「鍋蓋の空」 採録者 稗田孝高(幼い頃祖母に聞いた)
『天は閉じた鍋蓋のようにこの村に覆い被さっている。天のいちばん凹んだ場所に北極星があり、その真下には博麗神社がある。
北極星には扉がついていて、その先は龍神様の住む家に繋がっている。龍神様の住む家に繋がるこの扉はまたら様が守っている。
またら様は、やくも様と一緒にこの世界を作った神様で、やくも様が天と地上を分けたあと、龍神様が地上に行けるように扉を作ったと言われている。』
〇△市教育委員会『新 幻想郷縁起』「第3章 伝説・昔話」より
月と星々が、空を我が物顔で闊歩し始めて、どれくらいの時間が経ったか。囲炉裏の横で編み物をする祖母に、孫が声をかけた。
「ばあちゃん寝れん。なんか話してよ」
木綿の衣服越しに、肩の力が抜けるのが見てとれた。いそいそと振り向いた祖母の顔は、チロチロと燃える囲炉裏の炎に照らされてよく見えない。しかし、ほぐれた表情なことだけはわかる。
「ちょっと待ってな。いま座布団を取ってくるから」
そう告げると、孫に背を向けた老女は囲炉裏の明かりから遠ざかって行った。
よいしょと。ほれ、今日はどんな話をしようかね。ん?昔話?そうだなあ、昔話って言ってもたくさんあるからな、どれをどう話せばいいのか。え、この村がどうやってできたのか?そのくらいあんたでも知ってるだろ、ほら、あの、博麗の巫女さんが悪い物を封じ込めたっていう。
あ、そうだ。たまには違う話をしてやろうか。そう、違う話だ。みーんな知ってる、あの結界だなんだの話じゃなくて。いや、結界は関係あるか。
どうだ?興味が湧いてきたろ?みんなが知っている、あのお話じゃない、まったく別のお話。学校の友達に話せるんじゃないか?そうか、聞きたいか。じゃあ、今夜はその話に決定だな。
これはあたしがあんたくらいの時、母ちゃんから聞いた話なんだけどな。
そうだな、どこから話そうか。ほら、あんたはこの村の周りがどんなものか知ってるか?言ってみな。
うん。うん。そう、あっちもこっちも山に囲まれている。周りが山に囲まれてるってことは、人があんまり入ってこれないんだよ。もちろん出ることもできないな。つまり、この村は周りから孤立してたってことだ。
今でもそうだろう、だって?そりゃあ今でも他所に比べたら人の行き来も少ないだろうけどな、でも今は車だってあるしラジオだってあるだろ。あたしがあんたくらいの頃は、ラジオすらなかったんだから。もちろん車なんてない。
今は神社の下を通ってる道があるだろ。そう、あそこ、あの道が唯一馬が通れる道で、それ以外は人しか通れなかったんだよ。
それで、そんな山に囲まれてたとこだから、いろいろと独特だったんだな。
昔の人は、この村を取り囲む山がそのまま世界の果てだと思ってたんだ。あまりに山が険しすぎて、外の世界の存在を想像できなかったんだろうな。
それでその山並みから北極星まで、空が鍋のふたみたいに覆っていると考えてたんだ。どうして北極星が出てくるのかって?ほら、他の星と違って北極星は動かないだろ、だから昔の人は空の一番へこんだところを、要は鍋のふたの持ち手の反対側だな。
ほら、鍋のふたの柄を持ってこう回してみると、柄の部分とその付け根だけ位置が変わらないだろ?ここに北極星があると想像してたんだ。
どうして鍋のふたなんだろうな、ここがテントだと説明する話も聞いたことあるが。
ここからが面白くてな、空のてっぺんにある北極星は、そのまま龍神様のいる世界に繋がってるらしいんだ。どうしてかわからんけど、龍神様と北極星が同じに見られている。しかも、北極星そのものが扉で、そこを開けると上へ続く梯子があると来る。
ほんとに想像力が豊かだよ。
でな、その扉を守る神様がいるってんだ。誰だかわかるか?あんたも絶対に知ってる神様だ。うん、龍神様だって?何言ってるんだいあんたは、龍神様の元へ続く扉の門番が龍神様なわけないだろう。
じゃあ神社の神様?おお、いいとこついてくるじゃないか、神社は北極星の真下にあるからな。でもそれも間違いだ。村の守り神を思い浮かべたんだろ、そこまでは正しいんだ。
もう降参かい、しょうがないな。扉を守る門番は、またら様だよ。そう、あんたも家の入口や村はずれの辻で見たことがあるだろう、黒い冠を被った、橙色の狩衣を着たあの神様が描かれているお札を。あれがまたら様だよ
。うちの村だとまたら様は入口の神様だからな。どうも他の村から来たやつの話を聞く限り、そんなことを言ってるのはあたしたちぐらいみたいだけど。
つまりな、龍神様の元へ続く梯子があって、その梯子の先にある扉をまたら様が守っている。こういうことだ。
ん?それと結界は関係ないって?あんた何言ってんだい、さっき空が鍋の蓋だったと話しただろ、あれが結界だよ。
またら様ともう一人、やくも様っているだろう。あのやくも様が空を作ったんだ。
あたしたちが暮らす場所と、龍神様が暮らす場所が同じだったら龍神様に失礼だろ。だからやくも様は、あたしたちと龍神様との間に、空を作ったんだ。
でも、それだと龍神様があたしたちの姿を見ることが出来ない。だから、またら様が扉を作ってあたしたちが見えるようにしたんだ。
どうだ、こんな話だれからも聞いたことが無いだろう。
博麗の巫女さんが、悪い妖怪を封じ込めるためにこの村を作ったって話はあんたも知ってるだろ、そう、みんなが知ってる話だ。
でもな、昔あたしの母ちゃんが話してくれた時は、そんなこと言ってなかったよ。あたしが聞いたのは、やくも様とまたら様が世界を作ったっていう、今あんたに話したやつだ。
大人になってから、他のみんなに聞いてみても、そんな話は知らないとか言われるんだ。あたしが子どものころ、だから明治の真ん中くらいか、あの頃はみんなも同じことを話してたんだけどな。母ちゃんとか父ちゃんとか、あたしが子どもの頃の大人はみんなそう話してたんだ。
でも今は違う、なんでなんだろうな。あたしが大人になった時、だから大正のはじめくらいには、もうみんな取り合ってくれなかったんだ。
だから今までこうして黙ってたんだが、あたしも良い年だ、いい加減我慢ならなくてな。それにせっかくの面白そうな話だ、このまま忘れ去られたらもったいないだろ、だからあんたに話したんだ。
まあ、明日学校でみんなに話してみるといいさ、きっと面白がって聞いてくるぞ。
「と、なんだ、もう寝てるんじゃないか、いつから寝てたんだい恥ずかしい。これじゃあただの独り言じゃないか」
ひとしきり語り終えた老女は、孫がいつの間にか穏やかな寝息を立てていたことに気が付いた。
夜更けとはいえ、家の近くを通る人が居るかもしれない。もし独り言を聞かれていたりしたら、恥ずかしいことこの上ない。それに、ただでさえ夜も遅いのに、なぜか明かりの灯る家。そこからしわがれた声が聞こえてきたら、自分なら腰を抜かす自信がある。
––どうか、今の独り言が誰にも聞かれていませんように。
そう祈りながら、老女は座布団を元ある場所に戻すために、部屋の暗がりへと歩いて行った。
『天は閉じた鍋蓋のようにこの村に覆い被さっている。天のいちばん凹んだ場所に北極星があり、その真下には博麗神社がある。
北極星には扉がついていて、その先は龍神様の住む家に繋がっている。龍神様の住む家に繋がるこの扉はまたら様が守っている。
またら様は、やくも様と一緒にこの世界を作った神様で、やくも様が天と地上を分けたあと、龍神様が地上に行けるように扉を作ったと言われている。』
〇△市教育委員会『新 幻想郷縁起』「第3章 伝説・昔話」より
月と星々が、空を我が物顔で闊歩し始めて、どれくらいの時間が経ったか。囲炉裏の横で編み物をする祖母に、孫が声をかけた。
「ばあちゃん寝れん。なんか話してよ」
木綿の衣服越しに、肩の力が抜けるのが見てとれた。いそいそと振り向いた祖母の顔は、チロチロと燃える囲炉裏の炎に照らされてよく見えない。しかし、ほぐれた表情なことだけはわかる。
「ちょっと待ってな。いま座布団を取ってくるから」
そう告げると、孫に背を向けた老女は囲炉裏の明かりから遠ざかって行った。
よいしょと。ほれ、今日はどんな話をしようかね。ん?昔話?そうだなあ、昔話って言ってもたくさんあるからな、どれをどう話せばいいのか。え、この村がどうやってできたのか?そのくらいあんたでも知ってるだろ、ほら、あの、博麗の巫女さんが悪い物を封じ込めたっていう。
あ、そうだ。たまには違う話をしてやろうか。そう、違う話だ。みーんな知ってる、あの結界だなんだの話じゃなくて。いや、結界は関係あるか。
どうだ?興味が湧いてきたろ?みんなが知っている、あのお話じゃない、まったく別のお話。学校の友達に話せるんじゃないか?そうか、聞きたいか。じゃあ、今夜はその話に決定だな。
これはあたしがあんたくらいの時、母ちゃんから聞いた話なんだけどな。
そうだな、どこから話そうか。ほら、あんたはこの村の周りがどんなものか知ってるか?言ってみな。
うん。うん。そう、あっちもこっちも山に囲まれている。周りが山に囲まれてるってことは、人があんまり入ってこれないんだよ。もちろん出ることもできないな。つまり、この村は周りから孤立してたってことだ。
今でもそうだろう、だって?そりゃあ今でも他所に比べたら人の行き来も少ないだろうけどな、でも今は車だってあるしラジオだってあるだろ。あたしがあんたくらいの頃は、ラジオすらなかったんだから。もちろん車なんてない。
今は神社の下を通ってる道があるだろ。そう、あそこ、あの道が唯一馬が通れる道で、それ以外は人しか通れなかったんだよ。
それで、そんな山に囲まれてたとこだから、いろいろと独特だったんだな。
昔の人は、この村を取り囲む山がそのまま世界の果てだと思ってたんだ。あまりに山が険しすぎて、外の世界の存在を想像できなかったんだろうな。
それでその山並みから北極星まで、空が鍋のふたみたいに覆っていると考えてたんだ。どうして北極星が出てくるのかって?ほら、他の星と違って北極星は動かないだろ、だから昔の人は空の一番へこんだところを、要は鍋のふたの持ち手の反対側だな。
ほら、鍋のふたの柄を持ってこう回してみると、柄の部分とその付け根だけ位置が変わらないだろ?ここに北極星があると想像してたんだ。
どうして鍋のふたなんだろうな、ここがテントだと説明する話も聞いたことあるが。
ここからが面白くてな、空のてっぺんにある北極星は、そのまま龍神様のいる世界に繋がってるらしいんだ。どうしてかわからんけど、龍神様と北極星が同じに見られている。しかも、北極星そのものが扉で、そこを開けると上へ続く梯子があると来る。
ほんとに想像力が豊かだよ。
でな、その扉を守る神様がいるってんだ。誰だかわかるか?あんたも絶対に知ってる神様だ。うん、龍神様だって?何言ってるんだいあんたは、龍神様の元へ続く扉の門番が龍神様なわけないだろう。
じゃあ神社の神様?おお、いいとこついてくるじゃないか、神社は北極星の真下にあるからな。でもそれも間違いだ。村の守り神を思い浮かべたんだろ、そこまでは正しいんだ。
もう降参かい、しょうがないな。扉を守る門番は、またら様だよ。そう、あんたも家の入口や村はずれの辻で見たことがあるだろう、黒い冠を被った、橙色の狩衣を着たあの神様が描かれているお札を。あれがまたら様だよ
。うちの村だとまたら様は入口の神様だからな。どうも他の村から来たやつの話を聞く限り、そんなことを言ってるのはあたしたちぐらいみたいだけど。
つまりな、龍神様の元へ続く梯子があって、その梯子の先にある扉をまたら様が守っている。こういうことだ。
ん?それと結界は関係ないって?あんた何言ってんだい、さっき空が鍋の蓋だったと話しただろ、あれが結界だよ。
またら様ともう一人、やくも様っているだろう。あのやくも様が空を作ったんだ。
あたしたちが暮らす場所と、龍神様が暮らす場所が同じだったら龍神様に失礼だろ。だからやくも様は、あたしたちと龍神様との間に、空を作ったんだ。
でも、それだと龍神様があたしたちの姿を見ることが出来ない。だから、またら様が扉を作ってあたしたちが見えるようにしたんだ。
どうだ、こんな話だれからも聞いたことが無いだろう。
博麗の巫女さんが、悪い妖怪を封じ込めるためにこの村を作ったって話はあんたも知ってるだろ、そう、みんなが知ってる話だ。
でもな、昔あたしの母ちゃんが話してくれた時は、そんなこと言ってなかったよ。あたしが聞いたのは、やくも様とまたら様が世界を作ったっていう、今あんたに話したやつだ。
大人になってから、他のみんなに聞いてみても、そんな話は知らないとか言われるんだ。あたしが子どものころ、だから明治の真ん中くらいか、あの頃はみんなも同じことを話してたんだけどな。母ちゃんとか父ちゃんとか、あたしが子どもの頃の大人はみんなそう話してたんだ。
でも今は違う、なんでなんだろうな。あたしが大人になった時、だから大正のはじめくらいには、もうみんな取り合ってくれなかったんだ。
だから今までこうして黙ってたんだが、あたしも良い年だ、いい加減我慢ならなくてな。それにせっかくの面白そうな話だ、このまま忘れ去られたらもったいないだろ、だからあんたに話したんだ。
まあ、明日学校でみんなに話してみるといいさ、きっと面白がって聞いてくるぞ。
「と、なんだ、もう寝てるんじゃないか、いつから寝てたんだい恥ずかしい。これじゃあただの独り言じゃないか」
ひとしきり語り終えた老女は、孫がいつの間にか穏やかな寝息を立てていたことに気が付いた。
夜更けとはいえ、家の近くを通る人が居るかもしれない。もし独り言を聞かれていたりしたら、恥ずかしいことこの上ない。それに、ただでさえ夜も遅いのに、なぜか明かりの灯る家。そこからしわがれた声が聞こえてきたら、自分なら腰を抜かす自信がある。
––どうか、今の独り言が誰にも聞かれていませんように。
そう祈りながら、老女は座布団を元ある場所に戻すために、部屋の暗がりへと歩いて行った。