な事を言ったと思いつつも、じっと考え込んでいる。

 まだ日暮れまでいくらか余裕があるが、典はおうちに帰りたくて泣いていた。一応演技のつもりだったが、本気でそう思ってもいる。
「わたしおうちがあるの、おっかあさんがまってるの、ごはん……」
 憐れみたっぷりの事を言っていると、半分くらい嘘ごとなのに本気で切なくなってきて、泣けてくる。自分でも調子のいい奴だと思った。
 それにしても、山姥は典を自分の家に連れてきたものの、博麗の巫女につきっきりだ。逃げようと思えばいくらでも逃げられた。
「うぅ……もうおうちかえる……」
 今まで行動に移せなかったのは、相手が典の嘘に気がついていて、さらに領地係争中の天狗側が放った諜報員であると察している可能性が、なくもなかったからだ。この真に迫った演技が見破られるのはちょっぴり心外だったが、このまま拘束される事も考えに入れておくべきだろう。
「ちいっとまち」
 待てといわれれば、典の立場では待つしかなかった。
 かといって、山姥は典を引き留めようとしたわけではない。典を待たせるうちに筆硯を準備して、それに奥から綺麗な紙を――よほどの時にしか使わないのだろう、それだけ上質なものだったし、出してくるのにも手間取っていた――持ってきて、そこにさらさらさらとよどみなく、なにかを書きつける。
「……境まで送っていくから、これは大人に渡してくんな」
 喋ろうと思えば、ぎこちないながら通じる言葉も話せるのだなと、少し失礼な感慨につつまれる典。
「すまんな……あぁもう、ちょっとあけるだけだにあらんどるみでそうこころいからせんでもね」
 屋内に取り残されてなにかぐずり始めた博麗の巫女に対しても言葉をかけていたが、いまいち解読できない。
 典は領地の外へしずしずと送られた。
「あ、私、このあたりで、もうだいじょうぶ……」
 と適当な山道の辻で言うと、山姥も、
「じゃあ、その手紙は大人によろしくな」
 と、そこであっさりと解放されたのは、よほど博麗の巫女が大事なようだった。
 自領内に戻っていく山姥の背中を、見えなくなるまで見送った典は、託された書状を、その場にあったちょうどいい岩の上に座って、開いた。内容は、簡単な、こまごましたものの目録だった。そして、きっとお返しはするので、これらのものを集めて、どこそこの磐座の上に――偶然にも、典が腰かけたその岩だった――置いていってくださいといった事が、やや古風だが綺麗で、かつやさしげな筆遣いで書かれている。
 目録には雑多な文物が記されていたが、総じて清潔なものが書き連ねられていて、特に白装束やさらし、一反ものの布がいくつかといったものが含まれているのが、典には妙に気になった。
「あらんど」
 と、何度か山姥が発していたことばが、こうした文字の連なりを見たとたん、なぜかぐるぐると頭の中を巡る。
 典も、龍と共に諸国を巡った身だ。その中で様々な言葉が変化して、変質して、変異していった痕跡を見た事があるので、いわばちょっとした言語学者のような経験的見分はある。そして彼女は、とある地で「は」行の子音がいくぶんか省略されて「あ」行音に変化しがちであったことを、ふと、思い出した。
「あらんど、はらんど、はら?……あぁ」
 孕んでるんだぁ、と典はぼそりと呟いた。

 宵の口になった頃、龍は射命丸文をともなって天狗の夜街をぶらついている。この手の歓楽街も、戦中はまったく上層部の統制下に置かれてしまっていておとなしくなっていたのだが、今ではすっかり活気が戻っている。
「あの店」
 と文が一つの酒場を指したので、そこに入った。
 だが、龍は入り口を遮るように立ったまま、それ以上は入ろうとしない。ただ店内の雰囲気を観察して、その奥座敷で行われているだろう行為を想像するだけで、やがて店内にいる者がその存在に気がついて訝しげな視線を投げかけるまで、じっと待ち続けた。
 龍は背後の文に尋ねる。その唇には呼子笛が咥えられていた。
「店の裏は?」
「固めさせています」
「じゃあ始めよう」
 かん高い笛の音とともに、違法賭博の摘発が開始された。

 摘発を名目にした出入りだったが、龍たちの目的はもちろん別にある。ただ一人を得るためだけの大立ち回りだった。
「……別に、この山での営業が違法だってのなら、よそに流れていくまでよ」
 捕らえられた女は、聴取の場で龍に対して言った。
「まあ、そりゃあそうだろうね。駒草太夫」
「それにあんたの言いぐさだとさ、大天狗さん。あんたらは自分たちの土地関係のごたつきを、うちが振る賽の目に全部託してしまおうとしている」
「正しい理解をしている」
「こういう事にさいころを使われるのは初めてだわ」
「本朝の帝や将軍だって、くじ引きで決められた事があるぜ。……しかしながら、人間たちの神明裁判のやり口はいささか恣意的すぎるのも確かだ。こっちは、本気で、誰の思い通りにもならない賽の目に全てを託すんだよ」
「それを振る誰かに、責任を押しつけようとしているだけじゃない」
「駒草太夫」
 龍は人好きのする笑顔を作って、相手を通称で呼んだ。
「私たちがあんたにやらせたいことは、本来、巫女がいれば巫女にやらせるべきなんだ。だからこれはまつりごとではあるが、政治ではなく神事と心得て欲しい。どういった目が出て、誰が得して損しようが、我々は、自分たちではままならない領域に判断のお伺いを立てるだけなの」
「……私が賽の目を操作するとは思わないの?」
「どうでもいい事だな。さっきから言っているけど、私たちが欲しているのは損得以前よ。ともかくも土地境界線を策定して、この山に安定した状態を作りたい――本当のところ、あくどい事をするなら後からどうとでもなるからね」
 駒草山如は少し考える様子を見せたが、それがふりだけだというのも、なんとなく伝わる。
「……条件があるんだけど、いい?」
「そりゃあね。どんな?」
「あんたら天狗の領内で、向こう数百年、賭博行為による自由な営業をする許可と、それに……煙草百年分」
「煙草ね」
 数十年前に南蛮から渡来したこの嗜好品は、ちょうど国内生産にも手がつけられてきていて、民間にも流通し始めた時代であった。もっと言うと、お上に規制される雰囲気すら早速ただよってきている。巷には米農家から煙草農家へ転業する農家も増えていて、値崩れの気配もあった。……といった諸々を加味して、龍は瞬時にそろばんを弾いている。
「一日ぶんが一匁の計算でいい?」
「ま、そんなところで引き受けようかね」
 山如がそう言ったとき、聴取の場にするりと入ってきた者があった。典だった。
「……ちょっとひそひそしましょ」
 と、管狐は主人の耳元に口を近づけて、こしょこしょと唇を動かす。その話を聞くにつれて、龍は少し不機嫌そうになっていった。
「……いま、私はこの方と話をしていたのよ? それなのに、そんなつまらない事を?」
「ああ、そうでしたね。お邪魔でした?」
「当たり前よ。さっさと失せな」
「はーい」
 典退場。
 その後の龍は、山如と、のちのちやるべき事の打ち合わせを、すらすらと進めていった。
「……まあ、細かい部分の段取りは数日中に決まるだろうけど。……いいかい、あんたはその儀式をしている間は、偶然に身を任せてうつし世を生きる博打打ちではなく、神託を受ける巫女よ。巫女さんの経験はある?」
「ただ職業を言い換えただけで、ずいぶんと立場が変わるんだな……実を言うと、事のなりゆきでそういう神職もどきをやった事が無いわけではないわ」
「ああよかった、事前調査通りだ」
 龍はそうした事を言いながら、相手の当座の住所を確認した上で、山如を解放する。たおやかな遊び女の姿を見送った上で、大きくため息をついてしまった。
「……あの」
 いつの間にか、すぐそばに典が近寄ってきている。龍は静かな声で、この従者に対して話しかけた。
「さっきはごめんね。……その話は確証の持てること?」
「今のところは、私が下衆の勘繰りをしているだけですよ……しかしながら、考えれば考えるほど、そうとしか思えないのも確かです」
「えらい事になったわ」
「ですよね……とりあえずわたしのおっぱい吸って落ち着きましょうか?」
「なんで?」

 落ち着いて考えてみると、博麗の巫女が腹に子を宿している事自体は、さほど問題ではない。
「ただ、それを利用する可能性のある連中がいないかというと……」
「事と次第によっては私たちもそうしない保証がありませんよね」
「そこがこの問題の核心だ」
 龍は典の胸に抱かれながら(典がやれとせがんだのだ)、じっと考え続けている。
「なにせ、博麗の巫女は、この郷のここ百年、もっとも影響力ある立場だ。どういう旗印にもなるよ。なんなら妖怪たちでさえ、そうする」
「私たちも一枚岩ではございませんものねえ。なにかの拍子に、そうした勢力に巫女やその子が渡ったらと考えると……」
 なぜなら、先の巫女は一部の妖怪を優遇さえしていたのだ。そうした妖怪たちは多くが新興勢力であったり、旧来の勢力の中でもやや差別的な立場に置かれていた者たちだった。そうした彼らにとっては、博麗の名は旧勢力に対抗するための中核にもなり得る。
「……でも、歴代の博麗って直接の血のつながりなんてあったんでしたっけ」
「今からそういう事にすればいい。なにごとも、先例が無いからこれからもあり得ないだなんて、私は言えんよ」
 とにかく、と龍は言った。今のところ、追放された巫女は無視するしかない。その子供に対しても、当面は知らぬ顔をしておくほかない。しかしいつでも火種として燃え上がる可能性がある。
「正直なところを言うと、味方の天狗が一番信用ならないし、相手の山姥の方がよっぽど信頼がおける」
「私もそう思います」
 胸元にあたたかい息を吐きかけられるのを感じながら、典はしみじみ言った。
「だから……山姥のばあさんには、せいぜい彼女らを守ってもらう事にしよう」
 龍はうんざりと言うしかなかった。

 あの妙な狐の娘っこを領外に帰してから数日というもの、山姥――坂田ネムノは、先頃したためた書状の文面に指定した磐座に、頼んでいた文物が置かれていないか、毎朝夕に確認しに向かう日々だった。
 その後ろを、夜ごと身重になっていく娘がついてくる。ネムノが「すぐ戻んね」と言っても、彼女は聞かずについてきた。すっかり精神の平衡がおかしくなってしまっているのに、肉体そのものは健康な少女だった。適度に運動すること自体は悪い事ではねえか、と思ってひとまず放っているが、そろそろ無理がきはじめる時期なのではないかとも考えている。
 娘の出自がどういうものなのか、ネムノはよく知らない。とはいえ、田舎のちょっとしたおひいさまのような身なりで、身重で、歯をすべて引っこ抜かれて、狂っているといった要素を総合してみると、なんとなく想像できるものはあった。外界の事情に疎い彼女であっても、そうした事が横行する世の中だった事実は無視していられない。
 そして、娘が博麗の巫女であったことを、ネムノが初めて知ったのは、その日の磐座に残されていた置き文を読んでの事だった。ものが置かれていない事にがっかりすると同時に、なぜ返書など寄越したのだろうと不思議に思って、その場で読み始めたのだ。
「……巫女?」
 文面を読みながら思わずそう発してしまって、ちらりと娘の顔を見る。相手も、なにかおそろしい単語を聞いたように目を大きく見開いている。
「……ふーん、知らんな」
 彼女が博麗の巫女だろうがなんだろうが、どうだっていい。
 書状には異様な内容がしたためられていた。まず時候の挨拶と、世の中が治まりつつある事への慶賀が形式的に述べられたうえで、それからネムノが博麗の巫女を保護した事についても感謝した。そして、自分たちは山の天狗であり、その多くは穏健派で、これ以上の諍いを望んでいない事も、続けて述べられた。しかしながら天狗の諸党派も一筋縄ではいかぬところがあり、現状では巫女の安全を保証しかねる事も認めるしかない。権力を担保とした不入権も破綻している今、現状の法的拘束力では、天狗が博麗旧領を害することは充分に可能だからだ。
 つきましては、自分たちは以下の事を行うべきだと考える。

・博麗旧領を、そのまま山姥の土地として主権移譲させる手続きを行う。
・その領土の正確な土地境界線を定める。
・そして――天狗と山姥の間に不可侵条約を締結する。

「以上三項目を達成する事によってのみ、この地域の和平は保たれる!」

 ……と、天狗の閣議で堂々ぶち上げていた龍を思い出すと、典は少し愉快になる。条文の草案をがさがさがさともてあそびながら言った。
「しかしこの不可侵条約、なかなか思い切った事をしましたね。属地的な不可侵だけではなく、その土地の住民に対する属人的な不可侵までわざわざ明文化している」
「相手を制するのではなく、こっちの暴発を食い止めるためだからね。半端な事したらこっちがぶっとぶわ。それは偉いさんたちもわかっている。だから私に白紙委任状まで与えてくれた。どうせいつも通り、失敗したらすげなく切り捨てるつもりだろうがな」
「きっと反発は大きいですよ」
「みんないつもそう言うんだよな。そして私はいつもこんなふうに答えるしかないんだ――」
「“そうか、だからなに?”」
 典は龍の声真似をして先を制し、二人で笑い合った。
「私たちっていっつもこんなのですね」
「お前もいつまで付き合ってくれるのやら……」
「お二人さん、私からもご報告が」
 主従の会話に射命丸文が割って入ってきて、言った。
「嬉しい報告ですよ」
「はぁ、おめでた? いつの間に?」
「違いますよ。ちょっと浮かれすぎじゃないですか?」
 文が気軽になじってくれるのからもわかるように、博麗の巫女の妊娠の件は、いまだに龍と典の二人だけの秘事にしている。
「もっと実務的な報告です。旧社領の管財人になっていた稗田家が、その権利を放棄しました」
「でかしたわ」
 これだけでもう、事の八割が成ったと言っても、過言ではなかった。
「交渉してきてくれたのが口の上手い方だったのですよ」
「こういう時だけは賢者もいい仕事しますね」
「私は彼らの仕事ぶりを疑った事はないよ」
 調子良くこき使っているとも言う。
 今後の段取りについて文と話し合って、やがて彼女が出ていった後で、龍はぽつりと呟いた。
「……人間たちもあっさりしていたな」
「もう、いいかげんうんざりしていたんでしょうね。それに、あの里はあの範囲で商売が回りつつあるんですし。今となっては旧領も――」
「そういう話だけじゃないわ。連中が私たち妖怪の間に混乱を残していきたいなら、こうもすぐに手放すはずがない。そこでは巫女が孕んでいるという情報すら手札になるわ」
 龍の口ぶりに引っかかるものを感じて、典は眉を寄せた。
「……博麗の巫女がやや子を孕んだのを、人間たちは認知した上で追放する、という手も、あるにはあったわけですね。それで彼女が妖怪の山の麓にまで落ち延びれば、こっちを混乱させるもとになる。実際そうなってるし」
「人としてどうかとは思うけどね。とはいえ、近頃の彼らの世はそういう世界でもあった。悪いけど、そんな想像も少しはしちゃったわ」
「でも、さすがの彼らにもそのつもりはなかった」
「そ。なんだか安心した。……安心したついでに、巫女の腹の子の父親捜しでもやってやろうかな? 追放の時に無理矢理ナニされたとかだと、どうも時期が合わないみたいなのよねぇ……」
「最高に下衆い事言ってますよあなた」
 どうかと思われる会話を、彼女らは軽口のように言い合った。顔を見合わせてゲラゲラと笑いさえした。戦乱の世の中で荒廃したのは、人の心どころか妖怪の気分でさえそうだったのだ。彼女らさえその影響からは逃れえない。むしろ、この山に引き籠っていたお人好しの妖怪たち以上に、積極的に外に出ていた彼女らは、そうしたまがまがしいものを、多量に摂取してしまっていたのだろう。
 ひとしきり笑った後で、彼女たちはじっと、お互いの思いの中で考え始めた。自分たちの身の内に胸いっぱいの悪意があったことを、今更ながら考えさせられて、その上で、ふと思いついてしまう事があったのだ。
「……ねえ典」
「なんでしょう」
「博麗の巫女の子供だけどさ、これって生きて産まれる必要あるの?」
 現状はどうにか凌げるかもしれないが、この子供は今後も政治的混乱の引き金になるかもしれないのだ。そして彼女たちの目的の第一は、妖怪の山に起こりうる混乱を事前に食い止める事であって、誰かの生命を救う事ではない。

 あくる日、天狗の領内から旧博麗社領に向けて発した一団は、ふたつの目的を内包した列と化していた。ひとつは山姥自身が欲していたものを運ぶ小さな商隊で、もうひとつは境界線の設定と土地権利の移譲を行う事を目的とした使節団だった。
 駒草山如は後者の列にあって、しかも御輿の上の人として担がれる立場だった。
「あんま落ち着かない装束だけど、目的が目的だもんね」
 と苦笑いするのは、普段は博打の胴元にすぎない彼女が、まるで神職のようなお仕着せと化粧をさせられていたからだ。
「どうだ、似合っているかい狐っ子」
 輿の上から微笑みかけた相手は、菅牧典だった。この子は二種類の隊列のどちらつかずに位置していて、どこから持ってきたのか、しなやかな柳の枝を振り回しながらその進みを指揮している。
「……うん、そう、悪かないね」
 その浮かない様子を見て、山如は典を下がらせた。代わりに、龍にやってくるよう付け足しながら。
「どうしたのだよ私たちの巫女様」
 尋ねてきた龍を、山如は輿の上までのぼってくるように指示した。内密の話にしたかったのだ。
「ああして貢物なんか運ぶっていうのは聞いていなかったわ」
「貢物なんかじゃないよ。むしろ商売の品。向こうが必要としているものを、売り買いしに行くためにあれを運ばせているの」
「ふむ、山の中で自給自足している山姥が、わざわざなにを必要としているんだい……」
「……あいつらだって、売り買いで自分たちの欲しいものを手に入れる事はあるだろう」
「そりゃあ、向こうの事情はね。しかし問題はあんただよ。あんたは何を売りつけるべきかもわかんないまま、そんな頑固な相手に商売を仕掛ける女じゃない気がする」
「……なにが言いたいの?」
「今、私は超絶神がかってるからね。あんたがどんな言い訳しようが構わないのさ」
 山如はそう言いながら、輿の上で鋭く賽を振った。
 二人はその出目を見た。駒草太夫は目下超絶神がかっているので、どんな出目だろうとどうでもよかった。
「これでわかったわ……博麗の巫女は妊娠している」
「駒草太夫」
 龍は言った。
「あなたには関係のない事よ」
「それじゃあ私も勝手に言わせてもらうけれど、従者にあんな物騒な柳の枝を持たせるのはやめな」
「物騒とは、なぜ」
「金創の術と言ってね。金創――つまり刀傷を治療する医術なのだけど、近頃では戦が減ったのもあって、産科なんかに応用されているのよ」
「産科」
「本来は出血を止める技術だからね。出産には出血がつきものだし……しかしこの分野でも使われるようになってから、堕胎や中絶の方面にも発展しているの。たとえば、柳の枝を使う方法。これを妊婦の膣口に挿入して、胎児を突き殺し、死骸を少しずつ崩しながら掻き出す。……ま、単純に死産させるという目的を達成するだけなら、母体をこっそり眠らせて、服の裾元をちょっとずらしてやった上で、軽く突いてやるだけで事足りるわな」
 龍は、山如の表情をにらみつけるように見つめた後で、列の殿を歩いている典に呼びかけた。
「――典! あんたその枝捨てなさい!」
 従者も喜んで捨てた。
「……ありがとう」
 礼を言ったのは龍の方だった。
「世の中渡り歩いていると、こちらもなにかと知っているってだけの話さ。……いいのよ。私がこの使節のお神輿である間は、そういう事はしないように」
「あんたがこの使節を解任される頃には、もう不可侵条約は締結されているよ」
「そんなら、もはや、やる手段と機会が無くなったわ。そうでしょ?」
「ええ、ええ、そうね。ありがとう……」
 という、気まずいような、せいせいしたような空気もすぐに蹴散らされて、山道を斜に転げ落ちてくるような格好で、射命丸文がご注進にやってきた。
「先の切通しで白狼天狗どもが集結しています」
「どうせなにもできないでしょう」
「なんでわかるんです?」
「そんなものとっくに察知していて、決起の中心人物たちの内に、何人も穏健派を送り込んでいるわ。軽挙妄動を押さえつけさせるためにね」
 事実なにごともなかったが、崖の上からじいっと見降ろされているだけでも、不気味といえば不気味だった。こうした妨害は、領内の山道をちょっと行き来するだけにもかかわらず、幾度かあった。
「先の関所が封鎖されていますよ」
「袖の下を使え。あそこの責任者は商売っ気がある」
「沢が急に暴れて、浅瀬が渡れなくなっています」
「どうせ河童あたりが小金で雇われて、なにやらやってるんでしょ。下流に向けて、更に派手に金をばらまいてやりな」
「まずい事になりました」
「なにが」
「なんでも贈賄の疑いであなたに緊急の出頭命令が出たそうです」
「ぶっちぎってやるわそんなもん」
 文がどこかに行ってはまた戻ってきて龍と交わすやりとりの、あまりの内容に駒草太夫は大笑いしていた。
「あんたらって見ていて飽きないわ!」
「……ああくそ、この後どうなることやら」
 龍がぼやいているそばに、典がぴたりとついた。
「それにしても……実力行使こそないにせよ、思いのほか抵抗活動がありましたね」
「条約の内容が内容だったからな」
 だけではなく、もしやすると博麗の巫女が懐妊しているという情報も、いずこからか嗅ぎつけられたのかもしれない――龍も、この山の天狗たちがその気になった時の情報網と分析能力を、あなどってはいなかった。
「みんなおそれているんだよ。博麗の巫女がどういう存在で、自分たちになにをもたらすのか、どうにもつかみかねている。禍根が残るかもしれない、混乱の元になるかもしれない、災いの種になるかもしれない。それを放置して、見守っていこう、なんて事ができるひとびとばかりではないって事だな。さっきまでの私たちだって、そうだっただろ」
 ささやきに対してささやきで答えると、典はなにか言いたげな表情だったが、文がそれを邪魔した。
「あの……山にあるあなたの全資産を差し押さえる手続きが、さっそく進んでいるようですが」
「はっ、こっちは郷の外にも経済持ってんのよ。そんなのとっくに予想済みで、山どころかこの郷に残している財すら微々たるもんだわ」
「……この件が終わったら、また旅にでも出ましょうかねぇ?」
 典がぽつりと言った。

 決して長くない道中に起こったあれこれはともかく、博麗旧領地の四至をあらわす牓示に、やがて一団は至った。
 ネムノが一人佇んで待っている。この時の彼女の服装は、噂に聞くような(典は実際に見た)ぼろ着ではなく、やや古くさいが上等な生地の装束を着てもって出迎えてくれた。
「――うちらとしても儀は整えんといかんのでな」
 という言葉遣いにも、ちょっと無理をしているものを感じさせられる。使節の長は立場上龍だったので、やはり丁寧に答えて返す。
「私たちは、お互い、この地帯に平和をもたらすため顔を合わせるのです。それぞれの立場と制限はあるでしょうけれど、おだやかに事を運んでいきたい」
 それぞれの政治的手続きは、日をかけて行っていくつもりだった。
「これへ……」
 と案内されるままに、輿を中心とした隊列も進んでいく。それを追うように歩きかけた最後尾の典だったが、はっと背後を振り向くと、その自然の風景に、実際には引かれていないはずの境界線をなんとなく見出した。
「……時間は無さそうです」
 と、龍に追いつくとささやいた。
「だろうな。じきにあの境界線上には、様々な思惑を持った党派がひしめき合うだろう。条約を違法と判断して私を逮捕しようとする者たち……あくまで議会の決定に従って、それを阻止しようとあそこに封鎖線を張る者たち……単純に博麗の巫女をぶち殺そうとする過激派……逆に彼女を自分たちの御輿に据えようとする独立派……その他、考えうる、ありとあらゆる者たちが」
「……逃げ道は考えておかなきゃいけませんね」
「この領内には古い坑道があって、しかもちょっとした裏口を掘ってあるらしいんだ。もしもの時には使えと百々世が教えてくれた」
「さっすが抜かりない」
 典は肩をすくめながら主人を追った。

 儀式は――もはや政治的な条約会議などではなく、儀式と言ってよかった――露天の、野原の中にある平たい石舞台の上で行われた。
「お山から噴火かなにかで降ってきた石だな、これは」
 龍は、山師的ないつものくせで石質を鑑定し、その由来を推測しながら言った。
「ここらはもともと麻畑のあったへんなんだ」
 ネムノも補足した。
 発言記録や公文書作成にあたる天狗の官僚たちが文机や紙などを広げて、背が高く平べったい石舞台を取り巻くように座した。この頂に山如と、龍と、ネムノの三人が乗っかって対面すると、いかにも儀式的なふうな気がする。
 まず、龍による一連の経緯の、簡単な説明。
「……博麗の巫女が追放されて以降、この土地の主権者は不在という状況になっています。この不在期間の土地管理を行う権利を有していたのは人里の稗田家ですが、彼らはこの土地について、自分たちによる管理が事実上不可能であるという理由から、土地所有権を放棄しました。つきましては、現地に住んで維持管理を行っていたあなたに、その所有と居住の権利が移る事が認められたものとなります」
「じゃらじゃらしゃらくせえことを言いてるが」
 と強い言葉を発しながらも、ネムノの表情はどちらかというと困ったようなやわらかさがあった。
「うちは別にそんな土地権利なんざ欲しくて、ここにがんばっていたわけではなかったんだがなぁ」
「ま、こっちにもいろいろ事情があるの。もらってちょうだいよ」
「拾った犬猫の融通みたいな気軽さね」
 駒草太夫が口を挟んだ。
 とにかく土地権利の関係は、舞台の下で官僚たちが作成した文書に、三者が誓いを立てて署名する事で、そうなった。
「お次はなんだい?」
 ネムノが言っている間に、舞台の下から巻いた大判の紙がすっと差し出された。紙を三者の間に開くと、このあたりの地勢をやや精密に描いた地図だった。
「土地境界線が曖昧といっても、四至を定義する点は決まっていて、そのために十中八九は定まっているも同然です。こっちの測量調査の結果だと、私たちが議論すべき点は、ここや、ここ――」
「うちの知っている領地の範囲と、ちいっと違うな」
 ネムノはじいっと地図を眺めながら、龍の説明を遮って、それから、筆を借りたいと言った。石舞台の下から筆記具が寄越される。
「これにぢかに書いてええか?」
「どうぞ」
 ネムノが上品な筆遣いでさらさら引いていった土地境界線は、龍が提示したものとは、まるで様子が違った。まず、天狗の測量部隊は山道や沢、谷などを仮の境界線として設定していたのだが、ネムノはそうしたものに従わず、なにか記憶をたどるように、しかし迷いなく己の境界を主張していった。
「……噴火で埋もれる前の地形、か」
「その通りだ」
 ネムノが図示し終わった地形は、天狗の主張するものよりももっとのっぺりしているというか、区画的に整理されているという印象があった。かつてはもっと整頓された開墾地だったのだろうと想像させられる。
「なにもかも灰の下になったわけではねえが、それでもずいぶん様子が変わった」
「あんたはその頃から博麗神社と?」
「当時はやつらもうちらもたいした違いはねかったけえな」
「なるほどね」
 さて、両者が主張する土地境界線は、まるで違うものになってしまった。土地面積自体はそれぞれ出る部分があったり引っ込む部分があったりで大差無いのだが、どちらの主張を基礎として議論を進めていくかは、ここで決めなければいけなかった。
「……で、こういう時は私が賽を振るんでしょ?」
 駒草太夫が待っていましたというふうに、壺皿の中でざらざらと賽を振り始めていた。
「陽の数(奇数)か陰の数(偶数)か、それぞれ言い当ててちょうだい」
 似たような形式の丁半博打が一般的なものになるのは、もう少し時代が下ってからである。
「……互いの意見が一致したら?」
「その時は一旦場が流れるわ」
「そういう事がないよう、できるだけ進行は円滑にしましょう」
「んだな」
 対立する勢力の代表の間には、不思議と連帯が生まれつつあった。
 駒草山如は言う。
「賽の目にすべてを委ねて――さあ!」

 こうして協議が始まってから数刻。
 石舞台の上がちょっと楽しげな遊戯をしている――実際、本物の土地のやりとりをしていようが、もはや遊戯に等しかった――ような盛り上がりを見せていて、そのお膝元では、記録係の文官たちが、静かに舞台上の細かい発言、出目の結果などを書き記している。その横で、典はちょろちょろと行き来しながら、各方面の様子を窺っていた。
 龍の予想通り、博麗旧領の境界上には天狗の様々な派閥勢力がひしめき、睨み合っていた。しかし、言いようによっては、彼らは睨み合っているだけとも言える。暴発的な雰囲気は意外にも無く、静観の様子だった。
(少なくとも、事が終わるまでは何も起きなさそう)
 もうひとつ気になるのは、博麗の巫女だった。
(どうやら山姥の棲み処にはいないらしい)
 彼女としても、もう巫女をどうこうしようという気はない――あれは気の迷いだったのだ――が、それでも居場所を気にしておく必要はある。彼女の命を狙う集団だっているのだ。
 というわけで、典は領内を好きにほっつき歩いていた。時折、石舞台の方では、なにが愉快なのか、甲高い笑い声が聞こえた。
(なにやってるんだか)
 と思いもしたが、少なくとも政治をやっている雰囲気でないのは、安心していいのだろうと思う。少なくとも今この時だけでも、この土地の政治は神事になっている。
 ふらっとあたりを探検してみると、なるほど、もともと拓かれていた事を想像させる野原の他にも、さっき龍が言っていたような山際の坑道や、鬱蒼とした樹海などがある。やろうと思えばこうした方面からも押し包む事もできない事はないのだが、そうしようとしないのは、やはり示威行為的なにおいがあった。
「茶番か」
 いわゆるデモンストレーションの意義を知らない典ではなかったが(この時代、こうした行動で情勢がひっくり返った例は、大きいものから小さいものまで、数限りなくある)、ひとまずはそういう言い方で陳腐化し矮小化した。
 そもそも、この地域で行われた人妖の、あるいは妖怪同士の戦いというものだって、大方はそうした示威行動ばかりだったではないか。本当に血を見た事は数えるほどしかないし、ほとんどの場合は互いをおどろかすだけで、それで何かが決した事にしていた。もちろん、だからといってこの世界がのんきで牧歌的な世界だったとは言えない。背後では幾多の政治情勢が高速で行き来していたし、それがあってようやく、表面的には常に茶番になりえた。この土地で行われる茶番は、すべて偉大な茶番であった……
 と、典ががらにもなく、談じるように歩きながら考え続けているのには、理由がある。ある事柄から目を逸らしたかったからだ。肌が泡立つのが右腕から背中を駆け抜けて左手の先へ、さぁっと広がっていった。死にかけた犬の鼻息が首筋をなぞるような、いやな感覚だった。
 それが背後を通り過ぎる時は、自分の背骨が代わりに一本のつめたい刃になってしまったようで、目を強くつむって、咄嗟に、さっきからの考え事を発展させようとした。そうする事で、その場をやり過ごしたかったのだ。
 茶番、茶番だったんだ。でも人間たちは――いや博麗の巫女は、その茶番を全部ぶち壊しちゃった。そうしたものをばかばかしく思って、この郷のありようを暴力的なものに変えてしまった……でも、太古のここが優しくて穏やかな楽園であったかと聞かれると、別にそうでもないな。ただ茶番や形式に擬す事で表面上は水に流していただけで、陰険な闘争は水面下で常に続いていて、そうした微温的なやり口には不満も溜まっていた。だから、それはおかしい事だ、もう無理が来ている、一旦ぶち壊すべきだと巫女が言った――いや、一度誰かが言っておかなければいけない時代だったのかもね。とにかく……とにかく、あの女はもう過ぎ去ったかしら?
 足元に向かって薄く瞼を開けようとするだけでも、顔を覗き込んでくる女の黒目がちの瞳とぶつかってしまいそうで、相応の勇気を要したが、もちろんそんな事はなかった。ただ、自分の足元のあたりに生えている草花はなんとなくしおれ気味で、典の背後を通りすがっていった厄神様の通り道に沿って、そうした枯れかけの草花が倒れて、けもの道のような帯になっていた。

 長くこの関係を維持したいと思うなら、地形などで境界を区切るのはあてにならないというのが、ネムノの主張だった。
「山は崩れる、川は気まぐれに流れを変える。そんなもので定めた境界線なんて百年も保たんよ」
「人工的な水準点を立てるのがお望み?」
「必要としているのはあんたらだがな」
「……おっしゃる通りね。この地図で定められた事にしたがって、今後はそうしていきましょう」
「え」
 駒草太夫が二人の顔を見比べた。
「賽……振らないの?」
「え……じゃあ、一応振っとく?」
「あ、うん。振りたいなら、いいぞ」
「やったー……じゃないわ、あんたらもうちょっと論戦しなよ」
 龍とネムノが理性的すぎたのだ。あれから太夫が賽を振ったのは、わずかに五回ほど。そのほとんどが小さな意見の相違にかんする裁定を委ねただけだった。
「もっとさぁ、すごいもん賭けなよあんたら」
 と媚びるようにせがむ感じには博打の胴元の本性が出始めていたが、龍はそれに苦笑いするだけだった。
「とはいっても、行政的な手続きはほとんどこれで済んじゃったよ」
 そう言いつつ、地図や契約文書などの公的なものを、石舞台の下にいる文官たちに渡して、いくつか複写させてから、天狗の領内に帰させてしまった。不可侵条約に反対する派閥の目的は飯綱丸龍の逮捕に注力されているようなので、文書自体は無事に天狗の中枢に送り届けられる事だろう。
「だけど……そう言うなら、これから取り返しのつかないものを賭けましょう」
「なにを?」
「博麗の巫女」
 自領に帰り行く天狗たちと、すれ違うように典が戻ってきたのは、石舞台の上でそういう発議がなされたその時だった。

 これ以降の発言は記録されないわ、と龍は言い置いた。しかし天狗の中には、目が利き、耳も聡い連中がいる。そうした者たちが先の一言を傍受していたら、どうなるだろうか。
「博麗の巫女を賭けましょう」
 もうこれだけで大騒ぎしてそう。
「彼女があなたの領内に逃げ込んだ事は、私どもも把握しているわ」
「あなたの領内、か」
 たしかに、今ではもうネムノの領地だった。
「しかしその身柄すらも、非常に不安定であると私は思っている。ゆえに私は――」
「あんた自身は本当にそう思ってる?」
 これは山如が口を挟んだ。
「あんたの発言は、天狗全体を代表しているものにすぎない」
「……これからもそうであり続けるわ。博麗の巫女の身柄はこちらが引き取る」
「きっと殺されるわぁ」
「そうならないように努力はする。私たちだって畜生じゃないんだ。過去は過去、今は今で割り切れる者がほとんどなんだよ」
「うちは」
 ネムノが、二人の言い合いにそっと割り込んで言った。
「……うちは、あの子が博麗の巫女だとか、天狗の事情がどうだとか、そういうのはいっさい知らんな。とにかくうちを頼ってきたのだし、落ち着くまではここに置いておくが、いずれは人間のもとに帰すべきじゃろ」
 私人としての龍はネムノに抱きつきたくなるくらいだったが、あくまでその衝動は抑えておく。
「……そこまで言うなら、賭けなよ。ね、お姉さん」
 龍は山如に目くばせをして、微笑みかけた。ネムノは、この二人がどういう魂胆でそうした陰のやりとりをしたのか測りかねて一瞬当惑したが、やがてこの場にいる三人の意志が統一されているのを、その賭場のなんとなくの雰囲気で読み取って、緊張した面持ちをふっとやわらげた。
 駒草太夫は言う。
「賽の目にすべてを委ねて――さあ!」

 その結果が出た後で、石舞台の上から降りてきた飯綱丸龍は、従者の菅牧典に対して言った。
「――今回の成果はどうあれ、その他の事はその他の事だ。私は出頭するしかないだろ。あとは頼んだ」
「あととは」
 典はあくまでとぼける。龍は大指を立てて言った。
「……ここから脱出して、博麗の巫女の“コレ”を探せ」
「菅牧典史上もっともなんともいえない任務だぁ」
「ふん、全ては馬鹿馬鹿しいご神託の結果かもしれないけど、私たちは命がけでこれをやり抜くのよ。そうしなければ、その他なにもかもまで、馬鹿馬鹿しいことになっちゃう」
 ともあれ、典は龍とは別経路――かねてから百々世が掘り抜いてくれていたという、坑道からの脱出路――を使って、妖怪の山から出ていった。
「ちょっと、その裏口、私にもおせーてよ」
 と、駒草山如もついていく。
「……おねーさん、うちの山で自由に賭場を開くなん年分の権利とか、煙草なん年分とかは?」
「どのみちほとぼりが冷めるまでは、私だってちょっと居づらいでしょ。――いずれまた戻ってくるから、その時はよろしく」
 そう言いながら神官装束を脱ぎ捨てて、爽やかに去ろうとされると、龍はかえって困ってしまう。一応言っておいた。
「所在に空白期間があっても、契約年数そのものに変わりはないからね。たとえあんたが山を九十九年間不在で、一年しかここにいなくても、百年は百年だから」
「え、そうなの?」
 ……なにはともあれ、山如と典は同じ場所から引っ込んでいった。

 ネムノは、龍がもと来た道から出ていくのを見送った。その頃には、もう、互いの領土を隔てる新たな境界線上には天狗たちのいくつもの党派がたむろしていて、睨み合い、時には唾を飛ばし合いながら、使節団の代表が戻ってくるのを待っている。
 ただ、龍その人が戻ってきた時は、そんな小競り合いもかえって沈静した。そうして発生した――静けさが発生するというのも不思議な話だが、そうとしか言いようのない雰囲気だった――異様な静けさの中で、この大天狗は境界線を跨いで、それからくるりと踵を返し、ネムノに対して一礼しようとしたのか、なにか一言呼びかけようとしたのか、そのいずれかをしようとしたところで――捕縛された。
 途端に混乱が舞い戻ってきた。龍には贈賄その他の疑いがかけられている。そのまま龍を拘束しようとする勢力と、あくまで法制上問題なしとの公式見解を遵守して相手から保護しようとする勢力が、もみ合い、押し合いながら、方向性だけは妙に一致して、かの大天狗の身柄を運んでいく。
(拘束してこようが保護してこようが、やってくる事は一緒よ)
 騒ぎの中で、ネムノにもちらりと見えた龍の不敵な表情は、言外にそう言っているように見えた。
「……とまれ、やったらべったらごたな」
 ぽつりとぼやいた山姥の手に残ったのは、天狗と山姥間で締結された不可侵条約に関わる文書と、この土地の権利書と、その境界をはっきりと示す地図だけ。なにかが変わった気もするし、なにも変わっていない気もする。
 天狗たちが騒ぎつつ、さっさとはけていった後に残った土地を眺めてみても、自然そのものはあまり変わりないように見えた。変わったのは人の営みにかかわるものばかりだ。
 自分の棲み処に戻る前に、彼女には立ち寄っておくべき場所があった。博麗の巫女を預けていた場所だ。そこは今ではネムノの領地ではない。先ほどの議論でも互いの主張が相違した、数少ない境界の一つだった。
 板葺き屋根がそのまま地面に伏せられているというか、率直に表現すれば崩壊しかけている家屋をどうにかこうにか使えるようにしている、といった風情の建物が、樹海の中にぽつんとある。この土地を放棄していった人間たちの中でも、最後まで居座り通した家族が残していったものだったと、ネムノは記憶している。
 その屋内に、挨拶もなく入っていった。本当はこんな無礼を働きたくないのだが、この家の主に対してはそうする必要があった。
 潰れかけの屋内の、腐った畳が敷かれている廊下を歩いた先で、博麗の巫女はすやすやと休んでいた。この場所に託した時は、正直失敗したかなとも思っていたが、この子は狂ってしまっていても意外と肝は太いらしかった。それに、ある意味ではここが一番安全だったのも確かだ。誰も寄り付くわけがない。
「……近頃は、こういうのが当世風らしいのよねえ」
 家屋の住人に声をかけられたが、ネムノは無視する。この口ぶりだと、どうせ一目見ただけで笑ってしまうような風体をしているに決まっているのだ。このお雛様がまとっている嫌な雰囲気は、たしかに近頃とみにどす黒く厄介なものになっているが(百年単位の周期的なものだ)、本人もそれを受け入れて静かに暮らしているかというと、やはりたまには人恋しくなって、こういうふうにうるさく語りかけたりしてしまうみたいなのだった。
「やっぱりこの山って、世の中の流行りが周回遅れなのよ……ばさらが流行った時もそうだったでしょ、そうした大きな流行が何度か回って、今度は傾奇になってるんでしょうけど――ねえ、どう思う?」
「帰んぞ」
 家主の厄神の声はあくまで無視して、ネムノは博麗の巫女の手を取った。それでいいのだ――いいのだが、ここ数日で、巫女の腹の膨れが急に顕著になっているようにも感じた。

 それから。
 幾月もかかった法的なごたごたの末、結局飯綱丸龍は不起訴の流れとなった。
「あんた、なんだかいつもこんな感じだね」
 などと友人の百々世からも指摘される有り様で、そこはもう本当に苦笑いするしかないのだが、その横で典がおとなしく、少し照れくさそうにもじもじしているのを見ると、そちらに気をかけてやらなきゃと思う。
「戻ってきたぜ」
「こっちも戻ってきたんですよ」

 典が龍からおおせつかった、博麗の巫女の“コレ”を捜索する任務は、非常に困難なものだった。人里の人々も、あの巫女に対して行った仕打ちを、仕方のない事だと思いつつちょっと後ろめたく感じ始めているようだし、そもそも博麗の名さえある種の禁句と化しつつある。なにも手掛かりは手に入らないだろうと思われたし、そんな場所に居座る理由も意味もない。
 ではどこに行くべきのか、としばらく考えた典は、単純で安易な思いつきを実行に移した。
 博麗神社に行ってみようと思ったのだ。
 神社は荒廃していた。巫女の追放後に破壊や略奪もあったようで、人が寄りつくのを拒絶している雰囲気すらあった。境内の狛犬も盗まれたのかどうしたのか紛失していて――この雌雄一対の狛犬もまた百年の流転を経験し、数奇な運命を経て神社に帰還するのだが――、本殿なども打ち壊されていた。
 ただ、誰かが、破壊の後で片付けをしている形跡もあった。それは神社というよりも巫女が普段住んでいた場所をしのぶように、住居側をもっぱら整頓しているようだった。
 誰が片付けたのか。典は、鳥居の外を眺めながら考えて、はたと思い当たった。
「……別の集落か」
 博麗神社は幻想郷の外れにあるのだ。男が通うとすれば郷里の内ではなく、外からの可能性だってある。捜索範囲をそちらの方に伸ばした結果、あたらなければいけない範囲は広大になったが、そのぶん収集できる情報は増えた。
 そんなこんなで博麗の巫女の男は見つかった――とりあえず五人ほど。どれも一応は確かな家の出自だったのが、幸運というべきか、判断に困るというべきか。もっとも、そのうちいくらかは一年以上前に関係を切っていたようで、腹の子の父親の可能性がある者は更に絞り込む事ができた。
「……こういう時は、女側に父親を決める権利があるんだっけか?」
 と古来からの慣習法に関する疑問で首をかしげつつも、典はそこで一計を案じた。博麗の廃神社の境内を利用して、小さな市を開いたのだ。
 当然、ここで市をやるのは色々まずいよといったご意見ご指摘ご忠告を散々いただいた典だが、ともかく目的は達成した。市を開く日、ひょっこりと境内にやってきて切り盛りを手伝ってくれた少年がいて、それがかねてから見当をつけていた五人の花婿候補の一人だったのだ。市には射命丸文を筆頭に、賑やかし兼増援の天狗たちも呼んで来ていたので、そいつらと一緒に男子を取り囲んで、詰めた。相手は困惑を通り越して恐怖していたが、彼の家――隣郷の、けっこう店構えの大きい商家だった――にまで乗り込んで、あんたとこのぼんが手をつけた巫女が妊娠していますよついでにうちら天狗ですといったことを告げると、一個人の恐怖は一家の恐慌に変じた。
 結局。
 脅迫めいた交渉の末、その商家は博麗の巫女の――というより、元・博麗の巫女であり今は名前すら剥ぎ取られている無宿人の――身柄を請けてくれた。少年は家族から、だからあの郷の連中にはかかわりあいになるなと言うたのに等さんざんなじられていたが、特に否定できる要素は無いなと思った。
 面白いのは、男の方も最初こそ異様な事態に戸惑っていたのだが、そのように周囲から責められるうち、かえって腹が決まってしまったらしい事だった。反骨精神があるというか叩いた方が伸びそうというか、あの巫女に惚れ抜くのだからそりゃまあ変わり者だわなぁという、変な感慨があった。

 博麗の巫女あらため無宿人某女の幻想郷脱出は、一連の騒動のほとぼりも冷めた頃、特に困難もなく実行された。彼女は山姥の領内で無事に子供を産み、産後の経過もよろしかった。もともとの狂気も妊娠による情緒不安定があったのかもしれず、その頃には不思議と落ち着いていて、この女は夫の実家からやってきた手紙を携え、子を抱いて、自分の脚で歩き、自分の脚で幻と実体の境界を越えて出ていった。
「夫婦仲は意外と悪くないそうですよ」
 時折、鴉天狗たちが彼らの家に様子を見に行っていたので(実態は茶化し半分だろうが)、そうした話も聞こえてきた。この天狗たちによる、この子に対してふざけた仕打ちしやがったら覚えていろよといった脅しが利いているのかもしれないが、家人から酷い仕打ちを受けている様子も、とりあえずは無さそうだ。
 やがてはそうした冒険も思い出話になっていく。

「……まあ、とにかく、あの件はなんやかんやでいろんな方に手助けされましたものねぇ」
 と、典が龍の膝の上をごろごろしながら言ったのは、十何年ほど経った後、元博麗の巫女の子供が成人したという話を耳にしたからだった。
「ふむ。対立する連中もいたが、結局は種族や考えを越えて、様々なものに助けられたからな。ああいうものは大切にした方がいい」
 実際、こうした超党派的な動きとそれを経験した者たちが、数百年後にスペルカードルールを支持し擁護する精神と、その勢力の萌芽になったという事は言える。
「あれからはお山も結構安定しているし、おかげさまで殖財は順調だし、ほんと平和が一番よねぇ」
「……あ、そういえば。さっきの話と関連して、商売の件です」
「ん? なに?」
「彼女自身はこんな土地に戻ってくる気はないでしょうが、子供の方はこっちの人里で店を開きたいみたいですよ。あの人里に塩問屋が開設されてから、あそこがこの一帯で最も盛んな商業地帯になっちゃいましたからねぇ。しかもどうやらその子、親譲りのあまのじゃく、その上けっこうな遣り手のようで」
「ふーん。興味が湧いてきたわ……あそこって屋号なんだっけ?」
「霧雨」

 博麗の巫女は一度断絶している。
試験勉強があるので更新滞ります!
かはつるみ
https://twitter.com/kahatsurumi
簡易評価

点数のボタンをクリックしコメントなしで評価します。

コメント



0.50簡易評価
1.90奇声を発する程度の能力削除
面白かったです
3.100福哭傀のクロ削除
ジャンルとしては結構苦手(嫌いではなく知見の浅さからくるこちらの理解力の乏しさ)なのですが、ちょっとねじ伏せられた感。序盤の歴代稗田家と博麗との関係の時点でわくわくがすごくて、そこから(多分半分も理解できていないのですが)、戦後処理?的なものに奔走していく、ストーリーが非常に楽しめました。龍と典がいいキャラしてました。所々で結構デリケートな話題に突っ込んでいく中、あくまで個人的にですが読んでて作者様の中で細かくフォローを入れてるように感じたのがお上手だったなと。森近の方かと思っていたので最後の名前はこう来るかと。お見事でした
4.100ひょうすべ削除
典がちょろちょろしてるのあまりにちょろちょろしてそうで良かったです
5.100のくた削除
(多分人間側には伝えられてない)歴史の一部が面白い。最後の名前で「おおっ!?」となりました
6.100名前が無い程度の能力削除
素晴らしく良かったです。登場人物たちの行動や思惑までもが歴史を形作る歯車として、不定形ながらかちっとはまっていたようでした。まつりごとが成立し、時代が変わるのは自然の流れなんでしょうけど、その流れの中にあることを自覚しつつ積極的にその流れを読もうとするような各キャラたちの意思を感じました。
7.100夏後冬前削除
こういう高度な政治的な大局観のある歴史大作物は自分には書けんと舌を巻きつつ堪能させていただきました。本当にこんなことがあったんじゃなかろうかと思わされるほど説得力やらリアリティが凄まじいのなんの。
8.100南条削除
面白かったです
これもまた幻想郷のひとつの歴史なのだと思いながら読んでいました
どっちでもいいけどとりあえず決まっていないと困るという事務方のせちがらさに想像以上に共感してしまい読んでいてつらかったです
9.100名前が無い程度の能力削除
久々にあのサーガ(という言い方はある種の失礼にあたるのかもしれない)に連なる物語が読めてとても嬉しかったです。妊娠どうこうの話については、よくよく考えるとけっこうグロテスクなことが起こっているはずで、「なんか収まるところに収まったねよかったよかったって言ってる人は言ってるけどでもそう思えないひともいるんだろうな……」「そのひとたち再びくっついたあとうまくやってけんのかな……」とかふっと冷静になって思ってしまうのですが(そしてそれから「でもそうなってしまった以上しょうがない」とも)、そのあたりの表現は作者様のバランス感覚が発揮されていたような気がして、言い換えれば、「状況」に狂わされないように常に必死な主人公たちと、小説の文体とが誠実に重ね合わされていました。
10.90東ノ目削除
ああ、忌み子ってこうして生まれるんだな……と思いました。
サイコロで土地の境界を定める下り、歴史戦略ゲームという究極的にはサイコロで土地の境界を決めるかのようなジャンルを愛好している私にはピンポイントに身につまされるものがあります